2026年3月22日 日曜午前10時
高知県で有名な「坂本龍馬」
彼は土佐藩を脱藩した事で有名です。
龍馬脱藩祭は、坂本龍馬が脱藩の決意としてその心意気を受け継ぎ、自由を求める新たな旅立ちの場として伝えていこうとの趣旨で、
昭和60年(1985年)に和霊神社の氏子や地現地区の高神公民館・高知青年会議所等が中心となり、龍馬生誕150周年の記念事業として開催しました
2019年.03.24.第35回龍馬脱藩祭の時の様子
熱心に太鼓を叩いている子供達の姿に心を動かされる人が後を断ちません
高知市神田字水谷山に鎮座しています。
祭神は、宇和島伊達藩家老山家清兵衛公頼。神号和霊大明神。
坂本龍馬天保6年(1836)-慶応3年(1867))の4代前の先祖、坂本八郎兵衞直益が
宝暦12年(1762年)阪本家の屋敷神として宇和島の和霊神社を勧誘して、当時、
阪本家(才谷屋)の土地であった水谷山に建立したものです。
正殿の石祠に「奉建立山神社土儒郡神田水谷山宝暦12年壬午4月朔坂本八郎兵衛直益百拝」と刻まれており。
明治維新後、明治15年に才谷屋が没落するまで坂本家の所有でしたが、その後神田地区の住民が氏子として管理するようになりました
祭神の山家清兵衛公頼は、伊達政宗の長男である宇和島伊達藩初代藩主伊達秀宗の家老で、反対派の家老桜田玄蕃一派の讒言により元和6年(1620)非業の最後を遂げました。
が、死後もなお君家を守護する山家清兵衛の冤罪を晴らし、
霊を和ませようと、伊達秀宗が寛永8年(1631)に建立したのが縁起であります。
戒名は天祥院殿心渓常涼大居士。国学者でもあった坂本八郎兵衛が、大衆の守護神とし信仰されていた和霊神社の由来を知り、分祀したといわれています
坂本龍馬は、文久2年(1862)3月24日に脱藩。その際、「吉野に花見に行く」と言って、
神社に立ち寄り、水杯を交わし、決意したという伝承が伝えられています
元々、坂本家が所有し、祭事の際に奉って来ていましたが、
子孫が高齢化したので、氏子総代に保管と管理を依頼されたものであります。
打刀で刀身二尺三寸(70.9cm)、南北朝前後(鎌倉後期から室町幕府成立頃)の大和手掻派の製作とみられています。
試銘「慶長之頃敵之請太刀ト共ニ大袈裟不懸切落其後度々二ツ胴落河野苗裔武市某所持之」。
平成19年6月30日、高知県立坂本龍馬記念館に寄託し、保管されています。
龍馬脱藩祭は、高知青年会議所の協力の下、高神公民館、えぼし団地自治会、高座公民館が実行委員会を結成し、坂本龍馬生誕150周年に当たる昭和60年、脱藩した日である3月24日に、高知市神田の和霊神社で初めて実施したものです。
和霊神社は、宝暦12年に坂本龍馬4代前の先祖、坂本八郎兵衛直益が坂本家の守神として、当時、所領地であった神田水谷山に宇和島の和霊神社を勧請し建立しました。
文久2年3月24日、脱藩に際し、「吉野に花見に行く」と言って和霊神社に立ち寄り、水杯を交わし脱藩の決意をしたというエピソードが伝わっています。脱藩後、薩長同盟や船中新政府綱領八策等を成し遂げ、「坂龍飛騰」と讃えられた行動で、新生日本の礎を築いています。
龍馬脱藩祭の名称については、国家未曽有の国難に際し身を挺して事に臨んだ龍馬の心意気を伝え、「決意の神社」として、脱藩後大きく羽ばたいた龍馬のように、ここから巣立っていくことを願って、「龍馬脱藩祭」と名付けました。
今年、平成24年は、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して150年目の節目に当たります。
尖閣諸島、竹島、北方領土等の侵略行為、従軍慰安婦や南京虐殺等虚偽の歴史捏造に見られるように、いかに日本を貶めるかに汲々とする国々。日本国憲法に謳う「平和を愛する諸国民」が日本周辺に位置しているわけではありません。国家主権が鎬を削る弱肉強食の世界です。正に龍馬の生きた時代と同様の国家存亡の危機の状況にあります。
何も決められない民主主義が、非常事態の悪化を促進しているのが今日の日本です。
根源は日本国憲法にあります、このハーグ陸戦法規という国際法違反の代物の。
「出でよ龍馬」とはよく言われますが、日本国の仕組みを変える、その行動を起す、それが龍馬のこころを受け継ぐものです。龍馬にあやかり人気者になりたい、そんな人は要りません。
国難を背負う、一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って国運を扶翼すべし、、です。
3月24日に和霊神社でお待ちしています。
代表 佐竹敏彦
龍馬脱藩祭40周年記念