旭暉 鏑木 雪路
大崎が拗ねるおはなし。年下彼氏をしている大崎とそれに負けている青海がいます。
旭暉 鏑木 雪路
大崎が拗ねるおはなし。年下彼氏をしている大崎とそれに負けている青海がいます。
こどもたちの声が聞こえる。高調子な音がいくつも重なり合って、朝の空気を押し広げるようだった。扉の向こうに普段と変わらぬ光景があることは想像に容易い。
青海は革靴に足を挿し入れ、かかとを踏み込んだ。靴の感触を確かめながら土間を進む。
引き戸に指をかければキンと切れるような冷たさが伝わった。戸口から差し込む光が廊下に細長く伸びる。日差しの心地よさは、今日一日の過ごしやすさを如実に伝えてきた。
傘へ手を伸ばした青海の背後で床板が軋む。
青海が振り返るより早く、その身を抱きしめる腕があった。ふわり、と。嗅ぎ慣れた香りに包まれる。
「おはようございます。緋色さん」
「おはようございます」
大崎は青海の挨拶に応えたきり押し黙った。言葉を探しているようだ。
青海は大崎の言葉を待った。
やがて、大崎は唸るように喉を鳴らして息を吐く。そうして言葉をこぼした。
「起こしてくださらないんですか」
「休息を優先しました。あなたの。お疲れのようでしたから」
「それは……ありがとうございます。ですが、自分は青海さんを見送り損ねるところでした」
「構いません。私は」
「自分が嫌なんです」
青海は自分の肩に重みを感じた。人ひとり分の頭の重さだ。青海の耳を、そして頬を、柔らかな頭髪がくすぐった。
ちらりと横目に伺い見れば、寝乱れた黒髪があちらこちらに跳ねたままとなっている。大崎は青海が支度をしている間、ぐっすりと眠っていた。ようやく起き出した大崎は身支度をする間も惜しんで青海の後を追ったらしい。
「青海さん、次からは起こしてください」
大崎の瞳が青海をジッと見上げる。どうやら拗ねているらしい。
以前に比べればずいぶん素直になったものだ。大崎の様子を見て青海は思う。そこには警戒心の強い野生動物が懐いたときのような感慨があった。
そもそも大崎が日頃からなにかと自律しようとしているのは青海も知るところである。大崎の考えの根底にあるものを青海が理解できるはずもない。しかし少なくともヒトとして良くあろうとしているのだろうということは推測できる。そして大崎の思う「良くある」には「青海に釣り合う自分でいる」という物差しが含まれていることもまた。そんな大崎のほかでもない青海に寄りかかるような仕草は格別に可愛らしく感じられるのだ。
ところが。青海のそんな思いをよそに大崎の半眼が意味を変えた。青海の表情が意味するところをどう受け取ったのか、本格的にヘソを曲げたようである。
「緋色さん──」
青海の呼びかけは着地点を失い霧散した。
代わりに慣れ親しんだ皮膚の感触が青海の手のひらを撫でる。その体温は普段よりもいくらか高く感じられた。起き抜けだからだろうか。
青海が物思いに耽るうち、大崎の手は青海の指先を包み込んだ。青海の指先を握った手は、次第に爪の先をなぞり。指の腹を撫で。その間を割って水かきに至る。大崎は青海の厭う水かきを引っ掻くように遊んだ。
それはこどもの手遊びのようだった。
しかし一方で恋人同士の睦事のようでもある。
大崎のもう一方の手が青海の腹を撫でた。これは大崎の癖だ。無論、閨での。
そう思えばいよいよ腹の据わりが悪くなる。元来、色事への関心が薄い青海だ。多少弄んだところで障りなどないと思われているのやもしれぬ。
実際そうではあるが。とはいえ時と場合というものはある。
睦事のような手遊びに、いまだ色濃い昨晩の記憶。となればいくら清廉潔白を辞書から抜き出してきたような人物たる青海とて、思うところはあるのだ。しかもここは玄関先。薄くだが戸も開いている。
だれかに見られれば、という懸念が頭を過ぎるには十分だった。
青海に露出の趣味はない。教師という立場もある。この行いが白日の下に晒された先、どのように受け取られるかという恐怖がないと言えば嘘になるだろう。
けれどそれでも大崎を止めるには至らなかった。
曇りガラスが自分たちのことを隠してくれているためである。
そうしているうちに大崎の唇が青海の指先に触れた。それは一瞬の出来事だった。感触を反芻するにも至らないほどかすかな触れ合いだ。
唇が離れてなお、大崎は青海の指を握ったままで動かない。
外で足音がした。こどもたちが家の前を通り過ぎてゆく。砂利を踏む音がいくつも重なった。だれかの笑い声が聞こえてくる。
青海は呼吸をひそめた。息を殺す。何事もなく時が経つのを待った。
それを感じ取ったのだろうか。大崎の指先がわずかに力む。
「っ……、」
もう一度、口づけが落ちた。今度はうなじだ。大崎は今回もやはり、長くは触れなかった。包帯の上から圧されたと分かるだけの接吻は、いっそもどかしいほどだ。
青海の瞳が革靴の爪先を捉える。
大崎が息だけで笑った。
そしてようやく指が少しずつ離れていく。最初は小指。次に薬指。名残りを残すかのように最後まで残ったのは人差し指だった。
大崎はこれを離す前にもう一度だけ軽く握る。
「覚えていてください」
大崎はなにを、とは言わなかった。
青海は黙り、眼鏡を押し上げる。もはや馴染んだ動揺の仕草だった。
大崎は腹に回していた手も解き、いよいよ青海を解放する。
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
大崎は、すっかり機嫌が直ったのだと伺える声音だった。
「……行ってきます」
青海は向き直ることなく玄関を開けて外へ出た。上機嫌の大崎を置いて迷いなく。
その青海の首がほんのりと色づいていたことを知るのは大崎ばかりであった。
鏑木 雪路(X:@as16_htyk)(スペース:花‐お6)
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