ひめごと mmnik
市井には明かさない仲、夫婦のように互いを想う二人の話です。
ひめごと mmnik
市井には明かさない仲、夫婦のように互いを想う二人の話です。
三原山までの道のりは少しずつ坂の多いものになって、舗装の有無を問わず歩きづらさが出てくる。あたりはいっとう緑の気配が強くなり、初夏を目前に控えて隆盛を迎える植物の様々が晴天の中に鮮やかな明暗を付けていた。木陰は暗がりで色を落として密やかなものであり、日の照るところを歩けばしっとりと肌が汗ばんで来る。その印象に、自分は青海さんと再会を果たした八月の笠間を思い起こしていた。参道を降りてくる彼に対して、自分は強く思いを揺すぶられたものである。あれから歳月は飛ぶように過ぎ去り、多少は彼と心を通わせることができるようになった。自分には、そのように思われていた。
季節は五月晴れの時分。過日すれ違うようにして出会った自分たちは、同じ方向に視線をやって、同様に勾配を登っている。
今日の青海さんは普段使いの黒い傘を持ち合わせていなかった。山道を歩くこともあり、両手を開ける選択を取ったようである。歩きやすさ、という観点から見れば、彼の衣装もまたあの日と異なるものだった。笠間で邂逅した際、着の身着のままといった様子で和装を纏っていた青海さんは今日、洋装を身に着けている。柔らかい色をしたシャツと、恐らく着潰せるのだろうスラックス。大江島で良く見たスーツよりも安価だろうそれを上品に着こなした彼は、自分の隣を平然と歩いている。坂が険しくなってもなお息を切らせない様子からは、元々体力のある人なんだろうということが伺えるようだった。
互いの間を行き交う会話は多くない。これは今も嘗ても変わらないものだった。自分は必要以上に口を開くきらいを持ち合わせていないので、この状況に辟易とすることはない。むしろ、心地よいとまで感じられるものだった。青海さんも似た気質を備え持っているので、気まずさのような印象は覚えていないのではないか、と考える。
しかし、自分たちがあまりにも黙々と歩くものだから、他人から見た時どのように見えているのかは見当もつかないものだった。目的地があるように見えることもあるのだろうか。山道を歩いているのだから、頂上を目指すように見えるんだろうか。実際のところ、この道程に目的はない。あまりにも良い天気だったから、散歩を申し出ただけだ。山頂に辿り着くよりも以前に折り返したっていい曖昧な中を、自分たちは歩いていた。
そのような思索を巡らせていると、青海さんがすっと前に進み出た。並んで歩いていた自分は数歩遅れることになり、あえて茫洋とさせていた視界の焦点を結びなおすことになる。
「どうされましたか」
青海さんは前方に寄っていく。彼が膝を突いてみる先には、一人の老婆の姿があった。山道に近づいた道中で見るには、確かに不安を煽られる。老婆は木陰で休憩をしているようにも、そこで根を張ってしまったようにも見えた。自分もそちらへ寄っていくと、老婆が青海さんの問いかけに応えていく。彼女は青海さんを見るなり、「ああ、先生」と高揚したような声を上げた。離島の一人職である彼は、学舎に依らずとも大島の人々からよく買われているらしい。それが伺える振る舞いだった。
「疲れちゃってねえ……」
聞くところによれば、山間のあたりに身内の墓があるのだと語る。掃除をしやらねばと腰を上げたはいいが、来る歳月が生みだす加齢に押し負けて、急勾配に耐えられずに座り込んでしまったとのことだった。若い自分たちであっても、多少の労を負う必要のある道程だ。見る限り、腰を折った彼女の齢は七十を越えているように思われる。であればなおさら、この先に向かうのは難しいのではないか……自分は昔日の祖母を思い返しながら、そのようなことを考えた。
青海さんは「同行します。手伝いましょう」と端的に老婆に伝える。自分に確認は来なかったが、此方も同じ意志があったので彼の言葉には頷き、老婆の視線に合わせて態勢を低くした。老婆は、悪いんじゃないのだとか、帰るからそれで十分だとか、そのようなことを宣った。青海さんは丁寧に言葉を受け取ったが、行きましょうと老婆に進言してみせる。
「今、向かうべきです。……後悔しません、その方が」
青海さんは静かな声音でそれを語った。自分は青海さんのこれまでを適切に認識していたから、その言葉の重みを理解することが出来る。しかし、水面に小さな漣を生じさせるような声からは、彼の事情を知らずとも深い意味を伴っていると察することが出来るようにさえ思われた。老婆にも、これが伝わったのだろう。多少の間隙の後に、彼女は「いいのお」と頬に手をやった。そこで、青海さんがこちらに視線を及ばせる。自分の意志を改めて把握せんとするそれに、自分は二人に応えるような形で首肯する。
「青海さん。夫人の荷物をお願いしていいですか」
「構いません。ですが」
「背負うのは自分がやります」
青海さんは、自分の方を見、すっと通った柳眉を顰めながら眼鏡を押し上げた。彼から提案したものだったので、青海さん自身が負担の軽い方へ回されようとしていることに、不満を覚えているのかもしれない。自分は青海さんの非力でないことを知っていて、それを懸案して行動したわけではない。ただ、彼が負う荷は共に持ちたいと考えていたわけで、それが不平等であってよいと感じていたためだった。彼が自身に課す荷が重いから、それを肩代わりできることを願っている。こればかりは、旧来から変わらない自身の本懐だ。
自分が譲らない姿勢を見せると、青海さんは一つ嘆息するように息を吐く。平素から表情のよく変わる印象のない彼だったが、長く彼を眼差している細かな変化から機微を読み取ることが出来た。随分明らかなことでこそあったが、青海さんは表出することが少ないだけで、情緒豊かな人だ。それを汲みながら、自分は老婆に背を向けてしゃがみこむ。老婆は「ありがとうねえ」と丸っこい声で笑った後、自分の背に収まってくれた。人一人分の質量であると鑑みると、どうも軽く感じられてしまう。ただ肉体が衰え運動量が減り、必要な栄養も多くなくなっていくためのことだ。ただ、生きとし生けるものの全てが相対している生物の仕組みでしかないのだろう。それでも、世界に存在する質量が軽くなっていくその現象に対して、死に支度を整えているようだとさえ思われることがある。老婆の小さく細い身体によって、自分はその印象を強くすることとなった。
上り坂を三人、四本の足で歩き始める。自分は二人分の重みを伴って歩くが、強い違和感は覚えないものだった。この程度(というと、老婆に失礼なのかもしれないが)であれば、問題のない範囲だ。
「爺さんより逞しいわあ」
老婆は自分の胸中などいざ知らず、そのようなことを宣ってくる。彼女同様に老齢だろう「爺さん」と比較しても良い基準にはならないだろうと捉えつつも、この場に正論が必要だということはない。彼女の賛辞は単純に受け取って良いものだろう。「力仕事は出来る方です」と自分が語れば、彼女は「爺さんがいりゃあね、」と朗らかに笑って見せる。
「墓もすーぐ、行けたんだけどねえ」
「……」
旧懐するように、口ずさむように老婆は語った。── 返答に惑う言葉だった。実際、この場に彼女の語る「爺さん」の姿はない。きっと、既に葉の下に隠れているんだろう。そう思われれば、自分の応答は宙ぶらりんになっていた。確認のために聞くべきなんだろうか。冗談(自分はこれが得意でないのだが)を返すべきか、聞き逃したように振舞うべきか。窮した後、自分は重たい唇を押し上げる。
「旦那さんですか── 」
「教えていただけますか、道」
自分の言葉が閉じ切るかどうかというところで、青海さんが老婆にそう投げかけた。ややともすれば、遮られたような形だ。自分は何か、失言をしただろうか。そのように捉える自分をよそに、背負われた老婆は青海さんの質問に応えている。ふふ、と耳のほど近くで零れる笑い声からは、何かを察することは難しい。表情を窺うことができれば話は違ったかもしれないが、生憎と彼女の顔かんばせは自分の死角に位置している。こればかりはどうにもなるまい、と自分は彼らの会話を聞くに専念することとした。
老婆の目的地たる墓は、三原山の登山道に入る直前の林間に佇んでいた。自然の中に備わった人工物の直線的な稜線は異質なものであったが、草葉が良く生い茂っているのでその線を柔らかく抜き取っている。近辺にも雑草が生い茂っている様子からは、あまり足を運べていなかったのだろうことが伺い知れるようだった。草むしりも此方で負うべきかと思っていれば、やはり同じことを考えるのか、青海さんが自然と墓の手入れを始める。自分もそれに交じり、手つきの怪しい老婆の手伝いをすることとなった。
小さな墓の御影石を磨いてやり、悪さをしていた雑草たちを取り除く。暫くは辛抱できるだろうというところまで整えると、老婆は礼を自分達に山ほど渡しながら墓標の正面に腰を落ち着かせた。
彼女が手を合わせる。瞑目して、深く想起を及ばせるように、長くそうしていた。風が白髪混じりの髪を撫でていき、ざあーっと葉の擦れる音が遠くに聞こえる。どこか神聖にも見える時間を、先に目を開けた自分は見届けていた。
老婆がヨイショと立ち上がる。青海さんが手を貸したそれに、「ありがとうねえ、先生」と彼女は笑っていた。
「お散歩のところ悪かったねえ、そちらはお友達?」
「はい」
青海さんはすとんと包丁を落とすような単調さで頷いた。あまりにも言葉以上の意味が乗らない声音であったために、一度聞き逃しかけるような始末だ。取りこぼしかけた言葉を拾いあげると、何とも言えない感情が込み上げてくる。
── 友人。そのように捉えられていること自体、恐れ多いことのように思われるほどだ。自分たちの出会いは決して穏やかなものではなかった。一度加害行動を働いた自分に対してそのような印象を抱かれているのであれば、少々の不安が残れども彼との関係が推移していった証左ととって良いのだろうと思われる(青海さんは自愛を不得手にしていると見受けられることがある。これは自分に対しても言えることだが、自分自身を丁重に扱うということは存外難しいものだ。だから、彼が自分を友人として扱う点において一抹の不安が残るのは否定できない懸念として存在していた。自分が彼を脅かした事実を彼が軽視している可能性があるためだ。これは長らくの付き合いで解消されつつあるものでこそあったが、それでも忘れてはならない自戒であると自分は理解している)。
ただ、自分たちの間に横たわる関係が「友人」という枠に収まるものであるかと問われれば、そうではないはずだ。様々な因果が絡みついているものでこそあれど、青海さんと自分は深い情の通った人間であると言っても過言ではない。……恐らくは。仮に、彼の中でこの関係が「友人」で留まっているのなら、それはそれで問題があるように思われていた──
いや。人前を憚ってこの言葉を選んだだけかもしれない。青海さんの職業を思えば、同性同士で互いを深く愛しているという点は、引け目のようなものとも言えるだろう。ただでさえ離島という閉鎖環境を生活区としているのだ。根も葉もない噂でも簡単に流布されるこの場所で、波風を立てることは控えるべきだ。況してや自分たちの関係は根拠のないものではなく、事実そのようなものに近いのだから、一層慎重になるべきものだろう。
悪い方向に引き摺られそうになる心を気を取り直そうとしてみるも、一度猜疑心に駆られた心情は中々好転するものではない。晴れ間に雲が差すような影が、自分の心裡を支配するようになって、自分は老婆と思い人の会話を半ば聞き逃すようになっていた。
+
「大崎さん」
老婆を家に送り届けた後、青海さんが自分に対して声をかけてきた。やはり感情の類推の難しい、静かな声音だ。自分はそれによって、深く淀んだ思索を彷徨っていた意識を引き上げられることになる。
青海さんは真っすぐ此方を見据えている。心裡さえ見抜かれているような心地に気まずさを覚えながらも、自分は「はい」と呼びかけに答えた。そのつもりだったのだが。
「……自分は友人になれていますか」
口を突いた言葉が全く違うものになったことに気づくと、自分は失言に口を抑えた。
この人と、もっと深い仲でありたい。少なくとも、自分はそのように捉えているのだ。彼からもそう思われていたい。直接的な表現ではないにせよ、それが滲むような言葉を彼に伝えてしまった。青海さんは聡い人だ。一つの発言から何を汲み取られたっておかしくないものだった。背筋は水を差されたように冷たくなって、口内が知らず乾いていく。
実際、彼は此方の言葉の意図を汲まんとするように目を細めていた。お互い立ち止まって話をしていたので、彼は空間に馴染むように静物となっていた。時折心地よく吹く風が彼の癖毛を木々の葉ごと揺らしていくばかりが、風景の変化となっている。静かだ。それでも、肋骨を叩く心臓の音は煩く自分を追い詰めていく。断罪される囚人のように、彼の言葉を待っている── すると、青海さんは「いえ」と小さく首を横に振った。
「人の手前、あのように表現しましたが。友人と思ったことはありません」
思わず気落ちしそうになっていた。人前を気にしてぼかした表現をした、という推測自体は間違っていなかった。しかし、彼が捉えていた方角が真逆を向いているようである。友人と思ったことがない、とは。自分は彼の友人にさえなれていないということだった。胸が痛む、というのは比喩表現だ。しかし実際、互いにあった認識の違いを理解させられると、多少の傷心が自分の元に訪れる。
それだけ、自分は恋をしているということだ。青海さんという人に、自分は心を寄せている。自分本位に、彼を愛していた。因果応報と言われてしまえば、それまでということだろう。
しかし──
「夫婦のようなものだと捉えています。並走者のようなものです。……人生の」
続く青海さんの言葉は晴天の霹靂のように、自分を貫いていった。まさに落雷といった衝撃が、自分の脳を焼くようである。
青海さんもまた、自分と同様に口数の多い為人をしていない。そんな彼だから、実のところ彼自身から真向とした言葉で愛を言祝がれたことがないというのが実態で、それが自分たちの関係をいっとう曖昧なものにさせていたのだ。それでも、態度から汲み取れる心裡には正しく思慕のようなものを垣間見ることが出来たので、自分が深く悩むということは無いものだった。
言葉では、愛していると伝えるのは自分ばかり。彼が先に自分に対して告げた言葉も、直接的な表現ではない。
それでも、「夫婦」という言葉を彼が選んだ。「人生の並走者」なんて、大仰な言葉さえそれに付随して彼の口から語られたのだ。重量のある物体が勢いよく自分を直撃するような威力を持って、その言葉は自分を突き刺した。寸でのところで無事である、と言えるような始末だ。
「……ありがとうございます」
緘黙やら吃りが混じりそうになるのを堪えて、重い唇を押し上げ、彼に礼を述べる。青海さんは、こともあろうかそれを見、微笑んだ。ふ、と息を零すような笑みは平素の笑い方でこそあるが、彼が笑うこと自体が珍しかったので、自分の心は異様なまでに揺れ動く。くらくらと酩酊に襲われそうな中、青海さんは口を開いた。
「落胆するかもしれません、私も。同じように」
同じように。自分の落胆と傷心を、青海さんが見留めていることが明らかな言葉選びに、自分は平静を脅かされていた。元々感情の変動が乏しい自分であったはずなのに、彼の一挙手一投足に、見事に振り回されている。彼に勝ろうと考えているわけではなかったが、自分が先に思いを寄せていただろう(いや。本当にそうか? 自分は笠間で彼から言われた言葉を反芻する。しかし、彼が自分の正直を見抜いたことと、彼自身が自分に思いを寄せていたのかという点は全く別の問題であったので、自分はそこで思索をやめにした。いずれにせよ、自分が置き去りになって育まれる愛であることには変わらない)ことを考えれば、自分が彼に対して優位を誇れないのは想像に易いことである。
「あなたがそうで良かった。嬉しいです、心根を聞けるのは」
しみじみ感じ入るように青海さんは呟いて、もっと貪欲で構いません、なんて宣った。
もっと、貪欲で構わない。
……とんでもないことを言う、と思わずにはいられないものだった。
自分は必死になって自制しているばかりで、無欲な人間ではない自覚がある。荒れ狂うような感情を表出させてしまえばきっと人間としての稜線を失ってしまうから、それを必死に押し留めているだけというものだった。人の世に紛れるには常人よりも苦労させられる、そんな人間が自分だった。
そんな自分を、青海さんは受け入れようとしてくださっている。それが明瞭とすると、どこか漠然と捉えていた自分の稜線がはっきりとしてくる。その内で確かに、自身の欲の芽が顔を覗かせていた。
「呼んでくれませんか、名前……」
「緋色さん」
半ば必死になって口にした願望を、青海さんはさらりと取り上げて静かに笑っていた。頬が上気したように見えるのは、この陽光の明るさによって身体が熱を帯びているから。自分もきっと同様に、赤らんだ顔をしているに違いない。そう思われるから、この日差しのせいにしていたかった。
「楓さん」
響きの美しく、この時分ではまだ緑色をしているだろう植物に由来する彼の名前を呼んでみる。その名を嫌って苗字で呼ぶよう過日求めた青海さんは、少しだけ躊躇いを残しながら「はい」と返事を寄越してくださった。それだけで、自分の欲は霧が晴れるようにとんと満たされていくものだった。
この関係が、沙汰にならずともきっと構わないのだろう。自分が彼に傾ける感情が、意図を図りあぐねることなく彼に伝わっていること。それでも十分なところに、彼がそれに似た慕情を返してくれているのだ。
果報者が過ぎるような気がしてくる程に。
自分は、この幸福をしかと噛み締めていた。
+
余談に、青海さんに先の発言の意図を問うたことがある。老婆に対する自分の質問を妨げた理由について、彼は驚くべきことを述べてくるのだった。
「夫婦ではありません、あの方々は」
「え」
「兄妹です、ですが。確かに夫婦のように睦まじく、周りからも夫婦として扱われるようになったと聞いています。……すみません。会話を遮るようなことになり」
子供たちはもはや、知らないかもしれません。青海さんは平然と、そのようなことを語った。
そうか。自分もまた、固定概念に囚われていたということだ。市井には様々な人が寄り添いあって生きている。その背景に何が眠っているのかなど、部外者からは決して分かったものではないということだった。
即ち、あの場には二つの秘め事が介在していた。
一つ、老婆が隠した彼の「兄」のこと。
そして、自分たちの仲のこと──
それを聞き及ぶと、不思議な心地になってくる。どこか自分たちはこのまま、生きていくことができるような気がしていたのだった。
mmnik(X:@mms_99tin)(スペース:花‐か6)
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