サイコロ状の分子 cubane が初めて合成され,アメリカ化学会誌(1964年)に発表されて50年が経過した.同じ巻に cubane の結晶構造が報告されている.また,同巻にはフグ毒の成分であるテトロドトキシンの構造が報告されている.翌年(1965年)には Woodward-Hoffmann 則が発表された.同年には結晶解析構造を異方性熱振動楕円体で描画する ORTEPと略称される FORTRAN 言語によるプログラムが公開された.両年は,化学という学問分野において大きな曲がり角の時期であったといっても過言ではない.
以後,結晶構造を論文に掲載するには ORTEP 図が求められるようになった.
私は1970年前半に単結晶X線解析を始めたが,解析プログラムは旧制大学に設置された大型計算機センターのライブラリーを使用した.日本結晶学会が中心になり開発した「結晶構造解析ユニバーサルプログラムシステムーUNICS システム」と直接法による位相決定プログラム (MULTAN) である.
その後,旧制大学に後れること10年以上が経った1985年頃になると,地方大学でも計算機センターが設置されるようになり,結晶解析の機運が高まった.熊本大学薬学部にX線回析計が設置されたのは1986年であった.予算の関係上解析プログラムは購入できないので,九大計算機センターから熊大計算機センターにUNICSシステムを移植した.テストデータを使い最終的にORTEP描画を行った際の画像が上の図である.ORTEPのマニュアルの最終ページにも同じ図が掲載されている.
有史以来熊本県内で初めて結晶解析を行った化合物 (A) の ORTEP 図を以下に示す.1,3-双極子 がマレイミド に対して「エンド則」に反してエキソ付加体 を与え,次いで エンド付加体 へ 1,5-転位したものであることを結晶解析で証明できた.
その頃になるとX-Yプロッターで機械的に分子図を描かせる方式ではなく,そのイメージをレーザープリンタに出力するようになっていた.その後,解析プログラムシステムをワークステーションに移植し,計算機センターの汎用計算機を使用する必要はなくなり,21世紀になるとグレイドの高い16ビットパソコンでも実行できるようになった.定年後,平成17(2005)年に私大へ再就職した時,設置されたX線解析システムには,解析プログラムは最初から付属していた.
ORTEP が公開されて50年が経ち,ORTEPプログラムの提供元である Oak Ridge National Laboratory にアクセスしてみたが,関連のページはすでに閉鎖されていた.代わりに,有用な結晶解析プログラムを収集し,アカデミックユーザーに無償提供している CCP14 (Collaborative Computational Project No. 14) というサイトにパソコン版が置かれている.半世紀の間に,大型計算機センターの汎用計算機で実行していた仕事を家庭用パソコンで実行できるまでに科学技術は進歩したことを如実に物語っている.
結晶学を専門としていない者が結晶解析が実施できるようになったのは,四軸回折計の開発と計算機の高速化,小型化によるところが大きいが,解析ソフトを無償で公開された開発研究者,さらにそのようなソフトを世界中から収集し,各計算機センターのシステムに移植し,周辺入出力装置に適合するように書き直し,コンパイル(機械語に翻訳)してアプリケーションライブラリに登録し,バージョンアップ等の保守を担当された研究者が居ることを指摘しておきたい.私は論文を投稿する際に,利用したプログラムについては,引用論文あるいは謝辞に記載したが,最近はハードウエアとソフトウエアが一体化しているため先人の存在を意識することはないようである.しかし商用ソフトは過去の知的ソフト資産の恩恵に浴していることは否定できない.
資料
The Structure of Tetrodotoxin, R. B. WoodwardJ. Zanos. Gougoutas, J. Am. Chem. Soc., 1964, 86 (22), pp 5030–5030. Woodward, R. B. (1964). “The structure of tetrodotoxin”. Pure Appl. Chem. 9 (1): 49-74.
Johnson Carroll K, 1965. "OR TEP: A FORTRAN Thermal-Ellipsoid Plot Program for Crystal Structure Illustrations". ONRL Report #3794. Oak Ridge, Ten., Oak Ridge National Laboratory.
結晶構造解析ユニバーサルプログラムシステムー5-UNICS 3システム 著者 桜井 敏雄 著者 小林 公子 出版年 1979-05. 注)理化学研究所スタッフ
The CCP14 (Collaborative Computational Project No. 14) in Powder and Small Molecule Single Crystal Diffraction was initiated in 1994 to collect the best and most commonly used programs. The software located on the CCP14 site is freely available to academic users. http://www.ccp14.ac.uk/about.htm
化合物 (IV) の生成経路
1,3-双極子 (I) がマレイミド (II) に対して「エンド則」に反してエキソ付加体 (III) を与え,次いで エンド付加体 (IV) へ 1,5-転位したものであることを結晶解析で確認できた.
(熊本地震前に執筆した原稿に加筆したものです)