薬師堂(本堂)は、大同2年(807年)に勧請(かんじょう)されたが、
武田信玄により焼き払われた。
天正12年(1585年)以降、鉢形城主 北条氏邦により再建された。
県内の室町時代建築の特徴を伝える
数少ない建造物として文化財指定を受けています。
現在、解体修理中 2023年春頃帰還予定
薬師堂の堂内に安置され、本尊の薬師如来を守護する。
十二神将像は、いずれも割矧造り、彫眼、彩色が施される。
天正13年(1585年)から14年にかけて、
北条氏邦とその家臣団が旦那となって奉納されました。
薄薬師を加護した戦国武将の信仰を示すうえでも貴重な資料です。
現在、解体修理中 2023年春頃帰還予定
薬師如来の脇侍として安置される日光菩薩・月光菩薩像は、
寄木造・彫眼で、その作風から十二神将像と同時期の制作と
推定されてます。
「日本三体薬師」として厚い信仰を集める
薄薬師堂の入口を守る江戸時代中期の建造物。
間口が6.93m、奥行4.19m、高さ7.92mの総欅造りの瓦葺き。
安置される木造金剛力士立像は、開口の阿形像と閉口の吽形像の2躯で、
一般には仁王像といわれ、天保2年(1831)の墨書銘があります。
法養寺(真言宗智山派)蔵の涅槃像画軸で、
縦190cmの大掛軸に納められ、色彩が豊かである。
本図は、釈迦の死を追慕する涅槃会に掛ける画像であり、
かつては法要に使用されていた。
寛政2年(1790)井玉泉画と記され、
江戸時代後期の仏画として貴重なものである。
この絵馬は、郷土の彫刻家・森玄黄斎が天保11年(1840)に
薬師堂に納めたもので、縦35cm横42cmの額間に
「め」の小文字を3000刻みこんでいる。
表には「奉納 三千 め」
裏には「天保十一年庚子二月八日玄黄斎彫之」と記されている。
精巧な工芸品として貴重である。
現小鹿野町町長森真太郎氏の先祖の作品です。現在は、町で保管。
薬師堂本堂の前面左側に建つ石造の七重の塔。
塔頂まで3m、幅60cm、高さ27cmの角柱石材に
60cmの方形型の屋根を載せる。相輪も石材製である。
薬師堂の信者、岩田氏により延宝5年(1677)12月に奉納された。
小鹿野市街地の初期開発者でもある岩田氏は
薬師堂にあった市の権利を有し、
七重の塔は当地域の経済史を知る上でも貴重な資料である。
薬師堂の霊験は、峰の薬師として中世には広く知られており、
加えて秩父札所の結願間近の中継点として多くの巡礼が足跡を残している。
薬師信仰と観音信仰の重層的な信仰形態をさぐる上で
納札3点と壁面、柱類の墨書は貴重である。
この納札は、堂内の屋根裏に打ち付けてあったもので
損傷が著しいが、そのうち1点に天正7年(1580)の記載がある。