残熱 Kilie
R-18。ぬるめです。
残熱 Kilie
R-18。ぬるめです。
……つけられている。
ふう、と息を吐き、思考を巡らす。こういう時は、後ろを気にする素振りを見せてはいけない。
今日の依頼は、嗅ぎ慣れた平塚の町での浮気の調査だ。バスが行き交う賑やかな表通りを、目に刺さる西日を避けながら歩く。排気ガスの溜まった気怠い駅前を曲がり、店々の間へ潜り込んだ。ゴールデンバットの煙を燻らせ、仕事帰りを装う。
黄昏に染まり始めた平塚は、焦げ付くような陽と、海から流れてくる湿った風が混ざり合って、どこか人を骨抜きにするような倦怠感に満ちていた。熱気の残るアスファルトに影が長く伸び、遠くの景色が歪んでいる。その歪みのなかに、自分だけを射抜く視線が紛れ込んでいた。
首筋をチリチリと指すわずかな違和感が、目標に寄せる集中を奪っていく。
本来なら、対象が女と待ち合わせ、そして期待通りの場所へ消えていった……その収穫の情報を整理しているはずだった。
フィルムの中には、言い逃れのきかない証拠が十分に刻まれている。仕事は、もう終わったのだ。しかし、今の自分の意識は、背後の死角にこびりついた影を剥がすことに費やされている。
気配も無い。ただ、見られているという感覚だけが鋭く突き刺さる。こんな、細くて粘着質な視線は、素人には思えない。
足音を殺しているわけではない。雑踏に溶け込ませるのが異常に上手いのだ。自分が足を速めれば、向こうもそれとなく間隔を詰めてくる。逆に緩めれば、ショーウィンドウを眺める通行人のふりをして気配を消す。
厄介なことになった。
依頼人との会話を思い出す。対象は慎重な性格だと言っていた。探偵を雇い、妻である自分が勘づいていないか、調べている恐れがあると。
……だとしたら、背後の主はそちら側の人間か。
幸い、今日の仕事は十分だ。決定的な瞬間は、既にこのフィルムの中に。あとは明日事務所に戻り、報告書をまとめるだけだ。しかし、この影を連れたまま動くわけにはいかない。自分の帰路を特定されるのも、避けた方がいいだろう。
背中を撫でる湿った風が、じっとりとシャツを肌に張り付かせる。自分を射抜く視線は、鋭く、それでいてどこか執拗な熱を帯びている。
指先のゴールデンバットを灰皿へ押し込み、店の立ち並ぶ通りから逸れた。
狙いをつけるのは、この先の細い裏路地。
建物の隙間に押し込められたような、陽の光も届かない死角。潮の香りと生活排水の匂いが混ざり合う、町の澱んだ部分。
わざと隙を見せるように、少しだけ足取りを乱して路地の闇へ踏み込む。獲物がこちらの焦りを確信し、間合いを詰めてくるその一瞬。そこが、自分が反撃に転じる唯一の隙になる。心拍が鋭く跳ね上がる。自分は壁の影に深く沈み込み、獲物が角を曲がってくる音を待った。
路地の湿った空気は重く、喉に張り付くようだ。建物の隙間から覗く空は、いつの間にか濁った夕闇の色を帯び始めている。
……来た。
微かな衣擦れの音。湿ったコンクリートを踏む、慎重すぎるほどの足音。
自分は肺の空気をすべて吐き出し、身体をバネのように絞る。相手が角を曲がり、その肩が視界に入った瞬間、影から躍り出た。指先が相手の細い手首に触れた、その刹那。
「え────」
捕らえたはずの相手の体が、羽毛のように軽く翻った。抵抗というよりは、鋭い反射。自分の踏み込みの勢いをそのまま利用されるような、滑らかな力の流転。
視界が、火花を散らして回転した。
気づいた時には、背中が硬い路面に叩きつけられていた。肺から強引に空気が押し出され、言葉にならない喘ぎが漏れる。頭上で、夕闇に溶けかかった影が息を呑むのがわかった。
「お。大崎さん」
「青海さんッ────!?」
肺の痛みを堪え、朦朧とする意識の中で必死に視界を凝らす。
自分を組み伏せ、上に跨っているのは、血の気の引いた顔で自分を見下ろす青海さんだった。
背中に走る鈍い痛みと、鼻をくすぐる、愛おしい白檀の匂い。そのあまりのミスマッチに、脳の回路が一時的にショートする。
そういえば、柔道部の副顧問をしていると、いつか聞いた気がした。投げ飛ばされるのも、道理と言えば道理だった。
「申し訳ありません。つい。反射的に投げてしまい」
……つい。ではない。背骨の痛みに耐えながら、ようやく上体を起こす。
スーツがよれるのにもかまわず身を縮め、長い肢体を小さく丸める彼を見て、ようやく喉の奥にこびりついていた緊張が溶けていく。
「……驚きました。どうしてこんなところに?」
全身を、喜びが包む。次会えるのはいつか、島に渡れるのはいつかとずっと考えていた。仕事の都合が噛み合わず、しばらくは会えないはずだった。それがこんな。突然現れた愛しい人に口元が緩んでしまう。ひょっとしたら衝撃で頭がやられてしまったのではないか──。そんな考えすら浮かぶ。
「お怪我はありませんか。それより」
「大丈夫です」
珍しい、青海さんの焦った顔が、眼前で揺れた。そのつるりとした頬に手を添え、柔肌を撫でさする。
「一旦、帰りましょう」
「……申し訳ありません」
「構いません。突然襲いかかったのは自分の方です」
おろおろと差し伸べられた青海さんの手を取り、立ち上がる。
膝についた砂を払う彼の仕草はどこまでも丁寧で、その指先が動くたびに、白檀の香りがふわりと路地の澱んだ空気を浄化した。
少しだけ、と前置きをして、彼のその身体を抱きしめる。先の反撃の負い目からか、建物の影で人が少ないからか、退けるようなことはせず、ぽん、とひとつ、慈しむように頭に手をおいてくれた。
「知りたいと思いました。常の。あなたの暮らしを」
柔らかな声が、耳元で鼓膜を震わせる。
島で会う時の彼は、いつもどこか浮世離れした静謐さを纏っている。だが今、腕の中にいる彼は、平塚の湿った熱気にあてられ、微かに汗を滲ませた、生身の、ひとりの男だった。
「ですので断りもなく。申し訳ありません」
「お会いできて嬉しいです」
腕の中の体温を、指先が覚えるまで確かめる。
しかし、ここはまだ、誰が通るとも知れない路地の入り口だ。
続きは帰ってから、と耳元で囁く。自分は一度深く息を吸い、名残惜しさを押し殺して、愛しい体を解放した。
青海さんの端正な顔が一瞬にして朱に染まった。あまり揺らぎを見せることのない彼が、子供のように肩を震わせ、視線を泳がせる。ここまで動揺してくれるなんて。想定外の反応に、こちらの方が驚いた顔をしてしまう。
「は。はい……」
蚊の鳴くような声でようやくそれだけを返した彼は、視線を泳がせながら、自分の隣へと並んだ。
あまりに素直な反応を目の当たりにすると、仕掛けたはずの自分の方まで、急激に体温が跳ね上がるのを感じた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響き、肺が熱い。
「帰りましょう。こちらです」
自分は努めて平然を装い、歩き出した。
しかし、隣を歩く青海さんの気配を意識すればするほど、自分の足の運びまでがおかしくなっていく。お互いに視線を合わせることもできず、けれど身体の距離感だけが定まらないまま、不自然に付かず離れず歩く男二人。すれ違う買い物客や、店先で談笑する主婦たちの目が、一瞬だけ自分たちに留まっては、訝しげに逸らされていくような気がした。
尾行は出来るのにただ帰るだけでこの有り様なのが、なんだか自分たちらしいと、心の中で少し笑った。
自室にたどり着くと、言葉を交わすよりも先に、自分の両手は彼を求めて伸びていた。
驚きに揺れる、その端正な瞳。
だが、その唇に驚きの言葉を最後まで紡がせる余裕など、自分にはなかった。触れたい。この胸を焦がすほどの喜びを、今すぐこの両の手で、彼の身体を通じて確かめたかった。
気づいたときには、楓さんのしなやかな肩を、そして背中を、包み込むように強く抱きすくめていた。日頃の自制や理性など、彼の放つ体温に触れた瞬間に脆くも溶けて消え去ってしまう。一度触れてしまえば、指先はもう自分の制御を離れていた。吸い寄せられるように、彼の身体の曲線を、背筋の確かな熱を、確かめるように貪欲になぞり始める。
「急です。いささか」
困惑したような、けれど拒絶の色を帯びない甘い声が、すぐ耳元で漏れる。
いつもは規律正しく、誰に対しても一線を引いて自分を律している人が、自分の腕の中で、驚きに肩を震わせながらも、されるがままに熱を受け入れている。その事実が、自分の奥底に眠る独占欲をさらに狂おしく煽り立てた。
スーツの布地越しに伝わる、彼の柔らかな肉体の感触。
大きな掌を彼の背に滑らせ、引き寄せる力を強めると、楓さんの吐息が、微かな嗚咽のように漏れた。自分の肩に、彼の額が、そして細い指先が、躊躇うように、けれど確かな重みを持って添えられる。
「……すみません。どうしても、抑えがききません」
掠れた声でそう呟きながら、自分の指は彼のうなじへ、そして耳朶へと、熱を帯びたまま這い上がっていく。
不意に会えた喜びは、ただの安堵を通り越して、欲を孕んだ嵐のように自分を支配していた。
「あなたに触れたくて……、仕方がなかったんです」
謝罪の形を借りた、剥き出しの欲望の吐息。
楓さんは、自分のその強引な熱に抗うのをやめたように、ふっと身体の力を抜いた。そして、諦めたように深い吐息を漏らしながら、その白い手を、自分の背中へとそっと回してきたのだった。
立ち上がった状態で、背後からその身体を組み伏せる。
壁に手をつかせ、前のめりに倒れ込むような姿勢になった楓さんの肩を、自分の胸板で壁へと押し付けた。逃げ場を奪うようにして、空いた片方の掌で彼の口元を強く塞ぐ。
「……ん、っ!」
掌の下で、行き場を失った熱い吐息が、湿った音を立てて自分の肌を焼いた。
一階には大家さんがいて、薄い壁の向こうには住人の気配がある。畳の上であればまだしも、立ったままこの体勢で動けば、古びた床は重みに耐えかね、一突きごとに、ぎ、と、ほんのわずかに軋み声を上げた。
こんなわずかな音だけとはいえ、誰かに気付かれていないだろうか。その極限の制約が、自分の中の理性をじりじりと焼き焦がしていった。
「楓さん」
耳元で低く囁きながら、自分は極めて緩やかに、彼の中へと深く沈み込んだ。普段の激しさとは対照的な、残酷なまでの遅さ。内側の粘膜が、自分の熱を余すところなく絡め取り、吸い付いてくる感触が腰から脳髄へと突き抜けていく。
楓さんの膝は、先ほどからガクガクと小刻みに揺れていた。
重力に抗いきれず、今にもその場に崩れ落ちそうな脚を、自分の腿で強引に支える。掌から伝わる彼の呼吸は、すでに限界をとうに超えていた。
身体の震え。それは快楽のせいだけではないだろう。
上半身ははだけ、膨らんだ桃色の乳頭が存在を主張している。下半身は背後から貫かれ、淫らに腰を動かしている。一歩間違えれば、あられもないこの格好が他人に見られてしまうというこの状況。そんな状況でも得てしまう快楽。見つかってはならないという恐怖と背中合わせの背徳感が、自分たちの感覚を、狂おしいほどに研ぎ澄ませている。自分の手を内側から熱い舌でなぞり、懸命に声を殺そうとする彼の反応が、それを何よりも雄弁に物語っていた。
「水音、聞こえますか」
意地の悪い問いかけを投げかけながら、自分はさらに深く、最奥を突き上げるように腰を押し進めた。楓さんの身体が大きく跳ね、塞いだ掌を押し返すほどの熱い吐息が漏れる。
言葉を奪い、出口を塞ぎ、この狭い空間の中だけで互いの情熱をぶつけ合う。声を出せないもどかしさが、かえって彼の中に眠る剥き出しの本能を呼び覚ましているようだった。
震えの止まらない彼の背に顔を埋め、自分は、この世で自分たちだけしか知らない密やかな音に、さらに深く没入していった。
Kilie(X:@kinokili05)(スペース:風‐あ1)
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