私の専門分野は複素多様体上の幾何解析です.射影多様体等の一部の複素多様体には代数的な側面もあるため同分野は代数・幾何・解析の交差するところに位置しています.コンパクト複素多様体X上にKähler計量gが与えられると,それに付随して曲率形式が定義されます.そこで,「そのような計量gの中で(ある意味で)標準的な計量は存在するか?」という問題を考えることができます.例えばXがコンパクトRiemann面(複素1次元)であれば,X上には定曲率計量が入り,その符号に応じてXの被覆空間が2次元球面(曲率>0),複素平面(曲率=0),双曲平面(曲率<0)のいずれかになるという事実は皆さんもよくご存知だと思います(Riemann面の一意化定理).このように,標準計量の存在問題は多様体の分類問題と関係があります.また,標準計量の多くはKempf−Nessの定理を通して幾何学的不変式的安定性とも深い繋がりがあり,そのため,多様体のモジュライ問題にも寄与があります.私が研究しているのは定曲率計量,およびその亜種の高次元多様体への一般化で,具体的にはYau−Tian−Donaldson (YTD)予想,およびThomas−Yau (TY)予想周辺の話題に取り組んでいます.
4年次セミナーでは,こちらで指定した教科書の中から1つを選び,発表して頂きます.使用するテキストはすべて洋書です.
教科書候補一覧
Shoshichi Kobayashi, Differential geometry of complex vector bundles, Princeton University Press, 201
Phillip Griffiths and Joseph Harris, Principles of algebraic geometry, Wiley-Interscience, 1994
YTD予想周辺の話題
Fano多様体XがKähler−Einstein計量を持つための必要十分条件としてがK-安定(幾何学的不変式論の概念)であればよいことが長年予想されており,これをYau−Tian−Donaldson (YTD)予想と言います.YTD予想はChen−Donaldson−SunとTianによって肯定的に解決され,Kähler−Einstein計量の存在問題は一応の収束を見ました.現在ではKähler−Einsteinを偏極一般化したスカラー曲率一定Kähler計量や,さらにそれに正則ベクトル場のHamiltonianを付け加えて一般化したextremal Kähler計量等に対する研究が多く見られます.ただ,全体的に代数幾何的な扱いが主流となるため,現在,私自身はこの方向性の研究は行っておりません.ただ,Kähler−Einstein計量の研究は標準計量を研究する上での雛形とも言えるもので,基礎理論をある程度理解して置くことが重要です.また,偏極を固定しない(非正規化)Kähler−Ricci flowは極小モデル理論とも関わりがあるため,この方向性の研究であれば幾何解析的な部分でまだまだ研究する余地がありそうです.
TY予想周辺の話題
2002年にThomas−Yauは次の予想を提起しています:
「Calabi−Yau多様体内の与えられたLagrangianのHamiltonian isotopy類の中にspecial Lagrangianが存在するための必要十分条件は,それが"安定"であることである」
これは,実際には2つの予想を意味しています.すなわち,まず安定性を定式化するということ,そして,それをspecial Lagrangianというある種のPDEの解の存在と結びつけるということです.現時点では,安定性の候補についてはBridgeland安定性(三角圏に対して定義される安定性)が有力視されており,2次の場合には大きな進展を見せています.それにも関わらず,3次元以上の場合にBridgeland安定性を構成する一般的な方法は知られていません.
TY予想そのものはSymplectic幾何学に関する予想ですが,ミラー対称性を通して複素幾何学の言葉に翻訳することができます.Kontsevichが提唱するホモロジカルミラー対称性予想は,与えられたCalabi−Yau多様体Xに対して,その"ミラー"と呼ばれるCalabi−Yau多様体Yが存在して,Yの深谷圏DbFuk(Y)とX上の連接層の圏DbCoh(X)が同値であることを主張しています.つまり,TY予想とホモロジカルミラー対称性予想が両方とも正しいと作業仮説を立てた場合,Yのspecial Lagrangianに対応するDbFuk(Y)の対象が存在し,それがBridgeland安定性を満たすということになります.実際,もしXが半平坦Strominger−Yau−Zaslow fibrationと呼ばれるaffine多様体上の特殊なtorus fibrationの構造を持つCalabi−Yau多様体の場合は,special Lagrangian切断のFourier−Mukai変換がLeung−Yau−Zaslow (LYZ)方程式(deformed Hermitian−Yang−Mills方程式とも呼ばれる)と呼ばれる正則直線束L→X上の接続の方程式であることが知られています.このように,TY予想に関してはSymplectic/部分多様体論による直接的なアプローチと,ミラー対称性を経由した複素幾何学的アプローチの2種類があります.
PDE論的には,LYZ方程式は複素Hessian方程式と呼ばれる範疇に分類されます.Kähler−Einstein計量もPDEとしては同じ範疇に分類されますが,前者はより幾何解析的なアプローチが主体であり,現在,私もこちらを主体として研究を行っています.一方で,近年の研究によりLYZ方程式の可解性はNakai−Moishezon判定法(代数幾何学的なKähler類の判定法)とも密接に関わっていることが分かってきました.今後も益々発展が期待されると考えられます.
勉強方法について
微分幾何(主に複素幾何)の教科書→Kähler多様体上の標準計量の教科書→Kähler幾何系の論文
という流れが最短です.読んでいるとPDEや多変数複素解析的な知識が求められることがありますが,何度も読めば慣れてくるので,そのためだけにわざわざ別の教科書を全部読まなくてもよいというのが個人的な意見です.あくまで幾何解析を研究の主体とするのであれば,代数幾何,PDE,Ricci flow等の教科書は(余力があれば読むことが望ましいですが)必要に応じて参照すればよいと思います.具体的には,後述の「お薦めする論文&テキスト」を参照してください.
微分幾何学(主に複素幾何)の教科書
小林昭七,複素幾何,岩波書店,2005
分かりやすくありつつも,それなりに分量があります.とにかく安心.
Shoshichi Kobayashi and Katsumi Nomizu, Foundation of Differential Geometry Volume I & II, WILEY, 1963
Appendixにおいて,可積分な概複素構造が複素構造であることを,実解析的なものだけに限って数ページで証明しているので,かなり満足できます.微分幾何の教科書としても非常に丁寧.
S. S. チャーン(訳:藤木明,本田宣博),複素多様体講義,丸善出版,2012
内容がかなり尖っているので,どちらかと言えば教科書というより,研究者を養成するための本です.
Shoshichi Kobayashi, Differential geometry of complex vector bundles, Princeton University Press, 2014
複素微分幾何についての教科書です.微分幾何学では多様体上のベクトル束およびその接続について調べます.前半では接続に関する基本事項が纏められています.特に接続から曲率形式と呼ばれるものが定まりますが,これはベクトル束のチャーン類のような位相不変量と関係しています.また,曲率に制限があるベクトル束上ではコホモロジー類が消滅することがあります.後半ではHermitian−Einstein方程式とslope安定性,およびそのモジュライ空間の性質について丁寧に解説されています.
Phillip Griffiths and Joseph Harris, Principles of algebraic geometry, Wiley-Interscience, 1994
複素多様体の教科書です.おおよそself-containedに書かれており,親しみやすい本です.
代数幾何学の教科書
R. ハーツホーン,代数幾何学I,丸善出版,2012
代数幾何学の教科書として非常に重宝しますが,必須項目が演習問題となっています.
上野健爾,代数幾何,岩波書店,2005
ハーツホーンと比較すると,よりself-containedに書かれています.
PDEの教科書
D. Gilbarg and N. Trudinger, Elliptic Partial Differential Equations of Second Order, Springer, 1997
楕円型と言えばこれです.
多変数複素解析の教科書
J. P. Demaillyのlecture note(著者のホームページから入手可能)
全部合わせるとかなりの分量になりますが,複素幾何や複素解析で扱われる様々な話題についてかなり丁寧に書かれています.
V. Guedi and A. Zeriahi, Degenerate Complex Monge-Ampère Equations, European Mathematical Society, 2017
近年の多重ポテンシャル論の内容や,Kähler−Einstein計量への応用についてかなり詳細に書かれています.
Ricci flowの教科書
P. Topping, Lectures on the Ricci Flow, Cambridge University Press, 2006
Ricci flowの標準的な教科書.3次元でRic>0の初期値からRicci flowを流すところまで読めば,Ricci flowを一通り学んだ気になります.テンソル計算の練習にもなります.
V. Tosatti, KAWA lecture notes on the Kähler−Ricci flow, arXiv:1508.04823
Kähler−Ricci flowの標準的なlecture noteです.
S. Boucksom, P. Eyssidieux and V. Guedj, An Introduction to the Kähler−Ricci Flow, Springer, 2013
Kähler−Ricci flowの標準的な教科書で,極小モデル理論との関係についても書かれています.
Kähler多様体上の標準計量の教科書
G. Tian, Canonical Metrics in Kähler geometry, Springer, 2000
Kähler−Einstein計量の基本的な教科書.ただ,随分前に書かれたものなので,K-安定性についてはあまり記述がありません.
G. Székelyhidi, An Introduction to Extremal Kähler Metrics, American Mathematical Society, 2014
Kähler−Einstein計量の教科書で,toric多様体の扱いや,幾何学的不変式論との関係ついても学べます.また,ブローアップ上のスカラー曲率一定Kähler計量の具体例の構成についても載っています.
複素Hessian方程式に関する論文
J. Song and B. Weinkove, On the convergence and singularities of the J-flow with applications to the Mabuchi energy, Comm. Pure Appl. Math. 61 (2008), no. 2, 210−229. 17
J-方程式の可解性を"subsolution"と呼ばれるある種の計量の正値性条件と結びつけた決定的な結果です.
G. Székelyhidi, Fully non-linear elliptic equations on compact Hermitian manifolds, J. Differential Geom. 109 (2018), 337−378
Song−Weinkoveの結果をより広いクラスの複素Hessian方程式に拡張しています.非常に汎用性が高い結果です.
G. Chen, The J-equation and the supercritical deformed Hermitian–Yang–Mills equation, Invent. math. 225 (2021), 529−602
J-方程式の可解性を一様版Nakai−Moishezon型判定法と結びつけた決定的な論文.しかし,内容がかなり技術的で,読むには相当な覚悟が必要です.