IMSLP(PDの楽譜): http://imslp.org/wiki/Cello_Concerto,_Op.85_(Elgar,_Edward)
編曲次第、筆者が作成したヴィオラ版のソロ譜をIMSLPにアップする予定です。
YouTube(筆者のオススメ)
Mark Braunstein, viola
Academy of London
Richard Stamp, conductor
London VI.1987
Viola arr. by Lionel Tertis
(2018/5/31)
エドワード・エルガー:チェロ(ヴィオラ)協奏曲ホ短調Op.85
Sir Edward Elgar: Concerto for Violocello(Viola) and Orchestra in E minor, Op.85
イギリス近代音楽について俯瞰してみよう。
「惑星」で著名なホルスト、民族音楽の大家であるヴォーン-ウィリアムズ、多様な作品群の残るブリテンなどが上がるであろう。だが、E.エルガー卿(1857-1934)こそが、他を凌駕して燦然と輝くビッグネームといえるのではないだろうか。
前者3人はエルガーよりも後年の作曲家であり、彼の拓いた道を寄る辺として、それぞれの道を歩んだ。
つまり、パーセル(1659-1695)以来、イギリスでは大作曲家に恵まれず、「これこそがイギリス音楽」と言えるものは、エルガーに至るまで存在しなかったのである。
筆者の思うに、エルガーの音楽性は、「英国紳士」と「寂しさ」という2つの言葉につきる。
エルガーは、プロ級のヴァイオリンの腕を持つ楽器商の父からの影響で、幼少よりヴァイオリンを習いつつ、作曲でも多様な実践経験を得ることができた。
こうしたバックグラウンドがあるにも関わらず、経済的な理由から留学することは叶わなかった。一般教育を受け、弁護士事務所で事務員として働くこととなる。
しかし、島国である故か、彼に多様な楽派が混じることなく「純然なイングランド気質」が染み込むこととなる。
晩年に至るまで、彼の作品にはこの「気質」が感じられる。「コウモリ傘、フロックコートにシルクハット、そしてダンディズムをモットーとし、礼節を重んじる」といったステレオタイプな英国紳士像を彼に当てはめるのは、そう間違っていないだろう。
音楽性で深く考えてみると、さらに「本心の情熱をありのままに表現するのではなく、オブラートに包み、表現するも拘泥せず、相手の口当たりをよくする」ような、サラッとした印象を受ける。
自らの喜びも悲しみも、どこか一歩距離を置いているような語り口である。
その一方で、世界大戦の時代になると、彼の感情表現は振れ幅が大きくなる。天国的な長調の使い方も老熟していくが、何よりも、孤独さや、愛情の希求といった、繊細な「寂しさ」を感じさせる深い短調が多く見られる。
この傾向は後年になるほど如実で、弦楽四重奏曲ホ短調Op.83(1918年)や、ヴァイオリン協奏曲ロ短調Op.61(1910年)などに色濃く現れる。
大戦の影響による名誉の失墜、妻の老衰、そして自身も困難な喉の手術に見舞われた中での、愛妻たるアリスが「森の魔法」と賞した最後の作品群である。
人生の中の喜びや誉れをも束の間のものとしてしまうほどの哀しさが、緩まぬ緊張感の中で流れゆく。
このチェロ協奏曲を有名にする後押しをした天才チェリスト、J.デュ・プレ(1945-1987)は、デビューの"プロムス"から、その短い演奏者生涯に渡ってこのチェロ協奏曲を演奏している。
彼女自身、不安や憂鬱の塊であり、同時に異常なほど奔放で、仲の良かった姉と夫を共有したいとさえ言ったほどの異質さを持つ。天才が故に、彼女のチェロの奥底に流れる哀愁は、エルガーの協奏曲と物の見事にハマったのであろう。
「Jupiter」などのクラシック音楽に歌詞をつけた曲で著名な平原綾香も、「私と言う名の孤独」という楽曲で、この協奏曲の1楽章を採用している。
4/4のジャズ調になっているが、エルガーの言「森が私の曲を歌っている。それとも私が彼らの曲を歌うのか。」が匂やかに表されている懐古ロマンに溢れた曲だ。
歌詞を読むとエルガーのみならず、デュ・プレのことまで思わされてしまうほどに悲壮感と力強さを感じられる。
まさに「森の魔法」とは言い得て妙であろう。
さて、彼がステレオタイプな「英国紳士」であり、栄光を掴んだにも関わらず「孤独を抱えた」という前提を念頭に、このチェロ協奏曲作品85を紐解いていこう。
作曲家として多くの名誉を得た老年のエルガーは、1918〜1919年に病床にあった。妻や自身にも死の影が迫ってきているのひしひしと感じる中、彼はそれでも精力的に作曲を続けていた。
ヴァイオリンソナタ(1918年)、弦楽四重奏曲(同年)、ピアノ五重奏曲(1919年)と老熟の情緒豊かな作品を残す中、最後の名作たるチェロ協奏曲にも取り掛かっている。
やや簡素に時系列でまとめると、
1918/03 病床において1楽章の主題(9/8拍子)の原型を書き留める
[この間、世界大戦などのの影響で未着手]
1918/06 本格的に作曲を再開
1918/08 完成され、楽譜化されている
1919/10 初演
1920/04 妻アリス 死去
アリスと死別した後、一時は作曲意欲を失うものの、病に倒れる1933年まで作曲活動は続けている。だが重きを置かれたのは演奏家としてのレコーディング活動になったようだ。
そして、アリスを失い、自身の根底にあるピースが欠けたかのように、この協奏曲以降、エルガーの代表作となるような曲は生まれることはなかった。
エルガー自身もこの協奏曲に思い入れがあったのか、死の床にある彼は、冒頭のソロの奏でる主題を示し、
「もしモルバーン丘陵にいて、このメロディが聴こえてきたら、心配しなくていい。きっとそれは僕だよ」
と友人に語ったという。
ヴィオラ曲好きの諸兄も知るように、多くのロマン派作曲家が独奏ヴィオラの作品群を残していないのは変わらぬ事実だ。
エルガーとて例外ではなく、彼による独奏ヴィオラの為の作品は残されていない。だがそれでもエルガーの"ヴィオラ"協奏曲と呼ばれうる作品こそ、前述のチェロ協奏曲、そのヴィオラ編曲版である。
これはイギリスの演奏家、「独奏ヴィオラ」ジャンルの開拓者であるL.ターティス(1876-1975)が編曲したことによる。
1929年に編曲し、エルガー翁を訪れたターティスは、本人を前にして"ヴィオラ"協奏曲を演奏し、好評を得たようだ。
特に3楽章の編曲に感銘を受けたようである。楽章全体を通じてオリジナルのチェロの音域で弾けるようにするため、ヴィオラの最低弦をCからB♭に調弦し直すスコルダトゥーラを採用している。
この考案も影響したのか、現在、ノヴェロ社から出版されたターティス版には、
"with the sanction of the composer (作曲者公認)"
の但し書があり、他の編曲モノとは一線を画するヴィオラ曲と言えよう。
ターティス・アレンジは随所に置いて、単純にオクターブを上げることをせず、オリジナルの音域で弾ける所はそのままにする、ヴィオラでは聞こえが悪いところを変更する、重音を追加/削減するなど、独自のアレンジも多い。
従って、実際にヴィオラ編曲版として演奏される際には、このターティス版そのままに演奏するものの他、ターティス版からオリジナルの楽想に近づけた独自のものもある。
以下の曲内容においては、ターティス版ならではの違いにも触れながら、曲そのものについても見ていく。
協奏曲としては珍しい4楽章構成だが、第1・2楽章は続けて演奏する(attacca)ので、実質的には3楽章構成とみなせる。緩-急-緩-急。
全体的に主題の大きい変化は少なく簡素にまとめられている。オーケストラも、金管楽器群が局所的に使われる、ソロの伴奏の楽器数がかなり制限されているなど、同ジャンルにドヴォルザークが残した名曲よりも相当に淡い重ね方であり、独奏がより際立つ構造であると言えよう。
一方で、弦楽器の協奏曲ではあまり多くない、編成に金管楽器が揃っている一般的な2管編成である曲でもある。オーケストラのみの強奏は壮大であり、ソロへの淡い伴奏との対比は美しい。
自由なソナタ形式
Adagio, 4/4, E minor
- Moderato, 9/8
Adagioは循環主題とも言うべき、短い序奏である。「冒頭からクライマックス」などと言いたくなるほどの悲痛さを伴い、ソロはカデンツァを奏で、オーケストラが断片的に応える。
何度も寄せては返す感情の波は激しく、エルガーの内に秘めていた孤独や愛情の希求が壮絶なまでに込められているかのようだ。
ソロのブリッジに導かれ、同音よりヴィオラとチェロによって無伴奏で紡がれるレチタティーヴォは、一転して波紋さえ消えた水面のよう。
ターティスはこのブリッジからレチタティーヴォへの繋がりのため、ブリッジ途中でオクターブ上げをやめる改変を施している。
Tips:レチタティーヴォ
独白、あるいは導入の句。オペラなどで使われた独唱部で、非歌唱的な説明パート。エヴァTV版最終回のシンジくん
このModeratoから、エルガー得意の3/8系拍子が始まる。深く沈んだ、悲劇的な曲調の多いホ短調でありながら、3/8系拍子は一箇所の感慨に耽り続けることを許さずに、音楽を前へと進める。
9/8拍子の中で、レチタティーヴォの主題を何度も語り継ぎ、1回の息の長い山場を超えるとソロと同調したチェロバスによって主題は閉じられる。
ここのソロによる主題も、可能な限りチェロの音域で弾けるよう施されている。
クラリネットとファゴットにより再開される12/8拍子は、しかしホ短調の雰囲気はそのままにより動的になっている。
拍の後半に寄った付点のリズムは、奔流がせき止められ、すぐに放出されるような、エネルギーの溜めを感じさせる。
反してホ長調に転調すると、リズムは拍の前よりになり、一息で進むような滑らかさを含む。また伴奏も高音寄りになり、ソロも巻き込んで緊密に絡み合う様は、悲劇的な雰囲気の中で一際天国的に輝く、エルガーの妙であろう。
だが、楽園のような空気は長続きしない。盛り上がるほど短調に向かい、急激に静まっていく。この協奏曲の特徴でもあるが、ロンドンの霧や、サセックスの森を思わせるような悲壮的な雰囲気が、終始拭い切れずに付きまとうのだ。
この大半は反して高い音域に設定され、技巧的かつ華やかになっている。また、一部重音が追加されている箇所もある。
これを繰り返す都度に3度、ソロはModerato当初のレチタティーヴォに回帰する。
だが以前より劇的なものが随所に含まれており、楽章は最高潮を迎える。
そしてソロはもう一度、レチタティーヴォの主題を語り継ぐ。チェロバスによって最後の音が保持されたまま、スケルツォ楽章へと以降していく。
スケルツォ楽章
Lento, 4/4, E minor
- Allegro molto, 4/4, G major
低音の保持音の上で、ソロは循環主題を再現する。オーケストラは主題に応えるようにハ長調で頂点を迎える。聴衆は第1楽章の延長線上にこれを聴くので、あたかも「ここで1楽章が終わった」と感じてしまうかもしれない。が、4楽章まで通して聴くと分かるように、あくまで楽章の壁を越えた統一理念が循環主題であり、ここでは序奏と呼ぶべきものであろう。
歌曲形式の緩徐楽章
Adagio, 3/8, B-flat major
二部形式のフィナーレ楽章
Allegro, 2/4, E minor
- Moderato
- Allegro ma non troppo
- Adagio come prima, 4/4
- Allegro molto, 2/4