サン=テミリオン(ボルドー、フランス)
テロワールによって捉える土地と文化の新たな領域史の構築
研究の趣旨
本研究は「テロワール」を学術的に捉え直し、自然と人間が共同してつくりあげてきた土地と文化を読み解く領域史の新たなアプローチです。テロワールとは一般的にワインの地味を意味し、その個性を表す地質、気候、人間の工夫、思想といった情報の総体をさしています。このテロワールの見方はワインにとどまらず、土地と結びついた様々な産品に見出すことができます。たとえば、お茶や筍や竹材のように、自然と人為の複雑な組み合わせからつくられた産品にも、地域の歴史的、文化的価値を作り出してきた諸条件が編み込まれているといえます。原料が作られる畑、加工するための建築、交換される都市、流通の範囲、消費される圏域といった、重なり広がる空間と文化の歴史は、人々が自然と呼応して生活してきた地域、領域の歴史そのものといえるのです。本研究は、こうした読み取りを可能にしてくれるテロワールをキーワードに、大小の時間と空間スケールを行き来し、土地、空間と文化の領域史を描き出すことが目的となります。
つぎにテロワールが産品と土地に関する価値情報であるという点も重要といえます。時代、地域、担い手によって価値観が異なるなかで、産品と土地の価値形成を通じて、ある具体的な文化領域を立体的に浮かび上がらせる可能性もあるといえます。またロングライフな地域産品を掘り下げることは、地域の変わらぬ価値を見出すことでもあるのです。伝統産品をつくりだしてきた人間の生業は、地域のしくみとして継承されてきたものであり、地域の価値を創出してきたものです。テロワールをつうじて地域のかわらぬ価値を読み取り、その土地のしくみを価値づけることは、文化的景観ともつながる地域の見方であり、ブランディングの方法であり、テロワール研究のさらなる可能性を示しています。
宇治茶(京都、日本)
風土に生きる、風土を活す:宇治茶のテロワール
京都府南部は茶の産地である。地域の中心地であると同時に、茶葉の集散地となってきた都市、宇治の名を冠して、「宇治茶」と呼ばれている。宇治茶が日本を代表する茶生産地として展開してきた背景には、京都府南部の自然条件に加えて、流通機構、そして消費地京都や権力者との関係といった歴史的、地理的な条件が大きく関わっている。
茶の文化は8世紀には中国からもたらされ、815年には嵯峨天皇の近江行幸時に梵釈寺で永忠が煎じて献上したこと知られる(『日本後紀』)。ただ、茶が定着するのは12世紀末から13世紀にかけて禅僧が中国から飲用文化を持ち込んでからとなる。このとき、京都近郊でチャの栽培が始まり、各地に広がった。とりわけ、宇治近郊は宇治川の運搬堆積作用によって形成された土壌環境に加え、気象条件がチャの生育に適したことで、次第に優れた生産地であることが知られるようになった。
その後、中国など近隣諸国との外交の場や国内政治の舞台でも茶が利用されることになり、政治や経済をけん引する者たちにとって茶を嗜むことのできる素養が必須となると同時に、茶の生産を保護することが重要となった。織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康はいずれも宇治の茶匠を庇護し、宇治茶は国内屈指の産地としての地位を確立した。こうした背景には茶園に被覆をして良質な茶を作る宇治の茶匠らが創出した独特の生産技術があった。この技術による茶はうま味の強いものとなる。権力者たちはこの上質の茶を求めたのである。
宇治茶の産地の地形条件は、山間部と平地河川沿いの2つの地域に大きく分けられる。2つの地域では土壌条件や地形条件、気象条件によって異なる特徴を持つ茶葉が採れる。また年ごとの変化もある。権力者たちの嗜好に応えることが求められた茶匠は、生産地のそれぞれのテロワールを熟知しつつ、個性ある高い品質の茶を毎年作り続けられるためにブレンド技術を磨いた。こうして宇治茶は、生産地(茶園)×加工地(茶工場)の特徴が品質として現れることになる。
現在、宇治茶は碾茶(抹茶)・玉露・煎茶の3つの種類が主に生産されている。碾茶は宇治川流域、煎茶は木津川流域に多く、玉露はその中間地にいくつかの代表的産地がある。こうした宇治茶のなかでの生産品の違いも、地理的な特徴と歴史的な背景が現れている。また、種類によって茶園と茶工場はそれぞれ異なっていることから、地域によって個性ある景観を見出すことができる。こうしたテロワールと文化的景観(Cultural Landscape)の交差を取り上げることができるのも、宇治茶の興味深い点である。
シャンパーニュ(マルヌ、フランス)
シャンパーニュのワイン
フランス・パリ東130kmに立地するシャンパーニュは、地方名であると同時に、この土地の方法でつくられた発泡性ワイン「シャンパーニュ」の原産地の名称として知られる。地域境界と伝統製法の厳密さを重要視する発泡性ワイン「シャンパーニュ」は、地質に根ざしながらも、土地と絶妙に乖離しつつ独自のテロワールを展開させてきた土地ということができる。
政治的・宗教的拠点であるランスは中世から19世紀まで歴代国王の即位を行う宮廷祝祭都市としての機能を担い、その地下には古代から採石場として用いられた石灰岩チョーク層を穿った巨大なワインカーヴ「クレイレール」を有してきた。ランスの南側にはワイン生産地帯であるモンターニュ・ド・ランスと呼ばれる森が覆う丘陵地が広がり、丘の周縁部には生産集落が点在する。モンターニュ・ド・ランスの南にはマルヌ川とパリでつながる流通拠点エペルネーが立地し、ドン・ペリニョンが司教をつとめたオーヴィレール村や大手メゾンが割拠するアイ村が立地する。
そもそもシャンパーニュワインは、ブルゴーニュのような土地区画「クリマ」とワインが対応関係にあるわけではない。シャンパーニュは一定の味わいと品質を保つため、複数の葡萄品種がブレンドされ、NV(ノンヴィンテージ)ワインでは収穫年を超えて葡萄はブレンドされる。安定供給をはかるネゴシアン・マニュピュラン(原料となる葡萄を購入、醸造、熟成する大手生産者)によるこの生産システムは、原料葡萄が作られた土地特性からワインは一旦切り離される。原料生産者のトレサビリティよりも、むしろ醸造、熟成の責任をもつネゴシアン・マニュピュランのメゾン名が産品の質を保証し、テロワールを物語るものとなる。このしくみは、宇治茶生産において茶商が「合組(ごうぐみ)」を行うことで宇治茶のクオリティを保つのと同じである。近年、シャンパーニュではレコルタン・マニュピュラン(葡萄を栽培から醸造まで行う小規模生産者)のなかには土地区画(クリマ)を厳密に区別し、土地特性を表現する作り手も増えているとはいえ、まだわずかだ。こうした生産プロセスからみて、シャンパーニュのテロワールは土壌や土地との結びつきだけではなく、別の位相から捉える必要がある。
1つは空間的位相である。醸造空間はシャンパーニュのテロワールを生み出し、価値づけに一役買う環境要因のひとつである。果汁をブレンドするシャンパーニュワインは、土地と切り離されたかのように捉えられるが、メゾンの立地と醸造空間には一定の対応関係がみられる。このことは、土地に結びついた特徴として見いだすことができる。例えばランスのメゾンにみられるようにチョーク層を垂直に掘ったカーヴが連続する「竪堀型」、シャロン・アン・シャンパーニュのような堆積土壌に立地するメゾンでは丘の横腹を掘削してできた「横堀型」、またアイ村のようなモンターニュ・ド・ランスの丘麓に立地するケースでは竪堀と横堀を接続させた「複合型」というような傾向が見られる。微高地、地質分布に準じて醸造空間が設えられているのである。このように、シャンパーニュにおけるテロワールの構築は極めて独自であり、地質や自然条件だけを読み取ることでは理解できない。シャンパーニュという飲み物を支えてきた醸造空間、人間の営み、流通を促してきた祝祭的宮廷文化や国際的な流通網といった観点を読み解くことによって、テロワールの本質を見出すことができのではないか。[赤松加寿江・坂野正則]
サン=テミリオンのワイン(ボルドー、フランス)
サンテミリオンは、南仏ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ジロンド県内、ボルドー北東のドルドーニュ川右岸に位置する、中世起源の小都市の名前である。周辺地域はボルドーワインの産地の一角をなし、より詳しくはフランスの原産地呼称(AOC)「サンテミリオン」を名乗る著名なワイン生産地だ。
また「サン=テミリオン地域」の名称で、サンテミリオンと周辺7村をあわせた範囲が、歴史的なブドウ生産地域が現在まで生き続けている文化的景観、一定地域の中でおこなわれてきたワイン用ブドウの集中的生産の事例として評価され、1999年に世界遺産に登録された。歴史的にはローマ人がブドウを持ち込み、中世にブドウ生産地域としてこの地域の枠組みが定まった。「シャトー」と呼ばれるワイン生産農家が都市と村落の外に多数分布し、その多くは18世紀半ばから19世紀初めに建てられた建築であり、生産者の家系もその時代にさかのぼれることがある。
我々は、ボルドー大学研究者の協力が得られること、18世紀まで家系をたどることができ豊富な史料を所蔵するワイン生産農家を発見できたことなどから、地質や地形のみならず流通条件が産品を性格付けているという仮説を実証するため、サンテミリオンでケーススタディを開始した。
サンテミリオン地域のシャトー・クーテットという農家を調査対象とし、生産者ダヴィド=ボーリュー家の協力のもと、建築と敷地全体の調査では建築史と地理学の研究者が、18世紀以降のワイン流通と地域権力の関係についてはワイン生産と流通史の専門家が、さらに広く共同体-個別生産者の関係の中における「テロワール terroir」「クリマ climat」「クリュ cru」などの生産環境と領域をあらわす諸概念の歴史的変遷の検討においては中世・近世・近代史研究者が協働調査を継続中である。
これまでの調査で、18世紀以降のワイン農家諸建築を実測記録すること、土地そのものの高低差・地質と植生および栽培するブドウ品種・その他の土地利用法の関係を実測と聞き取りによって理解・記録・分析すること、およびダヴィド=ボーリュー家所蔵史料の収集ができた。地面の下の地質、地面の上の空間に展開される気候、人間の活動の3つによって構成される「テロワール」を、具体的な空間と個別史料に即して分析しようとしている。敷地の断面図作成とともにドローンを用いた空中からの撮影など、様々な調査手法を試みている。[小島見和]
東方美人茶(台北、台湾)
「美人」のつくりかた:土と水と虫のテロワール
「お茶にしましょう。」朝に夕に、人に会うと、そう声を掛けられることも多いだろう。台湾では、人々の生活にはいつもお茶がある。
台湾でお茶といえば烏龍茶が有名だが、緑茶、包種茶、烏龍茶、鉄観音茶、紅茶など、多くの種類がある。これらは発酵の度合い、つまりは加工法で分けられるもので、原料としての茶葉そのものが変わるわけではない。では、茶のテロワールは、ありえるのだろうか?
台湾に茶が導入されたのは18世紀末のことで、福建・武夷山から苗木を移植したと伝わる。以来、茶は台湾の地味に適したため順調に生産量を伸ばしてきた。清朝期にすでに、北米、イギリスなどに輸出するまでになった。その後、日本の台湾領有により、プランテーション農業として茶栽培が振興された。当時、台湾茶は紅茶、緑茶に加工されていたが、茶製造試験場による指導が行われ、生産量の増加、品種改良、また製品茶の品質の向上が図られた。栽培地は、平野部から山地へと次第に伸びていき、茶業は広がりをみせる。
戦後、政府の振興策により台湾茶生産は更なる成長を遂げた。また、1980年代より高山茶がつくられるようになる。栽培地も従来の枠を越えて広がり、凍頂烏龍茶など新たな茶種も登場し、台湾茶栽培はピークを迎える。
現在、茶栽培は一時ほどの勢いはないものの、高品質な製品づくりのための茶農家の丁寧な取り組みが、かえってよくみえるようになっている。お茶の風味を上げるため、わざと虫食いを起こさせる東方美人茶の誕生など、その種類も多岐にわたるようになった。いまや台湾各地で栽培される茶は、発酵度のみならず、生産地によって実にきめ細かく豊富な種類を持つまでになった。台湾茶の理解のためには、その地味の違い・地域差を読み取っていく必要があるだろう。
また、製茶工程も、時代的変化や生産規模の違いがあることも判ってきた。生産農家と加工場の位置関係も発酵技術の変化とともに変わり、また原料茶葉集荷と製品茶移出での流通の変化も、時代による違いがみられる。そうして、そのすべてに関わる茶商の存在がある。
上記にみてきたとおり、茶業はもはや台湾そのものとっていいくらいに、豊かな歴史と裾野の広さがある。これを紐解いていく一歩として、当プロジェクトでは、台湾北部の新竹地域における包種茶栽培をターゲットとした。それは、台湾茶栽培の中でも早期からの歴史を持つこと、中国茶の区分では緑茶に当たり、烏龍茶とともに生産量が多いこと、などを考慮した。当地では、茶業をベースとした地域文化観光の振興や、戦前の茶工場のリノベーションなど、近年、お茶の裾野がさらに広がりをみせている。
メンバー
代表 中川理(神戸女子大学)
伊藤毅(青山学院大学)
杉浦未樹(法政大学)
加藤玄(日本女子大学)
坂野正則(上智大学)
中島智章(工学院大学)
大田省一(京都工芸繊維大学)
野村啓介(二松学舎大学)
岸泰子(京都府立大学)
上杉和央(京都府立大学)
赤松加寿江(京都工芸繊維大学)
本研究会について
テロワールをひとつの鍵として、学術的な分野横断型の研究を進めようと2015年からテロワール研究会が始められました。建築史学、都市史学、歴史学、地理学、経済史学の専門家を中心に、2017年から科学研究費補助金(基盤研究A)「テロワールによって捉える土地と文化の新たな領域史の構築」(研究代表者:中川理)として、本格的な研究がスタートしたところです。
2017年度は「テロワールの空間」をテーマに、フランスと京都を調査地として調査分析を行いました。フランスの葡萄産地を代表するブルゴーニュとシャンパーニュは、テロワールの基本的な構成と構造を理解することを目的に据えたものです。一方の京都の竹は、京都の都市文化に竹材や筍を供給してきた産地の形成として読み解くことを目指し、テロワールの見方の広がりと可能性を問うものとなります。今後、国際的に研究連携を行いながら「テロワールと流通」「テロワールと文化」を研究課題として深化させ、テロワール研究を展開させていくことで、領域史研究における方法論構築をめざしてまいります。