ゼバスティアン・ブラント『阿呆船 (Das Narrenschiff)』(1494年) について
2024.11.24菊地真子 / Rainship1920
菊地真子 / Rainship1920
『阿呆船(Das Narrenschiff)』とは、1494年に出版されたゼバスティアン・ブラントの書籍である。
全編詩歌形式で綴られており、当時のヨーロッパ世俗において見られた様々な傾向の人物像を「阿呆」として風刺していく内容となっている。
以下では、本書について考察を交えながら紹介していく。
『阿呆船』は全112篇の詩からなり、その1篇ごとにそれぞれ異なる習慣・性癖などをもつ人物が描かれている。
ここでいう「習慣・性癖など」とは、具体的にどのようなものを指すのか。それは最初の1篇を例として見るとわかりやすい。
「一 無用の書物のこと」
「……書物はわたしの生きがいで、
宝の山と積んである。
中味はまったく分らぬが、
蠅一匹にもふれさせず、
あがめまつってありまする。
話題の学芸百般は
ほとんどわが家に積んであり、
書物の山を見ていれば、
それで満足文句なし。……」
ゼバスティアン・ブラント,尾崎盛景訳『阿呆船 上』(現代思潮新社,2010) p.20
正確な年数は不明であるが、凡そ1445年頃に神聖ローマ帝国(ドイツ)のヨハネス・グーテンベルクが発明したとされる「活版印刷技術」により、当時の西洋では書籍の出版が盛んに行われるようになった。
この出来事は、ルネサンスなどの文化運動にも大きな影響を与えた。
ブラントがこの詩で風刺しているのは、こうして広く流通するようになった書籍を、中身を読むことなく収集に没頭する人の姿であることがわかる。
引用部分の後にも、学ぶ姿勢をもたず、書物を流行ものとして集めるだけの「貴公子」への揶揄が続く。そこには、市民法(ローマ法)と教会法の学位をもつ博士としての、ブラントの学問に対する姿勢が反映されている。
このように、それぞれの詩においてひとつの行為をとりあげ、それを習慣・性癖とする人物を風刺詩にのせて、軽妙かつ痛烈に描いているのが本書である。
前提として、この本で「阿呆」とされる行為及び人物像は、ブラントの保守的な宗教観を判断基準としている。つまり本書には、当時の神聖ローマ帝国における宗教上の不徳を戒め、啓蒙する目的があったと考えられる。
しかし、本書の特徴的なところは、こうした数多の「阿呆」が最終的にはひとつの船に乗りこみ、「阿呆の天国」ナラゴニア(Naragonia)を目指すという寓話としてまとめられている点にある。
その船こそが、表題ともなっている「阿呆船(Das Narrenschiff)」である。
この印象的なビジョンは、当時の西洋文化にも少なからぬ影響を与えた。
たとえば絵画の分野においては、ヒエロニムス・ボッシュ《愚者の船(La Nef des fous)》がその代表例として挙げられる。
本書の終盤では、阿呆船は数多の「阿呆」を乗せて出港する。
しかし、乗りこんだ「阿呆」たちは誰も航海に必要な知識をもっていないため、当然船は遭難することになる。
ブラントはその状況を、ギリシア神話において賢者オデュッセウスが難破した際の状況になぞらえ、次のように歌っている。
「……オデュッセウスがしたように、
風とたたかえぬものならば、
かろがろしくは海に出ず、
たとえ船が沈もうと、
泳ぎ着く術を心得る。
溺れる阿呆は数知れぬ。……
(中略)
……助かる阿呆もいるにはいるが、
賢者はかならず陸に着く。……」
ゼバスティアン・ブラント,尾崎盛景訳『阿呆船 下』(現代思潮新社,2010) p.225
ブラントが『阿呆船』をこのような寓話として描いたのには、いくつかの理由が考えられる。
ひとつは、先述のとおり「宗教上の不徳を戒め、啓蒙する」ためである。
当時の神聖ローマ帝国では、教会の腐敗が蔓延していたとされる。その状況を象徴する出来事が1517年のローマ教会による贖宥状販売であり、これが宗教改革の契機となった。
こうした当時の状況は、『阿呆船』の詩中からも窺い知ることができる。
「九一 聖職者席の無駄話のこと」
「教会内では坊主まで、
阿呆の国へ行くために、
船の準備の下相談、
ひそひそ話が鳴りやまぬ。……
(中略)
……わざわざ教会にやって来て、
ひとの邪魔をするよりも、
年がら年じゅう家にいて、
お喋り縁台引き出して
鵞鳥市でも開くほが、
ずっと功徳でましだろう。……」
ゼバスティアン・ブラント,尾崎盛景訳『阿呆船 下』(現代思潮新社,2010) p.138-139
この詩からは、ブラントがローマ教会の腐敗に対し、批判的な姿勢をとっていたことも読み取れる。
以上の情報を踏まえると、ブラントは本書によって信仰の在り方の改善を試みたのであり、それには広範な読者を必要としていたことがわかる。そのため、「民衆であれ聖職者であれ、"英知と徳" をもつ者だけが無事に陸へと辿り着くことができる」という、わかりやすい寓話として描いたのではないかと考えられる。
また、そのほかの理由として、「船」が「追放」の象徴だったために、このような寓話が描かれたとする説がある。
それを指摘したのは、20世紀の哲学者ミシェル・フーコーである。
ミシェル・フーコーは、著書『狂気の歴史—古典主義時代における—』のなかで、次のように述べている。
「(前略) 倫理的な規範にのっとるか、さまざまの社会層の人物からなるか、空想上の主人公を中心とするか、いずれにせよ一行は船に乗り組んで、象徴的な大航海をおこない、その結果、財宝でなくとも少なくとも彼らの運命や真実の表象を手にいれる、そうした〈船〉にかんする創作が流行する。……(中略)……だが、これらの空想的あるいは嘲笑的な船のうち、阿呆船(ナレンシフ)だけが現に実在した唯一の船である。実際、気違いという船荷をある都市から別の都市へはこんでいた船が実在したのだった。……」
ミシェル・フーコー,田村俶訳『狂気の歴史—古典主義時代における—』(新潮社,1975) p.26
『狂気の歴史』の解釈では、ブラントの描いた『阿呆船』のビジョンは現代における「精神病棟(監獄)」の前進として語られ、「阿呆」が社会から完全に追放されるまでの過渡期に「船」が用いられたとされている。
ブラント自身にそのイメージがあったかどうかは定かでないものの、単に啓蒙するうえで、「船」というモチーフを登場させることは必至ではなかった。
様々な選択肢が想定され得るなかで、「船」に集まっていく「阿呆」たちの姿を描くことに決めたのは、それが「悪しき存在の追放」として身近なものだったためではないかとも推測できる。
以上が、ゼバスティアン・ブラント『阿呆船 (Das Narrenschiff)』についての紹介と考察である。
『阿呆船』が追放の象徴として「船」を描いていると考えると、海という場所を閉鎖的だと解釈することもできるようになる。
このような発想の転換をもたらしてくれ、また同時に中世の世俗の様子を想像させてくれるという点で、現代においても本書を読む価値はあるのではないだろうか。