学童クラブ「キッズコミュニティ凛童舎」代表(一般社団法人コラボライフ代表理事)
吉岡秀記
子ども達の1日は、大体、学校→放課後→家庭 というサイクルで出来ています。
そして、昔と比べても、実は学校も家庭もそう大きく変わっていません。
昔も学校は先生の言うこと、家では親の言うことを聴く場でした。
でも、かつて子ども達には、誰にも支配されない聖域。自己裁量満載で挑戦し放題の時間「放課後」がありました。
しかし、今、特に子どもルームに通う子は、放課後にまで先生がいて、指示と禁止事項がいっぱい。放課後も全体スケジュールが決まっていて思いどおりで行動できません。
一番変わってしまったのが放課後だと思うのです。
毎日、ほとんど自己裁量の機会を持たない子ども達の「考える力」は育つのか?
現在、多くの子ども達が過ごす公設子どもルームは、非常に狭いところに大勢が詰め込まれ、それゆえに騒々しく、子ども達の鬱憤もたまり、トラブルも起きやすい。するとどうしても、スタッフは子どもたちを束縛しがち。ルールも禁止事項も多くなってしまいます。
しかし、各校平均で低学年の35.9%、全児童の21.6%(千葉市令和3年5月1日データ)が利用するため学校内のルームは大規模化の一途をたどっています。(全校生徒500人の小学校には、100人規模のルームがある計算になります。)
つまり、学校内にある以上、この構造を変えることは難しいと思われます。(写真はイメージです)
全学年合計45,953人、子どもルーム利用児童数9,944人、利用率21.6%
低学年合計22,438人、子どもルーム利用児童数8,047人、利用率35.9%
高学年合計23,515人、子どもルーム利用児童数1,897人、利用率8.1%
(千葉市 令和3年5月1日現在のデータ)
千葉市の、ある校内子どもルームでは
校庭の平らでないところ(周囲の樹が植わっていることろや築山)に立ち入ってはいけない。跳び箱タイヤ(わずか地上50cm)から飛び降りてはいけない、と指導され、1日わずか30分の外遊びなのに、そのうち最初の5分は準備体操。最後の5分は決められたボール運びゲームをやらされてました。外遊びの自由時間は,正味たった1日20分。
また、ある元子どもルームスタッフの告白によると、ブランコに乗る時間をストップウォッチで測って、子どもを交代させていたとのこと。またそのスタッフを配置できない日は、ブランコ自体が使用禁止になったそうです。
いずれも、子ども達の経験値より、ケガをさせないこと。トラブルを越さないことが優先されているのです。
1日のわずかな時間だけ我慢すれば・・・という考えもあります。しかし、放課後は子どものアフター5です。唯一、子ども自身が自分個人に戻れる「自分の時間」。有ると無いとでは大違い。長さの問題ではないでしょう。
例えばもしアフター5がないサラリーマンがいたら、寝て起きて仕事してまた寝る。この繰り返しです。
前向きな気力は続くでしょうか?
同じくもし、丸1日、誰かに監督され、ずっと指示に従う生活だとしたら、楽しい子ども時代と言えるでしょうか?
子ども達がゲームにはまる一つの要因は、ゲームの中だけは自己裁量が認められているからではないか?とも思います。自由なのは「あつ森」や「マイクラ」の中だけだからハマる?
「サラダ記念日」の歌人・俵万智氏が、シングルマザーになって1人息子と石垣島に移住して詠んだ歌がそれを象徴している気がします。
「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ
かつても学校で先生、家庭では親の言いなりだった子ども達も、放課後だけは自分の時間(個人として自分の人生を生きられる時間)を持っていたわけです。
しかし今、放課後にまで先生がいて、思い通りに過ごせない。こんな自己裁量権のない日々、日常を過ごしていたら、低学年の3年だけで「人生はままならない」「世界は概ねすでに定まっている」「成り行きに従って生きるしかない」という 達観したような 世界観 に人生の最初からどっぷりつかってしまうのではないでしょうか?「世界は変えられる」そんなイメージを抱くことはないのでは?
凛童舎にも、公設子どもルームに3年間居て、高学年になってから入ってきた子が何人かいました。しかし、大抵は何かしらの鬱憤を貯めていました。そしてそれを何かにぶつけてうっぷん晴らしをしていました。
暴力はもとより、嫌がらせや暴言、いじめもその一種だし、卑下もそれでした。
そういう子も凛童舎で自由にしていれば、他者や自分への攻撃性は消えていきました。でも、どうしても行動の選択肢が思いつかないように見えました。すでに「誰かに決めてもらう」生活に慣れてしまっているかのようでした。放課後子供教室などの「出来合いのワークショップ」などでしか楽しみを見つけられないようでした。これは教育の「隠れたる瑕疵」なのではないでしょうか?
1.00とは、100%のこと。0.99とは、ほんの少しだけ「まぁいいか…」と1%だけ手を抜くこと。
1.01というのは、100%やり切るだけでなく、昨日より1%だけねも上回ること。
はじめは2%の差なので、ほとんど目に見えないです。
これを36回繰り返す(3年は36か月なので)とどうなるか?
数式にすると
0.99×0.99×0.99×0.99×…と36回掛ける。つまり36乗する。
逆に
1.00×1.00×1.00×1.00×…と36乗する。
もちろん1.00を36乗しても1.00です。
先月より1%頑張った1.01の36乗は、1.431 つまり1.4倍
ほんの少し手を抜く0.99の36乗は、
なんと、0.696 つまり0.7倍
つまりダブルスコアの開きです。その差は大きい。3年は長いのです。
VUCA(ブーカ)とは、Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)という4つのキーワードの頭文字から取った言葉で、現代の経営環境や個人のキャリアを取り巻く状況を表現するキーワードとして使われています。
難しい英単語の頭文字ですが、要するに「不確定で予想不可能な時代が来ますよ」「前例は当てになりません」という話です。子ども達はそういう時代を生きるのです。
オックスフォード大学の研究で「今存在する職業のうち半分は10年以内に消え去っているだろう」と発表されてから久しいです。弁護士も医師も安泰ではないと。AIが人知を超える2030年以降、判例も診断例も過去データだから、検索と分析に勝るAIに人は勝てないのだと。
ゆえに、これからは、今ある知識、技能より「自分で考え判断し行動できる力」こそ重要だというのです。つまり、臨機応変に必要なものを手に入れていく力、「意欲」が。(これって教育目標の「自ら考え、自ら学び、自ら行動できる力をはぐくむ」を掲げる千葉市だけでなく、今や、国を挙げてこれを目指しているのです。)
どんどん挑戦し、失敗してもすぐ立ち直る力:レジリエンスも必須。なぜなら立ち直ってまた挑戦し、今までにない答えを見つける力こそ人間に残された最後の強みだと。
なのに、幼児期を終えて、やっと自立への滑走路である小学校時代を迎えたのに、その矢先に考える機会を与えられない生活「漬け」は致命的なはずです。(学校教育もこの問題意識をもって学習指導要領の大改訂、入試制度の大改革が行われていますが、教育の担い手=現場の先生の考え、そう安々と変わらないから、まるで来世には実現?と思えるぐらい進みが遅そうです。)
VUCAの時代を生きる子ども達は、知識やスキルよりまず「意欲」
何が必要になるのか、不確定な未来。
意欲さえあれば、必要な知識・能力は自分で取りに行くでしょう。
毎日、1日中、言いなり生活で「意欲」を保って大人になれるのか?
現状の学校教育に乗っかっていては、間に合わない。そう気づいている人は手を打ち始めています。
富裕層は子弟を海外の学校にやったり、そうでない場合でも、オランダの教育スタイル:イエナプラン小学校が、私立が長野にできた後、2021年4月、広島県福山市立小学校として公立イエナプラン小学校ができ、どちらも、移住してまでそこに通わせようとする親が殺到したとか。
全国に数校あるきのくに子どもの村学園小中学校は、ほぼ全児童生徒が寮に入って通っています。それ以外にも公式の学校(学校教育法第1条校)だけでなく、多種多様なオルタナティブスクールを選んだり、在留外国人向けのインターナショナルスクールに通わせる親も増えています。さらには、公教育を避けて積極的に不登校し、ホームスクーリングを選ぶ家庭まで現れていますし、島留学、山村留学も大はやり。
そのいずれもが「自分で考える」という教育理念や、環境を求めてのことです。
私はあまり好きではない区分けなのですが、どんな組織にも、20%の優秀で意欲的なリーダータイプの人間と、20%のやる気のないもてあまし者がいる。残りの60%は主体性がなく雰囲気でどちらかに引きずられるタイプであるという法則が、経済界でまことしやかに語られています。信じられているということは、かなり良くあてはまるのでしょう。
しいて言えば、確かに常識にとらわれず、常に自分を向上させようと、新しいことにアンテナを張っているタイプの人は20%程度いる気はします。
ゆえに、この20%の保護者は、わが子の行く末を考え、先進の選択肢を求めているはずです。しかし、実際は、資金力や仕事の流動性などにアドバンテージのある5%の家庭だけが手を打てていて、残りの 15% は選択肢がないがゆえに消極的選択しか出来ていないのでは?これは気の毒なことです。
「まずいかも?」と思いながらも、選択肢がない!
不安不満を抱えている15%の保護者へ
保護者の中には、もちろん我が子は「ケガさえしなければ良い」という場を求めている方もいらっしゃるでしょう。千葉市も「保護者は安全安心を求めている」として、登所に学校外に出る必要のない学校内子どもルームを最善とし、怪我をさせないことを最優先にした保育を推進しています。
しかし、保護者には、そういう思いの方ばかりではないはず。
特にVUCAの時代の到来や「非認知能力は、集団自由遊びの中でこそ培われる」と知っている方。「好奇心こそが最も効率的な学びの種」と知っていて、学校外ではもっと我が子に好奇心を存分に満足させてほしいと願う保護者が少なくとも20%いて、そのうちの15%はその思いを実現できていないはずだと思います。
「ケガぐらい当たり前、それよりもっとのびのびと活発に活動して欲しい」という保護者はいるはず。でも、怪我をしてクレームを入れる親はいても「ケガしなかった」とクレームを入れることは難しい。
ゆえにこのサイレントニーズは汲まれず「仕方ない」「3年の我慢」と諦めているのでは?と思うのです。
安心安全ニーズ志向の公設子どもルームは、ケガのクレーム回避を最重視しがち。
でもそれは「ケガしてもいいから自由にのびのびと」という希望にはそぐわない。
希望がかなわないことにクレームも言えない=サイレントニーズ
施策➊少人数で広々。
国基準(1.65㎡=畳1枚/人)の5倍の広さ → 子どもが自由に動き回れる
国基準(1単位40人)の半分の集団規模 → 騒々しくならない。かつ子ども達自身がハンドリングできる集団規模
施策❷見守りスタッフ 児童5人に1人
安全のための「禁止事項」を減らしても、安全を確保できる。
しかも、曜日ごとに世代も背景も違うボランティアにきてもらうことで、親と先生ぐらいしか大人を知らない子どもたちに、多様な「大人サンプル」と出会い、ご縁を結ぶ体験をさせてあげられている。
施策➌毎日発行する写真付き日報で、保護者に安心してもらう。
「何が起きているか?」を臨場感をもってお伝え。
日報に期待する5つの価値
日報には、できるだけのことを良い話・悪い話の区別なく、①事実、②凛童舎の対応、③そう対応した理由、④その背景にある思い、を記述するようにしています。
子育てがプライベート化し、そのデメリットが表出する昨今、もう一度「コミニティで子育てする」ことを再生する試みが凛童舎プロジェクトです。
その方向性を実現する上で、この日報には以下の効果を期待しています。
1.臨場感:凛童舎の日々の様子を立体的に臨場感を持って保護者にお伝えする。(コミニティの当事者になってもらう)
2.コミュニティ化:他の子にも愛着を持ってもらい、他の子の成長にも関わって貰う。(斜めの関係の大人)
3.相互成長の理解:他の子がご自身のお子さんの良き教材にもなっていることをご理解いただく。(関係性の中での成長を実感)
4親としての疑似経験値:昔に比べ兄妹の数が極端に減った現代、親も幾通りもの子育て「ケース」を体験できなくなり、経験豊富な先輩もいなくなりました。そんな中、この日報で、多様な事例を疑似体験できる上、概略の事情を知っているコミニティメンバー(保護者仲間)に相談出来たり、励ましてもらったり、つまり、当事者と対話できることが、体験不足を補うのではないか?
5.思い出と次世代への資料:また、この写真付き日報はストックしておけば、子どもたちが成長したのちの親子両方の思い出になるし、この詳細な子育ち記録は、子どもたち自身が「親」になったときの(自分はどうだったか?を対比しながら子育てできる)非常に良い参考資料にもなるのではないか?
・・・・
しかし、「自分の子どもの恥ずかしいことをなぜ他人に公開しなければならないのか?」とのお考えがあることも当然だと思っています。むしろその考えの方が世の大勢です。凛童舎はその潮流に逆らう小舟のような存在です。理解者だけにしか選ばれないことを覚悟しています。
凛童舎も決してこれが最善だと思っているわけではありません。
ただ、孤立した子育て(「孤育て」という言葉で母の苦しみとして語られることが多いですが)による子どもへの悪影響を防ぐ意味では、この日報によるすべての公開がまだ「まし」な方法として試行しているだけなのです。
まだまだ修正可能なので、対話によって精度を高めたいと思っていますし、それでもどうしても容認できない方が、メリットよりもデメリットが大きいと考えて離脱してしまうのもやむを得ないと思っています。
前述
凛童舎では、保護者が許せば自由外出を認めています。また、高学年については、自由外出が1時間を超えるごとに、利用料を200円割引します。(月上限5000円)
保護者には低額で、雨の日や暗くなってからの、および長期休暇中の子どもの安全な居場所を提供。本人には、保護者在宅家庭と変わらない自由を提供。
学校で友達ぶと遊び約束を自由にして凛童舎に来れる。時にはお友達が凛童舎に「ピンポ~ン」と誘いに来る。外で困ったことがあれば、すぐに凛童舎に逃げ戻ってくればよい。電話をすれば助けにも行きます。そんな生活です。まさに「家庭の代替」機能。
たとえ留守番できるようになって、物理的には子どもルームが必要なくなったとしても、高学年にも「子ども集団にいる価値」が、教育的にはあります。年下の面倒を看ることで、労わりの心や、リーダーとしての気概が知らず知らずに育まれます。 これが将来、自律や人間力に非常に役立ちます。社会に「求められる人材」となるでしょう。(ちなみに、千葉市が掲げる、学校教育の目指すべき子どもの姿は 「夢と思いやりの心を持ち、チャレンジする子ども」だそうです。)
外で自由にのびのびと鬱憤ばらしができるからか、凛童舎に戻ってきてからの高学年は、年下の面倒見がよく、ゆえに年下に慕われ、それがさらに面倒見の意欲(思いやり)を高めるという好循環が起きています。
「自分を楽しませる」というレベルにとどまらず「他者を楽しませることを楽しむ」レベル。つまり「遊びをプロデュースする喜び」を感じ、さらに下の子たちが、楽しくさせてくれるその子がいることを喜ぶという状況が、その子に自己効用感を与えます。
そして、そういう子が低学年の子のロールモデルとなって、長じて同じ楽しみや喜びを感じるレベルに育っていく。かつてあった近所の悪ガキ集団にはそういう「学び」の循環や継承機能が自然に備わっていました。
兄弟の少ない時代、自由時間=ただ1人の時間、になれば、ただ「個」としての快適・快楽のみを追及するだけになって、将来社会の構成員になった時の、社会への責任感・コミニティへの当事者意識や他者への寛容度が落ちるような気がしています。
凛童舎は、子ども達の時代には、無縁社会が深まり、結果誰もが寂しい社会になって行くような気がしてそれに抵抗する事業として学童クラブをしています。自由外出制度(※)は「高学年を縛らない」ことで居付いてもらうために考えたものです。
A: 学校外の施設に通所するリスク(安心安全リスク)
B: 自分で考える経験を積めないリスク(指示待ち人間化リスク)
どちらのリスクが大きいと考えるかは各家庭の考え方次第だろうと思います。
ただ、少なくとも近未来に必要な生きる力(非認知能力)は、習い事など「教授型手法」では授けられない。なぜなら「非認知」と呼ばれる所以が「認知できない」=「体系化できない」=「教授できない」つまり経験からしか学べない力だからです。
選択肢のうち「自由遊び」だけが、子ども主体・子ども自律のコンテンツ
安心安全の次に、子どもの自律的活動を大切に思う保護者は、全体の16.7%
三角ベースを語る
宮崎氏は「三角ベースのルールはどんどん変わる」「ルールは守っているからよいのではなく。ルールは作っていくものだと学んでいくんです。」「そういうことを通じて、ルールも含めて、ひととどう触れ合って行くかを訓練する時期。悔しい思いもいっぱいするはずなんです。」「自分が体を使って経験したものが(作品に)出てくるんです。」と語っています。
全く同感。三角ベースは「自分たちが楽しめるように」ルールを作る。「あの茂みに入ったらボールが見つからなくなるからアウト」とか、人数が少ないと、透明ランナーの概念も必要になってくる。
今、子ども達に早くからフレームの確立したものを与えてしまう傾向が強い。「たくさんの選択肢から選べるように」と。それが正しいのか?私ははなはだ疑問なのです。
野球もしかり。確かに早くセオリー通りに育てれば「想定内最高」にはなるかもしれない。でもそこからは「想定外」の突出者:イノベーターは生まれない気がするのです。
※三角ベースとは、参加者が少人数のとき、1塁と2塁とホームベースだけの3角形のフィールドでする野球のこと。
自立心を育もうと言いながら、大人たちは保護という名目で、危なそうなものを駆除して回る。そのことで子供たちは緊張感も工夫の喜びも経験できなくなった。
安全と経済一辺倒の戦後社会が、子供たちから
自己育成と自己管理の機会、つまりは
「放課後」と「空き地」を奪ってきた。
「建築家 安藤忠雄」より。
大阪下町で奔放に育ち、ボクサーから転身、独学で建築を学び世界的建築家となった安藤忠雄氏著
折々のことば:699 鷲田清一
日本医師会・日本小児科医会ポスター
遊びは子どもの主食です。
人が人生で最も子どもらしい小学生時代は、完全保護の幼児を抜けて、自律への飛翔する滑走路です。そこで、全体の35%の児童が「自分で考え自分で決めて行動する」という経験がほとんどできない環境で日々を過ごしている。
これは、社会にとって、日本にとって、非常に大きな、計り知れない損失。
ですが、まだ多くの方が、その原因に気づいていない。
今、人材の劣化が叫ばれています。
ブラックバイトやデートDVで、なぜノーと言えない?
50歳の引きこもりを80歳の親が面倒見ている8050問題。
成人の100人に一人が引きこもりという現代日本。
世界で最も自己肯定感が低いという日本の子どもたち。
増加し続ける子どもの自殺
その原因が「安全過多」の過保護による「経験不足」にあるのではないか?
経験が不足すれば当然、「失敗経験」も、そこから「立ち直る経験」も不足します。
指示待ちで、打たれ弱く、失敗を恐れて、すぐ逃げる、そんな人材ばかり。
これは教育の「隠れたる瑕疵」です。
つまり、
「放課後開放こそが最も重要な教育改革なのではないのか?」
と凛童舎は感じています。
ご賛同いただける方、ご興味のある方は、ぜひ説明会にご参加ください。