イタリア4日目、ベネチア2日目。朝8時前にホテルを出て、8時20分にサンタルチア駅前からバポレットに乗りドゥカーレ宮殿へ。ドゥカーレ宮殿は9時過ぎから11時前まで内部を見学。中は写真撮影不可だった。
通勤の人多し
日中は12分毎に出発
リアルト市場。リアルト橋北西の市場。この時は工事中。
サン・ルカ宮殿は建築家ミケーレ・サンミケリによってジェローラモ・グリマーニのために16世紀半ばに建てられた。ファサードには、古代ローマの凱旋門を示唆するコリントの柱を持つ。1806年まで愛国者グリマニ家の住居だった。現在はヴェネツィアの控訴裁判所となっている。また、この建物は1900年代初頭にニューヨー五番街でティファニーの建物をデザインした建築家スタンフォード・ホワイト・オブ・マッキム、ミード&ホワイトに影響を与えた
サン・ルカ宮殿の東隣にある。建物は15世紀半ばに遡る。1310年に所有者がヴェネツィア共和国に対する陰謀に参加したため、国家の裏切り者のための建物として有名になった。1521年にコンタリーニ家に所有権が移転し、1830年にモチェニゴ家に売却された。現在は法務省の事務所になっている。
13の窓の宮殿とも呼ばれるパラッツォ・モロ・リンはバロック様式の宮殿。1670年にセバスティアーノ・マッツォーニのデザインにより、画家ピエトロ・リベリのため作られた。宮殿の内部には、アントニオ・ベルッチ、アントニオ・モリナリ、グレゴリオ・ラザリーニのフレスコ画がある。宮殿はすぐにリン家によって購入され、1788年にミケーレ・アンツォロ・リンが亡くなり、姪のエリザベッタ(サン・トロヴァソのガスパロ・モロの妻)によって受け継がれ、その後モロリンと呼ばれた。1942年にミラノの俳優・監督のエンリコ・ゲッツィが購入。
奥はマリピエロ宮。10 世紀から 11 世紀にかけて建てられた豪華な宮殿。美術展が開かれ、庭園の景観も美しい。
サン・サミュエレ教会。ボルドゥとソランツォによって1000年に建てられた。12世紀初めに2つの火災によって破壊され、その後再建された。1685年に再びほぼ完全に再建された。
最初は鉄製の橋として1854年11月20日に開通。老朽化により、石造りの橋を建築するコンクールが宣言されたが実現されず、橋は技師エウジェニオ・ミオッツィ(Eugenio Miozzi, 1889年-1979年)により木製の橋として建設され、1933年1月15日に開通。リアルト橋、スカルツィ橋(これもミオッツィ) および2008年開通したコスティトゥツィオーネ橋とともに、カナル・グランデにかかる4つの橋の1つ。
奥がアカデミア美術館
コルネル宮。クレモナ出身の古代都市の家族の子孫であるティサナ伯爵バルトロメオ・マロンブラ(キプロスの女王の兄弟)のために建てられた。その後、オーストリア帝国の大使館でもあった。建物中などはこちら。
一般の家と思われる
右はThe Gritti Palace。コルネル宮から東に50mくらい
赤い幕の文字。ビエンナーレ(biennale)はイタリア語で「2年に一度」の意でヴェネツィア・ビエンナーレはその語源となり世界中から美術作家を招待。2011年は54回目。
総督邸兼政庁であった建造物。ドージェ(総督)の公邸であった。サン・マルコ大聖堂に隣接した敷地に建ち、住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所という複合機能をもっていたヴェネツィア大司教の司教座教会となったのは、ヴェネツィア共和国滅亡後の1807年。8世紀に創建され、12世紀まで宮殿として使われていた。写真の2つ柱は4つあるアクリタンの柱(I pilastri acritani)の2つ。13世紀に東の戦争でヴェネツィア共和国の勝利の記念碑。
1340年、ピエトロ・バセッジオ(1354頃没)とフィリッポ・カレンダリオ(1315〜55)の設計の下で海に面した南側壁面から始められ、1424年からは狭い広場に面した西側の壁面へと継続。
1536年以降には投票の間の特徴的なバルコニーが西側の柱廊の上に追加された。この柱廊は1574年と1577年の火災後および19世紀の火災後に修復されている。また、宮殿は運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれている。外観はゴシック風のアーチが連続し、イスラム建築の影響も見られる細やかな装飾が施されている。
ロッジャ・フォスカラとも呼ばれ、ヴェローナの赤い大理石で作られた2つの列がある。
1531-1538年に作られた
アックア・アルタ(高潮による浸水)用の渡り板。1966年に194cm。このイタリア行の翌年に143cmを記録
9時だが人がいない
鐘楼高さ96.8m。888-1514年の間に建てられ灯台の役目もしていた。1902/7/4に突然倒れ、1912に再現された
ドゥカーレ宮殿とサンマルコ寺院の間にあるこの「紙の門」は1438年から1443年にかけて、ヴェネツィアの彫刻家で建築家のジョバン・ボン(1355~1443)とその息子ボルトロメオ(1400年頃~64)より作られた。この名前は、セレニシマの法律や法令を掲載するために使用された事実に由来。
バルトロメオ・ボノによる「ソロモンの裁き」。2人の遊女が相前後し男児を産んだ。ところが一方の母親は子供にかぶさって寝てしまい男児を死なせた。それで他方の男児を自分の子だと言い始め争いとなった。ソロモン王は「剣で男児を2つに裂いて、半分ずつ2人の女にわたしてやれ」という。一方の女は、ぜひとも半分ずつにしてほしい、という。他方の女は、それならば生きたまま相手の女にわたしてやってほしい、という。そこで、ソロモンは判定を下す。「この子を殺してはならない。生かしたまま他方の女に与えよ。その女がこの子の母である」
15世紀後半には、アレッサンドロ・レオパルディにより青銅の門が予定されたが、実現せず。1797年の混乱で原作が破壊され、1885年から再建。
左の写真の中ほど左右にある
各柱に異なるモチーフの彫刻がある
門の左ドジェ・フォスカリ。要塞、慎重、希望、慈善の4つの彫像、
門の左右の像は要塞、慎重、希望、慈善の4つの彫像の2つ。この門は柱にイストリア大理石、彫像にカララ大理石、窓の縁石と柱にヴェローナの赤の大理石、アクセントに緑の大理石を使用している
西のサンマルコ広場に面したファサード
中庭の北側面はサン・マルコ聖堂の外壁と接し、ヴェネツィア共和国時代のサン・マルコ聖堂は「ドージェの礼拝堂」でヴェネツィア大司教の司教座教会(ドゥオーモ)ではなかった。
A - カフェテリア
B - ワードローブ
C - 刑務所(ウェルズ)
D - トイレット
E - 上院議員の中庭
F - 巨人の階段
G - 中央の中庭
H - 入り口(小麦のドア)
I - アルコ・フォスカリ
JからOへ - オペラ・ムセオ・デッラペロ
P - 紙の門(Porta della Carta)
A - デュカル首相官邸のホール
B - サラ・デッラ・ミリジア・ダ・マール
C - ドージの雄牛の部屋
D - サラ・デッロ・スリグノ
E - ゴールデンスケール
F - アボガドリア
G - 公証人のホール
H - 検閲室。
私 - 検閲のスケール
J - 上院議員の中庭
K - 巨人の階段
L - コートヤード
M - フォスカリアーケード
N - ロッジア・フォスカリ
四方から雨水を集積・濾過するブロンズ製の貯水槽がある。
中庭の北東方向。
後で作られた。左が軍神マルス像、右が海神ネプチューン像。ベネチアが海と陸を制したことを示す。
左が軍神マルス像、右が海神ネプチューン像
10時から11時半まで見学
黄金の階段。内部は2015まで撮影禁止だった。南に位置する裁判所から、北に位置するドージの個人の住居を分離するために建てられた。1556年から1567年の間にヤコポ・サンソヴィーノによって設計され、1559年にスカルパニーノにより完成した。、
A -総督の私室
B -哲学者のホール
C -地図のホール
D -漆喰の間
E -エリッツォルーム(総督の私室)
F -グリマニルーム(総督の私室)
G - テラス
H -サラ・デッリ・スカルラッティ(評議員控えの間)
I -黄金階段
J -四十人の裁判官なる法廷(右部屋から溜息の橋につながる)
K - 検閲官の階段
L -旧市民四十人の裁判の間
M - アンディト・デル・マッジョール・コンシリオ(大評議会の間の通路)
[ティントレット 天国。世界で一番大きい油絵]
N -軍隊の間
O -大評議会のホール[ヴェロネーゼ、ヴェネチアの勝利]
P -サラ・デッロ・リ精査のアンディト
Q -新市民四十人の裁判官の間
R -サラ・デッロ・リ精査(総督の投票の間)
A - シークレットアーカイブ
B -アンティキセセッタ(教会控えの間)
C - Chiesetta(教会。聖具室)
D -元老院の間
E -謁見の間[ヴェロネーゼ、レパント海戦の勝利を感謝するヴェニエル総督]
F -謁見控えの間
G -四つの扉の間[ティッチアーノ、祈りを捧げるグリマー二総督]
H - 連絡通路
I -スクエアアトリウム
J -黄金階段
K - 十人委員会の間[ヴェロネーゼ、老いと若さ]
L -羅針盤の間
M - 三人の長と十人評議の間
N - 検閲スケール
O - 三人の長の間
P -武器の間