ポケット文庫

    

            沖田秀仁

目次

待ち人来り

                    待ち人来たり

沖田 秀仁

 よんどころない事情があって父は姿を隠し、母と娘だけで深川の裏長屋で暮らしている。柳橋芸者のお篠が薬研堀の薬種問屋の倅に惚れられて所帯を持ったが、ご時勢から御城下で暮らすのを憚って越して来たというわけだ。

 そうしたお篠たちの噂が長屋の人たちの口から口へと伝わったのが二年ばかり前のこと。今では誰もそうした話に耳を傾けない。人の噂も七十五日とは良くいったものだ。

 お篠は針仕事の内職で何とか糊口をしのいでいるが、ここ半年ばかり六つになったお稲が近所の煮売屋の店番を手伝うようになった。その煮売屋も富ヶ岡八幡宮脇の料理茶屋で包丁人頭をしていた清治が始めたものだ。なんといっても一人前が一両と高直な料理を作っていた元包丁人頭が作るとあって、堀川町の煮売屋は評判を呼び店先の看板娘のお稲も愛らしいと大いに繁盛していた。

 弘化元年の師走、木枯らしが止むと急に冷え込み、今にも雪が舞い落ちてきそうだった。

「お稲ちゃん、そろそろ上がっちゃどうだ」

 と、お八重が奥の板場から声を掛けた。

 お八重は清治と同じ料理茶屋で仲居頭を勤めていた。奢侈禁止令の命により店がお取り潰しを受け、五十の坂を越えた清治が四十半ばのお八重を伴って旦那の前に畏まると、

「二人はそういうわけありだったのかえ、私としたことがトント迂闊だったね」

 と、四十前の二代目が盆の窪を叩いた。

 実は、そういうワケではなかった。ただ店が暖簾を下ろす羽目になって清治が煮売屋を始めるがどうするか、とお八重を誘ったのだ。その折、煮売屋を手伝ってくれと言ったのか、所帯を持とうと言ったのかそこは判然としないが、そんなことはどうでも良かった。大事なのはこうして深川は堀川町で煮売屋を開き二人して元気に毎日を送っていることだった。

「まだ、あたいは良いよ。早く帰ってもお母さんは忙しくて取り合っちゃくれないから」

 後ろの板場は仕切りの暖簾があって見えないが、大きく振り返ってそう応えてから、お稲は暗くなりかけた河岸道に目をやった。

 河岸道の向こうには油堀西横川が流れている。長屋の家へはこの河岸道を通らなければならない。いつ父が帰ってきても見逃さないようにと、お稲は河岸道を見ていた。誰よりも一瞬でも早く父に会いたいと思った。

 ずんと寒くなったら、とうとう白いものが舞い始めた。長屋の女たちが亭主の酒の肴に一品買いに来る刻限ではないらしく、まだ誰も姿を見せていない。手を置いて夕餉の支度にかかるには間があるのだ、長屋の女は誰しも暮らしの足しにと内職に精出していた。

「おや、寒いと思ったら雪だよ、お前さん」

 すぐ後ろでお八重の野太い声がした。

 振り返ると仕切りの暖簾を掻き分けて、軒下を覗き見るお八重の丸い顔があった。

「おう、お稲ちゃんこれを持って帰りな」

 薄暗くなった表を気にして、清治が声を掛けた。いつも店番のお駄賃に一品持って帰らせてくれるのだ。それだけでも随分と助かると、母が言ってくれるのがとても嬉しかった。

 手を伸ばしたお稲へ渡すのを忘れたように、清治は手を差し伸べたまま黙りこくった。

「良庵さんかえ」

 一呼吸の沈黙の後、清治はそう言った。

 良庵とはお稲の父の名だった。若い蘭方医として神田で開業していたが、ここ数年ばかり医院を閉じて身を隠し逼塞していた。

「娘と妻がいつもお世話になっています。ご存知の通り御老中が罷免され、南町奉行の鳥井様も更迭されて、これでやっと元通り蘭方医の看板を上げられるようになりました」

 そう言う父を、お稲は食いつくように見上げた。大きく双眸を見開いたお稲に、父は屈み込んで「お稲」と優しく言った。

「さあ、お母さんの待つ家へ帰ろう」

 父はそう言って煮売屋の夫婦に頭を下げた。

終わり

土壇場

                                  土壇場

                                 沖田秀仁

 打ち出しを告げる櫓太鼓が小気味よく鳴り響く。

芝居小屋の木戸口から人々が疲れたような足取りで出て来る。

日毎に温かさは増しているものの、陽が傾くと寒が忍び寄り背に貼りつく。

人波は太鼓の音に追われるように夕暮れの西広小路に溢れそれぞれに散っていく。

裕福な旦那衆や内儀は柳橋袂の船着場へ向かい、そこから猪牙船や屋形船に乗る。

多くの人たちは両国西広小路を西へ向かい、そこから浅草御門を潜って北へ行く者や、そのまま柳原土手へと流れる者とに分かれ、やがて細い路地へと吸い込まれて、いつしか人影は潮が退くように街の路地へ消えていく。

 両国橋西広小路は江戸随一の盛り場だが、元々は両国橋袂に設けられた火除地だ。そこに芝居や見世物などの小屋が掛かりると見物客が押し寄せ、両国橋広小路は小戸でも一二を争う盛り場となり、屋台や飯屋や茶店や四ツ目屋などが立ち並んで連日祭りのように賑わっている。

両国西広小路の西外れに続く道、浅草御門から筋違御門に到るまでの神田川南河岸を柳原土手といった。元々は飢餓などによる難民救済のお救い小屋や御籾蔵などが建てられて、土手道には柳並木が植えられていたが、江戸も時代が下ると御籾蔵やお救い小屋などは移転してなくなり、その跡に神田川を背にして数百もの古手屋や道具屋などの床店が切れ目なく建っていた。その柳原土手の賑わいも新シ橋辺りまで来ると人通りも疎らになり床店も途切れている。

西広小路に詰め掛ける見物客などの人出の賑わいのお零れに預かって、床店が結構な繁盛を見せるのもその辺りまでだ。新シ橋の更に西の柳森神社あたりまで来ると、さすがに昼でも気味悪がって早足に通り過ぎるほどの寂しさだった。

 ただ柳原土手が人々で賑わうのも陽のある内だけだ。なぜなら柳原土手の床店は夕暮れを待たずして店仕舞を始めるからだ。

床店はそこに住まうことを禁じられている。元々床店が建っている一帯は火除地だ。火除地とは延焼を食い止めるために設けられた空き地だ。そのため、火除地内で火を使うことは厳禁で、従って並ぶ店々は人の棲まない小体な床店だ。だからどの店も日影が長くなるのに追われるように、手早く店仕舞して住処へと帰る。

あたかも逢魔が時を恐れるかのように、夜の帳が下りるころには土手道から人の姿は掻き消えていく。昼間の喧騒は嘘のようで、人っ子一人いないどころか辻斬りさえ怯える寂しさだ。

やや日脚が伸びたとはいえ、床店の者たちは日暮れと競うように店仕舞いに追われていた。

そうした床店の中でも一軒だけは違っていた。柳原土手の床店か途切れる新シ橋から数えて五軒目に、店先に色とりどりの古着を所狭しと吊り下げた古着屋があった。屋号を『丸新』というが、古着を商う古手屋の屋号が『丸新』とは変わっている。それとも「古着を扱ってはいるがすべては新品同様だ」という店主の心意気が込められているのか。

他の店では店の者が忙しく商品の仕舞や戸締りに働いているが、丸新の店先にはまだ店仕舞する者の姿すらなかった。不用心この上ないが、店先に人影がなくても泥棒は決して丸新から古着を盗もうとはしない。なぜなら丸新の店主は元手先で、その店に先刻尻端折りした御用聞きが前かがみに下っ引を従えて店へ入ったからだ。

丸新は他の床店より一回り大きい。それは店の奥には他の床店にはない三畳ほどの切り落としの座敷があったからだ。その座敷の上り框に行儀よく四つの雁首が並んでいる。向かって右から店主の茂助とその居候真之亮、それに界隈の岡っ引の弥平と下っ引の仙吉だった。

本来なら岡っ引が古手屋へ顔を出すとしたら碌な用件ではない。盗品を売り捌いているのではないかと嫌疑を掛けられ、こってり絞られて袖の下を渡すのがオチだろう。客も岡っ引が顔を出すと蜘蛛の子を散らすように店先から立ち去る。岡っ引に目をつけられた店で多少安く買ったところで、いかなる後難が降りかかりるか分からない。だが丸新は少しばかり様子が違った。

丸新の茂助はつい二年ばかり前まで町方同心の手先を勤めていた。手先とは同心の下僕のことだ。町方同心は下級武士の身分で俸給は三十俵二人扶持と定められている。「二人扶持」とは少なくとも二人の手先を置く決まりになっている。だから町方同心は二人の手先を屋敷内に住まわしていた。

もちろん手先の身分は町人だ。同心の屋敷の一角に暮らし、同心が出掛ける際には必ずお供をする。同心はお役目として当番月には毎日奉行所に顔を出すため、そのお共をする手先も奉行所に出入りするため羽織を着用して威儀を正した。懐に十手を差しているのは岡っ引と同じだが、羽織を着られる分だけ手先の方が格上だと世間は見ていた。

弥平が丸新に顔を出したのは故売の詮索ではなく、茂助たちから知恵を借りるためだ。弥平が顔を出したのは昨日の夕暮れに起きた人殺しの謎解きだ。弥平のよく知る男が浅草待乳山聖天宮の境内で殺されたという。名を庄治といって浅草広小路の小料理屋で中居をしている女と元鳥越町の裏長屋で暮らしていた前科持ちだった。

 事件の発端は元鳥越町の裏長屋の庄治の家に投げ込まれた文だ。昼下がりに近場の普請から帰っていた庄治目掛けて、路地から明かり障子を破って石に包まれた文が投げ込まれた。庄治は張り替えたばかりの障子に穴をあけられ、向かっ腹を立てて表へ飛び出てみたが、通りには誰もいなかった。誰がこんな真似をしたのかと、庄治は往来に立ったまま握りしめていた文に目を落とした。投げ文には「一晩の助っ人で五十両。暮れ六つに浅草本堂裏に来い」とあった。何処の誰が自分を呼び出しているのか、と庄治は心当たりを探ったが、コレといって思い当たる者はなかった。しかも人を誘うにしては文面が穏当とはいえなかった。

庄治は投げ文に心当たりがないため、後難を絶つために界隈の岡っ引弥平を自身番に訪れた。ちょうど折よく弥平は町廻りから帰ったところで、疲れた顔をして上り框に腰を下ろしていた。自身番の引き戸を開けた庄治の顔色が尋常でなかったため、何事かあったのかと弥平は少しばかり身構えた。

暮れ六つ、投げ文の通りに庄治は家から浅草本堂へと向かった。初午から数日過ぎたばかりの肌寒い夕暮れに、弥平は用心深く庄治の後をつけた。十間ばかり間を置いてつけていたが、浅草本堂裏からいきなり庄治が聖天宮へ向かって駆け出し、勢いそのままに石段を駆け上がった。弥平も懸命に庄治の後を追ったが、石段を駆け上る前に息が切れてしまった。石段下で一息入れてから歩いて聖天宮へ歩いて登ったが、その間隙に惨劇が起きたというのだ。

「庄治は四年前にあっしがお縄にした盗人ですが、今ではすっかり悔悛してあっしの手下を勤めていました。それが昨日のこと投げ文があって『一晩の助っ人で五十両』と持ち掛ける者がいまして。暮れ六つに浅草寺本堂裏に呼び出されたンだがどうだろうかと、新旅籠町の自身番にいたあっしの許まで律儀にもわざわざ知らせて来たンでさ」

 辛そうに顔を歪めてそう言うと、弥平は真之亮と上り框の茂助を順に見廻した。

 弥平は感情を抑えるように手炙りに手を翳して、店に吊り下げられた古着に目を遣ってからゆっくりと話の接ぎ穂を紡ぐように口を開いた。長年の岡っ引稼業で日灼けがシミとなって顔に浮き出て、黒くくすんだ狸顔は泣き顔になっていた。

「盗人稼業から足を洗って、おけいとやり直そうとしていた矢先だったから、庄治は堅気の暮らしを邪魔する野郎は勘弁しねえと怒っていやした。あっしもどんな奴が庄治を呼び出したのか知りたくて、慎重に後をつけたと思って下せえ。陽が落ちて辺りは急に暗くなり、さしもの奥山も人影は疎らになっていやした」

 挑むような眼差しでそう語って、弥平は辛そうに顔を歪めた。

「ところがそこで待っていたのは餓鬼だったンでさ。年端も行かない子供が波銭の駄賃を貰って庄治が来るのを待っていた。庄治があたりを見回していると餓鬼が『おめえが庄治か』と聞いてきた。「おう、そうだ」と答えると、餓鬼は握りしめていた紙切れを渡した。庄治が急いで紙を開けて文字を拾うのを、あっしは離れたところで見ていやした。それには『駆け足で聖天宮へ来い』とでも書かれていたのかと。庄治は振り向いてあっしに目配せすると急いで待乳山(まつちやま)まで駆けて行き、参道の石段を駆け上ったンでさ」そう言うと、弥平は辛そうに首を左右に振った。

 庄治は四年前にお縄になるまで鳶をしていた。普請場の高い丸太の足場の上を自在に動き巡り、その身軽さと向こう意気の強さから『山猫の庄』と呼ばれていた。身軽さは昔取った杵柄で長い石段を駆け上る三十前の庄治の足と、五十前の腹のせり出した弥平の足とでは足が違った。待乳山は七丈余りの小高い丘だが、庄治の後を追った弥平は石段の途中で息が切れ、途中で足が止まった。それでもやっとの思いで頂上の聖天宮境内へ行ってみると、夕暮れの境内築地塀前の暗がりで庄治は心ノ臓に匕首を突き立てられてすでに事切れていた。

ほんの一服する間もないほどの出来事だ。弥平はまだ下手人が近くにいるものと見て、すぐさま残照の消え残る明かりを頼り社の床下から周囲と見渡せる限り目を凝らした。しかしそれらしい人影はどこにもなかった。こんなはずがあるものか、と弥平は目を凝らしたが、間もなく残照も消えて境内は闇に閉ざされていくばかりだった。怪しい者どころか、薄暮の境内には参詣人の姿すらなかった。

「境内や麓を調べたが怪しい人影どころか、人の気配すらなかったというわけか」

 話の続きを茂助が引き受けて、弥平に念を押した。

 弥平は「へい」と頷いて、さらに表情を暗くした。

「庄治を呼び出した投げ文ってのはどこにあるンだ。良かったら見せてくンな」

 茂助が手を差し出すと、弥平は力なく首を横に振った。待乳山で庄治の懐を改めたが、下手人からもらった文は消え失せていた、というのだ。

「途中で掏摸取られたのか、それとも殺されてから奪われたのか。庄治が懐に入れたのは間違いねえンですがね」と言うと、弥平は面目なさそうに項垂れた。

 聖天宮への参詣には二通りの道がある。一つは庄治が駆け上った石段からの道で、いま一つは山谷堀の船着場から待乳山へ登る一筋の獣道だ。山谷堀の船着場とは江戸市中から猪牙船でやって来た遊客が船から降りて、ナカまで日本堤を徒歩か駕籠で行くかの中継ぎ地で夜中まで結構な賑わいを見せている。

昨夜も客待ちの駕籠掻きや船頭たちやナカへ繰り出す遊客たちで賑わっていたはずだが、昼間に弥平が船着場周辺の茶店を聞き回ったところで、待乳山から下りて来る怪しい者は誰も見掛けなかったという。

「四年前、庄治をお縄にしたのは弥平だったのか」

 茂助はぼそりと呟いて、肌寒くなったように肩の間に首を竦めた。

 初午が過ぎたばかりで、僅かに暖かくなったとはいえ寒の戻りのある季節だった。

「真面目に三年の寄場送りを終えて、挨拶にきた庄治をわっしは町内の肝煎に頼んで、芝居小屋の書割りや裏方仕事に使って貰っていたンでさ。昔の悪党たちとはきっぱりと縁を切って、恋女房のおけいにも喜ばれていたンでさ。顔を見知った界隈の悪党に妙な動きがあったり、何かにつけてあっしに教えてくれたりしたンですがね」

 そう呟くと、弥平はいよいよ表情を暗くして溜め息をついた。

 一度道を踏み外すとなかなか堅気の暮らしには戻れないものだ。世間も前科者をそういう目で見ている。だから本人はきっぱりと足を洗ったつもりでも、いつしか悪仲間が纏わりついてきて悪事に引き込む。真っ正直に生きようと心に決めていてもつい誘いに乗って元の木阿弥と、再び悪事に手を染めてしまうのが常だ。

 庄治が躓いた切欠は酒の上の出来事だったという。鳶仲間と居酒屋へ行き、たまたま同席した人足が他愛ないことから口論を始めた。お互いの仕事自慢や男自慢から口論になるのはよくあることだ。いつもの他愛ない組自慢だと聞いていたものの、口論が次第に熱を帯びて、いつしか口喧嘩から罵り合いになった。ついには両方とも立ち上がって今にも殴り合いそうなほど殺気立った。喧嘩になってはまずいと、鳶小頭の庄治が男伊達に仲裁役を買って出た。

もちろん庄治は仲直りの手打ちをするつもりだったが、庄治が両者の間に割って入るや、いきなり力自慢の人足に頬桁を張られた。

入り戸口まで二間ばかり殴り飛ばされると、何かの箍が外れた。酒の酔いも手伝ってたちまち喧嘩の血が沸騰し、庄治は木戸の横にあった心張り棒を手にして立ち上がり、前後を忘れて殴った相手めがけて振り回した。弾みで人足の一人に腕の骨を折る大怪我を負わせ、一人の額を割ってしまった。人足の頭から血が噴き出ると庄治は正気を取り戻したが後の祭りだ。居酒屋を飛び出して姿を晦ますと、間深い仲になっていたおけいの家に身を潜めた。

相手が騒ぎ立てれば町方役人の手を煩わせる事態にもなりかねない。だがそこは鳶の親方が一肌脱いで人足頭と掛け合って丸く収めてくれた。しかし、それが元で庄治は鳶職をしくじり、破落戸とつるんで悪事を働くようになった。

 おけいは浅草広小路の小料理屋で仲居をしている女だった。石川島の人足寄場から帰った庄治が親方から許されて元の鳶に戻れたら所帯を持つと約束して、それまでは広小路の肝煎が心配してくれた見世物小屋や芝居小屋の裏方で下働きをしていた。

「悪事から足を洗い真っ当に生きようとする者を、誰が何のために殺めたのか」

 と静かな声で言って、真之亮は腕組みをして首を捻った。

 弥平の話では庄治は心ノ臓に匕首を叩き込まれていた。だが、腕や手に抵抗した痕跡の『庇い傷』はなかったという。それどころか弥平は庄治からそれほど離れてなかったにも拘わらず、庄治が誰かと激しく言い争う声も耳にしなかった。

すると到底考えられないことだが、庄治は匕首を心ノ臓に突き立てられるその瞬間まで、木偶の棒のようにつっ立っていたことになる。五尺一寸余りと体躯は人並みだが、元鳶職の庄治は敏捷な身のこなしと腕力では誰にもひけを取らなかったはずだ。くだんの喧嘩でも大男の人足たちを相手に飛鳥のように立ち回ったと聞いている。あるいは人に殺められたのではなく、逢魔が時の百鬼夜行の類に祟られたのだろうか。

「近所へ使いに出していた仙吉が戻るのを待って、二人で後をつけていればこんなどじは踏まなかったンだ。おけいに合わせる顔がねえ」

 弥平は諦め顔にぼやきを何度か繰り返したが、茂助と真之亮は相槌も打たずに真剣な眼差しで考え込んだ。

 その真剣さに、弥平も釣り込まれるように表情を引き締めた。

「親分、庄治が親しくしていた者の中で、恨みを買っている者はいねえか」

 弥平の双眸を見詰めて、茂助が訊いた。

「いやいや茂助さん、庄治に限って人から恨まれるようなことはないと思うぜ」

 弥平は庄治が心を入れ替えて、堅気者になろうと努めていたのを知っていた。

「悪仲間のことだけじゃねえ。たとえばだ、おけいを他の男が懸想していたとか」

 と、茂助は世間話でもするように聞いた。

茂助は下手人探索の手掛かりを得るために、考えられる様々な想定を並べてみた。しかしおけいに対する申し訳なさで意固地になっている弥平の気持ちを逆撫でしたようだ。庄治やおけいの身辺を丹念に調べるように勧めた茂助の気配りは弥平に通じなかった。弥平は忽ち口を尖らせると、髷根が崩れるほど大きく首を横に振った。

「小料理屋の仲居をしていやすがね、おけいは客に色目を使うような尻軽じゃねえ」

 取りつく島もなく、弥平は言下に否定した。

「それじゃ、誰が何のために庄治を殺したってンだ」

 怒ったように茂助が訊くと、弥平は口を閉ざして落ち込んだ。

 重苦しい空気が漂ったが、丸新の居候が口を開いた。

「少なくとも、下手人は庄治のことを良く知っていたってことだ。庄治が前科持ちで石川島の寄場にいたことや、今は何処で暮らし何をしているかを。だが、それだけじゃない。肝心なのは庄治も下手人を知っていたということだろうよ。息がかかるほど下手人が近寄って来ても、まさか匕首を心ノ臓に突き立てられ、殺されるとは露ほども疑わなかったってことだろうからな」

 真之亮がそう言うと、弥平は驚いたように目を剥いて「へい、確かに」と頷いた。

 さすがは八丁堀育ちだ。伊達じゃないと驚愕の色が浮いた。

「庄治が気を許す者とは、この界隈でいえば肝煎か弥平親分ということになるのか」

 と呟く真之亮の言葉に、弥平は「へえ」と曖昧に返答して考え込んだ。

「寄場から娑婆へ戻ったのが一年ばかり前。それから芝居小屋で働いていたが、親しくしていた奴が他にいたかどうか」

と真之亮を見詰めて、弥平は自信なさそうに首を傾げた。

 夕暮れ時の柳原土手の古手屋で茂助に愚痴を聞いてもらい、同時に事件の糸口でも掴めればとやって来たが、かえって岡っ引として考えの甘さを突かれて、弥平は下っ引の仙吉に力のない眼差しで振り返って「引き揚げるとするか」と声をかけた。

 しょんぼりと立ち去る弥平と仙吉の姿が家路を急ぐ人波の雑踏に紛れると、二人は地蔵様のように並んで座敷の上り框に腰を下ろして黙ったまま往来を眺めた。一間幅の上がり框に小柄でやや背の曲がり始めた茂助と、いかにも剣術達者な背筋の伸びた真之亮の後ろ姿が身じろぎもせずに並んで暮れなずむ表を眺めた。吊るした古着の間から見える夕暮れ時の往来の景色が珍しいわけではない、二人は腑に落ちない事件の謎と向き合っていた。 

丸新は間口二間に奥行き三間の粗末な板壁木皮葺きの小屋だが、丸新だけがそうなのではない。神田川を背にして柳原土手に並ぶ数十軒の古手屋や道具屋はすべて板囲いに板屋根の床店だ。しかも丸新以外の他の小屋は丸新よりもさらに小さかった。間口は同じ二間ばかりだが奥行きは半分程度だ。古手屋の屋号は『丸新』だが、それは茂助の心意気のあらわれだ。扱っている着物は紛れもなく古着だが、いずれも真っ新のまるで新品と変わりないとの意気込みからだ。

 茂助は考え込んでいたが諦めたように顔を上げると真之亮を横目に見た。

「真さん、庄治殺しの一件をどう思いやす」

 茂助に唐突に問われて、真之亮は「うむ」と戸惑ったように小さく頷いた。

 実のところ、真之亮も奇妙な事件だと首を捻っていたところだ。

事件の中でも、人殺しは下手人の目星がつきやすい。痴情怨恨に物取りといって怨みを晴らすとか物を盗み取るとかあるいは色恋沙汰とか、殺しという大それた事件を起こすには下手人にも誰にでも納得のいく理由があるものだ。しかし庄治の場合は殺されるほどの理由が見あたらない。二人はどちらからともなく顔を見合わせて首を捻った。

「ともかく良く分からぬ。庄治は懐に大枚の小判を持っていたわけでもなし、恋女房のおけいが間男をこさえたというのでもなさそうだ。殺された理由はともかくとして、そこへ行って確かめなければ分からないことだが、待乳山の頂きで待ち伏せていた下手人から浅草寺本堂の裏から聖天宮へ上って来る庄治が見えていたかどうか。つまり本堂裏で子供に文を言い付けて落ち合う場所を変えたのは、庄治を尾ける者がいないかどうか下手人が確かめるためだったのではないかとも思えるが」

 真之亮が思いつくままに述べると、茂助は驚いたように目を剥いた。

「だとすると、儂が思い描いていた下手人に対する考え方を改めなけりゃなりません。庄治に付馬がいるかどうか確かめたってことは、下手人が庄治のことを隅から隅まで知っていたわけじゃねえ。いや庄治を殺したのは、弥平親分という付馬に庄治の口から持ち掛けた裏の仕事の一件が洩れるのを怖れてのことかもしれねえ。いや待てよ、あるいは下手人の顔に特徴があって、広く世間に知れ渡っているためか。いやいや、それなら庄治が殺されなかったとしても、会った後で親分にしゃべれば同じことだな、」

 茂助は自問自答しつつ呟いていたが次第に声が小さくなり、ついに黙り込んだ。

「茂助、下手人の容貌に特徴のある黒子とか痣とかがあれば、駄賃を貰った子供でも憶えているだろう。いずれにしても自身番でそれなりに子供から文を渡すよう頼んだ者の人相を聞き出して、人相書を作っているはずだから後日弥平に頼んで見せてもらうとして、今は事件そのものを考えてみよう。まず庄治に一晩で五十両もの大金を払う仕事とは何だろうか。夜盗が仲間を募っている、としても分け前で五十両を出すには数千両を盗むような大仕事でなければならないだろう。そうすると何処かの大店相手に押し入り強盗でも仕出かすつもりとしか考えられないが」

 茂助の疑問を引き受けてそう言うと、真之亮は表に目を遣ってから立ち上がった。

 軒先から差し込んでいた日脚が消えている。そろそろ店仕舞をする時分だ。

火事を出さないための用心に、柳原土手の床店は行灯を置かない決まりだ。そのため日暮れまでに店仕舞して古手屋は古着を柳行李に仕舞って近くの家へ持ち帰るが、茂助と真之亮は柳原土手の用心のために奥座敷に寝泊まりした。それが柳原土手の床店を差配する肝煎から頼まれた役目の一つだった。

いわば茂助は柳原土手界隈の宿直人だ。闇に紛れて破落戸が床店を壊したり火をつけたりしないための用心棒だ。そうした役目があるため丸新は他の床店より奥行きが一間ばかり土手に張りだし、そこが切り落としの座敷になっている。手先をやめた茂助に肝煎が古手屋の沽券を安く世話してくれたのもそのためだった。

 茂助は南町同心中村清蔵の手先を三十余年も勤めてきた。二年ばかり前の冬、中村清蔵は凍えるような明け方に急な心ノ臓の病であっけなく亡くなった。町内の医師を呼ぶ間もなく、家人が起こしに行った時には布団の中で冷たくなっていた。

同心は表向き一代抱え席というが、代々嫡子世襲が決まりだった。先例に倣って、嫡男の中村清之介が清蔵の跡を継いだ。それを汐に茂助は手先を辞めた。

五十過ぎと年は取っていたがまだ足腰は衰えていなかったし、棒術や捕縛術などは若い者より確かなくらいで門前仲町界隈にたむろする破落戸たちも一目置いていた。中村清之介も茂助の腕を惜しんで五十で隠居とは早過ぎると翻意を促したが、茂助の決意は固かった。

 中村清之介が嫌いだったわけではない。むしろ十四の齢で中村清之介が町奉行所へ見習奉公に上がると、茂助は古参の手先として役所の仕来りを細かく教えた、十手術などを教えたりして何くれとなく骨を折った。清之介の手先を勤めてもう一花咲かすのも悪くはないかと考えたりもしたが、中村清蔵には清之介の他にもう一人の息子がいた。それが丸新に居候としている真之亮だった。

兄中村清之介が当主になれば、真之亮は養子として他家へ行くか、八丁堀の組屋敷で部屋住みとして独身で生涯を過ごすのが決まりだ。父親の死後も八丁堀の組屋敷で暮らしていたが、中村清之介が半年前に嫁を娶ったのを機に家を出た。茂助はかねてからその日のあることを予期していた。

真之亮が家を出たのはもちろん兄嫁が気に入らないからではない。真之亮には家にとどまれないわけがあった。部屋住みで生涯を独身で暮らせないわけがあった。それは真之亮に惚れた町娘がいたからだ。

真之亮が家にとどまり兄の部屋住みである限り、武家の定めで嫁を迎えることは適わない。生涯を独身で過ごし、厄介者として人生を送るしかない。万が一にも八丁堀同心から養子の話が持ち込まれ部屋住みでなくなったとしても、武士に町人の娘を嫁に迎えることは出来ない。

兄の祝言の翌朝未明に、真之亮は八丁堀の組屋敷を後にした。家を出た当初から一月半は幼少期から十年来通っている剣術道場の用人部屋で寝泊まりしていたが、茂助から「床店に来ないか」と誘われて古手屋に居を移した。それからは柳原土手の用心棒になっている。

 日暮れて真之亮は店仕舞いに表へ出た。といっても床店の古手屋に下ろす大戸があるわけでもない。店の横壁に括り付けている四枚の板戸を表の鴨居と敷居の間に嵌め込んで猿落しの桟を落とせば終わりだ。三枚までを敷居に滑らせて、最後の一枚は敷居に滑らせておいて店の中に入ってから手探りで桟を落とす。板戸で戸締まりをすると店は窓一つない暗がりとなるが、そうする間にも茂助は店座敷の行灯に火を入れ手炙りの灰を穿って炭を足した。帳付けをするために茂助が文机を行灯の側に引き出すのを見て、真之亮は手炙りから立ち上がった。そして衣桁にかけてあった手拭いを手に取った。茂助が帳付をしている間に一膳飯屋へ行くついでに湯屋へ行くことにした。界隈の肝煎から柳原土手の番人を頼まれているため、二人揃って小屋を空けて柳原土手を離れるのは避けなければならなかった。

「済まないが、先に飯を食って湯に入らせてもらうよ」

 そう言うと、真之亮は手拭いを肩に担いで外へ出た。

 一膳飯屋は柳原土手を挟んで向かいの広大な郡代屋敷の右手、新シ橋寄りの神田富松町の裏筋にあった。屋号を神田屋といい、六坪ばかりの土間に大丸太を大鋸で縦に挽き割った二筋の飯台が並びその周りに空き樽が置かれていた。二十人も入れば肩が当たるほど狭いものだが、親爺と女房が板場で働き小女の二人が土間と板場を行き来した。一膳飯屋の食い物に乙な味を期待しないのと同じように、一膳飯屋の小女に愛想や色気を望むべくもないが客を待たせないのが何よりの取り柄だった。

 客は七分の入りで奥の空いている樽に腰を下ろすと、すぐに無愛想な小女が盆に飯を載せてきた。この辺りは小商いの表店が多く奉公人のほとんどが通いのため、一膳飯屋の客にはそうした仕事帰りのお店者が多かった。

 誰もが親の仇に出会ったような険しい眼差しをして、丼を抱えて飯を掻き込んでいる。真之亮も飯を掻き込んで腹を満たし、干し魚の身をほぐして口に放り込み赤出汁で呑み込んだ。競うように早く食い終えると銭を飯台に置いて一膳飯屋を出た。

 湯屋は通一筋隔てた隣町、豊島町一丁目の富士ノ湯へ行く。湯銭を一月分まとめて先払いすると通いの切手がもらえ、留桶といって自分の手桶を湯屋に置ける。そうすれば湯屋へ一日に何度でも入れるし、手拭い一本肩に担いで行けば良い。

 昔は湯屋の軒下に矢が突き刺さるように描かれた看板が吊り下げられ、「矢が入る」から客が入るの意に用いられていたようだが、江戸も時代の下ったこの時期そうした判じ物まがいの看板は姿を消していた。

肩で暖簾を分けて入ると真之亮は差料を番台に預けた。脱衣場に上って手際よく着物を脱ぎ洗い場へ行って石榴口を潜った。湯船に差し込む明かりは乏しく、もうもうと湯気が立ち込めるために暗い。烏の行水よろしく火傷しそうなほど熱い湯に浸かるとすぐに出た。浮世風呂などで描かれるように湯屋の二階がどこでも繁盛しているわけではない。ことに武家屋敷の多い町では寂しい限りだ。この界隈は武家割と町割が半々だった。古手屋へ戻ると茂助が湯屋へ行く支度をして待っていた。早い時刻に行かないと湯船に垢が浮いてドロドロになり、のんびりと入れた代物ではなくなる。

「先に行かせてもらったが、富士ノ湯は八分の入りで混んでいた」

 真之亮が声をかけると、茂助は帳面を畳んで立ち上がりさっと手拭を担いで「そうですか、それじゃ儂も早いとこ行かせてもらいやす」と言った。

 慌しく茂助が出掛けると、真之亮は四畳半の部屋へ上って大の字になった。昼間の雑踏が嘘のような静寂に、野良犬の遠吠えが寂しげに聞こえた。

真之亮は何かを振り切るように「アー」と声を出して手足を大きく伸ばしたが、反対に心は小さく縮こまった。天下にたった一人置いてけぼりを食ったような寂寥感が身に沁みて気持ちが萎えた。

真之亮は年が明けたため既に二十と五になっている。何かを成さねばならぬ、と五尺五寸の体躯を突き動かす衝動が走る。しかし漲る情熱を何処へ向ければ良いのか、と所在なく屋根底の天井を睨んだ。が、真之亮にはそれほど嘆く必要もない。つい半月前のこと、南町のお奉行から役目を授かった。だから真之亮は浮き草稼業の浪人者ではない。その日のことを思い出すといまでも狐に摘まれたような心地がしている。

 その発端はつい三ヶ月ばかり前のことだった。お玉ヶ池の道場で代師範として門弟たちに稽古をつけていると櫺子窓から道場内の様子を窺う鋭い視線があった。そして稽古を終えるのを待っていたかのように大師範に呼ばれた。奥の客部屋へ入ると先刻見た男が大師範の横に端座していた。

男は南町奉行遠山景元の側役だと名乗った。真之亮を隠密同心に取り立てたい、との御奉行の「口上」を伝えた。突然のことで、側役が何を言っているのか理解できなかった。怪訝そうな顔をしたまま黙っていたが、側役は子細構わず「よって明朝南町の役宅まで出仕せよ」と命じた。役宅とは町奉行が住まう「奥」のことだ。つまり数寄屋橋御門から出入りするのは「役所」だが、南町奉行所の屋敷内に奉行が住まう役宅があって、その出入りには裏口を使用することになっていた。側役は「役宅へ出仕せよ」と命じた。

降って湧いた話で何のことだか要領を得なかったが、ともかく真之亮は南町奉行所裏の役宅へ赴き、三十俵二人扶持の身分となり御役目を拝命した。青天の霹靂だったが、臆するものではない。いかに家を継がない次男とはいっても、そこは八丁堀組屋敷に暮らす身だ。学塾へ通う傍ら心得として手先の茂助から十手術や棒術の手ほどきを受けた。十歳の春になると他の子供たちと同様に八丁堀の学塾へ入れられ、四書五経から一通りの武家の素養として必要な学問を学ばせてもらった。そして十二の春を迎えると学塾に通う傍ら、午後から神田お玉ヶ池の町道場へ通いはじめた。儒学が肌に合わなかったのか学塾は数年で勝手にやめてしまったが、その分だけ剣術修行に熱が入りお玉ヶ池の道場では頭角を現して代師範を勤めるまでになっていた。

剣術に打ち込んだのは剣術家を目指そうとしたからではなかった。ただ道場へ行くより他に身の置き場がなかった。三つ年上の兄が十四の歳から見習い奉公で南町奉行所へ出仕すると、母も父も家人までも兄に掛り切りとなった。真之亮にとって家は居心地の悪いところになった。その真之亮にただ一人茂助だけが熱心に十手術や棒術から捕縛術まで教えてくれた。しかし他の使用人からは何の必要があって茂助が次男の真之亮にそうしたことを教えるのかと白い目で見られたものだった。

二年前の冬、父が心ノ臓の病であっけなく他界すると中村の家は兄が継ぎ真之亮の立場は一変した。武家社会では長子による家督相続が厳格に守られ、個々人よりも家に眼目が置かれた。八丁堀同心でも武家の習いとして嫡男以外の男子は生涯を厄介者として兄の世話になる。人生のみならず人格のすべてまでも否定されたような立場は腹立たしかったが、武家の定めなら受け容れざるをえない。厄介者が厭なら家を出るしかなかった。真之亮が中村家を後にしたのは出たくて出たわけではない。

 何度目かの溜め息を吐くと、裏口が開いて茂助が帰った。

「やけに辛気臭い顔をしておいでですが、どうかなさったンで」

 茂助は声をかけて手拭いを衣桁に掛けると、ふたたび文机の帳面を開いた。

「無為徒食の居候で、茂助には迷惑を掛けるな」

 勢いをつけて上体を起こすと、胡座をかいて真之亮は茂助に詫びた。

「そんなことを考えていらしたンですかい。居候の一人や二人、気になさることはありやせん。この柳原土手の古手屋は小商いといっても、みんなそれぞれ立派に一家を支えているンですぜ。それに真さんは隠密同心として南町のお奉行から朱房の十手を下げ渡されているンだ。世間様に町方同心だと威張れないだけで、立派なお役目を授かっていなさる。そんなことより、弥平が気に病んでいた庄治のことですがね」

 硯箱から取り上げた筆を宙に浮かせて、茂助は首を傾げた。

「どう考えても解せねえンでさ。遺恨でもなく物盗りでもなく痴情でもねえ。すると庄治はどんな理由で殺されなきゃならなかったンですかね」

 と眼差しに手先の鋭さを甦らせて、茂助は真之亮を睨んだ。

「確かに、殺される明らかな理由が庄治にあって、曰く因縁のある者の影が身辺に差していたというのではなさそうだ。昔の悪が仲間に引き込もうとして不都合があって殺した、と考えるにしても下手人が庄治と会ってから殺すまで時間が短すぎる。碌に庄治の話も聞かないで、いきなり匕首を心ノ臓に突き立てたわけだからな」

 茂助の熱気に引き込まれるように、真之亮も声に力を篭めた。

「心ノ臓に匕首を突き立てて、そのまま下手人は逃げていやす。匕首を抜けば血飛沫が龍吐水のように吹き出て、下手人は返り血を浴びることになる。そこまで考えてのことだとすれば、下手人は相当に場馴れした殺し請け稼業ってことになりませんか」

 まだ何も分からない下手人に向かって、茂助は決めつけるように言った。

「茂助、理由は何であれ人を殺める者は悪党だ。ただ拙者が不審に思うのは、庄治が殺されるその瞬間まで、自分が殺されるとは露ほども思わなかったことだ。命を奪おうと襲っても相手に身構えられてはよほど腕が段違いでもない限り、たとえ相手が武術と無縁の藤四郎でさえ、匕首の一突きで仕留めるのは容易じゃないからな」

 そう言って、真之亮は浅く溜め息をついた。

 定廻同心なら支配下の岡っ引を指図したり手先を従えて町奉行所へ出入りして事件を探索したり事件綴に目を通すこともできる。しかし、隠密同心では遠山景元の下知で御奉行の手足として動くだけだ。事件探索に自分から表立って動く立場ではない。

「弥平は庄治と夫婦約束したおけいという女に顔向けが出来ねえと愚痴っていたが、どうも事はそんなに単純なものじゃねえような気がしやす。まっ、儂の勘ですがね」

 長年勤め上げた手先の勘働きをみせて、茂助は眉間に深い皺を寄せた。

 捕物の心得が真之亮にもないわけではない。八丁堀同心の次男として捕物を稼業とする家に生まれた。亡くなった父は本所改役定廻を長く勤め、その背中を見て育った。勘働きするというのか「何か腑に落ちないな」と腕組みをして首をかしげた。慎之介の胸中に不吉な予感が漠然と広がっていた。

 それはこの事件が庄治殺しだけでは終わらないのではないか、との漠とした勘だった。明確な理由のない殺しが起きれば、この先にも理由のない殺しが起きるのではないかという勘だ。そうした慎之介の心の動きを察知したのか、茂助が一つ肯いた。

「頑是ない子供を使って浅草本堂裏から聖天宮へすぐに来いという。五十両を餌に庄治の五体を一晩借り受けて、奴等は何を企んでいたンでしょうか」

 庄治を呼び出した下手人の本来の理由とは何か、と茂助も考えていた。

「ふむ。分からないことばかりだな。ここは明朝にも待乳山まで足を運んでみるとするか」真之亮はそう呟いて、茂助が笑みを浮かべたのを見て口元を綻ばせた。

 亡父は手先や岡っ引に常々「骸に聞け、現場を見よ」と言っていた。下手人はその場で手を下したのだから、なんらかの手掛かりを残しているものだと。

 ことさら父のことを持ち出したわけではなかったが、真之亮が耳の奥底に父の声を聞いたように、茂助も往時に叩き込まれた捕物の心得を思い起こしたのだろう。茂助の肯きは恐らくそうした意味合いに違いなかった。

「血は争えねえや、さすがは八丁堀育ちですねえ」

 といかにも嬉しそうに言って、茂助は帳付けの筆を置いた。

「さあてと、夜鷹蕎麦でも手繰りに行きやすか。湯屋からの帰りに新シ橋の袂に屋台の角行灯が灯っていやしたぜ」そう言うと、茂助は綿入れの羽織に手を通した。

 夜の柳原土手は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。もっとも両国広小路も元々は火除地だから本建築は許されず、芝居小屋や見世物小屋も丸太の骨組に筵を掛けただけの仮小屋だ。人が住まうとどうしても火を使うため、火除地から火事を出したのでは洒落にならないとして人が小屋で暮らすのを禁じた。ただ全くの無人にしては却って火付けや盗賊を呼び込まないとも限らないため、用心に必要な見張り役の寝泊まりのみを許した。そのため夜になると界隈から人影は消え去り、かすかに漂う人の気配は夜鷹とその客のものだけだった。

「親爺、夜鷹蕎麦を二杯くれろ」

 屋台の傍の七輪に屈み込んでいた親爺に茂助が元気に声を掛けた。

「へい、すぐに」と、四十過ぎの痩せた親爺が顔を上げて嗄れ声でこたえた。

 鍋から濛々と湯気が匂い立ち、それに引き寄せられるように夜鷹が二人ほど姿を現した。いずれも地味な藍江戸縞に身を包み、姉さん被りに手拭いの端を咥えている。

「姐さん方も儂たちと一緒に蕎麦を手繰るかい。そんなら親爺、つごう四ツだ」

 茂助は親爺に指を四本立てた右手を差し出した。

 手先を退いて茂助は変わった。本来なら夜鷹は御法度だ。気安く声を掛けて口を利くことなど、以前の茂助にはあり得ないことだ。真之亮の知る限り茂助は悪所に足も向けない堅物で通し、ついに所帯を持たないまま五十の坂を越えてしまった。

 しかし、茂助は変わった。古手屋の親爺になってから手先の重石が取れたのか、まるで別人のようになった。気軽に夜鷹たちに声を掛けたり、店先から往来の人込みから掏摸と見破って捕まえた者の世話を焼いたりする。尻端折りに羽織を着て十手を片手に法度破りは断じて許さなかった堅物の手先と、いま目の前で御法度破りの夜鷹と親しく話す砕けた古手屋の親爺とはあまりに違いすぎるが、いずれの茂助も真之亮には好ましかった。

 闇から角行灯の明かりに現れた夜鷹は三十過ぎの痩せた女と二十歳過ぎの小柄な女だった。下駄の歯を鳴らして近づくと、痩せた女が茂助と並んで縁台に腰を下ろして、ニタッと笑いながら不躾に茂助の顔を覗き込んだ。

「あら、お前さんはこのちょいと先の、古手屋の旦那じゃないかえ」

 と、姉御肌の物言いで茂助に声をかけた。

「ほほう、儂を知っているかい。確かに儂はこの柳原土手で古手屋をやってるが」

 嬉しそうに応えて、茂助は後ろに立つ真之亮を振り返った。

「儂らは床店に寝泊まりしている。何かあったら頼ると良いぜ」

 真之亮の顔色を窺ってから、茂助は女に力を貸すと言った。

 真之亮は驚いて目を見張った。元手先が御法度破りの夜鷹に肩入れしてどうするのか、との思いが走った。町方役人は夜鷹を取り締まる。そしてお縄にすれば見せしめのために無期限、無報酬で吉原に下げ渡すのが御定法だ。つまり捕えられた夜鷹は生涯を苦界に身を沈めることになる。だが古手屋の親父になった元手先はそうした御正道の埒外に生きる女たちを庇うという。

「後ろの若い兄さんは鬢が面擦れしているけど、ヤットウの腕は確かなのかえ」

 女が問うと、茂助は誇らしそうに胸を張った。

「ああ、何処の誰と名を明かすことは出来ねえが、憚りながら神田はお玉が池の世間にも、ちったあ名の知られた町道場で代師範を勤めていなさる。辻斬りが出たら怪我をしないうちに逃げて来るがいいぜ」と茂助は夜鷹に話し掛けた。

「へええ、年は若いけど頼りになるじゃないか」

 驚いたように振り向くと、女は真之亮に流し目を送った。

 真之亮はどう返答したら良いか戸惑った。父の教えに従えば、触らぬ神に祟りなしという状況だ。武家の学問として修めてきた儒学にも「君子危うきに近寄らず」とある。夜鷹なぞとは関わりを持たないことを武家の学問は教えている。しかし、と真之亮は思った。これほど生き生きと女たちと話す茂助を見たことはかつてなかった。

真之亮は黙ったまま、温かい湯気と共に屋台の親爺から手渡された蕎麦を啜った。熱い出汁が五臓六腑に染み渡り、蕎麦の匂いが堪らなく懐かしかった。町衆の中に身を置き、町衆の中で暮らす。もはや八丁堀に戻ることはない。そうした感慨とともに蕎麦を手繰った。

 

 朝早く、真之亮は一人で出掛けた。

 柳原土手を浅草御門まで行き、御門を潜って神田川を渡った。

 大通を北へとり浅草御蔵を右手に見つつ片側町を足早に歩いた。駒形町を過ぎると床店の並ぶ仲見世通りへ入り、まだ見世開き前の人影の疎らな雷門を潜った。

 浅草寺の境内裏は寺の由来から奥山といい掛け小屋の見世物や寄席などがあった。朝早く出掛けたにもかかわらず、すでに小屋の者たちが興行の支度に集まっていた。

 真之亮は北新町の聖天社参道を登った。急斜面の石段を実際に歩いてみると、若さに任せて駆け登った庄治の足に、腹の突き出た弥平が追い付けなかったのも頷けた。

 待乳山は七丈余りの小高い丘だが、眺望が開けて江戸市中が見渡せた。晴れた日には品川の海まで見えるというが、春霞なのか霞んで遠くまでは見渡せなかった。

 頂きの聖天社の周囲を廻ると、浅草寺の裏手から北新丁にかけて見通しが利き、本堂裏手からやって来る者は隠れようがない。あの夕刻、庄治が急いで駆けて来た姿だけでなく、その後を尾けて来る弥平も、下手人からは裸の梢越しに手に取るように見えていたはずだ。

 しかし庄治に僅かばかり遅れて聖天宮へ登った弥平は下手人を見ていない。すると下手人は参道を登って来る弥平とは別の道を逃げたことになる。参道の石段の他に下りる道があるのかと見廻すと、はたして聖天社の東角に山麓の新鳥越町一丁目に下りる一尺幅の獣道があった。それは途中から今戸橋袂山谷堀の船着場へ続く杣道と繋がっていた。

 山谷堀の船着場は吉原へ通う遊客が専ら利用することで知られている。江戸市中から猪牙船で乗り付けた御大尽も山谷堀で下りて、日本堤を吉原へと駕籠に揺られて行くのだ。夕刻なら船着場は書き入れ時でさぞかし混み合っていただろう。待乳山の杣道を今戸橋袂に下りて来たのであれば誰かが見ていたはずだが、よほど派手な格好でもしていない限り、山谷堀の人たちは気にも留めないだろう。だが獣道を降りて来た泥だらけの草履と小枝を引っ掛けた着物た者なら、さぞかし奇異に映ったはずだ。通人を見馴れた船着場の者たちの記憶に残っているに違いない。杣道を下り来ると真之亮は今戸橋袂に店開きの支度をしている茶店を見つけた。そして着物の裾や袖に引っ掛けた小枝を払うと縁台に腰を下ろした。

「店はまだやってないンだよ。雑巾がけしたばかりの緋毛氈も敷いてない商売道具の縁台に、勝手に座られても困るンだけどさ」

 店の奥から真之亮に向けて若い女のつっけんどんに叱る若い女の声がした。

 驚いて立ち上がると真之亮は後ろを振り返りった。お仕着せの藍千本縞を着て、店土間の縁台を雑巾がけしていた女の姿があった。齢に不似合いな厚化粧をしているが、頬のふっくらとした年の頃十四五と見えるどこか斜に構えた娘だった。

「聖天宮へ行って来たら喉が渇いた。なんなら水でも良いのだけどな」

 険しい眼差しを向けた娘に、真之亮は笑みを浮かべて見せた。

 すると板の間を拭いていた年嵩の小女が嘲りの笑みを浮かべた顔を上げた。

「茶店に来て水を呑ませてくれとからかうのはよしとくれ。かといってまだ釜に火が入っていないンだ、お茶の一杯も淹れられないよ。ご浪人は御苦労にも朝早くから聖天社様に縁結びの願懸けかえ」

――茶店に来て水を呑ませろという野暮な男に色事は無縁だろうけどね、との冷笑が女の顔に貼りついていた。

 雑巾を手桶の縁に置くと、塗り下駄を鳴らして店先に出て来た。十六、七の化粧前の浅黒い大造りな顔立ちをしていた。ただ目尻をつり上げ口元を歪めた顔付きには年増女の険があった。真之亮は臆すことなく笑みを浮かべて、のんびりと問い掛けた。

「一昨日の黄昏時に、そこの杣道を下りて来た男を見なかったかな」

 如才なく笑みを浮かべたまま、真之亮はやさしい物言いをした。

 しかし、娘は警戒の色を隠さずに真之亮を足の先から頭の先まで舐めるように見た。山谷堀の茶店で一休みして、取り巻きたちとナカへ繰り出すお大尽の派手な身形と比較されては真之亮に分はない。

「ここはナカへ遊びに出掛ける通人の立ち寄る船着場だ。裏勝りで着飾ったいろんなお大尽がやって来るのさ。わっちら茶店女は待乳山の木戸番じゃないンだ、誰が山からやって来るか見張っちゃいないンだよ」

 取りつく島もなく、女は真之亮を野良犬でも追っ払うように店先から追い立てた。

 しかし怒ってはいけない。およそ人は身形や顔かたちで他人を判断する。真之亮の身形はお世辞にも洒脱な通人とは言い難い。浪人髷とも呼ばれる、月代を剃らない小振りな本多髷を結っている。腰には二本差しではなく、差料の落し差しと素足に雪駄を履いている。とても主持ちの身分には見えない。しかも着る物に無頓着で、五尺五寸の身の丈に合う着物を茂助の商売物から適当に選んだ色褪せた着流しだ。誰がどう見ても真之亮はただの若い貧乏素浪人でしかない。

茶店の小女に軽くあしらわれても仕方ないだろう。真之亮が腹を立て、肩を怒らして懐から朱房の十手を引き抜いて見せたところで、それは野暮の上塗りというものだ。手持ち無沙汰そうに、真之亮は曖昧に頭を下げて店先を離れた。

 待乳山から下りて来た下手人が普通の身形をしていれば誰の目を惹くこともなく、難なく夕暮れの船着場の人混みに紛れ込むことが出来るだろう。釘を隠すには釘箱の中という。田舎の寂しい土地なら余所者が来れば人の目を惹く。ここではそういうわけにはいかない。おそらく、下手人は人に警戒心を抱かせないような真っ当な格好をしていただろう。そうした思案をしつつ、真之亮は柳原土手へと戻った。

「真さん、浅草寺から聖天宮まで歩いてどうでした」

 裏口から座敷に上ると、店土間から茂助が声を掛けてきた。

「別にこれといった収穫はなかったが、下手人は若く身軽な男だろう。そうでなけりゃ、日暮れた杣道を下りるのは困難だ。茂助が推察した通り、庄治と顔を突き合わせた時には下手人は殺害を心に決めていたはずだ。岡っ引の付け馬がいることを下手人は知っていた、しかも殺害後に逃げる手立てまで事前に考えていたのだろう。待乳山の杣道は山谷堀の船着場に出る。遊客か所の者でなければ怪しまれるはずだが、山谷堀界隈の茶店の女たちはそれらしき怪しい者が待乳山から下りて来たのを知らないようだ」そう言うと、手炙りの鉄瓶を取って真之亮は急須に湯を注いだ。

 真之亮は喉に渇きを覚えていた。先刻の茶店で水の一杯も飲ませてもらえなかった。切り落としの座敷に顔を出した茂助に「飲むかい」と目顔で問い掛けて、真之亮は畳の盆に湯飲みを二つ置いた。

「庄治を殺る決意を固めていたってことは、下手人は庄治の後を弥平がつけてると初っから知ってたってことですかね」

 上り框までやって来ると、茂助はそこに腰を下ろした。

「ふむ、どうだろうか。庄治に付け馬がいたとしても対処できるように、していたのかも知れないな。待乳山に登ってみて分かったが頂上の本堂裏から一帯が素通しに見渡せる。夕暮れの暗がりが気になるが、いかに弥平が慎重に庄治の後をつけたとしても、聖天宮から下手人が見下ろしていれば付け馬は丸見えだったろうぜ」

 そう言って、湯飲みを乗せた盆を茂助の横に置いた。

茂助は小さく頭を下げて、心に湧いた問いを投げかけた。

「それじゃ、弥平が後をつけていたから庄治は殺された、と」

――そういうことなンですね、と念押しするように聞いた。

「うむ、あるいはそうかも知れない。庄治に岡っ引の付馬がついていたから始末した、ということかも、な」

 真之亮がそう言うと、茂助は驚いたように顔を上げた。

 下手人は庄治の後を岡っ引がつけているのを知って殺した、ということは庄治に頼もうとした五十両の代価を払う仕事がどんなものかも想像がつくというものだ。

「下手人は悪事に庄治の腕を五十両で借りようとしたが、庄治が岡っ引の手下だと分かって殺したと、真さんはそう言いなさるンですかい」

 手にした湯飲みを宙に浮かせたまま、茂助は目を見張った。

 悪事に引き込もうとした庄治を殺してしまったからには、下手人は代りの者を探さなければならないだろう。多分、一味には身軽な男が必要なのだ。

「仲間を募って、いったい下手人は何を仕出かそうとしてるンですかね」

 庄治殺しの向こうに透けてみえる闇に、茂助は呟きを洩らした。

 真之亮や茂助に江戸の町に姿を隠して潜む下手人を探す手立てはない。姿をあらわすまで手を拱いて待つしかないようだ。真之亮はゆっくりと茶を啜り、「それでは」と町道場へ出掛けた。

 その日の夕刻、丸新に帰ると奥座敷の上り框に弥平と下っ引の仙吉が座っていた。

「どうした、親分と仙吉二人とも揃って浮かない顔をして」

 と、店先から真之亮は揶揄するように声を掛けた。

「へい、今度は昌平橋袂の又蔵親分が使っていた手下が殺されちまったンでさ」

 首をうなだれたまま、弥平は視線だけを上げて真之亮を見た。

「なんだと、いつ何処で殺されたンだ」

 真之亮は弥平の隣に腰を下ろすと、土間の茂助の顔を見上げた。

 今朝話したばかりの悪い筋書きが脳裏に甦ったのか、茂助は顔を暗くした。

「照降町は下駄新道の下駄職人で半次って野郎なンですがね、仕事道具の鑿を巧みに使って音も立てずに雨戸を器用に外す技を持っていやした。五年前に夜烏の寅蔵の三下に加わって呉服町の伊勢屋に押し入ろうとして又蔵に捕まり、石川島の寄場で三年半ほど厄介になっていた男でさ。寄場帰りじゃ親方の細工場には戻れず、又蔵が身元引請人となって下駄新道の長屋で細々と下駄作りの手間仕事をしていやしたが」

 殺された半次について、弥平は独り言のように語った。

「それで、半次は何処で殺られたンだ」と、茂助が急かすように言った。

「いつものように裏長屋で下駄を作っていたら、間もなく暮れ六ツかという時分に近所の年端も行かねえ子供が文を持って来たと思って下せえ。開けてみると『一晩五十両の仕事がある。稼ぎたければ暮れ六つに神田明神の境内に一人で来い。厭なら来ないのがお前の返事だ』と書いてあった。半次はさっそくその文を持って又蔵の家へ駆け付けた。又蔵はあっしから庄治の一件を聞いていたので、間を十分に空けて下っ引と二人で半次の後をつけて行った。神田明神の境内入り小口の鳥居の前に近所の子供が立っていて、「おじちゃんは半次か」って聞かれて「そうだ」と応えたようだ。すると、子供は半次に紙切れを渡した。半次はその紙切れを読むと駄賃と一緒に文を子供に渡して「後から来る岡っ引のおじちゃんにこの紙を渡してくれ」と言って駆け出したそうだ。子供から渡される文を又蔵が手にできるように前もって半次と打ち合わせてあったンだ。半次が立ち去ってから又蔵たちが子供から紙切れを受け取ってみると、『湯島天神へ駆けて来い』と書かれていた」

 そこまで言って弥平は言葉を切り、真之亮が差し出した湯飲みで喉を湿らせた。

「知っての通り、湯島天神は小高い丘にあるが参道の坂道は表と裏に二つ、男坂と女坂がありやす。又蔵は男坂から下っ引は女坂へと廻って二手に分かれて坂を登ったンでさ。手口からして庄治を殺った下手人と同じですから、逃すものかと必死の形相で坂を登った。登りきった茶店の前で下っ引と鉢合わせになったが、夕闇迫る天神様の境内に人の影はなかったというンでさ。しかも庄治と同じで、半次も湯島天神の鳥居の前で匕首を心ノ臓に突き立てられたまま、事切れていたっていうことでさ」

 弥平は首を折ってうなだれ、浅く溜め息をついた。

 話では手口は庄治の時と同じだ。茂助と真之亮は顔を見合わせて頷きあった。

「又蔵親分は下っ引と二人で暮れた境内を隈なく探したが、ついに怪しい者は見つけられなかったって、ということなのか」

話の先を急かせるように、手先の眼差しで茂助が訊いた。

「もちろんでさ。それこそ隠れんぼした餓鬼のように、二人が手分けして日の暮れた回廊の床下から社の裏まで、あますところなく探して廻ったが、参詣人はもちろんのこと怪しい人影もなかったということでさ」

 見つけられなくて当然だ、という顔をして弥平はこたえた。

 昼間であれば湯島天神は相当な賑わいを見せ、参道下や男坂の上にも茶店が出るほどだ。近頃では見晴らしが良いため参詣人ばかりか文人墨客までも足を運ぶ名所だが、日暮れとともに茶店は戸締まりをして無人となり境内から人影も消える。

「いや、今度は庄治の場合とは少しばかり異なるな。湯島天神の境内で下手人が待ち伏せていたとしても、遠く神田明神の鳥居までは見通せないはずだ。又蔵たちは十分に間を取って半次の後をつけた。しかも暮れ六ツをとおに過ぎている。だが、それでも半次は匕首で殺された。ということは半次の後をつける者がいる、と誰かが湯島天神の下手人に知らせたことになる」

 座敷に胡座を掻いていた真之亮が呟きを洩らした。

 その言葉を聞き咎めたように、弥平が首を後ろに捻じ曲げた。

「なんですかい、真さんたちは庄治や半次が殺されたのはあっしら岡っ引がつけていたからだ、とそう言いなさるンで。あっしらが尾けようが尾けまいが、下手人は初っから殺す気でいたンじゃねえンですかい」

 気分を害したように、弥平は眉間に皺を寄せた。

 弥平がそう思いたい気持ちは痛いほど分かる。自分が付け馬で尾けていたために、庄治が殺されたとあってはさぞかし寝覚めが悪いだろう。しかし最初っから殺すつもりだったら場所を変える必要はない。呼び出した場所で匕首を心ノ臓に叩き込めば済むことだ。

「庄治の件も半次の件も、南町奉行所じゃ非番月を盾にとって、本腰を入れてくれねえンでさ。町方下役人に命じて聞き込みや探索に走らせないばかりか、同心の旦那はあっしに他の用件を言い付ける始末で。所詮、庄治も半次も道を踏み外した半端者で、殺されたところで厄介の種が一つ減ったぐらいにしか思っちゃいねえのさ。貝原の旦那にしたところで……」と言いかけて、弥平はいきなり口を噤んだ。

 弥平が口を貝のように閉じたのにはわけがある。南町奉行所定廻同心貝原忠介の家と中村真之亮の家は生垣一筋隔てた隣同士だ。与力や同心は八丁堀の組屋敷に何代にもわたって暮らし、八丁堀の中で親戚よりも濃い付き合いをしている。中村真之亮と貝原忠介とは一回りも歳が違っているが、真之亮は幼い頃から枝折戸を自在に通って隣家へ我が家同然に出入りして、齢の離れた兄弟のようにして育った。

「貝原の旦那が乗り気でねえのなら、岡っ引にゃどうしようもならねえな」

 弥平に同情したのか、茂助はくぐもった声をかけて腕を組んだ。

「前科者が半端者だっていわれりゃ、あっしも呉服屋の小僧をしくじった半端者でさ。又蔵もいまじゃ親分と呼ばれていますが、元を正せば染物職をしくじった破落戸だ。ですから半端者が世間の片隅でまっとうに生きてゆく辛さは痛いほど良く分かるンでさ」と独りごちて、弥平は哀れなほど肩を落とした。

 町方役人は世間では不浄役人と陰口を叩かれている。百石以上の幕臣は将軍に拝謁できるお目見えだが、与力は二百石の身分にも拘らず不浄役人ゆえにお目見えを許されない。岡っ引も世間ではげじげじほどに嫌われ、借家への屋移りを大家に断られることもあった。

 真之亮が八丁堀に住んでいた頃にはそれほどと思わなかったが、市井に暮らしてみると、町衆が町方役人に注ぐ視線に厳しいものがあるのを知った。

「又蔵に手札を渡したのは貝原の旦那ではないな」

 岡っ引は手札を与えられた定廻同心の組屋敷に日に一度は顔を出す。昔から弥平は貝原の家に姿を見せ真之亮も見知っていたが、又臓という岡っ引は知らなかった。

「へい、同じ南町奉行所同心ですが、又蔵の旦那は荒垣様でさ」

 茂助の問い掛けに、弥平は怪訝そうに応えた。

 荒垣は名を伝之助といい南町奉行所定廻同心の中でもなうての頑固者で通っていた。歳は五十過ぎと茂助と余り変わらないはずだ。見習奉公も含めると奉行所勤めは四十年近くになる古参の定廻だ。ただ定廻に昇進したのは貝原忠介が二十代半ばと早かったのと対照的に、荒垣伝之助の場合は十年ほど前の四十過ぎと遅い昇進だった。それも頑固な性格が災いしたのだろう。

 ひとしきり愚痴を並べて弥平と仙吉が帰ると、茂助が上り框に腰を下ろした。

「そういえば神田明神も小高い丘の上にありやすね。たしか七丈余の高さで江戸城下の総鎮守として広大な境内を持っている。一の鳥居に子供を待たせていれば半次も、その後から来た又蔵たちも境内の何処からでも見通すことができる、そうでしょう」

 茂助は座敷で手炙りを抱え込んでいる真之亮に問い掛けた。

 茂助と真之亮は誰かが一夜の仕事に前科者を集めているのではないか、との思いは一致している。身軽な庄治を一味に加えることができなかったため、代りに荒業師の「雨戸破りの半次」を誘ったとは思えなかった。ということは、他にも様々な腕に覚えのある前科者を誘っているのではないか。

「茂助の考えた通りだとして、どうやって遠く離れた湯島天神の境内まで又蔵たちが尾けていると知らせたンだろうか。半次を殺害した下手人は湯島天神で待ち伏せていたンだぜ」真之亮は空になった湯飲み茶碗を両手で包み込むようにして俯いた。

「そいつは儂にも分からねえですがね、いずれの場合もいったん別の目立つ場所に、それも見通しの良い所へ呼び出してから、他の見晴らしの良い場所へ変えていやす。気になりやすのは、庄治も半次も同じように前非を悔いて岡っ引の手下になっていたことでさ」と険しい手先の眼差しをして、茂助は真之亮を見詰めた。

「善行を積んでいる者が良い人生を送れるとは限らない。かえって人の嫉みを買うこともある。ちょっと待てよ、下手人はそのことを確かたのかも知れないな」

 両手で弄んでいた湯飲みを盆に戻して、真之亮は眉根を寄せた。

「なるほど。夜働きのために腕の立つ前科者を集めても、その中に岡っ引の手下がいてはまずい。つまり、そういうことか。岡っ引の手下になっている者を仲間に引き入れちゃ自分で自分の首を絞めることになる、と」

 茂助も飲み終えた湯のみを盆に戻して、真之亮に視線を遣った。

「明日は午前中で代稽古を切り上げさせてもらって、神田明神から湯島天神まで歩き、そのついでに八丁堀へ貝原殿の顔でも見に行くとするか」

 背筋を伸ばすと、真之亮は吹っ切れたような声を上げた。

 すると茂助も頬に笑みを浮かべて「へえ、八丁堀で用事があるのは貝原の旦那だけですかい」と揶揄するように問うて、他に寄る所があるのではないかと謎をかけた。

「なぜだね。兄上や母上と会うと何かと面倒だから、家には寄らないつもりだが」

 そうこたえて、真之亮は茂助から目を逸らした。

「いや、そうじゃねえでしょう。お良さんと逢って、この近くに家を借りる算段をしなきゃならねえでしょうが。いつまでも先延ばしにはできねえンですぜ」

 煮え切らない真之亮を責めるように、茂助は詰め寄った。

――悠長に構えている暇はねえんですぜ、と茂助の強い口調が叱っていた。

 確かに茂助の言うとおりだ。娘が年を取るのは男よりも早く、悠長に構えている暇はない。それを指摘されると真之亮は頭を下げるしかなかった。

 お良は八丁堀組屋敷の南端に寄り添うように貼りついた細長い町割、東南茅場町の町医者了庵の娘だ。歳は二十歳を過ぎて既に年増になっているが、父を助けて薬箱を手に提げて白い上っ張りを着て父の供をして組屋敷に出入りしている。しかし、いつまでもそうしていられない事情があった。それは兄の哲玄が長崎での蘭方医修行から七年振りに帰って来るからだ。

 兄が帰ってくるだけではお良とは無関係だが、ただ哲玄は江戸に帰ると日本橋通の薬種問屋泰正堂の末娘お千賀と所帯を持つことになっている。そもそも、哲玄が長崎へ蘭方医修行するに際して、学資を用立てたのは泰正堂だった。二人の婚姻は了庵と泰正堂の主人源右衛門が決めたことだが、長崎遊学から帰府すると哲玄とお千賀は所帯を持って、東南茅場町の家で蘭方医院を開業することになっている。

 当初長崎への医学修行は三年と期限を切って出立した。が、直後に蘭学嫌いの鳥井耀蔵が南町奉行に就任するとあからさまに蘭学弾圧を始めた。やむなくずるずると帰府を延ばしたが、番社の獄により何人もの高名な蘭学者が捕縛された。哲玄も通っていた江戸でも高名な蘭学塾の師匠伊東玄朴ですら幕府医学学問所教授を解任されて蟄居を命じられた。蘭方医は看板を下ろして医院を閉め蘭学者は鳴りをひそめて逼塞して、時代の嵐が通り過ぎるのを亀のように首を縮めて待つしかなかった。

 そうした時節に蘭学医の哲玄が江戸に戻るのは危険だとして、三年の予定を一年また一年と延ばしているうちに七年もたってしまった。それが去年、鳥井耀蔵が失脚し今年になって丸亀藩御預と決まると、江戸に吹き荒れていたさしもの蘭学弾圧の嵐も過ぎ去った。

しかし歳月は人を待たない。その間にもお千賀も年増といわれる二十歳を三年も過ぎてしまった。泰正堂にとってはもはや悠長に構えているわけにはいかない。哲玄はすでに江戸へ向かって東海道を下り掛川の宿場に着いたとの報せがあったという。

 茂助の苛立ちは尤もだ。真之亮は白い灰の下に覗く赤い炭火を見詰めて、深く溜め息をついた。哲玄が戻れば日を措かずして泰正堂のお千賀を娶り東南茅場町の家で暮らすことになる。狭い家にお良の身の置き場はなくなるだろう。

真之亮は八丁堀の家を出る折にお良と二世を契った。いつまでも待たせておくことは出来ない。真之亮は茂助の怒ったような横顔を見て「そうだな」と力なく呟いた。

「ここは是非ともお良と逢って話さなければはらないだろう、が、」

 と、重い気持ちを引き摺るように、真之亮の物言いは歯切れが悪かった。

「ええい、じれったいな。好いた女と所帯を持つのに、すべてが整うまで先延ばししてたンじゃ、真さんもお良さんも白髪頭の年寄になっちまいやすぜ、儂みてえな」

 茂助はそう言って、店先から声をかける女客に「へい、ただいますぐに、参ります」と声を張り上げた。

 初午を過ぎて、もうじき方々に雛市の立つ時節になっている。

季節の変わり目は古手屋の書き入れ時だ。間口二間の同じような数十軒もの古手屋の建ち並ぶ柳原土手は古着を求める客でひきも切らない。糸を糸車で紡ぎ機織機で布を人の手で織る時代、反物は貴重品だった。たとえ一切れの古布でも継当てに使って粗末にしなかったし、江戸随一の呉服屋駿河町三井越後屋でさえ、反物を断ち切った残りの端切れを売っていた。大店の旦那か番頭でもない限り着物を新調することはなく、江戸の町人は古手屋を重宝したし、それは武家でも変わりなかった。大名か大身の旗本でもない限り武家の妻女も柳原土手の古手屋の店先で古手を買い求めた。

「ちゃんと言うンですぜ、茂助は古手屋を真さんに譲るつもりで丸新の用心棒に雇ったと。ナニ、万が一にも御用をしくじったって、倹しく暮らす分にゃ不自由はありやせん。この界隈のどの古手屋だって、床店稼業のお上りだけでちゃんと所帯を養ってるンですぜ」

 そう言って、茂助は余計なことを口にしたとばかりに首を竦めて店先へ急いだ。

 真之亮が隠密同心の御用を賜っているのは極秘だ。そのことはお良にすら教えていない。もちろん母や兄にも隠しているし、今後とも隠し通さなければならない。

 ただ拝命した隠密同心は町奉行所の三廻りの一つの町奉行所の御役目ではない。真之亮が拝命した隠密廻りは、いわば遠山景元直属の家臣とでもいうべきものだ。

 与力や同心は一代抱席といいながら実は世襲で、実質的に身柄は奉行所に属す。その一方、御奉行は千石以上の旗本が命じられて就任し、任期にある時だけの勤めだ。町奉行の任期は長くても十年、短ければ数ヶ月で罷免されることもある。遠山景元の前任者鳥井耀蔵の町奉行の在任期間は三年余りでしかなかった。

鳥居燿蔵は南町奉行に就任すると老中首座水野忠邦の改革を強力に推進し、奢侈禁止令を発して苛酷な締め付けを断行した。厳罰を以って臨んだが、強権は強権さゆえに腐敗する。たとえ老中首座水野忠邦が清廉潔白だったとしても、政令は町奉行所へ通達されて、実際に直接権力を行使するのは町方役人だ。南町奉行所与力や同心は老中の政治信念とは関わりなく、直属上司の鳥井奉行の手足となって働く。鳥居燿蔵の熾烈を極める命令に従って、与力や同心が町衆を厳しく取り締まる。そうすると、岡っ引たちは箍が外れたように町衆から袖の下を求めた。

 失脚によって老中や奉行は代わっても、実務を取り仕切る与力や同心は代わらない。町奉行所の与力や同心はそのまま役所に残り与力や同心であり続ける。新任奉行の意向が町奉行所の隅々まで掌を返したように行き渡るものではない。その弊害を取り除くために歴代奉行は直属の私的な隠密同心を用いた。真之亮の身分は他の同心と同じく三十俵二人扶持として取り立てられた。しかし真之亮は正真正銘の一代限りの隠密同心だ。もちろん八丁堀に組屋敷を拝領することはなく、市井に暮らして十日に一度、数寄屋橋御門内南町奉行所裏手の役宅に顔を出すのが役目だ。

「弁慶橋袂の松枝町の借家だが、広すぎはしないか」

ためらうように、真之亮は言尾を濁した。

「何言ってるンですか。肝煎に頼んで探してもらったンですぜ。夫婦はいつまでも二人っきりじゃねえだろうし、奉公人だって置かなけりゃならないでしょうよ」

 店先で客の相手していた茂助が急に振り返った。

 真之亮は奉公人のことよりも茂助のことが気掛かりだった。茂助は柳原土手の古手屋株を手に入れる折り、肝煎と柳原土手の用心のため丸新に宿直を置くと約束していた。お良と所帯を持って松枝町に新居を構えると、丸新は茂助一人になってしまう。年寄り一人を柳原土手に置くのは不用心なことこの上ない。

「茂助、半年ばかり丸新で寝泊まりしているうちに、拙者はここがすっかり気に入っとしまった。そこでどうだろう、拙者が丸新に寝泊まりして、茂助が松枝町へ移るってのは」

 存外に真面目な顔をして、真之亮は茂助に言った。

「冗談じゃねえですぜ、新妻のお良さんとわしが松枝町に泊まるだなんて。それに真さんは隠密とはいえお庭番ではなく同心だ。立場ってものをわきまえなきゃ」

 子供に理を説くように、茂助は口を尖らせた。

「それなら、土手道を挟んですぐ向かいの神田富松町の長屋ではどうだろうか」

 真之亮は控えめな物言いで茂助に同意を求めた。

「儂を心配して下さる真さんの気持ちは嬉しいが、神田富松町は裏長屋しか空いてねえンでさ。いくらなンでも割長屋じゃお役目が充分に果たせねえ。真さんは自分たちだけのことを考えちゃいけねえンでさ、同心は町衆のために働くンですぜ」

 真之亮に意見する代りに、茂助は役目に就く心掛けを語った。

 町方役人の心得に関しては手先を三十年から勤め上げた筋金入りの茂助には敵わない。茂助の意図に従わざるをえないものと真之亮は観念したが、それでもやっとのことで茂助の言葉尻をつかまえて顔を綻ばせた。

「先刻、茂助は奉公人を置くと言わなかったか」と、真之亮は茂助に聞いた。

「へい、確かに言いやした。奉公人といってもまずは手先ですが、儂に当てがありやす。真さんも知っている銀公の野郎を使ってやっちゃもらえやせんか。何しろ元掏摸だから身が軽く手先は器用で勘働きも鋭い。肝煎に頼んで香具師の真似事をさせてもらっていやすがね、銀公の器量からすりゃあ広小路で屋台の啖呵売をさせるのは勿体無いンでさ」そう言って、茂助は真剣な眼差しを真之亮に向けた。

 茂助が銀公と呼ぶのは名を銀太という掏摸のことだ。歳は十八とまだ若いが、茂助がいままで数多く見てきた掏摸の中でも筋が良いという。

知り合ったのは去年の師走、銀太が柳原土手でお店者の懐中物を掏り取ったのを店先にいた茂助が見破って捕まえた。すぐに腕を捲くって入れ墨から銀太が三度も捕まっていると知った。掏摸はお縄になっても三度目までは右腕に墨を入れられ、『叩き』の罰を受けて解き放たれる。大した罰を受けないが、四度捕まると『仏の顔も三度まで』の諺通り、一も二もなく土壇場に据えられて斬首の刑に処せられる。それが掏摸の過酷な運命だ。茂助は銀太の手から紙入れをもぎ取るとお店者を呼び止めて「もし、紙入れが落ちやしたぜ」と返してから銀太を睨み付けて放免した。それ以後、銀太はちょくちょく丸新に顔を出すようになり、茂助が肝煎に口を利いて仕事を世話してもらい掏摸から足を洗わせた。

どういうわけか、茂助は銀太を気に入っている。

「とにかく茂助の言う通り、いずれお良と会って話さなければならないが、」

 重い口でそう言うと、真之亮は裏口から雪駄を履いて土手へ出た。

 既に空は茜色に染まっている。店の横路地を土手道へ上ると、いつの間にか人の流れは疎らになっていた。昼間の暖かさが嘘のように去って、冬の冷気が舞い戻って背に貼りついた。店先に出て来た茂助は「店仕舞としますか」と真之亮に声をかけた。

 茂助が軒下の紐に吊るしていた古着を店の中へ移し、真之亮が戸板を梁と敷居の間に嵌め込んだ。戸締まりを済ますと、二人揃って一膳飯屋の神田屋へ出掛けた。

「先ほどの借家と手先の一件、話を進めやすからね。ようござんすね」

 並んで歩く茂助が顔を上げると、真之亮に念を押した。

 今すぐにも、松枝町の借家と銀太の件を決めておきたいのだろう。

「銀太を手先にするからには、拙者の御用を明かさなければならないな」

――隠密同心だと銀太にしゃべって大丈夫か、と真之亮は茂助を睨んだ。

「銀公はああはみえても性根の座った男でさ。五尺足らずと小柄な上、身体も細いが身の軽いのが何よりで。ヤットウと御用を真さんが引き受けりゃ、後は身軽で使い走りの足の速さと血の巡りの良さを兼ね備えた男が入用だってことでさ。銀公にゃ嵌り役だと思いますがね」と、懇願するような茂助の口吻に、真之亮はふわりと笑った。

 顔を合わせればボロのチョンだと貶すが、茂助は銀太とよほど肌が合うのだろう。

 銀太は親の顔を知らない。銀太の幼い頃に東北地方を中心に深刻な飢饉が襲い、江戸に流民が流れ込んだ。浮浪児として浅草境内を塒にしているのを掏摸の親方に拾われ、十を幾つも出ない頃には立派な掏摸に仕立て上げられていた。

「借家も奉公人もすべて、茂助に任せるとしよう。後は拙者がお良にこれからのことを話さなければならないってことだ、な」

そう言って、真之亮は神田屋の縄暖簾を掻き分けた。

 一膳飯屋から戻ると茂助はさっそく銀太の件の話をつけに、陽のある内にと下柳原同朋町の肝煎を勤めている甚十郎の家へと出掛けた。こうした場合、頼りになるのは界隈の肝煎だ。

 銀太を手先に置けば何かと助かるのは確かだ。茂助もすでに五十の坂を越えて、いつまでも古手屋の店番に座ることは出来ない。月に二度の古着市へ出掛けて仕入れるのも、荷が嵩張るだけに辛そうだ。腰の軽い男がいれば御用を勤める上でも助かるのは間違いない。銀太だけではなく古手屋の方にも人手が必要な気がした。

 手炙りを抱えて背を丸くしていると、茂助が銀太を連れて戻ってきた。

「銀公、遠慮しねえで上れ。真さんを知っているな」

 茂助の声がして、裏口が開いた。闇に銀太の挑むような眼差しがきらめいた。

「真さんて滅法やっとうの強い、爺さんの居候だろう」

 銀太の声がして、二人の顔が裏口に覗いて行灯の明かりに浮かんだ。

 茂助に促されて二人は手炙りの傍らに座り、顔を見合って軽く頭を下げた。

「やい銀公、いや銀太。これから儂の言うことは金輪際誰にもしゃべっちゃならねえぞ。いいか、心して聞け」

 茂助が手先の眼差しを向けると、銀太は訝しそうに首を傾げた。

「まさか爺さんは夜盗の親玉かい、いやに鋭い目付きをしているが。ハハン、おいらを夜働きの仲間に引き込もうって魂胆か。さて、どこの大店へ押し入るンだい」

 茂助をからかうような目付きをして、銀太は切れ目なく言い募った。

 その強がりにはまだ大人になりきっていない若い男特有の青臭さが透けてみえた。

「おい、黙らねえか。ここは性根を据えてきっちりお前の料簡を聞きてえンだ」

 そう叱り付けると、茂助は真之亮に「あれを」と目配せした。

――懐の十手を銀太に見せて下さい、と茂助が目顔で言った。

 真之亮は少しばかり躊躇して、懐から真新しい朱房の十手を引き抜いた。

「おっと。なんだ、そりゃあ。いったいなんの真似だい」

と、銀太は口を尖らせて腰を浮かせた。

「銀太、誰にもしゃべっちゃならねえぜ。真さんは、いや中村真之亮様は南町奉行附の隠密同心だ。お前はその配下になるってことだ。隠密だから世間様におおっぴらにゃ言えねえが、いわば銀太は同心付きの手先になる。分かったか」

 茂助が低い声で言い聞かせると、銀太は十手の朱房を見て目を剥いた。茂助の言う通り、朱房の十手は町方同心の持ち物だ。

「ちょいと待ってくれ。おいらは自慢じゃないが、元掏摸だぜ。それも三度もお縄になった筋金入りの掏摸だ。そんな男が同心の手先になって罰は当たらないのか」

 銀太は抜け目なさそうな細い目で茂助を見詰めた。

「罰は当たらねえから心配するな。掏摸だったお前はすでに叩刑の罰を受けてまっさらになっている。あとはお前の心掛け次第だ、真さんの手先になるンだな」

 そう言って、茂助は念を押すように銀太に頷いて見せた。

「おいらは面食らうばかりだが、同心の旦那の乾分になるとして、一体どうすりゃ良いンで」神妙な顔付きをして、銀太は茂助に訊いた。

 どちらかというと大きな顔に獅子頭を配置したような茂助の面立ちと違って、銀太はにきびの吹いた芋のような丸みと泥臭さを感じさせる顔付きをしている割に、目鼻立ちははっきりとしている。どうらんを塗ってにきびを隠せば舞台にでも立てそうな役者顔だった。

「明日にも、真さんは松枝町の仕舞屋へ移る。丸新の用心棒の真さんがいなくなったら、お前はここで儂と寝泊まりする。手先といっても隠密同心の手先だから、毎日南町奉行所へ出向くことはねえし、町方を差配して捕物をすることもねえ。ただ、真さんが御用を仰せ付かったら、その手助けをすりゃ良いンだ。世間様に対してはあくまでも古手屋の奉公人で通すからな」

 茂助が話すうちから、銀太は不服そうに頬を膨らませた。

「とか何とか言って、実のところは体良く古手屋でコキ使おうってンじゃねえのか。古狸の言うことは嘘が多くて当てにならねえからな」

 さっそく血の巡りの良さを発揮して、銀太は穿ってみせた。

 茂助と銀太の遣り取りを聞いていて、真之亮は無理もないと思った。こちらからは何も知らせないで黙って従えというのは乱暴だ。手先に任じたからには、いま関わっている事件について何も教えないわけにはいかないし、銀太の考えも聞いてみたくなった。

 真之亮は庄治殺しと半次殺しの事件を語って聞かせた。腕を組んで銀太は黙って聞いていたが、真之亮が話し終えるとさっそく口を開いた。

「腕の良い筋者を集めるにゃ前科持ちに当たるのが一番手っ取り早いだろうぜ。が、中には悪事から足を洗った者もいるわけだから、目を付けた前科者を面通ししなきゃならなかったンじゃないか。ただ、真さんは下手人を男だと決めてかかっているようだが、そりゃどうだろうかね」

 銀太が一人前の口を利くのに、茂助は慌てた。

「おいおい、お前が真さんと呼ぶのは十年早いぜ。旦那と呼べ」

 茂助は銀太を叱り飛ばしてから、銀太の言葉に「ふむ」と腕を組んだ。

 銀太の言うことに筋が通っている。下手人を男と決め付けた根拠は何もない。

「いや、拙者は真さんで構わない。それより銀太、下手人が女だと思うのはなぜだ」

 真之亮は銀太にやさしく訊いた。

 すると銀太はにやりと笑みを浮かべて「男ってなスケベだろうが」と切り出した。

「むさ苦しい野郎が近寄って来て、身構えない者はいないぜ。天と地ほど腕が違うのならまだしも、身構えた者同士が殺しあって瞬時に片がつくようなことはねえ。掏摸仲間でも腕の良いのは決まって女だ。掏られるのは大概男だから、女の方が都合が良いのさ。婀娜な年増が近寄れば、男なら誰だって鼻の下を長くして隙が生まれる。匕首で心ノ臓を一突きするのは懐から紙入れを掏り取るよりもた易いことだろうぜ」

 そう言うと、銀太も茂助を真似るように首を捻って見せた。

 なるほど掏摸は掏摸の「気」を消して近寄り、気取られないうちに素早く指働きをする。人は殺気を放つ相手には自然と身構えるが、妖艶な女が品を作って近寄ればつい油断をするのも道理だ。

待乳山では不審な男がいなかったかと訊いて廻ったが、真之亮は銀太の話を聞いてなるほど男と決めてかかるのは危険だと頷いた。

「そういうからには銀太、女掏摸で心当たりの者がいるようだな」

 切り込むように、茂助が鋭く訊いた。

「下手人を見たわけじゃないし、これって思い当たる女がいるわけじゃねえ。が、おいらに指技を教えてくれた親方の娘にお蝶ってのがいてね。お蝶姐さんなら確かな指技を持っているし、にっこり笑って男を殺すぐらいヘとも思わないだろうぜ。ただ親方が土壇場に据えられ首を刎ねられちまってからこっち、掏摸仲間は散り散りになっちまったからな。なんでもお蝶姉さんは浅草を離れて品川宿あたりで江戸へやって来る物見遊山のお上りさんたちの懐中を狙っていると、風の噂を耳にしたことがあったけどな」

 そう言って口を結び、銀太は今一度「良いですかい」と断って口を開いた。

「真さんの話では、殺しを働いた下手人に庄治たちの後を尾けている者がいることをどうやって報せたか手配せの段がなかったけど、おいらが掏摸を働いている時には指で合図を送ったものだぜ。紙入れを掏ったまま持っていると捕まった時に申し開きができない。符丁を決めて合図を送り掏った紙入れを素早く仲間に渡してから、堂々と捕まるンでさ。そうすれば裸に剥かれたところで紙入れは出てこないって寸法だ。今度の事件はいずれも下手人が夕刻に誘い出している。ってことは闇に紛れて逃げるのに都合が良いのと、合図に明かりが使えるってことじゃねえかな。提灯じゃ明かりが四方八方に散って周囲の者に不審がられるが、龕灯なら相手を狙って合図を送れる。明かり口を小さく細工して、奥に明かりを撥ね返すギヤマンの鏡を仕込んでおけば、法外なほどの遠くからでも明かりは見えるはずだぜ」

 銀太の話を聞いていて、茂助と真之亮は舌を巻いた。

 なるほど銀太の言う通りだ。日暮れに誘い出しているのは殺してから宵闇に紛れて逃げるためだとばかり考えていたが、知らせる手段に明かりが使えるということもある。そういえば、いずれも待ち合わせ場所に神社が使われているため火種には困らない。神社の境内なら夕暮れに限らず、昼間からお灯明がともされているからだ。

「銀太の言う通りだとして、下手人たちは何を仕出かそうとしているのかな」

 真之亮は銀太に茶を淹れて湯飲みを差し出した。

「普通に考えりゃ大店に押し入り、金品を奪うっていうのが通り相場だぜ」

 と言うと銀太は茶をひと啜りしてから「それより、もう一つ訊いて良いですかい」と、湯呑から顔を上げて尋ねた。

「ちょいとばかり、前科者ばかり誘いをかけて殺しているってのが良く分からなえンで。大抵の者は寄場から娑婆へ戻れば姿を晦まして、身を潜めて世間の片隅でひっそりと暮らすものですぜ。その行方を捜し出すだけでも大した手間がつくとは思いやせんか」

――なぜ手間のつく前科者をわざわざ探し出して夜働きを持ち掛けているのか、と銀太の双眸が尋ねていた。

 夜盗一味は気心の知れた者で徒党を組むのが常だ。押し込み先の状況を探って段取りを決め、押込んだ後はほとぼりが冷めるまで時には半年近くも塒に潜伏することになる。周到な支度をして身を潜める塒まで探して、その上決して裏切らない気心の知れた仲間まで集めるとなると、押込み強盗はなかなか難しい割に合わない仕事だ。

「銀太の言う通り、儂もそこンとこはちょいとばかり引っ掛かるぜ」

 茂助も銀太と同じように首を傾げた。

 銀太の知恵はなかなかのものだった。茂助が手先にと連れてきたが、当の茂助にもこれほど銀太の眼力が鋭いとは思ってもなかったようだ。

「今夜はこの程度でお開きにして、湯屋へ行ってきな」

 茂助は二人の顔を見廻してそう言って、急き立てるように手を振った。

 あまり遅くなると湯屋の湯は垢で泥湯のようになる。やむなく真之亮は腰を上げて、銀太と連れ立って残照の消え残る柳原土手を湯屋へと向かった。

 

 明くる朝、真之亮は銀太を連れて丸新を出た。

 柳原土手道の続きの神田川南河岸道をとって神田明神へと向かった。道々銀太は河岸道に口を開けている細い路地が何処へ続いているか、何処ぞの表店の主人は入婿で何処ぞに女を囲っているとか、どこの家の娘は器量良しだとか、どこぞで飼っている犬は良く吠えるとか、雑多で下世話な事柄を真之亮に語った。銀太の呆れるほどの博識と、江戸中の小道をすべて頭に叩き込んでいるのかと思える記憶力に舌を巻いた。

 半次の足取りを辿ってまず神田明神を検分して、そこから湯島天神へ足を向けた。

「半次が神田明神へいった時、下手人の一味は境内にはいなかったンじゃないかな。湯島天神までは離れすぎているし、駆けてゆく通りはこの一本道だ。又蔵親分が用心して十分に間を置いて離れていても、半次の後を尾けているのはバレバレだっただろうぜ。半次を殺すのに又蔵親分が石段を登りだしてから、天神下の示し合わせた場所から龕灯で丘の上の下手人に合図を送っても十分間に合うわけだ」

 銀太はそう言って、辺りに意を払いつつ慎重な足取りで歩いた。

 昨夜に続いて、真之亮は銀太の眼力に感心した。

「どうしてそんなに手に取るように、銀太には分かるンだ」

 真之亮が訊くと、銀太は振り向いて寂しそうに笑った。

「場所を良く見るってことでさ。掏摸ってのは掏り取ったら終わりじゃないンだ。実は掏ってから後始末の方が大事なンだ。何処をどうやって逃げるか、町方がこっちから来たらあっちへ逃げると、細かな路地の隅々まで下調べしておくものだぜ。何しろおいらたちにとっちゃ命懸けだぜ」

 厳しくも後ろめたかった日々を思い出してか、銀太は眉を暗くした。

 神田明神から湯島天神までの道々、真之亮は黙ったまま銀太の話を聞いた。

 湯島天神を男坂から上ると銀太は裏口へ走って、切り通しへと続く女坂を丹念に見回した。そして境内の周囲を走り廻って杣道を探した。しばらくして得心したのか、鳥居の傍らに立っていた真之亮に「これといった杣道はありませんや」と言った。

「十中八九、下手人は男坂の参道の石段を下りた。女坂は切り通しに出て、上野不忍池へ出るか本郷の武家屋敷へ抜けるしかない。上野はいわずと知れた不忍池の水辺に多くの出会い茶屋が軒を連ねる男女の密会場所だ。そうした街には、悪党や破落戸が儲けのネタが転がってないかと目を光らせている。婀娜な女が逃げるのにそうしたややこしい場所はまず通らない。それかといって本郷の武家屋敷へ逃げれば、町女は辻番小屋で見咎められる。そうこう考えれば、下手人の女は堂々と参道の石段を戻ったと考えるしかない。途中で又蔵は下手人と擦れ違ったはずだが、親分に下手人は屈強な男との思い込みがあったのと、一刻も早く境内に辿り着こうと気が急いて、すれ違った女を見咎めなかったのだろうよ」

 銀太はそう言って「そのことを又蔵親分に会って確かめたいンだが」と真之介を覗き込んだ。

 真之亮は銀太の申し出に頷いた。いずれにせよ、八丁堀へ行くには神田明神へ引き返さなければならない。昌平橋袂の又蔵の家はその先の通り道にある。

 弾むような足取りで先を行く銀太に追いつこうと真之亮も大股に急いだ。十年来剣術で鍛えて足腰に自信のある真之介だが、銀太の健脚ぶりには顎が出そうになった。銀太は足腰のばねの強さを感じさせる足運びで疲れ知らずだった。

 又蔵の家へ行くと親分は照降町の自身番へ行っていると聞かされ、その足ですぐに照降町へ向かった。又蔵と面と向かって銀太がどのような知恵を使って聞き出すのか、と真之亮には楽しみですらあった。しかし浮浪児を生き延びた銀太の身の上にどれほど過酷な日々があったのか、その過酷さが銀太の知恵を鍛えたのだと思い至ると、真之亮の心に暗い翳りが差した。

町名が変わるとそこかしこの軒下に、立て掛けて乾かしている材木や下駄の形に挽いて重ねた木が山と積み上げられ、濃い木の香が町中に漂った。

又蔵は照降町の自身番にいた。肩幅のあるずんぐりとした体付きの男だが、上背は五尺を幾らも出ていない。大きな顔に人の良さそうな団栗眼をしていた。真之亮は自分を古手屋丸新で厄介になっている居候と紹介し、銀太はそこの使用人だと話した。

「おいらに何の用だ」

 切り落としの座敷の端に腰を下ろしたまま、又蔵は不機嫌そうに真之亮と銀太を睨んだ。銀太は真之亮の前に出るとお店者らしく、上がり框に腰掛けたままの又蔵に丁寧に頭を下げた。

「一昨日の夕刻、親分が湯島天神に行かれたと耳にしたもので」

 愛想笑いを浮かべるというのでもなく、銀太は真剣な眼差しを向けた。

「この旦那がワケありの女と夕刻に湯島天神で待ち合わせていたンですが、野暮用があって行けなかった。それで女が境内にいたかどうか知りたくて、へい」

 銀太がそう言うと、又臓の眼差しに嘲りの色が浮かんだ。「女がらみの下らない話をしに、わざわざ俺を自身番まで訪ねてきたのか、暇な野郎だぜ」とでも言いたそうだった。

「境内にゃ誰もいなかったが、女に振られたか。待てよ、そういえば石段を下りてくる婀娜な年増と擦れ違ったぜ」

そう言うと、又蔵は記憶を手繰り寄せるように目を閉じた。

「ああそうだ。あの時、あの女は境内にいたンだ。そうか、女は下手人を見たかもしれねえな」

 そう言うと又蔵は食い付くような眼差しで睨むと上り框から腰を浮かし、顎を突き出しすようにして土間の銀太に向かって口を開いた。

「おう、おめえたちが探しているのはどんな女だ」

と、又蔵は野太い声で銀太に訊いた。

「へい、年の頃は二十歳過ぎの町女で、五尺を超える大女でやや太り肉と、」

 銀太は気圧されるように腰を引いて、愛想笑いを浮かべた。

「そりゃあ、まるで違うぜ。暗がりで顔までは分からなかったが、石段で擦れ違った鳥追は二十と五、六の色年増。身の丈は五尺どころか四尺余りの小柄な上に、華奢な体付きだったぜ」

 銀太を追い払うように手を振ると、又蔵は溜め息をついて腰を下ろした。

 又蔵の見た女が銀太の尋ねる女なら、これから下手人の手掛かりを知っているか聞き込みに行けるが、違っていては女が何処の誰とも分からない。下手人の糸口を掴んだかと色めきたったが当てが外れてしまった、と又蔵は落胆の色を隠さなかった。

 しかし、自身番から出ると銀太は「違いねえ」と囁くように呟いた。

「違いないとはどういうことだ。又蔵の憶えていた鳥追と銀太の言った女とはまったく違っていたではないか。つまりお蝶ではないということだろう」

 下駄屋の多い一画を通り過ぎると、真之亮は銀太に訊いた。

 すると銀太は「藤四郎だな」と軽蔑するように吐き捨てた。

「又蔵親分の言った女がお蝶姐さんだ。おいらは出鱈目を並べ立てたンだよ」

――当然だろう、と言いたそうな目を向けて銀太はこともなげに言った。

「お蝶姐さんの特徴をしゃべってドンピシャなら、又蔵親分が喰らいついて来て面倒になるのは目に見えてら。おいらはそんなドジは踏まねえ。しかし、風の噂に品川宿を縄張りにして稼いでいると聞いていたが、お蝶姐さんは誰と組んで何をしているのだろうか。殺しまでしでかして、掏摸の風上にも置けねえな」

 独り言のようにそう呟いて、銀太は足を速めた。

 小柄な銀太が大股に神田鍛冶町を急ぎ、真之亮がその後をゆったりとした足取りで追った。陽も高くなり町を行き交う人が目に見えて増えた。

 町奉行所与力や同心は四ツに役所へ出仕することになっている。南町奉行所は非番月のため、同心貝原忠介は時刻通りに組屋敷を出る。まだ一刻ばかり余裕がある。同心の家に生まれ育ったため、非番月の同心の日課は熟知していた。

 日本橋は橋巾が大通りの半分しかないため行き交う人の肩が当たるほど鈴なりになっていた。真之亮と銀太は混雑する日本橋を渡り堀割に沿って南へ下った。人波を掻き分けるようにして歩いた大通から一筋外れると人影は疎らになり、表通りの雑踏は嘘のようだった。青物町から海賊橋を渡って八丁堀の一画に着いた。

「真さん、おいらは町方役人の暮らす町御組屋敷へ行くのはあまりぞっとしないな。なんだかこのままお縄になって引っ立てられて、土壇場に押さえつけられるような厭な心持ちがしてきたぜ。役人に肩を押し下げられ、首を地面の穴の上に突き出して、バッサリやられるような気分だぜ」

 銀太は真之亮を振り向き、ブルルッと首を竦めて見せた。

 南へ下って茅場町の町医者了庵の家の前を横目に見て通り過ぎ、真之亮は三叉路で右へ曲がった。二百石取り与力の組屋敷は三百坪ほどの広さがあり冠木門があるが、同心の場合は百坪程度の屋敷に三十坪足らずの平屋が建ち、入り小口に門柱が立っているだけだ。三十俵二人扶持の御家人としてはそれでもまだましな屋敷といえた。漆喰の白壁道の表通りから一筋裏へ入れば生垣で区切られ同じような組屋敷が整然と並んでいる。

「夜更けて酔っ払って帰ったら、入る家を間違えないか」と、銀太が皮肉っぽく笑った。

「いや、存外間違えないものだ。正体をなくすほど酔っていても、朝起きるとちゃんと自分の家に帰っているものだ」真之亮が真面目な顔をして応えると、

「チッ、冗談が通じねえンだな」と呟いた。

 貝原忠介の家は山茶花の生垣に囲まれた一角にあった。門を入って真っ直ぐに玄関へ行くと、真之亮は開け放しの家へ向かっておとないを入れた。

「御免、南町同心貝原忠介殿は御在宅でしょうか」

 玄関土間に立っていると、玄関脇の手先部屋から顔見知りの徳蔵が顔を出した。

「誰かと思ったら、いやだね他人行儀な。お隣の真之亮様じゃねえですかい。旦那なら庭で岡っ引と会ってまさ」そう言うと、庭へ廻ったらどうかと目顔で勧めた。

 徳蔵は四十過ぎの小柄な男だった。見た目にはただの貧弱な親爺だが、十手術や棒術では同じ手先の茂助よりはるかに上だと聞いている。勝手知った家のように、玄関から出ると犬走りを辿って庭に出た。組屋敷は何処も造りは同じだった。

 庭先には岡っ引弥平が仙吉を従えて立ち、貝原忠介は縁側の日溜りに受け板を持って座り髪床に髷を結わせていた。庭に入った真之亮を見つけると、弥平との話を打ち切って顔を向けた。

「おう、珍しいな。朝早くから何の用だ。連れの男は誰だい」

 貝原忠介は南町奉行所定廻りでも評判の切れ者だった。一見したところ中肉中背、平凡な体躯をしている。しかし貝原忠介は学塾での出来が良かっただけではなく町方同心として知恵の巡りも良く、真之亮と一回りしか違わない若さで早くも定廻に取り立てられていた。剣の腕も二十歳過ぎには早くも八丁堀の道場で麒麟児と謳われ、八丁堀では一目置かれていた。

「これは茂助の古手屋を手伝うことになった銀太という者です」

 真之亮は貝原忠介に銀太を紹介した。

 すると、弥平が鋭い眼差しで銀太を睨み付けた。

「お前は掏摸の銀公じゃねえか。真さん、こんな男を商売に抱え込んじゃ、」

 と言って、弥平は咎めるように真之亮を見詰めた。

「おいおい弥平。お前だって岡っ引になる前の行状は余り褒められたものじゃなかったぜ」と弥平の言葉を遮って、貝原忠介が笑って見せた。

「銀太とやらはまだ若い、人生はこれからだ。とりあえず真之亮の用件を聞こう」

 そう言うと、貝原忠介は真之亮に頷いて見せた。

 真之亮は弥平と肩を並べるまで縁側に近寄り、弥平に軽く会釈した。

「拙者も町衆の中で暮らし始めると噂好きになったのか、庄治殺しと半次殺しがどうなったのか町方同心でも出色の旦那のご意見を聞きたいと思って参りました」

 真之亮がそう言うと、貝原忠介は苦笑いを浮かべた。

「ご意見を聞きに来たンじゃなくて、おいらを叱りに来たンだろう。こいつらも朝っぱらからしっかり探索しろとおいらを叱りにやって来たのさ」

 そう言うと、貝原忠介は弥平と真之亮を見比べるように眺めた。

「だがな、今月の当番は北町だ。おいらたち南の定廻が北を差し置いて、殺しのあった聖天社や湯島天神へ出向くことは出来ねえ。弥平がいくらやいのやいの言って来ても、悔しいだろうがおいらは動けねえンだよ」

 苦笑いを浮かべてそう言うと、貝原忠介は肩を落とした。

「それじゃ、あっしらが足を棒にして歩き廻るしかねえンですかい」

 声をくぐもらせて、弥平は不満そうに呟いた。

 岡っ引は同心が私的に雇った手先にすぎない。同心から手札とともに十手取り縄を預かるが、下手人を逮捕する権限はなかった。給金も年に一両か二両といった小遣い程度しかなく、副業を持たなければ暮らし向きは成り立たない。そのため、何かと界隈の金持ちに袖の下を求め、評判を悪くしていた。

「弥平、真之亮に手伝ってもらえ。あいにく次男坊で町方同心にはなれないが、八丁堀育ちの上、剣術の腕は折り紙付きだ。古手屋の茂助にしても本所改役定廻同心中村清蔵殿の手先を長年勤めていた男だ。捕物の腕は確かなものだぜ、そうしろ」

 軽い口吻で貝原忠介が茶化すように言うと、弥平は益々不満を募らせた。

「旦那、あっしは旦那のお父上から手札をもらったンですぜ。あっしが密かに手下に使っていた庄治が殺されただけじゃねえ。又蔵が手下に使っていた半次だって殺されたンですぜ」と憤慨して、弥平は顔を赤くした。

「それじゃ、非番月のおいらにどうしろっていうンだ」

 怒ったように貝原忠介も鋭く声を放った。

「分かりきったことですぜ。旦那の力で殺された日の夕刻に浅草界隈と神田界隈のすべての自身番に怪しい者を見掛けなかったか、回状を廻して欲しいンでさ」

 探索が手詰まりなのを打開するには人海戦術しかない、と弥平は腹を決めたようだ。しかし南町奉行所同心は貝原忠介だけでなく、又蔵に手札を渡した荒垣伝之助も庄治や半次が殺されたことにそれほど心を痛めていない。前科者は世間では関わりを持ちたくない嫌われ者ということなのだろうか。

 真之亮は弥平の申し出に貝原忠介がどのような決断を下すか静かに見守った。

「当番月からして、南町奉行所から北町奉行所に働きかけることは出来ねえ相談だ。北町には北町のやり方があるだろうし、それなりに探索しているだろうぜ」

 それだけ言うと、髪結が元結の端を鋏で切り取ったのを汐に、貝原忠介は立ち上がった。それはどんな異存をも跳ね除ける決然とした振舞いに見えた。

 そろそろ町方与力や同心が奉行所へ出仕する刻限だ。お暇すべき時と心得て、弥平たちと連れ立って真之亮も貝原忠介の屋敷を後にした。

「弥平、庄治が殺された夕刻に聖天社の参道で誰かと出会わなかったか」

 組屋敷の門を出ると、何気ない素振りで真之亮は弥平に訊いた。

 弥平は怪訝そうに見上げて、僅かに首を横に振った。

「聖天社から下りて来る怪しい者がいて、あっしが見逃すはずはねえでしょう。確かに江戸の切絵図を片手に下りて来る色年増の芸者と擦れ違いやしたが、それは参道の入り小口のことで。暗がりにも婀娜な浮世絵から抜け出たような女だったですがね」

 そう言って弥平は怪訝そうに小首を傾げたが、すぐに笑い飛ばした。

「旦那、まさかその芸者が下手人だっていうンで。間違ってもそんなことはありやせんぜ。その色年増は小柄な上に、体付きも小娘のように華奢だったンですから」

――庄治があんな女に殺されるわけがない、と弥平の目顔は断言していた。

「そうか」と応えて、真之亮は何事もなかったように歩き始めた。

 思い込みとは怖いものだ。世間では庄治のような男を匕首で刺し殺す下手人は極悪非道な乱暴者に違いないと決めて掛かっている。まさか又蔵も弥平も小柄な色年増が寄場帰りの男の心ノ臓に匕首を突き立てた張本人だとはとても考えられないのだ。

弥平の語った女は間違いなくお蝶だ。又蔵も小柄で華奢な体つきだが色っぽく婀娜な女だったと言った。どんな女に変装しようと、お蝶とはそうした印象を男に与えるようだ。銀太が言ったように庄治を殺したのもお蝶だろうと考えはじめていた。

「それじゃ、あっしらはここで」

弥平は東南茅場町に差し掛かると、真之亮に声をかけた。

 帰る方向は同じなのにどうして弥平がそう言ったのか、銀太は分かりかねて真之亮の顔を覗き込んだ。真之亮は銀太の眼差しを無視すると、

「ああ、夕刻にでも丸新でまた会おう」

 とこたえて『本道医』と看板を掲げた門の中へと入って行った。

 真之亮がなぜ町医者の屋敷へ入ってゆくのか分からず、銀太は戸惑いを見せつつその後をついて入った。裏手から金槌を使う音や威勢の良い声が聞こえていた。

 開け放たれた屋敷には大工が入って、増築や造作の手直しをしていた。もうじき帰って来る哲玄とお千賀のために泰正堂が差配したもののようだった。

 真之亮がおとないを入れると、若い女の返事がして白い上っ張りを着たお良が姿を見せた。五尺にやや満たないが女としては大柄だ。色白の瓜実顔にすっきりとした柳眉、その下に切れ長の双眸が輝き、鼻筋の通った鼻と形の良い唇は八丁堀小町と呼ばれていた。

「大工や左官が来ているようだが、早くも家に手を入れているのか」

 真之亮が声をかけると、お良は「ええ」と言って後ろに立つ銀太に小さく頭を下げた。

「ああ、これは銀太といって、こんど茂助の古手屋を手伝って貰うことになった」

 真之亮は銀太を紹介して、お良に微笑みかけた。

 何かにつけて軽口を叩く銀太だが、軽く頭を下げただけで何も言わなかった。

「茂助の心配で松枝町に小体な一軒家を見付けたンだ。薬研堀に来る用事のついでにでも古手屋に寄ってくれないか。遅くなって申し訳ないが、了庵殿にはしかるべき人を立てて、日柄を見て兄を同伴して挨拶に参るゆえ」

 真之亮は同意を求めるように、お良に小さく頷いた。

 数日に一度の割でお良は薬研堀の薬種屋へ父親の使いで来ていた。そのつど柳原土手に寄っていたのだが、ここ七日ばかり丸新に顔を見せていなかった。

「兄が帰ることになって、薬種一切は泰正堂から入れることになりましたの。それで薬研堀へ行くついでに柳原土手へお寄りする機会はなくなりましたけど、家が決まりましたのなら折りをみてお伺い致します」

「ああ、よろしく頼む。拙者は家の造作や調度にはまったく疎く、暮らしにどんな道具を揃えれば良いのか皆目分からぬ。お良が差配してくれなくては何も出来ぬゆえ」

 何一つできない自分を恥じて、真之亮は頬を赤くした。

「事前に揃えるものといっても、まずは暮らしてみてから必要なものを揃えた方が無駄がなくて良いでしょう。私は小商いをはじめようと思います。そのために家の造りがどうなのか、見ておかなければ商いの支度もできませんから」

 そう言うと、お良は恥ずかしそうに微笑んで見せた。

「小商い、とな」と、驚いたように真之亮はお良を見詰めた。

「はい、父は膏薬医と蔑まれて来ましたが、お蔭様で膏薬の調合は良く分かっています。それに近くの薬研堀には各種の薬種屋があって、材料も容易に揃いますから」

 悪戯っぽく笑ったお良を、奥から呼ぶ家人の声がした。

 これから患者の家へ往診に出掛けるのだろう。十五六の頃から、お良は薬篭を下げて父親の往診に付いて歩いている。「きっと、近いうちに」と真之亮は声をかけて、お良はそれに頷いた。

 玄関を出ると待ちかねていたように銀太が口を開いた。

「へええ、驚いたな。真さんはあの色っぽい姐さんと所帯を持つのかい。ヤットウ狂いの朴念仁かと思ってたけど隅に置けないな」

 心底から驚いたように、銀太は真之亮をまじまじと見上げた。

「ヤットウ狂いとは恐れ入るな。ああ、近いうちに松枝町の仕舞屋でな」

「姐さんは働くって言っていたが、同心として扶持がもらえるからそれほど本腰を入れて働く必要はないンだろう。それとも御用のことをきちんと教えていないのか」

「うむ、十日に一度ほど奉行所に顔を出す程度の雑用を南のお奉行から仰せ付かっている、とは言ってあるが、隠密同心に取り立てられているとは教えていない」

 真之亮は銀太に応えると、海賊橋を渡って本材木町へ入った。

「そんなことで良いのかな。おいらは聞き分けの良い手先だから悶着は起こさないが、筋道にこだわる乾分を抱えたら、しっかりと説明しなきゃならないだろうぜ」

 世話焼き女房のように、銀太は心に浮かんだ懸念を口にした。

「いや、拙者は銀太の他に手先は採らないつもりだ。銀太より出来の良い手先にはお目に掛からないだろうし、銀太一人がいれば大丈夫だ」

 問答を打ち切るためにも、真之亮は銀太を褒めて蕎麦屋に誘った。

 まだ昼には間があったが縄暖簾を掻き分けて青物町の蕎麦屋に入ると、奥の釜場から湯気が濛々と上がっていた。真ん中に通路の土間があり、左右は入れ込みの座敷になっていた。二人は明かり障子の窓から陽射しの差している右手の座敷に上がった。

「おいらは切り蕎麦だ。天婦羅の乗ってるやつが良いな」

 出て来た小女に注文してから、銀太は慎之亮の様子を窺った。

 好きな蕎麦を注文したらよいと頷いて見せて、真之亮は狐蕎麦を注文した。

「真さんが訊いたら弥平も聖天社の参道で女と擦れ違ったと答えた。下手人は間違いなくお蝶姐さんだ。しかし、どうして前科者を殺さなければならなかったンだろう」

 銀太は声を曇らせて真之亮を見詰めた。

 お蝶という女を真之亮は知らない。話では二十五前後の小柄で器量の良い女のようだ。掏摸の親方の娘だというが、そのことで銀太が格別心を砕いているようにもみえなかった。

「銀太、この一件はまだ分からないことだらけだ。が、どうやらお蝶が下手人だと判明したが、お蝶を操っている者がどこかにいるはずだ。多分そいつが親玉だろう。しかし、そいつの狙いが何なのか皆目分からない。ところで銀太、お蝶が今度の事件に関わっていてお前はやりにくくないか」

 真之亮が問い掛けると、銀太は心外そうに首を振った。

「冗談じゃねえ。親方に指技を仕込んでもらった借りならとっくに返してるぜ。お蝶姐さんが掏摸で四度目のお縄になりそうになった時、おいらが罪を引被って三本目の墨入れと叩きの罰を受けたンだ。四度目の身代わりに捕まるってことは、掏摸の場合は土壇場から連れ戻す、ってことだぜ。おいらはお蝶姐さんにとっちゃ三途の川から引き揚げた命の恩人だ。金輪際、親方にもお蝶姐さんにも貸し借りはねえンだ」

 そう言うと、銀太は右腕に巻いている晒をさすった。

腕に墨を入れられた者は寒い間は銀太は長袖の下着を着るが、春になって長袖を着なくなると決まって晒を右腕に巻く。それは腕に入れられた墨を隠すためだった。

まもなく天婦羅蕎麦が運ばれて来ると、銀太は勢いよく手繰りはじめた。

 

 昼下がりの八ツ過ぎ、真之亮と銀太は柳原土手の古手屋に帰った。

 午後の客足も一断落ついた頃合いか、茂助は奥の上り框で休んでいた。

「茂助、庄治や半次に手を下したのは、どうやら女らしいぜ」

 茂助の並びに腰を下ろすと、真之亮が「銀太のお手柄だ」と銀太を顎で指した。

 座敷に上がって茶を淹れていた銀太が「お蝶姐さんのようだ」と茂助に教えた。

「お蝶といえば、おめえの親方だった掏摸吉の娘じゃねえか」

 茂助は驚いたように目を剥いたが、二度三度と頷くと「女の方が存外肚が据わっているからな」と呟いた。

「しかし掏摸としてお蝶は指働きに誇りを持っていたはずだ。それが荒っぽい殺しを引き受けるとは、飛んだ宗旨替えをしたものだな。お蝶に何があったンだ」

 湯飲みを手渡した銀太に、茂助は覗き込むようにして訊いた。

「ここ二年ばかり会ってないから知らねえや。三味線堀で親方が御用になってから一家は散り散りになって、姐さんは品川宿へ移ったと聞いていたンだが」

「お蝶は一人だったのか。一緒に品川へ移った仲間がいたンじゃないか」

 茂助が訊くと、銀太は「姐さんは藤四郎じゃねえんだ」と呟いた。

「一本立ちした掏摸は独りで稼ぐものだ。役回りを決めて大勢で掛かりコトを運ぶのは、腕に自信のない半端者のやる仕事だぜ。お蝶姐さんにゃ余計な人の助けはいらねえのさ」

 銀太も湯飲みを持って上り框に座ると、一人前の御用聞きの顔をして見せた。

「誰とも組まず、姐さんは一人だったと思うぜ。なんなら品川へ行って探ってみるけど」と言って、銀太は茂助の顔色を窺った。

 茂助は「だめだ」と言うように首を横に振り、

「銀太が岡っ引の真似事をするのは十年早いぜ。ここはじっくり町方役人のお手並みを見せてもらおうじゃないか。北町の当番月だしな」

 そう言って、茂助は店先から女の声がしたのに腰を浮かせた。

 柳原土手に吹く風はまだ肌寒いが、季節の変わり目は陽射しにもうかがえた。ひっきりなしに客は訪れて、春先の古手屋は繁盛していた。

「親爺さんはおいらが半人前だと馬鹿にしているのかな」

 茂助が店先に立つと、銀太が真之亮にむくれたように呟いた。

「いや、そうじゃないさ。茂助の親心で銀太に危ない真似をさせたくないだけだ」

 真之亮は取り成すように言ったが、銀太は納得できないようなむっとした顔をして黙りこくった。

 人は成長の過程で、年よりも背伸びしたい時期があるものだ。十八の銀太がちょうどそうした年頃に差し掛かっているのだろう。

「聖天社や湯島天神の下手人を女だと推察して、お蝶と睨んだのはけだし銀太の慧眼だ。年季を積んだ岡っ引でも見当のつかないことだぜ。しかし、それを手掛かりとして下手人一味をお縄にするには、それ相当の下調べをして言い逃れのできないように証拠を固めないとな」そう言って、真之亮は銀太を励ました。

 一網打尽にするには一味の人員構成を掴み、動かぬ証拠を掴まなければならない。たとえお蝶の居場所を探って、お蝶一人だけを縛り上げても始まらない。

 今度の事件の裏でどんな連中がつるんで何をしようとしているのか、それすらもまだ分からない。事件の探索はやっと端緒についたばかりだ。

「掏摸吉やお蝶たちと暮らしていた家は何処にあったンだ」

 日暮れまで間があるため、真之亮は出掛けてみようと腰を上げた。

「新寺町の門前町でさ。ドブ店とも稲荷町とも呼ばれている、小さな寺と町割が複雑に入り組んでいて、捕り手に囲まれても逃げるに便利な所だぜ」

 顔に笑みを浮かべて、銀太も身軽に立ち上がった。

 店先の茂助に「出掛けて来る」と声をかけると、真之亮と銀太は連れ立って土手道を新シ橋へと向かった。ドブ店へ行くには向柳原の大通を北へとれば良い。大身の武家屋敷の連なる大通をしばらく歩くと右手が堀割となり片側町となる。その道が右へ鍵曲がりになっている辺りの堀割を三味線堀といった。堀割の形が三味線の棹と胴の形に似ているためにそう呼ばれた。この辺りで銀太の親方は捕り方に御用となり、土壇場に据えられて首を刎ねられたのだ。

 銀太の心持ちはどのようなものかと顔を覗き見たが、何も変化は見られない。先刻古手屋で銀太が言った通り、銀太の中では過ぎ去った昔の出来事に過ぎないようだ。

 三味線堀が行き止まると、そこから先はこれまでと一変して、粗末な貧乏旗本の屋敷が狭い通りに建ち並ぶ。しかし、下谷七軒町で右へ曲がると雑然とした武家屋敷を睥睨するように大身の旗本屋敷があらわれる。だが対照的に、通りの左手には見るからに小体な貧乏寺とその門前に町家が寺の塀にへばりついている。まるで天国と地獄を絵に描いたような土地だ。一筋の通りを挟んで貧富が歴然としている町並は見る者にやりきれない切なさをもたらした。

「武家屋敷は逃げ込むにゃ便利だぜ。塀を乗り越えて屋敷に入ってしまえば町方は追ってこない。どこのお武家の庭も人手がなくて荒れ放題だ。身を屈めれば隠れ場所にゃ事欠かないぜ」

 白漆喰の剥げた土塀に目を遣って、銀太は呟くように言った。

 新寺町という名の通り、喩えでなく小さな末寺のような寺が通りの辻々に軒を連ねるほどあった。その寺々に門前町が山門の両側に貼りつくように細切れにあり、四ツ割の一軒家や軒の崩れた名状し難い貧乏長屋が隙間なく建っていた。

「ここでさ。酷いところでしょうが」

 と立ち止まった銀太が玉泉寺の門前棟割長屋を顎で指した。

 軒は破れ屋根も雨露を凌げる代物とは言い難く、饐えたような悪臭が鼻を突いた。

「腕を磨いて巧みに人様の懐を狙っても、結局はこの程度の暮らしを支えるのがやっとなンだ。堅気者の稼ぎにゃ追い付けないってことさ」

 銀太はそう言って、傾いだ軒先を見上げた。

「まともに親がいて、まともに飯が食えて、まともに大きくなって、まともな仕事があったら、誰だって掏摸なンぞにゃなっちゃいねえ」と拗ねたように、銀太はぼそりと洩らした。

 真之亮は銀太の肩に手を置いて、その場を離れた。この町には香具師や大道芸人、それに夜の町角や柳原土手に立つ夜鷹たちが暮らしていた。

 ドブ店通りを菊屋橋まで行き、新堀の河岸道を南へとった。

「お蝶は小判に目が眩んで殺しに手を染めたのかな」

 河岸道を歩きながら、真之亮が問い掛けた。

「いや、そうじゃないと思う。殺しは掏摸にとっちゃ外道ですぜ。相手に気付かれず傷さえ付けず、周囲の誰にも気取られないうちに仕事を済ますってのが掏摸の神髄でさ。お蝶姐さんは人一倍厳しく親方から仕込まれていたンだ」

――よほどのことがない限り姐さんが殺しをするはずがねえ、と銀太は口惜しそうに肩を落とした。

「掏摸の掟を破って殺しを働くとは、お蝶の身の上に余程の事があったという事か」

 そう言うと真之亮も肩を落として、道なりに新旅籠町の角を曲がった。

 御蔵前片町と森田町の間を通り抜けると、御蔵前の大通に出た。そろそろ二月の切り米の支給日なのか、札差の法被を着た若い者の牽く荷車が行き交っていた。

 俸禄として旗本や御家人に与えられる扶持米の支給は年に三回、十月の新米時期と二月と五月だった。

 武家にとって扶持米は食糧としてだけではなく、売り捌いて生活費を得る大事な暮らしの糧だ。元来、札差は切り米を武家に代わって受け取るのが役目だが、扶持米の売り捌きまで一任されたため実質的に武家の金蔵を握ってしまった。そうした札差がこの界隈に集まり多くの蔵が立っているため蔵屋と呼ばれた。江戸時代も下ったこの時期、吉原で花魁を相手に大尽遊びをするのは札差の旦那衆と相場が決まっていた。その勢いが使用人にまで乗り移っているのか、札差の屋号を染め抜いた法被を着た男たちの威勢にはかなりのものがあった。

 堀割には橋が二本並んで架かっているが、二つの橋巾を併せても大通の道幅の半分にも満たない。大八車の所有が届け出制になっていたように、幕府は陸送よりも回漕を奨励した。そのため架橋に制限を行い、左手の橋を天王橋といい右手を鳥越橋といった。真之亮と銀太は左手の橋を渡って浅草御門へ向かった。

 大通も瓦町に差し掛かると道幅は半分になり、夕暮れを迎えて広小路から帰る雑踏に行く手を遮られた。人の流れに逆らうように歩き、真之亮と銀太は大きく離れた。

 浅草御門に辿り着いた頃には完全に銀太を見失った。芝居小屋の打ち出しを知らせる櫓太鼓が響き、道端で声を嗄らしていた香具師も屋台の幟を片付けていた。しばらく御門の傍で待っていたが銀太の姿は見えず、ついに諦めて一人で古手屋へ帰った。

「真さん、何処へ行って来たンで」

 帰るなり店先で茂助に声をかけられた。

「いや、浅草ドブ店まで出掛けたンだが、帰り道で銀太とはぐれてしまった」

 申し分けなさそうに、真之亮は頭を下げた。

「銀太なら、とっくにけえって神田屋へ飯を食いに出掛けやしたぜ」

 そう言って、真之亮に笑いかけて茂助は店の中へ入った。

 掏摸を働いていた頃の銀太の古巣を見に行ったのは、茂助に断ってのことではなかった。予め断ってのことでないため、真之亮は茂助に声をかけた。

「実は銀太の古巣を見に行ったンだ。お蝶の手掛かりでもあればと思ってな」

 真之亮が白状するように言うと、茂助はにやりと笑った。

「ドブ店と聞きゃ、それぐらいのことは分かりまさ。ただ、儂は一味がお蝶をどうやって仲間に引き摺り込んだンだろうかと、そこんとこが心に引っ掛かっているンで」

 茂助は鉄瓶から急須に湯を注ぎ、真之亮にも茶を淹れた。

「掏摸ってのは誰しも指技に誇りを持っている。それが誇りを捨てて殺しを働くとは、よほどのことがあったと考えるのが道理でさ」

 湯飲みを一口啜って、茂助は溜め息を洩らした。

 分かっていることと、分かってないことをきちんと仕分けて、探索の方途を考えるのが捕物のイロハだ。しかし今度の一件は分からないことだらけだ。何処から手をつければ良いのか。ただ一点お蝶が一味に加わっていることだけは確かなことだった。

「銀太は一人で神田屋へ行ったのかな」

「そんなことはねえでしょう。おそらく昔の仲間と一緒でしょうよ。真さんは行きか帰りの人混みで誰かに懐の十手を触られちゃいやせんか」

 と、茂助は気になることを聞いた。

 瓦町から浅草御門にかけて雑踏を人の流れに逆らって歩いた。何人と体が触れたか分からない。懐の十手に触られれば、真之亮が町方役人との身元が割れてしまう。当然のことながら、一緒に歩いている銀太は手先とみなされることになる。

「拙者が町方役人だと分かれば、銀太の身が危ないのか」

「いや、そんなことはないでしょうが、銀太が町方同心の手先になったってことは町を舐め尽くす火の手よりも早く昔の仲間に知れ渡るでしょうよ。銀次は引き返すことの出来ねえ川を渡っちまったということでさ。しかしそれならそれで、昔の仲間にとって銀太は重宝な男になったということで。その筋の者は裏で町方役人と繋がりを持ちたがっていやすからね」

 茂助はこともなげにそう言い、店先から呼び掛ける女の声に立ち上がった。

 上り框に腰を下ろしたまま店先を見ると、お店の内儀と見える年格好は二十五前後、丸髷の女が男物の着物を手にとって選んでいた。眉を剃り鉄奨をつけてはいるが、色香の漂う器量の良い女だった。並んだ茂助より四寸ばかり低く、小柄で全体にほっそりとしていた。

 真之介亮はなぜか見知っている女のような気がした。何処で逢った女かな、と真之亮は記憶を手繰った。八丁堀界隈の内儀にしては柳原土手まで出掛けて来るのは遠すぎる。記憶の中を探っても店先の女に繋がる糸口は見つけられなかった。はてさて、と腕を組んで考え込んでいると、弥平が仙吉を従えて店先に顔を出した。

「親分、真さんなら奥にいやすぜ。さっ、どうぞ入ってくだせえ」

 茂助の声がすると、女は吊り下げられた着物の間に顔を伏せた。

 弥平は女の後ろを通って狭い土間を奥まで入って来ると、真之亮にくたびれた顔を見せた。庄治殺しの下手人探索がはかばかしくないようだ。

「真さん北町の動きが亀みたいに鈍くて、下手人をあげる意気込みは微塵も感じられませんぜ」

 そう言うと、弥平は肩を落として崩れるように上がり框に腰を落とした。

「何があったンだい。ひどくご機嫌斜めのようだが」

「米沢町の亀蔵に探索はどうだ、と聞きやしたら「知らねえや」って抜かしやがるンだ。南の岡っ引の手下が、それも前科者が殺された事件で、なぜ北がやらなけりゃならねえンだってね。まるで餓鬼の言い分でしょう」

 と、弥平は悔しそうに顔を歪めた。

 亀蔵とは弥平と同じ年格好の岡っ引だ。二人とも広小路から柳原土手にかけてを縄張りとしていたため、なにかにつけて張り合っていた。しかも、亀蔵は北町奉行所定廻同心から手札を受けているため、普通なら当番月同心の岡っ引として必死になって事件探索に当たっているはずだが、冗談に言ったことを真に受けたのだろう。

「ところで親分、あの店先の女だが、」

 と、真之亮は店先に目を遣って、すでに女の姿がないのに落胆した。

「どれどれ、どの女ですかい」

 弥平が真之亮の指先に目を上げて、反対に聞き返した。

「あそこに、いやもういない。どうやら帰ったようだ。いたら弥平にちょっと見てもらいたかったンだが」

「色っぽい女ですかい。それともワケありそうな女ですかい」

 女と聞いて、弥平は頬ににやけた笑みを浮かべた。

「眉を落とし鉄奨をつけていたが、弥平が待乳山で擦れ違った女じゃないかと……」

 真之亮がそう言うと、弥平は驚いたように目を剥いた。

「どうして真さんは女にこだわるンで。あっしはあの夕刻参道の入り小口で切絵図を持った芸者と擦れ違っただけですぜ」

 そう言うと、弥平は不服そうに頬を膨らませた。

 庄治や半次を匕首で一突きに殺した下手人は冷酷で狂暴な男だ、と弥平はまだ思い込んでいる。下手人の後ろ姿さえ見ていないのに、おそらく大柄で肩幅もあり相撲取りかと見紛うような大男だと決めてかかっているのだろう。犯行の手際良さから勝手な思いを膨らませて、その想像に当て嵌まる男を探そうとしているようだ。そうした探索を続けている限り、何年たっても庄治殺しの下手人に辿り着くことはできない。

「それがちょいと良い女だったもので、親分にも見せたいと思ってな」

 弥平の不満を鎮めようと、真之亮は冗談を言って笑った。

「あっしは人の持ちものに懸想なんざしやせんや。そんなことより今朝、貝原の旦那が真さんに力を貸してもらえと言いやしたが、何か下手人の手掛かりでも掴んでいるンですかい」

 そう言って、弥平は真剣な眼差しで真之亮を見詰めた。

「いや、それは貝原殿の冗談だ。八丁堀同心の次男に生まれたというだけで、拙者になにがしか力があるわけではない。しかし、ただの素浪人でも同心の倅として育ったからには世間の並みの者よりは、少しは捕物の勘働きがするかもしれないがな」

 弥平が妙な期待を持たないように、真之亮は否定してみせた。

 真之亮は自分の身分を弥平に知られるわけにはいかない。貝原忠介にも知られてはいけない。肉親にさえ知らせていない。隠密同心とはそういうものだ。

 間もなく銀太が戻って来ると、それを汐に弥平は帰って行った。

「茂助さん、先に飯を食って来ました」

 銀太は店先で茂助に詫びて、店番を代わった。

 茂助は前掛けを取るとくるくると丸めて上り框に置き、「それじゃ真さん、今度はわっしが飯を食いに行って来やす」と声をかけて出掛けた。

 銀太は前掛けをして、奥座敷の上り框に腰を下ろした。

「途中で昔の知合いに出会っちまって、そこの一膳飯屋で一緒に飯を食っていたンでさ」

 そう言って、銀太は一人で帰ったことを詫びた。

「しかし、銀太のすばしこさは目にもとまらなかったぜ。いつの間にかはぐれて、帰ってみるとすでに神田屋へ行ったと聞かされて、少々面食らったが」

 真之亮がそう言うと、銀太は申し分けなさそうに頭を掻いた。

「昔の仲間で、名を勘治っていうンだが知らないかな。おいらの兄弟子に当たるンだけど『巾着切りの勘治』っていえば、仲間内ではちったあ知られた顔だがなあ」

 そう言ったが真之亮が首を傾げたのを見て、銀太は残念そうに笑った。

「まあ真さんが巾着切りを知らなくて、当り前といえば当り前だな。親方は勘治の腕を見込んでお蝶姐さんと夫婦にしようと考えていたようだったけど、姐さんにその気がなかった。勘治はお蝶姐さんに惚れて尻を追い廻していやしたがね、品川じゃ一つ屋根に暮らしていたようで。それが一月前、姐さんは姿を晦まして、どうやら御城下の膝元で暮らしているとか。それで勘治も躍起になってこの界隈を探していて偶々おいらを見掛けたって」

 銀太は纏まりのつかないまま、心に浮かぶ言葉をしゃべっている様子だった。

 熱を帯びた話し振りはいつも冷ややかに世間を斜に見て、皮肉で冷静な男にしては珍しかった。

「お蝶の身の上に何かがあって品川宿からいなくなり、勘治もお蝶の後を追うように御城下へ移って来たってことか」

 真之亮は銀太の言葉を遮るように訊いた。

「何があったのか、勘治はしゃべらなかったが、お蝶姐さんには男の影が差していたようだとか。それもお蝶姐さんが袖にして逃れられないかなり恩義のある人のようだが、そいつが『悪党』だったと勘治は悔しさを滲ませていたっけ。真さんが同心と承知の上で、頼みがあるから引き合わせて欲しいと言っていましたぜ」

 そう言うと、銀太は無頓着に鉄瓶の湯を湯飲みに注いだ。

 銀太は茶に頓着しない男だった、出涸らしであろうと白湯であろうと、一向に構わない。そうした所は真之亮と銀太は似ている。

「勘治が同心の真さんに相談したいということからすると、お蝶姐さんが惚れた男は町方役人、それも定廻かも知れないな」

 注いでいた鉄瓶の注ぎ口を上げて、銀太は眉根を寄せた。

 真之亮は驚いて目を剥くと、湯飲みを差し出した銀太を見詰めた。

 銀太の推察は時として真之亮の常識を超える。しかし、真之亮の常識が常に正しいとは限らない。庄治や半次を殺したのが女だと看破した銀太の推察力の方に理があった。果たして今度もそうなのか。

「拙者に頼るのは相手が町方かどうかより、お蝶の惚れた男が手強いため手出しできず勘治の手に余るからじゃないのか」

 白湯を啜って、真之亮は銀太を軽くいなした。

 別段、気色ばんだ色も浮かべずに銀太は一つ頷いて真之亮に説明を始めた。

「真さん、勘治は浅草御門の雑踏で真さんの懐を探って、十手持ちだってことを知っているンですぜ。ヤットウで正面に向き合えば真さんに敵わないだろうが、出会い頭に匕首を肝ノ臓か心ノ臓に叩き込んで真さんの命を奪うってことなら、勘治にとっちゃわけのないことなンだ。その勘治が真さんに相談があるって頼んでるンでさ」

 そう言って、銀太は「どうですかい」と言いたそうに真之亮を見詰めた。

 多分、この場合も銀太の言い分に理があるのだろう。掏摸は指技だけでなく確かな人物眼も必要な稼業のようだ。それは真之亮の心眼を見開かせた。

 江戸っ子は余り理にこだわらない。理よりも情にこだわりがちだ。銀太が理に基づいて思いを巡らせるのはおそらく幼い銀太に指技を仕込んだ親方が理にこだわる人だったからだろう。つまり掏摸の技を道理から説明して、手取り足取り教えたのだろう。だからこそ、掏摸吉は掏摸たちから一目置かれる存在だったのかもしれない。

「先刻、店に商家の内儀を装った小柄で婀娜な年増女がきた。しかし弥平が姿を見せると風を食らったように立ち去ってしまった。拙者にはどうもそれがお蝶だったように思えてならないが」

と、真之亮は銀太に店先に姿を露わした女がいたことを教えた。

「姐さんの変装はピカ一でさ。鳥追から瞽女から芸者、町娘から商家の内儀と千変万幻だぜ。だがお蝶姐さんがここに来たということは、下手人一味がこの店を見張ってるってことだろうか」

――だがどうしてか、と銀太は腕組みをした。

 真之亮と銀太が行動をともにしたのは今朝からだ。勘治は蔵前の通りで銀太を見掛け、同行している浪人者の素性を改めてから銀太に声をかけてきた。だが、勘治はともかくとして、どうしてお蝶までがこの界隈に姿をあらわしたのだろうか。

「見掛けたといっても、真さんはお蝶姐さんを知らないンだろう」

「ああ、お蝶なる女掏摸は知らないが、先刻見たような婀娜な内儀も拙者は知らない。あの内儀は玄人の色年増が変装したとしか見えなかったが」

 そう言って、真之亮は腕を組んで首を傾げた。

――あの内儀がお蝶だったとすると、隠密同心の自分の前に姿を見せるのは少しばかり早すぎはしないだろうか、と真之亮は腑に落ちないもどかしさを感じた。

 確かにお蝶が真之亮の前に顔を出すのは早過ぎる。勘治ですら真之亮が十手持ちだと知ったのはつい先刻のことだ。お蝶とは道で擦れ違ってもいないし雑踏で色年増に懐を探られた憶えもない。

「勘治の居場所は何処だ」

 と聞くと、銀太は真之亮を睨んだ。

「裏稼業の者が居場所を聞くのは仕事を一緒にする時か、町方の犬になった時だけですぜ。まともな五分の付き合いの時には冗談にも聞かないのが仁義ってものでさ」

 従って銀太は知らないし聞くのも野暮だ、とその眼差しは言った。

 真之亮は掏摸の仁義とはそういうものかと頷いた。

この世はいろんな約束事で成り立っている。裏稼業の者が居場所を聞かないのも町方に垂れ込まないとの証だろうし、長く付き合うためには必要な約束事なのだろう。

「真さん、飯食ってきて下せえ」

店先から呼び掛ける茂助の声がして、真之亮は腰を上げた。

 

 西広小路芝居小屋脇の広場で、一日と十五日の月に二度ほど早朝に古着市が立つ。

 集まる古着は近在の質流れの品や、他の古手屋が換金目的に投売りする品、呉服屋が注文通りに誂えたものの、客が引き取らなくなった処分品などだ。いかに良い品を安く買い入れるかの目利きに、古手屋店主の暮らしがかかっている。損をするのも儲けを出すのも仕入れ次第だ。明け六ツの鐘が鳴るのを待ちかねて茂助は銀太を連れて古着市へ出掛けた。

 夜明けからほんの半刻ばかりで古着市は終わってしまう。広小路が見物人で賑わう頃には荷を大風呂敷に包んで持ち帰り何も残らない。まごまごしていると目をつけた古着を余所の古手屋に落とされてしまうが、あせって高値で襤褸を掴んでも仕方ない。古手屋をはじめた当初は商売の勘所がなかなか分からなくて、茂助も何度か損を出したものだ。

 五ツ前に茂助と銀太が帰ってきた。銀太は店先の梁につかえるほどの大風呂敷きを背負っていた。真之亮はまだ掻い巻きを引き被った格好で手炙りに噛り付いていた。

「昨日の夕刻、また匕首で刺し殺されたようですぜ」

 店土間に入ると、いきなり茂助が声を張り上げた。

 茂助が古着市で聞き込んできた話では昨日の夕暮れ、大川の辺は元柳橋袂の船着場で『波里』の法被を着た船頭が心ノ臓を一突きに刺し殺された。橋袂で船を待っていた女が着いたばかりの船頭に声をかけ、船から下りたところを桟橋でいきなり刺したという。

「その女ってのは何者だ」

「さあ、船遊びする時節でもなし、なにぶん辺りは暗くて悲鳴を聞いて駆け付けたときには下手人の女は男が乗って来た船に身軽に飛び乗って、逃げた後の祭りだったってことのようでさ」

 茂助は銀太の背から荷を下ろし、座敷に広げていた。

「波里っていえば仙台堀上之橋袂は佐賀町の船宿ではなかったか」

 真之亮はそう言って、父に連れられて行った深川の記憶を思い浮かべた。

 佐賀町は永代橋から仙台堀にかけて大川端に貼りついた細長い町だ。大川河岸に船着場を持つ白壁の米蔵屋敷が建ち並び、所々に船宿が点在している。

 元来、船宿とは抱えの船頭を置いて客に川遊びをさせる宿のことだ。釣り客や花見客を猪牙船や屋根付き船に乗せて相手をし、船から上がると座敷に料理をとってもてなすのが生業だが、女を置いて客を取る別名曖昧宿とか売笑宿と呼ばれる宿も珍しくなかった。

「波里とはちょいと隠微な匂いがするが、その店は曖昧宿のたぐいか」

 と、炭火から顔を上げて真之亮は茂助に訊いた。

 真之亮の父中村清蔵は本所改役定廻同心だった。茂助はその手先として父の供で本所深川には毎日のように見廻り、そこに暮らす人にも地理にも明るかった。

「まあ十中八、九そう思って間違いねえでしょうよ」

 そう言うと、茂助は手を止めて真之亮に目顔で頷いてみせた。

 波里が曖昧宿なら、そこで働く船頭も叩けば埃のでる男ということになる。殺された波里の船頭が前科者であれば、先の二件の殺しと共通点が見出せることになる。ただ、これまでは殺しの下手人は姿を見られていないが、今度の場合は船頭たちに見られている。はじめて下手人が女だと明らかになった。

「姐さんが店に来たと真さんが言ったのは、本当だったかも知れませんぜ」

 そう言って、銀太は真之亮を見詰めた。

「銀太、朝飯を食ったら深川へ行ってこよう」

 真之亮は銀太に応えるように言って、茂助に「良いかな」と目顔で問うた。

「ああ、銀太と行ってきなせえ。辰蔵も喜ぶでしょうよ」

 茂助は自分も行きたそうな、弾んだ物言いをした。

 辰蔵とは父が岡っ引に取り立てた男のことだ。まだ三十前と若いが腕は良く、いまでは臨時廻りの兄を助けている。真之亮も辰蔵とは顔見知りだった。元は木場人足をしていたが、喧嘩三昧の日々を過ごした挙句お定まりのしくじり人生を送った。父が亡くなる二年前、寄場送りになる寸前の辰蔵を岡っ引に取り立てた。五尺七寸と仁王様のように大柄で腕っ節も強いため、年取った肝煎に代わって門前仲町の町衆から頼りにされている。

古着の仕分けを済ますと、茂助は棚から布に包んだ品を取り出して銀太に渡した。

「わしが若い頃に使っていた棒十手だ。これからはお前に使ってもらうぜ」

 茂助はそう言ってから「十手に恥じるような真似だけはしないようにな」と付け加えた。

 二年前に中村清蔵が亡くなるまで、茂助は尻端折り紺股引に羽織姿の手先だった。その棒十手を懐に差して、茂助は自分の庭のように本所・深川を歩いたものだ。

茂助から棒十手を押し頂くと、銀太は少し面映い顔をして懐に差した。同心にしろ岡っ引にしろ、十手は懐に差すものだ。決して見せびらかすように腰に差したりはしなかった。

 懐にグイッと棒十手を差し込むと、銀太の顔付が改まった。

 手先の顔になった銀太に微笑み、真之亮は先に立って店を出た。

腹ごしらえをしてから深川へ向かうことにして、まずは神田屋へ行った。

船で大川を渡らない限り、本所・深川へ行くには両国橋を渡り、本所から河岸沿いの道を下るしかない。長い道のりを歩いて行くことになる。

五ツ過ぎの西広小路はまだ人影は疎らだ。店の者が芝居小屋に沢山の幟を立てかけたり、茶店も葦簾囲いを外して縁台を軒下に運びだしたりして客を迎え入れる支度に追われている。真之亮たちはまだ人出で賑わう前の閑散とした両国橋を渡った。

両国橋の東袂にも火除地はあるが西広小路とは比べ物にならないほど狭い。二十間も行かないうちに元町の路地に入り、それを抜けると大伽藍の回向院が目の前にある。春と秋に勧進相撲が回向院の境内で開かれているが、子供のころに真之亮も本所改役の父親に連れられて来たことのある寺だ。縁起は振袖火事と呼ばれる明暦の大火で亡くなった十万人余を幕命により葬った「万人塚」がもととなっている。

真之亮たちは回向院の前で右へ折れて竪川を一ツ目之橋で渡り、大川端の水戸屋敷の石置場から御舟蔵と続く河岸道を下った。

 急ぐ道ではない。真之亮は次第に木の香の濃くなる町を父親に連れられて来た記憶を手繰りながら歩いた。そして小名木川を万年橋で渡る折りや、仙台堀を上ノ橋で渡る時に記憶は一段と鮮明になり、その頃の深川の潮と木の香の入り混じった匂いまでも懐かしく思い出した。

深川は江戸の材木を一手に引き受ける木場を持つため、川並人足や木場職人が多く暮らし、大川一筋隔てただけで御城下の雰囲気とは丸で違った。この町には潔さとがさつさがない混ぜに感じられ、それらを身上とする男衆はいなせとか粋とか呼ばれていた。正直なところ真之亮にはあまり良く分からないが、深川の町には御城下にはないある種の伸びやかさが満ちていた。

 上之橋を渡り終えると右手に船宿「波里」がある。仙台堀河口の大川に突き出たような佐賀町の角に何隻かの船を舫った船着場があって、小体な二階建がなぜか思わせぶりだ。白漆喰の海鼠壁を巡らした米蔵屋敷の連なるすっきりとした町並にあって、板壁に囲まれた波萬の一画だけが異質な色気を感じさせた。近寄ると板塀の隙間から干し棹に洗濯物の赤襦袢などの下着が風に靡いているのが見えた。

「これは船饅頭をやっていると疑われても、仕方ないような船宿だぜ」

 手先の顔をして、銀太が声をひそめた。

「まともな商売だけで暮らせるほど世の中は甘くないのかもしれないが、裏稼業も思うほど甘くはないのだろう。御法度破りの商売に手を染めると、破落戸たちがすぐに目をつけて群がってきて食い物にする。波里が裏の商売に手を出していたかどうか分からないが、いずれにせよ辰蔵と会って昨夜殺された者の名と前科の有無を聞かなければなるまい」

 真之亮は銀太に応えて、足早に永代橋袂へと急いだ。

 御法度に背く者を取り締まる町方役人もあまり大きな顔はできない。町方同心の内証が裕福なのは袖の下があればこそだ、というのは誰もが周知のことだ。昨今では七十俵五人扶持の御徒士組の者たちですらその日のコメにすら困窮している。町方同心の身分は御徒士組よりもさらに低い三十俵二人扶持の御家人でしかない。御上から頂戴する俸禄だけでは町方同心の台所は賄えないのは誰の目にも明らかだった。

 米蔵屋敷の海鼠塀の続く佐賀町の大通を下って、永代橋袂から左へ折れて門前仲通へと入った。陽射しは日一日と春めいて暖かくなり、花の蕾も膨らみ始めたことだろうと思われた。そろそろ富岡八幡宮の参詣人が門前仲通に姿を見せはじめ、広い通りに面した表店は日除け暖簾を軒下に張出していた。 

 黒江町の一の鳥居を過ぎると町は急に門前町の色合いを濃くして、二の鳥居の両脇には仲見世や屋台が華やかな幟や旗を風になびかせていた。

「銀太、浅草や両国広小路も悪くはないが、深川門前仲町も良い所だろう」

 真之亮が声をかけると、銀太はフンと鼻先で笑った。

 浅草界隈を縄張りとしていた銀太は沽券にかけて浅草広小路が江戸一番の盛り場でなければならない。深川門前仲町の雑踏を斜に見て肩を張るのも銀太の若さだろう。

 富ヶ岡八幡宮二の鳥居から八幡宮に背を向けて蓬莱橋へ向かって門前広小路を南へ歩いた。そして十間ばかり行くと右手に『升平』と軒下行灯に書かれた居酒屋があった。その店はお正がやっている居酒屋で、辰蔵はお正と夫婦のように店の二階で暮らしていた。辰蔵たち二人は木場人足の子供で同じ材木町の長屋に暮らしていた幼馴染だったと聞いている。

 真之亮の知るところでは、お正は子供屋「巴屋」抱えの辰巳芸者だったが、二枚証文の例にもれず二十歳過ぎに旦那を取らされ一時期囲われ者になっていたようだ。辰蔵は喧嘩三昧とすさんだ暮らしで木場人足をしくじったばかりで、当時は破落戸となって深川界隈では結構な顔になって暴れまわっていたという。

だが幸か不幸か、お正を囲った呉服問屋の旦那はわずか二年半後に卒中であっけなく世を去った。すると倅が跡を継ぎ初七日も済まないうちに番頭がやってきて、雀の涙ほどの手切れ金を投げ付けられるようにして一色町の妾宅を追い出されたようだ。

門前山本町の子供屋「巴屋」から戻ってこないかと誘われたがお正は断った。そして貯めていた月々のお手当てと手切れ金を元手に居酒屋を始めた。それが三年ばかり前のことだった。

 辰蔵は真之亮の亡父から手札を受けたばかりのまだ駆け出しの岡っ引だったが、お正に誘われるままに用心棒代りに棲みつきそのまま夫婦のように暮らしている。二人は夫婦の届けを町役に出してはいないが、誰もそんなことを少しも気にしなかった。

「辰蔵親分は居酒屋の居候かい」

 と小さな声で聞いて、銀太は怪訝そうな顔をした。

「そうかもしれないが、元々幼馴染の女将と紆余曲折あって、今では一つ屋根の下で暮らしているのさ」

 そう言って、真之亮は微笑んで見せた。

 縄暖簾も出ていない昼前の居酒屋は昼行燈のようで、店を畳んだ仕舞屋のような寂しさがあった。真之亮は升平の前に立ち、無愛想な腰高油障子を引き開けた。

 升平は間口二間に奥行き三間ほどの土間に二筋の飯台が置かれた手狭な店だった。十数人も入れば鮨詰めになるかと思われた。

「邪魔するぜ。誰かいないか」

 おとないを入れると、板場に三和土を刻む駒下駄の音がして、

「あいにくと、まだ店はやってないンだよ。宵の口に出直してくれないかい」

 弾むような声とともに板場の仕切りの暖簾を掻き分けて、大首絵から抜け出たような年増が顔を出した。

 そして真之亮に僅かに微笑んで引き込もうとして、女は動きを止めて小首を傾げた。そしてお正は着流しに落とし差の若い浪人者の顔を見直した。

「間違っていたら御免なさいよ。もしや中村様の若旦那じゃありませんか」

 暖簾を片手で掻き上げたまま、お正は真之亮を見詰めた。

「若旦那じゃない。中村家の厄介者だが、今じゃ古手屋の用心棒だ。おっと、辰蔵親分も升平の用心棒だったか。ところで、その用心棒はいるかい」

 そう言うと照れたように顔を俯けた。

お正は悪戯小僧を叱るように真之亮を睨んでから、

「なんの支度もしていませんけど、ささっ、中へ入って下さいな」

 と、お正は真之亮を迎え入れた。

真之亮は入り小口の空き樽に腰をかけた。銀太も真似るように真之亮の隣に腰を下ろした。

 お正は暖簾を掻き分けたまま板場へ振り向き「ウチの人は仲町の自身番にいるから、呼んできておくれ」といった。そして真之亮に振り返ると「月行事の打ち合わせに行っているのさ。すぐ帰って来るからね」と、安堵の笑みを見せた。

「善吉が殺されて、夜明け前から御城下へ出掛けたりして大変だっていうのに」

――町内の野暮用に引っ張り出されて、とお正は辰蔵を労るような眼差しを見せた。

 茶でも淹れるのか、お正は板場へ姿を消した。

「善吉っていうのか、昨夕御城下で殺された船頭は」

 真之亮は板場へ向かってお正の言葉を繰り返して、銀太と顔を見合わせた。

「はい、善吉の行方が分からなくなったと、昨夜から一晩中心当たりを走り廻っていたンですがね。こんなことになっちまって、親分はしょげ返っていますよ」

 板場から応えて、お正は盆に湯飲みを載せて来た。

 真之亮と銀太には昨日善吉に何があったのか、聞かなくてもおおよそのことは分かっている。おそらく子供が駄賃をもらって善吉に渡し、そこに「駄賃五十両にて、一晩だけ船頭の腕を貸せ。引き受けるのなら暮れ六ツに○○の船着場へ来い」と書いてあったはずだ。

善吉はどうしたものかと辰蔵に相談して、誘いに乗る振りをして出掛けた。辰蔵が善吉の後をしっかりとつけて行くから心配するなと言ったはずだ。暮れ六ツに善吉が文に記された場所へ行くと、また別の子供が文を持って待っていた。それには「一人で猪牙船に乗れ」との文面が書かれていたはずだ。いくら辰蔵が急いで河岸道を走ったとしても、猪牙船で大川を横切る善吉には勝てない。善吉を乗せた猪牙船は川面を滑るように元柳橋の船着場へ船を着けたが、そこで待っていたのは大店の内儀に化けたお蝶だった。

 真之亮と銀太は黙ったまま熱い茶を啜りながら、同じことを考えていた。

 こうも他愛なく同じ手口で次々と殺されるのはやり切れない。せめて北町奉行所から町方下役人や自身番に今回の一件が回状されていればこうはならなかっただろう。しかし、町奉行所が本気で一連の事件に取り組まないのにもワケがある。それは前科者が仲間内で殺しあうのなら、町方は直接手を下さないで世間の厄介者を始末できるからだ。北町奉行所としては下手人が自首して来るのならともかく、わざわざ手を煩わせて下手人を追い廻す必要はない。できることなら前科者をすべて始末してくれた方がお江戸は清々しくなる、くらいにしか思っていないのだろう。今のところ読み売りの瓦版でも世間の噂話でも、下手人を早くお縄にしろと騒いでいない。

 眉根の皺を深くして、真之亮は宙を睨み付けた。前科者は確かに罪を犯してお縄になった碌でもない者だ。世間に害を成す悪党だったかも知れないが、罰を受けて娑婆に戻って来た者を暖かく迎えるのが道理ではないか。前科者を排除していてはいつまでたっても悪の芽は摘み取れない。次から次へとと恨みつらみの蔓が伸びるだけだ。

「若旦那、いつお見えで」

 と、低い声がして目の下に大きな隈を作った辰蔵が戻ってきた。

「ナニ、つい先刻だ。どうした、ひどく参っているようじゃないか」

 のそりと入ってきた辰蔵を、真之亮は労うような眼差しで迎えた。

「善吉が殺されちまって。昨夜、元柳橋まで行きましたが、寄らずに帰りやした」

「良いってことよ。何も遊興で来たンじゃないンだ。ああ、これは茂助の店を手伝うことになった銀太という者だ」

 辰蔵が不審そうな眼差しで銀太を見るのに気付いて、真之亮はさりげなく銀太を紹介した。銀太からそこはかとなく漂う掏摸の匂いが、岡っ引の鋭い嗅覚に触ったようだ。茂助の古手屋を手伝う者だと紹介してからも、辰蔵は銀太へ訝しそうな視線を時折り投げた。

「ところで、親分。善吉は初っから元柳橋へ呼ばれたンじゃないな。最初は何処かの船着場に呼び出されたンだろう」

 真之亮がそう訊くと、辰蔵は大きく目を見開いた。

「その通りでさ。しかし、どうしてそんなことが分かるンで」

「同じような殺しが、御城下じゃここ五日の間に三件も起きている」

 目を剥いた辰蔵に、真之亮は手妻の種明かしをするように優しく言った。

「それで、善吉は誰に何処へ呼び出されたンだ」

「小名木川河口の御船蔵の裏の船着場でさ。七ツ過ぎに近所の子供が駄賃をもらって文を届けて」

 思い出すように、辰蔵はぼつりぼつりと語った。

 御船蔵といっても開府当時幕府軍艦の安宅丸が格納されていた大きな蔵のことではない。小名木川河口の御船蔵は町奉行所の管理下にあって、水害に備えて鯨と呼ばれる快速艇が収納されていた。大川に向かって観音扉があって、川端には石組の船着場があった。

「親分は善吉に教えられて、悪党を捕まえてやろうと御船蔵を張ったンだな」

「へい、『一晩身柄拝借値五十両』ってね。まともな仕事じゃねえのは誰でも分かりまさ。ふざけた野郎だ引っ括ってやれ、と松吉と二人して萬年橋袂と佐賀町の大川端で張ったンですが、善吉は御船蔵の船着場の猪牙船に乗せられて、大川を渡っちまった」

「どうして、善吉は親分を待たずに猪牙船に乗ったンだ」

「御船蔵に願人坊主が文を持って、善吉が来るのを待ってたンでさ」

「その願人坊主っていうのは」

「僅かな駄賃さえ貰えば、何だってする乞食坊主でさ。おそらく坊主は事件と関わりないでしょう」

「そうか。願人坊主が胡乱な者ではないとして、どんなやつが坊主に文を届けさせたかは、訊いちゃいるンだろう」

 真之亮が聞くと、辰蔵は言いにくそうに逡巡した。

「それが、四十半ばの小柄な八丁堀の手先ふうだったって言うンで。町人の形をしていたが、匂いで分かるって抜かしやがる。どうせ嘘っぱちに決まってまさ」

 ためらった後、辰蔵は真之亮の様子を窺うように言った。

 真之亮は目を剥いて辰蔵を見詰めた。驚き以外のなにものでもない。八丁堀同心がこの事件に一枚噛んでいるというのだろうか。

「その願人坊主は何処の坊に寄宿しているか、聞き込みは済んでいるのか」

「へい、海辺大工町の裏手の霊厳寺でさ」

 と、辰蔵は界隈でも由緒正しい寺の名を言った。

「その願人坊主のことを霊厳寺に確かめてあるのか」

「へい、確かに修行僧として一月前から宿坊に泊めていると」

――まともな坊主だ、と辰蔵の話を聞いて真之亮は頷いた。

 嘘を言って得するわけでもなく、また嘘を言うような人物でもないだろう。

 では、今度の事件に八丁堀が関与していると認めるのか。いや、そんなことは間違ってもあり得ない。八丁堀同心は身分こそ低いが不浄役人を勤めることで袖の下を手にして、幕臣としては低い身分に似合わず裕福な暮らしをしている。その八丁堀同心が悪事に手を染めるだろうか。世襲で受け継いだ結構な身分を失うことになりかねない危険な橋を渡るだろうか。

 並んで座る真之亮と銀太は思わず顔を見合わせた。

「親分、願人坊主からその町人の人相を聞いて、事件の口書を取っておいてくれないか」

「へい。しかし、取調べには八丁堀同心の指図が入用ですが……」

 と言い難そうに、辰蔵は言葉を濁した。

 岡っ引には十手捕縄が下げ渡されているが、その実ほとんど何の権限も付与されていない。たとえ下手人を取り押さえても、岡っ引の裁量では縛り上げることすら出来ない。建前では手札を受けた同心の差配によって、岡っ引は下手人を探索し縛り上げることになっている。真之亮は八丁堀に生まれ育ったが、町奉行所同心でないため辰蔵を差配できない。そのことを辰蔵は言外に仄めかした。

 真之亮は懐から十手を引き抜いて見せた。それは朱房の付いた十手で町方同心の証だった。辰蔵は驚いたように目を見開いて真之亮を見詰めた。

「拙者は南町の御奉行から直々に仰せつかった隠密同心だ。何かあった折りには拙者が責めを負うゆえ、願人坊主から口書を取っておいてくれ。それから隠密同心だということは兄上にも誰にも内緒だ」

 そう言って、真之亮は十手を懐に仕舞った。

「ところで善吉のことだが、やつは前科者だったのか」

 真之亮は低い声で聞いた。

「へい、確かに善吉は前科者です。三年前、南町奉行所で船饅頭の取り締まりがあった折りに。たまたま善吉が船頭をしていて捕まって、石川島の寄場へ二年ばかり行っていやした。しかし、体を売るしか仕方のない女だっています。あっしは善吉が悪吉とは思えなくて。寄場から戻った善吉を波里に紹介して、あっしが身元請人になったンでさ」

 辰蔵は善吉に非があって殺されたのではない、と言いたそうに言葉を重ねた。

――分かっている、と真之亮は頷いた。

「さきほど御城下で三人殺されたといったが、実はその三人とも前科者だったンだ」

 そう言って、真之亮は辰蔵の懸念を解いた。

 一連の殺しに関して、唯一の共通点は被害者が前科者ということだ。

「それじゃ、願人坊主の勘が正しければ、八丁堀が前科者を狩っているってことですかい」

 怪訝そうに眉根を寄せて、辰蔵は聞いた。

 辰蔵の言葉を聞いて真之亮は考え込んだ。前科者を狩るとはどういうことだろうか。一晩の仕事に五十両を払う、というのは前科者を釣るための方便なのだろうか。確かに八丁堀同心と女掏摸のお蝶とは奇妙な取り合わせだ。

 困惑した面持ちで、真之亮は大きな溜め息をついた。

「いや、単に殺めているだけとは思えない。前科者はそれなりに盗人の技を身につけている。徒党を組むのに藤四郎を集めて技を教え込むより、腕っこきの前科者を集めた方が仕事は確かだろう。今度の一連の殺しは目星をつけた前科者が従前通りの悪党か、それとも前非を悔いて真っ当になっているかどうかを確かめているンだろう。それが証拠にいずれも一度は近くの見通しの良い場所に呼び出し、それから次の場所へ行くように命じている。何処からか後をつけている者がいるのかと見張って、悪党仲間に引き込めないと踏んだ場合は始末してるンじゃないか」

――と考えているが辰蔵はどう思うか、と真之亮は目顔で訊いた。

「なるほど、そう考えると辻褄が合うような気もしますが。すると善吉の場合は船頭の腕を買われたってことですかい」

 どうも違うようだ、とでも言いたそうな眼差しで辰蔵は問い掛けた。

 なるほど、善吉は腕の良い船頭だったのだろう。しかし、船頭なら深川の船宿の前科者に目をつけなくても、御城下の山谷堀や日本橋河岸、鉄砲州から越前堀あたりの荷船の船頭にも前科を持つ腕の良い船頭はいくらでもいるはずだ。それがなぜ、よりによって深川の船頭の善吉を誘い込もうとしたのだろうか。

「佐賀町の船頭善吉を仲間に引き込もうとしたってことは、悪事をたくらんでる連中は堀割沿いの屋敷を狙っているってことだろう。それも本所深川の入り組んだ堀割を熟知した深川の船頭でならなければならないってことだろう。つまり夜盗一味が狙っているお屋敷は深川にあるってことじゃないのか」

 真之亮は心に浮かんだことを口にして、辰蔵と銀太の意見を伺うように見た。

 自信があるわけではないが、突き止めた一つ一つの事実を積み上げたらこうなる。誰かが口を開く前に板場から近づいて来る下駄音に三人は話を中断した。お正は盆に丼を三つ載せていた。話に夢中になっている間に、とうに昼を過ぎていた。

「深川丼を作ってみましたが、お口に合いますかどうか」

 お正はそう言って、丼を飯台に並べた。

「やや、これは。まことに相済みませぬ。いかいご造作をお掛け致します」

 真之亮と銀太は礼を言って箸を手にした。

「腕っこきの前科者を集めて悪事を働くってのは前代未聞ですが、真之亮様のお考えが図星なら、下手人の頭目が八丁堀でもおかしくないってことですぜ」

 辰蔵は丼を抱えて、天井を睨んだ。

 真之亮は八丁堀に生まれ育った者として、下手人が八丁堀だと言われて良い気はしない。眉根を寄せて深川丼を親の仇のように睨み付けて掻き込んだ。

「御船蔵の周囲に怪しい者がいなかったか、これから虱潰しに探ってみましょう」

 早くも食べ終えて、辰蔵は茶を啜った。

「これから探るのなら小名木川河口の御船蔵の対岸、稲荷の境内に誰かいなかったか、海辺大工町の者にでも聞き込んでみたらどうだろう。親分が善吉の後をつけていると、対岸の元柳橋の者に知らせた者がいたはずだ。場所としては萬年橋袂の稲荷の祠の裏辺りか」

 真之亮がそう言うと、辰蔵は不思議そうな眼差しを向けた。

「小名木川河口の稲荷から、どうやって大川の対岸へ知らせるンで。いかに喚いたところで声は届かないし、昼間ですら対岸の者の身振り手振りを判別するのは難しいですがね」

「辰蔵親分、それはこの銀太が謎解きをしたンだ。これまであった一連の事件はすべて陽が落ちて暗くなってから殺されている。ってことはおそらく下手人の仲間は合図に龕灯の明かりを使ったンだ。その火種には稲荷のお灯明があるだろう」

 真之亮が説明すると、辰蔵は「なるほど」と頷いた。

 夜に対岸の明かりが見えるのは、大川の川辺に暮らす者なら誰でも知っている。川霧がなければ対岸の大川端河岸道を行く者の灯す提灯ですら朧げながら見える。

「あまり親分の邪魔をしても悪い。そろそろ帰るとするか、」

 真之亮は立ち上がり「女将さん馳走になった」と板場へ向かって声をかけた。

「善吉の一件でわざわざ深川へ来られたのですかい」

 辰蔵も立ち上がって、不審そうなな面持ちで聞いた。

「ウム、不幸にして善吉は殺されちまったが、善吉殺しは善吉殺しだけで探索しても始まらない事件だ。善吉の件もあったが、実のところは親分の様子を伺いに来たンだ。善吉が殺されてしょげかえってるンじゃないかと思ってな」

と、真之亮は辰蔵に笑みを見せた。

「これから、どちらへ」

と、板場から出て来たお正が訊いた。

「けえるさ。茂助一人に古手屋をやらせて、居候が遊んでいては申し訳ないからな」

 真之亮が応えると、お正が「お前さん」と辰蔵に目配せした。

 それに辰蔵は「ああ」と応じて、真之亮に「宜しかったら」と言った。

「元柳橋まで、そこから船で送らせやす」

そう言うと、辰蔵が先に立って腰高油障子を開けた。

 深川はいたる所に掘割が走っていて、ここかしこに船着場があった。辰蔵は真之亮たちを黒江町入堀の船着場へ案内した。知合いの船頭に真之亮たちを元柳橋袂の船着場へ送るように依頼した。真之亮たちは猪牙船に乗り、油堀を経て大川へ出た。

 元柳橋袂の船着場を目指して、猪牙船はそのまま大川を斜めに漕ぎ上った。

「善吉が昨夜殺されたが、同じ船頭として何か気になることはないか」

 真之亮は胴の間に渡した横板に腰を下ろして、艫の船頭に声をかけた。

 年の頃は四十前、ねじり鉢巻きに法被姿と、粋を地でいく井出達だ。

「善吉がどんな船頭だったかわっしは知らねえが、以前は船饅頭の船頭をしていたっていうンだろう。闇夜の大川で櫓を任せるには一番の船頭だったンじゃねえかな」

 船頭は多少皮肉めいた口調で言った。

「闇夜の大川で櫓を操る腕は船饅頭の船頭が一番なのか」

 真之亮は皮肉な調子に合わせて、突き放したような口吻で船頭に訊いた。

「へい。良いですかい、たとえば今、おいらは辰蔵親分に言われてお客人を元柳橋へ送っている。これは長年の勘がなくても周りの景色を見ながら櫓を押せばよいわけだから年季はいらねえ。だけど、船饅頭の船頭は女と客を船に乗せて、闇夜の大川に船を出して半刻なり一刻なり流れに漂わせてから、ぴたりと元の河岸へ船を着けなければならねえ。それは一つの技ってものでさ」

 皮肉からではなく、船頭は真面目顔でそう言った。

 真之亮は船頭に「うむ」と頷いた。当然のことながら大川には流れがある。しかも流れは海へ向かって流れるだけではない。上げ潮になれば流れは逆流し、満潮時には浅草辺りまで海水が溯る。暗闇の大川で船を操るには一定の流れに抗っていれば良いというのではない。

善吉に目をつけたのはそういうことか、と真之亮は腑に落ちるものがあった。単に目的地へ着けば良いだけではないのだ。川から狙った屋敷へ一味を送り込み、疑われないように河岸から川へ漕ぎ出して仕事が終わるのを待って、頃合いを見計らって船を戻し、仲間を拾って逃走する。その合図にも龕灯を使うのだろうか。

 そうした考えを巡らせている間にも、猪牙は元柳橋の船着場についた。

 春の陽射しに誘われて、広小路は肩が触れ合うほどの人出だった。

「巾着切りも出張って来ているンだろうな」

 振り返って真之亮が声をかけると、銀太は当然のことのように「ああ」と応えた。

「たとえば、あの屋台の傍に立って人待ち顔にしている野郎、あの目配りは掏摸のものでさ」

 銀太はにこやかに笑って、次々と指差して真之亮に教えた。

「それでは、盛り場は鷹狩りの草原のようなものではないか」

 真之亮が驚きを表すと、銀太は「だから」と吐き捨てるように応じた。

「学問でいろんなことを学ぶのは人としての礼節を知るためなンだろうけど、家が貧乏で学問を修められなかった者に、礼節を弁えろというのは筋違いじゃねえのかってことでさ」

 そう言って頬を膨らませた銀太に、真之亮は「そう怒るな」と嗜めた。

「銀太、盗人にも五分の理といってな、誰にでもお天道様と理屈はついてまわる。しかし、大事なのはその理屈が道理として世間の人々に受け容れられるかどうかだ」

 そう言うと真之亮は銀太の肩を叩いて、柳原土手の古手屋へ急いだ。

 丸新の店先が見えると、真之亮は急に足を速めた。

 通りから見るだけでも何かがあったのは明らかだ。丸新の店先にいつもとは比較にならないほど客が群がっている。店先で茂助が客の対応をしているが、どうやら捌き切れないようだ。

 なぜだろうかと、いつもの丸新の客の入りと異なる様子に、真之亮は柳原土手道を急いでに店に近づくと、その理由がなんとなく解った。どうやら店を切り回しているのは茂助一人だけではなさそうだ。目を凝らすと紐に吊るされた色とりどりの古手の上で動く白髪交じりの島田髷とその相手をしている艶やかな銀杏返しがあった。

――誰が来ているのか、と真之亮は背伸びして女の顔を見て驚いた。

 お良だった。白い上っ張りを脱いで藍千本縞の着物に白襷をして、奥の上り框でかいがいしく四十年配の内儀に振袖の晴着を勧めていた。おそらく身内の娘に急な慶事があって、呉服屋で反物を買求めて仕立てをしていては間に合わないのだろう。

「茂助、お良が手伝いに来てくれたのか」

 店先の茂助に声をかけると、茂助は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「何言ってるンですか、仕舞屋を見に来られたンですよ。昨夜、兄上が長崎から帰って来られたようで」

 と言って客の相手を銀太に任せると、茂助は嬉しそうに真之亮を奥へ引き込んだ。

 茂助にいわせれば一人前の男とは養うべき所帯を持ち、世間様に胸の張れる真っ当な仕事を持つことだ。その点、表向きは古手屋の用心棒だが、真之亮には隠密同心という立派なお役目がある。元来が生まれも育ちも八丁堀だから、ヤットウが強いだけの隠密同心とはわけが違う。お役目上、真之亮が広小路の界隈で暮らすのになんの心配もない。手先として申し分のない銀太も来てくれた。だがそれでも十分とは言い難い。真之亮が一人前と世間から認められるにはお良と所帯を持ち、一家を構えることだ。ただ「一家」といっても、わざわざ松枝町の仕舞屋を借りる必要はないが、四角四面の茂助の考えではそうはいかないのだろう。目上の客人を迎える式台のある、ちゃんとした家に暮らすのが一人前の男のありようだ、と茂助は自分が叶えられなかった人生訓を語って聞かせた。

「お良さん、これから松枝町へ行ってご自身の目で仕舞屋を見て下せえ。建具や間仕切りの手直しが必要なら大工を手配しますから。場所は真さんが知ってまさ」

 と、茂助はお良を急き立てるように言った。

 追い出されるようにして、お良と真之亮は丸新を後にした。

 松枝町へ行くには新シ橋に背を向けて神田富松町の路地へ入り、豊島町一丁目の角で三叉路を西へとる。そのまま真っ直ぐに行くと、間もなく松枝町に辿り着く。近くに玉池稲荷があって御城下の町中にしては木立の多い一画だった。

 その仕舞屋とは屋根瓦の載った行灯建ての二階家だった。間口は四間ほどと八丁堀同心の組屋敷と遜色がないばかりか二階がある分だけ部屋数は多かった。元は口入れ屋だったようだが、請人が奉公先で不始末をしでかして鑑札を取り上げられ、夜逃げしたと聞いている。

 隣の薪炭屋が仕舞屋の持ち主で、商売は四十過ぎの大柄な愛想の良い内儀が仕切っていた。

「拙者は中村真之亮と申します。隣の借家の件で参りました」

 真之亮が声をかけると、炭俵の間を縫って内儀が通路を転がるように出て来た。

「あなたが真之亮様ですかい。古手屋の茂助さんから聞いています。八丁堀育ちでヤットウが滅法強いと聞いて、この界隈の者は頼もしいと喜んでるンですよ」

 潰し島田の頭を下げてそう言うと、内儀は真之亮の手を引くように仕舞屋へ案内した。

 茂助が八丁堀同心の手先だったということを界隈の者は知っている。八丁堀生まれの真之亮が松枝町に越して来れば用心棒を雇ったようなものだ。西新井大師や川崎大師の厄除け札よりも、火付や夜盗除けの厄除けにはうってつけだと喜んでいるのだろう。

 油障子を開けて仕舞屋へ入り、後をついて来るお良に内儀は曖昧に頭を下げた。

「ああ、この娘はお良といって、拙者とここで暮らすことになっている」

 真之亮は内儀の疑念を払拭するように明るい声で言った。

「それは、お近いうちにお二人が夫婦になるってことですかい」

 と言うと、内儀は満面に笑みを浮かべて土間から座敷に上がりお良を案内した。

 仕舞屋は建ってから十数年と、新しいともいえないが古びてもいない、ほどほどの家だった。もっとも江戸の町は火事が多く、建ってから五十年以上も経つ家は皆無といって良い。家の造作や間取りや裏庭を内儀が事細かに教えながらお良を案内している間、真之亮は入り小口の上り框に腰をかけて待った。

 親子ほどに歳の違う二人の女は楽しそうに語らいながら、順に部屋を見て廻った。

 四半刻もの間、真之亮は女たちの声が奥の間から二階へ移り、裏庭へ移るのに耳を澄まして聞いた。話の内容は真之亮には大して興味のない他愛ないものだった。この部屋は日当たりが良いとか、この部屋は使用人部屋にすると良い、いや使用人なぞ置ける身分ではありません、旦那は八丁堀のお武家様でしょう、いえそれは以前のことです……、などといった話をコロコロと良く笑う内儀の甲高い声が展開して、お良の控え目な抑制された声がそれに混ざって聞こえた。

 家とは暮らしを営む『巣』でしかないが、家をめぐって女はこれほどにも飽きず延々と話が出来るものかと感心した。武士たるものは衣食住に拘泥すべきでなく、いつでも主君のために潔く死すべきものと幼少の頃から教えられて来た。この世は仮の住まい。この世で暮らす家に関して、真之亮がこだわるとすればお良が気に入るか否かだけだった。

「ここで膏薬を商って下さいな。ウチの使用人にも腰痛持ちなどがいてね。八丁堀の了庵先生のお嬢さんなら秘伝薬の調合もご存知でしょう」

一通り見終わって土間へ戻ると、薪炭屋の内儀がお良に勧めた。

――ねえそうしなよ、と立ち上がった真之亮にも内儀は馴れ馴れしく膏薬を商うように促した。

 お良の口から真之亮は浪人者だと聞かされたのだろう。浪人者は差料を帯びてはいるが武家ではない。しかも町人の人別にも入れず、厳格な身分社会では無宿人の浮き草だ。内儀の口調が先ほどと比べて随分と砕けたものになっていた。

 真之亮は内儀の問い掛けるような眼差しに曖昧に頷いた。

「まるで大家さんから人別調べでも受けているようでした」

 弁慶橋を渡ると、お良は真之亮に話し掛けた。

 部屋を案内しながら、内儀は新たに隣で暮らす者の身元や出自を細かく聞いたようだ。それは大家として店子を町役に届けなければならないため、当然のことなのかも知れない。近所の者から聞かれて、なにも知らないでは大家の面目が潰れる。

「ところで、あの家で良いか」と、真之亮はお良に聞いた。

 それはあの着物で丈は合うのかと、古着でも買う程度の物言いでしかなかった。

「はい、十分です。むしろ広すぎるかと」

 お良は喜びを控え目な態度に隠して、真之亮を上目に見た。

「そうか、お良に不都合がなければあれに決めよう」

 そう言うと、真之亮は古名大門通りを八丁堀の方角へと向かった。

 きちんと話をつけて、今後のことを取り決めなければならないのだが、そうしたことになると真之亮は逡巡した。それは気持ちが決まっていないからでもなく、世間の常識が真之亮に備わっていないからでもない。ましてや面倒に思っているわけでも、ほんの形式だと軽々しく考えているわけでもない。早く切り出さなければならないと思いつつ、ついに長い帰路も尽きて江戸橋を過ぎ、八丁堀は目と鼻の先になってしまった。

 堀割に沿った河岸道を下りながら、真之亮は足運びを緩くして振り返った。

「すでに帰ってこられたようだの、兄上殿が」

 真之亮はそう言って、言葉の継ぎ穂を探した。

「お良を妻に迎えたいと、了庵殿に申し込みに行かねばならぬが」

 真之亮が思案顔にそう言うと、お良はクスリと笑った。

「お早くして下さいませね。良は家の中に身の置き所がなくなりました。明日にでも家を出なければならないかと、思案していますの」

 とお良が言うと、真之亮は顔色をなくしてうろたえた。

「ややっ、誠に申しわけござらん。一日一日と日延べして、ついには兄上が戻られる日を過ぎてしまった。ついてはこれより拙者が参って、了庵殿にお会い致そう」

 真之亮は慌てふためいた。

 その様子を見てお良はクスリと笑った。

「いいえ、その儀には及びません。先日、中村清太郎様がお見えになり、父にお話しして下さったようですから」

「えっ、兄上が」

「ええ。父に弟真之亮はお奉行直属の抱席として分家を許された、しかも町中で暮らすも勝手である、とお奉行様から有難いお言葉を下された、と申されたようです」

 真之亮には思いも寄らないことだった。あの堅物だけが取柄の兄が諸々の手続きを済ませてくれるとは。

兄の好意は好意として有難く感謝しなければならないが、兄の配慮はあながち弟に対する好意だけでもなさそうだ。部屋住みが悶着の一つでも起こせば中村家に災難が降りかかる。部屋住みを抱えるということは厄災の種を抱えるのと同じことだ。

考えたくはないが兄は中村家の厄災の種にならないようにと、早めに手を廻しただけかも知れない。しかしいずれにせよ、中村家当主としては部屋住みの弟が町人の娘を娶るからには、まずは真之亮の武家身分を剥奪しておかなければ御定法に障ることになる。そのために南町奉行所の長たる奉行に「人別除外伺い」を出して、その際に奉行から直々に真之亮を取り立てたことを知らされたのだろう。

「真之亮の身分がどういうことになっているのか分かりかねるが、と清太郎様も父の前で首を捻っておられたとか」

そう言って、お良は屈託なさそうに笑った。

「まっ、そういうことだ。拙者は市井に暮らしてお奉行の手足となる」

 肩の荷を下ろしたように気が軽くなり、真之亮はお良に笑みを見せた。

 そうこうするうちに八丁堀茅場町につき、お良と門前で別れた。

 それこそ近いうちに兄と会い、お良と所帯を持つ了解を得なければならない。ふたたび気が重くなるのを感じつつ、真之亮は柳原土手への帰途についた。

 

 柳原土手に夕暮れが迫っていた。

 陽の匂いが通りから薄れて、寒気が舞い戻ろうとしている。

 裏口からではなく真之亮は店先から古手屋へ入り、茂助に声をかけた。

「茂助、世話をかけるな。お良も借家を気に入ってくれたようだ」

 真之亮は茂助に頭を下げた。

「何の真似ですかい。わっしは真さんの手先のつもりでいやす。真さんは儂の旦那ですぜ。住むところを探すぐらいは何でもないことでさ。それより本来のお役目に力を注いで下せえ。今度の事件を解決しなければ何も始まりませんぜ」

 そう言うと、銀太と二人して神田屋へ行って来るように勧めた。

「銀太、真さんと飯を食ってきな」

 茂助が奥に向かって声を上げると、銀太がすぐに飛び出て来た。

「真さん、江戸にゃ古着しか買えねえ貧乏野郎ばかりだぜ。柳原土手の古手屋がこんなに忙しいとは思わなかった。心底、クタクタに疲れて腹が減っちまったぜ」

 銀太は悪態をついて空いた腹を擦った。

「銀太、なんて罰当たりなことをいうンだ」

 茂助は怒ったように打つ真似をしたが、銀太は身軽に腕の下を潜り抜けた。

「銀太、古手屋を悪し様に言ってはいけないぞ。茂助が古手屋で稼いでくれるお陰で、拙者たちは飯が食えるンだ。拙者の俸禄なんぞ、あってなきが如しだからな」

 笑みを浮かべて、真之亮は盆の窪に手をやった。

「三十俵二人扶持だろう。それだけ頂ければ食うに困らないンじゃないか」

 銀太が指摘するまでもなく、単純に米に換算すれば一人扶持が五俵だから二人扶持だと十俵、それに三十俵のつごう四十俵だ。それだけの俸禄で一家と二人の手先を養うことになる。米一俵はおよそ千六百文(十分の四両)だから、年間十六両で過ごさなければならない勘定だ。そうすると扶持米で同心の所帯を賄うとすれば夫婦が食べるだけでぎりぎりだ。さらに松枝町に借家を求め手先を置くとその分はそっくり足が出る。しかも若い夫婦がいつまでも二人っきりということもないだろう。やがて子が生まれれば諸事万端に掛りが要るようになる。当然のように俸禄だけでは首が回らなくなってしまう。

そうした心許ない三十俵二人扶持の俸禄だが、茂助の考えは銀太とは異なる。武家とは貧しくとも卑しくない者のことだという。だからこそ権力を握って二百年以上も御正道を執ってこられた。武家の矜持とは百姓や町人には真似できない大真面目な痩せ我慢だ。

「銀太、お武家様にとって俸禄は飯の種だけじゃねえンだ。扶持米を頂ける身分こそがありがてえンだよ」

――お前にゃ分かるめえが、と言いたそうに茂助が店先から銀太を睨んだ。

銀太は「何のことだか、わからねえや」と吐き捨てる声が聞こえそうな眼差しで茂助を睨み返したが、肩の力をふっと抜いて「そういうものかね」と応じた。思慮分別が備わっているのが大人の資質の一つだとすれば、いつの間にか銀太は大人の資質を獲得したようだ。

 真之亮は銀太と連れ立って神田屋へ急いだ。

 道には仕事を終えた職人やお店者が家路をたどり、どことなく開放された安堵感が満ちている。そうした人たちの群れに混ざって、真之亮は眉間に皺を寄せていた。

「銀太、下手人は何をたくらんでいると思うか」

 神田屋まではせいぜい二十間ほどでしかない。余り真剣に話し込んでいると店の前を通り過ぎてしまう。

「よく分からないが、腕扱きの前科者を集めて長屋のドブ掃除をやろうってンじゃないのだけは確かだな」

 仕事を終えた人たちの心持が移ったのか、銀太は軽口を叩いた。

「長屋のドブ浚いでないとすれば、やはり夜盗しかないだろう」

 真之亮は真面目に応じて、神田屋の縄暖簾を掻き分けた。

 押込み強盗か夜働きだという予測はついている。それがどのようなものか、何処に狙いをつけているのか、銀太の勘を聞きたかった。

 しかし、ここで真之亮の気に懸かることが一点だけあった。殺された三人の前科者はいずれも南町奉行所と関わりのある者ばかりだ。北町奉行所に関わりのある者は一人もいない。町奉行所は北と南しかなく公平に考えれば関わりを持つ前科者は半々、三人も殺されれば一人ぐらいは北と関わりのある者がいて当然だ。しかし、この偏りに何らかの根拠があるとすれば、事件に南町奉行所の者が関わっていることになりはしないだろうか。思い到った事の重大さに、真之亮は黙ったまま飯を掻き込んだ。

 その夜、真之亮はある推論に到って一人で悶々としていたが、ついに腹を割って茂助と銀太に話してみた。

「殺された前科者はいずれも南町がお縄にした者ばかりだが、なぜだと思う」

 と、真之亮は問いかけるた。すると、

「北の当番月に南の岡っ引の手下を始末しているって考えられないかな」

 偶然でないとすれば殺された前科者たちが南の岡っ引が使っている手下だ、と下手人は承知して殺っているのではないか、と銀太は言った。

「銀太、端っから手下だと分かっていて、その者を始末するつもりなら擦れ違いざま匕首を叩き込めば済む。いちいち場所を変えていることと突き合せれば、下手人たちは前科者が岡っ引の手下かどうかを確かめた上で殺害しているのではないか」

と真之亮は言って、さらに踏み込んだことを口にした。

「南町奉行所の者がこの事件に一枚噛んでいるとすれば、すべてが腑に落ちる」

 と呟いた真之亮に茂助は「えっ」と驚愕の色を刷き、銀太は眉根を寄せた。

 それは驚きというよりも衝撃だった。茂助は雷に撃たれたように目を閉じたが、やがて眼を見開くと小さく頷いた。金輪際認めたくないが、判明した事実をつき合わせて考えると、そういうことになる。

「真さん、南町奉行所の者が下手人の一味にいるとすれば、前科者の名や居場所も容易に手に入るってことだ。しかも、南町奉行所が扱った事件の咎人なら、それ以後も南町奉行所の岡っ引と関わりを持つのが自然でさ。前科者が殺されたところで北町奉行所が当番月なら、北町の岡っ引が本気で探索しないと踏んでのことかも知れねえ」

 真之亮の考えを引き取って、茂助が肝心な点を解き明かした。

 町奉行所が北と南に分かれて仕事を分担し合うのも、悪党たちと変な癒着が生じないようにとの配慮だが、それを逆手にとって事を起こしたとなると用意周到な悪党ということになる。

「そこなンだ、南町奉行所の者が知りうることは前科者の名だけではない。書庫の事件綴には事件の顛末から押し入った屋敷の見取図まで詳細に書かれているはずだ」

 真之亮がそう言うと、茂助は眉根を寄せて考え込みハタと手を打った。

 吟味方は自白主義を採り、下手人の口述を取って爪印を押させる。そのためには過酷な拷問は勿論のこと、親兄弟から親しい者まで類が及ぶことを言い聞かせて自白を強いた。そうして作成した事件綴りには仲間のことから押し入った屋敷の図面、さらには後日の逃げた足取りまで仔細漏らさず記され、奉行所の書庫に残されている。

「そういえば、こんなことがありやした。先代の清蔵様が本所改役から定町廻に上がる目前だったのを棒に振っちまった事件ですがね」

と、茂助は話の順序を整理するように視線を宙に漂わせた。

「あれは、旦那が亡くなられる二年ぐらい前のことでさ。佐賀町は米問屋摂津屋の米蔵屋敷に忍び込んだ盗人がいたと思って下せえ。時恰もちょうどこの頃、二月の切り米支給日だったかと思います。米屋が雇い入れていた用心棒に叩きのめされてお縄になった男でさ。吟味してみると前科もあって盗んだ銭が十両どころじゃなかったため、獄門首は間違いない。そこで、旦那が三途の川を渡ってから閻魔様の前で言い足す必要がないように、ここで洗いざらい喋っちゃどうかと水を向けた。すると、盗人が『一度だけ面白い夜働きをしたことがある』と言ったンでさ」

――ああ、思い出して来やがった、と呟いて茂助は拳を握った。

「確かムササビの盗兵衛って二つ名の野郎でしたがね『一晩の夜働きに付き合えば金百両だ』と見知らぬ男から誘いを受けて、軽い気持ちで承知した。が、諾意だけを確かめるとその後は何の繋ぎもなく、からかいやがったかと思い始めた頃になって繋ぎがあった。それが忍び込む当日の昼下がりで、集まる場所だけを知らせてきた。『陽が落ちたら元大工町の谷房稲荷の境内に蘇芳色の布で顔を包んで集まれ』ってンだ。元大工町の谷房稲荷といえば八丁堀と町奉行所の中ほどに位置していて、盗人たちにとっては危険極まりない場所じゃないかと案じたが、とにかく繋ぎ役の男は伝言だけを言って消えた。詳しくは集まってから教えるってことだった、と」

 茂助は記憶を手繰るように話し、口を閉じて再び記憶を手繰り寄せた。

「それじゃ、押し入る屋敷内部の詳細を誰が教えるンだ」

 と、銀太が口を挟むと、茂助は目を剥いて「黙って聞いてろ」と叱った。

「当夜、稲荷の境内に黒頭巾で顔を隠した仲間が集まり日本橋通り町の呉服問屋に押し入ったと語った。実際に事件綴を例繰方に頼んで調べてもらったら、ムササビのいった押込み強盗は北町が当番月に実際にあって、ざっと四千両ばかり盗まれていたンでさ」

 そう言って、茂助は銀太に頷いて見せた。

「ムササビが驚いたのは、集合場所へ行くと呉服問屋の詳しい見取り図から奉公人の寝泊まりしている部屋の位置のみならず、奉公人の人数から内所の家人の寝所まで、細大漏らさず書き記した絵図面を見せられたってことで。ムササビの盗兵衛は親からもらった名を熊蔵ってンですが、集まった仲間からは『くの字』と符丁で呼ばれ、他の仲間も符丁で呼び合って誰が何処の誰だか一切分からなかったってことでした。先代の清蔵様は何とも面妖な事件に手をおつけになったものだと恨んだものでさ」

 そう言って茂助は茶を啜って、一つ大きく溜め息をついた。

「先代は伝馬町の牢へ赴いて熊蔵から仲間の名を聞き出そうとしましたが、あの夜に一度会ったきりってンで。しかも全員が顔を布で包んでいて誰が誰だか分からねえって言うばかりだが、嘘じゃなさそうで。そこで先代は詳細な屋敷の絵図があったことから店の内部に手引きした者がいると睨んで奉公人を洗い直したンでさ。それで、縄張り違いの北町の事件に首を突っ込んだと上役から睨まれちまった。それでも先代の力で解決していれば問題にならずになんとかなったンですが、ついに事件は解決しないまま、いたずらに先代の立場を悪くしただけで。定町廻りに上がる目前だったのを棒に振って、とうとう先代は本所改役で生涯を終えちまったンでさ」

 その件では茂助も清蔵の手先として走り廻ったのだろう、思い出して悔しそうに口元を歪めた。

「定町廻りへの昇進を棒に振ってまで父上が洗った事件なら、探索も半端じゃなかったはずだ。一味を手引きした者が店にいなかったというのなら、それが本当だろう。すると、どういうことになるンだ」

――内通者もしくは下手人が南町奉行所にいることになりはしないか、と真之亮が目顔で言った。

 茂助はブルルッと身を震わせ、銀太はゴクリと唾を呑み込んだ。

 前代未聞のことだ。南町奉行所の者が指図して夜盗を働くとは、例え話にも聞いたことがない。しかしそれは聞いたことがないだけで、実際にはありうることだ。

「しかも一味は屋敷の内部を絵図面に詳細に描き、部屋割りとそこで寝ている人数まで調べ上げていたンで。千里眼でもない限り出来ないことですぜ」

 驚きから立ち直ると、茂助は心に湧いた疑問を口にした。

 茂助の言う通りだ。人様の屋敷に立ち入らずに内部を事細かに調べ上げることは出来ない。ただし、その屋敷が過去に盗人に入られたことがあれば話は別だ。事件吟味の過程で町奉行所は下手人から詳細な口書を取り、その侵入経路などを記した屋敷図などと一緒に書庫に保管してある。例繰方の与力や同心なら誰にも見咎められることなく書庫に出入りできる。

「兄上に頼んで調べてもらわねばならぬ。それも、北と南の両方の町奉行所の過去の事件を洗って。それらを突き合わせれば分かることだ。おそらく今度の前科者殺しの一件も理由が浮かび出てくるはずだ」

 そう言って、真之亮は二人を見廻した。

 茂助と銀太は謎解きが分かりかねて「真さん」と声をあげた。中村清太郎の手を借りて何を調べるのか、茂助と銀太にはわけが分からないようだった。

「北町奉行所の当番月に盗賊一味に押し入られて、未だ解決を見ていない事件はないか。同時に南町奉行所にはその未解決事件の起こる前に、当の屋敷に盗人が入って下手人をお縄にした事件がないかを、だ」

と、真之亮が謎を解き明かしても、二人の顔は依然と曇ったままだった。

――分からないのか、と溜め息をついて真之亮は身を乗り出した。

「いいか、南町の当番月に盗人が入り、下手人をお縄にする。するとどうなるか。事細かに盗人の侵入経路からその折の奉公人の居場所に主人家族の寝所や内所の位置を聞き出して、それを屋敷内部の絵図面に書き込んで事件綴に綴じ込む。時には錠前をどのようにして破ったかまで子細に口書に残す。その事件綴さえ手に入れば、屋敷の内部は細大漏らさず解ることになる。そこで事件のほとぼりが冷めた頃、その屋敷を狙って北町が当番月に夜働きをする。南町奉行所が当番月なら南町の同心が駆け付けることになるが、北町が当番月なら北町の同心が駆け付けて探索を行う。北と南は日頃から張り合っているから滅多なことで南北が協力して探索したり、探索経過や下手人の目星に関して役人同士が話し合うことなど百に一つもない」

 真之亮が謎解きの説明を終えると、二人は大きく頷いた。

「なるほど、真さんの言うことは道理に適ってまさ。だとすると、南町奉行所でお縄になった前科者にだけ夜働きの誘いをかけている謎も解けるって寸法だ。誰かが南の事件綴を繰って夜働きに役に立ちそうな前科者を探しているってことですか」

 茂助は大きく二度、三度と頷いた。

「そうした事件綴は奉行所のどこにあるンで」

 銀太は茂助の顔を覗き込んだ。

「お白洲の裏、牢番小屋の隣の長屋のような一棟だ。銀太、北にも南にも奉行所には例繰方といって紙虫みたいな役職があるンだ。日がな一日中、書庫に篭もって事件綴が山積の棚に囲まれた部屋で書面に埋もれて過ごすンだ」

 そう言うと、茂助は腕を組んで考え込んだ。

「ケッ、おいらは真っ平御免だぜ、そんな辛気臭い仕事なぞ」

 銀太は大きく手を振って見せた。

「ばか野郎、町方同心といってもピンキリだ。粋な定町廻だけじゃ町奉行所は動かねえンだよ。紙虫といわれる地味な役回りもいなけりゃならねえンだ」

 茂助は銀太を叱り付けて、ムササビの盗兵衛の話を続けた。

「先ほどの話ですけどね、ムササビは『夜働きを終えると呉服問屋の前で分け前を貰って別れたっきり、一味の者とは会っていない』というンでさ。『もしかするとあれから悪事を働いた一味と道で出会ってたかも知れないがね』と、笑っていたようです。悪党一味は顔を包んでいて顔はもちろん、符丁で呼び合っただけで名前だって知らされていない。ムササビは分け前の百両を懐にナカへ繰り出して、七日流連けて面白おかしくパッと散財しまったと言ってやしたっけ」

「豪儀な盗人だな」と感嘆したように、銀太が呟いた。

「そうかな、銀太。ムササビはとどのつまり獄門台に首を据えられたンだぜ。掏摸と同じで盗人稼業も本当のところは割に合わない稼業なンだよ」

 そう言って、真之亮は銀太に笑みを見せた。

 茂助は話を元に戻すように「ところで、」と真之亮に話し掛けた。

「真さんの見込み通りだとして、明日にでも清太郎様にお頼みなさるンで」

 茂助は心配そうに真之亮を見詰めた。

 真之亮の言辞の通りだとすれば、事件に南町奉行所の者が関わっている疑いが強い。それを例繰方に言って過去の事件簿を調べさせて欲しい、と兄に頼むことになる。頼まれた兄は南町奉行所本所改役臨時廻りの同心だ、兄にとっては仲間の悪事を暴くようで決して心楽しいものではないはずだ。

 茂助の心配顔をよそに、真之亮は明るく笑った。

「誰も兄上に頼むとは言っていない。ただ兄上に話してはみるが、嫌な顔をされればお奉行に頼むだけだ。余り心配しすぎると長生きできないぞ」

 屈託のない笑みを浮かべて、真之亮は二人の顔を見た。

 これから先、自分はどれだけ世間の役に立てるか心もとないが、お役目で自分を助けてくれるのは茂助と銀太だ。そうした面持ちで二人を見廻すと茂助は照れたように顔を両手で撫で回した。

「真さん、夜鷹蕎麦でも手繰りに行きやしょう。銀太、お前も付いて来な」

 上擦った声で茂助が言うと、銀太は嬉しそうに立ち上がった。

 裏口から土手に出た。十六夜の月が昇り、冷たい風が川面を撫でている。今宵も柳並木の陰に人の気配がして、囁く声が聞こえた。

 新シ橋の袂に掛行灯の明かりが瞬き、担ぎ屋台の物陰から湯気が立ち上っていた。

「親爺、熱いのを三ばいくれろ」

 と、茂助が七輪に屈み込んでいる親爺に声をかけた。

 三人の後を追うように、暗闇の中を二人の女が土手道を駈けてきた。

「古手屋の旦那、わっちらに熱い蕎麦を奢っておくれでないか」

 ちびた下駄を鳴らして来ると、大袈裟に息を切らした。

「ああ、いいとも。親爺、夜鷹に夜鷹蕎麦二つ追加だ」

 茂助は端切れ良い江戸弁で親爺に言った。

 茂助が巻き舌でものを言うときは機嫌の良い証拠だ。

「おや、銀公じゃないか。古手屋の旦那に拾われたのかい」

 大年増の女が明かりの外に立っている銀太に呼び掛けた。

「やや、稲荷町のお島じゃねえか。いかにも、おいらは掏摸から足を洗って古手屋の奉公人になったンだ。それよりお前、夜鷹なんぞして亭主の六助はどうしたい」

 茂助と並んで縁台に座った女に近づいて、銀太は問い掛けた。

「六助にゃ三行半をわちきの方から叩き付けてやったよ。働きもしないで奥山の賭場で手慰みばかりしやがって、稼ぎのない亭主はお払い箱さ。ところで銀公、勘治が大怪我をして安の所へ担ぎ込まれたのを知ってるかえ」

「ええっ、それはいつのことだい。勘治とは昨日の夕刻に会ったばかりだぜ」

「それじゃ、その後だね。昨夜、わちきが夜働きから帰ったら長屋じゃ大騒ぎだったンだ」

「怪我の具合はどうなンだ」

「生きているのが不思議だって、薮医者の道源がいってたよ。後から右袈裟にバッサリと一太刀だってさ」

 斬る手振りを交えて女がそう言うと、銀太は真之亮を険しい眼差しで見上げた。

「旦那、いきやしょう」と銀太が短く言い、真之亮がそれに頷いた。

「茂助、ちょっと行って来る」

 そう言うと真之亮は腰を浮かした。すぐにも駆け出しそうな二人に茂助が「蕎麦を食ってからにしな、腹が減っては良い知恵も出ねえだろうよ」と声を放った。

 茂助の言うとおりだ。腹が空いては知恵のほうも留守になってしまう。夜鷹蕎麦を湯気ごと掻き込むと、真之亮と銀太は稲荷町へ向かった。

 新シ橋を渡って北へ延びる大通を二人は足早に駆けた。

まだ町木戸が閉じられる刻限ではないが、夜道を駆けていたため三味線堀の木戸番で呼び止められた。

「稲荷町へ急ぎの御用だ」

 真之亮は懐から朱房の十手を引き抜き、番太郎の目の前に突き出した。

 番太郎は「ヒィ」と後ずさって真之亮たちを通した。

長屋を知っている銀太が先を駆けて、真之亮が大股に後に続いた。

「安、ってのは誰だ」

駆けながら真之亮は訊いた。

「勘治の弟分でさ、安五郎って名だがみんなは安って呼んでる」

 そう言う間にも、銀太は永昌寺門前参道脇の貧乏長屋の木戸口に駆け込んだ。

「安、銀太だ。勘治兄ィの具合はどうだ」

 六尺路地の入り小口右手の建てつけの悪い油障子を引き開けて、銀太は叫んだ。

 真之亮も銀太の背越しに部屋の様子を窺った。

 九尺二間の棟割長屋、三尺の土間と素通しの四畳半があるきりの住まいは一目瞭然だ。黴臭い部屋に狐火のような絞った明かりがともり、人なりに膨らんだ夜具の傍に銀太と似た年格好の痩せた男が座っていた。銀太を見つけると布団の脇に座っていた細面の瘠せた男がワッと泣き声を上げた。

「ああっ、銀太。兄ィが酷いことになりやがって……」

 雪駄を脱ぎ捨てて部屋に上がると、勘治は顔に死相が浮かび虫の息だった。

「勘治兄ィは何処で誰に斬られたンだ」

 銀太は安五郎に鋭い声で訊いた。

「斬られた場所は蔵前森田町の大通だ。相手は誰だか分からねえ。戸板に乗せられて運び込まれた時にゃ、もうこの通り口が利けなかった」

 安五郎は涙声で言って、銀太を見詰めた。

 蔵前森田町は蔵屋と呼ばれる札差が軒を連ねる町だ。そうした場所で掏摸が斬られても、町方は形通りの取調べしかしないだろう。町方下役人にとって掏摸は野良犬同然で、この世にいない方が良い。それに対して札差は旗本御家人相手に金貸し業を専らとしているため、店には必ず腕利きの用心棒を飼っている。借銭に来た世間知らずの旗本の用人が時には脅しに差料を引き抜いて暴れるため、その用心のためだ。所詮札差も破落戸のような者ばかりで、おそらくは虫の居所の悪い札差の用心棒に斬られたのだろう、といって町方は本気で下手人を探索しようとはしないだろう。

「銀太、勘治兄ィはお蝶姐さんの行方を捜していたンだ。勘治兄ィが二日前にここに顔を出して、町方役人がお蝶姐さんを人殺しの道具に使ってやがるって、たいそう怒っていたンだ」

 と思い出したように、安五郎が口を開いた。

「ナニ、町方役人って岡っ引かそれとも手先か。まさか八丁堀定廻り同心のことじゃねえだろうな」

 銀太は問い詰めるように、安五郎を睨み付けた。

 そこが肝心要だろうが、と睨みつけたが、安五郎は力なく頭を振るばかりだった。

「町方役人とだけしか兄ィは言わなかった。土壇場に追い詰められてお蝶姐さんは二進も三進も行かなくなった、と」

 安五郎はそれだけ言うと、嗚咽を漏らして涙を流した。

 勘治は多量の血を失ったのだろう顔色が青ざめ、たとえ傷が癒えてもふたたび元気になるとはとても思えなかった。白い晒で巻かれた胸のあたりがかすかに上下して息をしていると分かる他はすっかり生気を失い、既に死神に取り付かれた生ける屍のようだった。

 勘治になにかあったら柳原土手の古手屋丸新に知らせろ、と安五郎に言って真之亮と銀太は長屋を後にした。「どこへ行くのか」とは口に出さなくても分かっていた。

 月明かりの道を二人は長い影を曳いて、大通を静かに歩いた。

「安五郎は何をしている男だ」帰りの道々、真之亮は銀太に聞いた。

「掏摸でさ。浅草広小路を縄張りにしている」吐き出すように、銀太はこたえた。

「あの様子では勘治は今夜あたりが峠だろう。お前も昔の仲間なら、安五郎の身の振り方の相談にのってやれ」

 真之亮がそう言うと、銀太はこくりと頷いた。

「安五郎が古手屋の店番の手伝いが良いといえば茂助を手伝ってもらうし、銀太と一緒になって拙者を助けてお役目を手伝いたいのならそうしてもらっても良い」

 真之亮の言葉を聞くと、銀太は「済まねえ」と小さくこたえた。

 

 翌朝早く、真之亮は銀太を弥平の許へ呼びに遣った。

「旦那、何の御用で」と、丸新の裏口に顔を出すと弥平はむくれて見せた。

「勘治が蔵前の往来で斬られたってのは知ってるだろう」

 弥平を座敷に上げると、真之亮は弥平に訊いた。

「へい、知っちゃいやすが相手は掏摸ですぜ。まともにゃ取り合えませんや」

 嘲るような笑みを浮かべて、弥平は吐き捨てた。

「そうか、掏摸は人間じゃないか。それは弥平というより貝原忠介殿のご意見だと受取って良いのだな」

 真之亮は脅すように弥平を睨み付けた。

 真之亮だけではなかった。茂助も銀太も冷たい眼差しで弥平を睨み付けた。すると弥平は三人を見廻してから閉口したように「よせよ、分かったよ」と音を上げた。

「いや、少しも分かってないようだ。勘治が掏摸だったのは間違いないが、掏摸を働いた勘治には厳しい罰が科されたはずだ。御奉行所門前で叩きの刑を受けて、勘治は罪を償ってまっさらになった。辻斬りか何かは知らないが、親分の縄張りで真っ当な男が斬られる事件があって、当の親分が探索しないようでは町衆は枕を高くして寝られないンじゃないかな」

 噛んで含めるように、真之亮は道理を語って聞かせた。

 弥平は訝しそうに表情を歪めて、真之亮を掬い上げるように見詰めた。

「勘治は町方役人に斬られたのかも知れないンだぜ」

 一呼吸の後、真之亮がそう言うと弥平は驚いたように目を見張った。

 弥平に詳しいことはしゃべれないが、勘治を襲った下手人にはお蝶の影が差している。勘治の言葉を借りれば「お蝶は土壇場に追い込まれて」一連の前科者殺しに手を貸した疑いが濃厚だ。いや、もしかすると数々の殺しの現場でお蝶を操っているのは南の同心かも知れない、との疑念が真之亮の脳裏に去来した。

「旦那、いったい何を追ってらっしゃるンで」

 弥平は手炙りに覆い被さるように身を屈めて、掬うように細い目で見上げたまま低い声で訊いた。

 さすがは勘の鋭い岡っ引だ、と真之亮は弥平を感心したようにその視線を受けた。定廻本所改役の同心の元手先と、町方同心の弟が二人して厳しい眼差しで「探れ」とけしかければ当然かもしれないが、弥平も勘治の一件の背後に深い闇が広がっているのに気付いたのかも知れない。

「コレといった目当てがあるわけじゃない。掏摸殺しの他に何もなければ、それにこしたことはないンだ。転ばぬ先の杖といってな、まずは安五郎の家へ行って当たってみるンだな。銀太、きょうはお前も勘治の傍に付いていてやれ」

 真之亮はそう言って、差料を手に立ち上がった。

「真さん、どちらへ」と、茂助が聞いた。

「出仕前の兄をつかまえて、昨夜の思案を頼んでみるつもりだ」

 そう言うと、真之亮は雪駄を履いて低い鴨居を潜るようにして裏口から出た。

 土手の坂を上り、道の端に立って真之亮は一つ大きく伸びをした。振り返ると、ゆったりと川面を揺らめかして薪炭や乾物などの荷を満載した川船が神田川を行き交っている。日毎に暖かくなる陽射しに目を細めて、春霞の空を見上げた。季節はいつしか冬から春へと移っているようだ。「真之亮よ、うかうかしてはおれぬぞよ」と呟き、事件解決もさることながら、自分の始末を自身で付けられないでは一人前とは言い難いと自戒した。

真之亮は柳原土手道へ出ると、さっそく八丁堀へ向かった。この刻限を選んだのには理由がある。丁度八丁堀同心は朝風呂から帰って、庭に面した縁側で髪結に髷を結わせている頃だ。幼い時分から同心だった父の暮らしを見ている。この時分なら同心が何をしているか、非番月の兄の暮らしぶりも手に取るように分かっていた。

 中村清太郎の組屋敷は八丁堀の提灯掛丁と辛抱小路に挟まれた一画、町御組屋敷の中ほどにあった。中村家の右隣の貝原忠介の家の前を通って、生まれ育った屋敷の門を入った。が、そこまで来て玄関へは寄らず脇の枝折り戸を開けて裏庭へ回った。父が生きていた頃と少しも変わらない庭木の様に感慨深いものがあった。

 町方同心は「日髪日剃」といわれ、髪結いを屋敷へ呼び、毎日髷を結い髭を当たった。真之亮が睨んだとおり、中村清太郎は縁側で父の代から出入りしている髪結いに髪を梳かせていた。受け板を両手に持って縁側に神妙に座っていたが、庭先に入ってきた慎之亮を見つけると不機嫌そうに口元を歪めた。四歳年上の兄は母親似といわれ白皙細面に聡明そうな目鼻立ちをしていて、父親似の真之亮の頑丈そうな造りとはまったく異なっていた。

「兄上、先日は拙者と良のことでお手を煩わした由にて、お礼申しあげまする」

とまずは頭を下げてから、真之亮は清太郎の傍らの濡れ縁に腰を下ろした。

「そういうことはどうでも良いが、お前の身分はどういうことになっているンだ。お奉行に問い合わせたら町人との縁組みもお構い無し、市井に暮らすもお構いなし、そういうことになっている、と申された。お前の身分のことは当人に訊いてはならぬと釘を差されたが、一体全体どうなっているンだ」

と怒ったような口吻で問いかけられた。さてどう説明すべきか、と返答に逡巡する真之亮に、

「それすらも実の兄にさえ口外無用なのか」と、重ねて訊いた。

「はい、そういうことにて御納得頂ければ幸いかと」

 と、真之亮は面目なさそうに頭を下げた。

 いうまでもなく中村家の当主は長男の清太郎だ。与力や同心は表向き一代限りだが、実際は抱席といわれ代々世襲となっている。世襲ということは当主が同心のお役に就けば、弟の真之亮が取り立てられることはない。弟の真之亮は清太郎の厄介者として生涯を独り者として過ごすか、あるいは婿養子となって他家へ入るか、それとも家を出て浪人者として市井で暮らすか、しかない。 

 幼少時に真之亮は学業で兄に遠く及ばなかった。それは真之亮の頭の出来が兄に劣るというのではない。単に真之亮が勉学を怠けて真剣に励まなかったからだ。子供は大人の態度に敏感だ。父親に期待され厳しく育てられている兄と、次男の真之亮に接する家人の態度に明らかな差があった。

同心の素養として必要な十手術や棒術なども、兄は早くから父に命じられて同じ八丁堀にある筋目正しい師匠の許へ通っていたが、真之亮には手先の茂助が暇な時に手解きをしてくれた。剣術も兄は同心の子弟が通う八丁堀の道場へ通ったが、真之亮は新しく出来たお玉ヶ池の町道場へ通った。幸いだったのは大師範千葉周作が興した町道場が江戸でも教え上手と評判だったことだ。その町道場で真之亮は水を得た魚のように剣術修行に励み精進した。

二十歳を過ぎたころから真之亮は剣術道場の行き帰りに出会うお良と言葉を交わすようになり、いつしか二世を契る仲になった。しかし父が亡くなり、兄が家督を継ぐと、真之亮は中村家の次男から部屋住みとなった。武家のご定法により部屋住みの者は嫁を娶ることは出来ない。

いよいよ兄が嫁を娶ることになると、真之亮は家を出る決心をした。それは武家身分を捨てて、浪人者になるということだ。浪人者となり剣術家として市井で生きて行こうと考えていた。お良と所帯を持つにはそれしか方法がなかった。道場では代師範を仰せつかり、入門初心者に剣術の手解きをしていた。

八丁堀の家を出て間もない日、お玉ヶ池の道場に南町奉行の側役が訪れて隠密同心になるようにと命じた。浪人者になる決心をして家を出た真之亮にとって、断る理由は何もなかった。

真之亮は隠密同心に取り立てられた経緯などを秘匿したまま、兄に尋ねた。

「つかぬ事をお伺いいたしますが、兄上は父上が執念を燃やして取り組まれだ事件があったことをご記憶でしょうか」

 声を低くして、真之亮は八丁堀の家へ足を運んだ用件を切り出した。

 清太郎は「うむ」と返事を洩らして、元結を縛っていた髪結の手元を狂わせた。

「未だ解決を見ていませんが、北町の強盗事件は呉服問屋内部の者の手引きがあったのではないかと睨んだ父上が強引に探索を進められ、北町から差配違いと捻じ込まれ不興を買ってしまわれた。そのため父上はとうとう定町廻りになれませんでしたが」

 真之亮がそう言うと、背後の髪結を憚るように清太郎は二三度咳払いした。

「そこで、兄上にお願いがございます。ここ十年ばかり南町奉行所と北町奉行所と両方の事件綴の中から未解決の強盗事件を洗い出し、その家が以前に盗人に入られ下手人がお縄になっているかどうかを調べて頂きたいのですが」

 真之亮の言葉を反芻するかのように考え込んでから顔を上げて、

「何のことだ。つまり、それはどういうことだ、真之亮」

 と、清太郎は眉根を寄せて真之亮を睨んだ。

「北町奉行所で下手人が判明していない強盗事件が何件かあると思います。そして、その下手人がまだお縄になっていない事件が起きる数年前に、南町奉行所の当番月に同じ屋敷が強盗事件の被害にあって、その事件では下手人がお縄になっている、という事件があるか否かと。かような事実を確かめて頂きたいのですが」

――よろしいかな、と念を押すように真之亮は清太郎の顔を覗き込んだ。

 清太郎は真之亮の意図を図りかねて訝しそうに小首を傾げた。

 聡明な清太郎のことだから、真之亮の言った言葉の字面の意味は分かったはずだ。しかし具体的な内容として弟が何を意図しているのか理解しがたいのだろう。

「よく分からぬが、それはつまりどういうことだ」

 清太郎は小首を傾げて、呆けたように口を開いた。

「つまり北町奉行所で解決を見ていない強盗事件があればその事件綴を調べて頂き、それ以前にも南町の当番月に同じ屋敷に夜盗が押し入る事件があって、首尾よく南町奉行所が下手人を捕らえた事件があったか否かを調べて頂きたい、ということにて」

 と、ふたたび真之亮は同じことを繰り返した。

「つまり南町奉行所が当番月の折りに、ある屋敷に押し入った盗人を捕らえた。かような事件綴があって、後日まさしくその屋敷に北町奉行所が当番月の折りに盗人が押し入り、その事件は未だに解決を見ていない事件がありやなしやと、真之亮はそれを知りたいというのだな」

「正しくはそのような事実経過を辿る事件が過去にあったか否か、を調べて頂きたいのですが」

 真之亮がそう言うと、清太郎はやっと得心したように頷いた。

 だが、顔を上げると同時に清太郎は表情を険しくして真之亮を見詰めた。真之亮の狙いが何なのか、いよいよ分かりかねるようだった。

「南町奉行所が当番月の折り、屋敷に押し入った盗人を捕らえて下手人を処罰した。しかし数年後、北町奉行所が当番月に正しくその同じ屋敷に盗人が押し入った事件は解決を見ていない、というンだな。話は分かったが、それはつまりどういうことだ」

 腑に落ちかねる不可解な眼差しで、清太郎は真之亮を見詰めた。

「そのような事実が有るか否かだけを、確かめて頂ければ」

真之亮は同じ文句の繰り返しに、多少なりともうんざりとした色を浮かべた。

 清太郎は曖昧に頷いて受け板を髪結に手渡した。廻り床の髪結が清太郎の肩にかけていた手拭いを取って肩を軽くはたいた。それが終わると、清太郎は膝を崩して胡座を掻き表情を和らげた。

「ところで、お良との婚儀をいつ取り計らうのだ。お奉行のお話だとお主の人別は中村家の分家という扱いになるようだ。分家を立てるとなると親戚一同にも、お主の婚儀の席に顔を揃えなければならず大人数となるため、内々に組屋敷で済ますことは出来ぬぞ。どこか場所を借りて宴を用意せねばならぬと思うが」

 清太郎は中村家の当主の勤めとして、通常なら真之亮の婚姻を親族に披露しなければならない。しかし真之亮は「いやいや」と首を横に振った。

「婚儀の日取りなどはまだしかと決めてはおりませぬ、先方のご都合もあることでしょうから。しかし披露宴は特別な場所でなくても、新居に借りた松枝町の仕舞屋で良いかと。あくまでも拙者は浪人者として市井に暮らさねばならぬお役目ゆえ」

 と真之亮が言うと、清太郎は切なさそうに目を曇らせた。

「親戚に対して何といえば良いのだ。わが中村家から浪人者を出し、その浪人者が町人の娘を嫁に迎える、とでも説明するのか」

 清太郎は嘆きの声を上げ、目を細めて軒先を見上げた。

 髪結が沓脱ぎから庭に下りて立ち去ると、辺りに人影のないのを確かめて清太郎は真之亮を見詰めた。

「親しい親戚の者にさえも、どうしもお前が抱席に取り立てられたことを秘さねばならないのか。お奉行から頂戴する三十俵二人扶持は俺たち町方同心と同じ身分だぞ。身に余る誉を得ているに、親族はおろか母上にも話してはならないのか。お良には何と言っておるのだ」

と声を潜めて、清太郎は目顔で問い詰めた。

「お奉行様の気紛れで特別なお役目を頂戴している、とだけ」

 そう言って、真之亮は清太郎に微笑んで見せた。

「過日、茂助と二人で父上の墓前へ報告に上がって参りました」

 真之亮が小声でそう言うと、清太郎は「そうか」と寂しそうに微笑んだ。

 昔を思い出しているのか、唇を結んで遠くの空を見上げるように顔を上げた。

「茂助はお前を甘やかすだけの愚かな手先かと思っていたが、どうやらそれは思い違いだったようだ。良い手先を持ってお前は幸せ者だの」

 しんみりとそう呟くと、清太郎は立ち上がった。

そろそろ清太郎は黒紋付き羽織に威儀を正して、町奉行所に出仕する刻限が近づいていた。

「せっかく帰って来たのだ、母上にご挨拶してゆくか」

 と清太郎は聞いたが、真之亮は僅かに首を横に振った。

 母親に挨拶ぐらいしても良さそうなものだが、会えばお良とのことに触れないわけにはいかず、秘したため後に兄が責められることになってもいけない。真之亮が自分の立場を話せない以上、ここは母親と会わない方が良い。

来た時と同じように真之亮は犬走りを伝って枝折戸を通り、玄関から屋敷を出た。

 組屋敷を出ると、真之亮は本八丁堀一丁目へと向かった。堀割に突き当たるとそこを右へ曲がり、日本橋通りへ足を向けた。日本橋から京橋にかけてを日本橋通といって、この国屈指の商店街だった。四つ過ぎの春の陽射しが大通に落ち、通りを行く人々の身も心なしか軽く見えた。

 八丁堀の一角から大通に出ると、真之亮は柳原土手とは反対の西へ折れた。そして京橋を渡って銀座通りを数寄屋橋御門内南町奉行所の裏門、お奉行の役宅へ足を向けた。十日に一度顔を出すお役目にはまだ二日ばかり早かったが、兄に頼んだ用件をお奉行の耳に入れておくべきと判断した。 

真之亮は重い決断に身震いした。それは悪寒にも似た慄きだった。確たる証左はまだないが南町奉行所の内部に広がる深い闇を真之亮は肌に感じた。真之亮の推測が正しければ南町奉行所の中に夜盗一味の巣窟があることになる。どのような人たちが関与して、どのようなことを企んでいるのか、すべては兄に頼んだ事件綴の調らべを待つしかない。

 

 南町奉行所は北町奉行所と同様、表の役場としての奉行所と裏の奉行の公邸たる役宅とに分かれている。奉行はその役にある間は役宅に住むことを義務付けられた。

真之亮は奉行所の裏門へ廻り、番士に懐の十手を見せた。門を入ると真之亮は玄関でおとないを入れることもなく、玄関前を素通りして直に庭へ廻った。四角四面な取次や挨拶は無用、と当のお奉行からいわれている。

「中村真之亮でござる。お奉行様にお会いしたき儀これあり、罷り越しました」

 明かり障子の閉てられた縁側に向かって、真之亮は声を上げた。

 すぐに能吏然とした側役が顔を出して「何用か」と聞いた。三十を三つ四つばかり出た年格好の、真之亮が最も苦手とする利発さが顔に出ているような男だった。

 用がなければ来てはいけないのか、と真之亮は少し絡みたい気持ちが湧いたが「実は……」と兄に依頼した用件を順序立てて話した。

しかし、側役は木で鼻を括ったような表情を崩さず、

「左様なまだ確たる証左のない案件を殿のお耳に入れるわけには参らん」

 と素っ気無く言って、さも忙しそうに立ち去ろうとした。

 真之亮は庭先に立ったまま「されば」と大声で応じた。

「これにて拙者は隠密同心を辞する。左様にお奉行様に申し伝えられよ」

 そう言うと真之亮は懐の十手を引き抜くと縁側に置き、さっと踵を返した。

 このような頑迷な男を側役に取り立てているようでは、遠山景元は碌でもない奉行だ。召し抱えられた同心を辞めれば茂助は落胆するだろうし、無鉄砲な自分を責めるだろう。だが町人が何人も殺害される事件が起きているにも拘らず、その解決に働かなくても良いのなら自分が隠密同心でいる必要はない。それより市井の一浪人者として町衆のために役に立てば良い。

 真之亮は憮然として庭を出ようとすると、

「おいおい、そう短気を起こすもンじゃねえ。ここへ戻ってきな」

 と、縁側から野太い声がして、真之亮を呼び止めた。

 振り返ると縁側に裃を後ろに垂らした四十過ぎの恰幅の良い男が立っていた。団十郎ばりの目鼻立ちのはっきりとした男だ。裃を着けてこれから表の役所へ行くところだったのか。

「お前さんの話は障子内で聞かせてもらった。なかなか興味深い話だ。して北町の事件綴の写しが兄の中村清太郎の手に入るのかえ」

 そう言うと、遠山景元は縁側に胡座を掻いた。

 遠山景元は天保十四年に罷免されるまで三年ばかり北町奉行を勤めた。目付けから南町奉行になった鳥居耀蔵に讒言されて北町奉行を罷免された後、北町奉行を阿部正蔵が一年足らず勤めて今は鍋島直孝がその任にある。しかし、北町奉行所にはいまも遠山景元と親しい与力が何人か残っていた。

「はっ、どうなるか分かりませんが、兄にも八丁堀の学塾や剣術道場、それに組屋敷での交友関係で親しい者がおりますゆえ」

 兄に花を持たせてやりたい、と思うのは真之亮の肉親の情だろうか。

「うむ。それで真の字の見立て通りになったとすると、それから何がどうなるンだ」

 遠山景元は真之亮の顔を覗き込んだ。

「ここは慎重に、更にその証拠を固めなければならないかと」

 と言葉を濁して、真之亮は思案した。

 しばし躊躇した後に、真之亮は顔を上げた。

「もしかすると、南町奉行所内に下手人の一味の者がいるやも、知れませぬゆえ」

 と断定するように言うと、遠山景元は浅く頷いた。

「うむ、真の字の推測はおそらく間違っていないだろう。かつて鳥居殿がお奉行の頃、南町奉行所の内部に汚い仕事に手を染めた者がいたというのは暗黙のことだ。そなたも存じておるように、おいらが北町奉行だった折りに南町奉行には矢部駿河守定謙殿が就いておられた。矢部殿は以前に大坂町奉行を勤められて町衆に評判の良いお奉行だった。老中水野忠邦殿が常軌を逸した奢侈禁止令をだされ、苛烈な締め付けを実施するようにと町奉行所に命じてきた折り、おいらも老中にご意見申し上げたが、矢部殿は歳を取っておられたせいか頑固一徹、歯に衣を着せず老中に行き過ぎた奢侈禁止令がもたらす弊害を意見された。そのため老中水野忠邦殿が目付けだった鳥井耀蔵殿に命じたのだろう、些細なことから罪に陥れられて在任僅か一年足らずで南町奉行を更迭され謹慎蟄居を命じられた。その措置に憤慨された矢部殿は食を断って自害なされた。まさしく憤死といって良いだろう」

 遠くの空を見上げるように顔を上げて、遠山景元は呟いた。

「鳥井耀蔵殿が南町奉行だった折り、南町奉行所の与力同心の中には進んで鳥井奉行に手を貸し、奢侈禁止令を嵩に着て町衆を虐めた者がいる。厳しい取締と引き換えに、時には露骨に袖の下を求めた者もいる。しかし上地令の失政により水野殿は老中を解任され、連座するかのように鳥井奉行も失脚して丸亀藩預となったが、鳥井奉行に手を貸した与力同心はそのまま今も南町奉行所で与力・同心を勤めている。一代抱席ゆえ奉行に逆らえないため、仕方なく鳥居様に従った者もいるだろうが、それは間違いだ。曲がったことは断じて許されるべきでない。町方役人は奉行のためにあるのではなく、町衆の安寧と江戸の秩序を守るためにこそある」

――そのための隠密同心だ、と遠山景元の目が語っていた。

「何かを掴んだらすぐに報せろ。決して一人で対処しようと思うンじゃねえぞ」

 厳しくそう言うと、遠山景元は真之亮にふわりと笑った。

「堀部重蔵がとやかく言っても気にせず、必要とあればいつでもおいらを呼べ」

 側役を目の端で捉えて、遠山景元はからかうように言った。

 真之亮が頭を下げて立ち去ろうとすると、「おいおい、これを忘れちゃ困るぜ」と言って、遠山景元は縁側に置かれた朱房の十手を手に取った。

 真之亮が十手を受取って懐に差すと、遠山景元は眉根を寄せて声をひそめた。

「これからは十分に気をつけろ。南の与力同心すべてが敵だと思ってかかるンだ」

 遠山景元はそう言うと励ますように笑みを浮かべた。

 若い頃には部屋住みの悲哀を囲って、鬱憤晴らしに遠山景元は腕に桜の彫物をして破落戸同然に本所深川を暴れまわったという。いまではその当時の行状を恥じて、彫物を隠すために夏でも長袖の下着を着用している。

 裏門を出ると、真之亮は柳原土手へ向かった。

 後は待つしかない。その結果がどのようなものであろうとも、待つしかない。

 兄が誰に依頼するのか分からないが、その人物が闇の人物でないことを願うだけだ。もしもその相手が一味の者ならどのような事態になるか。兄に危害が及ぶのだろうか、それとも自分や柳原土手の仲間に――。

 いかなる結果を招くか予測はつかないが、仕舞屋でお良と所帯を持つのはこの一件が片付くまで待った方が良さそうだ、と考えつつ人通りの増えた大通りを歩いた。

 

 古手屋に帰ると、肩を落とした銀太が上り框に腰を下ろしていた。

「真さん、勘治兄ィが死んじまいやした。とうとう一言も口が利けないままに」

 弱々しい声でそう言うと、銀太は歯を喰いしばり悔しさを滲ませた。

「そういうことだから、儂はちょっと行ってきやす」

 座敷では茂助が喪服に着替えていた。

 安五郎も銀太と同じ年格好の、まだ大人になりきっていない世間知らずだ。長屋でやる葬儀は大家が世話を焼くものだが、ここは茂助が乗り出して世間様に笑われないようにしてやるしかない。第一、安五郎には葬式を出すお足だってないだろう。

「しょげ返ってねえで、店番をしっかり頼むぜ」

 茂助の叱り付ける物言いにも、銀太は「へい」と力なくこたえるのみだった。

 真之亮は銀太の傍らに腰を下ろして「元気をだせ」と銀太の肩を叩いた。

「真さん、おいらは不思議でならねえ。勘治兄ィはむざむざと人斬り包丁で斬られるような野暮じゃねえンでさ。親方の跡目を立派に継いで浅草界隈の掏摸を束ねて、ゆくゆくは両国橋広小路のシマも手に入れようかって掏摸の中の掏摸だったンだ」

「むざむざ殺されたンじゃないとしたら、どういうことになるンだ」

 真之亮は銀太の言わんとするところを探るように問い掛けた。

 銀太は気落ちしていた表情を引き締め、まじめな眼差しで真之亮を見詰めた。

「自分の体を構うよりも大切な、命に代えても守らなければならない人がいて、堪兄ィはその人の身代わりになったっていうことですか」

 銀太は横に座っている真之亮に問い掛けた。

「――お蝶だな。勘治はお蝶を庇おうとして瞬時に身構えできなかったのか。そうだとすると、あの夜お蝶は元柳橋で善吉の心の臓に匕首を叩き込んでから、その足で蔵前は森田町へ行ったことになる。が、なぜ森田町へ行く必要があったのか。しかもお蝶の近くには二本差がいたことになるンだな」

 銀太の頭に浮かんだことを、そっくり真之亮がなぞるように口にした。

 森田町は大通を挟んで前面に蔵前の海鼠壁が延々と続く米蔵町だ。その片側町には蔵屋と称される札差の大店が軒を連ねている。夕刻には人通りがぱったりと絶え、大店が大戸を下ろした通りには掛行灯の明かりすらない。

「勘治は大通をたまたま森田町に差し掛かったところで斬られたのだろうか。それとも、どこぞの大店の切り戸を開けて入ろうとしたお蝶と二本差に追いつき、お蝶を取り戻そうと声をかけて斬られたのか。銀太、どっちだと思う」

「問われるまでもねえことさ。掏摸が後を尾けてると悟られたときはヤキが回ったときだ。気配を消して近づき、一瞬のうちに仕事を済ませるのが玄人の掏摸だぜ。勘治兄ィはお蝶姐さんがどこぞの屋敷へ引き込まれるのを体を張って邪魔したンだ。そうとも、それに違いねえンだ。むざむざ斬り殺されるような野暮じゃねえンだ。真さん、今夜大戸が下りてから森田町の大戸を軒並み調べてみやしょう、必ず何処かの店の大戸に勘治兄ィの返り血がついてるはずだ」

 そう言うと少しは気を取り直したのか、銀太は店先の客の許へと立って行った。

 あの夜、勘治はお蝶を見つけて後を密かに尾けたのだろう。もしかすると元柳橋の船着場で善吉をお蝶が殺すのを勘治は物陰から見ていたかも知れない。凶行の後にお蝶は二本差に伴われて森田町へ連れて行かれ、大戸を二本差が叩いて切り戸が開けられた。先に二本差が身を屈めて入ろうとした一瞬の隙を突いてか、あるいは先にお蝶を潜り戸の中へ押し込もうとしたか、いずれにせよ二本差の体勢が崩れた隙をついて勘治はお蝶を下手人一味の手から救いだそうとして物陰から躍り出た。首尾良くお蝶の手を引いて逃げようとしたが、背後から袈裟掛けに斬り倒された。しかし勘治が斬られたてから、お蝶はどうなったのだろうか。首尾良く逃げたのだろうか、それとも勘治が斬られたことで足が竦み、二本差しに連れ戻されたのだろうか。

 真之亮は上り框に座ったまま、身じろぎもしないで考え込んだ。

 店仕舞いする直前に、弥平が下っ引の仙吉を連れて丸新に顔を出した。

 笑顔を浮かべているが、疲れたように上り框に腰を下ろすと「旦那、済まねえが茶をいっぺえ恵んでやっちゃもらえねえか」と座敷の真之亮に明るい声をかけた。

 弥平の声が弾んでいるのはそれなりに収穫があった証だろう。

「昨日の宵の口、元柳橋の船着場の近くに猪牙の船頭が二人ばかり客待ちしていたと思ってくれ。ナカの客待ちだからお大尽以外には目もくれず、町女と武家が船着場に降り立ってゆくのに気にも留めなかったのさ。ただ、大川を挟んだ元柳橋の向かい岸は萬年橋辺りに当たるが、そこで不思議な明かりが瞬くのを目にしているンだ。萬年橋を渡る者の提灯の明かりじゃなかったのか、と船頭に訊いたが、そうじゃねえと言う。提灯のようにボンヤリとした明かりではなく、もっとはっきりとした明るさだったと言うンだ。提灯じゃねえ明るさと云えば、わしら捕方には馴染みの深い龕灯じゃないかと、あっしは睨んだぜ。それも特別に明るくするため、石見銀山で裏打ちしたギヤマンを龕燈の筒の奥に仕組んだ特別誂えだろうぜ」

 弥平は得々としてカラクリまで解き明かしてみせた。

 そうした龕灯を殺しの合図に用いているのではないかと、既に銀太が解き明していたが、真之亮は神妙な面持ちで聞き入った。

「ほほう、なるほど。それで、親分の睨んだ通りだとして、その龕灯の出所は割れたのかい。特別誂えなら江戸中の金物細工師の親方を訊いて廻れば容易に分かるンじゃないか」

 湯飲みを差し出して弥平の顔を窺うと、弥平は言葉に窮したように俯いた。

 推理はしたが、その先はまだ足で稼いでいないのだろう。

「ところで親分の話では、事件と前後して女と武家が船着場へ下りて行ったと、船頭が言ってるンだな」

 真之亮が問うと、弥平は話す糸口を見つけたように顔を上げた。

「へい、暗くて良く分からなかったようだが、女は二十半ばの年増だったとか。連れ立っていた武家は浪人者でなく、羽織袴の二本差で四十五、六の年格好だったと」

 熱い茶をすすって、弥平は慌てたように湯飲みを吹いた。

 弥平の話しを聞いて、真之亮の眉がぴくりと動いた。

 二本差が羽織袴を着けていたというのか。それが下手人の一味なら真之亮の推測は外れたことになる。なぜなら、町方同心は黒紋付き着流しに羽織を着るが、袴は着けない。

そうした格好は迅速な捕物に対応するためのもので、羽織も裾の長いものでなく裾を帯に挟んだ巻き羽織だ。袴はもちろん身につけず、着物の合わせを浅くして走る際にはすぐに着物の裾が捌けるようになっている。足にまとわりつく袴を身に着けるのは走る必要のない者だ。事実、袴を着けた武家が走る際には両手で袴の裾をたくし上げてバタバタと駆けた。

「旦那、何か気に障りましたか、急に黙りこくっちまって」

 茶を一口啜って、弥平は真之亮の顔色を窺った。

「いや、そうじゃないンだ。お武家は確かに羽織袴姿だったンだな」

 確かめるように真之亮は弥平と仙吉の顔を見た。

 すると自信を失ったかのように、弥平は顔を伏せた。

「船頭は二本差の武家だったと言いやしたが、羽織に袴を着ていたとは言ちゃいやせん」と、仙吉が小声で言った。

 これだから人から聞いた話は信用ならない。船頭は二本差と言っただけにも拘らず、弥平が勝手に羽織と袴を着せてしまったのだ。浪人者なら武家扱いではなく、主命により即座に腹を切る必要もないため脇差を帯びず、差料だけを落とし差しにしている。二本差とは武家身分ということになるから、当然のように弥平が羽織と袴を勝手に着させたのだろう。

「ところで親分、今朝拙者が頼んだ勘治の一件だが、何か分かったかい」

 真之亮が問うと、その言葉が救いになったのか、弥平はふたたび生気の甦った眼差しを上げた。

「森田町の自身番に運び込まれ、番太郎が弟分の安に知らせたってのが顛末で」

「それで、森田町のどの辺りに倒れていたンだ」

「へい、中ノ御門辺りに倒れていたのを金棒引きが見つけたンでさ」

 そう言って、弥平は「なぜ詳しく聞くのか」と問いたそうな眼差しを向けた。

 金棒引きとは自身番の夜廻りが金棒の先に鉄の輪をいくつも嵌めた棒を持って、ジャラジャラと音立てながら町内を廻ったことからそう呼ばれた。

「浅草御蔵中ノ御門辺りっていうと、御蔵前片町との町境じゃないか。親分はその場所を自身の両の目でしっかと確かめたのか、間違いなく勘治がそこで斬られたと」

 一刀のもとにあれだけの深手を負えば血飛沫は龍吐水さながらに吹き出す。地面には血の臭いが鼻を突く赤黒い血溜りがあったはずだ。界隈の者が勘治と男たちの争う騒ぎを耳にしているかも知れない。些細なことも丹念に拾い上げて洗うのが探索というものだ。

「森田町の番太郎が中ノ御門辺りだっていうのを、岡っ引のあっしがわざわざ血眼になって探すンですかい」

 心外だといわんばかりに、弥平は目を剥いた。

 しかし、真之亮は弥平を睨んでゆっくりと頷いて見せた。

「そうだ。斬られるのを見た確かな生き証人がいなければ、なおさらそこへ行って親分の目でしっかりとその場を見なければならないだろう。番太郎の言葉だけでは確かだとはいえまい。探索はその場を見なければ始まらないンじゃないか」

 噛んで含めるように、真之亮は念を押した。

 弥平は戸惑ったように目を伏せ、熱さに持ちかねたように湯呑を框に置いた。

「それで、他には」

 と、真之亮は弥平を覗き込んだ。

「他にはって、何のことで」

 弥平は豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くした。

「勘治は斬られたが、その下手人探索はどうなっているンだい。それとも斬られたのが掏摸だから下手人の詮索は無用ってことなのか」

 真之亮が問うと、弥平は面目なさそうに盆の窪に手をやった。

「それが、怪しい人影を見たって者がいねえンで」

 そう言って、自分なりに探索していると弥平は言葉に力を籠めた。

 しかしそうした声色に誤魔化される真之亮ではない。

「勘治を斬った下手人は地に潜ったか空を飛んだか、消えてしまったってンだな」

――界隈の他の自身番や木戸番小屋を当たったのか、と真之亮は目顔で訊いた。

 弥平はたじろいだように言い淀み、言葉をなくして呆然と真之亮を見詰めた。

「まるでお白州の詮議みたいだぜ、旦那は」

 ようやくそれだけ言うと、弥平は汗の出ていない額を右手の甲で拭った

「いや拙者は町方役人じゃないが、八丁堀育ちだ。門前の小僧でな」

 いつの間にか弥平を問い詰めていた自信を恥じて、真之亮は微笑を浮かべた。

 弥平は救われたように大きく息をして、生気を取り戻して笑みを浮かべた。

「旦那、どうやら八丁堀の水は格別なようですね。実はまだ何処にも聞き込みに当たっちゃいねえから、これから廻ってみるとしましょう。仙吉、行くぜ」

 弥平は立ち上がり、まだ腰を下ろしていた仙吉の腕を引いた。

 弥平と仙吉が柳原土手を浅草御門の方へと足早に立ち去ると、それを待っていたかのように銀太が奥へ入って来た。

「真さん、岡っ引がいかに駄目だか、良く分かったでしょう」

 銀太は頬に冷笑を浮かべて吐き捨てた。

 掏摸だった頃にはその姿を見ただけで道順を変え物陰に隠れたが、今の銀太は鼻先で笑う余裕を持っている。

だが勘治殺しの探索に、弥平の腰が退けているのにはわけがある。

勘治が刀で斬られたからだ。下手人が武家の場合、岡っ引は手出しが出来ない。それは町方同心でも同じことだ。武家の裁きは若年寄支配の評定所で行われるのが決まりで、町奉行所の管轄ではない。たとえ弥平が下手人を突き止めたところで、町方下役人が余計な詮索をしたと評定所から町奉行所に横槍が入るのが関の山だ。

 立場は人を変える。人は器によって姿を変える水のようなものだ。町方同心の手先は岡っ引よりも身分は上だ。大っぴらに十手をひけらかすことは出来ないが、真之亮は隠密同心だ。理屈からいえば真之亮のお役目を手伝う銀太は同心の手先ということになる。そうした立場にあるという自覚がいつの間にか銀太に手先としての矜持を育んだようだ。

「まあ、そう弥平親分を悪し様にいうな。岡っ引は町衆の強請やかっぱらいや盗人には滅法強いが、相手が武家となるとからっきし弱腰になる。それが町方役人の悲しいところよ。弥平の腰が引けているのを笑っちゃいけないぜ」

 そう言うと、真之亮は寂しそうな笑みを浮かべた。

 銀太に茶を淹れてやり、湯飲みを上り框に差し出した。

 身分とはなにか。それは彼と我の相違を比較する尺度か。生まれながらにして身分が定まっているが、怪しいものだ。真之亮も家を出て武家の身分を喪うところだった。世間では百姓の倅が商家へ奉公に上がり商人になっている例はいくらでもある。今では武家身分の御家人株ですら町人が数百両で手に入れている。身分で人の値打ちが決まるものではないが、人の価値で身分が決まらないのも事実だ。

「へい、確かに。おいらも掏摸を働いていた頃には弥平の姿を見つけると風を食らって逃げたものでさ。人のことをとやかく笑えるものじゃねえや」

 銀太は神妙な顔付きになって小さく頭を下げた。

 勘治が殺されても探索に向かう岡っ引の動きが鈍いため、ついつい悪態をつきたくなったのだろう。その銀太の気持ちも真之亮には良く分かる。寂しい思いとともにすっかり冷えた茶を飲み込んだ。

 

 その夜、真之亮と銀太は提灯を手にして出掛けた。

 十七夜の月明かりがあったため提灯は必要ないかと思われたが、大戸に飛び散った血飛沫を確かめるには明かりがあった方が良い。

 五つを過ぎた柳原土手に人影は絶え、あるのは土手の叢で夜鷹と交わる男の気配ばかりだ。真之介と銀次は土手道を大川へと下り浅草御門を潜ると、茅町から瓦町へと続く大戸の閉ざされた表店が両側に連なる。その大通りを二人は声もなく歩いた。繁華な盛り場ならまだ人出で賑わう宵の口だが、蔵町の大通は深とした静けさに包まれていた。

 瓦町外れの町木戸を過ぎると天王町と町名が変わり道幅は二倍に広がる。左手は町割だが右手の大川端には松平伊賀守の下屋敷に囲まれるように御書替役所があり、本多中努大輔の下屋敷の一画に植物御用地、さらには御蔵役人屋敷と連なって堀割に突き当たる。その堀割には鳥越橋と天王橋の二本の橋が架かっているが、真之亮たちは左の鳥越橋を渡った。いよいよ、御蔵前の大通りだ。札差の金文字の看板が軒上に連なる森田町は御蔵前片町の続きにあった。

 夜が明ければ商家の奉公人は一番に大戸を店内に引き上げる。そして箒を片手に店の前を掃き清めるが、大通に血溜りがあれば寝ぼけ眼の節穴でも分かる。するとすぐに笊で砂を運んで覆い隠せば血糊は消せる。しかし、店を開ける前に大戸を上げているため、戸板に飛び散った結婚には気付かないか、気付いたとしても板に浮いた染みほどにしか思わないだろう。たとえ気付いたところで板に染み付いた血痕を拭き取るのは容易ではない。銀太がそのことに気付き、日暮れて血飛沫の痕跡が残る大戸を探しにやって来たのだ。

 提灯を掲げて一軒一軒の大戸を注視しながら、軒下を拾うようにゆっくりと歩いた。銀太は腰を屈めて、顔を大戸につけるようにした。一軒また一軒と軒下を拾って歩き、森田町の木戸番小屋を過ぎて二十間ばかり歩いたところで二人の足が止まった。大戸の隅に穿たれた潜り戸の周囲に、血飛沫の痕跡が黒々と鮮明に残っていた。

「旦那、これは……」

 銀太の呟きに顔を向けて頷くと、真之亮は軒下から離れて黒い痕跡を調べた。

 大戸に散った血痕の飛線は間違いなく、浅草御門の方へ立ち去ろうとした勘治を潜り戸の傍に立った男が袈裟に斬りつけたものだ。潜り戸から一間半ばかり離れた路上には、新しく径五尺ほど土を入れた痕跡があった。真之亮は銀太を手招きして、そこを指し示した。銀太が雪駄の踵の金具で土を蹴ると、黒々とした血を吸った地面が覗いた。

「旦那、ここに勘治兄ィは倒れていたンですね」

 悔しさを滲ませて、銀太は呟いた。

 銀太が指摘するまでもない、後ろから袈裟に斬られた勘治は力尽きてここに倒れた。しかし勘治はトドメを刺されてなかった。なぜなのか、と真之亮の脳裏に疑問が湧いた。刺客は相手を斬り倒したら、必ず急所を突き貫いてトドメを刺す。さもなくば絶命するまでに斬られた者の口から刺客の正体が暴かれかねない。だがトドメを刺さなかったのではなく、刺せない理由が何かあったのだろうか。

あるいは夜廻りの番太か金棒引きがやって来るのに気付いて、慌てて潜り戸から店内へ入ったのか。いや十中八九、おそらくそうだろう。そう思いつつ大店へ視線を転じた。勘治の血飛沫に染まった大戸の上の軒に札差「春日屋」と金漆の屋号の盛り上がった豪華な金看板が載っていた。

「札差『春日屋』か」と呟いて、真之亮は引き揚げようと銀太の袖を引いた。

 闇の中から放たれる殺気を感じていた。それはこれ以上踏み込むとただでは済まぬぞ、という強い覚悟を伴ったものだ。

銀太は怪訝そうに口を尖らせたが、真之亮は目顔で顎を小さくしゃくった。銀太は不服そうに真之亮を見上げたが、真之亮の態度から銀太も闇夜にうごめく殺気を感じ取ったようだ。首を僅かに横に振ると、銀太はうなだれて真之亮に曳かれるように歩きだした。天水桶の陰の路地からか、と目の端で暗がりを探ったが既に人影は認められなかった。その先に広がる闇に視線をやって、銀太は得心したように付いて来た。

 

 勘治は春日屋の前で斬り殺された。その事実を弥平は突き止めているのだろうか。しかしたとえ突き止めたところで大店の札差と岡っ引ではあまりに格が違い過ぎる。札差は大名や旗本さらには御公儀にも大枚の金を貸して、幕閣から旗本に到るまで首根っこを押さえつけている。弥平に手札を渡した貝原忠介ですら、町方同心の職を賭けなければ蔵前の札差には手出しが出来ないだろう。形の上では商人の身分は農工よりも下位だが、大身の旗本ですら札差の前にひれ伏している。

 森田町の木戸番小屋に顔を出すと、老爺が焼き芋の釜の灰を掻き出していた。

「ちょいと邪魔するぜ。お役目で訊くが、三日前この先で勘治って男が斬られたのを知ってるか」

 真之亮は懐から朱房の十手を引き抜き、素焼きの大釜の前にしゃがんでいる老爺の目の前に差し出した。

 驚いたように目を丸くして真之亮の顔を見上げてから、老人はゆるゆると立ち上がった。立ち上がりはしたが、老爺の上背は真之亮の胸乳にも満たなかった。

「悲鳴を聞いて真っ先に駆け付けたのが、このわっしでさ」

 誇らしそうに、老爺は曲がった腰を伸ばした。

「そうか。その折に、周りに人影はなかったか」

 老爺は腰掛けを真之亮に勧め、自分は切り落としの座敷の上り框に腰を下ろした。

「夜は目が薄くて良く見えねえンだが、人の気配がしたような気はしたがな」

老爺は曖昧に言葉を濁して、この件を語りたくないかのように口を閉じた。

 勘治は後袈裟に一太刀浴びた。人に斬られて周囲に人の気配がしなかったら妖怪の類に斬られたことになる。逡巡するように老爺の口元がもごもごと動いた。関わりになるのを怖れるような老爺の眼差しに、真之亮はかける言葉が見付からなかった。老爺は何かを怖れている、と分かっていながら真之亮はその正体を聞けない。下手人が誰かはあまりに明らかだ。

「人の気配はどっちの方角へ消えて行ったか、爺さんの耳で分からなかったか」

 真之亮は笑みを浮かべて、柔らかな物腰で聞いた。

「さあ、どっちへ行ったか。わっしの立っている方に来なかったし、立ち去る足音も聞かなかったことだけは確かだがな」

――それで察してくれ、と言いたげな老爺の口吻に真之亮は頷いて見せた。

 自身番小屋や木戸番小屋の諸掛は町衆が負担している。老爺は暮らしの足しに冬は芋を焼いているが、その稼ぎは煙草銭ほどのものでしかなく、基本的には町衆が負担する掛の中から支給される僅かな手当てが暮らしの糧だ。その町衆の旦那を売る真似は老爺に出来ないことだ。

「有り難うよ。邪魔したな」

 労るように礼を言うと、真之亮は木戸番小屋を後にした。

 銀太は真之亮がなにを了解したのか分かりかねて、木戸番小屋の前で袖を引いた。

「旦那、何が「有り難う」なんですかい。何も分かっちゃいねえじゃないですか」

 不満そうに真之亮を見上げて、口を尖らせていた。

「いや、良く分かったよ。勘治を殺した下手人とお蝶は春日屋の切り戸に入ったと」

「あのジジイはそう言っちゃいねえぜ。何処へともなく消えたとしか」

「いやいや、あの老爺は言外にそう言ったンだ」

 そう言うと、真之亮は銀太に笑みを見せて大股に帰路についた。

 粋や通が表の風俗文化なら、諧謔や比喩が江戸文化の真髄だ。表向き口に出来ない御政道批判や武家の野暮を突いた川柳や落首も江戸時代に花開いた文化だ。

 老爺は人の気配は自分の方へは来なかったし立ち去りもしなかった、が消えたと言った。人は地に潜ったり空を飛んだりしない。消えた人影は老爺がやって来る気配を察知して、慌てて止めを刺さずに切り戸を潜って身を隠したのだ。直接に老爺は自分の口からはそのことを言わず、駆け付けた時に誰もいなかったと言外に教えた。

 丸新へ戻ると、銀太は勘治のお通夜に出掛けた。

 真之亮は茂助を相手に朝からのことを語って聞かせた。

「お蝶が春日屋にいるって。それも監禁されているようだってンで」

帳付けしながら聞いていた茂助は顔を上げると、首を傾げて考え込んだ。

「札差といえば大身の旗本や大名に金を貸して巨万の富を築き、ナカでも亡八や遣り手婆から壊れ物でも扱うように歓迎される。それがどうして前科者を殺める女掏摸を監禁しなければならないのかな。確かに大抵の札差は素性の良くない破落戸を用心棒に飼ってますが、あえて身を危険に晒すようなことを春日屋ほどの大店の主人がやりますかね。真さん、そこんとこが儂にはちょいと腑に落ちやせんが」

 そう言い終わると、茂助はふたたび筆を動かし始めた。

 真之亮は手炙りの炭火を覗き込んで黙ったまま思案した。茂助の言う通りだ。大名はおろか御公儀までもその財力で首根っこを押さえつけるほど権勢を誇る札差が危ない橋を渡るだろうか。そうした疑問が湧くのは当然だ。しかし勘治が春日屋の前で後袈裟に斬られ落命した事実は動かせない。死ぬほど好きな女のためなら、男は迷わず命を投げ出せる。おそらく勘治が身体を張ってでも護りたかった人とは、心底惚れぬいたお蝶だろう。

「だが茂助、木戸番小屋の老爺は人影が切り戸に消えたのを見ているンだぜ」

 と、真之亮にしては珍しく言葉を荒げた。

 豪商がなぜ剣呑な連中を屋敷に入れる必要があるのか。そこがどうしても真之亮の腑に落ちないところだ。何不自由ない豪商が罪を犯す必要があるのだろうか。

「ですから儂はあった事実までも覆そうとは思わねえし、覆すことも出来ねえでしょう。だけど真さん、道理が通らなければその事実だけが浮いてしまいまさ。浮いてしまった道理は幽霊と同じなンですぜ。つまり、いくら道理があっても、証拠がなければないのと同じだってことでさ」

 それだけ言うと、茂助は険しい眼差の一瞥をくれて帳面に視線を落とした。

 勘治が春日屋の前で斬られたことを「なかったこと」にして揉み消すのではないが、一つの事実に多くを語らせて事件そのものを解き明かそうとするのは危険だ、と茂助は諭している。それはその通りだと真之亮も頷いた。茂助の言うことに理はあるが、ではどんな道理で説明すればすべての事実がすっきりと繋がるというのだろうか。

「茂助、深川の船宿の船頭善吉を仲間に引き込もうとしていたからには、下手人一味の狙いは深川にある、と思って良いだろう。しかも船で大川を逃げる手立てを考えているからには押し入る日が近いということじゃないか」

 手詰まりになった推察の矛先を変えるように、真之亮は声を高くした。

 しかし茂助は帳付けからちらりと視線を上げただけで、筆先に硯の墨を含ませた。

「真さん、まず一味がこれまで何をして来たのかを丹念に調べることが肝心ですぜ。前科者を殺めている今のことじゃなく、清太郎様に依頼された過去の行状を探らなければ、これからのことは見えねえでしょう。焦らねえことですぜ。こつこつと調べてゆけばその先に一味の姿がポッと浮かんで見えて来ます。これはわしが言っていることじゃねえ、先代の清蔵様がいつも仰っていたことなんでさ。調べ上げて道理がぴんと張った糸のように連なった時に、事件は解決するンだと」

 そう言って、茂助は真之亮に小さく笑って見せた。

 勘治の通夜で銀太は安五郎の長屋へ出掛けていて、久し振りに茂助と二人で座敷を使える。夜着は売り物が店にいくらでもあるから寒さに震えることはないが、狭さはいかんともし難い。真之亮は横になって手足を長々と伸ばした。

 

 朝早く、銀太が帰ってきた。

 さすがに疲労の色を浮かべていたが、引き続き葬儀に出ても良いかと聞いた。

 茂助にも真之亮にも反対する理由はなく、野辺の送りに行ってやれと銀太を励ました。

「葬式のあとで安をここに連れて帰りたいンだが、良いかな。あいつに掏摸を続けさせるわけにゃいかねえンだ」

 真之亮はそうしろと言ったが、家主の茂助の了解を取り付けなければならない。「どうだろうか」と真之亮が目顔で問うと、

「ああ、良いとも。銀太は真さんを手伝え、安には丸新を手伝ってもらうよ」

 茂助は真之亮にそれで良いだろう、と目顔で聞いた。

 真之亮に異存はなく、大きく頷いた。銀太は喜んで小犬のように飛び出て行った。

「真さん、仕舞屋に来てもらう女中を探しておきますから」

 店開きの支度に古着を紐に吊るしながら、茂助が言った。

「いやいや茂助、早すぎはしないか。まだ式の日取りも決まっていないぜ」

 座敷で茶を啜っていた真之亮が驚いたように顔を上げた。

「式なんぞは世間様へのお披露目の印でさ、後先になったって構わねえんで。それよりいつまでも八丁堀の家でお良さんに肩身の狭い思いをさせちゃいけません。泰正堂の末娘が明日にも嫁入りすると聞いてますぜ」

 茂助は怒ったように声を張り上げた。

 真之亮は益々困ったように肩を竦めて背を丸めた。

「そうした心遣いは有り難いし痛み入るが、当面暮らしに入用な道具や近所の米屋や薪炭屋、それに味噌や醤油を商う店にも顔を出していないし……」

――まだ仕舞屋じゃ暮らせないよ、と真之亮は言いたそうに語尾を濁した。

「だから、気の利いた女中を雇うンでさ。曲がりなりにも真さんは三十俵二人扶持の同心なンですぜ。そうした段取りは儂に任せてもらいやす」

 きっぱりと言って、茂助は真之亮の口を封じた。

 だが真之亮は言い出し難い気掛かりなことがあった。気まずそうに俯いていたが、

「そうした支度に必要な諸々の掛りはどうするンだ。自慢じゃないが拙者はトント金に縁がない」

と、真之亮は消え入るように呟いた。

「ご心配にゃ及びません。後二日もすりゃ切り米の支給日でさ。当然のことながら真さんも三十俵二人扶持の扶持米が頂けます。そうした切米の受け取りには中村様の家でもわしたち手先が蔵前へ行っていたンでさ。安が店番に来てくれりゃ儂が動けますから」

 茂助は任せてくれ、と自分の胸を拳で叩いて見せた。

「安は掏摸を働いていた男だ。いきなり店を任せて大丈夫か」

 まだ踏ん切りがつかないかのように、真之亮は言葉を濁した。

「何言ってンですか。掏摸が信用ならねえって言うンなら銀太も同じでさ。長年の経験から言えば、生半可な堅気の手代の方がよっぽど危ない。掏摸は三度捕まると、あとは毎日が土壇場に座っているンですぜ。次に捕まりゃ即刻首が胴から離れる、安が座っている土壇場はそれこそ軽口や比喩で使う土壇場とはわけが違いまさ」

 そこまで言われれば、すべてを茂助に任せるしかなかった。

 真之亮は「よろしく頼む」と胡座を掻いたまま丁重に頭を下げた。

 茂助は手先として長年町方同心の家で暮らした。その歳月の間に武家たる主人が日常の暮らし向きに心を悩ませることなく、御役目第一に御奉公できるように働くのが武家に仕える奉公人の仕事であるとの考えが体の芯まで沁み付いている。有り難いと感謝しつつ、真之亮は古手屋を後にした。向かうは八丁堀、兄に依頼した事件綴の調査結果を聞くためだった。

 朝の大通りを行くと昨日までと違った風を感じた。冷たく凍てつくようだった風が柔らかくなって頬になじみ、かすかに芽吹きを感じさせる土の匂いが混ざっていた。

 幕末、江戸に来た欧米人は百万人も暮らす大都会にもかかわらず町がきれいなのに驚いたという。黒板塀と白漆喰の土蔵造りの屋敷や海鼠塀の織りなす落ち着いた町並。風に揺れる藍を基調とする長暖簾に通りに張り出した日除け暖簾。そこは文字通り塵一つ落ちていない大通だ。その大戸をあげ軒下に弁柄色の短暖簾の揺れる表店の並ぶ道を、真之亮は足早に歩いた。八丁堀にたどり着くと、組屋敷の路地を脇目も振らずに生家へと急いだ。

 この刻限なら、兄は朝風呂から帰って縁側に座った頃だ。町方定廻の日常はよほど大きな事件でもない限り判で突いたように変わりない。門を入ると庭へ廻り枝折り戸を押した。はたして、兄は縁側に座って後ろに廻った髪結が古い元結を鋏で切ったところだった。真之亮は挨拶の声をかけて縁側に近寄った。

「おう、真之亮か。北町奉行所の例繰方に学塾の後輩がいたから、さっそく頼んで調べてもらった。これがここ十年に北町奉行所の当番月に起きた事件でまだ解決を見ていない押込み強盗事件だ。五件ばかりあるがその内三件は天保十三年に起きている」

 清太郎は受け板を縁側に置いて懐の冊子を取り出した。

 二十枚を超える書面が紙縒りできちんと綴じられている。それを押し頂くように受取って真之亮はペラペラと捲った。一件の事件が一枚の紙に体裁よく綴られ、事のあった年月日と場所、それにどのような状況だったかが几帳面な文字で書かれていた。

「この三件の事件について、それより以前に南町奉行所の当番月の折り、同じ屋敷に盗人が押し入っていないか、南町奉行所の事件綴のお調べはいかが相成りましたか」

 真之亮が聞くと、清太郎は返答を言いよどんだ。

「南町の例繰方が色よい返事をしない。そうした調査をするには年番方与力の許しを得てくれないかと、例繰方の上席同心が四角四面なことを言っている」

 無念の色を滲ませ、清太郎は俯いて受け板を拾い上げた。

 兄が吟味方与力か定廻同心でも上席なら、その程度の調べは例繰方に申し渡せば簡単に済む。しかし、新参者の本所改役臨時定廻にはそうした便宜を取り計らってもらえないばかりか、古参の同心から余計なことに口を挟む異端児のような扱いを受けたようだ。

 真之亮は仕方ないな、と苦笑いを浮かべて兄にこの件で依頼するのをやめた。

「いろいろと有り難うございました。ついては拙者とお良の件ですが、婚姻の儀式は今しばらく春めいて来るまで先延ばしするとして、明日にもお良殿には松枝町の仕舞屋に移って頂きたいと考えていますが。そのことを先方様によしなにお伝え頂けませんでしょうか」

「真之亮、それは余りに不謹慎ではないか。式も挙げていない男と女が夫婦のように暮らすとは。拙者は先方のご両親に何と伝えれば良いのだ」

「兄上、もはや拙者は武家ではありません。町衆では男と女が惚れあえば、一つ屋根の下で暮らすのはごく当たり前のことです。伊佐治、町衆ではそうだろう」

 と声を掛けると、伊佐治は櫛を梳く手も止めず「へえ、」と頷いた。

 伊佐治とは中村の家に父の代から来ている髪結の名だ。

「まっ、余り褒められたことじゃありやせんが、町衆にゃ惚れた男と女が親の同意も得ずに一つ屋根の下で暮らすってことも多ござんす」

 そう言ってから、清太郎の後ろで髪を油で梳っていた伊佐治が短く笑った。

「そうか、障りがないならそうすると致そう。哲玄も帰ってきたことだし、お良もいつまでもあの家にいるわけにもいかぬだろう。中村家の当主として出来るだけのことはやらせてもらうぞ」

 清太郎はそう言って、真之亮に頷いて見せた。

 たった二人の兄弟だが、記憶にある限り清太郎とこれほど親しく話をしたことはない。長いこと心の何処かに蟠りを持っていたが、今ほど兄を近しく感じたことはなかった。

 要件を済ませ八丁堀の生家を出ると、昨日と同じく南町奉行所の役宅へ向かった。

 門の番士に十手を見せて屋敷に入り庭先へ廻った。お奉行は居間で側役の差し出す書類に目を通していた。真之亮が庭に入ってゆくと目を上げて相好を崩した。

「よく来たな、兄の清太郎に頼んでいた調べが済んだのか」

 そう言いながら、立ち上がって縁側に出て来た。

 真之亮は兄から手渡された冊子を遠山景元の膝元へ差し出した。

「ふむ、これが北町奉行所がもてあましている未解決事件の数々か」

 そう呟きつつ、冊子を繰って目付きを険しくした。

「ほう、天保十三年の三件はいずれも株仲間解散令に抗った商家が被害者ではないか。この紙問屋は強盗に金蔵を荒らされて間もなく潰れたぜ。他の薪炭卸問屋と米問屋も鳥居耀蔵の株仲間解散令に最後まで反対した大店だ。なるほど、それで南の事件綴にもそれ以前に三件のお店に押込み強盗があって、真の字の睨んだ通りだったというのかえ」

 縁側に胡座を掻くと、遠山景元は身を乗り出した。

「いいえ、その三件の押込み強盗のあった店が、以前に南町奉行所の当番月に盗人が押し入ったことがあったと、南町奉行所例繰方の書庫に事件綴があれば今度の一連の前科者殺しのカラクリが解けますが、残念ながら兄の力では南町奉行所の上役が動かないようでして。お奉行様のご判断で例繰方に調べを命じて頂けないかと」

 と言って、真之亮は遠山景元を見詰めた。

「ふむ、そんなこったろうよ。堀部重蔵、これより例繰方へ行ってこの三件の店に関して、この日付以前に押込み強盗が入った事件があるかないかだけで良いから、ただちに調べて参れ。生半可な返答は許さぬ、結果をおいらが役宅で待っていると言え」

 遠山景元が後ろに振り返って命じると、堀部重蔵はさっそく立ち上がった。

 手渡された冊子を手にすると、堀部重蔵は小走りに廊下の突き当たりまで行き、役宅と町奉行所の仕切りの杉板戸を開けて姿を消した。

「堀部が戻ってくるまで良い機会だから、南町奉行所にどういうことがあったのか真の字に詳しく話しておこう。先年水野忠邦が老中首座に就任したのは知っているだろうが、それが諸事の発端だ。水野忠邦は就任するや諸式高騰と幕府財政の窮乏という二つの難題に直面した。幕府勘定方は貨幣の改鋳を繰り返し、小判の金の含有量を減らして出目で蝶尻を合わせてきたが、諸式高騰を押え込む有効な手立てはなかなか見付からなかった。そこで、江戸の諸式が高騰している原因が他にあるのではないかと考え、物の値段を決める同業株仲間や組合が諸式の値を吊り上げているのではないかと、料簡の狭い水野忠邦殿は思い到ったようだ。あれは確か天保十二年十二月のことだが、ご老中は突如として各業種の株仲間の解散を命じ、翌年三月に鳥井耀蔵が株仲間だけでなくさらには仲間組合の停止を命じた。五月には諸式引下令と矢継ぎ早にお触れを出したが、一向に諸式が下がらないばかりか、かえって売り惜しみから商品の流通が滞り混乱を増すばかりとなった。御上の命により商品の価格が引き下げられるなら、商人は倉庫に仕舞って物を売らなくなる。それも当然だろうぜ。幕府の命に従って仕入れ値を割り込んでまで品物を売っては、商人は損を背負い込むばかりで、早晩店が潰れるのは目に見えているからな。幕府の鶴の一声で諸式が下るほど商売は甘いものじゃねえンだ」

 そう言って息をつくと、遠山景元は過去の悪政を振り返るように眉を曇らせた。

「しかし、株仲間のすべてが悪いと思い込んだ水野忠邦は菱垣廻船積問屋仲間も解散させちまった。飛んでもねえことに、それまであった海難事故を裁定し損害を填補していた十組問屋までも取り潰しちまった。海難事故の仲裁斡旋所まで失くしたものだから、回漕業者はまるで海賊の集まりのようになっちまった。大坂からの積荷が途中で消えたり、反物や俵物が塩水を被っても、誰も責任を取らなくなっちまった。財理を支えていた一つの秩序を壊すのは簡単だが、それに取って代わるだけのマシな仕組みを用意していなければ、いたずらに混乱を招くばかりだ。あの三件の事件もそうした鳥井奉行の時代のことで、南町奉行所の者が深く関わっていたと思って、まず間違いねえだろうよ」

――それももうじきはっきりすることだ、と細めた遠山景元の目が語っていた。

 南町奉行所が事件に関与している疑いがあると指摘したのは真之亮だが、現実にそうしたことがあり得るとは俄かには信じられない。二百数十年も代々町方同心として禄を食み、町衆のために治安維持のために勤めてきた御家人がそうしたことを行うとは、考えただけでも驚天動地の沙汰だ。

「南町奉行所の者が事件に関与していたなら、お奉行様はどうなさるおつもりで」

 と、真之亮は沓脱ぎ石の傍に立ったまま聞いた。

遠山景元は胡坐を搔いたまま考え込んでいたが、顔を上げると真之亮を見詰めてかすかに首を横に振った。

「そうよな、いずれにせよ難しい話だ。当然のことながら正すべきは正さなければならねえし、罪はご定法に照らして裁かなければならねえ。だがな、町奉行所の与力や同心をすっかり入れ替えるわけにはいかねえ。人のありようが贅堕に流れていくのはどうしようもねえし、役人の育成も根幹から正さなければならねえが、人は誰でも上役や仲間に良く見られたいと思うし、良い評価を得たいと願っている。それが不断の努力や刻苦精励に繋がるってことだが、用心すべきは時として安直に好評を得ようとするあまり、権力者におもねて取り入る者が現れることだ。おべっか使いやお先棒担ぎは何処にでもいるが、与力や同心までがそうした下世話な出世欲に走ったとしたら、連綿と受け継がれてきた町奉行所の抱席を汚すものだ。その点おめえの親父さんはそうした連中の誘いに耳も貸さず、実直にお役目を果たしていなすった。人として堅持すべき矜持を失くした者はまさしく屑だが、だからといって鳥井奉行に取り入って悪事を働いた連中をおいらの権限で旧悪を蒸し返してキッパリと処分できるか、と訊かれればおいらには何とも言えねえ。町奉行に累代の与力や同心を罷免する権限はあっても、それを自侭に揮うことは許されねえ。お奉行っていうのは役料三千石を頂戴して、任にある間だけ奉行所を預かっているに過ぎねえンだ」

 そう言うと、遠山景元は口元を歪めて寂しそうに笑った。

「だがな、おいらが奉行になってからも同じような料簡で無法を働こうってンなら、断じて許さねえぜ。たとえ幕閣から非難を浴びようとも、病根はすべて取り除かなければなるめえ。おいらが奉行を務める南町奉行所は鳥井奉行の時代とは違うンだ」

 そう言うと目を細めて、遠山景元は庭の老梅に視線を遣った。

 すでに花の季節は終わり、それが白なのか紅なのか分からない。ただ、瘤が盛り上がったような枝から鞭のような細い枝が出て画趣を誘うものだった。

 待つほどに堀部重蔵が戻ってきた。

「殿、古参の下役人は事件を憶えていて、確かに綴ってあったはずだと申し、探しましたが、いかなることか、それらの事件調書が事件綴から欠落しています。従いまして、確かめる術はないかと」

 切れ切れに息を切らしながら報告すると、堀部重蔵は口を横一文字に結んだ。

「うむ」と、遠山景元は腕を組んで呻き声を洩らした。

が、顔を上げると傍らで片膝をついて控えている堀部重蔵に命じた。

「おそらくはこの日のあることを先回りして、誰かが隠匿したのだろうが、姑息なことをする悪党だぜ。堀部、その事件があったそれぞれの町へ行き、自身番の町役か書役と会え。自身番小屋は町内の日々の出来事を記録して日誌として遺している。町内で大きな事件があったなら、必ずや書留めてあるはずだ」

 堀部重蔵にそう言い渡すと、真之亮に振り向いた。

「相手は役所の記録文書を隠匿や改竄することなぞ屁とも思わねえ悪党だ。その悪党が本気で対決してきたと覚悟せねばなるまい。真の字もいつ何処で襲われるやも知れぬ、怠りなく身辺に気を配るように。尤も高名な町道場の代師範がそうそう手もなく討たれることはあるまいが」

 そう言うと、遠山景元は立ち上がって奥へと入っていった。

 そろそろ表の役所へ出座する時刻になっているのだろう、座敷内が慌ただしくなったのを機に、真之亮は庭先を後にした。

 

 役宅の門から出ると、真之亮は柳原土手へと足を向けた。 

 早くもうだつを上げた大店の店先には埃や陽射しを避ける日除け暖簾が張り出されている。春の盛りを思わせる暖かい陽射しに気持ちまでもが浮き立つようだった。

 真之亮は大通の左端を人の流れに沿って歩いた。春を迎えて大通には大勢の人が行き交い、気を付けなければ肩が当たるほどだった。昼までに用事を済まそうと急ぐのか、お店者や武家の用人や供を連れた内儀などが行きかっている。

 つと、真之亮の前から大通りを横切って来る女が視界に入った。江戸女の上背は四尺と一、二寸ほどだが、その女は四尺に満たないかと思えるほど小柄なうえに華奢な身体つきだっだ。粋筋の結うなかがせ髷に渋めの黄八丈を粋に着込み、地味な焦げ茶の帯を締めている。すべては婀娜な雰囲気を醸しているが、ただ寒さを避けるかのように帯の前で合わせた袖に両手を隠している。それだけが女の粋筋を思わせる髷や衣装と不似合いな違和感を抱かせた。

女は駒下駄を鳴らしながら急ぎ足に斜向かいから大通りの半ばを過ぎてなおも近寄ってくる。真之亮はちょうど角の紙問屋の店先に差し掛かかろうとしていたが、あたかも女はその紙問屋へ用でもあるかのように顔は店の中へ向いている。が、女の目はしっかりと真之亮を捉えていた。真之亮は旧知の女とやっと出会えたような懐かしさを覚えつつ、平然と歩みを変えずに女と交差する地へ身を移した。

二人が突き当たると思われた刹那、袖の中から女の右手が素早く動き真之亮の脇腹に突き当てられた。かにみえた刹那、真之亮は手刀で匕首の背を払いつつ、さっと女へ身を寄せて女の手首を素早く掴んで逆手に押さえた。それは一瞬のことで、傍目には女が真之亮に突き当たったかにみえた。が一瞬の後には川の流れが合流するように女は体の向きを変えて、恰も待ち合わせていた親しい男女のように、顔を見合わせただけで静かに連れ立って歩きだした。ただ二人が逢引した男女と異なるのは袖で隠した女の右手に冷たく光る匕首が逆手に握られていることだった。

「何すンのさ。手を離しな」

 女は驚きの眼差しで真之亮を見上げて、声を殺して低く呻いた。

 真之亮は女に微笑んで見せて、篭手の関節を決めたまま手を引いた。女は二度三度いやいやするように体を捻じって逃れようとしたが、真之亮の万力のような力で手首の急所を握られていて腕を振り解くことは出来なかった。

「静かにするンだ。お前を何処かで見張っている者がいるのだろうが、さすがにこの人込みでは襲って来まい。このまま柳原土手の古手屋まで行こう。丸新は先刻ご承知だろう、お蝶姐さん」

 真之亮が名を呼ぶと、女は抗っていた腕の力を抜いた。

 やはり小柄で婀娜な色年増はお蝶だった。目にもとまらぬ早業で匕首を前科者の心ノ臓に突き立ててきたが、今度はしくじった。いや、しくじっただけではなく手首まで掴まれた。掏摸の上を行く早業に驚いているところ、名まで呼ばれてお蝶はすっかり毒気が抜けてしまったようだ。

「朝早くに勘治を野辺に送って、銀太は安五郎を連れて丸新に帰っているはずだ」

 真之亮の口から親しい者の名が出てきて、お蝶は驚いたように見上げた。

「お前さんは何者だね、懐にゃ十手を呑んでるくせに掏摸の小僧を置いてるなンて」

と、小唄でも唄うような艶な声で聞いた。

「いや、銀太はもう掏摸じゃない。今じゃ立派な町方同心の手先だ」

 と言って聞かせると、お蝶は目を見張った。

「ええっ、なんだって。銀太が十手持ちになったっていうのかい」

 驚きを通り越して、お蝶は絶句した。

「銀太は拙者の手先になったンだ」

――お前もいつまでも掏摸じゃないだろう、と真之亮の目が見上げたお蝶の目に訊いた。

 お蝶は捨て鉢に「フン」と鼻先で毒づいてみせたが、落ち着きを取り戻したようだ。そして急に顔を暗くすると唇を噛んで首をうなだれ、一筋の涙をこぼした。

引き返せない。もう引き返せないところまで来ちまったンだよ、とお蝶の細いうなじに貼りついたほつれ髪が春の日差しに寂しそうに輝いた。

 大伝馬町鉄砲町の通りに入り囚獄に差し掛かると、お蝶は顔を上げて高く長い塀を見上げた。繁華街の中心地から遠ざかり、人の行き来が疎らになった。真之亮は周囲に気を配りつつ、お蝶と並んで歩いた。襲って来るとしたら、ここら辺りだ。

「わっちは死んじまったンだよ。冷たい土壇場に引き出され体を押さえつけられて腹這いにされ、穴の上に差し出した首を刎ねられてとうの昔に死んじまった女なのさ」

そう呟いて、お蝶は背丈よりも高くどこまでも長い白壁から目を離した。

 この先も同じ道幅の大通が続いているが、両側の町家は今までの大店とは少しばかり雰囲気が変わって来る。この界隈には九軒町上納地や大伝馬町上納地があり、左手には三上稲荷の朱の鳥居も見える。その先には藍染橋が架かり、橋を渡ると町家と武家地の入り組んだ土地となる。真之亮はお蝶を人気のない三上稲荷に引き込み、袖で隠していた匕首をもぎ取った。

「何があったのか聞いたところで今更いかんともし難いのだろうが、ここはしばらく身を潜めて気持ちを落ちつけたらどうだ。そのうち良い思案も浮かぶだろうよ」

 真之亮はお蝶から白鞘を受け取り、匕首を鞘に納めて懐に仕舞った。

「そんなお為ごかしの気休めを言ってもらっても仕方ないのさ。お前さんを殺り損ねて、いよいよわっちのお灯明も燃え尽きちまったようだ」

 そう言い終わらないうちに、朱の鳥居を潜って十坪ばかりの稲荷の境内に三人の男が出口を塞ぐように足早に入って来た。三人とも薄汚れた浪人者ではない、姿形こそ着流しに落とし差しと浪人者の身形をしているが襤褸着ではなくきちんとした古着だ。身のこなしからいずれも年の頃は三十前後、黒い布で顔を包み抜き身の白刃を下げ持って小走りに迫ってきた。真之亮はお蝶に社の裏に身を潜めるように目で示して、社の前に立って差料の鯉口に左を添え右手で柄を握った。

「拙者を南町奉行抱え隠密同心中村真之亮と知っての狼藉か」

 言うが早いか、真之亮は三人めがけて駆け出した。

男たちが殺到する前に動かなければ、囲まれてしまってはいかに技量に差があろうと手出しができない。守らなければならないお蝶がいるのも真之亮の動きを狭める。真之亮は体を低くして差料を抜き払うと逸早く上段に刀を翳したまま肉薄した。

真之亮はまず右手のやや細身の男に向かって刀を振り上げたまま迫った。すると威嚇しただけで男の腰が退けて足が止まった。相手の技量がそれほどでないと見て取ると、真之亮は素早く向きを変えて足を送り、左隣の男が真之亮の篭手に撃ち込んで来るところを擦れ違いざまに地を這うようにして胴を薙いだ。真之亮が得意とする抜き胴だ。手応えを感じるや足を止めて向きを変え、刀を引き付けつつ右手の男が構えようとしたところへ素早く足を送って右篭手を撃った。刀を握ったまま手首が一間ばかり飛んだ。すぐさま最初に立ち止まらせた男へ向き直ると正眼に構えた。

その一連の動きはほんの一瞬の出来事だった。すれ違っただけで一人は胴を薙ぎ払われてうずくまり、一人は失った右手を抱えるようにして悶絶している。迅速の早業にたちまち二人が戦闘力を喪い、残る最右翼の男男は真之亮に斬りかかろうと上段に構えたまま動けなくなった。三人と新之助とで技量の差は歴然としている。

「どうだ、まだやるか。それとも無用の斬り合いをやめて、仲間の傷の手当をするか。すぐに腕の血止めをすれば一人は助かる」

 そう言うと、お蝶に傍に来るように目配せした。

 お蝶が社の後ろから泳ぐようにして身を移し、真之亮はお蝶を背に庇いつつ血の滴る右手を抱いてうずくまる男の傍を通り過ぎた。

 三上稲荷を出ると真之亮は刀を鞘に戻して、足早にその場を去った。

「殺っちまったのかい」と、お蝶は震える声で訊いた。

「うむ、抜き胴に腹を撫で斬った男はおそらく助からないだろう」

 沈んだ声で真之亮はこたえた。

 市中での私闘は禁じられている。本来なら刀を抜けば両者とも無事には済まない。たとえ仇討ちにしても仇討免許状を持参していなければ、遺恨の上での刃傷沙汰とみなされる。しかし襲われた真之亮は隠密同心だと名乗っている。お役目の上で狼藉者を処断したと見なされるが、斬られた相手は真之亮を訴えることが出来ない。

「拙者が人を殺めるのは気に懸かるが、自分はどうでも良いのか」

 猶もお蝶の手を引きながら、真之亮は早足に柳原土手へ急いだ。

「だから、言ったじゃないか。わっちはトウの昔に死んじまったンだって」

――死んだ女の幽霊が人を殺すのは構わないが、生身の女が他人を手に掛けるのは気になるものさ、とお蝶は澄ました顔をした。

 人は身勝手なものだ。お天道様と膏薬は何処でもついて回るというが、何とでも屁理屈をつけて大きな顔をして生きている。死んだ者こそいい面の皮だ。人の評価は死んで定まるというが、それこそが生きている者の身勝手だ。

 藍染橋を渡って鉤曲がりの武家地の道を歩きつつ、真之亮は前後左右に気を配った。いつ何時どこから白刃が襲って来るか分からないとの緊張感を覚えた。

 遠回りしたわけでもないが、柳原土手に戻った時には午になっていた。

 座敷に茂助と銀太、それに安五郎の三人が鮨桶を囲んで稲荷鮨や握り鮨を抓んでいた。店先からお蝶を連れて入ると、銀太と安五郎が驚きの声を上げた。

「勘治はあんなことになっちまったけど、お前たちは元気だったかい」

 お蝶は空元気を出して、銀太と安五郎に声をかけた。

「それより何処で何をしていたンですかい、姐さん。心配しましたぜ」

 銀太が責めるような口吻でお蝶に言った。

 お蝶は困ったような顔をして、重く生臭い空気が古手屋に淀んだが、それを茂助がハッハッと笑い飛ばした。

「まっ、つもる話は追い追いすることにして、まずは狭い所ですが上って鮨でも抓んでくんねえ。勘治のせめてもの精進落としをしているところなンでさ」

 如才なく笑みを浮かべて、茂助がお蝶を座敷に上げた。

「姐さん、ささっ、こっちに座って下さい」

 安五郎が自分の座っていた場所を空けて、お蝶を手招きした。

 塗り下駄を脱いで、お蝶は白い素足を見せて一尺の上り框を上がった。窓一つない板囲いの黴臭い部屋が瞬く間に華やいだ。『嫁』は女偏に家と書くが、家に女がいるのは良いものだと真之亮は得心した。

 真之亮も座敷に上がり鮨桶をみんなと囲んだ。楽しい語らいが湧き笑みがこぼれたが、誰一人として心の底から笑ってはいなかった。みんなの気持ちの底には深い淵の淀みのような澱が感じられた。

 客が来て茂助が座敷を立つと、真之亮も茂助の後を追って店へ出た。

「どこでお蝶と出会ったンで」

 店先で客を見送ると茂助が聞いた。

「南町奉行所の裏門を出て間もなく、日本橋通りに出るまでの通りでだ」

 真之亮は考え込んでいるように上の空で応えた。

「今朝は清太郎様からお調べ頂いた書面を頂戴しに八丁堀へ行ったと、」

「ああ、北町奉行所で扱った未解決事件の抜書きは頂いたが、それに符合する南町奉行所の事件綴は兄の力では調べることは出来なかった。それで、奉行にお願いしようと役宅へお伺いしたわけだが」

 と言ったところで、真之亮は言葉を濁して押し黙った。

「その帰り道で「偶然に」出会ったお蝶に匕首を心ノ臓に突き立てられそうになった、ということですかい」

 茂助はお蝶が真之亮と旧知の友人のように偶然に道で出会って連れて帰ったとは思っていない。お蝶は真之亮を殺す刺客として遣わされたものと元手先の勘で読んだ。

 茂助には敵わない、と真之亮は苦笑いを浮かべた。そして、

「ああ、その通りだ。茂助は千里眼か。しかし、女掏摸の技は凄まじいものだな。一度この店先で見掛けていたからお蝶と分かって備えができたが、そうでなければ防げなかっただろう。その直後に、九軒町の向かいの三上稲荷の境内で三人の刺客に襲われた。拙者が一連の事件を洗っていることを一味はどこで知ったのかな」

 聞くともなく真之亮が問うと、茂助も首を捻った。

「なるほど、一味が知るには早すぎますね。清太郎様が知り合いの南町奉行所の例繰方に調べるよう依頼されたのは昨日のこと。しかし、それを頼んだのが真さんだと一味に分かったのは今朝のことだということになりやすかね」

 茂助の問い掛けに、真之亮ははっきりと首を横に振った。

「お奉行の役宅にいたのはおよそ半刻の間。拙者が役宅に入るのを確かめてから春日屋のお蝶に殺れと命じたのでは間に合わないだろう。昨日のうちに拙者が兄上に依頼した事柄を知った者が一味に伝えた、と考えた方が辻褄が合う」

 さらに勘繰れば南町奉行所で兄のお調べ伺いの申し出でが拒否されたため、兄の家を辞したその足でお奉行の役宅へ行ったことまでも、今朝の真之亮の動きが一味に筒抜けだったことになる。一味の手は真之亮の襟首を捉まえられるほどに迫っているということだ。

「それでは清太郎様も疑わしいと、おっしゃるンで」

 冗談半分に、茂助が笑って聞いた。

「いや、兄上は違う。怪しいと思われる未解決事件が立て続けにあったのはいずれも三年前だ。その折、兄上はまだ見習同心でしかなかった」

 真之亮は茂助の冗談が通じなかったとみえて、真剣な眼差しでこたえた。

 見習同心が十手片手に走り廻ることはない。せいぜいが内勤事務方の補佐役だ。

「それでは、いったい誰が真さんの先廻りをしていたと」

――考えられるンだ、と問いの形に口を開けたまま茂助は言葉を喪った。

真之亮が兄の許を訪れて一連の事件について庭で話しているのを、聞き耳を立てるまでもなく知りうる者が一人だけいる。生垣一筋を隔てた庭に佇めば清太郎と真之亮の交わした言葉は筒抜けだ。脳裏に一人の男の顔が鮮明に浮かび上がって茂助は心底驚いた。すでに真之亮はそれに思い到っている。茂助が頷くと、真之亮も黙ったまま頷いた。まだその名を口にするのは早すぎる。まだ推測の域を出ず、確たる証は何もない。

「お蝶をどうします。悪党に命を狙われているでしょうが」

 茂助の心配は当然すぎるほど自明なことだ。

 真之亮もお蝶の安全な身の置き場所に頭を悩ましていた。

「夜は仕舞屋に寝てもらい、用心棒に拙者と銀太も仕舞屋に寝ることにする。昼間は安五郎と一緒に茂助の商売を手助けするっていうのはどうだろう」

「へい、それしかないでしょうね」

 茂助が頷くのを見て、真之亮は銀太を呼んだ。

 銀太は身軽に店先に出て来ると「へい」と腰を低くした。

「今夜からお前とお蝶、それに拙者は松枝町の仕舞屋に泊まるということにする。そこで肝煎に頼んで夜具や暮らしの道具を手配してくれないか。お代は古手屋丸新が持つと言ってくれ」

 真之亮がそう言うと、銀太は嬉しそうに「へい」と弾んだ声を上げた。

 肝煎の甚十郎に頼めば大抵のことは出来る。茂助もそれで良いと頷いて見せた。

 銀太が柳原土手に駆け出すと、真之亮は奥座敷へ入った。

「姐さんの泊まる支度に銀太が出掛けた。何も心配しないでここにいてくれ」

 そう言って、真之亮は座敷に上がった。

 気を使ったのか、安五郎は立って真之亮たちの代わりに店へ出た。

「真さんはわっちが人殺しだと知ってるンだろう」

 真之亮が手炙りを抱えるように腰を下ろすと、お蝶が探るように聞いた。

「さて、何の話だ。お蝶が人殺しなら町奉行所は強盗夜盗の類の巣窟ということになる。だが町奉行所は間違っても押し込みを働いちゃいないし、人をして人殺しをさせてはいない。天地が動転しようと、そんなことは金輪際あっちゃならないのさ」

 真之亮は涼しい顔をしてそう言った。

 お蝶は呆気に取られて、真之亮の言った言葉の意味を理解しかねた。

「だけど、わっちはこの手で三人も……」

 お蝶が身を乗り出したのを真之亮は両手を前に出して制した。

「だから、お蝶は悪い夢を見ていたンだよ。それが夢か現か分からなければ、南町奉行所の者がお蝶を捕まえに来るから、神妙にして待ってれば良いだげだ」

――刺客を放ってお蝶を殺しに来るかもしれないが、間違っても町方役人が御用提灯を掲げて捕まえに来ることはない、との確信が真之亮にはあった。

 信じかねる面持ちでお蝶は真之亮を見詰めた。信じられないのは当然だろう。前科者とはいえ男を三人も殺して、咎めを受けないことはあり得ない。しかし、それを不思議に思うのなら、無法な人殺しをお蝶に命じた町方役人の存在自体が無法なのだ。

「ただ、先刻の稲荷の境内での一件で知れたように、善悪の見境のつかない十手持ちの手先がお蝶の命を奪いに来るやも知れぬ。そのために怠りなく備えておかねばなるまい」

 落ち着いた静かな物言いで、真之亮はお蝶に言い聞かせた。

 お蝶は双眸をあげて真之亮を見詰めた。婀娜な年増女の目尻には世間の荒波に揉まれた三十路女の隠せない皺が刻まれていた。もはや伝法な掏摸の姐御で生きて行く齢は過ぎている。身を落ち着けられる住まいと、出来れば亭主と子供に手を焼きながら、日々が平穏に過ぎていく暮らしが似つかわしい女になっていた。

「わっちは何をすればいいンだね、ロハで養ってもらういわれはないよ」

 眼差しに力が甦り、お蝶は挑むような視線で真之亮を見詰めた。

 それは甘く見るンじゃないよ、とのお蝶の矜持かも知れなかった。

 人が金を貸してくれるのは高い金利を取るためで、商売女に優しくするのは囲い者にする魂胆があるためだ、とお蝶は世間を貸し借り損得の算盤勘定としか見ていないようだ。見返りを何も求めず惚れた女に尽くしたい、と願う男の切ない恋心を知らない阿修羅のような半生をお蝶は送ってきたのだろう。

「ああそれなら、済まないが古手屋を手伝ってもらえないか」

 真之亮がそう言うと、お蝶は安堵したように肩の力を抜いて目元を和ませた。お蝶の中で損得の算盤勘定が合致したのだろう。

「良いともさ。一度商売ってものをやってみたかったンだ」

 そう言うと、お蝶はいそいそと店へ出て行った。

 間もなく、華やかな語り口で客に古着を勧めるお蝶の声が聞こえて来た。「ちょいと時代がかっちゃいるが唐桟だよ。アラ上品なお内儀さんに黄八丈が良くお似合いだこと」と、客を持ち上げ気を逸らせない話術はぶっきらぼうな茂助の敵ではない。

「真さん、お蝶は大したもンだ。すっかり古手屋の主人のお株を取っちまったぜ」

 茂助は奥座敷の上り框に腰を下ろして肩の力を抜いた。

「しかし髷を結い直して着替えさせないと、まるでお蝶は玄人筋の芸者のようだ」

 古着の間から覗くお蝶の後ろ姿を見て、茂助がしみじみとした声で言った。

 髷をつぶし島田に結って地味な紺矢絣にでも衣装替えすれば、お蝶の白い肌はより一層映えるだろう。紅襷に紅前掛けをつけて店先に立てば立派な古手屋の女房だ。

 おそらく、そうした生き方もあったはずだ。本人の心掛けもあったのかもしれないが、何よりも出自以来の縁に恵まれなかったのだろう。

「よし、一丁丸新の看板娘に仕立ててやろう」

 そう呟くと、茂助は古着の中から着物を選び、「お蝶、ちょいと来な」と呼んだ。

「なんだよ。わっちは商売でお客と話しているのにさ」

 奥座敷へ入って来ると、お蝶は不服そうに頬を膨らませた。

「ちょいと奥の衣桁の陰でこれと着替えな」

 茂助がそう言って着物を差し出すと、お蝶は着物と茂助を見比べた。

「なんだか野暮な奉公人のお仕着せみたいだけど、古着を売るにはこの方が良いかも知れないね」

 そう言うと、着物と帯を手にして座敷へ上がった。

「親方、ちょっと良いですか」

 困ったように、安五郎が店先から茂助を呼んだ。

 客でも女客が値引きを仕掛けると、安五郎の手には負えない。お蝶なら巧みにお世辞を言って相手に納得させるが、安五郎にそうした芸当を望むのは酷というものだ。「しょうがねえな」との呟きを残して、茂助は腰を上げた。

「どうだい、似合ってるかえ」

 衣桁の後ろから現れたお蝶を見上げて、真之亮は驚きのあまり声もなかった。

 地味な着物に着替えたせいか、お蝶の艶やかさが一段と引き立った。いままでは田舎芝居のような着物とお蝶の美しさが競い合って喧嘩していたのだ。

「ああ、良く似合っている。まるで浮世絵から抜け出たみたいだ」

 真之亮は座っていた上り框から立ち上がり、感嘆の声を洩らした。

 お蝶は嬉しそうに店へ出た。たちまち店先が賑やかになり客が群がって来るのが手に取るように分かった。ふたたび茂助は奥に入って来ると上り框に腰を下ろした。

「この勢いじゃ、儂はじきにお払い箱になっちまうぜ」

 大袈裟に溜め息をついて、茂助は嬉しそうに笑った。

 柳原土手の古手屋は女主人で繁盛している店が多い。いままで丸新に常連客がつかなかったのは無愛想な元手先の茂助が災いしていたのだろう。茂助が奥に引っ込むと店先には秋の田に群がる雀のように、品定めする甲高い女たちの声が湧き上がった。

「あれを見てみなせえ、もう売りつけている。大した商売人だぜ」

 茂助が感心して呟いて店先を見ていると「お蝶じゃねえか」と店の外から張り上げ男の声がした。

「あら親分、丸新に御用ですかえ」

 艶かしく唄うような抑揚をつけて、お蝶の応じる声がした。

 茂助と真之亮が振り返ると、狭い通路を掻き分けて弥平が入ってきた。

「茂助、とうとうこの店は掏摸の巣窟になっちまったか」

 弥平は奥座敷の前まで来ると、上り框に座っている茂助と真之亮を見下ろした。 二人が弥平の言葉を黙殺して見上げていると「イヤ、ナニネ」と弥平が折れた。

「旦那に言われて、あれから勘治殺しの下手人を探索してみやした」

 沈痛な面持ちをして、弥平は真剣な面持ちをして口を開いた。

「界隈の木戸番と自身番を聞き込んでみたが、誰も怪しい人影を見ていなかった。勘治を斬った下手人が何処へ逃げたか、ついに分からず仕舞だ」

 面目をなくしたように、弥平は口惜しさを滲ませた。

 勘治を殺した下手人が何処へ逃げたのか、真之亮には分かっている。いわずとしれた札差春日屋だ。しかし、そのことを弥平に教えるのは躊躇した。押し黙ったまま口を閉じて聞き流し「そうか、残念だったな」と短く応えた。

 茂助も知っていながらも教えようとはしなかった。真之亮と同じように沈んだ面持ちで真之亮の言葉にかすかに頷いた。

「善吉も含めて匕首で殺された三人の下手人の見当はついたのか」

 と、真之亮は乾いた声で弥平に訊いた。

 その問いにも、弥平は弱々しく首を横に振った。

一日歩き廻って弥平は何も掴んでいなかった。それはつまり南町奉行所は何も掴んでいないということだ。しかしそれで良い。が、真之亮は困ったような顔を作った。

「そうか、飛んだ無駄足だったな」

 真之亮がそう言うと、弥平は「それが、そうでもないンだ」と言葉を返した。

「聖天町の木戸番が待乳山の社へ向けて龕灯を大きく振っていた男を見掛けていた。同じように湯島天神の男坂の石段下で龕灯を大きく振っていた男を見ていた寿司の棒手振がいたンだ。いずれの場合も円を描くように丸くだぜ」

――怪しいだろう、と言いたげに弥平は眼差しを輝かせて得意そうに語った。

 真之亮と茂助は顔を見合わせた。銀太が推測した下手人たちの役割と配置が事実として明確な根拠を持ったことになる。

「それはどんな男だったンだ」

 弥平の話しに魅入られたように、茂助が上擦った声で訊いた。

 弥平は茂助の顔を見下ろして戸惑ったように眉根を寄せた。

「それが、手先を連れた町方同心の身形をしていたというンだ。どちらも黒紋付きに巻き羽織、身の丈五尺と三寸ほど三十半ばの年格好だったと。手先は同心より小柄で小肥り、年格好は四十過ぎだったとか。残念なことに辺りが暗くなっていたのと、夕闇の心急く時刻で、立ち止まってじっくり見ていたわけじゃねえって抜かしやがったンだがな、」

 と言いつつ、弥平は顔を暗くして声まで小さくなった。

「そうした聞き込んだ諸々を、昼下がりに貝原の旦那にお知らせしたが、かえって叱られちまった。北町の当番月に南の岡っ引が勝手に探索してどうするンだってね。それに町方同心が龕灯を手に見廻っていても不思議じゃねえじゃないかと、えらい剣幕で怒られちまった」

 弥平は貝原忠介に叱られたことが余程こたえているのか、肩を窄めてうなだれた。

弥平は貝原忠介の父親、つまり先代から手札を受けた岡っ引だ。歳は茂助より五ツばかり下の五十前。長年の岡っ引稼業で歩き回ってきたツケが出たのか、膝や腰の具合が余り良くないのだろう、歩く時に肩を左右に揺すり歩幅は狭くなっている。その弥平が痛みに耐えて足を使って調べたにも拘わらず、同心の旦那から小言を食らったのでは気が沈むというものだ。

「弥平親分、そうしょげ返ることはないぜ。町衆の安寧な暮しを守るのが岡っ引だ、親分はお役目を立派に果たしていなさるンだよ」

 茂助は弥平を励ますように声をかけた。

 弥平は深く皺の刻まれた顔を上げて、茂助に泣き笑いのような笑みを見せた。

 町方役人は町衆から怖れられている反面、疎んじられてもいる。とりわけ岡っ引は雪隠虫ほどに嫌われている。それでも袖の下が入り各種の権限もあるため若い者にはなりがる者がいてろはで下っ引になったりする。しかし、歳を取ると体がいうことを利かなくなり、蔑みの視線を向けられるのに嫌気が差してくるものだ。

「まっ親分、腐らずにこつこつとお役目を果たすしかあるまい」

 真之亮も弥平を元気付けるように声をかけた。

 弥平は茂助と真之亮に元気付けられたわけでもあるまいが、気を取り直して帰って行った。すると、入れ違いのように深川門前仲町の辰蔵が一人で顔を出した。上り框まで付いて来た安五郎に「深川の親分だ」と教えて、辰蔵を座敷に上げた。

「若旦那、あれから足を棒にして御船蔵界隈を聞き込んで歩きやしました」

 ぶっきらぼうな辰蔵らしく、なんの愛想もなく用件を切り出した。

「善吉の一件だな」

 真之亮が問うと、辰蔵は「へい」とこたえた。

「小名木川を挟んで御船蔵の対岸の稲荷の境内に人影があった、という者がいました。猪牙で客を山谷堀まで送っての帰り、船頭が大川河岸から御城下へ向かって龕灯を大きく廻す男を見たっていうンで。詳しく話を聞くと、ちょうど善吉が船に乗せられて大川を横切っている頃合いでさ。若旦那、この話をどう思いやす」

 手炙りに身を乗り出すようにして、辰蔵は訊いた。

「その男は町方同心のような身形だったと言っていたかい」

 真之亮が聞くと、辰蔵は驚いたように首を横に振った。

「若旦那、冗談を言わねえで下さい。下手人の仲間を捜しているンですぜ。暗くて顔までは見ちゃいやせんが、姿形から四十前の小柄で小肥りな男だったと。願人坊主の証言と一致していやす」

 茂助が茶を淹れて辰蔵の前に置いた。

 善吉の場合はお蝶と思われる女と町方同心の身形をした男が、元柳橋の船着場へと下りて行くのを見られている。弥平が語って聞かせてくれた庄治と半次の場合は町方同心の身形をした男と手先の二人がいた。善吉の場合はその手先の男だけが深川へ行き、善吉の後をつける者がいないか見張って、元柳橋袂の船着場で善吉を待ち受けるお蝶と町方同心に龕灯で合図を送ったのだろう。

「辰蔵、善吉が殺された後でも、同じように不審な男が深川の前科者の船頭に声をかけたとの噂を小耳に挟んでいないか。善吉が仲間として使えなくなったわけだから、一味は他の船頭を見つけなきゃならねえはずだ」

真之亮は声を落として、辰蔵に訊いた。

 一味は何処を襲うかすでに見当をつけているに違いない。むしろ、押込む屋敷を決めてから必要な仲間を集めていると考えた方が的を射ているだろう。

「どうでも船頭は深川の船頭でなけりゃならねえンで」

 怪訝そうに辰蔵が聞き返した。

「おそらく一味は押込む標的を決めて夜働きに必要な仲間を集めている。その中で特に深川の船頭は外せないのだろうよ」

「それじゃ、一味が押し入る屋敷は深川にあるってことですかい」

 辰蔵は食い付く勢いで真之亮に聞き返した。

――その通りだ、と真之亮は言いたいところだが確たる根拠は何もない。言葉に詰まって真之亮は曖昧に「おそらくは」と声を洩らした。

「深川の船頭を仲間に引き込もうとしたってことは、つまりそういうことだろうぜ」

 真之亮に代わって、茂助が直截にこたえた。

「深川といっても広いが、何処だと目星はついてるンですかい」

 しつこいと嫌われるほど、辰蔵は執拗に食い下がった。

 それも道理だ。一口に深川といっても広い。しかも木場には江戸の材木を一手に引き受ける豪商といわれる材木商が数多くある。善吉は佐賀町の船宿萬波の船頭だったが、佐賀町にも大川の水運を利用して米問屋の米蔵屋敷が軒を連ねている。深川といっても押込み強盗を働く狙い目の屋敷は幾らだってあるのだ。

「まだ、一味がどの屋敷を狙っているかは分からぬ」

 腕組みをして、真之亮は思案げに小首を傾げた。

「日にちも、分からないンですかい」

辰蔵は渋面を作った真之亮になおも訊いた。

「ああ」と言って、辰蔵のくどさに真之亮は辟易した。

 しかし、粘り強く下手人を追い求めて、簡単には諦めない粘り強さは岡っ引にとって必要だ。しかし、そのくどさが自分に向けられるとやり切れないものがあった。

「辰蔵、いずれにせよ一味が押し入る日は近いと思わねばならぬだろう。だが、分かったとしても隠密同心の拙者が密かに行う探索のため、南町奉行所に応援を頼んで下役人衆を手配できないと心しておくように。だから辰蔵の顔で仲町の肝煎や鳶の親方にいつでも合力して頂けるよう、前もって話しておいてくれないか」

 真之亮がそう言うと、辰蔵は背筋を伸ばして大きく頷いた。

 辰蔵は思案顔に一つの決断をした男の力強さを双眸に取り戻した。ふと亡父が辰蔵を評して「手札を与えた辰は若いが見込みのある男だ」と言っていたのを思い出した。定廻同心が立てる手柄は岡っ引の働きに負うのが殆どで、腕っ扱きの岡っ引を抱えることが定廻同心の仕事といっても良いほどだ。

「分かりやした。四半刻もあればまとまった人数が集まるように段取っておきやす」

きっぱりと言うと、真之亮が声をかける間隙も与えず辰蔵はさっと腰を上げた。

 用件を済ませればただちに帰って、言い付けられた仕事を実直に果たす。その律義さに改めて大柄な男の顔を見上げた。

 夕刻、銀太が嬉しそうな顔をして帰ってきた。

 踊るように入って来た銀太に「ひどく手間がついたな」と茂助が小言を言った。が、所帯道具を揃えた喜びの方が勝っているのか、叱られた銀太は少しも笑顔を崩さなかった。

「親方、人が暮らすにゃいろんな道具が必要なンだってことに、恐れ入り屋の鬼子母神でさ」

 と声色まで使って、銀太は茂助の小言をまったく意に介さず弾んだ声をかけた。

「どういった所帯道具を揃えたのか知らねえが、丸で手前が家を構えたみたいだぜ」

 そう言って茂助も根負けしたように苦笑いを浮かべた。

 お前は休んでいろと銀太にいって茂助が店に立った。夕暮れを迎えて店先に客が溢れていた。奥座敷から見るところ、お蝶と安五郎だけでは手が廻りかねていた。

 古手屋に客がついて急に繁盛しているのはお蝶の力による。店先に目端の利く女がいて客の注文を見立てて古手を選べば、柄や色合いを納得して買うというものだ。柳原土手をそぞろ歩いて、どの古手屋で買い求めようかと迷っていた客は店先の接客振りを見て次々と丸新の前で足を止めた。安五郎と茂助は客が買い上げた古着を畳むのと勘定の遣り取りに廻り、次々とやって来る客の相手はお蝶がこなした。

「姐さんは十年も前から古手屋の女房だったみたいだぜ」

 湯飲みを口元へ運びながら、銀太は独りごちた。

 心底から嬉しいのだろう、お蝶を盗み見る銀太は目元に涙さえ浮かべていた。

やがて顔を向けると「旦那」と銀太は真之亮を呼んだ。

 いつの間に「真さん」から「旦那」に変わったのか分からなかったが、気がつくとそう呼んでいた。

「お蝶姐さんは一味の者と一緒にいたわけだから、一味の者の名を知っているはずだ。すでに姐さんの口から何人かの名を聞き出したのか」

「いや、事件のことは何も聞いていない。お蝶を取り調べるような真似はしたくないンだ。訊いたところでお蝶が一味の狙いや何処の屋敷に押し入るつもりか知っているとは思えない。それに、お蝶と一緒にいた町方同心が誰だかおよそ見当がついているンだ」

 真之亮がそう言うと、銀太が「その獅子身中の虫は誰ですかい」と食い付くように訊いた。

 真之亮は曖昧な笑みを浮かべて銀太を見詰めた。

先日の夕刻、お蝶が善吉を殺した足で丸新に顔を出したのは元掏摸仲間の銀太が古手屋にいると聞かされたからだろう。それを知っている町方同心は一人しかいない。

「そのうち、銀太にも分かる。いまは何処の屋敷にいつ押し入るのかを知りたいだけだ」

 真之亮の言葉に頷き、銀太も茶を一口啜った。

 茶を飲み下すと安堵したように銀太は大きく一つ頷いて、ふたたび眉根を寄せた。

「いずれお蝶姐さんは縄目を受けて、土壇場へ引き出されるのですかい」

 声を顰めるて、銀太が訊いた。

 それこそが銀太が知りたい最大の関心事なのだろう。真摯な眼差しに銀太の気持ちが読み取れた。真之亮は返答に窮して天井を見上げた。しかし、そこに妙案が書かれているはずもなく、真之亮は仕方なく銀太に視線を戻した。

「たとえ使嗾されたものであろうと、前科者を殺めた罪は帳消しにはならない。拙者がお蝶を助けるためにその同心と手先を斬ったところで、お蝶の心の中に残る記憶までは消せない。拙者はお蝶にお縄をかけようとは思わないし町奉行所に売るつもりもない。が、これからはお蝶の中の人としての道理がお蝶を苦しめることになるだろう。町奉行所が罪人に罰を与えるのは罪人の罪の意識と道理との間尺を合わせるためでもあるのだからな」

――と言うが実のところは分からない。真之亮は眉を曇らせて銀太を見詰めた。

 お蝶の運命は真之亮がどう考えているかよりも、南のお奉行が南町奉行所にはびこる鳥井奉行の残党とどう対峙するかにかかっている。累代に亘って受け継いできた八丁堀の与力や同心の家を取り潰してでも、時の南町奉行の鳥井耀蔵に加担して罪を犯した者のすべてを断罪する、と遠山奉行が覚悟を決めれば、お蝶だけが命を長らえることは出来ない。間違いなく、かつての三件の未解決事件に連座した者とともに土壇場で首を刎ねられるだろう。しかし、果たして遠山景元が累代の奉行所与力や同心の旧悪を蒸し返すだろうか。

断罪すればいわれなき押込み強盗に入られて難渋を味わった商家が幾ばくかの溜飲を下げるだろう。町衆も暗黒の鳥井町奉行時代と明確な線引きがなされたと実感し、瓦版が町奉行所に巣食っていた悪党が罰を受けたと書き立てるだろう。しかし、それによって喪うものも余りに大きい。まず当面は遠山奉行の評判はハネ上がるだろうが、町奉行所の権威は地に落ちて御政道批判の声が澎湃として湧き上がるだろう。遠山景元が治世家としてその損得差引勘定をどう判断するか。彫物を背負った町奉行がとんでもない人気取りの俗物なのか、それとも出世を願って幕閣にへつらう薄っぺらな男なのか、あるいは知恵を巡らしてこの世に整然と正義を貫く男なのか。

 町奉行所に勤務する与力や同心はその時々に就任する町奉行の指揮下にある。南町奉行鳥井耀蔵の差配により町方役人が株仲間解散に抵抗した紙問屋や呉服問屋に押し入って財産を奪ったとしたら、命令された町方役人には不本意かもしれないが犯罪であることに間違いない。が、鳥井奉行の下で働いた与力や同心までも一刀両断の下に処断できるのだろうか。

だがその一方で、自分の立場が不利になろうとも正義を貫いた者がいたのも事実だ。そのために冷や飯を食わされ閑職に追いやられた与力や同心もいる。そうした人たちの名誉を回復し、いかにして人生の帳尻を合わせるのか。そうした道理の兼ね合いに遠山景元がいかなる判断を下すのかは疑問だ。ともあれ、遠山景元はお蝶を白州に引き出して洗い浚い白状させるだろうか。たとえお蝶の自白を元に南町奉行所内部を粛正したとして、生き証人のお蝶を土壇場に据えて首を刎ねずに済ますだろうか。

そうした堂々巡りの思案の迷路を断ち切ると、真之亮は銀太に視線を移した。

「それより、銀太は一味が何処を襲うと思う」

 真之亮は切実な疑問を銀太に投げ掛けた。

 銀太は思案顔に俯いていたが、やがて顔を上げると「分からねえや」と呟いた。

「ただ一味は名うての前科者ばかりだってことだろう。誘われて話に乗りはしたが、巣窟に集まって段取りの確認一つしてない。押し入る日まで当の押込む張本人にも分からねえのだから、端の者に窺い知れるわけがねえぜ。すると前もっていつ何処の屋敷にお宝があるか、一味の頭目には分かっているってことじゃないのか」

 明確に分かっていることを、銀太は見事に並べて見せた。

 そうした銀太の推察のやり方が、真之亮は嫌いではなかった。

 まずは、分かっていることと分からないことを仕分けして頭の中を整理する。

「一味がお蝶を閉じ込めてる屋敷は札差春日屋だ。これも何かの役に立つだろうよ」

 と、上り框に腰掛けた茂助が土瓶口を挟んだ。

 真之亮は茂助の何気ない言葉に初めて聞いたように振り返った。天啓かとわが耳を疑った。不意に稲妻が身体を走り抜けたような衝撃を憶えた。札差とは旗本に代わって切り米を受け取り、それを売り捌いて貸し付けてきた金子を回収するのが商売だ。明日から二月の切り米が支給される。そうした諸々のことが一筋の糸につながり、暗闇に一条の光が差し込んだような衝撃を覚えた。

御米蔵から旗本御家人に扶持米が支給されるが、米俵を持ち帰る者は皆無に近い。すべてといって良いほど、旗本御家人は十年分以上にわたる扶持を担保に高利を借りている。代官に対する百姓の強訴のようなやり取りが江戸では札差の番頭を相手に旗本の側人が行うのだ。一粒の米も渡してもらえなければ屋敷の主従が飢えることになる。欲をいえば米が手に入り金が借りられれば良いのだが、せいぜいが屋敷で消費する飯米程度を持ち帰れただけでも僥倖というものだ。札差は蔵前の米蔵で旗本御家人の扶持米を代理で受け取るが、それは受証の紙の上だけのことで、ただちに米問屋に売り払う。

昨今、江戸市中で取引される米の総量に占める札差の扱う割合は年々減少している。それに代わって目覚しく増えているのが大坂商人が扱う米だ。各地の藩米が大量に大坂へ回漕され、堂島で競りに掛けられて江戸へ搬入されてくる。江戸時代も下ったこの時期には全国諸藩は田畑の開墾開拓を推奨し生産石高は飛躍的に増加している。しかも市中で消費される商業製品も種類と数を増して、年貢米を中心とした幕藩経済は破綻の瀬戸際にあった。事実、札差は本来の俸禄米を取り扱う米問屋から旗本御家人の扶持を担保に年利一割二分から一割五分といった高利で貸し付ける金融業に変貌して巨万の富を築いていた。

 だが心有る札差はそれを良としているわけではない。本来の米を売買する商売なら時代が代わろうと生き延びていける。しかし幕藩体制と深く関わり権威と結びついた商売はひとたび時代が変わると、その特殊性のために生き延びることはできない。良い例が棄捐令だ。寛政の改革を真似て水野忠邦が六十年ぶりに棄捐令を発した。利率の半減と償還の二十年賦を札差に無理強いしたため、江戸の半数近い四十八軒もの札差が店を閉じた。あまりの事態に驚いた幕府は手許金を拠出し札差の救済策を講じて金融不安を収めたが、二度にわたる棄捐令の実施は多くの札差の目を開かせた。

 同じように、老中水野忠邦が実行しようと企てた江戸大坂の上地令も狂気の沙汰だった。大商人が反対を唱えて立ち上がり財力で上げ地令を潰し、それがもとで老中水野忠邦は失脚したが、同時に幕府の威光もその程度のものと底が知れてしまった。これより数年後のペリー来航により軍事力の破綻を突きつけられるまでもなく、すでに徳川幕府の財政は巨木に大きな室ができるように破綻していた。

札差は金融業者として権勢を誇っているが、実態は融資先が旗本御家人に限られ、広く商人を相手にしている両替商の後塵を拝していた。本来業務の米の取引商人としても大坂から進出してきた米問屋の足元にも及ばない。春日屋の繁栄は徳川幕府が存続する限りは安泰だが、当の幕府の足元が怪しくなっている。その日暮らしの貧乏人の目には豪勢な暮しを送っているお大尽は心配事とは無縁だろうと思うが、どっこいお大尽は貧乏人にはない大きな心配事を抱えている。

おそらくその焦りが今度のたくらみの元だろう。確かに財力ある札差の前では格式高い吉原の花魁でさえも帯を解き、大身の旗本といえども叩頭する。この世で財力さえあれば求めて手に入らないものはないはずだが、心の奥底には人々の追従やお世辞では癒せぬ渇望がある。

 禍福はあざなえる縄の如しという。天保十四年の棄捐令をもものともせず、江戸の札差たちは我が世の春を謳歌しているが近づく冬の足音に慄いている。

人とは気侭で身勝手なものだ。札差春日屋は本来の米流通業者に立ち戻る必要性を痛感していた。札差はあまりに深く幕府と結びついてしまった。時の権力と絡みすぎると、幕府の滅亡と運命をともにしかねない。

しかし本来の米屋家業に立ち返るには大きな障害がある。それは新たに江戸へ進出してきた大坂堂島に本店を構える米問屋たちだ。大坂の米問屋は堂島の米相場を商売に生かし米商いだけで富を築いて来たしたたかな商人たちだ。これからも今まで以上に江戸の米問屋を圧倒し、米取引を牛耳って江戸の地歩を強固なものにしてゆくだろう。

 そうした焦りから春日屋が考えついた戦法は商売仇を叩き潰すことだ。それも公明正大に商で競うのではなく、直截的に前科者に押込み強盗をやらせ黄金を奪うやり方だ。これなら一挙両得。大阪の米商人に打撃を与え、奪った黄金で江戸に流れ込む米を買い占めることが出来る。

「茂助、ムササビが押し入った米蔵屋敷は佐賀町の摂津屋だったな。父上が扱った事件だから南町奉行所には詳細な摂津屋の一件綴があるはずだ。佐賀町の船宿萬波の船頭善吉を仲間に引き込もうとしたのは、摂津屋を狙っているからではないか。明日から切り米の支給が始まる。それにあわせて摂津屋も江戸市中の米問屋に佐賀町の米蔵に蓄えていた回漕米を売り出す。切り米の支給期間に摂津屋には巨額な売上金が集まることになる」

――読めた。

 もつれていた糸がピンと張って、ばらばらだった事柄が一点に収斂した。真之亮は思わず膝を打った。勘治を殺した同心やお蝶たちが煙のように札差春日屋の切り戸に消えたことまでも無理なく繋がった。

「茂助、一味が摂津屋に押し込むとして、それは切り米の支給最終日だろうか」

 意気込むように、真之亮は聞いた。

摂津屋に用意された十に余る千両箱を小判が満たすのは支給期間の最終日だろう。夜盗もその黄金を狙うに違いないと思われた。

 しかし茂助は「いや、いや」と首を横に振った。

「確かに支給期間の最終日に多くの小判が摂津屋に集まりやすが、用心棒の数も増やし警戒も厳重になりまさ。やるとすれば店の者が疲れ果てて眠りこける初日の夜。それでもおよそ切り米支給最終日の小判の三分の二ほども集まっているでしょうよ。初日の夜なら警戒もまだそれほどとは思えやせんしね」

 そう応えつつ、茂助は考え込むように腕を組んだ。

「なるほど、佐賀町の摂津屋ですかい。深川でお宝の集まる豪商といえば木場の材木問屋と目星をつけるのが相場ですが、いつ大取引があるか前もって知るのは容易でない。それにたとえ知っていたとしても、直前になって日にちが変わることは良くある話だ。しかも木場なら深川の堀割に潜んで首尾良く押込み強盗を働いたとしても、逃げるのに深川の町中を堀割から掘割へと行き、最後に大川へ出る箇所には船番所がありやす。夜でさえ船荷改めがあってちょいとばかり厄介です。が、佐賀町なら大川端だ。御城下から大川を横切ってじかに蔵屋敷の船着場に船を着ければ、誰にも見咎められずに屋敷に入れるってことでさ。切り米の支給日は御上によって定められ、米蔵屋敷の都合で勝手に日にちを動かせねえ」

 茂助が糸を解きほぐすように呟くと、真之亮も「その通りだな」と相槌を打った。

「狙い目が初日の夜と看破するとは、さすがは親方だ。摂津屋じゃまだお宝はこれから集まるのに、まさか夜盗が来るはずがねえと思っている。雇い入れる用心棒の数も少ないだろう。もしかすると寝ずの番の奉公人も初日の祝い酒を飲んで寝込んでいるかもしれねえ。警戒が手薄な上に集まったお宝が千両箱に六ツか七ツか、夜盗でなくても応えられねえや」

 銀太も目を輝かせて茂助に声をかけた。

「ただ、兄上の立場はどうなるのだろうか。本所改役の臨時廻が持ち場の深川で米蔵屋敷が夜盗に入られて無事では済むまい。それかといって非番月の兄上が夜中に八丁堀から深川へ出張って夜盗を捕まえるっていうのも不謹慎だ」

 兄を思いやって真之亮が呟くと、茂助は意外そうな眼差しで真之亮を見た。

「仕方ないでしょう。ここは辰蔵たちと力を併せて夜盗をお縄にするしかありません。ただ、お奉行の耳にだけは入れておきませんとね」

 そう言ってから、茂助はニヤリと笑みを浮かべて言葉を続けた。

「ここで儂たちが話した事件の推測がまったくの見当違いであったとしても、清太郎様が出張ってなけりゃ清太郎様に傷がつかねえってことですから」

と言って、にやりと笑った茂助の意図を解して、

「それもそうだな。大山鳴動して鼠一匹ってことになったら、本所改役臨時廻同心が飛んだ赤っ恥じだからな」

と、真之亮も笑みを浮かべた。

 日暮れて、いつものように店の表戸を閉めた。

 いつになく売り上げがあがり、茂助は仕入れを増やさなければと笑みを浮かべた。

「仕入れの古着市にわっちも連れてっておくれ。親方の目利きは地味に過ぎるよ。粋で垢抜けた品物を仕入れなきゃ、売り上げはこれ以上はあがらないよ」

 前掛けを丸めた上に襷をくるくると巻き付けながら、お蝶が言った。

 久し振りに聞く女のべらんめえ口調の巻舌に、茂助は相好を崩した。

「それもそうだな。今月末の古着市には一緒に行ってもらえるとありがてえな」

 茂助はいかつい顔を蕩けさせて、お蝶に頷いて見せた。

 茂助が世間並みに所帯を持っていれば、お蝶くらいの年恰好の娘がいてもおかしくない。元手先と女掏摸とでは奇妙な取り合わせだが「そんなことは構うものか」と茂助は心の中で嘯いた。肩書きを外して、ただの男と女になれば二人は似合いの父娘だ。人目さえなければ茂助はお蝶を「娘」と呼んで腕に抱きたいと思った。そうすれば一瞬だけでもこれまで味わえなかった世間並みの歳月が取り戻せるような気がした。

 しかしそうした突飛もないことは起こらず、茂助は分別くさい顔をして静かにお蝶に頷いて立ち上がった。陽はすでに落ちて潮が引くように柳原土手から人影が消えていた。

 裏口を戸締まりして、近くの一膳飯屋へ五人で向かった。

 お店者が夕餉を取るのは夕暮れ前のため、一膳飯屋が混雑する時刻は過ぎている。神田富松町の神田屋は五分の客の入りだった。既に茂助と真之亮は神田屋の常連客で小女とも顔見知りになっている。入って空樽に座ると無愛想な小女が黙ったまま手妻のように一膳飯を運んで来た。五人は干物の焼き魚と汁と香の物の一膳飯を掻き込み、腹を満たした。

 茂助と安五郎が古手屋に泊まることにして、真之亮と銀太それにお蝶の三人が松枝町の仕舞屋へ向かった。別れ際に茂助が「外へ出る時にはくれぐれも三人一緒で」と念を押した。誰が何処からお蝶の命を狙っているか分からない。真之亮と銀太は心得たと頷いた。

 借りた家へ帰るには富松町から松枝町までは町割の通りを歩く。表店は大戸を下ろし、人影は絶えていた。

 真之亮が先を歩き、お蝶と銀太が後に続いた。細い路地や天水桶の陰に人が潜んでいないとも限らない、真之亮は十分に周囲に気を配りながら足を運んだ。

 何事もなく仕舞屋につき、真之亮は用心深く油障子を引き開けた。

 屋内に人の気配がないのを確かめてから、敷居をまたいだ。用心深く土間で真之亮とお蝶が待ち、銀太が暗い座敷に視線を走らせて敏捷な身のこなしで上がった。何処かに種火を埋けていたのか、すぐに行灯に火が入った。

 明かりに浮かび上がった部屋はすべてが整えられていた。お蝶は目を見張って「まあ」と感嘆の声を上げた。真之亮も驚きの眼差しで座敷を眺めた。今までも人が暮らしていたような、そしてこれからも不自由なく暮らしていける調度品が品良く納まっていた。

「銀太が品を吟味して運び込んだのかえ」

「いや、おいらは運ぶ手伝いはしただけだ。品定めや吟味は肝煎の仕事だ。新所帯が暮らすのに必要な道具一式を揃えて欲しいと頼んだら、肝煎が一も二もなく胸を叩いてすべて引き受けて、界隈の道具屋の親爺たちに手配してくれたのさ。どうでも昔、肝煎は旦那の父親にお世話になったに違いねえ」

 そう言って銀太は「旦那のおとっつあんも定廻だったンだろう」と聞いた。

「ああ、肝煎の甚十郎は若い頃相撲を取っていて、本所改役だった父が回向院や富ヶ岡八幡宮で行われる奉納相撲の興行で多少の便宜をはかったと聞いちゃいるが」

 と応えつつ、真之亮は次の部屋の襖を開けた。

 そこが仕舞屋の居間らしく、神棚と長火鉢がしつらえてあった。

「土間から上がった部屋がお良さんの仕事部屋でさ。この部屋が一家の大黒柱がくつろぐ居間。その次の間が寝所ってことで用意させて頂きやした」

 銀太は借り手に勧める大家の口上よろしく、間取りを説明した。

 二階の二部屋は奉公人の部屋ということで、銀太はちゃっかり荷を運び込み自分の城を確保していた。

「おいらと姐さんの部屋は二階だぜ」

 そう言うと、銀太はお蝶を連れて土間の上がり小口の階段へお蝶を引っ張っていった。

 真之亮は懐から十手を引き抜いて神棚に置いた。そして長火鉢を前に座ると、なんとなく岡っ引の親玉にでもなったような心地がした。銀太や甚十郎は町方同心の暮らしを知らないから界隈の岡っ引のように猫板のある長火鉢を前に座れば格好がつくと思っているのだろうが本来、武家の家に長火鉢は置かないものだ。しかしこれはこれで良い、と真之亮は笑みを浮かべた。

 二階から銀太とお蝶が下りて来ると差料を手にして立ち上がり、銀太に留守番を申し渡してからお蝶を誘って町内の湯屋へ出掛けた。

 手桶に手拭いそれと糠袋まで銀太が人数分揃えていた。そうした細々とした品々まで用意したのを勘案すれば、家の支度に昼から夕刻まで手間取ったのも頷けた。

 湯屋までは一町ばかりの道のりだ。町割りの広い道の内側をお蝶に歩かせ、真之亮は路地からの急襲に備えた。しかし危惧した事は起こらず、二人は湯屋に着いた。

唐破風屋根の軒下に下げられた亀乃湯と屋号を染め抜いた暖簾を掻き分けて入り、番台の親爺に二人分として十六文払った。湯屋は寛政の改革で「入込湯」と呼ばれる混浴が禁じられたが、男女に湯舟を分ける手間暇から守られなくなり、度々入込湯禁止令が出された。亀乃湯も入込湯だったが、真之亮とお蝶は普通に男女がそうするように土間を上がると右と左に分かれた。そして真之亮は石榴口から湯船に入り、体の芯まで温もった。

 示し合わせたわけではないが、二人はほぼ同時に湯屋を出た。

 お蝶と二人連れ立って戻る道々、お蝶は「真さんは優しい男だね、なにも訊かないンだ」と声をかけてきた。甘えたような掠れた声だった。何のことか、と真之亮は小柄なお蝶を覗き込んだ。お蝶の体から女が匂いたった。

「春日屋で何があったか、誰がいてどんな話をしていたかってことをさ」

 唄うような声で、お蝶は何処か捨て鉢な物言いをした。

 お蝶の声には少ししわがれた猫の舌を思わせるざらつきがある。常盤津か端唄でも唄えばさぞかし艶っぽい声だろうと思われた。しかしお蝶の喉を聴く時は生涯やって来ないだろうと、真之亮は朧げながら思って人と人の出会いの運命を呪った。

「拙者は隠密同心だ。町方同心のように下手人を捕縛して、お白州に引き出すのが役目ではない。お蝶はさぞ辛い思いをしたンだろう。今までのことは早く忘れることだ。過ぎ去ったことをいつまでも抱え込んで、恨みを呑んでいても仕方がないだろう」

 真之亮は遠く十万坪の彼方に昇った半欠けの月を見上げた。

 女が一人でこの世を汚れずに生きることは難しい。ことにお蝶のような男好きのする色年増は破落戸から狙われて体を玩具にされてしまう。体を穢されるのも怖いが、本当に怖いのは心までも荒んでしまうことだ。

「悪い夢だったと忘れることだ。勘治の仇は必ず討ってやるから心配するな」

 真之亮の言葉にお蝶は黙ったまま頷き、ぐすんと鼻を鳴らしてお蝶は深川十万坪の彼方に昇ったばかりの月を見上げた。頬に光るものがあった。

「旦那は優しいンだね。お良さんといったっけ、ご新造さんは」

 と言うお蝶の言葉に「拙者は優しくなんかない。善良な面した悪党にゃ腸が煮えくり返って鬼のようになっているンだ」と吐き捨ててから、真之亮は相好を崩した。

 なぜか分からないが、無性に自分とお良のことをしゃべりたくなった。

「お良は八丁堀の町医者の娘で、白い上っ張りを着て薬篭を下げて界隈を駆け回っている。拙者と三つ違いの幼馴染みだから二十歳を二ツばかり過ぎて年増になってるが。所帯を持ったら膏薬を作って家で商うと言ってる」

「へええ、町方同心の御新造さんが商売をね。町人のわっちは古着を売らせてもらうけど」

 お蝶はお良が膏薬を商うと聞いて驚いたようだ。

 武家は表向き扶持だけでのうのうと暮らし、町衆のような仕事はしない建前になっている。貧乏御家人が傘張りや楊枝作りをするのはあくまでも内職だ。それも他人に分からないようにこっそりとやる。しかし真之亮は仕舞屋で新造が堂々と商いをして大丈夫かと心配した。武家が扶持を頂戴する他に暮しの糧を得るために仕事をすれば咎めを受けかねない。

「ナニ、拙者は表向き浪人者だ。お良が仕事を持ったところでお咎めは受けない」

 と言って、真之亮は脇道の三尺路地の暗がりへ視線を這わせた。

 いつなんどき何処から白刃が襲い掛かるかわからない。用心のためお蝶に道の央を歩かせ、真之亮は軒端を歩いた。左手で鞘を握って親指を鐔に当てて、いつ抜き打ちを撃たれても良いように腰の備えをしつつ、真之亮は帰路を急いだ。早く仕舞屋の留守番を代わって、銀太を湯に入れてやりたいとの思いもあった。

 仕舞屋に戻ると、銀太は居間の長火鉢に炭火を入れていた。

「これで、やっと無愛想だった空家が人の暮らす家らしくなりましたぜ」

 と言って、銀太は五徳に鉄瓶を置いた。

 行灯に明かりがともり火鉢に炭火が埋けられて部屋が温もると、家は家らしくなるものだ。銀太は急いで湯屋へ出掛け、真之亮は油障子に心張り棒を支った。

「これから何が起こるのだろうかね」と、不意に長火鉢の前に座ったお蝶が訊いた。

 土間から上がってきた真之亮はかぶりを振って「分からない」と静かに言った。

 茂助や銀太たちと推察して結論は出ている。おそらく三人で話し合った筋書きが図星だろう。しかしお蝶を信用していないわけではないが、真之亮は話すのを控えた。お蝶を一味の密偵と疑っているのか、それとも事件にお蝶を引きずり込むのを避けたいと思っているのか、その判断は真之亮自身にも分からなかった。

「もうじきすべてが終わるだろうよ。もうじきすべてが終わって、穏やかな日々が送れるようになるだろう」

 とだけ、真之亮は秘密めかしてこたえた。

「穏やかな日々ねえ、わつちには幼い頃に聞いたおっかさんの子守唄のように縁遠い言葉だけど」そう言って、お蝶は火箸で藁灰を弄んだ。

 お蝶と二人では話の種も直ぐに尽きて、真之亮はどう間をもたせれば良いのか気まずさが付きまとった。お蝶は珍しい生き物でも見るような眼差しで真之亮を見ていた。二人は途切れがちに古手屋や柳原土手のことを話して銀太の帰りを待った。

 銀太が帰ると真之亮が階段の上り口の側の部屋に寝て、二階は銀太が階段口でお蝶が奥の部屋で眠った。たとえ賊が押し入っても二段備えで防ぐ手立てを講じたつもりだった。

 

 案じた賊の夜襲もなく、静かな夜明けを迎えた。

 抱いて寝た差料を枕元に置いて、真之亮は勝手口から裏に出た。

 そこには焼き杉板に囲まれた猫の額ほどの庭があり、枯れ草を養った井戸があった。半畳ほどの井桁に近づいて蓋を取った。紐を結えた手桶を投げ込み、水の音を確かめた。何度か腕を左右に振って紐の手応えが重くなるのを待った。

 引き上げると桶の水の匂いを嗅ぎ、手に掬ってみた。

「旦那、江戸の水道だ。塩っ気のない良い水でしょう」

 背後から銀太の声がして真之亮は振り返った。

 確かに汐の匂いのしない良い水のようだった。

「どうだ、良く眠れたか」

「ああ、無粋な野郎も現れなかったし、久し振りに手足を伸ばさせてもらったぜ」

「まだ起きなくても良いのだが、お蝶は部屋で寝ているのか」

――お蝶の身の上に何事もなかったか、と聞いたつもりだった。まさか生きて息をしているのか、と剣呑なことは訊けなかった。

「いや、早くから起きて夜具の片付けをしていたけど」

 と、銀太は真之亮の気持ちを察してか、にやりと笑った。

「旦那、これからおいらが飯を炊いて汁を作りやすぜ、待っていて下さい」

 銀太はそう言うと、勝手口の土間の片隅のへっついに屈み込んだ。

 種火を十能で運んできたのだろう、柴をくべると息を吹きかけて火を熾した。

「朝飯を作るくらいの用意は整ってるぜ。近所の米屋や薪炭屋、それに味噌醤油と昨日は走り廻ったンだから」

 屈み込んだまま、銀太はくぐもった声で言った。

 何処か誇らしそうな物言いに、銀太の健気さが窺えた。

「あっ、それで」と銀太が指差した蔀の窓枠に房楊枝が置いてあった。その房楊枝で歯を磨けというのだろう。何からなにまで細かいことにも気のつく男だ。

「いいよ銀太、台所のことはわっちに任せな。それより汁の具に蜆でも買って来ておくれ、ついでに古手屋の二人も呼んで来たらどうだい」

 元気な声をかけると、お蝶は前掛けに襷をかけて土間に下りて来た。

 二つ返事で銀太はへっつい番をお蝶に譲り、張り切って表へ駆け出した。

 真之亮は手拭いを肩に担いで井戸端へ行き、釣瓶を上げて顔を洗って口を濯いだ。

 一夜明けていよいよ今日となったが、一味は今夜にも深川は佐賀町の摂津屋を襲うだろうか。いやそれとも、町奉行所の与力・同心という歴代にわたって受け継いできた地位と扶持をあたら喪うような愚かな真似はしないのではないか、とふとそんなことを考えつつ手拭いで顔を拭った。

 昨夜、お蝶を殺しにやって来なかったのは、たかが女掏摸と侮ってのことだろうか。たとえお蝶が捨て身で町奉行所に春日屋や町方同心の行状を訴えたところで、町方同心の言い分と女掏摸の言い分とではどちらを取り上げるか、と高を括ってのことだろうか。それとも単に、お蝶が何処へ姿を隠したか分からなかっただけなのだろうか。

 様々な疑問を胸に交錯させたまま、真之亮は台所の上がり座敷に銀太が買い揃えた箱膳を並べた。お蝶が上機嫌で羽釜の火加減を見たり、香ばしい匂いをさせて鍋に味噌を解いたりしている。

それだけで、良いのではないだろうか。なにやかやと詮索するよりも、あるがままを受け入れ、事実を事実として受け止めるだけで良い。せめて今朝だけでも、真之亮はそう思いたかった。

 無事な五人の顔が並び、賑やかな朝餉が始まった。

「昨日、借家の支度に銀太はひどく手間がついたが、その理由が分かったぜ」

 茂助はお蝶に飯をよそってもらい、上機嫌だった。

「親方、おいらは言い付けられた仕事をさぼったり手を抜いたりなンぞ、金輪際しやせんぜ」

 銀太は上機嫌にむくれて見せた。

「分かってる、分かってるって。銀太が足を棒にして界隈を歩き回ったってことは」

――これを見れば分かるじゃないか、と茂助は両手を広げた。

 真之亮を上座に座らせ、茂助と銀太が左手に安五郎とお蝶が右手に並んだ。そうした席次はどうでも良いことと真之亮には思えたが、茂助が拘ってそうと決めた。

 膳の位置ばかりでなく、番頭格の座にすわった茂助がその日の段取りも仕切った。

「今日は銀太と真さんはちょいと野暮用があって店にはいねえが、安とお蝶には古手屋丸新を頼むぜ」そう言って茂助が見廻すと、

「任せときな」と、お蝶が歯切れの良い声を上げ、釣られたように安五郎も頷いた。

 元掏摸の三人が顔を揃えたのを見廻すと、真之亮は妙な心地になった。急に家族が増えたような気がして、人肌の温もりを持つ家が家らしく感じられた。

 朝餉を済ますと、真之亮は銀太を伴って松枝町の仕舞屋を後にした。

 早朝の大通には箒片手に掃き清めている小僧の姿の他にまだ人影はなかった。

「旦那、お良さんが御新造さんになって借家へ来ると、お蝶姐さんと少々面倒なことになりやしませんかね」早足に銀太が真之亮の傍に歩み寄ると、小声で話し掛けた。

「どうしてだ」不思議そうな顔をして、真之亮は銀太を見下ろした。

「一家に雌鳥は二羽いらないって、言いやせんか」

「なんだって。それは時を告げる雄鳥は二羽いらないって諺じゃなかったか」

 そう言って笑い飛ばしたが、銀太の心配があながち杞憂とも思えず、真之亮は顎を撫でた。

 台所に誰が立つのかというのは、やはり揉める元になりかねない。茂助は下男と女中を雇わなければならないと言っていたが、それはどのような料簡から言ったのか。

「いずれにせよ、今日の大事を片付けてからってことだろう、銀太」

 真之亮は銀太を連れて南町奉行の役宅へ急いだ。

 日本橋を過ぎると、やっと人が行き交い始めた日本橋通を歩いて京橋を渡った。数寄屋橋御門内の南町奉行所の裏門へ廻り、役宅に遠山景元をたずねた。

 真之亮が門の傍らに立つ番士に朱房の十手を見せて屋敷へ入るのに続いて、銀太も真似て懐の棒十手を引き抜いて番士に見せてから門内へ入った。

「びっくりだぜ。役料三千石のお屋敷に門からすんなり入れるなんて、おいら初めてだ」

 銀太は感嘆の声を上げて、小走りについてきた。

 屋敷の広い庭に廻ると、遠山景元は縁側で廻り床に髷を結わせていた。

「お奉行。今日は手先の銀太を連れて参りました」

 真之亮が銀太を紹介すると、遠山景元は受け板を持ったまま銀太を睨んだ。

「なかなか鋭い勘働きをしそうな面構えの、良い若者だな」

 にらめっこするような遠山景元の眼差しに、銀太は笑みを浮かべた。

「一連の事件に関して、今朝は前もってお奉行にご承知して頂きたき儀が御座いまして、事前に参りました」

 真之亮は神妙な面持ちをして口を開き、言葉の途中で言い淀んだ。

「なんだい言ってみな。この髪結の親方なら心配は無用だぜ」

 真之亮の気持ちを察知して、遠山景元は真之亮の心配を取り除いた。

「かねてより探索しておりました事件ですが、悪党一味の狙いが深川は佐賀町摂津屋にあると目星をつけました。よって今夜、摂津屋米蔵屋敷を深川の岡っ引たちと張り込むつもりで御座います」

 と、真之亮はまず結論から遠山景元に申し述べた。

 遠山景元は庭先に立つ真之亮と銀太を交互に見詰めて、小首を傾げた。

「うむ、お前たちが張り込むのは承知した。もし良かったら、摂津屋の米蔵屋敷に目をつけた切っ掛けを教えてくれねえか。それなりに根拠があってのことなンだろう」

 懇願するような眼差しで、遠山景元は庭先の二人を見詰めた。

「理由を秘匿するつもりはありませんが、実は確たる証左は何も御座いません。ただ、勘治が森田町の札差春日屋の前で斬られ、その下手人は春日屋へ逃げ込みました。さらに、殺された前科者の中に佐賀町の船宿の船頭がいました。そうした一連の事実を繋ぎ合わせて得た結論にて。ただ張り込みを決意したのは以前南町奉行所で摂津屋の米蔵屋敷に入った盗人を詮議した綴りがあるからです。その盗人はムササビの盗兵衛という男で、お縄にしたのは拙者の亡父でした」

 真之亮が話し終えると、遠山景元は深く頷いた。

「ウム、なるほどな。江戸の札差は鑑札を頂戴して幕府庇護の下、幕臣に扶持として与えられる米を代理人として受け取り優先的に商ってきた。しかし、昨今では米商人の面目は回漕米を扱う大坂商人の米問屋にその座を奪われて久しく、札差は旗本や御家人に金を融通するただの高利貸になっちまった。米商人の面目を取り戻すには大坂商人筆頭の摂津屋を叩き潰して、回漕米の販売権まで銭にあかして手中に収めたいのだろう。摂津屋が以前賊に押し入られて南町奉行所がその詮議に当たったのならば、真の字のいう条件に当て嵌まるってことだな。それで、おいらはどうすれば良い、どうして欲しいンだ」

 大きく頷いて、遠山景元は得心したように身を乗り出した。

「いえ、何もして頂かなくても。ただ、今夜拙者と深川の岡っ引辰蔵、それと助っ人の鳶の者たちで米蔵屋敷を張り込むことをご承知して頂ければ。南町奉行所の加勢はいりません、町方役人にお願いすると今夜の張り込みが悪党一味に漏洩しかねますので」

「ということは、兄の野村清太郎にも知らせてはいないのだな」

「はい、肉親はもちろんのこと、親しい者にも知らせておりません」

「うむ、重畳である。ただし、以前にも増して用心深く立ち回らなければならねえぞ。昨日、年番方与力の若党が一人腹を斬られて死に、一人は篭手に深手を負ったようだ。そのことから奉行所与力・同心の動きが密かに慌ただしくなっている。思わぬ逆襲を受けねえとも限らねえ、くれぐれも気をつけるように」

 遠山景元はそう言って口を閉じた。

それは真之亮が稲荷の境内で斬り合ったことを承知しているような口吻だった。

「ははっ、心して今夜の張り込みにかかります」

 真之亮は低頭して、満足そうに頷く遠山景元の前を下った。

 役宅の門を出ると、真之亮は深川へ足を向けた。

 京橋から延びる雑踏の大通を横切り、銀座町から弾正橋を渡って堀割沿いに南八丁堀を下った。南八丁堀は堀割に面した片側町で本八丁堀一丁目から五丁目まであった。町御組屋敷は八丁堀の北から中ほどにかけて建てられ、南は町家の入り組む町割地だった。八丁堀の顔見知りと出会うのを避けたわけではないが、真之亮は無意識のうちに迂回したことになる。東へ下る道が尽きて堀割に突き当たると鉄砲州の波除け稲荷を横に見て、人影の疎らな高橋を渡って越前堀へと入った。

「旦那、今夜の深川の捕物にいまから慌てて駆け付けるのかい。ここらでちょいと休んでも罰は当たらねえと思うがな」

二ノ橋を渡って四日市町へ入ると銀太が声をかけた。

 通りを挟んで濱町と塩町が向き合う道を行くと、やがて下り酒を扱う問屋の建ち並ぶ南新堀町だ。酒樽を運ぶ人足たちの一膳飯屋もあって、煮魚の旨そうな匂いが通りにも溢れていた。

「銀太の鼻はそこらの野良猫より利くンじゃないか」

 そう言って笑うと、真之亮は左手の一膳飯屋の縄暖簾を掻き分けた。

 昼前のまだ客のいない店土間に入り、一膳飯を注文した。

 店は森とした静けさに包まれ、飯の炊き上がる匂いが満ちていた。真之亮は眉を曇らせて腕組みをした。摂津屋と目星をつけたことは安易に過ぎなかったのではないか、との疑念が湧いていた。

 三年前、株仲間解散令に抵抗した大店に賊が押し入って千両箱を幾つも奪われ、それが元で潰れてしまったことがある。その破天荒な事件は鳥井奉行の命で南町奉行所の者が実行したものではないかとの疑念を覚えるが、それも証左のないただの推量に過ぎない。が、全くの見当違いでないのも確かだ。

その根拠は幾つか挙げられる。まず三件とも南町奉行所が当番月に押し込み強盗があって、南町奉行所が探索し吟味している。屋敷の見取り図面と奉公人の配置など、詳しく事件綴に書かれているはずだ。それを使えば短時間に夜働きすることも難しくない。しかも、一連の事件から南町で捕らえた前科者を一味に誘い込んでいたのは明白だ。勘治が春日屋の前で斬られたその折り、船頭や木戸番小屋の老爺たち生き証人の言葉を継ぎ合わせて考えれば、お蝶と行動をともにしていた者は町方同心だ。最終的な決め手を欠くが、今まで分かった事柄を並べてみると、すべては同じ方角を向く矢印となって、深川佐賀町の摂津屋米蔵を指している。

かつて南町奉行鳥井耀蔵の命により与力同心たちは奢侈禁止令の取り締まりと称して豪商の婚礼や葬儀の席などに乱入した。婚儀の途中であれ葬儀の途中であれ、式場に乱入して料理や衣装を奢侈禁止令に反しているとして花嫁などを引括ろうとした。そして乱暴狼藉を働かない代わりの目溢しの謝礼を大っぴらに要求した。また虫の居所が悪ければ往来を行く者の着物にまで難癖をつけて衆人の前で剥ぎ取ったりした。

そうした奢侈禁止令の取り締まりがいつしか金品を集るためだけの口実となり、奉行所の風紀が乱れに乱れた。

ついには与力同心たちには平然と悪行に手を染める者まで現れた。おそらく無体な乱暴を繰り返すうちに善悪の感覚が麻痺したのだろう。それが御政道に適う道だと奉行からお墨付きを頂戴すれば、八丁堀きっての学業と剣術を身につけた範たるべき者をして悪行へ邁進させ、闕所として豪商を潰す快感に心底まで麻痺してしまったのだろう。幾度か確かめた推論を反芻し、真之亮は肩の力を抜いて腕組みを解いた。

 銀太は丼片手に飯を掻き込み、煮魚を忙しく食べていた。清々しくなるほどの食いっ振りだ。いくら食ってもすぐに腹の減る年頃だと、真之亮にも憶えがある。

「旦那、何を思い悩んでるンで」

 余り箸の進まない真之亮の浮かない顔を、銀太は覗き込んだ。

「夜盗が入るのは今夜だ、とお奉行にご報告申し上げたが、万が一当てが外れたならば面目ないな」

 真之亮が呟くと、銀太は「なあんだ、そんなことか」と笑った。

「転ばぬ先の杖だと思えば、気に病むことは何もないだろうぜ。もちろん事件が起こるよりは起こらねえ方が良いンだろう、旦那は」

 かえって元気づけられて、真之亮は「それもそうだな」と笑みを浮かべた。

 二人は御城下の大通を南へと下り、北新堀町で左に折れて船番所の前を通った。

 永代橋は町人が補修や管理に責任を持つ町橋だ。そのため維持管理などの諸掛としてして町人は橋の渡り賃として一人二文を支払う決まりだ。真之亮は銀太との二人前つごう四文を橋袂の笊に放り込んで橋板へ足を運んだ。

江戸湾から吹いてくる潮風を吸い込み、緩やかな反り橋を渡り始めた。江戸湾の彼方は霞がかかって海と空が紛れている。銀太は大川河口に架かる永代橋が珍しいらしく橋を渡りながら落ち着きなく視線を方々へ遊ばせた。永代橋は江戸湾の鳥羽口に架かっているため、はじめて永代橋を渡ると恰も海の上を渡っているような錯覚に陥るようだ。

「まるで、海を渡ってるみたいだぜ」

 百二十八間もある橋の中ほどで立ち止まると、銀太は欄干に手をついた。

 春の陽射しを浴びてきらめく江戸湾に佃島や石川島の周囲に廻船が帆を下ろして碇泊し、艀が群がり豆粒ほどの男たちが荷を積み下ろしている。一幅の絵に見とれるのも分かるが、道草ばかり食っている暇はない。

「あまり立ち止まっていると橋役人に見咎められるぞ」

 真之亮が耳元で教えると、銀太は飛び上がって欄干から離れた。

 反り橋を下って深川に近づくと湾から大川の上流へ目を転じた。今日から切り米の支給が始まったため、佐賀町の米蔵屋敷の河岸に無数の高瀬船や川舟が群がり、大勢の男たちが米俵を積み込んでいた。

 橋を渡り終えると、深川門前仲通りを富ヶ岡八幡宮へ向かった。春めいた昼下がりの繁華街は行き交う人で賑わっていた。

 真之亮と銀太は真っ直ぐに升平へ行った。居酒屋はまだ店を開ける時間ではなく、縄暖簾の出ていない腰高油障子を開けた。

「邪魔するぜ、親分はいるかい」

 真之亮が声をかけると、板場から返事がして辰蔵が顔を出した。

「若旦那、わざわざ柳原土手から何用で」

 そう言って、真之亮を覗き込んだ辰蔵は顔色を変えた。

「うむ、つまりそういうことだ。今夜、摂津屋を張り込む」

 辰蔵の緊張した顔に、真之亮は小さく頷いて見せた。

「それじゃ、さっそく鳶の親方を呼んで来やす」

 辰蔵は真之亮と銀太に座るように空樽を勧めて表へ出た。

 お正が茶を淹れて板場から下駄を鳴らして来ると腰を屈めた。

「今夜、何かあるンですか」

 心配そうに問い掛けたお正に、真之亮は「うむ」と頷いた。

「お役目により、辰蔵と親方の力をどうしても借りなけりゃならぬ。相済まぬ」

 真之亮はそう言ってお正を見上げた。

 お正の問い掛けを拒絶する真之亮の眼差しに、お正は小さく頷いて奥へ入った。

睨んだ通りだとしたら、もちろん辰蔵に悪党が襲い掛かる事態もあり得る。いや、おそらく危険極まりない状況に身を晒すことになるだろう。命知らずの前科者とそれを操る町方同心の一味は御用提灯を怖れるようなヤワな連中ではない。しかし、そもそも身の危険を伴わない捕物なぞあるはずがない。

 待つほどに辰蔵が法被を着た小柄な男を伴って帰ってきた。真之亮が立ち上がると、男も立ったまま両膝に手を支って深く腰を折った。

 その男は佐平といって門前仲町の鳶の親方だった。一旦火が出ればイの一番に駆け付ける火消人足の頭でもある。四十過ぎと若くもなく小柄だが、曲がったこととは無縁な癇の強そうな横一文字の太い眉と頬の削げた顔立ちが目についた。

「わしは町内で厄介になってる佐平と申しやす。道々あらましは聞きやした。ここは一肌も二肌も脱がせて戴きやす」と、早くも佐平は勇みたっていた。

 真之亮が「拙者は隠密同心中村真之亮と申す、」と切り出すと、

「お父上の中村の旦那にゃいかいお世話になった者でさ。固い挨拶は抜きにしやしょう。何なりとお申し付け下さい」と、佐平は遮った。

 自分の知らない父親がここにもいる、と真之亮は面映い心持がした。少しも家族を構わない親父だったが、町衆にはなにくれとなく世話を焼いていたようだ。

「人数は何人ぐらい揃えりゃいいンで、船頭も入用だと聞きやしたが」

 佐平が先へ先へと話を進めるのに、真之亮は「まあまあ」と両手を差し出して、まずは座ってゆっくり話を聞いてくれ、と空樽を勧めた。

 親方は法被の裾を撥ね上げて空樽に座ると、腕を棒にして膝に支った。右肩が上がった妙な格好で佐平は真之亮を睨み付けた。

 何から説明すれば良いのか、と真之亮は腕組みをした。

 まず、用心すべきは佐賀町から大川を挟んだ対岸へ龕灯で知らせる者の存在だ。前もって勘付かれると摂津屋への押し込みを中止するかも知れない。それでは困る。いわば今回は南町奉行所内部に巣食う犯罪者集団の排除にあるのだ。

 次に、夜盗一味が屋敷へ押し入り、仕事を終えるまで気付かれてはならないことだ。途中で勘付かれると屋敷の奉公人や用心棒を盾にして篭城することも考えられる。そうなると手間がつくばかりか、犠牲者が増えることにもなりかねない。目的は目的として、犠牲者は最小限に抑えなければならない。

 瞑目して考えを整理した後、真之亮は目を見開いて佐平を見詰めた。

「まず刻限だが、四ツ過ぎかと。場合によっては深更になるやも知れぬ。所は佐賀町摂津屋。賊の人数はおよそ六、七名。その内二本差しは一人か二人と思われる。あとは命知らずの前科者たちだ。ただ、一味が押し込むのは今夜じゃないかも知れない。日を決めるのはこっちではなく、一味の頭だからな」

 そう言うと、真之亮は腕組みをして沈痛な面持ちをした。

「摂津屋さんにゃいつも何かとお世話になってまさ」

 佐平が口を挟むのに辰蔵が「待ちねえ、まずはすべてを聞いてから」と窘めた。

「賊の侵入経路は大川から。船でやって来て、一人が忍び返しのついた塀を越えて屋敷へ入り裏門の閂を外す。賊は裏門から屋敷へ入り勝手口から侵入する。船には船頭が一人残るはずだが、その男は夜釣りの船を装って近づいて縛り上げる。これは拙者と辰蔵と銀太が行うつもりだ。しかし、親方たちはまだ出ちゃならない。賊が夜働きをすっかり済まして出て来るのを待たなければならない、そうしなければ賊たちが奉公人たちを盾にしないとも限らないからな。そして千両箱を抱えて出て来たところを手勢で包み込んでお縄にする。大勢て一気に刺又や袖絡や押棒で押え込むのだ」

 そう言い終えて、真之亮は親方と辰蔵の顔を見廻した。

「するってえと、鳶衆は賊が仕事を済ませて出て来るまで大人しく屋敷を取り囲んで待つンですね」

 と、佐平は皮肉の眼差しで真之亮を見た。

「そうだ。賊が家の中にいる時に取り囲まれたと気付かれると、摂津屋の使用人たちの命が危なくなる。拙者と辰蔵が家の壁に貼りついて賊がすべて家から出終えるまで待ってから、賊の背後に立って家の中へ引き返す路を断つ。万事、手筈通りにやってもらいたい」

 真之亮が湯飲みを手にすると、佐平は承知したように頷いた。

「親方、若い者に今から今夜の御用を言うわけにはいかねえが、今夜に備えて酒を禁じて足止めしておくことは出来るか」

 と、真之亮はさらに言葉を継いだ。

「そんなことなら任せてくだせえ」

 と、佐平は何でもないことのように頷いた。

「今夜四ツに仙台堀筋は今川町の蕎麦屋に集まり、松吉の合図で物音一つ立てずに摂津屋の裏門から屋敷へ入って物陰に潜むってことだ」

 辰蔵が手順を親方に説明し、佐平は得心したように頷いた。

「それまでは佐賀町に近づいてはならぬ。それでなくとも今日は切り米の支給日で河岸や佐賀町の米蔵大通は混雑しているだろう。あくまでも事前に気取られぬように」

 真之亮も佐平に念を押した。

 佐平は深川の南部一帯を縄張りとする火消組の親方だ。真之亮の念押しには及ばない、とばかりに佐平は大きく頷いた。

「鳶の者でも佐賀町から加賀町、中川町に今川町に堀川町といった、摂津屋の近所に暮らす者には声をかけないでおきやしょう。ひょっとして声を掛けたばっかりに罪作りをしちゃいけねえンでね。江戸っ子は内緒話を腹に呑んで素知らぬ顔をしてるってのが苦手な連中ばかりだから。捕物道具も仲町界隈の自身番の得物を使いやしょう。それも日暮れてから薦を被せて船で今川町の蕎麦屋へ運び込むって段取りで」

――よろしいですか、と佐平は目顔で訊いた。

 そうしてもらえれば有り難い。真之亮は佐平に大きく頷いて見せた。

「親方、日暮れてからだけど永代橋袂の茶店を借りられねえかな。あそこなら大川を漕ぎ渡って来る船を見張るのに格好の場所だが」

 辰蔵が佐平に問い掛けた。

 一味が乗って来た船を抑えるには一味が押し入った後、素早く音を立てずに済ませなければならない。そのためには夜釣りを装って近づき船頭を取り押さえることだ。いずれにせよ、かなりの困難を伴うに違いない。永代橋袂の茶店が見張り小屋に使えれば船着場が橋下にあって何かと都合が良い。

「そんなことなら任せて下さい。両国広小路と比べれば猫の額ほどだが永代橋袂の広小路も元は火除地だ。床店を取り壊しちまうぜ、と火消組が言えば茶店の親爺の嘉助にゃ文句は言えねえンでさ」

 佐平はそう言って鷹揚に胸を叩いた。

 体こそ小柄だが、佐平は頼りになる男のようだ。さすがに荒くれ者の鳶人足を束ねているだけのことはある、と真之亮は感心して皴の刻まれた四十男の顔を見た。

 打ち合わせを済ませて佐平が升平を去ると、真之亮は腰を上げた。

「若旦那、どうされるンで」と、辰蔵が驚いたように問い掛けた。

 銀太も不審そうな眼差しで真之亮を見上げた。なぜ腰を上げたのか真之亮にも判然としない。このまま夜まで深川にいてもよさそうだが、誰かが耳元で「柳原土手へ帰れ」と言ったような気がした。

「いや、ちょいと柳原土手へ帰らなければ。暮れ六ツ過ぎに来るから」

 と言いつつ、真之亮の胸に不吉な予感がよぎった。

 茂助がいるから古手屋のお蝶の身の上に変事が起こるはずはないと言い聞かせても、真之亮の胸には拭い切れない不安が湧き上がっていた。それを察したのか、銀太も立ち上がると辰蔵に頭を下げた。

「親分、手筈の方をよろしく頼む。日暮れには必ず来るから」

 そう言うと、真之亮は笑みを見せて飯台を離れた。

「へえ、それじゃ夕刻に待っていやすから」

 辰蔵は怪訝そうに言って、「元柳橋まで送らせましょう」と黒江町入堀の船着場まで付いて来た。

「いやいや、」と気兼ねはしたが、船で帰る心地よさは捨て難かった。

 船溜りにいた若い船頭に辰蔵が声をかけ、真之亮と銀太は猪牙船に乗った。春の陽射しを浴びて、船は滑るように河岸を離れた。

 

 柳原土手の古手屋は切り米支給日の御蔵前に負けないほどの人出だった。いよいよ春めいてきた陽気に誘われてか、昼餉時になっても客の切れ目はなく丸新は多忙を極めた。茂助が先に神田屋へ行き、帰ってから安五郎とお蝶を一膳飯屋へ行かせた。いつなんどきお蝶に一味の手が伸びて来ないとも限らないため、茂助は安五郎をお蝶の用心につけたつもりだった。昼間のことでもあり人目のある通りで、まさかお蝶に手出しをして来るとは思わなかった。しかし、茂助の思惑はあっけなく裏切られた。

 安五郎とお蝶が連れ立って出掛けて行くのも、茂助は客の相手をしていて満足に見送ることは出来なかった。二人が出掛けてから二、三の客の相手をしている間に、安五郎が泡を食った顔をして戻って来た。

「親方、大変だ。お蝶姐さんが男たちに連れ去られちまった」

 頬を腫らし額に瘤を作った安五郎は口を大きく開けて喚いた。

 何があったか、順序立てて話すこともままならないほど、安五郎は動転していた。

「安、店を閉めろ。それでお蝶はどっちへ連れて行かれたンだ」

 店先で何人かの客が品定めをしているにもかかわらず、茂助は喚くように言った。

「へい、柳原土手を初音の馬場の方でさ」

そうと聞くや、茂助は駆け出した。

 店を飛び出すと雑踏を掻き分け、泳ぐようにして初音の馬場へと急いだ。そこへ行けばお蝶がいるわけではないが、とにかくじっとしていることができなかった。だが情けないことに五十過ぎの茂助は焦る気持ちとは裏腹に、駆けるとじきに心ノ臓が早鐘を打ち、顎が出て無様な格好になった。息が上がり腰から下の力が抜けて古傷の右膝が痛み出した。それでも茂助は血相を変えて駆け続けた。しかし郡代屋敷の白壁が切れて初音の馬場が見えて来ても、雑踏の中に小柄なお蝶の姿を見つけることは出来なかった。

――真さんにどの面下げて謝れば良いのか。

と、辿り着いた馬場の木柵を両手で掴んで、茂助は荒い息で背を波打たせた。

 しかし茫然自失している暇はない。振り返れば後ろは浅草御門だ。勘治は春日屋の前で後ろから袈裟に斬られて殺された。賊の一味は春日屋にお蝶を連れ込んだのだろうか。茂助は浅草御門を見上げて蔵前の混雑ぶりを思った。賊がいかに傍若無人な連中だとしても、雑踏の中を拐したお蝶を強引に引き立てて行けるだろうか。誰かお蝶が連れ去られるところを見ていなかったものか、と当てもなく行き交う人の顔を拾い見た。

 気を取り直すと、茂助はすぐ近くの同朋町は肝煎の甚十郎の家へと向かった。

 弥平の家が浅草御門をくぐった向こう側、平右衛門町と遠いばかりでなく弥平そのものが何処となく頼りなく思えた。その一方で両国広小路を仕切っている肝煎の方がこうした場合には話が早い。茂助が肝煎の家へ行くと、頃合い良く甚十郎がいた。

「肝煎、お蝶が拐されちまった」

 上り框に両手を突いて、茂助は背を波打たせて声を張った。

 奥から小走りに出て来ると、甚十郎は茂助に何があったのかと訊いた。

「安と二人して神田屋へ昼飯を食いに行かせたところ、途中で不埒者に襲われてお蝶が拐されたンだ。安は顔や頭を殴られて自分を守るのが精一杯で、お蝶の用心棒は勤まらなかった」

 茂助の言葉を聞くと、甚十郎は板の間に顔を見せていた三人の若い者に「聞いた通りだ、てめえらこれからお蝶を捜すンだ」と命じた。

 若い者は雪駄を突っかけると、荒々しく土間を駆け出た。甚十郎の配下には広小路の香具師や露天の屋台店がある。誰かが連れ去られるお蝶を見ているはずだ。すぐに動いてくれた甚十郎に茂助は礼を言って古手屋へ戻った。

 柳原土手の雑踏に背を向けたように、丸新は雨戸を閉ざしていた。

 茂助が裏口から入ると、安五郎は泣き出しそうな情けない顔を向けた。

「ばか野郎、泣きてえのはこっちの方だ」

 茂助は座敷に上がると胡座をかいて天井を見上げた。

 真之亮や銀太に何と言えば良いのか、茂助は途方に暮れた。お蝶の行方を捜さなくてはならないが、今は肝煎からの連絡を待つしかない。

 真之亮と銀太は元柳橋の船着場につくと嫌な予感に足を速めた。その不吉な予感は銀太にも伝わったのか、理由もなく真之亮の後を駆けた。果たして悪い予感通りに柳原土手まで戻ると古手屋が板戸を閉てて店を休んでいた。真之亮と銀太は顔を見合わせて裏口へ急いだ。

「どうしたンだ、昼間から店を閉めて。お蝶はどこだ」

 真之亮は通夜のように沈み込んだ茂助に向かって訊いた。

 茂助は弱々しく首を横に振り「拐されちまったンだ」とこたえた。

「昼飯に安五郎とお蝶の二人を行かせたところ、途中で安が殴り倒されてお蝶が、」

 と言って、茂助は声を詰まらせた。

「安五郎、相手はどんな男たちだった」

 真之亮は部屋の片隅で縮こまっている安五郎に問い詰めた。

「二人ばかりでしたが町人じゃねえ。が、町人の銀杏髷をして羽織を着ていた。四十過ぎの年嵩の男は小柄で狡猾そうな小さな目をしてやした。そいつが差配して、三十前の見るからに大きくて強そうな若い男があっしを殴りつけたンで」

 と、安五郎は要領を得ない物言いをした。

 だが、それを聞いただけで真之亮は頷いた。気持ちが少しばかりほぐれて腑に落ちた。羽織を着るのは町人なら大店の旦那か番頭だ。手代や小僧、それに職人は羽織を着ない。他にも羽織を用いる町人が八丁堀にいる。それは与力や同心の手先だ。

 真之亮の様子を見ていた茂助にも思い当たるところがあったのだろう。目を剥いて安五郎を睨み付けた。手先がいたということは近くにその旦那が、茂助もよく知っている八丁堀の同心がいたということだ。勘治を斬ったのはその八丁堀に違いない。

 お蝶は自分たちを探るためにわざと真之亮に捕まって古手屋へ来たのではないかとの不安が疑念に変わった。いわばお蝶は一味が放った密偵だったのか。

お蝶が真之亮と接触したのもそのためなのか。そうだとしたらお蝶は丸新の者たちが一連の事件を探索して、何を何処まで掴んでいるかを探るために来たことになる。真之亮たちの手の内のすべてを知って、再び拐しを装って古巣へ舞い戻ったのか。

 深川で段取りを整えた今夜の張り込みをどうすべきか。真之亮たちが摂津屋に網を張って待ち受けているとお蝶がしゃべれば、悪党一味は今夜の押し込みを取り止めるのではないか。そうした疑問が真之亮の脳裏に去来した。

しかし、そうだと考えるには無理がある。お蝶を真之亮たちの動向を探るために放ったとして、そのための猿芝居に長年奉公して来た若党の命を捨てさせるだろうか。いや、そのようなことを若党に強いるはずがない。そう推論して、真之亮は心の平衡を取り戻した。

今夜の張り込みを一味が知るのはお蝶が教えた時だけだ。しかし、そんなことは断じてない。今朝の膳を整えたお蝶の心の動きは嘘やまやかしではなかった。嬉しそうに古手屋で客の相手をしていたのは、決してその場を取り繕う芝居では出来ない。あれほどお蝶は古手屋の暮らしを喜び、今後も古手屋で働くことを楽しみにしていたではないか。

「肝煎に頼んで、香具師たちにお蝶の行方を聞いてもらっている」

 と、茂助が小さく呟くように言った。

 真之亮はハッとしたように顔を上げると、言葉よりも先に裏口を離れた。

「銀太、肝煎の家へ行くぜ」

と銀太に声をかけると、真之亮は土手道を同朋町へ向かった。

 水が高いところから低い方へ流れるように、真之亮はごく自然に考えの道筋をたどった。すると部屋にいた誰もが思いも寄らないある結論に思い到った。

逃げようと思えばお蝶なら逃げられたはずだ。掏摸としてあれほどの指技をもった者が手先の手をすり抜けるぐらいわけないだろう。もしもお蝶が自らの考えで囚われたのなら、肝煎たちがお蝶を探して下手に動かない方が良い。お蝶にはお蝶の考えがあってのことだろう。

 浅草御門の前を通り過ぎて柳原土手を広小路へ向かうと、神田川に貼りつくような細長い町割りの下柳原同朋町がある。肝煎の家は柳橋袂に建つ仕舞屋だった。

「邪魔するぜ。中村真之亮だ、肝煎はいるかい」

 腰高油障子を開けておとないを入れると、「へい」と奥から野太い返事があった。

 明かり障子を開けて出て来たのは肝煎その人だった。

「探索に出した若い者がまだけえって来ないンで、お蝶姐さんの行方はトント分からねえンですがね。まっどうぞ、どうぞ上って下せえ」

 上り口に畏まった甚十郎は申し分けなさそうに頭を下げた。

「いや、肝煎にはすっかり迷惑をかけちまって。だがお蝶のことは余り騒ぎ立てたくないンだ。行方を捜してもらっていて、こんなこといえた義理ではないンだが」

 真之亮は土間に立ったまま、甚十郎に頭を下げた。

 銀太は驚いたように「旦那」と真之亮を見上げた。早く捜してくれと催促に出掛けて来たと思ったが、いきなり捜さなくて良いという真之亮の真意を測り兼ねたように眉根を寄せた。

「捜すなってことですかい。拐された姐さんを」

 と、甚十郎は合点がゆかないように小首を傾げた。

「お蝶はあれほどの技量を持った女だ。逃げる気があれば自分で逃げて来るだろう」

 突き放したように言って、真之亮は甚十郎を見詰めた。

 真之亮の双眸は心なしか寂しそうだった。甚十郎は真之亮の心の底を覗き込むような眼差しで見上げた。

「分かりやした。若い者たちを引き上げさせましょう」

 甚十郎が応えると、真之亮は「勝手を申して相済まぬ」と頭を下げた。

 肝煎の家を出ると、真之亮は浅草御門へ足を向けた。

「旦那、何処へ行くンですかい」と、詰るように銀太が言った。

 甚十郎の前では黙っていたが、銀次にはお蝶を捜すなという真之亮の真意が分からなかった。てっきり一緒になってお蝶を捜しに行くものだと思っていた。

「弥平の家だ。お蝶が拐されたと知らせるンだ」

――当たり前だろう、と言うように真之亮は振り返った。

「肝煎には断ったのに、弥平にはお蝶姐さんを捜してくれって頼むンですかい」

 食い付くように、銀太は声を張り上げた。

 到底承服できないと頬を膨らませて鋭い眦で真之亮を睨んだ。

「お蝶が斬り殺されても良いのか。夜盗一味にとってお蝶が使い物にならないと分かれば、奴らは躊躇なくお蝶を斬り捨てるだろうぜ」

真之亮は銀太に一瞥すらくれることなく、ずんずんと大股に浅草御門へ向かった。

 平右衛門町も同じく神田川の北河岸に貼りついたような細長い町だ。真之亮は浅草御門を潜ると四辻を左へ曲がった。弥平の家は小体な表店で、路地に面した土間で女房が小間物を商っていた。

「御免、邪魔をする。親分は御在宅かな」

 開け放たれた店先に足を踏み入れて、真之亮はおとないを入れた。

 間もなく奥座敷に人の気配がして「誰でえ」と弥平のしわがれ声がした。障子を引き開けて顔を出し、店先の真之亮を見つけて「こりゃあ、どうも」と畏まった。

「お蝶が何者かに拐された。拙者たちに心当たりはなく、手分けして方々を探しているが、とりあえず親分に報せに来た。よろしく頼む」

 と、真之亮は弥平にお蝶の探索を依頼した。

「女掏摸が掏摸盗られたとは洒落にならねえが、放っておくわけにもいくまい」

 不承不承という体で「仕方ねえ、方々の自身番に声を掛けておこう」と言った。

 帰りの道々、銀太は真之亮に不満を洩らした。

「弥平みたいな碌に役にも立たねえ岡っ引に頼むなんざ、旦那の気が知れねえや」

 神田川の北河岸道、俗に左衛門河岸を歩きながら銀太が毒付いた。

「もしかして旦那はお蝶姐さんがいなくなって、本当のところじゃ厄介払い出来て安堵してるンじゃねえのか」

 そう言う銀太の声が涙に濡れていた。

真之亮は振り向いて「そうかも知れないな」と呟いた。

「今夜の一件が済むまでお蝶に事件のことは何一つ訊かないつもりだった。事件解決の手掛かりを訊くためにお蝶を連れ戻ったと思われたくなかったからだ。人と人の繋がりは損得や貸し借り勘定だけではない、とお蝶に知ってもらいたかった。お蝶もそのことは分かってくれたようだ。今朝、みんなのために旨い朝飯を作ってくれたぜ」

 そう言って真之亮が空を見上げると、銀太は鳴咽を洩らして拳で涙を拭った。

「銀太、お蝶は悪党たちから拙者たちの動きを見張るように言い含められて来たような気がするンだ。お蝶が拙者の前に現れたのは拙者が一連の事件のカラクリに気付いて、兄上に南町奉行所の事件綴を調べて頂いた直後だ。拙者はお蝶の篭手を捩じ上げて捕まえたが、今にして思えばお蝶ほどの腕前なら容易に逃げられたはずだ。今日も碌に剣術修行していない手先の一人や二人、お蝶の腕なら苦もなくやっつけられたはずだ。つまりお蝶は自分の考えがあって悪党一味の許へ戻ったンだ。しかし、だからといってお蝶が悪党の仲間だということではない」

 真之亮がそう言うと、銀太は腑に落ちたように肯いた。

 新シ橋を渡って古手屋へ戻ると、丸新は店を開けていた。真之亮と銀太は顔を見合わせて思わず駆けだした。店先には客が群がり若い女が客の相手をしていた。

「お良」と、真之亮は大声で叫んだ。

 白い上っ張りを脱いで藍千本縞の着物に赤前掛けを着けていた。紅襷で袖を上げて白い二の腕を見せて、お良は女客に渋茶の古着を見立てていた。真之亮に気付くと僅かに頭を下げ白い歯を見せて微笑んだ。

「商売は飽きないといって、何があってもお客様のいる限り店は開けるものだと叱られやした」照れくさそうに、茂助が真之亮に頭を掻いて見せた。

 銀太に店番を手伝わせて、真之亮は茂助と奥座敷に入った。安五郎は座敷で横になり、湿らせた手拭いで頬と額を冷やしていた。真之亮は肝煎にお蝶の探索を断り、弥平に頼んできたことを二人に告げた。怪訝そうな眼差しを向ける茂助に真之亮は眉根を寄せた。

「お蝶がいなくなって拙者たちが泡食って慌てている、ってことを弥平にイの一番に教えておかなけりゃならないンだ」

 真之亮がそう言って謎をかけると、茂助は訝しそうに眉根を寄せた。

 それを見て真之亮は浅く溜め息を付いて、かすかに笑みを浮かべた。当然、真之亮が脳裏に思い描いている悪党の頭の面影は茂助の脳裏にもいままで何度も去来しているはずだ。しかし、茂助は悪党の頭が八丁堀同心とは信じられない、というよりも信じたくないのだろう。人は長年の手先勤めで体の髄まで沁み込んだ思い込みや常識からそう簡単に解き放たれるものではない。

「茂助、まだ気付かないか。善吉が殺された折り、女と一緒に中肉中背の同心がいたというぜ。それに、春日屋の前で逃げる勘治を背後から袈裟に見事な刀筋で斬っている。先刻、お蝶を拐したのは四十過ぎの狡猾そうな目をした小柄な男と、三十前の屈強な男の二人連れで、手先ふうだったと安五郎は言ったぜ」

――それほどの剣の腕前を持ち安が見た年恰好の手先を従えている同心といえば茂助の知っている野郎じゃないか、と真之亮は目顔で言って顎をしゃくって見せた。

 視線を宙に泳がせていた茂助は「あっ」と声を上げた。

「まさかとは最前から思っていましたが。真さん、今度の一連の事件はお隣の旦那と手先たちが下手人だということなンで」

 と呟いて口を開けたまま、茂助は声を喪った。

「その通りだ。まだ確かな証左はないが貝原忠介殿は中肉中背、どちらかというと丸胴の細身だ。先代からいる徳蔵は四十過ぎの小さな三白眼が特徴だ。いま一人、忠介殿の代になって雇い入れた手先は相撲取崩れの伊作といって、喧嘩早い破落戸のような大男だぜ」

 真之亮が謎解きをして見せると、茂助は腑に落ちたのか深々と頷いた。

 貝原忠介が臨時廻から、いきなり定廻になったのが三年前。北町奉行所が未だに持て余している未解決事件が立て続けに起こったのも三年前からだ。

「それで真さんは弥平の家へ行き、お蝶が拐わかされたから探してもらえないかと頼んだってンですかい」

 と、先刻報せたことを、茂助はもう一度なぞった。

「そうだ。弥平は貝原忠介殿の使っている岡っ引だ。弥平まで悪党の仲間だとは思わないが、貝原の許へ駆け付けてお蝶が拐されて拙者たちが慌てている、と報せるだろうよ。すると、貝原は拙者が銀太と深川へ出掛けて今夜の手筈を整えてきたとは思わないはずだ」

 真之亮の言葉に茂助は得心がいったように頷いたが、すぐに不安そうな顔をした。

「しかし、お蝶が真さんと銀太が朝早くに深川へ出掛けたと、貝原の旦那に報せやしやせんかね」

 茂助の懸念は当然だが、真之亮は首を横に振った。

「お蝶ほどの腕のある掏摸なら、手先たちから逃げることは造作ないことだが、お蝶は捕まった。そこに拙者はお蝶の意図を感じるンだ。お蝶がケチな密偵のような役回りをするとは思えないし、ここは一つお蝶を信じてやろう」

 そう言って、真之亮は唇を噛み締めた。

 お蝶がなぜ町方同心の名を言わなかったのか。それは貝原が組屋敷の真之亮の家の隣に暮らし、昔から顔馴染の同心の名を告げたところで真之亮はお蝶の言葉を信じないと思ったからではないだろうか。直截的にそうした同心の名を伝えるよりも、真之亮と銀太が『野暮用』で出掛けたことから今夜の働きにお蝶なりに加勢しようと考えたのではないだろうか。穿ち過ぎた考えかもしれないが、真之亮にはそうとしか思えなかったし、そう思いたかった。

「お蝶と共に過ごす今朝のような暮らしがこれからも続くのかと思って、わしは心底嬉しかったンだがね」

 と、茂助は気落ちしたように呟いた。

 

 いつもの通り、夕刻になって古手屋は店を仕舞った。

 お良を八丁堀へ送って行く刻限になったが、真之亮はお良に深々と頭を下げた。

「今夜から松枝町に泊まってくれ。八丁堀の実家へは明日にも挨拶に行くが」

 順序が後先になる無礼は承知の上で、真之亮はお良に頼んだ。

「ご実家の方へは安を使いに走らせます。お良さん、是非ともそうしてやって下さいませんか」

 茂助も懇願するようにお良に頭を下げた。

 いよいよ困ったようにお良は真之亮を見詰めた。

 今夜、真之亮は捕物で深川へ出役する。戻るまで茂助たちと仕舞屋で待っていて欲しいと切実に思った。剣を交える相手が貝原忠介なら首尾良く勝てるかどうか疑わしい。もしかすると、命を落とすかもしれない。今夕だけはお良の見送りで仕舞屋を発ちたかった。

真之亮の言葉に戸惑っていたが、お良は明るい笑みを見せた。

「真之亮様がそうお望みなら」

 短くそう言って、お良は恥ずかしそうに俯いた。

 今夜の捕物をお良は知らない。真之亮が貝原忠介と剣を抜き合わせることになることを。八丁堀の町方与力同心の子弟の通う道場で、二十歳にして麒麟児と謳われた男だ。しかし、いかなる事態が深川で待ち受けているのかを語るのは無用のこととして、真之亮はお良に何も明かさなかった。

 仕舞屋へ五人で行くと、真之亮とお良が大家の薪炭屋へ挨拶に顔を出した。茂助の手配で町内の蕎麦屋に頼んで近所に引っ越し蕎麦を配った。仕舞屋で暮らすことになる真之亮とお良はもちろんのこと、銀太や安五郎までも揃って界隈に引っ越しの挨拶に廻った。深川へ出役することを町方役人に悟られないためにも、仕舞屋に全員が普通にいることを装っておく必要があった。

 日暮れて五人で引越し蕎麦の出前を取った。普通の引っ越し祝いならそれなりに酒も付き、華やかな話に花が咲くのだろうが、誰も軽口一つ言わず静かに引っ越しを祝った。

「拙者と銀太はこれから出役しなければならぬ」

 蕎麦を食べ終えると、真之亮はお良に言った。

「それは大変、大事なお役目なのですか」

 と聞いて、お良は真之亮を心配そうな眼差しで見詰めた。

 真之亮はお良に頷いた。そして何か言おうとしたが、真之亮は途中でやめた。

「必ず戻って参る。だからこの家で待っていてくれ」

 それだけ言うと、真之亮は意を決したように立ち上がった。

 真之亮に続いて銀太も立ち、買い揃えた草鞋を素足に履いて紐を足首で結んだ。

茂助がお良に火打石と火打鉄を手渡した。お良は両手に持った石塊と火打鉄を見て、それが何かを知ると真之亮の背に切火を打った。

 後ろ手に腰高油障子を閉めると、二人は元柳橋袂の船着場へ向かった。銀太の差し掛ける提灯の明かりを頼りに、まだ月の昇っていない暗い夜道を急いだ。

 馬喰町から横山町へと町割続きの通りを行くと、やがて道は旗本屋敷の武家割の地へと入る。静まり返った白壁の屋敷が途切れると目の前が急に開けて薬研堀に出た。そこが元柳橋袂の船着場だ。

「ちょいと深川富岡八幡宮の船着場まで遣ってくれねえか、酒手は弾むぜ」

 と、遊客のように銀太が船溜りの船頭に声をかけた。

 すると「こっちの船が行きやさ」と即座に若い船頭がこたえた。

 銀太が真之亮の足元を照らして、石段を下りて細い歩を辿った。猪牙船に乗込むと銀太が胴の間の筵に座り、真之亮は胴に渡した横板に座った。

 猪牙船は岸を離れるとほどなく元柳橋の下をくぐった。大川に出ると潮の匂いが鼻を突いた。海から寄せて来るうねりが加わり、猪牙船は舳先で川面を断割るように上下した。川風は思いの外冷たく、思わず袷の衣紋を掻き寄せた。

 大川を斜めに横切って油堀へ入るとうねりは消えて、猪牙船は滑るように掘割を進んだ。やがて大伽藍の富岡八幡宮の長い壁に到り、その途切れたところに口を開ける入堀へ舳を向けた。そして速度を緩めて入堀の船着場に漕ぎ寄せた。

 船着場から門前仲通に上ると、宵の口の盛り場は書き入れ時を迎えていた。

「旦那、さすがは深川の繁華街だけあって、かなりの賑わいですね」

 と、両側の軒下の掛行灯に火の入った通りに、銀太はうっとりとした。

 目の前を黒羽織を着た辰巳芸者が相仕とともに横切った。冬でも足袋を履かない素足に黒塗駒下駄の粋な姉さん方だ。門前仲町の料理茶屋の座敷に声がかかったのだろう。真之亮と銀太も塗り下駄の刻む音を追うように升平へ急いだ。

 升平の軒下行灯にも火が入り、昼間の無愛想な印象とはまるで違っていた。縄暖簾を掻き分けて油障子を引き開けると、天井から吊り下げられた八間の明かりに照らされた土間に客は六分の入りだった。

 待つほどもなく、板場の仕切りの長暖簾を掻き分けて辰蔵が顔を出した。辰蔵に続いて二十歳前後の下っ引の松吉も元気な足取りでやって来た。奥の壁際に真之亮と銀太を座らせると、その前に陣取り、

「若旦那、橋袂の茶店も押さえやしたし、永代橋下に釣り船を準備させておりやす。手筈はすっかり整えやした」と、辰蔵が低い声で言った。

 善吉の弔い合戦のつもりか、今夜の捕物に辰蔵は一段と力が入っているようだ。

「何から何まで世話になる。今夜は何がなんでも一味を捕らえなければならぬ」

 真之亮は辰蔵に礼を言って、茶を運んできたお正に挨拶をした。

 辰蔵は御用のことをお正に洩らしているのか、お正の顔が心なしか沈んでいた。

「親分、今夜の捕物をお正に話したのか、心配顔のようだったが」

「いや、何も話しちゃいねえ。が、女は勘働きするものですから、なんとなく分かるンでしょうよ。五ツ過ぎに船頭がここに来やす、そうしたら出掛けやしょう」

 それまで半刻ばかりあるが、待つしかない。酒を口にするわけにもいかず、大の男が四人雁首を並べて升平の片隅に陣取って、手持無沙汰に時を過ごした。

 八間の下では五人の印半纏を着た職人たちが声高に話し込んでいた。言葉の端々から界隈の岡場所で評判の女郎の品定めに盛り上がっているようだ。升平から二十間ばかり南へ行くと門前広小路が大島川で尽き、蓬莱橋を渡った向こう河岸には岡場所『アヒル』がある。他にも富ヶ岡八幡宮西隣の山本町は油堀端の裾継と、ほうぼうの岡場所の女たちの棚卸をするのに事欠かない。宵の口の升平はこれから岡場所へ繰りだそうという遊客で賑わっていた。

 五ツを半刻も過ぎた頃、船宿波萬の法被を着た小柄な男が升平に顔を出した。殺された善吉と同じ船宿の船頭で、善吉の弟分にあたる船頭で名を忠吉といった。辰蔵は立ち上がって「行きやしょう」と声をかけた。

 男たちは真之亮を先頭に一団となって、軒下行灯の消えた門前仲通りを永代橋袂へと急いだ。まだ、料理茶屋の黒板塀の内からは三弦の爪弾きや女の声音が聞こえていたが、広い通りに人影は疎らになり真之亮たちが門前仲通りを行くと、野良犬が尻尾を巻いて路地へ逃げ込んだ。

 橋袂の茶店は橋番小屋の並びにあって、板囲いに桧皮葺の粗末な床店だった。茶店の親爺が釜の火を落とさないでいてくれたため、茶店の中は暖かだった。釜場の蔀を細めに開けると、大川が眼下に見渡せた。松吉と銀太が交互に蔀にへばりついて監視し、真之亮と辰蔵それに忠吉の三人は釜場の狭い板の間に陣取って手炙りを囲んだ。

 夜盗の群れがいつ現れるのか、明かりを消した暗い茶店で彼らは辛抱強く待ち続けた。戸締まりをした茶店の蔀から眺める対岸はやや明かりを得た空の下、切り絵のように町並が黒い影となって横たわっている。おそらく対岸から眺める深川も黒い影となって、さながら一幅の切り絵のようだろう。やがて四ツの鐘が聞こえて、夜は厳しい冷え込みとともに更けていった。

 月がなければ漆黒の闇のように江戸の夜は暗い。待つほどに大川の対岸の箱崎沖に豆粒ほどの黒い影が現れた。黒い切り絵のシミのような影は大きさを増して、やがてそれは船の形となった。船には提灯の明かりすらなく、昇ったばかりの月明かりが漣でギヤマンを散りばめたような無数のきらめきとなって輝く大川に黒い航跡を曳いて佐賀町へとやって来た。それは猪牙船より一回り大きな荷船だった。

「ついに、あらわれたか」

 誰ともなく呟きが洩れて、男たちは光る双眸で月明かりの川面を見詰めた。

 茂助の読みがすばりと当たったことになる。切り米支給の初日に襲うとは誰も思わない。そうした裏をかいて悪党一味はやって来た。

 大川を横断した船は摂津屋の船着場に近づき、茶店の蔀の視角から消えた。

 真之亮と辰蔵それに銀太と船頭に松吉の五人が橋袂の石段を身軽に下りて、岸の石垣に身を貼りつかせた。昇ったばかりの月明かりに、五十間ほど離れた大川河岸に数名の人影が船から飛び移っているのがくっきりと見えた。その中にお蝶かと思える小柄な女が混じっていた。

お蝶は悪党に寝返ったかとの疑念が心に湧いたが、真之亮は即座に打ち消した。間もなく賊の一味は河岸から姿を消した。船は船頭一人を残して辺りは静かになった。賊の一味が乗ってきた船は向きを変えて、船頭が器用に船尾を河岸に着けて止めた。奪った千両箱を積み込み、速やかに逃げるにはその方が都合が良いだろう。

「そろそろ始めるとするか、段取りは先刻打ち合わせた通りだ」

真之亮が声をかけると、男たちは物音も立てず船に乗込んだ。

 忠吉は手慣れた櫓捌きで永代橋下から、夜釣りの客を乗せて船宿へ戻るようにのんびりと漕ぎ出した。船には釣り具はもちろんのこと、手炙りから貧乏徳利まで揃えてあった。辰蔵と真之亮が二人して船頭を雇って釣りに出た帰りを装って、銀太と松吉は船底に身を伏せた。

 真之亮は貧乏徳利の栓を抜くと、寒さ除けの粗莚に振り撒いた。そして自分の袷にも振り掛けてから、酒に酔ったようにだらしなく舷側に凭れかかった。

 潮の匂いの立ち込める大川は上げ潮を速め、忠吉がそれほど力を入れて漕がなくても釣り船は滑るように進んだ。真之亮は身を凭れさせかけたまま、摂津屋裏門の河岸に着けた船影を鋭い眼差しで見詰めた。

 賊一味が乗って来た船は猪牙船より一回り大きい。船頭一人が残りいつの間にか向きを変えて艫を河岸に着けて、いつでも逃げ出せる用意をしていた。真之亮の乗った船はいかにも早い夜釣りの帰りのように、遅い船足でゆらゆらと近づいた。艫に腰掛けていた船頭は近寄る釣り船を見つけると舳へ足早にやってきた。見るからに荷船の船頭でもしていそうな狂暴な顔付きの大柄な男だった。

「お―い、これから夜釣りかえ。どうだ寒さしのぎに一杯やらねえか」

 酔ったように、真之亮が船頭に声をかけた。

「こっちへ来るンじゃねえ。トットと立ち去れってンだ、この酔っ払いめ」

 船頭は怒ったように声を上げた。

 そして手にした棹で真之亮の座っている舷側を突こうと手荒に突いてきた。それを待ち構えていた真之亮は棹先が舷側に触れる寸前に素早く掬い取った。座ったまま手にした棹をいったん手元へ手繰るように力を入れて引き寄せ、船頭が負けずに引き戻そうと力を入れた瞬間を逃さず突き放した。すると、船頭は他愛なく後ろに倒れた。

船頭は船底に後頭部を打ち付けて呻き「この野郎」と声を上げた。

 その期を逃さず真之亮は船に飛び移り、船頭が身を起こして立ち上がる前に鳩尾に当身の一撃を見舞った。「ウッ」と船頭は呻いて船底に長くなった。

 だらしなく気を失った船頭に猿轡を噛ませて後高小手に縛り上げ、忠吉の操る船に移した。船頭は忠吉が少し上流の仙台堀に連れて行き、今川町の蕎麦屋に陣取っている鳶の親方に引き渡す手筈になっている。用心のため松吉も船に残り、忠吉と一緒に一味の船頭を乗せて漕ぎ上った。

 一味の乗って来た船には銀太が乗込み、手筈通りに捕縛した船頭の代役についた。真之亮と辰蔵は摂津屋の裏門に足音を消して近寄り、静かに門を押した。果たして閂は外されたままで、門はすっと開いた。真之亮と辰蔵は素早く屋敷内に身を入れて、音も立てずに門を閉じた。そしてすぐに塀に体を貼りつけて屋敷の様子を窺った。

 摂津屋米蔵屋敷は水を打ったように静まり返っていた。二反ほどの敷地の中に一棟の家を挟むように両側に二棟ずつ白漆喰の壮大な米蔵が建っている。家の前には納屋が立ち塞がり、勝手口は見通せなかった。米俵の搬入・搬出時にはその納屋に番頭が陣取って手代たちを差配し、帳付けをしているのだろう。真之亮と辰蔵は顔を見合わせると体を低くして納屋の壁まで十間ばかり走った。

 納屋の板壁に身を寄せて、頭を少し出して勝手口を窺った。納屋と勝手口の間に井桁と流し場があり、奥には後架があった。人の気配がないのを確かめると、真之亮と辰蔵は井桁の陰に身を移した。家の中からかすかに物音がしていた。が、争っているような気配はなく、全体に夜の静けさに包まれていた。

――皆殺しにしたのか、と不吉な予感が真之亮の心に湧いた。

 それでも当初の手筈通りに真之亮は井桁の陰に身を潜めて、賊一味が仕事を済ませて家から出るのを待った。摂津屋の者が縛り上げられているだけなら、下手に動けば人質にされる恐れがある。事件綴りで見た限りでは過去の事件では立ち向かった用心棒は斬り殺されたが、店の者は猿轡を噛まされて縛り上げられるだけで命までは奪っていない。とにかく、待つしかなかった。

 ほどなく、龕灯の明かりが勝手口横の蔀から洩れて足音が近づいて来た。それも一人や二人ではなく、囁き合う男たちの低い声までも聞こえて来た。

 真之亮と辰蔵は身を低くして井桁の陰に潜んだ。

 やがて勝手口に黒頭巾で顔を包んだ二本差しの男が姿を現した。傍には影のように小柄な女が高祖頭巾に顔を包んで付き従っていた。その姿形から女が誰か、は明らかだった。「お蝶」と真之亮は危うく声を出しそうになったが、かろうじて自制した。

 どうなっているのか、と考える暇もなく次々と顔を包んだ男たちが出て来た。二人一組で千両箱を抱えて、横歩きに井桁の前を通り過ぎた。

「早くしろ、もたもたするンじゃねえ」

 と、二本差しが勝手口に立ち止まって奥に声を放った。

 それは聞き覚えのある声だった。間違いなく貝原忠介の声だった。二組の男たちが行くと、更にもう一組の男たちが現れた。賊はそれだけかと思ったが、家の中から「待ってくれ」と声がした。四組目の男たちは二つの千両箱を積み重ねて持ち、その重さに足を取られてよろけるように勝手口を出て来た。

「千両箱一つにしておけと言っただろう。欲をかくと碌なことはねえぜ」

と、貝原忠介は男たちの背に怒声を浴びせた。

 それが最後だった。千両箱二つを積み重ねた男たちの後ろを貝原忠介とお蝶が並んで勝手口から離れた。そして真之亮と辰蔵が潜んでいる井桁の目の前を通り過ぎると、真之亮は井桁の陰から立ち上がり、貝原忠介の背後に歩み寄った。

「お待ち下され、貝原忠介殿。町方同心が夜盗を働くとは何事でござるか」

 真之亮は貝原忠介の背に声をかけた。

 貝原忠介は立ち止まると瞬時に腰を落として身体を回転させ、振り返りざま刃を払った。鋭い居合抜き撃ちに真之亮は飛び下がって貝原忠介の遣った白刃から間一髪で逃れた。だがそれを予見していたかのように、貝原忠介は更に踏み込んで車に回した刀を拝み斬りに真之亮の頭上へ振り落とした。真之亮は後退りながら抜き合わせた受け太刀で防いだが、鋭い打ち込みに構える間はなく頭上へ振り下ろされる貝原忠介の一撃を凌ぐのが精いっぱいだった。辛うじて額の一寸ばかり上で受け、白刃が激しく噛み合い、乾いた金属音と火花が散り鉄臭い匂いが鼻腔を突いた。

「当節評判の町道場の代師範の腕前とはいかほどのものか。剣戯と剣術の相違いを思い知らせてやる」

 そう言うと、貝原忠介は上から強く白刃を押し下げた。

 しかし、それは力任せに押し下げて斬るというものではない。上から押さえつけて斬るには体力に相当な差がない限り不可能だ。強く押し下げるのは貝原忠介が飛び下がって優位の体勢から次の攻撃に移るための動きだと察知し、真之亮は剣が軽くなる瞬間を逃さず飛び下がる貝原忠介の腰部を受太刀の姿勢からそのまま前へ倒れるように薙いだ。「ヒュッ」と空気が切り裂かれ刀風が湧いたが、貝原忠介も素早く身を退いてかわした。しかしそれで間合いが生じて真之亮は体勢を立て直すことができた。

正面に対峙すると瞬時にして真之亮は貝原忠介の並々ならざる力量を知った。腕は真之亮より僅かに上かも知れない。貝原忠介は不敵な笑みを浮かべて、正眼から徐々に剣先を上げて上段に大きく構えると全身から圧倒する殺気が押し包んできた。摺足でじりじりと間合いを詰めながら八層の構えを取った。当然のことながら、貝原忠介の胴はがら空きになった。抜き胴を使うならいまだ、と逸る気持ちと同時に躊躇させるものがあった。その構えは余りにも無防備で真之亮に抜き胴を使わせる誘いのように見えた。何かある、と真之亮は迅速の抜き胴を使うのを躊躇った。

その間にも貝原忠介の刀が直立し間合いが詰まって足が止まった。来ると思った刹那、黒い影が貝原忠介目掛けて飛鳥のように視野を横切った。その影は鋭い嘴を突き立てるように貝原忠介の右脇腹に飛び込んだ。まさしく匕首の一撃は貝原忠介の肝ノ臓を刺し貫いたかに見えた、が貝原忠介は「この雌狐め」と怒りに満ちた声を発して右肘で顔面を撃ちつけた。そして右手一本で白刃を車に回して逃げようとした影の首の付け根に叩きつけた。後ろ袈裟に一撃を受けて影は腰が砕けたように倒れた。

真之亮は「お蝶」と思わず叫んだ。悲鳴一つ上げずに昏倒し、お蝶は死んだように動かなかった。右手から匕首が落ちて地面に転がった。

お蝶が昏倒するや、真之亮は刀を引き寄せて地面を蹴った。真之亮は機を逃さず踏み込み抜き胴ではなく、飛び上がり体ごと頭上に刀を叩きつける上段斬りを放った。

必殺の刃は刃音を立てて上段から振り下ろされ、貝原忠介は片手袈裟を使って崩れた体勢のまま刀を振り翳して逆手に受けた。甲高い刃と刃が噛み合う音が響いたが、右手一本の貝原忠介は鋭い真之亮の撃ち込みを受けきれず、必殺の上段斬りを側頭に浴びた。その強烈な一撃は耳朶を飛ばし、右側頭から一直線に顎を砕き首筋を断ち裂いた。貝原忠介は頚動脈から血飛沫を撒き散らして棒杭のように後ろに倒れた。

 一瞬の出来事に賊一味は千両箱を投げ出し一目散に裏門へ殺到したが、たちまち大勢の鳶人足が手に手に得物を持って屋敷に雪崩れ込むのを見て踏み止まった。

「御用だ、御用だ。神妙にしやがれ」

 と、叫び声が屋敷の内外に飛び交い、南町奉行所の高張り提灯が掲げられた。

 火消人足の半纏を着た若い衆が刺又や袖絡なとを手に賊一味を取り囲むと、匕首を抜いて身構えた男たちは戦意が萎えたように立ち竦んだ。南町奉行所の者も出張っているのか、捕方の装束に身を包んだ役人の姿もあった。

 真之亮は血振りをすると差料を鞘に戻して貝原忠介に近づいた。貝原忠介は血を大量に失ってぴくりとも動かず、すでに絶命していた。お蝶が貝原忠介の肝ノ臓を目掛けて匕首で体当たりしてくれなかったら、地面に横たわっているのは自分だった。真之亮はそう思うと背筋に悪寒が走った。

 人は匕首で肝ノ臓を刺し貫かれると二呼吸する間もなく絶命する。しかし貝原忠介はお蝶に匕首ごとの体当たりを受けても致命傷どころか掠り傷すら負わなかった。着物の下に鎖帷子を着込んでいたのだ。それを知らなかったら真之亮は間違いなく得意技の抜き胴を遣って、返し技の後袈裟に斬られていただろう。鎖帷子に抜き胴は通用しない。いわばお蝶が命に代えて真之亮に教えてくれたのだ。

 倒れた貝原忠介の首筋に手を当てて絶命を確かめると、真之亮はお蝶の傍へ近寄った。片手袈裟懸けだったため即死は免れたが、背骨まで断たれたお蝶は虫の息だった。大きく肩で息をして、顔色は蝋のように白かった。膝を折ってお蝶の上半身を抱き起こすと、真之亮の腕の中でかすかに目を開けた。

「しくじっちまったよ、鎖帷子を着込んでいたとは飛んだ卑怯者さ。だけど土壇場に据えられた身だ、悔いはない。言うことを聞けば命を助けてやると持ち掛けられたけど、甘い話なんてこの世にありゃしないンだ。わっちは掏摸の道から外れて三人も手にかけちまったから、勘治があの世で怒ってら」

 そこまで言って言葉を切り、お蝶は苦しそうに唾を呑み込んだ。

「もう良い。お蝶、しゃべるンじゃない。命に障る」

 真之亮はやさしくお蝶に話し掛けた。

「フン、助からねえってことぐらい分かってら。銀公と安を頼んだよ。茂助の親爺にゃわずかでも堅気の暮らしを味わせてくれて有り難かった、と」

 不意にお蝶の言葉がもつれて、意識が遠のいたように言葉が途切れた。

 バタバタと銀太が駆けて来た。真之亮が抱き起しているお蝶の肩に手を置いて「姐さん」と叫んだ。

「何があったンだ。旦那、姐さんに何があったンだ」

 銀太は涙をこぼしてお蝶の顔を覗き込んだ。

「姐さん、死んじゃだめだ。一緒に古手屋をやると言ったじゃねえか」

 銀太が呼び掛けると、お蝶は細く目を開けて銀太を見た。

「銀公うるさいよ。静かに逝かせておくれ。色男に抱かれて夢見心地なンだからさ」

 そう言うとぴくりと睫を動かして、お蝶はそれきり息をしなくなった。

 真之亮はお蝶を銀太の手に任せると、辰蔵を伴って勝手口から家の中へ入った。

 草鞋を履いたまま廊下に上がると、たちまち生臭い血の匂いが鼻を突いた。台所から賄部屋を抜けて座敷に向かうと襖が外れて廊下に倒れていた。そこに差料を半分抜いただけの浪人者が袈裟に左肩から胸乳まで斬り下げられ命を絶たれていた。襖を踏み越えて奥へ進と、廊下に斬られて右手を失い腹を撫で斬られた浪人者の骸が横たわっていた。真之亮と辰蔵は顔を見合わせて明かりの見える店表へと足を速めた。

 店座敷には番頭と三人の手代、それに二人の小僧が猿轡を噛まされ、蝦責めのように縛り上げられて板の間に転がされていた。そして、板の間には大量の明かり油が撒かれ、真ん中に一本の短い蝋燭が立ててあった。それは四半刻もすると蝋燭の火が板の間に撒かれた油に燃え移り、摂津屋の米蔵店が燃え上がるという細工だ。真之亮は短い蝋燭を拾い上げると行灯に火を移し、差料を抜いて縛っていた細引きを切った。

「店の者は大丈夫か、用心棒は浪人者の二人だけか」

 真之亮が訊くと、番頭が「そうです」とこたえた。

「お金は、お金は大丈夫でしょうか」年嵩の手代が辰蔵に聞いた。

「盗賊一味はすべて捕らえたから、心配するな」

 辰蔵はそう言うと、真之亮に物言いたそうな眼差しで見上げた。

 辰蔵の杞憂は真之亮にも通じた。それは貝原忠介の骸だ。盗賊の一味を実は南町奉行所同心が率いていたと、世間に晒すわけにはいかない。

 廊下を取って返すと、真之亮は貝原忠介の骸に近づいた。そして、血溜りの中に沈んでいる貝原忠介の懐に手を入れた。十手の房が血を吸って粘りっこく手に絡まった。人に見られないようにそれを抜き取ると、懐紙に包んで懐に入れた。

 貝原忠介は世間に病死と報告されるだろう。そのためにも貝原忠介の骸は別に運ばなければならない。大柄な辰蔵が摂津屋の戸板を二枚外して軽々と持って来た。

「貝原の旦那だけじゃなく、そのお姐さんも運んでやりましょう」

 辰蔵がそう言うと、銀太は言葉もなく涙を流した。

「ご苦労だった、真の字。お主の睨んだ通りだったな」

 その声に顔を上げると、同心の出役装束に身を固めた遠山景元の姿があった。

「せっかく立てた手柄だが、一切他言は無用だ。今度の事件を洗い浚い明るみに出すと南町奉行所の権威は失墜する。権威の失せた町奉行所の指図に誰も従わなくなる、分かるな。今夜の事件は前科者が徒党を組んで凶行に及んだものだとするしかない。南町奉行所の者が関与していたとは間違っても気取られちゃならねえンだ」

 そう言うと、遠山景元の配下の者に貝原忠介とお蝶の骸を運ぶように命じた。

「お奉行、あの女の骸をわれらに下げ渡して頂けないでしょうか」

 運ばれて行く戸板のお蝶を見て、真之亮は遠山景元に願い出た。

 お蝶の葬式を自分たちの手で出してやりたいと願うのは真之亮だけではない。銀太も挑むような眼差しで遠山景元の顔を見詰めた。しかし、遠山景元は厳しい面持ちをして首を横に振った。

「むごいようだが、それは出来ねえ。お蝶は品川宿にて掏摸を働いたところを貝原忠介に捕らえられた。都合、四度目のお縄だ。貝原忠介は土壇場へ引き出すのを先延ばしにしてやるから言うことを聞けとお蝶に持ち掛けて、女囚獄へ送らず春日屋の座敷牢に閉じ込めて自分たちの私事に使っていたようだ。お縄にした女掏摸が四度目のお縄だと吟味方が確認した上で、その女囚を勝手に囚獄から連れ去るという不祥事に、奉行所の誰が関わっていたかは追々明白になるだろう。お蝶の骸は南町奉行所の手続きを正式に復すために入用だ。四度目の咎により女掏摸を土壇場に引き出して首を刎ねた、とする始末書を作らなければ辻褄が合わねえことになる。そうするのが江戸の安寧を守るということだ、分かってくれ」

 遠山景元の言葉に、真之亮と銀太は肩を落とした。

 御定法を曲げることは出来ないといわれれば、それに抗うことはできない。真之亮は粗莚を掛けられて運び去られるお蝶に向かって両掌を合わせた。銀太もそれにならった。真之亮は懐に仕舞っていた貝原忠介の十手を取り出し、懐紙に包んだまま遠山景元に手渡した。「貝原殿の十手です」と言うと、遠山景元は目顔で頷いた。

「なかなかに見所のある男だったが、貝原も悪党の手駒の一つに過ぎない。巨悪はまだ南町奉行所に鳴りを潜めて巣食っている。真の字にはこれからもしっかりと働いてもらうぜ」

 そう言うと、遠山景元はふっと力を抜いて寂しそうに微笑んだ。

 くだけた様子に戻った遠山景元に頭を下げて、戸板を運ぶ下役人の一団から離れた。六人もの盗賊を一網打尽にお縄にして、屋敷の裏庭はお祭り騒ぎのようになっていた。その中を真之亮と銀太は首をうなだれて河岸へと足を運んだ。辰蔵と親方が心配顔で駆け寄った。

「旦那、どうかしなさったンで」

 佐平が嬉しそうな笑みを消して、真之亮の顔を覗き込んだ。

「いや、何でもない。今夜は辰蔵や親方の働きで盗賊を一網打尽に捕らえることが出来た。心からお礼を申す」

 真之亮は佐平に深々と頭を下げて、辰蔵に「後日、伺うよ」と声を掛けた。

 真之亮は銀太と連れ立って裏門を出ると、仙台堀へ足を向けた。

「若旦那、松枝町へ帰るのなら元柳橋まで忠吉に送らせてもらいますぜ」

 辰蔵が後を追って来て、真之亮に声を掛けた。

「ああ船に乗って帰ろうと思っていたところだ。しかし、考えてみるとこの刻限だ。真夜中に船頭が船溜りにいるとも思えない。そうしてもらえると有り難いな」

 真之亮と銀太は忠吉の船に揺られて、元柳橋の船着場へ向かった。

 

 真夜中の大川に靄のような川霧が流れていた。

 真之亮と銀太は氷水のような川風に首を襟に埋めた。

 これから暖かくなるのだろうが、季節は踊り場でせめぎあっているようだ。

 船を下りると忠吉に礼を言って、半欠けの月明かりを頼りに河岸へ上った。

 家の建て込んだ通りには辻番小屋や木戸番があるため、面倒を避けて真之亮は広小路へ出た。松枝町へ戻るには柳原土手を和泉橋の手前まで行き、横大工町代地の角から南へ下れば良い。しかし柳原土手に上ったついでに、新シ橋手前の丸新に寄って茂助に今夜の首尾を話しておこうかと足を向けた。

 銀太と連れ立って欠けた月の頼りない明かりの下、広いだけの寂しい広小路を歩いた。かすかに人の気配はするものの、それは闇に潜む夜鷹とその客たちのもののようだ。昼間はあれほどの雑踏で賑わう広小路がうらぶれた廃虚かと見紛うほど、まるで違った顔をしていた。

 真之亮は胸騒ぎを覚えて柳原土手の丸新へ急いだ。

 大柄な真之亮が柄頭を抑えて足早に大股で歩くと銀太は小走りに後をついてきた。

 もはや深更、何かあったとしても既に手後れだがと嫌な予感に胸が騒いだ。土手の古手屋の並びに丸新が見えて来たが、辺りに人の気配はしなかった。真之亮は鯉口を切り、裏口へ廻った。コツコツと木戸を小さく叩いたが返答はなかった。

 隠し落とし鉄を引き抜いて、真之亮は裏口を開けた。

 人がいないことは気配で分かっていたが、ただ荒らされた痕跡がないか自分の目で確かめたかった。

「旦那、親爺さんたちも松枝町に泊まったンじゃねえですかい」

 真之亮の背後から背越しに座敷の暗がりに目を遣って、銀太が呟いた。

 仕舞屋で変事があったと考えるのは思い過ごしか、と真之亮は戸を閉じて落とし鉄を挿した。裏口から土手道へ出ると、新シ橋の前を通って横大工町代地の角から左に折れて町割の通りへと入った。

 土手道を離れて横大工町代地へ入って間もなく、顔を前に向けたまま銀太が真之亮の脇腹をついた。真之亮は小さく頷くと、阿吽の呼吸で次の四つ辻を右へ曲がった。そこは通りが四方を囲んだ町割だった。角を曲がると二人は脱兎のように駆けた。幸い雪駄ではなく草鞋を履いているため、足音はほとんどしない。辻々で右へ右へと曲がると元の通りに出る。

 三回曲がって元の通りに出て辻に目を遣ると、小柄な男が軒下の陰に姿を隠すように佇んでいた。十五間ばかり離れているが、真之亮と銀太が後ろに回ったのに気付かないとは随分と間抜けな付馬だ。真之亮と銀太は軒下を拾って影のように近づいた。あと二間ばかりまで近づいた時、男は背後に迫る真之亮たちに気付いた。驚いたように後ろを振り返ると、小柄な男の顔の輪郭が暗闇に浮かんだ。

「徳蔵じゃないか。なにしてるンだ」

 真之亮が声を掛けると、徳蔵は慌てて身を翻して逃げだした。

「この野郎」と叫んで駆けだそうとした銀太を「やめろ」と真之亮は制した。

「あの野郎は丸新を出た時から、おいらたちをつけていたンですぜ。半次が殺された時にも貝原と一緒に湯島にいたンだ、善吉が殺された時にも……」

悔しそうに言って、銀太は弁慶橋を渡って闇に消えた彼方を見詰めた。

「刻限になっても貝原殿もお蝶も帰ってこないため、心配になって柳原土手まで俺たちの様子を探りに来たンだろう。夜が明ければ徳蔵も自分の末路を知ることになる」

 そう言って、真之亮は銀太の肩に手を置いた。

 松枝町の仕舞屋の油障子に中の明かりが橙色に頼りなく透けていた。真之亮が桟を叩くと、女の声がして支っていた心張り棒を外す音がした。

「いま帰った、寝ずに待っていてくれたのか」

 お良の顔を目にして、真之亮は笑みを浮かべた。

「ご無事で何よりです。少しばかり血が匂いますが。あっ、額にたくさんの小さな傷が」

 お良の言葉に額に手をやり、チクチクと刺すような痛みを覚えた。

 貝原忠介の強烈な袈裟斬りを受けた時に刃が噛み合い、刃金の破片が無数に飛び散って額に突き刺さったものだ。激しい打込みだったと、思い出しただけでも背筋に悪寒が走った。

 真之亮と銀太は上り框に腰を下ろして草鞋を解いた。

「茂助たちは家にいるのか」

 と、何よりも先に真之亮は心にかかることを聞いた。

「ええ、つい先ほどまで真之介様と銀太さんが帰るまで寝ずに待っているンだ、とおっしゃっておられましたが」

 と言って、お良は微笑を頬に浮かべて居間の障子に目をやった。

 まさかとは思ったが、茂助と安五郎に変事がなくてよかったと真之亮は安堵した。お良が持ってきた足盥で足を洗った。

「ご無事にお帰りで、何よりでやす」

 後ろの明かり障子を開けて、茂助が声を掛けてきた。

 真之亮は笑みを見せて、差料を鞘ごと抜いて部屋へ上がった。

「貝原忠介殿が一味の頭目として指図していたよ」

 そう言いながら長火鉢を前に座ると、お良が熱い茶を淹れてきた。

「お蝶姐さんが……」と、銀太が言い掛けて言葉をなくして大粒の涙をこぼした。

「貝原殿と連れ立ってお蝶が摂津屋にあらわれたンだ。しかし、お蝶は我らの動きを何も教えていなかったようだ。それどころか、お蝶が捨て身で貝原殿に匕首を突き立てて拙者の命を救ってくれた。しかしお蝶は貝原殿が鎖帷子を着物の下に着込んでいたので反対に斬られてしまった。だがそのことにより拙者は鎖帷子を着込んでいると知った。下に着込んだ鎖帷子を知らなかったら、間違いなく立ち会っている最中に得意の抜き胴を遣って、返り討ちにあっていただろうからな」

――抜き胴は捨て身の大技だ。決まらなければ無防備の背後から後袈裟に斬られる。

 お良は話が呑み込めない様子で、「お話の中の貝原様とは八丁堀同心の貝原忠介様のことですか」と訊いた。

「いかにも、中村の隣の貝原忠介殿だ。帰る途中に丸新の様子を窺っていた男に後をつけられた。お良も知っているだろう、貝原殿の手先の徳蔵だ」

 真之亮の返答にお良は驚いたように目を見張り、行燈の明かりに映し出された真之亮の月代から額にかけて点々と浮かぶ瘡蓋に目をやった。

「それでは、その頭から額にかけてのたくさんの細かい傷は」

 お良には何のことだか判じかねることばかりだろう。真之亮はすべてを話せないことに苛立ちながらも、事実だけを小出しに話した。

「貝原殿の厳しい打込みを躱せず、受け太刀を遣ってしまった。その際、噛み合った差料同士の刃金が飛び散って突き刺さったものだ。拙者の差料も刀研ぎへ出して手入れしなければ、おそらく鋸のようになっているだろう」

 そう言って、腰から鞘ごと抜いた差料に目を落とした。

「行燈の明かりでは心許ないゆえ、傷の鉄片は夜が明けてから毛抜きで取って差し上げましょう」

 お良がそう言うと、真之亮は恥ずかしそうに俯いた。

「ところで旦那、南町奉行所からは誰か出張って来やしたか」

 茂助は茂助なりに真之亮の身を案じた。お役目とはいえ真之亮は定廻同心を斬ったのだから、お役目上の仕儀と証言する生き証人がいなければ面倒なことになる。

「ああ、有難いことにお奉行が同心の出役装束で役宅の者を差配していたぜ」

 茂助の危惧に応えるように、真之亮は抑揚を抑えて言った。

「ええっ、お奉行の遠山景元様が直々にですかい」

 目を剥いて、茂助は驚嘆の声を上げた。

 時代が変わったのだ。これまでは捕物の修羅場にお奉行が出向くことはなかった。定廻与力ですら滅多に出役することはない。お奉行が出張ったと知ったら、今後の捕物に与力が出役しないわけにはいかないことになるだろう。

 縦社会の悪いところは上役におもねるあまり、下役がお膳立てから後始末まですべてしてしまい、ついには上役が実態を知らなくなることだ。上がって来る書面に目を通すだけなら、その上役は必要ないことになる。が、それ以上に罪悪なのは自分が必要ないとされたことにすら気付かない上役が要職に居座り続けて、現場と上層部との間で意志の疎通を欠くことだ。

「お蝶は可哀相だったが、すべては運命と思わねばなるまい」

 真之亮がそう言うと安五郎は頑是ない子供のように声をあげて泣き、銀太は黙って唇を噛んで涙を流した。

「毎日が土壇場に座っているようなものだとお蝶は言っていたが、できることなら老い先短いわしが代わってやりたかった。古着を商ってあれほど喜んでいたのに」

 茂助も首を垂れて、深く溜め息をついた。

 昨夜のこと、お蝶もこの家に泊まった。今朝はお蝶が蜆汁を作り熱い飯を炊いてみんなで朝餉を摂った。死とは残酷なものだ。もはや永遠に、あの小意地を宿した婀娜な眼差しとは逢えない。真之亮も瞑目してお蝶を偲んだ。

 人の命は明日をも知れない。人はすべて土壇場に座って地面の穴の上に首を差し出しているようなものだ。それが厳然とした避けようのない現実だが、普通に暮らしている人々は土壇場なぞとは縁がないと思っている。実際に土壇場に引き出され死の淵を覗いた者の慄きと絶望とは無縁な日々を送っている。自分の死がいつ訪れるとも分からないからこそ、人々は平穏な毎日を送っているのかも知れない。

 その夜、茂助と安五郎も銀太と一緒に仕舞屋の二階に泊まった。お良と真之亮は一階の奥の寝室で一つ夜具に包まった。言葉を交わすこともなく、二人は深い闇の中で秘かに抱き合った。


人待ち橋

             人待ち橋

                                   沖田 秀仁

 竿先で『休み処』の幟が千切れるほどはためいている。

鉛色の空で唸りを上げ、川面を渡る風は身を切るようだ。

荒れ模様の夕暮れ時のせいか永大橋を行き交う人も潮が退くように疎らになった。日暮れまで半刻はあるはずだが、橋詰めの茶店で足を休める客は誰もいなくなった。見廻りの途次に立ち寄る八丁堀同心貝原佐内も今日は店先から声だけ掛けると、急ぎの用事でもあるのか手先二人と木枯らしに吹かれるようにして橋を渡っていった。長兵衛は貝原主従の姿が見えなくなると空を見上げて眉間に皺を寄せた。厚い雲に掻き消えた日差しがそのまま夜の闇に変わる前に、早々と店仕舞して帰る方が良いかも知れない。大晦日も近いというのに碌な稼ぎはないが、それも仕方ない。

長兵衛は店先に並び立つお菊へ視線を遣った。

「お菊、少し早いが店仕舞いとするか」

 そう言って、長兵衛は土手の坂道を下って行く佐平の後姿に目を遣った。

 佐平とは木場人足の若衆だ。判で押したように仕事の退ける五つ過ぎに姿を見せて、牛の涎のようにいつも長っ尻を決め込む。その佐平が腰を上げたのを汐に、長兵衛はお菊に声を掛けて、もう一度貝原佐内が消えた永代橋の彼方に視線を送った。

「あいよ。そういえば、雲行きが怪しいね。どうやら雪になりそうな塩梅だから、早仕舞いした方が良いかもしれないね」

と、お菊は縁台を拭いていた手を止めて、夕暮れ時のような空を見上げた。

 突風のような木枯らしが板囲いの床店を吹き飛ばすように襲い掛かり、お菊の解れ毛が風に震えた。お菊は前掛けの上から着物の裾を左手で抑えて雑巾を手桶に戻した。いくら拭いても凍てつくような川風が砂埃を巻き上げて、縁台ばかりか明かり障子を巡らした四畳半の座敷さえも砂でざらついた。

「どうだ、佐平はお前の手を握ったりするのか」

 長兵衛はお菊が拭きおえた縁台を店の中へ運ぼうと両手で掴んだまま、屈んだ声でお菊をからかった。

「何言ってンだい。元岡っ引の娘にゃ怖くて誰も手出しなんかしやしないよ」

 怒ったような口吻でそう言ったが、お菊の物言いはどこか愛嬌がある。

 身持ちの固い娘は安心だが、いつまでもそうはいっていられない。年が明ければお菊も二十と四になる。世間では行かず後家と陰口を叩かれる齢だ。冗談半分にからかうどころではなく、本気で婿を心配しなければならない年だ。しかしお菊にその気があるのか一抹の不安があった。本人にその気がなければ強引に誰かと所帯を持たせることなぞ出来ない相談だ。

誰にも一つや二つ、人に言えないことがある。お菊の心の奥に秘めたわけがあることは初から分かっていた。だてに人間を五十年からやっているわけではない。だが、そのことを顔を突き合わせてお菊から訊き出せないもどかしさがあった。

二人は父娘のように暮らしているが、お菊は長兵衛の実の娘ではなかった。惚れ込んだお重と拝み倒すようにして一緒になり、恋女房と長年連れ添ったが、ついに子宝には恵まれなかった。

 お菊と巡り会ったのはお重が風の病をこじらせて呆気なく亡くなった寒い冬が明けた翌年のことだった。あれは年号が弘化から嘉永へと年号が変わった春先のことだ。

弘化の前は天保だが、その天保年間は天災と人災が重なった何とも暗い時代だった。ことに天保の四年と七年と九年の三度に及ぶ大飢饉は惨状というしかなかった。関八州から東北にかけて飢餓地獄の故郷を捨てた流人たちが大量に江戸の町へ流れ込み、岡っ引だった長兵衛も無宿人狩りに何度も引っ張り出された。幕府も流人たちの窮状を見かねて天保七年十月に御救い小屋を神田佐久間町河岸に建て、翌十一月には江戸四宿(品川、板橋、千住、新宿)にも建てた。

天保年間の天災とは飢饉のことだが、人災とは時の老中水野忠邦のことだ。

水野忠邦は天保十二年五月十五日に老中に就いたが、人災の始まりは奢侈禁止令などを発したことだ。松平定信の寛政改革をお手本として、質素倹約を万事に強制したから堪ったものではない。

水野忠邦の天保の改革は実質三年にも満たなかった。天保十四年閏九月十四日に水野忠邦が老中職を罷免されて失脚するまで「改革の嵐」が吹き荒ぶのを人々は首を縮めて遣り過ごすしかなかった。

ただ水野忠邦が直接江戸市中を取り締まったのではない。老中の虎の威を借りて江戸庶民に無理強いしたのは南町奉行に就任した鳥居燿蔵だった。彼は「甲斐守」を名乗っていたため、名の燿蔵と甲斐守を併せて「妖怪」と江戸庶民は侮蔑をこめて秘かに呼んでいた。

鳥居燿蔵の取り締まりは陰湿を極めた。奢侈禁止令に反するとして老舗料理茶屋が停止に追い込まれ、芸者稼業も禁止となり厳しく取り締まられた。庶民の暮らしも歌舞音曲を伴う派手な婚礼のみならず、葬儀までも豪華になってはならないと取り締まりの対象とされた。果ては着物も高直な緞子などの絹織物も『奢侈禁止令』に反するとして、商家の妙齢の娘でさえ往来で絹糸の着物を引ン剝かれたりした。当然のことながら御城下の盛り場はどこも火が消えたようになり、商家は軒並み何処も不況をかこった。長兵衛の暮らす深川門前仲町もすっかり様変わりしてしまった。

そうした陰鬱にして息が詰まりそうな御政道の本家、老中水野忠邦の失脚とともに天保年間が終わり、弘化になって鳥居燿蔵も南町奉行を更迭された。その弘化は実質三年余りで終わり、弘化五年二月二十八日に年号が嘉永へと改まった。

そうした過酷な時代が終わった弘化四年の晩秋、長兵衛は夫婦として三十年近く過ごした姉さん女房のお重を急な流行病で亡くした。やっと妖怪の野暮で腹立たしい御政道が終わって、これから夫婦でのんびりしようかと話していた矢先のことだった。

お重に先立たれて長兵衛は魂が抜けたかと思われるほど変わり果てた。すべてに張り合いをなくしたまま、野辺送りを済ませてから一月近くも戸を閉てた家の中で呆然と腑抜けていた。もはや岡っ引として数名もの下っ引たちを顎で使う気力は残っていなかった。

昼も夜も布団を被って暮らし、一月経ってやっとのこと引き戸を開けて表へ出ると、長兵衛は昼下がりの眩しい青空を見上げて目を細めた。家の中で泣き暮らしているうちに、すっかり足腰が弱ってしまったようだ。それでなくても膝の痛みにはここ数年来悩まされてきた。今では町の店先の饅頭を盗んだ悪餓鬼を追いかけることすら出来ないだろう。

女房に先立たれた孤老の岡っ引は惨めったらしくていけない。人から怖れられてこそ岡っ引のお役目も勤まるが、同情を買うようになっては年貢の納め時だ。長兵衛は初冬の空を見上げて十手捕縄を返上しようと心に決めた。そして覚束ない足取りでよろよろと永代橋を渡って八丁堀へと向かった。

芝居ならここでチョンと柝が入って幕が閉まるが、生身の人生は芝居のようにキリ良くゆかない。お迎えが来るまで人は生きなければならない。当然ながら、生きてゆくにはお足が入用だ。年老いた元岡っ引だからと、天から小判が降ってくるわけではない。

 

十手を返上したからには何かをして働かなければならない。懐の金子もお重の葬儀などですっかり使い果たしてしまったし、もとより碌な蓄えもない。暮らし向きは切羽詰まっている。確かにそのはずだが、長兵衛はお足を稼ぐ当てのないまま十手を返上してしまった。それからも長兵衛は仕舞屋に籠ったきり、無為に日々を過ごした。まるで生きる屍のようで情けないが、さりとて身過ぎ世過ぎに何をやれば良いのか見当もつかなかった。

四十九日の法事を済ませた頃から、やっと次第に人心地が戻ってきた。ふと部屋を見回すと仕舞屋が無駄に広く感じられ、余計に寂しさがつのった。絶えず心の中に隙間風が吹き込むようで、どうにも気が滅入って仕方なかった。壁や板の間や細々とした道具に沁み付いているお重の思い出が何かのきっかけで甦って辛かった。このまま泣き暮らしていてはお重に申し訳ないと思った。いっそのこと四畳半一間の棟割長屋へでも移ろう、と引っ越し先も決めずに所帯道具を始末し始めた。

一人暮らしで不要となった所帯道具を纏めて道具屋に売り払い、最後まで取っていたお重の婚礼箪笥を開けてお重の着物を整理していると、畳紙の底にかなりの小判や小銭銀が整然と並べられているのを見つけた。思わず長兵衛の目から涙が落ちた。

お重は老後の暮らしに備えてこつこつと蓄えていたのだ。岡っ引として界隈に睨みを利かしていた最盛期には、長兵衛は十人からの下っ引を使っていた。門前仲町きっての腕っこきの岡っ引と評判も高く、実入りに不自由はしなかった。下っ引の面倒はよく見たが、長兵衛の暮らし向きは慎ましやかだった。お重も贅沢を戒めて暮らしの隅々まで始末に努めた。そのため時には余りの吝嗇ぶりに些細なことから口喧嘩になることもあった。しかし長兵衛からはなんといわれようと、お重は頑なまでに老後に備えていたのだと、今になって知れた。

そういえば、ここ数年夜更けて夫婦二人が話すのは決まって老後の過ごし方だった。子宝に恵まれなかったため老醜をさらさず誰にも迷惑を掛けずに、とどのつまりは二人して死ぬ前日まで元気で暮らし、最期は今生の別れを親しい人たちに告げて、半日の患いでボックリとあの世へ行けたら良い、と話しのオチはいつも決まっていた。

そのためにも十手捕縄を返上して隠居したら、暮らしの糧に小体な茶店でも始めよう。寿命が尽きる日まで気の利いた小女でも雇って老夫婦がのんびりと過ごすのも悪くない、と長火鉢を挟んで夜長話に花を咲かせたものだ。年寄りの繰り言のように同じ話を夜ごと何度も繰り返したものだった。しかし長兵衛の隠居を待たずに、お重はさっさとあの世へ逝ってしまった。

本来『同行二人』とは御大師様と二人連れだが、長兵衛はお重と二人連れの『同行二人』で茶店を始めようと思いを固めた。

 

翌朝から長兵衛は元岡っ引の顔の広さを生かして出物を探した。門前仲町界隈の沽券は高直で手が出ないため、盛り場から離れた人通りの多い場所に狙いを定めた。すると佐賀町の自身番の書役が永代橋東詰め火除地に並び建つ床店の一つが売りに出ていると教えてくれた。さっそく見に行って長兵衛は一目で決めた。永代橋は大川河口に架かる大橋で、その袂の人通りの多さもさることながら、何よりも値段が手頃だった。

床店があるのは永代橋東詰の火除地だ。橋袂の広小路を火除地と呼ぶのは両国橋西広小路と同じだが、その広さと繁華さとでは月と鼈ほどの違いがある。両国橋西広小路には芝居小屋や見世物小屋などがあって江戸で有数の盛り場になっているが、永代橋の東詰めの火除地は猫の額ほどで、広小路とは名ばかりで通りの両側に数軒ずつの床店があるだけだ。しかも軒を連ねるすべての床店が判で押したように三間四方の平屋で、杮葺きの屋根に板囲いの作りだった。もちろん火除地に厠もなければ井戸もなく、そこに棲むことは禁じられている。しかも床店は近くで火事があればイの一番に取り壊される決まりだ。火除地とは延焼を防ぐ広場だから、そこに建てられた床店は一時的な許可に過ぎず、火事があって橋に延焼のおそれがある場合は直ちに打ち壊され、大川へ投げ捨てられる決まりだった。

長兵衛が手に入れた床店は火除地の通路を挟んだ北側、橋袂の道具屋の隣で元は古手屋だったそうだ。長兵衛が店の出物を捜していたのと、折よく古手屋の店主が店を畳もうと古着を片付けているところで、とんとん拍子に話が進んだ。

古手屋の店主が店仕舞しようとしたのは、日差しの差し込む南向きのため、商品が色褪せするのに音を上げたからだ。当初は南向きのため陽差しが店の中まで差し込んで明るくて良いと思ったが、実際に商売を始めると店の中に陽が差し込むため、店土間に吊るしているだけで古着が売り物にならないほど色褪せした。

その南に面した床店の沽券を買い取ると、長兵衛は大工を入れた。まず間口三間を向かって右から一間と半間それに一間半の三つに分けて、奥の板壁から半分までを釜場と廊下と座敷に作り替えることにした。奥行きは二分して前半分の三和土はそのまま残して縁台などを並べることにした。

左の奥から土間の半ばまでの一間半四方に床を張った。その縦横一間半の床に畳を入れて四畳半の座敷とした。茶店にとって座敷は不可欠だ。茶店は一息付くために休む所だが、店先に縁台だけあれば良いというものではない。子女にとって他行は何かと不便を伴うが、着崩れた着物や帯を直したりする座敷は欠かせない。そこで子女が帯を解いたり足を投げ出したり出来るようにと、座敷の廊下側と店先側の二面には人目を遮る明かり障子を入れた。そして奥の板壁にも明り取りのために中連窓を作った。夏には窓の明かり障子を開けると大川を渡る涼しい川風が入り、大川端に整然と並ぶ佐賀町の米倉屋敷の海鼠壁や対岸の小網町あたりの武家屋敷が見渡せる絶景が広がっていた。

着崩れを直すのと同様に、子女が用を足すのも何処でも良いというわけにはいかない。そのため正面右の一間に仕切った釜場の奥を半間ばかり空けて屋内にもう一つ壁を作り、その半間幅を厠にした。出入りには廊下を半間ほど短くした所に裏へ出る引き戸を作った。その引き戸を左へ引き開けて出た右側、つまり釜場の板壁と床店の壁の間の幅半間、奥行き一間が厠だ。ただ厠といっても開き戸をあけると二尺ばかりの高さに板床が張ってあり、その中ほどに長さ二尺に幅一尺ほどの穴と金隠しがあり、その穴の下に肥桶を置いただけの簡素なものだ。その肥桶は近在の農家が十日に一度、荷足船で取り換えにやって来る。その度にいくばくかの野菜を肥料代として置いて行く。

茶店に欠かせない釜場は厠に半間取られたため、奥行き一間に幅一間の狭苦しいものになった。廊下との境には板壁を作り、出入りには半間幅の出入り口を開けて、目隠しに長暖簾を下げた。畳二畳ほどの狭い釜場だが、店先側と横の板壁に中連窓の蔀を作って風通しを良くし、へっついの傍らに水瓶を据えた。出来ることなら荷船で売りに来る水屋から一荷四文の上水を買って水瓶を真水で満たしたかったが、商売に目鼻がつくまでは少しばかり塩っ気のする佐賀町の井戸水を手桶に汲んで運ぶことにした。

そうした細々とした造作を大工に指図していると、斜向かいで糸瓜水や紅を商う還暦過ぎの老婆が顔を出して一緒になって板に描いた図面を覗き込んだり、大工や長兵衛と何かと話をするようになった。身の丈は四尺余りと小柄な上に背中も丸くなって背格好は子供のようだが、旺盛な好奇心としゃがれた声で疲れを知らないほど饒舌に喋る老婆だった。

土間だけの古手屋から茶店へと三間四方の床店を手妻のように変える大工仕事に興味を持ち、何かと嘴を挟むうちに座敷のみならず厠まで作ると知るや「わっちにも手水場を使わしておくれ」と申し出た。火除地に厠のある床店はなく、その都度土手坂下の長屋まで足を運んでいるようだった。

そうした大工仕事の詮索が一段落すると、当然のように当たり障りのない世間話から身元調べと話題が進んだ。そして長兵衛が十手捕縄を返上した元岡っ引と知るや「頼みごとがある」と言い出した。

「元親分なら地回りの嫌がらせを何とかしておくれよ」と懇願した。

「地回りだと、どこの誰が何と言っているンだ」と、長兵衛は岡っ引の顔で訊いた。

「門前仲町の辰五郎ってゲジゲジ野郎が毎月晦日にやって来て、場所代を払えと」

と、お米は何かを恐れるように小声で答えた。

「門前仲町の辰五郎だと、あの独活の大木か」と、長兵衛は聞き返した。

 辰五郎なら餓鬼の頃から知っている。六尺近い相撲取りのような巨漢だが、門前仲町では地回りどころか、大声で啖呵の一つも切れない大人しい三十過ぎの独り者だ。普段は富岡八幡宮仲見世で用心棒のようなことをしている。その辰五郎が火除地の床店からみかじめ料を取り立てているとは驚きだった。

 やくざがシマとか縄張りとかいって冥加金を巻き上げるのをみかじめ料といった。もちろん御法度だが、無法者を取り締まるのに時にはやくざの力も借りるため、見て見ぬ振りをすることがあった。しかし本来が御法度だから元岡っ引の長兵衛が筋を通して話せば辰五郎は手出しができない。しかも気の弱い破落戸の辰五郎の暮らしが立つようにと、仲見世の肝煎に用心棒にと紹介したのも長兵衛だった。岡っ引の目の前では猫を被って仕事まで世話させたくせに、裏に回れば弱い者いじめしていたのかと思ったら腹が立った。

「どんな脅しをかけているかは知らねえが、手前の地所でもないくせに地代を払えとぬかすとは飛んでもねえ野郎だ。辰五郎に勝手はさせねえから安心しな」

 と、長兵衛はお米に言って聞かせた。

「夜に突風が吹いて、床店が一夜にして跡形もなく消えることだってあるンだぜ、」

と、辰五郎の間抜けたような声色を使って、お米は辰五郎の脅す様を演じた。

なるほど辰五郎が二、三度体当たりすればあの巨躯だ、柱は沓石から簡単にずれるだろうし板壁はばらばらに壊れるだろう。野分が吹き荒れた後のように床店が木っ端となって火除地から大川に蹴落されるのは容易に想像できた。

 床店は人が暮らすのを禁じている。人が暮らせば明かりや煮炊きに火を使い、火除地本来の意に反するからだ。だから日暮れに床店の戸締りを済ますと、銭目の品を道具箱に入れて家へ持ち帰らなければならない。それが床店商売の厄介なところだった。

「辰五郎には金輪際この火除地に近づかないようにさせるぜ」

 と、長兵衛は胸を叩いた。

 誰でもこの世に頭のあがらない人の一人や二人はいるものだ。辰五郎の場合は長兵衛と仲見世の肝煎だ。その夜、長兵衛は門前仲町の肝煎を訪ねて辰五郎を呼び出して、きっちりと話を付けた。

辰五郎の一件もあって、大工との打ち合わせで火除地へ何度か来るうちにお米と気軽に話すようになった。住処について門前仲町から通うのは遠いと相談したところ、お米の誘いもあって長兵衛は年内に門前仲町の仕舞屋を引き払って、永代橋からそれほど離れていない北川町飛地の徳右衛門店へ居を移すことにした。お米もその徳右衛門店の北筋の奥から二番目の家に独りで暮らしていた。

お米の夫は腕の良い錺職人だったが、十年以上も前に心の臓の病で亡くなったそうだ。それを汐に一人娘が嫁いだ黒江町の紅粉屋の当主が一緒に住んではと誘ってくれたが断ったという。たまに会うだけなら嫁ぎ先の姑も一緒に世間話に興じる話し好きな老女でいられるが、一緒に暮らして二六時中鼻突き合せていれば、どうしても相手の嫌なところが見えてくるし鼻につくものだ。老女二人の不仲が元で娘夫婦の間に隙間風が吹くようになっては、それこそ元も子もない。

その代わり、紅粉屋で良く売れるが値の張らない糸瓜水を『紅屋』から仕入れることにして、売りに出ていた火除地の床店の沽券を手に入れてもらった。

「お月様は遠く離れているから仰ぎ見て安穏な心持がするのさ。あれが夜通し目の前にあった日にゃ、鬱陶しくていけないだろうよ」

 と言って、お米は大口を開けて一人で笑った。

 人は誰しも心にいくばくかの寂しさを抱えている。が、同時に我侭の身勝手さも棲み付いている。若いうちは世間が広く見えて、その分だけ心の中を覗き込むことが少ないが、齢を重ねるとそうもいかなくなる。すると不平や不満が無遠慮に口をついて出るようになる。年寄は何かと厄介だ。

 

 年内に茶店の支度をすべて整え、満を持して正月明けに店を開けた。

 店開きの初日から松が取れる頃までは門前仲町の顔見知りが来てくれて足の踏み場もないほどだった。急遽お米さんが自分の店を閉めて手伝うほどだったが、それも正月七日までのことだった。顔見知り客が一通り顔を出すと、その後はぱったりと客足が途絶えた。それでも当初は一見客がぽつりぽつりと来ていたが、やがて一月も下旬になると誰も寄り付かなくなった。

老夫婦が夢にまで見た茶店だったが、実際に幟を上げて始めてみると隠居仕事というわけにはいかなかった。客がつくまでは出費を抑えて一人で頑張ろうと始末したのが裏目に出たのだろうか。茶店にしては女っ気女がないせいかも知れないが、なかなか客が寄り付かなかった。たとえ店先の縁台に腰を下ろしても橋袂の気忙しい往来のせいかゆっくりと寛いでくれなかった。わずかお茶一杯八文を頂戴するのも、饅頭一個三文のお足を稼ぐのも、傍目に見るほど甘くないものだと思い知らされた。

 それでもたまに通りすがりの客が来ることはあっても、茶店の主人が長兵衛だと分かると急に落ち着きをなくしてそそくさと帰って行く。元岡っ引の老爺が独りで切り盛りしている茶店に長居するような客は滅多になく、仕入れた団子や饅頭が夕刻には無残なほど売れ残った。

茶店を始める前は足腰にいくらかは自信があったが、いざ始めてみると一日中立ったり座ったりの繰り返しと慣れない客商売の気疲れから、日が傾くころには物も言いたくないほどくたびれ果てた。いつ店を閉めようかと思いつつ、長兵衛は日課のように毎朝店先に幟を上げて土手下の佐賀町飛び地の長屋の井戸から水を手桶に汲んで来て湯を沸かし、夕暮れには稼ぎのないまま灰ばかりになった釜の下を始末して、足を引き摺るようにして帰る日々を過ごした。

人知れず悶々と日々を重ねている間にも、いつしか季節は陰鬱な冬から明るく晴れやかな春へと移った。世間ではやれ向島長命寺の花見だ、やれ墨堤の桜だと浮かれているが、長兵衛の茶店は相変わらず閑古鳥が鳴いていた。ただ貝原佐内と二人の手先だけは町廻りの帰りの夕刻に立ち寄ってくれたが、それすらも商売の邪魔をしているとしか思えなかった。八丁堀同心が縁台に腰を下ろしているような茶店に、気軽に立ち寄る客はよほど喉の渇いた者か、八丁堀に親しみを覚える酔狂しかいない。

桜吹雪の舞う春の昼下がり、長兵衛は釜場から出て店裏の石組の上の爪先立つようなわずかな空地に佇んだ。そして初夏を思わせる日差しのきらめく川面に花筏が流れるのを眺めて小さく溜息をついた。誰か小女を雇って手伝わせるほど稼ぎの上がる商売でないのは目に見えているし、お重が残してくれた蓄えもすっかり底をついてしまった。質の悪い烟る安炭を使っているが、それでも幾許かのお足は入用だ。明日の炭をどうしたものかと思案して溜息をついた。

 八方塞だ、とわずかに頭を振って黒襷を外した。呆然と肩を落として俯いていると、いつしか紐を両手で伸ばしてそれをじっと見詰めていた。ふと我に返り「首括るなぞ、なんてこった」と長兵衛は縁起でもねえ、と首を強く振った。

自分を奮い立たせるべく大きく息を吸い込んで眦を決して、春霞と桜色にかすむ墨堤へ昂然と顔を上げたが、それも長くは続かなかった。もう一度ため息を吐くつもりで肩の力を抜くと、すぐ隣から「ふっ」とかわいい溜息が聞こえた。

 首を巡らすと幅一尺ばかりしかない店裏に年の頃二十と二、三の若い女が立って、先刻までの長兵衛と同じように遥か夕暮れの大川に視線を泳がせていた。惚れた男に袖にされ思い詰めているのか、すっかり気落ちしている様は肩を落とした姿から見て取れた。

 五尺五寸の長兵衛より一尺ばかり低い身の丈に、何度も水を潜った茶江戸縞の地味な着物に、やはり使い込んだこげ茶の帯を締めている。横顔のため顔立ちまでは見て取れないが、器量は並み以上と思われた。ただ、鬢の解れが目立つ銀杏返しや顔の何処か薄汚れた印象が気になった。

 親切心を起こして、長兵衛は丸まっていた背筋を伸ばし表情を和ませた。つい今しがたまでグウの音も出ないほど塞ぎ込んでいたのだが、そこはお節介焼きの江戸っ子だ。

「どうしたい、」と声を掛けようとわずかに左手を上げた。がその刹那、待っていたかのように若い女は胸元に両手を合わせて大川へ身を翻した。

「あっ」と声を出す間もなく、幻でも見ているかのように女はゆっくりと弧を描いて、二丈ばかり下の花筏に降り立つかのように見えたが、花弁の海に吸い込まれて消えた。

「大変だ」との声が喉元で固まり、金縛りにあったかのように長兵衛は手を大川へ差し伸べたまま、大きく波紋状に広がる花筏の揺れを呆然と見詰めた。

 長く思えたが、それはほんの一瞬のことだった。長兵衛はすぐに金縛りから解けたが、強い思いと急ぐ気持ちが喉の奥で鬩ぎ合って声が塞き止められた。ただ口を大きく開けて、子供のように両手をばたばたさせた。幸いにも近くを下っていた醤油や味噌樽を積んだ荷足船がすぐに岸辺へ漕ぎ寄せた。そして舳先に立つ船頭が花筏の中へ長柄の鉤を差し入れ、帯に鉤をかけて舷側に引き上げた。

「目の前を天女が降って肝が冷えたぜ。足でも滑らせたかい。爺さんの身寄りかえ」

 大声で聞かれると、長兵衛は即座に「ああ、そうだ、」と応じた。

咄嗟に「そうだ」と返答したが、なぜそう答えたのだろうか。長兵衛にしっかりとした考えがあってのことではなかった。ただ若い女が身を投げるのには必ず深いわけがある。しかもここで長兵衛が「そうだ」と返答しなければ、若い女は自身番へ連れて行かれる。すると、どうなるか。

女が身投げして死に損なった場合、自身番で曰く因縁を根掘り葉掘り訊かれ取調書に残された挙句、罰として岡場所などへ下げ渡されるのが決まりだ。世を儚んで身投げした女にとって息を吹き返した時から、この世の地獄が始まるのだ。

身投げでもそうだが、心中で生き残った場合はもっと悲惨だ。男女とも死にきれなかった時は日本橋の高札場に三日晒された後に士農工商以下の身分に落とされる。どちらか一方だけが生き残った場合は死罪とされた。

そうした過酷な掟が長兵衛の頭の中にあったわけではない。ただ深川門前界隈を縄張りとしている岡っ引は長兵衛が下っ引に使っていた弥助だ。足を棒にして働く気の良い男かと思って跡目を譲ったが、岡っ引になった途端に強欲で冷淡な一面が顕になった。立場によって人は変わるものだが、自分に見る目がなかったと後悔したものだ。

 弥助に若い女の詮議を任せるわけにはいかない。嵩にかかってどんな因縁を吹っかけてくるか分かったものではない。掟に従って岡場所へ堕すより、料理茶屋や水茶屋の仲居へ口を利いてヒモに収まるか法外な斡旋料をせしめるか、悪くすると弥助が口利きをして岡場所へ平気で売り飛ばしかねない。いずれにせよ、自身番に渡したら女は死ぬまで苦界から抜けられないのだ。

 荷足船が橋の下へ入ってはじめて我に返り「大変だ」と、叫びながら長兵衛は茶店の裏から人の行き交う往来へ大慌てで飛び出た。そして人込みを縫うように身を翻して火除地の端まで下駄を鳴らして急いで行き、石段を駆け下りようとして見下ろした船着場の騒ぎに驚いた。

床店の切れた火除地の端から石組の壁面に沿って、踏面三尺に幅二間の大石段が大川の水面の下まで続き、その大石段が桟橋の代わりの船着場と荷卸し場になっている。廻船で江戸へ運ばれてきた荷のうち、深川へ送られる味噌や醬油や酒などの品々は石川島沖で廻船から艀に乗せ替えられて橋袂の階段下に下ろされる。だから常に何人かの仲士がいるし、御城下へ行く客待ちの猪牙船の船頭たちがたむろしている。

長兵衛が石階段へ駆け寄り下を覗き込んだ折には、早くも猪牙船の船頭たちが荷足船の舳先を抑えていた。艀の到着を待っている仲仕たちも荷足船の舷側を手繰り寄せて横付けにして、他の仲仕が持ってきた戸板に女を手際よく乗せた。長兵衛が声をかける間もなく、戸板に乗せられた女は石段の上の長兵衛の目の前まで運び上げられた。

「済まねえ、店の座敷へ運んでくれねえか」

 長兵衛がそう言うと、仲仕たちは「へい」といって神輿でも担ぐようにして運んだ。

茶店の奥座敷に女を戸板から下ろすと、仲仕たちは何事もなかったかのように引き上げた。長兵衛の傍らで見守っていた界隈の鳶の親方が「縁戚の娘さんかい、飛んだ災難だったな」と長兵衛に声を掛けた。長兵衛は上の空で「ああ」と返した。

若い女を茶店の奥座敷に寝かせたものの、実の処長兵衛はどうすべきか狼狽えていた。

永代橋の袂で商売をしていると年に何回かは身投げに出くわす。岡っ引として可哀想な土左右衛門も何体か検分したこともある。しかし今までは長兵衛とは関わりのないところで誰かがケリを付けていた。だが今回はとっさに長兵衛が親戚面をして身柄を引き受けたものの、どのようにこの始末をつけたものか戸惑った。強面の悪党の相手なら怯むことはないが、若い女にどう声をかけたものか見当もつかない。

座敷の女はすでに意識を取り戻しているのだろうが、恥ずかしさからか目を瞑り横たわったまま身を縮めていた。どうしたものかと、長兵衛と鳶の親方は顔と顔を見合わせた。茶店の様子を窺っていたのか、斜向かいの床店で糸瓜水を売っている老婆のお米が身投げと察して様子を見に来てくれた。カラカラとちびた下駄を鳴らして入って来ると、

「ずぶ濡れの娘を前にして、何を老いぼれ爺の二人が雁首揃えて、障子を開けっ広げた座敷の前にツッ立って眺めてるンだい。それともナニかえ、店先に群がってる野次馬衆と一緒になって、娘の着替えをお前さん方は特上席で見物しようとでも思ってるのかえ」

 そう言いながら、お米は長兵衛と鳶の親方を追い立てるような仕草をした。

その手に風呂敷包みを持っていた。おそらくお米の着替えでも入っているのだろう。

「なんて言い草だい。儂らは心配してるだけだぜ」

 と、鳶の親方は口を尖らせたが、きまり悪そうに首を肩の間に埋めた。

 長兵衛も叱られた小僧のようなきまり悪さを覚えたが黙って踵を返した。そして店先の野次馬たちに向かって「見世物じゃねえ、早く行きな」と怒鳴って鬱憤を晴らした。そうしている間にも、お米は店土間から廊下へと明かり障子を閉てて回った。

その後に障子を閉て回した座敷に入って、お米が二言三言声を掛けていたが、着替えの手伝い終えたのか、間もなくしてお米は濡れた着物を風呂敷に包んで廊下側の障子から出てきた。女は一人で髪を結い直したり、身繕いでもしているのだろうか。座敷から衣擦れの音が洩れていた。

「わっちぐらいの齢になると大抵のことにゃ驚かないけど、若い者は思い詰めるからねえ」

 囁くようにそう呟いて、お米は歯のない口を開けて寂しそうに笑った。

「身投げとされて自身番に引っ張られては大変だから、お米さん、なんとかあの娘の身の上を聞き出してもらえないか。事と次第によっちゃあ儂が一肌脱いでも良いが」

 と、長兵衛はお米に頼んだ。

 若い女が身投げするとは、よほどの事情があるに違いない。その「よほどの事情」とは若い女の場合は色恋沙汰と相場は知れている。しかし惚れた腫れたのゴタゴタがあったにせよ、身投げするとは剣呑だ。あるいは勘当されて帰る当てがないのかも知れない。もしそうなら身元引受人として「人別」を引き受けないでもないが。

「聞いてみなけりゃどんな事情があるか分からないけど、長兵衛さんが一肌脱いでくれるのならこれほど心強いものはないよ。なにしろ元を正せば十手持ちだからね」

 そう言って何度か頷いて、お米は感心したように長兵衛を見上げた。

 娘に行く当てがなければ自分が身元請人になると決めたが、長兵衛は不意に戸惑ったようにお米を見詰めた。長兵衛が棲んでいる家はお米に勧められて引っ越した四畳半一間の棟割長屋だ。以前の行灯建ての仕舞屋なら構うことはないのだが。

「他のことは何でもないが、ただ一つだけ困ることがある」

と長兵衛は言って言葉を濁した。

「ナニ、他でもねえ。あの娘に帰る家があれば何でもないが、もしものときはあれだ。必要とあれば儂が身元を引き受けるし、人別もというなら養女にしても良いが、夜は困るな」

と言いながら、長兵衛は沈痛な顔をして腕を組んだ。

夜になると棟割長屋は一間しかないため、若い女と一つ部屋で寝ることになる。

「年は取っているが儂も男だ。養女にした若い女と儂が一つ部屋で寝たンじゃ、世間が五月蝿いだろうぜ。済まねえが、夜はお米さんの家にあの娘を寝かせてやってくれないか」

と頼んだ。お米はふと汚いものでも見るような眼差しをして、

「その齢にもなってお前さんはまだ男かい、いやだねえ」と小さく笑った。

「いやいや、儂が男か男じゃないかはどうでも良いンだ。ただ世間様が、」

 と長兵衛が憮然として言い募っていると、障子が静かに開いた。長兵衛とお米は二人して開いた障子へ振り向いた。二人の視線に戸惑ったように端座した女は

「大層ご迷惑をおかけしました」

 と言って、座敷に両手を付いて頭を下げた。

お米の地味な何度も水をくぐった藍縞に着替えると、女の若さがことさら際立った。水に濡れ根の崩れていた銀杏返しを解いて、漉き上げて櫛巻きにしていた。うなじの解れ毛が差し込む明かりの中で寂しそうに震えた。

「着替えさせたが濡れた着物を乾かさなければならないし、娘さんも春先の水練で体が冷え切っているだろうから、これから松の湯で体を温めてもらうよ。済まないけど、わっちも一緒に行くから店仕舞をお願いできないかね」

 と、お米は長兵衛に言った。

「ああ、いいとも。戸締りは引き受けたから心配するねえ。売り物は後で届けるから、さっきの件、よろしく頼むぜ」

 と、長兵衛はお米に小さく頭を下げた。

 

 大川から拾い上げた女がお菊だった。質素な着物に化粧気のない素顔に、整えられたことのない地蔵眉にくっきりと澄んだ双眸をしていた。どこか田舎娘を思わせも面影から、お菊がどんな素性の女なのか、長兵衛は一目見ておよその見当がついていた。

その日の夜も更けた頃にお米がやって来た。町内の湯屋へお菊と一緒に行った折に、お米が聞き出したお菊の身の上話を長兵衛の耳に入れに来てくれた。

長兵衛が見当を付けた通り、お菊は北関東の寒村の農家の出自だった。後にお米がお菊から問はず語りに聞き出した話によると、お菊は天保七年の飢饉の折に、口減らしのために故郷の末寺の紹介で他に十二歳の少女と江戸へ奉公に出されたという。まだ十歳になったばかりだったが、村娘の多くが女郎として女衒に売られたことに比べれば、お菊は幸運だったと思わなければならない。

浄土真宗本願寺派の村の寺の住職に連れられて、お菊は小さな風呂敷包み一つを持たされて、二歳年上の娘と一緒に築地本願寺へ出てきた。村の寺にあった人別を築地本願寺に移し、本願寺の世話でお菊は日本橋の呉服商近江屋へ女中奉公に上がった。人別とは宗門人別帳といって今でいう戸籍のことだ。江戸時代は戸籍の管理を寺が行っていた。

同じ村から出てきた十二歳の子が江戸橋袂の小料理屋へ奉公に行ったのと比べれば、自分はまだマシだと思った。お菊は酒の席が好きでなかったし、酔っておだを上げる男は見るだけでも怖かった。

しかし小料理屋よりマシと思われた近江屋での女中奉公はお菊の淡い期待を裏切った。奉公に上がった日から過酷を極めた。朝早くから夜遅くまで鬼瓦のような女中頭に追い回された。水仕事で右手の平の付け根が盛り上がり洗濯胼胝ができた。冬はあかぎれで指の節々がばっくりと割れた。しかしお菊は歯を喰いしばって耐えた。音を上げたところで帰る家は何処にもないし、情けをかけてくれる人もいなかった。

ただ、お菊は朝昼晩に頂戴する一汁一菜の粗末な膳にもかかわらず、輝くばかりの銀飯が出るのに目を見張った。村で米を食べるのは余命幾ばくもない病人だけで、それも顔が映るほど薄いお粥でだった。普段の暮らしで村人は粟や稗などの雑穀や芋などを食べた。お菊は銀飯が食べられるだけで、真冬の雑巾がけも山ほどの洗濯も辛抱できた。

田舎に残った両親や弟たちが飢餓地獄から生き延びられたのか、というとそうでもなかったようだ。不幸にもその二年後の飢饉で村は全滅したと聞かされた。当時の記録によると、田植えをするのに綿入れを着たほどの寒い夏だったと記されている。深刻な冷害に見舞われ、秋を待たずして餓死した遺体が村の家々や道に転がり、生き残った村人も逃散により村が遺棄され『潰れ』た村が関東から東北に到るまで各地にみられた。

お菊の村も天保九年の飢饉で『潰れ』たと聞かされた。あるいは生り物の不作により飢餓地獄に陥る前に、村人が一斉に村から逃亡したのかも知らない。それを『逃散』と呼んだが、飢餓難民が浮浪人となって江戸へ流れ込み、当時の江戸は寺社といわず辻といわず浮浪人であふれていた。それに業を煮やした老中水野忠邦は『人返し令』を発して、浮浪者を捕縛しては出身の村へ帰農させたほどだ。

 

お菊は思い出しただけでもわが身の哀れさに涙が出るほどの苦労を何年も重ねて一人前の女中になり、やがて年頃になって店の手代と人目を忍ぶ仲になった。手代は平治といって、お菊が奉公に上がった年の二年前に、十三で近江から近江屋へ奉公に上がった。お菊が店の奥で女中頭に追い回されている時、平治は表で小僧として番頭や手代から追い回されていた。二人は店の奥と表に分かれているため、滅多に顔を合わせることはなかった。

しかしやがてお菊が台所で給仕を任されるようになると、手代に上がったばかりの平治と顔を合わせるようになった。だが顔を合わせるといっても言葉を交わすわけでもなく、膳の支度をお菊がしていた間、平治たちは黙って正座して待っているだけだった。

しかし若い二人にはそれだけで十分だった。存在を目で見るだけで胸が高鳴った。だが胸に灯った恋心ほどに、この世は甘くなかった。近江屋は上方に本店を置く江戸出店だった。店の者たちも近江近郊の在の出自だった。

江戸出店には厳しい仕来りがあり、近江屋では奉公人同士の色沙汰はご法度とされていた。近江屋の奉公人は適齢期を迎えると『国帰り』といって一月ばかり故郷へ帰って在の娘と所帯を持つことになっていた。親の決めた国許の娘と慌ただしく祝言を挙げると、再び江戸出店で十数年間をお礼奉公として単身で過ごした後に、近江屋から暖簾分けにより独立する仕来りだった。祝言を上げた血気盛んな若者も、新妻と過ごすのは十日ばかりで江戸店へ単身で戻らなければならなかった。

お礼奉公の十数年間は単身で江戸の出店で過ごすのが決まりだ。だから夫婦生活は大阪本店への使いの途次に、郷里に立ち寄り一晩過ごすだけだった。年に一度あるかないかの夫婦生活で十数年を過ごすという、あたかも修行僧のような厳しい仕来りだった。その禁を破って江戸の女と不始末を仕出かしたり、郷里の娘以外の女と所帯を持つなどした場合は『外れ者』と呼ばれて身一つで放逐されるのが掟だった。

 そうした厳しい仕来りを承知の上で、平治は郷里へ旅発つ前夜に必ず独りで帰ってくると誓った。そしてお菊と契って江戸を後にした。

お菊は平治の言葉を露ほども疑わなかった。十日もすれば必ず平治が迎えに来ると信じて疑わなかった。しかし十日はおろか、その日から音沙汰ないまま一年はあっという間に過ぎた。そして次の年も四季が慌ただしく過ぎ去ったが、平治からは何の音沙汰もなかった。色香匂うばかりの娘もいつしか年増といわれる節目の二十歳を過ぎた。薄暗い店の奥で仕事に追われる日々を過ごしていたが、三年目の当日に平治との約束に見切りを付けた。そして暇乞いを願い出たお菊は追われるようにして十三年間も奉公した店を出た。

だが近江屋を後にしたところで、お菊に行く当てはない。小さな風呂敷包みを一つだけ小脇に抱えて、二日ばかり一人で江戸の町をさまよった。店を出る際に一文も持っていなかったため宿に泊まることも叶わず、夜は人影のない祠で空腹と寒さと恐怖に震えて過ごした。そして三日目の夕暮れに江戸湾に臨む永代橋の袂まで来ると、哀しみと絶望のあまり大川へ身を投げたのだった。

 

 翌朝早く、長兵衛は畳皴のついた羽織を着ると「お菊の件を片付けて来る」とお米に告げて出掛けた。犬や猫の仔を貰うわけではない、人一人の身元を引き受けるとなると、それなりの手続きが必要だ。

渡橋代二文を橋袂の笊に投げ入れて永大橋を渡り、船番所の前を通って真っ直ぐに大通りへと向かった。御城下の地理にあまり詳しくないため、なにはともあれ日本橋へと繋がる大通りに出て、それから西へ下る。近江屋は日本橋に近い室町通から横へ入った脇道沿いにあると聞いていた。

まずは近江屋を訪ねてお菊を預かっていることを告げなければならない。今のままなら拐かしと何ら変わらない。出来ることならお菊が近江屋を出た理由を店主の口からも聞かなければならない。もしかするとお菊は店に飛んでもない不義理を仕出かして出奔したのかもしれない。もしもそうだったら世間様に顔向けが出来るようにケリを付けなければならないし、事件絡みなら八丁堀の旦那の手を借りなければならないかも知れない、と不安な思いを抱きつつ近江屋へ向かった。

たとえお菊が奉公先を出た理由がお米に語った通りだとしても、身元請人の近江屋の了解を得て人別のある築地本願寺に願い出て、人別の送り状を作ってもらわなければならない。その送り状があってこそ、深川の長兵衛の檀家寺へお菊を長兵衛の養女とし人別を移せるのだ。

今はまだ身を投げた直後で、お菊は行く先々のことまで頭が回らないだろうが、人別がなければ帳外者(無宿人)となり首がないのと同じだ。これから深川で暮らすのなら、築地本願寺から長兵衛の檀家寺へ人別を移しておかなければならない。お菊の同意を得たわけではないが、長兵衛は昨夜一晩考えてそうすることが一番良いと思った。

 早朝にもかかわらず、御城下の大通りは掃き清められていた。両側の軒を連ねる商家は短暖簾を下げ、店先を大勢の人が行き交っていた。夜明け前に活況を呈す魚河岸は店仕舞いしているが、ほかの呉服屋や乾物屋や刃物屋などが大戸を開け短暖簾を出している。永代橋東袂の火除地の人込みも大概だと思っていたが、それとは比べ物にならない賑わいだ。長兵衛は人込みを縫うようにして日本橋三越本店の前を通って、室町通りから一筋入った本小田原町へと足を向けた。

近江屋江戸出店は間口三間ほどの小体な店だった。当時の呉服店は担ぎ売りが主で、手代衆が反物を入れた行李を背負って顧客の許へ出掛けて商う。そのため朝早くから注文の反物を行李に詰める作業に追われる。長兵衛が訪れた時は数名の手代たちが店の板の間で帳面片手に反物を行李に詰めていた。

近江屋は男衆で切り盛りしているようで、店土間にも上方訛りの男たちが忙しそうに働いていた。長兵衛は店先にいた小僧に店主に会いたいと来意を告げた。小僧が小走りに店へはいり、帳場格子に座る小柄な番頭に一言いうと、番頭は座ったまま長兵衛を値踏みするように上目で睨んでから、傍にいた手代に応対を命じた。

「どうぞ、こちらへ」

 若い男が出て来ると、長兵衛を土間の続きの長い土間の通路を奥へと導いた。

 奥庭に面した部屋へ案内され、沓脱石から縁側に上がり部屋へ入った。そこには細面の五十年輩の男が座っていた。頑固そうな目鼻立ちの男は江戸店主人の清右ヱ門と名乗った。

「お菊のことで来られたようで」

 と、清右ヱ門は長兵衛の人品を値踏みするような眼差しで見詰めて上方訛で聞いた。

「三日前に暇を頂戴したいと申し出まして。思い止まるように言葉を尽くしたのですが。夜になっても帰らず行く先も分からず、どうしたものかと案じていたところです」

 清右ヱ門の言葉の端々には店の不祥事にしたくない思惑が滲んでいた。

しかし、それかといってお菊の出奔をいつまでも隠し通すことは出来ず、近江屋が身元請人として不始末を問われかねない。さらには人別引受の本願寺へどのように届け出れば良いか思い悩んでいたようだ。

 商家の女中奉公はお仕着せと三度の食と寝るところは心配ない代わりに無給だった。盆と正月に僅かな小遣いを頂戴する他に手当は一文もない。ただ女中が年頃になって嫁入りする際に商家が親代わりに嫁入り支度をすべて整えるのが決まりだった。

近江屋はお菊の身元請人となり女中として十年以上も奉公勤めさせた。普通に暇を出すのなら嫁入り支度に相当する金子を与えるのが世間並みだ。しかし手代と割りない仲になった女中に嫁入り支度相当の金子を出すと他の女中に示しがつかない。だから一銭も与えず身一つで路頭に放り出したが、お菊が何かを仕出かせば身元請人の近江屋もただでは済まない。そのお菊が身を寄せた先が判明して、清右ヱ門が傍から見ても明らかなほど安堵の色を浮かべた。

 長兵衛はかつて南奉行所同心貝原佐内の配下として十手捕り縄を預かっていたことと、今は永大橋東詰の火除地で茶店をやっていることを告げた。その上で近江屋に差し障りがなければお菊を長兵衛の養女にして、人別を深川の寺に移したいと申し出た。

 長兵衛の申し出に清右ヱ門は露骨なほど喜色満面に相好を崩した。そして厄介払いが出来たとばかりに、身を乗り出して「実は」と内輪話を始めた。

「実は、お菊は手前どもの店の手代と割ない仲になっていました。ご存知の通りこの近江屋は上方に本店を置く江戸出店で、奉公人が勝手に嫁を娶ることは出来ない決まりでして。奉公人は江戸の出店で十年間、小僧から手代まで勤めて仕事を一通り覚えてから、郷里に戻って郷里の娘を嫁に迎えるのが仕来りでございます」

 そこまで言うと、長兵衛の理解が追い付くのを待つかのように言葉を切った。

そして清右ヱ門は古年増の女中が持って来たお茶を一口啜った。

「生木を裂くように、二人の仲を引き裂いたのは手前です。非情な人間だとお思いでしょうが、それが近江屋の掟で御座います。嫁とりで郷里の近江へ帰った平治を二度と江戸の出店に戻さないように、と本店に書き送っていますゆえ、お菊が何年待とうと、平治が近江屋本店から出奔しない限り、江戸へ戻って来ることはありません」

 そう言って、清右ヱ門は手に持っていた湯飲みを茶托に置いた。

「嫁取りの後、十数年間のお礼奉公を勤めあげると暖簾分けか、それなりの金子を持たせて故郷へ帰って嫁や子達と暮らすかを、選ぶので御座います。ただ、近江屋の掟を破った者は身一つで店を追い出され、近江屋のみならず同業者にも回状を回されて、生涯上方の呉服株仲間の店から閉め出されるのです」

――だから何年待っても平治が江戸へ戻って来ることはない、と清右ヱ門は目顔で言った。

 なるほど男所帯の江戸出店の規律を守るにはそれ相応の非情さも必要かもしれない、と長兵衛は小さく頷いた。しかし、それなら話が早いと長兵衛は身を乗り出した。

「それではお菊の身元請人を近江屋さんから手前に変えて、手前の養女として人別を移しても近江屋さんに異存はないということで、よろしいでしょうか」

 と、長兵衛は確かめるように見詰めた。

「はい。手前どもの店を出奔したお菊の身元請人を近江屋のままにしておくのは定法に背くもの。身元のしっかりとした長兵衛さんなら、手前どもも願ったり叶ったりです」

 清右ヱ門は厄介の種を一つ片付けた、とでもいうかのように安堵の笑みを浮かべた。

「それではこれで、」と、長兵衛が腰を上げようとすると、

「番頭の徳兵衛を付けますので、請人の件と人別の手続きに、さっそく番頭と築地本願寺の人別役人の許へ行って下さい」

 そう言うと、清右ヱ門は縁側に控えていた手代に「徳兵衛にそのように伝えなさい」と命じた。そして用件は済んだ、とでも言いたげに清右ヱ門は腰を浮かした。

 徳兵衛は清右ヱ門より年嵩に見える痩身短躯の男だった。若い頃から担ぎ売りで鍛えたのだろう、やや腰が曲がりかけているが、足腰は矍鑠としていた。無駄口は一切きかず、徳右衛門は築地本願寺までの一里余りの道を長兵衛の先に立って歩いた。

 築地本願寺の境内へ入ると、番頭は勝手知ったように宗門人別改所へ連れて行った。そこで町役人立ち合いのもと、番頭がお菊の身元引受人の変更を申し出て近江屋から長兵衛に変えた。その書面を付して長兵衛の「養女」として長兵衛の人別に書き加える旨の人別送状を旦那寺宛に書いてもらった。これでお菊は晴れて長兵衛の養女となり、長兵衛の人別にお菊が加筆されることになる。

 長兵衛はその書状を押し頂いて懐に入れ、番頭に頭を下げた。

「さっそくお計らい頂いて誠に有り難いと、御店主殿にお伝え下さい」

 そう言うと、長兵衛は急いで深川へと引き返した。

 もちろん旦那寺の永代寺へお菊の人別の送状を差し出して、町役立会いの許で養女に加筆しなければならない。そのために朝からはるばると御城下へ出掛けたのだ。

深川にとって帰ってお菊の人別を自分の人別に養女と書き入れたら、せめて昼からでも茶店を開けなければならない。養う家族が出来たからには客の不入りを嘆いても始まらない。とにもかくにも茶店を開けて日銭を稼がなくてはならない、とばかりに着替えると店へと向かった。昨日まで長兵衛に憑りついていた貧乏神が嘘のようにきれいさっぱりと落ちていた。

 しかし店を開けても急にお客が都合良くやって来るものでもない。お客がいないなら埃まみれの店や縁台をきれいに拭いておこうと、長兵衛は元気に掃除を始めた。大川から汲み上げる水はまだ冷たいが、良く絞った雑巾で畳の座敷までも一心に拭いた。

「おや、どういう風の吹き回しだえ。難しい顔をして往来を睨み付けるだけだったのに、今日は襷をかけて掃除かい」

 斜向かいから眺めていたお米が声をかけてきた。

「おうよ、この年になって養う娘が出来たからには、老け込むわけにはいかねえ。もう一踏ん張りしなきゃなるめえよ」

 そう言いながら、長兵衛は少し照れたような笑みを浮かべた。

 春の陽射しのように心が浮き浮きした。自分一人の身過ぎ世過ぎのためでなく、人のために生きるということが嬉しかった。長兵衛の中でなにかが吹っ切れていた。

 

 二日ばかり、お菊はお米の家に籠って塞ぎ込んでいた。

 長兵衛もお米も余計なことは何も言わず、お菊の気が済むまでそっとしていた。

二日目の夕刻に長屋へ帰ると、お米の家も長兵衛の家もきれいになっていた。十の齢から働いてきた体は部屋に籠り続けるのに向かなくなっていたようだ。そのうえ若さはしなやかな若木のように、何かを切っ掛けに立ち直るものだ。お米がどんなおまじないを掛けたか知らないが、三日目の朝に井戸端で長兵衛が顔を洗っていると、お菊は気後れしたように小声で挨拶をした。そして四日目の朝には長兵衛の後を追うように、お米と連れ立って永大橋詰の床店へやってきた。

恥ずかしそうな顔をして店先に立つお菊を見つけて、長兵衛は目を見張った。薄く紅を引いたお菊の顔は目鼻立ちがすっきりとして垢抜けていた。お米の若い頃の着物か、千本縞の華やかな衣装を纏ったお菊に長兵衛はしばし呆然と見とれた。しかし長兵衛はハッとしたように気を取り直すと、

「勝手に自分の一存でお菊の身請人とし、人別も「養女」として深川の寺へ移した」

と、断りを入れた。

するとお菊は被りを振って涙を浮かべ、深々と頭を下げた。

「いいえ、飛んでもございません。お礼を申すべきは私でございます。菊は近江屋を追われて、身の置き所は何処にもございませんでした」と、涙声で語った。

 その言葉を聞きながら、長兵衛は大きく二度三度と頷いた。

この江戸で近江屋以外に行き場のないお菊は帰らぬ男を待ち侘びて針の筵の近江屋で三年も耐え忍んだ。しかしついに近江屋の奉公人の氷のような視線に耐えられなくなって飛び出した。おそらくそうなのだろう、と長兵衛は思い描きつつ何度か頷いて「儂の養女として人別届をしたが、それで良かったンだな」と念を押した。傍らで訳知り顔で聞いていたお米も目頭を押さえた。

 お菊が茶店で働くようになってすべてが変わった。

まず常連の客がついた。手妻でも見ているかのように橋袂を行く人たちが縁台に腰を下ろすようになった。そして子女が座敷で一休みするようになった。その女客の多くは富岡八幡宮に参拝しての帰りで、橋下の船着場から御城下へ行く猪牙船の船頭待ちだった。

念願の水も塩っ気のある佐賀町の井戸水ではなく、水屋が御城下から運んで来る上水に変えたため、お茶が美味いと評判が立った。さらに砂埃で薄汚れていた茶店も掃除が行き届き、入り小口の柱の竹筒の一輪挿しに季節の草花が飾られるようになった。

女っ気があるのは良いものだ、と長兵衛の顔も自然と和んだ。お菊は独楽のように良く働いたが、少しばかり度が過ぎていた。奉公先で古い女中からよほど仕込まれたのだろう、長兵衛が止めなければ倒れるのではないかと思われるほど休むことなく健気に働いた。

燕が低く川面を飛び交う頃には永大橋袂の長兵衛の茶店は朝から客で賑わい上々吉になっていた。商売は順調になると評判が客を呼び、益々良い方へ転がりだすようだ。お菊が店に出るようになると、それまで素通りだった八丁堀の旦那まで町廻りの帰途に立ち寄るようになった。

貝原佐内は往来に面した縁台に腰を下ろすと、長兵衛は二人の手先に釜場で休むように声を掛けた。手先が釜場で休んでいる間、長兵衛が貝原佐内の相手をした。

「長兵衛、良い看板娘を見つけたものだな。商売繁盛で何よりだ」

そう言いながら、貝原佐内は盆に湯呑を乗せて来たお菊を見上げた。

お菊は恥ずかしそうに小袖で顔を隠し、目顔で笑って中へ入った。初夏の訪れに燕が橋裏の巣と川面を忙しそうに飛び交っている。

「へい、お菊のお陰で何とか首を括らずに済みそうです」

 と、長兵衛は傍らに立ったまま定廻同心の貝原佐内に微笑んだ。

 貝原佐内とは先代に仕えていた頃からの長い付き合いだ。当時は朝のご機嫌伺に八丁堀の組屋敷に訪れると、必ず長子の佐内に捕方に必要な十手術の相手をしたものだった。

四十過ぎの男盛りの長兵衛にいかに撃ち込んでも、まだ体の出来上がっていない少年の佐内では勝負にはならなかった。しかし、歳月人を待たず。いまでは佐内が朱房の十手を持つ本所改役同心で、長兵衛は年老いて茶店の釜番になっている。だが、それはそれで自然の成り行きだ。いつまでも男盛りでは誰でもくたびれてしまうだろう。少年もいつまでも少年で大人に頭が上がらなければ、そのうち向上心も燃え尽きるに違いない。

「拙者も倅に跡を継がせて楽隠居といきたいが、まだ倅は頑是ないため、ここ当分は頑張るしかない」

 そう言うと、貝原佐内は左の腰を伸ばして差料を腰に帯びた。

 二人の手先が出て来るのを待って、主従は茜色に染まった御城下へと橋を渡っていった。後姿を見送りながら長兵衛は首を横に振った。まだ四十前の貝原佐内が隠居を口にするとは驚きだ。茶店の親父に収まった自分の暮らしがよほど安気な隠居仕事に見えているのだろうか。養女のお菊に茶店を手伝ってもらっているからこそやっていけるのだが。

 茶店を出した当初、火除地の床店仲間には長兵衛が元岡っ引だと毛嫌いする者もいたが、今では地回りが悪さをしなくなったと喜んでいる。定廻同心が茶店に立ち寄るようになると、火除地の床店だけでなく橋袂界隈の商店までも安堵感を抱くようになった。

貝原佐内が御城下へと橋を渡って行くのを汐に、長兵衛は店仕舞をする。お菊も座敷や縁台をきれいに拭いて一日の仕事仕舞をする。長兵衛は釜の火を落とし、店の横の軒下に置いている戸板を敷居に嵌めて猿を落とす。

そうした手順で店仕舞をしている間に、お菊は縁台を拭き終わり駒下駄を鳴らして入って来ると、裏の石組みから雑巾がけの手桶から水を捨てる。撒かれた水は川面を吹き渡る風で飛沫となって、大川に雨音を立てた。

 

 八朔の頃まで、お菊は時として往来を行く旅姿の男の後姿を目で追うようなことがあった。無意識のうちに平治の面影を追っているのだろう、と長兵衛は釜場の蔀から黙って見ていた。時がお菊を癒すまで待つしかないと心に決めていたが、盛夏の暑さが訪れた頃にはそうした素振りを見せなくなった。心の中に棲みついていた平治の影が消え去ったのだろうか、と長兵衛は釜場の蔀から見えるお菊の姿に秘かな安堵を覚えた。

 八月半ばの富岡八幡宮の祭礼の人出は混雑を極めた。江戸の三大祭りの一つといわれ、長兵衛の茶店も一日中息つく暇もないほどだった。ことに元禄年間に材木商で財を成した紀伊国屋文左衛門が奉納した総金張りの宮神輿三基が繰り出すと祭りは一気に佳境に達する。そのため四十余年前の文化四年の祭礼では余りの人出に永代橋が崩落して千人以上もの死者を出したほどだ。余りの客の入りにくたくたに疲れ果てたが、それがかえってお菊に幸いしたのか、祭礼の日を境に長兵衛に対する遠慮がなくなった。

 夏枯れといわれる暑い盛りも何事もなかったかのように乗り切り、涼風が川面を渡るようになると、朝から夕刻まで縁台にも客が途切れることはなかった。客足はそのまま師走に入ってもそれほど落ちなかった。

 師走に入って間もなく、いつものように町廻りの帰途に立ち寄った貝原佐内が縁台に腰を下ろす前に釜場へ向かって手招きした。釜場から店先や往来は蔀を通して見渡せるが、店先から薄暗い釜場は見えない。長兵衛は貝原佐内が釜場の自分を呼んだのに怪訝な思いで店先へ出た。いつの間にか川面を渡る風が冬の到来を告げていた。

「街道筋を荒らし回っている盗人がいるそうだ。宿場役人が血相を変えて行方を追っているが、巧妙に逃げ回ってなかなか捕まらないという。当初は尾張近辺の宿場を荒らしていたが、次第に東海道を下っているようだ」

 長兵の耳元でそれだけ言うと鋭い視線で一瞥してから、貝原佐内はのんびりとした口吻で「よいしょ」と掛け声をかけながら立ち上がった。

「江戸の御府内へ入るようなら拙者たちの出番となるが。さて、どうかな」

 そう呟きながら、縁台に置いていた差料を手に取った。

 長兵衛は曖昧に「そうですかい」と返答したが、鋭いまなざしで貝原佐内を見上げた。貝原佐内はお菊のことをどれほど知っているのだろうか、との疑問が長兵衛の心にさざ波のような波紋が広がった。

 貝原佐内が無駄口を叩くためにわざわざ長兵衛を手招きしたとは思えない。そうでないとしたら、東海道の宿場を荒らしている盗人は平治なのだろう。貝原佐内はお菊と平治のことを知った上で、宿場荒らしのことを長兵衛の耳に入れたのだろう。

平治はお菊への止むに已まれぬ恋心から三年も経った今になって大阪本店を出奔したというのか。だとすれば、平治は商人としての道を自ら断って、お菊と一緒になりたいと恋い焦がれて東海道を下っていることになる。

遅すぎた決断を平治は下した。遅すぎた決断は周囲の者を不幸にするだけだ。それならなぜ江戸から上方へ発つその前夜にお菊を連れて店を出奔しなかったのだろうか。二十歳前後の若い娘を三年も放置すれば、お菊のみならず誰もが三年前とは別の道を歩んでいると考えるのが道理ではないか。

平治は分別を失って、しなくても良い決断をした。恋に狂った若い男は前後の見境がないから用心しろ、と貝原佐内は長兵衛に教えたのだろうか。そうしたことを漠然と考えながら長兵衛は永代橋を渡って行く貝原佐内主従の後姿を見送った。

 それから三日後の黄昏時、貝原佐内はいつものように町廻りの帰途に立ち寄ると、縁台に腰を下ろす前に釜場の蔀へ向かって目配せした。長兵衛はなにか剣呑なものを感じつつ、お菊がお茶を運んで中へ入るのを待って、貝原佐内の傍らに立って腰を折った。

「件の宿場荒らしが二日前に保土ヶ谷宿でひと働きしたようだ。予てより手薬煉を挽いていた宿場役人が捕縛に向かったが、まんまと逃げられたという。保土ヶ谷といえば武蔵の国だ。いわば野郎は江戸と目と鼻の先までやって来たってことだ」

 そう言うと不意に傍らの長兵衛を見上げて、

「どうやらその野郎はお菊と関わりがある者のようだぜ。つい数年前まで近江屋で手代をしていたという話だ。必ず野郎はお菊を捜して此処へやって来る」

 そう言うと、貝原佐内は言葉を切って長兵衛の顔を覗き込んだ。

 そして驚愕の色を浮かべる長兵衛の顔を見て、「そうとも」とでも言うかのように、微かに頷いた。

「お菊を守ろうと、初っからお前はそのつもりだったのだろう」

――何でもお見通しだ。八丁堀同心を舐めちゃいけないぜ、と貝原佐内は目顔で言った。

 長兵衛が若い女を養女にした、と聞いて貝原佐内は前代未聞の天変地異が起こったと驚いたに違いない。長兵衛は親分と呼ばれた羽振りの良い時分ですら、恋女房以外に女を作ったことはない。その長兵衛がお重に先立たれ寡夫になった途端に老いらくの恋に血迷ったかと疑ったが、そうでもないようだ。と分かると、疑問を放置できないのが八丁堀の性分だ。おそらく長兵衛と暮らし始めた若い女の身元を、手先を使って洗ったのだろう。

町方役人がお菊の身元をさぐるのは何でもないことだ。人別を改めればその線から近江屋に繋がり、近江屋の口からお菊と平治の恋物語に繋がるのは一本道だ。おそらく貝原佐内はお菊の曰く因縁を余すことなく知っている。

「役人に追われ旅から旅への凶状持ちの暮らしがどんなものか、岡っ引だったお前なら分かっているはずだ。お菊を凶状旅の道連れにさせちゃならねえ。野郎は無理に捕縛しなくても、江戸から追い出すだけで良い。あとは宿場役人か八州廻りが始末してくれるさ」

 そう呟くと貝原佐内は振り返り片手を口元に添えて「ヨッ、看板娘。拙者の十手術の師匠を助けておくれよ」と大向こうのように道化た声をかけた。そして差料を手にして立ち上がると、釜場で休んでいた手先の二人が店先に出てきた。それを汐に「それでは」と、貝原佐内は見送りに出てきたお菊と長兵衛に軽く頭を下げて、さっと踵を返して永代橋へと向かった。

 陽が傾き、風が氷のように冷たくなった。お菊が聞いていなかったか探るようにお菊を覗き込んでから、長兵衛は安堵して二歩ばかり店先へ出た。川面を渡る風を避けるように、貝原佐内主従は背を丸めて橋を渡っていった。長兵衛はその姿が橋の頂に消えるまで、店先に立ったまま見送った。

平治は間違いなくお菊と会いに江戸へ帰って来る。なにがあっても、お菊を守らなければならない。長兵衛は十手を返上して以来、久し振りに総身が奮い立つのを感じた。

 その夜、長兵衛は床下から油紙に包んで隠していた棒十手を取り出した。与力や同心の朱房の十手は御上から下される官給品だが、岡っ引や下っ引が持つ十手は自前で調達する決まりだ。その代わり、役目を解かれても返上する必要はない。

棒十手は長兵衛が岡っ引に取り立てられた折に鍛冶屋に頼んで作ったものだ。その一尺五寸の十手にはしみほどの錆も浮いてなかった。行燈の光に鈍い鉄の光を放つ、ズシリと重しのする十手は長兵衛に岡っ引の頃の気迫を甦らせた。

十手術は八丁堀の道場で正式に習った。十手持ちになる前、長吉と名乗っていた当時、長兵衛は川並人足だった。五尺五寸と大柄な体躯に恵まれ、力も強かったことから人足として力量を認められ、人より二年も早く二十歳過ぎには組の小頭になった。それで傲慢になったのか、若気の至りで酒の上で喧嘩をして相手に腕の骨を折る大怪我を負わせて、とどのつまり人足稼業をしくじった。あとはお定まりの転落人生で町方にお縄になって目が覚めた。しかし咎めは受けなければならず、寄場送りになると覚悟を決めた。しかし石川島に送られる寸前に、同心貝原又十郎が岡っ引になるのを条件に放免すると持ち掛けられ、長吉は一も二もなく貝原又十郎の岡っ引となった。

だが岡っ引になったものの、長吉は捕縛術はおろか、十手の扱い方も何も知らなかった。そもそも十手を手にしたのは岡っ引になってからが初めてで、喧嘩は腕に覚えがあるが十手術はズブの素人だった。一日も早く一人前の岡っ引になるため、長吉は早朝から永代橋を渡って八丁堀の道場の朝稽古に通って十手術を一から学んだ。

岡っ引は毎朝八丁堀の同心の家を訪れる決まりだ。それも座敷に上がるのではなく、旦那が髪結いに髷を結ってもらっている縁側の庭先に立って、事件探索の報告や指図を受ける。長吉は古参の岡っ引たちと庭先で指図を受け、その後で少年の貝原佐内からせがまれて十手術の手解きをした。もっとも同心は差料を帯びているから十手術は必要ないものでしかなかったが。

十手持ちになってから五年後、どうにか岡っ引家業に目鼻が付き始めたのを汐に惚れあっていた仲見世で働く小町と評判のお重と所帯を持ち、名を亡父の名の長兵衛に改めた。

三十年近く、長兵衛はこの棒十手を懐に差して町を見廻った。破落戸が振り回す長脇差や匕首を棒十手で払って取り押さえたことは何度もある。平治がどんな男か知らないが、決して後れを取ることがあってはならない。長兵衛は二度三度と上段からの鋭い素振りで空気を裂いた。お菊を守るために、まだ老け込んではいられないのだ。

 翌朝から長兵衛は懐に棒十手を忍ばせた。街道筋で盗人を働く者なら懐に匕首を呑んでいると思わなければならない。

 

 長兵衛は一日中、往来から目を離さなかった。

 蔀から目を皿のようにして往来を見続けて、夕刻には肩が凝り固まった。

「とうとう落ちてきやがったか」

 杮葺の軒先から掬い上げるように空を見上げて、長兵衛は呟いた。道理で冷えるはずだ。

 店仕舞をするといっても敷居に雨戸を四枚ほど嵌め込んで紐で縛ればお終いだ。その雨戸も店横の軒下に押し込んでいるのを引き出せば良いだけだ。たったそれだけの簡単なことだが、少しばかり長兵衛には荷が重くなっている。晴れた日にはなんでもないことでも、風の強いときには思わず腰に構えをしてしまう。上背は五尺五寸で並の男より三寸ばかり高く肩幅も広く大柄な体躯に恵まれているが、その体力がモノをいうのも四十の声を聞くまでのことだった。今では足腰がすっかり弱って、饅頭泥棒の小僧を追いかけるのにさえ難儀する。お役目を返上したのは当然のことだったのだと、自分自身で得心がいった。

「お父っつあん、手伝うから無理しないで」

と、奥で拭き掃除をしていたお菊が小走りに出てきた。

 お菊から「お父っつあん」と呼ばれると、長兵衛は鼻の奥がツンとする。お菊と暮らし始めた当初はどう呼ばせるか思い悩んだものだが、お菊はあっさりと「お父さん」と呼んでくれた。子宝に恵まれなかった長兵衛は少し照れて「なんでぇ」とぶっきら棒に応じたが、心底から嬉しかった。若い娘から父と呼ばれて誰も悪い気はしない。元岡っ引を父と呼ぶ娘に悪い虫は近寄らないからと、長兵衛はそのままお菊に父と呼ばせることにした。

「なんのこれしき、お菊の手を借りるほどのこともねえ」

 とは言ったものの、長兵衛は粉雪の舞う空を見上げた。

 若ければなんでもないのだろうが、風がある日に店の横から戸板を引き出して敷居に嵌めるのは一苦労だ。時として両手を広げて持った戸板ごめ大川へ吹き飛ばされそうになる。腰が浮いてよろけないようにするのも一苦労だが、そのことは誰にも知られたくない。いつまでも人々から「仏の長さん」と呼ばれ十手持ちの親分と畏怖されていた頃の自分でいたかった。

 両手を広げて戸板に取りつき、長兵衛は腰を落として力を入れた。薄杉板を打ち付けただけの板戸そのものは重いものではない。しかし風を孕むと途端に扱いにくい代物に変わる。必死になって板戸と格闘して表の敷居に三枚の板戸を嵌め込んだ。一息つきながら釜場へ入った。あとは火の始末をして板戸を閉てて帰るだけだ。

 釜に炭を消壺へ落としていると表がにわかに騒がしくなった。

 首を伸ばして蔀越しに表を見ると、盆を持ったお菊が中へ入ろうとするのを中年男が立ち塞がってからかっていた。長兵衛は釜場から出ると男の背後へ近寄り「詰まらねえことをするな」と肩を掴んだ。振り返ったのは弥助で「怒ることはねえや」と口を尖らした。

 長兵衛はお菊に弥助の肩越しに「中へ入れ」と目顔で言って、「儂に何の用だ」と聞いた。かつては同じ屋根の下で暮らしたこともあるが、とうの昔に親子の縁は切れていた。

「相変わらず堅物だな。御用があるから来たンだが」と、拗ねたような目つきをした。

「用とは何だ」と、長兵衛は突き放すような物言いをした。

「東海道の宿場町を片っ端から荒らしまわっていた胡麻の蠅が高輪の大木戸を破って江戸へ入ったということでさ。八丁堀が目の色を変えて追いかけてますぜ」

そう言って、弥助は背伸びして長兵衛の肩越しに奥へ入ったお菊を探すような目をした。

大木戸を破ったというのは力づくで高輪の木戸を壊して押し通ったということではない。東海道の高輪の関所を通らずに脇道から枝道を通って、役人の目をかいくぐって江戸へ入ったということだ。

お菊が釜場へ入ったので諦めたように視線を長兵衛に戻した。

「妙な話だぜ、東海道の胡麻の蠅が江戸の町へ入るなんざ。河童がわざわざ陸へ上がりやがったようなものだぜ」

 と言って、弥助は首をひねって腕を組んだ。

 弥助の疑問はもっともだ。宿場町を荒らすのは盗人でもあまり上等とはされていない。土地に不慣れな旅人相手に盗みを働くのと、江戸市中で盗むのとでは仕事のやり口がまるで異なる。従って、街道の胡麻の蠅は江戸の町へ入らないのが通り相場だ。長兵衛は胸が早鐘のように騒ぐのを感じた。

「なんでも日本橋は近江屋という上方に本店のある江戸店の手代だったとか。人相書きでは三度笠に手甲脚絆の旅姿、齢は二十と七、上背は五尺二寸で名は平治とかいう野郎でさ」

 弥助はそう言って再び廊下の奥へお菊の姿を探すような視線を向けた。

 その目つきはいかにも物欲しそうな下卑た眼差しだった。長兵衛の下っ引仲間が弥助を無類の女好きで呆れるほどだという話は本当のようだった。

「そうか。江戸に入ったというからには、誰かが野郎を見たということだな」

 と、長兵衛は弥助に探りを入れた。

「日本橋は近江屋の裏通りで見かけた者がいるってことで。毎日この茶店の前を大勢の人が通るから、変な野郎を見かけたら報せてもらいたいってことでさ。なんなら乱暴に縛り上げても構わねえと。そいつはとっくの昔に凶状首になってるから、手加減はいらねえンでさ」

 声を潜めてそれだけ言うと、弥助は火除地の入り小口に突っ立って待っていた小柄な下っ引に目配せして引き上げた。

 盗人の刑罰は鞭打ちから打首と千差万別だが、盗んだ金子によって明確な線引きがある。盗人のこの世との分かれ道は十両と定められ、それ以上盗めば凶状首といって捕まれば打首とされていた。

 長兵衛は弥助たちが土手道を下って、人込みに呑まれて見えなくなるまで後姿を見送った。

 

 長兵衛の暮らす徳右衛門店は門前仲通の八幡橋詰め中島町にすっぽりと抱えられたような北川町飛地にあった。通りに面した表店には煙草や塩などを商う小店が並び、その中ほどに三尺路地が口を開け、中に入ると六尺路地を取り囲むように九尺二間が片側八軒の棟割長屋が建っている。その入り小口の家が長兵衛で、六尺路地を挟んだ斜向かいの三軒目にお米とお菊の住む家があった。

 かつては門前仲町の親分として行灯建ての仕舞屋に暮らし、下っ引の居候なども二三人置いていたものだが、お米の誘いもあって思い出の詰まった家に暮らす苦しさから逃れるように引っ越した。どうせ昼間は橋袂の茶店で過ごし庭なぞ眺める暇はないだろうと、庭どころか窓すらもない九尺二間に移ってきた。しかし、こうしてお菊が一緒に暮らすと分かっていたら門前仲町の行灯建ての借家を越さなければ良かったか、と後悔しないでもなかった。しかし、そう思うのも長兵衛の気持ちがそれだけ落ち着いてきた証なのかも知れなかった。

 この時代、高直な灯し油を無駄にしてはいけないと、残照の残っているうちに夕餉を済ましたものだ。そのため、秋口から冬場にかけて夕餉時が早くなる。日の長い時期なら五つ半時にお米の家で三人揃って夕餉の膳を囲み、後片付けを女たちに任せて町内の鶴ノ湯で冷え切った身体を温める。そしてやっと人心地がつき、長屋へ帰ると湯冷めする前に夜具に包まって寝てしまうのが長兵衛の暮らしだった。

 長兵衛が長屋に戻って湯手を衣桁にかけるのを待っていたかのように、トントンと腰高油障子の桟を叩く者がいた。どうやら八幡橋の袂で長兵衛が湯屋から河岸道を帰ってくるのを待っていたようだ。

「だれでえ」

 と、長兵衛は小声で鋭く問い掛けた。

「へい、黒江町は辰巳屋の善蔵で」

 やはり小声で表の人影はこたえた。

 辰巳屋は近江屋で長年奉公した善蔵が暖簾分けしてもらって深川で始めた呉服屋だった。長兵衛は弥助から東海道の宿場荒らしが江戸へ入ったと聞いた日の夜に辰巳屋へ出向いて、平治を見かけたら秘かに教えるように頼んでいた。

 転ばぬ先の杖、という。江戸へ入った宿場荒らしが平治かどうかは分からないが、用心するに越したことはない。長兵衛は「ああ、これはこれは」と言いながら、腰高油障子に支っていた心張棒を外した。

「番頭が門前仲町のお得意様へお邪魔した帰りに、平治を見かけた、と言うものですからお報せに上がりました」

 善蔵は腰をかがめ、声をひそめた。

「なに、平治を見かけたと。間違いないンだな。それで、それはいつ何処でだ」

 と、長兵衛は身を乗り出した。

「今朝のこと、門前二ノ鳥居と仲見世の間の物陰に隠れて参拝客を見張っていた、と。辰巳屋の反物は店を始めた当初からすべて近江屋から仕入れています。近江屋から運んで来るのが手代たちの仕事で、荷受けの際に手前の番頭と平治は何度も顔を合わせていました。身形はくたびれた旅姿で、顔も頬が削げ日に灼けていましたが、あれは間違いなく平治だ、と」

 それだけ言うと、善蔵は後難を恐れるようにそそくさと帰って行った。

 広い江戸で早くも深川に姿を現したのは、近江屋の誰かからお菊が深川へ移って行ったと聞き込んだのだろう。この界隈に姿を見せたからには、早晩お菊が長兵衛の養女になったと聞き込むだろう。平治が長兵衛の目の前に姿を現すのに、それほど時間はかからない。

 そう思いながら長兵衛は心張棒を支った。

 

 大晦日まで間もないその日は朝から冷えた。

 空で木枯らしがうなり、大川を疾風のように吹き渡った。

 貝原佐内も夕刻前に姿を見せると、珍しく縁台に腰を下ろさなかった。

「この塩梅だと、今夜は大雪が降りそうだな。何事もなく眠りたいものだぜ」

 空を見上げてそう言うと「長兵衛も早仕舞するこった」と付け足した。

 貝原佐内は風に急き立てられるように三十基の橋脚で支えられる百二十八間もの長大な橋へと歩みを進めた。橋幅は三間半で、優美な曲線を見せる橋姿の最高は水面から八間半もある。橋の頂で姿が見えなくなった貝原主従からそのまま空を見上げた。

ついに白いものが舞い始めたようだ。「落ちてきやがったか」と思う間もなく、雪は幕を引くように激しくなり、簾となって辺りの景色を白一色に消した。長兵衛は橋袂から道具屋の前を通って急いで店へ入ろうとして、ふと足を止めた。

微かな臭いがした。遠い昔に嗅いだ憶えのある臭いだった。それは江戸へ流れ込んだ浮浪人たちの放つ垢と汗と体臭の入り交ざった異臭として長兵衛の記憶に甦った。

長兵衛はとっさにお菊を表に出してはならないと思った。

「お菊、今日は早仕舞とするぜ。奥座敷を片付けてくれないか」と店先から声をかけた。

「あいよ」と返事をして、お菊は奥座敷の仕舞に取り掛かりに奥へ入った。それを見届けてから、長兵衛は戸板を立てかけた隣の板壁との隙間へ足を進めると、

「出てきな。そこにいるのは分かっているぜ」と強く囁いた。

すると戸板の影が動いて、重なった戸板の陰から身の丈五尺二寸ばかり、三十前といった年恰好の頬の削げた薄汚れた痩せ男が姿を現した。人相書きにあった旅姿ではなく、どこで着替えたか震えるような薄木綿の着流しの上に江戸縞の綿の入った羽織を着ていた。その羽織の破れた襟元から汚れた綿がはみ出ていた。削げた頬や日に灼けた顔を隠すように頬っ被った手拭も物寂しく薄汚れていた。

「お前は近江屋の手代だった平治だな。承知のように八丁堀が目の色をかえてお前の兇状首を追っている。お菊と一目だけでも逢いたい気持ちは分かるが、会わせるわけにはいかねえ」と、声を殺して長兵衛は平治を睨んだ。

「お菊にとってお前は既に死んだ男だ。今更どの面下げて、のこのことお菊の前に出て、何と言うつもりだ。まさかお菊をお前の地獄への兇状旅の道連れにするつもりじゃねえだろうな」

 と、長兵衛は情を殺して声を殺した。

 この男に情をかけることはできない。心を鬼にしなければと、長兵衛は右手を棒十手の柄にかけて身構え、奥歯を噛み締めた。何があろうとお菊を守らなければならないとの鋭い眼差しで平治を睨んだ。

平治もさっと懐に手を入れて、目を吊り上げて憤怒の色を刷いた。が、それは一瞬のことだった。やがて哀しそうに目元を和ませると懐から手を出して小さく頷いた。そして何も言わずに身を翻すと横殴りに降りしきる雪の中を永代橋へと小走りに向かった。ものの十間と行かないうちに、平治の後姿は雪簾にかき消えた。

 それを見届けると、長兵衛は何事もなかったかのように戸板を引き出しに掛かった。

「お父っつあん、誰かいたの。人の声がしたような気がしたけど」

 と、お菊が店先に出て声を掛けた。

「いや、誰もいないぜ。おそらく空で唸る木枯らしだろうよ。八丁堀の旦那が帰ったきり、誰もいやしないぜ」

 そう言って、雪簾に男が消えたあたりを見詰めた。

 待ち続けた男はついに待ち続ける男として、お菊の胸の中に仕舞い込むしかないだろう。

 平治には悪いが、お菊をいつまでも人待ち女にしておくわけにはいかない。大川河口に架かる永代橋をお菊の人待ち橋にしてはならない。これからのお菊の長い人生に思いを巡らし、一つ佐平の尻を叩いてみるとするか、と思いながら戸板を両手で抱えあげた。

                                      終

 


深川しぐれ

                             深川しぐれ

                                   沖田 秀仁

 弘化三年も秋めき、涼風が立ちはじめていた。

 脂汗を搾るようだった暑気は影をひそめ、夜ともなると虫の音がかまびすしい。

 清助は『入舟』の二階にいた。入舟とは大川を背にした米蔵の建ち並ぶ佐賀町の片隅、油堀河口に架かる下ノ橋袂の船宿だ。部屋の広さは床の間つきの四畳半。つい先ほどまでは薄壁を通して隣部屋の男と女の睦み合う声が時折り聞こえていた。しかし寝入ってしまったのか、今はそれも聞こえなくなった。

 宵の口には雲間隠れに鎌のような月が十万坪のかなたで明かりを放っていたが、入舟に上がった頃には雲が厚く垂れ込めて、開け放たれた窓の外は漆黒の闇だった。

 どういう料簡なのだろうか、と清助は口をへの字に曲げたままなみなみと注がれた盆の盃を手にした。角行灯の明かりの横で定吉が白塗りの顔に微笑を浮かべて、清助を誘うように流し目を見せている。それは女の美しさを十分に意識した妖艶な笑みだ。しなだれるように膝を崩して、差し向かいに座った定吉の美しさは眩しいばかりだった。

 挑むように絡み付いてくる定吉の視線をことさら無視して、清助は乱暴に盃を傾けた。頤を見せて一口で空けると、清助は定吉に怒ったような視線を投げつけた。

 年増芸者の色香に迷うほどヤワじゃない、と酔った自分に言い聞かせた。端っから堅気の包丁人だったわけでもない。五年ばかり前までは悪所にも出入りして無頼な男たちとも交わり、御用聞きの厄介になったこともある。女の嘘も真も手練手管までも知り尽くしているつもりだ。

 清助は飲み干した盃を音立てて置いた。酒を口にしたのは五年ぶりだった。もっと美味いものとの記憶があったが、善三に隠れて飲む酒は苦かった。何か気の利いたことでもしゃべりたいと思案を巡らせたが、不機嫌な思いが口を重くした。

 船宿がどういうところで、ここへやって来る男と女は何が目的なのか、そうしたことは知り抜いている。百も承知しているが、目の前の裾模様を有無を言わさず強引に掻き分けて、五年もの包丁人修行でやっと身につけた堅気の暮らしを反故にするのにはためらいがあった。定吉の誘うような眼差しに乗るわけにはいかない。目の前に年増芸者がさもいないかのように、清助は落ち着かなく顔を上げて窓越の闇に視線を漂わせた。

 野暮天だよ、と定吉はふたたび婀娜な笑を浮かべた。女に手出しもしないで無理に片意地を張ることこそが、育ちの良い男の優柔不断な気弱さの証しでしかない。年増芸者がここまで誘えば、大抵の男は見栄や体裁の箍が外れて前後の見境もなくむしゃぶりついて来るものだ。それこそが男らしさだと、勘違いしていた時期もあったが。

 本所の四つを知らせる鐘を聞いてから、すでに四半刻はたっている。つい先程までは対岸の上手に見えていた両国広小路あたりの華やかな掛行灯も消えて、いまは狐火ほどの明かりも見えない。江戸の町は深い眠りに落ちて、底知れない闇に包まれていた。

 とうとうこんなに遅くなっちまったか、と清助は酔いの廻った鈍い頭で考えた。悔恨の気持ちにも似た苦いものが胸の奥底でくすぶった。灘屋の旦那が呼んでいなさる、と言われて入舟まで出向いてきたが、すでに小半刻以上も二階の座敷で待たされている。

 定吉一人ならとっくの昔に帰ったものを、と清助はうなだれた顔から視線だけを上げて差し向かいの定吉の白い瓜実顔を睨んだ。ここ三ヶ月ばかりは四つの鐘を聞く前に就寝するのを日課としていた。

 清助は仙台堀中ノ橋河岸にある料理茶屋磯善で魚仕入方を任されている。魚河岸の朝は早い。いきおい清助の朝は磯善で働くどの奉公人よりも早くなる。不機嫌そうな清助の眼差しに気づくと、定吉はにっこりと微笑んで酒器を取り上げた。

 最初のうちこそ拒んだものの、勧め上手な定吉に乗せられて、清助はかなりの量を飲み干していた。

 夏の暑気は去っているが障子を締め切るには早すぎた。開け放たれた窓からひんやりとした川風が舞い込み、かすかに障子の桟を鳴らした。雨を呼びそうな風だった。清助は視線を漆黒の大川から盆の上の盃に落とした。

 不意に、走り抜けるような雨粒が軒の板屋根を打った。

「おや、雨だねえ」

 酒器を持つ手を宙に止めて、定吉は耳を澄ますように首を傾げて窓を見た。

 清助も盃へ伸ばしかけていた手を止めた。魚を入れる盥桶を裏庭の軒下に置いたままだったのを思い出して、双眸がにわかに曇った。

「本当に灘屋の旦那が呼んでいなさるのだろうな」

 清助の低い声に不審な思いが紛れ込んだ。

 灘屋は御城下の越前堀に大店を構える酒問屋で、灘の下り酒を一手に商うことで身上を築き、その名は江戸市中に広く知れ渡っている。

「あら、清さんはお疑いかえ。いいんだよ、なんなら帰っちまったって。その代わり後で灘屋の旦那に、磯善の包丁人が一見客にゃ付き合われねえって、捨て台詞を吐いて帰ったと言い付けてやるから」

 切れ長の目の端で清助を捕らえたまま、定吉は清助の盃に酒を注いだ。

 灘屋宋右衛門が辰巳芸者の定吉を伴って、磯善の暖簾を潜ったのは五つを少し過ぎた頃だった。予約も何の前触れもなく、看板間際に顔を出した客に女将はいい顔をしなかった。灘屋は磯善の馴染みでもなく、取り引きの上で親しくしている商売相手でもなかった。まったくの初顔で遅くに来た客ならどこの料理茶屋でも断るのが常だ。五つを過ぎれば釜の火を落とす頃合だし、上等の食材は早めに使い切ってしまって包丁人の腕の奮いようもない。料理茶屋のありようが趣向を凝らした旬の料理で客を楽しませるのが本筋だとすれば、むしろ座敷に上げないほうが暖簾を大事にする商売というものだろう。

 しかし、仙台堀は中ノ橋袂に店を構える磯善の噂を深川の老舗料理茶八百清で聞かされて遥々とやって来た、と言われては無碍に断るわけにはいかなかった。磯善の主人の善三は十六年前まで八百清で包丁人修行を二十年近くも勤め上げた。八百清への義理もある。しかも、灘屋宋右衛門は江戸の粋人の間では有名な食通で知られていた。

「なぜ灘屋の旦那がおいらを名指しでお呼びなさったんだ?」

 清助は何度も繰り返した同じ疑問を繰り返した。

 同じ包丁人でも頭が呼ばれるのなら何の不都合もない。しかし、魚の仕入方をしているというだけで自分が呼ばれたことに合点がいかなかった。包丁捌きにしろ味付けにしろ、清助は自分の腕がまだまだ未熟だとわきまえているつもりだ。他の奉公人と違って、包丁人修行を中途から始めた半端者だとの引け目もあった。

「磯善の法被を着て天秤棒を小粋に担いで、河岸道を颯爽と走る清さんを目にしたことがあるんだってさ」

 定吉が清助に返す言葉も同じことの繰り返しだった。

 清助が買出しに出掛けるのは深川蛤町の魚河岸だ。川筋で漁師の集まる町にはいつの頃からか市が立つようになった。越前堀の灘屋の旦那が魚河岸へ出掛けた自分の姿を見るには深川に泊まるしかないが、との疑念が胸を掠めた。

 音もなく、しぐれは降り続いていた。

 軒先から落ちる雨垂れだけが不規則に音を刻んだ。

 とめどなく、清助は定吉に勧められるままに盃を口へ運んだ。飲むほどに思考が鈍り、真綿のような眠気が差した。元来呑めないほうではなかったが、五年も酒を絶っていた体には思っている以上に利いていた。

 清助は八百清の一人息子だった。甘やかされて育ったためか、十六の歳から酒の味を覚え、二十歳過ぎに八百清を勘当になった頃にはすっかり身を持ち崩して、酒と博奕に明け暮れていた。家を追い出されても怠惰な性癖は直らず、遊び人の暮らしから足が洗えなかった。博徒の三下となって破落戸のような暮らしを二年ばかり送った後、賭場の手入れで町方下役人に捕らえられた。自身番で簡単な身元改めの詮議を受けて、いよいよ鞘番所へ送られる寸前に、善三が清助の身元請け人となることを条件に放免された。

 磯善に拾われてから五年というもの、清助は包丁人修行を厳しく仕込まれた。最初の一年半は年下の奉公人に追廻としてこき使われ、その後も焼き方から煮物方と修行に明け暮れた。縄を打たれてしょっ引かれたのが余程こたえたのか、清助は弱音一つ吐かずに扱きに耐えて一心に精進した。

 生まれつき筋が良かったのか、清助は善三も驚くほどめきめきと腕を上げた。そして、この藪明けから魚の仕入方を任されるほどになった。魚料理で食通の舌を満足させる磯善にとって、魚の仕入れは責任の重い仕事だった。

 灘屋はじきに来るといったが、一刻余り待っても姿をあらわす気配すらなかった。「いつになったらお見えになるのか」と清助が聞くつど、定吉は赤子をあやすように「もうじきさ」と子守唄を歌うように調子をつけて応えた。

 清助の意識が次第に濁り、強い睡魔に襲われて瞼がさがった。眠気を必死に追い払っても体がふっと軽くなり、頭の中が白く霞んだ。こうしちゃいられないんだ、と同じ言葉が繰り返し頭の中を駆け巡った。

「おいら、帰らなくちゃならないんだ」

 呂律の廻らない呟きとともに、清助は立ち上がろうとした。

 右膝に右手を支って、清助はしっかりと立ち上がったつもりだった。が、上体は大きく泳ぎ、だらしなくその場に崩れた。

 外は音もなくしぐれが降りしきっていた。

 

 まだ明けきらぬ静けさを破って、油堀河岸道を辰蔵は駆けた。

 五尺七寸の辰蔵が短めの単衣の裾を尻端折りにして紺股引に雪駄を突っかけて駆けると、朝の町を売り歩く棒手振たちも道を空けた。辰蔵は山本町亥ノ口橋袂の長屋に暮らす界隈の岡っ引だ。まだ十手を預かって五年足らずと駆け出しだが、「御用だ、御用だ」との掛け声はすっかり板についていた。

 先刻、寝静まっている山本町油堀河岸の長屋の腰高油障子を、桟が折れるかと思えるほど激しく叩く者がいた。「入舟で殺しですぜ」とせわしく桟を叩きながら叫んだのは佐賀町から駆けてきた番太郎の留吉だった。

 目覚めていた辰蔵は枕元の十手を手にし、下っ引の松吉はとぼけたように跳ね起きた。

 大柄な辰蔵の駆ける後を一間ばかり遅れて小柄な松吉が追った。飛ぶように駆けて昨夜のしぐれに濡れた反り橋の黒江橋を瞬く間に渡った。

 辰蔵は元川並人足だ。歳は二十七になっているがまだ独り者だった。が、女嫌いだというのではなく、心ひそかに思いを寄せる女はいた。ただ女を養うほどの実入りがないため、所帯を持とうと言い出せないままでいるだけだ。その代わり、貧乏と二人連れだった。

 松吉は三年ばかり前に永大橋袂の深川名物佐原屋の団子を鷲掴みにして逃げ出したところを辰蔵が捕まえた。聞けば続く飢饉に耐えかねて上州の百姓家を飛び出し、行き倒れの死骸に怯えながら街道を歩き続けてやっとの思いで江戸に辿り着いたが、ここ五日ばかりは何も食べていないということだった。辰蔵は団子の代価を佐原屋に払い、松吉を自分の長屋に連れて帰った。極端に痩せ細った松吉は団子を盗ったものの、空腹のあまりものの半町と走れなかったのだ。まだ大人になりきっていない十五六の少年だった。

 佐賀町の自身番は油堀下ノ橋の東詰めにあった。辰蔵の家からそれほどの道のりではない。下手人は引っ括って自身番にしょっ引いてあるということだ。ほどなく自身番に差し掛かったが、辰蔵は足を緩めずに駆けた。まずは殺しの現場を両の目で見るのが辰蔵のやり方だ。そのまま自身番の前を通り過ぎて、凶行のあった船宿へと向かった。

 行く手の河岸道の大川側には似たような造りの船宿が並んでいるが、どれが入舟かは物見高い人垣が教えてくれた。腰高油障子や軒下行灯の屋号も見えないほど野次馬が集まってひそひそと囁きあっていた。人垣を掻き分けるようにして船宿の玄関土間へ入ると、出迎えた女将の口上もそこそこに、留吉が指差す玄関脇の階段を二階へ上がった。そして留吉の突き出す指の教える、上がってつき当りの部屋の襖を開けた。

 むせ返る生臭い血の匂いが鼻をつき、部屋の中ほどに裾模様の芸者が血の海に横たわっていた。辰蔵は懐の十手を引き抜き血溜りを避けるようにして近づいた。

「こりゃあ、定吉じゃねえか」

 思わず呟き、左胸に突き立てられた出刃包丁の黒ずんだ血染めの柄を見た。

 それは古くも新しくもない、どこにでもあるような平凡な包丁に見えた。ただ下手人の鮮やかな殺しの手際だけが目を惹いた。藤四郎の仕業ではない、というのは一目で分かった。包丁は肋骨を避けるように横に寝かせて、一突きで心の臓を刺し貫いている。それは刃物の扱いに慣れた者の冷静な殺しだった。

 血の海に横たわる定吉に争ったような着物の乱れはなかった。ただ無意識に突き立てられた包丁の刃を握ったのか、左手の親指の付け根が深く抉れたように切れていた。

 うずくまると辰蔵は胸に刺さったままの包丁を引き抜こうと右手を柄に添えた。柄についた下手人の血染めの手形を落とさないようにと握ってみて、下手人の手形が逆なのに気づいた。下手人は左利きなのか、と思いつつ定吉の胸から出刃包丁を抜きにかかった。死後硬直が始まっているため、かなりの力をこめなければならなかった。やっとのこと引き抜くと、懐から出した手拭に包丁を丁寧に包んだ。

 現場の状況をしっかりと見れば、なにも思い悩むことはない。昨晩の状況がありありと辰蔵の眼前に浮かんだ。

 定吉の顔見知りがこの部屋へやって来たのだ。一片の疑いも抱かずに定吉は待ちわびた者へ駆け寄り、思いもかけず出刃包丁で一突きにされた。それが証拠に着物はほとんど乱れていないが、島田髷の根ががっくりと崩れている。それは不意に心の臓を刺し貫かれて抵抗する間もなく人事不省に陥り、枯れ木のように転倒した証だ。

 定吉の目と口は大きく開き、苦悶と困惑に満ちている。辰蔵は顔を撫でるようにして瞼を閉じらせ、座布団を二つ折りにして首の下に入れて仰向けに寝かせた。そうすれば自然と口も閉じる。着物の裾をそろえてやると、恰も定吉は静かに眠っているようだった。ただ、血の気を失った蝋のように白い顔色を別にすれば。

 辰蔵は仏の定吉に両手を合わせた。深川を縄張りとする岡っ引だからといって辰巳芸者を残らず知っているわけではない。しかし、定吉のことは知っていた。蛤町の美人三人姉妹の末娘で、名をお定といった。貧しい両親を助けるために九つで黒江町の子供屋へ上がった。そうした身の上話は界隈の者なら誰もが知っている。いわば定吉は孝行娘として知れ渡っていた。

 部屋の窓はわずかばかり開いていたが、辰蔵は明かり障子を開けて外の様子を改めた。すぐ下に川岸の石組みがあり、足下を大川の波が洗っていた。部屋へ窓から出入りするのは困難に思えた。しかし、だからこそ下手人が何らかの細工をして窓から出入りしたと考えられなくもなかった。そう思って見ると窓枠の下に足で擦ったような痕が上下にずれて二ヶ所ばかりあった。

 部屋から出ると、辰蔵は廊下の留吉に訊いた。

「下手人として自身番へしょっ引いているのはどんな奴だ?」

 何気なく振り返ったついでに聞いたのだが、留吉は驚いたように言い淀んだ。

「この部屋で夜明けまで寝入っていた清助って間抜けな包丁人ですが」

 本人は酔いつぶれていたと言い張っている、と付け加えた。

 辰蔵は眉間に皺を寄せながら、念押しするように顔を留吉に近づけた。

「清助ってのは八百清の倅のことか」

 聞き逃した言葉を問い直すように聞くと、留吉は「へえ」と曖昧に頷いた。

 肯定とも否定ともつかない返答だったが、留吉は清助の素性までは知らないようだ。

「いえね、このちょい先の料理茶屋『磯善』の包丁人ですよ」

 と、入舟の女将が代わって答えた。

「磯善といえば深川富ヶ岡八幡宮脇の八百清で修行し、年季が明けて暖簾分けしてもらった善三のやってる店じゃないか。親方の善三は呼んであるのか」

 階段を下りながら、辰蔵は背後の留吉に声を放った。

「へい、自身番の方へ」

 階段を下りながら留吉が応えた。

「女将、夜遅くに誰かがこの部屋に尋ねてこなかったか」

 留吉の後ろをついて降りている女将に聞くため、辰蔵は声を張り上げた。

「いえね親分、お分かりでしょうけど、わっちらは玄関を見張っちゃいないのさ」

 女将は下卑たぞんざいな言い方をした。

 いつからか船宿は手軽な出会い茶屋のようになっていた。元々船遊びするための宿だから大川や堀割からじかに船で乗りつけるような造りになっていて、船に乗りさえすれば誰にも顔を差されずに出入りができる。そのため出会い茶屋よりも格上の逢引場所として重宝された。船宿の者たちも料金さえ支払ってもらえばいつ帰ろうと頓着しなかったし、他の旅籠のように玄関に帳場も設けず夜通し鍵もかけなかった。

 入舟もそうした造りの店だった。玄関を入るとすぐに廊下や階段でそれぞれの部屋へ行けるようになっている。

 しかし、そんな分かり切ったことを聞くのが辰蔵の目的ではなかった。辰蔵にも身過ぎ世過ぎがある。野暮なことでも四角四面に取調べをすれば入舟は面倒なことになる。女将が帯の間からそっと取り出した捻りを受け取ると、辰蔵は眉一つ動かさずに懐に仕舞い込んだ。悪しき慣例だが、そのことで女将は今度の事件に関連して入舟の商売が問われることがないと確信できるのだ。

 岡っ引は定廻り同心から手札を頂戴しているが、町奉行所や同心からの手当ては皆無だった。こうした袖の下が辰蔵の収入のすべてなのだ。町の衆からげじげじほどに嫌われるのも定まった収入がないため、だれかれかまわずたかるからに他ならなかった。

 

 佐賀町の自身番には人だかりがしていた。

 辰蔵たちは「行った、行った。見世物じゃねえぞ」と怒鳴って野次馬を蹴散らした。

 しかしその当座だけ散った人垣も、辰蔵たちが自身番へ入るとふたたび集まってきて腰高油障子の中の物音に聞き耳を立てた。

 自身番は二間に三間と手狭な小屋といったものだ。町内ごとに町のかかりで運営され月行事の町内事務や町内の治安の拠点とされた。腰高油障子を引き開けると三和土の六尺土間があって、その奥は切り落としの座敷だった。

 清助は後ろ手に縛られて土間に座らされていた。辰蔵が油障子を閉めて入ると清助は物音に怯えたように振り仰ぎ、二人の目と目が合った。心なしか清助の眼差しが何かを訴えるような色を帯びた。辰蔵と清助は同じ歳で、しかも顔見知りだった。

 かつて二人は同じ賭場で三下として働いていた。辰蔵のほうが一年ばかり早くから無頼な暮らしに身を落としていたため、兄貴分として振舞った。ただ賭場に来た当初、清助は豪勢に金を使って一端の遊び人気取りでいたが、八百清を勘当になると取り巻きたちは態度を一変させた。それからの清助は腕っ節が強くない分だけ、余計に辛かったに違いない。

 無頼仲間の集う場では喧嘩が強くなければ生き延びられない。清助はしょっちゅう痛めつけられて顔といわず足といわず、いつも体中に痣を作っていたものだ。その清助が縛られて土間に据えられているのを見て、辰蔵は即座に定吉殺しの下手人ではないと思った。

 清助と辰蔵は奇しくも同じ夜の手入れでお縄になった。幸いにも清助は善三が請け人となって包丁人の修行に入ったが、辰蔵は同心の旦那に喧嘩の腕を見込まれて十手持ちになった。あの日を境に二人は別々の道を歩き出し、ここでふたたび出会った。それは辰蔵が最も望まない形の出会いだった。

 清助に落としていた視線を上げると、いきなり目の前の五十男が頭を下げた。四角張ったいかつい顔に険しい目つきの男だった。甘えを許さない厳しい半生を送った男の足跡が窺がえた。

「手前は磯善の善三でございます」

 痩身長躯の男は名乗った。

 辰蔵は「うむ」と素っ気なく応えると、膝を折って清助の前にしゃがみ込んだ。ことさら善三を無視したわけではないが、何はともあれ確かめなければならないことがあった。

 辰蔵は丸太のような腕を伸ばして清助の胸倉をつかんだ。何をされるのかと恐怖が清助を襲ったのか、逃げようと身を捩ったが有無を言わせぬ力で背筋を伸ばさせた。清助の体から酒が強く匂った。

 辰蔵は清助の着物を仔細に改めて、後ろ手に縛られている両手を確かめた。

 見てみると清助はきれいなものだった。返り血を浴びていないばかりか、両手の爪に血痕すら残っていない。出刃包丁を心の臓に突き立てただけで血は竜吐水さながら吹き出る。返り血を浴びないで人を刺し殺すのは至難の業だ。しかも、出刃包丁の柄に下手人の手形が残っていた。当然、下手人の爪の間にも血が入り、荒縄で擦り洗ったぐらいでは落ちないものだ。それが清助の爪にはまったく残ってない、とはどういうことか。

「善三、何があったか教えてくれねえか」

 辰蔵は立ち上がると切り落としの座敷の上がり框に腰をおろした。

「へい、昨晩は五つ過ぎ、越前堀の灘屋の旦那が定吉と磯善へお見えになったと思ってください。その刻限なら大抵のお客様にはお引取り願うのですが、八百清の紹介で来たといわれては無碍に追い返すわけにもいかず、座敷にお上げして鉢物を二三お口汚しにお出し致しました」

 それが間違いの元だったと言いたそうに、善三は顔を歪めた。

「お帰りになられたのが五つ半過ぎで、間もなく定吉一人で引き返してまいりまして『灘屋の旦那が魚料理の魚がことのほか上手かったので魚仕入方の包丁人に御祝儀を出したいから、すぐ近くの船宿まで来てもらえないかと』と申しました。手前の店の魚は清助が一手に仕入れていますから、さっそく定吉と一緒に遣りました。しかし、夜明けになっても帰って来ないってんで、追廻の兵吉を迎えに遣りましたら、この始末でございます」

 善三は詫びるような眼差しで辰蔵を見詰めた。

 辰蔵は腕組みをしてじっと耳を傾けていたが、土間に立っている松吉に視線を移した。

「松、越前堀までひとっ走りして、灘屋に昨夜のことを確かめて来い」

 辰蔵が言い終わらないうちに「へい」との声を残して松吉は飛び出した。

 ピシリと腰高油障子が閉じられると、辰蔵は清助に視線を落とした。

「ところで善三、清助はいつも酒を食らっていやがるのか」

 包丁人修行中の者が酒に酔っていては味の感覚が鈍るのではないか、との疑問が湧いた。

「いいえ、磯善で身柄を引き取って以来、ここ五年ばかりは一滴も飲んじゃいません。実は十日ばかり前ですが、清助の実直な精進ぶりに年内にでも勘当を解き、年明け早々にも八百清の後継ぎとして披露しようと、門前仲町の大旦那と御相談申し上げたばかりでございました。しかし、これですべてが水泡に帰してしまいました」

 善三は苦渋に顔を歪めて首をふった。

 誰からともなく深いため息が漏れた。定吉をやったのは清助だと決めてしまったような空気だった。しかし、それは下手人探索を待たない思い込みに過ぎない。

「昨夜、町木戸を怪しい者は猫の子一匹通っちゃいません」

 沈黙を破って木戸番小屋の親父が呟いた。町の木戸は四つに閉じられ、夜明けの六つまで番人が見張っている。病人や火急の用のある者は番人に理由を告げて木戸を通してもらうのだ。

「清助、何か言いたいことがあれば聞いてやるぜ」

 腰掛けていた上がり框から立ち上がり、辰蔵は清助を見下ろした。

 清助は上体を反らせて辰蔵を見上げて弱弱しく首を振った。

「おいらは何も憶えちゃいないんだ。定吉に勧められるままに断っていた酒を口にしちまって無様にも酔い潰れてしまった。入舟へなんか呼ばれても行かなきゃ良かったんだ」

 涙混じりにそう言って、清助は首をうなだれた。

「けっ、いつまでたっても甘い野郎だぜ」

 辰蔵は清助を睨みつけた。

「愚痴を聞いてやるといったんじゃねえ。何か憶えていることはないのか」

「兵吉に叩き起こされるまで、おいらは何も憶えちゃいない。だけど、おいらはやっちゃいない。やっちゃいないんだ」

「ばか野郎。お前がやったんじゃねえってことは端っから分かってるんだ。獄門になろうかって殺しの下手人が、のうのうと朝まで寝込むわけがねえだろう」

 そう言うと、辰蔵は懐から手拭に包んだ出刃包丁を取り出して善三に見せた。

「これを見てやっておくんなせえ。定吉の心の臓に突き刺さっていた包丁でさ。着いた血糊は剥がれて落とさないように用心して。手形からすると下手人は左手で持っていたことになります」

 手拭ごと出刃包丁を受け取ると、善三は包丁人の鋭い眼差しで観察した。

「なるほど、柄に着いた手形からすると下手人は左利き、それほど腕の良くない包丁人でさ。研いだ者も左利きの野郎で、せっかちに押し研ぎをしていやす。包丁人は右手で包丁を使うように仕込まれますが、つい地金が出たのでしょうよ。腕があまり良くない、といったのは先の方ばかり刃が減っていやすからでさ」

 出刃包丁を一目見るなり、善三はそれだけのことを語った。

「左利きとはおいらも見抜いたが、これが包丁人のものだとなぜ分かる」

「それは研ぎ方でさ。魚屋の出刃ならこれほど刃を鋭くする必要はありません。だが、素人がこれで鯛でも捌けば刃を傷めるのがオチでしょうよ」

 下手人が清助ではないと知ってか、善三は安堵の色を浮かべた。しかし、辰蔵は首を横に振った。

「だがな、真正の下手人をお縄にするまでは清助の疑いが晴れたことにはならねえ。鞘番所へ送られれば地獄の拷問にあわされる。見てないことでも見たと言い、やっていないことでもやったと口を割らされることになるんだぜ」

 鞘番所とは深川だけの呼び名で、御城下では番屋といわれた。自身番と違って番屋は町奉行所の差配に属し、被疑者はそこで取調べを受け下手人と断定されれば入牢証を付されて伝馬町へ送られる。しかも、番屋へ送られて無罪放免となるのは皆無だった。番屋での取調べは自白を記した口書を聴取するのを目的としため、凄絶な拷問が多用された。

 その一方、自身番での取調べは形だけの身元調べで、大抵はすぐに番屋へ送られる。長く留め置くとしても自身番は拘留施設ではないため夕刻まで、ということになる。

「留吉、神尾の旦那に清助の鞘番所送りは暮れ六つまで待ってもらいたいと、申し伝えてくれないか」

 辰蔵は清助の傍らに立つ留吉に言った。

「神尾の旦那に『夕刻まで待ってもらいたい』と申し伝えれば良いんですね」

 留吉は辰蔵の言葉を繰り返し、それに辰蔵は強く頷いた。

 本所深川を縄張りとする定廻り同心神尾和馬が見廻って、定吉殺しの下手人としてお縄になっている清助を暫時自身番に留め置く沙汰を下したとしても、その限度は鞘番所の下役人が門を閉ざしてしまうまでの間だ。

 辰蔵は清助と善三を交互に見て、佐賀町の自身番を後にした。

 

 空を仰いで、五つを廻った頃かと呟いた。

 いつの間にか日が昇り、町には仕事場へ急ぐ人足たちの姿があった。

 辰蔵は佐賀町の米蔵通りを下り、永大橋の前を通って門前仲通へ足を運んだ。なにはともあれ、門前仲町の八百清へ行って事情を聞いて見なければ何も分からない。ついでに定吉のいた子供屋も門前仲町に続く山本町にあるからその足で廻れる、と算段した。

 しかし、悠長に構える時間はない。神尾和馬が辰蔵の願いを聞き入れてくれたとしても、清助は夕刻には鞘番所へ送られてしまう。定廻りでもその権限は鞘番所の中までは及ばない。いずれにせよ、急がなければならないだけは確かなことだった。

 深川は木場によって成り立つ町だ。ここでは半纏を着た職人や人足が幅を利かす。木場へ急いでいるのだろう、門前仲通の石畳を木場人足たちが東へと向かう流れに乗って辰蔵も急いだ。黒江町の二の鳥居を過ぎると、富ヶ岡八幡宮の門前町の様相を呈してくる。八百清は八幡宮の界隈に数軒ある料理茶屋の中でも黒板塀を巡らした総二階の格式を誇る店だった。その店構えを目の前にすると深川を縄張りとする岡っ引にすら二の足を踏ませた。

 門を入ると飛び石伝いに玄関へ行き、

「ごめんよ」

 歯切れ良い掛け声とともに、辰蔵は格子戸を引き開けた。

「はい」

 と、やや間延びした返事がして、姿を現したのは若い下働きの女中だった。

 十代半ばと見える女中は辰蔵の十手に目を奪われ、恐れるような眼差しで辰蔵を見上げた。御用の筋で来たことは十手を見せるだけで余計な説明は要らないが、世間知らずの小娘が相手の場合はそうはいかない。

「おいらは山本町の辰蔵だ。昨夜ここに灘屋の主人が客として上がったはずだが、そのときの様子を聞きたい。女将はいないか」

 丁寧に言葉を継いで十手を懐に戻すと、女中は「亥ノ辰」と呟いた。

 山本町は亥ノ口橋の袂に暮らしていることから、辰蔵は界隈の者から亥ノ辰と呼ばれている。その呼び名には捕り物の敏腕に対する畏怖と、岡っ引に対する侮蔑と複雑な感情が入り混じっていた。辰蔵は人からそう呼ばれるのは余り好きではなかったが、呼ばれるからには慣れるしかなかった。

 女中が奥へ消えてから間もなく、怪訝そうに顔を曇らせた女将が廊下を小走りにやってきた。辰蔵は玄関土間に立ったまま、女将の顔を見詰めた。

 ふと、役者顔の清助は母親似だと思った。瓜実顔に八の字に下がり気味な濃い眉と肉厚の唇は瓜二つだった。ほっそりとした気の弱そうな顎の線も母親譲りだし、鷲鼻のように高い鼻梁も母親を映している。そう思いつつ目をそらした。辰蔵は自分の母親の顔を知らなかった。

「親分、清助がとんでもないことをしでかしちまったようで……」

 磨き込まれた鏡のような廊下の端まで来て、女将は崩れるように座った。

「倅が人殺しの下手人としてお縄になったと、知っていたのか」

 どことなく安堵して辰蔵は呟いた。

 清助がお縄になった、と家族に知らせる役目を辰蔵が負わなくて済んだわけだ。

「今朝早くに出入りの青物の振り売りが教えてくれました」

 女将は気丈にも唇を引き締めて辰蔵を見上げた。

 野菜を八百善へ届ける棒手振が見聞きした佐賀町の騒動を伝えたのだろう。

「それじゃ話は早い。昨夜のことだが、灘屋はここから磯善へ行ったのか」

 辰蔵は用件を手早く切り出した。

「はい、定吉がしつこく旦那に勧めたものですから。食通の方は大抵の場合がそうでありますように、料理を吟味して味わうため時間をかけてお召し上がりになられます。ですから、一晩に一軒と決めていらっしゃいますが、定吉が磯善に行きたいと無理におねだりして、すぐ裏の船宿『住吉』に船頭の手配に店の者を走らせるやら。一騒動の一幕があって仙台堀今川町へ猪牙船で出掛けられました」

「それじゃ、定吉が灘屋を磯善へ誘ったんだな」

 辰蔵は身を乗り出して女将を見詰めた。

 話が早くも喰い違ってきた。磯善では八百清で行くように勧められて灘屋の旦那がわざわざ磯善まで足を伸ばした、ということだった。しかし、八百清の女将は定吉が磯善へ行きたいと灘屋に無心したと言った。

「定吉は殺されるために磯膳へ行ったようなものだな。女将は商売柄辰巳芸者の裏も表も良く知ってるだろうが、定吉に男の噂を耳にしていないか」

 倅が人殺しの下手人としてお縄になっているのに、定吉の男出入りを聞かれて女将は訝しそうに辰蔵を見上げた。

「婀娜な年増芸者が男日照りだったとは到底思えませんが。しかし、芸者が男の影を引き摺っていては満足にお座敷は勤まりません。定吉は一流の芸者ですからなおさらのこと、男の匂いを身の回りから上手に消していたのではありませんか」

 当り障りのないことを言って、女将は視線を落とした。

 話を聞いた辰蔵もそれが道理だと、苦虫を潰したような顔で頷いた。

 八百清を後にすると、辰蔵は山本町の子供屋『半月』へ向かった。

 子供屋とは置屋の深川独特な呼び名だ。ただ、深川には見番がないため客は子供屋へ贔屓の芸者を頼むしかなく、それだけ子供屋の女将の権限が強いことになる。

 辰蔵が山本町に暮らしているのにはわけがあった。子供屋『橘家』の芸者で正吉と権兵衛名を名乗っているお正は辰蔵の幼馴染だった。辰蔵が若くして小頭にまでなった木場人足を喧嘩でしくじったのも、正吉が旦那を取らされた頃のことだった。一時期、囲われ者のようになっていたが紙問屋美濃屋の旦那が卒中で亡くなると、お正はふたたび橘家に自前芸者として復帰した。ちょうどその頃に神尾和馬に手札を受けるように持ち掛けられ、辰蔵は荒れた暮らしから足を洗って十手持ちになった。心の内を打ち明けてはいないが、惚れた女と同じ町に暮らしそっと見守るのが辰蔵の生き甲斐だった。

 門前仲町の隣町の山本町は門前界隈の料理茶屋の三弦から嬌声まで聞こえる近さだ。三尺路地を拾って裏町を行くと、人々の暮らしが間近に見えて心が和んだ。子供屋があちこちにあるため、稽古をしている三味線や太鼓、それに小唄まで路地に聞こえた。

 辰蔵は定吉に間深な男がいたのかどうかにこだわった。定吉の着衣や部屋に争った痕跡がないことから、定吉は顔見知りの心底気を許した者の手にかかって殺されたのだ。それも心の臓に出刃包丁を突き立てられる刹那まで信じていた男によって。

 花柳界で芸者の男関係を根掘り葉掘り聞くのは野暮だが、すでに定吉はこの世にいない。稼ぎ頭の売れっ子芸者を殺されては子供屋も下手人を恨んでいるに違いない。半月に行けば何らかの収穫がある、と辰蔵は踏んでいた。

 三尺路地が油堀入り堀の河岸道に出る一筋前の角に半月はあった。それほど大きな家ではないが、小奇麗な行灯建ての二階家だった。定吉の悲報が知らされているのだろう、家の中の慌しさが玄関の格子戸からも窺がえた。

「ごめんよ」

 声をかけて格子戸を開けると、「あい」とかわいい返事があった。

 玄関障子を開けたのは小女だった。年のころは十二三といった、半玉にもなっていない、奉公に上がって間のない子供だ。しかし、目元に妙な品を作って辰蔵を上目に見た。女は子供の頃から女なのだ。辰蔵は懐から十手を引き抜いて小女に見せ「女将に用がある」と短く言った。

 それほど待たされることもなく、目を真っ赤に泣き腫らした小太りの女将が玄関に姿を現した。五十年配の女将は少ない髪を櫛巻きにして、黄八丈に茶帯を締めていた。

「定吉には可哀想だったな」

 腰を屈めてお悔やみを言うと、辰蔵は表情を引き締めた。

「おいらは定吉殺しの下手人をお縄にしたいんだ。包み隠さず教えてくれないか、定吉に何か変わったことはなかったか」

 辰蔵が言葉を言い終えるのも待たずに「いやですよ」と女将が口を挟んだ。

「八百清の倅がお縄になってると聞きましたが、下手人は清助じゃないんですかえ」

 男の声と聞き間違えるほど、女将の声はしゃがれていた。

「真の下手人は別にいる、とおいらは睨んでいるんだ。もっともこのままじゃ清助が伝馬町送りになっちまうが。しかし、どう考えても清助に定吉を殺さなきゃならねえ理由がない。誰かに嵌められた、としか思えねえんだ。ところで、定吉に男はいなかったか」

 辰蔵の言葉に女将は驚愕の色を浮かべたが、やがて力なく首を横に振った。

「さあ、どうでござんしょう。親分は先刻承知でしょうが、定吉は自前芸者でした。半月に前借があるわけでなし、わっちは細かいことには嘴を挟まなかったのさ。ああ、そういえば三日ばかり前、ゆくゆくは門前仲町で小料理屋でも始めるんだ、と言ってたっけ。客商売の好きな妓でたくさんの御贔屓を持っていましたから『さぞかし繁盛するだろうね。そしたらわっちを仲居にでも雇っておくれ』と冗談に返したものさ。半月は養女にでもくれてやるからって」

 女将はふっとため息をついたが、辰蔵はその間合いを捉えた。

「半月を養女に継がせるって?」

 辰蔵が意気込むと、女将は一瞬息を呑んで首を横に振った。

「いやですね、ほんの冗談ですよ。定吉と冗談にそう言って笑っただけですよ」

 泣き笑いのような女将に、辰蔵は「邪魔したな」との声を残して足早に立ち去った。

 

 肩を押し出し大股に向かう先は八百清だ。

 辰蔵は気持ちの急くままに足を速めた。

 入り堀沿いの河岸道から門前仲通に飛び出た折、危うく人と突き当たりそうになった。

――この野郎、と相手を睨むと松吉だった。

 松吉は命じられた通りに川向こうの越前堀まで行き、灘屋で聞き込んで帰ってきたのだろう。顎の先からぽたぽたと汗を流していた。

「親分、灘屋は磯善からまっすぐに佐賀町河岸に待たせていた猪牙船に乗って帰ったそうで。清助を入舟になんか呼び出しちゃいませんでした」

松吉は息を切らしながら言葉を継いだ。

 それに耳を傾けつつも、辰蔵は足を止めなかった。

「松、おいらはこれから八百清へ行くが、お前も一緒に来い。おいらが玄関で女将から聞いている間に、お前は裏口へ廻って下働きの女中に聞き込むんだ。昨夜遅くに出掛けた者はいなかったか、しぐれに降られて濡れた着物を干している者はいないか、とな」

 振り向いてそれだけ言うと、辰蔵はへたり込みそうな松吉に目もくれず先を急いだ。

 松吉は鳩が豆鉄砲を喰らったみたいに突っ立っていたが、「へい」と返事して辰蔵の後を追い出した。朝餉を摂らずに走り回ってめまいがするほどだが、昼まで我慢する他はないと腹を括った。

 辰蔵は顔をしかめたまま口の中で何かを呟いた。

 先刻まで道を急いでいた半纏を着た人足は姿を消し、代わって小間物屋や紅屋に貸本屋と様々な担ぎ商人が大風呂敷の荷を担いで通りを行き交っていた。辰蔵は時間に追われているが、門前仲通はいつもと寸分違わない穏やかな営みを繰り返している。そうした平穏そうな景色がなぜか癪に障った。不機嫌そうに大柄な辰蔵が肩を押し出すようにぐいぐいと先を急ぐと、道行く人たちは怖いものを避けるように道を譲った。

 通りに向かって口を開けた門を入って、玄関へ飛び石を伝った。

「女将、もう一度聞かせちゃもらえないか」

 ふたたびおとないを入れると先刻の女中が出てきたが、辰蔵は構わず奥へ向かって声を張り上げた。すると、廊下の奥に女将が姿を現し、立ち止まって辰蔵に頭を下げた。

 何事か、と辰蔵は訝しそうに女将の挙措を見詰めた。

 やがて襖の陰から痩せ細った老人が二人の女中に体を支えられて姿をあらわした。辰蔵は枯れ木のような老人の立ち姿に目を凝らした。

 その昔、八百清の主人は八幡宮の奉納相撲で大関を張ったほどの偉大夫で、包丁人としても八百清をここまでに育て上げた器量人だ。しかし、三年前に中風を患い、今では寝たきりになっていると聞いていた。

「清助は七年前に町奉行所へ勘当の届を致しておりますれば、八百清とは縁もゆかりもございません。店は娘のお篠に養子を取って、その者に跡を継がすことになっています」

 途切れ途切れにそう言った声は、紛れもなく清右衛門のものだった。

 無理を押してでも自分の口で宣言して、清助の咎が八百清に及ばないようにと考えたのだろう。しかし、実の子を廃嫡するのは身を切られるよりも辛いに違いない。このままでは清助は獄門となるが、倅よりもまずは八百清を守るために心を砕かなければならない父親の気持ちが心にしみた。

 だが、辰蔵の勘は図星だったことになる。小躍りしたい気持ちを抑えて、辰蔵は何気ない様子を装った。

「婿養子を取るとは初耳だな。お篠に婿取りの話があったのか。良かったら深川随一の老舗料理茶屋を継ぐ果報者の名を聞かせちゃもらえないか」

 嫡男が廃嫡となれば娘に婿養子を取るのはごく普通のことだ。ここは驚いた様子も見せず、辰蔵は淡々と聞いた。

「板場の二番頭で魚の仕入方を任せています包丁人で、名を銀次と申します」

 清右衛門に代わって女将が答えた。

 心なしか声が沈んでいた。

 銀次と聞いて辰蔵の顔が曇った。銀次のことなら知っている。生まれも育ちも深川大島町で、歳は辰蔵より二つ年下の二十五。越中島に面した大島町には漁師が多く、銀次の父親も漁師だった。貧乏人の子沢山、という通り六人兄弟の次男だった。

 網元に使われる漁師の暮らしは貧しく、銀次も十の声を聞くと口減らしのために八百清へ奉公に出された。それから十五年、八百善の包丁人の中でも銀次は古株となり板場を取り仕切るほどになっていた。

 漁師の倅らしく銀次は浅黒く頑健そうな体躯をし、苦味走った良い男として芸者仲間では評判の男だ。上背も五尺四寸と大柄な部類に属し、そのうえ八百清の包丁人との看板があれば女の方から寄ってくる。

「そうかい、銀次がなあ。世の中じゃ人も羨む玉の輿っていえば若い娘と相場が決まっているが、婿養子ってこともあるんだよな」

 そう言って無理に笑顔を見せると、辰蔵は八百清を後にした。

 門前仲通りを山本町の街角まで引き返して、所在なく立ち止まって後ろを振り返った。そこで松吉と落ち会う手筈になっていた。半間ほどしかない願掛け稲荷の小さな朱塗りの鳥居の前でいらいらして待った。ものの四半刻も待たなかったのだが、辰蔵は半日も待ちぼうけを喰わされたような気になって駆けて来た松吉を怒鳴り飛ばした。

「油を売ってちゃ日が暮れちまうんだよ」

 と、いきなり毒付いたが、松吉は人の良さそうな笑みを浮かべたまま近寄った。

「親分、裏庭の物干し竿に男物のお仕着せが一着干してあったと思って下さい。下働きの女中をつかまえて、誰のものかと聞いたら追廻の弥平のものだったんでさ」

 松吉の報告を聞いていた辰蔵の眉がぴくんと動いた。

「その弥平ってのはどういう男だ?」

 飴玉を口に含んだようなまどろっこしい松吉の物言いに、辰蔵が口を挟んだ。

「まだ八百清に来て二年と駆け出しの小僧で、昨夜は銀次と湯屋の仕舞い湯へ出掛け、しぐれに降られて下帯まで濡れそぼって帰って来た、と」

「銀次はどうだったんだ」

「だから、これから銀次について話すつもりでさ。銀次も弥平と一緒に出掛けて一緒に帰ったと言ってますが、どうですかねえ。これまでも湯屋へ行くといって朝帰りだったことがしばしばあって、八百清の奉公人の間では銀次の女遊びは公然の秘密だったそうです。なにしろ五人いる包丁人で頭の茂吉は通いの所帯持ちで、八百善の奉公人部屋に寝泊りする中では銀次が筆頭です。遅く帰っても文句をいう者はいないわけでさ。ただ、女中頭のお重だけを除いては」

 松吉が誇らしそうに聞き込みの成果を披瀝している間にも、辰蔵は八百清の裏口へ向かって路地へ入った。

 黒板塀に囲まれた八百清の周囲を巡って、裏口まで行った。玄関口も八幡宮を取り囲む堀割に面して猪牙船で乗りつける客も多くいたが、裏口も油堀の河岸道に面していた。川岸近くに並ぶ杭に数隻の川舟が舫ってあった。深川は堀割が縦横に走り、どこへでも舟で行ける。土地の男なら餓鬼の頃に人様の舟を勝手に拝借して遊び、叱られたことの一度やそこらはあるものだ。

 裏木戸を押し開けると、勝手口から大年増の女中が顔を出した。辰蔵を険しい眼差しで見詰めたが、その後ろに松吉がいるのを見つけると表情を和ませた。

「親分さん、ですか。先刻松吉さんに聞かれたことはしゃべりましたが」

「お重さん、ありがとうよ。ついてはもう少し詳しく知りたくてな」

 辰蔵は下手に出て腰を低くした。

「昨夜、銀次はしぐれに濡れて帰らなかったんだな」

「ああ、どこぞで雨宿りでもしてたんだろうさ。だけどいつ帰ってきたか、わっちを誤魔化すことはできないよ。履いて出た銀次の草履があそこに干してあるけど、」

「それでいつ帰ってきたんだ?」

 焦りが声となって現われ、辰蔵は叱るような口吻で聞いた。

「今朝ですよ。不思議なことに着物は濡れてなかったんですけど、草履が水を吸っていました。茶室のにじり口のように履物を外に脱いで部屋へ上がったのか」

 昨夜のしぐれは四つ前後からほんの一刻ばかり、冷たい雨が降って夜明け前がぐんと肌寒くなった。お仕着せを素早く乾かす工夫がないわけではないが、草履が水を吸うとすぐには乾かない。

「にじり口だなんて、お重さんも風雅なことを知ってるんだな。そうか、窓から部屋へ入ったら草履は外に脱ぐってことになるな」

 妙なことに感心して、辰蔵は頷いた。

 今朝、入舟の二階の窓から外板壁を仔細に改めた折、窓枠のすぐ下に何かで擦ったような痕跡があった。紐を窓から垂らしてそれを手繰って部屋へ窓から入り、定吉を殺害後に窓からその紐を使って窓から岸に降り立ったとして、その紐はどうやって始末したのだろうか。『いや、待てよ』と、辰蔵は眉根を寄せた。

 そもそも、定吉殺しの下手人が窓から紐を使って入ったとして、定吉が引っ張り上げたのではないだろう。五尺に満たない女の定吉にそれほどの腕力があるとは思えない。

「銀次は八百清の婿養子になる手筈のようだが、お篠以外に親しい女はいなかったのか」

 もう一点の疑問を、辰蔵はお重に聞いた。

 すると、お重は「あの薄情者が」と吐き捨てた。

「八百清の女中や仲居で銀次から言い寄られなかった女はいないよ。口説くのが銀次の挨拶代わりだけど、中には真に受けて本気になり間深な泥沼に嵌まりこんだ女も何人かいるよ。他にも八百清に出入りする芸者衆にもこまめに声をかけていたから、銀次とかかわりを持った玄人衆も幾らかいるだろうさ」

 投げやりな口吻で言って、お重は薄ら笑いを浮かべた。

 どうやら何年か前に銀次と肌を重ねる関係になったが、今ではすっかり冷め切っているものと思えた。

「それじゃ、銀次がすんなりと八百清の婿に納まれるとも思えないな」

「それが、銀次ほどの腕を持つ独り者の包丁人がいないのさ。頭は所帯持ちだし、三番手の春蔵は谷中の『山水楼』から預かっている御曹司だからね。後の二人はまだ半端な包丁人ばかりで八百清の暖簾を任せられるような者がいないのさ。本当なら春蔵にお篠さんを娶わせて山水楼へやりたいのだろうよ。しかし、八百清の跡取の若旦那が人殺しじゃねえ」

 ため息とともに、お重が辰蔵を見上げた。

 銀次が八百清を継いだらどうなるのだろうか、と慨嘆とも取れるため息だった。

 しかしお重に付き合って、ため息をついて嘆く暇は辰蔵になかった。

「ありがとうよ。松、行くぜ」

 辰蔵は踵を返すと、猛然と早足に歩き出した。

 何処へ行くとも分からないまま、松吉は「親分」と情けない声を出して後を追った。

 

 辰蔵は油堀の河岸道を大川へ下った。

 当然、向かう先は殺しの現場船宿の入舟だ。

 お重の話を聞いているうちに、確かめなければならないことがあるのに思い至った。

 佐賀町へ入ってからも米蔵通りを横切り、油堀の河岸道を大川河岸へ二間ばかり入った。

「邪魔するぜ、山本町の辰蔵だ。ちょいと二階の部屋を見せてくれ」

 声をかけると、辰蔵は勝手に二階へ上がった。

 畳の血糊は拭き取ったのか、血の海だった入り小口はきれいになっていた。ただ、血生臭い匂いはかすかに残り、凶行のあった部屋の陰鬱さが感じられた。

 辰蔵は窓際まで行き、明かり障子を開けて窓枠や板壁を仔細に見詰めた。

 階段を上がってくる足音がして、女将が姿を見せた。

「御城下にまで人殺しの噂が広まっちまって、入舟の商売は上がったりさ。こんどはわっちが首でも吊らなきゃならなくなっちまう」

 泣き笑いの表情を浮かべて、女将が部屋へ入ってきた。

「掃除をしたようだが、何か落ちちゃいなかったか」

 窓枠の端に紐で擦れたような跡があるのを確かめて、辰蔵は部屋を見回した。

 窓の奥は一間幅の床の間があり、半間の違い棚との境に絞りの床柱があった。辰蔵はその床柱へ近寄り、違い棚の取り付けられた箇所の柱を仔細に見た。

「ちょうどその辺りの畳に細かい麻屑がたくさん落ちていましたよ。誰かがその床柱に麻縄でも縛ったのだろうかね」

 女将の言葉を裏付けるように、床柱の窓枠と同じ高さの所に何かで強く擦ったように木肌が傷ついていた。辰蔵はそれを確かめると小さく頷いた。水の腐食に強い麻縄なら大抵の舟に積んである。しかし、二階から垂らして河岸から昇り降りするには長い麻縄が必要だ。そうした長い麻縄があっても不思議でない場所は漁師町ということになる。網を引くのにも必要だし、幾隻もの漁船をまとめて岸に繋ぐのにも長い麻縄を使っている。

辰蔵は部屋から出ると入舟の裏手へ廻り、大川河岸の石組と板壁の一尺ばかりの犬走りを横這いに部屋の窓下まで行った。

 二階を見上げると恰も切り立った崖のようだった。いかに身軽な盗人でもヤモリのように壁にへばりついて登るのは困難だ。板壁に足をかけて、綱を手繰って登ったとすればかなりの腕力を必要とする。下手人は船から麻縄を窓へ投げ入れ、定吉が床柱に縛り付けるのを待って窓へ上がったのだろう。そして凶行に及んで定吉を殺し、麻縄を伝ってこの河岸に降り立った。すると、床柱に縛ったままでは麻縄を持ち去ることはできない。殺してから麻縄を解いて床柱に通しただけにしたはずだ。そうすると、麻縄は二階の部屋までの二倍の長さが必要となる。普段からそれほど長い麻縄をどの川舟も積んではいない。あるとすれば漁師町の舟だ。

「女将、入舟は船宿だよな。それなら船頭がいて、猪牙船でおいらたちを大島町まで送るのは何でもないことだよな」

 謎掛けのようにそう言って、辰蔵は一尺幅の石組の上を歩いて仙台堀河岸の女将に近づいた。

「ああ、ウチは船宿さ。大島町だろうと御城下だろうと送らせてもらうよ」

 女将は謎が分かったように微笑んで「巳ノ吉に送らせる」と言葉を継いだ。

「頼むぜ、朝から歩き廻って足が棒になっちまってるのさ。おまけに腹ぺこときてら」

 辰蔵も女将に苦笑いをして見せた。

 既に日は高く昇っている。もうじき午だろう。夜明け前から走り回って半日過ぎた。残り、あと半日だ。夕刻には清助は鞘番所へ送られ、下手人として自白を求められ苛烈な拷問を受ける。急がなければならない、と猪牙船に揺られながら大川河岸の景色を眺めた。

 向かう先は銀次が生まれ育った大島川河岸に沿って建つ棟割長屋だ。

 元々は界隈の顔役嘉兵衛の家作で嘉兵衛長屋といわれていたが、いまでは人は鰯長屋と呼んでいる。三十年以上も潮風にさらされ、江戸湾から吹き付ける季節風に痛めつけられて板壁も剥げ、木肌の屋根もところどころ穴があいていた。軒もかしぎ、土壁も半ば崩れている。そうした長屋を人は洒落て鰯長屋と呼んでいた。鰯は魚に弱いと書く。

 辰蔵も鰯長屋の由来をそうしたことだろうと思っていたが、河岸道に上がって鰯そのものだと気づいた。

 河岸に長屋の女たちが粗莚を広げて座り、男たちが夜明け前に獲ってきた鰯を目刺に作っていた。河岸には端から端まで簾のように目刺が細引きに吊り下げられ、青臭い強い匂いを放っていた。

 銀次の生家は鰯長屋の東端にあった。朽ち果てた敷居には腰高油障子もなく、引き戸の代わりに筵が吊り下げられていた。

「ごめんよ。誰かいるか」

 筵を右手で少しばかり退けて薄暗い部屋に声をかけると、背後から「何だね」としゃがれた返事があった。

 河岸沿いに張り渡した何段もの細引きに干された目刺の簾の陰で、白髪頭の年老いた母親と十五六の娘が笊から鰯を拾い上げては串に通していた。

「ちょいと聞きたいことがあるんだが、」

 声をかけながら辰蔵は歩み寄り、女たちの傍にしゃがみ込んだ。

 女たちは用心深く黙ったまま辰蔵を見詰め、手だけを動かし続けた。

「まったくの藤四郎が十日ぐらいで櫓を漕げるようになれるだろうか」

 釣り舟を操って江戸湾へ舟釣りへ出掛けるにはどうだろうか、と聞くような口吻で辰蔵は問い掛けた。

「前に進むだけなら三日も櫓を扱えば出来るようになるだろうよ。ただ、舟を手足のように操るには一月ばかりかかるだろう。ここらじゃ、五つ六つの餓鬼だって漕いでるけど」

 娘が顔を上げると、自慢話を語って聞かせるように言った。

 辰蔵はにっこりと微笑んで、「ところが、おいらは左利きなんだ」と聞いた。

 舟は右利きの者が漕ぐように櫓は艫の左についている。それを何気なく聞いたつもりだったが、老婆が濁った瞳を向けて辰蔵を睨んだ。辰蔵は老婆に意図を読み取られているのを感じて肝が冷えた。

「わしは六人も子を産んだが、左利きは銀次だけだ。しかし、銀次だって他の子と同じように餓鬼の頃から櫓を漕いでいた。そうしなけりゃならねえってことは出来るってことさ」

 老婆が故意に銀次の名を口にして、逆に探りを入れてきた。

 それぐらいのことが分からないようでは岡っ引は勤まらない。

「へえ、お前さんが名高い八百清で二番頭を勤める評判の包丁人銀次の母親かい」

 驚いたように辰蔵は声を張ったが、母親はつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「岡っ引はこれだから嫌いだよ。懐の棒十手の柄がそこに突き出てるじゃないか。端っからここが銀次の親元と承知之助で来たくせに。なにかね、銀次が何か仕出かしたか」

 目刺作りの手を休めると、老婆は深くため息をついた。

「昨夜、勝手に釣り舟を漕ぎ出したと思ったら、夜明け前に血の匂いをさせて帰って来た。それが人様の血の匂いか、魚の血の匂いかわからねえようじゃ漁師の嬶は勤まらねえや。ヤツが乗って出掛けたのはあの杭に繋いである舟だ」

 つまらなさそうに顎で差して、老婆は目刺作りの作業に戻った。

 倅が可愛くない母親はいない。ましてや名高い料理茶屋の包丁人の二番頭として前途洋洋たる倅だ。しかし、それが罪を犯したとなると話は別だ。懲罰には厳格な連座制が適用されるため、咎人を匿ったり庇ったりすると厳しい後難が待っている。

 岡っ引が倅を訪ねてきたことは悪い知らせに決まっている。母親は瞬時にそう悟り、わが懐から銀次を突き放した。娘は怯えたように目を丸くして辰蔵を見上げた。

「まだ、そうと決まったわけじゃないが」

 と、いいわけのように呟きながら、辰蔵は立ち上がった。

 早くも艫綱を引き寄せて舟を改めている松吉の傍へ歩み寄りながら、

「長い麻縄が積んであるか」と、聞いた。

「へい、胴の間に大蛇がとぐろを巻くようにして」

 松吉は嬉しそうに大声で答えた。

 

 いよいよ捕り物は大詰めに近づいている。

 最後はどうしても銀次に訊かなければならないことになる。

 貧乏長屋の建ち並ぶ大島町から蛤町を通って、繁華な黒江町に出た。

「そこの一膳飯屋へ入って腹ごしらえでもするとするか」

 辰蔵が『深川丼』と大書された腰高油障子を開けると、松吉も飛び跳ねるようにして後に続いた。松吉は飯さえ喰っていれば上機嫌な男だった。

 昼時を半刻も過ぎたためか、店の中は空いていた。

 辰蔵と松吉が切り落としの座敷に上がると、残っていた数人の客も帰った。

 浅蜊を使った丼を抱えて忙しく飯を掻き込む松吉を眺めつつ、辰蔵は考えた。

 銀次も包丁人の二番頭として魚仕入方を任され、魚河岸で清助と顔を会わせていたのではないだろうか。二十歳過ぎまで碌に包丁人の修行もしなかった清助が、磯善で自分と同じ主要な魚仕入方を任され、しっかりとその重い役目を果たしている姿を見た。八百清の者は若旦那は放蕩者だと思っているが、銀次は清助がまっとうな包丁人になっているのを目にしていたのだ。そうした折も折り、お篠と所帯を持って八百清を継ぐ話が持ち上がった。しかし、喜びに酔う間もなく、磯善の善三が清助の勘当を解くように持ちかけて来た。清助が五年もひたすらに包丁人の修行に精進し、相当な腕になっていると伝えたのだ。

 元々、八百清ではお篠を谷中の料理茶屋山水の倅春蔵と娶わせようと考えていた。清助が跡取にふさわしい包丁人になっているのなら、八百清にとっては万々歳だ。だが、そうなると銀次の出番はなくなる。千載一遇の機会が向こうから外れてしまうことになる。

 銀次は一計を案じて定吉を抱きこんだ。

 半月の芸者は八百清のお座敷から良く声がかかる。定吉と銀次が親しく言葉を交わし間深い仲になっていたとしても不思議ではない。それが証拠に定吉は「所帯を持って小料理屋を出したい」といっていた。すると定吉が所帯を持つ相手は包丁人だ。確かめるべきことは定吉の男が誰か、ということだ。

「松、腹がしゃんとしたら八丁堀まで行ってくれないか。神尾の旦那に八つ半に八百清脇の願掛け稲荷まで御足労願いたい、と申し上げてくれ。おいらはもう一度半月を当たって見るぜ。下手人の証拠を定吉が持っていなかったか、定吉の部屋を改めたいんだ」

 辰蔵は懐から巾着を取り出すと、波銭を数枚ばかり盆に転がした。

 一膳飯屋から出ると、松吉は門前仲通りを永代橋へ向かって駆け出した。八丁堀の旦那の許しを得なければ、岡っ引が勝手に下手人を縛り上げる権限はないのだ。

 今朝は早くからずい分と歩き廻った。

 状況証拠としては銀次に逃れようはないが、まだこれといった動かぬ証拠はない。清助を救うためにも確証を掴んで銀次をお縄にするしかないのだ。

 松吉の姿が往来を行く人たちの間に消えると、辰蔵は山本町の子供屋半月へ向かった。

 半月は朝の慌しさが消えて、死んだように静かになっていた。

 仏はお定の実家へ運んだらしく、線香の匂いすらしなかった。

「邪魔するぜ、亥ノ口橋の辰蔵だ」

 黒格子戸を開けて、辰蔵は声を張り上げた。

 階段を下りてくる足音がして、玄関の明かり障子が開けられた。

「はい、お母さんたちは定吉姐さんの家へお悔やみに出掛けられて、今はわっちが一人で留守番を兼ねて定吉姐さんの部屋の整理をしていますのさ」

 と、十五六の半玉と思しき女が玄関座敷の畳に両手をついていた。

「ちょうど良かった。荷物の中に定吉と末を契った男の手掛かりがないかと思ってな。手文庫か何かに男からの文でも入っていなかったか」

「親分、芸者は恋文などを遣り取りしないものです。付き合っている相手が誰か、お母さんに露見する元ですから。それと、付け文を頂戴した場合にはすぐに燃してしまいます。そうした文ではありませんが、黒江町は辛抱小路の周旋屋の証文が出てきまして」

 女は『ちょっと待って』と秘密でも打ち明けるように目配せして、廊下を奥へ入って軽やかに階段を上がった。

 辛抱小路の周旋屋は相模屋といって、界隈の地券の売買や家作の周旋を業務としていた。そこの証文とは何か、と怪訝な思いで待っていると、女は息を切らせて玄関に戻ってきた。

「これでございます」

 そう言って広げて見せてくれたのは門前仲町の、今は閉まったままになっている八卦見跡の店を借りる証文だった。

「日付からすると五日前にお定が借家人となって来月から借りる証文を交わしているが、その請人の欄には『ぎんじ』と書かれているぜ。二人が所帯を持ってこの店で小料理屋をやると銀次が定吉を言いくるめた証拠だ。おう、この証文は預かってゆくぜ」

 辰蔵は女に頷いて見せると、証文を懐に入れた。

 相模屋は元は口入屋だった。江戸には多くの相模人が季節毎に働きに出ていた。そうし

た人たちに仕事を周旋し口入屋の鑑札を頂戴した者もいるが、相模屋は出稼ぎの仕事の斡旋から足を洗って家作や土地の斡旋を生業にした。辛抱小路は界隈の商家に上がった奉公人が辛い暮らしに耐えて辛抱することからそうした名が付いたと聞いている。

 半月を出ると、黒江町の辛抱小路へ向かった。

 辛抱小路の六尺路地の奥に、間口二間の仕舞屋があった。油障子に相模屋と大書されていた。障子を開けると、

「ちょいと邪魔するぜ」と、人のいない結界の奥に向かって声を張った。

「誰だね、こんな刻限に。家作の世話なら明日の朝に出直しておいで」

 ごほごほと咳をしながら、小柄な猿のような老人が姿を見せた。

「なんだ、親分じゃないですかい。とうとうお正さんと所帯を持つ気になったんですかな。それで家作はどこらへんがお望みか」

 勝手に決めてかかった話をして、様子が違うと口を噤んで辰蔵を見詰めた。

「これを見てもらいたい。定吉に店を斡旋した請人『ぎんじ』とは何処のぎんじだ」

 辰蔵は懐から証文を取り出して相模屋の目の前に広げた。

「ぎんじは銀次でさ。八百清の包丁人の」

「来月から門前仲町の八卦見が夜逃げしたあの店を借り受けるってことになってるが、手付金やなんかは済んでるのか」

「いえ、その証文は洒落なんでさ。銀次から冗談に一朱で作ってもらいたいと頼まれまして。それがどうかしましたか」

 目を白黒させて相模屋は辰蔵を見詰めた。

 定吉が入舟で殺されたのを町の噂で知っているのだろう、自分が加担した証文が事件の一端を担うことになっていたとしたら、洒落では済まないことになる。果たして辰蔵が経緯を説明すると、相模屋は目を剥いて慌てた。

「ですから、儂の名を良く見てくださいな、『相談屋』と書いてますぜ」

 と、読み辛く崩した書体を指差した。

 なるほど、そういわれてみれば『相模屋』ではなく『相談屋』と書いてある。しかし、相模屋と読めなくもない。辰蔵は喰えない老人を睨んだ。

「いずれにせよ、南町奉行所から差紙で呼び出されて吟味を受けることになるだろう。女の気持ちを弄ぶとどうなるか身を以って知るこったな」

 辰蔵は証文をひらひらさせてから畳んで懐に仕舞った。

 

 八つ半前から門前仲町願掛け稲荷に辰蔵はひそんでいた。

 通りに面した猫の額ほどの境内の奥に半畳ほどの石組があって、そこに神輿のような社が建っている。その小さな朱鳥居の前に所在なく佇み、神尾和馬がやって来るのをいらいらしながら待った。すぐ隣に八百善の黒板塀の入り口が見え、見張りとしては絶好の場所だった。お座敷に上がる前に女を磨こうというのか、湯屋へ向かう何人もの辰巳芸者が辰蔵の前を通り過ぎた。なかには「あら、親分」と声を掛ける芸者もいたが、辰蔵は早く行けとばかりに無言で睨んだ。

 刻限を少し過ぎた頃、神尾和馬は手先の鉄三と梅助を従えてやってきた。神尾和馬は同心らしく黒紋付に巻き羽織に雪駄履きだった。鉄三たちも手先として尻端折りに紺股引に羽織を着ていた。

「旦那、清助はまだ佐賀町の自身番ですか」

 辰蔵は形ばかり頭を下げた。

「うむ、辰蔵の願いだから聞かぬわけにはいかないだろう。それで、下手人の目星はついたのか」

 神尾和馬は表情を引き締めて辰蔵の双眸を覗き込んだ。

「へい、八百清の包丁人で銀次と申します。……」

 半日以上に及ぶ聞き込みで得た成果を報告し、最後に相模屋の偽証文を見せた。神尾和馬は黙って聞いていたが、即座に鉄三と松吉を八百清の裏口へ差配した。神尾和馬は辰蔵と梅助を両脇に従えて、黒板塀の正門を入った。

 黒板塀で囲まれた屋敷は捕り物の場合には下手人の逃亡を防ぐ上で役立つ。玄関の格子戸を開けると、神尾和馬は懐から朱房の十手を取り出した。それを真似るかのように辰蔵も棒十手を手にした。

「誰かおらぬか、御用である」

 神尾和馬は小肥りの体に似ず細い声を張り上げた。

 四十を過ぎた本所改役同心の威厳がそびやかした肩に現れていた。辰蔵は神尾和馬の半歩後ろに立ち、磨き込まれた廊下へ視線を落として耳を澄ました。

 ほどなく、奥の襖が敷居をすべる音がして女将が姿をあらわした。

「これは神尾様、なんの御用でございましょうか」

 定廻りが出張ってきたことに驚きの色を浮かべ、女将は小走りにやって来て転ぶように蹲って両手をついた。

「銀次と申す者、しかと八百清の包丁人だな。本人に訊きたいことがある」

 朱房の十手を右手に持って、神尾和馬は重々しく申し渡した。

 女将は後ろを振り返って「ちょいと」と呼んだ。

「誰か銀次を呼んどくれ」

 廊下の奥に向かって声を上げると、女の声で「へい」と返事があった。

 裏口は鉄三と松吉が固めている。八百清は周囲をぐるりと黒板塀に囲まれている。その塀でも乗り越えて逃げようとしたところで、そんなに簡単なことではない。それに板場は書き入れ時を前にして目の廻るほど忙しいに違いない。銀次が下手人だとして、事件探索の進捗状況が気になるところだろうが、清助が佐賀町の自身番にしょっ引かれたのは知っているはずだ。

 辰蔵の思った通り銀次はお仕着せの藍作務衣を着て、黒襷を手際良く懐に仕舞いながらやって来た。いまのいままで、銀次は板場で忙しく立ち働いていたようだ。

「手前に御用とは何事でしょうか」

 女将の斜め後ろに畏まった銀次の態度は落ち着き払っていた。

 神尾和馬は辰蔵に目配せすると、自分は一歩後ろへ退いた。ここでの詮議は辰蔵に任せる、との意志の現われだった。

 辰蔵は上がり框に近寄り、銀次の襟首を掴みそうな勢いで屈み込んだ。

「昨夜佐賀町の船宿入舟で定吉が殺されたことはすでに聞き及んでいるだろう。そこでお前に聞きたいことがある。神妙に答えるんだ」

 辰蔵は銀次の目の前に棒十手を突き出した。

「恐れながら、若旦那が下手人としてお縄を頂戴したと聞きゃしたが」

 他人事のように言って、銀次は双眸に怪訝そうな怯えを見せた。

 八百清の奉公人として、店の若旦那がお縄になったことを悲しんでいない態度はふてぶてしいばかりだった。襟首を掴んで頬の一つでも張ってやりたい衝動に駆られた。

「それが、定吉の心の臓に突き立てられていた出刃包丁の柄に残った血の手形から、下手人は左利きと判明したんだ。てことは清助は下手人じゃねえってことだ。銀次、お前は確か左利きだったよな」

 辰蔵は懐から手拭に包んだ出刃包丁を取り出し、斜め後ろの神尾和馬に手渡した。

「なるほど、辰蔵の申すとおりだ」

 神尾和馬はことさら確かめるように包丁の柄を眺めた。

「なにをおっしゃいます。左利きの者はこの江戸にいくらでもいますぜ」

 銀次は声を震わせ、顔を引き攣らせた。

「昨夜佐賀町の木戸を通った者はいないが、舟で大川から行けば木戸を通る必要はない。銀次、お前は漁師の倅だ。餓鬼の頃から船を操っていたと、鰯長屋の母親から聞いたぜ」

 辰蔵はじわじわと銀次を追い詰めた。

「おいらがどうしてそんな大それたことを、しでかさなきゃならねえんで」

 叫ぶように声を張り上げて、銀次は辰蔵を睨みつけた。

 廊下に突いた銀次の両手が小刻みに震えだした。

「銀次、観念しな。お前のことはすべて露見してるんだ。八卦見が夜逃げした店を借りると定吉を言いくるめて、相模屋で偽の借受証文を作ったことも、入舟の二階の部屋へ窓から麻縄を伝って入ったってこともな」

 辰蔵がカラクリを解き明かすと、銀次の突っ張っていた両腕から力が抜けた。

「清助が磯善で包丁人として一人前になっているのを、お前は同じ魚仕入方として魚河岸で垣間見て知っていた。清助が放蕩者でなくなれば、お篠の婿養子にと望まれたお前の目論見は外れてしまう。それに口説いて遊んだものの所帯を持とうと詰め寄る定吉を始末しなければならなかった。そういうことだな、銀次」

 追い討ちを掛けるように、辰蔵は畳み込んだ。

「ふむ、己の保身のためには女の命も主家の繁栄も屁とも思わぬ所業に及ぶとは、天をも恐れぬとはこのことぞ」

 神尾和馬は梅助に縄を打つように顎で指図した。

 突然女将が金切り声を上げた。

「銀次、お前はなんてことをしてくれたんだね」

 と、膝立ちになり銀次に掴みかかろうとした。それを辰蔵が抱きとめた。

「おいらは何も知らない。何も知らないんだよ」

 同じ言葉を繰り返して、銀次は髷の根が崩れるほどに首を横に振った。

「お前が定吉に命じたとおり、定吉は清助を磯善から誘い出して酒を飲ませた。窓から入ったお前はしこたま酒を呑まされて前後不覚に酔いつぶれている清助を見たはずだ。出来るものなら清助もついでに殺したかっただろうが、見知らぬ者同士が心中することはありえない。そこで定吉を殺して清助をその下手人に仕立てることにしたんだ。だがな、定吉の亡骸が教えてくれたぜ。下手人は心底信じ切って信頼していた包丁人だと。刃を横に寝かせて着物の上から肋骨の間を確実に心の臓を突き殺すのはよほど出刃の扱いに慣れた野郎だ。しかも、定吉に争った跡は微塵もなかった。惚れた女の真心を悪事に利用するとはとんでもない野郎だぜ」

 辰蔵が追い詰めても、銀次はなおも大きく首を横に振った。

「おいらは何もやっちゃいない。だいいち昨夜、おいらは湯屋から戻って一歩たりとも八百清を出ちゃいない。お仕着せだってこの通り四つ過ぎの時雨に濡れちゃいないぜ」

 銀次は必死の形相に顔を歪めた。

 しかし、辰蔵は「いい加減にしねえか、みっともねえぞ」と軽くたしなめた。

「昨晩は湯屋の帰りに大島町の親元へ行ってお仕着せを着替えて舟に乗り、入舟の大川端の河岸に乗り付けて麻縄を二階の窓へ投げ入れ、定吉が床柱に結わえるのを待って麻縄に伝って入ったことも分かってるんだ。お仕着せは鰯長屋で着替えたために濡れなかったが、草履は鼻緒までぐっしょりと濡れていたぜ。定吉はだませても、深川しぐれはお前の嘘やカラクリをすっかりお見通しなのさ」

 言い聞かすように辰蔵が言うと、銀次は肩の間に首を落として廊下に大粒の涙を落とした。取り縄を手にした梅助が銀次に飛びかかり、手際良くしっかりと腕を捩じ上げた。

 その折「ぎんじ、おめえは……」と廊下の奥から喉を絞るような声がした。そこには必死の形相で襖にすがって立つ清右衛門の姿があった。

 女将はワッと泣き声を上げて、痩せ細った清右衛門へ駆け寄った。

「なるほど、深川しぐれか。粋なものだぜ」

 と、辰蔵の横で呟く神尾和馬の声が聞こえた。

                                     おわり


もう帰れない

                  もう帰れない

沖田 秀仁

絶え間なく牡丹雪は舞い、か細く川面に消えている。

夕日はとうの昔に落ちて、空を錆色に染めていた残照も消えた。

つい先ほどまで凍える風が恐ろしい唸りをあげていたが、いまは嘘のように静かだ。

深いしじまに包まれて小さな社の裏の波が洗う石組の上に蹲っていると、たった一人で江戸の町の片隅に取り残されたような気がして、なぜか気持ちが落ち着いた。そう、わっちは独りぼっちなんだと忘れていた哀しみが俄かに甦り、思わず涙がこぼれた。

一刻あまりもあかぎれた手を擦り合わすこともせず、おさきは仔猫のように体を丸め両膝を抱きかかえてじっと波の揺らめく大川を見入っていた。このまま、どうなったって構いやしない。心の中で何度か繰り返し呟いたその言葉をそっと口にして、闇の底に沈んだ対岸の御城下へ目を遣った。向こう岸は浜町から柏崎にかけて武家屋敷が並び建つが、この刻限には狐火ほどの明かりも見えなかった。

暗くて寂しい、とおさきは思う。

物心ついてから二親と一緒に出掛けた記憶はない。長屋の子供たちは近所の酉市や初午などに、父親に手を引かれ飛び跳ねるようにして行き、その後を母親も連れ立って出掛ける姿を、おさきはいつも木戸口で羨ましく見送っていた。おさきの父親は陽のある内は家に姿がなく、たまに夜更けて戻って来ると決まって泥のように酔っていた。

記憶にある限り、母親はいつも暗い家で忙しく針を動かしていた。おさきと二人して出掛けたのも数えるほどだ。ある日、反物を縫いながらおさきの名は「咲」と書き、花の咲き乱れる春の先触れのさきだと教えてくれた。暖かくなったら草摘みに行こうとも言ってくれたが、そんなのはすべて嘘っぱちだった。俯いて針を動かし続ける母親の背後を通り過ぎるように、季節はいつしか移り変わっていった。柔らかな陽射しに咲き乱れる春の温もりなんか、おさきには無縁のことだった。

楽しかったことの何もない中で、たった一つだけ想い起こせるのは、三年前に母親と二人して出掛けた向島は長命寺の花見だ。江戸中の人が集まったような人出だった。広い境内には桜餅を売る屋台の出店があって、親子連れや揃いの法被を着た仕事仲間が幟の下に群がって買い求めていた。おさきが黙って店先を見詰めていると母親が一つだけ買ってくれた。惜しみつつ口にした桜餅はとろけるように美味しかった。

だがその晩、眠っている間に母親は長屋を出て行ってしまった。酒浸りの父親とおさきを残して。長命寺の桜餅は美味しかったけど、それは母親のいなくなった日の辛い想い出。

「おっかさん、どうしてわっちを置いてちまったんだ」

と、そっと呟いてみる。

どうして? ともう一度言って唇を噛んだ。そのわけは痛いほど分かっていた。母親が家を出てどこへ行ったかも、おさきにはわかっていた。

あれはおさきが十一になった春先、母親がいなくなる一月ばかり前のことだった。

堀割一筋隔てた堀川町の手習指南所から小走りに額に汗を浮かべて戻ったらお客さんが来ていた。それはかつて母親が菊次と名乗ってお座敷に出ていた頃、相仕を組んでいた三味線弾きの駒吉さんだった。母親は小粋な節回しで木場の旦那衆を蕩かしたものだと上目遣いに語って聞かせた。

母親を散々持ち上げた後で「なんだろうね辰巳の菊次といわれた芸者がこんな貧乏長屋に燻っちまって」と、眉根を寄せて哀しそうに呟いた。

「祭礼の宵に門前仲通で見かけた白締込みに半纏姿で御輿を担いでる勘助に一目惚れしちまって。わっちはよせと言っただろう。こうなるってことは最初から分かってたのさ」

そう言った駒吉姐さんはうっすらと両の目に涙を浮かべていた。

おさきは知らなかったけど、父親と所帯を持つ前の母親は評判の辰巳芸者だった。きりっとした目鼻立ちと竹を割ったような性格から御贔屓にしてくれるお客が多かったものだよと、相仕だった駒吉姐さんが言ってた。門前仲町の黒板塀を巡らした料理茶屋の豪勢なお座敷から声がかかり一晩に二ヶ所も三ヶ所も廻ったものだと、駒吉姐さんは小鼻を膨らませたりした。言ったこっちゃないじゃないか、男伊達でいなせな木場人足というのは表の顔、本性は呑む打つ買うの三拍子揃った碌でもない男だと。悔しそうにそう言って駒吉姐さんが口を閉じると、深く哀しいしじまが三人を襲った。誰もが溜め息とともに眉尻を下げて肩を落とした。

いつかは目覚めて真っ当な木場人足に戻ってくれると思ってるだろうが、金輪際そんなことはないと請け合うよ。菊次が首っ丈で惚れ込んでた時はいなせな猫を被っていたが、所帯を持つと途端に勘助の地金が現れただけなのさ、と駒吉姐さんは父親の悪行をなぞってやり込めた。済んでしまったことを口にしたところで、何もはじまらないのに。

駒吉姐さんに言われるまでもないことだ。父親が札付きのワルでこの界隈に名が通っているのはおさきでも知っている。しかしそれでも父親の悪口は聞きたくなかった。おさきは駒吉姐さんが好きにはなれなかった。

派手な着物と白粉の匂いを振りまいて、けたたましく野鳥が囀るようにしゃべるだけしゃべると「また来るからね」と言い残して帰って行った。母親は寂しそうに顔を俯けて一言も何も言わなかった。

記憶にある限り、母親は仲町の呉服屋から頼まれた針仕事に精を出し、朝から晩まで部屋の中でひたすら針を動かしていた。背を丸め縞目も分からないほどくたびれた着物を着た母親がその昔、権兵衛名を菊次といってお座敷に出ていたとは思いも寄らなかった。

 

母親がいなくなったのはその一月後だった。家を出て何処へ行ったのか、おさきには見当がついていた。お馴染みだった旦那衆は菊次のことを忘れていないよ、と駒吉姐さんはしつこいほど言い募った。おそらく母親は駒吉姐さんの誘いに乗って門前仲町の子供屋の橘家へ戻ったのだ。

すぐにも後を追って仲町へ行こうかと思ったが、そうすると材木町の裏店は父親だけになってしまう。父親を独りぼっちにすることは、おさきにはどうしてもできなかった。何日かに一度、思い出したように家へ帰る他は空けてばかりだったけど、それでも誰もいない家に帰るとさぞかし寂しいだろうと思った。

どんなにお祭り騒ぎの好きな男でも好いた女と所帯を持って子もできりゃ、ちったあ料簡して落ち着くものだが、と大家さんも母親がいなくなったのを憐れむように洩らしたことがあった。富ヶ岡八幡宮の祭礼は年に一度だが、お前の父親は毎日がお祭りだから困っちまうね、と寂しそうに笑った。大家さんが顔を出したのはここしばらく店賃が滞っているからだと分かっていた。察しはついていたが、おさきは黙って俯くしかなかった。

長屋の人たちも父親のことを良く思っていないのは分かっている。が、それでも勘助はおさきにとってかけがえのない父親だ。他人なら愛想を尽かして関わりを絶てば良いかも知れないが、おさきにはかけがえのない父親だ。父親のことを思えば哀しくなり溜め息が出るけど、子が父親を選ぶことはできない。

おさきが小耳に挟んだ話では、とうの昔に木場人足をしくじったという。呑んだくれの父親は人足頭から見放され、法被を取り上げられていた。二年近くも前から日雇取りの人夫仕事に出たり出なかったりしているようだ。そして今では新地の賭場へ出入りしているようだと、長屋の人たちが眉を顰めて噂話しているのを聞いたことがあった。

長屋の家で父親の帰りを待ち、日々の暮らしにも事欠くおさきを見かねたように、すぐ近所の煮売り屋の老夫婦が店番に使ってくれた。駄賃として頂く売れ残りの惣菜で、おさきは飢えを凌ぐことができた。長屋に暮らす人達も何かにつけて声を掛けてくれたりして、そうした思いやりに包まれた暮らしが三年ばかり続いた。いつのまにか十一歳だったおさきも十四になり、界隈では深川小町といわれる娘になっていた。

母親がいなくなって、父親はますます家には寄り付かなくなった。

それに伴なって父親のお祭り騒ぎは益々ひどくなり、帰ってきたとしても大抵四つ過ぎ、見るからにまともとは思えない仲間に担がれるようにして。それも、寝静まった長屋の人達を叩き起こすような乱痴気騒をひとしきり演じるおまけつきだった。

おさきは恥ずかしくて仕方がなかった。いない方がましだ、と罰当たりなことまで心ひそかに思ったこともあった。だがついに、思うだけでは済まされなくなってしまった。

それは昨夜のことだ。

思い出すだけでも身震いがして情けなくなる。あんなことならいっそのこと帰ってこなかった方がいっちましだった、と思わず歯を食い縛り涙が溢れた。

富ヶ岡八幡宮の鐘が四つを知らせ、閉じられた木戸の番人と大声で怒鳴りあう醜態をひとしきり繰り広げて裏長屋へ帰ってきた。父親は上機嫌に酔っ払い、鋭い目付きの頬の削げた男の肩を借りて上り框に転がり込んだ。博奕うちの破落戸相手に意見しての後難を怖れているのか、長屋の人は誰も意見しにこなかった。おさきは上り小口でだらしなく伸びた父親を夜具まで引っ張った。そして両膝をついて四畳半の板の間で寝入ってしまった父親を夜具に寝かせていると、

「貸銭の利子代りに頂戴するぜ」                         

と、頬の削げた男は父親に向かって言い訳のように吐き捨てた。

振り返る間もなく、男はいきなり横からおさきの上に被さってきた。

男が何をしようとしているのか分からなかった。獣のような強さでおさきを組敷くと口を尖らせて顔を寄せて来た。おさきは必死に手足をばたばたさせ逃れようと抗らった。

熟柿のような酒臭い息が顔にかかり、荒々しく綿入れの衣紋を掻き分けられた。おさきは両手を伸ばして懸命に男の顔を押し上げようとした。が、難なく右手で両腕を押さえつけられ、男の左手はおさきの蕾のような乳房を鷲掴みにした。声を上げようとした唇は男の唇で塞がれ、唇の間から男の舌が入ってきた。抗らっているうちに裾がはだけ、乳房を揉んでいた男の手が両膝の間に差し込まれた。おさきは両足首を重ね合わせて拒んだが、男は股から手を引き抜くとおさきの頬を手酷く打った。

「聞き分けのねえあまっちょだぜ」

そう言いながら、男は何度も何度も頬を打った。

恐怖と痛みに言葉を失い、おさきは男のなすがままに身を任すしかなかった。

男はおさきの着物の裾を捲り上げて下半身を剥き出しにすると、脚を割って身をのり入れた。「やめて」と心の中で叫んだが、恐怖で押し潰されたように喉から声が出なかった。しかし、押し潰されたのは声だけではなかった。

悪夢のような四半刻はおさきのこれまでの生涯に匹敵するほど途方もなく長く感じられた。鋭い痛みが体を貫き、おさきは呻き声を洩らした。激しく腰を揺する男の動きがとまると、低い喘ぎ声とともに体の奥で熱いものが迸った。穢された、とおさきは深く暗い淵へと落下する絶望に打ちのめされた。目尻から新たな涙が頬を伝って床板に落ちた。

「ヘッヘッ、まさか新鉢を割るとは、思わぬ拾いものだったぜ。これからもちょくちょく可愛がってやるからな」

男は股から下がった物を見せ付けるようにおさきの目の上でぶらぶらさせると、満足そうな笑みを浮かべて下帯の中へ仕舞った。

鼻歌交じりに腰高油障子を閉じて男の足音が長屋の路地を遠くへ消えてゆくと、おさきは力なく体を起こした。衣紋を掻き寄せ着物の裾を合わせたが、お七髷の根は崩れ頬が赤く腫れていた。

腰高油障子を開けて裸足で井戸端へ行き釣瓶を引き上げた。長屋は寝静まったように家々の明かりは消え、鎌のような月が十万坪の彼方に昇っていた。

水音を立てないように絞ると、おさきは乳房を拭い内股とその奥を冷たい手拭いで丁寧に拭った。繰り返し繰り返し血が滲むほど手を動かしながら、記憶までも拭えればどんなに良いかと思った。とめどなく、後から後から涙が溢れてこぼれた。

今朝のこと、目覚めた父親は目を泣き腫らしたおさきに、

「ぐずぐず文句を言うんなら、岡場所へ売ったっていいんだぜ」

と怒鳴り散らし、夜具を払い除けると顔も洗わないで出掛けた。

恨みがましいことの半畳半句たりとも、おさきは口にしていないのに。

煮売り屋の老夫婦は「悪い夢を見たんだ」と慰めてくれた。

悪い夢だった、とおさきも思いたかった。そう思って済ませることができるのなら。

だが、男は顔を寄せると嘲るような卑しい笑みを口元に浮かべて「これからもちょくちょく可愛がってやるぜ」と言った。

男の言葉を思い出しただけで、死ぬほど嫌なことがこれからも身に降りかかって来るのかと、奈落の底に突き落とされるような恐怖に震えた。しかも、父親が楯となって庇ってくれないことははっきりしている。これから先どうすればいいのか、おさきは目の前が真っ暗になった。

花芽の膨らむ季節だというのに寒の戻りか、朝から凍てつく風に雪が混じって横殴りに吹きつけた。いつもと違って夕刻になっても客足がつかなかった。おじさんが早くあがって良いよと声を掛けてくれたが、おさきは首を横に振り日暮れまで煮売り屋で過ごした。

火ともし頃になって、おさきは追い立てられるように店を出た。できればいつまでも店先にいたかったけど、娘でもないのに老夫婦に甘えるわけにもいかない。

煮売屋を出ても行く当てはない。お先の足は裏店へとは向かわなかった。明かりの入った町境の木戸小屋の掛行灯の前を、おさきは小走りに通り過ぎた。

ただただ、おさきは歩き続けた。頬を打つ雪に背を丸めて、家路を急ぐ人の流れに逆らうように軒下を拾って、とぼとぼと大川端に沿った泥濘の大通を上流へと向かった。

何処へ行こうとしたわけでもない。ただこの道のずっと先、両国橋袂の東広小路を横切ってそのまだ先に長命寺があった。麻裏より疲れやすい下駄を素足に履いて、向島まで行こうとしたわけではなかったが。

両国広小路にすら辿りつかないうちに、すっかり夜の帳が下りてきた。小名木川に架かる萬年橋を渡った所で、おさきは河口の空き地へと足を向けた。その空き地は本所深川の景勝の地といえなくもなかった。長命寺の境内とは比較にならないほど狭く、桜の木も花見の名所とは比べ物にはならないほど少ないが、小さな稲荷の社の周囲に数本の桜が植わり花見頃には見物人も訪れた。天気が良ければ葛飾北斎の富嶽三十六景・深川萬年橋下図さながらに、対岸に建ち並ぶ武家屋敷の落ち着いたたたずまいと遥か彼方に富士の峰が望めた。

江戸には伊勢屋稲荷に犬の糞、といわれるほど江戸には稲荷が多かった。おさきは疲れた足取りで背丈ほどもない小さな朱塗りの鳥居を潜った。そして風を避けるように社の裏へ回り込んで体を小さくしてうずくまった。足元の石垣を大川の波が洗い、頭や肩に雪が白く積もって解れ髪や着古した綿入れを濡らした。もう一歩たりとも歩けなかった。

どうしてわっちを置いて行っちまった、とおさきは闇に浮かぶ母親の面影に問い掛けた。いらないんだったら、どうしてわっちを産んじまったんだ。

大好きだった母親に恨みがましい気持ちが湧いて、おさきは目を瞑った。すると瞼の裏側にも牡丹雪が降り、凍えるような冷たさが襲ってきた。心の芯まで冷えたような気がして「おっかさん」と声に出し母親のことを想い浮かべた。暖かい涙が双眸を濡らしておさきの気持ちが少し和むと同時に母親を恨む気持ちが大波のように押し寄せた。なぜわっちを置いて行ったんだ、なぜわっちを産んだんだと心の中で叫んだ。

しかし、生まれてきたことを怨むとは。十四の年まで生きて良かったことなぞ何一つとしてなかったと、そう考えておさきは首を横に振った。世の中にはこの世の明かりすら目にすることのない不幸な水子や、生まれたにしても呆気なく夭折する子も多い。

長屋の人たちや煮売り屋の老夫婦には随分と助けてもらった。これで不足を言ったらきりがないよ、とおさきは自分を厳しく叱った。罰当たりなことを思った自分を詫びるように手を合わせた。すべてを得や損だけで判じてはいけないのだと。

どうしたというのだろう、とおさきは思い直してみる。昨日の自分と今日の自分とで、何が変わったというのだろうか。たった一つ、体の芯を貫いた痛みのほかに。

 だけど、もう帰れない。身を持ち崩し女房にまで愛想をつかされた男でも、おさきにはかけがえのない父親だった。少なくとも昨日の晩までは。しかし、もう父親とは呼べない。

 足下の石垣を大川のうねりが洗っている。唇は紫色になり、冷たくなった手足や顔は色をなくしている。おさきはうずくまったまま新たな涙を静かに流した。

水気を含んだ牡丹雪が降っている、水面に吸い込まれるように。雪華が壊れるようなカサコソとかすかな音をたてながら。

まるで長命寺で見た風に舞う花吹雪のように。後から後から、水の中へと吸い込まれては消えてゆく。お前もおいでよ、と呼んでいるような気がする。


土壇場

 土壇場

                                 沖田秀仁

 打ち出しを告げる櫓太鼓が小気味よく鳴り響く。

芝居小屋の木戸口から人々が疲れたような足取りで出て来る。

日毎に温かさは増しているものの、陽が傾くと寒が忍び寄り背に貼りつく。

人波は太鼓の音に追われるように夕暮れの西広小路に溢れそれぞれに散っていく。

裕福な旦那衆や内儀は柳橋袂の船着場へ向かい、そこから猪牙船や屋形船に乗る。

多くの人たちは両国西広小路を西へ向かい、そこから浅草御門を潜って北へ行く者や、そのまま柳原土手へと流れる者とに分かれ、やがて細い路地へと吸い込まれて、いつしか人影は潮が退くように街の路地へ消えていく。

 両国橋西広小路は江戸随一の盛り場だが、元々は両国橋袂に設けられた火除地だ。そこに芝居や見世物などの小屋が掛かりると見物客が押し寄せ、両国橋広小路は小戸でも一二を争う盛り場となり、屋台や飯屋や茶店や四ツ目屋などが立ち並んで連日祭りのように賑わっている。

両国西広小路の西外れに続く道、浅草御門から筋違御門に到るまでの神田川南河岸を柳原土手といった。元々は飢餓などによる難民救済のお救い小屋や御籾蔵などが建てられて、土手道には柳並木が植えられていたが、江戸も時代が下ると御籾蔵やお救い小屋などは移転してなくなり、その跡に神田川を背にして数百もの古手屋や道具屋などの床店が切れ目なく建っていた。その柳原土手の賑わいも新シ橋辺りまで来ると人通りも疎らになり床店も途切れている。

西広小路に詰め掛ける見物客などの人出の賑わいのお零れに預かって、床店が結構な繁盛を見せるのもその辺りまでだ。新シ橋の更に西の柳森神社あたりまで来ると、さすがに昼でも気味悪がって早足に通り過ぎるほどの寂しさだった。

 ただ柳原土手が人々で賑わうのも陽のある内だけだ。なぜなら柳原土手の床店は夕暮れを待たずして店仕舞を始めるからだ。

床店はそこに住まうことを禁じられている。元々床店が建っている一帯は火除地だ。火除地とは延焼を食い止めるために設けられた空き地だ。そのため、火除地内で火を使うことは厳禁で、従って並ぶ店々は人の棲まない小体な床店だ。だからどの店も日影が長くなるのに追われるように、手早く店仕舞して住処へと帰る。

あたかも逢魔が時を恐れるかのように、夜の帳が下りるころには土手道から人の姿は掻き消えていく。昼間の喧騒は嘘のようで、人っ子一人いないどころか辻斬りさえ怯える寂しさだ。

やや日脚が伸びたとはいえ、床店の者たちは日暮れと競うように店仕舞いに追われていた。

そうした床店の中でも一軒だけは違っていた。柳原土手の床店か途切れる新シ橋から数えて五軒目に、店先に色とりどりの古着を所狭しと吊り下げた古着屋があった。屋号を『丸新』というが、古着を商う古手屋の屋号が『丸新』とは変わっている。それとも「古着を扱ってはいるがすべては新品同様だ」という店主の心意気が込められているのか。

他の店では店の者が忙しく商品の仕舞や戸締りに働いているが、丸新の店先にはまだ店仕舞する者の姿すらなかった。不用心この上ないが、店先に人影がなくても泥棒は決して丸新から古着を盗もうとはしない。なぜなら丸新の店主は元手先で、その店に先刻尻端折りした御用聞きが前かがみに下っ引を従えて店へ入ったからだ。

丸新は他の床店より一回り大きい。それは店の奥には他の床店にはない三畳ほどの切り落としの座敷があったからだ。その座敷の上り框に行儀よく四つの雁首が並んでいる。向かって右から店主の茂助とその居候真之亮、それに界隈の岡っ引の弥平と下っ引の仙吉だった。

本来なら岡っ引が古手屋へ顔を出すとしたら碌な用件ではない。盗品を売り捌いているのではないかと嫌疑を掛けられ、こってり絞られて袖の下を渡すのがオチだろう。客も岡っ引が顔を出すと蜘蛛の子を散らすように店先から立ち去る。岡っ引に目をつけられた店で多少安く買ったところで、いかなる後難が降りかかりるか分からない。だが丸新は少しばかり様子が違った。

丸新の茂助はつい二年ばかり前まで町方同心の手先を勤めていた。手先とは同心の下僕のことだ。町方同心は下級武士の身分で俸給は三十俵二人扶持と定められている。「二人扶持」とは少なくとも二人の手先を置く決まりになっている。だから町方同心は二人の手先を屋敷内に住まわしていた。

もちろん手先の身分は町人だ。同心の屋敷の一角に暮らし、同心が出掛ける際には必ずお供をする。同心はお役目として当番月には毎日奉行所に顔を出すため、そのお共をする手先も奉行所に出入りするため羽織を着用して威儀を正した。懐に十手を差しているのは岡っ引と同じだが、羽織を着られる分だけ手先の方が格上だと世間は見ていた。

弥平が丸新に顔を出したのは故売の詮索ではなく、茂助たちから知恵を借りるためだ。弥平が顔を出したのは昨日の夕暮れに起きた人殺しの謎解きだ。弥平のよく知る男が浅草待乳山聖天宮の境内で殺されたという。名を庄治といって浅草広小路の小料理屋で中居をしている女と元鳥越町の裏長屋で暮らしていた前科持ちだった。

 事件の発端は元鳥越町の裏長屋の庄治の家に投げ込まれた文だ。昼下がりに近場の普請から帰っていた庄治目掛けて、路地から明かり障子を破って石に包まれた文が投げ込まれた。庄治は張り替えたばかりの障子に穴をあけられ、向かっ腹を立てて表へ飛び出てみたが、通りには誰もいなかった。誰がこんな真似をしたのかと、庄治は往来に立ったまま握りしめていた文に目を落とした。投げ文には「一晩の助っ人で五十両。暮れ六つに浅草本堂裏に来い」とあった。何処の誰が自分を呼び出しているのか、と庄治は心当たりを探ったが、コレといって思い当たる者はなかった。しかも人を誘うにしては文面が穏当とはいえなかった。

庄治は投げ文に心当たりがないため、後難を絶つために界隈の岡っ引弥平を自身番に訪れた。ちょうど折よく弥平は町廻りから帰ったところで、疲れた顔をして上り框に腰を下ろしていた。自身番の引き戸を開けた庄治の顔色が尋常でなかったため、何事かあったのかと弥平は少しばかり身構えた。

暮れ六つ、投げ文の通りに庄治は家から浅草本堂へと向かった。初午から数日過ぎたばかりの肌寒い夕暮れに、弥平は用心深く庄治の後をつけた。十間ばかり間を置いてつけていたが、浅草本堂裏からいきなり庄治が聖天宮へ向かって駆け出し、勢いそのままに石段を駆け上がった。弥平も懸命に庄治の後を追ったが、石段を駆け上る前に息が切れてしまった。石段下で一息入れてから歩いて聖天宮へ歩いて登ったが、その間隙に惨劇が起きたというのだ。

「庄治は四年前にあっしがお縄にした盗人ですが、今ではすっかり悔悛してあっしの手下を勤めていました。それが昨日のこと投げ文があって『一晩の助っ人で五十両』と持ち掛ける者がいまして。暮れ六つに浅草寺本堂裏に呼び出されたンだがどうだろうかと、新旅籠町の自身番にいたあっしの許まで律儀にもわざわざ知らせて来たンでさ」

 辛そうに顔を歪めてそう言うと、弥平は真之亮と上り框の茂助を順に見廻した。

 弥平は感情を抑えるように手炙りに手を翳して、店に吊り下げられた古着に目を遣ってからゆっくりと話の接ぎ穂を紡ぐように口を開いた。長年の岡っ引稼業で日灼けがシミとなって顔に浮き出て、黒くくすんだ狸顔は泣き顔になっていた。

「盗人稼業から足を洗って、おけいとやり直そうとしていた矢先だったから、庄治は堅気の暮らしを邪魔する野郎は勘弁しねえと怒っていやした。あっしもどんな奴が庄治を呼び出したのか知りたくて、慎重に後をつけたと思って下せえ。陽が落ちて辺りは急に暗くなり、さしもの奥山も人影は疎らになっていやした」

 挑むような眼差しでそう語って、弥平は辛そうに顔を歪めた。

「ところがそこで待っていたのは餓鬼だったンでさ。年端も行かない子供が波銭の駄賃を貰って庄治が来るのを待っていた。庄治があたりを見回していると餓鬼が『おめえが庄治か』と聞いてきた。「おう、そうだ」と答えると、餓鬼は握りしめていた紙切れを渡した。庄治が急いで紙を開けて文字を拾うのを、あっしは離れたところで見ていやした。それには『駆け足で聖天宮へ来い』とでも書かれていたのかと。庄治は振り向いてあっしに目配せすると急いで待乳山(まつちやま)まで駆けて行き、参道の石段を駆け上ったンでさ」そう言うと、弥平は辛そうに首を左右に振った。

 庄治は四年前にお縄になるまで鳶をしていた。普請場の高い丸太の足場の上を自在に動き巡り、その身軽さと向こう意気の強さから『山猫の庄』と呼ばれていた。身軽さは昔取った杵柄で長い石段を駆け上る三十前の庄治の足と、五十前の腹のせり出した弥平の足とでは足が違った。待乳山は七丈余りの小高い丘だが、庄治の後を追った弥平は石段の途中で息が切れ、途中で足が止まった。それでもやっとの思いで頂上の聖天宮境内へ行ってみると、夕暮れの境内築地塀前の暗がりで庄治は心ノ臓に匕首を突き立てられてすでに事切れていた。

ほんの一服する間もないほどの出来事だ。弥平はまだ下手人が近くにいるものと見て、すぐさま残照の消え残る明かりを頼り社の床下から周囲と見渡せる限り目を凝らした。しかしそれらしい人影はどこにもなかった。こんなはずがあるものか、と弥平は目を凝らしたが、間もなく残照も消えて境内は闇に閉ざされていくばかりだった。怪しい者どころか、薄暮の境内には参詣人の姿すらなかった。

「境内や麓を調べたが怪しい人影どころか、人の気配すらなかったというわけか」

 話の続きを茂助が引き受けて、弥平に念を押した。

 弥平は「へい」と頷いて、さらに表情を暗くした。

「庄治を呼び出した投げ文ってのはどこにあるンだ。良かったら見せてくンな」

 茂助が手を差し出すと、弥平は力なく首を横に振った。待乳山で庄治の懐を改めたが、下手人からもらった文は消え失せていた、というのだ。

「途中で掏摸取られたのか、それとも殺されてから奪われたのか。庄治が懐に入れたのは間違いねえンですがね」と言うと、弥平は面目なさそうに項垂れた。

 聖天宮への参詣には二通りの道がある。一つは庄治が駆け上った石段からの道で、いま一つは山谷堀の船着場から待乳山へ登る一筋の獣道だ。山谷堀の船着場とは江戸市中から猪牙船でやって来た遊客が船から降りて、ナカまで日本堤を徒歩か駕籠で行くかの中継ぎ地で夜中まで結構な賑わいを見せている。

昨夜も客待ちの駕籠掻きや船頭たちやナカへ繰り出す遊客たちで賑わっていたはずだが、昼間に弥平が船着場周辺の茶店を聞き回ったところで、待乳山から下りて来る怪しい者は誰も見掛けなかったという。

「四年前、庄治をお縄にしたのは弥平だったのか」

 茂助はぼそりと呟いて、肌寒くなったように肩の間に首を竦めた。

 初午が過ぎたばかりで、僅かに暖かくなったとはいえ寒の戻りのある季節だった。

「真面目に三年の寄場送りを終えて、挨拶にきた庄治をわっしは町内の肝煎に頼んで、芝居小屋の書割りや裏方仕事に使って貰っていたンでさ。昔の悪党たちとはきっぱりと縁を切って、恋女房のおけいにも喜ばれていたンでさ。顔を見知った界隈の悪党に妙な動きがあったり、何かにつけてあっしに教えてくれたりしたンですがね」

 そう呟くと、弥平はいよいよ表情を暗くして溜め息をついた。

 一度道を踏み外すとなかなか堅気の暮らしには戻れないものだ。世間も前科者をそういう目で見ている。だから本人はきっぱりと足を洗ったつもりでも、いつしか悪仲間が纏わりついてきて悪事に引き込む。真っ正直に生きようと心に決めていてもつい誘いに乗って元の木阿弥と、再び悪事に手を染めてしまうのが常だ。

 庄治が躓いた切欠は酒の上の出来事だったという。鳶仲間と居酒屋へ行き、たまたま同席した人足が他愛ないことから口論を始めた。お互いの仕事自慢や男自慢から口論になるのはよくあることだ。いつもの他愛ない組自慢だと聞いていたものの、口論が次第に熱を帯びて、いつしか口喧嘩から罵り合いになった。ついには両方とも立ち上がって今にも殴り合いそうなほど殺気立った。喧嘩になってはまずいと、鳶小頭の庄治が男伊達に仲裁役を買って出た。

もちろん庄治は仲直りの手打ちをするつもりだったが、庄治が両者の間に割って入るや、いきなり力自慢の人足に頬桁を張られた。

入り戸口まで二間ばかり殴り飛ばされると、何かの箍が外れた。酒の酔いも手伝ってたちまち喧嘩の血が沸騰し、庄治は木戸の横にあった心張り棒を手にして立ち上がり、前後を忘れて殴った相手めがけて振り回した。弾みで人足の一人に腕の骨を折る大怪我を負わせ、一人の額を割ってしまった。人足の頭から血が噴き出ると庄治は正気を取り戻したが後の祭りだ。居酒屋を飛び出して姿を晦ますと、間深い仲になっていたおけいの家に身を潜めた。

相手が騒ぎ立てれば町方役人の手を煩わせる事態にもなりかねない。だがそこは鳶の親方が一肌脱いで人足頭と掛け合って丸く収めてくれた。しかし、それが元で庄治は鳶職をしくじり、破落戸とつるんで悪事を働くようになった。

 おけいは浅草広小路の小料理屋で仲居をしている女だった。石川島の人足寄場から帰った庄治が親方から許されて元の鳶に戻れたら所帯を持つと約束して、それまでは広小路の肝煎が心配してくれた見世物小屋や芝居小屋の裏方で下働きをしていた。

「悪事から足を洗い真っ当に生きようとする者を、誰が何のために殺めたのか」

 と静かな声で言って、真之亮は腕組みをして首を捻った。

 弥平の話では庄治は心ノ臓に匕首を叩き込まれていた。だが、腕や手に抵抗した痕跡の『庇い傷』はなかったという。それどころか弥平は庄治からそれほど離れてなかったにも拘わらず、庄治が誰かと激しく言い争う声も耳にしなかった。

すると到底考えられないことだが、庄治は匕首を心ノ臓に突き立てられるその瞬間まで、木偶の棒のようにつっ立っていたことになる。五尺一寸余りと体躯は人並みだが、元鳶職の庄治は敏捷な身のこなしと腕力では誰にもひけを取らなかったはずだ。くだんの喧嘩でも大男の人足たちを相手に飛鳥のように立ち回ったと聞いている。あるいは人に殺められたのではなく、逢魔が時の百鬼夜行の類に祟られたのだろうか。

「近所へ使いに出していた仙吉が戻るのを待って、二人で後をつけていればこんなどじは踏まなかったンだ。おけいに合わせる顔がねえ」

 弥平は諦め顔にぼやきを何度か繰り返したが、茂助と真之亮は相槌も打たずに真剣な眼差しで考え込んだ。

 その真剣さに、弥平も釣り込まれるように表情を引き締めた。

「親分、庄治が親しくしていた者の中で、恨みを買っている者はいねえか」

 弥平の双眸を見詰めて、茂助が訊いた。

「いやいや茂助さん、庄治に限って人から恨まれるようなことはないと思うぜ」

 弥平は庄治が心を入れ替えて、堅気者になろうと努めていたのを知っていた。

「悪仲間のことだけじゃねえ。たとえばだ、おけいを他の男が懸想していたとか」

 と、茂助は世間話でもするように聞いた。

茂助は下手人探索の手掛かりを得るために、考えられる様々な想定を並べてみた。しかしおけいに対する申し訳なさで意固地になっている弥平の気持ちを逆撫でしたようだ。庄治やおけいの身辺を丹念に調べるように勧めた茂助の気配りは弥平に通じなかった。弥平は忽ち口を尖らせると、髷根が崩れるほど大きく首を横に振った。

「小料理屋の仲居をしていやすがね、おけいは客に色目を使うような尻軽じゃねえ」

 取りつく島もなく、弥平は言下に否定した。

「それじゃ、誰が何のために庄治を殺したってンだ」

 怒ったように茂助が訊くと、弥平は口を閉ざして落ち込んだ。

 重苦しい空気が漂ったが、丸新の居候が口を開いた。

「少なくとも、下手人は庄治のことを良く知っていたってことだ。庄治が前科持ちで石川島の寄場にいたことや、今は何処で暮らし何をしているかを。だが、それだけじゃない。肝心なのは庄治も下手人を知っていたということだろうよ。息がかかるほど下手人が近寄って来ても、まさか匕首を心ノ臓に突き立てられ、殺されるとは露ほども疑わなかったってことだろうからな」

 真之亮がそう言うと、弥平は驚いたように目を剥いて「へい、確かに」と頷いた。

 さすがは八丁堀育ちだ。伊達じゃないと驚愕の色が浮いた。

「庄治が気を許す者とは、この界隈でいえば肝煎か弥平親分ということになるのか」

 と呟く真之亮の言葉に、弥平は「へえ」と曖昧に返答して考え込んだ。

「寄場から娑婆へ戻ったのが一年ばかり前。それから芝居小屋で働いていたが、親しくしていた奴が他にいたかどうか」

と真之亮を見詰めて、弥平は自信なさそうに首を傾げた。

 夕暮れ時の柳原土手の古手屋で茂助に愚痴を聞いてもらい、同時に事件の糸口でも掴めればとやって来たが、かえって岡っ引として考えの甘さを突かれて、弥平は下っ引の仙吉に力のない眼差しで振り返って「引き揚げるとするか」と声をかけた。

 しょんぼりと立ち去る弥平と仙吉の姿が家路を急ぐ人波の雑踏に紛れると、二人は地蔵様のように並んで座敷の上り框に腰を下ろして黙ったまま往来を眺めた。一間幅の上がり框に小柄でやや背の曲がり始めた茂助と、いかにも剣術達者な背筋の伸びた真之亮の後ろ姿が身じろぎもせずに並んで暮れなずむ表を眺めた。吊るした古着の間から見える夕暮れ時の往来の景色が珍しいわけではない、二人は腑に落ちない事件の謎と向き合っていた。 

丸新は間口二間に奥行き三間の粗末な板壁木皮葺きの小屋だが、丸新だけがそうなのではない。神田川を背にして柳原土手に並ぶ数十軒の古手屋や道具屋はすべて板囲いに板屋根の床店だ。しかも丸新以外の他の小屋は丸新よりもさらに小さかった。間口は同じ二間ばかりだが奥行きは半分程度だ。古手屋の屋号は『丸新』だが、それは茂助の心意気のあらわれだ。扱っている着物は紛れもなく古着だが、いずれも真っ新のまるで新品と変わりないとの意気込みからだ。

 茂助は考え込んでいたが諦めたように顔を上げると真之亮を横目に見た。

「真さん、庄治殺しの一件をどう思いやす」

 茂助に唐突に問われて、真之亮は「うむ」と戸惑ったように小さく頷いた。

 実のところ、真之亮も奇妙な事件だと首を捻っていたところだ。

事件の中でも、人殺しは下手人の目星がつきやすい。痴情怨恨に物取りといって怨みを晴らすとか物を盗み取るとかあるいは色恋沙汰とか、殺しという大それた事件を起こすには下手人にも誰にでも納得のいく理由があるものだ。しかし庄治の場合は殺されるほどの理由が見あたらない。二人はどちらからともなく顔を見合わせて首を捻った。

「ともかく良く分からぬ。庄治は懐に大枚の小判を持っていたわけでもなし、恋女房のおけいが間男をこさえたというのでもなさそうだ。殺された理由はともかくとして、そこへ行って確かめなければ分からないことだが、待乳山の頂きで待ち伏せていた下手人から浅草寺本堂の裏から聖天宮へ上って来る庄治が見えていたかどうか。つまり本堂裏で子供に文を言い付けて落ち合う場所を変えたのは、庄治を尾ける者がいないかどうか下手人が確かめるためだったのではないかとも思えるが」

 真之亮が思いつくままに述べると、茂助は驚いたように目を剥いた。

「だとすると、儂が思い描いていた下手人に対する考え方を改めなけりゃなりません。庄治に付馬がいるかどうか確かめたってことは、下手人が庄治のことを隅から隅まで知っていたわけじゃねえ。いや庄治を殺したのは、弥平親分という付馬に庄治の口から持ち掛けた裏の仕事の一件が洩れるのを怖れてのことかもしれねえ。いや待てよ、あるいは下手人の顔に特徴があって、広く世間に知れ渡っているためか。いやいや、それなら庄治が殺されなかったとしても、会った後で親分にしゃべれば同じことだな、」

 茂助は自問自答しつつ呟いていたが次第に声が小さくなり、ついに黙り込んだ。

「茂助、下手人の容貌に特徴のある黒子とか痣とかがあれば、駄賃を貰った子供でも憶えているだろう。いずれにしても自身番でそれなりに子供から文を渡すよう頼んだ者の人相を聞き出して、人相書を作っているはずだから後日弥平に頼んで見せてもらうとして、今は事件そのものを考えてみよう。まず庄治に一晩で五十両もの大金を払う仕事とは何だろうか。夜盗が仲間を募っている、としても分け前で五十両を出すには数千両を盗むような大仕事でなければならないだろう。そうすると何処かの大店相手に押し入り強盗でも仕出かすつもりとしか考えられないが」

 茂助の疑問を引き受けてそう言うと、真之亮は表に目を遣ってから立ち上がった。

 軒先から差し込んでいた日脚が消えている。そろそろ店仕舞をする時分だ。

火事を出さないための用心に、柳原土手の床店は行灯を置かない決まりだ。そのため日暮れまでに店仕舞して古手屋は古着を柳行李に仕舞って近くの家へ持ち帰るが、茂助と真之亮は柳原土手の用心のために奥座敷に寝泊まりした。それが柳原土手の床店を差配する肝煎から頼まれた役目の一つだった。

いわば茂助は柳原土手界隈の宿直人だ。闇に紛れて破落戸が床店を壊したり火をつけたりしないための用心棒だ。そうした役目があるため丸新は他の床店より奥行きが一間ばかり土手に張りだし、そこが切り落としの座敷になっている。手先をやめた茂助に肝煎が古手屋の沽券を安く世話してくれたのもそのためだった。

 茂助は南町同心中村清蔵の手先を三十余年も勤めてきた。二年ばかり前の冬、中村清蔵は凍えるような明け方に急な心ノ臓の病であっけなく亡くなった。町内の医師を呼ぶ間もなく、家人が起こしに行った時には布団の中で冷たくなっていた。

同心は表向き一代抱え席というが、代々嫡子世襲が決まりだった。先例に倣って、嫡男の中村清之介が清蔵の跡を継いだ。それを汐に茂助は手先を辞めた。

五十過ぎと年は取っていたがまだ足腰は衰えていなかったし、棒術や捕縛術などは若い者より確かなくらいで門前仲町界隈にたむろする破落戸たちも一目置いていた。中村清之介も茂助の腕を惜しんで五十で隠居とは早過ぎると翻意を促したが、茂助の決意は固かった。

 中村清之介が嫌いだったわけではない。むしろ十四の齢で中村清之介が町奉行所へ見習奉公に上がると、茂助は古参の手先として役所の仕来りを細かく教えた、十手術などを教えたりして何くれとなく骨を折った。清之介の手先を勤めてもう一花咲かすのも悪くはないかと考えたりもしたが、中村清蔵には清之介の他にもう一人の息子がいた。それが丸新に居候としている真之亮だった。

兄中村清之介が当主になれば、真之亮は養子として他家へ行くか、八丁堀の組屋敷で部屋住みとして独身で生涯を過ごすのが決まりだ。父親の死後も八丁堀の組屋敷で暮らしていたが、中村清之介が半年前に嫁を娶ったのを機に家を出た。茂助はかねてからその日のあることを予期していた。

真之亮が家を出たのはもちろん兄嫁が気に入らないからではない。真之亮には家にとどまれないわけがあった。部屋住みで生涯を独身で暮らせないわけがあった。それは真之亮に惚れた町娘がいたからだ。

真之亮が家にとどまり兄の部屋住みである限り、武家の定めで嫁を迎えることは適わない。生涯を独身で過ごし、厄介者として人生を送るしかない。万が一にも八丁堀同心から養子の話が持ち込まれ部屋住みでなくなったとしても、武士に町人の娘を嫁に迎えることは出来ない。

兄の祝言の翌朝未明に、真之亮は八丁堀の組屋敷を後にした。家を出た当初から一月半は幼少期から十年来通っている剣術道場の用人部屋で寝泊まりしていたが、茂助から「床店に来ないか」と誘われて古手屋に居を移した。それからは柳原土手の用心棒になっている。

 日暮れて真之亮は店仕舞いに表へ出た。といっても床店の古手屋に下ろす大戸があるわけでもない。店の横壁に括り付けている四枚の板戸を表の鴨居と敷居の間に嵌め込んで猿落しの桟を落とせば終わりだ。三枚までを敷居に滑らせて、最後の一枚は敷居に滑らせておいて店の中に入ってから手探りで桟を落とす。板戸で戸締まりをすると店は窓一つない暗がりとなるが、そうする間にも茂助は店座敷の行灯に火を入れ手炙りの灰を穿って炭を足した。帳付けをするために茂助が文机を行灯の側に引き出すのを見て、真之亮は手炙りから立ち上がった。そして衣桁にかけてあった手拭いを手に取った。茂助が帳付をしている間に一膳飯屋へ行くついでに湯屋へ行くことにした。界隈の肝煎から柳原土手の番人を頼まれているため、二人揃って小屋を空けて柳原土手を離れるのは避けなければならなかった。

「済まないが、先に飯を食って湯に入らせてもらうよ」

 そう言うと、真之亮は手拭いを肩に担いで外へ出た。

 一膳飯屋は柳原土手を挟んで向かいの広大な郡代屋敷の右手、新シ橋寄りの神田富松町の裏筋にあった。屋号を神田屋といい、六坪ばかりの土間に大丸太を大鋸で縦に挽き割った二筋の飯台が並びその周りに空き樽が置かれていた。二十人も入れば肩が当たるほど狭いものだが、親爺と女房が板場で働き小女の二人が土間と板場を行き来した。一膳飯屋の食い物に乙な味を期待しないのと同じように、一膳飯屋の小女に愛想や色気を望むべくもないが客を待たせないのが何よりの取り柄だった。

 客は七分の入りで奥の空いている樽に腰を下ろすと、すぐに無愛想な小女が盆に飯を載せてきた。この辺りは小商いの表店が多く奉公人のほとんどが通いのため、一膳飯屋の客にはそうした仕事帰りのお店者が多かった。

 誰もが親の仇に出会ったような険しい眼差しをして、丼を抱えて飯を掻き込んでいる。真之亮も飯を掻き込んで腹を満たし、干し魚の身をほぐして口に放り込み赤出汁で呑み込んだ。競うように早く食い終えると銭を飯台に置いて一膳飯屋を出た。

 湯屋は通一筋隔てた隣町、豊島町一丁目の富士ノ湯へ行く。湯銭を一月分まとめて先払いすると通いの切手がもらえ、留桶といって自分の手桶を湯屋に置ける。そうすれば湯屋へ一日に何度でも入れるし、手拭い一本肩に担いで行けば良い。

 昔は湯屋の軒下に矢が突き刺さるように描かれた看板が吊り下げられ、「矢が入る」から客が入るの意に用いられていたようだが、江戸も時代の下ったこの時期そうした判じ物まがいの看板は姿を消していた。

肩で暖簾を分けて入ると真之亮は差料を番台に預けた。脱衣場に上って手際よく着物を脱ぎ洗い場へ行って石榴口を潜った。湯船に差し込む明かりは乏しく、もうもうと湯気が立ち込めるために暗い。烏の行水よろしく火傷しそうなほど熱い湯に浸かるとすぐに出た。浮世風呂などで描かれるように湯屋の二階がどこでも繁盛しているわけではない。ことに武家屋敷の多い町では寂しい限りだ。この界隈は武家割と町割が半々だった。古手屋へ戻ると茂助が湯屋へ行く支度をして待っていた。早い時刻に行かないと湯船に垢が浮いてドロドロになり、のんびりと入れた代物ではなくなる。

「先に行かせてもらったが、富士ノ湯は八分の入りで混んでいた」

 真之亮が声をかけると、茂助は帳面を畳んで立ち上がりさっと手拭を担いで「そうですか、それじゃ儂も早いとこ行かせてもらいやす」と言った。

 慌しく茂助が出掛けると、真之亮は四畳半の部屋へ上って大の字になった。昼間の雑踏が嘘のような静寂に、野良犬の遠吠えが寂しげに聞こえた。

真之亮は何かを振り切るように「アー」と声を出して手足を大きく伸ばしたが、反対に心は小さく縮こまった。天下にたった一人置いてけぼりを食ったような寂寥感が身に沁みて気持ちが萎えた。

真之亮は年が明けたため既に二十と五になっている。何かを成さねばならぬ、と五尺五寸の体躯を突き動かす衝動が走る。しかし漲る情熱を何処へ向ければ良いのか、と所在なく屋根底の天井を睨んだ。が、真之亮にはそれほど嘆く必要もない。つい半月前のこと、南町のお奉行から役目を授かった。だから真之亮は浮き草稼業の浪人者ではない。その日のことを思い出すといまでも狐に摘まれたような心地がしている。

 その発端はつい三ヶ月ばかり前のことだった。お玉ヶ池の道場で代師範として門弟たちに稽古をつけていると櫺子窓から道場内の様子を窺う鋭い視線があった。そして稽古を終えるのを待っていたかのように大師範に呼ばれた。奥の客部屋へ入ると先刻見た男が大師範の横に端座していた。

男は南町奉行遠山景元の側役だと名乗った。真之亮を隠密同心に取り立てたい、との御奉行の「口上」を伝えた。突然のことで、側役が何を言っているのか理解できなかった。怪訝そうな顔をしたまま黙っていたが、側役は子細構わず「よって明朝南町の役宅まで出仕せよ」と命じた。役宅とは町奉行が住まう「奥」のことだ。つまり数寄屋橋御門から出入りするのは「役所」だが、南町奉行所の屋敷内に奉行が住まう役宅があって、その出入りには裏口を使用することになっていた。側役は「役宅へ出仕せよ」と命じた。

降って湧いた話で何のことだか要領を得なかったが、ともかく真之亮は南町奉行所裏の役宅へ赴き、三十俵二人扶持の身分となり御役目を拝命した。青天の霹靂だったが、臆するものではない。いかに家を継がない次男とはいっても、そこは八丁堀組屋敷に暮らす身だ。学塾へ通う傍ら心得として手先の茂助から十手術や棒術の手ほどきを受けた。十歳の春になると他の子供たちと同様に八丁堀の学塾へ入れられ、四書五経から一通りの武家の素養として必要な学問を学ばせてもらった。そして十二の春を迎えると学塾に通う傍ら、午後から神田お玉ヶ池の町道場へ通いはじめた。儒学が肌に合わなかったのか学塾は数年で勝手にやめてしまったが、その分だけ剣術修行に熱が入りお玉ヶ池の道場では頭角を現して代師範を勤めるまでになっていた。

剣術に打ち込んだのは剣術家を目指そうとしたからではなかった。ただ道場へ行くより他に身の置き場がなかった。三つ年上の兄が十四の歳から見習い奉公で南町奉行所へ出仕すると、母も父も家人までも兄に掛り切りとなった。真之亮にとって家は居心地の悪いところになった。その真之亮にただ一人茂助だけが熱心に十手術や棒術から捕縛術まで教えてくれた。しかし他の使用人からは何の必要があって茂助が次男の真之亮にそうしたことを教えるのかと白い目で見られたものだった。

二年前の冬、父が心ノ臓の病であっけなく他界すると中村の家は兄が継ぎ真之亮の立場は一変した。武家社会では長子による家督相続が厳格に守られ、個々人よりも家に眼目が置かれた。八丁堀同心でも武家の習いとして嫡男以外の男子は生涯を厄介者として兄の世話になる。人生のみならず人格のすべてまでも否定されたような立場は腹立たしかったが、武家の定めなら受け容れざるをえない。厄介者が厭なら家を出るしかなかった。真之亮が中村家を後にしたのは出たくて出たわけではない。

 何度目かの溜め息を吐くと、裏口が開いて茂助が帰った。

「やけに辛気臭い顔をしておいでですが、どうかなさったンで」

 茂助は声をかけて手拭いを衣桁に掛けると、ふたたび文机の帳面を開いた。

「無為徒食の居候で、茂助には迷惑を掛けるな」

 勢いをつけて上体を起こすと、胡座をかいて真之亮は茂助に詫びた。

「そんなことを考えていらしたンですかい。居候の一人や二人、気になさることはありやせん。この柳原土手の古手屋は小商いといっても、みんなそれぞれ立派に一家を支えているンですぜ。それに真さんは隠密同心として南町のお奉行から朱房の十手を下げ渡されているンだ。世間様に町方同心だと威張れないだけで、立派なお役目を授かっていなさる。そんなことより、弥平が気に病んでいた庄治のことですがね」

 硯箱から取り上げた筆を宙に浮かせて、茂助は首を傾げた。

「どう考えても解せねえンでさ。遺恨でもなく物盗りでもなく痴情でもねえ。すると庄治はどんな理由で殺されなきゃならなかったンですかね」

 と眼差しに手先の鋭さを甦らせて、茂助は真之亮を睨んだ。

「確かに、殺される明らかな理由が庄治にあって、曰く因縁のある者の影が身辺に差していたというのではなさそうだ。昔の悪が仲間に引き込もうとして不都合があって殺した、と考えるにしても下手人が庄治と会ってから殺すまで時間が短すぎる。碌に庄治の話も聞かないで、いきなり匕首を心ノ臓に突き立てたわけだからな」

 茂助の熱気に引き込まれるように、真之亮も声に力を篭めた。

「心ノ臓に匕首を突き立てて、そのまま下手人は逃げていやす。匕首を抜けば血飛沫が龍吐水のように吹き出て、下手人は返り血を浴びることになる。そこまで考えてのことだとすれば、下手人は相当に場馴れした殺し請け稼業ってことになりませんか」

 まだ何も分からない下手人に向かって、茂助は決めつけるように言った。

「茂助、理由は何であれ人を殺める者は悪党だ。ただ拙者が不審に思うのは、庄治が殺されるその瞬間まで、自分が殺されるとは露ほども思わなかったことだ。命を奪おうと襲っても相手に身構えられてはよほど腕が段違いでもない限り、たとえ相手が武術と無縁の藤四郎でさえ、匕首の一突きで仕留めるのは容易じゃないからな」

 そう言って、真之亮は浅く溜め息をついた。

 定廻同心なら支配下の岡っ引を指図したり手先を従えて町奉行所へ出入りして事件を探索したり事件綴に目を通すこともできる。しかし、隠密同心では遠山景元の下知で御奉行の手足として動くだけだ。事件探索に自分から表立って動く立場ではない。

「弥平は庄治と夫婦約束したおけいという女に顔向けが出来ねえと愚痴っていたが、どうも事はそんなに単純なものじゃねえような気がしやす。まっ、儂の勘ですがね」

 長年勤め上げた手先の勘働きをみせて、茂助は眉間に深い皺を寄せた。

 捕物の心得が真之亮にもないわけではない。八丁堀同心の次男として捕物を稼業とする家に生まれた。亡くなった父は本所改役定廻を長く勤め、その背中を見て育った。勘働きするというのか「何か腑に落ちないな」と腕組みをして首をかしげた。慎之介の胸中に不吉な予感が漠然と広がっていた。

 それはこの事件が庄治殺しだけでは終わらないのではないか、との漠とした勘だった。明確な理由のない殺しが起きれば、この先にも理由のない殺しが起きるのではないかという勘だ。そうした慎之介の心の動きを察知したのか、茂助が一つ肯いた。

「頑是ない子供を使って浅草本堂裏から聖天宮へすぐに来いという。五十両を餌に庄治の五体を一晩借り受けて、奴等は何を企んでいたンでしょうか」

 庄治を呼び出した下手人の本来の理由とは何か、と茂助も考えていた。

「ふむ。分からないことばかりだな。ここは明朝にも待乳山まで足を運んでみるとするか」真之亮はそう呟いて、茂助が笑みを浮かべたのを見て口元を綻ばせた。

 亡父は手先や岡っ引に常々「骸に聞け、現場を見よ」と言っていた。下手人はその場で手を下したのだから、なんらかの手掛かりを残しているものだと。

 ことさら父のことを持ち出したわけではなかったが、真之亮が耳の奥底に父の声を聞いたように、茂助も往時に叩き込まれた捕物の心得を思い起こしたのだろう。茂助の肯きは恐らくそうした意味合いに違いなかった。

「血は争えねえや、さすがは八丁堀育ちですねえ」

 といかにも嬉しそうに言って、茂助は帳付けの筆を置いた。

「さあてと、夜鷹蕎麦でも手繰りに行きやすか。湯屋からの帰りに新シ橋の袂に屋台の角行灯が灯っていやしたぜ」そう言うと、茂助は綿入れの羽織に手を通した。

 夜の柳原土手は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。もっとも両国広小路も元々は火除地だから本建築は許されず、芝居小屋や見世物小屋も丸太の骨組に筵を掛けただけの仮小屋だ。人が住まうとどうしても火を使うため、火除地から火事を出したのでは洒落にならないとして人が小屋で暮らすのを禁じた。ただ全くの無人にしては却って火付けや盗賊を呼び込まないとも限らないため、用心に必要な見張り役の寝泊まりのみを許した。そのため夜になると界隈から人影は消え去り、かすかに漂う人の気配は夜鷹とその客のものだけだった。

「親爺、夜鷹蕎麦を二杯くれろ」

 屋台の傍の七輪に屈み込んでいた親爺に茂助が元気に声を掛けた。

「へい、すぐに」と、四十過ぎの痩せた親爺が顔を上げて嗄れ声でこたえた。

 鍋から濛々と湯気が匂い立ち、それに引き寄せられるように夜鷹が二人ほど姿を現した。いずれも地味な藍江戸縞に身を包み、姉さん被りに手拭いの端を咥えている。

「姐さん方も儂たちと一緒に蕎麦を手繰るかい。そんなら親爺、つごう四ツだ」

 茂助は親爺に指を四本立てた右手を差し出した。

 手先を退いて茂助は変わった。本来なら夜鷹は御法度だ。気安く声を掛けて口を利くことなど、以前の茂助にはあり得ないことだ。真之亮の知る限り茂助は悪所に足も向けない堅物で通し、ついに所帯を持たないまま五十の坂を越えてしまった。

 しかし、茂助は変わった。古手屋の親爺になってから手先の重石が取れたのか、まるで別人のようになった。気軽に夜鷹たちに声を掛けたり、店先から往来の人込みから掏摸と見破って捕まえた者の世話を焼いたりする。尻端折りに羽織を着て十手を片手に法度破りは断じて許さなかった堅物の手先と、いま目の前で御法度破りの夜鷹と親しく話す砕けた古手屋の親爺とはあまりに違いすぎるが、いずれの茂助も真之亮には好ましかった。

 闇から角行灯の明かりに現れた夜鷹は三十過ぎの痩せた女と二十歳過ぎの小柄な女だった。下駄の歯を鳴らして近づくと、痩せた女が茂助と並んで縁台に腰を下ろして、ニタッと笑いながら不躾に茂助の顔を覗き込んだ。

「あら、お前さんはこのちょいと先の、古手屋の旦那じゃないかえ」

 と、姉御肌の物言いで茂助に声をかけた。

「ほほう、儂を知っているかい。確かに儂はこの柳原土手で古手屋をやってるが」

 嬉しそうに応えて、茂助は後ろに立つ真之亮を振り返った。

「儂らは床店に寝泊まりしている。何かあったら頼ると良いぜ」

 真之亮の顔色を窺ってから、茂助は女に力を貸すと言った。

 真之亮は驚いて目を見張った。元手先が御法度破りの夜鷹に肩入れしてどうするのか、との思いが走った。町方役人は夜鷹を取り締まる。そしてお縄にすれば見せしめのために無期限、無報酬で吉原に下げ渡すのが御定法だ。つまり捕えられた夜鷹は生涯を苦界に身を沈めることになる。だが古手屋の親父になった元手先はそうした御正道の埒外に生きる女たちを庇うという。

「後ろの若い兄さんは鬢が面擦れしているけど、ヤットウの腕は確かなのかえ」

 女が問うと、茂助は誇らしそうに胸を張った。

「ああ、何処の誰と名を明かすことは出来ねえが、憚りながら神田はお玉が池の世間にも、ちったあ名の知られた町道場で代師範を勤めていなさる。辻斬りが出たら怪我をしないうちに逃げて来るがいいぜ」と茂助は夜鷹に話し掛けた。

「へええ、年は若いけど頼りになるじゃないか」

 驚いたように振り向くと、女は真之亮に流し目を送った。

 真之亮はどう返答したら良いか戸惑った。父の教えに従えば、触らぬ神に祟りなしという状況だ。武家の学問として修めてきた儒学にも「君子危うきに近寄らず」とある。夜鷹なぞとは関わりを持たないことを武家の学問は教えている。しかし、と真之亮は思った。これほど生き生きと女たちと話す茂助を見たことはかつてなかった。

真之亮は黙ったまま、温かい湯気と共に屋台の親爺から手渡された蕎麦を啜った。熱い出汁が五臓六腑に染み渡り、蕎麦の匂いが堪らなく懐かしかった。町衆の中に身を置き、町衆の中で暮らす。もはや八丁堀に戻ることはない。そうした感慨とともに蕎麦を手繰った。

 

 朝早く、真之亮は一人で出掛けた。

 柳原土手を浅草御門まで行き、御門を潜って神田川を渡った。

 大通を北へとり浅草御蔵を右手に見つつ片側町を足早に歩いた。駒形町を過ぎると床店の並ぶ仲見世通りへ入り、まだ見世開き前の人影の疎らな雷門を潜った。

 浅草寺の境内裏は寺の由来から奥山といい掛け小屋の見世物や寄席などがあった。朝早く出掛けたにもかかわらず、すでに小屋の者たちが興行の支度に集まっていた。

 真之亮は北新町の聖天社参道を登った。急斜面の石段を実際に歩いてみると、若さに任せて駆け登った庄治の足に、腹の突き出た弥平が追い付けなかったのも頷けた。

 待乳山は七丈余りの小高い丘だが、眺望が開けて江戸市中が見渡せた。晴れた日には品川の海まで見えるというが、春霞なのか霞んで遠くまでは見渡せなかった。

 頂きの聖天社の周囲を廻ると、浅草寺の裏手から北新丁にかけて見通しが利き、本堂裏手からやって来る者は隠れようがない。あの夕刻、庄治が急いで駆けて来た姿だけでなく、その後を尾けて来る弥平も、下手人からは裸の梢越しに手に取るように見えていたはずだ。

 しかし庄治に僅かばかり遅れて聖天宮へ登った弥平は下手人を見ていない。すると下手人は参道を登って来る弥平とは別の道を逃げたことになる。参道の石段の他に下りる道があるのかと見廻すと、はたして聖天社の東角に山麓の新鳥越町一丁目に下りる一尺幅の獣道があった。それは途中から今戸橋袂山谷堀の船着場へ続く杣道と繋がっていた。

 山谷堀の船着場は吉原へ通う遊客が専ら利用することで知られている。江戸市中から猪牙船で乗り付けた御大尽も山谷堀で下りて、日本堤を吉原へと駕籠に揺られて行くのだ。夕刻なら船着場は書き入れ時でさぞかし混み合っていただろう。待乳山の杣道を今戸橋袂に下りて来たのであれば誰かが見ていたはずだが、よほど派手な格好でもしていない限り、山谷堀の人たちは気にも留めないだろう。だが獣道を降りて来た泥だらけの草履と小枝を引っ掛けた着物た者なら、さぞかし奇異に映ったはずだ。通人を見馴れた船着場の者たちの記憶に残っているに違いない。杣道を下り来ると真之亮は今戸橋袂に店開きの支度をしている茶店を見つけた。そして着物の裾や袖に引っ掛けた小枝を払うと縁台に腰を下ろした。

「店はまだやってないンだよ。雑巾がけしたばかりの緋毛氈も敷いてない商売道具の縁台に、勝手に座られても困るンだけどさ」

 店の奥から真之亮に向けて若い女のつっけんどんに叱る若い女の声がした。

 驚いて立ち上がると真之亮は後ろを振り返りった。お仕着せの藍千本縞を着て、店土間の縁台を雑巾がけしていた女の姿があった。齢に不似合いな厚化粧をしているが、頬のふっくらとした年の頃十四五と見えるどこか斜に構えた娘だった。

「聖天宮へ行って来たら喉が渇いた。なんなら水でも良いのだけどな」

 険しい眼差しを向けた娘に、真之亮は笑みを浮かべて見せた。

 すると板の間を拭いていた年嵩の小女が嘲りの笑みを浮かべた顔を上げた。

「茶店に来て水を呑ませてくれとからかうのはよしとくれ。かといってまだ釜に火が入っていないンだ、お茶の一杯も淹れられないよ。ご浪人は御苦労にも朝早くから聖天社様に縁結びの願懸けかえ」

――茶店に来て水を呑ませろという野暮な男に色事は無縁だろうけどね、との冷笑が女の顔に貼りついていた。

 雑巾を手桶の縁に置くと、塗り下駄を鳴らして店先に出て来た。十六、七の化粧前の浅黒い大造りな顔立ちをしていた。ただ目尻をつり上げ口元を歪めた顔付きには年増女の険があった。真之亮は臆すことなく笑みを浮かべて、のんびりと問い掛けた。

「一昨日の黄昏時に、そこの杣道を下りて来た男を見なかったかな」

 如才なく笑みを浮かべたまま、真之亮はやさしい物言いをした。

 しかし、娘は警戒の色を隠さずに真之亮を足の先から頭の先まで舐めるように見た。山谷堀の茶店で一休みして、取り巻きたちとナカへ繰り出すお大尽の派手な身形と比較されては真之亮に分はない。

「ここはナカへ遊びに出掛ける通人の立ち寄る船着場だ。裏勝りで着飾ったいろんなお大尽がやって来るのさ。わっちら茶店女は待乳山の木戸番じゃないンだ、誰が山からやって来るか見張っちゃいないンだよ」

 取りつく島もなく、女は真之亮を野良犬でも追っ払うように店先から追い立てた。

 しかし怒ってはいけない。およそ人は身形や顔かたちで他人を判断する。真之亮の身形はお世辞にも洒脱な通人とは言い難い。浪人髷とも呼ばれる、月代を剃らない小振りな本多髷を結っている。腰には二本差しではなく、差料の落し差しと素足に雪駄を履いている。とても主持ちの身分には見えない。しかも着る物に無頓着で、五尺五寸の身の丈に合う着物を茂助の商売物から適当に選んだ色褪せた着流しだ。誰がどう見ても真之亮はただの若い貧乏素浪人でしかない。

茶店の小女に軽くあしらわれても仕方ないだろう。真之亮が腹を立て、肩を怒らして懐から朱房の十手を引き抜いて見せたところで、それは野暮の上塗りというものだ。手持ち無沙汰そうに、真之亮は曖昧に頭を下げて店先を離れた。

 待乳山から下りて来た下手人が普通の身形をしていれば誰の目を惹くこともなく、難なく夕暮れの船着場の人混みに紛れ込むことが出来るだろう。釘を隠すには釘箱の中という。田舎の寂しい土地なら余所者が来れば人の目を惹く。ここではそういうわけにはいかない。おそらく、下手人は人に警戒心を抱かせないような真っ当な格好をしていただろう。そうした思案をしつつ、真之亮は柳原土手へと戻った。

「真さん、浅草寺から聖天宮まで歩いてどうでした」

 裏口から座敷に上ると、店土間から茂助が声を掛けてきた。

「別にこれといった収穫はなかったが、下手人は若く身軽な男だろう。そうでなけりゃ、日暮れた杣道を下りるのは困難だ。茂助が推察した通り、庄治と顔を突き合わせた時には下手人は殺害を心に決めていたはずだ。岡っ引の付け馬がいることを下手人は知っていた、しかも殺害後に逃げる手立てまで事前に考えていたのだろう。待乳山の杣道は山谷堀の船着場に出る。遊客か所の者でなければ怪しまれるはずだが、山谷堀界隈の茶店の女たちはそれらしき怪しい者が待乳山から下りて来たのを知らないようだ」そう言うと、手炙りの鉄瓶を取って真之亮は急須に湯を注いだ。

 真之亮は喉に渇きを覚えていた。先刻の茶店で水の一杯も飲ませてもらえなかった。切り落としの座敷に顔を出した茂助に「飲むかい」と目顔で問い掛けて、真之亮は畳の盆に湯飲みを二つ置いた。

「庄治を殺る決意を固めていたってことは、下手人は庄治の後を弥平がつけてると初っから知ってたってことですかね」

 上り框までやって来ると、茂助はそこに腰を下ろした。

「ふむ、どうだろうか。庄治に付け馬がいたとしても対処できるように、していたのかも知れないな。待乳山に登ってみて分かったが頂上の本堂裏から一帯が素通しに見渡せる。夕暮れの暗がりが気になるが、いかに弥平が慎重に庄治の後をつけたとしても、聖天宮から下手人が見下ろしていれば付け馬は丸見えだったろうぜ」

 そう言って、湯飲みを乗せた盆を茂助の横に置いた。

茂助は小さく頭を下げて、心に湧いた問いを投げかけた。

「それじゃ、弥平が後をつけていたから庄治は殺された、と」

――そういうことなンですね、と念押しするように聞いた。

「うむ、あるいはそうかも知れない。庄治に岡っ引の付馬がついていたから始末した、ということかも、な」

 真之亮がそう言うと、茂助は驚いたように顔を上げた。

 下手人は庄治の後を岡っ引がつけているのを知って殺した、ということは庄治に頼もうとした五十両の代価を払う仕事がどんなものかも想像がつくというものだ。

「下手人は悪事に庄治の腕を五十両で借りようとしたが、庄治が岡っ引の手下だと分かって殺したと、真さんはそう言いなさるンですかい」

 手にした湯飲みを宙に浮かせたまま、茂助は目を見張った。

 悪事に引き込もうとした庄治を殺してしまったからには、下手人は代りの者を探さなければならないだろう。多分、一味には身軽な男が必要なのだ。

「仲間を募って、いったい下手人は何を仕出かそうとしてるンですかね」

 庄治殺しの向こうに透けてみえる闇に、茂助は呟きを洩らした。

 真之亮や茂助に江戸の町に姿を隠して潜む下手人を探す手立てはない。姿をあらわすまで手を拱いて待つしかないようだ。真之亮はゆっくりと茶を啜り、「それでは」と町道場へ出掛けた。

 その日の夕刻、丸新に帰ると奥座敷の上り框に弥平と下っ引の仙吉が座っていた。

「どうした、親分と仙吉二人とも揃って浮かない顔をして」

 と、店先から真之亮は揶揄するように声を掛けた。

「へい、今度は昌平橋袂の又蔵親分が使っていた手下が殺されちまったンでさ」

 首をうなだれたまま、弥平は視線だけを上げて真之亮を見た。

「なんだと、いつ何処で殺されたンだ」

 真之亮は弥平の隣に腰を下ろすと、土間の茂助の顔を見上げた。

 今朝話したばかりの悪い筋書きが脳裏に甦ったのか、茂助は顔を暗くした。

「照降町は下駄新道の下駄職人で半次って野郎なンですがね、仕事道具の鑿を巧みに使って音も立てずに雨戸を器用に外す技を持っていやした。五年前に夜烏の寅蔵の三下に加わって呉服町の伊勢屋に押し入ろうとして又蔵に捕まり、石川島の寄場で三年半ほど厄介になっていた男でさ。寄場帰りじゃ親方の細工場には戻れず、又蔵が身元引請人となって下駄新道の長屋で細々と下駄作りの手間仕事をしていやしたが」

 殺された半次について、弥平は独り言のように語った。

「それで、半次は何処で殺られたンだ」と、茂助が急かすように言った。

「いつものように裏長屋で下駄を作っていたら、間もなく暮れ六ツかという時分に近所の年端も行かねえ子供が文を持って来たと思って下せえ。開けてみると『一晩五十両の仕事がある。稼ぎたければ暮れ六つに神田明神の境内に一人で来い。厭なら来ないのがお前の返事だ』と書いてあった。半次はさっそくその文を持って又蔵の家へ駆け付けた。又蔵はあっしから庄治の一件を聞いていたので、間を十分に空けて下っ引と二人で半次の後をつけて行った。神田明神の境内入り小口の鳥居の前に近所の子供が立っていて、「おじちゃんは半次か」って聞かれて「そうだ」と応えたようだ。すると、子供は半次に紙切れを渡した。半次はその紙切れを読むと駄賃と一緒に文を子供に渡して「後から来る岡っ引のおじちゃんにこの紙を渡してくれ」と言って駆け出したそうだ。子供から渡される文を又蔵が手にできるように前もって半次と打ち合わせてあったンだ。半次が立ち去ってから又蔵たちが子供から紙切れを受け取ってみると、『湯島天神へ駆けて来い』と書かれていた」

 そこまで言って弥平は言葉を切り、真之亮が差し出した湯飲みで喉を湿らせた。

「知っての通り、湯島天神は小高い丘にあるが参道の坂道は表と裏に二つ、男坂と女坂がありやす。又蔵は男坂から下っ引は女坂へと廻って二手に分かれて坂を登ったンでさ。手口からして庄治を殺った下手人と同じですから、逃すものかと必死の形相で坂を登った。登りきった茶店の前で下っ引と鉢合わせになったが、夕闇迫る天神様の境内に人の影はなかったというンでさ。しかも庄治と同じで、半次も湯島天神の鳥居の前で匕首を心ノ臓に突き立てられたまま、事切れていたっていうことでさ」

 弥平は首を折ってうなだれ、浅く溜め息をついた。

 話では手口は庄治の時と同じだ。茂助と真之亮は顔を見合わせて頷きあった。

「又蔵親分は下っ引と二人で暮れた境内を隈なく探したが、ついに怪しい者は見つけられなかったって、ということなのか」

話の先を急かせるように、手先の眼差しで茂助が訊いた。

「もちろんでさ。それこそ隠れんぼした餓鬼のように、二人が手分けして日の暮れた回廊の床下から社の裏まで、あますところなく探して廻ったが、参詣人はもちろんのこと怪しい人影もなかったということでさ」

 見つけられなくて当然だ、という顔をして弥平はこたえた。

 昼間であれば湯島天神は相当な賑わいを見せ、参道下や男坂の上にも茶店が出るほどだ。近頃では見晴らしが良いため参詣人ばかりか文人墨客までも足を運ぶ名所だが、日暮れとともに茶店は戸締まりをして無人となり境内から人影も消える。

「いや、今度は庄治の場合とは少しばかり異なるな。湯島天神の境内で下手人が待ち伏せていたとしても、遠く神田明神の鳥居までは見通せないはずだ。又蔵たちは十分に間を取って半次の後をつけた。しかも暮れ六ツをとおに過ぎている。だが、それでも半次は匕首で殺された。ということは半次の後をつける者がいる、と誰かが湯島天神の下手人に知らせたことになる」

 座敷に胡座を掻いていた真之亮が呟きを洩らした。

 その言葉を聞き咎めたように、弥平が首を後ろに捻じ曲げた。

「なんですかい、真さんたちは庄治や半次が殺されたのはあっしら岡っ引がつけていたからだ、とそう言いなさるンで。あっしらが尾けようが尾けまいが、下手人は初っから殺す気でいたンじゃねえンですかい」

 気分を害したように、弥平は眉間に皺を寄せた。

 弥平がそう思いたい気持ちは痛いほど分かる。自分が付け馬で尾けていたために、庄治が殺されたとあってはさぞかし寝覚めが悪いだろう。しかし最初っから殺すつもりだったら場所を変える必要はない。呼び出した場所で匕首を心ノ臓に叩き込めば済むことだ。

「庄治の件も半次の件も、南町奉行所じゃ非番月を盾にとって、本腰を入れてくれねえンでさ。町方下役人に命じて聞き込みや探索に走らせないばかりか、同心の旦那はあっしに他の用件を言い付ける始末で。所詮、庄治も半次も道を踏み外した半端者で、殺されたところで厄介の種が一つ減ったぐらいにしか思っちゃいねえのさ。貝原の旦那にしたところで……」と言いかけて、弥平はいきなり口を噤んだ。

 弥平が口を貝のように閉じたのにはわけがある。南町奉行所定廻同心貝原忠介の家と中村真之亮の家は生垣一筋隔てた隣同士だ。与力や同心は八丁堀の組屋敷に何代にもわたって暮らし、八丁堀の中で親戚よりも濃い付き合いをしている。中村真之亮と貝原忠介とは一回りも歳が違っているが、真之亮は幼い頃から枝折戸を自在に通って隣家へ我が家同然に出入りして、齢の離れた兄弟のようにして育った。

「貝原の旦那が乗り気でねえのなら、岡っ引にゃどうしようもならねえな」

 弥平に同情したのか、茂助はくぐもった声をかけて腕を組んだ。

「前科者が半端者だっていわれりゃ、あっしも呉服屋の小僧をしくじった半端者でさ。又蔵もいまじゃ親分と呼ばれていますが、元を正せば染物職をしくじった破落戸だ。ですから半端者が世間の片隅でまっとうに生きてゆく辛さは痛いほど良く分かるンでさ」と独りごちて、弥平は哀れなほど肩を落とした。

 町方役人は世間では不浄役人と陰口を叩かれている。百石以上の幕臣は将軍に拝謁できるお目見えだが、与力は二百石の身分にも拘らず不浄役人ゆえにお目見えを許されない。岡っ引も世間ではげじげじほどに嫌われ、借家への屋移りを大家に断られることもあった。

 真之亮が八丁堀に住んでいた頃にはそれほどと思わなかったが、市井に暮らしてみると、町衆が町方役人に注ぐ視線に厳しいものがあるのを知った。

「又蔵に手札を渡したのは貝原の旦那ではないな」

 岡っ引は手札を与えられた定廻同心の組屋敷に日に一度は顔を出す。昔から弥平は貝原の家に姿を見せ真之亮も見知っていたが、又臓という岡っ引は知らなかった。

「へい、同じ南町奉行所同心ですが、又蔵の旦那は荒垣様でさ」

 茂助の問い掛けに、弥平は怪訝そうに応えた。

 荒垣は名を伝之助といい南町奉行所定廻同心の中でもなうての頑固者で通っていた。歳は五十過ぎと茂助と余り変わらないはずだ。見習奉公も含めると奉行所勤めは四十年近くになる古参の定廻だ。ただ定廻に昇進したのは貝原忠介が二十代半ばと早かったのと対照的に、荒垣伝之助の場合は十年ほど前の四十過ぎと遅い昇進だった。それも頑固な性格が災いしたのだろう。

 ひとしきり愚痴を並べて弥平と仙吉が帰ると、茂助が上り框に腰を下ろした。

「そういえば神田明神も小高い丘の上にありやすね。たしか七丈余の高さで江戸城下の総鎮守として広大な境内を持っている。一の鳥居に子供を待たせていれば半次も、その後から来た又蔵たちも境内の何処からでも見通すことができる、そうでしょう」

 茂助は座敷で手炙りを抱え込んでいる真之亮に問い掛けた。

 茂助と真之亮は誰かが一夜の仕事に前科者を集めているのではないか、との思いは一致している。身軽な庄治を一味に加えることができなかったため、代りに荒業師の「雨戸破りの半次」を誘ったとは思えなかった。ということは、他にも様々な腕に覚えのある前科者を誘っているのではないか。

「茂助の考えた通りだとして、どうやって遠く離れた湯島天神の境内まで又蔵たちが尾けていると知らせたンだろうか。半次を殺害した下手人は湯島天神で待ち伏せていたンだぜ」真之亮は空になった湯飲み茶碗を両手で包み込むようにして俯いた。

「そいつは儂にも分からねえですがね、いずれの場合もいったん別の目立つ場所に、それも見通しの良い所へ呼び出してから、他の見晴らしの良い場所へ変えていやす。気になりやすのは、庄治も半次も同じように前非を悔いて岡っ引の手下になっていたことでさ」と険しい手先の眼差しをして、茂助は真之亮を見詰めた。

「善行を積んでいる者が良い人生を送れるとは限らない。かえって人の嫉みを買うこともある。ちょっと待てよ、下手人はそのことを確かたのかも知れないな」

 両手で弄んでいた湯飲みを盆に戻して、真之亮は眉根を寄せた。

「なるほど。夜働きのために腕の立つ前科者を集めても、その中に岡っ引の手下がいてはまずい。つまり、そういうことか。岡っ引の手下になっている者を仲間に引き入れちゃ自分で自分の首を絞めることになる、と」

 茂助も飲み終えた湯のみを盆に戻して、真之亮に視線を遣った。

「明日は午前中で代稽古を切り上げさせてもらって、神田明神から湯島天神まで歩き、そのついでに八丁堀へ貝原殿の顔でも見に行くとするか」

 背筋を伸ばすと、真之亮は吹っ切れたような声を上げた。

 すると茂助も頬に笑みを浮かべて「へえ、八丁堀で用事があるのは貝原の旦那だけですかい」と揶揄するように問うて、他に寄る所があるのではないかと謎をかけた。

「なぜだね。兄上や母上と会うと何かと面倒だから、家には寄らないつもりだが」

 そうこたえて、真之亮は茂助から目を逸らした。

「いや、そうじゃねえでしょう。お良さんと逢って、この近くに家を借りる算段をしなきゃならねえでしょうが。いつまでも先延ばしにはできねえンですぜ」

 煮え切らない真之亮を責めるように、茂助は詰め寄った。

――悠長に構えている暇はねえんですぜ、と茂助の強い口調が叱っていた。

 確かに茂助の言うとおりだ。娘が年を取るのは男よりも早く、悠長に構えている暇はない。それを指摘されると真之亮は頭を下げるしかなかった。

 お良は八丁堀組屋敷の南端に寄り添うように貼りついた細長い町割、東南茅場町の町医者了庵の娘だ。歳は二十歳を過ぎて既に年増になっているが、父を助けて薬箱を手に提げて白い上っ張りを着て父の供をして組屋敷に出入りしている。しかし、いつまでもそうしていられない事情があった。それは兄の哲玄が長崎での蘭方医修行から七年振りに帰って来るからだ。

 兄が帰ってくるだけではお良とは無関係だが、ただ哲玄は江戸に帰ると日本橋通の薬種問屋泰正堂の末娘お千賀と所帯を持つことになっている。そもそも、哲玄が長崎へ蘭方医修行するに際して、学資を用立てたのは泰正堂だった。二人の婚姻は了庵と泰正堂の主人源右衛門が決めたことだが、長崎遊学から帰府すると哲玄とお千賀は所帯を持って、東南茅場町の家で蘭方医院を開業することになっている。

 当初長崎への医学修行は三年と期限を切って出立した。が、直後に蘭学嫌いの鳥井耀蔵が南町奉行に就任するとあからさまに蘭学弾圧を始めた。やむなくずるずると帰府を延ばしたが、番社の獄により何人もの高名な蘭学者が捕縛された。哲玄も通っていた江戸でも高名な蘭学塾の師匠伊東玄朴ですら幕府医学学問所教授を解任されて蟄居を命じられた。蘭方医は看板を下ろして医院を閉め蘭学者は鳴りをひそめて逼塞して、時代の嵐が通り過ぎるのを亀のように首を縮めて待つしかなかった。

 そうした時節に蘭学医の哲玄が江戸に戻るのは危険だとして、三年の予定を一年また一年と延ばしているうちに七年もたってしまった。それが去年、鳥井耀蔵が失脚し今年になって丸亀藩御預と決まると、江戸に吹き荒れていたさしもの蘭学弾圧の嵐も過ぎ去った。

しかし歳月は人を待たない。その間にもお千賀も年増といわれる二十歳を三年も過ぎてしまった。泰正堂にとってはもはや悠長に構えているわけにはいかない。哲玄はすでに江戸へ向かって東海道を下り掛川の宿場に着いたとの報せがあったという。

 茂助の苛立ちは尤もだ。真之亮は白い灰の下に覗く赤い炭火を見詰めて、深く溜め息をついた。哲玄が戻れば日を措かずして泰正堂のお千賀を娶り東南茅場町の家で暮らすことになる。狭い家にお良の身の置き場はなくなるだろう。

真之亮は八丁堀の家を出る折にお良と二世を契った。いつまでも待たせておくことは出来ない。真之亮は茂助の怒ったような横顔を見て「そうだな」と力なく呟いた。

「ここは是非ともお良と逢って話さなければはらないだろう、が、」

 と、重い気持ちを引き摺るように、真之亮の物言いは歯切れが悪かった。

「ええい、じれったいな。好いた女と所帯を持つのに、すべてが整うまで先延ばししてたンじゃ、真さんもお良さんも白髪頭の年寄になっちまいやすぜ、儂みてえな」

 茂助はそう言って、店先から声をかける女客に「へい、ただいますぐに、参ります」と声を張り上げた。

 初午を過ぎて、もうじき方々に雛市の立つ時節になっている。

季節の変わり目は古手屋の書き入れ時だ。間口二間の同じような数十軒もの古手屋の建ち並ぶ柳原土手は古着を求める客でひきも切らない。糸を糸車で紡ぎ機織機で布を人の手で織る時代、反物は貴重品だった。たとえ一切れの古布でも継当てに使って粗末にしなかったし、江戸随一の呉服屋駿河町三井越後屋でさえ、反物を断ち切った残りの端切れを売っていた。大店の旦那か番頭でもない限り着物を新調することはなく、江戸の町人は古手屋を重宝したし、それは武家でも変わりなかった。大名か大身の旗本でもない限り武家の妻女も柳原土手の古手屋の店先で古手を買い求めた。

「ちゃんと言うンですぜ、茂助は古手屋を真さんに譲るつもりで丸新の用心棒に雇ったと。ナニ、万が一にも御用をしくじったって、倹しく暮らす分にゃ不自由はありやせん。この界隈のどの古手屋だって、床店稼業のお上りだけでちゃんと所帯を養ってるンですぜ」

 そう言って、茂助は余計なことを口にしたとばかりに首を竦めて店先へ急いだ。

 真之亮が隠密同心の御用を賜っているのは極秘だ。そのことはお良にすら教えていない。もちろん母や兄にも隠しているし、今後とも隠し通さなければならない。

 ただ拝命した隠密同心は町奉行所の三廻りの一つの町奉行所の御役目ではない。真之亮が拝命した隠密廻りは、いわば遠山景元直属の家臣とでもいうべきものだ。

 与力や同心は一代抱席といいながら実は世襲で、実質的に身柄は奉行所に属す。その一方、御奉行は千石以上の旗本が命じられて就任し、任期にある時だけの勤めだ。町奉行の任期は長くても十年、短ければ数ヶ月で罷免されることもある。遠山景元の前任者鳥井耀蔵の町奉行の在任期間は三年余りでしかなかった。

鳥居燿蔵は南町奉行に就任すると老中首座水野忠邦の改革を強力に推進し、奢侈禁止令を発して苛酷な締め付けを断行した。厳罰を以って臨んだが、強権は強権さゆえに腐敗する。たとえ老中首座水野忠邦が清廉潔白だったとしても、政令は町奉行所へ通達されて、実際に直接権力を行使するのは町方役人だ。南町奉行所与力や同心は老中の政治信念とは関わりなく、直属上司の鳥井奉行の手足となって働く。鳥居燿蔵の熾烈を極める命令に従って、与力や同心が町衆を厳しく取り締まる。そうすると、岡っ引たちは箍が外れたように町衆から袖の下を求めた。

 失脚によって老中や奉行は代わっても、実務を取り仕切る与力や同心は代わらない。町奉行所の与力や同心はそのまま役所に残り与力や同心であり続ける。新任奉行の意向が町奉行所の隅々まで掌を返したように行き渡るものではない。その弊害を取り除くために歴代奉行は直属の私的な隠密同心を用いた。真之亮の身分は他の同心と同じく三十俵二人扶持として取り立てられた。しかし真之亮は正真正銘の一代限りの隠密同心だ。もちろん八丁堀に組屋敷を拝領することはなく、市井に暮らして十日に一度、数寄屋橋御門内南町奉行所裏手の役宅に顔を出すのが役目だ。

「弁慶橋袂の松枝町の借家だが、広すぎはしないか」

ためらうように、真之亮は言尾を濁した。

「何言ってるンですか。肝煎に頼んで探してもらったンですぜ。夫婦はいつまでも二人っきりじゃねえだろうし、奉公人だって置かなけりゃならないでしょうよ」

 店先で客の相手していた茂助が急に振り返った。

 真之亮は奉公人のことよりも茂助のことが気掛かりだった。茂助は柳原土手の古手屋株を手に入れる折り、肝煎と柳原土手の用心のため丸新に宿直を置くと約束していた。お良と所帯を持って松枝町に新居を構えると、丸新は茂助一人になってしまう。年寄り一人を柳原土手に置くのは不用心なことこの上ない。

「茂助、半年ばかり丸新で寝泊まりしているうちに、拙者はここがすっかり気に入っとしまった。そこでどうだろう、拙者が丸新に寝泊まりして、茂助が松枝町へ移るってのは」

 存外に真面目な顔をして、真之亮は茂助に言った。

「冗談じゃねえですぜ、新妻のお良さんとわしが松枝町に泊まるだなんて。それに真さんは隠密とはいえお庭番ではなく同心だ。立場ってものをわきまえなきゃ」

 子供に理を説くように、茂助は口を尖らせた。

「それなら、土手道を挟んですぐ向かいの神田富松町の長屋ではどうだろうか」

 真之亮は控えめな物言いで茂助に同意を求めた。

「儂を心配して下さる真さんの気持ちは嬉しいが、神田富松町は裏長屋しか空いてねえンでさ。いくらなンでも割長屋じゃお役目が充分に果たせねえ。真さんは自分たちだけのことを考えちゃいけねえンでさ、同心は町衆のために働くンですぜ」

 真之亮に意見する代りに、茂助は役目に就く心掛けを語った。

 町方役人の心得に関しては手先を三十年から勤め上げた筋金入りの茂助には敵わない。茂助の意図に従わざるをえないものと真之亮は観念したが、それでもやっとのことで茂助の言葉尻をつかまえて顔を綻ばせた。

「先刻、茂助は奉公人を置くと言わなかったか」と、真之亮は茂助に聞いた。

「へい、確かに言いやした。奉公人といってもまずは手先ですが、儂に当てがありやす。真さんも知っている銀公の野郎を使ってやっちゃもらえやせんか。何しろ元掏摸だから身が軽く手先は器用で勘働きも鋭い。肝煎に頼んで香具師の真似事をさせてもらっていやすがね、銀公の器量からすりゃあ広小路で屋台の啖呵売をさせるのは勿体無いンでさ」そう言って、茂助は真剣な眼差しを真之亮に向けた。

 茂助が銀公と呼ぶのは名を銀太という掏摸のことだ。歳は十八とまだ若いが、茂助がいままで数多く見てきた掏摸の中でも筋が良いという。

知り合ったのは去年の師走、銀太が柳原土手でお店者の懐中物を掏り取ったのを店先にいた茂助が見破って捕まえた。すぐに腕を捲くって入れ墨から銀太が三度も捕まっていると知った。掏摸はお縄になっても三度目までは右腕に墨を入れられ、『叩き』の罰を受けて解き放たれる。大した罰を受けないが、四度捕まると『仏の顔も三度まで』の諺通り、一も二もなく土壇場に据えられて斬首の刑に処せられる。それが掏摸の過酷な運命だ。茂助は銀太の手から紙入れをもぎ取るとお店者を呼び止めて「もし、紙入れが落ちやしたぜ」と返してから銀太を睨み付けて放免した。それ以後、銀太はちょくちょく丸新に顔を出すようになり、茂助が肝煎に口を利いて仕事を世話してもらい掏摸から足を洗わせた。

どういうわけか、茂助は銀太を気に入っている。

「とにかく茂助の言う通り、いずれお良と会って話さなければならないが、」

 重い口でそう言うと、真之亮は裏口から雪駄を履いて土手へ出た。

 既に空は茜色に染まっている。店の横路地を土手道へ上ると、いつの間にか人の流れは疎らになっていた。昼間の暖かさが嘘のように去って、冬の冷気が舞い戻って背に貼りついた。店先に出て来た茂助は「店仕舞としますか」と真之亮に声をかけた。

 茂助が軒下の紐に吊るしていた古着を店の中へ移し、真之亮が戸板を梁と敷居の間に嵌め込んだ。戸締まりを済ますと、二人揃って一膳飯屋の神田屋へ出掛けた。

「先ほどの借家と手先の一件、話を進めやすからね。ようござんすね」

 並んで歩く茂助が顔を上げると、真之亮に念を押した。

 今すぐにも、松枝町の借家と銀太の件を決めておきたいのだろう。

「銀太を手先にするからには、拙者の御用を明かさなければならないな」

――隠密同心だと銀太にしゃべって大丈夫か、と真之亮は茂助を睨んだ。

「銀公はああはみえても性根の座った男でさ。五尺足らずと小柄な上、身体も細いが身の軽いのが何よりで。ヤットウと御用を真さんが引き受けりゃ、後は身軽で使い走りの足の速さと血の巡りの良さを兼ね備えた男が入用だってことでさ。銀公にゃ嵌り役だと思いますがね」と、懇願するような茂助の口吻に、真之亮はふわりと笑った。

 顔を合わせればボロのチョンだと貶すが、茂助は銀太とよほど肌が合うのだろう。

 銀太は親の顔を知らない。銀太の幼い頃に東北地方を中心に深刻な飢饉が襲い、江戸に流民が流れ込んだ。浮浪児として浅草境内を塒にしているのを掏摸の親方に拾われ、十を幾つも出ない頃には立派な掏摸に仕立て上げられていた。

「借家も奉公人もすべて、茂助に任せるとしよう。後は拙者がお良にこれからのことを話さなければならないってことだ、な」

そう言って、真之亮は神田屋の縄暖簾を掻き分けた。

 一膳飯屋から戻ると茂助はさっそく銀太の件の話をつけに、陽のある内にと下柳原同朋町の肝煎を勤めている甚十郎の家へと出掛けた。こうした場合、頼りになるのは界隈の肝煎だ。

 銀太を手先に置けば何かと助かるのは確かだ。茂助もすでに五十の坂を越えて、いつまでも古手屋の店番に座ることは出来ない。月に二度の古着市へ出掛けて仕入れるのも、荷が嵩張るだけに辛そうだ。腰の軽い男がいれば御用を勤める上でも助かるのは間違いない。銀太だけではなく古手屋の方にも人手が必要な気がした。

 手炙りを抱えて背を丸くしていると、茂助が銀太を連れて戻ってきた。

「銀公、遠慮しねえで上れ。真さんを知っているな」

 茂助の声がして、裏口が開いた。闇に銀太の挑むような眼差しがきらめいた。

「真さんて滅法やっとうの強い、爺さんの居候だろう」

 銀太の声がして、二人の顔が裏口に覗いて行灯の明かりに浮かんだ。

 茂助に促されて二人は手炙りの傍らに座り、顔を見合って軽く頭を下げた。

「やい銀公、いや銀太。これから儂の言うことは金輪際誰にもしゃべっちゃならねえぞ。いいか、心して聞け」

 茂助が手先の眼差しを向けると、銀太は訝しそうに首を傾げた。

「まさか爺さんは夜盗の親玉かい、いやに鋭い目付きをしているが。ハハン、おいらを夜働きの仲間に引き込もうって魂胆か。さて、どこの大店へ押し入るンだい」

 茂助をからかうような目付きをして、銀太は切れ目なく言い募った。

 その強がりにはまだ大人になりきっていない若い男特有の青臭さが透けてみえた。

「おい、黙らねえか。ここは性根を据えてきっちりお前の料簡を聞きてえンだ」

 そう叱り付けると、茂助は真之亮に「あれを」と目配せした。

――懐の十手を銀太に見せて下さい、と茂助が目顔で言った。

 真之亮は少しばかり躊躇して、懐から真新しい朱房の十手を引き抜いた。

「おっと。なんだ、そりゃあ。いったいなんの真似だい」

と、銀太は口を尖らせて腰を浮かせた。

「銀太、誰にもしゃべっちゃならねえぜ。真さんは、いや中村真之亮様は南町奉行附の隠密同心だ。お前はその配下になるってことだ。隠密だから世間様におおっぴらにゃ言えねえが、いわば銀太は同心付きの手先になる。分かったか」

 茂助が低い声で言い聞かせると、銀太は十手の朱房を見て目を剥いた。茂助の言う通り、朱房の十手は町方同心の持ち物だ。

「ちょいと待ってくれ。おいらは自慢じゃないが、元掏摸だぜ。それも三度もお縄になった筋金入りの掏摸だ。そんな男が同心の手先になって罰は当たらないのか」

 銀太は抜け目なさそうな細い目で茂助を見詰めた。

「罰は当たらねえから心配するな。掏摸だったお前はすでに叩刑の罰を受けてまっさらになっている。あとはお前の心掛け次第だ、真さんの手先になるンだな」

 そう言って、茂助は念を押すように銀太に頷いて見せた。

「おいらは面食らうばかりだが、同心の旦那の乾分になるとして、一体どうすりゃ良いンで」神妙な顔付きをして、銀太は茂助に訊いた。

 どちらかというと大きな顔に獅子頭を配置したような茂助の面立ちと違って、銀太はにきびの吹いた芋のような丸みと泥臭さを感じさせる顔付きをしている割に、目鼻立ちははっきりとしている。どうらんを塗ってにきびを隠せば舞台にでも立てそうな役者顔だった。

「明日にも、真さんは松枝町の仕舞屋へ移る。丸新の用心棒の真さんがいなくなったら、お前はここで儂と寝泊まりする。手先といっても隠密同心の手先だから、毎日南町奉行所へ出向くことはねえし、町方を差配して捕物をすることもねえ。ただ、真さんが御用を仰せ付かったら、その手助けをすりゃ良いンだ。世間様に対してはあくまでも古手屋の奉公人で通すからな」

 茂助が話すうちから、銀太は不服そうに頬を膨らませた。

「とか何とか言って、実のところは体良く古手屋でコキ使おうってンじゃねえのか。古狸の言うことは嘘が多くて当てにならねえからな」

 さっそく血の巡りの良さを発揮して、銀太は穿ってみせた。

 茂助と銀太の遣り取りを聞いていて、真之亮は無理もないと思った。こちらからは何も知らせないで黙って従えというのは乱暴だ。手先に任じたからには、いま関わっている事件について何も教えないわけにはいかないし、銀太の考えも聞いてみたくなった。

 真之亮は庄治殺しと半次殺しの事件を語って聞かせた。腕を組んで銀太は黙って聞いていたが、真之亮が話し終えるとさっそく口を開いた。

「腕の良い筋者を集めるにゃ前科持ちに当たるのが一番手っ取り早いだろうぜ。が、中には悪事から足を洗った者もいるわけだから、目を付けた前科者を面通ししなきゃならなかったンじゃないか。ただ、真さんは下手人を男だと決めてかかっているようだが、そりゃどうだろうかね」

 銀太が一人前の口を利くのに、茂助は慌てた。

「おいおい、お前が真さんと呼ぶのは十年早いぜ。旦那と呼べ」

 茂助は銀太を叱り飛ばしてから、銀太の言葉に「ふむ」と腕を組んだ。

 銀太の言うことに筋が通っている。下手人を男と決め付けた根拠は何もない。

「いや、拙者は真さんで構わない。それより銀太、下手人が女だと思うのはなぜだ」

 真之亮は銀太にやさしく訊いた。

 すると銀太はにやりと笑みを浮かべて「男ってなスケベだろうが」と切り出した。

「むさ苦しい野郎が近寄って来て、身構えない者はいないぜ。天と地ほど腕が違うのならまだしも、身構えた者同士が殺しあって瞬時に片がつくようなことはねえ。掏摸仲間でも腕の良いのは決まって女だ。掏られるのは大概男だから、女の方が都合が良いのさ。婀娜な年増が近寄れば、男なら誰だって鼻の下を長くして隙が生まれる。匕首で心ノ臓を一突きするのは懐から紙入れを掏り取るよりもた易いことだろうぜ」

 そう言うと、銀太も茂助を真似るように首を捻って見せた。

 なるほど掏摸は掏摸の「気」を消して近寄り、気取られないうちに素早く指働きをする。人は殺気を放つ相手には自然と身構えるが、妖艶な女が品を作って近寄ればつい油断をするのも道理だ。

待乳山では不審な男がいなかったかと訊いて廻ったが、真之亮は銀太の話を聞いてなるほど男と決めてかかるのは危険だと頷いた。

「そういうからには銀太、女掏摸で心当たりの者がいるようだな」

 切り込むように、茂助が鋭く訊いた。

「下手人を見たわけじゃないし、これって思い当たる女がいるわけじゃねえ。が、おいらに指技を教えてくれた親方の娘にお蝶ってのがいてね。お蝶姐さんなら確かな指技を持っているし、にっこり笑って男を殺すぐらいヘとも思わないだろうぜ。ただ親方が土壇場に据えられ首を刎ねられちまってからこっち、掏摸仲間は散り散りになっちまったからな。なんでもお蝶姉さんは浅草を離れて品川宿あたりで江戸へやって来る物見遊山のお上りさんたちの懐中を狙っていると、風の噂を耳にしたことがあったけどな」

 そう言って口を結び、銀太は今一度「良いですかい」と断って口を開いた。

「真さんの話では、殺しを働いた下手人に庄治たちの後を尾けている者がいることをどうやって報せたか手配せの段がなかったけど、おいらが掏摸を働いている時には指で合図を送ったものだぜ。紙入れを掏ったまま持っていると捕まった時に申し開きができない。符丁を決めて合図を送り掏った紙入れを素早く仲間に渡してから、堂々と捕まるンでさ。そうすれば裸に剥かれたところで紙入れは出てこないって寸法だ。今度の事件はいずれも下手人が夕刻に誘い出している。ってことは闇に紛れて逃げるのに都合が良いのと、合図に明かりが使えるってことじゃねえかな。提灯じゃ明かりが四方八方に散って周囲の者に不審がられるが、龕灯なら相手を狙って合図を送れる。明かり口を小さく細工して、奥に明かりを撥ね返すギヤマンの鏡を仕込んでおけば、法外なほどの遠くからでも明かりは見えるはずだぜ」

 銀太の話を聞いていて、茂助と真之亮は舌を巻いた。

 なるほど銀太の言う通りだ。日暮れに誘い出しているのは殺してから宵闇に紛れて逃げるためだとばかり考えていたが、知らせる手段に明かりが使えるということもある。そういえば、いずれも待ち合わせ場所に神社が使われているため火種には困らない。神社の境内なら夕暮れに限らず、昼間からお灯明がともされているからだ。

「銀太の言う通りだとして、下手人たちは何を仕出かそうとしているのかな」

 真之亮は銀太に茶を淹れて湯飲みを差し出した。

「普通に考えりゃ大店に押し入り、金品を奪うっていうのが通り相場だぜ」

 と言うと銀太は茶をひと啜りしてから「それより、もう一つ訊いて良いですかい」と、湯呑から顔を上げて尋ねた。

「ちょいとばかり、前科者ばかり誘いをかけて殺しているってのが良く分からなえンで。大抵の者は寄場から娑婆へ戻れば姿を晦まして、身を潜めて世間の片隅でひっそりと暮らすものですぜ。その行方を捜し出すだけでも大した手間がつくとは思いやせんか」

――なぜ手間のつく前科者をわざわざ探し出して夜働きを持ち掛けているのか、と銀太の双眸が尋ねていた。

 夜盗一味は気心の知れた者で徒党を組むのが常だ。押し込み先の状況を探って段取りを決め、押込んだ後はほとぼりが冷めるまで時には半年近くも塒に潜伏することになる。周到な支度をして身を潜める塒まで探して、その上決して裏切らない気心の知れた仲間まで集めるとなると、押込み強盗はなかなか難しい割に合わない仕事だ。

「銀太の言う通り、儂もそこンとこはちょいとばかり引っ掛かるぜ」

 茂助も銀太と同じように首を傾げた。

 銀太の知恵はなかなかのものだった。茂助が手先にと連れてきたが、当の茂助にもこれほど銀太の眼力が鋭いとは思ってもなかったようだ。

「今夜はこの程度でお開きにして、湯屋へ行ってきな」

 茂助は二人の顔を見廻してそう言って、急き立てるように手を振った。

 あまり遅くなると湯屋の湯は垢で泥湯のようになる。やむなく真之亮は腰を上げて、銀太と連れ立って残照の消え残る柳原土手を湯屋へと向かった。

 

 明くる朝、真之亮は銀太を連れて丸新を出た。

 柳原土手道の続きの神田川南河岸道をとって神田明神へと向かった。道々銀太は河岸道に口を開けている細い路地が何処へ続いているか、何処ぞの表店の主人は入婿で何処ぞに女を囲っているとか、どこの家の娘は器量良しだとか、どこぞで飼っている犬は良く吠えるとか、雑多で下世話な事柄を真之亮に語った。銀太の呆れるほどの博識と、江戸中の小道をすべて頭に叩き込んでいるのかと思える記憶力に舌を巻いた。

 半次の足取りを辿ってまず神田明神を検分して、そこから湯島天神へ足を向けた。

「半次が神田明神へいった時、下手人の一味は境内にはいなかったンじゃないかな。湯島天神までは離れすぎているし、駆けてゆく通りはこの一本道だ。又蔵親分が用心して十分に間を置いて離れていても、半次の後を尾けているのはバレバレだっただろうぜ。半次を殺すのに又蔵親分が石段を登りだしてから、天神下の示し合わせた場所から龕灯で丘の上の下手人に合図を送っても十分間に合うわけだ」

 銀太はそう言って、辺りに意を払いつつ慎重な足取りで歩いた。

 昨夜に続いて、真之亮は銀太の眼力に感心した。

「どうしてそんなに手に取るように、銀太には分かるンだ」

 真之亮が訊くと、銀太は振り向いて寂しそうに笑った。

「場所を良く見るってことでさ。掏摸ってのは掏り取ったら終わりじゃないンだ。実は掏ってから後始末の方が大事なンだ。何処をどうやって逃げるか、町方がこっちから来たらあっちへ逃げると、細かな路地の隅々まで下調べしておくものだぜ。何しろおいらたちにとっちゃ命懸けだぜ」

 厳しくも後ろめたかった日々を思い出してか、銀太は眉を暗くした。

 神田明神から湯島天神までの道々、真之亮は黙ったまま銀太の話を聞いた。

 湯島天神を男坂から上ると銀太は裏口へ走って、切り通しへと続く女坂を丹念に見回した。そして境内の周囲を走り廻って杣道を探した。しばらくして得心したのか、鳥居の傍らに立っていた真之亮に「これといった杣道はありませんや」と言った。

「十中八九、下手人は男坂の参道の石段を下りた。女坂は切り通しに出て、上野不忍池へ出るか本郷の武家屋敷へ抜けるしかない。上野はいわずと知れた不忍池の水辺に多くの出会い茶屋が軒を連ねる男女の密会場所だ。そうした街には、悪党や破落戸が儲けのネタが転がってないかと目を光らせている。婀娜な女が逃げるのにそうしたややこしい場所はまず通らない。それかといって本郷の武家屋敷へ逃げれば、町女は辻番小屋で見咎められる。そうこう考えれば、下手人の女は堂々と参道の石段を戻ったと考えるしかない。途中で又蔵は下手人と擦れ違ったはずだが、親分に下手人は屈強な男との思い込みがあったのと、一刻も早く境内に辿り着こうと気が急いて、すれ違った女を見咎めなかったのだろうよ」

 銀太はそう言って「そのことを又蔵親分に会って確かめたいンだが」と真之介を覗き込んだ。

 真之亮は銀太の申し出に頷いた。いずれにせよ、八丁堀へ行くには神田明神へ引き返さなければならない。昌平橋袂の又蔵の家はその先の通り道にある。

 弾むような足取りで先を行く銀太に追いつこうと真之亮も大股に急いだ。十年来剣術で鍛えて足腰に自信のある真之介だが、銀太の健脚ぶりには顎が出そうになった。銀太は足腰のばねの強さを感じさせる足運びで疲れ知らずだった。

 又蔵の家へ行くと親分は照降町の自身番へ行っていると聞かされ、その足ですぐに照降町へ向かった。又蔵と面と向かって銀太がどのような知恵を使って聞き出すのか、と真之亮には楽しみですらあった。しかし浮浪児を生き延びた銀太の身の上にどれほど過酷な日々があったのか、その過酷さが銀太の知恵を鍛えたのだと思い至ると、真之亮の心に暗い翳りが差した。

町名が変わるとそこかしこの軒下に、立て掛けて乾かしている材木や下駄の形に挽いて重ねた木が山と積み上げられ、濃い木の香が町中に漂った。

又蔵は照降町の自身番にいた。肩幅のあるずんぐりとした体付きの男だが、上背は五尺を幾らも出ていない。大きな顔に人の良さそうな団栗眼をしていた。真之亮は自分を古手屋丸新で厄介になっている居候と紹介し、銀太はそこの使用人だと話した。

「おいらに何の用だ」

 切り落としの座敷の端に腰を下ろしたまま、又蔵は不機嫌そうに真之亮と銀太を睨んだ。銀太は真之亮の前に出るとお店者らしく、上がり框に腰掛けたままの又蔵に丁寧に頭を下げた。

「一昨日の夕刻、親分が湯島天神に行かれたと耳にしたもので」

 愛想笑いを浮かべるというのでもなく、銀太は真剣な眼差しを向けた。

「この旦那がワケありの女と夕刻に湯島天神で待ち合わせていたンですが、野暮用があって行けなかった。それで女が境内にいたかどうか知りたくて、へい」

 銀太がそう言うと、又臓の眼差しに嘲りの色が浮かんだ。「女がらみの下らない話をしに、わざわざ俺を自身番まで訪ねてきたのか、暇な野郎だぜ」とでも言いたそうだった。

「境内にゃ誰もいなかったが、女に振られたか。待てよ、そういえば石段を下りてくる婀娜な年増と擦れ違ったぜ」

そう言うと、又蔵は記憶を手繰り寄せるように目を閉じた。

「ああそうだ。あの時、あの女は境内にいたンだ。そうか、女は下手人を見たかもしれねえな」

 そう言うと又蔵は食い付くような眼差しで睨むと上り框から腰を浮かし、顎を突き出しすようにして土間の銀太に向かって口を開いた。

「おう、おめえたちが探しているのはどんな女だ」

と、又蔵は野太い声で銀太に訊いた。

「へい、年の頃は二十歳過ぎの町女で、五尺を超える大女でやや太り肉と、」

 銀太は気圧されるように腰を引いて、愛想笑いを浮かべた。

「そりゃあ、まるで違うぜ。暗がりで顔までは分からなかったが、石段で擦れ違った鳥追は二十と五、六の色年増。身の丈は五尺どころか四尺余りの小柄な上に、華奢な体付きだったぜ」

 銀太を追い払うように手を振ると、又蔵は溜め息をついて腰を下ろした。

 又蔵の見た女が銀太の尋ねる女なら、これから下手人の手掛かりを知っているか聞き込みに行けるが、違っていては女が何処の誰とも分からない。下手人の糸口を掴んだかと色めきたったが当てが外れてしまった、と又蔵は落胆の色を隠さなかった。

 しかし、自身番から出ると銀太は「違いねえ」と囁くように呟いた。

「違いないとはどういうことだ。又蔵の憶えていた鳥追と銀太の言った女とはまったく違っていたではないか。つまりお蝶ではないということだろう」

 下駄屋の多い一画を通り過ぎると、真之亮は銀太に訊いた。

 すると銀太は「藤四郎だな」と軽蔑するように吐き捨てた。

「又蔵親分の言った女がお蝶姐さんだ。おいらは出鱈目を並べ立てたンだよ」

――当然だろう、と言いたそうな目を向けて銀太はこともなげに言った。

「お蝶姐さんの特徴をしゃべってドンピシャなら、又蔵親分が喰らいついて来て面倒になるのは目に見えてら。おいらはそんなドジは踏まねえ。しかし、風の噂に品川宿を縄張りにして稼いでいると聞いていたが、お蝶姐さんは誰と組んで何をしているのだろうか。殺しまでしでかして、掏摸の風上にも置けねえな」

 独り言のようにそう呟いて、銀太は足を速めた。

 小柄な銀太が大股に神田鍛冶町を急ぎ、真之亮がその後をゆったりとした足取りで追った。陽も高くなり町を行き交う人が目に見えて増えた。

 町奉行所与力や同心は四ツに役所へ出仕することになっている。南町奉行所は非番月のため、同心貝原忠介は時刻通りに組屋敷を出る。まだ一刻ばかり余裕がある。同心の家に生まれ育ったため、非番月の同心の日課は熟知していた。

 日本橋は橋巾が大通りの半分しかないため行き交う人の肩が当たるほど鈴なりになっていた。真之亮と銀太は混雑する日本橋を渡り堀割に沿って南へ下った。人波を掻き分けるようにして歩いた大通から一筋外れると人影は疎らになり、表通りの雑踏は嘘のようだった。青物町から海賊橋を渡って八丁堀の一画に着いた。

「真さん、おいらは町方役人の暮らす町御組屋敷へ行くのはあまりぞっとしないな。なんだかこのままお縄になって引っ立てられて、土壇場に押さえつけられるような厭な心持ちがしてきたぜ。役人に肩を押し下げられ、首を地面の穴の上に突き出して、バッサリやられるような気分だぜ」

 銀太は真之亮を振り向き、ブルルッと首を竦めて見せた。

 南へ下って茅場町の町医者了庵の家の前を横目に見て通り過ぎ、真之亮は三叉路で右へ曲がった。二百石取り与力の組屋敷は三百坪ほどの広さがあり冠木門があるが、同心の場合は百坪程度の屋敷に三十坪足らずの平屋が建ち、入り小口に門柱が立っているだけだ。三十俵二人扶持の御家人としてはそれでもまだましな屋敷といえた。漆喰の白壁道の表通りから一筋裏へ入れば生垣で区切られ同じような組屋敷が整然と並んでいる。

「夜更けて酔っ払って帰ったら、入る家を間違えないか」と、銀太が皮肉っぽく笑った。

「いや、存外間違えないものだ。正体をなくすほど酔っていても、朝起きるとちゃんと自分の家に帰っているものだ」真之亮が真面目な顔をして応えると、

「チッ、冗談が通じねえンだな」と呟いた。

 貝原忠介の家は山茶花の生垣に囲まれた一角にあった。門を入って真っ直ぐに玄関へ行くと、真之亮は開け放しの家へ向かっておとないを入れた。

「御免、南町同心貝原忠介殿は御在宅でしょうか」

 玄関土間に立っていると、玄関脇の手先部屋から顔見知りの徳蔵が顔を出した。

「誰かと思ったら、いやだね他人行儀な。お隣の真之亮様じゃねえですかい。旦那なら庭で岡っ引と会ってまさ」そう言うと、庭へ廻ったらどうかと目顔で勧めた。

 徳蔵は四十過ぎの小柄な男だった。見た目にはただの貧弱な親爺だが、十手術や棒術では同じ手先の茂助よりはるかに上だと聞いている。勝手知った家のように、玄関から出ると犬走りを辿って庭に出た。組屋敷は何処も造りは同じだった。

 庭先には岡っ引弥平が仙吉を従えて立ち、貝原忠介は縁側の日溜りに受け板を持って座り髪床に髷を結わせていた。庭に入った真之亮を見つけると、弥平との話を打ち切って顔を向けた。

「おう、珍しいな。朝早くから何の用だ。連れの男は誰だい」

 貝原忠介は南町奉行所定廻りでも評判の切れ者だった。一見したところ中肉中背、平凡な体躯をしている。しかし貝原忠介は学塾での出来が良かっただけではなく町方同心として知恵の巡りも良く、真之亮と一回りしか違わない若さで早くも定廻に取り立てられていた。剣の腕も二十歳過ぎには早くも八丁堀の道場で麒麟児と謳われ、八丁堀では一目置かれていた。

「これは茂助の古手屋を手伝うことになった銀太という者です」

 真之亮は貝原忠介に銀太を紹介した。

 すると、弥平が鋭い眼差しで銀太を睨み付けた。

「お前は掏摸の銀公じゃねえか。真さん、こんな男を商売に抱え込んじゃ、」

 と言って、弥平は咎めるように真之亮を見詰めた。

「おいおい弥平。お前だって岡っ引になる前の行状は余り褒められたものじゃなかったぜ」と弥平の言葉を遮って、貝原忠介が笑って見せた。

「銀太とやらはまだ若い、人生はこれからだ。とりあえず真之亮の用件を聞こう」

 そう言うと、貝原忠介は真之亮に頷いて見せた。

 真之亮は弥平と肩を並べるまで縁側に近寄り、弥平に軽く会釈した。

「拙者も町衆の中で暮らし始めると噂好きになったのか、庄治殺しと半次殺しがどうなったのか町方同心でも出色の旦那のご意見を聞きたいと思って参りました」

 真之亮がそう言うと、貝原忠介は苦笑いを浮かべた。

「ご意見を聞きに来たンじゃなくて、おいらを叱りに来たンだろう。こいつらも朝っぱらからしっかり探索しろとおいらを叱りにやって来たのさ」

 そう言うと、貝原忠介は弥平と真之亮を見比べるように眺めた。

「だがな、今月の当番は北町だ。おいらたち南の定廻が北を差し置いて、殺しのあった聖天社や湯島天神へ出向くことは出来ねえ。弥平がいくらやいのやいの言って来ても、悔しいだろうがおいらは動けねえンだよ」

 苦笑いを浮かべてそう言うと、貝原忠介は肩を落とした。

「それじゃ、あっしらが足を棒にして歩き廻るしかねえンですかい」

 声をくぐもらせて、弥平は不満そうに呟いた。

 岡っ引は同心が私的に雇った手先にすぎない。同心から手札とともに十手取り縄を預かるが、下手人を逮捕する権限はなかった。給金も年に一両か二両といった小遣い程度しかなく、副業を持たなければ暮らし向きは成り立たない。そのため、何かと界隈の金持ちに袖の下を求め、評判を悪くしていた。

「弥平、真之亮に手伝ってもらえ。あいにく次男坊で町方同心にはなれないが、八丁堀育ちの上、剣術の腕は折り紙付きだ。古手屋の茂助にしても本所改役定廻同心中村清蔵殿の手先を長年勤めていた男だ。捕物の腕は確かなものだぜ、そうしろ」

 軽い口吻で貝原忠介が茶化すように言うと、弥平は益々不満を募らせた。

「旦那、あっしは旦那のお父上から手札をもらったンですぜ。あっしが密かに手下に使っていた庄治が殺されただけじゃねえ。又蔵が手下に使っていた半次だって殺されたンですぜ」と憤慨して、弥平は顔を赤くした。

「それじゃ、非番月のおいらにどうしろっていうンだ」

 怒ったように貝原忠介も鋭く声を放った。

「分かりきったことですぜ。旦那の力で殺された日の夕刻に浅草界隈と神田界隈のすべての自身番に怪しい者を見掛けなかったか、回状を廻して欲しいンでさ」

 探索が手詰まりなのを打開するには人海戦術しかない、と弥平は腹を決めたようだ。しかし南町奉行所同心は貝原忠介だけでなく、又蔵に手札を渡した荒垣伝之助も庄治や半次が殺されたことにそれほど心を痛めていない。前科者は世間では関わりを持ちたくない嫌われ者ということなのだろうか。

 真之亮は弥平の申し出に貝原忠介がどのような決断を下すか静かに見守った。

「当番月からして、南町奉行所から北町奉行所に働きかけることは出来ねえ相談だ。北町には北町のやり方があるだろうし、それなりに探索しているだろうぜ」

 それだけ言うと、髪結が元結の端を鋏で切り取ったのを汐に、貝原忠介は立ち上がった。それはどんな異存をも跳ね除ける決然とした振舞いに見えた。

 そろそろ町方与力や同心が奉行所へ出仕する刻限だ。お暇すべき時と心得て、弥平たちと連れ立って真之亮も貝原忠介の屋敷を後にした。

「弥平、庄治が殺された夕刻に聖天社の参道で誰かと出会わなかったか」

 組屋敷の門を出ると、何気ない素振りで真之亮は弥平に訊いた。

 弥平は怪訝そうに見上げて、僅かに首を横に振った。

「聖天社から下りて来る怪しい者がいて、あっしが見逃すはずはねえでしょう。確かに江戸の切絵図を片手に下りて来る色年増の芸者と擦れ違いやしたが、それは参道の入り小口のことで。暗がりにも婀娜な浮世絵から抜け出たような女だったですがね」

 そう言って弥平は怪訝そうに小首を傾げたが、すぐに笑い飛ばした。

「旦那、まさかその芸者が下手人だっていうンで。間違ってもそんなことはありやせんぜ。その色年増は小柄な上に、体付きも小娘のように華奢だったンですから」

――庄治があんな女に殺されるわけがない、と弥平の目顔は断言していた。

「そうか」と応えて、真之亮は何事もなかったように歩き始めた。

 思い込みとは怖いものだ。世間では庄治のような男を匕首で刺し殺す下手人は極悪非道な乱暴者に違いないと決めて掛かっている。まさか又蔵も弥平も小柄な色年増が寄場帰りの男の心ノ臓に匕首を突き立てた張本人だとはとても考えられないのだ。

弥平の語った女は間違いなくお蝶だ。又蔵も小柄で華奢な体つきだが色っぽく婀娜な女だったと言った。どんな女に変装しようと、お蝶とはそうした印象を男に与えるようだ。銀太が言ったように庄治を殺したのもお蝶だろうと考えはじめていた。

「それじゃ、あっしらはここで」

弥平は東南茅場町に差し掛かると、真之亮に声をかけた。

 帰る方向は同じなのにどうして弥平がそう言ったのか、銀太は分かりかねて真之亮の顔を覗き込んだ。真之亮は銀太の眼差しを無視すると、

「ああ、夕刻にでも丸新でまた会おう」

 とこたえて『本道医』と看板を掲げた門の中へと入って行った。

 真之亮がなぜ町医者の屋敷へ入ってゆくのか分からず、銀太は戸惑いを見せつつその後をついて入った。裏手から金槌を使う音や威勢の良い声が聞こえていた。

 開け放たれた屋敷には大工が入って、増築や造作の手直しをしていた。もうじき帰って来る哲玄とお千賀のために泰正堂が差配したもののようだった。

 真之亮がおとないを入れると、若い女の返事がして白い上っ張りを着たお良が姿を見せた。五尺にやや満たないが女としては大柄だ。色白の瓜実顔にすっきりとした柳眉、その下に切れ長の双眸が輝き、鼻筋の通った鼻と形の良い唇は八丁堀小町と呼ばれていた。

「大工や左官が来ているようだが、早くも家に手を入れているのか」

 真之亮が声をかけると、お良は「ええ」と言って後ろに立つ銀太に小さく頭を下げた。

「ああ、これは銀太といって、こんど茂助の古手屋を手伝って貰うことになった」

 真之亮は銀太を紹介して、お良に微笑みかけた。

 何かにつけて軽口を叩く銀太だが、軽く頭を下げただけで何も言わなかった。

「茂助の心配で松枝町に小体な一軒家を見付けたンだ。薬研堀に来る用事のついでにでも古手屋に寄ってくれないか。遅くなって申し訳ないが、了庵殿にはしかるべき人を立てて、日柄を見て兄を同伴して挨拶に参るゆえ」

 真之亮は同意を求めるように、お良に小さく頷いた。

 数日に一度の割でお良は薬研堀の薬種屋へ父親の使いで来ていた。そのつど柳原土手に寄っていたのだが、ここ七日ばかり丸新に顔を見せていなかった。

「兄が帰ることになって、薬種一切は泰正堂から入れることになりましたの。それで薬研堀へ行くついでに柳原土手へお寄りする機会はなくなりましたけど、家が決まりましたのなら折りをみてお伺い致します」

「ああ、よろしく頼む。拙者は家の造作や調度にはまったく疎く、暮らしにどんな道具を揃えれば良いのか皆目分からぬ。お良が差配してくれなくては何も出来ぬゆえ」

 何一つできない自分を恥じて、真之亮は頬を赤くした。

「事前に揃えるものといっても、まずは暮らしてみてから必要なものを揃えた方が無駄がなくて良いでしょう。私は小商いをはじめようと思います。そのために家の造りがどうなのか、見ておかなければ商いの支度もできませんから」

 そう言うと、お良は恥ずかしそうに微笑んで見せた。

「小商い、とな」と、驚いたように真之亮はお良を見詰めた。

「はい、父は膏薬医と蔑まれて来ましたが、お蔭様で膏薬の調合は良く分かっています。それに近くの薬研堀には各種の薬種屋があって、材料も容易に揃いますから」

 悪戯っぽく笑ったお良を、奥から呼ぶ家人の声がした。

 これから患者の家へ往診に出掛けるのだろう。十五六の頃から、お良は薬篭を下げて父親の往診に付いて歩いている。「きっと、近いうちに」と真之亮は声をかけて、お良はそれに頷いた。

 玄関を出ると待ちかねていたように銀太が口を開いた。

「へええ、驚いたな。真さんはあの色っぽい姐さんと所帯を持つのかい。ヤットウ狂いの朴念仁かと思ってたけど隅に置けないな」

 心底から驚いたように、銀太は真之亮をまじまじと見上げた。

「ヤットウ狂いとは恐れ入るな。ああ、近いうちに松枝町の仕舞屋でな」

「姐さんは働くって言っていたが、同心として扶持がもらえるからそれほど本腰を入れて働く必要はないンだろう。それとも御用のことをきちんと教えていないのか」

「うむ、十日に一度ほど奉行所に顔を出す程度の雑用を南のお奉行から仰せ付かっている、とは言ってあるが、隠密同心に取り立てられているとは教えていない」

 真之亮は銀太に応えると、海賊橋を渡って本材木町へ入った。

「そんなことで良いのかな。おいらは聞き分けの良い手先だから悶着は起こさないが、筋道にこだわる乾分を抱えたら、しっかりと説明しなきゃならないだろうぜ」

 世話焼き女房のように、銀太は心に浮かんだ懸念を口にした。

「いや、拙者は銀太の他に手先は採らないつもりだ。銀太より出来の良い手先にはお目に掛からないだろうし、銀太一人がいれば大丈夫だ」

 問答を打ち切るためにも、真之亮は銀太を褒めて蕎麦屋に誘った。

 まだ昼には間があったが縄暖簾を掻き分けて青物町の蕎麦屋に入ると、奥の釜場から湯気が濛々と上がっていた。真ん中に通路の土間があり、左右は入れ込みの座敷になっていた。二人は明かり障子の窓から陽射しの差している右手の座敷に上がった。

「おいらは切り蕎麦だ。天婦羅の乗ってるやつが良いな」

 出て来た小女に注文してから、銀太は慎之亮の様子を窺った。

 好きな蕎麦を注文したらよいと頷いて見せて、真之亮は狐蕎麦を注文した。

「真さんが訊いたら弥平も聖天社の参道で女と擦れ違ったと答えた。下手人は間違いなくお蝶姐さんだ。しかし、どうして前科者を殺さなければならなかったンだろう」

 銀太は声を曇らせて真之亮を見詰めた。

 お蝶という女を真之亮は知らない。話では二十五前後の小柄で器量の良い女のようだ。掏摸の親方の娘だというが、そのことで銀太が格別心を砕いているようにもみえなかった。

「銀太、この一件はまだ分からないことだらけだ。が、どうやらお蝶が下手人だと判明したが、お蝶を操っている者がどこかにいるはずだ。多分そいつが親玉だろう。しかし、そいつの狙いが何なのか皆目分からない。ところで銀太、お蝶が今度の事件に関わっていてお前はやりにくくないか」

 真之亮が問い掛けると、銀太は心外そうに首を振った。

「冗談じゃねえ。親方に指技を仕込んでもらった借りならとっくに返してるぜ。お蝶姐さんが掏摸で四度目のお縄になりそうになった時、おいらが罪を引被って三本目の墨入れと叩きの罰を受けたンだ。四度目の身代わりに捕まるってことは、掏摸の場合は土壇場から連れ戻す、ってことだぜ。おいらはお蝶姐さんにとっちゃ三途の川から引き揚げた命の恩人だ。金輪際、親方にもお蝶姐さんにも貸し借りはねえンだ」

 そう言うと、銀太は右腕に巻いている晒をさすった。

腕に墨を入れられた者は寒い間は銀太は長袖の下着を着るが、春になって長袖を着なくなると決まって晒を右腕に巻く。それは腕に入れられた墨を隠すためだった。

まもなく天婦羅蕎麦が運ばれて来ると、銀太は勢いよく手繰りはじめた。

 

 昼下がりの八ツ過ぎ、真之亮と銀太は柳原土手の古手屋に帰った。

 午後の客足も一断落ついた頃合いか、茂助は奥の上り框で休んでいた。

「茂助、庄治や半次に手を下したのは、どうやら女らしいぜ」

 茂助の並びに腰を下ろすと、真之亮が「銀太のお手柄だ」と銀太を顎で指した。

 座敷に上がって茶を淹れていた銀太が「お蝶姐さんのようだ」と茂助に教えた。

「お蝶といえば、おめえの親方だった掏摸吉の娘じゃねえか」

 茂助は驚いたように目を剥いたが、二度三度と頷くと「女の方が存外肚が据わっているからな」と呟いた。

「しかし掏摸としてお蝶は指働きに誇りを持っていたはずだ。それが荒っぽい殺しを引き受けるとは、飛んだ宗旨替えをしたものだな。お蝶に何があったンだ」

 湯飲みを手渡した銀太に、茂助は覗き込むようにして訊いた。

「ここ二年ばかり会ってないから知らねえや。三味線堀で親方が御用になってから一家は散り散りになって、姐さんは品川宿へ移ったと聞いていたンだが」

「お蝶は一人だったのか。一緒に品川へ移った仲間がいたンじゃないか」

 茂助が訊くと、銀太は「姐さんは藤四郎じゃねえんだ」と呟いた。

「一本立ちした掏摸は独りで稼ぐものだ。役回りを決めて大勢で掛かりコトを運ぶのは、腕に自信のない半端者のやる仕事だぜ。お蝶姐さんにゃ余計な人の助けはいらねえのさ」

 銀太も湯飲みを持って上り框に座ると、一人前の御用聞きの顔をして見せた。

「誰とも組まず、姐さんは一人だったと思うぜ。なんなら品川へ行って探ってみるけど」と言って、銀太は茂助の顔色を窺った。

 茂助は「だめだ」と言うように首を横に振り、

「銀太が岡っ引の真似事をするのは十年早いぜ。ここはじっくり町方役人のお手並みを見せてもらおうじゃないか。北町の当番月だしな」

 そう言って、茂助は店先から女の声がしたのに腰を浮かせた。

 柳原土手に吹く風はまだ肌寒いが、季節の変わり目は陽射しにもうかがえた。ひっきりなしに客は訪れて、春先の古手屋は繁盛していた。

「親爺さんはおいらが半人前だと馬鹿にしているのかな」

 茂助が店先に立つと、銀太が真之亮にむくれたように呟いた。

「いや、そうじゃないさ。茂助の親心で銀太に危ない真似をさせたくないだけだ」

 真之亮は取り成すように言ったが、銀太は納得できないようなむっとした顔をして黙りこくった。

 人は成長の過程で、年よりも背伸びしたい時期があるものだ。十八の銀太がちょうどそうした年頃に差し掛かっているのだろう。

「聖天社や湯島天神の下手人を女だと推察して、お蝶と睨んだのはけだし銀太の慧眼だ。年季を積んだ岡っ引でも見当のつかないことだぜ。しかし、それを手掛かりとして下手人一味をお縄にするには、それ相当の下調べをして言い逃れのできないように証拠を固めないとな」そう言って、真之亮は銀太を励ました。

 一網打尽にするには一味の人員構成を掴み、動かぬ証拠を掴まなければならない。たとえお蝶の居場所を探って、お蝶一人だけを縛り上げても始まらない。

 今度の事件の裏でどんな連中がつるんで何をしようとしているのか、それすらもまだ分からない。事件の探索はやっと端緒についたばかりだ。

「掏摸吉やお蝶たちと暮らしていた家は何処にあったンだ」

 日暮れまで間があるため、真之亮は出掛けてみようと腰を上げた。

「新寺町の門前町でさ。ドブ店とも稲荷町とも呼ばれている、小さな寺と町割が複雑に入り組んでいて、捕り手に囲まれても逃げるに便利な所だぜ」

 顔に笑みを浮かべて、銀太も身軽に立ち上がった。

 店先の茂助に「出掛けて来る」と声をかけると、真之亮と銀太は連れ立って土手道を新シ橋へと向かった。ドブ店へ行くには向柳原の大通を北へとれば良い。大身の武家屋敷の連なる大通をしばらく歩くと右手が堀割となり片側町となる。その道が右へ鍵曲がりになっている辺りの堀割を三味線堀といった。堀割の形が三味線の棹と胴の形に似ているためにそう呼ばれた。この辺りで銀太の親方は捕り方に御用となり、土壇場に据えられて首を刎ねられたのだ。

 銀太の心持ちはどのようなものかと顔を覗き見たが、何も変化は見られない。先刻古手屋で銀太が言った通り、銀太の中では過ぎ去った昔の出来事に過ぎないようだ。

 三味線堀が行き止まると、そこから先はこれまでと一変して、粗末な貧乏旗本の屋敷が狭い通りに建ち並ぶ。しかし、下谷七軒町で右へ曲がると雑然とした武家屋敷を睥睨するように大身の旗本屋敷があらわれる。だが対照的に、通りの左手には見るからに小体な貧乏寺とその門前に町家が寺の塀にへばりついている。まるで天国と地獄を絵に描いたような土地だ。一筋の通りを挟んで貧富が歴然としている町並は見る者にやりきれない切なさをもたらした。

「武家屋敷は逃げ込むにゃ便利だぜ。塀を乗り越えて屋敷に入ってしまえば町方は追ってこない。どこのお武家の庭も人手がなくて荒れ放題だ。身を屈めれば隠れ場所にゃ事欠かないぜ」

 白漆喰の剥げた土塀に目を遣って、銀太は呟くように言った。

 新寺町という名の通り、喩えでなく小さな末寺のような寺が通りの辻々に軒を連ねるほどあった。その寺々に門前町が山門の両側に貼りつくように細切れにあり、四ツ割の一軒家や軒の崩れた名状し難い貧乏長屋が隙間なく建っていた。

「ここでさ。酷いところでしょうが」

 と立ち止まった銀太が玉泉寺の門前棟割長屋を顎で指した。

 軒は破れ屋根も雨露を凌げる代物とは言い難く、饐えたような悪臭が鼻を突いた。

「腕を磨いて巧みに人様の懐を狙っても、結局はこの程度の暮らしを支えるのがやっとなンだ。堅気者の稼ぎにゃ追い付けないってことさ」

 銀太はそう言って、傾いだ軒先を見上げた。

「まともに親がいて、まともに飯が食えて、まともに大きくなって、まともな仕事があったら、誰だって掏摸なンぞにゃなっちゃいねえ」と拗ねたように、銀太はぼそりと洩らした。

 真之亮は銀太の肩に手を置いて、その場を離れた。この町には香具師や大道芸人、それに夜の町角や柳原土手に立つ夜鷹たちが暮らしていた。

 ドブ店通りを菊屋橋まで行き、新堀の河岸道を南へとった。

「お蝶は小判に目が眩んで殺しに手を染めたのかな」

 河岸道を歩きながら、真之亮が問い掛けた。

「いや、そうじゃないと思う。殺しは掏摸にとっちゃ外道ですぜ。相手に気付かれず傷さえ付けず、周囲の誰にも気取られないうちに仕事を済ますってのが掏摸の神髄でさ。お蝶姐さんは人一倍厳しく親方から仕込まれていたンだ」

――よほどのことがない限り姐さんが殺しをするはずがねえ、と銀太は口惜しそうに肩を落とした。

「掏摸の掟を破って殺しを働くとは、お蝶の身の上に余程の事があったという事か」

 そう言うと真之亮も肩を落として、道なりに新旅籠町の角を曲がった。

 御蔵前片町と森田町の間を通り抜けると、御蔵前の大通に出た。そろそろ二月の切り米の支給日なのか、札差の法被を着た若い者の牽く荷車が行き交っていた。

 俸禄として旗本や御家人に与えられる扶持米の支給は年に三回、十月の新米時期と二月と五月だった。

 武家にとって扶持米は食糧としてだけではなく、売り捌いて生活費を得る大事な暮らしの糧だ。元来、札差は切り米を武家に代わって受け取るのが役目だが、扶持米の売り捌きまで一任されたため実質的に武家の金蔵を握ってしまった。そうした札差がこの界隈に集まり多くの蔵が立っているため蔵屋と呼ばれた。江戸時代も下ったこの時期、吉原で花魁を相手に大尽遊びをするのは札差の旦那衆と相場が決まっていた。その勢いが使用人にまで乗り移っているのか、札差の屋号を染め抜いた法被を着た男たちの威勢にはかなりのものがあった。

 堀割には橋が二本並んで架かっているが、二つの橋巾を併せても大通の道幅の半分にも満たない。大八車の所有が届け出制になっていたように、幕府は陸送よりも回漕を奨励した。そのため架橋に制限を行い、左手の橋を天王橋といい右手を鳥越橋といった。真之亮と銀太は左手の橋を渡って浅草御門へ向かった。

 大通も瓦町に差し掛かると道幅は半分になり、夕暮れを迎えて広小路から帰る雑踏に行く手を遮られた。人の流れに逆らうように歩き、真之亮と銀太は大きく離れた。

 浅草御門に辿り着いた頃には完全に銀太を見失った。芝居小屋の打ち出しを知らせる櫓太鼓が響き、道端で声を嗄らしていた香具師も屋台の幟を片付けていた。しばらく御門の傍で待っていたが銀太の姿は見えず、ついに諦めて一人で古手屋へ帰った。

「真さん、何処へ行って来たンで」

 帰るなり店先で茂助に声をかけられた。

「いや、浅草ドブ店まで出掛けたンだが、帰り道で銀太とはぐれてしまった」

 申し分けなさそうに、真之亮は頭を下げた。

「銀太なら、とっくにけえって神田屋へ飯を食いに出掛けやしたぜ」

 そう言って、真之亮に笑いかけて茂助は店の中へ入った。

 掏摸を働いていた頃の銀太の古巣を見に行ったのは、茂助に断ってのことではなかった。予め断ってのことでないため、真之亮は茂助に声をかけた。

「実は銀太の古巣を見に行ったンだ。お蝶の手掛かりでもあればと思ってな」

 真之亮が白状するように言うと、茂助はにやりと笑った。

「ドブ店と聞きゃ、それぐらいのことは分かりまさ。ただ、儂は一味がお蝶をどうやって仲間に引き摺り込んだンだろうかと、そこんとこが心に引っ掛かっているンで」

 茂助は鉄瓶から急須に湯を注ぎ、真之亮にも茶を淹れた。

「掏摸ってのは誰しも指技に誇りを持っている。それが誇りを捨てて殺しを働くとは、よほどのことがあったと考えるのが道理でさ」

 湯飲みを一口啜って、茂助は溜め息を洩らした。

 分かっていることと、分かってないことをきちんと仕分けて、探索の方途を考えるのが捕物のイロハだ。しかし今度の一件は分からないことだらけだ。何処から手をつければ良いのか。ただ一点お蝶が一味に加わっていることだけは確かなことだった。

「銀太は一人で神田屋へ行ったのかな」

「そんなことはねえでしょう。おそらく昔の仲間と一緒でしょうよ。真さんは行きか帰りの人混みで誰かに懐の十手を触られちゃいやせんか」

 と、茂助は気になることを聞いた。

 瓦町から浅草御門にかけて雑踏を人の流れに逆らって歩いた。何人と体が触れたか分からない。懐の十手に触られれば、真之亮が町方役人との身元が割れてしまう。当然のことながら、一緒に歩いている銀太は手先とみなされることになる。

「拙者が町方役人だと分かれば、銀太の身が危ないのか」

「いや、そんなことはないでしょうが、銀太が町方同心の手先になったってことは町を舐め尽くす火の手よりも早く昔の仲間に知れ渡るでしょうよ。銀次は引き返すことの出来ねえ川を渡っちまったということでさ。しかしそれならそれで、昔の仲間にとって銀太は重宝な男になったということで。その筋の者は裏で町方役人と繋がりを持ちたがっていやすからね」

 茂助はこともなげにそう言い、店先から呼び掛ける女の声に立ち上がった。

 上り框に腰を下ろしたまま店先を見ると、お店の内儀と見える年格好は二十五前後、丸髷の女が男物の着物を手にとって選んでいた。眉を剃り鉄奨をつけてはいるが、色香の漂う器量の良い女だった。並んだ茂助より四寸ばかり低く、小柄で全体にほっそりとしていた。

 真之介亮はなぜか見知っている女のような気がした。何処で逢った女かな、と真之亮は記憶を手繰った。八丁堀界隈の内儀にしては柳原土手まで出掛けて来るのは遠すぎる。記憶の中を探っても店先の女に繋がる糸口は見つけられなかった。はてさて、と腕を組んで考え込んでいると、弥平が仙吉を従えて店先に顔を出した。

「親分、真さんなら奥にいやすぜ。さっ、どうぞ入ってくだせえ」

 茂助の声がすると、女は吊り下げられた着物の間に顔を伏せた。

 弥平は女の後ろを通って狭い土間を奥まで入って来ると、真之亮にくたびれた顔を見せた。庄治殺しの下手人探索がはかばかしくないようだ。

「真さん北町の動きが亀みたいに鈍くて、下手人をあげる意気込みは微塵も感じられませんぜ」

 そう言うと、弥平は肩を落として崩れるように上がり框に腰を落とした。

「何があったンだい。ひどくご機嫌斜めのようだが」

「米沢町の亀蔵に探索はどうだ、と聞きやしたら「知らねえや」って抜かしやがるンだ。南の岡っ引の手下が、それも前科者が殺された事件で、なぜ北がやらなけりゃならねえンだってね。まるで餓鬼の言い分でしょう」

 と、弥平は悔しそうに顔を歪めた。

 亀蔵とは弥平と同じ年格好の岡っ引だ。二人とも広小路から柳原土手にかけてを縄張りとしていたため、なにかにつけて張り合っていた。しかも、亀蔵は北町奉行所定廻同心から手札を受けているため、普通なら当番月同心の岡っ引として必死になって事件探索に当たっているはずだが、冗談に言ったことを真に受けたのだろう。

「ところで親分、あの店先の女だが、」

 と、真之亮は店先に目を遣って、すでに女の姿がないのに落胆した。

「どれどれ、どの女ですかい」

 弥平が真之亮の指先に目を上げて、反対に聞き返した。

「あそこに、いやもういない。どうやら帰ったようだ。いたら弥平にちょっと見てもらいたかったンだが」

「色っぽい女ですかい。それともワケありそうな女ですかい」

 女と聞いて、弥平は頬ににやけた笑みを浮かべた。

「眉を落とし鉄奨をつけていたが、弥平が待乳山で擦れ違った女じゃないかと……」

 真之亮がそう言うと、弥平は驚いたように目を剥いた。

「どうして真さんは女にこだわるンで。あっしはあの夕刻参道の入り小口で切絵図を持った芸者と擦れ違っただけですぜ」

 そう言うと、弥平は不服そうに頬を膨らませた。

 庄治や半次を匕首で一突きに殺した下手人は冷酷で狂暴な男だ、と弥平はまだ思い込んでいる。下手人の後ろ姿さえ見ていないのに、おそらく大柄で肩幅もあり相撲取りかと見紛うような大男だと決めてかかっているのだろう。犯行の手際良さから勝手な思いを膨らませて、その想像に当て嵌まる男を探そうとしているようだ。そうした探索を続けている限り、何年たっても庄治殺しの下手人に辿り着くことはできない。

「それがちょいと良い女だったもので、親分にも見せたいと思ってな」

 弥平の不満を鎮めようと、真之亮は冗談を言って笑った。

「あっしは人の持ちものに懸想なんざしやせんや。そんなことより今朝、貝原の旦那が真さんに力を貸してもらえと言いやしたが、何か下手人の手掛かりでも掴んでいるンですかい」

 そう言って、弥平は真剣な眼差しで真之亮を見詰めた。

「いや、それは貝原殿の冗談だ。八丁堀同心の次男に生まれたというだけで、拙者になにがしか力があるわけではない。しかし、ただの素浪人でも同心の倅として育ったからには世間の並みの者よりは、少しは捕物の勘働きがするかもしれないがな」

 弥平が妙な期待を持たないように、真之亮は否定してみせた。

 真之亮は自分の身分を弥平に知られるわけにはいかない。貝原忠介にも知られてはいけない。肉親にさえ知らせていない。隠密同心とはそういうものだ。

 間もなく銀太が戻って来ると、それを汐に弥平は帰って行った。

「茂助さん、先に飯を食って来ました」

 銀太は店先で茂助に詫びて、店番を代わった。

 茂助は前掛けを取るとくるくると丸めて上り框に置き、「それじゃ真さん、今度はわっしが飯を食いに行って来やす」と声をかけて出掛けた。

 銀太は前掛けをして、奥座敷の上り框に腰を下ろした。

「途中で昔の知合いに出会っちまって、そこの一膳飯屋で一緒に飯を食っていたンでさ」

 そう言って、銀太は一人で帰ったことを詫びた。

「しかし、銀太のすばしこさは目にもとまらなかったぜ。いつの間にかはぐれて、帰ってみるとすでに神田屋へ行ったと聞かされて、少々面食らったが」

 真之亮がそう言うと、銀太は申し分けなさそうに頭を掻いた。

「昔の仲間で、名を勘治っていうンだが知らないかな。おいらの兄弟子に当たるンだけど『巾着切りの勘治』っていえば、仲間内ではちったあ知られた顔だがなあ」

 そう言ったが真之亮が首を傾げたのを見て、銀太は残念そうに笑った。

「まあ真さんが巾着切りを知らなくて、当り前といえば当り前だな。親方は勘治の腕を見込んでお蝶姐さんと夫婦にしようと考えていたようだったけど、姐さんにその気がなかった。勘治はお蝶姐さんに惚れて尻を追い廻していやしたがね、品川じゃ一つ屋根に暮らしていたようで。それが一月前、姐さんは姿を晦まして、どうやら御城下の膝元で暮らしているとか。それで勘治も躍起になってこの界隈を探していて偶々おいらを見掛けたって」

 銀太は纏まりのつかないまま、心に浮かぶ言葉をしゃべっている様子だった。

 熱を帯びた話し振りはいつも冷ややかに世間を斜に見て、皮肉で冷静な男にしては珍しかった。

「お蝶の身の上に何かがあって品川宿からいなくなり、勘治もお蝶の後を追うように御城下へ移って来たってことか」

 真之亮は銀太の言葉を遮るように訊いた。

「何があったのか、勘治はしゃべらなかったが、お蝶姐さんには男の影が差していたようだとか。それもお蝶姐さんが袖にして逃れられないかなり恩義のある人のようだが、そいつが『悪党』だったと勘治は悔しさを滲ませていたっけ。真さんが同心と承知の上で、頼みがあるから引き合わせて欲しいと言っていましたぜ」

 そう言うと、銀太は無頓着に鉄瓶の湯を湯飲みに注いだ。

 銀太は茶に頓着しない男だった、出涸らしであろうと白湯であろうと、一向に構わない。そうした所は真之亮と銀太は似ている。

「勘治が同心の真さんに相談したいということからすると、お蝶姐さんが惚れた男は町方役人、それも定廻かも知れないな」

 注いでいた鉄瓶の注ぎ口を上げて、銀太は眉根を寄せた。

 真之亮は驚いて目を剥くと、湯飲みを差し出した銀太を見詰めた。

 銀太の推察は時として真之亮の常識を超える。しかし、真之亮の常識が常に正しいとは限らない。庄治や半次を殺したのが女だと看破した銀太の推察力の方に理があった。果たして今度もそうなのか。

「拙者に頼るのは相手が町方かどうかより、お蝶の惚れた男が手強いため手出しできず勘治の手に余るからじゃないのか」

 白湯を啜って、真之亮は銀太を軽くいなした。

 別段、気色ばんだ色も浮かべずに銀太は一つ頷いて真之亮に説明を始めた。

「真さん、勘治は浅草御門の雑踏で真さんの懐を探って、十手持ちだってことを知っているンですぜ。ヤットウで正面に向き合えば真さんに敵わないだろうが、出会い頭に匕首を肝ノ臓か心ノ臓に叩き込んで真さんの命を奪うってことなら、勘治にとっちゃわけのないことなンだ。その勘治が真さんに相談があるって頼んでるンでさ」

 そう言って、銀太は「どうですかい」と言いたそうに真之亮を見詰めた。

 多分、この場合も銀太の言い分に理があるのだろう。掏摸は指技だけでなく確かな人物眼も必要な稼業のようだ。それは真之亮の心眼を見開かせた。

 江戸っ子は余り理にこだわらない。理よりも情にこだわりがちだ。銀太が理に基づいて思いを巡らせるのはおそらく幼い銀太に指技を仕込んだ親方が理にこだわる人だったからだろう。つまり掏摸の技を道理から説明して、手取り足取り教えたのだろう。だからこそ、掏摸吉は掏摸たちから一目置かれる存在だったのかもしれない。

「先刻、店に商家の内儀を装った小柄で婀娜な年増女がきた。しかし弥平が姿を見せると風を食らったように立ち去ってしまった。拙者にはどうもそれがお蝶だったように思えてならないが」

と、真之亮は銀太に店先に姿を露わした女がいたことを教えた。

「姐さんの変装はピカ一でさ。鳥追から瞽女から芸者、町娘から商家の内儀と千変万幻だぜ。だがお蝶姐さんがここに来たということは、下手人一味がこの店を見張ってるってことだろうか」

――だがどうしてか、と銀太は腕組みをした。

 真之亮と銀太が行動をともにしたのは今朝からだ。勘治は蔵前の通りで銀太を見掛け、同行している浪人者の素性を改めてから銀太に声をかけてきた。だが、勘治はともかくとして、どうしてお蝶までがこの界隈に姿をあらわしたのだろうか。

「見掛けたといっても、真さんはお蝶姐さんを知らないンだろう」

「ああ、お蝶なる女掏摸は知らないが、先刻見たような婀娜な内儀も拙者は知らない。あの内儀は玄人の色年増が変装したとしか見えなかったが」

 そう言って、真之亮は腕を組んで首を傾げた。

――あの内儀がお蝶だったとすると、隠密同心の自分の前に姿を見せるのは少しばかり早すぎはしないだろうか、と真之亮は腑に落ちないもどかしさを感じた。

 確かにお蝶が真之亮の前に顔を出すのは早過ぎる。勘治ですら真之亮が十手持ちだと知ったのはつい先刻のことだ。お蝶とは道で擦れ違ってもいないし雑踏で色年増に懐を探られた憶えもない。

「勘治の居場所は何処だ」

 と聞くと、銀太は真之亮を睨んだ。

「裏稼業の者が居場所を聞くのは仕事を一緒にする時か、町方の犬になった時だけですぜ。まともな五分の付き合いの時には冗談にも聞かないのが仁義ってものでさ」

 従って銀太は知らないし聞くのも野暮だ、とその眼差しは言った。

 真之亮は掏摸の仁義とはそういうものかと頷いた。

この世はいろんな約束事で成り立っている。裏稼業の者が居場所を聞かないのも町方に垂れ込まないとの証だろうし、長く付き合うためには必要な約束事なのだろう。

「真さん、飯食ってきて下せえ」

店先から呼び掛ける茂助の声がして、真之亮は腰を上げた。

 

 西広小路芝居小屋脇の広場で、一日と十五日の月に二度ほど早朝に古着市が立つ。

 集まる古着は近在の質流れの品や、他の古手屋が換金目的に投売りする品、呉服屋が注文通りに誂えたものの、客が引き取らなくなった処分品などだ。いかに良い品を安く買い入れるかの目利きに、古手屋店主の暮らしがかかっている。損をするのも儲けを出すのも仕入れ次第だ。明け六ツの鐘が鳴るのを待ちかねて茂助は銀太を連れて古着市へ出掛けた。

 夜明けからほんの半刻ばかりで古着市は終わってしまう。広小路が見物人で賑わう頃には荷を大風呂敷に包んで持ち帰り何も残らない。まごまごしていると目をつけた古着を余所の古手屋に落とされてしまうが、あせって高値で襤褸を掴んでも仕方ない。古手屋をはじめた当初は商売の勘所がなかなか分からなくて、茂助も何度か損を出したものだ。

 五ツ前に茂助と銀太が帰ってきた。銀太は店先の梁につかえるほどの大風呂敷きを背負っていた。真之亮はまだ掻い巻きを引き被った格好で手炙りに噛り付いていた。

「昨日の夕刻、また匕首で刺し殺されたようですぜ」

 店土間に入ると、いきなり茂助が声を張り上げた。

 茂助が古着市で聞き込んできた話では昨日の夕暮れ、大川の辺は元柳橋袂の船着場で『波里』の法被を着た船頭が心ノ臓を一突きに刺し殺された。橋袂で船を待っていた女が着いたばかりの船頭に声をかけ、船から下りたところを桟橋でいきなり刺したという。

「その女ってのは何者だ」

「さあ、船遊びする時節でもなし、なにぶん辺りは暗くて悲鳴を聞いて駆け付けたときには下手人の女は男が乗って来た船に身軽に飛び乗って、逃げた後の祭りだったってことのようでさ」

 茂助は銀太の背から荷を下ろし、座敷に広げていた。

「波里っていえば仙台堀上之橋袂は佐賀町の船宿ではなかったか」

 真之亮はそう言って、父に連れられて行った深川の記憶を思い浮かべた。

 佐賀町は永代橋から仙台堀にかけて大川端に貼りついた細長い町だ。大川河岸に船着場を持つ白壁の米蔵屋敷が建ち並び、所々に船宿が点在している。

 元来、船宿とは抱えの船頭を置いて客に川遊びをさせる宿のことだ。釣り客や花見客を猪牙船や屋根付き船に乗せて相手をし、船から上がると座敷に料理をとってもてなすのが生業だが、女を置いて客を取る別名曖昧宿とか売笑宿と呼ばれる宿も珍しくなかった。

「波里とはちょいと隠微な匂いがするが、その店は曖昧宿のたぐいか」

 と、炭火から顔を上げて真之亮は茂助に訊いた。

 真之亮の父中村清蔵は本所改役定廻同心だった。茂助はその手先として父の供で本所深川には毎日のように見廻り、そこに暮らす人にも地理にも明るかった。

「まあ十中八、九そう思って間違いねえでしょうよ」

 そう言うと、茂助は手を止めて真之亮に目顔で頷いてみせた。

 波里が曖昧宿なら、そこで働く船頭も叩けば埃のでる男ということになる。殺された波里の船頭が前科者であれば、先の二件の殺しと共通点が見出せることになる。ただ、これまでは殺しの下手人は姿を見られていないが、今度の場合は船頭たちに見られている。はじめて下手人が女だと明らかになった。

「姐さんが店に来たと真さんが言ったのは、本当だったかも知れませんぜ」

 そう言って、銀太は真之亮を見詰めた。

「銀太、朝飯を食ったら深川へ行ってこよう」

 真之亮は銀太に応えるように言って、茂助に「良いかな」と目顔で問うた。

「ああ、銀太と行ってきなせえ。辰蔵も喜ぶでしょうよ」

 茂助は自分も行きたそうな、弾んだ物言いをした。

 辰蔵とは父が岡っ引に取り立てた男のことだ。まだ三十前と若いが腕は良く、いまでは臨時廻りの兄を助けている。真之亮も辰蔵とは顔見知りだった。元は木場人足をしていたが、喧嘩三昧の日々を過ごした挙句お定まりのしくじり人生を送った。父が亡くなる二年前、寄場送りになる寸前の辰蔵を岡っ引に取り立てた。五尺七寸と仁王様のように大柄で腕っ節も強いため、年取った肝煎に代わって門前仲町の町衆から頼りにされている。

古着の仕分けを済ますと、茂助は棚から布に包んだ品を取り出して銀太に渡した。

「わしが若い頃に使っていた棒十手だ。これからはお前に使ってもらうぜ」

 茂助はそう言ってから「十手に恥じるような真似だけはしないようにな」と付け加えた。

 二年前に中村清蔵が亡くなるまで、茂助は尻端折り紺股引に羽織姿の手先だった。その棒十手を懐に差して、茂助は自分の庭のように本所・深川を歩いたものだ。

茂助から棒十手を押し頂くと、銀太は少し面映い顔をして懐に差した。同心にしろ岡っ引にしろ、十手は懐に差すものだ。決して見せびらかすように腰に差したりはしなかった。

 懐にグイッと棒十手を差し込むと、銀太の顔付が改まった。

 手先の顔になった銀太に微笑み、真之亮は先に立って店を出た。

腹ごしらえをしてから深川へ向かうことにして、まずは神田屋へ行った。

船で大川を渡らない限り、本所・深川へ行くには両国橋を渡り、本所から河岸沿いの道を下るしかない。長い道のりを歩いて行くことになる。

五ツ過ぎの西広小路はまだ人影は疎らだ。店の者が芝居小屋に沢山の幟を立てかけたり、茶店も葦簾囲いを外して縁台を軒下に運びだしたりして客を迎え入れる支度に追われている。真之亮たちはまだ人出で賑わう前の閑散とした両国橋を渡った。

両国橋の東袂にも火除地はあるが西広小路とは比べ物にならないほど狭い。二十間も行かないうちに元町の路地に入り、それを抜けると大伽藍の回向院が目の前にある。春と秋に勧進相撲が回向院の境内で開かれているが、子供のころに真之亮も本所改役の父親に連れられて来たことのある寺だ。縁起は振袖火事と呼ばれる明暦の大火で亡くなった十万人余を幕命により葬った「万人塚」がもととなっている。

真之亮たちは回向院の前で右へ折れて竪川を一ツ目之橋で渡り、大川端の水戸屋敷の石置場から御舟蔵と続く河岸道を下った。

 急ぐ道ではない。真之亮は次第に木の香の濃くなる町を父親に連れられて来た記憶を手繰りながら歩いた。そして小名木川を万年橋で渡る折りや、仙台堀を上ノ橋で渡る時に記憶は一段と鮮明になり、その頃の深川の潮と木の香の入り混じった匂いまでも懐かしく思い出した。

深川は江戸の材木を一手に引き受ける木場を持つため、川並人足や木場職人が多く暮らし、大川一筋隔てただけで御城下の雰囲気とは丸で違った。この町には潔さとがさつさがない混ぜに感じられ、それらを身上とする男衆はいなせとか粋とか呼ばれていた。正直なところ真之亮にはあまり良く分からないが、深川の町には御城下にはないある種の伸びやかさが満ちていた。

 上之橋を渡り終えると右手に船宿「波里」がある。仙台堀河口の大川に突き出たような佐賀町の角に何隻かの船を舫った船着場があって、小体な二階建がなぜか思わせぶりだ。白漆喰の海鼠壁を巡らした米蔵屋敷の連なるすっきりとした町並にあって、板壁に囲まれた波萬の一画だけが異質な色気を感じさせた。近寄ると板塀の隙間から干し棹に洗濯物の赤襦袢などの下着が風に靡いているのが見えた。

「これは船饅頭をやっていると疑われても、仕方ないような船宿だぜ」

 手先の顔をして、銀太が声をひそめた。

「まともな商売だけで暮らせるほど世の中は甘くないのかもしれないが、裏稼業も思うほど甘くはないのだろう。御法度破りの商売に手を染めると、破落戸たちがすぐに目をつけて群がってきて食い物にする。波里が裏の商売に手を出していたかどうか分からないが、いずれにせよ辰蔵と会って昨夜殺された者の名と前科の有無を聞かなければなるまい」

 真之亮は銀太に応えて、足早に永代橋袂へと急いだ。

 御法度に背く者を取り締まる町方役人もあまり大きな顔はできない。町方同心の内証が裕福なのは袖の下があればこそだ、というのは誰もが周知のことだ。昨今では七十俵五人扶持の御徒士組の者たちですらその日のコメにすら困窮している。町方同心の身分は御徒士組よりもさらに低い三十俵二人扶持の御家人でしかない。御上から頂戴する俸禄だけでは町方同心の台所は賄えないのは誰の目にも明らかだった。

 米蔵屋敷の海鼠塀の続く佐賀町の大通を下って、永代橋袂から左へ折れて門前仲通へと入った。陽射しは日一日と春めいて暖かくなり、花の蕾も膨らみ始めたことだろうと思われた。そろそろ富岡八幡宮の参詣人が門前仲通に姿を見せはじめ、広い通りに面した表店は日除け暖簾を軒下に張出していた。 

 黒江町の一の鳥居を過ぎると町は急に門前町の色合いを濃くして、二の鳥居の両脇には仲見世や屋台が華やかな幟や旗を風になびかせていた。

「銀太、浅草や両国広小路も悪くはないが、深川門前仲町も良い所だろう」

 真之亮が声をかけると、銀太はフンと鼻先で笑った。

 浅草界隈を縄張りとしていた銀太は沽券にかけて浅草広小路が江戸一番の盛り場でなければならない。深川門前仲町の雑踏を斜に見て肩を張るのも銀太の若さだろう。

 富ヶ岡八幡宮二の鳥居から八幡宮に背を向けて蓬莱橋へ向かって門前広小路を南へ歩いた。そして十間ばかり行くと右手に『升平』と軒下行灯に書かれた居酒屋があった。その店はお正がやっている居酒屋で、辰蔵はお正と夫婦のように店の二階で暮らしていた。辰蔵たち二人は木場人足の子供で同じ材木町の長屋に暮らしていた幼馴染だったと聞いている。

 真之亮の知るところでは、お正は子供屋「巴屋」抱えの辰巳芸者だったが、二枚証文の例にもれず二十歳過ぎに旦那を取らされ一時期囲われ者になっていたようだ。辰蔵は喧嘩三昧とすさんだ暮らしで木場人足をしくじったばかりで、当時は破落戸となって深川界隈では結構な顔になって暴れまわっていたという。

だが幸か不幸か、お正を囲った呉服問屋の旦那はわずか二年半後に卒中であっけなく世を去った。すると倅が跡を継ぎ初七日も済まないうちに番頭がやってきて、雀の涙ほどの手切れ金を投げ付けられるようにして一色町の妾宅を追い出されたようだ。

門前山本町の子供屋「巴屋」から戻ってこないかと誘われたがお正は断った。そして貯めていた月々のお手当てと手切れ金を元手に居酒屋を始めた。それが三年ばかり前のことだった。

 辰蔵は真之亮の亡父から手札を受けたばかりのまだ駆け出しの岡っ引だったが、お正に誘われるままに用心棒代りに棲みつきそのまま夫婦のように暮らしている。二人は夫婦の届けを町役に出してはいないが、誰もそんなことを少しも気にしなかった。

「辰蔵親分は居酒屋の居候かい」

 と小さな声で聞いて、銀太は怪訝そうな顔をした。

「そうかもしれないが、元々幼馴染の女将と紆余曲折あって、今では一つ屋根の下で暮らしているのさ」

 そう言って、真之亮は微笑んで見せた。

 縄暖簾も出ていない昼前の居酒屋は昼行燈のようで、店を畳んだ仕舞屋のような寂しさがあった。真之亮は升平の前に立ち、無愛想な腰高油障子を引き開けた。

 升平は間口二間に奥行き三間ほどの土間に二筋の飯台が置かれた手狭な店だった。十数人も入れば鮨詰めになるかと思われた。

「邪魔するぜ。誰かいないか」

 おとないを入れると、板場に三和土を刻む駒下駄の音がして、

「あいにくと、まだ店はやってないンだよ。宵の口に出直してくれないかい」

 弾むような声とともに板場の仕切りの暖簾を掻き分けて、大首絵から抜け出たような年増が顔を出した。

 そして真之亮に僅かに微笑んで引き込もうとして、女は動きを止めて小首を傾げた。そしてお正は着流しに落とし差の若い浪人者の顔を見直した。

「間違っていたら御免なさいよ。もしや中村様の若旦那じゃありませんか」

 暖簾を片手で掻き上げたまま、お正は真之亮を見詰めた。

「若旦那じゃない。中村家の厄介者だが、今じゃ古手屋の用心棒だ。おっと、辰蔵親分も升平の用心棒だったか。ところで、その用心棒はいるかい」

 そう言うと照れたように顔を俯けた。

お正は悪戯小僧を叱るように真之亮を睨んでから、

「なんの支度もしていませんけど、ささっ、中へ入って下さいな」

 と、お正は真之亮を迎え入れた。

真之亮は入り小口の空き樽に腰をかけた。銀太も真似るように真之亮の隣に腰を下ろした。

 お正は暖簾を掻き分けたまま板場へ振り向き「ウチの人は仲町の自身番にいるから、呼んできておくれ」といった。そして真之亮に振り返ると「月行事の打ち合わせに行っているのさ。すぐ帰って来るからね」と、安堵の笑みを見せた。

「善吉が殺されて、夜明け前から御城下へ出掛けたりして大変だっていうのに」

――町内の野暮用に引っ張り出されて、とお正は辰蔵を労るような眼差しを見せた。

 茶でも淹れるのか、お正は板場へ姿を消した。

「善吉っていうのか、昨夕御城下で殺された船頭は」

 真之亮は板場へ向かってお正の言葉を繰り返して、銀太と顔を見合わせた。

「はい、善吉の行方が分からなくなったと、昨夜から一晩中心当たりを走り廻っていたンですがね。こんなことになっちまって、親分はしょげ返っていますよ」

 板場から応えて、お正は盆に湯飲みを載せて来た。

 真之亮と銀太には昨日善吉に何があったのか、聞かなくてもおおよそのことは分かっている。おそらく子供が駄賃をもらって善吉に渡し、そこに「駄賃五十両にて、一晩だけ船頭の腕を貸せ。引き受けるのなら暮れ六ツに○○の船着場へ来い」と書いてあったはずだ。

善吉はどうしたものかと辰蔵に相談して、誘いに乗る振りをして出掛けた。辰蔵が善吉の後をしっかりとつけて行くから心配するなと言ったはずだ。暮れ六ツに善吉が文に記された場所へ行くと、また別の子供が文を持って待っていた。それには「一人で猪牙船に乗れ」との文面が書かれていたはずだ。いくら辰蔵が急いで河岸道を走ったとしても、猪牙船で大川を横切る善吉には勝てない。善吉を乗せた猪牙船は川面を滑るように元柳橋の船着場へ船を着けたが、そこで待っていたのは大店の内儀に化けたお蝶だった。

 真之亮と銀太は黙ったまま熱い茶を啜りながら、同じことを考えていた。

 こうも他愛なく同じ手口で次々と殺されるのはやり切れない。せめて北町奉行所から町方下役人や自身番に今回の一件が回状されていればこうはならなかっただろう。しかし、町奉行所が本気で一連の事件に取り組まないのにもワケがある。それは前科者が仲間内で殺しあうのなら、町方は直接手を下さないで世間の厄介者を始末できるからだ。北町奉行所としては下手人が自首して来るのならともかく、わざわざ手を煩わせて下手人を追い廻す必要はない。できることなら前科者をすべて始末してくれた方がお江戸は清々しくなる、くらいにしか思っていないのだろう。今のところ読み売りの瓦版でも世間の噂話でも、下手人を早くお縄にしろと騒いでいない。

 眉根の皺を深くして、真之亮は宙を睨み付けた。前科者は確かに罪を犯してお縄になった碌でもない者だ。世間に害を成す悪党だったかも知れないが、罰を受けて娑婆に戻って来た者を暖かく迎えるのが道理ではないか。前科者を排除していてはいつまでたっても悪の芽は摘み取れない。次から次へとと恨みつらみの蔓が伸びるだけだ。

「若旦那、いつお見えで」

 と、低い声がして目の下に大きな隈を作った辰蔵が戻ってきた。

「ナニ、つい先刻だ。どうした、ひどく参っているようじゃないか」

 のそりと入ってきた辰蔵を、真之亮は労うような眼差しで迎えた。

「善吉が殺されちまって。昨夜、元柳橋まで行きましたが、寄らずに帰りやした」

「良いってことよ。何も遊興で来たンじゃないンだ。ああ、これは茂助の店を手伝うことになった銀太という者だ」

 辰蔵が不審そうな眼差しで銀太を見るのに気付いて、真之亮はさりげなく銀太を紹介した。銀太からそこはかとなく漂う掏摸の匂いが、岡っ引の鋭い嗅覚に触ったようだ。茂助の古手屋を手伝う者だと紹介してからも、辰蔵は銀太へ訝しそうな視線を時折り投げた。

「ところで、親分。善吉は初っから元柳橋へ呼ばれたンじゃないな。最初は何処かの船着場に呼び出されたンだろう」

 真之亮がそう訊くと、辰蔵は大きく目を見開いた。

「その通りでさ。しかし、どうしてそんなことが分かるンで」

「同じような殺しが、御城下じゃここ五日の間に三件も起きている」

 目を剥いた辰蔵に、真之亮は手妻の種明かしをするように優しく言った。

「それで、善吉は誰に何処へ呼び出されたンだ」

「小名木川河口の御船蔵の裏の船着場でさ。七ツ過ぎに近所の子供が駄賃をもらって文を届けて」

 思い出すように、辰蔵はぼつりぼつりと語った。

 御船蔵といっても開府当時幕府軍艦の安宅丸が格納されていた大きな蔵のことではない。小名木川河口の御船蔵は町奉行所の管理下にあって、水害に備えて鯨と呼ばれる快速艇が収納されていた。大川に向かって観音扉があって、川端には石組の船着場があった。

「親分は善吉に教えられて、悪党を捕まえてやろうと御船蔵を張ったンだな」

「へい、『一晩身柄拝借値五十両』ってね。まともな仕事じゃねえのは誰でも分かりまさ。ふざけた野郎だ引っ括ってやれ、と松吉と二人して萬年橋袂と佐賀町の大川端で張ったンですが、善吉は御船蔵の船着場の猪牙船に乗せられて、大川を渡っちまった」

「どうして、善吉は親分を待たずに猪牙船に乗ったンだ」

「御船蔵に願人坊主が文を持って、善吉が来るのを待ってたンでさ」

「その願人坊主っていうのは」

「僅かな駄賃さえ貰えば、何だってする乞食坊主でさ。おそらく坊主は事件と関わりないでしょう」

「そうか。願人坊主が胡乱な者ではないとして、どんなやつが坊主に文を届けさせたかは、訊いちゃいるンだろう」

 真之亮が聞くと、辰蔵は言いにくそうに逡巡した。

「それが、四十半ばの小柄な八丁堀の手先ふうだったって言うンで。町人の形をしていたが、匂いで分かるって抜かしやがる。どうせ嘘っぱちに決まってまさ」

 ためらった後、辰蔵は真之亮の様子を窺うように言った。

 真之亮は目を剥いて辰蔵を見詰めた。驚き以外のなにものでもない。八丁堀同心がこの事件に一枚噛んでいるというのだろうか。

「その願人坊主は何処の坊に寄宿しているか、聞き込みは済んでいるのか」

「へい、海辺大工町の裏手の霊厳寺でさ」

 と、辰蔵は界隈でも由緒正しい寺の名を言った。

「その願人坊主のことを霊厳寺に確かめてあるのか」

「へい、確かに修行僧として一月前から宿坊に泊めていると」

――まともな坊主だ、と辰蔵の話を聞いて真之亮は頷いた。

 嘘を言って得するわけでもなく、また嘘を言うような人物でもないだろう。

 では、今度の事件に八丁堀が関与していると認めるのか。いや、そんなことは間違ってもあり得ない。八丁堀同心は身分こそ低いが不浄役人を勤めることで袖の下を手にして、幕臣としては低い身分に似合わず裕福な暮らしをしている。その八丁堀同心が悪事に手を染めるだろうか。世襲で受け継いだ結構な身分を失うことになりかねない危険な橋を渡るだろうか。

 並んで座る真之亮と銀太は思わず顔を見合わせた。

「親分、願人坊主からその町人の人相を聞いて、事件の口書を取っておいてくれないか」

「へい。しかし、取調べには八丁堀同心の指図が入用ですが……」

 と言い難そうに、辰蔵は言葉を濁した。

 岡っ引には十手捕縄が下げ渡されているが、その実ほとんど何の権限も付与されていない。たとえ下手人を取り押さえても、岡っ引の裁量では縛り上げることすら出来ない。建前では手札を受けた同心の差配によって、岡っ引は下手人を探索し縛り上げることになっている。真之亮は八丁堀に生まれ育ったが、町奉行所同心でないため辰蔵を差配できない。そのことを辰蔵は言外に仄めかした。

 真之亮は懐から十手を引き抜いて見せた。それは朱房の付いた十手で町方同心の証だった。辰蔵は驚いたように目を見開いて真之亮を見詰めた。

「拙者は南町の御奉行から直々に仰せつかった隠密同心だ。何かあった折りには拙者が責めを負うゆえ、願人坊主から口書を取っておいてくれ。それから隠密同心だということは兄上にも誰にも内緒だ」

 そう言って、真之亮は十手を懐に仕舞った。

「ところで善吉のことだが、やつは前科者だったのか」

 真之亮は低い声で聞いた。

「へい、確かに善吉は前科者です。三年前、南町奉行所で船饅頭の取り締まりがあった折りに。たまたま善吉が船頭をしていて捕まって、石川島の寄場へ二年ばかり行っていやした。しかし、体を売るしか仕方のない女だっています。あっしは善吉が悪吉とは思えなくて。寄場から戻った善吉を波里に紹介して、あっしが身元請人になったンでさ」

 辰蔵は善吉に非があって殺されたのではない、と言いたそうに言葉を重ねた。

――分かっている、と真之亮は頷いた。

「さきほど御城下で三人殺されたといったが、実はその三人とも前科者だったンだ」

 そう言って、真之亮は辰蔵の懸念を解いた。

 一連の殺しに関して、唯一の共通点は被害者が前科者ということだ。

「それじゃ、願人坊主の勘が正しければ、八丁堀が前科者を狩っているってことですかい」

 怪訝そうに眉根を寄せて、辰蔵は聞いた。

 辰蔵の言葉を聞いて真之亮は考え込んだ。前科者を狩るとはどういうことだろうか。一晩の仕事に五十両を払う、というのは前科者を釣るための方便なのだろうか。確かに八丁堀同心と女掏摸のお蝶とは奇妙な取り合わせだ。

 困惑した面持ちで、真之亮は大きな溜め息をついた。

「いや、単に殺めているだけとは思えない。前科者はそれなりに盗人の技を身につけている。徒党を組むのに藤四郎を集めて技を教え込むより、腕っこきの前科者を集めた方が仕事は確かだろう。今度の一連の殺しは目星をつけた前科者が従前通りの悪党か、それとも前非を悔いて真っ当になっているかどうかを確かめているンだろう。それが証拠にいずれも一度は近くの見通しの良い場所に呼び出し、それから次の場所へ行くように命じている。何処からか後をつけている者がいるのかと見張って、悪党仲間に引き込めないと踏んだ場合は始末してるンじゃないか」

――と考えているが辰蔵はどう思うか、と真之亮は目顔で訊いた。

「なるほど、そう考えると辻褄が合うような気もしますが。すると善吉の場合は船頭の腕を買われたってことですかい」

 どうも違うようだ、とでも言いたそうな眼差しで辰蔵は問い掛けた。

 なるほど、善吉は腕の良い船頭だったのだろう。しかし、船頭なら深川の船宿の前科者に目をつけなくても、御城下の山谷堀や日本橋河岸、鉄砲州から越前堀あたりの荷船の船頭にも前科を持つ腕の良い船頭はいくらでもいるはずだ。それがなぜ、よりによって深川の船頭の善吉を誘い込もうとしたのだろうか。

「佐賀町の船頭善吉を仲間に引き込もうとしたってことは、悪事をたくらんでる連中は堀割沿いの屋敷を狙っているってことだろう。それも本所深川の入り組んだ堀割を熟知した深川の船頭でならなければならないってことだろう。つまり夜盗一味が狙っているお屋敷は深川にあるってことじゃないのか」

 真之亮は心に浮かんだことを口にして、辰蔵と銀太の意見を伺うように見た。

 自信があるわけではないが、突き止めた一つ一つの事実を積み上げたらこうなる。誰かが口を開く前に板場から近づいて来る下駄音に三人は話を中断した。お正は盆に丼を三つ載せていた。話に夢中になっている間に、とうに昼を過ぎていた。

「深川丼を作ってみましたが、お口に合いますかどうか」

 お正はそう言って、丼を飯台に並べた。

「やや、これは。まことに相済みませぬ。いかいご造作をお掛け致します」

 真之亮と銀太は礼を言って箸を手にした。

「腕っこきの前科者を集めて悪事を働くってのは前代未聞ですが、真之亮様のお考えが図星なら、下手人の頭目が八丁堀でもおかしくないってことですぜ」

 辰蔵は丼を抱えて、天井を睨んだ。

 真之亮は八丁堀に生まれ育った者として、下手人が八丁堀だと言われて良い気はしない。眉根を寄せて深川丼を親の仇のように睨み付けて掻き込んだ。

「御船蔵の周囲に怪しい者がいなかったか、これから虱潰しに探ってみましょう」

 早くも食べ終えて、辰蔵は茶を啜った。

「これから探るのなら小名木川河口の御船蔵の対岸、稲荷の境内に誰かいなかったか、海辺大工町の者にでも聞き込んでみたらどうだろう。親分が善吉の後をつけていると、対岸の元柳橋の者に知らせた者がいたはずだ。場所としては萬年橋袂の稲荷の祠の裏辺りか」

 真之亮がそう言うと、辰蔵は不思議そうな眼差しを向けた。

「小名木川河口の稲荷から、どうやって大川の対岸へ知らせるンで。いかに喚いたところで声は届かないし、昼間ですら対岸の者の身振り手振りを判別するのは難しいですがね」

「辰蔵親分、それはこの銀太が謎解きをしたンだ。これまであった一連の事件はすべて陽が落ちて暗くなってから殺されている。ってことはおそらく下手人の仲間は合図に龕灯の明かりを使ったンだ。その火種には稲荷のお灯明があるだろう」

 真之亮が説明すると、辰蔵は「なるほど」と頷いた。

 夜に対岸の明かりが見えるのは、大川の川辺に暮らす者なら誰でも知っている。川霧がなければ対岸の大川端河岸道を行く者の灯す提灯ですら朧げながら見える。

「あまり親分の邪魔をしても悪い。そろそろ帰るとするか、」

 真之亮は立ち上がり「女将さん馳走になった」と板場へ向かって声をかけた。

「善吉の一件でわざわざ深川へ来られたのですかい」

 辰蔵も立ち上がって、不審そうなな面持ちで聞いた。

「ウム、不幸にして善吉は殺されちまったが、善吉殺しは善吉殺しだけで探索しても始まらない事件だ。善吉の件もあったが、実のところは親分の様子を伺いに来たンだ。善吉が殺されてしょげかえってるンじゃないかと思ってな」

と、真之亮は辰蔵に笑みを見せた。

「これから、どちらへ」

と、板場から出て来たお正が訊いた。

「けえるさ。茂助一人に古手屋をやらせて、居候が遊んでいては申し訳ないからな」

 真之亮が応えると、お正が「お前さん」と辰蔵に目配せした。

 それに辰蔵は「ああ」と応じて、真之亮に「宜しかったら」と言った。

「元柳橋まで、そこから船で送らせやす」

そう言うと、辰蔵が先に立って腰高油障子を開けた。

 深川はいたる所に掘割が走っていて、ここかしこに船着場があった。辰蔵は真之亮たちを黒江町入堀の船着場へ案内した。知合いの船頭に真之亮たちを元柳橋袂の船着場へ送るように依頼した。真之亮たちは猪牙船に乗り、油堀を経て大川へ出た。

 元柳橋袂の船着場を目指して、猪牙船はそのまま大川を斜めに漕ぎ上った。

「善吉が昨夜殺されたが、同じ船頭として何か気になることはないか」

 真之亮は胴の間に渡した横板に腰を下ろして、艫の船頭に声をかけた。

 年の頃は四十前、ねじり鉢巻きに法被姿と、粋を地でいく井出達だ。

「善吉がどんな船頭だったかわっしは知らねえが、以前は船饅頭の船頭をしていたっていうンだろう。闇夜の大川で櫓を任せるには一番の船頭だったンじゃねえかな」

 船頭は多少皮肉めいた口調で言った。

「闇夜の大川で櫓を操る腕は船饅頭の船頭が一番なのか」

 真之亮は皮肉な調子に合わせて、突き放したような口吻で船頭に訊いた。

「へい。良いですかい、たとえば今、おいらは辰蔵親分に言われてお客人を元柳橋へ送っている。これは長年の勘がなくても周りの景色を見ながら櫓を押せばよいわけだから年季はいらねえ。だけど、船饅頭の船頭は女と客を船に乗せて、闇夜の大川に船を出して半刻なり一刻なり流れに漂わせてから、ぴたりと元の河岸へ船を着けなければならねえ。それは一つの技ってものでさ」

 皮肉からではなく、船頭は真面目顔でそう言った。

 真之亮は船頭に「うむ」と頷いた。当然のことながら大川には流れがある。しかも流れは海へ向かって流れるだけではない。上げ潮になれば流れは逆流し、満潮時には浅草辺りまで海水が溯る。暗闇の大川で船を操るには一定の流れに抗っていれば良いというのではない。

善吉に目をつけたのはそういうことか、と真之亮は腑に落ちるものがあった。単に目的地へ着けば良いだけではないのだ。川から狙った屋敷へ一味を送り込み、疑われないように河岸から川へ漕ぎ出して仕事が終わるのを待って、頃合いを見計らって船を戻し、仲間を拾って逃走する。その合図にも龕灯を使うのだろうか。

 そうした考えを巡らせている間にも、猪牙は元柳橋の船着場についた。

 春の陽射しに誘われて、広小路は肩が触れ合うほどの人出だった。

「巾着切りも出張って来ているンだろうな」

 振り返って真之亮が声をかけると、銀太は当然のことのように「ああ」と応えた。

「たとえば、あの屋台の傍に立って人待ち顔にしている野郎、あの目配りは掏摸のものでさ」

 銀太はにこやかに笑って、次々と指差して真之亮に教えた。

「それでは、盛り場は鷹狩りの草原のようなものではないか」

 真之亮が驚きを表すと、銀太は「だから」と吐き捨てるように応じた。

「学問でいろんなことを学ぶのは人としての礼節を知るためなンだろうけど、家が貧乏で学問を修められなかった者に、礼節を弁えろというのは筋違いじゃねえのかってことでさ」

 そう言って頬を膨らませた銀太に、真之亮は「そう怒るな」と嗜めた。

「銀太、盗人にも五分の理といってな、誰にでもお天道様と理屈はついてまわる。しかし、大事なのはその理屈が道理として世間の人々に受け容れられるかどうかだ」

 そう言うと真之亮は銀太の肩を叩いて、柳原土手の古手屋へ急いだ。

 丸新の店先が見えると、真之亮は急に足を速めた。

 通りから見るだけでも何かがあったのは明らかだ。丸新の店先にいつもとは比較にならないほど客が群がっている。店先で茂助が客の対応をしているが、どうやら捌き切れないようだ。

 なぜだろうかと、いつもの丸新の客の入りと異なる様子に、真之亮は柳原土手道を急いでに店に近づくと、その理由がなんとなく解った。どうやら店を切り回しているのは茂助一人だけではなさそうだ。目を凝らすと紐に吊るされた色とりどりの古手の上で動く白髪交じりの島田髷とその相手をしている艶やかな銀杏返しがあった。

――誰が来ているのか、と真之亮は背伸びして女の顔を見て驚いた。

 お良だった。白い上っ張りを脱いで藍千本縞の着物に白襷をして、奥の上り框でかいがいしく四十年配の内儀に振袖の晴着を勧めていた。おそらく身内の娘に急な慶事があって、呉服屋で反物を買求めて仕立てをしていては間に合わないのだろう。

「茂助、お良が手伝いに来てくれたのか」

 店先の茂助に声をかけると、茂助は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「何言ってるンですか、仕舞屋を見に来られたンですよ。昨夜、兄上が長崎から帰って来られたようで」

 と言って客の相手を銀太に任せると、茂助は嬉しそうに真之亮を奥へ引き込んだ。

 茂助にいわせれば一人前の男とは養うべき所帯を持ち、世間様に胸の張れる真っ当な仕事を持つことだ。その点、表向きは古手屋の用心棒だが、真之亮には隠密同心という立派なお役目がある。元来が生まれも育ちも八丁堀だから、ヤットウが強いだけの隠密同心とはわけが違う。お役目上、真之亮が広小路の界隈で暮らすのになんの心配もない。手先として申し分のない銀太も来てくれた。だがそれでも十分とは言い難い。真之亮が一人前と世間から認められるにはお良と所帯を持ち、一家を構えることだ。ただ「一家」といっても、わざわざ松枝町の仕舞屋を借りる必要はないが、四角四面の茂助の考えではそうはいかないのだろう。目上の客人を迎える式台のある、ちゃんとした家に暮らすのが一人前の男のありようだ、と茂助は自分が叶えられなかった人生訓を語って聞かせた。

「お良さん、これから松枝町へ行ってご自身の目で仕舞屋を見て下せえ。建具や間仕切りの手直しが必要なら大工を手配しますから。場所は真さんが知ってまさ」

 と、茂助はお良を急き立てるように言った。

 追い出されるようにして、お良と真之亮は丸新を後にした。

 松枝町へ行くには新シ橋に背を向けて神田富松町の路地へ入り、豊島町一丁目の角で三叉路を西へとる。そのまま真っ直ぐに行くと、間もなく松枝町に辿り着く。近くに玉池稲荷があって御城下の町中にしては木立の多い一画だった。

 その仕舞屋とは屋根瓦の載った行灯建ての二階家だった。間口は四間ほどと八丁堀同心の組屋敷と遜色がないばかりか二階がある分だけ部屋数は多かった。元は口入れ屋だったようだが、請人が奉公先で不始末をしでかして鑑札を取り上げられ、夜逃げしたと聞いている。

 隣の薪炭屋が仕舞屋の持ち主で、商売は四十過ぎの大柄な愛想の良い内儀が仕切っていた。

「拙者は中村真之亮と申します。隣の借家の件で参りました」

 真之亮が声をかけると、炭俵の間を縫って内儀が通路を転がるように出て来た。

「あなたが真之亮様ですかい。古手屋の茂助さんから聞いています。八丁堀育ちでヤットウが滅法強いと聞いて、この界隈の者は頼もしいと喜んでるンですよ」

 潰し島田の頭を下げてそう言うと、内儀は真之亮の手を引くように仕舞屋へ案内した。

 茂助が八丁堀同心の手先だったということを界隈の者は知っている。八丁堀生まれの真之亮が松枝町に越して来れば用心棒を雇ったようなものだ。西新井大師や川崎大師の厄除け札よりも、火付や夜盗除けの厄除けにはうってつけだと喜んでいるのだろう。

 油障子を開けて仕舞屋へ入り、後をついて来るお良に内儀は曖昧に頭を下げた。

「ああ、この娘はお良といって、拙者とここで暮らすことになっている」

 真之亮は内儀の疑念を払拭するように明るい声で言った。

「それは、お近いうちにお二人が夫婦になるってことですかい」

 と言うと、内儀は満面に笑みを浮かべて土間から座敷に上がりお良を案内した。

 仕舞屋は建ってから十数年と、新しいともいえないが古びてもいない、ほどほどの家だった。もっとも江戸の町は火事が多く、建ってから五十年以上も経つ家は皆無といって良い。家の造作や間取りや裏庭を内儀が事細かに教えながらお良を案内している間、真之亮は入り小口の上り框に腰をかけて待った。

 親子ほどに歳の違う二人の女は楽しそうに語らいながら、順に部屋を見て廻った。

 四半刻もの間、真之亮は女たちの声が奥の間から二階へ移り、裏庭へ移るのに耳を澄まして聞いた。話の内容は真之亮には大して興味のない他愛ないものだった。この部屋は日当たりが良いとか、この部屋は使用人部屋にすると良い、いや使用人なぞ置ける身分ではありません、旦那は八丁堀のお武家様でしょう、いえそれは以前のことです……、などといった話をコロコロと良く笑う内儀の甲高い声が展開して、お良の控え目な抑制された声がそれに混ざって聞こえた。

 家とは暮らしを営む『巣』でしかないが、家をめぐって女はこれほどにも飽きず延々と話が出来るものかと感心した。武士たるものは衣食住に拘泥すべきでなく、いつでも主君のために潔く死すべきものと幼少の頃から教えられて来た。この世は仮の住まい。この世で暮らす家に関して、真之亮がこだわるとすればお良が気に入るか否かだけだった。

「ここで膏薬を商って下さいな。ウチの使用人にも腰痛持ちなどがいてね。八丁堀の了庵先生のお嬢さんなら秘伝薬の調合もご存知でしょう」

一通り見終わって土間へ戻ると、薪炭屋の内儀がお良に勧めた。

――ねえそうしなよ、と立ち上がった真之亮にも内儀は馴れ馴れしく膏薬を商うように促した。

 お良の口から真之亮は浪人者だと聞かされたのだろう。浪人者は差料を帯びてはいるが武家ではない。しかも町人の人別にも入れず、厳格な身分社会では無宿人の浮き草だ。内儀の口調が先ほどと比べて随分と砕けたものになっていた。

 真之亮は内儀の問い掛けるような眼差しに曖昧に頷いた。

「まるで大家さんから人別調べでも受けているようでした」

 弁慶橋を渡ると、お良は真之亮に話し掛けた。

 部屋を案内しながら、内儀は新たに隣で暮らす者の身元や出自を細かく聞いたようだ。それは大家として店子を町役に届けなければならないため、当然のことなのかも知れない。近所の者から聞かれて、なにも知らないでは大家の面目が潰れる。

「ところで、あの家で良いか」と、真之亮はお良に聞いた。

 それはあの着物で丈は合うのかと、古着でも買う程度の物言いでしかなかった。

「はい、十分です。むしろ広すぎるかと」

 お良は喜びを控え目な態度に隠して、真之亮を上目に見た。

「そうか、お良に不都合がなければあれに決めよう」

 そう言うと、真之亮は古名大門通りを八丁堀の方角へと向かった。

 きちんと話をつけて、今後のことを取り決めなければならないのだが、そうしたことになると真之亮は逡巡した。それは気持ちが決まっていないからでもなく、世間の常識が真之亮に備わっていないからでもない。ましてや面倒に思っているわけでも、ほんの形式だと軽々しく考えているわけでもない。早く切り出さなければならないと思いつつ、ついに長い帰路も尽きて江戸橋を過ぎ、八丁堀は目と鼻の先になってしまった。

 堀割に沿った河岸道を下りながら、真之亮は足運びを緩くして振り返った。

「すでに帰ってこられたようだの、兄上殿が」

 真之亮はそう言って、言葉の継ぎ穂を探した。

「お良を妻に迎えたいと、了庵殿に申し込みに行かねばならぬが」

 真之亮が思案顔にそう言うと、お良はクスリと笑った。

「お早くして下さいませね。良は家の中に身の置き所がなくなりました。明日にでも家を出なければならないかと、思案していますの」

 とお良が言うと、真之亮は顔色をなくしてうろたえた。

「ややっ、誠に申しわけござらん。一日一日と日延べして、ついには兄上が戻られる日を過ぎてしまった。ついてはこれより拙者が参って、了庵殿にお会い致そう」

 真之亮は慌てふためいた。

 その様子を見てお良はクスリと笑った。

「いいえ、その儀には及びません。先日、中村清太郎様がお見えになり、父にお話しして下さったようですから」

「えっ、兄上が」

「ええ。父に弟真之亮はお奉行直属の抱席として分家を許された、しかも町中で暮らすも勝手である、とお奉行様から有難いお言葉を下された、と申されたようです」

 真之亮には思いも寄らないことだった。あの堅物だけが取柄の兄が諸々の手続きを済ませてくれるとは。

兄の好意は好意として有難く感謝しなければならないが、兄の配慮はあながち弟に対する好意だけでもなさそうだ。部屋住みが悶着の一つでも起こせば中村家に災難が降りかかる。部屋住みを抱えるということは厄災の種を抱えるのと同じことだ。

考えたくはないが兄は中村家の厄災の種にならないようにと、早めに手を廻しただけかも知れない。しかしいずれにせよ、中村家当主としては部屋住みの弟が町人の娘を娶るからには、まずは真之亮の武家身分を剥奪しておかなければ御定法に障ることになる。そのために南町奉行所の長たる奉行に「人別除外伺い」を出して、その際に奉行から直々に真之亮を取り立てたことを知らされたのだろう。

「真之亮の身分がどういうことになっているのか分かりかねるが、と清太郎様も父の前で首を捻っておられたとか」

そう言って、お良は屈託なさそうに笑った。

「まっ、そういうことだ。拙者は市井に暮らしてお奉行の手足となる」

 肩の荷を下ろしたように気が軽くなり、真之亮はお良に笑みを見せた。

 そうこうするうちに八丁堀茅場町につき、お良と門前で別れた。

 それこそ近いうちに兄と会い、お良と所帯を持つ了解を得なければならない。ふたたび気が重くなるのを感じつつ、真之亮は柳原土手への帰途についた。

 

 柳原土手に夕暮れが迫っていた。

 陽の匂いが通りから薄れて、寒気が舞い戻ろうとしている。

 裏口からではなく真之亮は店先から古手屋へ入り、茂助に声をかけた。

「茂助、世話をかけるな。お良も借家を気に入ってくれたようだ」

 真之亮は茂助に頭を下げた。

「何の真似ですかい。わっしは真さんの手先のつもりでいやす。真さんは儂の旦那ですぜ。住むところを探すぐらいは何でもないことでさ。それより本来のお役目に力を注いで下せえ。今度の事件を解決しなければ何も始まりませんぜ」

 そう言うと、銀太と二人して神田屋へ行って来るように勧めた。

「銀太、真さんと飯を食ってきな」

 茂助が奥に向かって声を上げると、銀太がすぐに飛び出て来た。

「真さん、江戸にゃ古着しか買えねえ貧乏野郎ばかりだぜ。柳原土手の古手屋がこんなに忙しいとは思わなかった。心底、クタクタに疲れて腹が減っちまったぜ」

 銀太は悪態をついて空いた腹を擦った。

「銀太、なんて罰当たりなことをいうンだ」

 茂助は怒ったように打つ真似をしたが、銀太は身軽に腕の下を潜り抜けた。

「銀太、古手屋を悪し様に言ってはいけないぞ。茂助が古手屋で稼いでくれるお陰で、拙者たちは飯が食えるンだ。拙者の俸禄なんぞ、あってなきが如しだからな」

 笑みを浮かべて、真之亮は盆の窪に手をやった。

「三十俵二人扶持だろう。それだけ頂ければ食うに困らないンじゃないか」

 銀太が指摘するまでもなく、単純に米に換算すれば一人扶持が五俵だから二人扶持だと十俵、それに三十俵のつごう四十俵だ。それだけの俸禄で一家と二人の手先を養うことになる。米一俵はおよそ千六百文(十分の四両)だから、年間十六両で過ごさなければならない勘定だ。そうすると扶持米で同心の所帯を賄うとすれば夫婦が食べるだけでぎりぎりだ。さらに松枝町に借家を求め手先を置くとその分はそっくり足が出る。しかも若い夫婦がいつまでも二人っきりということもないだろう。やがて子が生まれれば諸事万端に掛りが要るようになる。当然のように俸禄だけでは首が回らなくなってしまう。

そうした心許ない三十俵二人扶持の俸禄だが、茂助の考えは銀太とは異なる。武家とは貧しくとも卑しくない者のことだという。だからこそ権力を握って二百年以上も御正道を執ってこられた。武家の矜持とは百姓や町人には真似できない大真面目な痩せ我慢だ。

「銀太、お武家様にとって俸禄は飯の種だけじゃねえンだ。扶持米を頂ける身分こそがありがてえンだよ」

――お前にゃ分かるめえが、と言いたそうに茂助が店先から銀太を睨んだ。

銀太は「何のことだか、わからねえや」と吐き捨てる声が聞こえそうな眼差しで茂助を睨み返したが、肩の力をふっと抜いて「そういうものかね」と応じた。思慮分別が備わっているのが大人の資質の一つだとすれば、いつの間にか銀太は大人の資質を獲得したようだ。

 真之亮は銀太と連れ立って神田屋へ急いだ。

 道には仕事を終えた職人やお店者が家路をたどり、どことなく開放された安堵感が満ちている。そうした人たちの群れに混ざって、真之亮は眉間に皺を寄せていた。

「銀太、下手人は何をたくらんでいると思うか」

 神田屋まではせいぜい二十間ほどでしかない。余り真剣に話し込んでいると店の前を通り過ぎてしまう。

「よく分からないが、腕扱きの前科者を集めて長屋のドブ掃除をやろうってンじゃないのだけは確かだな」

 仕事を終えた人たちの心持が移ったのか、銀太は軽口を叩いた。

「長屋のドブ浚いでないとすれば、やはり夜盗しかないだろう」

 真之亮は真面目に応じて、神田屋の縄暖簾を掻き分けた。

 押込み強盗か夜働きだという予測はついている。それがどのようなものか、何処に狙いをつけているのか、銀太の勘を聞きたかった。

 しかし、ここで真之亮の気に懸かることが一点だけあった。殺された三人の前科者はいずれも南町奉行所と関わりのある者ばかりだ。北町奉行所に関わりのある者は一人もいない。町奉行所は北と南しかなく公平に考えれば関わりを持つ前科者は半々、三人も殺されれば一人ぐらいは北と関わりのある者がいて当然だ。しかし、この偏りに何らかの根拠があるとすれば、事件に南町奉行所の者が関わっていることになりはしないだろうか。思い到った事の重大さに、真之亮は黙ったまま飯を掻き込んだ。

 その夜、真之亮はある推論に到って一人で悶々としていたが、ついに腹を割って茂助と銀太に話してみた。

「殺された前科者はいずれも南町がお縄にした者ばかりだが、なぜだと思う」

 と、真之亮は問いかけるた。すると、

「北の当番月に南の岡っ引の手下を始末しているって考えられないかな」

 偶然でないとすれば殺された前科者たちが南の岡っ引が使っている手下だ、と下手人は承知して殺っているのではないか、と銀太は言った。

「銀太、端っから手下だと分かっていて、その者を始末するつもりなら擦れ違いざま匕首を叩き込めば済む。いちいち場所を変えていることと突き合せれば、下手人たちは前科者が岡っ引の手下かどうかを確かめた上で殺害しているのではないか」

と真之亮は言って、さらに踏み込んだことを口にした。

「南町奉行所の者がこの事件に一枚噛んでいるとすれば、すべてが腑に落ちる」

 と呟いた真之亮に茂助は「えっ」と驚愕の色を刷き、銀太は眉根を寄せた。

 それは驚きというよりも衝撃だった。茂助は雷に撃たれたように目を閉じたが、やがて眼を見開くと小さく頷いた。金輪際認めたくないが、判明した事実をつき合わせて考えると、そういうことになる。

「真さん、南町奉行所の者が下手人の一味にいるとすれば、前科者の名や居場所も容易に手に入るってことだ。しかも、南町奉行所が扱った事件の咎人なら、それ以後も南町奉行所の岡っ引と関わりを持つのが自然でさ。前科者が殺されたところで北町奉行所が当番月なら、北町の岡っ引が本気で探索しないと踏んでのことかも知れねえ」

 真之亮の考えを引き取って、茂助が肝心な点を解き明かした。

 町奉行所が北と南に分かれて仕事を分担し合うのも、悪党たちと変な癒着が生じないようにとの配慮だが、それを逆手にとって事を起こしたとなると用意周到な悪党ということになる。

「そこなンだ、南町奉行所の者が知りうることは前科者の名だけではない。書庫の事件綴には事件の顛末から押し入った屋敷の見取図まで詳細に書かれているはずだ」

 真之亮がそう言うと、茂助は眉根を寄せて考え込みハタと手を打った。

 吟味方は自白主義を採り、下手人の口述を取って爪印を押させる。そのためには過酷な拷問は勿論のこと、親兄弟から親しい者まで類が及ぶことを言い聞かせて自白を強いた。そうして作成した事件綴りには仲間のことから押し入った屋敷の図面、さらには後日の逃げた足取りまで仔細漏らさず記され、奉行所の書庫に残されている。

「そういえば、こんなことがありやした。先代の清蔵様が本所改役から定町廻に上がる目前だったのを棒に振っちまった事件ですがね」

と、茂助は話の順序を整理するように視線を宙に漂わせた。

「あれは、旦那が亡くなられる二年ぐらい前のことでさ。佐賀町は米問屋摂津屋の米蔵屋敷に忍び込んだ盗人がいたと思って下せえ。時恰もちょうどこの頃、二月の切り米支給日だったかと思います。米屋が雇い入れていた用心棒に叩きのめされてお縄になった男でさ。吟味してみると前科もあって盗んだ銭が十両どころじゃなかったため、獄門首は間違いない。そこで、旦那が三途の川を渡ってから閻魔様の前で言い足す必要がないように、ここで洗いざらい喋っちゃどうかと水を向けた。すると、盗人が『一度だけ面白い夜働きをしたことがある』と言ったンでさ」

――ああ、思い出して来やがった、と呟いて茂助は拳を握った。

「確かムササビの盗兵衛って二つ名の野郎でしたがね『一晩の夜働きに付き合えば金百両だ』と見知らぬ男から誘いを受けて、軽い気持ちで承知した。が、諾意だけを確かめるとその後は何の繋ぎもなく、からかいやがったかと思い始めた頃になって繋ぎがあった。それが忍び込む当日の昼下がりで、集まる場所だけを知らせてきた。『陽が落ちたら元大工町の谷房稲荷の境内に蘇芳色の布で顔を包んで集まれ』ってンだ。元大工町の谷房稲荷といえば八丁堀と町奉行所の中ほどに位置していて、盗人たちにとっては危険極まりない場所じゃないかと案じたが、とにかく繋ぎ役の男は伝言だけを言って消えた。詳しくは集まってから教えるってことだった、と」

 茂助は記憶を手繰るように話し、口を閉じて再び記憶を手繰り寄せた。

「それじゃ、押し入る屋敷内部の詳細を誰が教えるンだ」

 と、銀太が口を挟むと、茂助は目を剥いて「黙って聞いてろ」と叱った。

「当夜、稲荷の境内に黒頭巾で顔を隠した仲間が集まり日本橋通り町の呉服問屋に押し入ったと語った。実際に事件綴を例繰方に頼んで調べてもらったら、ムササビのいった押込み強盗は北町が当番月に実際にあって、ざっと四千両ばかり盗まれていたンでさ」

 そう言って、茂助は銀太に頷いて見せた。

「ムササビが驚いたのは、集合場所へ行くと呉服問屋の詳しい見取り図から奉公人の寝泊まりしている部屋の位置のみならず、奉公人の人数から内所の家人の寝所まで、細大漏らさず書き記した絵図面を見せられたってことで。ムササビの盗兵衛は親からもらった名を熊蔵ってンですが、集まった仲間からは『くの字』と符丁で呼ばれ、他の仲間も符丁で呼び合って誰が何処の誰だか一切分からなかったってことでした。先代の清蔵様は何とも面妖な事件に手をおつけになったものだと恨んだものでさ」

 そう言って茂助は茶を啜って、一つ大きく溜め息をついた。

「先代は伝馬町の牢へ赴いて熊蔵から仲間の名を聞き出そうとしましたが、あの夜に一度会ったきりってンで。しかも全員が顔を布で包んでいて誰が誰だか分からねえって言うばかりだが、嘘じゃなさそうで。そこで先代は詳細な屋敷の絵図があったことから店の内部に手引きした者がいると睨んで奉公人を洗い直したンでさ。それで、縄張り違いの北町の事件に首を突っ込んだと上役から睨まれちまった。それでも先代の力で解決していれば問題にならずになんとかなったンですが、ついに事件は解決しないまま、いたずらに先代の立場を悪くしただけで。定町廻りに上がる目前だったのを棒に振って、とうとう先代は本所改役で生涯を終えちまったンでさ」

 その件では茂助も清蔵の手先として走り廻ったのだろう、思い出して悔しそうに口元を歪めた。

「定町廻りへの昇進を棒に振ってまで父上が洗った事件なら、探索も半端じゃなかったはずだ。一味を手引きした者が店にいなかったというのなら、それが本当だろう。すると、どういうことになるンだ」

――内通者もしくは下手人が南町奉行所にいることになりはしないか、と真之亮が目顔で言った。

 茂助はブルルッと身を震わせ、銀太はゴクリと唾を呑み込んだ。

 前代未聞のことだ。南町奉行所の者が指図して夜盗を働くとは、例え話にも聞いたことがない。しかしそれは聞いたことがないだけで、実際にはありうることだ。

「しかも一味は屋敷の内部を絵図面に詳細に描き、部屋割りとそこで寝ている人数まで調べ上げていたンで。千里眼でもない限り出来ないことですぜ」

 驚きから立ち直ると、茂助は心に湧いた疑問を口にした。

 茂助の言う通りだ。人様の屋敷に立ち入らずに内部を事細かに調べ上げることは出来ない。ただし、その屋敷が過去に盗人に入られたことがあれば話は別だ。事件吟味の過程で町奉行所は下手人から詳細な口書を取り、その侵入経路などを記した屋敷図などと一緒に書庫に保管してある。例繰方の与力や同心なら誰にも見咎められることなく書庫に出入りできる。

「兄上に頼んで調べてもらわねばならぬ。それも、北と南の両方の町奉行所の過去の事件を洗って。それらを突き合わせれば分かることだ。おそらく今度の前科者殺しの一件も理由が浮かび出てくるはずだ」

 そう言って、真之亮は二人を見廻した。

 茂助と銀太は謎解きが分かりかねて「真さん」と声をあげた。中村清太郎の手を借りて何を調べるのか、茂助と銀太にはわけが分からないようだった。

「北町奉行所の当番月に盗賊一味に押し入られて、未だ解決を見ていない事件はないか。同時に南町奉行所にはその未解決事件の起こる前に、当の屋敷に盗人が入って下手人をお縄にした事件がないかを、だ」

と、真之亮が謎を解き明かしても、二人の顔は依然と曇ったままだった。

――分からないのか、と溜め息をついて真之亮は身を乗り出した。

「いいか、南町の当番月に盗人が入り、下手人をお縄にする。するとどうなるか。事細かに盗人の侵入経路からその折の奉公人の居場所に主人家族の寝所や内所の位置を聞き出して、それを屋敷内部の絵図面に書き込んで事件綴に綴じ込む。時には錠前をどのようにして破ったかまで子細に口書に残す。その事件綴さえ手に入れば、屋敷の内部は細大漏らさず解ることになる。そこで事件のほとぼりが冷めた頃、その屋敷を狙って北町が当番月に夜働きをする。南町奉行所が当番月なら南町の同心が駆け付けることになるが、北町が当番月なら北町の同心が駆け付けて探索を行う。北と南は日頃から張り合っているから滅多なことで南北が協力して探索したり、探索経過や下手人の目星に関して役人同士が話し合うことなど百に一つもない」

 真之亮が謎解きの説明を終えると、二人は大きく頷いた。

「なるほど、真さんの言うことは道理に適ってまさ。だとすると、南町奉行所でお縄になった前科者にだけ夜働きの誘いをかけている謎も解けるって寸法だ。誰かが南の事件綴を繰って夜働きに役に立ちそうな前科者を探しているってことですか」

 茂助は大きく二度、三度と頷いた。

「そうした事件綴は奉行所のどこにあるンで」

 銀太は茂助の顔を覗き込んだ。

「お白洲の裏、牢番小屋の隣の長屋のような一棟だ。銀太、北にも南にも奉行所には例繰方といって紙虫みたいな役職があるンだ。日がな一日中、書庫に篭もって事件綴が山積の棚に囲まれた部屋で書面に埋もれて過ごすンだ」

 そう言うと、茂助は腕を組んで考え込んだ。

「ケッ、おいらは真っ平御免だぜ、そんな辛気臭い仕事なぞ」

 銀太は大きく手を振って見せた。

「ばか野郎、町方同心といってもピンキリだ。粋な定町廻だけじゃ町奉行所は動かねえンだよ。紙虫といわれる地味な役回りもいなけりゃならねえンだ」

 茂助は銀太を叱り付けて、ムササビの盗兵衛の話を続けた。

「先ほどの話ですけどね、ムササビは『夜働きを終えると呉服問屋の前で分け前を貰って別れたっきり、一味の者とは会っていない』というンでさ。『もしかするとあれから悪事を働いた一味と道で出会ってたかも知れないがね』と、笑っていたようです。悪党一味は顔を包んでいて顔はもちろん、符丁で呼び合っただけで名前だって知らされていない。ムササビは分け前の百両を懐にナカへ繰り出して、七日流連けて面白おかしくパッと散財しまったと言ってやしたっけ」

「豪儀な盗人だな」と感嘆したように、銀太が呟いた。

「そうかな、銀太。ムササビはとどのつまり獄門台に首を据えられたンだぜ。掏摸と同じで盗人稼業も本当のところは割に合わない稼業なンだよ」

 そう言って、真之亮は銀太に笑みを見せた。

 茂助は話を元に戻すように「ところで、」と真之亮に話し掛けた。

「真さんの見込み通りだとして、明日にでも清太郎様にお頼みなさるンで」

 茂助は心配そうに真之亮を見詰めた。

 真之亮の言辞の通りだとすれば、事件に南町奉行所の者が関わっている疑いが強い。それを例繰方に言って過去の事件簿を調べさせて欲しい、と兄に頼むことになる。頼まれた兄は南町奉行所本所改役臨時廻りの同心だ、兄にとっては仲間の悪事を暴くようで決して心楽しいものではないはずだ。

 茂助の心配顔をよそに、真之亮は明るく笑った。

「誰も兄上に頼むとは言っていない。ただ兄上に話してはみるが、嫌な顔をされればお奉行に頼むだけだ。余り心配しすぎると長生きできないぞ」

 屈託のない笑みを浮かべて、真之亮は二人の顔を見た。

 これから先、自分はどれだけ世間の役に立てるか心もとないが、お役目で自分を助けてくれるのは茂助と銀太だ。そうした面持ちで二人を見廻すと茂助は照れたように顔を両手で撫で回した。

「真さん、夜鷹蕎麦でも手繰りに行きやしょう。銀太、お前も付いて来な」

 上擦った声で茂助が言うと、銀太は嬉しそうに立ち上がった。

 裏口から土手に出た。十六夜の月が昇り、冷たい風が川面を撫でている。今宵も柳並木の陰に人の気配がして、囁く声が聞こえた。

 新シ橋の袂に掛行灯の明かりが瞬き、担ぎ屋台の物陰から湯気が立ち上っていた。

「親爺、熱いのを三ばいくれろ」

 と、茂助が七輪に屈み込んでいる親爺に声をかけた。

 三人の後を追うように、暗闇の中を二人の女が土手道を駈けてきた。

「古手屋の旦那、わっちらに熱い蕎麦を奢っておくれでないか」

 ちびた下駄を鳴らして来ると、大袈裟に息を切らした。

「ああ、いいとも。親爺、夜鷹に夜鷹蕎麦二つ追加だ」

 茂助は端切れ良い江戸弁で親爺に言った。

 茂助が巻き舌でものを言うときは機嫌の良い証拠だ。

「おや、銀公じゃないか。古手屋の旦那に拾われたのかい」

 大年増の女が明かりの外に立っている銀太に呼び掛けた。

「やや、稲荷町のお島じゃねえか。いかにも、おいらは掏摸から足を洗って古手屋の奉公人になったンだ。それよりお前、夜鷹なんぞして亭主の六助はどうしたい」

 茂助と並んで縁台に座った女に近づいて、銀太は問い掛けた。

「六助にゃ三行半をわちきの方から叩き付けてやったよ。働きもしないで奥山の賭場で手慰みばかりしやがって、稼ぎのない亭主はお払い箱さ。ところで銀公、勘治が大怪我をして安の所へ担ぎ込まれたのを知ってるかえ」

「ええっ、それはいつのことだい。勘治とは昨日の夕刻に会ったばかりだぜ」

「それじゃ、その後だね。昨夜、わちきが夜働きから帰ったら長屋じゃ大騒ぎだったンだ」

「怪我の具合はどうなンだ」

「生きているのが不思議だって、薮医者の道源がいってたよ。後から右袈裟にバッサリと一太刀だってさ」

 斬る手振りを交えて女がそう言うと、銀太は真之亮を険しい眼差しで見上げた。

「旦那、いきやしょう」と銀太が短く言い、真之亮がそれに頷いた。

「茂助、ちょっと行って来る」

 そう言うと真之亮は腰を浮かした。すぐにも駆け出しそうな二人に茂助が「蕎麦を食ってからにしな、腹が減っては良い知恵も出ねえだろうよ」と声を放った。

 茂助の言うとおりだ。腹が空いては知恵のほうも留守になってしまう。夜鷹蕎麦を湯気ごと掻き込むと、真之亮と銀太は稲荷町へ向かった。

 新シ橋を渡って北へ延びる大通を二人は足早に駆けた。

まだ町木戸が閉じられる刻限ではないが、夜道を駆けていたため三味線堀の木戸番で呼び止められた。

「稲荷町へ急ぎの御用だ」

 真之亮は懐から朱房の十手を引き抜き、番太郎の目の前に突き出した。

 番太郎は「ヒィ」と後ずさって真之亮たちを通した。

長屋を知っている銀太が先を駆けて、真之亮が大股に後に続いた。

「安、ってのは誰だ」

駆けながら真之亮は訊いた。

「勘治の弟分でさ、安五郎って名だがみんなは安って呼んでる」

 そう言う間にも、銀太は永昌寺門前参道脇の貧乏長屋の木戸口に駆け込んだ。

「安、銀太だ。勘治兄ィの具合はどうだ」

 六尺路地の入り小口右手の建てつけの悪い油障子を引き開けて、銀太は叫んだ。

 真之亮も銀太の背越しに部屋の様子を窺った。

 九尺二間の棟割長屋、三尺の土間と素通しの四畳半があるきりの住まいは一目瞭然だ。黴臭い部屋に狐火のような絞った明かりがともり、人なりに膨らんだ夜具の傍に銀太と似た年格好の痩せた男が座っていた。銀太を見つけると布団の脇に座っていた細面の瘠せた男がワッと泣き声を上げた。

「ああっ、銀太。兄ィが酷いことになりやがって……」

 雪駄を脱ぎ捨てて部屋に上がると、勘治は顔に死相が浮かび虫の息だった。

「勘治兄ィは何処で誰に斬られたンだ」

 銀太は安五郎に鋭い声で訊いた。

「斬られた場所は蔵前森田町の大通だ。相手は誰だか分からねえ。戸板に乗せられて運び込まれた時にゃ、もうこの通り口が利けなかった」

 安五郎は涙声で言って、銀太を見詰めた。

 蔵前森田町は蔵屋と呼ばれる札差が軒を連ねる町だ。そうした場所で掏摸が斬られても、町方は形通りの取調べしかしないだろう。町方下役人にとって掏摸は野良犬同然で、この世にいない方が良い。それに対して札差は旗本御家人相手に金貸し業を専らとしているため、店には必ず腕利きの用心棒を飼っている。借銭に来た世間知らずの旗本の用人が時には脅しに差料を引き抜いて暴れるため、その用心のためだ。所詮札差も破落戸のような者ばかりで、おそらくは虫の居所の悪い札差の用心棒に斬られたのだろう、といって町方は本気で下手人を探索しようとはしないだろう。

「銀太、勘治兄ィはお蝶姐さんの行方を捜していたンだ。勘治兄ィが二日前にここに顔を出して、町方役人がお蝶姐さんを人殺しの道具に使ってやがるって、たいそう怒っていたンだ」

 と思い出したように、安五郎が口を開いた。

「ナニ、町方役人って岡っ引かそれとも手先か。まさか八丁堀定廻り同心のことじゃねえだろうな」

 銀太は問い詰めるように、安五郎を睨み付けた。

 そこが肝心要だろうが、と睨みつけたが、安五郎は力なく頭を振るばかりだった。

「町方役人とだけしか兄ィは言わなかった。土壇場に追い詰められてお蝶姐さんは二進も三進も行かなくなった、と」

 安五郎はそれだけ言うと、嗚咽を漏らして涙を流した。

 勘治は多量の血を失ったのだろう顔色が青ざめ、たとえ傷が癒えてもふたたび元気になるとはとても思えなかった。白い晒で巻かれた胸のあたりがかすかに上下して息をしていると分かる他はすっかり生気を失い、既に死神に取り付かれた生ける屍のようだった。

 勘治になにかあったら柳原土手の古手屋丸新に知らせろ、と安五郎に言って真之亮と銀太は長屋を後にした。「どこへ行くのか」とは口に出さなくても分かっていた。

 月明かりの道を二人は長い影を曳いて、大通を静かに歩いた。

「安五郎は何をしている男だ」帰りの道々、真之亮は銀太に聞いた。

「掏摸でさ。浅草広小路を縄張りにしている」吐き出すように、銀太はこたえた。

「あの様子では勘治は今夜あたりが峠だろう。お前も昔の仲間なら、安五郎の身の振り方の相談にのってやれ」

 真之亮がそう言うと、銀太はこくりと頷いた。

「安五郎が古手屋の店番の手伝いが良いといえば茂助を手伝ってもらうし、銀太と一緒になって拙者を助けてお役目を手伝いたいのならそうしてもらっても良い」

 真之亮の言葉を聞くと、銀太は「済まねえ」と小さくこたえた。

 

 翌朝早く、真之亮は銀太を弥平の許へ呼びに遣った。

「旦那、何の御用で」と、丸新の裏口に顔を出すと弥平はむくれて見せた。

「勘治が蔵前の往来で斬られたってのは知ってるだろう」

 弥平を座敷に上げると、真之亮は弥平に訊いた。

「へい、知っちゃいやすが相手は掏摸ですぜ。まともにゃ取り合えませんや」

 嘲るような笑みを浮かべて、弥平は吐き捨てた。

「そうか、掏摸は人間じゃないか。それは弥平というより貝原忠介殿のご意見だと受取って良いのだな」

 真之亮は脅すように弥平を睨み付けた。

 真之亮だけではなかった。茂助も銀太も冷たい眼差しで弥平を睨み付けた。すると弥平は三人を見廻してから閉口したように「よせよ、分かったよ」と音を上げた。

「いや、少しも分かってないようだ。勘治が掏摸だったのは間違いないが、掏摸を働いた勘治には厳しい罰が科されたはずだ。御奉行所門前で叩きの刑を受けて、勘治は罪を償ってまっさらになった。辻斬りか何かは知らないが、親分の縄張りで真っ当な男が斬られる事件があって、当の親分が探索しないようでは町衆は枕を高くして寝られないンじゃないかな」

 噛んで含めるように、真之亮は道理を語って聞かせた。

 弥平は訝しそうに表情を歪めて、真之亮を掬い上げるように見詰めた。

「勘治は町方役人に斬られたのかも知れないンだぜ」

 一呼吸の後、真之亮がそう言うと弥平は驚いたように目を見張った。

 弥平に詳しいことはしゃべれないが、勘治を襲った下手人にはお蝶の影が差している。勘治の言葉を借りれば「お蝶は土壇場に追い込まれて」一連の前科者殺しに手を貸した疑いが濃厚だ。いや、もしかすると数々の殺しの現場でお蝶を操っているのは南の同心かも知れない、との疑念が真之亮の脳裏に去来した。

「旦那、いったい何を追ってらっしゃるンで」

 弥平は手炙りに覆い被さるように身を屈めて、掬うように細い目で見上げたまま低い声で訊いた。

 さすがは勘の鋭い岡っ引だ、と真之亮は弥平を感心したようにその視線を受けた。定廻本所改役の同心の元手先と、町方同心の弟が二人して厳しい眼差しで「探れ」とけしかければ当然かもしれないが、弥平も勘治の一件の背後に深い闇が広がっているのに気付いたのかも知れない。

「コレといった目当てがあるわけじゃない。掏摸殺しの他に何もなければ、それにこしたことはないンだ。転ばぬ先の杖といってな、まずは安五郎の家へ行って当たってみるンだな。銀太、きょうはお前も勘治の傍に付いていてやれ」

 真之亮はそう言って、差料を手に立ち上がった。

「真さん、どちらへ」と、茂助が聞いた。

「出仕前の兄をつかまえて、昨夜の思案を頼んでみるつもりだ」

 そう言うと、真之亮は雪駄を履いて低い鴨居を潜るようにして裏口から出た。

 土手の坂を上り、道の端に立って真之亮は一つ大きく伸びをした。振り返ると、ゆったりと川面を揺らめかして薪炭や乾物などの荷を満載した川船が神田川を行き交っている。日毎に暖かくなる陽射しに目を細めて、春霞の空を見上げた。季節はいつしか冬から春へと移っているようだ。「真之亮よ、うかうかしてはおれぬぞよ」と呟き、事件解決もさることながら、自分の始末を自身で付けられないでは一人前とは言い難いと自戒した。

真之亮は柳原土手道へ出ると、さっそく八丁堀へ向かった。この刻限を選んだのには理由がある。丁度八丁堀同心は朝風呂から帰って、庭に面した縁側で髪結に髷を結わせている頃だ。幼い時分から同心だった父の暮らしを見ている。この時分なら同心が何をしているか、非番月の兄の暮らしぶりも手に取るように分かっていた。

 中村清太郎の組屋敷は八丁堀の提灯掛丁と辛抱小路に挟まれた一画、町御組屋敷の中ほどにあった。中村家の右隣の貝原忠介の家の前を通って、生まれ育った屋敷の門を入った。が、そこまで来て玄関へは寄らず脇の枝折り戸を開けて裏庭へ回った。父が生きていた頃と少しも変わらない庭木の様に感慨深いものがあった。

 町方同心は「日髪日剃」といわれ、髪結いを屋敷へ呼び、毎日髷を結い髭を当たった。真之亮が睨んだとおり、中村清太郎は縁側で父の代から出入りしている髪結いに髪を梳かせていた。受け板を両手に持って縁側に神妙に座っていたが、庭先に入ってきた慎之亮を見つけると不機嫌そうに口元を歪めた。四歳年上の兄は母親似といわれ白皙細面に聡明そうな目鼻立ちをしていて、父親似の真之亮の頑丈そうな造りとはまったく異なっていた。

「兄上、先日は拙者と良のことでお手を煩わした由にて、お礼申しあげまする」

とまずは頭を下げてから、真之亮は清太郎の傍らの濡れ縁に腰を下ろした。

「そういうことはどうでも良いが、お前の身分はどういうことになっているンだ。お奉行に問い合わせたら町人との縁組みもお構い無し、市井に暮らすもお構いなし、そういうことになっている、と申された。お前の身分のことは当人に訊いてはならぬと釘を差されたが、一体全体どうなっているンだ」

と怒ったような口吻で問いかけられた。さてどう説明すべきか、と返答に逡巡する真之亮に、

「それすらも実の兄にさえ口外無用なのか」と、重ねて訊いた。

「はい、そういうことにて御納得頂ければ幸いかと」

 と、真之亮は面目なさそうに頭を下げた。

 いうまでもなく中村家の当主は長男の清太郎だ。与力や同心は表向き一代限りだが、実際は抱席といわれ代々世襲となっている。世襲ということは当主が同心のお役に就けば、弟の真之亮が取り立てられることはない。弟の真之亮は清太郎の厄介者として生涯を独り者として過ごすか、あるいは婿養子となって他家へ入るか、それとも家を出て浪人者として市井で暮らすか、しかない。 

 幼少時に真之亮は学業で兄に遠く及ばなかった。それは真之亮の頭の出来が兄に劣るというのではない。単に真之亮が勉学を怠けて真剣に励まなかったからだ。子供は大人の態度に敏感だ。父親に期待され厳しく育てられている兄と、次男の真之亮に接する家人の態度に明らかな差があった。

同心の素養として必要な十手術や棒術なども、兄は早くから父に命じられて同じ八丁堀にある筋目正しい師匠の許へ通っていたが、真之亮には手先の茂助が暇な時に手解きをしてくれた。剣術も兄は同心の子弟が通う八丁堀の道場へ通ったが、真之亮は新しく出来たお玉ヶ池の町道場へ通った。幸いだったのは大師範千葉周作が興した町道場が江戸でも教え上手と評判だったことだ。その町道場で真之亮は水を得た魚のように剣術修行に励み精進した。

二十歳を過ぎたころから真之亮は剣術道場の行き帰りに出会うお良と言葉を交わすようになり、いつしか二世を契る仲になった。しかし父が亡くなり、兄が家督を継ぐと、真之亮は中村家の次男から部屋住みとなった。武家のご定法により部屋住みの者は嫁を娶ることは出来ない。

いよいよ兄が嫁を娶ることになると、真之亮は家を出る決心をした。それは武家身分を捨てて、浪人者になるということだ。浪人者となり剣術家として市井で生きて行こうと考えていた。お良と所帯を持つにはそれしか方法がなかった。道場では代師範を仰せつかり、入門初心者に剣術の手解きをしていた。

八丁堀の家を出て間もない日、お玉ヶ池の道場に南町奉行の側役が訪れて隠密同心になるようにと命じた。浪人者になる決心をして家を出た真之亮にとって、断る理由は何もなかった。

真之亮は隠密同心に取り立てられた経緯などを秘匿したまま、兄に尋ねた。

「つかぬ事をお伺いいたしますが、兄上は父上が執念を燃やして取り組まれだ事件があったことをご記憶でしょうか」

 声を低くして、真之亮は八丁堀の家へ足を運んだ用件を切り出した。

 清太郎は「うむ」と返事を洩らして、元結を縛っていた髪結の手元を狂わせた。

「未だ解決を見ていませんが、北町の強盗事件は呉服問屋内部の者の手引きがあったのではないかと睨んだ父上が強引に探索を進められ、北町から差配違いと捻じ込まれ不興を買ってしまわれた。そのため父上はとうとう定町廻りになれませんでしたが」

 真之亮がそう言うと、背後の髪結を憚るように清太郎は二三度咳払いした。

「そこで、兄上にお願いがございます。ここ十年ばかり南町奉行所と北町奉行所と両方の事件綴の中から未解決の強盗事件を洗い出し、その家が以前に盗人に入られ下手人がお縄になっているかどうかを調べて頂きたいのですが」

 真之亮の言葉を反芻するかのように考え込んでから顔を上げて、

「何のことだ。つまり、それはどういうことだ、真之亮」

 と、清太郎は眉根を寄せて真之亮を睨んだ。

「北町奉行所で下手人が判明していない強盗事件が何件かあると思います。そして、その下手人がまだお縄になっていない事件が起きる数年前に、南町奉行所の当番月に同じ屋敷が強盗事件の被害にあって、その事件では下手人がお縄になっている、という事件があるか否かと。かような事実を確かめて頂きたいのですが」

――よろしいかな、と念を押すように真之亮は清太郎の顔を覗き込んだ。

 清太郎は真之亮の意図を図りかねて訝しそうに小首を傾げた。

 聡明な清太郎のことだから、真之亮の言った言葉の字面の意味は分かったはずだ。しかし具体的な内容として弟が何を意図しているのか理解しがたいのだろう。

「よく分からぬが、それはつまりどういうことだ」

 清太郎は小首を傾げて、呆けたように口を開いた。

「つまり北町奉行所で解決を見ていない強盗事件があればその事件綴を調べて頂き、それ以前にも南町の当番月に同じ屋敷に夜盗が押し入る事件があって、首尾よく南町奉行所が下手人を捕らえた事件があったか否かを調べて頂きたい、ということにて」

 と、ふたたび真之亮は同じことを繰り返した。

「つまり南町奉行所が当番月の折りに、ある屋敷に押し入った盗人を捕らえた。かような事件綴があって、後日まさしくその屋敷に北町奉行所が当番月の折りに盗人が押し入り、その事件は未だに解決を見ていない事件がありやなしやと、真之亮はそれを知りたいというのだな」

「正しくはそのような事実経過を辿る事件が過去にあったか否か、を調べて頂きたいのですが」

 真之亮がそう言うと、清太郎はやっと得心したように頷いた。

 だが、顔を上げると同時に清太郎は表情を険しくして真之亮を見詰めた。真之亮の狙いが何なのか、いよいよ分かりかねるようだった。

「南町奉行所が当番月の折り、屋敷に押し入った盗人を捕らえて下手人を処罰した。しかし数年後、北町奉行所が当番月に正しくその同じ屋敷に盗人が押し入った事件は解決を見ていない、というンだな。話は分かったが、それはつまりどういうことだ」

 腑に落ちかねる不可解な眼差しで、清太郎は真之亮を見詰めた。

「そのような事実が有るか否かだけを、確かめて頂ければ」

真之亮は同じ文句の繰り返しに、多少なりともうんざりとした色を浮かべた。

 清太郎は曖昧に頷いて受け板を髪結に手渡した。廻り床の髪結が清太郎の肩にかけていた手拭いを取って肩を軽くはたいた。それが終わると、清太郎は膝を崩して胡座を掻き表情を和らげた。

「ところで、お良との婚儀をいつ取り計らうのだ。お奉行のお話だとお主の人別は中村家の分家という扱いになるようだ。分家を立てるとなると親戚一同にも、お主の婚儀の席に顔を揃えなければならず大人数となるため、内々に組屋敷で済ますことは出来ぬぞ。どこか場所を借りて宴を用意せねばならぬと思うが」

 清太郎は中村家の当主の勤めとして、通常なら真之亮の婚姻を親族に披露しなければならない。しかし真之亮は「いやいや」と首を横に振った。

「婚儀の日取りなどはまだしかと決めてはおりませぬ、先方のご都合もあることでしょうから。しかし披露宴は特別な場所でなくても、新居に借りた松枝町の仕舞屋で良いかと。あくまでも拙者は浪人者として市井に暮らさねばならぬお役目ゆえ」

 と真之亮が言うと、清太郎は切なさそうに目を曇らせた。

「親戚に対して何といえば良いのだ。わが中村家から浪人者を出し、その浪人者が町人の娘を嫁に迎える、とでも説明するのか」

 清太郎は嘆きの声を上げ、目を細めて軒先を見上げた。

 髪結が沓脱ぎから庭に下りて立ち去ると、辺りに人影のないのを確かめて清太郎は真之亮を見詰めた。

「親しい親戚の者にさえも、どうしもお前が抱席に取り立てられたことを秘さねばならないのか。お奉行から頂戴する三十俵二人扶持は俺たち町方同心と同じ身分だぞ。身に余る誉を得ているに、親族はおろか母上にも話してはならないのか。お良には何と言っておるのだ」

と声を潜めて、清太郎は目顔で問い詰めた。

「お奉行様の気紛れで特別なお役目を頂戴している、とだけ」

 そう言って、真之亮は清太郎に微笑んで見せた。

「過日、茂助と二人で父上の墓前へ報告に上がって参りました」

 真之亮が小声でそう言うと、清太郎は「そうか」と寂しそうに微笑んだ。

 昔を思い出しているのか、唇を結んで遠くの空を見上げるように顔を上げた。

「茂助はお前を甘やかすだけの愚かな手先かと思っていたが、どうやらそれは思い違いだったようだ。良い手先を持ってお前は幸せ者だの」

 しんみりとそう呟くと、清太郎は立ち上がった。

そろそろ清太郎は黒紋付き羽織に威儀を正して、町奉行所に出仕する刻限が近づいていた。

「せっかく帰って来たのだ、母上にご挨拶してゆくか」

 と清太郎は聞いたが、真之亮は僅かに首を横に振った。

 母親に挨拶ぐらいしても良さそうなものだが、会えばお良とのことに触れないわけにはいかず、秘したため後に兄が責められることになってもいけない。真之亮が自分の立場を話せない以上、ここは母親と会わない方が良い。

来た時と同じように真之亮は犬走りを伝って枝折戸を通り、玄関から屋敷を出た。

 組屋敷を出ると、真之亮は本八丁堀一丁目へと向かった。堀割に突き当たるとそこを右へ曲がり、日本橋通りへ足を向けた。日本橋から京橋にかけてを日本橋通といって、この国屈指の商店街だった。四つ過ぎの春の陽射しが大通に落ち、通りを行く人々の身も心なしか軽く見えた。

 八丁堀の一角から大通に出ると、真之亮は柳原土手とは反対の西へ折れた。そして京橋を渡って銀座通りを数寄屋橋御門内南町奉行所の裏門、お奉行の役宅へ足を向けた。十日に一度顔を出すお役目にはまだ二日ばかり早かったが、兄に頼んだ用件をお奉行の耳に入れておくべきと判断した。 

真之亮は重い決断に身震いした。それは悪寒にも似た慄きだった。確たる証左はまだないが南町奉行所の内部に広がる深い闇を真之亮は肌に感じた。真之亮の推測が正しければ南町奉行所の中に夜盗一味の巣窟があることになる。どのような人たちが関与して、どのようなことを企んでいるのか、すべては兄に頼んだ事件綴の調らべを待つしかない。

 

 南町奉行所は北町奉行所と同様、表の役場としての奉行所と裏の奉行の公邸たる役宅とに分かれている。奉行はその役にある間は役宅に住むことを義務付けられた。

真之亮は奉行所の裏門へ廻り、番士に懐の十手を見せた。門を入ると真之亮は玄関でおとないを入れることもなく、玄関前を素通りして直に庭へ廻った。四角四面な取次や挨拶は無用、と当のお奉行からいわれている。

「中村真之亮でござる。お奉行様にお会いしたき儀これあり、罷り越しました」

 明かり障子の閉てられた縁側に向かって、真之亮は声を上げた。

 すぐに能吏然とした側役が顔を出して「何用か」と聞いた。三十を三つ四つばかり出た年格好の、真之亮が最も苦手とする利発さが顔に出ているような男だった。

 用がなければ来てはいけないのか、と真之亮は少し絡みたい気持ちが湧いたが「実は……」と兄に依頼した用件を順序立てて話した。

しかし、側役は木で鼻を括ったような表情を崩さず、

「左様なまだ確たる証左のない案件を殿のお耳に入れるわけには参らん」

 と素っ気無く言って、さも忙しそうに立ち去ろうとした。

 真之亮は庭先に立ったまま「されば」と大声で応じた。

「これにて拙者は隠密同心を辞する。左様にお奉行様に申し伝えられよ」

 そう言うと真之亮は懐の十手を引き抜くと縁側に置き、さっと踵を返した。

 このような頑迷な男を側役に取り立てているようでは、遠山景元は碌でもない奉行だ。召し抱えられた同心を辞めれば茂助は落胆するだろうし、無鉄砲な自分を責めるだろう。だが町人が何人も殺害される事件が起きているにも拘らず、その解決に働かなくても良いのなら自分が隠密同心でいる必要はない。それより市井の一浪人者として町衆のために役に立てば良い。

 真之亮は憮然として庭を出ようとすると、

「おいおい、そう短気を起こすもンじゃねえ。ここへ戻ってきな」

 と、縁側から野太い声がして、真之亮を呼び止めた。

 振り返ると縁側に裃を後ろに垂らした四十過ぎの恰幅の良い男が立っていた。団十郎ばりの目鼻立ちのはっきりとした男だ。裃を着けてこれから表の役所へ行くところだったのか。

「お前さんの話は障子内で聞かせてもらった。なかなか興味深い話だ。して北町の事件綴の写しが兄の中村清太郎の手に入るのかえ」

 そう言うと、遠山景元は縁側に胡座を掻いた。

 遠山景元は天保十四年に罷免されるまで三年ばかり北町奉行を勤めた。目付けから南町奉行になった鳥居耀蔵に讒言されて北町奉行を罷免された後、北町奉行を阿部正蔵が一年足らず勤めて今は鍋島直孝がその任にある。しかし、北町奉行所にはいまも遠山景元と親しい与力が何人か残っていた。

「はっ、どうなるか分かりませんが、兄にも八丁堀の学塾や剣術道場、それに組屋敷での交友関係で親しい者がおりますゆえ」

 兄に花を持たせてやりたい、と思うのは真之亮の肉親の情だろうか。

「うむ。それで真の字の見立て通りになったとすると、それから何がどうなるンだ」

 遠山景元は真之亮の顔を覗き込んだ。

「ここは慎重に、更にその証拠を固めなければならないかと」

 と言葉を濁して、真之亮は思案した。

 しばし躊躇した後に、真之亮は顔を上げた。

「もしかすると、南町奉行所内に下手人の一味の者がいるやも、知れませぬゆえ」

 と断定するように言うと、遠山景元は浅く頷いた。

「うむ、真の字の推測はおそらく間違っていないだろう。かつて鳥居殿がお奉行の頃、南町奉行所の内部に汚い仕事に手を染めた者がいたというのは暗黙のことだ。そなたも存じておるように、おいらが北町奉行だった折りに南町奉行には矢部駿河守定謙殿が就いておられた。矢部殿は以前に大坂町奉行を勤められて町衆に評判の良いお奉行だった。老中水野忠邦殿が常軌を逸した奢侈禁止令をだされ、苛烈な締め付けを実施するようにと町奉行所に命じてきた折り、おいらも老中にご意見申し上げたが、矢部殿は歳を取っておられたせいか頑固一徹、歯に衣を着せず老中に行き過ぎた奢侈禁止令がもたらす弊害を意見された。そのため老中水野忠邦殿が目付けだった鳥井耀蔵殿に命じたのだろう、些細なことから罪に陥れられて在任僅か一年足らずで南町奉行を更迭され謹慎蟄居を命じられた。その措置に憤慨された矢部殿は食を断って自害なされた。まさしく憤死といって良いだろう」

 遠くの空を見上げるように顔を上げて、遠山景元は呟いた。

「鳥井耀蔵殿が南町奉行だった折り、南町奉行所の与力同心の中には進んで鳥井奉行に手を貸し、奢侈禁止令を嵩に着て町衆を虐めた者がいる。厳しい取締と引き換えに、時には露骨に袖の下を求めた者もいる。しかし上地令の失政により水野殿は老中を解任され、連座するかのように鳥井奉行も失脚して丸亀藩預となったが、鳥井奉行に手を貸した与力同心はそのまま今も南町奉行所で与力・同心を勤めている。一代抱席ゆえ奉行に逆らえないため、仕方なく鳥居様に従った者もいるだろうが、それは間違いだ。曲がったことは断じて許されるべきでない。町方役人は奉行のためにあるのではなく、町衆の安寧と江戸の秩序を守るためにこそある」

――そのための隠密同心だ、と遠山景元の目が語っていた。

「何かを掴んだらすぐに報せろ。決して一人で対処しようと思うンじゃねえぞ」

 厳しくそう言うと、遠山景元は真之亮にふわりと笑った。

「堀部重蔵がとやかく言っても気にせず、必要とあればいつでもおいらを呼べ」

 側役を目の端で捉えて、遠山景元はからかうように言った。

 真之亮が頭を下げて立ち去ろうとすると、「おいおい、これを忘れちゃ困るぜ」と言って、遠山景元は縁側に置かれた朱房の十手を手に取った。

 真之亮が十手を受取って懐に差すと、遠山景元は眉根を寄せて声をひそめた。

「これからは十分に気をつけろ。南の与力同心すべてが敵だと思ってかかるンだ」

 遠山景元はそう言うと励ますように笑みを浮かべた。

 若い頃には部屋住みの悲哀を囲って、鬱憤晴らしに遠山景元は腕に桜の彫物をして破落戸同然に本所深川を暴れまわったという。いまではその当時の行状を恥じて、彫物を隠すために夏でも長袖の下着を着用している。

 裏門を出ると、真之亮は柳原土手へ向かった。

 後は待つしかない。その結果がどのようなものであろうとも、待つしかない。

 兄が誰に依頼するのか分からないが、その人物が闇の人物でないことを願うだけだ。もしもその相手が一味の者ならどのような事態になるか。兄に危害が及ぶのだろうか、それとも自分や柳原土手の仲間に――。

 いかなる結果を招くか予測はつかないが、仕舞屋でお良と所帯を持つのはこの一件が片付くまで待った方が良さそうだ、と考えつつ人通りの増えた大通りを歩いた。

 

 古手屋に帰ると、肩を落とした銀太が上り框に腰を下ろしていた。

「真さん、勘治兄ィが死んじまいやした。とうとう一言も口が利けないままに」

 弱々しい声でそう言うと、銀太は歯を喰いしばり悔しさを滲ませた。

「そういうことだから、儂はちょっと行ってきやす」

 座敷では茂助が喪服に着替えていた。

 安五郎も銀太と同じ年格好の、まだ大人になりきっていない世間知らずだ。長屋でやる葬儀は大家が世話を焼くものだが、ここは茂助が乗り出して世間様に笑われないようにしてやるしかない。第一、安五郎には葬式を出すお足だってないだろう。

「しょげ返ってねえで、店番をしっかり頼むぜ」

 茂助の叱り付ける物言いにも、銀太は「へい」と力なくこたえるのみだった。

 真之亮は銀太の傍らに腰を下ろして「元気をだせ」と銀太の肩を叩いた。

「真さん、おいらは不思議でならねえ。勘治兄ィはむざむざと人斬り包丁で斬られるような野暮じゃねえンでさ。親方の跡目を立派に継いで浅草界隈の掏摸を束ねて、ゆくゆくは両国橋広小路のシマも手に入れようかって掏摸の中の掏摸だったンだ」

「むざむざ殺されたンじゃないとしたら、どういうことになるンだ」

 真之亮は銀太の言わんとするところを探るように問い掛けた。

 銀太は気落ちしていた表情を引き締め、まじめな眼差しで真之亮を見詰めた。

「自分の体を構うよりも大切な、命に代えても守らなければならない人がいて、堪兄ィはその人の身代わりになったっていうことですか」

 銀太は横に座っている真之亮に問い掛けた。

「――お蝶だな。勘治はお蝶を庇おうとして瞬時に身構えできなかったのか。そうだとすると、あの夜お蝶は元柳橋で善吉の心の臓に匕首を叩き込んでから、その足で蔵前は森田町へ行ったことになる。が、なぜ森田町へ行く必要があったのか。しかもお蝶の近くには二本差がいたことになるンだな」

 銀太の頭に浮かんだことを、そっくり真之亮がなぞるように口にした。

 森田町は大通を挟んで前面に蔵前の海鼠壁が延々と続く米蔵町だ。その片側町には蔵屋と称される札差の大店が軒を連ねている。夕刻には人通りがぱったりと絶え、大店が大戸を下ろした通りには掛行灯の明かりすらない。

「勘治は大通をたまたま森田町に差し掛かったところで斬られたのだろうか。それとも、どこぞの大店の切り戸を開けて入ろうとしたお蝶と二本差に追いつき、お蝶を取り戻そうと声をかけて斬られたのか。銀太、どっちだと思う」

「問われるまでもねえことさ。掏摸が後を尾けてると悟られたときはヤキが回ったときだ。気配を消して近づき、一瞬のうちに仕事を済ませるのが玄人の掏摸だぜ。勘治兄ィはお蝶姐さんがどこぞの屋敷へ引き込まれるのを体を張って邪魔したンだ。そうとも、それに違いねえンだ。むざむざ斬り殺されるような野暮じゃねえンだ。真さん、今夜大戸が下りてから森田町の大戸を軒並み調べてみやしょう、必ず何処かの店の大戸に勘治兄ィの返り血がついてるはずだ」

 そう言うと少しは気を取り直したのか、銀太は店先の客の許へと立って行った。

 あの夜、勘治はお蝶を見つけて後を密かに尾けたのだろう。もしかすると元柳橋の船着場で善吉をお蝶が殺すのを勘治は物陰から見ていたかも知れない。凶行の後にお蝶は二本差に伴われて森田町へ連れて行かれ、大戸を二本差が叩いて切り戸が開けられた。先に二本差が身を屈めて入ろうとした一瞬の隙を突いてか、あるいは先にお蝶を潜り戸の中へ押し込もうとしたか、いずれにせよ二本差の体勢が崩れた隙をついて勘治はお蝶を下手人一味の手から救いだそうとして物陰から躍り出た。首尾良くお蝶の手を引いて逃げようとしたが、背後から袈裟掛けに斬り倒された。しかし勘治が斬られたてから、お蝶はどうなったのだろうか。首尾良く逃げたのだろうか、それとも勘治が斬られたことで足が竦み、二本差しに連れ戻されたのだろうか。

 真之亮は上り框に座ったまま、身じろぎもしないで考え込んだ。

 店仕舞いする直前に、弥平が下っ引の仙吉を連れて丸新に顔を出した。

 笑顔を浮かべているが、疲れたように上り框に腰を下ろすと「旦那、済まねえが茶をいっぺえ恵んでやっちゃもらえねえか」と座敷の真之亮に明るい声をかけた。

 弥平の声が弾んでいるのはそれなりに収穫があった証だろう。

「昨日の宵の口、元柳橋の船着場の近くに猪牙の船頭が二人ばかり客待ちしていたと思ってくれ。ナカの客待ちだからお大尽以外には目もくれず、町女と武家が船着場に降り立ってゆくのに気にも留めなかったのさ。ただ、大川を挟んだ元柳橋の向かい岸は萬年橋辺りに当たるが、そこで不思議な明かりが瞬くのを目にしているンだ。萬年橋を渡る者の提灯の明かりじゃなかったのか、と船頭に訊いたが、そうじゃねえと言う。提灯のようにボンヤリとした明かりではなく、もっとはっきりとした明るさだったと言うンだ。提灯じゃねえ明るさと云えば、わしら捕方には馴染みの深い龕灯じゃないかと、あっしは睨んだぜ。それも特別に明るくするため、石見銀山で裏打ちしたギヤマンを龕燈の筒の奥に仕組んだ特別誂えだろうぜ」

 弥平は得々としてカラクリまで解き明かしてみせた。

 そうした龕灯を殺しの合図に用いているのではないかと、既に銀太が解き明していたが、真之亮は神妙な面持ちで聞き入った。

「ほほう、なるほど。それで、親分の睨んだ通りだとして、その龕灯の出所は割れたのかい。特別誂えなら江戸中の金物細工師の親方を訊いて廻れば容易に分かるンじゃないか」

 湯飲みを差し出して弥平の顔を窺うと、弥平は言葉に窮したように俯いた。

 推理はしたが、その先はまだ足で稼いでいないのだろう。

「ところで親分の話では、事件と前後して女と武家が船着場へ下りて行ったと、船頭が言ってるンだな」

 真之亮が問うと、弥平は話す糸口を見つけたように顔を上げた。

「へい、暗くて良く分からなかったようだが、女は二十半ばの年増だったとか。連れ立っていた武家は浪人者でなく、羽織袴の二本差で四十五、六の年格好だったと」

 熱い茶をすすって、弥平は慌てたように湯飲みを吹いた。

 弥平の話しを聞いて、真之亮の眉がぴくりと動いた。

 二本差が羽織袴を着けていたというのか。それが下手人の一味なら真之亮の推測は外れたことになる。なぜなら、町方同心は黒紋付き着流しに羽織を着るが、袴は着けない。

そうした格好は迅速な捕物に対応するためのもので、羽織も裾の長いものでなく裾を帯に挟んだ巻き羽織だ。袴はもちろん身につけず、着物の合わせを浅くして走る際にはすぐに着物の裾が捌けるようになっている。足にまとわりつく袴を身に着けるのは走る必要のない者だ。事実、袴を着けた武家が走る際には両手で袴の裾をたくし上げてバタバタと駆けた。

「旦那、何か気に障りましたか、急に黙りこくっちまって」

 茶を一口啜って、弥平は真之亮の顔色を窺った。

「いや、そうじゃないンだ。お武家は確かに羽織袴姿だったンだな」

 確かめるように真之亮は弥平と仙吉の顔を見た。

 すると自信を失ったかのように、弥平は顔を伏せた。

「船頭は二本差の武家だったと言いやしたが、羽織に袴を着ていたとは言ちゃいやせん」と、仙吉が小声で言った。

 これだから人から聞いた話は信用ならない。船頭は二本差と言っただけにも拘らず、弥平が勝手に羽織と袴を着せてしまったのだ。浪人者なら武家扱いではなく、主命により即座に腹を切る必要もないため脇差を帯びず、差料だけを落とし差しにしている。二本差とは武家身分ということになるから、当然のように弥平が羽織と袴を勝手に着させたのだろう。

「ところで親分、今朝拙者が頼んだ勘治の一件だが、何か分かったかい」

 真之亮が問うと、その言葉が救いになったのか、弥平はふたたび生気の甦った眼差しを上げた。

「森田町の自身番に運び込まれ、番太郎が弟分の安に知らせたってのが顛末で」

「それで、森田町のどの辺りに倒れていたンだ」

「へい、中ノ御門辺りに倒れていたのを金棒引きが見つけたンでさ」

 そう言って、弥平は「なぜ詳しく聞くのか」と問いたそうな眼差しを向けた。

 金棒引きとは自身番の夜廻りが金棒の先に鉄の輪をいくつも嵌めた棒を持って、ジャラジャラと音立てながら町内を廻ったことからそう呼ばれた。

「浅草御蔵中ノ御門辺りっていうと、御蔵前片町との町境じゃないか。親分はその場所を自身の両の目でしっかと確かめたのか、間違いなく勘治がそこで斬られたと」

 一刀のもとにあれだけの深手を負えば血飛沫は龍吐水さながらに吹き出す。地面には血の臭いが鼻を突く赤黒い血溜りがあったはずだ。界隈の者が勘治と男たちの争う騒ぎを耳にしているかも知れない。些細なことも丹念に拾い上げて洗うのが探索というものだ。

「森田町の番太郎が中ノ御門辺りだっていうのを、岡っ引のあっしがわざわざ血眼になって探すンですかい」

 心外だといわんばかりに、弥平は目を剥いた。

 しかし、真之亮は弥平を睨んでゆっくりと頷いて見せた。

「そうだ。斬られるのを見た確かな生き証人がいなければ、なおさらそこへ行って親分の目でしっかりとその場を見なければならないだろう。番太郎の言葉だけでは確かだとはいえまい。探索はその場を見なければ始まらないンじゃないか」

 噛んで含めるように、真之亮は念を押した。

 弥平は戸惑ったように目を伏せ、熱さに持ちかねたように湯呑を框に置いた。

「それで、他には」

 と、真之亮は弥平を覗き込んだ。

「他にはって、何のことで」

 弥平は豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くした。

「勘治は斬られたが、その下手人探索はどうなっているンだい。それとも斬られたのが掏摸だから下手人の詮索は無用ってことなのか」

 真之亮が問うと、弥平は面目なさそうに盆の窪に手をやった。

「それが、怪しい人影を見たって者がいねえンで」

 そう言って、自分なりに探索していると弥平は言葉に力を籠めた。

 しかしそうした声色に誤魔化される真之亮ではない。

「勘治を斬った下手人は地に潜ったか空を飛んだか、消えてしまったってンだな」

――界隈の他の自身番や木戸番小屋を当たったのか、と真之亮は目顔で訊いた。

 弥平はたじろいだように言い淀み、言葉をなくして呆然と真之亮を見詰めた。

「まるでお白州の詮議みたいだぜ、旦那は」

 ようやくそれだけ言うと、弥平は汗の出ていない額を右手の甲で拭った

「いや拙者は町方役人じゃないが、八丁堀育ちだ。門前の小僧でな」

 いつの間にか弥平を問い詰めていた自信を恥じて、真之亮は微笑を浮かべた。

 弥平は救われたように大きく息をして、生気を取り戻して笑みを浮かべた。

「旦那、どうやら八丁堀の水は格別なようですね。実はまだ何処にも聞き込みに当たっちゃいねえから、これから廻ってみるとしましょう。仙吉、行くぜ」

 弥平は立ち上がり、まだ腰を下ろしていた仙吉の腕を引いた。

 弥平と仙吉が柳原土手を浅草御門の方へと足早に立ち去ると、それを待っていたかのように銀太が奥へ入って来た。

「真さん、岡っ引がいかに駄目だか、良く分かったでしょう」

 銀太は頬に冷笑を浮かべて吐き捨てた。

 掏摸だった頃にはその姿を見ただけで道順を変え物陰に隠れたが、今の銀太は鼻先で笑う余裕を持っている。

だが勘治殺しの探索に、弥平の腰が退けているのにはわけがある。

勘治が刀で斬られたからだ。下手人が武家の場合、岡っ引は手出しが出来ない。それは町方同心でも同じことだ。武家の裁きは若年寄支配の評定所で行われるのが決まりで、町奉行所の管轄ではない。たとえ弥平が下手人を突き止めたところで、町方下役人が余計な詮索をしたと評定所から町奉行所に横槍が入るのが関の山だ。

 立場は人を変える。人は器によって姿を変える水のようなものだ。町方同心の手先は岡っ引よりも身分は上だ。大っぴらに十手をひけらかすことは出来ないが、真之亮は隠密同心だ。理屈からいえば真之亮のお役目を手伝う銀太は同心の手先ということになる。そうした立場にあるという自覚がいつの間にか銀太に手先としての矜持を育んだようだ。

「まあ、そう弥平親分を悪し様にいうな。岡っ引は町衆の強請やかっぱらいや盗人には滅法強いが、相手が武家となるとからっきし弱腰になる。それが町方役人の悲しいところよ。弥平の腰が引けているのを笑っちゃいけないぜ」

 そう言うと、真之亮は寂しそうな笑みを浮かべた。

 銀太に茶を淹れてやり、湯飲みを上り框に差し出した。

 身分とはなにか。それは彼と我の相違を比較する尺度か。生まれながらにして身分が定まっているが、怪しいものだ。真之亮も家を出て武家の身分を喪うところだった。世間では百姓の倅が商家へ奉公に上がり商人になっている例はいくらでもある。今では武家身分の御家人株ですら町人が数百両で手に入れている。身分で人の値打ちが決まるものではないが、人の価値で身分が決まらないのも事実だ。

「へい、確かに。おいらも掏摸を働いていた頃には弥平の姿を見つけると風を食らって逃げたものでさ。人のことをとやかく笑えるものじゃねえや」

 銀太は神妙な顔付きになって小さく頭を下げた。

 勘治が殺されても探索に向かう岡っ引の動きが鈍いため、ついつい悪態をつきたくなったのだろう。その銀太の気持ちも真之亮には良く分かる。寂しい思いとともにすっかり冷えた茶を飲み込んだ。

 

 その夜、真之亮と銀太は提灯を手にして出掛けた。

 十七夜の月明かりがあったため提灯は必要ないかと思われたが、大戸に飛び散った血飛沫を確かめるには明かりがあった方が良い。

 五つを過ぎた柳原土手に人影は絶え、あるのは土手の叢で夜鷹と交わる男の気配ばかりだ。真之介と銀次は土手道を大川へと下り浅草御門を潜ると、茅町から瓦町へと続く大戸の閉ざされた表店が両側に連なる。その大通りを二人は声もなく歩いた。繁華な盛り場ならまだ人出で賑わう宵の口だが、蔵町の大通は深とした静けさに包まれていた。

 瓦町外れの町木戸を過ぎると天王町と町名が変わり道幅は二倍に広がる。左手は町割だが右手の大川端には松平伊賀守の下屋敷に囲まれるように御書替役所があり、本多中努大輔の下屋敷の一画に植物御用地、さらには御蔵役人屋敷と連なって堀割に突き当たる。その堀割には鳥越橋と天王橋の二本の橋が架かっているが、真之亮たちは左の鳥越橋を渡った。いよいよ、御蔵前の大通りだ。札差の金文字の看板が軒上に連なる森田町は御蔵前片町の続きにあった。

 夜が明ければ商家の奉公人は一番に大戸を店内に引き上げる。そして箒を片手に店の前を掃き清めるが、大通に血溜りがあれば寝ぼけ眼の節穴でも分かる。するとすぐに笊で砂を運んで覆い隠せば血糊は消せる。しかし、店を開ける前に大戸を上げているため、戸板に飛び散った結婚には気付かないか、気付いたとしても板に浮いた染みほどにしか思わないだろう。たとえ気付いたところで板に染み付いた血痕を拭き取るのは容易ではない。銀太がそのことに気付き、日暮れて血飛沫の痕跡が残る大戸を探しにやって来たのだ。

 提灯を掲げて一軒一軒の大戸を注視しながら、軒下を拾うようにゆっくりと歩いた。銀太は腰を屈めて、顔を大戸につけるようにした。一軒また一軒と軒下を拾って歩き、森田町の木戸番小屋を過ぎて二十間ばかり歩いたところで二人の足が止まった。大戸の隅に穿たれた潜り戸の周囲に、血飛沫の痕跡が黒々と鮮明に残っていた。

「旦那、これは……」

 銀太の呟きに顔を向けて頷くと、真之亮は軒下から離れて黒い痕跡を調べた。

 大戸に散った血痕の飛線は間違いなく、浅草御門の方へ立ち去ろうとした勘治を潜り戸の傍に立った男が袈裟に斬りつけたものだ。潜り戸から一間半ばかり離れた路上には、新しく径五尺ほど土を入れた痕跡があった。真之亮は銀太を手招きして、そこを指し示した。銀太が雪駄の踵の金具で土を蹴ると、黒々とした血を吸った地面が覗いた。

「旦那、ここに勘治兄ィは倒れていたンですね」

 悔しさを滲ませて、銀太は呟いた。

 銀太が指摘するまでもない、後ろから袈裟に斬られた勘治は力尽きてここに倒れた。しかし勘治はトドメを刺されてなかった。なぜなのか、と真之亮の脳裏に疑問が湧いた。刺客は相手を斬り倒したら、必ず急所を突き貫いてトドメを刺す。さもなくば絶命するまでに斬られた者の口から刺客の正体が暴かれかねない。だがトドメを刺さなかったのではなく、刺せない理由が何かあったのだろうか。

あるいは夜廻りの番太か金棒引きがやって来るのに気付いて、慌てて潜り戸から店内へ入ったのか。いや十中八九、おそらくそうだろう。そう思いつつ大店へ視線を転じた。勘治の血飛沫に染まった大戸の上の軒に札差「春日屋」と金漆の屋号の盛り上がった豪華な金看板が載っていた。

「札差『春日屋』か」と呟いて、真之亮は引き揚げようと銀太の袖を引いた。

 闇の中から放たれる殺気を感じていた。それはこれ以上踏み込むとただでは済まぬぞ、という強い覚悟を伴ったものだ。

銀太は怪訝そうに口を尖らせたが、真之亮は目顔で顎を小さくしゃくった。銀太は不服そうに真之亮を見上げたが、真之亮の態度から銀太も闇夜にうごめく殺気を感じ取ったようだ。首を僅かに横に振ると、銀太はうなだれて真之亮に曳かれるように歩きだした。天水桶の陰の路地からか、と目の端で暗がりを探ったが既に人影は認められなかった。その先に広がる闇に視線をやって、銀太は得心したように付いて来た。

 

 勘治は春日屋の前で斬り殺された。その事実を弥平は突き止めているのだろうか。しかしたとえ突き止めたところで大店の札差と岡っ引ではあまりに格が違い過ぎる。札差は大名や旗本さらには御公儀にも大枚の金を貸して、幕閣から旗本に到るまで首根っこを押さえつけている。弥平に手札を渡した貝原忠介ですら、町方同心の職を賭けなければ蔵前の札差には手出しが出来ないだろう。形の上では商人の身分は農工よりも下位だが、大身の旗本ですら札差の前にひれ伏している。

 森田町の木戸番小屋に顔を出すと、老爺が焼き芋の釜の灰を掻き出していた。

「ちょいと邪魔するぜ。お役目で訊くが、三日前この先で勘治って男が斬られたのを知ってるか」

 真之亮は懐から朱房の十手を引き抜き、素焼きの大釜の前にしゃがんでいる老爺の目の前に差し出した。

 驚いたように目を丸くして真之亮の顔を見上げてから、老人はゆるゆると立ち上がった。立ち上がりはしたが、老爺の上背は真之亮の胸乳にも満たなかった。

「悲鳴を聞いて真っ先に駆け付けたのが、このわっしでさ」

 誇らしそうに、老爺は曲がった腰を伸ばした。

「そうか。その折に、周りに人影はなかったか」

 老爺は腰掛けを真之亮に勧め、自分は切り落としの座敷の上り框に腰を下ろした。

「夜は目が薄くて良く見えねえンだが、人の気配がしたような気はしたがな」

老爺は曖昧に言葉を濁して、この件を語りたくないかのように口を閉じた。

 勘治は後袈裟に一太刀浴びた。人に斬られて周囲に人の気配がしなかったら妖怪の類に斬られたことになる。逡巡するように老爺の口元がもごもごと動いた。関わりになるのを怖れるような老爺の眼差しに、真之亮はかける言葉が見付からなかった。老爺は何かを怖れている、と分かっていながら真之亮はその正体を聞けない。下手人が誰かはあまりに明らかだ。

「人の気配はどっちの方角へ消えて行ったか、爺さんの耳で分からなかったか」

 真之亮は笑みを浮かべて、柔らかな物腰で聞いた。

「さあ、どっちへ行ったか。わっしの立っている方に来なかったし、立ち去る足音も聞かなかったことだけは確かだがな」

――それで察してくれ、と言いたげな老爺の口吻に真之亮は頷いて見せた。

 自身番小屋や木戸番小屋の諸掛は町衆が負担している。老爺は暮らしの足しに冬は芋を焼いているが、その稼ぎは煙草銭ほどのものでしかなく、基本的には町衆が負担する掛の中から支給される僅かな手当てが暮らしの糧だ。その町衆の旦那を売る真似は老爺に出来ないことだ。

「有り難うよ。邪魔したな」

 労るように礼を言うと、真之亮は木戸番小屋を後にした。

 銀太は真之亮がなにを了解したのか分かりかねて、木戸番小屋の前で袖を引いた。

「旦那、何が「有り難う」なんですかい。何も分かっちゃいねえじゃないですか」

 不満そうに真之亮を見上げて、口を尖らせていた。

「いや、良く分かったよ。勘治を殺した下手人とお蝶は春日屋の切り戸に入ったと」

「あのジジイはそう言っちゃいねえぜ。何処へともなく消えたとしか」

「いやいや、あの老爺は言外にそう言ったンだ」

 そう言うと、真之亮は銀太に笑みを見せて大股に帰路についた。

 粋や通が表の風俗文化なら、諧謔や比喩が江戸文化の真髄だ。表向き口に出来ない御政道批判や武家の野暮を突いた川柳や落首も江戸時代に花開いた文化だ。

 老爺は人の気配は自分の方へは来なかったし立ち去りもしなかった、が消えたと言った。人は地に潜ったり空を飛んだりしない。消えた人影は老爺がやって来る気配を察知して、慌てて止めを刺さずに切り戸を潜って身を隠したのだ。直接に老爺は自分の口からはそのことを言わず、駆け付けた時に誰もいなかったと言外に教えた。

 丸新へ戻ると、銀太は勘治のお通夜に出掛けた。

 真之亮は茂助を相手に朝からのことを語って聞かせた。

「お蝶が春日屋にいるって。それも監禁されているようだってンで」

帳付けしながら聞いていた茂助は顔を上げると、首を傾げて考え込んだ。

「札差といえば大身の旗本や大名に金を貸して巨万の富を築き、ナカでも亡八や遣り手婆から壊れ物でも扱うように歓迎される。それがどうして前科者を殺める女掏摸を監禁しなければならないのかな。確かに大抵の札差は素性の良くない破落戸を用心棒に飼ってますが、あえて身を危険に晒すようなことを春日屋ほどの大店の主人がやりますかね。真さん、そこんとこが儂にはちょいと腑に落ちやせんが」

 そう言い終わると、茂助はふたたび筆を動かし始めた。

 真之亮は手炙りの炭火を覗き込んで黙ったまま思案した。茂助の言う通りだ。大名はおろか御公儀までもその財力で首根っこを押さえつけるほど権勢を誇る札差が危ない橋を渡るだろうか。そうした疑問が湧くのは当然だ。しかし勘治が春日屋の前で後袈裟に斬られ落命した事実は動かせない。死ぬほど好きな女のためなら、男は迷わず命を投げ出せる。おそらく勘治が身体を張ってでも護りたかった人とは、心底惚れぬいたお蝶だろう。

「だが茂助、木戸番小屋の老爺は人影が切り戸に消えたのを見ているンだぜ」

 と、真之亮にしては珍しく言葉を荒げた。

 豪商がなぜ剣呑な連中を屋敷に入れる必要があるのか。そこがどうしても真之亮の腑に落ちないところだ。何不自由ない豪商が罪を犯す必要があるのだろうか。

「ですから儂はあった事実までも覆そうとは思わねえし、覆すことも出来ねえでしょう。だけど真さん、道理が通らなければその事実だけが浮いてしまいまさ。浮いてしまった道理は幽霊と同じなンですぜ。つまり、いくら道理があっても、証拠がなければないのと同じだってことでさ」

 それだけ言うと、茂助は険しい眼差の一瞥をくれて帳面に視線を落とした。

 勘治が春日屋の前で斬られたことを「なかったこと」にして揉み消すのではないが、一つの事実に多くを語らせて事件そのものを解き明かそうとするのは危険だ、と茂助は諭している。それはその通りだと真之亮も頷いた。茂助の言うことに理はあるが、ではどんな道理で説明すればすべての事実がすっきりと繋がるというのだろうか。

「茂助、深川の船宿の船頭善吉を仲間に引き込もうとしていたからには、下手人一味の狙いは深川にある、と思って良いだろう。しかも船で大川を逃げる手立てを考えているからには押し入る日が近いということじゃないか」

 手詰まりになった推察の矛先を変えるように、真之亮は声を高くした。

 しかし茂助は帳付けからちらりと視線を上げただけで、筆先に硯の墨を含ませた。

「真さん、まず一味がこれまで何をして来たのかを丹念に調べることが肝心ですぜ。前科者を殺めている今のことじゃなく、清太郎様に依頼された過去の行状を探らなければ、これからのことは見えねえでしょう。焦らねえことですぜ。こつこつと調べてゆけばその先に一味の姿がポッと浮かんで見えて来ます。これはわしが言っていることじゃねえ、先代の清蔵様がいつも仰っていたことなんでさ。調べ上げて道理がぴんと張った糸のように連なった時に、事件は解決するンだと」

 そう言って、茂助は真之亮に小さく笑って見せた。

 勘治の通夜で銀太は安五郎の長屋へ出掛けていて、久し振りに茂助と二人で座敷を使える。夜着は売り物が店にいくらでもあるから寒さに震えることはないが、狭さはいかんともし難い。真之亮は横になって手足を長々と伸ばした。

 

 朝早く、銀太が帰ってきた。

 さすがに疲労の色を浮かべていたが、引き続き葬儀に出ても良いかと聞いた。

 茂助にも真之亮にも反対する理由はなく、野辺の送りに行ってやれと銀太を励ました。

「葬式のあとで安をここに連れて帰りたいンだが、良いかな。あいつに掏摸を続けさせるわけにゃいかねえンだ」

 真之亮はそうしろと言ったが、家主の茂助の了解を取り付けなければならない。「どうだろうか」と真之亮が目顔で問うと、

「ああ、良いとも。銀太は真さんを手伝え、安には丸新を手伝ってもらうよ」

 茂助は真之亮にそれで良いだろう、と目顔で聞いた。

 真之亮に異存はなく、大きく頷いた。銀太は喜んで小犬のように飛び出て行った。

「真さん、仕舞屋に来てもらう女中を探しておきますから」

 店開きの支度に古着を紐に吊るしながら、茂助が言った。

「いやいや茂助、早すぎはしないか。まだ式の日取りも決まっていないぜ」

 座敷で茶を啜っていた真之亮が驚いたように顔を上げた。

「式なんぞは世間様へのお披露目の印でさ、後先になったって構わねえんで。それよりいつまでも八丁堀の家でお良さんに肩身の狭い思いをさせちゃいけません。泰正堂の末娘が明日にも嫁入りすると聞いてますぜ」

 茂助は怒ったように声を張り上げた。

 真之亮は益々困ったように肩を竦めて背を丸めた。

「そうした心遣いは有り難いし痛み入るが、当面暮らしに入用な道具や近所の米屋や薪炭屋、それに味噌や醤油を商う店にも顔を出していないし……」

――まだ仕舞屋じゃ暮らせないよ、と真之亮は言いたそうに語尾を濁した。

「だから、気の利いた女中を雇うンでさ。曲がりなりにも真さんは三十俵二人扶持の同心なンですぜ。そうした段取りは儂に任せてもらいやす」

 きっぱりと言って、茂助は真之亮の口を封じた。

 だが真之亮は言い出し難い気掛かりなことがあった。気まずそうに俯いていたが、

「そうした支度に必要な諸々の掛りはどうするンだ。自慢じゃないが拙者はトント金に縁がない」

と、真之亮は消え入るように呟いた。

「ご心配にゃ及びません。後二日もすりゃ切り米の支給日でさ。当然のことながら真さんも三十俵二人扶持の扶持米が頂けます。そうした切米の受け取りには中村様の家でもわしたち手先が蔵前へ行っていたンでさ。安が店番に来てくれりゃ儂が動けますから」

 茂助は任せてくれ、と自分の胸を拳で叩いて見せた。

「安は掏摸を働いていた男だ。いきなり店を任せて大丈夫か」

 まだ踏ん切りがつかないかのように、真之亮は言葉を濁した。

「何言ってンですか。掏摸が信用ならねえって言うンなら銀太も同じでさ。長年の経験から言えば、生半可な堅気の手代の方がよっぽど危ない。掏摸は三度捕まると、あとは毎日が土壇場に座っているンですぜ。次に捕まりゃ即刻首が胴から離れる、安が座っている土壇場はそれこそ軽口や比喩で使う土壇場とはわけが違いまさ」

 そこまで言われれば、すべてを茂助に任せるしかなかった。

 真之亮は「よろしく頼む」と胡座を掻いたまま丁重に頭を下げた。

 茂助は手先として長年町方同心の家で暮らした。その歳月の間に武家たる主人が日常の暮らし向きに心を悩ませることなく、御役目第一に御奉公できるように働くのが武家に仕える奉公人の仕事であるとの考えが体の芯まで沁み付いている。有り難いと感謝しつつ、真之亮は古手屋を後にした。向かうは八丁堀、兄に依頼した事件綴の調査結果を聞くためだった。

 朝の大通りを行くと昨日までと違った風を感じた。冷たく凍てつくようだった風が柔らかくなって頬になじみ、かすかに芽吹きを感じさせる土の匂いが混ざっていた。

 幕末、江戸に来た欧米人は百万人も暮らす大都会にもかかわらず町がきれいなのに驚いたという。黒板塀と白漆喰の土蔵造りの屋敷や海鼠塀の織りなす落ち着いた町並。風に揺れる藍を基調とする長暖簾に通りに張り出した日除け暖簾。そこは文字通り塵一つ落ちていない大通だ。その大戸をあげ軒下に弁柄色の短暖簾の揺れる表店の並ぶ道を、真之亮は足早に歩いた。八丁堀にたどり着くと、組屋敷の路地を脇目も振らずに生家へと急いだ。

 この刻限なら、兄は朝風呂から帰って縁側に座った頃だ。町方定廻の日常はよほど大きな事件でもない限り判で突いたように変わりない。門を入ると庭へ廻り枝折り戸を押した。はたして、兄は縁側に座って後ろに廻った髪結が古い元結を鋏で切ったところだった。真之亮は挨拶の声をかけて縁側に近寄った。

「おう、真之亮か。北町奉行所の例繰方に学塾の後輩がいたから、さっそく頼んで調べてもらった。これがここ十年に北町奉行所の当番月に起きた事件でまだ解決を見ていない押込み強盗事件だ。五件ばかりあるがその内三件は天保十三年に起きている」

 清太郎は受け板を縁側に置いて懐の冊子を取り出した。

 二十枚を超える書面が紙縒りできちんと綴じられている。それを押し頂くように受取って真之亮はペラペラと捲った。一件の事件が一枚の紙に体裁よく綴られ、事のあった年月日と場所、それにどのような状況だったかが几帳面な文字で書かれていた。

「この三件の事件について、それより以前に南町奉行所の当番月の折り、同じ屋敷に盗人が押し入っていないか、南町奉行所の事件綴のお調べはいかが相成りましたか」

 真之亮が聞くと、清太郎は返答を言いよどんだ。

「南町の例繰方が色よい返事をしない。そうした調査をするには年番方与力の許しを得てくれないかと、例繰方の上席同心が四角四面なことを言っている」

 無念の色を滲ませ、清太郎は俯いて受け板を拾い上げた。

 兄が吟味方与力か定廻同心でも上席なら、その程度の調べは例繰方に申し渡せば簡単に済む。しかし、新参者の本所改役臨時定廻にはそうした便宜を取り計らってもらえないばかりか、古参の同心から余計なことに口を挟む異端児のような扱いを受けたようだ。

 真之亮は仕方ないな、と苦笑いを浮かべて兄にこの件で依頼するのをやめた。

「いろいろと有り難うございました。ついては拙者とお良の件ですが、婚姻の儀式は今しばらく春めいて来るまで先延ばしするとして、明日にもお良殿には松枝町の仕舞屋に移って頂きたいと考えていますが。そのことを先方様によしなにお伝え頂けませんでしょうか」

「真之亮、それは余りに不謹慎ではないか。式も挙げていない男と女が夫婦のように暮らすとは。拙者は先方のご両親に何と伝えれば良いのだ」

「兄上、もはや拙者は武家ではありません。町衆では男と女が惚れあえば、一つ屋根の下で暮らすのはごく当たり前のことです。伊佐治、町衆ではそうだろう」

 と声を掛けると、伊佐治は櫛を梳く手も止めず「へえ、」と頷いた。

 伊佐治とは中村の家に父の代から来ている髪結の名だ。

「まっ、余り褒められたことじゃありやせんが、町衆にゃ惚れた男と女が親の同意も得ずに一つ屋根の下で暮らすってことも多ござんす」

 そう言ってから、清太郎の後ろで髪を油で梳っていた伊佐治が短く笑った。

「そうか、障りがないならそうすると致そう。哲玄も帰ってきたことだし、お良もいつまでもあの家にいるわけにもいかぬだろう。中村家の当主として出来るだけのことはやらせてもらうぞ」

 清太郎はそう言って、真之亮に頷いて見せた。

 たった二人の兄弟だが、記憶にある限り清太郎とこれほど親しく話をしたことはない。長いこと心の何処かに蟠りを持っていたが、今ほど兄を近しく感じたことはなかった。

 要件を済ませ八丁堀の生家を出ると、昨日と同じく南町奉行所の役宅へ向かった。

 門の番士に十手を見せて屋敷に入り庭先へ廻った。お奉行は居間で側役の差し出す書類に目を通していた。真之亮が庭に入ってゆくと目を上げて相好を崩した。

「よく来たな、兄の清太郎に頼んでいた調べが済んだのか」

 そう言いながら、立ち上がって縁側に出て来た。

 真之亮は兄から手渡された冊子を遠山景元の膝元へ差し出した。

「ふむ、これが北町奉行所がもてあましている未解決事件の数々か」

 そう呟きつつ、冊子を繰って目付きを険しくした。

「ほう、天保十三年の三件はいずれも株仲間解散令に抗った商家が被害者ではないか。この紙問屋は強盗に金蔵を荒らされて間もなく潰れたぜ。他の薪炭卸問屋と米問屋も鳥居耀蔵の株仲間解散令に最後まで反対した大店だ。なるほど、それで南の事件綴にもそれ以前に三件のお店に押込み強盗があって、真の字の睨んだ通りだったというのかえ」

 縁側に胡座を掻くと、遠山景元は身を乗り出した。

「いいえ、その三件の押込み強盗のあった店が、以前に南町奉行所の当番月に盗人が押し入ったことがあったと、南町奉行所例繰方の書庫に事件綴があれば今度の一連の前科者殺しのカラクリが解けますが、残念ながら兄の力では南町奉行所の上役が動かないようでして。お奉行様のご判断で例繰方に調べを命じて頂けないかと」

 と言って、真之亮は遠山景元を見詰めた。

「ふむ、そんなこったろうよ。堀部重蔵、これより例繰方へ行ってこの三件の店に関して、この日付以前に押込み強盗が入った事件があるかないかだけで良いから、ただちに調べて参れ。生半可な返答は許さぬ、結果をおいらが役宅で待っていると言え」

 遠山景元が後ろに振り返って命じると、堀部重蔵はさっそく立ち上がった。

 手渡された冊子を手にすると、堀部重蔵は小走りに廊下の突き当たりまで行き、役宅と町奉行所の仕切りの杉板戸を開けて姿を消した。

「堀部が戻ってくるまで良い機会だから、南町奉行所にどういうことがあったのか真の字に詳しく話しておこう。先年水野忠邦が老中首座に就任したのは知っているだろうが、それが諸事の発端だ。水野忠邦は就任するや諸式高騰と幕府財政の窮乏という二つの難題に直面した。幕府勘定方は貨幣の改鋳を繰り返し、小判の金の含有量を減らして出目で蝶尻を合わせてきたが、諸式高騰を押え込む有効な手立てはなかなか見付からなかった。そこで、江戸の諸式が高騰している原因が他にあるのではないかと考え、物の値段を決める同業株仲間や組合が諸式の値を吊り上げているのではないかと、料簡の狭い水野忠邦殿は思い到ったようだ。あれは確か天保十二年十二月のことだが、ご老中は突如として各業種の株仲間の解散を命じ、翌年三月に鳥井耀蔵が株仲間だけでなくさらには仲間組合の停止を命じた。五月には諸式引下令と矢継ぎ早にお触れを出したが、一向に諸式が下がらないばかりか、かえって売り惜しみから商品の流通が滞り混乱を増すばかりとなった。御上の命により商品の価格が引き下げられるなら、商人は倉庫に仕舞って物を売らなくなる。それも当然だろうぜ。幕府の命に従って仕入れ値を割り込んでまで品物を売っては、商人は損を背負い込むばかりで、早晩店が潰れるのは目に見えているからな。幕府の鶴の一声で諸式が下るほど商売は甘いものじゃねえンだ」

 そう言って息をつくと、遠山景元は過去の悪政を振り返るように眉を曇らせた。

「しかし、株仲間のすべてが悪いと思い込んだ水野忠邦は菱垣廻船積問屋仲間も解散させちまった。飛んでもねえことに、それまであった海難事故を裁定し損害を填補していた十組問屋までも取り潰しちまった。海難事故の仲裁斡旋所まで失くしたものだから、回漕業者はまるで海賊の集まりのようになっちまった。大坂からの積荷が途中で消えたり、反物や俵物が塩水を被っても、誰も責任を取らなくなっちまった。財理を支えていた一つの秩序を壊すのは簡単だが、それに取って代わるだけのマシな仕組みを用意していなければ、いたずらに混乱を招くばかりだ。あの三件の事件もそうした鳥井奉行の時代のことで、南町奉行所の者が深く関わっていたと思って、まず間違いねえだろうよ」

――それももうじきはっきりすることだ、と細めた遠山景元の目が語っていた。

 南町奉行所が事件に関与している疑いがあると指摘したのは真之亮だが、現実にそうしたことがあり得るとは俄かには信じられない。二百数十年も代々町方同心として禄を食み、町衆のために治安維持のために勤めてきた御家人がそうしたことを行うとは、考えただけでも驚天動地の沙汰だ。

「南町奉行所の者が事件に関与していたなら、お奉行様はどうなさるおつもりで」

 と、真之亮は沓脱ぎ石の傍に立ったまま聞いた。

遠山景元は胡坐を搔いたまま考え込んでいたが、顔を上げると真之亮を見詰めてかすかに首を横に振った。

「そうよな、いずれにせよ難しい話だ。当然のことながら正すべきは正さなければならねえし、罪はご定法に照らして裁かなければならねえ。だがな、町奉行所の与力や同心をすっかり入れ替えるわけにはいかねえ。人のありようが贅堕に流れていくのはどうしようもねえし、役人の育成も根幹から正さなければならねえが、人は誰でも上役や仲間に良く見られたいと思うし、良い評価を得たいと願っている。それが不断の努力や刻苦精励に繋がるってことだが、用心すべきは時として安直に好評を得ようとするあまり、権力者におもねて取り入る者が現れることだ。おべっか使いやお先棒担ぎは何処にでもいるが、与力や同心までがそうした下世話な出世欲に走ったとしたら、連綿と受け継がれてきた町奉行所の抱席を汚すものだ。その点おめえの親父さんはそうした連中の誘いに耳も貸さず、実直にお役目を果たしていなすった。人として堅持すべき矜持を失くした者はまさしく屑だが、だからといって鳥井奉行に取り入って悪事を働いた連中をおいらの権限で旧悪を蒸し返してキッパリと処分できるか、と訊かれればおいらには何とも言えねえ。町奉行に累代の与力や同心を罷免する権限はあっても、それを自侭に揮うことは許されねえ。お奉行っていうのは役料三千石を頂戴して、任にある間だけ奉行所を預かっているに過ぎねえンだ」

 そう言うと、遠山景元は口元を歪めて寂しそうに笑った。

「だがな、おいらが奉行になってからも同じような料簡で無法を働こうってンなら、断じて許さねえぜ。たとえ幕閣から非難を浴びようとも、病根はすべて取り除かなければなるめえ。おいらが奉行を務める南町奉行所は鳥井奉行の時代とは違うンだ」

 そう言うと目を細めて、遠山景元は庭の老梅に視線を遣った。

 すでに花の季節は終わり、それが白なのか紅なのか分からない。ただ、瘤が盛り上がったような枝から鞭のような細い枝が出て画趣を誘うものだった。

 待つほどに堀部重蔵が戻ってきた。

「殿、古参の下役人は事件を憶えていて、確かに綴ってあったはずだと申し、探しましたが、いかなることか、それらの事件調書が事件綴から欠落しています。従いまして、確かめる術はないかと」

 切れ切れに息を切らしながら報告すると、堀部重蔵は口を横一文字に結んだ。

「うむ」と、遠山景元は腕を組んで呻き声を洩らした。

が、顔を上げると傍らで片膝をついて控えている堀部重蔵に命じた。

「おそらくはこの日のあることを先回りして、誰かが隠匿したのだろうが、姑息なことをする悪党だぜ。堀部、その事件があったそれぞれの町へ行き、自身番の町役か書役と会え。自身番小屋は町内の日々の出来事を記録して日誌として遺している。町内で大きな事件があったなら、必ずや書留めてあるはずだ」

 堀部重蔵にそう言い渡すと、真之亮に振り向いた。

「相手は役所の記録文書を隠匿や改竄することなぞ屁とも思わねえ悪党だ。その悪党が本気で対決してきたと覚悟せねばなるまい。真の字もいつ何処で襲われるやも知れぬ、怠りなく身辺に気を配るように。尤も高名な町道場の代師範がそうそう手もなく討たれることはあるまいが」

 そう言うと、遠山景元は立ち上がって奥へと入っていった。

 そろそろ表の役所へ出座する時刻になっているのだろう、座敷内が慌ただしくなったのを機に、真之亮は庭先を後にした。

 

 役宅の門から出ると、真之亮は柳原土手へと足を向けた。 

 早くもうだつを上げた大店の店先には埃や陽射しを避ける日除け暖簾が張り出されている。春の盛りを思わせる暖かい陽射しに気持ちまでもが浮き立つようだった。

 真之亮は大通の左端を人の流れに沿って歩いた。春を迎えて大通には大勢の人が行き交い、気を付けなければ肩が当たるほどだった。昼までに用事を済まそうと急ぐのか、お店者や武家の用人や供を連れた内儀などが行きかっている。

 つと、真之亮の前から大通りを横切って来る女が視界に入った。江戸女の上背は四尺と一、二寸ほどだが、その女は四尺に満たないかと思えるほど小柄なうえに華奢な身体つきだっだ。粋筋の結うなかがせ髷に渋めの黄八丈を粋に着込み、地味な焦げ茶の帯を締めている。すべては婀娜な雰囲気を醸しているが、ただ寒さを避けるかのように帯の前で合わせた袖に両手を隠している。それだけが女の粋筋を思わせる髷や衣装と不似合いな違和感を抱かせた。

女は駒下駄を鳴らしながら急ぎ足に斜向かいから大通りの半ばを過ぎてなおも近寄ってくる。真之亮はちょうど角の紙問屋の店先に差し掛かかろうとしていたが、あたかも女はその紙問屋へ用でもあるかのように顔は店の中へ向いている。が、女の目はしっかりと真之亮を捉えていた。真之亮は旧知の女とやっと出会えたような懐かしさを覚えつつ、平然と歩みを変えずに女と交差する地へ身を移した。

二人が突き当たると思われた刹那、袖の中から女の右手が素早く動き真之亮の脇腹に突き当てられた。かにみえた刹那、真之亮は手刀で匕首の背を払いつつ、さっと女へ身を寄せて女の手首を素早く掴んで逆手に押さえた。それは一瞬のことで、傍目には女が真之亮に突き当たったかにみえた。が一瞬の後には川の流れが合流するように女は体の向きを変えて、恰も待ち合わせていた親しい男女のように、顔を見合わせただけで静かに連れ立って歩きだした。ただ二人が逢引した男女と異なるのは袖で隠した女の右手に冷たく光る匕首が逆手に握られていることだった。

「何すンのさ。手を離しな」

 女は驚きの眼差しで真之亮を見上げて、声を殺して低く呻いた。

 真之亮は女に微笑んで見せて、篭手の関節を決めたまま手を引いた。女は二度三度いやいやするように体を捻じって逃れようとしたが、真之亮の万力のような力で手首の急所を握られていて腕を振り解くことは出来なかった。

「静かにするンだ。お前を何処かで見張っている者がいるのだろうが、さすがにこの人込みでは襲って来まい。このまま柳原土手の古手屋まで行こう。丸新は先刻ご承知だろう、お蝶姐さん」

 真之亮が名を呼ぶと、女は抗っていた腕の力を抜いた。

 やはり小柄で婀娜な色年増はお蝶だった。目にもとまらぬ早業で匕首を前科者の心ノ臓に突き立ててきたが、今度はしくじった。いや、しくじっただけではなく手首まで掴まれた。掏摸の上を行く早業に驚いているところ、名まで呼ばれてお蝶はすっかり毒気が抜けてしまったようだ。

「朝早くに勘治を野辺に送って、銀太は安五郎を連れて丸新に帰っているはずだ」

 真之亮の口から親しい者の名が出てきて、お蝶は驚いたように見上げた。

「お前さんは何者だね、懐にゃ十手を呑んでるくせに掏摸の小僧を置いてるなンて」

と、小唄でも唄うような艶な声で聞いた。

「いや、銀太はもう掏摸じゃない。今じゃ立派な町方同心の手先だ」

 と言って聞かせると、お蝶は目を見張った。

「ええっ、なんだって。銀太が十手持ちになったっていうのかい」

 驚きを通り越して、お蝶は絶句した。

「銀太は拙者の手先になったンだ」

――お前もいつまでも掏摸じゃないだろう、と真之亮の目が見上げたお蝶の目に訊いた。

 お蝶は捨て鉢に「フン」と鼻先で毒づいてみせたが、落ち着きを取り戻したようだ。そして急に顔を暗くすると唇を噛んで首をうなだれ、一筋の涙をこぼした。

引き返せない。もう引き返せないところまで来ちまったンだよ、とお蝶の細いうなじに貼りついたほつれ髪が春の日差しに寂しそうに輝いた。

 大伝馬町鉄砲町の通りに入り囚獄に差し掛かると、お蝶は顔を上げて高く長い塀を見上げた。繁華街の中心地から遠ざかり、人の行き来が疎らになった。真之亮は周囲に気を配りつつ、お蝶と並んで歩いた。襲って来るとしたら、ここら辺りだ。

「わっちは死んじまったンだよ。冷たい土壇場に引き出され体を押さえつけられて腹這いにされ、穴の上に差し出した首を刎ねられてとうの昔に死んじまった女なのさ」

そう呟いて、お蝶は背丈よりも高くどこまでも長い白壁から目を離した。

 この先も同じ道幅の大通が続いているが、両側の町家は今までの大店とは少しばかり雰囲気が変わって来る。この界隈には九軒町上納地や大伝馬町上納地があり、左手には三上稲荷の朱の鳥居も見える。その先には藍染橋が架かり、橋を渡ると町家と武家地の入り組んだ土地となる。真之亮はお蝶を人気のない三上稲荷に引き込み、袖で隠していた匕首をもぎ取った。

「何があったのか聞いたところで今更いかんともし難いのだろうが、ここはしばらく身を潜めて気持ちを落ちつけたらどうだ。そのうち良い思案も浮かぶだろうよ」

 真之亮はお蝶から白鞘を受け取り、匕首を鞘に納めて懐に仕舞った。

「そんなお為ごかしの気休めを言ってもらっても仕方ないのさ。お前さんを殺り損ねて、いよいよわっちのお灯明も燃え尽きちまったようだ」

 そう言い終わらないうちに、朱の鳥居を潜って十坪ばかりの稲荷の境内に三人の男が出口を塞ぐように足早に入って来た。三人とも薄汚れた浪人者ではない、姿形こそ着流しに落とし差しと浪人者の身形をしているが襤褸着ではなくきちんとした古着だ。身のこなしからいずれも年の頃は三十前後、黒い布で顔を包み抜き身の白刃を下げ持って小走りに迫ってきた。真之亮はお蝶に社の裏に身を潜めるように目で示して、社の前に立って差料の鯉口に左を添え右手で柄を握った。

「拙者を南町奉行抱え隠密同心中村真之亮と知っての狼藉か」

 言うが早いか、真之亮は三人めがけて駆け出した。

男たちが殺到する前に動かなければ、囲まれてしまってはいかに技量に差があろうと手出しができない。守らなければならないお蝶がいるのも真之亮の動きを狭める。真之亮は体を低くして差料を抜き払うと逸早く上段に刀を翳したまま肉薄した。

真之亮はまず右手のやや細身の男に向かって刀を振り上げたまま迫った。すると威嚇しただけで男の腰が退けて足が止まった。相手の技量がそれほどでないと見て取ると、真之亮は素早く向きを変えて足を送り、左隣の男が真之亮の篭手に撃ち込んで来るところを擦れ違いざまに地を這うようにして胴を薙いだ。真之亮が得意とする抜き胴だ。手応えを感じるや足を止めて向きを変え、刀を引き付けつつ右手の男が構えようとしたところへ素早く足を送って右篭手を撃った。刀を握ったまま手首が一間ばかり飛んだ。すぐさま最初に立ち止まらせた男へ向き直ると正眼に構えた。

その一連の動きはほんの一瞬の出来事だった。すれ違っただけで一人は胴を薙ぎ払われてうずくまり、一人は失った右手を抱えるようにして悶絶している。迅速の早業にたちまち二人が戦闘力を喪い、残る最右翼の男男は真之亮に斬りかかろうと上段に構えたまま動けなくなった。三人と新之助とで技量の差は歴然としている。

「どうだ、まだやるか。それとも無用の斬り合いをやめて、仲間の傷の手当をするか。すぐに腕の血止めをすれば一人は助かる」

 そう言うと、お蝶に傍に来るように目配せした。

 お蝶が社の後ろから泳ぐようにして身を移し、真之亮はお蝶を背に庇いつつ血の滴る右手を抱いてうずくまる男の傍を通り過ぎた。

 三上稲荷を出ると真之亮は刀を鞘に戻して、足早にその場を去った。

「殺っちまったのかい」と、お蝶は震える声で訊いた。

「うむ、抜き胴に腹を撫で斬った男はおそらく助からないだろう」

 沈んだ声で真之亮はこたえた。

 市中での私闘は禁じられている。本来なら刀を抜けば両者とも無事には済まない。たとえ仇討ちにしても仇討免許状を持参していなければ、遺恨の上での刃傷沙汰とみなされる。しかし襲われた真之亮は隠密同心だと名乗っている。お役目の上で狼藉者を処断したと見なされるが、斬られた相手は真之亮を訴えることが出来ない。

「拙者が人を殺めるのは気に懸かるが、自分はどうでも良いのか」

 猶もお蝶の手を引きながら、真之亮は早足に柳原土手へ急いだ。

「だから、言ったじゃないか。わっちはトウの昔に死んじまったンだって」

――死んだ女の幽霊が人を殺すのは構わないが、生身の女が他人を手に掛けるのは気になるものさ、とお蝶は澄ました顔をした。

 人は身勝手なものだ。お天道様と膏薬は何処でもついて回るというが、何とでも屁理屈をつけて大きな顔をして生きている。死んだ者こそいい面の皮だ。人の評価は死んで定まるというが、それこそが生きている者の身勝手だ。

 藍染橋を渡って鉤曲がりの武家地の道を歩きつつ、真之亮は前後左右に気を配った。いつ何時どこから白刃が襲って来るか分からないとの緊張感を覚えた。

 遠回りしたわけでもないが、柳原土手に戻った時には午になっていた。

 座敷に茂助と銀太、それに安五郎の三人が鮨桶を囲んで稲荷鮨や握り鮨を抓んでいた。店先からお蝶を連れて入ると、銀太と安五郎が驚きの声を上げた。

「勘治はあんなことになっちまったけど、お前たちは元気だったかい」

 お蝶は空元気を出して、銀太と安五郎に声をかけた。

「それより何処で何をしていたンですかい、姐さん。心配しましたぜ」

 銀太が責めるような口吻でお蝶に言った。

 お蝶は困ったような顔をして、重く生臭い空気が古手屋に淀んだが、それを茂助がハッハッと笑い飛ばした。

「まっ、つもる話は追い追いすることにして、まずは狭い所ですが上って鮨でも抓んでくんねえ。勘治のせめてもの精進落としをしているところなンでさ」

 如才なく笑みを浮かべて、茂助がお蝶を座敷に上げた。

「姐さん、ささっ、こっちに座って下さい」

 安五郎が自分の座っていた場所を空けて、お蝶を手招きした。

 塗り下駄を脱いで、お蝶は白い素足を見せて一尺の上り框を上がった。窓一つない板囲いの黴臭い部屋が瞬く間に華やいだ。『嫁』は女偏に家と書くが、家に女がいるのは良いものだと真之亮は得心した。

 真之亮も座敷に上がり鮨桶をみんなと囲んだ。楽しい語らいが湧き笑みがこぼれたが、誰一人として心の底から笑ってはいなかった。みんなの気持ちの底には深い淵の淀みのような澱が感じられた。

 客が来て茂助が座敷を立つと、真之亮も茂助の後を追って店へ出た。

「どこでお蝶と出会ったンで」

 店先で客を見送ると茂助が聞いた。

「南町奉行所の裏門を出て間もなく、日本橋通りに出るまでの通りでだ」

 真之亮は考え込んでいるように上の空で応えた。

「今朝は清太郎様からお調べ頂いた書面を頂戴しに八丁堀へ行ったと、」

「ああ、北町奉行所で扱った未解決事件の抜書きは頂いたが、それに符合する南町奉行所の事件綴は兄の力では調べることは出来なかった。それで、奉行にお願いしようと役宅へお伺いしたわけだが」

 と言ったところで、真之亮は言葉を濁して押し黙った。

「その帰り道で「偶然に」出会ったお蝶に匕首を心ノ臓に突き立てられそうになった、ということですかい」

 茂助はお蝶が真之亮と旧知の友人のように偶然に道で出会って連れて帰ったとは思っていない。お蝶は真之亮を殺す刺客として遣わされたものと元手先の勘で読んだ。

 茂助には敵わない、と真之亮は苦笑いを浮かべた。そして、

「ああ、その通りだ。茂助は千里眼か。しかし、女掏摸の技は凄まじいものだな。一度この店先で見掛けていたからお蝶と分かって備えができたが、そうでなければ防げなかっただろう。その直後に、九軒町の向かいの三上稲荷の境内で三人の刺客に襲われた。拙者が一連の事件を洗っていることを一味はどこで知ったのかな」

 聞くともなく真之亮が問うと、茂助も首を捻った。

「なるほど、一味が知るには早すぎますね。清太郎様が知り合いの南町奉行所の例繰方に調べるよう依頼されたのは昨日のこと。しかし、それを頼んだのが真さんだと一味に分かったのは今朝のことだということになりやすかね」

 茂助の問い掛けに、真之亮ははっきりと首を横に振った。

「お奉行の役宅にいたのはおよそ半刻の間。拙者が役宅に入るのを確かめてから春日屋のお蝶に殺れと命じたのでは間に合わないだろう。昨日のうちに拙者が兄上に依頼した事柄を知った者が一味に伝えた、と考えた方が辻褄が合う」

 さらに勘繰れば南町奉行所で兄のお調べ伺いの申し出でが拒否されたため、兄の家を辞したその足でお奉行の役宅へ行ったことまでも、今朝の真之亮の動きが一味に筒抜けだったことになる。一味の手は真之亮の襟首を捉まえられるほどに迫っているということだ。

「それでは清太郎様も疑わしいと、おっしゃるンで」

 冗談半分に、茂助が笑って聞いた。

「いや、兄上は違う。怪しいと思われる未解決事件が立て続けにあったのはいずれも三年前だ。その折、兄上はまだ見習同心でしかなかった」

 真之亮は茂助の冗談が通じなかったとみえて、真剣な眼差しでこたえた。

 見習同心が十手片手に走り廻ることはない。せいぜいが内勤事務方の補佐役だ。

「それでは、いったい誰が真さんの先廻りをしていたと」

――考えられるンだ、と問いの形に口を開けたまま茂助は言葉を喪った。

真之亮が兄の許を訪れて一連の事件について庭で話しているのを、聞き耳を立てるまでもなく知りうる者が一人だけいる。生垣一筋を隔てた庭に佇めば清太郎と真之亮の交わした言葉は筒抜けだ。脳裏に一人の男の顔が鮮明に浮かび上がって茂助は心底驚いた。すでに真之亮はそれに思い到っている。茂助が頷くと、真之亮も黙ったまま頷いた。まだその名を口にするのは早すぎる。まだ推測の域を出ず、確たる証は何もない。

「お蝶をどうします。悪党に命を狙われているでしょうが」

 茂助の心配は当然すぎるほど自明なことだ。

 真之亮もお蝶の安全な身の置き場所に頭を悩ましていた。

「夜は仕舞屋に寝てもらい、用心棒に拙者と銀太も仕舞屋に寝ることにする。昼間は安五郎と一緒に茂助の商売を手助けするっていうのはどうだろう」

「へい、それしかないでしょうね」

 茂助が頷くのを見て、真之亮は銀太を呼んだ。

 銀太は身軽に店先に出て来ると「へい」と腰を低くした。

「今夜からお前とお蝶、それに拙者は松枝町の仕舞屋に泊まるということにする。そこで肝煎に頼んで夜具や暮らしの道具を手配してくれないか。お代は古手屋丸新が持つと言ってくれ」

 真之亮がそう言うと、銀太は嬉しそうに「へい」と弾んだ声を上げた。

 肝煎の甚十郎に頼めば大抵のことは出来る。茂助もそれで良いと頷いて見せた。

 銀太が柳原土手に駆け出すと、真之亮は奥座敷へ入った。

「姐さんの泊まる支度に銀太が出掛けた。何も心配しないでここにいてくれ」

 そう言って、真之亮は座敷に上がった。

 気を使ったのか、安五郎は立って真之亮たちの代わりに店へ出た。

「真さんはわっちが人殺しだと知ってるンだろう」

 真之亮が手炙りを抱えるように腰を下ろすと、お蝶が探るように聞いた。

「さて、何の話だ。お蝶が人殺しなら町奉行所は強盗夜盗の類の巣窟ということになる。だが町奉行所は間違っても押し込みを働いちゃいないし、人をして人殺しをさせてはいない。天地が動転しようと、そんなことは金輪際あっちゃならないのさ」

 真之亮は涼しい顔をしてそう言った。

 お蝶は呆気に取られて、真之亮の言った言葉の意味を理解しかねた。

「だけど、わっちはこの手で三人も……」

 お蝶が身を乗り出したのを真之亮は両手を前に出して制した。

「だから、お蝶は悪い夢を見ていたンだよ。それが夢か現か分からなければ、南町奉行所の者がお蝶を捕まえに来るから、神妙にして待ってれば良いだげだ」

――刺客を放ってお蝶を殺しに来るかもしれないが、間違っても町方役人が御用提灯を掲げて捕まえに来ることはない、との確信が真之亮にはあった。

 信じかねる面持ちでお蝶は真之亮を見詰めた。信じられないのは当然だろう。前科者とはいえ男を三人も殺して、咎めを受けないことはあり得ない。しかし、それを不思議に思うのなら、無法な人殺しをお蝶に命じた町方役人の存在自体が無法なのだ。

「ただ、先刻の稲荷の境内での一件で知れたように、善悪の見境のつかない十手持ちの手先がお蝶の命を奪いに来るやも知れぬ。そのために怠りなく備えておかねばなるまい」

 落ち着いた静かな物言いで、真之亮はお蝶に言い聞かせた。

 お蝶は双眸をあげて真之亮を見詰めた。婀娜な年増女の目尻には世間の荒波に揉まれた三十路女の隠せない皺が刻まれていた。もはや伝法な掏摸の姐御で生きて行く齢は過ぎている。身を落ち着けられる住まいと、出来れば亭主と子供に手を焼きながら、日々が平穏に過ぎていく暮らしが似つかわしい女になっていた。

「わっちは何をすればいいンだね、ロハで養ってもらういわれはないよ」

 眼差しに力が甦り、お蝶は挑むような視線で真之亮を見詰めた。

 それは甘く見るンじゃないよ、とのお蝶の矜持かも知れなかった。

 人が金を貸してくれるのは高い金利を取るためで、商売女に優しくするのは囲い者にする魂胆があるためだ、とお蝶は世間を貸し借り損得の算盤勘定としか見ていないようだ。見返りを何も求めず惚れた女に尽くしたい、と願う男の切ない恋心を知らない阿修羅のような半生をお蝶は送ってきたのだろう。

「ああそれなら、済まないが古手屋を手伝ってもらえないか」

 真之亮がそう言うと、お蝶は安堵したように肩の力を抜いて目元を和ませた。お蝶の中で損得の算盤勘定が合致したのだろう。

「良いともさ。一度商売ってものをやってみたかったンだ」

 そう言うと、お蝶はいそいそと店へ出て行った。

 間もなく、華やかな語り口で客に古着を勧めるお蝶の声が聞こえて来た。「ちょいと時代がかっちゃいるが唐桟だよ。アラ上品なお内儀さんに黄八丈が良くお似合いだこと」と、客を持ち上げ気を逸らせない話術はぶっきらぼうな茂助の敵ではない。

「真さん、お蝶は大したもンだ。すっかり古手屋の主人のお株を取っちまったぜ」

 茂助は奥座敷の上り框に腰を下ろして肩の力を抜いた。

「しかし髷を結い直して着替えさせないと、まるでお蝶は玄人筋の芸者のようだ」

 古着の間から覗くお蝶の後ろ姿を見て、茂助がしみじみとした声で言った。

 髷をつぶし島田に結って地味な紺矢絣にでも衣装替えすれば、お蝶の白い肌はより一層映えるだろう。紅襷に紅前掛けをつけて店先に立てば立派な古手屋の女房だ。

 おそらく、そうした生き方もあったはずだ。本人の心掛けもあったのかもしれないが、何よりも出自以来の縁に恵まれなかったのだろう。

「よし、一丁丸新の看板娘に仕立ててやろう」

 そう呟くと、茂助は古着の中から着物を選び、「お蝶、ちょいと来な」と呼んだ。

「なんだよ。わっちは商売でお客と話しているのにさ」

 奥座敷へ入って来ると、お蝶は不服そうに頬を膨らませた。

「ちょいと奥の衣桁の陰でこれと着替えな」

 茂助がそう言って着物を差し出すと、お蝶は着物と茂助を見比べた。

「なんだか野暮な奉公人のお仕着せみたいだけど、古着を売るにはこの方が良いかも知れないね」

 そう言うと、着物と帯を手にして座敷へ上がった。

「親方、ちょっと良いですか」

 困ったように、安五郎が店先から茂助を呼んだ。

 客でも女客が値引きを仕掛けると、安五郎の手には負えない。お蝶なら巧みにお世辞を言って相手に納得させるが、安五郎にそうした芸当を望むのは酷というものだ。「しょうがねえな」との呟きを残して、茂助は腰を上げた。

「どうだい、似合ってるかえ」

 衣桁の後ろから現れたお蝶を見上げて、真之亮は驚きのあまり声もなかった。

 地味な着物に着替えたせいか、お蝶の艶やかさが一段と引き立った。いままでは田舎芝居のような着物とお蝶の美しさが競い合って喧嘩していたのだ。

「ああ、良く似合っている。まるで浮世絵から抜け出たみたいだ」

 真之亮は座っていた上り框から立ち上がり、感嘆の声を洩らした。

 お蝶は嬉しそうに店へ出た。たちまち店先が賑やかになり客が群がって来るのが手に取るように分かった。ふたたび茂助は奥に入って来ると上り框に腰を下ろした。

「この勢いじゃ、儂はじきにお払い箱になっちまうぜ」

 大袈裟に溜め息をついて、茂助は嬉しそうに笑った。

 柳原土手の古手屋は女主人で繁盛している店が多い。いままで丸新に常連客がつかなかったのは無愛想な元手先の茂助が災いしていたのだろう。茂助が奥に引っ込むと店先には秋の田に群がる雀のように、品定めする甲高い女たちの声が湧き上がった。

「あれを見てみなせえ、もう売りつけている。大した商売人だぜ」

 茂助が感心して呟いて店先を見ていると「お蝶じゃねえか」と店の外から張り上げ男の声がした。

「あら親分、丸新に御用ですかえ」

 艶かしく唄うような抑揚をつけて、お蝶の応じる声がした。

 茂助と真之亮が振り返ると、狭い通路を掻き分けて弥平が入ってきた。

「茂助、とうとうこの店は掏摸の巣窟になっちまったか」

 弥平は奥座敷の前まで来ると、上り框に座っている茂助と真之亮を見下ろした。 二人が弥平の言葉を黙殺して見上げていると「イヤ、ナニネ」と弥平が折れた。

「旦那に言われて、あれから勘治殺しの下手人を探索してみやした」

 沈痛な面持ちをして、弥平は真剣な面持ちをして口を開いた。

「界隈の木戸番と自身番を聞き込んでみたが、誰も怪しい人影を見ていなかった。勘治を斬った下手人が何処へ逃げたか、ついに分からず仕舞だ」

 面目をなくしたように、弥平は口惜しさを滲ませた。

 勘治を殺した下手人が何処へ逃げたのか、真之亮には分かっている。いわずとしれた札差春日屋だ。しかし、そのことを弥平に教えるのは躊躇した。押し黙ったまま口を閉じて聞き流し「そうか、残念だったな」と短く応えた。

 茂助も知っていながらも教えようとはしなかった。真之亮と同じように沈んだ面持ちで真之亮の言葉にかすかに頷いた。

「善吉も含めて匕首で殺された三人の下手人の見当はついたのか」

 と、真之亮は乾いた声で弥平に訊いた。

 その問いにも、弥平は弱々しく首を横に振った。

一日歩き廻って弥平は何も掴んでいなかった。それはつまり南町奉行所は何も掴んでいないということだ。しかしそれで良い。が、真之亮は困ったような顔を作った。

「そうか、飛んだ無駄足だったな」

 真之亮がそう言うと、弥平は「それが、そうでもないンだ」と言葉を返した。

「聖天町の木戸番が待乳山の社へ向けて龕灯を大きく振っていた男を見掛けていた。同じように湯島天神の男坂の石段下で龕灯を大きく振っていた男を見ていた寿司の棒手振がいたンだ。いずれの場合も円を描くように丸くだぜ」

――怪しいだろう、と言いたげに弥平は眼差しを輝かせて得意そうに語った。

 真之亮と茂助は顔を見合わせた。銀太が推測した下手人たちの役割と配置が事実として明確な根拠を持ったことになる。

「それはどんな男だったンだ」

 弥平の話しに魅入られたように、茂助が上擦った声で訊いた。

 弥平は茂助の顔を見下ろして戸惑ったように眉根を寄せた。

「それが、手先を連れた町方同心の身形をしていたというンだ。どちらも黒紋付きに巻き羽織、身の丈五尺と三寸ほど三十半ばの年格好だったと。手先は同心より小柄で小肥り、年格好は四十過ぎだったとか。残念なことに辺りが暗くなっていたのと、夕闇の心急く時刻で、立ち止まってじっくり見ていたわけじゃねえって抜かしやがったンだがな、」

 と言いつつ、弥平は顔を暗くして声まで小さくなった。

「そうした聞き込んだ諸々を、昼下がりに貝原の旦那にお知らせしたが、かえって叱られちまった。北町の当番月に南の岡っ引が勝手に探索してどうするンだってね。それに町方同心が龕灯を手に見廻っていても不思議じゃねえじゃないかと、えらい剣幕で怒られちまった」

 弥平は貝原忠介に叱られたことが余程こたえているのか、肩を窄めてうなだれた。

弥平は貝原忠介の父親、つまり先代から手札を受けた岡っ引だ。歳は茂助より五ツばかり下の五十前。長年の岡っ引稼業で歩き回ってきたツケが出たのか、膝や腰の具合が余り良くないのだろう、歩く時に肩を左右に揺すり歩幅は狭くなっている。その弥平が痛みに耐えて足を使って調べたにも拘わらず、同心の旦那から小言を食らったのでは気が沈むというものだ。

「弥平親分、そうしょげ返ることはないぜ。町衆の安寧な暮しを守るのが岡っ引だ、親分はお役目を立派に果たしていなさるンだよ」

 茂助は弥平を励ますように声をかけた。

 弥平は深く皺の刻まれた顔を上げて、茂助に泣き笑いのような笑みを見せた。

 町方役人は町衆から怖れられている反面、疎んじられてもいる。とりわけ岡っ引は雪隠虫ほどに嫌われている。それでも袖の下が入り各種の権限もあるため若い者にはなりがる者がいてろはで下っ引になったりする。しかし、歳を取ると体がいうことを利かなくなり、蔑みの視線を向けられるのに嫌気が差してくるものだ。

「まっ親分、腐らずにこつこつとお役目を果たすしかあるまい」

 真之亮も弥平を元気付けるように声をかけた。

 弥平は茂助と真之亮に元気付けられたわけでもあるまいが、気を取り直して帰って行った。すると、入れ違いのように深川門前仲町の辰蔵が一人で顔を出した。上り框まで付いて来た安五郎に「深川の親分だ」と教えて、辰蔵を座敷に上げた。

「若旦那、あれから足を棒にして御船蔵界隈を聞き込んで歩きやしました」

 ぶっきらぼうな辰蔵らしく、なんの愛想もなく用件を切り出した。

「善吉の一件だな」

 真之亮が問うと、辰蔵は「へい」とこたえた。

「小名木川を挟んで御船蔵の対岸の稲荷の境内に人影があった、という者がいました。猪牙で客を山谷堀まで送っての帰り、船頭が大川河岸から御城下へ向かって龕灯を大きく廻す男を見たっていうンで。詳しく話を聞くと、ちょうど善吉が船に乗せられて大川を横切っている頃合いでさ。若旦那、この話をどう思いやす」

 手炙りに身を乗り出すようにして、辰蔵は訊いた。

「その男は町方同心のような身形だったと言っていたかい」

 真之亮が聞くと、辰蔵は驚いたように首を横に振った。

「若旦那、冗談を言わねえで下さい。下手人の仲間を捜しているンですぜ。暗くて顔までは見ちゃいやせんが、姿形から四十前の小柄で小肥りな男だったと。願人坊主の証言と一致していやす」

 茂助が茶を淹れて辰蔵の前に置いた。

 善吉の場合はお蝶と思われる女と町方同心の身形をした男が、元柳橋の船着場へと下りて行くのを見られている。弥平が語って聞かせてくれた庄治と半次の場合は町方同心の身形をした男と手先の二人がいた。善吉の場合はその手先の男だけが深川へ行き、善吉の後をつける者がいないか見張って、元柳橋袂の船着場で善吉を待ち受けるお蝶と町方同心に龕灯で合図を送ったのだろう。

「辰蔵、善吉が殺された後でも、同じように不審な男が深川の前科者の船頭に声をかけたとの噂を小耳に挟んでいないか。善吉が仲間として使えなくなったわけだから、一味は他の船頭を見つけなきゃならねえはずだ」

真之亮は声を落として、辰蔵に訊いた。

 一味は何処を襲うかすでに見当をつけているに違いない。むしろ、押込む屋敷を決めてから必要な仲間を集めていると考えた方が的を射ているだろう。

「どうでも船頭は深川の船頭でなけりゃならねえンで」

 怪訝そうに辰蔵が聞き返した。

「おそらく一味は押込む標的を決めて夜働きに必要な仲間を集めている。その中で特に深川の船頭は外せないのだろうよ」

「それじゃ、一味が押し入る屋敷は深川にあるってことですかい」

 辰蔵は食い付く勢いで真之亮に聞き返した。

――その通りだ、と真之亮は言いたいところだが確たる根拠は何もない。言葉に詰まって真之亮は曖昧に「おそらくは」と声を洩らした。

「深川の船頭を仲間に引き込もうとしたってことは、つまりそういうことだろうぜ」

 真之亮に代わって、茂助が直截にこたえた。

「深川といっても広いが、何処だと目星はついてるンですかい」

 しつこいと嫌われるほど、辰蔵は執拗に食い下がった。

 それも道理だ。一口に深川といっても広い。しかも木場には江戸の材木を一手に引き受ける豪商といわれる材木商が数多くある。善吉は佐賀町の船宿萬波の船頭だったが、佐賀町にも大川の水運を利用して米問屋の米蔵屋敷が軒を連ねている。深川といっても押込み強盗を働く狙い目の屋敷は幾らだってあるのだ。

「まだ、一味がどの屋敷を狙っているかは分からぬ」

 腕組みをして、真之亮は思案げに小首を傾げた。

「日にちも、分からないンですかい」

辰蔵は渋面を作った真之亮になおも訊いた。

「ああ」と言って、辰蔵のくどさに真之亮は辟易した。

 しかし、粘り強く下手人を追い求めて、簡単には諦めない粘り強さは岡っ引にとって必要だ。しかし、そのくどさが自分に向けられるとやり切れないものがあった。

「辰蔵、いずれにせよ一味が押し入る日は近いと思わねばならぬだろう。だが、分かったとしても隠密同心の拙者が密かに行う探索のため、南町奉行所に応援を頼んで下役人衆を手配できないと心しておくように。だから辰蔵の顔で仲町の肝煎や鳶の親方にいつでも合力して頂けるよう、前もって話しておいてくれないか」

 真之亮がそう言うと、辰蔵は背筋を伸ばして大きく頷いた。

 辰蔵は思案顔に一つの決断をした男の力強さを双眸に取り戻した。ふと亡父が辰蔵を評して「手札を与えた辰は若いが見込みのある男だ」と言っていたのを思い出した。定廻同心が立てる手柄は岡っ引の働きに負うのが殆どで、腕っ扱きの岡っ引を抱えることが定廻同心の仕事といっても良いほどだ。

「分かりやした。四半刻もあればまとまった人数が集まるように段取っておきやす」

きっぱりと言うと、真之亮が声をかける間隙も与えず辰蔵はさっと腰を上げた。

 用件を済ませればただちに帰って、言い付けられた仕事を実直に果たす。その律義さに改めて大柄な男の顔を見上げた。

 夕刻、銀太が嬉しそうな顔をして帰ってきた。

 踊るように入って来た銀太に「ひどく手間がついたな」と茂助が小言を言った。が、所帯道具を揃えた喜びの方が勝っているのか、叱られた銀太は少しも笑顔を崩さなかった。

「親方、人が暮らすにゃいろんな道具が必要なンだってことに、恐れ入り屋の鬼子母神でさ」

 と声色まで使って、銀太は茂助の小言をまったく意に介さず弾んだ声をかけた。

「どういった所帯道具を揃えたのか知らねえが、丸で手前が家を構えたみたいだぜ」

 そう言って茂助も根負けしたように苦笑いを浮かべた。

 お前は休んでいろと銀太にいって茂助が店に立った。夕暮れを迎えて店先に客が溢れていた。奥座敷から見るところ、お蝶と安五郎だけでは手が廻りかねていた。

 古手屋に客がついて急に繁盛しているのはお蝶の力による。店先に目端の利く女がいて客の注文を見立てて古手を選べば、柄や色合いを納得して買うというものだ。柳原土手をそぞろ歩いて、どの古手屋で買い求めようかと迷っていた客は店先の接客振りを見て次々と丸新の前で足を止めた。安五郎と茂助は客が買い上げた古着を畳むのと勘定の遣り取りに廻り、次々とやって来る客の相手はお蝶がこなした。

「姐さんは十年も前から古手屋の女房だったみたいだぜ」

 湯飲みを口元へ運びながら、銀太は独りごちた。

 心底から嬉しいのだろう、お蝶を盗み見る銀太は目元に涙さえ浮かべていた。

やがて顔を向けると「旦那」と銀太は真之亮を呼んだ。

 いつの間に「真さん」から「旦那」に変わったのか分からなかったが、気がつくとそう呼んでいた。

「お蝶姐さんは一味の者と一緒にいたわけだから、一味の者の名を知っているはずだ。すでに姐さんの口から何人かの名を聞き出したのか」

「いや、事件のことは何も聞いていない。お蝶を取り調べるような真似はしたくないンだ。訊いたところでお蝶が一味の狙いや何処の屋敷に押し入るつもりか知っているとは思えない。それに、お蝶と一緒にいた町方同心が誰だかおよそ見当がついているンだ」

 真之亮がそう言うと、銀太が「その獅子身中の虫は誰ですかい」と食い付くように訊いた。

 真之亮は曖昧な笑みを浮かべて銀太を見詰めた。

先日の夕刻、お蝶が善吉を殺した足で丸新に顔を出したのは元掏摸仲間の銀太が古手屋にいると聞かされたからだろう。それを知っている町方同心は一人しかいない。

「そのうち、銀太にも分かる。いまは何処の屋敷にいつ押し入るのかを知りたいだけだ」

 真之亮の言葉に頷き、銀太も茶を一口啜った。

 茶を飲み下すと安堵したように銀太は大きく一つ頷いて、ふたたび眉根を寄せた。

「いずれお蝶姐さんは縄目を受けて、土壇場へ引き出されるのですかい」

 声を顰めるて、銀太が訊いた。

 それこそが銀太が知りたい最大の関心事なのだろう。真摯な眼差しに銀太の気持ちが読み取れた。真之亮は返答に窮して天井を見上げた。しかし、そこに妙案が書かれているはずもなく、真之亮は仕方なく銀太に視線を戻した。

「たとえ使嗾されたものであろうと、前科者を殺めた罪は帳消しにはならない。拙者がお蝶を助けるためにその同心と手先を斬ったところで、お蝶の心の中に残る記憶までは消せない。拙者はお蝶にお縄をかけようとは思わないし町奉行所に売るつもりもない。が、これからはお蝶の中の人としての道理がお蝶を苦しめることになるだろう。町奉行所が罪人に罰を与えるのは罪人の罪の意識と道理との間尺を合わせるためでもあるのだからな」

――と言うが実のところは分からない。真之亮は眉を曇らせて銀太を見詰めた。

 お蝶の運命は真之亮がどう考えているかよりも、南のお奉行が南町奉行所にはびこる鳥井奉行の残党とどう対峙するかにかかっている。累代に亘って受け継いできた八丁堀の与力や同心の家を取り潰してでも、時の南町奉行の鳥井耀蔵に加担して罪を犯した者のすべてを断罪する、と遠山奉行が覚悟を決めれば、お蝶だけが命を長らえることは出来ない。間違いなく、かつての三件の未解決事件に連座した者とともに土壇場で首を刎ねられるだろう。しかし、果たして遠山景元が累代の奉行所与力や同心の旧悪を蒸し返すだろうか。

断罪すればいわれなき押込み強盗に入られて難渋を味わった商家が幾ばくかの溜飲を下げるだろう。町衆も暗黒の鳥井町奉行時代と明確な線引きがなされたと実感し、瓦版が町奉行所に巣食っていた悪党が罰を受けたと書き立てるだろう。しかし、それによって喪うものも余りに大きい。まず当面は遠山奉行の評判はハネ上がるだろうが、町奉行所の権威は地に落ちて御政道批判の声が澎湃として湧き上がるだろう。遠山景元が治世家としてその損得差引勘定をどう判断するか。彫物を背負った町奉行がとんでもない人気取りの俗物なのか、それとも出世を願って幕閣にへつらう薄っぺらな男なのか、あるいは知恵を巡らしてこの世に整然と正義を貫く男なのか。

 町奉行所に勤務する与力や同心はその時々に就任する町奉行の指揮下にある。南町奉行鳥井耀蔵の差配により町方役人が株仲間解散に抵抗した紙問屋や呉服問屋に押し入って財産を奪ったとしたら、命令された町方役人には不本意かもしれないが犯罪であることに間違いない。が、鳥井奉行の下で働いた与力や同心までも一刀両断の下に処断できるのだろうか。

だがその一方で、自分の立場が不利になろうとも正義を貫いた者がいたのも事実だ。そのために冷や飯を食わされ閑職に追いやられた与力や同心もいる。そうした人たちの名誉を回復し、いかにして人生の帳尻を合わせるのか。そうした道理の兼ね合いに遠山景元がいかなる判断を下すのかは疑問だ。ともあれ、遠山景元はお蝶を白州に引き出して洗い浚い白状させるだろうか。たとえお蝶の自白を元に南町奉行所内部を粛正したとして、生き証人のお蝶を土壇場に据えて首を刎ねずに済ますだろうか。

そうした堂々巡りの思案の迷路を断ち切ると、真之亮は銀太に視線を移した。

「それより、銀太は一味が何処を襲うと思う」

 真之亮は切実な疑問を銀太に投げ掛けた。

 銀太は思案顔に俯いていたが、やがて顔を上げると「分からねえや」と呟いた。

「ただ一味は名うての前科者ばかりだってことだろう。誘われて話に乗りはしたが、巣窟に集まって段取りの確認一つしてない。押し入る日まで当の押込む張本人にも分からねえのだから、端の者に窺い知れるわけがねえぜ。すると前もっていつ何処の屋敷にお宝があるか、一味の頭目には分かっているってことじゃないのか」

 明確に分かっていることを、銀太は見事に並べて見せた。

 そうした銀太の推察のやり方が、真之亮は嫌いではなかった。

 まずは、分かっていることと分からないことを仕分けして頭の中を整理する。

「一味がお蝶を閉じ込めてる屋敷は札差春日屋だ。これも何かの役に立つだろうよ」

 と、上り框に腰掛けた茂助が土瓶口を挟んだ。

 真之亮は茂助の何気ない言葉に初めて聞いたように振り返った。天啓かとわが耳を疑った。不意に稲妻が身体を走り抜けたような衝撃を憶えた。札差とは旗本に代わって切り米を受け取り、それを売り捌いて貸し付けてきた金子を回収するのが商売だ。明日から二月の切り米が支給される。そうした諸々のことが一筋の糸につながり、暗闇に一条の光が差し込んだような衝撃を覚えた。

御米蔵から旗本御家人に扶持米が支給されるが、米俵を持ち帰る者は皆無に近い。すべてといって良いほど、旗本御家人は十年分以上にわたる扶持を担保に高利を借りている。代官に対する百姓の強訴のようなやり取りが江戸では札差の番頭を相手に旗本の側人が行うのだ。一粒の米も渡してもらえなければ屋敷の主従が飢えることになる。欲をいえば米が手に入り金が借りられれば良いのだが、せいぜいが屋敷で消費する飯米程度を持ち帰れただけでも僥倖というものだ。札差は蔵前の米蔵で旗本御家人の扶持米を代理で受け取るが、それは受証の紙の上だけのことで、ただちに米問屋に売り払う。

昨今、江戸市中で取引される米の総量に占める札差の扱う割合は年々減少している。それに代わって目覚しく増えているのが大坂商人が扱う米だ。各地の藩米が大量に大坂へ回漕され、堂島で競りに掛けられて江戸へ搬入されてくる。江戸時代も下ったこの時期には全国諸藩は田畑の開墾開拓を推奨し生産石高は飛躍的に増加している。しかも市中で消費される商業製品も種類と数を増して、年貢米を中心とした幕藩経済は破綻の瀬戸際にあった。事実、札差は本来の俸禄米を取り扱う米問屋から旗本御家人の扶持を担保に年利一割二分から一割五分といった高利で貸し付ける金融業に変貌して巨万の富を築いていた。

 だが心有る札差はそれを良としているわけではない。本来の米を売買する商売なら時代が代わろうと生き延びていける。しかし幕藩体制と深く関わり権威と結びついた商売はひとたび時代が変わると、その特殊性のために生き延びることはできない。良い例が棄捐令だ。寛政の改革を真似て水野忠邦が六十年ぶりに棄捐令を発した。利率の半減と償還の二十年賦を札差に無理強いしたため、江戸の半数近い四十八軒もの札差が店を閉じた。あまりの事態に驚いた幕府は手許金を拠出し札差の救済策を講じて金融不安を収めたが、二度にわたる棄捐令の実施は多くの札差の目を開かせた。

 同じように、老中水野忠邦が実行しようと企てた江戸大坂の上地令も狂気の沙汰だった。大商人が反対を唱えて立ち上がり財力で上げ地令を潰し、それがもとで老中水野忠邦は失脚したが、同時に幕府の威光もその程度のものと底が知れてしまった。これより数年後のペリー来航により軍事力の破綻を突きつけられるまでもなく、すでに徳川幕府の財政は巨木に大きな室ができるように破綻していた。

札差は金融業者として権勢を誇っているが、実態は融資先が旗本御家人に限られ、広く商人を相手にしている両替商の後塵を拝していた。本来業務の米の取引商人としても大坂から進出してきた米問屋の足元にも及ばない。春日屋の繁栄は徳川幕府が存続する限りは安泰だが、当の幕府の足元が怪しくなっている。その日暮らしの貧乏人の目には豪勢な暮しを送っているお大尽は心配事とは無縁だろうと思うが、どっこいお大尽は貧乏人にはない大きな心配事を抱えている。

おそらくその焦りが今度のたくらみの元だろう。確かに財力ある札差の前では格式高い吉原の花魁でさえも帯を解き、大身の旗本といえども叩頭する。この世で財力さえあれば求めて手に入らないものはないはずだが、心の奥底には人々の追従やお世辞では癒せぬ渇望がある。

 禍福はあざなえる縄の如しという。天保十四年の棄捐令をもものともせず、江戸の札差たちは我が世の春を謳歌しているが近づく冬の足音に慄いている。

人とは気侭で身勝手なものだ。札差春日屋は本来の米流通業者に立ち戻る必要性を痛感していた。札差はあまりに深く幕府と結びついてしまった。時の権力と絡みすぎると、幕府の滅亡と運命をともにしかねない。

しかし本来の米屋家業に立ち返るには大きな障害がある。それは新たに江戸へ進出してきた大坂堂島に本店を構える米問屋たちだ。大坂の米問屋は堂島の米相場を商売に生かし米商いだけで富を築いて来たしたたかな商人たちだ。これからも今まで以上に江戸の米問屋を圧倒し、米取引を牛耳って江戸の地歩を強固なものにしてゆくだろう。

 そうした焦りから春日屋が考えついた戦法は商売仇を叩き潰すことだ。それも公明正大に商で競うのではなく、直截的に前科者に押込み強盗をやらせ黄金を奪うやり方だ。これなら一挙両得。大阪の米商人に打撃を与え、奪った黄金で江戸に流れ込む米を買い占めることが出来る。

「茂助、ムササビが押し入った米蔵屋敷は佐賀町の摂津屋だったな。父上が扱った事件だから南町奉行所には詳細な摂津屋の一件綴があるはずだ。佐賀町の船宿萬波の船頭善吉を仲間に引き込もうとしたのは、摂津屋を狙っているからではないか。明日から切り米の支給が始まる。それにあわせて摂津屋も江戸市中の米問屋に佐賀町の米蔵に蓄えていた回漕米を売り出す。切り米の支給期間に摂津屋には巨額な売上金が集まることになる」

――読めた。

 もつれていた糸がピンと張って、ばらばらだった事柄が一点に収斂した。真之亮は思わず膝を打った。勘治を殺した同心やお蝶たちが煙のように札差春日屋の切り戸に消えたことまでも無理なく繋がった。

「茂助、一味が摂津屋に押し込むとして、それは切り米の支給最終日だろうか」

 意気込むように、真之亮は聞いた。

摂津屋に用意された十に余る千両箱を小判が満たすのは支給期間の最終日だろう。夜盗もその黄金を狙うに違いないと思われた。

 しかし茂助は「いや、いや」と首を横に振った。

「確かに支給期間の最終日に多くの小判が摂津屋に集まりやすが、用心棒の数も増やし警戒も厳重になりまさ。やるとすれば店の者が疲れ果てて眠りこける初日の夜。それでもおよそ切り米支給最終日の小判の三分の二ほども集まっているでしょうよ。初日の夜なら警戒もまだそれほどとは思えやせんしね」

 そう応えつつ、茂助は考え込むように腕を組んだ。

「なるほど、佐賀町の摂津屋ですかい。深川でお宝の集まる豪商といえば木場の材木問屋と目星をつけるのが相場ですが、いつ大取引があるか前もって知るのは容易でない。それにたとえ知っていたとしても、直前になって日にちが変わることは良くある話だ。しかも木場なら深川の堀割に潜んで首尾良く押込み強盗を働いたとしても、逃げるのに深川の町中を堀割から掘割へと行き、最後に大川へ出る箇所には船番所がありやす。夜でさえ船荷改めがあってちょいとばかり厄介です。が、佐賀町なら大川端だ。御城下から大川を横切ってじかに蔵屋敷の船着場に船を着ければ、誰にも見咎められずに屋敷に入れるってことでさ。切り米の支給日は御上によって定められ、米蔵屋敷の都合で勝手に日にちを動かせねえ」

 茂助が糸を解きほぐすように呟くと、真之亮も「その通りだな」と相槌を打った。

「狙い目が初日の夜と看破するとは、さすがは親方だ。摂津屋じゃまだお宝はこれから集まるのに、まさか夜盗が来るはずがねえと思っている。雇い入れる用心棒の数も少ないだろう。もしかすると寝ずの番の奉公人も初日の祝い酒を飲んで寝込んでいるかもしれねえ。警戒が手薄な上に集まったお宝が千両箱に六ツか七ツか、夜盗でなくても応えられねえや」

 銀太も目を輝かせて茂助に声をかけた。

「ただ、兄上の立場はどうなるのだろうか。本所改役の臨時廻が持ち場の深川で米蔵屋敷が夜盗に入られて無事では済むまい。それかといって非番月の兄上が夜中に八丁堀から深川へ出張って夜盗を捕まえるっていうのも不謹慎だ」

 兄を思いやって真之亮が呟くと、茂助は意外そうな眼差しで真之亮を見た。

「仕方ないでしょう。ここは辰蔵たちと力を併せて夜盗をお縄にするしかありません。ただ、お奉行の耳にだけは入れておきませんとね」

 そう言ってから、茂助はニヤリと笑みを浮かべて言葉を続けた。

「ここで儂たちが話した事件の推測がまったくの見当違いであったとしても、清太郎様が出張ってなけりゃ清太郎様に傷がつかねえってことですから」

と言って、にやりと笑った茂助の意図を解して、

「それもそうだな。大山鳴動して鼠一匹ってことになったら、本所改役臨時廻同心が飛んだ赤っ恥じだからな」

と、真之亮も笑みを浮かべた。

 日暮れて、いつものように店の表戸を閉めた。

 いつになく売り上げがあがり、茂助は仕入れを増やさなければと笑みを浮かべた。

「仕入れの古着市にわっちも連れてっておくれ。親方の目利きは地味に過ぎるよ。粋で垢抜けた品物を仕入れなきゃ、売り上げはこれ以上はあがらないよ」

 前掛けを丸めた上に襷をくるくると巻き付けながら、お蝶が言った。

 久し振りに聞く女のべらんめえ口調の巻舌に、茂助は相好を崩した。

「それもそうだな。今月末の古着市には一緒に行ってもらえるとありがてえな」

 茂助はいかつい顔を蕩けさせて、お蝶に頷いて見せた。

 茂助が世間並みに所帯を持っていれば、お蝶くらいの年恰好の娘がいてもおかしくない。元手先と女掏摸とでは奇妙な取り合わせだが「そんなことは構うものか」と茂助は心の中で嘯いた。肩書きを外して、ただの男と女になれば二人は似合いの父娘だ。人目さえなければ茂助はお蝶を「娘」と呼んで腕に抱きたいと思った。そうすれば一瞬だけでもこれまで味わえなかった世間並みの歳月が取り戻せるような気がした。

 しかしそうした突飛もないことは起こらず、茂助は分別くさい顔をして静かにお蝶に頷いて立ち上がった。陽はすでに落ちて潮が引くように柳原土手から人影が消えていた。

 裏口を戸締まりして、近くの一膳飯屋へ五人で向かった。

 お店者が夕餉を取るのは夕暮れ前のため、一膳飯屋が混雑する時刻は過ぎている。神田富松町の神田屋は五分の客の入りだった。既に茂助と真之亮は神田屋の常連客で小女とも顔見知りになっている。入って空樽に座ると無愛想な小女が黙ったまま手妻のように一膳飯を運んで来た。五人は干物の焼き魚と汁と香の物の一膳飯を掻き込み、腹を満たした。

 茂助と安五郎が古手屋に泊まることにして、真之亮と銀太それにお蝶の三人が松枝町の仕舞屋へ向かった。別れ際に茂助が「外へ出る時にはくれぐれも三人一緒で」と念を押した。誰が何処からお蝶の命を狙っているか分からない。真之亮と銀太は心得たと頷いた。

 借りた家へ帰るには富松町から松枝町までは町割の通りを歩く。表店は大戸を下ろし、人影は絶えていた。

 真之亮が先を歩き、お蝶と銀太が後に続いた。細い路地や天水桶の陰に人が潜んでいないとも限らない、真之亮は十分に周囲に気を配りながら足を運んだ。

 何事もなく仕舞屋につき、真之亮は用心深く油障子を引き開けた。

 屋内に人の気配がないのを確かめてから、敷居をまたいだ。用心深く土間で真之亮とお蝶が待ち、銀太が暗い座敷に視線を走らせて敏捷な身のこなしで上がった。何処かに種火を埋けていたのか、すぐに行灯に火が入った。

 明かりに浮かび上がった部屋はすべてが整えられていた。お蝶は目を見張って「まあ」と感嘆の声を上げた。真之亮も驚きの眼差しで座敷を眺めた。今までも人が暮らしていたような、そしてこれからも不自由なく暮らしていける調度品が品良く納まっていた。

「銀太が品を吟味して運び込んだのかえ」

「いや、おいらは運ぶ手伝いはしただけだ。品定めや吟味は肝煎の仕事だ。新所帯が暮らすのに必要な道具一式を揃えて欲しいと頼んだら、肝煎が一も二もなく胸を叩いてすべて引き受けて、界隈の道具屋の親爺たちに手配してくれたのさ。どうでも昔、肝煎は旦那の父親にお世話になったに違いねえ」

 そう言って銀太は「旦那のおとっつあんも定廻だったンだろう」と聞いた。

「ああ、肝煎の甚十郎は若い頃相撲を取っていて、本所改役だった父が回向院や富ヶ岡八幡宮で行われる奉納相撲の興行で多少の便宜をはかったと聞いちゃいるが」

 と応えつつ、真之亮は次の部屋の襖を開けた。

 そこが仕舞屋の居間らしく、神棚と長火鉢がしつらえてあった。

「土間から上がった部屋がお良さんの仕事部屋でさ。この部屋が一家の大黒柱がくつろぐ居間。その次の間が寝所ってことで用意させて頂きやした」

 銀太は借り手に勧める大家の口上よろしく、間取りを説明した。

 二階の二部屋は奉公人の部屋ということで、銀太はちゃっかり荷を運び込み自分の城を確保していた。

「おいらと姐さんの部屋は二階だぜ」

 そう言うと、銀太はお蝶を連れて土間の上がり小口の階段へお蝶を引っ張っていった。

 真之亮は懐から十手を引き抜いて神棚に置いた。そして長火鉢を前に座ると、なんとなく岡っ引の親玉にでもなったような心地がした。銀太や甚十郎は町方同心の暮らしを知らないから界隈の岡っ引のように猫板のある長火鉢を前に座れば格好がつくと思っているのだろうが本来、武家の家に長火鉢は置かないものだ。しかしこれはこれで良い、と真之亮は笑みを浮かべた。

 二階から銀太とお蝶が下りて来ると差料を手にして立ち上がり、銀太に留守番を申し渡してからお蝶を誘って町内の湯屋へ出掛けた。

 手桶に手拭いそれと糠袋まで銀太が人数分揃えていた。そうした細々とした品々まで用意したのを勘案すれば、家の支度に昼から夕刻まで手間取ったのも頷けた。

 湯屋までは一町ばかりの道のりだ。町割りの広い道の内側をお蝶に歩かせ、真之亮は路地からの急襲に備えた。しかし危惧した事は起こらず、二人は湯屋に着いた。

唐破風屋根の軒下に下げられた亀乃湯と屋号を染め抜いた暖簾を掻き分けて入り、番台の親爺に二人分として十六文払った。湯屋は寛政の改革で「入込湯」と呼ばれる混浴が禁じられたが、男女に湯舟を分ける手間暇から守られなくなり、度々入込湯禁止令が出された。亀乃湯も入込湯だったが、真之亮とお蝶は普通に男女がそうするように土間を上がると右と左に分かれた。そして真之亮は石榴口から湯船に入り、体の芯まで温もった。

 示し合わせたわけではないが、二人はほぼ同時に湯屋を出た。

 お蝶と二人連れ立って戻る道々、お蝶は「真さんは優しい男だね、なにも訊かないンだ」と声をかけてきた。甘えたような掠れた声だった。何のことか、と真之亮は小柄なお蝶を覗き込んだ。お蝶の体から女が匂いたった。

「春日屋で何があったか、誰がいてどんな話をしていたかってことをさ」

 唄うような声で、お蝶は何処か捨て鉢な物言いをした。

 お蝶の声には少ししわがれた猫の舌を思わせるざらつきがある。常盤津か端唄でも唄えばさぞかし艶っぽい声だろうと思われた。しかしお蝶の喉を聴く時は生涯やって来ないだろうと、真之亮は朧げながら思って人と人の出会いの運命を呪った。

「拙者は隠密同心だ。町方同心のように下手人を捕縛して、お白州に引き出すのが役目ではない。お蝶はさぞ辛い思いをしたンだろう。今までのことは早く忘れることだ。過ぎ去ったことをいつまでも抱え込んで、恨みを呑んでいても仕方がないだろう」

 真之亮は遠く十万坪の彼方に昇った半欠けの月を見上げた。

 女が一人でこの世を汚れずに生きることは難しい。ことにお蝶のような男好きのする色年増は破落戸から狙われて体を玩具にされてしまう。体を穢されるのも怖いが、本当に怖いのは心までも荒んでしまうことだ。

「悪い夢だったと忘れることだ。勘治の仇は必ず討ってやるから心配するな」

 真之亮の言葉にお蝶は黙ったまま頷き、ぐすんと鼻を鳴らしてお蝶は深川十万坪の彼方に昇ったばかりの月を見上げた。頬に光るものがあった。

「旦那は優しいンだね。お良さんといったっけ、ご新造さんは」

 と言うお蝶の言葉に「拙者は優しくなんかない。善良な面した悪党にゃ腸が煮えくり返って鬼のようになっているンだ」と吐き捨ててから、真之亮は相好を崩した。

 なぜか分からないが、無性に自分とお良のことをしゃべりたくなった。

「お良は八丁堀の町医者の娘で、白い上っ張りを着て薬篭を下げて界隈を駆け回っている。拙者と三つ違いの幼馴染みだから二十歳を二ツばかり過ぎて年増になってるが。所帯を持ったら膏薬を作って家で商うと言ってる」

「へええ、町方同心の御新造さんが商売をね。町人のわっちは古着を売らせてもらうけど」

 お蝶はお良が膏薬を商うと聞いて驚いたようだ。

 武家は表向き扶持だけでのうのうと暮らし、町衆のような仕事はしない建前になっている。貧乏御家人が傘張りや楊枝作りをするのはあくまでも内職だ。それも他人に分からないようにこっそりとやる。しかし真之亮は仕舞屋で新造が堂々と商いをして大丈夫かと心配した。武家が扶持を頂戴する他に暮しの糧を得るために仕事をすれば咎めを受けかねない。

「ナニ、拙者は表向き浪人者だ。お良が仕事を持ったところでお咎めは受けない」

 と言って、真之亮は脇道の三尺路地の暗がりへ視線を這わせた。

 いつなんどき何処から白刃が襲い掛かるかわからない。用心のためお蝶に道の央を歩かせ、真之亮は軒端を歩いた。左手で鞘を握って親指を鐔に当てて、いつ抜き打ちを撃たれても良いように腰の備えをしつつ、真之亮は帰路を急いだ。早く仕舞屋の留守番を代わって、銀太を湯に入れてやりたいとの思いもあった。

 仕舞屋に戻ると、銀太は居間の長火鉢に炭火を入れていた。

「これで、やっと無愛想だった空家が人の暮らす家らしくなりましたぜ」

 と言って、銀太は五徳に鉄瓶を置いた。

 行灯に明かりがともり火鉢に炭火が埋けられて部屋が温もると、家は家らしくなるものだ。銀太は急いで湯屋へ出掛け、真之亮は油障子に心張り棒を支った。

「これから何が起こるのだろうかね」と、不意に長火鉢の前に座ったお蝶が訊いた。

 土間から上がってきた真之亮はかぶりを振って「分からない」と静かに言った。

 茂助や銀太たちと推察して結論は出ている。おそらく三人で話し合った筋書きが図星だろう。しかしお蝶を信用していないわけではないが、真之亮は話すのを控えた。お蝶を一味の密偵と疑っているのか、それとも事件にお蝶を引きずり込むのを避けたいと思っているのか、その判断は真之亮自身にも分からなかった。

「もうじきすべてが終わるだろうよ。もうじきすべてが終わって、穏やかな日々が送れるようになるだろう」

 とだけ、真之亮は秘密めかしてこたえた。

「穏やかな日々ねえ、わつちには幼い頃に聞いたおっかさんの子守唄のように縁遠い言葉だけど」そう言って、お蝶は火箸で藁灰を弄んだ。

 お蝶と二人では話の種も直ぐに尽きて、真之亮はどう間をもたせれば良いのか気まずさが付きまとった。お蝶は珍しい生き物でも見るような眼差しで真之亮を見ていた。二人は途切れがちに古手屋や柳原土手のことを話して銀太の帰りを待った。

 銀太が帰ると真之亮が階段の上り口の側の部屋に寝て、二階は銀太が階段口でお蝶が奥の部屋で眠った。たとえ賊が押し入っても二段備えで防ぐ手立てを講じたつもりだった。

 

 案じた賊の夜襲もなく、静かな夜明けを迎えた。

 抱いて寝た差料を枕元に置いて、真之亮は勝手口から裏に出た。

 そこには焼き杉板に囲まれた猫の額ほどの庭があり、枯れ草を養った井戸があった。半畳ほどの井桁に近づいて蓋を取った。紐を結えた手桶を投げ込み、水の音を確かめた。何度か腕を左右に振って紐の手応えが重くなるのを待った。

 引き上げると桶の水の匂いを嗅ぎ、手に掬ってみた。

「旦那、江戸の水道だ。塩っ気のない良い水でしょう」

 背後から銀太の声がして真之亮は振り返った。

 確かに汐の匂いのしない良い水のようだった。

「どうだ、良く眠れたか」

「ああ、無粋な野郎も現れなかったし、久し振りに手足を伸ばさせてもらったぜ」

「まだ起きなくても良いのだが、お蝶は部屋で寝ているのか」

――お蝶の身の上に何事もなかったか、と聞いたつもりだった。まさか生きて息をしているのか、と剣呑なことは訊けなかった。

「いや、早くから起きて夜具の片付けをしていたけど」

 と、銀太は真之亮の気持ちを察してか、にやりと笑った。

「旦那、これからおいらが飯を炊いて汁を作りやすぜ、待っていて下さい」

 銀太はそう言うと、勝手口の土間の片隅のへっついに屈み込んだ。

 種火を十能で運んできたのだろう、柴をくべると息を吹きかけて火を熾した。

「朝飯を作るくらいの用意は整ってるぜ。近所の米屋や薪炭屋、それに味噌醤油と昨日は走り廻ったンだから」

 屈み込んだまま、銀太はくぐもった声で言った。

 何処か誇らしそうな物言いに、銀太の健気さが窺えた。

「あっ、それで」と銀太が指差した蔀の窓枠に房楊枝が置いてあった。その房楊枝で歯を磨けというのだろう。何からなにまで細かいことにも気のつく男だ。

「いいよ銀太、台所のことはわっちに任せな。それより汁の具に蜆でも買って来ておくれ、ついでに古手屋の二人も呼んで来たらどうだい」

 元気な声をかけると、お蝶は前掛けに襷をかけて土間に下りて来た。

 二つ返事で銀太はへっつい番をお蝶に譲り、張り切って表へ駆け出した。

 真之亮は手拭いを肩に担いで井戸端へ行き、釣瓶を上げて顔を洗って口を濯いだ。

 一夜明けていよいよ今日となったが、一味は今夜にも深川は佐賀町の摂津屋を襲うだろうか。いやそれとも、町奉行所の与力・同心という歴代にわたって受け継いできた地位と扶持をあたら喪うような愚かな真似はしないのではないか、とふとそんなことを考えつつ手拭いで顔を拭った。

 昨夜、お蝶を殺しにやって来なかったのは、たかが女掏摸と侮ってのことだろうか。たとえお蝶が捨て身で町奉行所に春日屋や町方同心の行状を訴えたところで、町方同心の言い分と女掏摸の言い分とではどちらを取り上げるか、と高を括ってのことだろうか。それとも単に、お蝶が何処へ姿を隠したか分からなかっただけなのだろうか。

 様々な疑問を胸に交錯させたまま、真之亮は台所の上がり座敷に銀太が買い揃えた箱膳を並べた。お蝶が上機嫌で羽釜の火加減を見たり、香ばしい匂いをさせて鍋に味噌を解いたりしている。

それだけで、良いのではないだろうか。なにやかやと詮索するよりも、あるがままを受け入れ、事実を事実として受け止めるだけで良い。せめて今朝だけでも、真之亮はそう思いたかった。

 無事な五人の顔が並び、賑やかな朝餉が始まった。

「昨日、借家の支度に銀太はひどく手間がついたが、その理由が分かったぜ」

 茂助はお蝶に飯をよそってもらい、上機嫌だった。

「親方、おいらは言い付けられた仕事をさぼったり手を抜いたりなンぞ、金輪際しやせんぜ」

 銀太は上機嫌にむくれて見せた。

「分かってる、分かってるって。銀太が足を棒にして界隈を歩き回ったってことは」

――これを見れば分かるじゃないか、と茂助は両手を広げた。

 真之亮を上座に座らせ、茂助と銀太が左手に安五郎とお蝶が右手に並んだ。そうした席次はどうでも良いことと真之亮には思えたが、茂助が拘ってそうと決めた。

 膳の位置ばかりでなく、番頭格の座にすわった茂助がその日の段取りも仕切った。

「今日は銀太と真さんはちょいと野暮用があって店にはいねえが、安とお蝶には古手屋丸新を頼むぜ」そう言って茂助が見廻すと、

「任せときな」と、お蝶が歯切れの良い声を上げ、釣られたように安五郎も頷いた。

 元掏摸の三人が顔を揃えたのを見廻すと、真之亮は妙な心地になった。急に家族が増えたような気がして、人肌の温もりを持つ家が家らしく感じられた。

 朝餉を済ますと、真之亮は銀太を伴って松枝町の仕舞屋を後にした。

 早朝の大通には箒片手に掃き清めている小僧の姿の他にまだ人影はなかった。

「旦那、お良さんが御新造さんになって借家へ来ると、お蝶姐さんと少々面倒なことになりやしませんかね」早足に銀太が真之亮の傍に歩み寄ると、小声で話し掛けた。

「どうしてだ」不思議そうな顔をして、真之亮は銀太を見下ろした。

「一家に雌鳥は二羽いらないって、言いやせんか」

「なんだって。それは時を告げる雄鳥は二羽いらないって諺じゃなかったか」

 そう言って笑い飛ばしたが、銀太の心配があながち杞憂とも思えず、真之亮は顎を撫でた。

 台所に誰が立つのかというのは、やはり揉める元になりかねない。茂助は下男と女中を雇わなければならないと言っていたが、それはどのような料簡から言ったのか。

「いずれにせよ、今日の大事を片付けてからってことだろう、銀太」

 真之亮は銀太を連れて南町奉行の役宅へ急いだ。

 日本橋を過ぎると、やっと人が行き交い始めた日本橋通を歩いて京橋を渡った。数寄屋橋御門内の南町奉行所の裏門へ廻り、役宅に遠山景元をたずねた。

 真之亮が門の傍らに立つ番士に朱房の十手を見せて屋敷へ入るのに続いて、銀太も真似て懐の棒十手を引き抜いて番士に見せてから門内へ入った。

「びっくりだぜ。役料三千石のお屋敷に門からすんなり入れるなんて、おいら初めてだ」

 銀太は感嘆の声を上げて、小走りについてきた。

 屋敷の広い庭に廻ると、遠山景元は縁側で廻り床に髷を結わせていた。

「お奉行。今日は手先の銀太を連れて参りました」

 真之亮が銀太を紹介すると、遠山景元は受け板を持ったまま銀太を睨んだ。

「なかなか鋭い勘働きをしそうな面構えの、良い若者だな」

 にらめっこするような遠山景元の眼差しに、銀太は笑みを浮かべた。

「一連の事件に関して、今朝は前もってお奉行にご承知して頂きたき儀が御座いまして、事前に参りました」

 真之亮は神妙な面持ちをして口を開き、言葉の途中で言い淀んだ。

「なんだい言ってみな。この髪結の親方なら心配は無用だぜ」

 真之亮の気持ちを察知して、遠山景元は真之亮の心配を取り除いた。

「かねてより探索しておりました事件ですが、悪党一味の狙いが深川は佐賀町摂津屋にあると目星をつけました。よって今夜、摂津屋米蔵屋敷を深川の岡っ引たちと張り込むつもりで御座います」

 と、真之亮はまず結論から遠山景元に申し述べた。

 遠山景元は庭先に立つ真之亮と銀太を交互に見詰めて、小首を傾げた。

「うむ、お前たちが張り込むのは承知した。もし良かったら、摂津屋の米蔵屋敷に目をつけた切っ掛けを教えてくれねえか。それなりに根拠があってのことなンだろう」

 懇願するような眼差しで、遠山景元は庭先の二人を見詰めた。

「理由を秘匿するつもりはありませんが、実は確たる証左は何も御座いません。ただ、勘治が森田町の札差春日屋の前で斬られ、その下手人は春日屋へ逃げ込みました。さらに、殺された前科者の中に佐賀町の船宿の船頭がいました。そうした一連の事実を繋ぎ合わせて得た結論にて。ただ張り込みを決意したのは以前南町奉行所で摂津屋の米蔵屋敷に入った盗人を詮議した綴りがあるからです。その盗人はムササビの盗兵衛という男で、お縄にしたのは拙者の亡父でした」

 真之亮が話し終えると、遠山景元は深く頷いた。

「ウム、なるほどな。江戸の札差は鑑札を頂戴して幕府庇護の下、幕臣に扶持として与えられる米を代理人として受け取り優先的に商ってきた。しかし、昨今では米商人の面目は回漕米を扱う大坂商人の米問屋にその座を奪われて久しく、札差は旗本や御家人に金を融通するただの高利貸になっちまった。米商人の面目を取り戻すには大坂商人筆頭の摂津屋を叩き潰して、回漕米の販売権まで銭にあかして手中に収めたいのだろう。摂津屋が以前賊に押し入られて南町奉行所がその詮議に当たったのならば、真の字のいう条件に当て嵌まるってことだな。それで、おいらはどうすれば良い、どうして欲しいンだ」

 大きく頷いて、遠山景元は得心したように身を乗り出した。

「いえ、何もして頂かなくても。ただ、今夜拙者と深川の岡っ引辰蔵、それと助っ人の鳶の者たちで米蔵屋敷を張り込むことをご承知して頂ければ。南町奉行所の加勢はいりません、町方役人にお願いすると今夜の張り込みが悪党一味に漏洩しかねますので」

「ということは、兄の野村清太郎にも知らせてはいないのだな」

「はい、肉親はもちろんのこと、親しい者にも知らせておりません」

「うむ、重畳である。ただし、以前にも増して用心深く立ち回らなければならねえぞ。昨日、年番方与力の若党が一人腹を斬られて死に、一人は篭手に深手を負ったようだ。そのことから奉行所与力・同心の動きが密かに慌ただしくなっている。思わぬ逆襲を受けねえとも限らねえ、くれぐれも気をつけるように」

 遠山景元はそう言って口を閉じた。

それは真之亮が稲荷の境内で斬り合ったことを承知しているような口吻だった。

「ははっ、心して今夜の張り込みにかかります」

 真之亮は低頭して、満足そうに頷く遠山景元の前を下った。

 役宅の門を出ると、真之亮は深川へ足を向けた。

 京橋から延びる雑踏の大通を横切り、銀座町から弾正橋を渡って堀割沿いに南八丁堀を下った。南八丁堀は堀割に面した片側町で本八丁堀一丁目から五丁目まであった。町御組屋敷は八丁堀の北から中ほどにかけて建てられ、南は町家の入り組む町割地だった。八丁堀の顔見知りと出会うのを避けたわけではないが、真之亮は無意識のうちに迂回したことになる。東へ下る道が尽きて堀割に突き当たると鉄砲州の波除け稲荷を横に見て、人影の疎らな高橋を渡って越前堀へと入った。

「旦那、今夜の深川の捕物にいまから慌てて駆け付けるのかい。ここらでちょいと休んでも罰は当たらねえと思うがな」

二ノ橋を渡って四日市町へ入ると銀太が声をかけた。

 通りを挟んで濱町と塩町が向き合う道を行くと、やがて下り酒を扱う問屋の建ち並ぶ南新堀町だ。酒樽を運ぶ人足たちの一膳飯屋もあって、煮魚の旨そうな匂いが通りにも溢れていた。

「銀太の鼻はそこらの野良猫より利くンじゃないか」

 そう言って笑うと、真之亮は左手の一膳飯屋の縄暖簾を掻き分けた。

 昼前のまだ客のいない店土間に入り、一膳飯を注文した。

 店は森とした静けさに包まれ、飯の炊き上がる匂いが満ちていた。真之亮は眉を曇らせて腕組みをした。摂津屋と目星をつけたことは安易に過ぎなかったのではないか、との疑念が湧いていた。

 三年前、株仲間解散令に抵抗した大店に賊が押し入って千両箱を幾つも奪われ、それが元で潰れてしまったことがある。その破天荒な事件は鳥井奉行の命で南町奉行所の者が実行したものではないかとの疑念を覚えるが、それも証左のないただの推量に過ぎない。が、全くの見当違いでないのも確かだ。

その根拠は幾つか挙げられる。まず三件とも南町奉行所が当番月に押し込み強盗があって、南町奉行所が探索し吟味している。屋敷の見取り図面と奉公人の配置など、詳しく事件綴に書かれているはずだ。それを使えば短時間に夜働きすることも難しくない。しかも、一連の事件から南町で捕らえた前科者を一味に誘い込んでいたのは明白だ。勘治が春日屋の前で斬られたその折り、船頭や木戸番小屋の老爺たち生き証人の言葉を継ぎ合わせて考えれば、お蝶と行動をともにしていた者は町方同心だ。最終的な決め手を欠くが、今まで分かった事柄を並べてみると、すべては同じ方角を向く矢印となって、深川佐賀町の摂津屋米蔵を指している。

かつて南町奉行鳥井耀蔵の命により与力同心たちは奢侈禁止令の取り締まりと称して豪商の婚礼や葬儀の席などに乱入した。婚儀の途中であれ葬儀の途中であれ、式場に乱入して料理や衣装を奢侈禁止令に反しているとして花嫁などを引括ろうとした。そして乱暴狼藉を働かない代わりの目溢しの謝礼を大っぴらに要求した。また虫の居所が悪ければ往来を行く者の着物にまで難癖をつけて衆人の前で剥ぎ取ったりした。

そうした奢侈禁止令の取り締まりがいつしか金品を集るためだけの口実となり、奉行所の風紀が乱れに乱れた。

ついには与力同心たちには平然と悪行に手を染める者まで現れた。おそらく無体な乱暴を繰り返すうちに善悪の感覚が麻痺したのだろう。それが御政道に適う道だと奉行からお墨付きを頂戴すれば、八丁堀きっての学業と剣術を身につけた範たるべき者をして悪行へ邁進させ、闕所として豪商を潰す快感に心底まで麻痺してしまったのだろう。幾度か確かめた推論を反芻し、真之亮は肩の力を抜いて腕組みを解いた。

 銀太は丼片手に飯を掻き込み、煮魚を忙しく食べていた。清々しくなるほどの食いっ振りだ。いくら食ってもすぐに腹の減る年頃だと、真之亮にも憶えがある。

「旦那、何を思い悩んでるンで」

 余り箸の進まない真之亮の浮かない顔を、銀太は覗き込んだ。

「夜盗が入るのは今夜だ、とお奉行にご報告申し上げたが、万が一当てが外れたならば面目ないな」

 真之亮が呟くと、銀太は「なあんだ、そんなことか」と笑った。

「転ばぬ先の杖だと思えば、気に病むことは何もないだろうぜ。もちろん事件が起こるよりは起こらねえ方が良いンだろう、旦那は」

 かえって元気づけられて、真之亮は「それもそうだな」と笑みを浮かべた。

 二人は御城下の大通を南へと下り、北新堀町で左に折れて船番所の前を通った。

 永代橋は町人が補修や管理に責任を持つ町橋だ。そのため維持管理などの諸掛としてして町人は橋の渡り賃として一人二文を支払う決まりだ。真之亮は銀太との二人前つごう四文を橋袂の笊に放り込んで橋板へ足を運んだ。

江戸湾から吹いてくる潮風を吸い込み、緩やかな反り橋を渡り始めた。江戸湾の彼方は霞がかかって海と空が紛れている。銀太は大川河口に架かる永代橋が珍しいらしく橋を渡りながら落ち着きなく視線を方々へ遊ばせた。永代橋は江戸湾の鳥羽口に架かっているため、はじめて永代橋を渡ると恰も海の上を渡っているような錯覚に陥るようだ。

「まるで、海を渡ってるみたいだぜ」

 百二十八間もある橋の中ほどで立ち止まると、銀太は欄干に手をついた。

 春の陽射しを浴びてきらめく江戸湾に佃島や石川島の周囲に廻船が帆を下ろして碇泊し、艀が群がり豆粒ほどの男たちが荷を積み下ろしている。一幅の絵に見とれるのも分かるが、道草ばかり食っている暇はない。

「あまり立ち止まっていると橋役人に見咎められるぞ」

 真之亮が耳元で教えると、銀太は飛び上がって欄干から離れた。

 反り橋を下って深川に近づくと湾から大川の上流へ目を転じた。今日から切り米の支給が始まったため、佐賀町の米蔵屋敷の河岸に無数の高瀬船や川舟が群がり、大勢の男たちが米俵を積み込んでいた。

 橋を渡り終えると、深川門前仲通りを富ヶ岡八幡宮へ向かった。春めいた昼下がりの繁華街は行き交う人で賑わっていた。

 真之亮と銀太は真っ直ぐに升平へ行った。居酒屋はまだ店を開ける時間ではなく、縄暖簾の出ていない腰高油障子を開けた。

「邪魔するぜ、親分はいるかい」

 真之亮が声をかけると、板場から返事がして辰蔵が顔を出した。

「若旦那、わざわざ柳原土手から何用で」

 そう言って、真之亮を覗き込んだ辰蔵は顔色を変えた。

「うむ、つまりそういうことだ。今夜、摂津屋を張り込む」

 辰蔵の緊張した顔に、真之亮は小さく頷いて見せた。

「それじゃ、さっそく鳶の親方を呼んで来やす」

 辰蔵は真之亮と銀太に座るように空樽を勧めて表へ出た。

 お正が茶を淹れて板場から下駄を鳴らして来ると腰を屈めた。

「今夜、何かあるンですか」

 心配そうに問い掛けたお正に、真之亮は「うむ」と頷いた。

「お役目により、辰蔵と親方の力をどうしても借りなけりゃならぬ。相済まぬ」

 真之亮はそう言ってお正を見上げた。

 お正の問い掛けを拒絶する真之亮の眼差しに、お正は小さく頷いて奥へ入った。

睨んだ通りだとしたら、もちろん辰蔵に悪党が襲い掛かる事態もあり得る。いや、おそらく危険極まりない状況に身を晒すことになるだろう。命知らずの前科者とそれを操る町方同心の一味は御用提灯を怖れるようなヤワな連中ではない。しかし、そもそも身の危険を伴わない捕物なぞあるはずがない。

 待つほどに辰蔵が法被を着た小柄な男を伴って帰ってきた。真之亮が立ち上がると、男も立ったまま両膝に手を支って深く腰を折った。

 その男は佐平といって門前仲町の鳶の親方だった。一旦火が出ればイの一番に駆け付ける火消人足の頭でもある。四十過ぎと若くもなく小柄だが、曲がったこととは無縁な癇の強そうな横一文字の太い眉と頬の削げた顔立ちが目についた。

「わしは町内で厄介になってる佐平と申しやす。道々あらましは聞きやした。ここは一肌も二肌も脱がせて戴きやす」と、早くも佐平は勇みたっていた。

 真之亮が「拙者は隠密同心中村真之亮と申す、」と切り出すと、

「お父上の中村の旦那にゃいかいお世話になった者でさ。固い挨拶は抜きにしやしょう。何なりとお申し付け下さい」と、佐平は遮った。

 自分の知らない父親がここにもいる、と真之亮は面映い心持がした。少しも家族を構わない親父だったが、町衆にはなにくれとなく世話を焼いていたようだ。

「人数は何人ぐらい揃えりゃいいンで、船頭も入用だと聞きやしたが」

 佐平が先へ先へと話を進めるのに、真之亮は「まあまあ」と両手を差し出して、まずは座ってゆっくり話を聞いてくれ、と空樽を勧めた。

 親方は法被の裾を撥ね上げて空樽に座ると、腕を棒にして膝に支った。右肩が上がった妙な格好で佐平は真之亮を睨み付けた。

 何から説明すれば良いのか、と真之亮は腕組みをした。

 まず、用心すべきは佐賀町から大川を挟んだ対岸へ龕灯で知らせる者の存在だ。前もって勘付かれると摂津屋への押し込みを中止するかも知れない。それでは困る。いわば今回は南町奉行所内部に巣食う犯罪者集団の排除にあるのだ。

 次に、夜盗一味が屋敷へ押し入り、仕事を終えるまで気付かれてはならないことだ。途中で勘付かれると屋敷の奉公人や用心棒を盾にして篭城することも考えられる。そうなると手間がつくばかりか、犠牲者が増えることにもなりかねない。目的は目的として、犠牲者は最小限に抑えなければならない。

 瞑目して考えを整理した後、真之亮は目を見開いて佐平を見詰めた。

「まず刻限だが、四ツ過ぎかと。場合によっては深更になるやも知れぬ。所は佐賀町摂津屋。賊の人数はおよそ六、七名。その内二本差しは一人か二人と思われる。あとは命知らずの前科者たちだ。ただ、一味が押し込むのは今夜じゃないかも知れない。日を決めるのはこっちではなく、一味の頭だからな」

 そう言うと、真之亮は腕組みをして沈痛な面持ちをした。

「摂津屋さんにゃいつも何かとお世話になってまさ」

 佐平が口を挟むのに辰蔵が「待ちねえ、まずはすべてを聞いてから」と窘めた。

「賊の侵入経路は大川から。船でやって来て、一人が忍び返しのついた塀を越えて屋敷へ入り裏門の閂を外す。賊は裏門から屋敷へ入り勝手口から侵入する。船には船頭が一人残るはずだが、その男は夜釣りの船を装って近づいて縛り上げる。これは拙者と辰蔵と銀太が行うつもりだ。しかし、親方たちはまだ出ちゃならない。賊が夜働きをすっかり済まして出て来るのを待たなければならない、そうしなければ賊たちが奉公人たちを盾にしないとも限らないからな。そして千両箱を抱えて出て来たところを手勢で包み込んでお縄にする。大勢て一気に刺又や袖絡や押棒で押え込むのだ」

 そう言い終えて、真之亮は親方と辰蔵の顔を見廻した。

「するってえと、鳶衆は賊が仕事を済ませて出て来るまで大人しく屋敷を取り囲んで待つンですね」

 と、佐平は皮肉の眼差しで真之亮を見た。

「そうだ。賊が家の中にいる時に取り囲まれたと気付かれると、摂津屋の使用人たちの命が危なくなる。拙者と辰蔵が家の壁に貼りついて賊がすべて家から出終えるまで待ってから、賊の背後に立って家の中へ引き返す路を断つ。万事、手筈通りにやってもらいたい」

 真之亮が湯飲みを手にすると、佐平は承知したように頷いた。

「親方、若い者に今から今夜の御用を言うわけにはいかねえが、今夜に備えて酒を禁じて足止めしておくことは出来るか」

 と、真之亮はさらに言葉を継いだ。

「そんなことなら任せてくだせえ」

 と、佐平は何でもないことのように頷いた。

「今夜四ツに仙台堀筋は今川町の蕎麦屋に集まり、松吉の合図で物音一つ立てずに摂津屋の裏門から屋敷へ入って物陰に潜むってことだ」

 辰蔵が手順を親方に説明し、佐平は得心したように頷いた。

「それまでは佐賀町に近づいてはならぬ。それでなくとも今日は切り米の支給日で河岸や佐賀町の米蔵大通は混雑しているだろう。あくまでも事前に気取られぬように」

 真之亮も佐平に念を押した。

 佐平は深川の南部一帯を縄張りとする火消組の親方だ。真之亮の念押しには及ばない、とばかりに佐平は大きく頷いた。

「鳶の者でも佐賀町から加賀町、中川町に今川町に堀川町といった、摂津屋の近所に暮らす者には声をかけないでおきやしょう。ひょっとして声を掛けたばっかりに罪作りをしちゃいけねえンでね。江戸っ子は内緒話を腹に呑んで素知らぬ顔をしてるってのが苦手な連中ばかりだから。捕物道具も仲町界隈の自身番の得物を使いやしょう。それも日暮れてから薦を被せて船で今川町の蕎麦屋へ運び込むって段取りで」

――よろしいですか、と佐平は目顔で訊いた。

 そうしてもらえれば有り難い。真之亮は佐平に大きく頷いて見せた。

「親方、日暮れてからだけど永代橋袂の茶店を借りられねえかな。あそこなら大川を漕ぎ渡って来る船を見張るのに格好の場所だが」

 辰蔵が佐平に問い掛けた。

 一味が乗って来た船を抑えるには一味が押し入った後、素早く音を立てずに済ませなければならない。そのためには夜釣りを装って近づき船頭を取り押さえることだ。いずれにせよ、かなりの困難を伴うに違いない。永代橋袂の茶店が見張り小屋に使えれば船着場が橋下にあって何かと都合が良い。

「そんなことなら任せて下さい。両国広小路と比べれば猫の額ほどだが永代橋袂の広小路も元は火除地だ。床店を取り壊しちまうぜ、と火消組が言えば茶店の親爺の嘉助にゃ文句は言えねえンでさ」

 佐平はそう言って鷹揚に胸を叩いた。

 体こそ小柄だが、佐平は頼りになる男のようだ。さすがに荒くれ者の鳶人足を束ねているだけのことはある、と真之亮は感心して皴の刻まれた四十男の顔を見た。

 打ち合わせを済ませて佐平が升平を去ると、真之亮は腰を上げた。

「若旦那、どうされるンで」と、辰蔵が驚いたように問い掛けた。

 銀太も不審そうな眼差しで真之亮を見上げた。なぜ腰を上げたのか真之亮にも判然としない。このまま夜まで深川にいてもよさそうだが、誰かが耳元で「柳原土手へ帰れ」と言ったような気がした。

「いや、ちょいと柳原土手へ帰らなければ。暮れ六ツ過ぎに来るから」

 と言いつつ、真之亮の胸に不吉な予感がよぎった。

 茂助がいるから古手屋のお蝶の身の上に変事が起こるはずはないと言い聞かせても、真之亮の胸には拭い切れない不安が湧き上がっていた。それを察したのか、銀太も立ち上がると辰蔵に頭を下げた。

「親分、手筈の方をよろしく頼む。日暮れには必ず来るから」

 そう言うと、真之亮は笑みを見せて飯台を離れた。

「へえ、それじゃ夕刻に待っていやすから」

 辰蔵は怪訝そうに言って、「元柳橋まで送らせましょう」と黒江町入堀の船着場まで付いて来た。

「いやいや、」と気兼ねはしたが、船で帰る心地よさは捨て難かった。

 船溜りにいた若い船頭に辰蔵が声をかけ、真之亮と銀太は猪牙船に乗った。春の陽射しを浴びて、船は滑るように河岸を離れた。

 

 柳原土手の古手屋は切り米支給日の御蔵前に負けないほどの人出だった。いよいよ春めいてきた陽気に誘われてか、昼餉時になっても客の切れ目はなく丸新は多忙を極めた。茂助が先に神田屋へ行き、帰ってから安五郎とお蝶を一膳飯屋へ行かせた。いつなんどきお蝶に一味の手が伸びて来ないとも限らないため、茂助は安五郎をお蝶の用心につけたつもりだった。昼間のことでもあり人目のある通りで、まさかお蝶に手出しをして来るとは思わなかった。しかし、茂助の思惑はあっけなく裏切られた。

 安五郎とお蝶が連れ立って出掛けて行くのも、茂助は客の相手をしていて満足に見送ることは出来なかった。二人が出掛けてから二、三の客の相手をしている間に、安五郎が泡を食った顔をして戻って来た。

「親方、大変だ。お蝶姐さんが男たちに連れ去られちまった」

 頬を腫らし額に瘤を作った安五郎は口を大きく開けて喚いた。

 何があったか、順序立てて話すこともままならないほど、安五郎は動転していた。

「安、店を閉めろ。それでお蝶はどっちへ連れて行かれたンだ」

 店先で何人かの客が品定めをしているにもかかわらず、茂助は喚くように言った。

「へい、柳原土手を初音の馬場の方でさ」

そうと聞くや、茂助は駆け出した。

 店を飛び出すと雑踏を掻き分け、泳ぐようにして初音の馬場へと急いだ。そこへ行けばお蝶がいるわけではないが、とにかくじっとしていることができなかった。だが情けないことに五十過ぎの茂助は焦る気持ちとは裏腹に、駆けるとじきに心ノ臓が早鐘を打ち、顎が出て無様な格好になった。息が上がり腰から下の力が抜けて古傷の右膝が痛み出した。それでも茂助は血相を変えて駆け続けた。しかし郡代屋敷の白壁が切れて初音の馬場が見えて来ても、雑踏の中に小柄なお蝶の姿を見つけることは出来なかった。

――真さんにどの面下げて謝れば良いのか。

と、辿り着いた馬場の木柵を両手で掴んで、茂助は荒い息で背を波打たせた。

 しかし茫然自失している暇はない。振り返れば後ろは浅草御門だ。勘治は春日屋の前で後ろから袈裟に斬られて殺された。賊の一味は春日屋にお蝶を連れ込んだのだろうか。茂助は浅草御門を見上げて蔵前の混雑ぶりを思った。賊がいかに傍若無人な連中だとしても、雑踏の中を拐したお蝶を強引に引き立てて行けるだろうか。誰かお蝶が連れ去られるところを見ていなかったものか、と当てもなく行き交う人の顔を拾い見た。

 気を取り直すと、茂助はすぐ近くの同朋町は肝煎の甚十郎の家へと向かった。

 弥平の家が浅草御門をくぐった向こう側、平右衛門町と遠いばかりでなく弥平そのものが何処となく頼りなく思えた。その一方で両国広小路を仕切っている肝煎の方がこうした場合には話が早い。茂助が肝煎の家へ行くと、頃合い良く甚十郎がいた。

「肝煎、お蝶が拐されちまった」

 上り框に両手を突いて、茂助は背を波打たせて声を張った。

 奥から小走りに出て来ると、甚十郎は茂助に何があったのかと訊いた。

「安と二人して神田屋へ昼飯を食いに行かせたところ、途中で不埒者に襲われてお蝶が拐されたンだ。安は顔や頭を殴られて自分を守るのが精一杯で、お蝶の用心棒は勤まらなかった」

 茂助の言葉を聞くと、甚十郎は板の間に顔を見せていた三人の若い者に「聞いた通りだ、てめえらこれからお蝶を捜すンだ」と命じた。

 若い者は雪駄を突っかけると、荒々しく土間を駆け出た。甚十郎の配下には広小路の香具師や露天の屋台店がある。誰かが連れ去られるお蝶を見ているはずだ。すぐに動いてくれた甚十郎に茂助は礼を言って古手屋へ戻った。

 柳原土手の雑踏に背を向けたように、丸新は雨戸を閉ざしていた。

 茂助が裏口から入ると、安五郎は泣き出しそうな情けない顔を向けた。

「ばか野郎、泣きてえのはこっちの方だ」

 茂助は座敷に上がると胡座をかいて天井を見上げた。

 真之亮や銀太に何と言えば良いのか、茂助は途方に暮れた。お蝶の行方を捜さなくてはならないが、今は肝煎からの連絡を待つしかない。

 真之亮と銀太は元柳橋の船着場につくと嫌な予感に足を速めた。その不吉な予感は銀太にも伝わったのか、理由もなく真之亮の後を駆けた。果たして悪い予感通りに柳原土手まで戻ると古手屋が板戸を閉てて店を休んでいた。真之亮と銀太は顔を見合わせて裏口へ急いだ。

「どうしたンだ、昼間から店を閉めて。お蝶はどこだ」

 真之亮は通夜のように沈み込んだ茂助に向かって訊いた。

 茂助は弱々しく首を横に振り「拐されちまったンだ」とこたえた。

「昼飯に安五郎とお蝶の二人を行かせたところ、途中で安が殴り倒されてお蝶が、」

 と言って、茂助は声を詰まらせた。

「安五郎、相手はどんな男たちだった」

 真之亮は部屋の片隅で縮こまっている安五郎に問い詰めた。

「二人ばかりでしたが町人じゃねえ。が、町人の銀杏髷をして羽織を着ていた。四十過ぎの年嵩の男は小柄で狡猾そうな小さな目をしてやした。そいつが差配して、三十前の見るからに大きくて強そうな若い男があっしを殴りつけたンで」

 と、安五郎は要領を得ない物言いをした。

 だが、それを聞いただけで真之亮は頷いた。気持ちが少しばかりほぐれて腑に落ちた。羽織を着るのは町人なら大店の旦那か番頭だ。手代や小僧、それに職人は羽織を着ない。他にも羽織を用いる町人が八丁堀にいる。それは与力や同心の手先だ。

 真之亮の様子を見ていた茂助にも思い当たるところがあったのだろう。目を剥いて安五郎を睨み付けた。手先がいたということは近くにその旦那が、茂助もよく知っている八丁堀の同心がいたということだ。勘治を斬ったのはその八丁堀に違いない。

 お蝶は自分たちを探るためにわざと真之亮に捕まって古手屋へ来たのではないかとの不安が疑念に変わった。いわばお蝶は一味が放った密偵だったのか。

お蝶が真之亮と接触したのもそのためなのか。そうだとしたらお蝶は丸新の者たちが一連の事件を探索して、何を何処まで掴んでいるかを探るために来たことになる。真之亮たちの手の内のすべてを知って、再び拐しを装って古巣へ舞い戻ったのか。

 深川で段取りを整えた今夜の張り込みをどうすべきか。真之亮たちが摂津屋に網を張って待ち受けているとお蝶がしゃべれば、悪党一味は今夜の押し込みを取り止めるのではないか。そうした疑問が真之亮の脳裏に去来した。

しかし、そうだと考えるには無理がある。お蝶を真之亮たちの動向を探るために放ったとして、そのための猿芝居に長年奉公して来た若党の命を捨てさせるだろうか。いや、そのようなことを若党に強いるはずがない。そう推論して、真之亮は心の平衡を取り戻した。

今夜の張り込みを一味が知るのはお蝶が教えた時だけだ。しかし、そんなことは断じてない。今朝の膳を整えたお蝶の心の動きは嘘やまやかしではなかった。嬉しそうに古手屋で客の相手をしていたのは、決してその場を取り繕う芝居では出来ない。あれほどお蝶は古手屋の暮らしを喜び、今後も古手屋で働くことを楽しみにしていたではないか。

「肝煎に頼んで、香具師たちにお蝶の行方を聞いてもらっている」

 と、茂助が小さく呟くように言った。

 真之亮はハッとしたように顔を上げると、言葉よりも先に裏口を離れた。

「銀太、肝煎の家へ行くぜ」

と銀太に声をかけると、真之亮は土手道を同朋町へ向かった。

 水が高いところから低い方へ流れるように、真之亮はごく自然に考えの道筋をたどった。すると部屋にいた誰もが思いも寄らないある結論に思い到った。

逃げようと思えばお蝶なら逃げられたはずだ。掏摸としてあれほどの指技をもった者が手先の手をすり抜けるぐらいわけないだろう。もしもお蝶が自らの考えで囚われたのなら、肝煎たちがお蝶を探して下手に動かない方が良い。お蝶にはお蝶の考えがあってのことだろう。

 浅草御門の前を通り過ぎて柳原土手を広小路へ向かうと、神田川に貼りつくような細長い町割りの下柳原同朋町がある。肝煎の家は柳橋袂に建つ仕舞屋だった。

「邪魔するぜ。中村真之亮だ、肝煎はいるかい」

 腰高油障子を開けておとないを入れると、「へい」と奥から野太い返事があった。

 明かり障子を開けて出て来たのは肝煎その人だった。

「探索に出した若い者がまだけえって来ないンで、お蝶姐さんの行方はトント分からねえンですがね。まっどうぞ、どうぞ上って下せえ」

 上り口に畏まった甚十郎は申し分けなさそうに頭を下げた。

「いや、肝煎にはすっかり迷惑をかけちまって。だがお蝶のことは余り騒ぎ立てたくないンだ。行方を捜してもらっていて、こんなこといえた義理ではないンだが」

 真之亮は土間に立ったまま、甚十郎に頭を下げた。

 銀太は驚いたように「旦那」と真之亮を見上げた。早く捜してくれと催促に出掛けて来たと思ったが、いきなり捜さなくて良いという真之亮の真意を測り兼ねたように眉根を寄せた。

「捜すなってことですかい。拐された姐さんを」

 と、甚十郎は合点がゆかないように小首を傾げた。

「お蝶はあれほどの技量を持った女だ。逃げる気があれば自分で逃げて来るだろう」

 突き放したように言って、真之亮は甚十郎を見詰めた。

 真之亮の双眸は心なしか寂しそうだった。甚十郎は真之亮の心の底を覗き込むような眼差しで見上げた。

「分かりやした。若い者たちを引き上げさせましょう」

 甚十郎が応えると、真之亮は「勝手を申して相済まぬ」と頭を下げた。

 肝煎の家を出ると、真之亮は浅草御門へ足を向けた。

「旦那、何処へ行くンですかい」と、詰るように銀太が言った。

 甚十郎の前では黙っていたが、銀次にはお蝶を捜すなという真之亮の真意が分からなかった。てっきり一緒になってお蝶を捜しに行くものだと思っていた。

「弥平の家だ。お蝶が拐されたと知らせるンだ」

――当たり前だろう、と言うように真之亮は振り返った。

「肝煎には断ったのに、弥平にはお蝶姐さんを捜してくれって頼むンですかい」

 食い付くように、銀太は声を張り上げた。

 到底承服できないと頬を膨らませて鋭い眦で真之亮を睨んだ。

「お蝶が斬り殺されても良いのか。夜盗一味にとってお蝶が使い物にならないと分かれば、奴らは躊躇なくお蝶を斬り捨てるだろうぜ」

真之亮は銀太に一瞥すらくれることなく、ずんずんと大股に浅草御門へ向かった。

 平右衛門町も同じく神田川の北河岸に貼りついたような細長い町だ。真之亮は浅草御門を潜ると四辻を左へ曲がった。弥平の家は小体な表店で、路地に面した土間で女房が小間物を商っていた。

「御免、邪魔をする。親分は御在宅かな」

 開け放たれた店先に足を踏み入れて、真之亮はおとないを入れた。

 間もなく奥座敷に人の気配がして「誰でえ」と弥平のしわがれ声がした。障子を引き開けて顔を出し、店先の真之亮を見つけて「こりゃあ、どうも」と畏まった。

「お蝶が何者かに拐された。拙者たちに心当たりはなく、手分けして方々を探しているが、とりあえず親分に報せに来た。よろしく頼む」

 と、真之亮は弥平にお蝶の探索を依頼した。

「女掏摸が掏摸盗られたとは洒落にならねえが、放っておくわけにもいくまい」

 不承不承という体で「仕方ねえ、方々の自身番に声を掛けておこう」と言った。

 帰りの道々、銀太は真之亮に不満を洩らした。

「弥平みたいな碌に役にも立たねえ岡っ引に頼むなんざ、旦那の気が知れねえや」

 神田川の北河岸道、俗に左衛門河岸を歩きながら銀太が毒付いた。

「もしかして旦那はお蝶姐さんがいなくなって、本当のところじゃ厄介払い出来て安堵してるンじゃねえのか」

 そう言う銀太の声が涙に濡れていた。

真之亮は振り向いて「そうかも知れないな」と呟いた。

「今夜の一件が済むまでお蝶に事件のことは何一つ訊かないつもりだった。事件解決の手掛かりを訊くためにお蝶を連れ戻ったと思われたくなかったからだ。人と人の繋がりは損得や貸し借り勘定だけではない、とお蝶に知ってもらいたかった。お蝶もそのことは分かってくれたようだ。今朝、みんなのために旨い朝飯を作ってくれたぜ」

 そう言って真之亮が空を見上げると、銀太は鳴咽を洩らして拳で涙を拭った。

「銀太、お蝶は悪党たちから拙者たちの動きを見張るように言い含められて来たような気がするンだ。お蝶が拙者の前に現れたのは拙者が一連の事件のカラクリに気付いて、兄上に南町奉行所の事件綴を調べて頂いた直後だ。拙者はお蝶の篭手を捩じ上げて捕まえたが、今にして思えばお蝶ほどの腕前なら容易に逃げられたはずだ。今日も碌に剣術修行していない手先の一人や二人、お蝶の腕なら苦もなくやっつけられたはずだ。つまりお蝶は自分の考えがあって悪党一味の許へ戻ったンだ。しかし、だからといってお蝶が悪党の仲間だということではない」

 真之亮がそう言うと、銀太は腑に落ちたように肯いた。

 新シ橋を渡って古手屋へ戻ると、丸新は店を開けていた。真之亮と銀太は顔を見合わせて思わず駆けだした。店先には客が群がり若い女が客の相手をしていた。

「お良」と、真之亮は大声で叫んだ。

 白い上っ張りを脱いで藍千本縞の着物に赤前掛けを着けていた。紅襷で袖を上げて白い二の腕を見せて、お良は女客に渋茶の古着を見立てていた。真之亮に気付くと僅かに頭を下げ白い歯を見せて微笑んだ。

「商売は飽きないといって、何があってもお客様のいる限り店は開けるものだと叱られやした」照れくさそうに、茂助が真之亮に頭を掻いて見せた。

 銀太に店番を手伝わせて、真之亮は茂助と奥座敷に入った。安五郎は座敷で横になり、湿らせた手拭いで頬と額を冷やしていた。真之亮は肝煎にお蝶の探索を断り、弥平に頼んできたことを二人に告げた。怪訝そうな眼差しを向ける茂助に真之亮は眉根を寄せた。

「お蝶がいなくなって拙者たちが泡食って慌てている、ってことを弥平にイの一番に教えておかなけりゃならないンだ」

 真之亮がそう言って謎をかけると、茂助は訝しそうに眉根を寄せた。

 それを見て真之亮は浅く溜め息を付いて、かすかに笑みを浮かべた。当然、真之亮が脳裏に思い描いている悪党の頭の面影は茂助の脳裏にもいままで何度も去来しているはずだ。しかし、茂助は悪党の頭が八丁堀同心とは信じられない、というよりも信じたくないのだろう。人は長年の手先勤めで体の髄まで沁み込んだ思い込みや常識からそう簡単に解き放たれるものではない。

「茂助、まだ気付かないか。善吉が殺された折り、女と一緒に中肉中背の同心がいたというぜ。それに、春日屋の前で逃げる勘治を背後から袈裟に見事な刀筋で斬っている。先刻、お蝶を拐したのは四十過ぎの狡猾そうな目をした小柄な男と、三十前の屈強な男の二人連れで、手先ふうだったと安五郎は言ったぜ」

――それほどの剣の腕前を持ち安が見た年恰好の手先を従えている同心といえば茂助の知っている野郎じゃないか、と真之亮は目顔で言って顎をしゃくって見せた。

 視線を宙に泳がせていた茂助は「あっ」と声を上げた。

「まさかとは最前から思っていましたが。真さん、今度の一連の事件はお隣の旦那と手先たちが下手人だということなンで」

 と呟いて口を開けたまま、茂助は声を喪った。

「その通りだ。まだ確かな証左はないが貝原忠介殿は中肉中背、どちらかというと丸胴の細身だ。先代からいる徳蔵は四十過ぎの小さな三白眼が特徴だ。いま一人、忠介殿の代になって雇い入れた手先は相撲取崩れの伊作といって、喧嘩早い破落戸のような大男だぜ」

 真之亮が謎解きをして見せると、茂助は腑に落ちたのか深々と頷いた。

 貝原忠介が臨時廻から、いきなり定廻になったのが三年前。北町奉行所が未だに持て余している未解決事件が立て続けに起こったのも三年前からだ。

「それで真さんは弥平の家へ行き、お蝶が拐わかされたから探してもらえないかと頼んだってンですかい」

 と、先刻報せたことを、茂助はもう一度なぞった。

「そうだ。弥平は貝原忠介殿の使っている岡っ引だ。弥平まで悪党の仲間だとは思わないが、貝原の許へ駆け付けてお蝶が拐されて拙者たちが慌てている、と報せるだろうよ。すると、貝原は拙者が銀太と深川へ出掛けて今夜の手筈を整えてきたとは思わないはずだ」

 真之亮の言葉に茂助は得心がいったように頷いたが、すぐに不安そうな顔をした。

「しかし、お蝶が真さんと銀太が朝早くに深川へ出掛けたと、貝原の旦那に報せやしやせんかね」

 茂助の懸念は当然だが、真之亮は首を横に振った。

「お蝶ほどの腕のある掏摸なら、手先たちから逃げることは造作ないことだが、お蝶は捕まった。そこに拙者はお蝶の意図を感じるンだ。お蝶がケチな密偵のような役回りをするとは思えないし、ここは一つお蝶を信じてやろう」

 そう言って、真之亮は唇を噛み締めた。

 お蝶がなぜ町方同心の名を言わなかったのか。それは貝原が組屋敷の真之亮の家の隣に暮らし、昔から顔馴染の同心の名を告げたところで真之亮はお蝶の言葉を信じないと思ったからではないだろうか。直截的にそうした同心の名を伝えるよりも、真之亮と銀太が『野暮用』で出掛けたことから今夜の働きにお蝶なりに加勢しようと考えたのではないだろうか。穿ち過ぎた考えかもしれないが、真之亮にはそうとしか思えなかったし、そう思いたかった。

「お蝶と共に過ごす今朝のような暮らしがこれからも続くのかと思って、わしは心底嬉しかったンだがね」

 と、茂助は気落ちしたように呟いた。

 

 いつもの通り、夕刻になって古手屋は店を仕舞った。

 お良を八丁堀へ送って行く刻限になったが、真之亮はお良に深々と頭を下げた。

「今夜から松枝町に泊まってくれ。八丁堀の実家へは明日にも挨拶に行くが」

 順序が後先になる無礼は承知の上で、真之亮はお良に頼んだ。

「ご実家の方へは安を使いに走らせます。お良さん、是非ともそうしてやって下さいませんか」

 茂助も懇願するようにお良に頭を下げた。

 いよいよ困ったようにお良は真之亮を見詰めた。

 今夜、真之亮は捕物で深川へ出役する。戻るまで茂助たちと仕舞屋で待っていて欲しいと切実に思った。剣を交える相手が貝原忠介なら首尾良く勝てるかどうか疑わしい。もしかすると、命を落とすかもしれない。今夕だけはお良の見送りで仕舞屋を発ちたかった。

真之亮の言葉に戸惑っていたが、お良は明るい笑みを見せた。

「真之亮様がそうお望みなら」

 短くそう言って、お良は恥ずかしそうに俯いた。

 今夜の捕物をお良は知らない。真之亮が貝原忠介と剣を抜き合わせることになることを。八丁堀の町方与力同心の子弟の通う道場で、二十歳にして麒麟児と謳われた男だ。しかし、いかなる事態が深川で待ち受けているのかを語るのは無用のこととして、真之亮はお良に何も明かさなかった。

 仕舞屋へ五人で行くと、真之亮とお良が大家の薪炭屋へ挨拶に顔を出した。茂助の手配で町内の蕎麦屋に頼んで近所に引っ越し蕎麦を配った。仕舞屋で暮らすことになる真之亮とお良はもちろんのこと、銀太や安五郎までも揃って界隈に引っ越しの挨拶に廻った。深川へ出役することを町方役人に悟られないためにも、仕舞屋に全員が普通にいることを装っておく必要があった。

 日暮れて五人で引越し蕎麦の出前を取った。普通の引っ越し祝いならそれなりに酒も付き、華やかな話に花が咲くのだろうが、誰も軽口一つ言わず静かに引っ越しを祝った。

「拙者と銀太はこれから出役しなければならぬ」

 蕎麦を食べ終えると、真之亮はお良に言った。

「それは大変、大事なお役目なのですか」

 と聞いて、お良は真之亮を心配そうな眼差しで見詰めた。

 真之亮はお良に頷いた。そして何か言おうとしたが、真之亮は途中でやめた。

「必ず戻って参る。だからこの家で待っていてくれ」

 それだけ言うと、真之亮は意を決したように立ち上がった。

 真之亮に続いて銀太も立ち、買い揃えた草鞋を素足に履いて紐を足首で結んだ。

茂助がお良に火打石と火打鉄を手渡した。お良は両手に持った石塊と火打鉄を見て、それが何かを知ると真之亮の背に切火を打った。

 後ろ手に腰高油障子を閉めると、二人は元柳橋袂の船着場へ向かった。銀太の差し掛ける提灯の明かりを頼りに、まだ月の昇っていない暗い夜道を急いだ。

 馬喰町から横山町へと町割続きの通りを行くと、やがて道は旗本屋敷の武家割の地へと入る。静まり返った白壁の屋敷が途切れると目の前が急に開けて薬研堀に出た。そこが元柳橋袂の船着場だ。

「ちょいと深川富岡八幡宮の船着場まで遣ってくれねえか、酒手は弾むぜ」

 と、遊客のように銀太が船溜りの船頭に声をかけた。

 すると「こっちの船が行きやさ」と即座に若い船頭がこたえた。

 銀太が真之亮の足元を照らして、石段を下りて細い歩を辿った。猪牙船に乗込むと銀太が胴の間の筵に座り、真之亮は胴に渡した横板に座った。

 猪牙船は岸を離れるとほどなく元柳橋の下をくぐった。大川に出ると潮の匂いが鼻を突いた。海から寄せて来るうねりが加わり、猪牙船は舳先で川面を断割るように上下した。川風は思いの外冷たく、思わず袷の衣紋を掻き寄せた。

 大川を斜めに横切って油堀へ入るとうねりは消えて、猪牙船は滑るように掘割を進んだ。やがて大伽藍の富岡八幡宮の長い壁に到り、その途切れたところに口を開ける入堀へ舳を向けた。そして速度を緩めて入堀の船着場に漕ぎ寄せた。

 船着場から門前仲通に上ると、宵の口の盛り場は書き入れ時を迎えていた。

「旦那、さすがは深川の繁華街だけあって、かなりの賑わいですね」

 と、両側の軒下の掛行灯に火の入った通りに、銀太はうっとりとした。

 目の前を黒羽織を着た辰巳芸者が相仕とともに横切った。冬でも足袋を履かない素足に黒塗駒下駄の粋な姉さん方だ。門前仲町の料理茶屋の座敷に声がかかったのだろう。真之亮と銀太も塗り下駄の刻む音を追うように升平へ急いだ。

 升平の軒下行灯にも火が入り、昼間の無愛想な印象とはまるで違っていた。縄暖簾を掻き分けて油障子を引き開けると、天井から吊り下げられた八間の明かりに照らされた土間に客は六分の入りだった。

 待つほどもなく、板場の仕切りの長暖簾を掻き分けて辰蔵が顔を出した。辰蔵に続いて二十歳前後の下っ引の松吉も元気な足取りでやって来た。奥の壁際に真之亮と銀太を座らせると、その前に陣取り、

「若旦那、橋袂の茶店も押さえやしたし、永代橋下に釣り船を準備させておりやす。手筈はすっかり整えやした」と、辰蔵が低い声で言った。

 善吉の弔い合戦のつもりか、今夜の捕物に辰蔵は一段と力が入っているようだ。

「何から何まで世話になる。今夜は何がなんでも一味を捕らえなければならぬ」

 真之亮は辰蔵に礼を言って、茶を運んできたお正に挨拶をした。

 辰蔵は御用のことをお正に洩らしているのか、お正の顔が心なしか沈んでいた。

「親分、今夜の捕物をお正に話したのか、心配顔のようだったが」

「いや、何も話しちゃいねえ。が、女は勘働きするものですから、なんとなく分かるンでしょうよ。五ツ過ぎに船頭がここに来やす、そうしたら出掛けやしょう」

 それまで半刻ばかりあるが、待つしかない。酒を口にするわけにもいかず、大の男が四人雁首を並べて升平の片隅に陣取って、手持無沙汰に時を過ごした。

 八間の下では五人の印半纏を着た職人たちが声高に話し込んでいた。言葉の端々から界隈の岡場所で評判の女郎の品定めに盛り上がっているようだ。升平から二十間ばかり南へ行くと門前広小路が大島川で尽き、蓬莱橋を渡った向こう河岸には岡場所『アヒル』がある。他にも富ヶ岡八幡宮西隣の山本町は油堀端の裾継と、ほうぼうの岡場所の女たちの棚卸をするのに事欠かない。宵の口の升平はこれから岡場所へ繰りだそうという遊客で賑わっていた。

 五ツを半刻も過ぎた頃、船宿波萬の法被を着た小柄な男が升平に顔を出した。殺された善吉と同じ船宿の船頭で、善吉の弟分にあたる船頭で名を忠吉といった。辰蔵は立ち上がって「行きやしょう」と声をかけた。

 男たちは真之亮を先頭に一団となって、軒下行灯の消えた門前仲通りを永代橋袂へと急いだ。まだ、料理茶屋の黒板塀の内からは三弦の爪弾きや女の声音が聞こえていたが、広い通りに人影は疎らになり真之亮たちが門前仲通りを行くと、野良犬が尻尾を巻いて路地へ逃げ込んだ。

 橋袂の茶店は橋番小屋の並びにあって、板囲いに桧皮葺の粗末な床店だった。茶店の親爺が釜の火を落とさないでいてくれたため、茶店の中は暖かだった。釜場の蔀を細めに開けると、大川が眼下に見渡せた。松吉と銀太が交互に蔀にへばりついて監視し、真之亮と辰蔵それに忠吉の三人は釜場の狭い板の間に陣取って手炙りを囲んだ。

 夜盗の群れがいつ現れるのか、明かりを消した暗い茶店で彼らは辛抱強く待ち続けた。戸締まりをした茶店の蔀から眺める対岸はやや明かりを得た空の下、切り絵のように町並が黒い影となって横たわっている。おそらく対岸から眺める深川も黒い影となって、さながら一幅の切り絵のようだろう。やがて四ツの鐘が聞こえて、夜は厳しい冷え込みとともに更けていった。

 月がなければ漆黒の闇のように江戸の夜は暗い。待つほどに大川の対岸の箱崎沖に豆粒ほどの黒い影が現れた。黒い切り絵のシミのような影は大きさを増して、やがてそれは船の形となった。船には提灯の明かりすらなく、昇ったばかりの月明かりが漣でギヤマンを散りばめたような無数のきらめきとなって輝く大川に黒い航跡を曳いて佐賀町へとやって来た。それは猪牙船より一回り大きな荷船だった。

「ついに、あらわれたか」

 誰ともなく呟きが洩れて、男たちは光る双眸で月明かりの川面を見詰めた。

 茂助の読みがすばりと当たったことになる。切り米支給の初日に襲うとは誰も思わない。そうした裏をかいて悪党一味はやって来た。

 大川を横断した船は摂津屋の船着場に近づき、茶店の蔀の視角から消えた。

 真之亮と辰蔵それに銀太と船頭に松吉の五人が橋袂の石段を身軽に下りて、岸の石垣に身を貼りつかせた。昇ったばかりの月明かりに、五十間ほど離れた大川河岸に数名の人影が船から飛び移っているのがくっきりと見えた。その中にお蝶かと思える小柄な女が混じっていた。

お蝶は悪党に寝返ったかとの疑念が心に湧いたが、真之亮は即座に打ち消した。間もなく賊の一味は河岸から姿を消した。船は船頭一人を残して辺りは静かになった。賊の一味が乗ってきた船は向きを変えて、船頭が器用に船尾を河岸に着けて止めた。奪った千両箱を積み込み、速やかに逃げるにはその方が都合が良いだろう。

「そろそろ始めるとするか、段取りは先刻打ち合わせた通りだ」

真之亮が声をかけると、男たちは物音も立てず船に乗込んだ。

 忠吉は手慣れた櫓捌きで永代橋下から、夜釣りの客を乗せて船宿へ戻るようにのんびりと漕ぎ出した。船には釣り具はもちろんのこと、手炙りから貧乏徳利まで揃えてあった。辰蔵と真之亮が二人して船頭を雇って釣りに出た帰りを装って、銀太と松吉は船底に身を伏せた。

 真之亮は貧乏徳利の栓を抜くと、寒さ除けの粗莚に振り撒いた。そして自分の袷にも振り掛けてから、酒に酔ったようにだらしなく舷側に凭れかかった。

 潮の匂いの立ち込める大川は上げ潮を速め、忠吉がそれほど力を入れて漕がなくても釣り船は滑るように進んだ。真之亮は身を凭れさせかけたまま、摂津屋裏門の河岸に着けた船影を鋭い眼差しで見詰めた。

 賊一味が乗って来た船は猪牙船より一回り大きい。船頭一人が残りいつの間にか向きを変えて艫を河岸に着けて、いつでも逃げ出せる用意をしていた。真之亮の乗った船はいかにも早い夜釣りの帰りのように、遅い船足でゆらゆらと近づいた。艫に腰掛けていた船頭は近寄る釣り船を見つけると舳へ足早にやってきた。見るからに荷船の船頭でもしていそうな狂暴な顔付きの大柄な男だった。

「お―い、これから夜釣りかえ。どうだ寒さしのぎに一杯やらねえか」

 酔ったように、真之亮が船頭に声をかけた。

「こっちへ来るンじゃねえ。トットと立ち去れってンだ、この酔っ払いめ」

 船頭は怒ったように声を上げた。

 そして手にした棹で真之亮の座っている舷側を突こうと手荒に突いてきた。それを待ち構えていた真之亮は棹先が舷側に触れる寸前に素早く掬い取った。座ったまま手にした棹をいったん手元へ手繰るように力を入れて引き寄せ、船頭が負けずに引き戻そうと力を入れた瞬間を逃さず突き放した。すると、船頭は他愛なく後ろに倒れた。

船頭は船底に後頭部を打ち付けて呻き「この野郎」と声を上げた。

 その期を逃さず真之亮は船に飛び移り、船頭が身を起こして立ち上がる前に鳩尾に当身の一撃を見舞った。「ウッ」と船頭は呻いて船底に長くなった。

 だらしなく気を失った船頭に猿轡を噛ませて後高小手に縛り上げ、忠吉の操る船に移した。船頭は忠吉が少し上流の仙台堀に連れて行き、今川町の蕎麦屋に陣取っている鳶の親方に引き渡す手筈になっている。用心のため松吉も船に残り、忠吉と一緒に一味の船頭を乗せて漕ぎ上った。

 一味の乗って来た船には銀太が乗込み、手筈通りに捕縛した船頭の代役についた。真之亮と辰蔵は摂津屋の裏門に足音を消して近寄り、静かに門を押した。果たして閂は外されたままで、門はすっと開いた。真之亮と辰蔵は素早く屋敷内に身を入れて、音も立てずに門を閉じた。そしてすぐに塀に体を貼りつけて屋敷の様子を窺った。

 摂津屋米蔵屋敷は水を打ったように静まり返っていた。二反ほどの敷地の中に一棟の家を挟むように両側に二棟ずつ白漆喰の壮大な米蔵が建っている。家の前には納屋が立ち塞がり、勝手口は見通せなかった。米俵の搬入・搬出時にはその納屋に番頭が陣取って手代たちを差配し、帳付けをしているのだろう。真之亮と辰蔵は顔を見合わせると体を低くして納屋の壁まで十間ばかり走った。

 納屋の板壁に身を寄せて、頭を少し出して勝手口を窺った。納屋と勝手口の間に井桁と流し場があり、奥には後架があった。人の気配がないのを確かめると、真之亮と辰蔵は井桁の陰に身を移した。家の中からかすかに物音がしていた。が、争っているような気配はなく、全体に夜の静けさに包まれていた。

――皆殺しにしたのか、と不吉な予感が真之亮の心に湧いた。

 それでも当初の手筈通りに真之亮は井桁の陰に身を潜めて、賊一味が仕事を済ませて家から出るのを待った。摂津屋の者が縛り上げられているだけなら、下手に動けば人質にされる恐れがある。事件綴りで見た限りでは過去の事件では立ち向かった用心棒は斬り殺されたが、店の者は猿轡を噛まされて縛り上げられるだけで命までは奪っていない。とにかく、待つしかなかった。

 ほどなく、龕灯の明かりが勝手口横の蔀から洩れて足音が近づいて来た。それも一人や二人ではなく、囁き合う男たちの低い声までも聞こえて来た。

 真之亮と辰蔵は身を低くして井桁の陰に潜んだ。

 やがて勝手口に黒頭巾で顔を包んだ二本差しの男が姿を現した。傍には影のように小柄な女が高祖頭巾に顔を包んで付き従っていた。その姿形から女が誰か、は明らかだった。「お蝶」と真之亮は危うく声を出しそうになったが、かろうじて自制した。

 どうなっているのか、と考える暇もなく次々と顔を包んだ男たちが出て来た。二人一組で千両箱を抱えて、横歩きに井桁の前を通り過ぎた。

「早くしろ、もたもたするンじゃねえ」

 と、二本差しが勝手口に立ち止まって奥に声を放った。

 それは聞き覚えのある声だった。間違いなく貝原忠介の声だった。二組の男たちが行くと、更にもう一組の男たちが現れた。賊はそれだけかと思ったが、家の中から「待ってくれ」と声がした。四組目の男たちは二つの千両箱を積み重ねて持ち、その重さに足を取られてよろけるように勝手口を出て来た。

「千両箱一つにしておけと言っただろう。欲をかくと碌なことはねえぜ」

と、貝原忠介は男たちの背に怒声を浴びせた。

 それが最後だった。千両箱二つを積み重ねた男たちの後ろを貝原忠介とお蝶が並んで勝手口から離れた。そして真之亮と辰蔵が潜んでいる井桁の目の前を通り過ぎると、真之亮は井桁の陰から立ち上がり、貝原忠介の背後に歩み寄った。

「お待ち下され、貝原忠介殿。町方同心が夜盗を働くとは何事でござるか」

 真之亮は貝原忠介の背に声をかけた。

 貝原忠介は立ち止まると瞬時に腰を落として身体を回転させ、振り返りざま刃を払った。鋭い居合抜き撃ちに真之亮は飛び下がって貝原忠介の遣った白刃から間一髪で逃れた。だがそれを予見していたかのように、貝原忠介は更に踏み込んで車に回した刀を拝み斬りに真之亮の頭上へ振り落とした。真之亮は後退りながら抜き合わせた受け太刀で防いだが、鋭い打ち込みに構える間はなく頭上へ振り下ろされる貝原忠介の一撃を凌ぐのが精いっぱいだった。辛うじて額の一寸ばかり上で受け、白刃が激しく噛み合い、乾いた金属音と火花が散り鉄臭い匂いが鼻腔を突いた。

「当節評判の町道場の代師範の腕前とはいかほどのものか。剣戯と剣術の相違いを思い知らせてやる」

 そう言うと、貝原忠介は上から強く白刃を押し下げた。

 しかし、それは力任せに押し下げて斬るというものではない。上から押さえつけて斬るには体力に相当な差がない限り不可能だ。強く押し下げるのは貝原忠介が飛び下がって優位の体勢から次の攻撃に移るための動きだと察知し、真之亮は剣が軽くなる瞬間を逃さず飛び下がる貝原忠介の腰部を受太刀の姿勢からそのまま前へ倒れるように薙いだ。「ヒュッ」と空気が切り裂かれ刀風が湧いたが、貝原忠介も素早く身を退いてかわした。しかしそれで間合いが生じて真之亮は体勢を立て直すことができた。

正面に対峙すると瞬時にして真之亮は貝原忠介の並々ならざる力量を知った。腕は真之亮より僅かに上かも知れない。貝原忠介は不敵な笑みを浮かべて、正眼から徐々に剣先を上げて上段に大きく構えると全身から圧倒する殺気が押し包んできた。摺足でじりじりと間合いを詰めながら八層の構えを取った。当然のことながら、貝原忠介の胴はがら空きになった。抜き胴を使うならいまだ、と逸る気持ちと同時に躊躇させるものがあった。その構えは余りにも無防備で真之亮に抜き胴を使わせる誘いのように見えた。何かある、と真之亮は迅速の抜き胴を使うのを躊躇った。

その間にも貝原忠介の刀が直立し間合いが詰まって足が止まった。来ると思った刹那、黒い影が貝原忠介目掛けて飛鳥のように視野を横切った。その影は鋭い嘴を突き立てるように貝原忠介の右脇腹に飛び込んだ。まさしく匕首の一撃は貝原忠介の肝ノ臓を刺し貫いたかに見えた、が貝原忠介は「この雌狐め」と怒りに満ちた声を発して右肘で顔面を撃ちつけた。そして右手一本で白刃を車に回して逃げようとした影の首の付け根に叩きつけた。後ろ袈裟に一撃を受けて影は腰が砕けたように倒れた。

真之亮は「お蝶」と思わず叫んだ。悲鳴一つ上げずに昏倒し、お蝶は死んだように動かなかった。右手から匕首が落ちて地面に転がった。

お蝶が昏倒するや、真之亮は刀を引き寄せて地面を蹴った。真之亮は機を逃さず踏み込み抜き胴ではなく、飛び上がり体ごと頭上に刀を叩きつける上段斬りを放った。

必殺の刃は刃音を立てて上段から振り下ろされ、貝原忠介は片手袈裟を使って崩れた体勢のまま刀を振り翳して逆手に受けた。甲高い刃と刃が噛み合う音が響いたが、右手一本の貝原忠介は鋭い真之亮の撃ち込みを受けきれず、必殺の上段斬りを側頭に浴びた。その強烈な一撃は耳朶を飛ばし、右側頭から一直線に顎を砕き首筋を断ち裂いた。貝原忠介は頚動脈から血飛沫を撒き散らして棒杭のように後ろに倒れた。

 一瞬の出来事に賊一味は千両箱を投げ出し一目散に裏門へ殺到したが、たちまち大勢の鳶人足が手に手に得物を持って屋敷に雪崩れ込むのを見て踏み止まった。

「御用だ、御用だ。神妙にしやがれ」

 と、叫び声が屋敷の内外に飛び交い、南町奉行所の高張り提灯が掲げられた。

 火消人足の半纏を着た若い衆が刺又や袖絡なとを手に賊一味を取り囲むと、匕首を抜いて身構えた男たちは戦意が萎えたように立ち竦んだ。南町奉行所の者も出張っているのか、捕方の装束に身を包んだ役人の姿もあった。

 真之亮は血振りをすると差料を鞘に戻して貝原忠介に近づいた。貝原忠介は血を大量に失ってぴくりとも動かず、すでに絶命していた。お蝶が貝原忠介の肝ノ臓を目掛けて匕首で体当たりしてくれなかったら、地面に横たわっているのは自分だった。真之亮はそう思うと背筋に悪寒が走った。

 人は匕首で肝ノ臓を刺し貫かれると二呼吸する間もなく絶命する。しかし貝原忠介はお蝶に匕首ごとの体当たりを受けても致命傷どころか掠り傷すら負わなかった。着物の下に鎖帷子を着込んでいたのだ。それを知らなかったら真之亮は間違いなく得意技の抜き胴を遣って、返し技の後袈裟に斬られていただろう。鎖帷子に抜き胴は通用しない。いわばお蝶が命に代えて真之亮に教えてくれたのだ。

 倒れた貝原忠介の首筋に手を当てて絶命を確かめると、真之亮はお蝶の傍へ近寄った。片手袈裟懸けだったため即死は免れたが、背骨まで断たれたお蝶は虫の息だった。大きく肩で息をして、顔色は蝋のように白かった。膝を折ってお蝶の上半身を抱き起こすと、真之亮の腕の中でかすかに目を開けた。

「しくじっちまったよ、鎖帷子を着込んでいたとは飛んだ卑怯者さ。だけど土壇場に据えられた身だ、悔いはない。言うことを聞けば命を助けてやると持ち掛けられたけど、甘い話なんてこの世にありゃしないンだ。わっちは掏摸の道から外れて三人も手にかけちまったから、勘治があの世で怒ってら」

 そこまで言って言葉を切り、お蝶は苦しそうに唾を呑み込んだ。

「もう良い。お蝶、しゃべるンじゃない。命に障る」

 真之亮はやさしくお蝶に話し掛けた。

「フン、助からねえってことぐらい分かってら。銀公と安を頼んだよ。茂助の親爺にゃわずかでも堅気の暮らしを味わせてくれて有り難かった、と」

 不意にお蝶の言葉がもつれて、意識が遠のいたように言葉が途切れた。

 バタバタと銀太が駆けて来た。真之亮が抱き起しているお蝶の肩に手を置いて「姐さん」と叫んだ。

「何があったンだ。旦那、姐さんに何があったンだ」

 銀太は涙をこぼしてお蝶の顔を覗き込んだ。

「姐さん、死んじゃだめだ。一緒に古手屋をやると言ったじゃねえか」

 銀太が呼び掛けると、お蝶は細く目を開けて銀太を見た。

「銀公うるさいよ。静かに逝かせておくれ。色男に抱かれて夢見心地なンだからさ」

 そう言うとぴくりと睫を動かして、お蝶はそれきり息をしなくなった。

 真之亮はお蝶を銀太の手に任せると、辰蔵を伴って勝手口から家の中へ入った。

 草鞋を履いたまま廊下に上がると、たちまち生臭い血の匂いが鼻を突いた。台所から賄部屋を抜けて座敷に向かうと襖が外れて廊下に倒れていた。そこに差料を半分抜いただけの浪人者が袈裟に左肩から胸乳まで斬り下げられ命を絶たれていた。襖を踏み越えて奥へ進と、廊下に斬られて右手を失い腹を撫で斬られた浪人者の骸が横たわっていた。真之亮と辰蔵は顔を見合わせて明かりの見える店表へと足を速めた。

 店座敷には番頭と三人の手代、それに二人の小僧が猿轡を噛まされ、蝦責めのように縛り上げられて板の間に転がされていた。そして、板の間には大量の明かり油が撒かれ、真ん中に一本の短い蝋燭が立ててあった。それは四半刻もすると蝋燭の火が板の間に撒かれた油に燃え移り、摂津屋の米蔵店が燃え上がるという細工だ。真之亮は短い蝋燭を拾い上げると行灯に火を移し、差料を抜いて縛っていた細引きを切った。

「店の者は大丈夫か、用心棒は浪人者の二人だけか」

 真之亮が訊くと、番頭が「そうです」とこたえた。

「お金は、お金は大丈夫でしょうか」年嵩の手代が辰蔵に聞いた。

「盗賊一味はすべて捕らえたから、心配するな」

 辰蔵はそう言うと、真之亮に物言いたそうな眼差しで見上げた。

 辰蔵の杞憂は真之亮にも通じた。それは貝原忠介の骸だ。盗賊の一味を実は南町奉行所同心が率いていたと、世間に晒すわけにはいかない。

 廊下を取って返すと、真之亮は貝原忠介の骸に近づいた。そして、血溜りの中に沈んでいる貝原忠介の懐に手を入れた。十手の房が血を吸って粘りっこく手に絡まった。人に見られないようにそれを抜き取ると、懐紙に包んで懐に入れた。

 貝原忠介は世間に病死と報告されるだろう。そのためにも貝原忠介の骸は別に運ばなければならない。大柄な辰蔵が摂津屋の戸板を二枚外して軽々と持って来た。

「貝原の旦那だけじゃなく、そのお姐さんも運んでやりましょう」

 辰蔵がそう言うと、銀太は言葉もなく涙を流した。

「ご苦労だった、真の字。お主の睨んだ通りだったな」

 その声に顔を上げると、同心の出役装束に身を固めた遠山景元の姿があった。

「せっかく立てた手柄だが、一切他言は無用だ。今度の事件を洗い浚い明るみに出すと南町奉行所の権威は失墜する。権威の失せた町奉行所の指図に誰も従わなくなる、分かるな。今夜の事件は前科者が徒党を組んで凶行に及んだものだとするしかない。南町奉行所の者が関与していたとは間違っても気取られちゃならねえンだ」

 そう言うと、遠山景元の配下の者に貝原忠介とお蝶の骸を運ぶように命じた。

「お奉行、あの女の骸をわれらに下げ渡して頂けないでしょうか」

 運ばれて行く戸板のお蝶を見て、真之亮は遠山景元に願い出た。

 お蝶の葬式を自分たちの手で出してやりたいと願うのは真之亮だけではない。銀太も挑むような眼差しで遠山景元の顔を見詰めた。しかし、遠山景元は厳しい面持ちをして首を横に振った。

「むごいようだが、それは出来ねえ。お蝶は品川宿にて掏摸を働いたところを貝原忠介に捕らえられた。都合、四度目のお縄だ。貝原忠介は土壇場へ引き出すのを先延ばしにしてやるから言うことを聞けとお蝶に持ち掛けて、女囚獄へ送らず春日屋の座敷牢に閉じ込めて自分たちの私事に使っていたようだ。お縄にした女掏摸が四度目のお縄だと吟味方が確認した上で、その女囚を勝手に囚獄から連れ去るという不祥事に、奉行所の誰が関わっていたかは追々明白になるだろう。お蝶の骸は南町奉行所の手続きを正式に復すために入用だ。四度目の咎により女掏摸を土壇場に引き出して首を刎ねた、とする始末書を作らなければ辻褄が合わねえことになる。そうするのが江戸の安寧を守るということだ、分かってくれ」

 遠山景元の言葉に、真之亮と銀太は肩を落とした。

 御定法を曲げることは出来ないといわれれば、それに抗うことはできない。真之亮は粗莚を掛けられて運び去られるお蝶に向かって両掌を合わせた。銀太もそれにならった。真之亮は懐に仕舞っていた貝原忠介の十手を取り出し、懐紙に包んだまま遠山景元に手渡した。「貝原殿の十手です」と言うと、遠山景元は目顔で頷いた。

「なかなかに見所のある男だったが、貝原も悪党の手駒の一つに過ぎない。巨悪はまだ南町奉行所に鳴りを潜めて巣食っている。真の字にはこれからもしっかりと働いてもらうぜ」

 そう言うと、遠山景元はふっと力を抜いて寂しそうに微笑んだ。

 くだけた様子に戻った遠山景元に頭を下げて、戸板を運ぶ下役人の一団から離れた。六人もの盗賊を一網打尽にお縄にして、屋敷の裏庭はお祭り騒ぎのようになっていた。その中を真之亮と銀太は首をうなだれて河岸へと足を運んだ。辰蔵と親方が心配顔で駆け寄った。

「旦那、どうかしなさったンで」

 佐平が嬉しそうな笑みを消して、真之亮の顔を覗き込んだ。

「いや、何でもない。今夜は辰蔵や親方の働きで盗賊を一網打尽に捕らえることが出来た。心からお礼を申す」

 真之亮は佐平に深々と頭を下げて、辰蔵に「後日、伺うよ」と声を掛けた。

 真之亮は銀太と連れ立って裏門を出ると、仙台堀へ足を向けた。

「若旦那、松枝町へ帰るのなら元柳橋まで忠吉に送らせてもらいますぜ」

 辰蔵が後を追って来て、真之亮に声を掛けた。

「ああ船に乗って帰ろうと思っていたところだ。しかし、考えてみるとこの刻限だ。真夜中に船頭が船溜りにいるとも思えない。そうしてもらえると有り難いな」

 真之亮と銀太は忠吉の船に揺られて、元柳橋の船着場へ向かった。

 

 真夜中の大川に靄のような川霧が流れていた。

 真之亮と銀太は氷水のような川風に首を襟に埋めた。

 これから暖かくなるのだろうが、季節は踊り場でせめぎあっているようだ。

 船を下りると忠吉に礼を言って、半欠けの月明かりを頼りに河岸へ上った。

 家の建て込んだ通りには辻番小屋や木戸番があるため、面倒を避けて真之亮は広小路へ出た。松枝町へ戻るには柳原土手を和泉橋の手前まで行き、横大工町代地の角から南へ下れば良い。しかし柳原土手に上ったついでに、新シ橋手前の丸新に寄って茂助に今夜の首尾を話しておこうかと足を向けた。

 銀太と連れ立って欠けた月の頼りない明かりの下、広いだけの寂しい広小路を歩いた。かすかに人の気配はするものの、それは闇に潜む夜鷹とその客たちのもののようだ。昼間はあれほどの雑踏で賑わう広小路がうらぶれた廃虚かと見紛うほど、まるで違った顔をしていた。

 真之亮は胸騒ぎを覚えて柳原土手の丸新へ急いだ。

 大柄な真之亮が柄頭を抑えて足早に大股で歩くと銀太は小走りに後をついてきた。

 もはや深更、何かあったとしても既に手後れだがと嫌な予感に胸が騒いだ。土手の古手屋の並びに丸新が見えて来たが、辺りに人の気配はしなかった。真之亮は鯉口を切り、裏口へ廻った。コツコツと木戸を小さく叩いたが返答はなかった。

 隠し落とし鉄を引き抜いて、真之亮は裏口を開けた。

 人がいないことは気配で分かっていたが、ただ荒らされた痕跡がないか自分の目で確かめたかった。

「旦那、親爺さんたちも松枝町に泊まったンじゃねえですかい」

 真之亮の背後から背越しに座敷の暗がりに目を遣って、銀太が呟いた。

 仕舞屋で変事があったと考えるのは思い過ごしか、と真之亮は戸を閉じて落とし鉄を挿した。裏口から土手道へ出ると、新シ橋の前を通って横大工町代地の角から左に折れて町割の通りへと入った。

 土手道を離れて横大工町代地へ入って間もなく、顔を前に向けたまま銀太が真之亮の脇腹をついた。真之亮は小さく頷くと、阿吽の呼吸で次の四つ辻を右へ曲がった。そこは通りが四方を囲んだ町割だった。角を曲がると二人は脱兎のように駆けた。幸い雪駄ではなく草鞋を履いているため、足音はほとんどしない。辻々で右へ右へと曲がると元の通りに出る。

 三回曲がって元の通りに出て辻に目を遣ると、小柄な男が軒下の陰に姿を隠すように佇んでいた。十五間ばかり離れているが、真之亮と銀太が後ろに回ったのに気付かないとは随分と間抜けな付馬だ。真之亮と銀太は軒下を拾って影のように近づいた。あと二間ばかりまで近づいた時、男は背後に迫る真之亮たちに気付いた。驚いたように後ろを振り返ると、小柄な男の顔の輪郭が暗闇に浮かんだ。

「徳蔵じゃないか。なにしてるンだ」

 真之亮が声を掛けると、徳蔵は慌てて身を翻して逃げだした。

「この野郎」と叫んで駆けだそうとした銀太を「やめろ」と真之亮は制した。

「あの野郎は丸新を出た時から、おいらたちをつけていたンですぜ。半次が殺された時にも貝原と一緒に湯島にいたンだ、善吉が殺された時にも……」

悔しそうに言って、銀太は弁慶橋を渡って闇に消えた彼方を見詰めた。

「刻限になっても貝原殿もお蝶も帰ってこないため、心配になって柳原土手まで俺たちの様子を探りに来たンだろう。夜が明ければ徳蔵も自分の末路を知ることになる」

 そう言って、真之亮は銀太の肩に手を置いた。

 松枝町の仕舞屋の油障子に中の明かりが橙色に頼りなく透けていた。真之亮が桟を叩くと、女の声がして支っていた心張り棒を外す音がした。

「いま帰った、寝ずに待っていてくれたのか」

 お良の顔を目にして、真之亮は笑みを浮かべた。

「ご無事で何よりです。少しばかり血が匂いますが。あっ、額にたくさんの小さな傷が」

 お良の言葉に額に手をやり、チクチクと刺すような痛みを覚えた。

 貝原忠介の強烈な袈裟斬りを受けた時に刃が噛み合い、刃金の破片が無数に飛び散って額に突き刺さったものだ。激しい打込みだったと、思い出しただけでも背筋に悪寒が走った。

 真之亮と銀太は上り框に腰を下ろして草鞋を解いた。

「茂助たちは家にいるのか」

 と、何よりも先に真之亮は心にかかることを聞いた。

「ええ、つい先ほどまで真之介様と銀太さんが帰るまで寝ずに待っているンだ、とおっしゃっておられましたが」

 と言って、お良は微笑を頬に浮かべて居間の障子に目をやった。

 まさかとは思ったが、茂助と安五郎に変事がなくてよかったと真之亮は安堵した。お良が持ってきた足盥で足を洗った。

「ご無事にお帰りで、何よりでやす」

 後ろの明かり障子を開けて、茂助が声を掛けてきた。

 真之亮は笑みを見せて、差料を鞘ごと抜いて部屋へ上がった。

「貝原忠介殿が一味の頭目として指図していたよ」

 そう言いながら長火鉢を前に座ると、お良が熱い茶を淹れてきた。

「お蝶姐さんが……」と、銀太が言い掛けて言葉をなくして大粒の涙をこぼした。

「貝原殿と連れ立ってお蝶が摂津屋にあらわれたンだ。しかし、お蝶は我らの動きを何も教えていなかったようだ。それどころか、お蝶が捨て身で貝原殿に匕首を突き立てて拙者の命を救ってくれた。しかしお蝶は貝原殿が鎖帷子を着物の下に着込んでいたので反対に斬られてしまった。だがそのことにより拙者は鎖帷子を着込んでいると知った。下に着込んだ鎖帷子を知らなかったら、間違いなく立ち会っている最中に得意の抜き胴を遣って、返り討ちにあっていただろうからな」

――抜き胴は捨て身の大技だ。決まらなければ無防備の背後から後袈裟に斬られる。

 お良は話が呑み込めない様子で、「お話の中の貝原様とは八丁堀同心の貝原忠介様のことですか」と訊いた。

「いかにも、中村の隣の貝原忠介殿だ。帰る途中に丸新の様子を窺っていた男に後をつけられた。お良も知っているだろう、貝原殿の手先の徳蔵だ」

 真之亮の返答にお良は驚いたように目を見張り、行燈の明かりに映し出された真之亮の月代から額にかけて点々と浮かぶ瘡蓋に目をやった。

「それでは、その頭から額にかけてのたくさんの細かい傷は」

 お良には何のことだか判じかねることばかりだろう。真之亮はすべてを話せないことに苛立ちながらも、事実だけを小出しに話した。

「貝原殿の厳しい打込みを躱せず、受け太刀を遣ってしまった。その際、噛み合った差料同士の刃金が飛び散って突き刺さったものだ。拙者の差料も刀研ぎへ出して手入れしなければ、おそらく鋸のようになっているだろう」

 そう言って、腰から鞘ごと抜いた差料に目を落とした。

「行燈の明かりでは心許ないゆえ、傷の鉄片は夜が明けてから毛抜きで取って差し上げましょう」

 お良がそう言うと、真之亮は恥ずかしそうに俯いた。

「ところで旦那、南町奉行所からは誰か出張って来やしたか」

 茂助は茂助なりに真之亮の身を案じた。お役目とはいえ真之亮は定廻同心を斬ったのだから、お役目上の仕儀と証言する生き証人がいなければ面倒なことになる。

「ああ、有難いことにお奉行が同心の出役装束で役宅の者を差配していたぜ」

 茂助の危惧に応えるように、真之亮は抑揚を抑えて言った。

「ええっ、お奉行の遠山景元様が直々にですかい」

 目を剥いて、茂助は驚嘆の声を上げた。

 時代が変わったのだ。これまでは捕物の修羅場にお奉行が出向くことはなかった。定廻与力ですら滅多に出役することはない。お奉行が出張ったと知ったら、今後の捕物に与力が出役しないわけにはいかないことになるだろう。

 縦社会の悪いところは上役におもねるあまり、下役がお膳立てから後始末まですべてしてしまい、ついには上役が実態を知らなくなることだ。上がって来る書面に目を通すだけなら、その上役は必要ないことになる。が、それ以上に罪悪なのは自分が必要ないとされたことにすら気付かない上役が要職に居座り続けて、現場と上層部との間で意志の疎通を欠くことだ。

「お蝶は可哀相だったが、すべては運命と思わねばなるまい」

 真之亮がそう言うと安五郎は頑是ない子供のように声をあげて泣き、銀太は黙って唇を噛んで涙を流した。

「毎日が土壇場に座っているようなものだとお蝶は言っていたが、できることなら老い先短いわしが代わってやりたかった。古着を商ってあれほど喜んでいたのに」

 茂助も首を垂れて、深く溜め息をついた。

 昨夜のこと、お蝶もこの家に泊まった。今朝はお蝶が蜆汁を作り熱い飯を炊いてみんなで朝餉を摂った。死とは残酷なものだ。もはや永遠に、あの小意地を宿した婀娜な眼差しとは逢えない。真之亮も瞑目してお蝶を偲んだ。

 人の命は明日をも知れない。人はすべて土壇場に座って地面の穴の上に首を差し出しているようなものだ。それが厳然とした避けようのない現実だが、普通に暮らしている人々は土壇場なぞとは縁がないと思っている。実際に土壇場に引き出され死の淵を覗いた者の慄きと絶望とは無縁な日々を送っている。自分の死がいつ訪れるとも分からないからこそ、人々は平穏な毎日を送っているのかも知れない。

 その夜、茂助と安五郎も銀太と一緒に仕舞屋の二階に泊まった。お良と真之亮は一階の奥の寝室で一つ夜具に包まった。言葉を交わすこともなく、二人は深い闇の中で秘かに抱き合った。


深川たそがれ河岸

深川たそがれ河岸

沖田 秀仁

「あれっ」と悲鳴を上げる間もなく、大きく体が泳いだ。

前へ踏み出した左足が不意に滑って、一瞬にして目の前が真っ暗になった。

忙しなく駒下駄を鳴らして歩いてはいたが、小走りに急いでいたわけではない。

確かにおけいの歩き方は普通の娘と比べれば早足だが、脇目も振らず右手て前褄を抑えて前屈みにさっさと歩くのはいつもの歩き方だ。道も特別に滑りやすい道ではない、勝手知った油堀西横川に沿った河岸道だ。しかも歩き慣れたお気に入りの薄紅の緒の駒下駄を履いている。だから滑るかも知れない、との「用心」は心のどこにもなかった。

おけいは悲鳴も上げず、ただただ前へ流れる左足を引き戻そうと力を入れた。うら若い乙女が天下の往来で大股開きになってなるものか。おけいは歯を喰いしばって左足を踏ん張ろうとしたが、更にズズッと左足が前へ流れて黄八丈の裾が肌蹴けた。このままでは両足を春霞の空へ突き上げて尻餅をつき、赤い蹴出どころかその奥までも人目に曝しかねない。肝が冷え死ぬほどの恐怖が四尺七寸の全身を駆け巡った。

おけいは両脚に満身の力を込めて踏ん張った。やっとの思いで左手を地面に突いただけで何とかひっくり返らずに済んだ。みっともなく尻餅を搗かなかったのは幸いだったが、踏ん張った拍子にお気に入りの桜色の鼻緒が切れてしまった。足に馴染んで履き心地が良い加減に緩んだ鼻緒だったのに、と地面に転がった駒下駄を恨めしそうに見詰めた。

片手をついたまま眉根を寄せて下駄を拾うと辺りを見回した。足が滑ったのはなぜかと眼差しを険しくするまでもなく、鼻緒の切れた下駄の傍の小枝が目に飛び込んできた。

忌々しさに眉根を寄せ、おけいは小枝を手にして立ち上がった。その木切れをまだ桜の花便りの来ない春浅い空に透かして凝視した。

小指ほどの径で長さは五寸ばかりか。踏みつけられ駒下駄の歯で押し潰され転がされたために、所々木皮が剥がれ砂粒がめり込んでいる。小枝にびっしりとついている芽は小さく固いままだ。すぐに堀割の岸に茂っているネコヤナギの小枝だと分かったが、折っただけではなく枝先が笹掻き牛蒡のように削がれて、槍の穂先のように尖っている。それは一目見ただけで誰かが削った痕だと分かるものだった。

朝きた時には転がっていなかったはずだが、とおけいは記憶を手繰った。

おけいが転びそうになった場所は片側町の表店の並ぶ河岸道の煙草を商う『的屋』の前だ。『的屋』の右隣りの角地に煮売屋があって、おけいが向かっている佐平店はこの片側表店の裏にあった。今朝のこと兄の嘉吉へお駒さんが変死したとの報せを耳にして、嘉吉の後を追うようにして野次馬でごった返すこの加賀町の河岸道のこの辺りまで来たのだが。

ふと小首を傾げたが、今はそうした記憶を詮索する暇はない。なにはさておき、切れてしまった鼻緒を何とかしなければならない。片足でケンケン飛びにすぐ傍の土手の石段脇へ行き、荷卸し石に腰を下ろした。荷卸し石とは船に荷を積むために河岸道から船着場の石段を下りる前に、人足が背に負って運んできた荷を下ろして一息つくために置かれている。何十年も使われてきた荷卸し石の上面は平らで滑らかだ。しかも腰の高さより少しばかり低くめで、おけいが腰を下ろすのに持って来いだった。

黄表紙本の物語ではこんな時にはどこからか粋な色男が現れて、懐から取り出した真新しい豆絞りを惜しげもなく「ピッ」と白い糸切歯で裂き、器用に手首を返して撚りをかけサッと挿げ替えてくれるものだ。憧れにも似た情景を心に思い描いて顔を赤らめたが、目の前に現れたのは角の煮売屋の店先でいつも店番をしている腰の曲がった老婆だった。

「敵討へでも行くように前のめりで歩くから、犬も歩けば小枝に躓いちまうのさ」

 と憎まれ口を叩きながらやって来ると、懐から襤褸手拭を取り出し造作なく手で裂いた。

「嘉平ンとこの娘だな。さっき若親分が下っ引を連れてそこの長屋の三尺路地へ入って行ったが、まだお駒の件はケリがついてないのかえ」

 おけいの隣に座って鼻緒を挿げ替えながら、老婆は興味深そうに聞いた。

 おけいの父親は嘉平といって界隈の岡っ引を長年勤めていた。不惑を前に突如として色香に迷い、自分の齢の半分ほどしかない界隈の小町と評判だった小間物屋の末娘に惚れ込んだ。もちろん娘の父親と嘉平はそれほど年が離れているわけでもなく、一悶着も二悶着もあった挙句に晴れて所帯を持つことができた。そして四年前、還暦を迎えたのを機に縄張りをさっさと倅の嘉吉に譲って隠居してしまった。嘉吉とおけいは嘉平が遅くにもうけた兄妹だった。

「わっちは、幼馴染のお軽に頼まれて姉の家の様子を見に行くだけさ。御用のことは知らないけど、どうしてお婆さんはお駒さんの件にケリがついていないと、」

 と最初は恍けていたが、「ケリ」という言葉に言い淀んで、おけいは老婆を見た。

 ケリがついていないとはどういうことなのだろうか、とおけいは怪訝そうに眉根を寄せた。やはりお軽の言っていたことは本当なのだろうか、と幼馴染の言葉を思い返した。

どうやら自害ということで決着がつきそうだ、と昼餉に戻った嘉吉が父に話していた。何気なく父たちの話を聞きながら昼餉の後片付けをして、瀬戸物を笊に入れて井戸端へ持っていった。釣瓶で水を汲み上げて洗っていると、裏路地一筋隔てた隣町からお軽は半町ばかりの道のりを松村町の家へやって来た。そして井戸端のおけいを見つけると、

「姉は自害なんかじゃない、誰かに殺されたンだ。姉を殺した下手人をお縄にして、無念を晴らして」

と、泣きながら訴えた。

――これから祝言も挙げると喜んでいたのに自害なぞするはずがない、と。

 幼馴染に頼まれて「わっちは知らないよ」とか「御上の御用にわっちがとやかく言うことは出来ない」などと薄情なことはいえないタチだ。口を真一文字に結んで「任せといて」と胸を叩いたが、果たしてどうしたものか。

嘉吉は自害でカタが付きそうだといっていたが、妹のお軽は金輪際そうではないと言い張る。なぜお駒は死んで仕舞ったのか、とお軽の言葉を聞きながら初めて出会った頃の銀杏返し髷に結ったお駒の大人びた面影を思い浮かべた。おけいはかれこれ七年ばかりも前からお駒を知っていた。その切っ掛けはおけいが通っている近所の手習指南所へお軽も通い始めたからだった。

お軽は人見知りの強い子で、手習指南所へ行くのを嫌がっていたようだ。姉のお駒がお軽の手を引いて路地裏の隣町から行燈建のおけいの家の前までやって来ると、待ち合わせていたおけいに「お願いね」と微笑んで小さく頭を下げた。気後れしておけいが黙ったまま頷くとお駒はニコリと微笑んだ。稚児髷のお軽とおけいの二人が町内の手習指南所へ行くのを見送ってから、お駒は三味線の入った箱を小脇に抱えて門前仲町の師匠の許へと稽古に行くのを日課にしていた。そうした日々が三年近く続いた。

今にして思えば七年前のお駒は今のおけいよりも二歳ほど年下だったことになる。手習指南所へ通い始めた小娘にさえ、わずか十五にして色香を感じさせるお駒の大人びた風情は心ときめかすものがあった。その匂い立つような色香は生まれついてのものだったのだろうか。「がさつでいけねえ」と家で耳に胼胝ができるほど言われているおけいにはうらやましい限りだった。

 そのお駒もかれこれ二十と二、三の齢になっていたはずだ、とおけいは感慨に耽った。誰しも一年に一歳ずつ齢を取る。妙齢の娘もいつしか大人の女となるのが世の常だ。

 昼下がりの油堀西横川に江戸湾から遡上する上げ潮に乗って荷船が入って来た。深川の町は潮の満ち引きによって町中の潮の匂いも満ち退きした。幅が十間ばかりの狭い大島川から満ち潮に乗って江戸湾から深川へ入り、南北に走る油堀西横河を通って東西に走る大運河の油堀に出て木場へ材木を運ぶのだろう。船頭の操る棹先から水滴が大輪の花が開くように掘割に広がった。それを汐におけいは挿げ替えてもらった駒下駄を足元に置いた。

「若いってことは道に迷うってことさ。もっとも迷うのは男女を問わないが、バカな世迷い男は始末に負えないからね。浮気者は自分が惚れた女も浮気者だと疑うものなのさ」

 と言ってから、老婆は残り少ない乱杭歯を見せてニッと笑った。

 おけいは駒下駄に足を置くと荷卸し石から腰を上げた。きつめの鼻緒にしっかりと親指を通してから、愛らしい笑みを浮かべて挿げ替えてもらった礼を言った。そして足早に佐平店へと向かった。

長屋へ嘉吉が行っているのならお駒の家を見せてもらう願ってもない機会だ。お軽はお駒が自害するはずはないと言っていたし、煮売屋の老婆は言外にお駒の惚れたカラクリ師は世迷い男だと言っていた。それがどういう意味なのか判然としないが、嘉吉に聞けば解るに違いない。

ふと、おけいは歩きながら小首を傾げた。やはり、いつもとどこか違っている。この道は角の煮売屋への行き帰りにいつも通る片側町の河岸道だ。今朝もここに来たばかりだ。こけそうになったのは煙草を商う『的屋』という屋号の店の前だ。

『的屋』の主人は藪七という香具師あがりのため、界隈の人は店の名を「まとや」と呼ばず「てきや」と呼んでいた。藪七に女房子供はいないが煙管の修理や羅宇を蒸気で掃除する「羅宇屋」もやっているせいか、得体のしれない若い男がいつも店先を出入りしている。六十に近く枯れ木のように痩せ細っているが、かつては所の奉納相撲で三役を張ったこともあるという。

香具師をやっていた頃の名残りか、的屋の前はいつも舐めたようにきれいに掃き清められていた。店の前を通る者が紙屑でも落とそうものなら奥から飛び出て怒鳴りつける。

それは常設の寺社門前の地割は別として、香具師は祭礼などでは門前町の路傍で人様の家の前の軒下三尺間口二間を拝借して商売をする。だから家の軒先を汚して素知らぬ顔をしてはならぬという習い性が身に沁みついているのだろう。

 しかしそうした怪訝な思いは頬を嬲る風のように一瞬で去った。深く詮索することもなくおけいは拾った小枝を右手に持って、佐平店へ出る薄暗い三尺路地へ入って行った。

朝きた時には三尺路地の入口に野次馬が集って塞いでいた。それをやっとの思いで掻き分けて三尺路地の入り小口にたどり着くと、そこには数人の町方役人が六尺棒を持って立っていた。兄の後について入ろうとしたが、おけいは役人が横にした棒で邪険に遮られた。今は誰にも憚る必要はないはずだが、おけいはそっと足音を忍ばせて三尺路地を抜け、棟割長屋が向き合った細長い六尺路地へ入った。

 江戸の町はおよそ三十年に一度は大火に見舞われているため朽ち果てた長屋は少ない。お駒の家も木の香新しいというほどでもないが、障子などの建付けなどはしっかりしている。

「何しに来た。後生大事そうに持っているものはなんだ」

 不意に腰高油障子を開けて、嘉吉が顔を見せた。その後ろには間延びした顔の五郎松が立っている。五郎松は先代から引き続き下っ引を勤めている男で、齢は嘉吉より十二ばかり上の同じ干支の戌だった。二人とも紺股引に尻端折りをしていた。

「的屋の前に落ちてたンだ。嘉吉兄ィこそ、ここで何してるのさ」

と、おけいは家を覗き込むようにして聞いた。

「ふむ、俺たちが通った時には何も落ちてなかったような気がしたが、」

 と、嘉吉は怪訝そうに小枝を見た。

 だがそれはほんの一瞬で、すぐに嘉吉は「御用で来てるンだ。邪魔するな」と顔色を変えた。しかし嘉吉の脅し文句に耳を貸すおけいではない。上背が一尺も大柄な嘉吉をどかすように邪険に手を払って、おけいは身を乗り出した。

 名うての辰巳芸者の相仕としてお座敷に上がり三味線を弾いていただけのことはある。垣間見た部屋の中は整然と整えられ、薄紅色の枕屏風で奥の一角が仕切られていた。

「まるで大掃除したように綺麗だけど、お駒さんの家は今朝のままなの」

と、おけいは嘉吉の返答も待たずに問いかけて、お駒の家の三尺土間に踏み込んだ。

「何を勝手に入って来やがる。御上の御用に小娘が嘴を挟むンじゃねえ」

 両手を広げて大きく立ち塞がり、押し退けるようにして嘉吉はおけいの視界を遮った。

「お駒さんは自害でケリが付きそうだってことのようだけど、どうして」

 おけいは何度も自問してきた問いを嘉吉に聞いてみた。

 すると嘉吉は怒ったように「小娘が口を挟むなって言っただろうが」と小声で叱った。だが、それでもおけいが知りたそうにしていると、

「内側から鍵が掛かっていたンでさ」

と、嘉吉に代わって五郎松がくぐもった声で教えてくれた。

 鍵といっても土蔵の扉に仰々しく掛けられている御大層な鉄製の錠前のことではない。桟を落す仕掛けの猿落としか、腰高障子に心張棒を支すほどのことだ。たとえ戸締りしていても腰高油障子なら蹴破れば簡単に押し入られるが、それでも鍵が掛かっていたことは肝心だ。つまり内側から鍵が掛かっていたことは誰かが押し入ったのではない証になる。

――もう良いだろう、とおけいを押し退けようとする嘉吉に、

「鍵って、猿落としの桟が落してあったのかい、それとも心張棒が支ってあったのかい」

 と、おけいは食い下がるようにしつこく聞いた。

「心張棒だ」と、嘉吉はつっけんどんに言っておけいを追い出した。

 腰高油障子に心張棒が支ってあれば下手人がお駒を殺してから外へ出るわけにはいかない。棟割長屋は名の通り長屋を入妻屋根の棟で真っ二つに割った長屋のことだ。間口九尺に奥行二間の家に窓はなく、三方板囲いで表へ出るには腰高油障子を開けるしかない。

 お駒は心ノ臓を出刃包丁の一突きで果てていたと聞かされた。横たわる遺体には出刃が突き刺さったままだったという。おけいにそうしたことを教えてくれたのは嘉吉ではなく幼馴染のお軽だった。姉のお駒は「行く行くは次郎吉と所帯を持って、三味線を教えて暮らすンだ」と恥ずかしそうに語っていた、と井戸端へやって来たお軽は顔を歪めて涙をこぼしながら話した。芸事で身を立てようと精進していた姉が自ら命を縮めるだろうか、とお軽は悔しそうな眼差しで訴えた。そのお軽の無念さの滲む言葉に後押しされて、おけいは昼下がりの河岸道を佐平店へとやってきたのだ。

「マツ、詰まらねえことを喋るな。まだ自害と決まったわけじゃねえ」

 嘉吉は長屋の入り小口で振り返ると、小声で五郎松を叱った。

 それをおけいは聞き逃さなかった。土間を出て先を歩いていたおけいは立ち止まると振り返り「どういうこと。自害と決まったわけじゃない、とはどういうことなのさ」と眉根を寄せキッとした眼差しで聞いた。嘉吉は浅く溜息をついて後ろ横の五郎松を「お前が詰まらないことをしゃべるから」とでも言いたそうな眼差しで睨んだ。

「異変を察して、腰高油障子を外してお駒の家へ一番に踏み込んだのは表店の的屋の親父だ。なんでもいやな呻き声を壁越しに聞いたとか言って。ためしにお駒の家の腰高油障子の桟を叩いたが返答がないし開かないため、隣の大工たちと一緒になって障子を外したのさ。大勢の男たちが踏み込んでお駒の家が泥だけになったからと、おいらたちが駆けつけた時には隣近所の長屋の女房たちがご丁寧に板の間を水で流して、雑巾で拭き掃除をした後の祭だった。もちろん差配が命じたことだろうが」

と、嘉吉は忌々しそうに言い放った。

 長屋の差配は大家ともいわれている。長屋の管理から家賃の取り立てまでを任された者をそう呼んでいた。江戸の豪商たちは蓄財のために長屋を建て、縁者や信用のおける者に店賃の取り立てや管理を委ねた。

 佐平店は木場の材木商『山縣屋』佐平が建てた長屋だ。その長屋の差配人に佐平が任じたのは長く深川佐賀町の米蔵で蔵番人を勤めた男だった。米蔵の番人と比べれば、長屋の差配の方が待遇は格段に良い。隠居の老人のみならず若いお店者でもなり手はいくらでもいる。そのため差配としての務めを怠れば、いつお払い箱になるか分からない立場だ。家賃の取り立てや長屋の管理が悪いとたちまちお役御免にされかねない。長屋からお縄付を出すのは以ての外で、敷地で殺しや自害があっただけでも長屋の評判に障る。血糊の付いた床や板壁を放っておけばこびりついて取れなくなる。なんであろうと空家を放置していては差配の沽券にかかわる。次の借り手を探すために差配は町方の怒りを買ってでも、まずは家を掃除するように長屋の女たちに命じたのだろう。

しかしそのために嘉吉たちが仔細にお駒が自害して果てたのか、それとも殺されたのか判別する手掛かりを家の中から見つけることが出来なくなった。本来なら病死でない限り、町方役人が出張って来るまで何もかもそのままにしておくのが決まりだった。

番太郎の報せを受けて朝靄の中を八丁堀から駆けつけて来た本所改役定廻同心高橋佐内も怒り心頭に発し、差配を目の前に据えて「かくなる上はお主を下手人と定めて差紙でお白州に呼び出すぞ」と、口角泡を飛ばして脅す始末だった。

 しかし覆水盆に返らず。きれいに掃除してしまった部屋から何も手掛かりは得られず、一番にお駒の家へ入った藪七とお駒の隣の大工助三郎から様子を聞くしかなかった。

「おう、御用の筋で聞きたいことがある。昨夜何か変わったことはなかったか」

 と、嘉吉はお駒の右隣の腰高油障子の桟を叩いた。

大工の助三郎は稼ぎに出掛けていたが、三十過ぎの女房が狸のような顔を出した。

「次郎吉は呑んだくれの博奕うちで、お駒さんの稼ぎを巻き上げていたンだ」

 女房はそう言ってから、「昨夜かい」と続けた。

「お駒さん以外の人の気配はなかったがね。隣人の寝息が筒抜けに聞こえる安普請だから息を殺しても夜の気配まで分かるのさ」と言うと、女房は楽しそうにケラケラと笑った。

「お駒が門前仲町の料理茶屋を出たのが五ツ半過ぎだから、この加賀町に帰るまで女の足では小半時、長屋へ辿り着いたのは四ツで木戸が閉まる間際だったはずだが」

 嘉吉は冷静な顔つきで、刻限を確かめるように聞いた。

「ああ、そうそう。そういえば物音がしたよ。あれは夜回りの金棒引きが通った直後だから四ツ過ぎだ。ドスンと土壁に体を打ち据える音がして長屋が揺れたっけ。垂木の骨組みに薄板を貼りつけただけの壁が壊れて、仕切りごとウチへ倒れないかと驚いたよ」

 女房は安普請の敷居を見上げて、安堵したような笑みを浮かべた。

「その前に誰かがお駒の家へ押し入ったような様子はなかったか」

 嘉吉はお駒を誰かが殺したとして、次郎吉以外の者がお駒と争うことなく夜中に押し入ることが出来るのか疑問に思った。

「親分は独り者だから分からないだろうけどね、若い女は好いた男が家を空けてるのに心張棒を支って先に寝ることなぞ出来ないンだよ」

 そう言うと、大工の女房は「この唐変木が」という目をして嘉吉を睨んだ。

「それじゃ、次郎吉が留守にしてる夜中に誰かが勝手に押し入ることが出来るってことか」

 嘉吉がそう聞くと、大工の女房はワケ知りな顔をして頷いた。

「押し入った者がトント見知らぬ者だったら大声を出すだろうが、お駒さんの顔見知りなら「何か御用ですか」と静かに聞くだろうさ」と、返答の代わりに女房は教えてくれた。

 色恋沙汰と無縁な野暮が露呈して、嘉吉はきまり悪そうに盆の窪に手をやった。

 四ツ前なら町木戸の閉まる直前だ。他所の町から勝手に行き来のできない刻限だ。それなら夜中にお駒の家に来た者がいたとしたら、掘割を船に乗って来ない限り、それは町内に暮らしている者だ。

「三味線の胴が破れていたが、掃除する前から三味線が箱から出してあったのか」

 嘉吉は枕屏風の陰に胴の破れた三味線が箱の上に置いてあったのを不審に思った。

「わっちたちが行った時にはどういうわけだか、三味線の猫皮が裂かれていたンだよね。お駒さんの商売道具だからヒモの次郎吉だっていくら暴れても三味線までは壊さなかったンだよ。よほど三味線に恨みでもある者の仕業なのかね。もっともお駒さんが三味線の稽古をやっていると「うるさい」と捻じ込んだ者が何人かはいるけどね」

 女房はそう言って「もう勘弁してくれないか」と眉尻を下げた。

「言い争う声を聞いたというのではないンだな」と、嘉吉は重ねて聞いた。

「たとえ夫婦喧嘩をしても、大声で罵り合わないのが長屋住まいの決まりだ。外で浮世の憂さを貯め込んで帰ってきてるのに、貧乏長屋で隣近所の憂さを誰も聞きたかないンだよ」

 大工の女房は十ばかり年下の嘉吉に世間の御宣託を垂れた。

 その節にも一理あるだろうが、お駒が次郎吉に殺された証拠は何もない。下手人はお駒の顔見知りの誰かで、お駒が身の危険を察知した時には声を上げられない事態に陥っていたと考えられる。しかし大工の女房はキッチリと断定はしないが、その目顔は次郎吉が下手人だと雄弁に物語っていた。

「うむ、そうか。それで次郎吉は昨夜から一度は家へ帰って来たのか」

 最後の問い掛けだ、というように嘉吉は片足を後ろに引いて立ち止まって聞いた。

「わっちの知る限りじゃ、昨日の夕刻に出かけたっきりさ。イロのお駒が死んだというのに賭場か岡場所にでも入り浸っているンだろうよ。飛んだ薄情者さ。評判のカラクリ師奇天烈斎の弟子だったかどうだか知らないけど、碌にカラクリ人形の一つとして作らずに、飲む打つ買うの三拍子そろった遊び人さ」

 そう返答すると「もう良いだろう」とでも言うかのように頷いて、女房はさっさと障子を閉じた。板の間では幼い子供たちが一町先まで聞こえるような大声で派手に兄弟喧嘩を始めていた。

 

 嘉吉を先頭に三人が一列に連なって三尺路地から広い河岸道へ出ると、嘉吉は立ち止まって振り返った。

「マツ、聞いての通り次郎吉から話を聞かないわけにはいかねえ。ヤツがいねえか八幡宮裏の賭場か山本町の岡場所を探ってみてくれ。所在が掴めたら火消しの親方に事情を話して若い衆の手を借りて、ヤツを門前仲町の自身番に引っ張っておいてくれ。一緒に暮らしてる女が無残なことになってるのに知らン顔では世間様が許さねえだろうぜ。たぶん懐に匕首を呑んでいるだろうから用心しろ。おいらは海辺大工町の奇天烈斎の家へ行って聞き込んでみるぜ。おけいは御用の邪魔しねえで家へ帰ってろ」

 嘉吉がそう命じると、五郎松は片袖を捲し上げて小走りに河岸道を下って行った。

「兄さんは奇天烈斎の所へ次郎吉の聞き込みに行くンだろう」

 と、おけいは探りを入れた。すると嘉吉はたちまち怒りを露わにして、

「御上の御用に小娘が嘴を挟むンじゃねえと言っただろうが」

 と叱りつけると、鶏でも追い払うように両手を広げた。

 年が離れているため嘉吉とおけいは幼いころから兄妹喧嘩をした覚えはない。ことに大人になってからは嘉吉が忙しく町廻りに出掛けるため、口喧嘩すらしたことはない。しかし岡っ引としておけいに甘い顔は出来ない、とばかりに一向に帰ろうとしないおけいに「勝手にしろ」と言い捨てて、嘉吉はさっさと歩き出した。

 加賀町から海辺大工町へは油堀を渡って北へ二町ばかり行き、それから深川を東西に走る仙台堀を渡って寺の連なる寺町を抜けて小名木川の辺まで行かなければならない。かれこれ五町ばかりの道のりだ。雪駄を履いている嘉吉はすたすた歩いて行くが、後をつけるおけいは下駄のため足が疲れてきた。

 嘉吉はおけいが後をつけているのは分かっていた。だが無視したままで追い返さなかったのは殺されたお駒がおけいの幼馴染の姉だと知っていたからだ。嘉吉もお駒を知らないわけではなかった。界隈の岡っ引として門前仲通りを行く粋な黒羽織の辰巳芸者に顔見知りが何人もいたし、辰巳芸者と並んで行く三味線弾きのお駒の顔も見知っていた。勝気そうで身持ちの良さそうな印象を抱いていたが、お駒が破落戸の次郎吉と暮らしていたと知って意外の感に打たれた。だからなおさらお駒の一件を自分の手で丹念に調べたかった。

 海辺大工町は小名木川南岸に細長く貼りついたような町だ。かつて深川が出来た当初は船大工が多く住んでいたというが、引き続き埋め立てにより海岸線が南の江戸湾へ遠のくと、船大工も潮が引くように江戸湾の海辺へと移って行った。今では船大工の代わりに大工や建具師たちが暮らす町になっていた。

 奇天烈斎の家は二間大工長屋の一角にあった。上方にも名の知れた高名なカラクリ師の割に、意外なほど粗末な住まいだった。

「邪魔するぜ、誰かいねえか」と、嘉吉が訪うと、

「忙しいから邪魔するな。後にしてくンな」と、若い声が返ってきた。

 奇天烈斎は父親の嘉平とおっつかっつの齢のはずだから本人ではなさそうだ。

「御用の筋だ、奇天烈斎は居るか。逃げ隠れするとためにならないぞ」

と、嘉吉は声を張り上げた。

「御用なら御用だと、最初からそう言えば良いだろう。邪魔するというから「邪魔ならするな」と返答したまでだ」

 そう言って玄関土間に現れたのは前掛けも着古した着物も木屑塗れの三十男だった。

「師匠は所用で上方へ他行中だ。おいらは留守を預かってる一番弟子の頓珍斎だが、」

 と、痩せて角ばった顔の男は名乗った。

からくり人形を使った芝居は大坂の発祥だ。奇天烈斎も若い頃は大坂で修業したと聞いている。

「ここではカラクリ人形を作っているのか」と、嘉吉は奥を覗き込むようにして聞いた。

「作るだけじゃない、修理もしている。いまはさる大名家から預かった年代物の茶坊主人形を直しているところだ」

 詰まらなさそうに言って、頓珍斎は嘉吉の後ろに立つおけいに気付くと目を見張った。

 その剣呑な眼差しに驚き、おけい思わず視線を避けるようには嘉吉の背に隠れた。頓珍斎の目顔は「観音様のような女だ」と溜息をついているようだった。嘉吉は頓珍斎の間抜け面に軽く舌打ちしてから「奇天烈斎の弟子だった次郎吉についてだが、」と声を掛けた。

「次郎吉だと。ああ、二年半ばかり前に破門になったカラリン斎のことか」

 と、頓珍斎はこたえて「それで、」と先を促すように頷いた。

「たとえば、次郎吉の腕で家の外から戸の内側に心張棒を支うという芸当は出来るか」

 と、おけいが耳を疑うような問いを嘉吉は頓珍斎に聞いた。

「カラクリったって人様のやることだ。タネも仕掛けもなければ何もできはしない。が、その程度のカラクリなら籐四郎にも簡単に出来るだろうよ」

 嘉吉に返答しつつも、頓珍斎の視線はおけいに釘づけになったままだ。

「通り一遍の話じゃなく、次郎吉にそうした芸当が出来るってことなのかどうか」

 とすれ違いの返答に、嘉吉は怒ったように重ねて聞いた。

 嘉吉の剣幕に驚いたように視線を戻すと、

「どんな仕掛けをすれば良いかは次郎吉次第だが、五年もここで修業したンだ、カラクリを工夫する知恵は一通り身に付いてるはずだ。ただあの野郎はカラクリをイカサマ博奕に使って師匠の怒りを買って破門になったのさ。手先は人一倍器用なやつだったぜ」

 そう言いながら、頓珍斎はおけいの下げた手に握られたネコヤナギの小枝に視線を落とした。そして一呼吸間を置いてから思案深そうな顔をして言葉を継いだ。

「元々カラクリってのは糸で引っ張って動かす『からくる』から転じた言葉だ。糸操り人形がカラクリの元祖で、紐を使った仕掛けが真骨頂だ。外から腰高油障子に心張棒を支うカラクリなんぞは何でもないことだ。敷居の辺りの板壁に節穴の穴があって、その節穴に外から紐が通せて同じように心張棒の端にも紐が通る穴が開いているかを確かめてみることだ。仕掛けは簡単、半分開けた腰高油障子の敷居の溝に心張棒を立てて障子の桟に凭れかけさせておいて、あらかじめ心張棒の穴に通した紐を節穴にも通して外壁にたらしておく。その後で外に出て紐で桟から心張棒が外れないように操って障子を閉めてから、節穴に通していた紐の片方をゆっくりと手繰れば紐が心張棒の穴から抜けて、あたかも家の内側から心張棒を支ったようになるって寸法だろうよ。そのネコヤナギの小枝は素人が笹掻きに削ったもののようだが、カラクリ芝居を考え付いた野郎は抜いた節穴を元に戻すために削りカスを使ったのだろうぜ。節穴が抜けたままになっていれば、誰だってそこに紐を通したと感付くだろうからな。だから抜いた節を元の節穴へ戻したが、抜いた節穴を嵌め込む際に小枝の削り屑をかましてるはずだ、確かめてみな」

 と、頓珍漢は嘉吉にとっては名前さながらにトンチンカンな説明を巻くし立てた。

 一通り説明を聞いただけではなかなか腑に落ちなかったが、詳しく問い直してやっと得心できた。

つまり頓珍斎の話はこうだ。心張棒を外から紐で操ることが出来れば良いだけで、そのためには棒の端に穴があけてあることと、棒を支う戸の上辺の位置に棒を引き上げる紐を通す穴が壁に開いていることが肝要だという。そういわれれば安普請の長屋の杉板壁は節穴だらけだ。それに心張棒の端に穴をあけて紐を通し、使わないときには壁に吊るしておくのは良くある。そうしたことはまたお駒の家へ行って確かめれば良いだけだ、と面倒臭そうに頓珍斎は説明を繰り返した。

「なるほど、それほど難しいカラクリって訳けじゃねえのか」

と、嘉吉は調子抜けしたように呟いた。

 するとそれを聞き咎めたかのように、

「それを言っちゃ身も蓋もないぜ。どんな手妻だって種や仕掛けを知れば「ナアンダ」と気抜けするほどのものだろうよ」

と、頓珍斎は大袈裟に憤慨して見せた。

 確かに拍手喝采を浴びているカラクリ人形も、その仕掛けを明かせば気抜けするほどのものかも知れない。しかし、それを最初に思いつくがどうかが素人と玄人の境目だろうし、そうした積み重ねが師匠と呼ばれるほどの一角のカラクリ師になれるかどうかの分かれ目なのだろう。

「詰まらねえことを言ってしまった、勘弁してくれ。この際だからついでに聞いておくが、次郎吉の腕前はカラクリ師として、いかほどのものだったのか」

 と、嘉吉は執拗に頓珍斎に食い下がった。

 岡っ引にとってしつこさが身上だ。人様から聞きたいことも聞けないようでは御用聞きは勤まらない。嘉吉の問い掛けに、頓珍斎はあからさまにゲンナリした眼差しを向けた。

「次郎吉は五年も年季を積んだ割にはカラクリの思いつきは凡庸だった。素人に毛の生えたほどといった按配だ。しかし心張棒を表から支うくらいのカラクリなら、次郎吉でなくても素人でも思いつくことだぜ。ただ、そのネコヤナギを削ったのが次郎吉ではないことだけは確かだ。ここに弟子入りすればカラクリに使う螺子作りを朝から晩までみっちりやらされる。奇天烈斎の弟子として辛抱が出来るかどうかは最初の三年が肝心で、次郎吉は木片を削って歯車や螺子や心棒などを作る細工物の修行は終えていた。細工物の神髄は軸を外さないで削り出すことさ。そのネコヤナギの削り方は手に取って見るまでもなく、芯を外れている。とてもカラクリ師の修行を五年もやった者の笹掻き削りじゃない」

 素気無くそう言って、頓珍斎は「もう良いだろう」と小さな吐息を漏らした。

 そして気にするように頓珍斎は振り返った。家の奥からは休止した作業の差配を待っているのだろうか、弟子たちのざわめきが聞こえてきた。これ以上頓珍斎の手間を取っては迷惑だ。嘉吉は引き上げる潮時と見て「次郎吉の実家はこの近くか」と、最後の問い掛けだというように嘉吉は踵を返す姿勢を取ったまま聞いた。

「ああ、油堀北側河岸に貼りついた材木町の西河岸筋の中ほどを入ると、刻み小路の長屋二軒分ほどの大きな屋敷があるがそれだ。もっとも今じゃ他人の手に渡っているが」

 とだけこたえると、頓珍斎は足早に奥へと入っていった。

残された嘉吉は頓珍斎の返答に衝撃を覚えていた。「なんだって」と漏らすなり言葉を失った。

 お駒と暮らしていた加賀町と目と鼻の先に次郎吉の生まれ育った実家があったことになる。つまり加賀町の界隈の人たちにとって、次郎吉は見知らぬ余所者ではない。おそらく佐賀町の米蔵屋敷で働いていた佐平店の差配も次郎吉の出自を知っていたはずだ。

 衝撃が過ぎ去ると嘉吉は自分で自分に頷きながら、海辺大工町へやって来た道を引き返す格好で材木町へ向かった。おけいは前を行く嘉吉の後を右手で前身頃を抑えて小走りに追った。

 

 材木町はその名の通り材木を扱って生計を立てる人たちが多く住んでいる横丁だ。材木を扱う総本山は木場の材木問屋で、その材木の買付などを請負って諸国の山々を巡って石高で買い付ける山師や、製材した材木を江戸市中の材木屋へ卸す仲買や柱や木組みなどの木材刻みを請け負う大工などが材木に関わって暮らしている人たちだ。そうした町に生まれ育った男がカラクリ人形師に弟子入りしたのもそれほど埒外でもない。木の香に包まれ細工を施す刻み大工とカラクリ師とは大して変わらない。

 材木町へ行くと嘉吉は自身番で次郎吉の家のありかを聞いた。六十年配の町役は身を乗り出すでもなく「家はあるが、次郎吉の身寄りの者は誰もいない」と素っ気なく言った。

「かれこれ七年ばかり前に夜逃げしちまったのさ。次郎吉の家は文政年間から三代続いた棟梁の家柄だったが、次郎吉の父親が無理をして西国の某藩邸の普請を請け負ってしくじったのがケチのつきはじめで、あっという間に身代を潰して、とどのつまりが夜逃げだ。当時、次郎吉は他の棟梁の許で大工見習をしていたが、父親が家業を畳んだと知ると見習い大工をやめて元々好きだったカラクリへ弟子入りしちまったのさ」

 頬骨の高い、眼窩の窪んだ翳りがちな顔をさらに暗くして、町役は首を二三度振った。

 嘉吉は驚いたように町役を見詰めた。

「次郎吉に二親はいないのか」

「いるにはいるようだが、谷中の親戚に身を寄せてから父親は体を壊し床に臥せっていると聞いてる。次郎吉の兄は三つの齢に流行り病で亡くなっているし、家の再興は次郎吉の肩にかかっているンだが、その頼みの張本人が博奕にうつつを抜かしてたンじゃトント見込みはねえな」

 そう言って、町役は肩と肩の間に鶴のように細い首を埋めた。

 武家屋敷の普請は大した儲けにならないのが通り相場だ。その代わりに何かと悶着がつきまとう。藩邸は藩主妻子の暮らす屋敷としての役目だけでなく、屋敷の造りそのものに藩の品位と体面を負わされる。だから武家屋敷の普請では材料の吟味だけでなく、意匠を凝らした造りでなければならず、大工としては晴れ舞台であると同時に危険な罠でもあった。武家といかに付き合うかは江戸町人が最も心を砕くところだった。

「そうか、武家屋敷の普請でしくじって、次郎吉の親は夜逃げしたのか」

 と、嘉吉も力なく呟いた。

 しかしおけいは「で、どうするのさ。次郎吉の家へ行ってみないのかい」と開け放たれた自身番の戸外から嘉吉に問うた。嘉吉の後をついてきたものの、小娘が自身番へ入った嘉吉の後について入るわけにはいかず、おけいは敷居の外から中の様子を窺っていた。

振り返った嘉吉をおけいは睨んだ。家が没落して家族が散り散りになったことと、お駒の殺害の間にどんな関係があるか聞き込まなくてよいのか、と糺しているようだった。

「しかし家へ行ったところで、何にもなりはしないだろうさ。普請を請け負った西国の某藩と悶着を起こして代金が貰えず、木場の材木商に抵当のカタとして家屋敷を取られた後に、どこでどうなったか得体の知れない連中が入り込んで、今じゃ香具師の元締が大きな顔をして入り込んでいるようだがね。さて、どうなることやら」

 と、町役に代わって自身番一の古株の書役がこたえた。

 その言葉を聞くや「香具師の元締が入り込んでいる、だと」と叫んで、嘉吉は眉間に皺を寄せて書役を睨んだ。

「入り込んでいるってことは屋敷の沽券の名義はまだ次郎吉のままだということか」

 詰問するというのではないが、嘉吉は書役の言葉の意味を糺した。

「元締が次郎吉に博奕のカネを融通したとかいって家に入り込んでいるが、確か沽券は材木商の木曾屋が持っていなさるはずだ。木曾屋の旦那は次郎吉の曽祖父から三代に亙る取引の縁から、滞った材木代金の穴埋めに家を売り払うことをせず、律儀にも沽券を今も持っているということでさ。ゆくゆくは跡取りの次郎吉に戻すつもりだとも聞いているが、当の本人が博奕三昧では覚束ないだろうよ、というのが界隈のもっぱらの噂だ」

 独りごとでも呟くように、書役は言った。

 嘉吉は自身番を出ると足を門前仲町へ向けた。五郎松に命じてから一刻余りが経っている。余程の不手際がない限り、既に次郎吉を自身番に引っ張っているはずだ。

 春の日差しも大きく傾き、昼下がりから夕暮れへと時が移っていた。八丁堀の旦那もそろそろ町廻りから引き上げる途次に門前仲町の自身番に顔を見せる頃だった。

「おいらは御用の筋で門前仲町の自身番へ行くぜ。お前は家へ帰ってろ」

 と、嘉吉は後ろを振り返って怒ったように言った。

「やなこった。わっちは誰がお駒さんを殺したのか、幼馴染に代わって下手人を突き止めなければならないのさ」

 おけいは勝気そうな眼差しに力を込めて、嘉吉を睨み返した。

 嘉吉は六歳も年上だが、妹のおけいが苦手だった。自分には母親の記憶があるのに、おけいにはそれがないという引け目があった。だから強く叱り飛ばすわけにもいかず、

「御用にお前のような小娘が首を突っ込んじゃならねえ。そうしたことも分からないのか」

 そう言い捨てると、嘉吉は後ろを見向きもせずに河岸道をさっさと歩きだした。

 おけいは立ち止まっていたが、嘉吉の後ろ姿が街角を曲って消えると歩き始めた。

 材木町から門前仲町へ行くには油堀沿いに河岸道を東へとり、平野町で橋を渡って黒江町へ入り、山本町裾継の高さが一間もある板塀沿いの細い河岸道を門前仲町へ向かうことになる。そうした道筋を思い浮かべておけいは加賀町へ足を向けた。

山本町の裾継とは深川でも名高い岡場所だ。他にも櫓下と裏櫓と呼ばれる悪所があって山本町は三悪所の名とともに知れ渡っている。おけいは岡場所を囲む板塀に沿った路地を歩くのは気が進まないというよりも得体の知れない嫌悪感を覚えた。まだ宵の口には間があるため岡場所の遊客から下種な言葉をかけられることはないにしろ、とにかく岡場所の一角に近づくのは怖気を震うほど嫌だった。

かといって油堀を豊海橋で渡って加賀町へ回るのもぞっとしない。掘割を挟んだ加賀町の向かいが伊沢町で、おけいの家のある松村町の隣町だ。この界隈を歩いていて家の者にでも見つかると「年頃の娘が一人で町をほっつき歩いて、」と頭から叱られそうだった。だがどうしても裾継の板塀沿いの道を通りたくないため、加賀町の河岸から緑橋を渡って伊沢町へ入り、そのまま松村町の家の前を通ることにした。

急ぎ足におけいは真っ直ぐ前を向いてシャキシャキと歩き、松村町の家の前を何かを恐れるかのように通り過ぎた。幸いにも誰からも声を掛けられず駆け抜けるように冬中橋を渡ったが、黒江町へ入ってほっとした途端に表店の中から「おい、おけいじゃねえか」と呼びかける声がした。聞き覚えのある父親の声にはっとして荒物屋の中を覗くと、奥の帳場格子の傍らで店の隠居甚右衛門を相手に父親が将棋を指していた。

「ご隠居の店番を邪魔して将棋を指していたンじゃ、店先の箒を持ち逃げされても分からないだろうよ」

 と、おけいは見つかった気まずさを誤魔化すように軽口を叩いた。

「馬鹿野郎、目は将棋盤を睨んでいても、耳は路地をやって来る足音をしっかり聞いてら。それが証拠に駒下駄の地面を刻む音が通り過ぎる前におけいだと分かったぜ」

 そう言って嘉平はニヤリと笑ってから、

「ところでお駒の一件はどうなった。嘉吉は何か新しい手掛かりでも見つけたかい」

 と、おけいが嘉吉の後をついて廻っていることを知っているかのような口吻だった。

 自分のことはすべてお見透しかと、おけいは浅く溜息をついた。所詮元岡っ引の詮索から逃れられないと覚悟を決めて、おけいは店土間の三和土に足を踏み入れた。

 転んだことを端折って、ネコヤナギの小枝を拾ったことから、隣の大工の女房から聞いたあらましから、カラクリ師の家へ行ったこと。更には材木町の自身番で聞き込んだ次郎吉の生家の没落までを掻い摘んで話した。余計な口を挟まずじっと聞き入っていた嘉平はおけいの話が終わると、

「頓珍斎は一目見るなり次郎吉が削ったものじゃねえと、そう言ったンだな」と聞いた。

「カラクリ師の修業は木工細工からだと。そのために木を削って歯車を作ったり細かい軸受を作ったりするが、木を削るときはなにはともあれ芯を外してはならないと」

 そう言って、おけいは手にしていたネコヤナギの小枝を父親に見せた。

「ふむ、それに躓いておけいは河岸道で転んだのか」と呟きながら、嘉平は目を近づけた。

「えっ、わっちが転んだのを見てたのかい」

――まさか、と思いつつおけいは聞いた。

「儂は千里眼じゃねえ。ただお前が気に入ってる薄紅の鼻緒を、その間に合わせの切れ端で挿げ替えてるってことは転んで切れたってことさ。それが証拠にその小枝の皮の一部が下駄の歯で踏みつけて転がしたように剥がれて、砂粒がめり込んでいるぜ」

 そう応えて、嘉平はニヤっと笑みを浮かべた。

 鋭い推察眼におけいは今更ながら驚いたが、そうした動揺を気取られないように、

「それで、元岡っ引は誰が下手人だと思うのさ」

 と、おけいは挑発するように八丁堀の旦那の声色で聞いた。

「うむ、臭いのは誰かな。お前が転んだのは藪七の『的屋』の前だ。そうすると夜中に次郎吉が船に乗って賭場と家とを往復したってことに仕立てる寸法か」

 と呟くと、またしても考え込んだ。

「だから次郎吉が下手人でなければ、わざわざ往復する必要はないじゃないか」

 と言ってから、おけいは「あっ」と声を上げた。

 嘉平は「次郎吉を下手人に仕立てる、」と言ったのだ。つまり、次郎吉が下手人ではないと、嘉平はハナッからそう睨んでいる。それ気付いて、おけいは転んだ時に感じた違和感を思い出した。

「的屋は元香具師の藪七の店だ。あの時になんとなく感じたのはいつもきれいに掃除の行き届いている店先の道にネコヤナギの小枝が転がっていたからなのか」

 と息せき切ったように話してから「どうしてだろう」と考え込んだ。

「昼下がりに佐賀町へ行くと、角の煮売屋の店番のお婆さんが「お駒の件は自害でケリがついたのか」って聞いてきたンだ。店の客の誰かがそうだと話したってことだろうか」

 そう言って、おけいは思案するように小首を傾げて腕を組んだ。

 その仕草を見咎めて、嘉平は顔を怒りで赤くした。男勝りに岡っ引の真似事をするような娘の貰い手はない。おけいを良縁に嫁がせなくては亡くなった恋女房のお玉に合わせる顔がない、と思わず怒りが込み上げてきた。

お玉はおけいを産んだ肥立ちが悪く、おけいが一歳の誕生日を迎える前に亡くなった。まだ年増という齢にもなってない若く美しい仏だった。その在りし日のお玉の面影におけいは日ごとに生き写しのように似てきている。

「バカ野郎。年頃の娘が男のような仕草をするンじゃねえ。年が明けて十七にもなったってのに、色気も何もありゃしねえや」

 嘉平は叱り飛ばして「ダメ」をするように首を振っておけいを睨んだ。

「何言ってンだい。幼馴染のお姉さんの無念を晴らすにゃ、男も女もないンだよ」

 それに負けずに捲し立てて、おけいは嘉平の顔を覗き込んだ。

「老い耄れてはいるが昔取った杵柄だ、元岡っ引は誰が下手人だと思うのさ」

 と言う懇願するようなおけいの口吻に、嘉平は相好を崩した。

「確かに十手を返上したからには元岡っ引だ。おけいのいう昔取った杵柄からいえば、怪しいのはお駒の部屋を水で洗い流した上に、ご丁寧に拭き掃除までやらかした野郎だぜ」

 謎掛けをするようにそう言ってから、おけいの思案を促すように小さく頷いた。

「それじゃ、佐平店の差配が下手人かい」

と、おけいは嘉平に聞き返すかのように声をかけた。

 しかし嘉平はおけいの問い掛けには乗らず、「フン」と鼻先で笑った。

「おけいの目は安物の杉板のようだぜ。節穴だらけってこった。差配は踊らされたクチだ。口先三寸で差配を踊らせた野郎が長屋の近くにいるだろうよ」

 それだけ言うと嘉平は興味を失ったかのように、将棋盤に視線を落とした。

 おけいは父親が何を言ったのか、ネコヤナギの小枝を手にしばらく思案していたがハタと手を打った。「なるほど、そうだったのかい」と、すべてがストンと腑に落ちた。すると今度は嘉吉が自身番で八丁堀の旦那に何を話しているのかと不安になった。

「そうしたことが分かっているなら、門前仲町の自身番にいる倅に教えなくて良いのかい。今頃嘉吉兄ィは八丁堀の旦那に探索の仔細を聞かれていると思うンだがね」

 嘉平の態度にじれったそうにおけいは身を捩ったが、嘉平は二度と視線を上げなかった。

「嘉吉は岡っ引として能無しじゃない。が、おけいがそこまで心配するのなら、門前仲町へご注進に行ったら良いだろうぜ。だがくれぐれも御用の筋に土瓶口を挟むなよ」

 と、嘉平は自陣に入り込んだ成金を見詰めたまま静かに言った。

 土瓶口とは「横についている」ことから、横から余計な口を挟むなという意味だ。

「ああ、ちょいとだけ様子窺いに、門前仲町の自身番へ行ってくらあ」

おけいは砕けた物言いで返事をすると、荒物屋の土間を出た。

 おけいが駒下駄を鳴らして路地を小走りに去って行くと、嘉平はやおら顔を上げた。

「甚右衛門さん、この勝負はお預けだ。チョイト急な用事を思い出した」

 そう言うと、二畳ほどの狭い帳場の端までにじり雪駄に足を下した。

「父親にとってちゃいつまで経っても倅は子供だからね、親分と呼ばれる十手持ちになっても倅が気になるのは親として仕方ないやね」

 と清兵衛は歯のない口でもごもごと言ってから、嘉平に向かってニッと笑った。

 

 門前仲町の自身番では土間に据えられた次郎吉が不貞腐れていた。

「おいらが何をやったってンだ。イロのお駒は誰かに殺されたンだ。間違ってもおいらが殺ったンじゃねえ。この世の中でカネ蔓を殺すバカがどこにいるってンだ」

 不摂生な暮らしと寝不足からか、次郎吉の顔は二十代の半ばとは思えないほど顔色が悪く、頬が削げて目が落ち窪んでいた。

「八幡裏の賭場に出入りしているお前の博奕仲間から聞いたところによると、昨夜四ツ前から一刻余り、賭場から何処かへ姿を晦ましていたというじゃねえか。その刻限に何処へいたか身の証を立てる者はいねえのか」

 次郎吉の傍に立つ嘉吉が見下ろして聞いた。

「だからお前の下っ引に話したはずだぜ。おいらが何かと厄介になっている元締の権十郎さんが呼んでいなさるというから、洲崎の岡場所は「磯島楼」まで行ったンだよ」

顔を捩じ上げ首に血筋を浮かべて、次郎吉は吐き捨てた。

「残念だが、賭場にいた連中でお前に権十郎の言伝を伝えたという者を誰も知らねえし、お前が洲崎の岡場所にいたという証を申し立てる者もいねえときてる」

 嘉吉は重ねて次郎吉に怒声を浴びせた。

 おそらく権十郎の手下の何人かが役回りを振り割って次郎吉を嵌めたのだろう、との推察くらいは嘉吉にもつくがそのことを口にすることは出来ない。

 すると次郎吉は自棄になったかのように目の前の高橋佐内に「八丁堀の乾分にはこんな節穴しかいねえのか、町奉行所の御用聞が聞いて呆れるぜ」と毒づいた。

 それまで高橋佐内は田舎芝居でも見物するかのように上り框に腰を下ろしたまま落ち着いた風情で聞いていたが、八丁堀定廻同心の立場を貶されては黙っているわけにはいかない、とばかりに背筋を伸ばし肩で息をするかのようにて丹田臍下に力を込めた。

「黙れ、お前の日頃の所業はお見通しだぜ。御上に不埒な言辞を弄すと承知しねえぞ」

と、高橋佐内は貫禄十分な大声で叱り飛ばした。

 嘉平に十手を授けた先代が隠居して、佐内が三十二にしてやっと同心見習から本所改役になってからまだ三年しかたっていない。元気な父親を持ったために同心見習から昇進が遅れ、高橋佐内は同期の同心と比べれば随分と老けている。しかしそのため風格と威厳が備わり吟味する威圧感は十年来の同心にひけを取らないのは怪我の功名だろうか。

「岡っ引嘉吉の探索によりあらましお前の調べはついている。順序が後先になったが、鞘番所へ送る前にお駒が殺害された佐賀町の長屋でこれから検分する」

 大声でそう宣するなり、高橋佐内は手先に向かって顎をしゃくった。

 それを合図に二人の手先が土間に畏まっている次郎吉に飛びつき、後ろ小手に縛り上げた。次郎吉は「何をするンだ」と叫んで暴れようとしたが、たちまち腕の関節を決められて三和土に捻じ伏せられた。

 高橋佐内が自身番の腰高油障子を引き開けると、山のように集っていた野次馬がさっと後ずさって道を開けた。おけいが門前仲町に辿り着いたのはその時だった。

 縛られて引き立てられる次郎吉を目にして「遅かったか」と臍を噛んだ。高橋佐内の後に手先二人に取り縄を引き立てられて次郎吉が続き、その後ろに嘉吉と五郎松が続き、町内の番太郎や鳶衆が後ろを固めている。

「ちょいと、嘉吉兄ィ」と、おけいは蒼褪めた顔をして手招きした。

 しかし嘉吉は野次馬の中から小さく手を振るおけいに見向きもしないで歩き去った。どうしたものかと思案したが、先に加賀町へ行くしかないと思い定めると、後の裏路地へ入って小走りに駆け出した。

 嘉吉の先回りをするしかない。八丁堀同心は隊列を従えているため幅一尺や三尺の裏路地を進むわけにはいかないから手間取る。少しばかり遠回りになってもせめて六尺、一間幅の道を行かなければならないため、町を取り囲む河岸道を順に拾って大回りをしなければならない。だから嘉吉たちより先に着くには近道の裏路地を取れば良い。

なぜおけいは嘉吉たちよりも先に加賀町へ行こうと思ったのか。それは八丁堀同心が次郎吉を下手人として鞘番所へ送り込むまでに「次郎吉は下手人じゃない」と、嘉吉に教えるつもりだからだ。次郎吉を下手人として一旦は鞘番所へ送ってから解き放ちにする事態にでもなれば、高橋佐内の失態は免れない。それはつまり岡っ引嘉吉のしくじりでもある。

 小走りに路地を駆けながらも、おけいは頭の中に深川絵図を広げて門前仲町から加賀町へ行く近道をとった。高橋佐内たちが次郎吉を引っ立てていたため、加賀町へ着くのにそれほど急ぎ足で歩くわけにもいかずかなりの時を費やしているようだ。そのためおけいが路地から出て河岸道から油堀西横川越しに伊沢町を眺めてまだ一行の姿すら見えなかった。

 的屋の軒先に差し掛かると、店に客があるのか男たちの低い話し声が聞こえた。

「門前仲町の自身番へ次郎吉が引っ張られて、八丁堀に問い詰められていましたぜ。検分のために間もなくお駒の家へ引き立てられて来ますぜ」

 と、駆け込んだ男は小声で家の主人に報せていた。

 おけいは報告を受けている相手が藪七だとすぐに分かったが、そんなことよりも自分はあれほど急いで裏路地の近道を拾って来たつもりだったが、的屋の店内では早くも藪七に自身番の様子を報せる者がいることに驚いた。

自身番の取り調べの様子は腰高油障子一枚を隔てて表の野次馬たちに筒抜けだ。すると嘉吉と棚橋佐内が大声で次郎吉を取り調べていたのもそれを計算してのことなのだろうか。だとすればそれほど案じることではないのかも知れない、と微かな安堵がおけいの脳裏を過った。

「おう、おけいじゃないか」

と呼び止める声がして、嘉平が三尺路地からフラリと姿を現した。

「なんだ嘉平か、お駒の長屋で何してたのさ。黒江町の荒物屋で店番のご隠居相手に将棋を指してたンじゃなかったのかい」

 おけいは話を続けようとしたが、嘉平が右手を上げておけいを制した。長屋の入り小口でおけいが取り調べの経過を知らせるまでもなく、高橋佐内を先頭に捕縄で引き立てられた次郎吉たちが掘割を隔てた伊沢町の河岸道に姿を現した。

「おっと、儂が睨んだ通りにやって来やがったな」

と、嘉平は得心したかのように呟いた。

「なに言ってンのさ。次郎吉は下手人じゃないって、嘉平は言ったじゃないか」

 おけいは詰るように言ったが、嘉平はおけいに構わず歩き出した。そして緑橋を渡って加賀町へやって来た高橋佐内を出迎えるように小走り歩み寄った。高橋佐内は橋板から河岸道に足を踏み込んだまま立ち止まると、嘉平の顔を見詰めて「うむ」と頷いた。嘉平と高橋佐内はそれだけで心が通じ合ったかのようだった。嘉平が佐内の父親から十手取り縄を預かった折には、佐内はまだむつきをした赤子だった。その当時から嘉平は八丁堀の組屋敷に出入りしていたのだ。

「旦那、お久しゅうございます。お駒殺しを陰で糸を引いているのは元締の権十郎にて。材木町へ配下の者を差し向けて身柄を取り押さえた方がよろしいかと」

 と、嘉平は高橋佐内にそっと耳打ちした。

 高橋佐内は黙ったまま手先の小太郎に目顔で合図して、何事もなかったかのように河岸道を長屋へと向かって歩き始めた。ただ合図された手先は番太郎と五、六人の鳶衆を連れて油堀に架かる豊海橋へと向かった。

 町方同心は手先を二人従えるのが決まりだった。手先とは代々同心の家の一角で同心とともに寝起きする家来のことだ。武士ではないが同心と共に町奉行所へ出入りするためいつも羽織を着用していた。高橋佐内の手先の一人の名は小太郎だが決して小柄な人物ではない。高橋佐内と同じ年恰好の三十前後で上背は高橋佐内より一二寸ばかり高い五尺と六寸ほどか。男の平均が五尺一寸ほどだから、むしろ大太郎と呼ぶにふさわしい。

 高橋佐内は捕方と同行してはどうかと目顔で聞いたが、嘉平はほんの少し首を振ってここにいる、と目顔で答えた。万が一にも藪七やその仲間が逃げ出さないように、嘉平は的屋から二十間ばかり離れた橋袂に立って河岸道を見張るつもりのようだった。

 高橋佐内が橋袂に立ち止ったのはほんのわずかな間だった。次郎吉たちと捕方を振り返ると、橋袂から離れて直ちに歩き始めた。小太郎たちが別れても町方同心高橋佐内を先頭に総勢七人ばかりの一行だ。目立たないわけがなく、捕方の一行が加賀町の河岸道を次郎吉を引き立てて進むと、たちまち物見高い野次馬が何処からともなく集まってきた。片側町の表店を的屋の前まで来ると嘉吉は捕方の一行から離れた。

「おう藪七、イの一番にお駒の許へ駆けつけたお前から部屋の状況を詳しく聞きたい。ちょいと長屋のお駒の家まで来てくれないか。八丁堀の旦那も次郎吉もお揃いだぜ」

 嘉吉は長屋へ向かう捕方を見送りながら、店先から声を張り上げた。

「やはり、下手人は次郎吉ですかい」と店土間から声がして、藪七が軒下に姿を現した。

「誰が下手人かはお白州の吟味で明らかになることだ。ただお前は長屋でお駒がどのようにして死んでいたか、今朝見た通りを八丁堀の旦那に教えてくれれば良い」

 そう言うと、嘉吉は店土間にいた二十歳にも満たない小僧にも来るように手招きした。

 既に高橋佐内や次郎吉たちは長屋へ三尺路地を入り、遠巻きに野次馬が集まっていた。怪訝そうな顔をしている藪七と若い男の肩を押すようにして、嘉吉たちも三尺路地を入った。するとたちまち野次馬が三尺路地の入り口に集まって犇めき合った。

 嘉吉たちの後に続いて三尺路地へ入り損ねたおけいは野次馬たちに塞がれた格好となり「通しておくれ」と黄色い声を張り上げなければならなかった。

 やっとの思いで長屋の六尺路地へ入ると、お駒の家の入り小口にはものものしく鳶衆が長柄の鳶口を構えて取り囲んでいた。それを遠巻きに長屋の者たちが見詰め、大勢が一言も発しないで息を潜めていた。

 時折、家の中から叱責するかのような高橋佐内の張りのある声が聞こえた。

「この土壁のヘコミはお駒の頭が打ち付けられた痕だろう。お駒のおろくを改めた医師によるとおろくの首には扼殺とは異なる首を絞めた痕跡が認められたぞ。それは紐で締め上げたものではなく、恰も相撲のノドワで持ち上げたものと思われ、下顎の付け根の骨が砕けていたとの由だ。それをなしうるにはかなりの腕力と上背のある者だ、とな」

 そう言って、高橋佐内はあからさまに下手人を暗示した。

 藪七はかつて富ヶ岡八幡宮の奉納相撲で大関を張っていたほどの男だ。齢は取っても小柄な女をノドワで吊るし上げ、壁に体を打ち付けて気絶させるのは朝飯前だろう。

「心張棒が腰高障子に支してあったンですがね」と、差配が言い訳がましく申し立てたが、「そんなことは、」と、嘉吉が遮った。

 そして杉板壁際まで行くと心張棒を手にして、腰高油障子の敷居の上の節をトンと叩いた。すると節が抜けて親指ほどの穴が開いた。呆然と見守る高橋たちを尻目に、嘉吉は表に落ちている節と削り屑を拾い上げた。

「この通り、カラクリ師でなくても解ける仕掛けだ。下手人は紐をあの節穴から通して、その紐を心張棒の端の穴に通して表から操ったのさ。ただ抜いた節穴を埋め戻すのに薄い木片を必要とした。それも生木の木片でなければ抜いた節を元に戻しづらい。それでこのようにネコヤナギを削った。その笹掻きにしたネコヤナギの小枝がお前の店先に落ちてたぜ。お前は次郎吉がカラクリ奇天烈斎の許で修業を積んだことから次郎吉に罪を被せようと、笹掻きに削ったネコヤナギをそれらしく船着場の上り小口に落としたのだろうが、奇天烈斎の一番弟子の頓珍斎にそのネコヤナギを見せたところ、カラクリ師の修業を中途で投げ出した次郎吉でもそんなに下手にゃ削らないと言ったぜ」

 嘉吉の言い聞かせるような説明に、藪七は次第に顔を紅潮させながら板の間に畏まって聞いていたが、ついに我慢ならないという眼差しで「どうして儂がそんな危ない橋を渡る必要があるンだ」と大声を上げた。

八丁堀同心の前で不満を口にした藪七に、その場にいた者は一様に驚いたように顔を見合わせた。一瞬静まり返ったが、高橋佐内のカラカラと笑う声が響き渡った。

「そんなことは知らねえよ。それも含めて、じっくりとお白州で取り調べるまでだ」

 そう言いながら、高橋佐内は板の間に畏まる藪七の傍に寄って腰を屈めた。

「藪七はお駒殺しと自分は係わりのないことだと言い張るつもりだろうが、言い逃れの出来ない不手際を、お前は三つばかり仕出かしてるぜ」

 藪七の団扇のように大きい耳元に顔を寄せて、高橋佐内は囁くように言った。

「一つはお駒の一件が自害で片づけられそうになって慌てたことだ。お駒は次郎吉の手にかかって殺されたことにしないと、この事件を仕組んだ意味がなくなるってことだ。二つ目はお駒の三味線が壊れていたことだ。お前は日頃からお駒が三味線の練習を始めると怒鳴り込んでいたようだな。三味線はお駒にとって大切な商売道具だ。次郎吉にとっても搾り取るお駒の稼ぎのタネだ。次郎吉が三味線の胴を足蹴にすることは決してないぜ。三味線を蹴飛ばした者はお駒が爪弾く三味の音に鬱憤がたまっていた証拠だ。そして最後の三つ目のしくじりが命取りだ。事件のあったお駒の家になぜかお前がイの一番に駆けつけて部屋を土足で汚して回り、長屋の女房達と一緒に掃除をした。それもご丁寧に板の間に水を流して血を舐めたように拭き取ったってことだ」

 高橋佐内がそう問い詰めると、藪七は「三味線や掃除のことは、」と口を挟んだ。

「俺の与り知らぬことだ。三味線を儂が壊したのを見た者はいないし、掃除は差配が店子に命じてさせたことだぜ」

 そう言うと、藪七は敵討ちでも果たしたかのように大きく息を吐いて安堵の色を浮かべた。すると土間でおとなしく控えていた差配が顔を上げた。

「いやいや藪さん、それは違うよ」と、落ち着いた声をかけた。

「儂が騒動に気付いて駆けつけて来たときには、板の間はもうに水を流したように水浸しだったンだよ。お駒さんの周りも水浸しで、雑巾掛けするしかなかったじゃないか」

 差配は泣き出しそうなほど眉尻を下げて高橋佐内を見上げた。

 差配の言うことが本当だとしたら、藪七は何かを隠そうとしたことになる。「ああ、そうだったのか」と高橋佐内の胸に一つの考えが去来した。

「お駒を殺した当座は早く逃げることと心張棒の仕掛けを作ることに気が行って、夜中であったし自分の大きな血染めの足跡が板の間にやたらと残されているのに気付かなかった。しかし眠れない夜を過ごすうちに足跡が気になりだし、朝早くお駒の家に行って心張棒が支ってあることを長屋の者に知らせるために大声を上げて腰高油障子の桟を叩き、隣の大工に心張棒が支ってあることを確かめさせてから蹴破った。家の中へ入ってみると、果たしてそこら中に自分の大草鞋の血の足跡がべたべたと残っていた。幸いなことに大工は土間に入ったきり、むせ返る血の臭いと血の海に沈んでいるお駒に仰天して、大きな足跡がそこら中にあることまでは気づかなかった。そこで藪七は懸命に草履の泥で消そうとしたが、半ば乾いた血糊は消せるものでもなく、どうにも窮して水甕の水を柄杓で板の間にばら撒いたってことだろう」

 高橋佐内はそう言って、藪七を見下ろした。

「しかし旦那、誰も儂の足跡を見た者はいねえンでさ」

と、藪七が高橋佐内を揶揄するように落ち着いた声をかけた。

 なるほど若い頃から香具師として苦労した者のことだけはある。八丁堀を前にしても腹が据わっている、と高橋佐内は感心して頷いた。

「その通りだろうぜ。お前の大きな足跡は寝とぼけた大工がしかと見る前に水をぶちまけて消しちまったからな。しかし問題は支ってあった心張棒よ。上の敷居近くの節穴から紐を操るにはそれ相応の上背が必要だ。六尺近いお前なら難なく出来るが、五尺そこそこの次郎吉なら踏み台がなければできない相談だぜ。その踏み台は何処にあるンだ」

 と高橋佐内が問い詰めると、さすがの藪七も顔を蒼くした。

「今度の事件が自害で片付いてはお前が困る。どうでもお駒殺しの下手人として次郎吉を仕立てなければ元締の権十郎に顔が立たねえって、そうだろう」

と、高橋佐内は畳み掛けるように藪七に向かって声を張った。

「お駒殺しを次郎吉の仕業にして、次郎吉を獄門台送りにして消するように、とお前に持ちかけたのは元締の権十郎だ。材木町の家屋敷を乗っ取るには次郎吉に死んでもらわなけりゃならねえ、と権十郎に命じられたはずだぜ。そこでお駒殺しを折角カラクリ師の仕業と見せかけるように仕組んだつもりが、自害でケリがつきそうになった。慌てたお前は自分が削ったネコヤナギの小枝を誰かに見つかるようにと、店の前の河岸道に投げ捨てたのさ。削り屑が抜いた節穴の節を元に戻すのに必要だってことはみんな知ってることだ」

そう言うと高橋佐内は腰高油障子の敷居の上の波銭大の節を顎で指した。

「嘉吉、あの節をこっち側から突いてみな」

 そう言われるや、嘉吉は三尺土間に降りて、懐から十手を取り出してトンと突いた。

すると節は簡単に抜けて表側に落ちた。さっそ表に回った嘉吉は節と削り屑を手にして戻ってきた。

やや強引な推測だったかと高橋佐内は藪七の顔を見たが、藪七は死人のように顔を蒼くして口を堅く結んでいた。

「見ての通りだ。籐四郎にでも見破られるカラクリを節穴に細工してカラクリ師崩れの次郎吉に濡れ衣を着せようとしたのだろうが、かえって猫柳の小枝を店の前に捨てて墓穴を掘ったな。昨夕から帰っていない次郎吉がどうやって小枝をお前の店の前に捨てるンだ」

そう言うと、高橋佐内は腰を伸ばした。

「もっとも香具師の仁義として世話になった元締の命なら、どんな無理難題であろうと応えなけりゃ、元香具師として渡世の義理が果たせねえからな」

 そう言葉を継ぐと、高橋佐内は小さく溜息をついた。

亀のように依怙地なった藪七から自白を得るのを諦めたかのように、高橋佐内は藪七の傍で小さくなっている二十歳前の若者に「そうじゃねえのか」と声をかけた。

 おそらくこの若者も香具師だ。門前仲町の屋台を場所割で元締から分けてもらって、なんとか口を糊塗している香具師仲間の一人だろう。

「誰の差金か知らねえが、お前は藪七に門前仲町の自身番の様子を逐一報せていたようだな。お前も権十郎ともども裁きを受けなけきゃなるめえぜ」

 中腰に屈み込みながらそう言うと、膝に添えられていた若者の右手を素早く奪うように取って逆手に捩じ上げた。

「おう、藪七とこの若造に縄を打て」

 そう言うと鳶衆がすぐに動いたが、藪七に飛び掛かった二人の鳶衆は怪力で投げ飛ばされた。巨躯からは想像できないほど身軽にその場に飛びあがるように立つと、藪七は相撲の立会さながらに猛然と板の間から三尺土間を飛び越し、腰高油障子を芝居の書割を壊すように体当たりして破り出た。

 六尺路地にいた長屋の者たちは悲鳴を上げて後退り、おけいが前に押し出される格好になった。藪七は何かを思い出すかのように一瞬立ち止まっておけいの顔を見て口の端に笑みを浮かべ、熊手のような両手を広げておけいの首を掴むように差し出してきた。その刹那、飛鳥のように家から影が躍り出た。

「往生際の悪い奴だぜ」とべらんめえ口調が藪七の背に浴びせられるや、夕日に白刃が一閃した。抜き打ちに振り下ろした白刃は藪七の首根に峰打ちの一撃を見舞い、藪七はおけいの首に掴み掛かろうと両手を伸ばした格好のまま腰砕けにくたくたとその場に崩れた。

「おけい、大丈夫か」と嘉吉の声がして、お駒の家から飛び出てきた。

「わっちは大丈夫だよ。それよりこれを八丁堀の旦那に」

 そう言うと、おけいは帯に差していたネコヤナギの小枝を差し出した。

 嘉吉から小枝を受け取ると、高橋佐内はしげしげと見ていたが、

「おう次郎吉、この小枝を見てみろ」

 おけいの手から受け取った小枝を、高橋佐内は家から縄付きで出てきた次郎吉に見せた。 次郎吉は高橋佐内の掌の小枝を見るなり、

「旦那、カラクリ師は目を瞑っていても芯を外さないように削るものでさ。そうしないと茶汲み坊主でも途中から明後日の方角へ行ってしまいまさ」

と、意外なほど律儀な口吻で答えた。

「お駒殺しの下手人にお前を仕立てようと、藪七がやった小細工だ。ケチなカラクリ芝居を用いて内側から心張棒を支って一見したところ自害だが、探索に慣れた者の目ならすぐに見抜けるほどの仕掛けを施しておいた。しかし今朝お駒のおろくを改めたおいらが「自害かも知れぬ」と自身番で漏らしたため、藪七は慌ててさきがけ削りに削った小枝を堀割の船着場から河岸道へ上がった辺りに転がしたのだ。それを拾い上げたのが嘉吉の妹おけいだったのさ。どうやら、藪七は策を弄し過ぎたようだぜ」

 そう言ってから、高橋佐内は次郎吉を見詰めた。

「うむ、一目で素人が削ったものだと見抜くとは大したものだ。しかし、お前も無罪放免とはいかねえ。言うまでもないが博奕はご法度だ。博奕に手を出せば江戸十里四方所払か石川島寄場送りだ。お前は自分の人生の芯を削り損ねたようだが、今からでも遅くはない。罪を償った暁には心を入れ替えてきっちりと芯が通るように修行をやり直すこった」

 そう言うと、捕縄を持つ手先に向かって顎をしゃくった。

 

 鳶衆が藪七や次郎吉たちを引き立てると、嘉吉を目顔で呼んだ。

「嘉吉、ちょいと材木町へ行ってみよう。捕方として小太郎に五人ばかり付けたから間違いはねえと思うが、元締の権十郎も元はれっきとした直参旗本の三男坊だ。乱暴狼藉が祟って二十歳を前に勘当されたようだが、ヤットウの腕は確かだと思わなければならねえだろうぜ。小太郎は八丁堀の道場でおいらの相手をして育ったため、手先といっても剣術はかなりの腕前たが少しばかり気になる」

 嘉吉にそう言うと顔を上げて「この三人を鞘番所に繋いでおけ」と捕方に命じた。

嘉吉の返答を待つまでもなく、高橋佐内は長屋の出入り口へ向かって歩き出した。八丁堀同心然とした黒紋付き着流しに巻き羽織の高橋佐内が三尺路地へ入ると、野次馬たちはさっと道を開けた。両側を焼杉の板壁に囲まれた三尺路地を抜けると、既に赤みを帯び始めた夕日が長々と影を曳いている河岸道に出た。向かった二十間ばかり先の橋袂に嘉平が一人の若者の腕を関節技に決めて捻じ伏せていた。

「嘉平、その男はどうしたい」

 十間も先から、高橋佐内は声を張り上げた。

「権十郎の許へ加賀町の顛末をご注進に走ろうとしていたから、こうして取り押さえたって訳でして。旦那、どうしたものですかね」

 と、嘉平は間の抜けたような問いを投げ掛けた。

「問われるまでもねえ、縛り上げて鞘番所へ繋いで置け」

 そう言うなり、高橋佐内は後ろを振り返って「おい誰か嘉平に手の貸せる者はいねえか」と、捕方の助勢に集まった界隈の鳶衆に声をかけた。

 さっそく六尺棒を持った二人が嘉平の許へ駆けて行った。そして嘉平が指図するまでもなく男を後ろ高小手に縛り上げた。

 嘉平は藪七の乾分を縛り上げずに押さえつけるだけにしていたのは、実は岡っ引には何の権限もないからだ。下手人を縛り上げることは勿論のこと、捕縛の権限すらもなかった。すべては八丁堀同心の指図があってはじめて下手人を縛り上げることができる。だから嘉平は男を捻じ伏せたまま、高橋佐内が来るまで待っていたのだ。

 高橋佐内は嘉吉と権十郎の屋敷へ行くが嘉平にどうするかと尋ねた。すると嘉平は「倅に跡目を譲って隠居した身ですぜ」と返答した。いつまでも父親が出しゃばっていては嘉吉に肩身の狭い思いをさせることになる。嘉平は捕縛した男たちを鳶衆とともに鞘番所へ引き立てことにした。

 高橋佐内と嘉吉は加賀町から対岸の堀川町に架かる豊海橋で油堀を渡った。堀川町の河岸道に立つと、材木町は深川を東西に流れる油堀と並行する仙台堀とを繋ぐ油堀左川の対岸に見えた。権十郎が居座っている屋敷が何処にあるかは野次馬の人だかりから、十数間の左川を挟んですぐに分かった。

「どうやら派手に騒いでいるようだぜ」

 そう言うと、高橋佐内は小走りに左川に架かる元木橋を駆けあがった。

 息せき切って嘉吉もそれに続いたが、橋の頂まで来ると玄関に集まっていた野次馬たちが河岸道に大きく後ずさりした。どうやら屋敷内の上へ下への大騒動は収まったようだ。

 小走りに高橋佐内と嘉吉が駆けつけると、丁度権十郎をお縄にしたところだった。さすが棟梁の家だっただけあって、敷地百坪ほどの土地に意匠を凝らした寄棟の平屋が立っている。その河岸道に面した西向きの玄関から縄を打たれた権十郎が引き立てられて出てきた。昼間から酒に酔っているのか、腰の定まらない足運びだった。

「首尾よくお縄にしたか」

と、高橋佐内が太鼓橋の元木橋の頂から声を掛けた。

「あっ、高橋様。二三人の乾分が家の窓から飛び出て逃げましたが、権十郎と一緒になって酒を呑んでいた野郎たち総勢五人ばかりを」

 と、小太郎は権十郎の取り縄の端を引き立てながら返答した。

「なんだ、権十郎たちはお天道様が高いにも拘らず酔っているのか」

 高橋佐内は河岸道の野次馬たちを牽制するかのように大声を出した。

 なにしろ権十郎は本所深川一帯の香具師の元締だ。屋敷に寄食している乾分だけでも十人は下らない。さらに権十郎の許に草鞋を脱いだ「一宿一飯の恩義」を受けている香具師の数は百人を下らないだろう。喧嘩っ早いだけでなく命知らずの上に前科持ちの無法者も何人かいるはずだ。権十郎を捕縛した捕方の人数の少なさから、妙な功名心を起こして元締の身柄を奪い返そうとする不埒者がいないとも限らない。

ここは八丁堀同心と界隈の岡っ引が駆けつけたことを野次馬たちに周知させた方が良いとばかりに声を張り上げたが、その目論見通りに野次馬たちは顔尾を見合わせて更に後ずさり、高橋佐内と嘉吉にたち道を開けた。

小太郎は町人髷こそ根が崩れて乱れているものの、手傷を負った様子はなかった。鳶衆の何人かは揉みあった際に殴られたのか、顔に痣を作っている者もいた。

 高橋佐内が先頭に立ち、そのすぐ後ろに嘉吉が権十郎の捕縄を持って続き、小太郎は最後尾の備えに回った。そうした陣容で黒江町にある鞘番所へと向かった。長い春の陽も既に大きく傾き、河岸道に長く影を落としている。

「おい権十郎、上々の首尾に早くも祝いの盃を交わしていたのか」

 と、高橋佐内は前を向いたまま権十郎に聞いた。

「藪七がしくじりやがったのか、それとも身内の裏切りでもあったのか」

 と、もつれる様な足取りで歩きながら、権十郎は呂律の廻らない舌で聞いた。

「どちらでもねえ。何事もお天道様が御見通しだってことよ」

 高橋佐内はそう言って「お前も年貢の納め時だな」と付け加えた。

 高橋佐内の言葉に権十郎は「年貢の納め時だとオ」、と吐き捨てた。

「ベラボウメ。納める年貢があったためしもない者がどうやって年貢を納めるンだ。教えてくれよ、八丁堀。食うや食わずの貧乏侍が直参旗本とはお笑いだぜ」

と、権十郎は濁声を張り上げた。

「みっともねえぜ。不惑を過ぎた野郎が、何を血迷っていやがる。乾分たちを使って次郎吉を下手人に仕立て御上の手で消す算段をするなぞ、外道の所業だぜ」

 前を向いたまま、高橋佐内はそう言って奥歯を嚙み締めて歩みを進めた。

 人の鏡となるべき直参旗本の無様さを河岸道に居並ぶ町人衆に聞かせたくなかった。

「ああ、俺は外道だとも。しかし、勘当になって家を追い出された直参旗本の倅が世間並みに身を立てるってのは、一町先の金的を矢で射抜くよりも難しいことだぜ。困難を承知でのし上がるってことは、無理をすれば道理が引っ込むってことだ」

 と高橋佐内の背に言うと、権十郎は泣き笑いのような引き攣った笑い声を上げた。

 その自嘲気味の笑い声は自分と野次馬たちに聞かせるものだと分かっていた。苦々しい思いで高橋佐内は黙ったまま夕暮れの河岸道に自分の陰に寄り添う、長く伸びた権十郎の影に鋭い眼差しを向けた。

「よう、八丁堀。三十俵二人扶持の御家人とはいえ首尾よく家督を継いだお主には分かるまい。知行地六百石直参旗本松平家の三男に生まれた俺の苦労なンぞは」

 高橋佐内の沈黙に勝ち誇ったかのように、権十郎は言い募った。

自分の利のために人を虐め人を痛め人を殺す野郎は許せない。ましてや自分の手を汚さずして、人をして悪行を働くとは外道の極みだ。

しかし直参旗本の倅は鞘番所ではなく揚屋に繋ぎ、評定所で若年寄りの裁きを受けることになる。高橋佐内などの八丁堀同心が所管するのは町衆だけで寺社や武士には手出しができない。だがいかに埒外だと解っていても、断じて見逃すわけにはいかない。高橋佐内はふつふつと腹の底から湧き上がる怒りを感じた。

高橋佐内は突然立ち止まると、黙ったまま後振り返りざまに権十郎の頬桁に拳を食らわした。ゴツッと鈍い音がして権十郎はよろよろとよろめき、

「なにしやがる」

と、口の端から血を流して目を剥いた。

「口を慎まないか。お前は直参旗本松平家の倅でも何でもない、ただの権十郎だ。大口を叩くンじゃねえ。人の立場を勝手に羨み、おのれの身の不幸をめめしく恨むとは何事だ。お前のケチな料簡の辻褄合わせに殺されたお駒のことを考えろ、お前の独りよがりの策謀に加担したがために獄門台に上がる羽目になった藪七の無念を思いやがれ」

 そう言うともう一発、高橋佐内は力を込めた拳を権十郎の顎桁に見舞った。


深川わかれ雪

                   深川わかれ雪

                                   沖田 秀仁

 鉛色の空で北風が唸りを上げ、黒い雲が矢のように流れて行く。

船尾の碇を打って艫に立つと、平治は凍える風を全身に受けて江戸湾を眺めた。

上背は五尺と七寸、並みの男が五尺一寸だから大柄といえるが荒くれ揃いの水夫たちの中に混じればそれほどでもない。大造りの容貌はどこかもの哀しい雰囲気を漂わせ、無口な唇は横一文字に引き締められている。太木綿藍縞の袷に羽織った刺子長半纏には銭形屋水夫頭と染め抜かれた紺襟が縫い付けられていた。

平治は海鳥が早くも姿を消した海原のうねりに目をやった。

いつ何時も海は気が抜けないが、ことに冬の海は人の目を盗むように刻々と様相を異にする。昨日も伊豆の港を発った早朝はベタ凪の瀬戸内海のように穏やかだった。鏡のような相模湾を滑るように船足がはかどり、昼下がりには鉄砲州沖に着けるかと思われた。しかし、三浦半島を廻ったあたりから俄かに白波が立ちはじめ、観音崎に到った頃には大荒れになった。江戸湾に入ると北風をまともに受けて鉄砲洲沖までが途方もなく遠かった。

間切りを繰り返しへとへとに疲れきってどうにか石川島沖の停泊地へ着いた頃には日もすっかり暮れていた。それから丸一日近く経った勘定だが、半日ばかり必死に舵柄を操った平治の腰はまだ苦っている。

「平治、どうやらまたひと荒れ来そうだな」

 塩辛声に振り向くと、舵身木に手を乗せて心配顔に空を見上げる萬蔵の姿があった。

「ああ、昼下がりから風が出てズンと寒くなりましたぜ。昨日も午後に江戸湾へ入ってから随分とてこずりましたが、冬の海は油断がならないですからね」

そう言いながら、平治は麻縄の利き具合をもう一度軽く引いてから腰を伸ばした。

 萬蔵は口元に笑みを浮かべた。船頭の萬蔵は自分が一々指図しなくても、平治はその時々に必要なことを弁えて仕事をし、水夫たちを使いこなし手際よくこなしていく。おそらく人一倍海が好きで、大海原へ航海に出るのが好きなのだろう。しかし、そうした男の中には往々にして陸での暮らしに見切りをつけて海へ逃れる者がいないでもないが、萬蔵は御法度に触れない限り立ち入ることではないと料簡している。生まれ育った深川で平治に何があったかは知らないが、人にはそっとして触れて欲しくない過去だってあるのだ。

萬蔵が珍しく頬に笑みを浮かべているが、それは何かを頼むときだ。相手が頬にぎこちない愛想笑いを浮かべるときは用心するに限るが、萬蔵の意図は透けるように初から読めている。が、平治はそれでも萬蔵に問うような眼差しを向けた。

「着いたばかりで何だが、この荷を降ろしたら年内にもう一航海乗っちゃもらえないか。支度が整い次第すぐ出港するようにと帳場からせっつかれているんだ」

 艫垣の平治へ近寄りながら、萬蔵がぶっきらぼうに言った。

 予期した通りの言葉に、平治は言いよどんで視線を足元へ落とした。

 萬蔵はしゃんと伸びた背筋や足取りは矍鑠としていて老い耄れたところは微塵もない。首筋から額まで潮風に灼けた浅黒い肌をし、豪胆な性格にふさわしく乱暴な造りの容貌は切れ長の大きな目に横一文字の太い眉毛をしている。若い頃に喧嘩でもして殴られたのか潰れた鼻は逞しく根を張り、唇も厚く少々のことでは動じない面構えだ。知識や経験の豊かな頼りがいのある千石船の船頭だが、既に五十に手が届こうかという年回りだ。普通の男ならそろそろ船を下りる算段を考える齢になっている。

 平治は十五の齢から廻船問屋銭形屋の船に乗って既に十一年になる。当初は北前船の炊夫として船に乗り込んだが一年も経たないうちに大柄な体躯を買われて水夫に引き上げられた。五年前に新造された恵比寿丸の船頭萬蔵に誘われて北前船から廻船へ移った。去年の春先には早くも水夫頭になった。一見順風満帆の船乗り人生のようだが、水夫頭になってから何かと厄介なことばかりだ。そもそも天保五年に就任した老中が商習慣を一変させたことからややこしくなった。難しい御政道のことは良く分からないが、三年前の天保十二年に廻船問屋に対して株仲間の解散と直売買の勝手が申し渡されて以来、新参者が勝手に港の仕事を横取りし船賃相場を荒らした。それだけでも大変なのだが、さらに深刻なのは海難処理に当たっていた十組問屋まで解散させられたことだった。

十組問屋とは廻船問屋の株仲間によって運営され中立の立場から海難事故を裁く仕置場のことだ。それが解散され仕置場がなくなったため、航海中に起こった事故はすべて相対で済ますことになり船頭や水夫頭の責任が格段に重くなった。

廻船問屋も運賃の引き下げと航海日数の短縮に迫られている。その皺寄せは天気を無視した無謀な出港に現れ、以前よりも海難事故が頻発した。水夫たちも同じ命懸けなら少しでも給金の良い廻船問屋へと堰を切ったように移り、銭形屋でも子飼いの質の良い水夫は少なくなった。萬蔵が真っ先に平治に声をかけた意図は師走の繁忙期に水夫たちを引き留めるためだ。船頭を補佐する水夫頭が誰かは水夫たちの命に直接かかわることだった。

瞬時にそうした思案が平治の脳裏を駆け巡ったが、

「ナニ、別に他の船へ移るってンじゃねえンですが、」と言ってから続きを言い淀んだ。

この度は野暮用があった。昨夕銭形屋から文などを船に届けたが、その中に珍しく平治に宛てたおすみからの文があった。おすみとは六つ違いの妹だ。この世でたった一人の平治の肉親だった。怪訝な面持ちで広げてみると『ご相談したきことあり、よって下船の折りにはぜひぜひお越し下され。南六間町嘉兵衛店 おすみ』と書かれていた。指を折るまでもなく既におすみも年増と呼ばれる齢になっている。深川は佐賀町の船宿藤屋に住込みで働いているはずだが、末尾に嘉兵衛店とあるのは長屋に居を移した証だ。どんな理由から転居したのか記されていないが、わざわざ文を託けたのはおすみの身の上に余程のことが起こったからではないかと、不吉な予感が一瞬脳裏を過ぎった。

「六つ年下の妹から相談があると銭形屋に文を託けていたもので。久し振りに深川へ帰ってやろうかと思います」

 下手な言い訳に受け取られないかと、平治は間の悪さを感じつつ横目に見た。

「お前の会おうってのが妹さんであろうと馴染みの女であろうと、おいらには何の関わりもないことだが、今夜は陸に泊まるのか」

萬蔵は天気が崩れそうな海に目を遣りながら、船に泊まってもらいたいとの気持ちを言葉の端々に滲ませた。そうした萬蔵の心情が分からないでもないが、平治は「ちょいと、今夜は陸に上がろうかと」と、済まなさそうに盆の窪に手をやった。二度までも断られて無理強いはできないと、萬蔵は表情を和ませて溜息を吐いた。

「そうだな、平治も嫁を養い餓鬼がいてもいい年だ。せいぜい凍えるような江戸の夜を女の柔肌に温めてもらえ。しかし、今年最後の航海には付き合ってもらえるんだろうな」

萬蔵は繰り返し念押ししたが、それにも平治は曖昧に首を横に振った。

「珍しく妹から文が託けられていまして。おそらく碌でもない野暮用でしょうが、話を聞いてみなければ分かりませんので、返事は明日の朝まで待っちゃ貰えねえですか」

 平治がそう言うと、萬蔵は寂しそうな眼をした。

「半端な野郎と組んだら冬の海は命取りだ。おいらが水夫頭と恃むのはお前しかいねえ。当てにして待ってるぜ」

 萬蔵が未練がましくそう言うのに、平治は「へい」と腰を折って前甲板へ向かった。

水夫たちはお仕着せの長半纏を脱いで下船の身形に着替えて、行儀の良い鴎のように甲板に集まり手を翳して鉄砲州を眺めていた。鉄砲州には船番所があって、そこから船役人が荷改めにやって来るのだ。ただ師走時期になると荷を満載した廻船が各地から江戸へ入って混み合い、恵比寿丸の順番がなかなか回ってこなかった。

御定法で船番所の役人の検分が済むまでは誰もが船に留め置きとされている。船役人の許しがなければ江戸では陸を目の前にして町へ繰り出すことも出来ないのだ。さらに銭形屋では役人の検分が終わっても下船を許さず、船主と荷主の立ち会いが済むまでは全員が船上で待たなければならない決まりだった。

 やっと八ツ下がりに鉄砲州の船番所から定紋入りの高張り提灯を舳先に立てた二挺櫓の御用船が波に揉まれながら向かって来た。ようやく積荷改めの役人が来るようだが、その後を追うように一隻の艀が追走して来る。乗っている四人は銭形屋の番頭と手代と、あとの二人は新堀町酒問屋伏見屋の番頭と手代だろう。

 役人の検分は抜荷と御禁制の品を取り締まるものだから、建前としてはすべての荷を開けて調べなければならない。大変な手間がつくはずだが、実際には考えるほど手間取らない。船番所役人の本音は袖の下が目当てだ。恵比寿丸は灘の下り酒を船倉から甲板まで満載して来ている。土産に薦被りの一樽でも御用船に下ろしてやれば、役人たちは手早く済ませてすぐにも引き揚げるのだ。

しかし、荷主酒卸問屋伏見屋の荷改めはそう簡単には運ばない。船頭と双方の番頭が立ち会いの上、一樽ずつ確かめるため一刻以上もかかる。それというのも以前、風待ちに立ち寄った港で遊ぶ銭欲しさに何人かの水夫が積荷の酒を売り飛ばして、代りに水を詰めた樽で数を合わせたことがあったという。板子一枚下は地獄の渡世を渡る荒くれ者たちだ。水夫たちの中には少しでも気を抜くと、そうした事をやりかねない者はざらにいた。

 平治は一人で舳先の横柱に腰を下ろして、役人たちの検分を見守った。案の定、形ばかりの訊問をする間にも銭形屋の番頭たちが轆轤に吊り下げて四斗樽を役所の船に下ろすと、役人たちは相好を崩してそそくさと立ち去った。検分と称して手間暇かけられ何日も船を留め置きにされるよりは四斗樽一つで済めば安いものだ。役人たちも上等な下り酒をせしめて、忘年会の宴に花を添えられて顔が立つというものだろう。

 七ツ過ぎに伏見屋の立ち会い検分も済み、船頭の萬蔵が肩の荷を下ろした安堵の笑みを浮かべてやって来た。紙に包んだ給金を手渡しながら、

「ところで、今夜はいつもの定宿に泊まるのか」と聞いて、萬像は平治の顔を覗き込んだ。

 平治はわずかに双眸を曇らせて首を横に振った。萬蔵のいう宿とは銭形屋の定宿船松町渡場の旅籠佐野屋だ。上方から江戸へ仕事で来た商人が定宿としている旅籠で、誰が泊まっても身元をくだくだと詮索されない気安さがあった。

「いえ、深川は佐賀町の船宿藤屋に泊まるつもりでさ。そこで妹が世話になってるもので」

 平治は妹だとはっきりと言ったが、萬蔵は目元に妙な笑みを浮かべた。

 船宿と言ったのが萬蔵に変な気を回させたのかも知れない。船宿の中には曖昧屋とか売笑屋といって岡場所まがいの店も少なくなかった。藤屋はさすがに女までは置いていないが、男が商売女を引き入れてしまえばそれまでだ。覗き込む萬蔵に平治は曖昧に頷いて見せた。「そうじゃねえ、妹と会うだけでさ」と、重ねて念押しするのも野暮な気がした。

ただ、平治が深川へ足を向けるのは久し振りのことだった。理由は判然としないが平治の気持ちの何処かに深川へ足を向けるのをためらわせるものがあった。廻船が江戸へ入ると水夫たちは先を争うように船を下りてたとえ半日でも家へ帰って肉親と過ごすか、あるいは言い交わした女と肌を重ねて気持ちを確かめ合うものだ。しかし、平治は滅多に船を降りて陸へ上がらなかった。最初のうちこそ水夫仲間は「馴染みの女の一人でもいないのか」と聞いたものだが、今では誰も気にもしなくなっていた。

 平治は深川の海辺大工町に生まれた。小名木川が大川へ注ぐ河口近く、小名木川南河岸に貼りついたような細長い町だ。江戸初期に浅瀬が埋め立てられて深川が造成された頃には海が近く船大工が多く暮らして町の名がついたようだが、平治が育った天保年間までに江戸湾の埋め立てが進んで海は遥か彼方へ退き、海辺も船大工の作業小屋も町にはなかった。その代わりに大工や左官が暮らして、海辺大工町の名残を留めていた。

 平治の父親も大工だった。腕の良い大工だったと聞かされたことがある。が、平治が七つの折りに建前の足場が崩れて死んだため平治は父親の顔をほとんど憶えていない。ただ朧気に四角張った面立ちと、頬擦りをされると強い髭が痛かったのが記憶の底にあるだけだ。時折寂しく思うこともあるが、それでも生まれたばかりの乳飲み子だったおすみに比べれば父親の記憶があるだけまだましだった。

 しかし二人の幼子を抱えた母親に世間の風は冷たく、哀しみに浸っている暇はなかった。

 初七日を済ますと海辺大工町を立ち退き、母はおすみを背負い平治の手を引いて幼馴染のお重を頼って仙台堀河口へ住まいを移した。お重は母と同じ汐見町の近くに暮らす同じ年の仲良しだった。物心のついた頃から何をするのも二人一緒で、手習指南所などへも二人して通ったものだ。それが十二を過ぎた頃からお重は三味線などの稽古事に通いだし、母もその齢から裁縫の師匠の家へ上がるようになって、二人は滅多に会わなくなった。そして母は裁縫を覚えてから独り立ちし、黒江町の呉服屋から頼まれる針仕事に精出した。

十七の時に母はお使いに町内の煮売屋へ出掛けた折に、近所の作事場に助っ人で来ていた五歳年上の大工に見初められて海辺大工町へ嫁いだ。お重は十六の齢に門前仲町の料理茶屋へ仲居奉公に上がり、二年後にそこで業者の寄り合いに来ていた船宿藤屋の主人徳右衛門見初められて、父娘ほども年の離れた船宿の後妻に納まった。

 それぞれが所帯を持ってから母とお重は忙しさにかまけて何年も行き来はなかったが、風の便りで同じ深川に暮らしていることは知っていた。それが父の葬儀にお重が列席したのをきっかけに仲居として働かないかと誘われて母もお重を頼ることに決めたのだ。

子を産んだことのないお重は市松人形の童女のような顔をしていたが物腰はいかにも女将然として、使用人を差配し十室ほどの客部屋のある船宿を切り盛りしていた。

平治たち母子三人はお重の計らいで藤屋の裏手、大川端のいまにも川に落ちそうな石組の上に建つ物置小屋に置いてもらった。それは櫓や棹の置いてある文字通りの船宿の物置小屋だった。板囲いの壁からは冬になると隙間風が容赦なく吹き込み、寂しく行灯の火が揺れた。それでも雨露を凌げて、なんとか母子三人肩を寄せ合うようにして暮らすことができた。母のお栄は船宿の仲居として朝から晩まで一心に働き母子三人の暮らしを支えた。

徳右衛門は先妻との間に子が出来なかったため離縁したが、後添えに娶ったお重との間にも子が授からなかった。それで徳右衛門は自分が種なしだと悟ったのか、平治たちが藤屋へ身を寄せた頃には箍が外れたように女遊びに耽っていた。

 十一になると平治は船宿の使い走りをやめて、亡父の同僚だった棟梁の許へ見習奉公に上がった。海辺大工町の作業場では兄弟子たちから怒鳴られ小突かれる毎日だったが、平治は歯を食い縛ってしごきに耐えた。気持ちがくじけそうになると、髪飾りの一つとして碌に挿したことのない母を思い浮かべ、幼い妹の面影を涙に浮かべた。一日も早く一人前になり、家族を養い母に楽をさせたいとの一念で頑張り通した。

しかし、平治がまだ見習奉公を終えない内に、母は風邪をこじらせてあっけなく亡くなった。その日のことは記憶に鮮明だ。平治が十五の早春の夕暮れで、寒の戻りで牡丹雪の舞う二月末だった。親方の許から飛んで帰ると、母は物置小屋の煎餅布団で冷たくなっていた。苦労の切れ間のなかった母親の三十二年と余りに短い生涯に胸を掻き毟られた。

 小屋そのものが驚くほど粗末で狭かった。が、母が思いのほか小柄なことに胸が詰まり、不憫で涙が止まらなかった。いつのまにか、平治は五尺七寸の大柄な体躯になっていた。

 しかし母の死を哀しんでばかりはいられなかった。世間の荒波の中をまだ頑是無い九歳の妹と生きていかなければならないのだ。

平治は見習奉公をやめて船に乗ることにした。大工の見習奉公では給金を頂戴することはできないが、水夫ならたとえ見習の炊夫でも一航海が済むと幾ばくかの給金を手にすることが出来た。命懸けということなら大工も水夫も同じことだ。口入屋を通して銭形屋の炊夫の働き口を世話してくれたのは藤屋の旦那徳右衛門だった。妹の食い扶持を平治が給金から払うことで、従前通りおすみを藤屋に置いてもらうことになった。

 いまもおすみは藤屋で仲居として働いているはずだ。それが気にならないでもなかった。既にあれから十一年もたち、女としては娘盛りを過ぎていつの間にか薹が立ってしまった。

「わしは佐野屋にいるぜ。色良い返事を待っているからな」

 そう言うと、萬蔵は平治の傍を離れた。

 平治は給金を懐深く仕舞うと、酒樽を満載した艀の舷側に飛び乗った。

 

 四斗樽を満載した艀は喫水を深く沈めて、船足遅く越前堀へと向かった。

進路のかなたに見える鉄砲州明石町の角の、浪除稲荷の無数の朱幟が空っ風に千切れるほどはためいている。凍えるような冷たい風をまともに受けながらも、平治は酒樽の縄を掴んで舷側に立って近づく江戸の家並を懐かしそうに眺めた。艀はまっすぐに浪除稲荷を目指して磯へと近づき、すぐ脇の高橋の下をくぐって酒問屋の並ぶ堀割へ入った。

 掘割を中ほどまで進み新堀町の船着場に横付けされると、平治は舷側から河岸道へ降り立った。ぷんと新酒の匂いが町に漂い、堀割に沿った片側町には金看板を上げた酒問屋が建ち並んでいた。お仕着せを着た小僧や手代が忙しそうに立ち働き、轍を刻んで酒樽を積んだ大八車が行き交った。年の瀬を迎えて町は活気に満ちていた。

 久し振りの陸の感触を雪駄の裏に感じつつ、平治は踏み締めるように大股に歩き出した。

元来が大工の倅だ。肩幅の広いがっしりとした体躯に上背もあり、浮世絵のような大造りの容貌をしていた。決して陽気な男ではないが、偏屈者というのでもなかった。縞の目も分からないほど着古した藍江戸縞の袷の上に、銭形屋の名の入った刺子長半纏を着込み素足に雪駄を履いている。両手に荷物は何もなく、五分に伸びた月代に角張った顔は髭面だった。水夫頭というよりも島帰りの咎人というにふさわしい身形と容貌だ。潮風にさらされた身体と刺子長半纏からは染み付いた潮の匂いがした。平治が大股に行けば荷下ろしに集まってきた荒くれの沖仲仕でさえ避けて道をあけた。

 河岸道を東へ向かい、掘割に架かる豊海橋を渡った。すぐ目の前に御船蔵があり、橋を渡った左手に船番所があった。道を挟んで船番所の向かいには高尾稲荷があり、その間を通ると急に視野が開けて大川の流れと反り上がった雄大な橋が目に入った。百二十八間もの長大さを誇る永代橋だ。平治は人の流れに従って橋へと歩みを進めた。

袂に笊が置かれて橋を渡る町人たちはその中に一人二文を投げ入れる決まりだ。五十年近く前、富ヶ岡八幡の祭礼の人出で老朽化していた橋が落ちて千人もの大勢の死者を出したことがあった。それ以来、町人が橋を渡る折に銭を支払い町普請としてそれを橋守りの費えに当てた。平治も二文を笊に投げ入れ、橋守の前を通って橋板に雪駄を響かせた。

せり上がるような橋板の両側には大川河口の景色が広がり、海を渡る一本道のようだった。橋の半ばまで来ると平治は立ち止まって欄干に両手を置いた。夕暮れ間近の大川河口の悲しいほどの景色に見とれた。鉛色の雲に覆われた西の空がわずかに茜色に染まり、江戸の海に黄金色のきらめきを映した。昼下がりから出はじめた風はいよいよ強まり冷たさを増し、海は蛇の腹のようなうねりを見せた。石川島の辺りには海が荒れるのを避けて停泊した裸の帆柱が林立し、その間を縫って豆粒ほどの艀が忙しそうに行き交っていた。

日暮れとともに風は勢いを増して波頭は砕け、海は泡立って狂暴な白い牙を剥くだろう。それに備えて萬蔵は銭形屋の使用人たちと恵比寿丸に留まっているだろう。そう思いつつ平治は石川島周辺の停泊船を眺めたが、どれが恵比寿丸か見当もつかない。眉根を寄せて数呼吸のあいだ海を眺めてから、平治は最後に溜め息を一つだけ吐いて欄干を離れた。

橋が下り坂になり深川が近づくにつれて気が臥せって来るのを感じた。深川の町には懐かしさと同時になぜか忌み嫌う感情が幼い頃から平治の心の中に渦巻いていた。深川が近づくにつれて橋板を踏む足が重くなった。

 永代橋を渡り終えて踏む土地は生まれ育った深川だ。堀割が縦横に走っている町にはいつも潮と木の香が漂っている。平治は橋袂に立ち止まって錆色に染まった町並を土手の高みから眺めた。舌に憶えの深川名物の団子を売る橋詰めの佐原屋も大戸を下ろして静かな佇まいを見せて、葉を落とした裸の欅の大木や銀杏の中に瓦屋根が整然と並んでいる。さびしい冬の夕景色が平治の心に暗く深い寂寥感をもたらした。大声で叫びたいほどの懐かしさが平治の胸に込み上げてきた。

 平治は大川端の大通へ足を踏み入れ橋袂の坂を北へ下った。大川端に細長く貼りついた町は佐賀町といって米蔵屋敷が海鼠壁を連ねている。陽の落ちた師走の蔵町に人影はなく、平治の刻む雪駄の足音だけが海鼠壁に大きく響いた。途中の油堀下ノ橋袂で白壁が途切れると、河岸に貼りつくようにして雑多な町家が重なり、その中で一軒だけ一膳飯屋の軒下行灯がともっていた。平治は縄暖簾を掻き分けて腰高油障子を開ける誘惑にかられたが、藤屋へ行くのが先だと足を速めた。

 油堀に架かる下ノ橋を渡ると仙台堀南河岸の船宿藤屋までは目と鼻の先だ。

 残照もすっかり消えた両側に米蔵屋敷の続く佐賀町の大通を平治は北へ向かった。風は一段と冷たくなり勢いを増して空で獣のように唸りをあげて大通りを吹きぬけ、平治の刺子長半纏の裾を捲った。月明かりはなく海鼠塀と空との境がかろうじて見分けられるほどの暗さだが勝手知った道だ、確かな足取りで寂しい白壁の続く道を淡々と歩いた。

大通りの両側に連なっていた米蔵屋敷も仙台堀に突き当たる半町ばかり手前で途切れる。そこから掘割に到るまでの狭い一画には小料理屋や船宿が軒を寄せ合い、人が暮らす気配を感じさせる。人肌の温もりを掛け行灯の明かりに感じて、ふと心がなごんだ。

 居酒屋の前を通って仙台堀に架かる上ノ橋まで来ると、平治は橋袂を左へ折れて大川へ突き出る河岸道に入った。藤屋の玄関は人目を避けるように大通から河岸道を三間ばかり入った川端にあった。船宿は密かに川から出入りできるようにそうした造りになっている。

 ぼんやりと灯った掛行灯の明かりに『藤屋』と染め抜かれた暖簾が揺れていた。

 平治は格子戸を開けて玄関に入り、低い声でおとないを入れた。ほどなく藍縞のお仕着せを着た若い女中が奥から出てきたが、手燭の明かりに平治を捉えて短く悲鳴を上げた。凶状持ちが押込み強盗にでも入ってきたと勘違いしたようだ。

 大きく目を見張って一歩二歩と後退った女中に、平治は頬に笑みを浮かべて見せた。

「いや、おいらはおすみの兄で平治という者だ」

 静かにそう言うと、若い女中は後退っていた足を止めて土間に立つ平治を見詰めた。

 女中の怪訝そうな視線を気にするように、平治も何気なく自分の着物を改めた。

海では荒木綿の仕事着を麻縄で縛り付けただけの身形で前を肌蹴ていても気にならないが、深川まで足を伸ばすつもりからやや改まって船を下りる前に袷の上に刺子長半纏を着込み、幅細の黒紐できりりと締めてきた。若い女中には凶状持ちに間違われはしたが、自分では結構まともな格好をしてきたつもりだ。これほどめかしこめば寄港する街の女たちは言い寄って来るが、江戸の町に暮らす者の目にはまともな姿と映らないのだろう。

 若い女中はしげしげと平治を見ていたが、しばらくして険しい眼差しを消して微笑んだ。

おそらく平治の顔立ちにおすみの面影と似通ったものを見出したのだろう、何度か頷いてから「おすみさんの兄さんかえ」と得心したように念を押した。

「ああ、廻船に乗っているため何年も深川へは帰っていないがな」

 塩辛い声でそう言うと、平治は口を結んで面を上げて女中に顔を見せた。

 平治を見て納得したのか、女中は落ち着いた眼差しをして奥へ引っ込んだ。しばらくして出てくると、女中は平治を玄関からすぐ近い一階の大川に面した部屋へ案内した。

 船宿は二階の角部屋を極上とした。男と女が逢い引きする場所にも使われるため、人目に差されない景色の良い部屋を良としたが、平治が案内されたのは身内が訪ねて来た時などに使われる内所部屋だ。いわば来客を通す客間というよりも、普段は余り使われない居間と呼ぶにふさわしいものだった。おすみが藤屋でどんな扱いを受けてきたか、なんとなく平治の心に落ちた。

 藤屋の主人徳右衛門は家にはいなかった。案内した折に女中は同業者の寄り合いへ行っていると言ったがそれが本当かは疑わしい。昔から船宿の商売は女将のお重に任せっぱなしで、徳右衛門は何かと口実を作っては家を空けていた。若旦那と呼ばれていた二十歳前から女遊びをしていたが先妻を離縁してからいよいよ盛んになり、二回り近くも年の離れたお重を後添えにしてからもその性癖はおさまらなかった。

 平治の応対に出て来たのは女将のお重だった。

 部屋に入ってくるなりどっこいしょ、と声を出して長火鉢を前に腰を下ろした。

亡くなった母と同じ年だから既に四十を一つか二つ出ているはずだが、子を産んでいない肌には張りがあり白髪が混じっているものの丸髷にも艶があった。ただほっそりとしていた柳腰の面影はなく、年毎に肉が付くのかまるで相撲取りのような体躯になっていた。下膨れの童のようなお重の顔を平治は複雑な思いで見詰めた。

「平治、他のことでもないンだ。おすみのことだけどさ」

 お重がいきなり妹の名を出したのに、平治は驚いて女将の顔を見た。

 お重は溜まりかねたように俯いた。その伏せた目顔は明らかに怒りのもので、黙ったままひとしきり火箸で灰を掻き回した。そして顔を上げると怒ったときの癖なのか、口を捻曲げて大きく溜息をついた。

「さんざっぱら世話になっていながら、一月ばかり前に何の断りもなく藤屋を出ちまったンだ。何でも南六間堀町は月見長屋で男と暮らしてるってンだから驚くじゃないか」

――飛んだ恩知らずの尻軽女だよ、と平治を見たお重の吊り上った眼差しが非難していた。

 思いも寄らないお重の言葉に、平治の胸に怒りの渦が逆巻いた。

「どうして、そういうことになっちまったンで」

 飛んでもない不始末をしでかしたものだと、平治は眉根を寄せた。

 ただ、おすみが理由もなくそんなことをするとは到底考えられなかった。どんな女かおすみの気心なら知っているつもりだ。しかし考えてみればあれから随分と月日がたっている。成人した年増女の気持ちは平治に窺い知れないものがあるのも確かなことだった。

「知らないよ、こっちが教えてもらいたいぐらいだ。その男ってのはウチにも出入りしてたケチな魚の棒手振だよ。野郎の名はなんでも一蔵とかいってたっけ」

 吐き捨てるようにそう言って、お重は穢らわしいものでも見たような目付きをした。

 平治は自分が辱められたように両耳が熱くなり、理由もなく怒りが頭の中で沸騰した。

「畜生め」と低く呻いて長火鉢の縁をぐいと掴んだ。ついぞ見たことのない平治の形相に、お重は怖じ気づいて身を仰け反らせた。

「女将さん、すまねえ。きっちりと片はつけさせてもらいやす」

 頭を下げて絞るような声でそう言うと、平治は逃げるようにして部屋を後にした。

 

 藤屋を飛び出て何処をどう歩いたか、犬のように鼻が利くわけではないが、気がつくと南六間堀町の月見長屋の木戸口に立っていた。江戸は火事が多いため長屋でも瓦葺にするよう御達しが出ているが、月見長屋は安普請の木肌葺だった。三尺路地を入って六尺路地へ入ると、猫の額ほどの地所に二筋の棟割長屋が建っていた。しかしお世辞にも小奇麗な長屋と褒められた代物でなく、軒は破れて傾き板壁も捲れて土壁が剥き出しになっていた。六尺路地のまんなかを走るどぶ板も腐り、冬なのにひどい悪臭が鼻を突いた。月見長屋と風流な渾名がついているが、実のところ家の中から月見ができるところからそう呼ばれているだけで、花鳥風月とは無縁な界隈の者なら誰もが知っている貧乏長屋だった。

 ここでおすみが魚を商う棒手振と暮らしているという。まさか、と半信半疑な思いで右手の家々から順次油障子の文字を拾って歩いた。奥まで行って鼻が曲がりそうな惣後架の前を横切って左手へ移ると、奥から二軒目に『いちぞう』と墨書された家があった。家の明かりが油障子をほんのりと橙色に染めていた。

 平治は背筋を伸ばして眉根を寄せた。

「誰かいるか、邪魔するぜ」力強い声で低く呼び掛けると、中で人の動く気配がした。

「へい」と、若い男の声がしたのを機に、平治は油障子を一気に引き開けた。

 三尺土間を挟んで、板座敷から土間の草履に足を下ろそうと屈んでいた男と顔が合った。

 それほど大きな男ではなかった。五尺と三寸ばかりか。しかし、年端も行かないうちから力仕事をしてきたのだろう、頑丈そうな骨太の体付きをしていた。陽に灼けた容貌は荒波に削られた岩のように角張り、意志の強そうな目鼻立ちをしていた。やに下がった甘さはかけらも窺えなかった。皺深く刻まれた法線などから歳は三十過ぎかと思ったが、間近に見れば二十と五、六だ。自分とそれほど変わらない年恰好に、平治は理由のない妬みのようなものを感じた。

「お前さん」と、女が短く呼び掛けた。

その切迫した声に、男は驚いたように足を引き上げて板の間の端に衣文を改めて座った。呼び掛けた女の声はおすみのものだった。平治は男の顔から目を逸らして声のした右手へ目を遣った。改めて見渡すほどの家ではない。棟割長屋なら何処でも九尺二間と相場は決まっている。三尺土間と素通しの四畳半があるきり他には何もない。

おすみは夜具を隠した枕屏風を背に座り、へっついの火の明かりを頼りにちくちくと針を動かしていたのか、膝の上には男物の仕事着が広げられていた。見回せば貧乏長屋の荒れ果てた外観からは思いも寄らないほど、部屋は小奇麗に片付けられていた。この師走の冷え込む季節にもかかわらず、部屋に手炙りの一つとして見当たらなかったが、懐かしいような暮らしの温もりがあった。おすみの横で羽釜がグツグツと泡を吹いて滾っていた。

「おすみ、これはどうしたことだ」

 平治は目の前の男を無視して、へっついの前に座っているおすみに声をかけた。

 そして後ろ手に油障子を閉めると、平治は大股に一歩だけ男に歩み寄った。

 ところがおすみはすぐに弁解がましく言い立てるでもなく、暗い部屋に明かりをともすためにへっついの火を付け木に移した。にわかに燃え上がった炎におすみの横顔が浮かび上がった。母に似たほっそりとした瓜実顔だった。細い眉が心なしか哀しそうにみえた。

「どうしたことだと、おいらは訊いてるンだぜ」

 堪りかねたように、平治は荒々しく声を張り上げた。

 そして射るような眼差しで、平治はおすみを睨み付けた。おすみは火を入れた行灯の横に端座して、両手を膝に重ねると平治に曇りのない双眸を向けた。

「おいらが一緒に暮らそうと持ち掛けたンでさ」

 一蔵がおすみを庇うように、平治との間に割って入った。

 平治は視線を一蔵に移して睨み付けた。二人の距離は一尺と離れていない。手を振り上げればたやすく横っ面を張れる間合いだった。喧嘩に手馴れた者なら即座に殴るか間を広げるか、迷わずに判断をしなければならない距離だ。

「なにお」と平治は凄んだ。新米の水夫なら竦むような凄みかただった。

 殴るぞ、と脅したつもりだが一蔵に動じた様子もなく、神妙な面持ちで座っている。殴りたいのなら殴られてやる、そうした男意気すら伝わってくるような潔さだ。良い根性をしてやがる、と平治は一蔵を見下ろした。

 ゴツッと、やにわに平治は一蔵の横っ面に拳を見舞った。骨と骨が当たったような鈍い音がして、一蔵はたまらず横倒しになった。

「なにすンだい」と金切り声をあげて、おすみは一蔵に駆け寄った。

 板座敷に横倒しになった一蔵に覆い被さるように身を投げ出して、おすみは上目に平治を睨みつけた。ついぞ見たことのないおすみの激しい剣幕に平治は息を呑んだ。

「イチさんはわっちを助けてくれたンだ」

 そう言うおすみの声が涙を含んでいた。

 平治は振り上げようとしていた拳を途中で止めて静かに下ろした。

突然、幼い頃の記憶が平治の脳裏に甦ってきた。それは六つ年下の妹と、大川の波が足元を洗うような物置小屋で、母が仕事を終えて戻って来るのを待っている情景だった。平治も泣き出したい心細さを隠して、いたいけないおすみがしくしく泣くのをあやしている切ない記憶が心に浮かんだ。いつも、おすみは泣いていた。その頃の名残りか、おすみの素顔は泣き顔だ。

「お前をこの男が助けただって。そりゃあ、どういうことだ」

 おすみに、平治は問い掛けた。いくらか優しい声になっていた。

横座りに一蔵の顔を覗き込んで唇から流れ出た血を拭っていたおすみは平治を非難するような眼差しで見上げた。

「おじさんがわっちを手篭にしようとしたンだ」

 寂しそうにおすみは言った。平治は眉根を寄せておすみを見詰めた。

「なんだって、徳右衛門がお前を手篭めにしようとしただって」

 絞るような呻き声をあげて拳を握り、平治は言葉を喪った。

 その刹那、平治の心の中に光が差し込み積年の封印が解き放たれた。

平治は怒りに満ちた顔を上げて、暗く煤けた船底の天井を見上げた。

思い出したくないばかりに深川を避けていた、忌まわしくも哀しい記憶が甦った。

 十五の歳に母の葬儀を終えてすぐに船に乗ったのは、あながち暮らしのためだけではなかった。平治は一刻でも早く母の悲しみが深く刻まれた深川から逃げ出したかったのだ。

 その記憶は足元を洗うような大川の波が石組に打ち寄せる音と凍える寒さを伴った。

 深々と冷え込む夜の出来事だった。ぴちゃぴちゃと波音がする物置小屋で、子供たちが眠った頃合いを見計らって闇のように薄汚い男が忍んできたのだ。それは思い出したくもないおぞましい記憶として、平治の心の奥底に鮮明に残っている。

寝ている平治のすぐ横で母は無言で抗らった。しばらくの間、闇の中で無言で争う気配がした後で、堪りかねたように「ここに置いてやってるンだ。良いだろう、なっ、なっ。いつまでいても良いンだから、なっ」と、粘りっこく囁く男の声がした。聞いたことのあるくぐもったその声は徳右衛門のものだった。異様な気配に目覚めた平治は闇の中で身を固くして、一刻も早く忌まわしい時が過ぎ去るのを願った。

 しかし、徳右衛門が忍び込んできたのはその一度だけではなかった。同じ脅し文句を囁きながら、夜の闇の中で徳右衛門は母を繰り返し陵辱した。そうしたことのあった翌朝は、母は決まって目を赤く泣き腫らしていた。平治はまだほんの餓鬼だったが、徳右衛門が母にどんなに惨いことをしているのか朧げながら分かっていた。

「そうだったのか、」

 と溜息とともに吐き出したが、平治は胸を締め付けられる苦しさに目を閉じた。

 今にして思えば当時の母は二十と四、五だ。幼馴染の亭主に弄ばれながらも、幼い子供たちを育てるために耐えたのだろう。母の哀しみを平治は思った。

「妾になれば贅沢をさせてやると言い寄ったようで」

 体を起こして座り直すと、一蔵がおすみに代わって応えた。

 平治は目を丸くした。こんなことがあっても良いものだろうか、との衝撃が平治の体を稲妻のように走った。

「夜明け前、寝床におじさんが入ってきたンだ。わっちは夢中でおじさんから逃れて、裸足で表に駆け出したンだ。おじさんは追って来たけど上ノ橋まで逃げた所で、魚河岸へ行く途中のイチさんに助けてもらったンだ」おすみは涙を拭って目を伏せた。

「わっちにまで手を出さなくても。もう、たくさん」

 そう言うと、おすみは小さくかぶりを振った。

 平治はおすみを見詰めて息を呑んだ。おすみも、知っていたのだ。

母が陵辱された哀しみに、平治と同じようにおすみも耐えていたのだ。

突如として平治の胸をやりきれない哀しみが満たした。そして、決して恵まれなかったおすみの半生を思った。生まれて間もなく父を亡くし、九つの歳には母をも亡くした。生きるためとはいえ、平治はおすみを一人だけ藤屋に預けて船に乗った。そうしたことが一瞬のうちに脳裏を駆け巡り、平治の胸を締め付けた。

 ふと我に返ると、ぐつぐついっていた羽釜が静かになり長屋までも静まり返っていた。

「おい、飯が焦げちゃいねえか」と、へっついを平治は指差した。

 おすみは急いでへっついに飛びつき、羽釜を下ろした。そして蓋をずらしたため湯気が立ち上り、部屋に飯の炊けた匂いが満ちた。それは一蔵とおすみの暮らしの匂いだった。

 二人は何年も前から夫婦だったように見えた。とても一月前から暮らしだしたようには思えなかった。それで良いのだと、平治は自分に一つ頷いた。

 妹の名は父がつけたと母から聞かされている。どんな職人でも道具を大切にするが、大工にとって墨壷は格別だ。建前の図面引きから材木の刻みまで、すべては墨付けから始まる。そうした思いを込めて父は生まれた女の子に『すみ』と名づけたのだ。妹の名のいわれを誰かから聞かされたわけではないが、平治には父の気持ちが痛いほど分かっていた。平治にとってもかけがえのない妹であることに変りないのだ。

 おすみが年頃になるとともに、兄としても放っておけず幾度か藤屋に文を送って縁付かせるようによしなに頼んだ。妹がなかなか縁づかないのが平治はいつも気掛かりだった。器量は十人並みと飛びっきりの美人ではないが、おすみの辛抱強い芯の固さを窺わせる地蔵眉と切れ長の目は母親譲りだった。しかしどういうわけか、ついぞおすみに縁談話は持ち上がらなかった。なぜだろうかと訝しく思ったこともあったが、その謎がいま解けた。これまでに幾度が持ち込まれたであろうおすみの縁談を徳右衛門が握り潰していたのだ。

「一蔵といったな。おすみを幸せにしてやってくれ、頼んだぜ」

 そう言うと、平治は油障子を開けた。

 身を切るような風が舞い込み、降りだした横殴りの雪が頬を打った。

 

 平治は足早に先を急いだ。

辻を西へとって新大橋詰めまで行き、そこから大川端の大通りを下った。

風が空で唸りを上げ、粉雪が激しく吹き付けた。大川の対岸は浜町から箱崎にかけて武家地が続いているが、雪簾に閉ざされて辻番の明かりすら見えなかった。

 平治は小名木川に架かる萬年橋を渡り、大股に大川端を下った。襟の擦り切れた刺子長半纏が風に捲くられ、音立てて裾がひるがえった。大きく見開かれた平治の目は異様に赤く涙ぐんでいるようだった。凍えるような風が遠慮なく襟首から体を吹き抜けたが、燃え上がる炎のような怒りに胸が張り裂けそうだった。きっちりとケリをつけてやる、と平治の両の拳は爪が掌に食い込むほど固く握り締められていた。

 たとえ徳右衛門を叩き殺しても晴らせないほどの怒りに心が震えた。藤屋の玄関先に立つと、平治は大きく息を吸い込んだ。藍暖簾が忙しく腰高油障子を叩き、軒下の掛け行灯の火が絶え間なく揺れていた。

「おう、平治だ。徳右衛門はいるか」

 油障子を引き開けると、平治は廊下の奥に向かって声を張り上げた。

 明かり障子を震わすほどの、水夫頭の威厳に満ちた声が藤屋に響き渡った。

「なんだ、大声で叫ばなくとも。ここは海の上じゃないンだよ」

 弱々しくそう言いながら、徳右衛門が奥の襖を開けて顔を出した。

そして櫓でも漕ぐように腰の辺りで手を振って、覚束ない足取りで出て来た。

外出から帰ったばかりか、徳右衛門は他所行の茶縞の袷に焦茶の羽織を着て紺足袋を穿いていた。五尺余りだった小柄な体は更に小さくなり、すっかり薄くなった白髪を小さな銀杏髷に結っていた。記憶の中の徳右衛門と比べて思いがけず老け込んでいるのに愕然とするものがあった。自分なりに覚悟を決め肩を怒らせて来たものの、平治はほの暗い廊下の明かりの下でその姿を目にして肩から力が抜けた。

徳右衛門に続いてお重が廊下に顔を出した。何があったのかと敷居の陰から襖に片手を添えたまま徳右衛門と平治のやり取りを見守っていた。

年を取るということは別れることだ。齢とともに深酒と別れ、色欲と別れ、逞しい肉体と別れ、親しい者とも別れ、とどのつまり自分の方からこの世と別れる。右衛門も既に様々なものと別れてきた齢だ。それが分別として蓄積されれば枯れた境地と評されるが、強い欲望の情念だけが残ればただの狒々爺に過ぎない。

 よたよたと上がり框の半間ばかり前まで来ると、徳右衛門は「こんな夜分に何の用だね」と縺れる舌で横柄な口を利いた。餓鬼の平治を顎で指図していた頃の癖が抜けないのか、徳右衛門の口吻は尊大な昔日のままだった。平治は徳右衛門に哀れみを覚えていたが、横柄な物言いに昂然と顔を上げて睨みつけた。

「徳右衛門、お前にゃ反吐が出るぜ」

 平治がそう叫ぶと、徳右衛門は惚けたように口を開けたまま小さな目を泳がせた。

 徳右衛門が何か一言でも横柄な言葉を吐こうものなら、たちどころに廊下に飛び上がって殴り掛かるつもりだった。雪駄の鼻緒が千切れるほど足の指の股に食い込んだ。

「女将さんの前だが、今夜ばかりは言わせてもらうぜ。おすみだっていつまでも餓鬼じゃねえ。お前が好きにしようたってそうはいかねえンだ。誰だって歳月が到れば大人になって手前の足で歩き出す。金輪際、おすみに近づくンじゃねえぞ。親子三人世話になった頃のおいらはほんの餓鬼だったが、今じゃこの通り腕っ節じゃお前にゃ負けねえ。おすみと一蔵に少しでも手出しした日にゃ、おいらが承知しねえからそう思え」

 平治が凛とした声を響かせると、お重が廊下に足音を立てて近寄ってきた。

「お前さん、何をしたんだね。おすみに手出しをするなと平治が言ったけど。お前さん」

 お重は激しい口調で詰るように徳右衛門の耳元で叫んだ。

 徳右衛門は平治とお重の顔を交互に見るように忙しく首を動かした。口の端から涎が落ちて白く光る糸を曳いた。

「世話になったな徳右衛門、これできれいさっぱりとお別れだぜ」

 平治が鬼のような形相で睨むと、徳右衛門はへたへたと廊下に座り込んだ。

 わずかに顔を上げて徳右衛門は小刻みに体を震わせ、お重に何かを言いたそうに口をもぞもぞとさせた。その徳右衛門を責めるようにお重が襟首を掴んで振り回した。

「おすみに何をしたンだね、お前さん。幼馴染のお栄にお前さんが夜這いをかけているのを、わっちはうまずめの負い目があったため死んだ気になって耐えたけど、今度という今度はそうはいかないよ。おすみを子に恵まれなかったわっちら藤屋の養女にしようと町役さんたちと相談していたんだ。そうしたわっちの苦労を台無しにしちまって」

 甲高く叫ぶと、お重は箍が外れたように徳右衛門を打った。

 人は老いるものだ。醜く老いるか威厳を保って老いるかは個々人のことだが、人はいつまでも権勢を誇ることはできない。年とともに肉体は若さを失い無理が利かなくなる。年を取るとは一町駆けてもなんでもなかったものが、十間も走ると脚が縺れるようになることだ。醜く老いた徳右衛門を目の前にして平治は肩から力が抜けた。もはや、この男は殴るに値しない。

「邪魔したな」投げ捨てるようにそう言うと、平治は油障子を開けた。

徳右衛門は廊下の片隅で子亀のように小さくなってお重にぶたれ続けていた。

 

 藤屋の玄関から仙台堀河岸に出ると大川から吹き荒ぶ北風に雪が交じって、横殴りに平治の頬を打った。足元の石組で大川から打ち寄せる波が騒いでいた。ふと石川島沖の恵比寿丸が気になった。

 九尺幅の河岸道を橋詰めまで戻ると、大通と交わる上ノ橋の袂に番傘をさして吹雪の中を寄り添う男女の人影があった。平治にはそれが一蔵とおすみだとすぐに分かった。

「この吹雪の夜中に夫婦が二人揃って何事だい」

 平治は二人の許へ大股に歩み寄って声をかけた。

 すると心配そうな眼差しで、おすみが問い掛けるように見詰めた。藤屋で平治が徳右衛門に乱暴を働いたのではないかとその眼差しが訊いていた。

「心配するねえ、なにもありゃあしねえよ」

 おすみの眼差しに応えるようにそう言って、平治は微笑んで見せた。

 おすみは黙って大きく頷いた。

「寒いから、早いとこ家へ帰りな」

 平治は優しく言って、二人に頷いて見せた。

 おすみは一蔵と目を合わせて何かを確かめると「兄さん」と言った。

「兄さん陸に上がって、」と言い募ろうとしたおすみを遮るように、平治は声をかけた。

「夫婦で力を併せて頑張るンだぜ」そう言って平治は頷いて見せた。

「それじゃ、おいらは行くぜ」と湿った声で言うと、一蔵に促されるようにしておすみが刺子長半纏にすがりついた。

「兄さん、わっちはいつも心配してるンだ。海に危険はつきものだって。瓦版に廻船が遭難したと載る度に、廻船問屋と船の名を確かめているんだよ。だから陸に上がって、」

 見上げるようにして、おすみは言った。

 平治は微笑んで「心配するねえ」と木枯らしに負けないように声を弾ませた。

 なおも言葉をかけようと口を開けたおすみを、平治は別れ言葉で遮った。

「二人とも達者で暮らせよ」

 そう言うと返事も待たずに、平治は踵を返した。

 わずかに積もった雪を踏み拉いて、平治は大股に歩きだした。足を向けた先には永代橋がある。藤屋に泊まれなくなったからには少しばかり遅いが、船松町渡場の旅籠佐野屋に無理を承知で頼み込むしかない。平治は吹き付ける雪飛礫を避けるように懐から六尺紺手拭を取り出して口を覆い、首の後ろで交差させて両端を衣文の中へ差し込んだ。

 一段と風が唸り、地吹雪のように粉雪が舞った。おすみは体を折って風に負けないように声を限りに呼んだが、平治は二度と振り返らなかった。そしてものの十間と行かないうちに、刺子長半纏の大柄な後ろ姿は横殴りの吹雪に掻き消えた。                                                                     

                                       終


消えずの行灯

     消えずの行灯

                                    沖田秀仁

 誰ともなくあくびを洩らして、手炙りに背を丸めた。

 絶え間なく軒先から落ちる雨垂れが油障子越しに聞こえていた。

 花見時の浮かれ気分に水を差された粉糠雨の降る肌寒い夜だった。

 宵の口から音もなく降りしきり、左平治は竪川二之橋詰めの自身番で無聊を囲った。

 花冷えというのか、手炙りに黙ったまま両手を翳して、番太郎と書役の三人で炭火を見詰めていた。こんな夜は事件の一つも起こらず、穏やかに時が過ぎてくれれば良いのだが、と左平治は内心ひそかに願った。四十の坂を越えた頃から膝の塩梅が思わしくなく、ことに雨模様の日にはしくしくと痛むのだ。

 そんな折り、忙しく水溜りを駆ける足音とともに長崎町の番太郎が蓑もつけずに駆け込んできた。引き開けた腰高油障子の桟にすがると、息も絶え絶えに体を大きく波打たせた。

「夜鷹蕎麦屋の親爺が南割下水の注ぎ口の河岸で殺されちまった」

 やっとのことでそう言うと、番太郎は上がり框に両手をついた。

南割下水とは御竹蔵の練塀から小普請組屋敷の連なる武家割を断ち割るように真っ直ぐに東へ延び、横川に注ぐ文字通り下水の流れる堀割のことだ。凶行のあった場所は本所南割下水が横川に注ぐ手前、橋袂の河岸道だった。

 水の滴るまま壁に懸けられている濡れそぼった蓑を纏うと、左平治は鉄砲玉のように自身番を飛び出た。笠を着けても粉糠雨は執拗にまとわりつき、顔のみならず月代まで濡れた。目の前の竪川河岸を大川に背を向けて東へ三町ばかり駆けると横川に突き当たる。その河岸道を左へ曲がって横川沿いに行けば長崎町だ。つごう七、八町ほどの道のりだが河岸道は泥を捏ねたようにぬかるみ、幾つもの水溜りができていた。左平治は素足に雪駄を履いていたが、泥饅頭と見分けのつかないほどに汚し後撥ねを散らして駆けた。その後を下っ引の富吉が泥塗れになって続いた。

 本所相生町四丁目の岡っ引左平治が下っ引富吉を連れて千葉街道は竪川のほとりの現場へ駆け付けたのは五つを少しばかり廻った頃だった。

 長崎町の番太郎の言った通り、南割下水が横川に注ぐ橋袂に十数人もの人だかりがして、ぼんやりと掛行灯をともした担ぎ屋台が放置されていた。吐き気を催させるほど生臭い血の匂いが濃厚に立ち込めていた。六尺棒を手にした町役の者たちによって野次馬は遠ざけられ、骸は屋台に頭を向けてうつ伏せに倒れていた。

「ちょいと御免よ」

 と人垣を掻き分けて骸に近づき、左平治は痛む膝を折った。

 夜鷹蕎麦の親爺は禿げ上がった頭に白髪まじりの箸のように細い髷を貼りつけて、泥水溜りに顔を沈めていた。左首の付け根がぱっくりと柘榴のように口を開けて赤い肉が見えている他には、着物にさほど乱れた様子はなかった。飛沫のように吹き出た血を拭った雨が水溜まりとなって、周囲一面が血に染まっていた。左平治は着物が汚れるのも構わず男を抱き起こした。

 浴びせられた刀刃を避ける間もなく斬り捨てられたのか、傷はその首筋の一ヶ所だけだった。掛行灯の明かりを頼りに傷口を改めてみると、左耳朶下あたりから入った刃が首の付根まで大きく抉っていた。襲った者がそれほどの手練とは思えない、石榴のような無残な刀傷だった。ただ不運だったのはその一太刀で血管を絶たれてしまったことだ。

 鳶の若い者たちが運んできた戸板に骸を移しはじめたため、左平治は立ち上がって血溜りから後ずさった。すかさず富吉が差し出した手拭を受け取ると、左平治は老爺を見下ろしながら泥汚れを拭った。年の頃は五十も半ば過ぎと見えた。血の気を失った男は青白い顔に皺を深く刻み表情は苦悶に満ちていたが、夜鷹蕎麦の屋台を長年担ぎ暮らした垢のようなものは窺えなかった。どこかすっきりとした面立ちをし、黒羽二重に羽織でも着せれば大店の旦那といった風情があった。どのような曰く因縁のある男なのか、と左平治は担ぎ屋台の掛行灯に目を遣った。そこには丸の中に辰と書かれた文字が明かりに浮かび、夜鷹蕎麦の老爺は本所の顔役辰三郎差配の者と知れた。

 この界隈の香具師や屋台は両国橋東広小路の顔役辰三郎が仕切っている。老爺の身元や身寄りは辰三郎に聞けばすぐにも分かることだ。鳶の若い者たちが戸板の四隅を手に立ち上がると、さっそく富吉に遠巻きに見守っている野次馬の中に下手人を見た者がいないか聞いて廻るように命じた。

 左平治は長崎町の番太郎たちと一緒に戸板の後についていった。自身番に入ると鳶の若い者を本所元町まで辰三郎を呼びに走らせ、土間の濡れそぼった仏に粗莚を被せた。

 手炙りに噛り付く暇もなく、富吉が二人の印半纏を着た若い木場人足を連れてきた。左平治は上り框に座って背を伸ばし、土間に立つ男たちに視線を上げた。

「わっしは元造でこいつは友吉。わっしら二人は仕事を終えてから木場でちょいとひっかけて、塒まで帰ってきたが小腹が空いたので蕎麦でも食おうかと、橋袂の掛行灯の明かりに近寄ったと思って下せえ。親爺は折助を一人つかまえて何か詰め寄っていやした。そうさね、折助の背丈は五尺と二寸ほどで細身の若い男でさ。背に木刀を差していやしたから折助にちがいありやせんが、暗くて顔まではよく分かりやせんでした。親爺が大声を上げたと思ったら、折助が長脇差を親爺の首根に叩き付けたンでさ」

 元造と名乗った男は印半纏を着た、二十歳を幾つも出ていない男だった。

「なにお、長脇差だって。折助が刀を帯びることはねえはずだぜ」

 左平治は思わず声を張り上げた。

 折助とは中間のことだ。足軽までは武家とみなされるが、中間は武家に仕える下男といった身分で、武家ではない。従って刀を帯びることは許されず、代りに木刀を背に差した。近頃では口入屋を通じて人足崩れなどの輩が武家屋敷に入り、中間として挟み箱などを担いで供揃えなどの下働きを勤めていた。

「包丁なんて生易しい代物じゃない。あれは確かに長脇差で」

 そう言って、二人の男は顔を見合わして確かめるように頷きあった。

 喧嘩渡世のやくざですら江戸者は出入りに長脇差を振り回さなかった。江戸は将軍家お膝元の御府内ということから武家以外の者が差料を帯びることは厳格に禁じられた。町人が旅をする折りに腰に差すのを許される道中差にしても長さは脇差程度のものに限られ、その筋の者でももっぱら匕首を用いた。

「しかし、後ろ姿に鞘も鐺も見えなかったぜ。どこからダンビラを引き抜きやがったか」

 そう言うと、若い人足は二人とも左平治に不思議そうな顔を向けた。

 人足の名前と居所を控えて帰してからほどなく、辰三郎が息を乱して若い者と二人で駆け付けて来た。土間の仏を一目見るなり、

「ご隠居の忠右衛門さんに間違いねえ」

 と、激しい呼吸の切れ切れに言った。

「ご隠居の忠右衛門だと?」

 左平治は辰三郎の顔を穴が開くほど見詰めた。

 顔役は町役や町名主と違って、御上から認められた御役目ではない。男稼業ともいわれ、頼って来る者ならだれかれ構わず飯を食わせて湯屋へも行かせ、家に泊めて仕事の世話までする。そうして真面目な世間のはみ出し者の面倒を引受ける一方で、堅気者に迷惑をかける破落戸には厳しく対峙して界隈の者から頼りにされた。

 辰三郎は若くして川並人足頭にまでなった男だが、いつも人足仕事で不始末をしでかしたしくじり者の面倒を見ていた。そのうち五尺八寸に相撲取りかと見紛う立派な体躯と、おおらかな人柄を見込まれて町衆に推されて顔役になった。年の頃は四十半ばと男盛りの脂ぎった大造りな容貌をしていた。

 左平治も年は辰三郎とおっつかっつだ。十五年前に十手を定廻の旦那から預かるまでは博奕をしたり、賭場の用心棒の真似事までやって木場人足のはぐれ者として過ごしてきた。それがちょっとした浮世の義理から喧嘩出入りに加わり縄目を受けてしまった。軽くて所払い悪くすると終生遠島もあり得る窮状から、定廻の旦那に手先にならないかと持ち掛けられ、一も二もなく飛びついた。

 似通った年格好の男同士だが、二人の経て来た道のりは随分と違っている。だが、人の生き様が年齢とともに収斂するように、二人の立場も似たようなものになっていた。

「へい、名を忠右衛門といって日本橋は呉服町の小間物屋京屋のご隠居で。つい六日ばかり前、夜鷹蕎麦の屋台を貸して欲しいといわれて、」

 律義者の辰三郎らしく、丁寧に腰を折って左平治に言った。

「ちょっと待ってくれ。呉服町の京屋っていえば、先月娘が拐されて殺されたあの京屋か」

 左平治は眉根を寄せて辰三郎を睨んだ。

 川向こうの御城下であった事件は左平治の埒外だ。本所深川で起こった事件でも縄張り内でない限り、左平治が十手片手に駆けつけることはない。本来なら事件そのものを知るよすがもないのだが、読み売りの瓦版で騒ぎ立てられた事件のため、町の噂とともに左平治の記憶にも鮮明だった。

 事の起こりは年が明けて十四になったばかりの京屋の末娘が亀戸天神鷽替え行事に出掛けた帰り道に、何者かに拐されたことだ。その日の暮れ六つに五百両を薬研堀に架かる元柳橋袂まで持って来るようにとの文が八つ過ぎに京屋の店先に投げ込まれた。手代と番頭が二人して金子を用意して出掛けたが、手拭いで顔を包んだ下手人は金を受取ると娘は橋の下にいるといって、元柳橋袂に舫っていた猪牙船で大川へ逃げてしまった。しかし、無事を願った娘は冷たくなって橋の下に捨てられていた、というのがその粗筋だ。まだあどけなさの残る大店の娘が無残に殺されたことから、芝居狂言の演し物のように人々の口の端に上った。

 町方役人が娘付きの女中に亀戸天神境内で遭遇した下手人の人相を聞いたが、怖さが先に立ってほとんど何も覚えていなかった。もっとも、殺された娘付きの女中はほんの十二の子供に過ぎなかった。世間では小娘二人をなぜそんなに遠くまで行かせたのかと非難の声が湧いたが、お京は昼前に近くの踊の師匠の家へお浚いに出掛けたまま、誰にも言わずに女中と二人だけで遠く亀戸まで鷽替え行事を見に行ったのだ。

 忠右衛門は数年前に店を長男に譲って、向島に寮を建てて隠居していた。妻は末娘を産んだものの肥立ちが悪く産後間もなく亡くなり、忠右衛門はこの世を儚んでいたという。

「へい。だけど夜鷹蕎麦の屋台を担ぐのは見るよりも存外大変でしてね、これがいい若い者でも顎を出す力仕事でさ。好きや酔狂で出来るものじゃねえと、あっしはご隠居に意見したンですがねえ」

 掬い上げるように左平治を見て、辰三郎はくぐもった声で言った。

「それで、顔役はご隠居から一定の損料を取って屋台を貸した」

 話の先を促すように、左平治は継ぎ穂を渡した。

「その通りで。ご隠居はどうしたわけか南割下水界隈を掛行灯に火をともして流していたようでさ。水揚げは他の屋台とは比べものにならないほど少なく、何処か河岸を決めなきゃ駄目だと商売のコツを教えたンですがね。それでもご隠居は掛行灯に火を入れて夜もすがら、重い屋台を担いでこの界隈を流していたンで」

 何の酔狂でそうした真似を隠居はしていたのか、判じかねるように辰三郎は首を傾げた。

 これは飛んだことになりやがった、と左平治も腕を組んで首を捻った。そもそもこの一件は二重の意味から左平治の埒外だ。まず京屋の事件から洗い直さなければならないが、御城下は左平治の縄張り違いだった。しかも左平治の縄張り違いだというだけではなく、左平治に十手を授けた旦那ですら本所改役同心という立場だ。御城下には別に御城下を縄張りとする定廻同心が目を光らせている。左平治が勝手に呉服町まで十手片手に聞き込みに出張るわけにはいかないのだ。

「向島の隠居所にも報せの者を走らせたのか」

 左平治が後ろを振り返って書役に問うと、五十過ぎの痩せた町役が「へえ」と気のない返事をした。どうやら誰も出掛けていないようだ。しかし、一刻も早く誰かを遣れとは命じなかった。

 外は漆黒の暗闇で粉糠雨が降っている。これから提灯の明かりを頼りにぬかるんだ道を長命寺くんだりまで行って戻るのは誰しも難儀に思うところだ。夜明けを待って使いを遣っても大差ないと誰しも考える。この分では呉服町の京屋へも使いを出していないだろうが、それも仕方ないかと左平治は浅く頷いた。

 

 半刻もしないうちに自身番は静けさを取り戻した。

 人が去った後も、左平治は夜っぴて長崎町の自身番にいた。

 富吉や番太郎は横になって休んだが、左平治は一睡もしなかった。

 いつしか夜来の雨も上がり、外がしらみだし油障子に一条の陽が差した。

 町役が握り飯の差し入れをしてくれて、左平治たちは腹拵えをして人心地ついた。

 明け六つの鐘とともに自身番から使いの者が八丁堀と向島と呉服町の三方向へ駆け出した。八丁堀の旦那が顔を見せるのは昼前後だが、忠右衛門の縁者が駆けつけて来るのは昼前頃か、と案じながら番太郎が淹れてくれた出がらしの茶を啜った。

 左平治の予想を裏切って、意外にも京屋の倅が一番に駆けつけた。使いの者を出してから一刻余り、手妻のような早さに驚きの声を上げた。

「日本橋の袂から猪牙に乗ってきたンでさ」

 鳶の若い者が涼しい顔をして種明かしをした。

 日本橋から堀割を箱崎にとって大川に出ると、後は竪川河口まで漕ぎ上り横川へと入る。そうすれば道を駆けるほどの手間はつかない。なるほどと左平治は泥撥ねのない京屋の若主人の裾を見て頷いた。昨夜の雨でぬかるんだ道を着物を汚さないで歩くのは難渋するが、水路を船で来れば泥濘を心配する必要はなかった。

 若主人は名を忠兵衛といって戸板の仏と面立ちの似た三十前の優男だった。骸に取り付いて泣き喚くというのでもなく、平静に粗莚を捲って身元を確かめると「確かに手前の父親です。大層ご迷惑をお掛け致しました」と落ち着いた声音で言った。左平治は役目柄数多くの愁嘆場に立ち会ってきたが、これほど感情を表にあらわさない男も珍しかった。

「すぐにも父を引き取って連れて帰りたいのですが、」

 と、忠兵衛はやや青ざめた顔をして左平治に言った。

「父親の忠右衛門は何者かに殺されたンだぜ。心当たりはないのか」

 怒ったように左平治は言葉を投げ掛けて、土間に立つ忠兵衛を掬うように見た。

「詳しいことは知りませんが、父はお京の仇を討ちたかったようでございます。そのために屋台を担いでいると茂助から聞かされていました。おそらく父は下手人を見つけ出し、仇を討とうとして反対に返り討ちにあって殺されたのでしょう」

 無表情に淡々と、忠兵衛は語った。

 だが忠兵衛の説明を聞いていて、左平治の胸に疑問が春先に芽吹く木の芽のように次々と膨らんだ。

「何者かに末娘のお京が拐されて無残にも殺されたのは知っている。だが、その仇を討つためになぜ忠右衛門は屋台を担いで南割下水を流して歩かなければならなかったンだ」

 度を失って、左平治は鋭い声を放った。

 まだ町方役人が挙げてもいない下手人を、忠右衛門は知っていたということなのだろうか。それでは何を手掛かりとして忠右衛門は下手人を突き止めたというのか。町方役人の端っくれとして面目を潰されたように、左平治は眉間に皺を寄せて忠兵衛を睨み付けた。

「ですから、手前は詳しいことは何も存じません」

 思わず息を呑むと、忠兵衛はにわかに悔しそうに顔を歪めた。

 忠兵衛に人の感情が乏しいわけではなかった。声を震わしてそう言うと、忠兵衛の双眸からみるみる大粒の涙があふれた。長男のみならず家人の誰にも何も告げずに、忠右衛門は末娘の仇を探していたのだろう。秘していたのは詳しく話せば京屋に障りが及ぶと怖れたためだろうか。とすると、自ずと忠右衛門が仇と睨んだ相手が限られてくることになる。果たして下手人は武家ということなのか?

 左平治は眉根を寄せて土間の忠右衛門を見詰めた。若い木場人足が下手人は折助だったと証言した。恐らくその男がお京を拐して殺し、挙げ句に身代金まで奪ったのだろう。

 忠兵衛はこのまま父を連れて呉服町へ伴って帰るつもりだったのか、自身番の腰高油障子に連れて来た数人の男の影が映っていたが、定めとして定廻が骸を改めるまでは勝手に移せないことになっている。そのためもう一度、昼過ぎに出直すようにと言い聞かせた。それならば京屋で葬儀の段取りをしなければと、忠兵衛は唇を噛んで帰っていった。

 忠兵衛が引き取ってから間もなく、向島の寮から下男がやってきた。五十を過ぎた、忠右衛門と年格好の似通った男だった。名を茂助といい元は京屋の下男だったが、忠右衛門が向島に隠居するのについて寮へ移って身の回りの世話をしていた。

「御隠居はお品を寮に呼んで、お京を攫った男たちのことを聞いていました。しかし、御隠居が何を聞き出し、何を考えていらしたのか、わしは何も知りません」

 茂助は変わり果てた忠右衛門の傍らの土間に座り、涙ぐんでぼそりぼそりと語った。

 隠居してから数年来寮に暮らし、忠右衛門は世俗を捨て俳諧の道に精進していたようだ。それが末娘が無残なことになってから人が変わってしまったといった。

「町方役人が当てにならない以上、自分でやるしかないと言われまして……」

 そう言いかけて、飛んでもない失言に気付いて茂助は首を竦めた。

『町方役人が当てにならない』とは岡っ引の前では口が裂けても言ってはならない台詞だった。しかし、左平治は苦笑しただけで茂助を咎めなかった。それよりも、なぜ忠右衛門は夜鷹蕎麦の屋台を担いで南割下水界隈を流して歩いたのかが引っ掛かった。お品の証言を訊いて何を掴んだというのだろうか。

 なぜ、下手人捜しが夜鷹蕎麦の屋台を担ぐことに繋がるのか、と左平治は首を捻った。

 夜鷹蕎麦はその名の通り、相手にする客は夜鷹かその遊客と相場が決まっている。そのため、夜鷹の立つ河岸道の決まった場所で決まった刻限に蕎麦を商う。顔役が屋台の数を定めて差配するのも、屋台同士で無益な縄張り争いが起こらないようにするためだった。

 南割下水は大層な数軒の武家屋敷がある他は無役の貧乏御家人の暮らす小普請組屋敷が無数にあるきりだ。町割は南割下水の端、横川に沿って一筋へばりつくようにあるのみで、夜鷹蕎麦の商いには不向きな土地柄だった。それがなぜ、忠右衛門は南割下水界隈を夜っぴて売り歩き、挙句の果てに殺されなければならなかったのか。

 昼前、茂助と左平治がまだ話し込んでいる折りに、南町奉行所同心陣内範義が顔見知りの小者を従えてやってきた。肩をいからせて入ると、土間の粗莚を顎で指した。

「これが京屋の忠右衛門か。惨いことだの」

 乾いた声でそう言うと、陣内範義は左平治が空けた上り框に腰を下ろした。

すぐに番太郎が茶を淹れて差し出し「ご苦労様です」と声をかけた。それを汐に、茂助は後ろ髪を引かれるように忠右衛門をじっと見詰めてから帰っていった。

「京屋の事件は御城下で起こったもので拙者の埒外だが、もう一度洗わなければなるまい。忠右衛門が何を掴んでいたか、それが分かれば良いのだがな」

 書役の差し出した口書に一通り目を通すと、陣内範義は怜悧な眼差しを左平治に向けた。

 左平治に十手を授けたのは陣内範義の父親の陣内義輔だった。八年前に先代が亡くなると見習いで出仕していた陣内範義が二十歳前で跡を継いで同心になった。それから八年、まだ三十前の陣内範義と、左平治は何かにつけて肌があわなかった。

「忠右衛門は本所元町の顔役に頼み込んで、ここ十日ばかり夜鷹蕎麦の屋台を担いでいやした。それも一晩中行灯をともして南割下水の界隈を流していたとか」

 左平治が口書を補足するように言うと、陣内範義は鷹揚に頷いた。

「南割下水界隈は武家割地だ、下手人は折助だったと生き証人が語っているようだが、」

 と言ってから、陣内範義は「面倒だな」と呟いて顔を歪めた。

 武家の取調べは町奉行所の管轄ではなかった。武家屋敷はいわば独立した国のようなもので、町方役人が探索に踏み込むことはできない。たとえ下手人を見つけたとしても武家屋敷の使用人だったら、当主の許しを得て身柄の引き渡しを願うしかない。が、それすらも下手人が武家身分の者ならば町奉行所の権限は及ばず評定所の取り扱いとなる。面倒だと顔を歪めた陣内範義の思いは左平治にも頷けるところだった。

「左平治、下手人を探索する手立てがあれば存念を申せ」

 口書を無造作に放り投げると、陣内範義は土間に立つ左平治に問い掛けた。

「まず、京屋のお品が忠右衛門に何を述べたのか、訊かなければなりません。それ以後、忠右衛門は夜鷹蕎麦の屋台を担ぎだしたわけですから、それ相当のきっかけとなる事柄を申し述べたと思わねばなりますまい。そして、忠右衛門が担いでいた屋台を引き続き担いで南割下水の界隈を流して歩くことが肝要かと」

 左平治が落ち着いた態度で腰を屈めると、陣内範義は挑むような眼差しを向けた。

「どうして、曰く因縁のある屋台を左平治が担がなければならぬ」

 言い続ける左平治を遮るように、陣内範義が口を挟んだ。

「理由はどうであれ下手人は屋台を担いでいた忠右衛門を襲ったわけですから、柳の下に二匹目の鰌がいると思わなければならないかと」

 おだやかな物言いで、左平治は受け答えをした。すると、陣内範義は嘲るように言葉を投げ付けた。

「忠右衛門を殺した折助がお京殺しの下手人だとでもいうのかえ」

 陣内範義の口吻に、左平治はムッと反発したが瞬時に気を鎮めた。

「さあ、それは調べてみなければ何とも言えませんが」

 殊更おだやかにそう言って、左平治は唇を噛み締めた。

「まるで無駄かもしれないことでも、やってみなければ分からないと申すのか」

 大仰に溜め息をついて、陣内範義は肩を落とした。

 思わず嫌気が差して、左平治は天井を見上げた。

 慨嘆、という言葉がある。馬鹿馬鹿しくなって天を仰ぎ「旦那」と胸のうちで陣内義輔に呼び掛けた。旦那は御子息に何を教えたンですかい。本所改役同心ならせめて岡っ引の意見を聞く前に、自分なりに探索の手筈ぐらい少しは考えてくれなきゃ。

――良いですかい、若旦那。調べてみなけりゃ何事も始まらねえんですぜ。

 と、怒鳴りそうになって、左平治はぐっと堪えた。

「ふむ、あい分かった。同僚の定廻を通して京屋の事件を再度調べて頂こう。だが、左平治が夜鷹蕎麦の屋台を担いで武家割の土地を廻るのはよせ。万が一にも旗本と事を構えたら何とする。下手人に繋がる糸口を掴んだらすぐに知らるンだ、良いな」

 それだけ言うと陣内範義はすっくと立ち上がった。

 そのまま帰ろうと歩みだした陣内範義を、左平治は眉根を寄せて睨み付けた。

「若旦那、仏の傷口を改めなくてもよろしいンで?」

 非難めいた口吻で左平治は言った。

「すでに左平治が改めたンだろ。口書も読んだし、いまさら見るまでもあるまい」

 振り返った陣内範義に構わず、左平治は戸板の傍に膝を折った。

「いや、見て頂きやす。先代から町方の心得として、骸の声を聞けと教えられました」

 そう言うと、左平治は粗莚の端を持って捲った。

 先代から仕える小者の惣吉は「よさないか」と左平治に小声を鋭く放った。が、自身番にいたのは左平治だけではなかった。番太郎に書役それに町役が黙って見詰める視線に、陣内範義は後ろめたいものを感じたのか渋々と膝を折った。

「下手人は前から斬りかかったものと思われます。右片手袈裟斬りにしたのでしょうが、踏み込みが深すぎたのかそれとも忠右衛門が掴み掛かろうと身を寄せたのか、いずれにせよ間合いを誤って刀刃は首の付け根に入らず、抉るように首筋を撃ちつけております」

 石榴のように捲れた傷口を指差して、左平治は一つ頷いた。

「従って剣の腕はさほどではない、というより刀の扱い方も知らない男かと」

 左平治は一通り述べると、陣内範義の所見を待つ素振りで見上げた。

 陣内範義は左平治を一瞥して、不機嫌そうに口元を曲げた。

「下手人は折助だといったではないか。折助が刀の使い方を知らなくとも驚くに値しない」

 そう言い放つと、陣内範義は戸板を離れて腰高油障子を開けた。

 

 昼の竪川沿いに相生町の表店に戻ると、左平治は泥のように眠った。

 岡っ引だけでは所帯が養えないため、左平治は小体な仕舞屋に暮らし女房のお松に小間物屋をやらせていた。一晩家を空けたぐらいでは、お松はコトリとも不服を洩らさなかった。岡っ引の女房なら五体満足に戻っただけで安堵の胸を撫で下ろさなければならない。いつお役目で命を落とすかも知れない身なのだ。

 夕暮れ時に目を醒ますと、左平治は当分夜は家を空けると女房に言った。

「陣内範義の旦那はよせと言ったが、今夜から屋台を担ぐぜ」

 軽く肩を回しながら店座敷に入り、左平治は長火鉢の前に座った。

「なぜ旦那に止められたのさ」とお松が聞くと、左平治は鼻先で笑って見せた。

「大身のお旗本と事を構える羽目にでもなって、抱席のご身分を旦那の代で失いたくないのだろうよ。人は守るべきものがあると弱くなるものさ」

 雁首に刻みを器用に詰め込みながら応えて、左平治は五徳の下へ顔ごと屈み込んだ。

「お前さんはいつ十手を取り上げられてもいい年だから、怖いものなしだね」

 お松は左平治に笑って見せて、長火鉢の傍らに箱膳を整えた。

 店座敷で湯漬けを掻き込んでいると、富吉が隠居の下男茂助を連れてきた。

「親分、茂助が隠居の遺品を整理していたらこんな書付が出てきたと」

 上がり小口に立ったままそう言う富吉に、左平治は「おう、二人とも上がれ」と声をかけた。

 そして、手を差し出すと富吉から紙切れを受け取った。

 桜紙のような粗悪なしわくちゃの紙に、達筆な手で走り書きがしたためてあった。

『仕込 紫看板 下がり藤』

 広い紙の片隅に、たったそれだけの文言しか書かれていなかった。

「それが御隠居の文箱の中、他の書面のいっち上にありました」

 左平治が紙片から視線を上げると、茂助が被せるように言った。

「お品を呉服町から向島の寮に呼んで、忠右衛門が直々に問いただして書留めたものだな」

 念を入れるように、左平治は茂助を睨み付けて訊いた。

 茂助は「へい」とこたえて、座敷横の土間に茶を淹れてきたお松に慌てて頭を下げた。

 紙片を見ただけで、左平治には忠右衛門が南割下水界隈を夜毎掛け行灯をともし流していた理由がおぼろげながら腑に落ちた。

「それにしても、どうやって忠右衛門は南割下水界隈と目星をつけたのだろうか」

 と、左平治は茶を啜りながら独りでごちた。

 武鑑でも繰って調べたのだろうかと頭を傾けて、覗き込んでいる茂助の視線に気付いた。

「わざわざ有り難うよ」と茂助に礼を言って、富吉に長崎町の自身番に詰めてろと命じた。そして二人が家を出ると、左平治は本所元町へ向かった。

 辰三郎の家は両国橋東広小路が表店に突き当たった本所元町の裏手、通り一筋隔てて回向院と向き合う荒物屋だった。界隈の顔役が暮らす家にしては近所の小商いの店と同じ町並みに溶け込み、間口三間ばかりと小体な感じがした。店土間には棚からはみ出したように所狭しと雑多な荒物が置かれ、芝居小屋裏の道具置場かと見まがった。

 奥へ入ると店番の若い男が切り落としの店座敷にいた。

「顔役はいるかえ、相生町の左平治だ」

 左平治が声をかけると、若い男は黄表紙本から顔を上げて「裏ですが」と応えた。

 店先に出て家脇の三尺路地を奥へ入ると、二階家に陽射しを遮られた十坪ほどの空き地があった。そこには担ぎ屋台や香具師の屋台道具などが雑然と置かれ、辰三郎が道具を前に数人の若い者を指図していた。路地を入ってきた左平治を見つけると大柄な体の腰を屈めた。

「これは相生町の、昨夜から引き続きお忙しいことで」

 そう言って若い者から離れて、大股に左平治へ歩み寄った。

 どうやら夜の稼ぎに出掛ける夜鷹蕎麦や鮨屋台の段取りをしていたようだ。

「忠右衛門が使ってた屋台をしばらくわしに貸してくれないか」

 左平治は夜鷹蕎麦の屋台が並べて置かれた一角を見回した。

「あの屋台は血の飛沫で汚れてるし、縁起が悪いから叩き壊そうかと思ってやしたが」

――どうしてか、と問い掛けるような辰三郎の眼差しに左平治は頷いた。

「御用のために使うのさ。なんなら損料を払うぜ」

「今月分の損料は頂戴してるから良いンですがね、出汁も蕎麦も仕込んじゃいやせんぜ」

「いやいや、商売をするンじゃねえから、丼や七輪はいらねえぜ」

 左平治の言葉を信じ難いような眼差しで聞いて、辰三郎は小首を傾げた。

「あれですが、まだ手を入れてませんので掛行灯も飛び散った血が付いたままですぜ」

 そう言って辰三郎が指差した片隅に、黒い飛沫を浴びた屋台があった。

「あれで良いから、借りるぜ。夜が明けたらここに返しておく」

 そう言うと、左平治は屋台に近寄り横に渡した棒に肩を入れた。

 ゆっくりと力を入れると担ぎ棒が撓り、たちまち左平治は顔を歪めて「存外に重いものだな」と呻いた。

「この棚にゃ何が入ってるんだ」

 ゆっくり下ろすと、左平治は肩を回した。

「商売道具は何もかも入ったままで。どけたら商売になりやせんが、それでよろしいンで」

 辰三郎は左平治を見詰めて念を押し「ああ、全部どけとくれ」と左平治が頷くと、若い者に命じて棚の中の道具を取り出させた。実に様々な品物が両方の棚に詰め込まれていた。

 すべてを取り出すと随分と軽くなった。それでも五貫目近くはあるだろう。ふたたび地面に下ろすと、左平治は満足したように頷いた。

「掛行灯の油だけはたっぷり入れといてくれよ」

 他の屋台の棚に道具や材料を詰め込んでいた若い者に、左平治は声をかけた。

「親分、何になさるンで。まさかご隠居の跡を継いで、夜っぴて南割下水界隈を歩き廻るンじゃ……」

――ないか、と辰三郎は顔を曇らせた。

「ほう、良いところに目をつけたな。当りだよ」

 そう言うと、左平治は道具を取り出した棚の間に体を屈めた。

「ご隠居が殺されたばかりだ。悪いことにならなきゃ良いが」

 左平治を覗き込むようにして、辰三郎はくぐもった声を掛けた。

「わしは悪いことが起きなけりゃ意味がねえと思ってるがな」

 左平治はにやりと笑って、肩を入れて棒を担いだ。

 

 夜が更けるまで長崎町の自身番に屋台を置いて過ごし、四つ近くになって出掛けた。

 まだ夜風は冷たく、歩くたびに右膝が痛んだ。いつしか肩に食い込む棒の重さにも馴れ、当て所なく南割下水を挟んで両側の河岸道を流した。しかし、一巡りするうちに膝の痛みが強くなり、しかたなく左肩に担いで歩くうちに腰まで痛めたようだ。それでも、火を入れた掛行灯の明かりを頼りに、昨夜の雨で出来た水溜まりを避けて歩いた。

 南割下水は夜鷹がでるような風情のある河岸道ではなく、文字通り下水の流れる行き止まりの入堀だ。どぶの匂いと道連れに南割下水を御竹蔵から横川まで何往復したことだろうか。一様に御竹蔵に近いところに大身の旗本屋敷が多く、横川に近づくほど小普請組屋敷などの貧乏御家人の屋敷があった。あたかも身分でどぶの上流から下流を見下ろす配置になっていた。

 何軒かの旗本屋敷の長屋門には常夜灯とはいいがたい煌々とした明かりが障子に映え、大勢の興奮を押し殺した息遣いが洩れていた。おそらく、中間博奕といって長屋門の中間部屋に賭場を開帳して一晩中丁半博奕をしているのだろう。もちろん博奕は御法度だが、武家屋敷に町方役人の力が及ばないのを良いことに折助たちが胴元になって賭場を開き、当主の旗本も幾ばくかの寺銭を巻き上げて目を瞑っているのだ。

 忠右衛門はどのような心持ちでこの界隈を歩いたのだろうか。孫かと思われるほど可愛い盛りの末娘を無残に殺されて、無念やるかたない憤怒の色を刷いていたのだろうか。それとも、仇討ちをはたすべく執念の亡者となって闇夜を彷徨したのだろうか。誰にも推し量れない忠右衛門の心の闇のように、南割下水は深い闇に包まれていた。

 時折り長崎町の自身番で休み、一服点けて熱い茶を飲んだ。

「親分、こんなことをいつまで続けるンで」

 二十歳過ぎの若い富吉が情けなさそうな目をした。

「わしたちはこうして生きている。生きてる者が忠右衛門に代って下手人を御縄にしなけりゃなるめえ。斬られた忠右衛門の身にもなってみろ、四の五の文句は言えねえはずだ」

 そう言うと、左平治はふたたび夜の南割下水界隈を流して歩いた。

 夜が白みはじめる前に、左平治の歩く河岸の向かい側の二三の旗本屋敷から人が姿をあらわした。一晩中明かりをともして長屋門で開帳されていた賭場がお開きになったのだろう。男たちは提灯もつけずに耳門から出ると影のように路地へと消えた。「なるほど」と頷き、左平治は掛行灯の明かりをゆっくりと揺らして旗本屋敷の対岸を通り過ぎた。

 明け六つの鐘が鳴る前に、左平治は夜歩きを切り上げて相生町へ帰った。

 下ろされた大戸を叩くと切り戸が開き、掻い巻きを引っ被ったお松の顔が覗いた。

「目の下に大きな隈をこさえて、一晩ですっかり老けちまったね」

 いたわしそうに声をかけて、お松は左平治を迎え入れた。

 座敷に上がるとお松に物を言うのも厭わしそうに、夜具に潜り込み泥のように眠った。

 昼下がりに起き出すと町内の湯屋へ行き髪結に廻った。暮らしが昼夜逆になったようで塩梅が悪かった。町の者と道で出会ってもどう挨拶していいのか調子が外れてしまった。

 そうした日が五日ほど続いたが、収穫は何もなかった。

 その日の昼下がり、相生町の家に不機嫌な陣内範義がやってきた。上り框に腰を下ろすと、寝起き眼で店座敷にいた左平治を睨み付けた。

「岡っ引風情が何をしてるンだ。昼の見廻りが疎かになっちゃいないか」

 ひとくさり皮肉を言って、陣内範義は左平治のむくれた顔を冷ややかに見た。

「定廻に頼んでた一件が分かったぜ。呼ばれてお品は五日ばかり向島の寮で忠右衛門と過ごしたようだ。その間、お品が聞かれたことはいろいろあるが何せまだ子供だ、余り要領を得なかった。ただ、お京を拐した男をうろ覚えに覚えていた。男が着ていたのは……」

「紫色の看板でしょう」

 左平治は陣内範義の言葉を遮った。

 驚いたように陣内範義は左平治を見詰めた。看板とは折助が着る主家の紋が背に入った法被のことだ。

「その紋所は子供のことでなかなか分からなかったが……」

「下がり藤。ってことは南割下水南河岸にある御旗本中村半左衛門殿の御屋敷ってことで」

 左平治がずばりと言うと、陣内範義は驚きの顔に怒りの色を浮かべた。

「テメエどこで調べやがった。そこまで承知していて、なぜ俺に報せなかった」

 陣内範義は立ち上がり、眉間に皺を深く刻んで唇を震わせた。

 左平治は一回り半以上も年下の同心から手札を受けたわけではない。間違っても先代の旦那は岡っ引に先を越されるようなことはなかった。足を使って丹念に調べ上げて、適切に岡っ引を差配した。豪放な性格の中にも細やかな心遣いがあった。

「お見えになるなり何してた、と頭から叱られれましたので、それなりに調べていたと」

――言っただけではないか、と左平治の顔に不満の色が浮かんだ。

 しばらくの間沈黙のまま睨み合ったが、左平治には頭を下げて陣内範義に詫びるつもりはなかった。町衆が枕を高くして眠れるために自分は働いてる、との自負があった。

「中村殿は千二百石の大身だぞ。これ以上の探索を禁ずるものと心得よ」

 陣内範義は甲高い声で言い放った。

 威張っているがその実、同心は三十俵二人扶持の御家人に過ぎない。旗本とは比べものにならないほどに低い身分だ。左平治は座ったまま陣内範義を見上げた。眼差しには諦めにも似た嘲りの色が浮いていた。

「止められるのは別に構いやせんが、加役に手柄を盗られちまいやすぜ」

 左平治は醒めた声で脅すように低く言った。

 加役とは長谷川平蔵が意見具申してつい先年、新たに創設された火付盗賊改役のことだ。町奉行所が御定法に縛られて寺社や武家屋敷へは踏み込めず、悪党がそこへ逃げ込む事件が多発した。そうした弊害を一掃するために設置された役目だが、当然のことながら町奉行所の役目が大きく侵食され、面目を潰されたことも一度や二度ではなかった。

 陣内範義は「うむ」と呻きを洩らし、俯いて腕を組んだ。

「旦那、ここは左平治に任せやしょう」

 陣内範義を怖れるように、店の入り小口にいた小者が声をかけた。

 古狸の意図は見え透いている。それは町方同心は知らなかったことにして、何かがあった折りには岡っ引が勝手にやったとして責任を免れる手だ。中村半左衛門が若年寄に手を回して南町奉行に捻じ込んでも、陣内範義は預かり知らぬことにする。

 それで良い。余計なことは言わずに、陣内範義は黙って見ていれば良いのだ。左平治はそう願ったが気持ちは伝わらず、陣内範義は意を決したように顔を上げた。

「あいわかった。ただし、俺も長崎町の自身番にて詰めるぞ」

 眦を決してそう言うと、陣内範義は同意を求めるように左平治に小さく頷いた。

 小者は「旦那」と情けない声を出して嘆いた。

 しなくても良い余計な決断をしたものだと、左平治も溜め息をついた。

 

 その夜から陣内範義も長崎町の自身番に詰めた。

 もちろん下っ引の富吉は顔をしかめたが、迷惑に思ったのは富吉だけではなかった。番太郎も書役もそれに年老いた町役まで夜通し寝ずの番をする羽目になった。さらに同心付きの小者も加わるため、六畳一間の座敷は文机を隅に寄せても体を横に休める隙間もなかった。しかも、町方同心がいては気侭に将棋を差したり草紙を読んだりして暇を潰すこともままならない。なんとも気詰まりな寝ずの番となった。

 左平治はいつものように掛行灯に火をともして、夜鷹蕎麦の屋台を担いで南割下水界隈を流して歩いた。河岸道の片方には漆喰の剥げた小普請組屋敷の長い壁や旗本屋敷の練塀、もう片方には三尺の切石で組まれた石垣があって下には淀んだ下水が流れていた。たとえ夜鷹が出て客を取っても筵を広げる場所すらない。男女が情を交わすような風情なぞ持ち合わせていない味気ない堀割だ。ついぞ夜鷹蕎麦の屋台を見かけないのも道理だった。

 深更、中村半左衛門の屋敷に差し掛かると、左平治は左頬に刺すような鋭い視線を感じた。顔を向けずに目の端で長屋門をとらえると、橙色の明かりのともった窓の明かり障子が僅かに動いたような気がした。その部屋は屋根付き門に向かって右手、取り付きの番人部屋に当たるところだった。潜り戸が開いて人が出て来るかと背後の気配を窺ったが、何事も起きなかった。それでも辛抱強く、左平治は南割下水を巡るように掛行灯をともして歩いた。空が白み始めるまでにもう一度中村家の前を通ったが、人の視線はいささかも感じられなかった。

 長崎町の自身番に顔を出すと、おしなべて男たちは疲れきった様子を隠さず死んだような眼差しで左平治を迎えた。陣内範義は奥の壁に差料を抱いて背を凭れかけさせていたが、帰ってきた左平治を見ると無言のまま立ち上がった。小者ものろのろと立ち上がり腰高油障子を開けて表へ出た黒紋付き短巻き羽織の陣内範義の後を慌てて追った。

 これに懲りて陣内範義はもう寝ずの番はしないだろうと思ったが、その日の夕暮れにも小者を従えて相生町へやって来た。店先に入った陣内範義は店座敷の左平治を一瞥すると、黙ったまま踵を返してさっさと長崎町の自身番へ向かった。

 五つ過ぎに掛行灯に火を入れて、いつものように左平治は担いだ。

 歩き出すと膝も腰も痛み、屋台を軽くしているといっても担ぎ棒は肩に食い込んだ。

 しかし、一町も歩くとなぜか急に楽になった。不思議なことに膝の痛みも腰の痛みもきれいに消え失せていた。いつしか肩に食い込んでいた重みすら感じられなくなり、屋台がひとりで浮いて漂っているような気さえした。忠右衛門が荷を担いでくれているとしか思えなかった。

 南割下水の河岸道を西へ向かい、中村半左衛門の長屋門の前を通った。番人部屋に明かりがともり、人の声のざわめきが湧いていた。御竹蔵の海鼠壁に突き当たると、南割下水の北河岸道を東にとった。ゆらゆらと掛行灯の明かりが揺れて、いくらか寒さの和らいだ夜風が頬を撫ぜた。

 いつもの道順を歩くつもりが、いつしか河岸道から左へ折れて北へと向かっていた。左平治の意志とは関わりなく、あたかも忠右衛門の霊に導かれるように歩みを進めた。そこは夜鷹蕎麦の屋台を担いではまだ一度も通ったことのない武家割だった。月の昇っていない武家屋敷の白壁に両側を遮られた暗い川底のような道を、左平治は歩き慣れた道のように足を運んだ。碁盤の目のように交わる辻を真っ直ぐに進み、ゆらゆらと屋台が揺れて二つ目の辻で左に折れた。

――おとっつあん、こっち、こっちだよ。

 深いしじまの底から囁きかけるような、陽炎のような声を聞いたような気がした。それは確かにこの世のものとも思えない、透き通った幼さの残る娘の声だった。だが不思議と恐怖心は湧かず、左平治は訝ることもなくその声の導く方角へと素直に歩みを進めた。

 辻番小屋の中から睨む番人に頭を下げて通り過ぎると、道の遥か彼方に御竹蔵の海鼠塀と辻番小屋の明かりがかすかに見えた。界隈は冠木門の旗本屋敷が連なり、右手にひときわ壮大な門構えの武家屋敷があって町人の暮らす石原町が白壁に張り付くように囲んでいた。どうしてこの界隈に足を踏み込んだのかと自問することもなく、左平治は掛行灯の明かりに導かれるように淡々と足を運んだ。

 今夜は殺された忠右衛門の初七日か、と左平治は心の底で呟いた。が、それにこだわることもなく、頭の中から邪念を去らしめてただひたすら雲水のように歩いた。忠右衛門の血飛沫が黒いしみとなり長く滴を曳いた掛行灯の明かりは御灯明のように闇に揺れた。

 月明かりのない夜道は暗かった。掛行灯の明かりの落ちる周囲五尺ばかりしか左平治の目は利かなかった。しかし何処を歩いているのか気にも留めず、左平治は夜鷹蕎麦の屋台を担いで歩いた。やがて長い海鼠壁に行く手を遮られ、足の向くままに左に折れた。御竹蔵の塀に沿って南割下水へ向かっているとも意識せず、いつしか背後を足音がつけていることも気にはならなかった。

 南割下水が御竹蔵に行き止まっている端を過ぎると、海鼠塀から離れて下水の南河岸道をとった。それも左平治の意志ではなかった。すでに、夜鷹蕎麦の屋台を担いでいるのは忠右衛門だった。左平治は屋台の揺れるままに足を運び、掛行灯の明かりに導かれているに過ぎなかった。中村家長屋門の前を過ぎると潜り戸が開き、男の影が二つ河岸道に湧いた。先刻からの足音と合わさった三つの足音が後をつけているが、振り返ろうとも走り去ろうともしないで左平治はゆったりとした足取りで河岸道を進んだ。

 十万坪の彼方に赤い大きな月が昇った。

 左平治はゆらゆらと掛行灯を揺らして、昇りかけた月へ向かって歩いた。後をつけていた雪駄の足運びが急に忙しくなり、三つの影が左平治に迫った。それでも左平治は淡々と屋台を担いで歩き続けた。急に小走りに駆け出した一つの影が左平治を追い抜き、河岸道に立ち塞がって左平治を挟んだ。右手には武家屋敷の白壁が、左手にはどぶの匂う南割下水が直線に夜の闇に溶け込んでいた。

 左平治の気持ちは平静だった。

 前後を男たちに挟まれても、左平治の歩みは止まらなかった。

 三人を引き付けたまま左平治の心には小波すら立っていなかった。

 逃げる手立てを考えるでもなく、左平治は歩を変えず追い抜いて立ち止まった男の影に近づいた。月を背負った影も左平治に歩み寄り姿勢を低くした次の瞬間、

「左平治、仕込み……」

 と陣内範義の声がしたのと同時に、影の背から白刃が立ち上り左平治の左首付根めがけて振り下ろされた。身に迫る空気を裂く刀風とともに、

――おとっつあん、

 と、叫ぶ娘の声が左平治の耳に聞こえたような気がした。

 左平治は目を瞑って斬り殺されたかと観念したが、その刹那わずかに担ぎ棒が左に振れて刀筋を邪魔していた。男は振り下ろした刀を素早く引き付けて振り上げると「死ね」と叫んで左平治の右へ廻ろうとした。すると、担ぎ棒が勝手に右へ振れて男の動きを封じた。

 ばたばたと駆けつける陣内範義たちの足音が近づくと、背後の二人は逃げ出した。前の男も慌てて逃げ出そうとすると、屋台がひとりでに横になって道を塞いだ。

「父娘二人して取り憑きゃあがって、何度でも殺してやるぜ」

 男は憤怒の形相で左平治の眉間めがけて仕込み刀を振り下ろした。一瞬、左平治は腰が抜けたように体が退けて、刀風とともに目の前の担ぎ棒に刃が食い込んだ。男は目を丸くして刀を棒から外しにかかったが、その隙を逃さず左平治の棒十手が猛然と男の首筋を打ち据えていた。いつの間に懐の十手を手に反撃したのか、その早業に左平治自身が驚いて目を剥いた。

「左平治、怪我はないか」

 陣内範義がそう呼び掛け、走ってきた小者たちが男に飛び掛かって取り押さえた。

「二人ばかり逃げたようだな」

 姿は消えて足音だけが聞こえる薄闇を見詰めて、陣内範義は呟いた。

「へい、そのようで。しかし、主犯はこの仕込みの木刀を持った男でして」

 左平治はおだやかに言った。

「ほほう、仕込みの長脇差を背に持っていたことも左平治は承知していたのか」

 そう言った陣内範義の声にも顔にも、癇症の険はなかった。

 一皮剥けた若い同心の顔を見詰めて、左平治もはじめて会心の笑みを浮かべた。

 赤い大きな月がその丸い姿を十万坪の彼方に見せていた。

 

 捕まえた男は旗本中村家の看板を着た折助だった。三四番屋に移されると石を抱かせるまでもなく、男の態度は憑き物でも落ちたように神妙だった。博奕仲間と三人でお京を拐して殺害した上に、身代金まで奪ったことを自ら白状した。さっそく町奉行から若年寄を通して当主中村半左衛門に従犯者を引き渡すように掛け合ったが、当家にそうした者はいないと拒絶された。

 間もなく、町に噂が立った。

 南割下水界隈を夜っぴて流す夜鷹蕎麦の屋台があると。

 その掛行灯の明かりは一晩中消えない消えずの行灯だと。

 短い春も終わる頃、屋敷で二人の中間が急な病で亡くなったと、旗本中村半左衛門から町奉行所に届けがあった。

                                       終


それからの志士たち

                   それからの志士たち

                      沖田 秀仁

 明治二十四年二月二十五日夜、大気には凛とした冬の名残があった。

麻布鳥居坂の井上馨邸に数台の俥が止まっていた。洋館の玄関両壁には煌々と外灯が燈り、玄関を入った右手の応接室のギャマンの窓ガラスが濡れそぼって、水滴が幾筋もの尾を曳いていた。

一週間ばかり前の二月十八日に三條實美は波乱万丈の生涯を閉じ、生前の功績を讃えて七日後の今日、国葬が執り行われた。幕末の激動期を生き抜いた仲間の葬送に、集まった誰もが深い感慨に耽っていた。降る雪のような静けさを破って、時折暖炉の薪が弾けた。

「三條卿は享年五十五歳であらせられたのか」と、溜息のような呟きが漏れた。

それは幾度となく呟かれたものだった。

 今朝九時に二頭立ての馬車に乗せられた棺が麻布市兵衛町の三條實美の屋敷を出た。馬車は沿道に並ぶ人たちに見送られて日比谷を巡り昼前に音羽護国寺に着いた。明治維新以降初の国葬は明治十六年の岩倉具視の葬儀で、次いで明治二十年に没した島津久光の葬儀が二人目の国葬として執り行われ三條實美で三人目だった。

四人の男たちが猫足の丸テーブルを囲んでビロード張りの椅子に深々と腰を下ろしていた。井上馨だけが濃紺の袷を身に纏い、他の三人はしかつめらしく洋服を着込んでいる。

国葬当夜は政府から厳しい御達しにより歌舞音曲や芝居の類が禁じられていた。当然のことながら柳橋や神楽坂などの置屋や料亭も暖簾をおろして店を閉ざしている。まさか現職の総理大臣や貴族院議長たちが出掛けて店を開けさせるわけにはいかない。だが日頃の癖で日暮れると水が低きへ流れるように外出したものの行く当てはなく、一人また一人と申し合わせたように鳥居坂の屋敷へ集まってきた。日暮れから散歩がてら出掛けるのに、寛いだ井出達というわけにもいかなかったのだろう。ただこの夜ばかりは三條卿に憚ってか誰一人として微醺を帯びていなかったし、屋敷の主人に酒を所望する者もいなかった。

男たちは一様に黙りこくって肩の間に首を埋めていた。中でも国葬の主催者だった総理大臣山縣有朋は一段と疲労の色を濃くしていた。しかしそれは激務による疲労というよりも、寄る年波による衰えかも知れなかった。

「古より人生五十年と申しますから、早世ということでもないのでしょうが」

 と、伊藤博文が遠慮がちに応じた。

 伊藤博文は天保十二年生まれで、三條實美より六歳年下の四十九歳だった。

「嫌なことを言うな。儂は三条卿より一才ばかり上でこの中では最年長だが、まだ暫くはこの世に生きていたい」

 伊藤博文の言葉を遮るように、窓を背に座る井上馨が気色ばんで呟いた。

「それにしても光陰矢の如し。文久三年に七卿落ちされたのも、慶応二年に高杉さんが僅か二十七歳でこの世を去られたのもつい昨日のようで、幕末・維新は遠のくばかりだ」

 と、腕組みをした山縣有朋が低い声で取り成した。

「うむ「去る者は日々に疎し」とはこのことだな。なにはともあれ今日は晴れて良かった、昨日までは氷雨が降ったりしてかなり冷え込んでいたからな。さすがは生前他人に優しかった三条卿だけのことはあらせられる」そう言って、井上馨は納得したように頷いた。

前日までは冬の名残の木枯らしが吹き荒れていたが国葬当日は『晴天無風摂氏十一度と二月の東京にしては珍しく穏やかな日だった』と新聞に記されている。

三條實美が亡くなったのはインフルエンザが元とされている。数日来風邪をこじらせて高熱を発していたが、ついに肺炎を併発して不帰の人となった。葬儀の日が冷え込めば国葬に参列した高齢者たちが三條實美と同じように風邪をひいて寝込まないとも限らない。朝から井上馨は空模様と昨夜来の冷え込みを頻りと気にしていた。

「三條卿のことで心痛むのは、四年ばかり前に内閣制度へ移行した際の総理大臣人事です。世間では誰もが太政大臣の三條卿が初代総理大臣就任かという空気の中、僕が強引に初代総理大臣を奪い取ったのではないかと蟠りがありましたが、」

 伊藤博文がそう言うと、井上馨は不機嫌そうに猫足の丸テーブルをドンと叩いた。

「バカなことを言うな。太政官制度を廃して近代国家として内閣制度とすべき宮中の会議で、誰を初代内閣総理大臣に推すかという段に差し掛かった折に「これからの総理大臣は赤電報(外電)が読めなければ駄目だ」と口火を切ったのは儂だぜ」

 と、半ば芝居がって気色ばんで口を尖らせた。すると山縣有朋も茶化すように応じて、

「それじゃあ伊藤君しかいない、とやったのは俺だ。尤も俺は英語も蘭語も操れないが、こうして烏滸がましくも総理大臣を拝命しているがな」と真面目な顔で言って頬を緩めた。

 世間の下馬評では太政大臣三條實美がそのまま初代総理大臣に横滑りするのではないかと見られていた。しかし政府内では生まれも育ちも高貴な三條實美は据え物の太政大臣こそ勤まるものの、一癖も二癖もある政治家相手に丁々発止の駆け引きが必要な総理大臣は勤まらないというのが大方の見方だった。とはいえ井上邸に集まった彼らは三條實美に対して各人各様の深い感慨を抱いていた。特に伊藤博文は自らの運命にかかわった人物として三條實美には強い思いがあった。

目を閉じれば伊藤博文の脳裏に功山寺決起当夜の雪景色がまざまざと甦ってくる。

元治元年十二月十五日夜、高杉晋作は藩政奪還に決起した。高杉晋作の求めに応じて伊藤博文は日暮れてから手勢の力士隊二十名を率いて駆け参じた。しかし主力の奇兵隊をはじめ諸隊は様子見を決め込んでいたため、集まった軍勢は他藩脱藩浪士からなる遊撃隊の一部と合わせて総勢八十余名に過ぎなかった。たったそれだけの軍勢で、高杉晋作は幕府に徹底恭順を唱える俗論派萩政府に戦いを挑む。それは生半可な決死の覚悟などというものではない。『死地へ赴く』という言葉がある。文字通り命懸けの、それも九分九厘敗北して囚われ賊の汚名を着せられ、野辺で首を刎ねられる無謀な決起だった。

しかし怯むことは許されない。ここで立たなければ日ノ本から尊攘派は悉く潰え去る。たとえこの場を生き延びたとして、松陰先生や命を落とした大勢の仲間たちにあの世でどの面下げて顔向け出来ようか。是非もない。馬関海峡から氷のように冷たい横殴りの吹雪が頬を叩き続けたが、伊藤博文ならずとも兵たちの顔面が蒼白となって強張り、全身が小刻みに震えているのは寒さのせいばかりではなかった。

高杉晋作は手勢を率いて雪の功山寺へ赴き、軟禁されている三條實美の前で「長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と叫んだ。藩を牛耳る俗論派打倒の決起にすら、高杉晋作は筋目正しい上士として大義名分を必要とした。いわば三條實美は正義派軍の旗印だった。

もちろん井上邸に集まった長州閥の明治政府要人たちは長州藩では正義派に属し、高杉晋作と共に命を賭けて戦った者たちだ。しかも井上馨を除く他の三人は松陰門下だった。彼らは松陰門下生という経歴があればこそ文久三年に長州藩で実施された人材登用令により足軽や中間から藩士に登用され、幕末の活躍により明治政府で官職に就けた。安政年間の萩の郊外松本村にたった二年半しか存在しなかった松下村塾に在籍した僥倖により、彼らの人生は大きく拓けたといえる。

ただ四人の中で井上馨だけが異っていた。筋目正しい家禄百石の上士の家に生まれ、小姓役として早くから藩主の身近に出仕した。そうした家柄と育ちに矜持がないわけではないが、経歴だけを縋って生きようとはしなかった。

井上聞多には身分制度を度外視するおおらかな性格が備わっていた。それは大風呂敷とも破天荒とも少し異なる。そもそも『聞多』という名は彼の博識ぶりを愛でた藩主・毛利敬親によって付けられたものだ。いや博識を愛でるというよりも「今少し他人の意見に耳を傾けよ」との戒めだったのかもしれない。しかし井上聞多はその名に誇りを持ち、明治維新まで『聞多』(ぶんた)という百姓のような響きを持つ名を名乗り続けた。

文久二年春浅い指月城の掘割に架かる石橋を、井上聞多は一足ごとに肩を押し出すように前屈みに急ぎ足で渡った。それは江戸表に出府した高杉たち松陰門下が品川の土蔵相模に流連して『尊皇攘夷』議論に花を咲かせているとの噂を小耳に挟んだからだ。そうと知ると矢も楯も堪らず登城して、藩主毛利敬親に脱藩を申し出た。

「なぜ脱藩したいのか」と藩主が尋ねると「尊攘をやる者とは脱藩をするものでござります」と、およそ理屈にならない言辞を弄した。

「そうか。それなら、脱藩するが良い」と、毛利敬親は笑って応えたという。

 藩主の許諾を得ると井上聞多はその日のうちに国を後にして江戸へ向かったが、重役たちは「井上聞多の儀、いかが取り計らいましょうや」と藩主に聞いた。文字通りの脱藩なら追討の者を差し向けて、井上聞多を斬り捨てに処さなければならない。だが問いかけた重役に対して、毛利敬親は肥満した肉厚の右手を顔の前でヒラヒラと団扇のように振って、

「ナニ、江戸表へ遊学を申し付ける、とでもしておけ」と言ったという。

 これまでも吉田寅次郎や高杉晋作も脱藩騒動を盛大にやらかしている。しかしついぞ藩は脱藩者へ追討の刺客を放ったことはない。藩は彼らの勝手な出奔を藩命による遊学と処してきた。その前例に倣って井上聞多の場合も遊学としたに過ぎなかった。

 幕藩体制の根幹をなすものとして、三百諸侯は諸法度を厳守していた。統制を乱す者には厳罰で臨むのを常としたが、毛利敬親の長州藩は若者に寛大だった。それはほとんど奇跡的だった。重役たちは若者たちに大人の態度で常に接して、決して前途有為な芽を摘むことはしなかった。そうした自由闊達な毛利敬親の長州藩に志士たちは生まれ育った。

ただすべての物事には光があれば影がある。毛利敬親の治世は身分にかかわらず能力ある者にとっては僥倖だが、既得権を侵される無能な上士たちにとっては地獄だ。奔放な人材登用に危機感を募らせ、抜擢された下士たちに反感を抱く者も少なくなかった。

身分制度を楯に上士たちが敷居を高くしている中で、井上馨は人材登用令により中間から藩士に登用された伊藤博文たちとも初対面から蟠りなく親交を結んだ。それは身分に囚われず人物を見抜く慧眼によるものだが往々にして誤解を招きかねない。しかも開明さだけでなく豪胆さを兼ね備えた厄介な性格はあえて李下で冠を正し、平気で火中の栗を拾うところがあった。金銭面でも大身出自に特有な公私の区別のない鷹揚さはなにかにつけて伊藤博文をやきもきさせた。政敵にとってこれほど隙だらけの政治家も珍しかった。

「井上さんは筑豊炭鉱の某社に肩入れされているようですが、」

 と、気配りの伊藤博文が心配顔に聞いた。

 鹿鳴館だけでは不足と思ったのか、井上馨は渋沢栄一と大倉喜八郎を説き伏せて昨年十一月三日に鹿鳴館の隣に帝国ホテルを建てた。その趣旨は鹿鳴館で舞踏会に興じた西洋列強の駐在員たちをそのまま西洋旅籠に宿泊させるためだ。そうすれば日本の近代化をより良く知らしめることができると考えた。文明開化した日本を欧米人に理解してもらうには高邁な理屈よりも、子供じみて即物的なモノを見せる方が手っ取り早いのだ、と。

だが舞踏会という露骨な欧米化策に反感が高まり、井上馨の命を狙う国粋主義者が日本刀を振り回す事件が起きたりした。新聞でも即物的な欧化策を推進する紙のように薄っぺらな人物だと酷評されたりしたが、井上馨はそうした中傷を微塵も意に介さなかった。

やったのは欧化策だけではない。井上馨は殖産興業にも尽力した。

積極的に起業を援助して実業家たちとの親交を取り結び便宜を図った。そうした動きは政界で一際目立つため井上馨は私腹を肥やしているとか、官業払下げに関与して賄賂を受け取ったなどと新聞や政敵から事毎に叩かれた。だが実のところ、井上馨が尽力した殖産興業も、伊藤博文が明治五年に富岡製糸官営工場を建設したのが発端だった。その前年に仏国から日本政府に製糸工場建設の共同投資を持ち掛けられて、伊藤博文は即座に断っている。明治日本が独立自尊を貫くには、国内の産業資本形成こそが喫緊の課題だった。

「俊輔は相変わらず早耳じゃのう。栄鉱社への投資周旋話を渋沢栄一から聞いたンか」

 と、心外そうに顔を歪めたが「まあ、ええじゃろう」と頷いた。

 俊輔とは伊藤博文のことだ。伊藤博文は元々『利助』という名だったが、松下村塾に入門して間もなく俊輔に改名した。それは『利』という文字を松陰先生が最も嫌っていると高杉晋作が暗に諭して、名を変えるように勧めたからだ。その折に高杉晋作が『俊輔』という名を示し、伊藤博文は高杉晋作の勧めに応じて即座に改名した。明治維新後に名乗った『博文』もその時に高杉晋作が漢籍から採って示した名の一つだった。

「俊輔と儂は維新前に周布さんや桂さんや村田さんたちの骨折りで英国へ密留学した。西洋を実際に自分の目で見て機械仕掛けの文明開化ぶりに驚いたものじゃ。西洋諸国と対等に伍していくには富国強兵を断行せねばならぬと学んだ。まずは徳川幕府が欧米諸国と締結した不平等条約を改定せねばならぬ。そのために日本が文明国にならねばならぬし、文明開化した日本を欧米諸国に知らしめねばならぬ。鹿鳴館を建てて喧々囂々たる非難を浴び国粋主義者に襲撃されたが、やっとここに到り日本外交の眼目としてきた治外法権の撤廃と関税自主権の確立に目星がつき、小林君や陸奥君たちの働きで何とかなりそうだ。だが、それでもまだまだ奮励努力して日本は国力を蓄え軍備を整えねばならぬ。西洋列強が畏れるほどになれば、日本は欧米列強から蚕食されず無用な戦争に巻き込まれないで済む」

 力強くそう言って、井上馨は寂しそうに笑った。

 井上馨は伊藤博文たちと文久三年五月から翌元治元年六月にかけて英国へ蜜留学している。だから西洋とはいかなるものかを膚で知っていた。西洋人の理解を得るには具体的な形で表わすことだ。日本外交のために鹿鳴館などという大道具仕掛けの洋館を造って、夜ごと西洋の盆踊りをすることなぞ何でもない。ただ国内には直截的な欧化政策に無理解な輩が余りに多すぎて、井上馨を寂しい思いに追いやっていた。

 まさしく井上馨は毛利敬親の長州藩が製造した逸材の一人だ。毛利敬親・長州藩の特異性は融通無碍な人材登用と学問の奨励だった。彼らは命懸けの密留学により逸早く産業革命の英国を知り後の活躍の大きな糧となった。幕末の長州藩は表向きでは『尊攘』の総本家の顔をして脱藩浪士を支援しつつ、裏では秘かに藩の若者を英国へ蜜留学させるという離れ業をやる破天荒なところがあった。

「随分昔のことだが、西郷南洲が儂のことを「三井の番頭さん」とぬかしおった。殖産興業を進めるには実業界を興し大資本をこの国に育てなければならぬというに」

 と言って、井上馨は伊藤博文の杞憂を笑い飛ばした。

そもそも私腹を肥やす前に、井上馨の概念に公私の区別がない。いや『私』がなかったという方が正しい。彼が生まれ育った湯田の広大な敷地からして井上家のものではない。屋敷は藩主から拝領したもので、いつ取り上げられても不平の一つ零すものではない。たとえ私財を蓄えたところで「腹を切れ」と藩主から一言賜れば直ちに切腹しなければならない。武士とは取り乱すことなくいつでも死ぬべき時に死ぬように、幼少期から苛酷なまでに躾けられている。そして生涯、井上馨は一人前の男とはそうしたものだと思っていた。

 ただ私欲がないということでは伊藤博文も人後に落ちない。蓄財して政界に派閥を作ったり、権勢を恣にしようという欲とは無縁だった。

「それにしても品川大井町の伊藤邸の有様は酷いぞ。張出した玄関軒や馬車寄がないのはまだしも、せめて洋館に建て替えたらどうだ。古ぼけた大きな長屋に大勢の書生を居候させて、まるで馬関吉田にあった奇兵隊の屯所のようではないか」

 と言って、井上馨は大袈裟に慨嘆してみせた。

 井上馨の屋敷は多度津藩京極家の江戸屋敷を購入し洋館に改築したもので、広大な敷地に立派な和風庭園が広がっている。外務卿在任中は連夜のように欧米諸国の駐日大使を招いて歓待したが、それと比べるまでもなく伊藤博文の屋敷は初代総理大臣を務めた者の屋敷にしては余りにもみすぼらしい。しかも住処に関して無頓着なのか、伊藤博文に一向にボロ屋敷を気に病む様子はない。ただ井上馨が「何とかしろ」と別の意味合いでいうのが分からないでもなかった。妻の梅子は女子を何人か産んだものの嫡男に恵まれなかったため、伊藤博文は井上馨の甥を養嗣子に迎えていた。

「吉田の屯所とは云い得て妙じゃ。奇兵隊か、懐かしいのう。僕は軍監だったが」

 と、山縣有朋が天井を見上げて懐古するように目を細めた。

 足軽の倅に過ぎなかった山縣有朋の人生は奇兵隊で軍監になったことから拓けた。それも松陰の同門奇兵隊総督・高杉晋作により抜擢されたものだったが。

「そういえば、奇兵隊で同じく軍監だった白井翁が一昨日から当家に逗留していなさる。明日にでも山縣さんや井上さんの屋敷を巡るように伝えてよろしいでしょうか」

 と、伊藤博文は山縣有朋を揶揄するような眼差しで見た。

 すると「白井翁はいかん」と、山縣有朋が苦々しそうに吐き捨てた。

白井翁とは白井小助のことだ。郷里周防柳井の郊外田布呂木に隠棲して素行と号している。当時すでに七十近い老人だった。暮らし向きが不如意になると上京して、維新政府で栄達している旧知の家々を無心して巡り歩くのを習いとしていた。

「俺を卑怯者と罵り、こともあろうに用便したケツを家内に拭かせる始末だ」

 と、山縣有朋は忌々しそうに顔を歪めた。

白井小助は文政九年に長州藩家老浦家の兵法家の嫡男として生まれた。学識と見識に優れ指導力もあったが、維新政府で活躍するにはいささか生まれるのが早過ぎた。

文久二年六月に高杉晋作が藩公の許しを得て馬関に奇兵隊を創設した折、白井小助も山縣有朋と同時期に入隊し新兵の教練に当たった。齢は白井小助の方が二十から上で兵法家として洋式砲術や銃陣を佐久間象山などから正式に学んでいる。山縣有朋の上役に就いてしかるべきだが、奇兵隊総督高杉晋作は松下村塾出身の山縣有朋と同列の軍監に留めた。

白井小助は別名『周南の独眼竜』と呼ばれている。それは元治元年八月の四ヶ国連合艦隊との戦争で応戦していた折、手にしたゲベール銃が暴発して右眼を吹き飛ばしたからだ。

出血が激しく一時は危うかったが、なんとか命を取りとめた。だが戦列を離れたために功山寺挙兵から始まる一連の内訌戦に参戦していない。山縣有朋が慶応元年一月六日からの藩内戦争で奇兵隊総督として勝利し、それ以降の出世の足掛かりを得たのに対して、白井小助は傷養生のために周防柳井郊外の阿月へ隠棲して時流に乗り損ねたといえる。

傷が癒えると白井小助は郷里熊毛郡の岩城山に第二奇兵隊を組織し、第二次征長戦争で周防大島に上陸した三千余の幕府軍を相手に約三百の兵で奮戦して撃退した。

 戊辰戦争では奇兵隊参謀として北陸から奥羽へ転戦して輝かしい戦歴を上げている。ただ河合継之助の長岡藩と戦った朝日山総攻撃で山縣隊が遅れたため、先鋒として突撃した時山隊が激しい集中攻撃にあって隊長の時山直八をはじめ隊士のほとんどが戦死した。そのことを以て「山縣は憶病者だ」と白井小助は方々で吹聴した。維新後に山縣有朋が重職に就いてからも白井小助は以前と変わらず罵り続けた。

「白井翁は苦手だ。朝日山総攻撃で俺が七つを七時と勘違いしたから遅れたと、何度説明しても「山縣小介は卑怯者だ」と大声で罵倒する。あの御仁の前では俺の面目もあったものではない。掛りや路銀などは僕が持つから、伊藤君なんとか相手してくれんか」

と言って山縣有朋が頭を下げる姿に、一同は腹を抱えた。

「帝国議会初の総理大臣が田舎の爺に手を焼くとはな。これだから世の中は面白い」

と、井上馨は手を打って笑い転げた。

 それを見て、山縣有朋は鼻白んだように口をへの字に曲げた。

 無欲な者は始末に悪い。欲深い者はその欲を梃に懐柔できる。しかし無欲な者には道理で説くしかない。だが説く者に道理があれば良いが、世間には道理のない場合が往々にしてある。その場合は潔くシャッポを脱いで頭を下げるしかない。無欲の者の前では自分が何者であろうと、たとえ内閣総理大臣であろうと道理以外は大して意味を持たない。

 経歴や資質からいえば白井小助は帝国陸軍にあって山縣有朋と肩を並べていてもおかしくない。しかし白井小助がそれを拒む。かつて山縣有朋が陸軍に誘ったが「皆が立身出世しては野山に仆れた仲間たちに顔向けができまい」と痛いことを言って、用意した陸軍大佐の肩書には見向きもしなかった。そんな白井小助にある種の負い目を感じているのは山縣有朋一人だけではなかった。

「実は、屋敷の書生たちの多くは白井翁の紹介です」と、伊藤博文は遠慮がちに言った。

「その大半が維新前後に命を落とした諸隊士の遺児や縁者たちです」

 と続ける伊藤博文の言葉を聞くと、井上馨たちは驚いたように目を見張った。

「そうだったのか。上京してきた者たちの暮らしの面倒を見た上に学校まで行かせては貧乏するのも道理だ。俊輔の困窮ぶりは病気のような芸者遊びが原因だろうと思っていたが、大勢の書生まで抱え込んでいてはのう、なるほど屋敷の造作にまで手が回らぬはずだ」

 と、井上馨は得心したように大きく頷いた。

 初代総理大臣を務めた男の、嘘のような貧乏暮らしの逸話がいくつか残っている。

朝鮮総督として赴任する前に、天皇陛下は伊藤公を屋敷に訪問したいと侍従に漏らされた。日本の初代総理大臣を屋敷に訪問して長年に亘る労をねぎらいたい、とお漏らしになったため、さっそく侍従が段取りのために伊藤の屋敷を秘かに訪れて驚いたという。

確かに敷地は広く建屋も大きいが、大きいというだけで江戸時代の裏長屋さながらの陋屋だった。その報告を聞いて、天皇陛下はご訪問を取りやめられたという。訪問されれば却って伊藤博文に気を遣わせることになりかねないと思われたからだ。

後に朝鮮総督伊藤博文はハルピンの駅頭で凶弾に仆れ六十九年の生涯を閉じる。明治政府は元勲の死に際して国葬を以て弔意を表すことにした。だが困ったことに葬列は二頭立て馬車で伊藤邸から出るのが決まりだが、屋敷にそうした車回しもしかるべき玄関もなかった。政府は急遽国葬の支度金を伊藤家に二千円支給して屋敷の改築をさせている。

「戊辰の役に勝利し凱旋した隊士たちを明治政府は弊衣のように捨て去った、と白井翁は怒っておられる。諸隊兵士たちに何ら報いることなく武装解除と解隊令を発した。隊士たちが反発するのは当たり前だが、反発した兵たちを山口藩政府軍は柳井田関門で殲滅したと怒っておられる」と、伊藤博文は井上馨の立場を慮るように遠慮がちに言った。

「酒が入ると同じ話の繰り返しです。明治政府で立身栄達した者は良い。しかし戦功を顧みられることもなく、反乱軍として汚名にまみれて処刑された隊士たちはどうなる。奴等の犠牲の上にお前たちのイマがあるのを忘れるな、と涙を流しながら申される」

 静かな口調で、伊藤博文は白井小助の口惜しい思いを伝えた。

命を擲って戊辰戦争に出征した勇猛果敢な諸隊士たちも戦乱が治まれば無用の長物だ。しかも明治初年の山口藩に三千名を超える規模にまで膨れ上がる諸隊兵士を養う財政力はない。やむなく山口藩は武装解除と解散令を発した。しかし諸隊は解散するどころか憤怒の抗議文を藩政府に叩きつけ、武器を手に脱走する兵が相次いだ。年の瀬には脱走兵が二千を超え、山口近郊で徒党を組むに到って藩政府は恐怖に慄いた。

年が明けて藩から容易ならざる事態の報せに、急遽山口へ帰った木戸考允と井上馨は脱走兵の鎮撫と武装解除に当たった。だが脱走兵たちは頑なに要求を撤回せず、ついに二月八日未明に木戸・井上率いる藩政府軍と反乱軍は小郡郊外の柳井田関門を挟んで衝突した。

木戸も井上も藩士の出自で彼らが率いる藩政府軍の兵も元藩士たちだが、脱走兵たちは百姓町人の次三男からなる元諸隊の隊士たちだ。藩政府軍が圧倒的な火器により苛烈な攻撃で蹴散らしてもそれほど痛痒を感じなかったとしても不思議ではない。

しかし白井小助の立場は異なる。隊士たちの命を守るため最後まで奇兵隊参謀として働き、山口政府の諸隊解除命令に従って武装解除をすべく諭し、除隊後の隊士たち一人ひとりの暮らしが立つように奔走していた。

「なぜあれほど完膚なきまでに追撃し、捕えた大勢の兵たちを極刑に処したのだ、と酒が入られると繰り言のように大声で叱られています」と、伊藤博文は淡々と語った。

 他の二人は苦笑したが、井上馨は沈痛な面持ちに腕を組んで黙り込んだ。

山口藩兵を率いて反乱軍鎮圧の陣頭指揮を執った井上馨の胸中は複雑だ。確かに明治維新が成ったのは隊士たちの働きがあればこそだが、彼らの横暴を聞き入れていては維新政府の財政が持たない。共に戦った仲間に銃口を向ける非情さや身勝手さは承知した上で、そうした理屈を百も承知の上で「それならどうしろというンだ」と開き直らざるを得ない。

 だが白井小助を叱り飛ばすことは出来ない。白井小助は軍幹部として藩政府の命に従うように兵を説得し、騒乱鎮静後は山縣たちの用意したあらゆる官職を固辞し、独り郷里に隠棲して手許不如意となるや東京に出てきては旧知の屋敷を無心して歩く。厄介な存在だが、維新の立役者の一人として誰も邪険に出来なかった。

 明治三十三年に白井小助は孤高のまま故郷の庵で七十七歳の生涯を閉じる。周防田布呂木の丘に立つ自然石の白井小助顕彰碑に刻まれた碑文は山縣有朋によるものだ。

 ちなみに高杉晋作の記念館『東行庵』の境内に立つ顕彰碑『動如雷電發如風雨衆目駭然莫敢正視爲以非我東行高杉君…(動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや…)』の書き出しから始まる高名な碑文は伊藤博文が亡くなる一月前の明治四十二年九月に記したものだ。二年後の五月二十日に吉田の東行庵で開催された『東行顕彰碑除幕式』には亡き伊藤博文に代わり、喜寿を過ぎた井上馨が老体に鞭打って新橋から下関まで直通急行列車でおよそ二十九時間も揺られて駆けつけ、初夏の炎天下二時間に及ぶ万感胸に迫る大追悼演説を行っている。

白井翁の奔放な逸話に大笑した後、真顔に戻った伊藤博文は隣の品川弥二郎を見た。

「一昨年に独逸から帰国してから、京の吉田に「尊攘堂」を建てたと聞いたが」

 と言って、感心したような眼差しで微笑んだ。

 問われた品川弥二郎は驚いたように伊藤博文を見詰めた。

「はあ、伊藤さんはお耳が早い。元々「尊攘堂」は松陰先生が尊攘に殉じた人たちの慰霊堂を京の地に建てたいと願っておられたものです。その志を入江九一が継ごうとしたが、御存じのように九一は久坂玄瑞と共に蛤御門の変で自害して果てた。自分は僥倖にも生き長らえ維新政府で官職を得ている。よって、せめては九一の遺志を継いで仲間たちの…」

と、品川弥二郎は声を詰まらせた。

日本初の軍歌といわれる『トコトンヤレ節』は品川弥二郎の作詞で「松陰を死罪に処した徳川幕府をとことんやっつけろ」というものだ。優しい風貌に似ず、いかに烈しい気性を内に秘めていたかが窺える。曲をつけたのは村田蔵六だったといわれている。

「白井翁の気持ちは良く分かります。明治の御代になって二十有余年、既に高杉さんの名を知る者も少なくなっています。ましてや戦野に仆れた者たちの顕彰を僕たちがやらなくて誰がやるのでしょうか」と、穏やかな品川弥二郎にしては珍しくが語気を強くした。

 皆は驚いたように品川弥二郎を見た。そして大きく頷いた。自分たちがやらないで誰がやるのか。誰が維新の途上に仆れた志士たちを顕彰し遺族の名誉を回復するというのか。

「生きて明治の御代を迎えた僕らが無名のまま仆れた者たちを顕彰し、名誉回復しなければならぬ定めがあるようだのう」と、誰からともなく低い呟きが洩れた。

 ギヤマンの窓ガラスを水滴が滑り落ちて桟を流れた。三條實美を偲び喪に服す夜の過ごし方として、これほど相応しい集いはなかったかも知れない。鳥居坂の井上馨邸に、時が静かに流れていた。

 

 それから二ヶ月後のある春の宵、品川弥二郎の私邸に井上馨から電話があった。

「三條卿の国葬の夜に儂の家で話したことだがのう」と、井上馨は唐突に話し始めた。

「心に引っかかる男が一人おる。弥二郎は所郁太郎という名を知らぬか」

 井上馨は万事が自分の気分で話を進める。だから井上馨の気持ちを忖度するまで生半可な返答が出来ない。

「所郁太郎なら良く存じています。彼の最期を看取ったのは近所の女房で身の回りを世話していたお菊と、所の縁戚で従者だった長屋丁輔と、それに諸隊の同僚として出向いた僕と寺内寿三郎と土屋良策の三人です。所郁太郎は内訌戦の戦友で、忘れられない御仁です」

 と、品川弥二郎はそつなくこたえた。

 内訌戦とは功山寺決起の勝利により触発された奇兵隊をはじめとする諸隊が萩政府と決戦の意を固めて馬関と萩の中間地点に当たる絵堂・太田まで進軍し、そこで慶応元年一月六日から迎え撃つ長州藩正規軍と数次に亘り戦った内戦のことだ。

「明治二年に京都霊山に維新に殉じた者が祭られたのは承知しているが、郷里大垣での扱いがどうなっているのか気になってのう」と、井上馨が聞いた。

「確か所郁太郎は赤坂宿の造酒屋の四男で、医師の所家へ養子に入ったと聞いていますが」

と、品川弥二郎は記憶をたどるように答えた。

品川弥二郎は御楯隊で所郁太郎は遊撃隊と隊は異にしたが、二人とも参謀を勤めていた。慶応元年の内訌戦当時、諸隊幹部会議で幾度となく顔を合わせている。

そもそも遊撃隊とは長州藩の豪傑来嶋又兵衛が組織した軍で、数ある諸隊の中でも奇兵隊と双璧をなす精鋭だった。しかし蛤御門の変で先頭を駆けて繰り返し突撃したため来嶋又兵衛をはじめ、六百を数えていた兵の大半が戦死してしまった。

壊滅状態となった遊撃隊の総督に長州藩士石川小五郎が就任し、脱藩浪士に入隊を呼びかけた。京都にいた脱藩浪士たちは唯一の拠り所だった長州藩邸を失ったため、彼らはこぞって遊撃隊に入隊し二百名を超える大部隊になった。土佐藩から命を狙われた脱藩浪士中岡慎太郎が長州藩へ逃げ込み、一時期身を潜めたのも遊撃隊だった。

「明治二年、維新前に斃れた志士たちを京都霊山に祭る際、所郁太郎の遺髪や遺墨などを奉納したのは長屋丁輔だったと記憶していますが。遊撃隊に加わる以前は確か周布政之助様が京藩邸の医院総督に抜擢されたお方で、文久三年の御所の政変で長藩へ落ちられる三條卿の侍医を周布様に命じられ、三條卿の御一行に随伴して長藩へ来られたはずです」

 と品川弥二郎は八歳年上の井上馨に遠慮勝ちに言った。

「おお、まさしくその通りじゃ」

 徐々に、井上馨の脳裏に維新前夜の騒然とした長州藩の記憶が甦ってきた。

「内訌戦で遊撃隊総督は石川小五郎で所郁太郎は参謀でした。僕は太田市之進が総督を務める御楯隊で山田顕義と共に参謀を務めていましたから良く存じています。その所郁太郎が井上さんと何か」と、品川弥二郎は聞いた。

「儂の命の恩人じゃ。元治元年九月二十五日の夜、山口から湯田へ帰る途中の袖解橋で椋梨籐太の倅たちに待ち伏せられ闇討ちされたことがある。儂は瀕死の重傷を負ったが、その折に何処からか駆けつけてきて、畳針を鈍して曲げて作った縫合針で十三ヶ所に及ぶ斬り傷を五十余針も縫って助けてくれた」

そう言って、井上馨はしばし絶句した。往事のことが鮮やかに脳裏に甦った。

「所郁太郎は内訌戦に勝利した後、幕府が決めた長州討伐軍の芸州口への侵攻に備えるために、周防高森の通化寺へ転進した遊撃隊へ高杉晋作と共に檄を飛ばしに行って戻った直後に俄かの病で吉城郡の借家で没したと聞かされておる。しかし所郁太郎の郷里で彼がどのように顕彰されているのか詳らかには知らぬ。ひとつ調べてくれぬか」

 と、井上馨は同期仲間の最年少で無冠の品川弥二郎に所郁太郎の調査を依頼した。

 しかし品川弥二郎が暇だったわけではない。明治政府で品川弥二郎は主として内務省畑を歩き、これまでにもドイツ公使となってドイツ勤務も経験している。長州閥出身の官僚として多忙な日々を送っていたが、そうした事情をおくびにも出さず「何とかやってみましょう」と承諾した。

 品川弥二郎はさっそく美濃岐阜県庁へ人を遣って調べさせた。簡単に親戚縁者の居所は判明するものと思っていた。が、手掛かりは一向に得られなかった。

岐阜大垣は譜代大名大垣藩の地だ。いわば所郁太郎は藩に背いて尊攘運動に身を投じ、幕府と敵対する長州藩に協力した。その累は親族に及び血縁者たちは地を追われ散り散りになっていた。縁者探しは暗礁に乗り上げてしまった。一月も経つと事の深刻さを認識し、品川弥二郎はやむなく井上馨に依頼された一件が不首尾に終わったことを告げて詫びた。

「岐阜県議会に大垣から出て、議長を勤めている金森吉三郎と申す者に縷々調査を願ってきましたが、捗々しい結果が得られませんでした」

 と、品川弥二郎は所郁太郎の親戚縁者を探し出すのがかなり困難だと報告した。

 井上馨は受話器を掴んだまま「うむ」と呻いた。無理もなかろう、所郁太郎が郷里を出奔してから既に四半世紀も経っている。縁者が大垣藩から様々な迫害に遭って散り散りになったとしたら、郷里を探しても見つけられないかもしれない。

 品川弥二郎は引き続き調査することを約したが、それから間もなく五月に成立した松方義正内閣で内務大臣に任命された。初入閣の慶事には違いないが、井上馨からの依頼一件は頓挫せざるを得なくなった。天保十四年生まれの品川弥二郎は当時四十七歳で、これから政治家としての前途洋々たる明るい未来が拓けていた。品川弥二郎が井上馨の恩人探しに付き合う暇はなくなったが、依頼した本人も日々の雑事に忙殺され顕彰の件どころではなかった。ただ折に触れて所郁太郎のことが思い出されてならなかった。

 

五月下旬の梅雨模様のまま煙るように暮れた夜に、鳥居坂の屋敷を渋沢栄一が訪れた。

用件は格別なことでなく、以前に渋沢栄一の求めに応じて投資家を紹介したことに対する御礼だった。それは今年の初に渋沢栄一が筑豊炭鉱の再興のために投資家を紹介して欲しいと井上馨に依頼し、しかるべき投資家としてかつての主家毛利広徳を紹介したものだ。毛利家も井上馨の紹介なら是非もないと応じて投資し、筑豊炭鉱は見事に再興した。

その報告を一通り聞き終えると、今度はお返しに井上馨は自分の依頼を聞けと所郁太郎顕彰の一件を持ち出した。品川弥二郎が岐阜政界に働きかけたが捗々しい成果を得られなかった経過を告げると、しばらく考え込んでから渋沢栄一は顔を上げ、

「そのような話なら、どうでしょう。ひとつ岐阜県の地方新聞に広報記事を掲載されては。それも一度では見落とすかもしれませんから続けて数日間掲載しては」と、知恵を出した。

「なるほど、新聞に告知を出すとは名案だ。さっそく知る限りの岐阜地方の新聞に、所郁太郎の親戚縁者を探す記事を掲載してもらえんか」と言って、井上馨は頭を下げた。

 実業家・渋沢栄一の動きは早かった。

 六月の初旬から全国紙の岐阜県大垣版はもとより、創刊間もない大垣地方紙の扶桑新聞や新愛知や大垣通信、岐阜日日新聞などに手配して「所郁太郎の縁者の消息を求む」との告知記事を数日間掲載した。ちなみに岐阜新聞の前身岐阜日々新聞には六月七日と六月三十日と七月一日とその翌日の七月二日に告知記事を掲載している。

 すると読者から様々な情報が各新聞社に寄せられ、それを渋沢栄一が懇意にしている名古屋の実業家が取り纏めて報告してくれた。

 まず所郁太郎の妻『たつ』や娘の生存が確かめられた。待ちに待った報せに井上馨は手を打って喜んだが、男子に恵まれなかったと聞いて落胆ぶりを隠せなかった。

「美濃は赤坂宿の造酒屋の矢橋亦一と「さい」の四男だったと分かったものの今は店を畳んでいます。何しろ大垣藩は譜代の名家だっため、所郁太郎が尊攘派に加わったことで厳しく咎められたようです」

 渋沢栄一の電話による報告に井上馨は「うむ」と呻くようにこたえた。

「十一歳の折に西方村の所伊織という医師の養子になっています。そこで医家を継ぐべく近在の医師の許へ勉学に通っていますが、そうしたことは今後おいおい調べれば」

――分かることだ、と渋沢栄一が手短に説明した。

「遺族にさっそく会って他の親族のことも詳しく聞くべし」

 と、井上は壁の送話口に頭を下げて渋沢栄一に頼みこんだ。

 まずは縁戚縁者の行方を探して所郁太郎の家名再興と顕彰を行わなければ井上馨の面目が立たない。報告では『たつ』は再婚していて所郁太郎との縁は切れているようだが、娘の『す免』は結婚後も所姓を名乗っているという。

 一旦電話を切ったものの、井上馨は居ても立ってもいられなくなった。壁に戻したばかりの受話器を取り、送話口に噛みつく勢いで交換嬢に「渋沢栄一」と叫んだ。

「明日にでも美濃へ行きたい。なんとか段取っちゃもらえんか」

 電話口に出た渋沢栄一に井上馨は懇願した。

 しかし明日に美濃へ行ったところで、相手には相手の都合がある。井上馨が美濃で所郁太郎の足跡をたどるにせよ、所郁太郎の縁者と会うにせよ、相手にはそれなりの支度というものがあるし都合がある。

「慌ててはいけません。急に餅は撞けませんから。まずは餅米を蒸して捏ねなければなりません。岐阜県会議長の金森吉三郎氏と連絡を取っていますから、しばしお待ちを」

 実務家らしい理詰めの口調で、渋沢栄一は井上馨を窘めた。

 実のところ新聞告知後も所郁太郎の縁者の消息はなかなか掴めなかった。大垣藩は譜代の名門で尊攘派に身を投じた所郁太郎の親族に対する詮議は厳しいものがあったようだ。そのため彼らは住み慣れた地を離れ散り散りになっていた。藩から酷い仕打ちを受けた記憶は維新後二十四年経った今も容易に消え去るものではないようだ。

 ただ所郁太郎の縁者は養子先の所家だけではない。生家の矢橋家縁者の行方も探し求めなければならない。が、矢橋家も所郁太郎の実家として咎めを受けて、亦一の次の代を以て造酒屋は暖簾を下ろし、縁者一族は赤坂宿から立ち退いていた。

 西方村が大垣藩預かりの幕領だったため上洛した所郁太郎本人にも謀反人として追及の手が及び、親族に対して所郁太郎を探索すべきとの命が下された。そのため所家は村人を何人か雇って京へ遣り所郁太郎に帰郷を説くも「妻子を呼び寄せて一緒に京で暮らしたい」との意向を示したという。

 そうした探索費用などもすべて所家持ちだったため養家は困窮し、しかも幕府に反逆する謀反人を出した家として戸籍を抹消され、西方村から立ち退かざるを得なくなった。西方村を追放されて何処へ行ったのか、杳として行方は分からなかった。

そうした経緯を知るにつけて、井上馨は所幾太郎が長州藩とかかわりを持ち尊攘派に身を投じたばかりに、養家のみならず生家までにも累が及んでいることに心を痛めた。理不尽な仕打ちを腹立たしく思うと同時に、所郁太郎の遺族の心労を思わずにはいられなかった。必然的に井上馨は所郁太郎の顕彰のみならず、所家の再興をすべく決意した。

 七月に入ると所郁太郎の縁者たちの消息が次第に詳しく分かって来た。

所郁太郎は入塾した適塾で抜群の学才を示し、短期間で塾頭になっている。適塾の学問は蘭方医学のみならず究理学から洋式兵学、さらには社会思想哲学までと広範囲にわたっていた。それらをオランダの原書で読み、輪番で塾生に説明し質問に応えるという学習方法を採った。緒方洪庵は塾生たちの議論が原書から外れた場合のみ助言したという。

後に所郁太郎が尊攘派に身を投じることになる思想の原型は適塾時代に培われたといわれている。所郁太郎が入塾した当時に塾頭だった長州藩の伊藤慎蔵と既知を得たことから広く天下を知ることになったという。時代こそ異なるが適塾の塾頭といえば福沢諭吉や村田蔵六なども務め、彼らのその後の活躍と照らし合わせれば、所郁太郎が彼らに勝るとも劣らない資質を持ち合わせた人物だったことが窺える。

しかし所郁太郎が適塾で学んだのは一年半と極めて短い期間だった。緒方洪庵は幕府のたっての要請を受け容れて江戸へ下ることとなり適塾が閉じられたからだ。やむなく所郁太郎は養父の強い意向に従って養家の西方村へ戻った。そして娘のたつと祝言を挙げた。

所郁太郎は一年ばかり西方村の村医者として穏やかな日々を過ごしている。しかしたつが身籠ったのを知ると養子として最低限の役目を終えたとして、医学修行を京で続けたいと養父に願い出た。

 所郁太郎は適塾時代に塾仲間とアジアに進出している欧米と日本のあり方を議論するうちに「尊攘」に強く共鳴した。同時に適塾で西洋の書物を紐解けば紐解くほど日本の国家としての遅れに気付かされ、清国がアヘン戦争などにより欧米列強に蚕食されている現実に危機感を覚えた。そうした中にあって長州藩だけが国家としての日本の危機を認識して「攘夷」を唱え、天下の尊攘浪士たちの拠所となっているのを知った。そこで長州藩京藩邸の近くに診療所を開業すれば長州藩の人たちだけでなく、広く「尊攘」派の人物と知り合えるのではないかと秘かに考えた。

 もちろん養父は郁太郎に西方村で村医者として家業に勤しむことを願った。上洛には大反対だったが、所郁太郎が故郷西方を出奔してでも上洛する覚悟だと知って、ついに折れた。ただ条件として自分の弟の孫に当たる長屋丁輔を従者として連れて行くように命じた。

翌文久三年二月たつは女児を出産して名をす免と名付けた。だが所郁太郎は妻の出産後に一度も帰郷することなく、その年の八月には七卿とともに長州藩へ下っている。そのため終生我が子の顔を見ることはなかった。

「存命であれば娘は三十前か。それで妻のたつの所在は判明したのか」

 と、井上馨は急き込んで聞いた。

 送話機の向こうで返答を逡巡していたが「それが、」と、渋沢栄一は言葉を濁した。

「所郁太郎亡き後、他家へ再婚して行き、いまさら世間に出ることを憚っているようです」

渋沢栄一がそう言うと、井上馨は「そうか」と落胆したように呟いた。

 この国には未だに未亡人などという嫌な言葉が残っている。明治時代の世間は二夫に見えた女に対して想像できないほど極めて冷ややかだった。

「それで、す免なる娘はいずこにおる」と、井上馨は再び声を弾ませた。

たつを顕彰会の役員に引っ張り出すことを諦めて、郁太郎の娘に希望をつないだ。

「す免なる者は所家の家名を守るべく婚姻後も「所」姓を名乗っているようです。しかし西方の屋敷跡は桑畑となり、す免も仕事を求めて製糸業の盛んな群馬県へ移ったようです」

 と、渋沢栄一の声は沈んだままだった。

 井上馨のみならず渋沢栄一も捗々しくない縁者探しに気落ちしたようだ。

 江戸時代はいうに及ばず、昭和も先の大戦終了まで「家」は嫡男相続が基本だった。家名存続のために養子をとるにしても戸主は男子と決まっていた。それが実子とはいえ女では家名安泰とは云い難い。

「儂たちは尊攘だ倒幕だと命懸で東奔西走していたが、その陰で所郁太郎の血族や縁者には大層迷惑を掛けたようだのう」

 と、井上馨も気落ちしたように溜息をついた。

「ここは所郁太郎の生家矢橋家の血縁者を所家の養子として「家」を興すのも一つの方法かと」と、渋沢栄一が提案した。

 所家の再興は井上馨も願っていたが、生家の者を立てるのは何も突拍子もない話ではない。家名存続のために生家から養子を迎えることは普通に行われていた。

「確か所郁太郎は矢橋亦一の四男だったと聞いている。それなら矢橋亦一の親族に適当な人物がいるに違いない。是非とも医業を学ばせて、所家の養子として再興したいものだ」

 井上馨は乗り気になり、矢橋家の縁者を探して欲しいと渋沢栄一に頼んだ。

 

 秋風が立ち始めた九月も末の夜半、井上馨邸に品川弥二郎から電話があった。

「新聞広告を出すとは。さすがに実業家の知恵は違いますね」

 と、ひとしきり渋沢栄一を褒めた後、思い出したかのように、

「僕の記憶では所郁太郎の従者を勤めていた長屋丁輔は矢橋家の縁者です。所郁太郎は井上さんが袖解橋で児玉愛二郎たちから襲撃される一月前から、彼は不穏な動きを察知して僕に書き送っています。『志士仁人效命秋 狂夫何事漫優遊 此身不向馬関死 携妓東山対酒桜』という漢詩に託した文を僕に届けたのも長屋丁輔でした」

 と、品川弥二郎は井上遭難の裏話を打ち明けた。

 確かに英国密留学から帰国した井上聞多は尊攘派からも佐幕派からも命を狙われる存在だった。藩内の両派に「井上斬るべし」との声が満ちていたのは知っている。しかし、それに怯んでいては何事も達成できないと井上は笑い飛ばしていた。

 尊攘派にあっても所郁太郎は「井上斬るべし」とはならなかった。所郁太郎には適塾で学んだ世界的な広い視野を持つ見識があり、七卿落ちに公家たちの従医という立場もあった。もちろん尊攘派にとっては三條卿たちこそが彼らの拠って立つ旗印であり、三條實美たちの命を守らなければならないという悲壮なまでの義務感に包まれていた。

 なぜ井上遭難の際に所郁太郎が忽然と井上家に現れたのか。それは所郁太郎が湯田温泉宿にいたからだ。それも一人ではない。三條實美とともに松田屋の一室に潜んでいた。

本来なら公卿たちは遊撃隊や御楯隊などの諸隊に守られて三田尻長州藩別邸『大観楼』に滞在しているはずだった。しかし三條卿は所郁太郎と数名の隊士に守られて湯田の松田屋にいた。もちろん他の遊撃隊士のように井上聞多を斬るために潜んでいたのではない。

三條實美たちは政事堂の動きを探りにきていた。長州藩討伐令を発した幕府に対して、長州藩は椋梨籐太を頭目とする佐幕派の「徹底恭順」派が主導権を握るのか、それとも一人で「武備恭順」を唱える井上聞多が藩を牛耳るのか、に三条卿たちの命運もかかっている。藩士からなる正規軍・撰鋒隊の隊士の間には七卿たちを斬ってしまえという暴論すら渦巻いていたため、三條卿たちも命を賭けた隠密行動だった。長州藩がどうなるのかがここ数日の御前会議の趨勢にかかっていた。それは自分たちの運命でもあった。

九月二十五日に朝から日暮れまで政事堂で行われた御前会議で佐幕派と尊攘派が激論を戦わせた。居並ぶ藩士の中で『武備恭順』を唱えるのは井上聞多ただ一人だった。英国から命懸で帰国した盟友・伊藤俊輔は四ヶ国連合艦隊との和睦条件の一つ損害賠償金を各国公使と取決める交渉役の通事として横浜へ出向いていたし、高杉晋作は先の脱藩騒動から捕えられ座敷牢に軟禁されていた。そのため井上聞多は一人で「幕府に全面降伏すべきでない」と吼え続けて、大広間に雁首を揃えた「徹底恭順」派の重役たちを蹴散らした。その日は結論の出ないまま日が暮れ、翌二十六日は藩士の末席まで総参集を命じて散会となった。毛利敬親は「武備恭順」に傾いていたといわれている。

井上聞多が政事堂を後にしたのは暮れ五つを過ぎていた。大門を出ようとすると、政事堂に留まってはどうかと井上聞多に忠告する者があった。石州街道の傍の円龍寺辺りに不穏な連中がいるというのだ。円龍寺とは撰鋒隊が分宿している寺の一つだった。しかし井上聞多は「俺も腕には多少の覚えがあるから大丈夫だ」と聞き流した。

政事堂の中川原から湯田の井上邸まで一里余りの道のりだ。大門を出ると一の坂川沿いに坂を下り、早間田を抜けて阿部橋の袂から小郡と津和野・益田を結ぶ石州街道に到り右折して小郡方面に向かう。井上聞多は下男浅吉の差し出す提灯の明かりを頼りに先を歩いた。友人が忠告した円龍寺門前を何事もなく通り過ぎてやや安堵した。しかし湯田まで七町ばかりの袖解橋に差し掛かった折に、暗闇から声を掛けられた。

「井上か」との短い問いかけに、井上聞多は「そうだ」と短く答えて鯉口を切り柄に手を添えた。相手が斬りかかってくれば居合に胴を分断する構えを取るつもりだった。しかし井上聞多が足場を固め腰を落とす前に、不意に背後から袈裟に斬りつけられた。「卑怯者」と叫ぶ間もなく、次に立ちはだかった者が唐竹割に斬りつけて来た。背後からの斬撃に体が右前に泳ぎ、唐竹割に斬りつけて来た刃が首筋を外れて肩口から肋骨の表面を削った。

 それから後は何処をどう斬られたか分からない。三人の刺客がそれぞれが見境もなく刃を振り下ろしてきた。井上聞多は棒立のまま斬撃を浴びて堪らず膝から崩れた。

「浅吉、逃げろ」と井上聞多が叫ぶと、浅吉は提灯を投げ捨てて湯田へと駈け出した。

 倒れると刺客の一人が胴を両断すべく刃を振り下ろしてきた。しかし「ガッ」と火花が散って鉄が鉄を食む匂いがした。偶然にも倒れた時に背に回った脇差が振り下ろした刃を受けていた。それがなければ胴は分断されて井上聞多は絶命したはずだ。

 止めを刺すべく刺客が体ごと刃を井上聞多の心ノ臓を目がけて突いてきた。井上聞多は迅速の突きに身をかわすことも出来ず、必殺の一撃を胸に受けて目が眩むほどの衝撃を受けた。死を覚悟したが、幸いにも懐の銅鏡が刃を受け止めていた。それは京都祇園で懇ろになった芸者からもらったものだった。

 次々と繰り出される突きを躱して地面を転がるうちに、井上聞多は道から一間ばかりの下の畑へ転がり落ちた。重傷を負った井上聞多は必死になって這い、茄子畑の中を農家へ向かった。井上聞多の後を追うように刺客たちも道から畑へ飛び下りて来た。

 井上聞多は息を殺して畝に潜んだ。浅吉が一刻も早く家人を連れて引き返して来ることを願った。刺客たちは声を掛け合って井上聞多の行方を探していたが、暗闇に諦めたのか早々に引き揚げた。やっとのことで明かりを頼りに這って農家にたどりつき、力なく破れ腰高障子を叩いた。

 その家は井上家に出入りしている桑原という名の百姓家だった。家人は殺気に満ちた叫びを聞いて家の中に潜んでいたが、人の気配に戸を開けると顔見知りの井上聞多が血塗れで転がっているのに驚いた。

 さっそく近所の者に声をかけ、井上聞多を畚に乗せて担ぎあげた。刺客たちがまだ近くにいるのではないかと心配だったが、全身を斬り刻まれた井上聞多は虫の息だ。一刻の猶予もならない状況に桑原たちは畚を担いで石州街道を湯田の高田へ向かって駆け出した。

 運び込まれた井上聞多を見て、さっそく家人は近所の名高い医師を呼んだ。それも二人も。しかし、二人とも井上聞多を見るなり首を横に振った。

 井上聞多は「助からないものなら首を刎ねてくれ」と兄に首を刎ねる手真似した。全身を切り刻まれた激痛から一刻も早く逃れたいと切望した。それなら、と兄は差料を手にして立ち上がった。すると母親が井上聞多の上に身を投げた。

「聞多を斬るのなら私も一緒に斬って下され。生きちょる者を殺すことはなかろう」

 と、母親は泣き叫んだ。

 そうした修羅場の井上邸に所郁太郎が訪れた。

 所郁太郎は三條實美と松田屋に潜んで政事堂の御前会議の帰趨を窺いに出した者が帰って来るのを待っていた。事と次第によっては諸隊とともに藩政府に対峙すべきか、と最悪の事態も考えなければならなかった。

 そうした折、突然湯田の街が騒がしくなった。井上聞多が刺客に襲われたという。

「なんでも、呼ばれた長野昌英様も日野宗春様も匙を投げられたそうな」

と、松田屋の仲居が教えてくれた。

 所郁太郎は日野宗春という医師を知らなかったが、長野昌英は京以来の旧知の間柄だった。長野昌英は長崎の松本良順やポンペの許で学び、コレラ疫学などを藩に持ち帰った優秀な長州藩医だった。しかし元々は所郁太郎の養父と同じ漢方医で、傷口を針で縫合するなどという外科術を持ち合わせていないことは容易に想像がついた。

 三條卿に断って、所郁太郎はものの一町と離れていない井上邸へ駆けつけた。

 所郁太郎は井上聞多を台所の配膳台に移すと、全身十三ヶ所に及ぶ斬り傷を子細に改めた。幸いなことに内臓に達する傷や頸動脈などを切断するなどの致命傷は見当たらなかった。ただ血を失い過ぎていることと、傷口から菌が入り込む破傷風が心配された。

傷口に焼酎を注ぎ込むように丁寧に泥を洗い落とし殺菌した。それから西洋医学書で見た記憶を頼りに針を百匁蝋燭の炎で炙って焼鈍し、鋭角に曲げて縫合針を作った。

長野昌英を助手に縫合を始めたが、もちろん麻酔はない。井上聞多は激痛の余り「殺せ」と泣き喚き何度か気を失った。縫合は五十余針を数え、手術は一刻以上に及んだ。

「維新後に刺客の頭目・児玉愛二郎から詫びとして儂を斬った関兼延を貰ったが」

と言って、井上馨は屈託なく笑った。

豪放磊落な井上馨は維新後に刺客たちと面会し和解していた。

「まさしく井上さんが遭難された夜から、高杉さんが十二月十五日に功山寺で挙兵するまでが長州藩の瀬戸際でした。あの折に所郁太郎さんが近くいなくて、井上さんが絶命していたら維新は遠のいていたでしょう」と、品川弥二郎は述懐した。

 井上聞多の生死と維新の成就とはあまり関係ないだろうが、当時が長州藩の瀬戸際だったのは確かだ。それは長州藩の瀬戸際だけではなかった。壊滅状態の尊攘派が息を吹き返して『回天』の倒幕へ日本が歩み出すか否かの瀬戸際でもあった。

井上聞多の遭難により長州藩は「徹底恭順」派が主導権を握り、蛤御門へ出兵した三家老に切腹を申し付け、四参謀を斬首に処した。そして尊攘派政務役八名を捕縛して萩郊外の獄へ投じた。その措置は仮借なく迅速なもので、「徹底恭順」派は主だった「武備恭順」派を根絶やしにしたつもりだった。しかし彼らは高杉晋作を討ち漏らすという大失態を犯していた。

 伊藤俊輔は井上遭難直後に横浜から山口に帰ってきた。艦船で横浜へ出向いたのは四ヶ国公使と馬関戦争の賠償交渉のためだった。伊藤俊輔は通事として同行したが、正使は横浜沖の船から降りず、賠償交渉に出向いた副使たちも雲を衝く外国公使たちの尊大な振る舞いに言葉を失っていた。結局、四ヶ国公使たちとの交渉は伊藤俊輔が行い「攘夷宣誓の幕命により長州藩は攘夷戦争を実施したに過ぎず、百万㌦の賠償金は幕府に請求されたし」という主張を頑強に繰り返して、ついに四ヶ国の公使たちに受け入れさせた。実際に徳川幕府は四ヶ国に対して明治維新まで賠償金を少しずつ分割で支払っている。

復命後に井上聞多遭難を聞かされると、さっそく瀕死の井上聞多を見舞った。その枕元で伊藤俊輔は号泣したという。息も絶え絶えに井上聞多から「山口は危険だ、馬関へ帰れ」と言われ、伊藤俊輔は政事堂門前でうろうろしていた力士隊に「飯を食わせてやるからついて来い」と誘って、力士たちを自身の用心棒にして馬関へ帰った。

 当時、高杉晋作は菊屋町の自宅座敷牢に軟禁されていたが、井上遭難の報を耳にするや神官に変装して萩から脱出した。山口に現れると井上聞多を見舞って「俺は逃げるぜ」と言葉を残して長州藩から姿をくらました。俗論派(高杉は「徹底恭順」派を俗論派と呼んでいた)ごとき連中に殺されてたまるか、と嘯いたという。

 椋梨籐太たちの「徹底恭順」派が藩政を牛耳ると、藩主毛利敬親ともども藩庁を山口の政事堂から萩城へ移した。それにより山口は撰鋒隊の制圧下におかれ、三條實美卿たちや諸隊に対する反発も強まった。蛤御門の変や馬関戦争など長州藩に災いをもたらしたのは尊攘派で、その尊攘派が大義名分のお神輿と担ぐ公家たちを斬ってしまえという叫ぶ者たちも出る始末だった。不測の事態を恐れた諸隊は防府や山口から馬関へ退くことにした。もちろん所郁太郎が参謀を務める遊撃隊も品川弥二郎が参謀を務める御楯隊も、三條卿たちを護るようにして馬関へと移動した。

 間もなく井上聞多は奇跡的に恢復した。しかし杖を頼って立てるようになると撰鋒隊に囚われて山口の寺に幽閉された。もしも井上聞多が傷を負ってなければ、おそらく捕縛され山口の刑場へ引っ立てられて処刑されただろう。

 師走に入ると噂が馬関に流れた。萩政府が諸隊に「武装解除令」や「解散令」を出すのではないかとの噂だ。「徹底恭順」派が牛耳る萩政府は幕府が求めるなら藩主毛利敬親も隠居させようと考えている。自分たちのためなら何をやるか解らない連中だ。奇兵隊総督赤根武人は諸隊の代表として萩政府に諸隊存続を願い出て、何度も萩へ足を運んだ。

しかし諸藩の中でも遊撃隊だけが異なっていた。隊が解散になったら脱藩浪士たちは何処へ帰るというのか。脱藩は死罪が定めだ、今更おめおめと帰藩は出来ない。三條卿たちと同様に諸藩脱藩浪士たちは藩政府の「諸隊解散令」を受け容れるわけにはいかなかった。

師走十日過ぎに「高杉が馬関に帰っている」との噂が秘かに流れた。

高杉晋作は「諸隊解散令」の噂を聞きつけて逃亡先の九州から帰って来た。

諸隊が解散すれば長州藩は平凡な外様大名の一つに成り下がってしまう。松陰が命を賭して唱えた「尊攘」から「倒幕」への思いは永遠に消え去る。なんとしてでも藩政を「俗論派」から奪還しなければならない。

元治元年十二月十五日夜、高杉晋作は三條實美が軟禁されている功山寺に挙兵した。ただし集まった兵力は伊藤俊輔率いる力士隊の約二十名と石川小五郎率いる遊撃隊有志を併せて八十数名。たったそれだけの兵で高杉晋作は長州藩に戦いを挑んだ。もちろん遊撃隊士の中に所郁太郎の姿があった。

高杉晋作は兵を率いて直ちに下関会所を襲って占拠し、翌日には精鋭十八名を率いて三田尻の海軍局を襲撃して軍艦二隻を奪った。行きがけの駄賃に中ノ関会所も制圧し、長州藩の財政基盤を形成している藩交易拠点三関会所の内二ヶ所を一両日のうちに抑えた。

高杉晋作が見事な電撃作戦を実行している間、伊藤俊輔と品川弥二郎は軍事行動に参加していない。彼らは兵員補充と糧秣確保という後方作戦を命じられた。二人は馬関近郊だけでなく山口郊外の吉敷郡まで足を延ばし、豪農たちの間を回って高杉軍への支援と糧秣の拠出、さらには軍資金の協力などを求めた。

高杉晋作の勝利により様子見を決め込んでいた奇兵隊をはじめ諸隊の空気が変わった。萩政府と話し合いをしていた赤根武人もやむなく、号令を発して萩へ進軍を開始した。

進軍を開始したものの赤根武人は萩との中間点で兵を止めた。手勢三百ほどでは三千を超える萩政府軍と戦って勝てないと絶望し、夜陰にまみれて藩外へ逃走した。赤根武人の後任として奇兵隊総督に就いたのが山縣狂介(小介)だった。

慶応元年一月六日と十日に山縣狂介は正義派総大将として絵堂・川上で萩政府軍の精鋭撰鋒隊千名と戦った。二度の激突で新式元込ゲベール銃を装備した諸隊約三百が槍刀と火縄銃で武装した撰鋒隊約千名を圧倒した。

その間、高杉晋作の指揮下遊撃隊と力士隊は馬関に足止めされていた。叫べば届きそうな海峡の対岸大里に幕軍が陣幕を張り巡らして滞陣していたからだ。高杉晋作は動こうにも動けない状況にあった。慶応元年一月十四日になって幕軍が萩政府との約定により撤退すると、高杉晋作は直ちに馬関の全軍二百を率いて山縣軍の支援へ向かった。

奇しくもその日、山縣たちは氷雨降る呑水峠で三度目の激突をしていた。まさしく泥まみれ血塗れの激戦だった。午前十時から始まった戦いは午後二時過ぎまで激闘を繰り広げた末に撰鋒隊を撃破した。高杉軍が合流したのは翌十五日で、その夜に高杉晋作の指揮により全軍で撰鋒隊の赤村陣営を攻撃した。この夜襲により撰鋒隊は壊滅し萩へ向かって敗走した。

これにより長州藩は「武備恭順」派が実権を握り倒幕へと歩み出すことになる。

「儂一人の命で歴史がどうこうなるものでもあるまい。ただ山縣や品川たちが撰鋒隊を蹴散らしていた頃、儂は山口で結成された鴻城隊の総督に担がれて、相次ぐ萩政府軍の敗戦により政事堂守備役たちが萩へ立ち退いた後に難なく押し入って占拠した。書類の散らばる政事堂を奪還した折に長州藩が維新へと踏み出したと肌で感じて震えたものだ」

 と、井上馨は目を細めて述懐した。

 慶応元年二月上旬に藩政府は再び山口の政事堂へ移された。以後の井上聞多は藩主の傍に出仕し、第二次征長戦争の備えに忙殺された。軍務局で軍備・軍事の総指揮を執ったのは村田蔵六(後の「大村益次郎」)だった。村田蔵六の綿密な軍事計画により、洋式武器購入には専ら伊藤俊輔が当たり、時には高杉晋作が長崎へ同行し、時には井上聞多が同行してグラバーや薩摩藩士たちと秘かに会ったりした。

所郁太郎は適塾の同門ということもあり、村田蔵六の片腕として各地に配置した軍の視察に出掛けていた。実は村田蔵六も佐波郡鋳銭司村の村医者の出自だ。青年期に国学などを学んだ経歴も似通っているが、村田蔵六は文政八年生まれで慶応元年当時には既に不惑を過ぎている。村田蔵六にとって所郁太郎は年の離れた弟のようだったのかも知れない。

 慶応元年二月末、所郁太郎は高杉晋作と共に周防高森へ出掛けようとしていた。当時遊撃隊は芸州と小瀬川で国境を接する岩国藩の助成に高森の通化寺へ移動し駐屯していた。二人は遊撃隊を訪れて檄を飛ばしすつもりだったが、出かける直前に山口円正寺の陣営でにわかに激しい腹痛を覚え円正寺の前の借家に帰った。いつもと異なる激しい下痢と高熱に、所郁太郎は重篤な病に罹っていると認めざるを得なかった。

所郁太郎は医師らしく自らの症状を「腸チフス」と診断している。おそらく胸部や腹部にバラ疹が出ていたものと思われる。腸チフスは感染性が強いため所郁太郎は看病しているお菊や親しい者たちに流水による手洗いを命じた。

 一時小康を得たが日を追って衰弱し、三月十二日に到って昼過ぎに容体が急変して、夕暮れには人事不省の危篤に陥った。身の回りを世話していた近所のお菊とその子文助、美濃から付従ってきた長屋丁輔、それに品川弥二郎や寺内寿三郎や土屋良策らに見守られて日没とともにこの世を去った。享年二十七歳だった。

所郁太郎の葬儀には遊撃隊員が整列して弔砲を放ち、藩主の名代が下馬して焼香した。墓は円正寺の墓地(山口市吉敷上東三輪三舞)と岐阜県赤坂妙法寺にある。

「折を見て所郁太郎の生地や養家を訪ねて岐阜へ赴きますか」

 と、品川弥二郎が受話器の向こうから聞いてきた。

「おお、是非ともそうしたい。秋の美濃は良いだろうな、渋沢君と打ち合わせてくれんか」

 井上馨は岐阜行きを快諾した。

 宿泊所の手配や足の確保は渋沢に任せれば間違いないが、それを政治家がやるとどうしても公私混同になりかねなかった。岐阜行きがいつになるかと、井上馨は多忙な日々の中でも渋沢栄一から報告が来るのを楽しみに待っていた。

 しかし突如として岐阜の旅は取り止めになった。

十月二十八日午前六時三十七分、巨大地震が美農地方を襲った。その後三日間だけでも地面が波打つような烈震四回を含む余震が七百二十回も続いた。竣工間もない東海道線の長良川鉄橋も崩落して不通となり、死者は七千二百余名を数え全壊・焼失家屋十四万二千戸余りと甚大な被害を与えた。

 さっそく内務大臣品川弥二郎は被災地視察で岐阜を訪れ、県庁で被害状況を聴取した。そして明治政府は被災地支援金として岐阜県年間予算の二年半分を交付した。そうした迅速な対応も所郁太郎との特別な縁の引き合わせだったのかも知れない。

 

後に井上馨は矢橋家から所郁太郎の甥にあたる実兄の倅の矢橋実吉を鳥居坂の屋敷に引き取り、屋敷から東京の医学校へ通わせた。そして矢橋実吉が勉学に励み外科医になると所家を再興させた。

養家の家系ではたつの娘す免が所姓を名乗り、す免は三児を得たが成人したのは女児のすゑだけだった。すゑは生涯所姓を名乗り、婚姻後も姓を変えなかったが子に恵まれなかった。ただす免の方に夫の死後に再婚して子を得たため所家をその子が継がせた。

 今では出生地の大垣市はもちろんのこと養家のあった大野町や没した山口市でも所郁太郎の顕彰会が開かれている。

ちなみに西方養家跡に建つ所郁太郎記念碑は井上馨の孫・三郎氏の支援により昭和十三年に建立されたものだ。

終わり


素行始末記

                     素行始末記

沖田 秀仁

 江戸時代、柳井は長州支藩の一つ岩国藩の領地だった。

 瀬戸内海沿いの街道は柳井を過ぎてなおも下ると峠に差し掛かる。

 峠の頂から北の雑木林の奥へと一筋の草に覆われた獣道が延びている。

 その獣道を子供たちが纏わりつくブヨを払いながら、単衣の裾を乱して駆けて行く。

 明治三十年の初夏、尋常小学校の数人の子供たちが歓声を上げながら駆けていった。そこは柳井が平生村と境を接する田布呂木と呼ばれる地だった。

獣道を奥へ進むと雑木林が切り拓かれた丘があり、二階建ての陋屋に一人の老人が暮らしていた。その老人は名を白井小助といい、齢は既に古希を過ぎていた。この時代の老人にしては珍しく矍鑠として腰も曲がってない。疎らな白髪を短く刈り上げ、眼窩は落ち込み頬は殺げている。体はそれほど大柄ではなく痩身だが、貧弱というものでもなかった。幼少の頃から鍛えられた四肢は強靭な印象すら与えた。

白井小助の挑みかかるような容貌に子供たちは恐れていたが、好奇心に負けて陋屋を覗き込むと老人は飴玉や饅頭などを差し出して「食わねえか」と上がるように促した。

界隈の大人たちはその弊衣を纏った老人を「素行先生」と呼んでいた。その響きは小馬鹿にするのでもなければ嫌うのでもなく、どことなく親しくもあり畏れてもいた。

白井小助は文政七年に萩城下に生まれた。家は代々毛利藩で家老を勤める浦家の家臣で、白井家は兵法をもって仕えていた。生まれて間もなく浦家の所領がある柳井伊保庄へ移り住んだため、白井小助にとって故郷は領主館のある瀬戸内海に面した伊保庄の丘だった。しかし故郷に白井小助の幼少時を知る者は誰もいなかった。

維新後、浦家は藩主毛利敬親に同行して東京へ移り住み、拝領屋敷も山口藩に取り上げられた。そのため伊保庄に白井小助と縁のある者はなく、生涯独り身を貫いたため天涯孤独の身だった。が、別段それを苦にしている様子もなかった。

 御一新間もない戦塵舞う頃には、暮らしの糧は平生村の豪商から請われて用心棒などをして稼いだ。しかし世間が落ち着き、諸隊崩れと称する連中が徘徊して押し込みなどを働く時代が去ると、世間も白井小助を必要としなくなった。だが生きて行くには銭がいる。いつからか白井小助は無心をするようになった。それも大威張りで東京の既知の者を順に尋ねて無心して歩いた。すると不思議なことに誰一人として追返すことなく、乞食同然の白井小助を屋敷に招き入れ風呂に入れた。そして新しい着物を与えて昔話を肴に酒を飲み交わし歓待してもてなした。

還暦を過ぎた辺りから半年に一度か年に一度、東京へ行き伊藤俊輔や山県小介などの屋敷を訪ねて廻った。以前は山田市之允(顕義)を二回に一度は尋ねたものだが、五年ばかり前に四十九歳の若さで他界してしまった。陸軍少将になっていたが同じ松陰門下の山県小介と対立して干されていたと聞いている。中央政府で伊藤俊輔の後を継ぐ人物だと思っていただけに、惜しい男を亡くしたものだと落胆した。

上京して故郷を留守にする他の日々は田布呂木の陋屋で子供たち相手に寺子屋の真似事などをして過ごしていた。今も白井小助は一階の塾部屋で子供たちがやって来るのを寝転がって待っている。起きて半畳寝て一畳とはよく云ったものだ、と天井の複雑な木目模様を見るともなく眺めた。世を拗ねたかのように自堕落に暮らし、多くの者に迷惑をかけながら生きている。しかしこれも人生よ、と白井小助は思う。維新当初は東京に出てきてはどうかと誘われたこともあったが、仲間たちの魂の眠る故郷を離れるわけにはいかなかった。維新の日を迎えることなく命を落とした仲間たちを誰かが弔わなければ、野仏たちが余りにも不憫だった。

しかも、かつての奇兵隊士や大勢の仲間たちが故郷で不遇を囲っているのに、自分が官職に就いて上京しては彼らに顔向けが出来ない。そうした思いが白井小助の足を田布呂木に留めさせた。「お前たちは誰のお陰で立身出世できたと思っているのか」と無心した後で、東京に暮らす元勲たちを叱り飛ばしたこともあった。

 杣道を駆け登って来る子供たちの声が近づいてきた。

 白井小助は上体を起こして、肌蹴ていた衣紋をかき寄せた。

――せめて子供達には折り目正しい先生だったと思われたい。

 近所の大人たちからは呑んだくれの無頼者と陰口を叩かれ、評判はいたって悪いが、子供たちには白井小助は泰然自若した大人だったと記憶に刻んで欲しかった。

「先生、先生、伊藤総理大臣の話をしちょくれんか」

 桟から引き戸が外れるほど勢い良く開けて、五郎太が声を掛けた。

 総理大臣になった伊藤俊輔はいたって評判が良い。何しろ彼はこの地から歩いて行ける熊毛郡束荷村の出自だった。だから子供たちは郷土の偉人として神のように崇めている。しかし明治三十年当時、伊藤俊輔は既に総理大臣ではなかった。明治二十五年に組閣した第二次伊藤内閣は去年総辞職している。一昨年締結した下関条約に対して独・仏・露の三ヶ国干渉を招き、結果としてそれを受け入れざるを得ないこととなり条約締結者として責任を取ってのことだった。だから明治三十年の伊藤は総理大臣ではないが、そうした政治を子供たちに語って聞かせても解らないだろうと、五郎太の問い掛けを訂正しなかった。その代わり、

「お前ら、学校は終わったンか。えらい早くに来たが」

 と殺げた頬に笑みを浮かべて、小助は嗄れ声で叱りつけるように吠えた。

 その声は獣のようで大抵の者が怖気を震うが、子供たちはすぐに慣れてしまった。子供は敏感な嗅覚で相手が自分に危害を加えるか否かを敏感に嗅ぎ分けるようだ。

「今日は土曜日の半ドンだ。家には先生の所へ勉強を教えて貰いに行くといってきた」

 そう言って、五郎太はにこやかにほほ笑んだ。

 彼の後ろには常連の三吉の他、何人かの新顔も見えていた。

「そうか、それなら上がれ」

 小助が手招きすると、子供たちは土間に草鞋を脱ぎ棄て框に飛び上がった。そして小助が置いていた雑巾に足を擦りつけた。新顔の子供たちは怖いものでも見るように小助の顔を覗き込んで静かに上がった。

 白井小助の顔は怖い。右目の瞼が上下乱暴に縫い付けてある。右眼球は元治元年八月の四カ国連合艦隊との戦で、上陸したフランス陸戦隊と奇兵隊を率いて戦った激戦のさなかに、狙いをつけて引鉄を引いたゲベール銃が暴発して吹き飛ばされた。

直ちに後方へ送られたが、野戦病院にいた若い蘭学医が応急処置に簡単な消毒だけして、畳表でも縫うように上下の瞼を縫い付けてしまった。三ヶ月もすると傷は癒えたが右目は縫目が数えられる一筋の傷跡になったしまった。その大袈裟な引き攣り傷を隠すために永楽銭に紐を通して斜めに縛り付けていた。だが今はそうした面倒なことはやめて、乱暴に縫いつけられた右目の傷跡をさらしている。

 十畳一間の塾部屋は六人ばかりの子供が座っても息苦しいほど狭くはない。

「さあ、憶えとるか復唱してみい。二一天作の、」

 と言いつつ、白井小助は五郎太の後ろに隠れるように身を潜めている女の子を指した。

「二一天作の五、じゃ」と、女の子は小さな声で答えた。

「おお、その通りじゃ。次に、五一倍作の、」

 と言いつつ、五郎太を指した。

「先生、二一天作の五の次は三一三十の一じゃろうで。いきなり五へ飛ばれちゃそこへ行くまで手間がつくけえ」と言いつつ、五郎太は逡巡した。

「算数は基本さえ憶えてしまえばあとは簡単じゃけえのう。先日渡した「割り算の九九」一覧表を出してみんなで斉唱せよ」

 そう言って、白井小助は紙を忘れた子供に文机の紙を渡した。

 子供たちは大声で「割り算の九九」を唱和する。それを聞きながら、白井小助は文机に頬杖をついて来し方を振り返るともなく来し方を振り返っていた。

 

 文政七年、白井小助は日本海に面した萩城下で毛利藩家老浦靱負に仕える兵法家の家に生まれた。二本差しを帯び姓名を名乗っているが、家格としては陪臣に過ぎない。身分でいえば長州藩直参の中間・足軽と同等か若しくはそれ以下の扱いだった。

萩に暮らしたのは六歳までで、それ以降は浦家二千七百石の領地周防国熊毛郡伊保の庄で過ごした。幼少の頃から学才に恵まれ、父親が小助に期待するところは大きく、十五歳の折に願い出て当主が藩主の参勤交代で江戸へ行くのに随行して出府し、そのまま藩邸に暮らして学問に励むことを許された。

 折しも当時江戸では蛮社の獄が起こり、蘭学に対して厳しい弾圧が行われていた。世にいう天保の改革だった。当然浦家も白井小助の学問は国学か漢学とするしかなく、安積艮齊の塾に通うこととなった。そして剣術は斉藤弥九朗道場へ通うこととなった。しかし白井小助の若々しい感受性には蘭学が強く刻まれ、兵法家の倅として洋式兵法と教練への興味が強く刻み込まれた。

 勉学に明け暮れする日々が十年を過ぎ、三十になった白井小助は大きな節目を迎えることとなる。その年、嘉永六年六月三日に浦賀沖に四隻の黒船が現れ、江戸幕府に開国を求めて来た。

 いよいよ来るべきものが来た、と白井小助は全身が粟立つのを覚えた。江戸へ出府して既に十四年、世間が激しく変化しているのは肌で感じていた。イギリスやロシアなどの船が長崎へやってきたり、日本近海に欧米の船が頻繁に現れているのは知っていた。そしてついに黒船が江戸湾にまで乗り込んで来たのだ。

開国を求める米国ペリー提督に対して、幕府は一年の猶予を求めて追い返した。しかし幕閣に一年間で正式回答を出す能力はなかった。

 翌安政元年三月、ペリーは前年約束した回答を受け取るために浦賀沖に姿を現した。前年よりも三ヶ月も早い来航に幕閣は驚き回答を先延ばししようとした。するとペリーは黒船を江戸湾深く進めたために江戸市中は再び騒然とした。

それと前後して新橋の料亭伊勢屋で吉田寅次郎の送別会が開かれた。奇しくも吉田寅次郎と白井小助は江戸藩邸で同室となり、肝胆相照らす仲となっていたため出席を乞われた。他には宮部貞蔵や梅田雲浜や栗原良蔵など長州藩のみならず尊攘派と知られた人物が顔をそろえた。

吉田寅次郎は後に松陰先生と仰がれる長州藩の兵学者だ。僅か六歳にして毛利敬親公の御前で軍学の講義をしたという。細面の痘痕面だが、どこか老成した感のある男だった。吉田寅次郎も白井小助の烈しさに驚き「白井小助、甚だ志あり」と遺している。

送別会は吉田寅次郎の旅発ちを祝すことにあった。来航したペリーに頼み込んで黒船に乗せて貰いアメリカへ渡るという。尊王攘夷を唱える者にして異国へ行くというのは同じ兵学者として彼の気持ちが痛いほど良く分かる。異国と戦になった折に、敵を知らずしてどのような兵法を毛利公に進言するというのか、という真摯な気持ちが伝わってきた。

吉田寅次郎のペリーの艦船に乗り込み密航する試みは実行に移された。吉田寅次郎と従者の二人は夜を待ち浜にあった船に乗り沖合の黒船に辿り着いた。しかし「鎖国禁止令」を承知している米国側によって乗船は拒否され、主従は密航を果たせなかった。

翌朝、吉田寅次郎は従者と共に律儀にも浦賀奉行所に自訴した。それにより大事件になった。夜釣りにでも出て櫓をなくして黒船に漂着したとでも誤魔化せば良いものを、吉田寅次郎の世間知らずには誰もが驚いた。大真面目も度を越せば傍迷惑なものだと恐れ入って頭を抱えたのを白井小助は今でも憶えている。

江戸藩邸の重役たちは幕府からもたらされた一報に驚き、送別会に出ていた者に累が及ぶのを恐れて即座に国許へ帰した。来原良蔵は吉田寅次郎とは明倫館で学業を競った無二の親友だった。奥祐筆という職責を担っていたが職を解かれ国許へ追い返された。白井小助の名も送別の会の出席者として江戸藩邸は調べて承知していた。が、藩の重役浦靱負に遠慮してか、その家臣に処分は及ばなかった。

幕府は自訴した吉田寅次郎に縄を打ったものの処罰に困り、ひとまず身柄を長州藩に預けた。その二年余りの期間が倒幕のきっかけを作ろうとは誰も思わなかっただろう。国許へ預けた吉田寅次郎が松本村で「松下村塾」を開き、そこで狂気にも似た烈しい憂国の情を血気盛んな塾生に教え込むとは幕閣の誰一人として知る由はなかった。

江戸時代を通して、長州藩は特別な藩だった。幕府に対して表向き常に恭順の意を表していたが、萩城内では「正月の儀」が秘かに連綿と受け継がれていた。それは正月元旦に藩士が総登城して大広間に集まり藩主と対面する儀式だった。他藩でも藩主と家臣とが正月を賀す行事として普通に行われているものと何ら変わりなかった。

ただ、長州藩の場合は少しばかり様子を異にしていた。総登城した家臣が平伏する中に上座についた藩主に、筆頭家老が「今年はいかが取り計らいましょうや」と問うのだ。すると藩主は思案するように一呼吸置いて「今年はその儀に及ばず」と返答する。家臣一同は藩主に対して「へへーっ」と低く地響きのように唱和するというものだった。

たったそれだけのことだが、総登城した藩士すべては秘された意を知っていた。今年は討幕の軍を興さない、ということを。

長州藩は関ヶ原の合戦で敗れ、徳川家康により中国地方に築いていた版図百二十万石を僅か防長二国三十六万九千石に減封された。余りの仕打ちに毛利輝元は親しい黒田如水を通して「領地返納」を徳川家康に申し出た。しかし、徳川家康は減封の沙汰の取り消しも領地返納も認めなかった。そして「軍を差し向けるまでもなく、長州藩は逼塞のうちに滅びるだろう」と、ほくそ笑んだという。

徳川幕府開府から江戸時代の大半を、長州藩は逼塞した貧乏藩として過ごした。毛利輝元に従って防長二州に移って来た藩士たちの多くは槍刀を捨て、代わりに鋤や鍬を手にした。そして山間の荒れ地の開墾やあらゆる河口の干拓に立ち向かった。その結果、防長二州の領地三十六万九千石は幕末には収穫高百万石に達していたといわれている。しかしそれでも長州藩は天下に知れ渡る貧乏藩だった。借金に借金を重ね、ついには年貢収入の二十二年分にまで達して困窮を極めていた。

天保八年に十八歳の若さで毛利敬親が藩主に就いた。それは藩主に就くべき嗣子が辞退したためお鉢が回って来たに過ぎなかった。しかし、それが長州藩に幸いした。

毛利敬親は藩主就任の翌天保九年に一人の男を抜擢した。江戸当役用談役という閑職に退いていた五十六歳の村田清風を政務役に登用して藩政改革に当たらせた。

白井小助が江戸で学問を積み始めた時期と、村田清風が政務役に登用された時期と軌を一にする。白井小助は長州藩が参勤交代の路銀にすら事欠く貧乏藩だったのを知っている世代でもあった。ただ長州藩が藩政改革を成し遂げ、天下に藩の名を知らしめる時代が近付いているうねりのような政治の大きな潮流とは無縁だった。相変わらず江戸に滞在して伊藤玄白の蘭学塾に通って勉学に励む日々を送っていた。

 

あの時代が懐かしい、と白井小助は回顧する。

藩邸の一室で天下国家を論じたものだ。一回り以上も年下のまだ半人前の青臭い書生でしかない若造たちと交わり、数々のバカバカしいほど無鉄砲なこともやった。

安政六年五月吉田寅次郎が幕府の命により江戸表に召喚されるや、松下村塾の弟子たちが陸続と出府して来た。当時は勝手に国境を越えて旅することは出来ない。だから長州藩は若者たちの申し出に対して何らかの理由を付けて手形を与えたのだろう。書生たちに便宜を図るとは、なんとも大らかな藩だと感嘆せざるを得ない。

松下村塾の塾頭を自任していたのは桂小五郎だった。桂が学んだのは同じ松下村塾でも吉田寅次郎が教える以前、寅次郎の叔父が開いていた当時の門弟だった。齢は高杉たちとは十歳近く離れ、しかも既に藩から大検視役を任じられていたため兄貴分として慕われていた。桂小五郎が従者として連れていた中間・伊藤俊輔も松下村塾の門弟だった。

松陰門下の筆頭格は高杉晋作だった。いとこの久坂玄随と二人して村塾の双璧と称せられていた。藩邸にたむろする書生たちの中に伊藤俊輔の顔もあったが、松陰門下でない井上聞多の顔もあった。松陰門下の大半が下級藩士の子弟か足軽・中間の子供たちだった。だから百石奉行格の子息井上聞多は上士の出自ということで変わり種だったが、上士ということなら高杉晋作も二百石小姓役を勤める家柄の嫡男だった。

藩が松陰門下の出府を大目に見たのにはわけがある。伝馬町の牢獄に繋がれた者には差し入れが必要だ。ツルのない者は牢内で酷い扱いを受ける。しかし藩が幕府の罪人に対して差し入れをすることは出来ない。そのため松陰の弟子たちが差し入れに奔走できるように出府の願いを聞き入れ、藩邸での動きを大目に見た。

重役たちの思惑通り、松陰の弟子たちは伝馬町の獄に繋がれた吉田寅次郎に差し入れていた。しかし親掛かりの書生たちの手元に十分な金があるわけはない。度々用立てていた桂小五郎も手許不如意となり高杉たちは困り果てた。

それを見かねた白井小助は差料を売り払った。それは出府の折に父親が工面して買い求めてくれた備前長船定光で、町の道具屋で七両ばかりの値がついた。

その金子を黙って高杉晋作に渡した。又者(陪臣)に過ぎない白井小助にとって出過ぎたまねだったかも知れなかった。しかし吉田寅次郎は白井小助にとっても気になる男だった。洋式兵学者佐久間象山の教えによれば既に刀で戦う時代は終わっている。これからは洋式銃の性能が戦を制するという。白井小助も教えられてそう思った。だから差料を売り払い竹光を腰に差すのに抵抗はなかった。ただそれにより松陰の弟子たちと生涯を通して変わらない厚誼を結べたのも事実だった。

安政六年の夏が終わるとともに、松陰の弟子たちに一人また一人と萩城下へ帰国命令が出された。同じように白井小助にも帰国命令が出されたが、彼の行く先は萩ではなかった。初秋の東海道を浦家の領地、周防国柳井郊外の伊保庄阿月へと旅立った。十五年に及ぶ長い江戸の暮らしに別れを告げるのは辛かったが、浦家家臣として浦家の私塾「克己堂」の教授に就くのは江戸遊学への出立時より定められたことだった。

秋も深まった頃、郷土に帰っていた白井小助は吉田寅次郎が江戸伝馬町獄刑場で首切り役人山田浅右衛門によって首を刎ねられたとの便りを耳にした。同時に「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という辞世の句も伝えられた。指を折れば吉田寅次郎は享年二十九歳だったことになる。生きて阿月で教鞭を執っている白井小助は三十五歳になっていた。

当時、松下村塾生は最年長の桂小五郎ですら二十六歳に過ぎなかった。高杉晋作は二十歳になったばかりだし、一つ年下の久坂玄随は十九歳だ。更にまた一つ年下の伊藤俊輔は十八になったばかりだ。若い松陰の弟子たちは師を失った悲しみに沈んでいるだろうに、と伊保庄の地で萩城下を思い浮かべて天を仰いだ。

安政の大獄の嵐が吹き荒れる二年余りを、白井小助は平穏な日々を克己堂教授として過ごした。克己堂とは浦家領主屋敷の敷地内の私塾で、柳井から瀬戸内海に突き出た半島の真中を貫く背骨のような山地の東側斜面に開けた丘に建っていた。三間四方の粗末な寄棟造りの教堂だった。壮大な浦家領主屋敷の壮大さに比して、同じ敷地内の前庭に建つ克己堂は小さくみすぼらしく見えた。

それでも白井小助が教える洋学や洋式教錬は珍しく、白井小助の教えを乞う英才たちが浦家の領地以外からも集まってきた。当時の子弟には大島椋野の世良修蔵や岩国藩柱島の赤根武人などもいた。

伊藤玄白の塾で学んだ洋学や佐久間象山の許で学んだ洋式兵学は既に古色蒼然としたものだったが、それでも個人戦に重きを置いた古来の兵学とは大きく異なるものだった。白井小助は生徒たちを率いて丘を下って黒磯まで行進し、瀬戸内海に面した砂浜で洋式銃陣の教錬を行った。隊列を揃えて行進するのも初めてなら、号令で一列縦隊となって立て膝で木銃を構えるのも初めてだった。その斬新さが克己堂の名物となった。

時折、白井小助は教錬に打ち込む彼らの遥か彼方を、煙突から煙を上げて蒸気船が瀬戸内海を航行するのを目にするようになった。月を経るごとに洋式艦船を見かける機会が増し、時代が激しく動いていると小助に教えていた。ただ、萩城下と違って周防国は長州藩政とは無縁の地で、江戸時代そのままに平穏な時が流れていた。

 

突然、天啓に打たれた。

夏が過ぎ去ろうとしていたある朝、重苦しい圧迫感に大きく肩で息をして目を見開いた。厭な汗が全身に噴き出ていた。差し掛けの薄暗い空気を切り裂くように、張り詰めた糸のような日差しが板壁の節穴から差し込んでいた。盛夏と比べれば明らかに衰えた日差しだった。

なぜかその光に射竦められたように奮えた。すべてが平穏のうちに死に絶えている。自分も平穏な阿月の丘で無事な毎日を送り朽ち果てるだけなのだろうか。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、低い鴨居に頭を打ちつけながら小屋を飛び出た。

その足で領主屋敷へ行き、用人頭の秋良貞温に面会を求めた。

「何を大騒ぎしている。夜が明けたばかりというに、何事か」

と、不機嫌そうに白髪頭を掻きながら、勝手口の土間に立つ白井小助を見下ろした。

「秋良様、白井小助は御暇を頂戴致したく存じます」

 白井小助は腹の底から絞り出すような、低い声で申し出た。

 戦乱の世ならまだしも、太平の御世で自らすすんで浪人するバカな者はいない。気でも狂ったかと、秋良貞温は大きく目を見開いて白井小助を見詰めた。

「なぜ暇乞いをするのじゃ」と、秋良貞温は怖いものでも見るように聞いた。

「理由は別にござりませぬ。ただ国事に奔走致したく」

――そのようなことを吉田寅次郎は言っていたが、と白井小助は腺病質な面立ちに目の吊り上った痘痕面を不意に思い浮かべた。

「ナニ、克己堂教授は私事と申すか」と、秋良貞温は色をなして吼えた。

「いかにも、克己堂は浦家私塾であれば私事でござる」

 平然と静かに応えられると、秋良貞温は毒気を抜かれたように目を丸くした。

「これより兵庫に浦靱負様の許へ赴き、御暇乞いのご挨拶を致すつもりにて」

――だから通行手形を書いてもらえないか、とお願いするつもりだったがやめた。

狼狽しきった秋良貞温を見れば白井小助が辞した後の、克己堂教授の穴埋めをどうするかで頭が混乱しているのは歴然としていた。秋良貞温の考えはもっともだ。なぜ畑を耕すでもなく、田の草取りをするでもなく、一日中小僧たちを相手に遊んで暮らせる結構な境涯を捨て去るというのだろうか、とでも言いたそうだった。

「勝手なことは許さぬ、秋には殿も帰って来られように、それまで克己堂教授として、」

 と言い終わらないうちに、白井小助はさっさと踵を返した。 

「まだ話は終わっておらぬ、待てというに、」と、秋良貞温はがなりたてた。

しかし白井小助は足を止めなかった。理解しようとしない者に時を費やして理を語っても無駄というものだ。

 克己堂に行くと、掃除をしていた教授補の世良修蔵に声をかけた。

「俺は浪人することにした。後は頼んだぞ」

 そう言うと差し掛けのような小屋に引き返し、竹光の差料を拾い上げて腰に落とした。

 

 帆柱の林立する柳井川河口の柳井湊まで行くと出船入船は幾らでもある。船頭の溜まりの旅籠の土間に顔を出すと、顔見知りの船頭がさっそく声をかけて来た。

「白井先生じゃありませんか」

荷積みを沖仲仕に指図していた手を休めて、声をかけた船頭は柳井の者だった。

 白井小助の名は克己堂教授として洋式兵学を教える高名な兵学者として柳井近郷では知れ渡っている。事情を話して兵庫の湊へ立ち寄る船便はないかと頼み込んだ。

「克己堂教授を辞められるとは、勿体ないと思いますがのう」

「いやいや、合わなくなった着物を脱いで、体に合う着物を求めに行くだけだ」

 と、事もなくそう言うと、船頭は怪訝な顔をして白井小助を覗き込んだ。

 この時代、主家を離れることは身分を失うことだ。何を好き好んで苦難の道へ進むのかと誰しも危ぶんだ。しかし樽廻船の船頭は快く白井小助を乗船させてくれた。

 船は陸路を歩くより楽で速い。だが瀬戸内海は沖乗りではなく、陸地や島などの目印を目視して進むため昼間だけの航行だ。しかも帆走船は風待ちや潮待ちがあるため、何日も無駄に過ごすことがある。秋風を得ても兵庫に着くのに三日と二晩を費やした。

昼下がりに兵庫の大輪田泊で下船すると、白井小助は海岸の松原沿いに長州藩が本陣を置いている古刹へと向かった。暇乞いをするからには用人に知らせて済むものではなく、筋目を通して当主に面会して申し出るべきだと心得ていた。

大伽藍の本堂が松林の上に見える古刹の門前に到ると歩哨に「浦家家臣白井小助、殿に御面会の由あって参った」と告げた。

右手の若い歩哨は山門へ小走りに駆け込み、年嵩の歩哨は胡散臭そうに白井小助をじろじろと無遠慮に見ていた。

 待つほどもなく歩哨を追い抜く勢いで、顔見知りの浦家祐筆が駆け寄って来た。

「小助、国許で何かあったか」と、咳き込みながら聞いた。

「いえ、殿に御暇乞いに参りました」と、白井小助は腰を折って丁寧にこたえた。

 すると、年老いた祐筆はいかにも見下すように表情を歪めて、

「何たること、私事でわざわざ兵庫くんだりまでやって来るとは。殿は幕府より長州藩に下命された兵庫警護の任に当たっておられるというに」と、吐き捨てた。

 しかし面会した浦靱負の態度は祐筆とは大きく異なっていた。白井小助が別段これという理由もなく暇を乞いたいと云うと、

「それも良かろう。克己堂で領民の子弟を教えるのが性に合わないというなら、小助の思いのままに生きるも良い。浦家家臣を辞すというのも生き方の一つだ」

「ただこの三月に藩は人材登用令を発した。士雇士列に叙すべき人物がいれば保証書を提出せよとのお達しだ。それに応じて浦家からは小助も他の者と併せて藩に願い出てある。それゆえ年内にも長州藩士に準ずる身分に取り立てられるであろうことを心得ておくように」

 そう言うと、浦靱負は無愛想な顔をしたまま「うむ」と頷いた。そして白井小助に興味を失ったかのように待たしていた小隊長の報告に耳を傾けた。

 退出して良い、という合図だった。白井小助は浦靱負の言葉を反芻する暇もなく、本堂を後にした。

古刹の門を出て白井小助は足を止めた。浦家との絆を断ち切りに兵庫まで来たが、当主はそうした白井小助の思惑なぞ千里眼で見抜いていた。自らの浅慮に赤面した。頭を上げてからこれから何処へ行くべきかと腕組みをして顎を撫でた。既に齢は三十七になっている。世間では一家を養い大人として矍鑠とした人生を歩んでいる年齢だ。しかし白井小助はそうした生き方に背を向けて、放埓の生涯を送ろうとしている。なぜそうしたことになったのか、理由は判然としない。しかし、それが天啓というものなのだろう。

とりあえず大坂へ行って諸国への廻船の便でも確かめようと、海岸伝いの街道を東へ歩いた。途中松林の苫屋に潜り込んで一泊し、翌朝大坂の雑踏を通りぬけて、大坂淀川河口の船着場に到った。

腕組みをして帆柱を林立させている廻船を眺めているうちに思いは定まった。江戸へ行こう。国事に奔走するには江戸へ行くしかない。風の噂では吉田寅次郎の弟子たちも出府していて、政務役周布政之助も手を焼いているという。

吉田寅次郎が首を討たれてから早くも三年たっている。文久二年の夏、白井小助は晴れて浦家家臣の頸木から解き放たれて江戸へ向かった。

 

「先生、寝ちょるんかいの」と、口々に聞く子供たちの声に目を開けた。

 古希を過ぎてから夢と現との境目が曖昧になっている。自分でも腹立たしい限りだが、齢を重ねるとはこういうことなのかと思わないでもない。

「目を瞑っておっただけじゃ、寝ちゃおらんが」と、顔の皺の一つのようになっている左目を大きく見開いて見せた。

「それじゃ、話を聞かせてくれや。先生は伊藤総理大臣と親しく口を利く間柄じゃと親たちはいうとるけえ、なんか面白い話を聞かせてくれんかいのう」

 三吉が目を輝かして白井小助の目玉を覗き込んだ。

「うむ」伊藤俊輔か、と白井小助はつい先月のこと、東京で歓待してくれた男の面影を思い浮かべた。

「陸蒸気に乗ったんか、」と、五郎太が急き込んで聞いた。

「ああ、柳井湊から神戸まで廻船に乗せてもらって、神戸から蒸気機関車に乗った。それも白切符で急行に乗って東京へ行った」と、五郎太にこたえた。

「嘘じゃろう、陸蒸気に乗るにゃたんと金がいるんじゃ。先生は貧乏じゃろうに」

 と、理屈っぽくお米が聞いて来た。

 もちろん白井小助に金はない。しかしなんとかなるものだ。

神戸スティションで駅長に面会を求め、伊藤俊輔が運賃を払うから陸蒸気に乗せてくれ、と頼み込んだ。すると駅長は「伊藤俊輔なる人物を知らないし、そういう便宜を取り計らうようになってはいない」と木で鼻を括ったような返答をした。

駅長は嘘をついている。これまでも着払いで何度か東京へ陸蒸気で行ったことがあった。しかし東京で誰が乗車賃を払ってくれるのか、確かめずに乗せるわけにいかないのだろう。乞食然とした老人の申し出を、駅長が憤然と断る事情も解らないではなかった。

「伊藤俊輔が身元引受人で不足じゃったら、それ以上に上等な者いうたら日本にゃ天子様しかおられんがのう。どいつもこいつも明治になって名を変えたけぇ儂は憶え切らんが、今は確か博文とか名乗っちょるはずじゃ。白井小助が神戸スティションで難儀しとるからと、東京に電話してもらえんかいのう」

 白井小助がそう言うと、駅長は驚いて部下に東京電信電話局へ電話させた。

 しかし開通したばかりの電話はなかなか繋がらないし、東京でも伊藤邸の電話口の近くに白井小助を知る者がいないのか話が通じないようだ。

「俊輔がおらんようじゃったら、電話を掛け直してもらえんかいのう。山県小介でも井上聞多でも、誰でもええんじゃがのう」

 と、白井小助が呟いていると、電話を替わった駅長が慌てて電話に出るように促した。

 椅子から立ち上がって駅長から受話器を受け取ると、送話口の前に進んだ。

「白井様ですかいのう」と、押しの強い女の声が聞こえた。

 それは下関で芸妓をしていたお梅の声だった。田中町で小間物屋をしていた伊藤俊輔の家で会ったのが最初で、東京に出るたびに立ち寄っていた。

「はい、白井素行にござる。またまたお邪魔しようかと思いまして」

 と、白井小助は面映ゆさにやや顔を俯けて自らを名乗った。

 素行とは自分が勝手に決めた名だった。号は「飯山」と称したが、いかにも食い意地が張っているようで滅多に使わなかった。ただ素行は自分でも気に入っていた。

高杉晋作は文久二年に藩命により任じられた学習院御用掛(京駐在で掌る朝廷との連絡役)を蹴った際に自らを「東行」と称して頭を丸めてしまった。それは鎌倉武士だった佐藤義清が西行と号して出家したのを皮肉ったと思われるが、白井小助の場合にはいつまでも小僧のような「小助」では恰好がつかないと思い、明治維新以降は自らを「素行」と名乗った。明治になって名を変えたのは白井小助も同じことだった。

「それはそれは、お達者で何よりです。どうぞお気をつけてお越し下さい。主にも伝えておきます。それでは駅長に代わって下さい」

 と、お梅の要領を得た話に、白井小助は安堵して頷いた。

「伊藤閣下の奥方様のお話では書生が東京駅まで迎えに来られて、鉄道料金を支払って下さるそうです。失礼致しました」

 そう説明すると、駅吏に「東京までの上等の切符をお持ちするように」と伝えた。

「上等は下等より、いかほど高いのか」と、堅い木の椅子に戻った白井小助は尋ねた。

「およそ二倍半の値でございます。それが何か」と、駅長が机越しに聞いた。

「いやいや、」と首を横に振って「勿体ないのう」と呟いた。

 もちろん、東京には無心に行った。旧知の者を訪ねて、無心して歩くのが白井小助の晩年の暮らし方だった。

「それで、東京へは何しに行ったんじゃ」と、しつこく子供たちが聞いてきた。

「遊びに行ったまでのことよ」と、白井小助は不機嫌そうに返答した。

 まさか子供たちに「無心」に行ったのだ、とさすがに本当のことは話せなかった。子供たちは羨ましいような眼差しで白井小助を見詰めた。

「伊藤さまは周防の出じゃと聞いちょるが」と、女の子が小さな声で言った。

 伊藤俊輔の評判はこの周辺では飛び抜けて高い。東京で活躍している長州出身の政府高官のほとんどは長門国に偏っている。長州藩は城を山陰の萩に置いていたため、家臣も萩周辺に住んでいた。だから周防国熊毛郡束荷村田尻から出た百姓の倅が初代総理大臣になったのはこの周辺地域に暮らす者にとって無上の誇りだった。

「ああ、田布施の岩城山の向こうの、もう一つ峠を越えた束荷村の出自だ」

「先生も伊藤さまと一緒に戦ったのか」と五郎太が聞いた。

「いいや、元治元年の八月に儂は四ヶ国連合艦隊との戦で右目を吹き飛ばされ、内訌戦(功山寺決起から慶応元年一月末までの藩政主導権争奪の内戦)当時は田布呂木に伏せっとった。ただ総大将だった高杉晋作が伊藤俊輔を手許に置いて後方支援に当らせたため、伊藤俊輔は太田・絵堂の戦場へは出んかったと聞いちょる」

「第二次長幕戦では、儂は第二奇兵隊を率いて大島を占領した幕府軍と戦ったが、伊藤は馬関にいて、小倉口の幕府軍と戦う総大将の高杉晋作を助けて糧秣の確保やら武器弾薬の手配やらに忙しく働いとったと聞いちょる」

「御一新の戦争では儂は奇兵隊参謀として出兵し、鳥羽伏見の戦いで勝利した後、日本海へ回り新潟太夫浜上陸から榎峠、朝日山と長岡藩と激戦を繰り広げたものじゃ。その頃伊藤俊輔は神戸や大坂で英国軍の総督たちと面談して、いかにして維新の戦いに勝利し、しかも夷国の介入を阻止すべきか腐心しとったようじゃ。あいつは英国へ密留学しとったから英語が話せたけぇのう。ただ戦を避けて逃げ回る卑怯者とは違うゾ」

 慶応三年十月、三田尻鞠生松原に奇兵隊をはじめ諸隊が集結し、海路薩摩軍が到着するのを待っていた。討幕軍第一陣として兵庫へ向けて出発する手筈になっていた。

 その三田尻の陣屋に伊藤俊輔が訪ねて来たという。白井小助たちは鞠生の松原で訓練にあたっていて留守にしていた。応接したのは総参謀の林半七だった。

「どうか討幕軍に僕も加えて下さい」と伊藤俊輔は懇願したという。

 伊藤俊輔の手腕は良く分かっている。英国密留学に発つまでは桂小五郎の従者として浪士たちと連絡を取り、大検視役(情報収集役)の桂を助けて良く働いたし、高杉晋作が功山寺に決起した際にも糧秣確保や軍資金の手当てに奔走した。戊辰の戦に同行させればどれほど助かるか、と思わないでもなかった。しかし、林半七は首を横に振った。

「すべての者が兵となって銃を手にしたら、誰が後方支援の折衝に当たるんじゃ。人にはそれぞれ持ち場がある。伊藤君が働くべき場所は戦場ではない」

 そう言って、林半七は伊藤俊輔を追い返した。

 維新後の明治十年に長州閥の大物桂小五郎が病死するまで、明治政府で伊藤俊輔は桂小五郎の従者だとみなされていた。そして伊藤本人も明治十一年に大久保利通が暗殺されるまで政治の一線に立つような真似は決してしなかった。維新間もない明治政府で伊藤俊輔は二流の政治家だと思われていた。しかし二十七歳で明治維新を迎えた伊藤俊輔に焦りはなかった。多くの人々の薫風を受けながら、時代が自分を必要とする日がやって来るのを待っていた。

「なんじゃ、伊藤さまは大将じゃなかったんか」と、五郎太は不満を鳴らした。

「大将といえば山県有朋様がおられるじゃないか」と、三吉が五郎太に声をかけた。

「ふむ、山県小介か」と、白井小助が鼻先で笑った。

 山県有朋とは彼が小介と名乗っていた頃から知っている。天保九年の生まれだから高杉晋作より一つ年上に当たる。しかし橋本橋袂に暮らす足軽の倅だったため、常に高杉晋作の後塵を拝していた。

山県小介の運は奇兵隊とともに開けた。文久二年六月に高杉晋作が馬関で奇兵隊を創設するやたちまち駆け付けて参謀(新兵教育掛)となった。同じく白井小助も奇兵隊創設に参じて高杉晋作から山県と同じく参謀を任された。

 しかし山県小介とは何となく馬が合わなかった。伊藤俊輔が陽気な苦労人なら、山県小介は陰気さを感じさせる苦労人だった。山県小介は松陰門下ということで参謀を任されたが、彼に洋式兵学の素養はなかった。教錬で総指揮を執ったのは白井小助だった。

奇兵隊の初陣は創設後一年にして訪れた。元治元年八月、前々月に蛤御門の変で叩きのめされた長州藩に米・英・蘭・仏の四ヶ国連合艦隊が襲い掛かった。

前年の文久五月、長州藩士三人と共に伊藤俊輔と井上聞多は秘かに英国へ旅立った。密留学を策したのは周布政之助で実施にあたったのは桂小五郎と村田蔵六だった。藩から三年間の留学を正式に認められると、横浜の商社「英一番館」の手引きで密出国した。

しかし年が改まった直後、英国で四ヶ国連合艦隊が馬関戦争の報復として長州攻撃を行うとのロンドン・タイムズの記事に接して、急遽伊藤俊輔と井上聞多は帰国を決意した。藩は攘夷派が大勢を占めているが、実際に西洋文明に触れると攘夷が到底不可能なことは歴然としていた。攘夷に凝り固まっている藩論の転回をすべく、伊藤と井上は留学わずか半年にして英国滞在を打ち切って帰国の途に就いた。

 だが二人が帰国した元治元年五月、長州藩は朝廷の主導権争いに敗れて暴発寸前だった。前年の攘夷派七卿の都落ちや堺御門警護から長州藩の任を解かれるなど、会津と薩摩の謀略に長州藩の者は怒り心頭に達していた。兵を率いて上洛し、攘夷に対する長州藩の赤心を帝に説くべきとの主戦論が藩論を占めていた。

京での暴挙を止めるべく、伊藤俊輔と井上聞多は藩主に面会を求めた。四ヶ国連合艦隊は前年の馬関戦争に対する報復攻撃を行って殲滅し、長州藩に賠償を求めるつもりだと伝えた。かかる藩存亡の危機の折に、朝廷を巡る主導権争いに藩兵を率いて重臣が上洛するとは何事か、と御前で居並ぶ政務役たちを叱り飛ばした。しかし藩論を回転させることはできなかった。この時期、先鋒隊などは既に京へ向けて出立していた。

 それどころか伊藤・井上両名は攘夷派浪士たちから命を狙われ始末だった。

白井小助は馬関海峡の警備に就いていたため、山口に移されていた藩庁の動きは知る由もなかった。ただ、伊藤俊輔と井上聞多が英国から戻ったのではないか、という噂は耳にしていた。馬関海峡沿いに建設された砲台に貼りついている奇兵隊員に動揺が走った。四ヶ国連合艦隊は馬関海峡を目指して上海を出港しているという。

「英国から戻ったとは、異なことを聞くものだ。戻ったということは、それ以前に英国へ行っていたということか」と、奇兵隊士たちはいきり立った。

馬関警護には奇兵隊の他にも諸隊と称する庶民からなる隊士たちが就いている。その連中も攘夷に砲台を枕に西洋艦隊と刺し違える気概に燃えている。

「俺が斬ってやる」と、刺客志願者が次々と現れた。

「バカ野郎どもが、」と白井小助は鬼の形相で睨み回した。

「お前らは孫子の兵法を知らねえのか。敵に勝つにはまず敵を知らなければならねえ。その思いで吉田松陰もペリーの船に乗せてもらって米国へ行こうとしたんだぜ」

 二十歳前後の世間知らずの雑多な寄せ集めの奇兵隊員に向かって、不惑を過ぎた白井小助が怒鳴り散らした。それで隊士の不穏な動きは霧散解消した。

 ただ結果は伊藤と井上の危惧した通りになった。長州藩は六月十九日の蛤御門の変で敗れ、八月には四ヶ国連合艦隊の攻撃により馬関の砲台はことごとく破壊され馬関の町も一部焼き払われた。折悪しく蛤御門の変の直後に幕府も長州征伐に兵を挙げることを決定していた。いよいよ長州藩は存亡の危機に見舞われるのだが、白井小助は四ヶ国連合艦隊の総攻撃を受けた後、陸戦隊が海岸に迫り奇兵隊を指揮して熾烈な銃撃戦を戦っていた折に銃が暴発して右目を吹き飛ばす重傷を負ってしまった。

 後方へ移された後、襤褸雑巾でも縫うように右目の上瞼と下瞼を縫合された。戦は言及するまでもなく完膚無きまでの大敗に終わった。その折に戦利品として奪われた大砲は仏国士官学校の校庭に設置され飾られている。

 四ヶ国健康艦隊との和睦交渉は高杉晋作が当たり、通事には伊藤俊輔が同行したと聞いている。

 

「先生、先生よう。黙っとるが、寝ちょるンか」と言う子供たちの声に目を見開いた。

「先生は奇兵隊を率いて大島にいた幕府軍を追っ払ったと、聞かされちょるが」

 と、五郎太が聞いた。

「ああ、岩城山に駐屯していた奇兵隊三百を率いて大畠瀬戸を渡海して、大島に上陸していた幕府軍三千を蹴散らしてやったぞ」と、眠気を振り払うように身振りを交えた。

 子供たちは第二次長州戦争大島口の戦のことを聞いている。第一次長州征伐に対しては長州藩は恭順の意を表明し、元治元年十一月十一日蛤御門へ出撃した三家老と四参謀を処刑して首を広島国泰寺に陣を張っていた幕府軍に差し出した。

 蛤御門の変に大敗した長州藩は守旧派(高杉晋作は「俗論派」と呼んだ)が主導権を奪っていた。第一次長州征伐の幕府軍に対して、長州藩は徹底恭順を貫いた。そして和議に漕ぎつけるや、守旧派は藩内の奇兵隊などの勢力一掃に乗り出した。奇兵隊などの諸隊に解散命令を出し、高杉晋作の命すら危なくなった。元治元年十二月十五日、高杉晋作は僅か八十名ばかりの兵を募って藩政奪還のために功山寺で決起した。

当初奇兵隊は様子見に徹していたが「高杉晋作立つ」の報に接するや清水の舞台から飛び降りる決死の覚悟で挙兵に呼応し、馬関にいた諸隊も萩へ進軍を開始した。藩士からなる萩政府軍と戦争をするとは百姓・町人からなる軍にとって無謀以外の何物でもなかった。しかし中国山地の大田、絵堂で萩正規軍と激突するやたちまち勝利し、藩政権を守旧派から奪還した。

 高杉晋作が率いた奇兵隊などの諸隊三百がなぜ萩正規軍三千に勝てたのか、それは装備の差だった。萩正規軍は火縄銃を使っていたが、奇兵隊は逸早く元込め銃を装備していた。火力として元込め銃は火縄銃の十倍に相当した。

新式西洋銃を装備した奇兵隊や諸隊にとって、刀槍と火縄銃で立ち向かって来る萩正規軍は赤子のようなものだった。四ヶ国連合艦隊で戦った奇兵隊はナポレオン戦争の廃棄物同然のゲベール銃を買わされていたが、仏国陸戦隊の新式元込め銃の威力に舌を巻いた。そのため奇兵隊をはじめ諸隊はこの半年の間に新式元込め銃を急遽装備した。

百姓・町人からなる隊士たちに刀槍の腕を期待すべくもない。しかも教えるにしても刀槍は上達するのに日数を要する。しかし銃なら目当を付けて心静かに引鉄を引けば良いだけだ。ものの一月も銃陣を教錬すれば格好がつく。装備こそが戦を制する、と白井小助は洋式兵法の要諦を奇兵隊や諸隊幹部たちに叩き込んでいた。

傷が癒えた白井小助は高杉晋作の檄に呼応して故郷で諸隊の結成に動いた。周防沿岸部の手薄な守りに備えるために、室町時代からの交易港・室積の古刹普賢寺の境内を借りて第二奇兵隊を創設した。すると近隣在郷から入隊者が集まり、阿月から世良修蔵も参加してたちまち百人を超えてしまった。いかにも手狭になったためと、隊士が町の娘と懇ろになっていざこざを起こしてもまずいと移転を思い立った。慶応元年三月三日、守備の要として眺望の開けた岩城山頂へ第二奇兵隊の駐屯地を移した。

さすがに人里離れた山頂のため隊士が集まるのか危惧したが、そこでも入隊志望が引きも切らなかった。山頂に設営した施設は二百人ほどの収容規模しかなかったため、交代制を敷くほどだった。

岩城山で訓練に明け暮れている五月下旬の夕刻に不意に伊藤俊輔が訪れた。

岩国藩へ赴いて芸州口の防備の打ち合わせをした帰りに寄ったということだったが、実は高杉晋作からの言伝があるという。幕府軍を迎え撃つ御前作戦会議で村田蔵六は幕府艦隊が大島に襲来すると予言したようだ。

長州藩は地勢的に山陰の石州口と山陽の芸州口、そして馬関の小倉口で国境を接する。その他に幕府には二千トン級の巨大な戦艦十数隻を擁する海軍がある。その幕府海軍が長州藩に攻撃を仕掛けてくるのが何処なのかが問題になった。源平戦さながらに壇ノ浦を急襲して馬関の町を焼き払うのではないかという意見や、いきなり萩の菊が浜に上陸して留守同然の萩城下を占領されるのではないかと心配する意見なども出た。

議論が煮詰まって末席の村田蔵六に意見を求めると一も二もなく「それは大島口でござろう」とさも退屈そうに無愛想に応えたという。しかしすぐに言葉を継いで「大島は放棄すべし」と進言したという。長州藩に碌な洋式軍艦がないため幕府海軍との海戦は避けるべきだというのだ。村田蔵六に反論する者はなく、たちまち「大島放棄」で作戦会議は終結したという。

それを馬関の高杉晋作に伝えたところ、御前会議でそう決めたとしても大島七万島民を見捨てるわけにはいかぬ。俺が幕府軍艦を蹴散らしてやるから、その後で第二奇兵隊が大島へ秘かに渡り、幕府軍を蹴散らすようにということだった。ただし第二奇兵隊は海岸ではなく島の中央山岳部に陣を敷き、上陸して久賀にいる幕府軍を艦砲の届かない内陸部に引き寄せて撃破するようにとの作戦を言付けた。周防大島は瀬戸内海で淡路島・小豆島に次ぐ三番目に大きな島で、面積は百二十八平方キロもあった。

果たして六月八日夕刻、大島久賀沖に巨大な幕府艦隊が姿を現した。迎え撃つ長州海軍の軍艦が姿を現さないため、幕府艦隊は悠々と航行しながら大島の海岸部に点在する宗光や安下庄などの集落を砲撃して回った。

幕府艦隊が大島沖に現れた日に、かねてからの手筈通り白井小助は第二奇兵隊全員を非常呼集した。そしてその日のうちに兵三百を率いて岩城山を下りて遠崎まで進み、目の前を遊弋する幕府艦隊を物陰に隠れて眺めながら高杉晋作からの連絡を待った。

幕府軍は六月十一日から大島久賀の浜に松山藩を主力とする三千が上陸し、各地で小競り合いがあったもののたちまち全島を制圧した。

高杉晋作は十二日夜にスクリュー推進の小型戦艦「オテントサマ号」(百九十四トン)を馬関から廻航して遠崎に到った。その艦は一月ほど前にグラバーから奪うようにして購入し、長崎から乗って帰ったものだった。

十三日深夜になるのを待って、高杉晋作はたった一艦だけで出撃した。二千トン級の巨艦が停泊している久賀沖にさしかかると小型戦艦の船首と甲板に備えてある三門のアームストロング砲を続けざまに放ちながら、巨艦の間を縫うように走らせた。

幕府艦隊はよほど油断していたのか、どの艦も釜の火を落とし機関は完全停止していた。襲撃を受けて直ちに釜に火を入れても、蒸気圧が上がって機関が稼働するまで一刻はかかる。その間、オテントサマ号は炸裂弾を放ちながら自在に巨艦の間を走り回った。幕府艦隊の砲手たちが艦砲に飛びついて闇雲に弾を放っても味方との同士撃ちを演じるばかりだった。

翌朝、幕府艦隊は停泊していた久賀沖から姿を消した。

オテントサマ号を追って馬関海峡へ仇討ちに出撃するでもなく、ただ破損した船体の修理のために広島宇品湊沖へ移動したというのだ。その限りでは幕府艦隊は巨艦を揃えただけの張り子の寅でしかなかった。

しかし遠崎の白井小助がそのことを知る由もない。藩の意向に背いて大島奪還作戦を行うからには三百名の隊士を渡海させる船を自分たちで揃えるしかない。六月十五日夜、白井小助は渡海作戦を強行した。おびただしい船が狭い大畠瀬戸にひしめき、まるで船橋が架かったようだったと古老たちが伝えている。

「大島の中央に聳える源明山を挟んでやりあったんじゃ。明け方からの土砂降りでのう、幕府軍は火縄銃の火縄が消えて難儀しとった」

 と得意そうに言って、白井小助は子供たちを舐め回した。

 高杉晋作の忠告通り、白井小助は艦砲の射程外で幕府軍三千と対峙した。峰を挟んだ遠くに相手の装備を見て、白井小助は瞬時に勝利を確信した。彼らは戦国絵巻のような鎧兜の甲冑に身を固め、刀や槍を手にしていた。ごく少人数の鉄砲隊も手にしているのは戦国時代から代々受け継いできたと思われる火縄銃だった。一方第二奇兵隊士の服装は筒袖襦袢に菅笠で、装備している銃は最新式の洋式ミネェー元込め銃だ。施条銃の射程は四倍も長く、速射能力は火縄銃の十倍だった。

 幕府軍は一気に源明山から長州軍を安下庄側へ追い落とし、安下庄湾に待ち構える幕府艦隊の艦砲で殲滅しようとする作戦のようだった。しかし林半七を軍監とする長州軍は強く、たちまち幕府軍を久賀へ追い落とした。

 大島口の戦いは第二奇兵隊だけで戦ったのではなかった。もちろん島民たちも崖の上から岩を落としたりして加勢したし、大野隊や上関隊など近隣の若者たちで結成された諸隊が三十人五十人と駆け付けて来た。彼らも新式の元込め銃を装備し、洋式銃陣を習得していた。もちろん高杉晋作は藩内の何処であろうと諸隊結成で請われれば出掛けて指導し、伊藤俊輔が中心となって装備や糧秣の手配をした。そのようにして、長州藩は藩士だけではなく領民あげて幕府軍を迎え撃つ体制を整えていた。

「それで、幕府軍を追い詰めて全滅させたのか」と、三吉が恐る恐る聞いた。

 確かに久賀へ追い詰めた幕府軍と激烈な銃撃戦を展開した。幕府艦隊が砲撃で久賀の街を焼き払っていたため、遮る物もなく顔を見合って撃ちあうような白兵戦を演じた。

「戦は殺し合いじゃが、憎しみ合ってのことじゃない。源明山の戦で勝利して久賀の町へ押し戻したが、幕府軍が乗艦するのを儂たちは銃口を向けたまま見守ったんじゃよ」

 無益な殺生をしてはならないと親から聞かされているはずだ、と白井小助は思った。

 戦争は人を狂わせる。戦場には硝煙と血の臭いが立ち込め、死体が転がっていて異常な高揚状態に陥る。その高揚感が戦場以外の者にも伝播し、国全体が興奮状態に陥る。

三年前に日本は清国と朝鮮半島の主導権を巡って戦い勝利した。それ以降、外交交渉で会談を重ねるよりも軍を差し向ける方が手っ取り早いのではないかという風潮が日本全体に蔓延り、国民が殺伐としてきたように思えてならなかった。

 しかしアジアを蚕食して我がもの顔に振舞う欧米列強に対抗し、日本が誇りある立場を維持するには戦争も已むなしの事態に到るだろう。国を背負って太平洋へ逃げ出すことが出来ない限り、今後とも戦わざるを得ないのかも知れない。

幸いにして明治二十七年に日清戦争を戦って日本は勝利した。その講和条約の話し合いに清国全権李鴻章が訪れ、日本からは伊藤俊輔が交渉に当たった。その折に伊藤俊輔が会談場所に選んだのが馬関の春帆楼だった。

政府のお歴々には「春帆楼とは割烹旅館に過ぎぬ。そこで講和条約の話し合いをするのはいかがなものか」と異を唱える者がいた。しかし伊藤俊輔は意に介さず押し切ったという。白井小助には伊藤俊輔の心根が痛いほど良く分かっていた。

 高杉晋作が創設した奇兵隊の本部を置いていたのは阿弥陀寺で、春帆楼はその跡地に建っている。伊藤俊輔は高杉晋作を支えて藩論転回から第二次長州征伐を戦った奇兵隊ゆかりの地を会談場所に選んだ。日清戦争講和会議の場に選んだ理由を伊藤俊輔は誰にも語っていないだろう。伊藤俊輔とはそういう男だった。

没後三十年にして、世間の人々から高杉晋作は忘れられている。ここにやって来る子供達は白井小助が語って聞かせるから知っているが、世間では高杉の名を口にする者は絶えて久しい。去る者日々に疎としとはこのことだ、と白井小助は寂寥に包まれた。

 講和条約締結後の宴で、馬関の芸者が何気なく都々逸を口ずさんだという。二階の窓から春宵の関門海峡が臨まれ、伊藤俊輔は回顧するように眺めていた。

「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」と唄い終わると、伊藤俊輔はもう一度聞かせてくれと身を乗り出し、それを三度繰り返して、はらはらと落涙したという。

「誰がお作りになったのか知りませんが、こうした粋な都々逸が馬関には幾つか唄い継がれています」と、二十歳前の若い芸者は怪訝そうに伊藤俊輔を覗き込んだ。

 二十七歳でこの世を去った高杉晋作は道中三味線を爪弾いて即興の都々逸を呟くように唄っていた。

 

「先生、幕府軍と戦ったんじゃろう、北陸から奥州へと」

 五郎太は目を輝かさせて話をせがむ。

 しかし白井小助にとって戦の話は辛いことばかりだ。確かに慶応四年七月二十五日に決行した新潟太夫浜上陸では大島口の大畠瀬戸渡海と同様に無数の小舟を準備して、一気に夜明け前の暗がりをついて敵前上陸を敢行した。参謀として自ら誇れる戦術で、長い間語り継がれている。しかしそれ以外は戦争は所詮戦争でしかない。血みどろの殺し合いだ。

 越後口の戦いが最も熾烈を極めた。河合継之助の長岡軍は教練の行き届いた頑健な抵抗を続けた。朝日山の総攻撃では奇兵隊を三隊に分けて、三方から囲むように頂上目指して夜明け前の「七つ」に突撃と決めた。

慶応四年五月十三日未明、決行時に満を持していた時山直八隊が突撃し、白井小助の指揮する隊も突撃を開始したが、時を合わせていたはずの山県狂介隊が遅れたため、突出した時山直八隊が集中砲火を浴びて隊長をはじめ多くの戦死者を出した。

戊辰戦争で最も死傷率の高かったのは諸隊の中でも奇兵隊だ。それだけ勇猛果敢に先陣切って攻めたからに他ならない。

「山県、われぁ臆したか」と白井小助は山県狂介に掴みかかった。

「済まん、七時と勘違いしとった」と山県狂介は後退りしながら弁解した。

 その場は他の幹部たちもいて事なきを得たが、終生白井小助は山県有朋を許さなかった。戦の常道からして、突撃は夜明け前に行うものだと決まっている。

「山県有朋は卑怯者じゃ」と、白井小助は口癖のように言っていた。

――この世は生きている者がつくる。死んでしまった者には手出しが出来ない。

 山県有朋は陸軍大将になって全国津々浦々にその名は知れ渡っているが、戊辰の役で戦死した時山直八の名を郷里の萩ですら知る者は少ない。おそらく山県小介の意識に時山直八が蘇えることはないだろうが、伊藤俊輔は清国との講和会議の場に高杉晋作とゆかりの深い春帆楼を使った。人格において山県小介と伊藤俊輔の差は大きい。

戊辰戦争で忘れられないのは世良修蔵だ。克己堂で白井小助が教えた愛弟子に当たる。才智にたけた世良修蔵は将来を嘱望され、長州藩から奥州鎮撫総督府に参謀として出府していた。順調に出世していくものと信じて疑わなかったが、突如として悲惨な最期を遂げてしまった。仙台藩士たちに捕縛され阿武隈河原で斬首されたのだ。

 世良修蔵は奥羽鎮撫総督府から下参謀として会津・庄内の赦免嘆願を願う奥羽列藩同盟へ意見聴取役として遣わされた。元々は西郷吉之助の親戚に当たる大山格之助が聴取役として赴くはずだった。が、なぜか出発直前に世良修蔵と入れ替わった。そこにいかなる経緯があったのか何も知らない。ただ福島に赴いた世良修蔵の所業は白井小助とって不可解な思いも寄らないものだった。

世良修蔵は総督府下参謀として赴いた地で奥州列藩同盟の幹部たちに横柄な態度を取り、夜の会席では酌をする女たちに乱暴を働いたという。しかも「奥州同盟に朝廷に敵する動きあり」と密書に認めて総督府宛てに密使を遣わしたという。白井小助の後任として克己堂教授になり、近郷の子弟から慕われていた世良修蔵とはまるで別人だ。

堪りかねた奥州列藩同盟の幹部たちは投宿していた福島の旅館金沢屋に寝込みを襲い、捕えて阿武隈川の河原に引き立て斬首に処した。急襲された際に世良修蔵が持っていたピストルは不発で、刀を抜く暇さえなかったと聞かされた。

世良修蔵非業の死を長岡で聞かされ、白井小助は狐に騙されているのではないかと思った。なぜ世良修蔵ほど折り目正しい人物が奥州人の反発を買うような横柄な態度を取り、枕元に置いていたピストルの具合さえも確認していなかったのか。しかも敵陣地の中から密使を遣わすなどという初歩的な失態を犯したのだろうか。兵学を教えた随一の弟子が籐四郎のように抜かったのはなぜだろうか。それは大きな謎として維新後も白井小助の心の中にわだかまっていた。

しかし明治六年にその謎が解けた。謎を解く鍵は征韓論を唱える西郷吉之助が発した作戦にあった。明治六年六月の閣議で、板垣参議が派兵するように征韓論を主張したのに対して、西郷吉之助はいきなりの派兵に反対した。「それでは道理が通らない」として、まずは自分が朝鮮半島に赴いて非礼を働き朝鮮人に殺されるから、それを口実に朝鮮半島へ派兵せよ、との暴論を吐いたと聞かされた。

戊辰の役で西郷吉之助は強硬に主戦論を唱えていた。この機会に朝敵を殲滅しておかなければ明治維新政府に必ずや禍根を残す。いずれ新政府に仇なす旧幕勢力は息の根の止めを刺しておくべきだ、というのが西郷吉之助の主張だった。その目的を貫徹するために世良修蔵の命が必要だったのだ。

 世良修蔵は殺されに行ったのだ。もちろん会津は長州藩にとっても是が非でも討ち果たさなければならない仇敵だ。蛤御門の変でいかに多くの仲間が非業の死を遂げたか。その仇を討つためには戦を仕掛けるしかない。その考えは朝敵を殲滅すべきという西郷吉之助の考えと同じだった。世良修蔵は自らの命を投げ出すことによって会津・庄内のみならず奥羽州列藩同盟までも朝敵に仕立て上げたのだ。白井小助の長年の疑問が氷解した。そして激しく西郷吉之助を憎悪した。

 しかしその西郷吉之助も明治十年の西南の役で、自らの命を投げ出すことによって武士の時代に千秋楽の緞帳を下ろした。千両役者の西郷吉之助は決して明治政府の元勲の地位に恋々としていなかったし、潮時と見ればさっさとこの世の舞台からも身を退いた。

 

「先生よお、寝ちょるんか」と、痺れたように五郎太が甲高く叫んだ。

「寝ちゃあおらん。ちょっと考え事をしとっただけじゃ」

 と、白井小助は子供たちに言い訳をした。

 実のところ何処までがうつつで、何処からが夢か、判然としない。

「柳井田関の戦にも先生は出陣したんか」

 と、三吉が聞いた。

――柳井田関の戦いか、あれは仲間同士の辛い相撃ちだった。

 戊辰の役が終息すると、陸続と軍兵が山口に帰還してきた。しかし郷里に凱旋した兵士たちを山口藩政府は持て余した。中央の明治新政府が抱えられる軍隊の数は知れているが、隊士たちは自分たちこそが明治維新を成し遂げた英雄だという自負心の塊に凝り固まっている。しかし新政府兵部大輔に就いた大村益次郎(村田蔵六)は新兵制改革を断行し、薩長土肥の藩兵にも等しく武装解除と解散令を発した。

 長州藩では藩兵のみならず奇兵隊を主力とする諸隊が数千もの大軍になっていた。凱旋して来たまま山口郊外の寺などを占拠して我がもの顔に振舞った。これだけの数の隊士が暴発すれば大変なことになる。白井小助は奇兵隊の始末をつけるべく奔走した。

 明治二年十月、山口藩知事の毛利元徳は藩兵二千人を東京へ差し出し、十一月には諸隊を四個大隊に編成して兵員を整理した。数万に膨れ上がっていたすべての隊士を雇うことは出来ず、凱旋した隊士たちの不満は日を追って膨れ上がった。

 その年の暮れにかけて諸隊から脱走する者が日毎に増え、三千人近くの勢力に膨れ上がり山口藩庁に待遇を求めて押し掛けるようになった。

 その首謀者たちは白井小助たちと共に東北を転戦した顔見知りばかりだった。奇兵隊原小太郎や整武隊秋月光太郎や遊撃隊石井貢など不平隊士に担がれたとはいえ、諸隊を統率して各地を転戦した仲間たちで藩庁を取り囲むとは思いもよらなかっただろう。

 不穏な空気のまま年が明けると脱隊兵たちは小郡や小鯖や徳地など、山口を縁取りするかのように陣地を築き始めた。ついに二月三日に藩知事元徳は「諸隊解隊令」を発し、それに従わない者は「謀反人」とみなすとした。

 急を聞いて帰郷していた木戸孝允(桂小五郎)や井上馨(井上聞多)らは山口藩兵を率いて徳山、岩国藩兵とともに脱隊兵の本拠地小郡の宮市へ迫った。ついに二月八日未明に小郡郊外の柳井田関で両軍は戦火を交え、昼過ぎには装備の勝る藩正規軍が脱隊軍を蹴散らし、日没前には銃声が疎らになった。それ以降も各地に逃走した脱隊兵たちが夜盗となって散発的な事件を起こしたが、脱隊反乱軍に対し山口藩の厳罰を以て臨む姿勢に鎮静化していった。

「儂は脱隊軍ではなく山口藩兵を率いて鎮圧した方じゃ。仲間を撃ち殺すのは忍びなかったが、それも時代の流れじゃ。うまく政府に取り入った者は大将になったりしとるが、儂は仲間の菩提を弔うために新政府への誘いを断って帰って来た」

と白井小助は寂しそうに言って瞑目した。

 

「先生、また寝るんかいの」と、五郎太が笑った。

「バカを言うな、儂は起きちょるど」と、大きく目を開いて子供たちを見回した。

「なあ先生、先生が一番感心しちょる人は誰かいのう」

 三吉が訊ねたが、子供たちの話は目まぐるしい。

ただ、しじっくりと話を聞く忍耐力はない。白井小助も子供相手に疲れを覚えていたが、それでも話しておかなければならないと意を決した。

「儂が「偉い人じゃのう」と心底から思ったお方は毛利敬親公じゃ」

 白井小助は神妙な面持ちで語りはじめた。 

 藩主に就任すると毛利敬親は直ちにその村田清風を江戸から国許へ呼び戻した。借財は銀八万貫に達し、藩歳入額に換算すると実に二十二年分に相当した。一刻の猶予もならない状態だった。

藩の重役たちは元明倫館の教授だった下級藩士が政務役となって藩政改革を断行する様に驚きと根深い反発を感じた。村田清風は城の大広間に御用商人を集めると藩債務の一律三十七年間の棚上げを申し渡した。同時に質素倹約令を発し、藩主毛利敬親にさえも絹物を禁じて綿服の着用を求めた。毛利敬親は村田清風の進言を聞き入れ、明治四年に死去するまで綿服以外は着用しなかったという。

 村田清風の藩政改革は緊縮財政と綱紀粛正だけではなかった。彼の真骨頂は殖産興業と物産品交易の藩独占にあった。奨励した物産品は米と塩と紙と蠟で、それらがすべて白かったことから「四白政策」と呼ばれている。交易港として三関と呼ばれる港を指定し、東から上関、中ノ関、下関としてそれぞれに藩の会所を置いた。

 毛利敬親が断行した藩政改革は思わぬ効果をもたらした。藩全域で熱病に憑かれたかのように学問熱が高まった。山間僻地を問わず学塾が興され身分にかかわりなく子弟は競って勉学に励んだ。家格わずか二十五石の下級藩士が才智により政務役に登用された。その事実は絶大な効果をもたらした。

戦をするには装備を近代化し、糧秣を確保し補給しなければならない。そのためには膨大な資金が必要となる。まず村田清風は資金面から倒幕を可能にした。そして藩士のみならず領民すべてが長州藩のために命を投げ出した。そのような領民の育成は天保年間から湧きあがった学問熱に拠るところが大きかった。一人一人が勝手に殺し合う戦国時代の戦術ではなく、隊による銃陣隊形を取って攻撃するのが新しい戦法だ。洋式教錬を新兵に行っても、彼らはたちまち要領を呑み込んだ。それもおそらくは領民が幼いころから学問を積んで、新しい知識にも柔軟に対応できる素地があったからだろう。

藩に蔓延した勉学熱という流行病により白井小助も江戸へ遊学に出され、浦家私塾克己堂で近在の子弟に蘭学の手解きから洋式銃陣の真似事まで教えることになった。

「毛利敬親公は若者に大人の態度で臨まれた」と、白井小助は改まった物言いをした。

 普段はぞんざいな口の利き方しかしない白井小助だが、話が毛利敬親に及ぶと口吻が改まるのに子供たちも背筋の伸びる思いがした。

「お前たちには思いもよらないだろうが、明治以前は勝手に藩外へ旅することは出来なかった。また藩の許しを得ないで勝手に藩外へ行けば「脱藩」として刺客を差し向けられたし、たとえ藩に帰国しても死を賜ったものだ」

「しかし長州藩は違っていた。吉田寅次郎は儂が知っているだけでも二度ばかり脱藩している。高杉晋作に到っては四度も五度も脱藩騒ぎを起こしている。彼らは野山獄に繋がれるなどのお仕置きは受けたが、腹を切ることも首を刎ねられることもなかった」

「来原良蔵は吉田寅次郎の脱藩騒動を庇って奥祐筆から更迭されたが、洋式銃直伝習の任を与えられて長崎へ行っている。その際来原良蔵は中間として伊藤俊輔を同行させ、蘭学を学ばせている。それは伊藤俊輔の素質を見抜いていた来原良蔵が偉かったということでもあるが」

 そう言い終えると、白井小助は津波のように押し寄せてくる疲労感に目を閉じた。

 いつまでも若くはない。既に齢は七十四を数えている。天下を住処と心得て奔走して来たが、ついに周防の柳井の町外れの田布呂木の陋屋で朽ち果てようとしている。

 しかし面白い人生だったわい総理大臣や陸軍大将たちが儂に銭を恵んでくれるお陰で毎日酒が呑める。何も不足はない。不足をいえば罰が当たる。

それにしても若くして逝った人たちの面影はいつまで経っても若いままだ。高杉晋作は二十七歳のままだし、時山直八は三十のままの顔で儂の目の前に現れる。長岡攻めの新潟上陸作戦で共に働いた山田市之允(顕助)はつい先年四十九歳で亡くなったが、目の前に現れる姿は長岡攻めで新潟上陸作戦を完了して、無邪気に太夫浜で手を取り合って喜んだ二十歳過ぎの少年の面影を宿したままだ。

 

「先生、白井先生、畳の上でうたた寝をしちゃいけんが」

 と、おさんどんをお願いしている麓の農家の女房の声がしたようだ。

 塾の子供たちはいつの間にか帰ったのか、すでに窓から差し込む日差しは茜色に染まっている。

「いい気なもんだね。御一新当初は平生村の酒屋で用心棒をやっとったと聞いちょるが、今じゃ吞んだくれの死に損ないだ。なんでも伊藤様が東京のエライさんたちに奉加帳を回して、この呑んだくれの暮らしのついえを集めて、村の世話役様へ為替にして送って下さっているというが。昔々この爺は偉いお方じゃったんじゃろうかのう」

 そう呟きながら、四十過ぎの小太りの女は床を延べた。

「先生、ええ加減にゃ風呂に入りに麓へおいでませえ、酒やら垢やら臭いよるで」

 女房は日焼けした太い腕で白井小助を床へ転がした。

 諸隊を脱退して破落戸同然に豪商や豪農に押し入っていた連中を一睨みで震え上がらせていた威厳は既にない。古希を過ぎ人生の黄昏時をあの世へ向かって、老い衰えた体に鞭打って息をしているようなものだ。

「何十年も前に、先生は山県大将から陸軍に入るように誘われたと聞いちょるが、」

 と、女房は目を閉じたままの白井小助に呟きかけた。

「それを一も二もなくお断りになったとか、」

と言葉を継いだが、白井小助は寝入ったままだ。

「それじゃ、わしは帰るゾ。腹が減ったら飯とおかずはネズミ入らずに入れてあるから、食べるんじゃゾ。このまま死なれちゃ、わしがおさんどんの手抜きをしたように世話役様に思われるけえのう」

 と、捨て台詞のように言って帰って行った。

 人の気配が遠のくと、白井小助は片目をあけた。残照の薄明かりに、色彩を失って薄墨色に沈む天井を眺めた。

「酒さえありゃ何もいらん。飯は七十余年も食うて来て、もう食い厭きたわい」

「やれやれ、山県小介が陸軍に入らんかと誘いにきやがったが、儂を陸軍大佐にしてやるとほざきよった。あの卑怯者が大将で、なんで儂が大佐でなけりゃならん。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」

 そう呟いてフーッと息を吐いた。

 

 白井小助は田布呂木の庵で明治三十三年に七十七歳の喜寿を一期に生涯を終えた。今もその地に残る素行顕彰碑は山県有朋の手によるものだ。

                                     終


蒼穹の涯

蒼穹(そうきゅう)の涯(はて)

 沖田 秀仁

 私は小高い丘の頂に立っている。

 岡は南に面していて、心地よい風が吹いている。

目の前には開けた谷間が広がり、なだらかな稜線の山々ら囲まれている。

北から流れて来た小川が東から西へと流れる別の小川に合流して、西へと流れている。

丘の頂は広く拓かれていて、部落の小さな文教場が建っていたかと思われるほどだ。その丘は背後の山から伸びてきた尾根の東南端にあって、峰伝いに初夏の風が吹き下りて来る。高さは十メートルほどだが、頂からの眺望は拓けていて、なだらかな山々に囲まれた細長い谷間全体が見渡せる。

この地は現在の地名でいえば山口県光市大字束荷字田尻。かつては周防国熊毛郡束荷村字田尻と呼ばれていた。谷間に点在する聚落は江戸時代の記録によると戸数は二十を僅かに欠けていた。現在も昔日と同じくなだらかな山並の山麓、平坦地の南寄りを島田川に注ぐ支流の束荷川が東から西へと比較的緩やかに流れている。その川幅二間あまりの小川から山裾へと巧みに畦を巡らせて、棚田が緻密な絵模様のように重なっていた。それは江戸初期から戦前に到るまで、生真面目に自らの肉体を酷使して少しずつ開墾されたもののようだ。

谷間には耕作地が山裾から谷間へと段々に広がり、聚落が点在している。東の峠から下ってきた杣道はそのままに束荷川の土手道となり、聚落を抜けて西南のへと山中を下っていく。町から町へと抜ける山陽道とは異なり、その道は聚落になにがしかの用がない限り、誰も通らない里道だっただろう。その視界から消えた小川に沿って下れば、村の外れで岩田から田布施・平生を経て商都柳井へ到る道と、束荷川が流れ込む島田川沿いに熊毛郡三丘から光市三井、浅江を通り抜けて瀬戸内海に到る土手道の二手に分かれている。逆に北へと登り道を辿れば小周防村を経て山陽道の鄙びた宿場町の呼坂に到る。眼下の道は各地へ抜けられる要路だが、自動車の通りはそれほど多くない。

かつてこの丘にはある人物を祀った社が建っていた。現在は社があったと思われる位置に礎石が置かれているだけだ。鬼籍となった人物を祀るのは菅原道真がそうであるように、その人物も非業の死に仆れたことを意味する。つまりその人物は明治四十二年十月二十六日に異郷のハルビン駅頭で暴漢の凶弾に仆れた。享年六十九歳だった。

その郷土の偉人の死を悼み、里の人々は彼の生家の裏山に神社を建てた。歳月が過ぎ去りその人物を知る人たちも亡くなった。そして先の大戦以後に明治以来の歴史観が一変すると神社は放置された。ついに檜皮葺の屋根の葺き替えもできなくなり、昭和三十四年に地域の氏神を祭る束荷神社に合祀された。ただ昭和三十五年(一九六○)十月、神社跡地に像を建立して永く郷土が生んだ偉人の遺徳と業績を偲ぶために、地元出身の彫刻家河内山賢祐氏に依頼してブロンズ像を制作した。その像は偉人が明治議会で憲法を発布する姿を写したものだ。今では丘の上の神社の建屋は取り払われ、欽明憲法を発布するその偉人の堂々たる銅像だけが鎮座している。さらに丘の麓には藁葺の小さな生家が再現され、一般見物客に開放されている。

私は丘の麓の粗末な百姓家に生まれた男の半生を描こうとしている。その人物は幼名を林利助といった。彼が生まれた束荷(つかり)村田尻は長州本藩支配の周防国熊毛郡に属した。周防国とは現在の山口県を形作る山陽側のことで、山陰側は長門国と呼ばれた。熊毛郡とは玖珂郡と津野郡との間に挟まれた地域で、海岸部の上関から山間部の八代村に到る地域だ。束荷村は熊毛郡の中ほどを東西に貫く山陽道の南側に位置していた。

林利助は山口県光市大字束荷字野尻と呼ばれるこの地で天保十二年九月二日(西暦一八四一年十月十六日)に自作農の一人息子として生まれた。周防束荷村は藩都・萩から遠く、山陽道の街道筋からも外れた辺鄙な山村だった。林利助が生まれた折、父・林十蔵は二十九才で母・琴は二十四才だった。人別帳に記された姓は林だが、誰も「林十蔵」とは呼ばなかった。村人たちは彼のことを『柳の十蔵』と呼んだ。束荷村には総林と呼ばれるほど林姓の家が多かったため、村人はお互いを屋号で呼び合った。屋号とは様々な由来や由緒から名付けられ、不動寺、稲荷、新家、茶屋などが屋号として代々受け継がれた。それは現在に至るまで残り、田舎では未だに屋号で呼び合っている。林十蔵の屋号が『柳』だったのは屋敷に柳の巨木があったためなのか、由来は定かでない。

十代で婚姻・出産するのも珍しくない当時で、林利助が授かった時に父は既に二十九歳に達していた。母も二十四歳だったというから、当時では「高齢出産」の部類に入る。晩婚の二人が婚姻して三年間も子宝に恵まれなかったという。そのためため琴は村の鎮守の天満宮へ日参し、願い叶って子を授かった、との言い伝えがある。当時の日本は天保四年から九年にかけて断続的に見舞われた大飢饉の痛手から、やっと立ち直りを見せはじめた頃だった。

束荷村の神社はかつて粟屋神社と呼ばれ、束荷神社の由来は粟屋権現に由来するとの説と、石城山から分祀された金毘羅オオヤマツミノ神で「綿摘」を意味する女神との二説がある。束荷という地名は綿の荷を束ねていたことに由来するのだろう。綿の栽培適地は温暖で日当たりの良い水捌けの良い砂地とされている。水稲栽培に適さない地だったことは地形から容易に想像できるが、この地に移り住んだ人たちは懸命に荒地を開墾し川から水を引いて束荷の地を稲作後に変えた。

 林一族は伊豫の豪族河野家の末裔だといわれている。彼らの祖先は戦国時代末期に四国の覇者・長宗我部氏に領地を奪われ、命からがら瀬戸内海を渡って毛利氏を頼った。当時の毛利氏は毛利元就が当主で、乱世を武力と策略を駆使して一代にして中国地方一円を制覇し武威を誇っていた。毛利氏の庇護を受けた林一族は士分として処遇され、それ相応の領地も得て暮らしていた。しかし平穏な暮らしは長くは続かなかった。

 慶長五年(一六○○)関ヶ原の合戦で毛利氏当主の毛利輝元は豊臣の西軍の総大将に推された。当初は優勢に戦っていたが、分家の吉川広家が徳川方に内通し小早川秀秋が寝返ると形勢は逆転した。徳川方の東軍に撃破され、毛利輝元は敗走した。

領地に逃げ帰ったものの最悪の場合、毛利輝元は捕らえられて領地没収の上切腹を賜る沙汰もありうる。もちろん累代の家臣は禄を失い浪人となるしかない。林一族も再び流浪の暮らしを覚悟せざるを得なかった。

だが意外なことに徳川家康が毛利輝元に下した沙汰は毛利氏の支配地域中国十二カ国と領地百二十万石のすべてを召し上げる代わりに、徳川方勝利に功績のあった吉川広家に防長二州三十六万九千石を与える、というものだった。吉川広家は本家が無禄になる半面、吉川家が本家を差し置いて領地を戴くのは筋違いとして、徳川家康に周防と長門の二州を本家毛利輝元に与えるように願い出た。徳川家康はその願いを聞き入れ、毛利輝元に長州藩三十六万九千石を与えることにした。敵方に回った武将に決して温情を掛けることなく、徹底した厳罰で臨んだ徳川家康にしては、毛利輝元に対する処分は他の西軍武将への処分と比べれば特別に寛大なものだったといえる。

毛利輝元に対する処分は破格だった。三條河原で斬首された石田三成と比較するまでもなく、毛利輝元は切腹のみならず改易追放までも免れ、減俸されたとはいえ領地までも安堵された。しかし中国地方百二十万石の所領から、防・長二州のみ三十六万九千石に減封された処分は重かった。毛利輝元は中間や足軽はいうに及ばず、累代の重臣にさえ暇を出さなければならないほど追い詰められた。現実問題として領地が四分の一に削減されれば、従前通りに家臣を抱え扶持を与えることはできない。そればかりか家臣の四人の内三人まで暇を与えなければ藩財政は立ち行かなくなる。やむなく毛利輝元は累代の家臣たちに解き放ちを言い渡したが「無禄にても宜しゅうございます」と、ほとんどすべての者が防長二州へ付き従ってきた。

零落した武将が家臣から慕われるのは当主としては栄誉なことだが、毛利長州藩が立ち行かなくなるのは目に見えている。家臣の暮らしを安堵できない者に当主の資格はないと、毛利輝元は領地返上を昵懇の黒田如水を通して徳川幕府に申し出た。それは毛利輝元本人が浪人するも覚悟の上との悲壮な決意表明だったが、徳川家康は一瞥しただけでフンと鼻で笑って無視した。追討の軍勢を差し向けるまでもなく、毛利長州藩は困窮のうちに滅亡するであろうと考えた。

江戸時代の殆どの期間を、長州藩は藩主のみならず家臣の一卒に到るまで窮乏に喘いだ。岩国市徴古館に展示されている長州支藩の一つ吉川岩国藩の史料に、藩士の家禄を記した表向きの石高の下に実際に支給した石高が記された書面が遺されている。それによると扶持が四分の一以下に減石されている例も珍しくなく、家老などの上級藩士ほど減石の割合が高くなっている。家臣たちは艱難辛苦を覚悟の上で君主に従って防長二州に移り住んだ。

 林一族は周防国束荷村に移り住んで禄を離れた。刀槍の代わりに鋤鍬を手にして田畑の開墾から始めた。長州藩にあって元武士が百姓になったとしても不思議なことではない。そうした例は長州藩においては枚挙に暇がないほどごく普通にありえた。萩城下に暮らす歴代の藩士ですら、下級士族においては畑で泥と汗にまみれることを日常とした。彼らの実質的な暮し向きは百姓と大差なかった。

 徳川家康は家訓として西方の外様大名に用心せよと言い残した。彦根に譜代大名の井伊氏を置いたり、名古屋城に御三家の一つを配したり、何重にも西方の外様大名の長州藩と薩摩藩に備える布陣を置き土産にこの世を去った。

まさしく徳川家康が「毛利は困窮の内に滅亡するであろう」と予見した通り、長州藩は江戸時代を通して存亡の危機に喘いだ。そのため防長二州では田畑の開国が行われ、幕末期には実質百万石ものコメを生産するようになった。そして幕末期に突如として長州藩は潤沢な軍資金を蓄え、倒幕運動の先頭に立って活躍することになる。だが長州藩が潤沢な資金を蓄えるようになったのは天保八年四月以降のことだ。

天保八年四月、十八歳で十三代長州藩主に就いた若者がいる。その長身痩躯の若者は当然のことながら望んで藩主に就いたわけではない。破綻寸前の藩財政に恐れをなし、藩主になるべき有資格者が相次いで辞退したため、毛利家の末席に連なるその若者に藩主のお鉢が回ってきた。彼は本家筋でないため、本来なら藩主になれる血筋ではない。彼が辞退したとしても、誰も咎めはしなかっただろう。しかし彼は敢えて火中の栗を拾うかのように、長州藩主になるのを承諾した。

 

藩のお歴々は藩主に就いた若者を気の毒がった。当時藩が抱える借財は実に年貢収入の二十二年分にも達し、長州藩は破綻寸前というよりもとっくの昔に破綻していた。誰が藩主になったところで彼の役目は莫大な借銭を借りている大坂の豪商に頭を下げる役回りしかない。そうした自ら懲罰でも受けるかのように、若者は長州藩主に就任した。その若者は名を毛利敬親といった。

しかし毛利敬親は藩主に就任するや、すぐさま一人の老人を政務役に抜擢した。その男は先年江戸藩邸の家老寄り合いに「藩政改革書」を提出していた。当時、男は藩校・明倫館教授を定年で退き、下級藩士の就く江戸用談役という閑職にあった。名を村田清風と云い、齢は五十六歳で江戸時代では老境に達している。江戸藩邸詰めの家老たちは江戸用談役が提出した「藩政改革書」には見向きもしないで、他の未決裁文書と一緒になって何年も埃をかぶっていた。

しかし毛利敬親は「藩政改革書」を知っていた。藩主に就任するや毛利敬親は突如として用談役の老人を政務役に抜擢した。村田清風の家格は二十五石の郡奉行格という下級藩士だったため、政務役への抜擢は異例中の異例だった。藩政上前例のない大抜擢だったが、藩重役は誰一人として藩主の人事に異議申立をしなかった。もちろん藩重役たちは村田静風を誰も知らなかったし、若い藩主の人材登用に微塵も期待してなかった。元明倫館教授を政務役に抜擢していかなる藩政改革を行おうとも、たちまち頓挫して水泡に帰すだろう、と誰もが考えていた。これまで自分たちの手に負えなかった藩財政の立て直しに誰がいかなる手腕を揮ったところで、いささかなりとも好転するとは思えなかった。

毛利敬親は天保八年四月に藩主に就いてから明治四年に没するまで、激動の幕末期を藩主として君臨した。激変する時代の渦に呑み込まれなかっただけでも偉業というべきだが、藩主を全うしただけでなく毛利敬親は長州藩を雄藩の一つに変貌させた。明治維新という国家事業に長州藩の名が燦然と輝くのはすべて毛利敬親の業績といっても過言ではない。財政改革を断行して潤沢な黄金で金蔵を満たしていなければ倒幕は出来なかっただろうし、毛利敬親が藩主でなければ藩そのものを消滅させる明治維新などという偉業はなし遂げられなかっただろう。他藩であれば倒幕の精神的な支えとなった思想家・吉田寅次郎や革命軍を率いた高杉晋作でさえも、活躍の場に躍り出る前に「藩に背く者」として死を賜っていただろう。

毛利敬親は痩身長躯の青年だったが年毎に肥満し、晩年には歩行さえも困難であったという。後に『そうせい侯』と陰口を叩かれるほど藩政を家臣に委ねた愚昧な君主と評する向きもあるが、愚者に幕末の長州藩主は勤まらなかっただろう。

 ともあれ、文久から元治慶応へと毛利長州藩は火の玉となって藩の存亡を賭けて倒幕に驀進することになる。積年の宿願を果たすかのように薩摩藩と力を併せて倒幕に立ち上がり、さしもの徳川幕府も家康から数えて十五代をもって瓦解せざるを得ないことになる。

 しかし林利助が束荷村に生を受けた天保十二年当時の長州藩は毛利敬親が村田清と共に三十七万貫の借財に立ち向かい始めたばかりで、藩政改革の目鼻も付きかねる状態だった。いまだ長州藩は困窮のどん底にあって、奥向きの日々の費えにさえ事欠く有様だった。武家諸法度の御定法で定められた参勤交代ですら、借銭を前提にして国許を発ったものの大坂鴻池屋に用立てを断られて、藩主以下大名行列が一月にわたり大坂で足止めを喰らって満天下に恥をさらした。

 

  一、萩へ

林利助の生家は束荷村野尻の東南に面した山麓に建っていた。彼が生まれた束荷(つかり)村田尻は長州本藩支配の周防国熊毛郡に属している。周防国とは現在の山口県を形作る山陽側のことで、山陰側は長門国と呼ばれた。熊毛郡とは玖珂郡と津野郡との間に挟まれた地域で、海岸部の上関から山間部の八代村に到っていた。束荷村は熊毛郡の中ほどを東西に貫く山陽道の南に位置していた。つまり林利助は長州藩の城下町とは遠く離れた周防の国の辺鄙な山の中で生まれ育ったことになる。 

 父は名を十蔵といって、村で代々畔頭の役目を勤める百姓だった。畔頭とは家の前庭に運び込まれる年貢米を計量し、取り纏めて代官屋敷に収めるのを主な役目とする。束荷村では本家の庄屋・林惣左衛門に次ぐ家柄だった。

林家に耕作地は五反歩の田と二反歩の畑、それに山が六反歩ばかりあった。五反百姓は家族が少なければ年貢を供出しても何とか一家が糊塗できるが、係累が多ければ多少なりとも他人の田地を小作しなければ暮らせない。

 愚かなと同義語に『戯け』という言葉がある。戯けの語源はつまりタワケ、田分けということだ。財産分与として田を分ければ自作農は成り立たなくなる。嫡子相続が定法だったとはいえ、子を沢山なせば何かと災いの種となる。それを意識したわけでもないだろうが利助に兄弟はなかった。

 利助の記憶にある限り、両親は一日中働いていた。昼間、母は父と共に田畑で働き、夜になると土間に面した三畳ほどの板の間に座り糸を紡ぎ木綿を織った。父も夜は同じ部屋で筵を織ったり草鞋を作ったりした。夜なべ仕事の手伝いはまだ出来ないまでも一つ明かりの下、利助はその傍に書見台を置いて寺子屋の復習などをしていた。

 林十蔵の勤める畔頭の重要な仕事は秋の収穫時に、聚落の家々から供出された年貢米を取りまとめることだった。検地により定められた石高に応じた年貢米を徴収し郡代官の役人に検納するのを役目とした。

 ある年、林十蔵は畔頭の役目を果たす上で重大な失態を犯した。村の家々から納められた年貢米の量目が郡代官役人の検査で不足していることが発覚したのだ。それも相当な量目に達していて、とうてい許されるものではなかった。

 不足した量目は引負(使い込み)とされ畔頭が責めを負うことになる。量目不足の原因が何であれ、弁済しなければ林十蔵は郡代官所の牢に繋がれ執拗な譴責を受ける。村で暮すことが適わなくなるばかりか、罪人として捕らわれかねない事態に追い詰められた。

 林十蔵は生まれついての畔頭のため、家の格式と系譜を幼い頃から言い聞かされて育った。自ずと家柄に対する矜持が林十蔵に備わり、人に頭を下げるのを潔としなかった。

 しかし、背に腹はかえられないとばかりに、林十蔵は額を土間に擦り付けた。莫大な引負をしでかしたのは紛れもない事実だ。放置すれば郡代官所の役人から重い咎めを受ける。林十蔵は必死の形相で岳父秋山長兵衛と親戚の林儀兵衛を頼り、三人で庄屋を勤める本家林惣左衛門に頼み込んだ。林利助が三才のときの出来事だった。

 本家から米を融通してもらって、林十蔵はなんとか危機を乗り越えた。畔頭としての面目は保たれ、一家に平穏な暮しが甦ったかに見えた。

 だが人の性癖は容易に直らないものだ。喉元過ぐれば熱さを忘れるとの諺もある。一度目の引負騒動を引き起こしてから三年目、林利助が六才の折にふたたび十蔵は引負を抱え込んでしまった。その量目は十二石にも達したという。年貢を計量し帖付けを行う畔頭としては万死に値する。村人が運び込んだ年貢米の量目を検査し帖付けして、役人に引き渡すまで保管するのが畔頭の役責だ。量目不足はいかなる言い訳も通らない。しかも二度目ともなると本家を頼ることもできなかった。

 採るべき道は一つしか残されていない。林儀兵衛がそれだけは思い止まれと口を酸っぱくして意見したが聞き入れず、十蔵は断腸の思いで家屋敷から田畑に至るまですべてを売り払って不足した量目を補填した。

 二度にわたる引負は十蔵の性格が放埒だったためとの説がある。几帳面な帳付けを厭い、量目の計測も他人に任せ切りだったために引負を仕出かした、とするものだ。しかし彼自身はいたって大人しく謹厳実直な性格で、声を荒げて人と口論すらできなかったという。むしろ代々畔頭の役目を勤める家系に醸成された、村の旦那として育った者に特有な人の良さに原因があったといえよう。

引負を起こした原因は年貢米収納時の計量にあったと考えられる。米の計量は一升桝に摺り切り一杯が正式な計量だが、一升桝に山と積み上げた米を擂粉木で撫でて計量すべきところを、擂粉木で桝に盛った米を撫でず、こっそりと手抜きするのを見逃したのではないか。庭に運び込まれる年貢米が膨大なため、計量不足が積もり積もって嵩み、ついには膨大な量目に達することは十分にあり得る。林十蔵は目の前で村人が自分の目の前で計量を誤魔化しているのを指摘できない性格だったようだ。

 それを言い訳にしていては畔頭が勤まらない。いや畔頭が勤まらないだけではない。誰もが農業で生きてゆくのが大変な時代にあって、林十蔵は百姓として生きて行くことすらかなわない。百姓が自分に不向きならどうすべきか。そこまで考えた上でもないだろうが、十蔵は命よりも大切な田畑を売り払った。束荷村で百姓として生きてゆく糧のすべて失い、十蔵は文字通り無一物になってしまった。

自らが暮らしを立て、妻子を養うにはどうすれば良いか。残された選択肢は二つに一つだ。村にとどまり他人の田を耕す小作農として嘲りと困窮に耐えるか、村を出て百姓以外の職を探すか。その二択以外に方途はなかった。

 弘化三年(一八四六)初冬、林十蔵は人目を忍んでひっそりと旅立った。

 家屋敷から田畑山にいたるまで先祖から受け継いだ財産をそっくり売り払って、十蔵は引負を弁済した。そして残った銀百三十匁のみを懐に束荷村から萩城下へ向かった。

 田舎でしくじった者が逃げ込むのはいつの時代でも都会だ。萩は長州本藩の城下町だった。ちなみに幕末期の萩の人口は約四万五千人で全国でも十一位の大都会だった。赤間ヶ関(現・下関)は一万八千人の港町に過ぎず、山口も戦国大内氏時代に十五万人を数えた都会も徳川幕府の政策により城を置くことを許されず衰退して、幕末期には一万人前後になっていた。

そうした大都会・萩へ職を求めて林十蔵は郷里を旅立った。しかし農地を手放し在所を捨てるのは武士が脱藩するのと同じく、当時としては一人前の人として扱われない浮浪人になることだ。身分制度の厳しい当時としては百姓が村を離れることは咎められかねない犯罪だった。

 ただ萩には妻の叔父が暮らしていた。恵運と名乗って萩の新堀町金刀比羅神社社坊法光院の神主になっていた。恵運は琴の母の弟に当たる男で十蔵とは一面識もなかった。しかし藁にもすがる思いで、紹介状を手に顔も知らぬ義理の叔父を頼って萩へと向かった。妻と子は萩での暮らしの目処がつくまで、琴の実家に預けられることになった。

 残された妻子は妻の実家に預けられた。しかし村人の暮らしに余裕はない。食客を置けるほど豊かではないのは琴の実家とて同じだ。実家へ身を寄せたとはいえ、琴は下女同然に働いた。泥と汗にまみれて農作業に精出すことはもとより、夜なべ仕事も休むことはなかった。日当たりの良い丘の家から秋山家の物置小屋の片隅に居を移したが、林利助にとっても住む場所が変わっただけでは済まなかった。物心ついた頃から大人の顔色を窺って生きる毎日を強いられた。しかも、ともすれば気が沈みがちになる母をも励まさなければならなかった。父がいなくなって幼い林利助が背負込んだのは自分一人の悲しみだけではなかった。

 林十蔵の頼った男は妻の母の弟でしかない。しかも妻の遠戚に連なる男が萩で神主をしているという理由だけで林十蔵は一縷の望みをかけて郷里を発った。

幸いにも恵運は姪の夫に当たるというだけで面識もない男の身元を引き受けてくれた。村を捨てて逃げてきた男になにくれとなく仕事を世話し面倒を見た。

 本来、仕事を世話するのは口入れ屋で、誰でも口入れ屋を開業できるわけではない。口入れ屋はお上から下される鑑札があって、初めて口入れ屋として開業できる。もちろん身元の不確かな帳外者に仕事を世話してはならない決まりになっている。村を逃散して萩へ逃れてきた者は紛れもなく人別を外れた帳外者で、十蔵が萩で頼れる者は恵運ただ一人だけだった。十蔵は恵運の口利きで児玉糺や木原源右衛門などの屋敷へ奉公に上がった。

 しかし当然のことながら、帳外者の林十蔵に与えられる仕事は雑用や手間仕事に過ぎない。菜園の農作業や米搗、それに木樵や若党といった日雇いのため、生計を立てる目途になるようなものではなかった。たつきの方途を見付けるべく萩へ出て来たものの、なかなか妻子を呼び寄せられる安定した仕事にはありつけなかった。しかしそれでも林十蔵は日雇い仕事を黙々と懸命に働いた。故郷に置いてきた妻や子を一日でも早く呼び寄せるために、与えられた仕事が何であろうと一心に身を粉にして働いた。

 そうした雑役に汗する日々が三年近く続いた。そんな日々の中で、林十蔵の勤勉な働きぶりを見込んだ者がいた。萩は狭い町だ。それは地理的な狭さもさることながら、口の端にのぼる情報の伝播力も町の狭さ故だった。

 ある日、恵運の許に願ってもない働き口が持ち込まれた。持ち掛けられた働き口は中間の代勤だった。代勤とは当主が早世して跡継ぎの嗣子が幼い場合、継いだ当主の代わりに公の役目を果たす代理の者のことをいう。そのため誰でも良いというわけにはいかない。当主になり代わって役目を勤めるためいささかでも粗相があってはならず、いい加減な男に頼むわけにはいかなかった。林十蔵に代勤の依頼が舞い込んだのは彼の仕事振りが誰の目から見ても実直だったことに他ならない。

 代勤の仕事を申し込んで来た男は伊藤武兵衛と名乗った。伊藤武兵衛は若い頃に見習い奉公として蔵元付きの中間水井家の屋敷に上がった。実直な仕事ぶりから水井家では重く用いられ、亡くなった先代の側役を勤めていた。突然の先代の逝去により幼い嗣子の代わりに、中嗣養子となって代勤を務めることになった。だから藩に届けられた武兵衛の正式名は伊藤武兵衛ではなく水井武兵衛ということになる。しかし中間に定まった禄はなく、非番でお役目がなければ俸給はない。それのみならず御役御免となれば水井家は途絶することになる。

元々伊藤武兵衛は中間の出自で、佐波郡桐畑村にかなりの田畑を持っていた。本来なら伊藤家当主が死去した時点で永井家を辞して、中間・伊藤家を継ぐべきであった。しかし水井家の中嗣養子となっていたため、伊藤武兵衛が中間・伊藤家を継ぐことはできなかった。途絶えてしまった伊藤家を気にかけつつ齢を重ねてきたが、それだけが心の一点のシミとなっていた。いずれの日にか伊藤の家名再興を願いつつ、伊藤武兵衛はひたすら忠勤に励んできた。しかし寄る年波には抗らえず、代勤仕事に耐えられなくなった。ついに挿み箱を担いで共揃いに付き従うのを諦めざるを得なくなり、代勤を誰かに任せて自身は永井家の勘定全般の管理を行うことにした。

 恵運から紹介された仕事を林十蔵は一も二もなく引き受けた。すぐさま水井家の屋敷へ赴き、伊藤武兵衛にその旨を申し出た。

 林十蔵は元来が百姓だ。上背はそれほどではないが肩幅の広い骨太で頑健な体躯をしていた。中間の仕事は頭脳労働ではない。使役に耐える体力さえあれば後は柔順な性格が必須なだけだ。伊藤武兵衛は林十蔵を面通しして即座に気に入った。

 翌朝、水井武右衛門の代勤として蔵元付中間組頭へ林十蔵の名が届けられた。昼下がりに組頭は林十蔵を伴って登城し、大手門脇の長屋で蔵元付中間とひきあわせた。ここにして林十蔵は長州藩の武家社会の序列最下位とはいえ、定まった身分とお役目を頂戴し、月々に水井家から俸給を手にする身となった。浮浪人でしかなかった帳外者から脱して、まともな武家社会の一員に加われた。しかも仕事といえば勘定方役人の供揃いの一員として挟み箱を肩に担いで歩くことに他ならない。数々の屋敷奉公で経てきた体を酷使する雑役と比べれば格段に楽な、嘘のような仕事だった。屈辱にまみれて束荷村を旅立ってから三年有余にして萩での暮らしに目処がついた。さっそく萩城下町の外れ土原に有地九郎の長屋の一軒を借りると、岳父に預けてきた琴と利助を呼び寄せることにした。

 

 嘉永二年(一八四九年)旧暦三月七日早朝、三人づれが束荷村野尻を旅立った。

 その三人連れともつれるようにして、秋山家から三人が二町ばかり丘を下った束荷川の土手道まで付き添った。年老いた白髪髷の男は琴の父親秋山長兵衛で、残る二人は琴の兄夫婦だった。琴の母は孫を溺愛していたため別れの辛さに耐え切れず、見送りには出られなかった。

 村を出た彼らが向かう先は長州藩の城下町萩だった。当時、長州藩の人口は五十七万人弱でしかなく、日本全国でも三千万人に満たなかった。長州藩で四万五千人もの人口を擁する町は藩主毛利藩城下町の萩だけだった。

 三人連れは瀬戸内海へと続く南へ下る方角とは反対の北西へと向かい、村を囲むなだらかな山々の山麓を巡るようにして峠を二つばかり越え、山陽街道の呼坂宿をめざした。

山陽街道に出ると街道を西へと向かい、瀬戸内海に出て今は防府市の郊外となっている宮市まで行き、その後は御成道を内陸へと向かって険しい勝坂の峠を越えて山口に到り、中国山地越えの萩往還路を歩いて萩城下へ到る旅路だ。

 一行は六十に近い小柄な老爺と三十過ぎの琴とその子・利助だった。琴が先に立って利助の手を引き、肩幅ほどしかない杣道を歩いた。

腰の曲がった老爺は百姓女の実家秋山長兵衛の屋敷の下男で名を安蔵といった。五日前に主人から萩まで女の荷物を運ぶように言い付けられていた。琴は瓜実顔に勝ち気そうなはっきりとした目鼻立ちをし、さぞかし娘の頃には村の若者たちの目を惹きつけただろうと思われる。その眼差しにはいまもつややかな娘時代の面影を留めていた。五尺足らずと小柄だが、骨組みは華奢ではない。働き者の証のように体の割には大きな手をしていた。十三年前に秋山から林十蔵の許へ嫁いでいた。

 束荷村野尻は総林といわれ村の多くの家々は縁戚関係にあった。普段は『ユイ』や『コウ』を通じて仲間として肩を寄せ合い強固な団結を示すが、反面そうした地域社会はしくじった者に残酷なほど陰に籠もった棘を向けるものだ。

 琴は三年に及ぶ実家での肩身の狭い暮らしを終えて旅立った。一子利助の手を引いて夫の待つ萩城下へと向かう門出に安堵感を覚えながらも、琴の心中に重い澱のような不安がないではない。萩は束荷村から余りに遠く、いかなる暮らしが待ち受けているのか想像すらつかなかった。

 琴に手を引かれて歩く少年は九歳になった利助だった。目鼻立ちは父親似の容貌に顎の張った顔付きをしていた。小さな草鞋を履いた足を懸命に運び、村境の杣道を登った。丈の短い幾度となく水を潜り縞目の薄くなった柳井絣を着ていた。道に張り出た木の根を越えるつど、着物の裾が割れ兵児帯の結び端が忙しく揺れた。

 本来なら、林利助は束荷村の庄屋に次ぐ畔頭の倅のはずだった。村人の中でも誇り高い自作農の子として同年輩の子供たちの羨望の眼差しを受けるはずだった。しかし三年前、父の林十蔵が不始末をしでかし田畑から家屋敷まで売り払うはめになった。そのため、林十蔵は妻子を妻の実家に預けて夜逃げ同然に村を立ち退いた。

 林利助は眉間に皺を寄せ、目を細くして振り返った。一見、怒ったような表情だが、目元に涙が滲んでいた。口元をキッと引き締め、可愛げのない強情そうな張った顎が少年の容貌に遣る瀬ない寂しさを加味していた。色あせた丈の短い単衣の絣の裾が風を孕んで割れた。村を流れる小川が蛇のようにうねって北から西へと白く輝く。朝が早いため山から吹き下ろす風は冬の名残をとどめて冷たかった。

 利助は生れてから九才までを束荷村で過ごした。いまは山口県光市大字束荷字野尻となっているその地に、彼にまつわる逸話がいくつか残されている。

 幼い頃、利助は体が弱かった。友達と遊ぶ年頃になってからも『瓢箪瓢箪青瓢箪、酒飲んで赤ぅなれ』と囃された。だが、成長するにつれて丈夫になり、村の寺小屋で手習いを学ぶ頃には餓鬼大将になっていた。

 寺小屋の師匠は浪人者で名を三隅勘五郎といった。利助も近所の子供たちと同様に寺子屋へ通ったが、手習よりも戦ごっこをして遊ぶ方が好きだった。戦ごっことは子供たちが二手に分かれ、大将の采配のもと棒切れを振り回して敵の陣地を取る遊びだ。

 利助は必ず一方の大将になった。ある日、利助の率いる軍勢が相手に圧されて負けそうになった時、利助は相手の軍を葦原に誘い込んで風上から火をつけた。忽ち利助の軍は勝に転じたが着物を焦がした子供もいて、その夜祖父から酷く叱られた。

 ある雨の日、雨水が流れる溝に堤を作り、水を堰き止める遊びをしたという。他の子供達は水が堤を越えそうになると更に高く泥を積み上げ、ついには堤が決壊してしまった。だが利助は堤に小さな孔を穿ち、水が堤を越えそうになるとその孔から水を出し、少なくなるとまた穴を塞いだ。他の子供達は利助をなじったが、しかし、そうしなければ堤は必ず崩れるものだ、と言って利助は平然と笑ったという。

 またある日、鎮守の森で遊んでいるうち、仲間の誰かが山車を床下から引っ張り出して遊ぶことを思い付いた。村の鎮守の神殿の床下に、祭りで使う山車の台車が仕舞ってあった。他の子供たちはすぐにその話に飛びついたが、利助にはその遊びが面白いとは思えなかった。何だか幼稚に思えた。父がいなくなってから、利助は素直に遊びに没頭することが出来なくなっていた。やがて山車を床下から引っ張り出して子供たちは祭りを真似て騒ぎ出した。その様子を見ていた神主が木の陰から飛び出して一喝すると、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。だが一人利助だけは逃げなかった。その場に立ったまま、神主が大股に駆けて来るのを待った。

「コラ、お前が子供たちの大将か」

 神主がそう言って怒鳴った。しかし、利助は眉一つ動かさず神主を見上げた。

「いいや、オラは山車で遊ぶのに反対したんじゃ。じゃが、皆が遊ぶからここにおっただけじゃ」

 そう言うと、利助は平然と一礼してその場を去った。

 神主は子供の胆力と冷静さに驚き二の句が継げなかった。後日、神主は村人にその時の様子を話して、利助は行く末大泥棒になるか大人物になるかのいずれかだろうと語ったという。

 しかし、束荷に伝わっている逸話のどれ一つとして、刮目すべき内容を含んでいない。秋山家で厄介になっていた三年間も、村の寺子屋に通い百姓の子として読み書き程度の学問を修めたが、それとても学業優秀な子供とは言い難かった。遊び好きな子としての逸話はいくつかあるものの、目覚ましい学才の片鱗を見せたとの伝承はない。後に伊藤博文として日本の近代史に足跡を残す人物の幼年期はごく普通の、活発な少年だったということなのだろう。

 川沿いの道を上流へと辿ると村外れで左へ折れ土手道と別れて山へと分け入る杣道との分岐点がある。土手道はそこから右に大きく湾曲して峠越えの山道となり玖珂郡高森村へと続いている。琴たち一行が向かうのは土手道ではなく、そこから杣道へ分け入って山陽街道の呼坂宿を目指す。その分かれ道で三人は立ち止まり、豆粒ほどに小さくなった人影に向かって頭を下げた。そこが集落を後にする者たちが別れを惜しむ最後の場所だった。

 芽吹いたばかりの新緑の木立から木漏れ日が山懐を縫うように続く杣道に降り注いでいる。三人は一言も言葉を交わさず、露に濡れた柔らかい草を踏み拉いた。

 先を行く安蔵の背負子には柳行李が一つ括りつけられ前屈みに杖を突いた。安蔵の後を琴と利助が一間と遅れずに続いた。琴の背中にも風呂敷に包まれた重そうな荷物があった。

 若い草の匂いが濃かった。長いなだらかな坂道を登って来た三人の首筋には早くも汗が浮いた。利助は琴に手を曳かれ、道に張り出した木の根や雨水で抉れた窪みを飛び越えた。そのつど確実に歩みを刻む牛のようなたゆみない大人の足運びに、子供の軽やかで不規則な足音が入り混ざった。ふと足を止めると曳かれる手に力を入れて、利助は母を見上げた。

 新緑の木漏れ日が降り注ぐ杣道は大きく左に折れて山肌の陰に姿を消している。振り返って束荷村の聚落を目にすることができるのはこの切り通しが最後だった。

「利助、疲れたんかぃのう。まだ家を出たぱかりじゃが」

 琴は声を掛けた。利助はその問い掛けには応えず、後ろを振り向こうとした。

「先を急ぐけえ、立ち止まりんさんな」

 琴は瞬時も歩みを止めず、利助の手を曳いた。利助は振り返るのを止めて母の歩みに合わせた。母から言われれば、抗うことはできなかった。再び琴の横顔を盗み見て跳びはねるように歩みを速めた。

 彼らが歩む杣道は聚落から山懐へと伸びている。振り返ればなだらかな低い緑の山々が住み慣れた地を取り囲んでいる。生まれてから九才まで暮した日々が眼下の山里にあった。楽しかった日々も、悔しさで顔を上げることのできなかった辛い日々も、すべてその地に刻まれている。利助は束荷村の風景を記憶に焼き付けるように見詰めた。

 背後の木立の陰に束荷村が消えて目の前に山肌が迫ってきた。

 傾斜面に取り付いた胸突き坂に杣道はうねり、やがて束荷村境の峠に出た。下り道に差し掛かればそこはすでに小周防村だ。押し潰すように重くのしかかっていた束荷村を後にすることがこんなにも容易だったのか、と子供心ながらも調子抜けするものがあった。数々の楽しい思い出も辛酸も屈辱も、そっくりあの村に置いてきたような気がした。それは余りにもあっけなかった。

 山道を下り終えて平坦地に出ると安蔵と琴の足取りは一段と捗った。島田川本流にかかる木橋を渡るとそこは小周防村八幡所だ。かつて見たこともない広大な圃場に目を見張りつつ、利助も懸命に足を運んだ。そこから呼坂宿まではほぼ半里の道のりだった。

 束荷から萩まで三人は二泊三日をかけて歩くつもりだった。壮年男子の足なら二十里の道のりは一泊二日で歩けなくもない。その場合はまだ暗いうちから提灯で足下を照らしながら出立し、日暮まで歩き続けて山口に宿を取る。次の日も辺りが暗いうちに七ツ発ちをして、萩への往還路をひたすら歩き通すことになる。しかし、女子供連れではそれほどの強行旅程は踏破できない。琴たちは一日目の宿を宮市に取ることにした。今では防府市と呼ばれる町の中心部から外れた東部の鄙びた一地域となっているが、当時は天満宮の門前町として最も開けた土地だった。

 呼坂宿で一休みして草鞋を履き替え、昼近くになって徳山の遠石八幡宮に到った。

 徳山は長州四支藩の一つ徳山藩の城下町だ。遠石八幡宮の参道階段下の街道には茶店が街道の北側に並び、南側は低い石垣となり瀬戸内海が初夏の光りに輝いていた。利助たちは門前に並ぶ茶店の軒先に腰を下ろして、夜も明けないうちから琴が握ったむすびを頬張った。醤油の醸造場が近くにあるのか大気に独特な匂いが混ざり、眼前に広がる海には風待ちの千石船や五百石船が数隻停泊していた。

 茶店で四半刻も休むと元気を取り戻し、琴たち一行は縁台から腰を上げた。まだまだ先は長い。旅人の流れに身を任すように三人は黙々と街道を歩きだした。足下の石垣には瀬戸内海の潮が押し寄せ、波音がさざめいていた。

 西空が茜色に染まり出した頃、三人は椿峠を越えた。眼下には絵のような遠浅の入り江と引き絞った弓なりに湾曲した砂浜と疎らな聚落が望めた。その地を富海といった。

 子供連れとはいえ、余りにもはかがゆかない足取りに琴は内心不安を覚えた。明日の山口まではそれほどの道のりではない。勝坂の峠を越えれば山口までは比較的平坦な道だ。まだ日の高いうちに着けるだろう。しかし、難関はその先だった。山口と萩との間は中国山地を越える往還路を行くことになる。往還路は別名御成り道といって藩主が参勤交代の折に通る道で山陰の萩から山口、勝坂を経て瀬戸内の三田尻まで続いていた。距離は十一里三十四町。道幅はおおむね四間に保たれている。歩き易いように難所は切り開かれ、足場の悪い湿地には石畳が敷かれていた。

 江戸時代、長州藩には大道が三本通っていた。小瀬から高森、野上、宮市、小郡、船木を経て赤間関に至る三十六里の山陽道と、石見国境の野坂から徳佐、山口を経て小郡に至る十二里二十八町の石州街道、それと萩往還路だった。大道の管理は厳格に保たれて街道松が植えられ、駕籠場所、番所、一里塚などが設けられていた。

 三日目の払暁、三人は山口竪小路の宿を出立した。

 山口は西の京といわれている。大内氏が京を擬して町造りをしただけあって条理制らしき辻と町名がここかしこに見受けられた。八坂神社の大鳥居の前を通り過ぎ伊勢大路との交差を真っ直ぐに北進し、やがて天花の集落に到った。この里まで来ると条理の町並みは消え失せて道は稲の植わった若い緑の棚田に溶け込み遠慮がちに山懐へと迫ってゆく。左手の低い尾根越しに瑠璃光寺の五重塔の頂がわずかに見えた。

 天花の集落を過ぎると道は急勾配となって山肌にとりかかる。参勤交代を駕籠で行く藩主も坂の険しさゆえに降りたといわれるほどの急峻さだ。その地を一の坂といった。それからもいくつもの峠を越えて中国山地を横断しなければならない。大人の足をしても難路だった。

 山間を縫う街道にしては、往還路に人通りが絶えなかった。早馬こそ駆け抜けないものの馬子に曳かれ荷駄を積んだ馬や大風呂敷を担いだ行商人、それに挟み箱を肩に担いだ飛脚などが行き交った。

 山口から萩までほぼ五里。途中、佐々並に御茶屋があり明木に宿場があった。しかし、琴たちは宿に泊まるつもりはなかった。一日にして往還路を踏破するつもりだった。

 最初のうちこそ利助は懸命に歩いたが、佐々並の茶屋で昼を使うとさすがに歩けぬと駄々をこねた。九才の子に不憫との思いはあったが、疲れているのは大人たちも同じことだ。石清水で喉を潤し四半刻ばかり足を冷やしてやると、利助は健気にも歩き出した。しかし、登り下りの激しい山道のため、明木まで来た頃にはへばってしまった。やむなく安蔵の負う背負子の荷を一つ琴が引き受けて、利助を柳行李の上に座らせて落ちないように背負子に括り付けた。

 日が西に傾きだした頃、三人はやっと倅坂峠を越えた。萩の基点唐樋の札場から一里を示す一里塚が路傍にあってさらに坂道を少し下ると眺望がひらけた。日差しにきらめく阿武川とその河口に広がる萩の町を林利助は安蔵の肩越しに見た。

 萩は長州藩主の暮らす城下町である。名の由来はその地に萩浦という集落があったためとも、椿の群生地であったためともいわれている。土地の名を単に椿と呼んでいたものが、椿(ツバキ)のツを取り去るとバキとなり、言いなすうちにハギとなったというのだ。今も菊ガ浜を挟んで指月山と向き合う海に突き出た小さな休火山笠山の麓には椿の自然林がある。萩と椿には深い縁があるようだが、名の由来ほど萩は風雅な土地ではなかった。

 防長二州(現山口県)に封じられた当初、毛利氏は居城を小郡か三田尻のいずれか気候温暖な瀬戸内の山陽道沿いに構えたかった。しかし戦略的な見地から徳川幕府はいずれも許さなかった。それなら少々不便だが、せめては内陸の山口に藩庁を置きたいと願い出た。だがそれすらも許されず、毛利長州藩は日本海に面した辺鄙な萩に押し込められた。

 江戸初期、萩は見渡すかぎり一面に芦原の広がる阿武川河口の湿地帯だった。寒漁村ともいうべき集落が河口の東の丘陵に疎らに見られる他、人の住まない荒涼とした荒地が広がっているだけだった。河口西の岸には指月山と呼ばれる小高い丘が波打ち際に離れ小島のように聳えている他、芦原に迫る芒々とした日本海が広がるのみだった。

 まず湿地帯の西端の海岸に突き出た小高い指月山に城を構えると、阿武川を上流の川島で開削して川筋を左右に分けた。広大な湿原を干拓する手始めとして、河口湿原を三角州となす土木工事を施した。阿武川は三角州によって左右に分けられ、日本海へ向かって東を流れる川を松本川、西を橋本川と名付けた。

 城下町を形成すべく一面の湿原を人の住める土地にするため、毛利家々臣は上下を問わず藩の存亡をかけて干拓した。三角州の沖積地に特有な泥沼地の水抜きと水運をかねて、橋本川の平安古(ひやこ)から松本川の浜崎にかけて新堀川を開削した。そして、その上流にも三角州の用水と水運のために溝を掘り割った。その溝の名は味気なくも大溝と呼び習わされていたが、明治の一時期に溝の流水を利用して藍染めが盛んに行われたため、いまでは藍場川と情緒豊かな名で呼ばれている。

 日本海に突き出た小島に築城された萩城は別名指月城と呼ばれた。日本海と松本川を天然の堀とし、開削した堀川によって城郭と城下町とを画した。そして、城に近い町割りから順次石高の高い者から低い者へと武家屋敷を整然と配した。身分の上下は住む場所によって一目瞭然になっていた。

 西の空に残照があるうちに、三人は萩の町外れにたどり着いた。そこから橋本橋を渡ると御成り道を真っ直ぐに北東へ進み、御成道の基点を示す唐樋町札場に辿りついた。そこが林十蔵と待ち合わせていた場所だった。

林十蔵は待ちかねたように三人を家並みの軒下に引き入れると、無言のまま安蔵が背負子を降ろすのを手伝った。三年ぶりに会う父親と母子だった。安蔵がひとこと「萩は遠いもんでありますィのぅ」とだけ言った。林十蔵は黙ったまま安蔵に深々と頭を下げた。

 利助は面目を失ったように悄然と背負子から降り立ち、遠慮がちに路傍に立ち尽くした。林十蔵は九才になった倅をそれほど見詰めることもなく、安蔵の背負子を無理に引き受けて琴の荷も奪い取るようにしてその上に積み上げた。

「いや、わしが背負いますけえ」

 と安蔵は言ったが林十蔵は首を横に振ると、軽々と背に負い腰を屈めて先を歩き出した。琴は利助の手を引き安蔵がその後に続いた。

 林十蔵が借りた長屋は唐樋町からは東の方角、二町ばかりの道のりだった。林十蔵は肩にのしかかる荷に歯を食い縛った。家を潰してしまった責任と放擲してきた家族の重みを改めてひしひしと感じた。涙があふれて頬を伝った。

 

 一晩ゆっくり休むと、翌朝早く利助は両親に連れられて新堀町の法光院へ上がった。

 土原の長屋からは西へ五町ばかりの道のりだった。現在は法光院という名を地図上に見付けることは出来ない。その場所には真言宗円政寺という寺の名が記されている。明治時代に神仏混交の策により山口にあった円政寺と併わされて改称された。

法光院は町人町から城へと伸びる御成道には面してなく、南へ路地を半町ばかり入った場所にあった。そこは昨日林十蔵と待ち合わせていた唐樋の札場よりも更に西、城に近い武家町の中ほどだった。同じ路地の並びには桂小五郎の質素な生家が建っている。ちなみに法光院の裏手筋が高杉晋作の生家のある菊屋町だ。方位からいえば法光院の裏筋にあたるが、城を中心として町割がなされていたから高杉の屋敷こそが表通りある。萩に来るや偶然にも、林利助は高杉晋作や桂小五郎の暮らす町に足を踏み入れたことになる。そこに林利助の運命めいたものを感じないでもない。

 目にすると威圧するばかりの法光院の大伽藍だった。村ではついぞ見たことのない物置小屋の屋根ほどの屋根付き門を潜った。続く参道には巨大な松が三本並び立ち、威圧する天を突くかと見紛うほどの瓦屋根の聳える神殿の手前の社務所の裏へ回った。そして出て来た下働きの男に神主との面会を求めた。

 貧農の家に生れた次三男の例にもれず、恵運も幼少の折りに口減らしのために野尻の家を出された。ただ江戸や大坂といった大都市と異なり、長州藩領内では百姓の小倅の奉公先は限られている。およそ地方の素封家の下男奉公か町の大店の小僧奉公より他にない。そうすると下男奉公から財を築いて素封家になることは望むべくもないし、大店奉公の小僧から身を起こして暖簾分けで新店舗を構えて金看板を上げることも叶わぬ夢だ。

しかし唯一、寺や神社への奉公なら身を粉にして励めば出世も叶わないわけではない。勤勉の上に学才が備わっていれば神官や法主となって、然るべき地位に就き尊敬を集めることも可能だった。

この時代、田舎の百姓の子が学問をする場所は寺社に限られた。恵運は幼少の砌に秋山家から萩の神社へ奉公に出された。親の願い通りに学問を積む傍ら、神社勤めも懸命に果たして、恵運という名を頂戴するほどの出世を遂げた。そして故郷を遠く離れた異郷の地で人々の信任を得て法光院の神主にまで出世した。

 林親子は庫裏の勝手口から上り六畳の板の間に通された。待つほどもなく狩衣姿の恵運が姿を現した。裾を靡かせて座るのを待ち、

「お陰様で、束荷村から妻と子を呼び寄せることができました」

 林十蔵は大仰な仕草で蛙のように平伏した。

 恵運は琴がそうであるように小柄な男だった。年は十蔵より二十歳近くも上で、すでに老齢というに相応しい。頬骨の張った顔立ちに落ち窪んだ眼窩に鋭い眼差しがあった。

「利助とやら、年は幾つじゃ」

 十蔵の挨拶には見向きもしないで、恵運はその背後に蹲る少年に視線を落とした。

 概して長州人は社交辞令を省く傾向がある。本質的な用向きを告げればそれ以上の言を弄しない。恵運が十蔵の言葉を無視したのも不機嫌だというのではなく、それが取り立てて言うに及ばない事柄だったからだ。それよりも、少年の顎の張った勝ち気そうな面差しと負けん気の眼差しが彼の関心を呼んだ。

「はい、九才でございます」

 利助は物怖じしない口吻で答えた。それに「うむ」と頷き、恵運は琴を見詰めた。

「屋敷奉公の口を見付けてはあるが、萩では何よりも学問が大切じゃ。田舎でどの程度勉学を積んだか、それを知りたい。しばらくここに置いてみんか、掛かりはわしが見るが」

 恵運は念押しするように十蔵に言った。

 『掛かり』とは生活全般の費用のことだ。恵運は林利助を手元に置いて彼の学才を見極めてみたいと思った。当然まだ十歳にも満たない利助の意を聞く必要はない。それは鉢植えの松を仕立てるのに松の意志が問われないのとなんら変わらない。

 唐突な申し出に十蔵と琴は言葉を失った。一子利助の学問に恵運が興味を持つとは思いも寄らなかった。確かに束荷村では近所の寺子屋へ通わせたが、それほど子供の学問に意を払っていたわけではない。年が到れば子に読み書きを習得させるべく寺子屋へ通わせるのは世間の親として普通のことだとして祖父の秋山儀兵衛が通わせた。だが恵運のいう学問とは世間並みの「読み書き」ではなかった。ここは長州藩城下町の萩だ。当然恵運の言う学問とは「読み書き」ではなく、武家の素養たる四書五経のことだ。それらの手解きを仕込もうと、利助の面構えを見て瞬時に考えた。恵運が研鑽を積んで神官として認められたように、利助も事と次第ではモノになるやかも知れぬ、との期待を抱いた。

 十蔵と琴にすれば恵運が利助を預かると言い出したのに異存のあろう筈はない。養う口が一つ減るのは願ったり叶ったりだった。法光院に置いてもらえると素直に喜び、十蔵と琴はすぐさま相好を崩して床板に額を擦り付けた。

 だが恵運が特別に子供の教育に熱心だったというのではない。当時、長州藩では熱病に取り憑かれたように学問熱が蔓延していた。ことに萩城下には奨学の気風が漲っていた。身分の低い者が立身出世するには学問こそが唯一の道だ、との信仰に似た思い込みがあった。林利助にとって幸運だったのはそうした時代に巡りあったことだった。

 事実、幕末期の長州藩は全藩を挙げて教育熱にとり憑かれていた。その様は尋常ではない。長州藩に奨学の気風をもたらした発端は就任して間もない若い藩主の政策だった。

 本来なら藩主は家臣団に担がれる神輿のように、藩政を家老などの藩政組織に一任して安穏と御座を暖めていれば良い。むしろ、藩政に対して藩主が確固たる意思を持たない方が治世はうまくいくとさえいわれていた時代だ。しかし毛利敬親にはそれが許されない事情があった。

 藩主に就任するや財政破綻の厳しい現実が待ち受けていた。藩の借財は年貢収入の二十二年分にも達し、三十六万九千石の領地から上がる年貢だけでは早晩行き詰まるのは明白だった。官僚組織に堕して久しい家臣団は明快な改善策を見出せないまま、若い藩主が何をしでかそうとも直接自分の身分に関わりない限り嘴を挟まなかった。それほどまでにも長州藩は改革を断行しなければ抜き差しならない状況にあったといえる。

 毛利敬親は藩主に就任する六年前に一通の藩政建直しの建白書が上申されたことを知っていた。それは当時江戸当役用談役にあった四十九才の男が記した藩政改革基本綱領だった。極めて実務的で明快に論述した改革基本要綱を、藩の重臣たちは下級藩士が提出した建白書との理由だけで一顧だにせず、和綴じの冊子は江戸桜田の上屋敷の文箱で埃に塗れていた。毛利敬親はそれを取り上げて彼に藩政改革を託した。重臣たちにとっては青天の霹靂だった。しかし重臣たち誰一人としては若い藩主の決断に異を唱えなかった。彼らは一様に同じ考えを持っていた。残念ながら誰が辣腕を振るおうと、藩政改革は一年と経たずして無に帰すと確信していた。

 天保九年、毛利敬親は村田清風を政務役に抜擢した。当時五十六才になっていた村田清風に破綻の危機に瀕していた藩財政の立て直しを命じた。方策は村田清風が建白書に書き記した通りに行えと厳命した。三百諸侯が厳しい身分制度を敷き、依然として門閥家柄による行政を執行していた世にあって、長州藩は家禄わずか二十五石の家格でしかない下級藩士に藩政を委ねた。それは若い藩主のすさまじいまでの決断だった。

 村田清風は速やかに諸制度の改革、とりわけ財政改革に果敢に着手した。藩の借財は銀八万貫に達していた。もはや一刻の猶予もならない深刻な事態だった。 さっそく御用商人を集めると借金の三十七年間棚上げを一方的に宣言した。そして極端な緊縮財政を断行した。江戸藩邸奥向きの浪費を削減するために、藩主に木綿の着物を着用するように求めた。毛利敬親は村田清風の進言を素直に聞き入れ、進んで木綿の着物を着た。倹約令は奥向きや家臣はもとより領地の庶民にいたるまで徹底された。しかし、その程度の緊縮財政策は同じように財政危機に見舞われていた他藩でも試みられている。緊縮策だけで藩財政を立て直すことが到底かなわないのは明白だった。

 村田清風の藩政改革の真髄は商業振興にあった。彼は北前船による交易が莫大な利益を上げていたのに目をつけた。藩内領民に対して四白(米、塩、紙、蝋)政策を推奨した。具体的には農地の干拓開墾を進めて米の増産を図り、瀬戸内海沿岸に広大な塩田を造り、晴天に恵まれた瀬戸内の気候を利用して塩の生産を奨励した。同時にそれほど高くない山々の中国山地に楮や三ツ又それに黄櫨の植林を督励して紙や蝋の生産振興を図った。それら米や塩や紙や蝋がすべて白いことから「四白政策」と呼ばれている。

だが殖産興業を奨励して交易産品を作らせただけでない。物産の売買を藩が独占した。上ノ関、中ノ関、下関の三関といわれた交易港に会所を設けて廻船交易を藩吏が直接行った。これこそが村田静風の藩政改革の真髄だった。

村田静風の藩政改革とは藩財政の基軸を年貢中心の重農主義経済から、産業殖産と交易流通の商業経済へと転換させた。それは明治時代に行われる産業近代化の先駆けともいえるものだった。おそらく村田静風は英国トマス・マンなどが提唱した重商主義を逸早く日本国内に持ち込んだものと思われる。重商主義とは国家の富の源泉として自国の産業を保護すると同時に、貿易などを通じて外貨宿日などを蓄積することにより国富を増やすことを目指す経済政策だ。明倫館教授だった村田静風は当時の英国の先進的な経済政策を知っていたのかも知れない。

だが藩御用商人たちは慌てた。藩貿易を独占していた自分たちの権益が藩によって奪われる人に反発した。重役たちも村田静風の思い切った改革の断行に慌てた。一年も経たず藩政改革は水泡に帰すと考えていた重臣たちは若い藩主の手並みに恐怖すら抱いた。ことに豪商と組んで袖の下を貰っていた重臣たちは借入金三十七年間棚上げ策に噛みついた。そして交易権を取り上げられた商人たちは重臣たちに働きかけて村田静風の藩政改革に異を唱えさせた。

 門閥出の重臣たちは「我らはまるで商人ではないか」と色をなし、藩の御用商人と結託して執拗に妨害を繰り返した。時には刀を引き抜いて清風の悪口を家の前で放言し、門柱に切りつけたという。しかし、村田清風は藩主の確固たる後ろ盾を得て、持ち掛けられた妥協策をすべて排して果敢に藩政改革を断行した。そして、政務役への登用から六年にして藩政改革が軌道に乗ると何の未練もなく、さっさと職を退いて郷里三隅の陋屋に隠居してしまった。役職に恋々としない出所進退の潔さは鮮やかという他ない。

 村田清風が断行した改革の特筆すべき点はこれだけではない。交易による莫大な利益を一般会計に繰り入れず、撫育局という特別会計に積み立てたことだった。表向き天変地異に備えるためとしているが、長州藩は撫育局の積み立てにより短期間で豊富な軍資金を手にすることができた。幕末には長州藩を実質百万石といわれるほどの財政力を有する雄藩に押し上げていた。

 維新回天の偉業を成し遂げるには大衆を惹き付け、人心を一つにまとめる思想を必要とする。しかし、それだけでは空念仏に終わってしまう。行動を起こすには資金の裏付けが必要だ。潤沢な資金がなければ新式元込銃の一丁すら買えない。雄藩として幕末から明治維新に到る長州藩の活躍は村田清風の登場によって財政面で可能となった。あとは稀有な思想家の登場を待つばかりだが、やがて舞台装置の整った長州藩萩に吉田寅次郎が登場することになる。

 ただ村田清風の藩政改革の効果は財政面のみに止まらなかった。村田清風を抜擢した若い藩主ですら、思いも寄らない副産物があったことに気づかなかった。しかし、以後の歴史を考えるならその副産物の方が長州藩に真の藩政改革をもたらしたといえる。

それは優れた者は登用される、との前例が公になったことだ。ことに微禄な下級藩士たちは目を剥いた。なにしろ僅か二十五石郡奉行格の下級藩士が政務役に抜擢されて藩政改革を断行したのだ。厳格な身分制度の世にあって、長州藩毛利敬親の治世では能力さえあれば政務役に登用される、との希望の明りが下級藩士たちに灯った。

 事実、若い藩主はことのほか藩士の子弟に学問を奨励した。萩在中の折りには週に一度は藩校明倫館に足を運んで参観し、年に一度秋には自ら詩作の課題を与えて試験を実施したほどだ。そして優秀な若者は家柄に関わらず抜擢した。後に長州藩が開明的な施策を次々と打ち出して、いち早く軍備を洋式化できたのも彼等、藩主によって登用された下級階層の者たちの働きによるところが大きい。

藩主の奨学の気風は疫病のようにまたたくまに長州藩全土に行き渡った。村田清風の引退後十年を経過した当時でさえも、重臣たちは競うように領地に私塾を開き、長州藩は萩城下のみならず山間僻地に到るまで教育熱が熱病のように充満していた。

 明くる日から林利助は法光院に住み込み、苛烈な学問修行が始まった。

 江戸時代の武家の学問は漢籍だ。四書五経から唐詩選に到り教養として詩作をものにする。ただ林利助は当然のことながら束荷村の寺子屋で往来物と称される手習をしていたに過ぎない。江戸の手習指南所では六諭衍義大意を教えることもあったが、田舎では専ら生活に必要な読み書きのみに終始した。束荷村で利助の成績が奮わなかったのも、寺子屋の学問に興味が持てなかったことに因ると思われる。

 恵運はいきなり九才の林利助に武士の学問とされる漢籍の入門編を課した。その方法は文章の意味や解釈を教えずに頭から読み下していくものだった。要領は祝詞を覚えるのと大差ない。方法は乱暴だが効果的な学習といえなくもなかった。例えば、算数の九九は経文のように理屈抜きで覚えた方が早い。林利助はそうした方法で三字経、実語経、学子経と次々と読破した。同時に、恵運は林利助に武家勤めの作法と心構えについてとことん教え込むことも忘れなかった。林利助を法光院で預かったのは実の処そこに眼目があった。

毛利長州藩城下町萩は武士の町だ。割の良い奉公先は武家に限られる。これからこの地で生きてゆくためには何よりも武家の学問と躾を身につけなければならない。そうでない限り、生涯を武家の下働きで牛馬のように使役されて人生を過ごすしかない。

 恵運による厳格な躾の下、学問漬けの一年が経った。

 その間、恵運は彼の持てる知識を利助に注ぎ込んだ。漢籍の入門編が一段落すると講義は四書五経に入った。驚異的な進捗といえる。だがそれ以後、恵運が教えるのは夜だけに限られ昼間は屋敷奉公へ出るようになった。いつまでも手許に置いて学問を教えた処で離農した浮浪人の倅に過ぎない利助が明倫館の教授になれるわけではない。学問で藩に認められるには藩校明倫館で優秀な成績を挙げなければならないが、明倫館へ通えるのは藩士の子弟に限られている。利助がいかに秀でようとも学問で藩政に登用される道は閉ざされている。

 林利助が奉公で最初に上がった屋敷は福島家だった。利助はそこで小若党として奉公に励んだ。しかし、言いつけられる役目といえば賄方の小間使や留守番といった軽い用向きでしかなかった。若党は屋敷の雑用全般を勤める役目であるが、林利助のような子供の新参者に重要な仕事が回って来るはずもなかった。年上の累代の若党が主人の登城に挟箱を肩に付き従って行くのを門前で寂しく見送った。

 林利助が十二才の折、十蔵は仕事で福島家の近所まで来た。ふと十蔵が格子窓から覗くと留守番をしていた利助が見付けた。突然父が訪れたため林利助は嬉しくなり、顔を歪めて泣きだして父に縋ろうとした。すると十蔵は利助を跳ね付けて叱った。

「留守番という大役を言い付かっているというのに、泣き出すとは何事じゃ」

 それだけ言うと、林十蔵は後を振り向きもせずにその場を立ち去ったという。

 林利助の奉公先は二年の間に三度変わっている。それは林利助に瑕疵があったためではない。雇われの小若党は人手が足りればすぐに御払い箱となる。いきおい次々と奉公先を探さなければならないことになる。福島家の次に上がったのは児玉家だった。

 十蔵がかつて奉公に上がったことのある児玉糺の屋敷へ、利助は十蔵のつてで奉公に上がった。ここでも小若党の利助に与えられる仕事は賄方の買い物の走り使いだった。しかし、利助は仕事を几帳面に果たした。すぐに萩の町筋を覚え、児玉家の取引先の商家を覚えた。利助の才覚は下女に重宝がられ、やがて勘定まで任されるようになった。

 利助の勘定は手早い上に間違いがなかった。可愛い小若党の利発さはたちまち評判になった。賄方の下女の話を信じなかった当主児玉糺は試みに目の前で賄方の当日の勘定を利助にさせた。そして、その早さと一文の狂いもないのに改めて驚いた。

 利助の評判は両親の耳にも聞こえた。嬉しいと思う反面、飛んでもない失敗をしでかしはしないかと心配でならなかった。

 児玉糺が用向きで出掛けた帰りに雪に見舞われた。冬の萩は天気が変りやすい。日本海から吹き付ける季節風が強くなると空は鉛色の雲に覆われ、たちまち横殴りの雪が降り頻る。出先の屋敷で雪下駄を勧められ、それを履いて帰ってきた。家に着くと利助に履物を返して来るように命じた。利助は夕闇の迫る町へ出掛けた。手には主人が借りた雪下駄があった。頬を嬲る風は切るように痛く、雪道を歩く草鞋は濡れて氷のように冷たかった。

 当時、家は松本川を渡った松本村の外れ、金鑄原に一軒家を借りていた。三十坪ほどの敷地に十五坪ばかりの粗末な家が建っていた。僅かばかりだが菜園もあり、庭木と石を配した前庭があった。そのありようは萩の下級藩士の住まう家といったものだった。

 用向きを済ませ、主人が置いて帰った草履を手に帰路についた頃には横殴りの風に雪が混じった。寒風に首を竦めて背を丸めて雪の泥道に足を取られないように歩いた。気が付くといつしか帰路から逸れ、利助は無意識のうちに金鑄原の家へと足が向かっていた。日暮れた雪道に里心が出たのではなかったが、利助の脳裏に母親の笑顔と暖かい火の温もりがあった。

 実家は大通りから二筋ほど裏路地へ入った所にあった。利助は家の腰高油障子に明りが差しているのを見付けると矢も盾も堪らずに駆け出した。泣き声こそ立てなかったものの両の目からは涙が頬に伝った。

 油障子を引き開けると入り小口の土間で母が近所の子供達に餅を焼いていた。母はしゃがんだまま顔を上げて利助を見上げた。一瞬喜びに目尻を下げたがすぐに立ち上がり、

「何用で帰って来たンじゃ」

 と、厳しい声で突き放すように言った。

 利助は障子を引き開けたまま立ち竦み、呆然と母親の咎めるような眼差しを見詰めた。

「別に用はないけえ、ご主人様の御用で出掛けた帰りに寄っただけじゃ」

 利助は消え入るような声でそう言い、手にした草履を見せた。

「だったら、真直にお帰りなさい。ご主人様の御用も果たさぬうちに、寒さに負けて親の家に寄り道するとは何事ですか。一刻も早く御用を済ますのがお役目というもの」

 母の厳しく窘める声に、利助は首をうなだれて泣き出しそうに顔を歪めた。

 利助の唇は紫色に変わり細い体は小刻みに震えていた。濡れそぼった体を火で暖めてやり白湯の一杯なり飲ませてやりたいとの労りの言葉が喉元まで出掛かっていた。しかし、「寒くはないか、辛くはないか」と、優しい言葉を掛けてやりたい気持ちとは裏腹に、つっけんどんな冷たい言葉が琴の口をついて出た。

 七厘の回りに集まって餅が膨れるのを待っていた近所の子供達も、つい先刻まで楽しそうに笑っていた琴のわが子に対する剣幕に驚いた。はしゃいでいた声を潜めてことの成り行きを見守った。

 利助は黙ったまま油障子を閉めて雪混じりの風が吹きつける泥道を帰って行った。利助の去った障子を見詰めて琴は言い知れぬいとおしさに胸が詰まった。わが子を抱き締めてやりたいと思う気持ちが体に湧上り、すぐにも後を追いかけたいとの思いにかられた。だが、すぐに別の思いが琴の足を釘付にした。

 故郷の田畑を失ってしまい百姓に戻れない以上、利助には武士としての魂と心構えをしっかりと身に付けさせるしかない。そのために琴は心を鬼にした。屋敷奉公に上がった利助が一日も早く武家の水に慣れて武家社会で認められることを願った。

 その日以来、利助は学問と屋敷奉公に一層身を入れるようになった。

 甘えを許さぬ両親の我が身に注ぐ熱い期待は口で言われなくても痛いほどに分かっていた。両親に認めて貰って喜んでもらうには精励刻苦する以外に方法はなかった。主人の他出に供で随行した時ですら、玄関先で待たされている間にも指で地面に字を書き手習を繰り返したという。林利助は奉公に励むかたわら、寸暇を惜しんで勉学に精進した。

 嘉永六年(一八五三)が明けて間もない日、恵運は林十蔵を法光院に呼んだ。

 怪訝な面持ちで見上げる十蔵に、恵運はいきなり利助を学塾へ通わせるように強く勧めた。いや、勧めるというよりも、それはむしろ命じるような口吻だった。

 すでに利助の学問は恵運の手に余った。漢籍の素読までは教えられても、その内容や解釈となると正式に武家の学問を習ったことのない恵運には手出しができなかった。眉間に皺を寄せた恵運から決め付けるように睨まれると、十蔵はそうするしかなかった。家にゆとりはないが、十三才になった利助を萩でも評判の久保五郎左衛門の私塾に通わせることにした。利助の通う私塾を久保五郎左衛門の塾と決めたのも恵運だった。

 久保五郎左衛門の私塾は後に吉田寅次郎が再興することになる松下村塾の前身に当たる。場所は萩郊外の松本村にあった。利助は通学の途中の通心寺境内の天神社へ日参し、学問手習の上達を祈願したという。

 厳格な久保五郎左衛門の教え方が良かったのか、それとも正式な私塾で学ぶことが性に合っていたのか、利助の成績は群を抜き門下生七、八十人の中で筆頭から五番までの者が任じられる番頭に洩れたことは一度もなかった。とりわけ能書は優れ、塾の主席を外れることはなかったという。

 

 癸丑以来(きっちゅういらい)、という言葉がある。

 正確には癸丑甲寅の年ということで、つまり嘉永六年のことだ。

 筋金入りの志士を表すのに『癸丑以来国事に携わっている』というのである。薩摩藩の海江田信義は「自分は癸丑以来国事に携わっているが、大村益次郎は俄か志士の新参者だ」と蔑んだ。そのように嘉永六年は徳川幕府にとって終焉の始まりの年であった。

 その年、徳川幕府にとって屋台骨を揺るがす未曾有の出来事が持ち上がった。

 嘉永六年六月三日、突如四隻の米国艦隊が浦賀に来航するや幕府に開国を迫った。

 徳川幕府は三代将軍家光の御世に外国との交易を制限し、国を閉ざして二百年余の太平の眠りの中にあった。海に浮かぶ要塞とでもいうべき蒸気機関を備えた巨大艦隊の出現により、幕閣はただただ狼狽して応対を浦賀奉行に一任した。そして慌てて海防軍備として品川沖の臺場建設に着手し、江戸湾沿岸及び房州相州の海岸防備力の増強を急遽決定した。

 だが、徳川幕府が夷国艦船の脅威にさらされたのはこれが最初ではなかった。実のところ、夷国艦船の出没は長崎奉行所から数十年も前からもたらされていた。ペリー来航の四十五年も前、英国軍艦フェートン号が蘭国旗を掲げて長崎港へ侵入し蘭国商館員を拉致した。そして、人質をたてに食糧や薪水を求めた。この不埒な振舞いに長崎奉行や防備にあたっていた佐賀藩はなすすべがなく要求に応じるしかなかった。そのため後日、長崎奉行は切腹し佐賀藩主は隠居する事態を招いた。さらにペリー来航の十六年前、米国商船モリソン号が七名の日本人漂流民を乗せて浦賀沖に現れた。不埒な振舞いに及んだ英国軍艦と違って米国商船は友好的に接してきたが、幕府首脳部にはフェートン号事件が記憶にしみついていたため、大砲を撃ち掛けて追い払ってしまった。

幕府には当時の国際社会における英国と米国の立場の相違も、この国との交易をいかなる理由から必要としているのか、との分析資料も対応能力も持ち合わせていなかった。

江戸時代中期から日本近海にもひんぱんに露国艦が姿を現すようになり、その対応策が政治課題になって久しかった。様々な意見具申もなされていたが、幕閣は江戸湾に米国艦隊が侵入するまで具体的な防衛策を講じてなかった。

事実、国を閉ざすと宣言した江戸時代初期の徳川幕府は西洋諸国の艦船の襲来に対応でき得る強力な軍事力を保有していた。そのためキリシタンを弾圧し宣教師を処刑してもスペインやポルトガルは昂然と徳川幕府に宣戦布告しなかった。当時の世界史を見る限り、後進諸国を侵略する先遣隊の役割を宣教師が果たし、その虐殺が侵略戦争の口実となって侵略された国や地域は数知れない。しかし、開府当時の徳川幕府は戦国時代を勝ち抜いた軍事大国で、世界的な水準からしても強力な軍隊を擁していた。国を閉ざすにはそうした軍備が必要であり、ただ『国を閉ざす』と宣言すれば実行できるものではない。

 しかし開府当初より二百数十年も経っている。戦国時代から一歩も進んでない軍備で欧米列強と対峙することは敵わない。遅ればせながら幕府は江戸を守るべく軍事的対応策を下したものの、江戸湾の要衝に派遣する軍事力を事実上、手元に持っていなかった。確かに、江戸府下には俗に旗本八万騎といわれる武士団がいる。しかし、譜代の家臣は長く続く太平の世に慣れて、軍事力としてはすでに無用の長物と化していた。ペリー提督の率いる米国艦隊の来航によって江戸市中は混乱し、古道具屋は武具甲冑を買い求める旗本御家人で底払したという。

 徳川幕府は米国大統領の開国要請親書に対する取り扱いに窮し、朝廷の存在を持ち出して返答を先延ばしにした。一年の猶予をもらい朝廷に諮った上で返答するとして、ひとまず嘉永六年の黒船来航に対処した。窮余の策とはいえ、それにより徳川幕府は当事者能力を放棄したことになる。徳川幕府開府以来二百数十年間、政治権力としては飾り物でしかなかった朝廷の存在が幕閣の眼前にくっきりと浮かび上がってきた。

 黒船来航の影響は長州藩にも及んだ。

 嘉永六年十一月十四日、徳川幕府は江戸湾の要衝地相州警備にあった譜代の彦根藩を羽根田(東京都蒲田)に転じ、こともあろうに外様の長州藩にその後任を命じた。当時、長州藩は幕府に柔順なごく普通の藩の一つに過ぎなかった。

 幕府の命により、長州藩は鎌倉腰越より浦賀に至る相州沿岸の一帯を受け持つことになった。六十九ヶ村二万六百余石に及ぶ広大な幕府直轄地を警護することになり、長州藩は相南三浦郡上宮田に御備場総奉行を置き軍政を敷いた。長州藩宮田陣営の図は現在も萩博物館に残されている。それは戦を前提とした陣構えになっていて、藩士たちの暮らす兵営も陣内に配置されていた。

長州藩は幕府の命に従って、翌安政元年三月にとりあえず江戸藩邸の藩兵二百を当地に駐屯させ、初代総奉行に家老益田越中を以って任じた。藩主毛利敬親も江戸桜田藩邸にあって幕命の遂行に尽力した。

 長州藩が相州警護の任に当たってから、その地域の風紀が粛正されたという。彦根藩が警護に当たっていた当座は江戸から女達を呼び寄せ歌舞音曲に明け暮れていたといわれている。当地の漁師も彦根藩が警備をしていた当時は魚が面白いように売れたが、長州藩になってからは商売にならなくなったとこぼした、と記録にある。

 江戸から遠く離れた萩では当然のことながら、黒船の来航はそれほど深刻には受け取られなかった。ただ萩城下に攘夷を声高に叫ぶ一群の若者たちがいた。長州藩と境を接する石州藩津和野にも平田篤胤の学問の流れを汲む一派が棲み、平田神道を信奉していた。平田篤胤は古事記を研究した本居宣長の成果を基に、彼の国粋的ともいえる論理を展開した国学者だ。その影響は長州藩にも及び、『神道凝り』といわれるほどに熱心な平田神道の信奉者が藩内の各地に点在していた。それも庄屋、豪農といった地域の実力者に多かったという。それが後の高杉功山寺決起に際して吉城郡などの各地で庄屋同盟が出来て高杉軍を支援する礎になるが、当時は酔狂な学問好きの域を出ていない。

 黒船来航が長州藩にもたらした影響は『攘夷』意識の高揚だった。ことに、平田神道を信奉する者たちは敏感に反応した。幕藩体制下、歴史を本格的に研究する風潮は江戸時代を通じて乏しく、僅かに水戸光圀の『日本史』と頼山陽の『日本外史』などが例外的に業績として存在するだけだった。幕末期には上から下までこの国は神代以来延々と国を閉ざしていたと思う人が一般的だった。後年、尊王攘夷思想で京都の町を疾走する志士ですら、鎖国が徳川幕府の政策として実施されたものであることを知らない者がほとんどだった。それゆえ、攘夷の思いは必然的に国粋主義的になり、狭隘な排斥主義の虜となった。

 黒船来航は林利助の身辺に何ら変化をもたらさなかった。いつもと変わらず久保五郎左衛門の塾へ通い、懸命に学問の研鑽を積む日々の繰り返しに明け暮れた。萩で国難を憂いて騒ぐのは一部の藩士、それも若くして明倫館の教授に就いていた吉田寅次郎とその仲間たちに限られていた。

 

  二、相州へ

 明けて安政元年正月、林利助に僥倖がおとずれた。

 それは「棚から牡丹餅」のように、末席とはいえ長州藩で確たる身分を得たことだ。具体的には林十蔵と琴の両親共々、中間・伊藤武兵衛改め直右衛門の養子となったため、林利助は長州藩中間となった。

 そもそも養子になる話は伊藤直右衛門が中間・伊藤家を再興したことからもちあがった。伊藤直右衛門は水井家の中嗣養子として幼い当主水井武右衛門を扶けてきたが、水井武右衛門が成年に達したため正統な当主を水井家に譲った。そして途絶えていた伊藤家を再興するために中間株を買い取った。江戸時代も末期になると足軽や中間だけではなく、幕臣の御家人株まで売買されるようになっていた。

中間株を買い取った伊藤家は届け出により長州藩中間となり、伊藤家は再興されて伊藤直右衛門は積年の念願を成し遂げた。しかし、家名再興がなるとまた新たな問題が伊藤直右衛門を悩ますことになった。それは伊藤家の存続に関する懸念だった。

 伊藤直右衛門は妻帯し三人の子に恵まれたが、いずれも成人することなく夭折した。当時すでに伊藤直右衛門は七十を越える高齢だった。このままではせっかく再興なった伊藤家が直右衛門の死とともに絶えるのは目に見えている。家名を継ぐ嗣子がいなければ、伊藤直右衛門が取るべき道は一つしかない。しかるべき養子を迎えることだ。

 久保五郎左衛門の塾に通う林利助の学才のみならず、奉公先の働きぶりも伊藤直右衛門は町の噂で知っていた。学業に優れ小若党として武家奉公勤めも健気に果たすとの町の評判に、伊藤直右衛門は再興した伊藤家の当主に林十蔵利助父子を迎えることを妻に打ち明けた。すると、妻は利助だけを養子にするが良いと主張した。それも尤もな話だが、利助は林十蔵と琴の一子だ。利助だけを養子として伊藤家に取り上げるのを十臓が承知するはずもなく、親子共々でなければ無理だと伊藤直右衛門は考えた。

「十蔵は凡庸な男だが、一子利助には見所がある」

 そう主張して、妻のみならず親戚の反対をも押し切って十蔵親子と養子縁組をした。

 正式に中間組頭へ養子縁組を届け出ると、伊藤直左衛門は再興した伊藤家の屋敷を林十蔵の家がある金鋳原の近くの松本村椎原に求めた。その地に決めた理由は利助が通っている久保塾が近いということに他ならない。伊藤の家は久保五郎左衛門の塾から半町ばかり、緩やかな坂を上った松本新道の傍にあった。伊藤直右衛門が利助の学問にいかに意を払っていたか、これからでも窺い知ることができる。

 敷地はそれほど広くはなかったが数本の大木と庭石を配し、庭の一隅には石造りの稲荷の祠があった。家屋はつつましくも建坪二十五坪ばかりの茅葺屋根の平屋だった。

 中間は長州藩の行政組織に組み込まれた身分ではない。小者といわれ、長州藩士が雇い入れる使用人に過ぎない。そのため藩から決まった扶持を頂戴するわけではない。従って藩士が『士』と表記されるのに対して中間は『卒』と記されている。

 林利助改め伊藤利助は長州藩家臣に従う卒として、長州藩の末席に名を連ねることになった。所属するのは中間・十川仁兵衛組だ。十川仁兵衛組は山下新兵衛組と共に下両組といって、十三組や地方組蔵元付よりも新規に出来た組のため、身分は中間の中でも一段と低かった。しかしそれでも歴とした長州藩の小者であることに違いない。熊毛郡束荷村から萩へ流浪して来た浮浪人林十蔵一家が晴れて姓名と身分を名乗れるようになった。十四才にして利助は再興された中間・伊藤家当主となり、長脇差一本ながら帯刀を許された。

 中間の手当は藩士の扶持米のように定まったものはない。出仕した日数に応じて月末にまとめて手当を組頭より頂戴する。下両組は定まった藩士の常雇いではなく、いわば臨時雇いの中間だったため、日雇い労働者と大差ない。その手当は役務によって異なるが、一日に米七合五勺ないし一升に相当する銭を与えられた。しかも出仕先は中間組頭の差配による。しかも仕事が毎日あるとも限らないため、伊藤利助の中間の手当の収入だけでは伊藤家を養える糧とはいい難い。中間としての身分を得たとはいえ、十蔵は以前と同様に水井家へ奉公に上がり、伊藤直右衛門も水井武右衛門の用人として働いた。

 中間になって間もなく、伊藤利助は中間組頭の差配により井原素兵衛の屋敷へ奉公に上がった。井原家は八組の士で知行地五百石の大身だった。藩でも上士に相当する。命じられた用向きは主人の他出に供をすることだった。当然、登城にも付き従い御成り橋から堀ノ内を行き大門を潜って指月城へ上った。伊藤利助が大身井原素兵衛に取り立てられたのも、久保塾での評判が広く萩城下町の隅々まで行き渡っていたからに他ならなかった。

 伊藤直左衛門の妻もとはことのほか利助を可愛がったという。血の繋りのない養祖母に当たるが、利助の身辺の面倒を見て何くれとなく気遣った。夜更けにも利助の居間を見廻り、うたた寝でもしているとすぐに起こして床に入るように叱った。利助の着替えも母の琴が手を貸す暇がないほどにともが付き添った。琴は利助を猫可愛がりに甘やかすともにはらはらしたが、余計な口出しは出来なかった。

 安政元年、僥倖により伊藤利助は長州藩十川仁兵衛組の中間となり武家社会の末席に身分を得たが、利助が名を連ねた武家社会は終焉の始まりを迎えていた。

 その年正月十四日、前年に交わした約束の履行を迫るため、ペリーは六隻の艦隊(後に二隻を増す)を率いて浦賀沖に姿を現した。一年後に訪れるとした約束よりも半年早い来航に幕府は度を失って慌てた。しかしその実、米国の要求はいたって明快だった。求めるところは太平洋に出漁する米国籍の捕鯨艦船に薪炭や食料や水の補給を行なうことだ。そのために日米和親条約を締結し港を開くようにせまった。

 昔も今も西洋列強の外交姿勢は常に軍事・経済活動と密接に繋っている。それを国益と表現しているようだが、時には特定の会社の代理人かと疑われるほど商売を外交政策の全面に打ち出して恥じない。だが当時の幕閣にはそうした外交の有り様は思いも寄らない。確かに長崎でわずかに門戸を開いた交易でもそれなりに利を上げ幕府財政を潤すとの認識を持つ幕閣もいたが、外交とは国と国とが取り結ぶ厳粛な行為であり、いやしくも商売人のために便益を計るものではないとの思い込みがあった。武家社会の官僚として当然のことながら、幕閣をはじめ幕府首脳部はすべて武士階級に属していた。彼らは幼少の頃から一心に『儒学』を修め、武士とはひたすら仁政に専念すべきもので、いやしくも商売を政の中枢に据えるべきではないと観念している。人は相手を自らの目で見る。必然的に幕閣は米国の首脳もそのような信義礼を重んじる人たちだと考えた。そのため徳川幕府は米国の要求する開港を厳粛なものと捉え、ことさらに形而上学的な問題として考え過ぎた。そこに徳川幕府首脳部の困惑と混乱の元凶があった。

 最初から米国の求めが薪水供給の経済的な問題だと理解したなら、大阪堂島か日本橋界隈の商人の知恵を借りれば済むことだ。相手と平和裡に対等の立場で利益を確保し、相互に権利を主張しあい、遺漏なく契約を取り結ぶのは商人の最も得意とするところだ。

 しかし国を開くとはいかなることか、と彼等は生真面目に考えた。だがそもそも『祖法』たる鎖国は朝廷から要請されたものではなく、三代将軍徳川家光によって便宜的に始められた政策にすぎない。それも『鎖国』の文言を用いて体系的な法を施行したものではなかった。禁止事項を限定列挙し「御触れ」として出したに過ぎない。そうした「御触れ」を五代将軍綱吉頃まで暫時追加して出し、次第に国を閉ざしていったものでしかない。ついぞ『鎖国』の文言を幕府が用いたことは一度もなかった。

徳川幕府の開祖・徳川家康は幕末の幕閣たちよりも、もっと合理的に西洋諸国の存在を考えていた。イギリス人三浦按針を府下に住まわせて重用したのもそうした現れだった。戦国武将として生き延び政権を手中に収めた者の度量は並大抵ではない。宣教師が侵略の尖兵として宗教を広めるのなら、交易と宗教を明確に分離すれば済む話だ。そう考えて家康は強硬に分離して、交易による莫大な利益を確保しようと努めた。がしかし、二代三代と世襲するうちに将軍は小粒となり、幕閣も保身に聡いだけの官僚に成り下がっていった。

小物たちは国をすべて閉ざす方が交易と宗教を分離して付き合うよりも簡単だと考えるようになった。それが度重なる「御触れ」の経過だ。そうした鎖国に到った経過を考えるなら、理屈からいえば徳川幕府が始めた政策を破棄するにあたって、天皇の勅許を得る必要はない。自然に出した数々の「御触れ」取り消せば済む話だ。しかし国を閉ざして以来二百年余も経つうちに、いつのまにか幕閣たちの思考回路の中で鎖国策が国体護持策とすりかわっていた。国を開けば国体が夷人によって穢される、もしくは国体の尊厳が夷国によって傷付けられる、と受け止めれば、当然のことながら彼等幕閣たちは即答しかねた。

江戸城の老中にしてもたかだか徳川征夷大将軍の配下に過ぎず、その徳川家を武家棟梁の征夷大将軍に叙したのは天皇に他ならない。開国要求の返答に窮して、はからずも幕閣たちは幕府と朝廷という権力の二重構造に直面した。治世上二百数十年も無視して無きが如きものとして振る舞って来た朝廷の存在がにわかに重い存在として彼等の眼前に出現した。

 幕府は条約締結に当たって二ヶ月以上も日にちを費やして譲歩に譲歩を重ね、ついに朝廷の許しを得ないまま調印に応じた。それも来航した米国艦隊の圧倒的な軍事力をして懼れたためだ。実際にペリーは徳川幕府を恫喝した。交渉を渋る幕府を脅すためペリーは空砲を放ち、艦隊を江戸湾奥深く神奈川沖まで進出させた。江戸城を砲撃の射程距離に窺おうとする示威行為は十分に効果を上げ、ペリーの一戦をも辞さじとする構えに驚愕した徳川幕府の幕閣たちは三月三日に下田・函館の二港を開き十二カ条の条約を結んだ。

 砲艦外交という言葉がある。大砲を備えた軍艦を押し立てて外国の鼻面を押え、力づくで有利な外交々渉を展開することだ。現在の国際社会でも未だにそうした恫喝を外交の主要な手段として用いる国は存在する。いまもミサイルや核兵器を押し立ててわが意を相手国に強要する無頼な国家が大きな顔をしている。そうした砲艦外交に徳川幕府は屈したといえる。それも最悪の形で譲歩を重ねた上での条約締結だった。それが悪しき前例となり、次々と不平等な外交条約を西洋列強各国と結ぶことになる。

 だが屈辱的な砲艦外交で鼻面を引き回された割に、幕府首脳が得た教訓は極めて少ない。徳川幕府は海防の必要性を痛感して諸侯に役務を課し海岸防備を急いだが、それですら当時の西洋では常識となっている砲撃戦に備えた堅牢な要塞を築くものではなかった。海岸に台場と称する高台を築きそこに和砲を据え置く、戦国時代さながらの稚拙な戦略の域を出なかった。それでは西洋列強の重装備を施した戦艦との砲撃戦に対処できない。ナポレオン戦争以来繰り返された戦乱で鎬を削った西洋列強と我が国とでは軍事力、とりわけ火力の格差は歴然としていた。二百数十年もの鎖国により国内の平穏は手に入れたが、その間に遅れを取ってしまった工業技術の惨状は目を覆うばかりだった。

 本州の最西端、長州藩にも黒船の影響は及んだ。

長州藩は軍事力の整備に意を注ぎ、兵制の整備拡充を図っていた。そのため伊藤利助も安政二年の春先から軽卒組の配下に組み込まれた。しかし、与えられた役目は卒として藩士の従者の役割でしかなかった。中間に特別な訓練があるわけでもなく、日常に変化があるわけでもなかった。ただ幕府から課された海岸警固兵の増員要請に応えるべく、その年も萩から相州へ向けて兵員を送り出していた。

 安政三年九月、伊藤家当主にも相州宮田への御備場出役が命じられた。前髪が取れたばかりの十六歳の若者にとって異例の抜擢といえるが、中間の役向きは手附といわれる従者に過ぎない。平たく言えば藩士付きの下男として挟箱を肩に担いで隊列の後に従い、荷の運搬の役務などを果たすことでしかない。

 相州御備場に送り込んだ人員は常駐藩士六百余人。それに従者を併せて総勢千二百名前後の人員を配した。当初、江戸藩邸から二百名近くの人数を割いて送り込んだが、国許の動員態勢が整うと徐々に引上げて江戸藩邸へ戻し、国許から出兵して来た人員と入れ替わった。

 安政三年初冬、御備場出役の一行は萩を出立した。伊藤利助は期待に胸を踊らせて隊列の後尾を歩いた。初めて目にする他国であった。肩に食い込む挟み箱に汗を流し、旅埃に塗れて足を運んだ。挟み箱の荷は総奉行手元役田北太中のものだった。伊藤利助は田北太中の配下に組み込まれていた。

 総員二百人余、隊列は整然と街道を進んだ。相州警護隊が参勤交代の行列と異なるのは隊列を組む藩士の服装が火事装束に身を固めていたことだ。伊藤利助たち中間は手甲脚半に尻端折りの奴姿だ。参勤交代の藩主の随行とは異なり、藩士たちに張り詰めた緊張感はなく幕府の賦役に赴く気楽さすら漂っていた。

 相州警護の総奉行所は宮田の寺に置かれていた。相州出役で到着した人員が勢揃いして、本堂前の広場は足の踏み場もないほどの混雑ぶりだった。伊藤利助たちはつい先程二十数日に及ぶ道中を終えて到着したが、相州御備場総奉行所に着くなり田北太中は国許へ引き返すことになった。萩からそのような指図書が一足早く総奉行所に届いていた。本来なら伊藤利助も主人に従って引き返さなければならない。が、伊藤利助を配下に欲しいと申し出た男がいた。そのため伊藤利助は相州の地に残ることになり、前年に相州へ来ていた中間と差し替えられた。組頭の差配を受けて田北太中の挟箱を国許へ帰る三十過ぎの中間に手渡し、立ち去る主従を見送って伊藤利助もやっと一息入れた。

「そこもとが伊藤利助か、ついて参れ」

 と一言、本堂前の広場の片隅でまごついている伊藤利助に声が掛けられた。

 伊藤利助は声のした方へ顔を上げた。視線の先に藍木綿の着物に裁着け袴を身に着けたがっしりとした男が立っていた。配属先を来原良蔵の手附へ差し替えると言い渡されたものの、利助は来原良蔵を知らなかった。伊藤利助は「へい」と頭を下げた。

 三浦半島の宮田にも晩秋の柔らかな日差しが降り注いでいた。本堂の甍がくっきりとした青空に浮かび、刷毛で掃いたような筋雲が二筋子の方角に吹き流しのように流れていた。しかし、ゆっくりと腰を落ち着ける暇もなく伊藤利助は立って若い藩士の後に従った。

 連れて行かれたのは寺から三町と離れていない海岸沿いの松林だった。その砂地の松林の中に屯所があった。俄か造りの粗末な板壁板屋根の棟割長屋が二筋並んでいた。総奉行所勤めの中間足軽たちはそこで寝起きしていた。

 伊藤利助が案内されたのは長屋の一室、六畳の切り落としの板の間だった。一人で使うのなら安宿といった処だが、そうではなかった。五人の小者たちと共に使う。利助が一番年が若いたため、利助には上り框の入り小口をあてがわれた。

「明日より役務に就く。払暁七ツまでに奉行所へ参れ」

 そう言い渡すと、来原良蔵はすぐに立ち去った。

 相部屋の中間たちは来原良蔵の足音が消えると伊藤利助の傍に集まってきた。

「やれやれ、若いのに来原様の手附とはお主も大変だの」

 と、憐れむように四十年配の男が言った。

 声のした方へ伊藤利助は怪訝そうな顔を向けた。投げ掛けられた気遣うような言葉とは裏腹に、男の口元には笑みが浮かび黄色い乱杭歯が覗いていた。

 来原良蔵は天保元年七十石馬廻役の家に生れた。当時二十八才。幼い頃から神童の誉れが高く、明倫館に上がると同年齢の吉田寅次郎と英才を競い合い、肝胆相照らす親密な間柄となった。来原良蔵は学業の天賦たる才能を藩主に見出され、若くして密方右筆として江戸に出府した。しかし来原良蔵は優れた学才を有していたが学問一辺倒の人間ではなく、早くから藩政全般にも目を向けて軍備の洋式化を度々藩に建白していた。人となりは豪爽鋭敏。上背は五尺三寸でがっしりとした体躯に、強情そうな顎の張った四角い顔立ちに濃い眉が一文字に浮き立っている。眼光は鋭く薄い唇はいつも不機嫌そうに閉じられていた。物言いはぞんざいではないが多言を弄しない、いたって実務的な人物だった。

 嘉永四年(一八五一)、吉田寅次郎が東北遊学に際して脱藩騒動を引き起こした。道中手形が期限切れだったが、友人との約束を優先して藩の許可を得ないまま強引に出立したために脱藩となったものだ。手続上の問題でしかないが、結果は重大だ。脱藩となれば咎めは死罪に値する。重罪を犯した者を放置するわけにはいかず、江戸藩邸は激怒して追捕を差し向けようとした。しかし、江戸詰だった来原良蔵がそれを阻んだ。追補者は脱藩者を斬り殺すことも許されている。追補を差し向けたならば万一の場合そのような事態に到らないとも限らない。来原良蔵はその万一のあることを危ぶんだ。

 当然のことながら、吉田寅次郎脱藩騒動の咎めは追補を阻んだ来原良蔵にも及んだ。ただちに来原良蔵は国許へ帰されて自宅謹慎蟄居を仰せ付かった。

 だが長州藩は前途ある若者に対して寛大だった。藩主をはじめ藩首脳は大人として若者に接し、若気の至りに目を瞑るのを習いとしていた。ことに有為な若者に対しては他藩にはみられないほどの逸脱ぶりを示した。一ヶ月と経たないうちに来原良蔵は罪を許され、記録所右筆に取り立てられた。そして再び江戸詰となった。

 江戸で来原良蔵は役務に励んだが、小心翼々としていたわけではなかった。

 一時期、桜田藩邸で格下の記録所右筆として用いられた後、再び密方右筆の役目に復職した。江戸藩邸の有り様は幕府との折衝と情報収集のために置かれた、藩の江戸出張事務所との性格が強かった。事務機器のない当時、密方右筆とは藩主の傍に仕えて事務方を執る、藩公毛利敬親の秘書官とでも言うべき役職だった。

 繰り返すが、一度瑕疵を負った者が再び重く用いられることは他藩では希なことだ。当時だけでなく今日でも、平穏な時代における権力者たちの度量は概して狭い。戦乱がなければ権力者たちの責任は役務遂行上の瑕疵に関してだけ問われる。そのため重箱の隅を突っつくほどの瑣末な事柄をあげつらうのが常だが、江戸時代の長州藩は若者に温かい態度で接した。とりわけ、才ある若者には寛大だった。それは奇跡的ですらあった。藩は若者の前途を嘱望し、若い芽を摘むことを極力避けた。後の倒幕運動で薩摩以外の諸藩では有為な若者が脱藩して事に当たるが、長州藩からは脱藩浪士は出なかった。無節操ともいえる藩首脳の寛大さから、敢えて藩を抜け出す必要がなかったからに他ならない。長州藩の若い志士たちにとってこの上なく恵まれた環境だったといえる。

 しかし、来原良蔵は一度ならず二度までも定法に触れた。性懲りもなく安政元年三月二十七日に露見した吉田寅次郎の米国艦船密航に連座して再び国許へ送り返された。

 二度目の謹慎蟄居の咎めはなかなか解けず、やっと翌安政二年になって相州警護の宮田作事吟味役に任じられて、座敷牢の幽閉生活から解き放たれた。

 相州警護の作事吟味役とは警護地の各所で行われている作事の監督だ。長州藩は警護を受け持った地域の各所に見張り小屋を建て、要衝に台場を築き警護に必要な道の整備をする賦役を課されていた。予定された期間に図面通りの造作物が出来上がっているか見廻るのが作事吟味役の仕事だった。

 長州藩は六十九ヶ村に及ぶ広大な幕府直轄地を警護していたため、作事吟味役として来原良蔵が土木現場を見廻るのは大変な労力を要した。来原良蔵の前任者は山中平十郎という軽卒組総代の男だった。相州警護総奉行は当初は土木工事の監理に卒の総代を充てることで円滑な工事の遂行を期した。しかし、まもなく工事現場に不具合が生じた。警護総奉行の意向よりも現場の都合が優先される弊害が目に付いた。そこで、相州へ配属されて来た新進気鋭の来原良蔵に作事吟味役を差し替えた。

 来原良蔵が実施する作事現場の吟味は厳格を極めた。指図書片手に作業現場を見廻り、手直しを命じることもしばしばだった。いきおい各地の現場を仕切る軽卒組の評判は悪くなった。しかし各所の作事が滞りなく進捗したのも間違いのない事実だった。

 翌朝、まだ夜も明け切らぬうちに伊藤利助は枕を蹴られて目を覚ました。提灯の明かりが顔の間近で揺れていた。

「必要以上に眠るのは無駄だ」

 来原良蔵の声が頭上から落ちた。伊藤利助は寝過ごしたとばかりに飛び起きて風呂敷きから新しい草鞋を取り出した。すると、来原良蔵はそれを見咎めるかのように言い放った。

「裸足で良い」

 来原良蔵の言葉の意味を理解しかねて、「へい」と生返事だけして草鞋の紐を足首に巻き付けようとした。

「草鞋は必要ない。それと、返事は『はい』と応えるように」

 そう言うと、提灯を翻して莚を掻き上げ外へ出た。

「戦で草鞋がなければどうする。裸足で戦場を駆けるしかあるまい。それなら普段から裸足の暮らしに慣れている方が良い」と、来原良蔵は裸足の意味を教えた。

 伊藤利助は裸足で土間に下りて、来原良蔵の後を追うように飛び出た。

 来原良蔵は馬の傍で待っていた。近付くと騎馬提灯を伊藤利助に手渡して馬に飛び乗り、懐から一冊の書物を取り出した。

「提灯の明りにて、これを声に出して読め」

 来原良蔵が手渡したのは詩経だった。

 武家の学問は儒学、四書五経である。何処で聞き知ったのか、久保五郎左衛門の塾で伊藤利助は大学、中庸、論語、孟子と四書を終えて五経のうち易経を済ませた処だった。来原良蔵は伊藤利助に久保塾の続きを自ら教えるつもりでいた。

 来原良蔵の表情は険しかった。怒りにも似た厳しさだった。自宅謹慎蟄居は解けたものの、来原良蔵は相州の地に藩命で来ているのも罰の続きだと思っていた。藩が自分を必要としているのは相州警護作事方吟味役ではない。早急に改革すべきは藩兵制の洋式化である。そのためには長崎へ出向いて洋式兵制の直伝習をするしかない。そのお役目は余人を以って代え難い、との強烈な矜持が来原良蔵にはあった。

 吉田寅次郎が米国艦船へ密航しようとしたのも、その目的は西洋をじかに見聞することだった。それと同じで自分がこの地に一日いれば藩の兵制改革は一日の遅れとなる。来原良蔵は相州に留め置かれている自分に歯ぎしりするほど苛立っていた。

 しかし日々憤慨していても始まらない。憤怒の中に身を置けば今日一日が空しくなる。せめても相州にいることを意義あるものたらしめねばならない。そのためには伊藤利助に学問を授けることだと心に決めた。

 伊藤利助は轡の先を歩きつつ、騎馬提灯で本を照らして音読した。馬上では来原良蔵が聞き入っている。かつて来原良蔵と吉田寅次郎は藩校明倫館の双璧と並び称された。負けん気の強い来原良蔵は吉田寅次郎に後れを取るまいと、自身の背丈に余る書物を読破した。しかし、ついに学問の一日の長は吉田寅次郎にあった。

 それだけに吉田寅次郎が思いを行動に移し、罪人として囚われの身となっているのが心苦しかった。相州の地で安逸を貪っている自分が情けなかった。なぜ安政元年三月三日新橋は料亭伊勢本で吉田寅次郎が催した宴で披歴した彼の密航の決意を思い止まらせることができなかったのだろうか、との自責の念が不意に来原良蔵の胸に去来した。

 物思いに耽っている間に馬が歩みを止めた。横の伊藤利助に視線を遣って、

「これへ」

 と言うと馬から下り、来原良蔵は滑りの悪い腰高油障子を引き開けた。

 それは作事方吟味役の勤番小屋だった。そこで来原良蔵は起臥していた。場所は山門脇で、いざ戦という場合には本陣の歩哨番小屋として役立たせるものだった。幕府から命じられたお役目上、相州警護の屋敷の配置は戦場の布陣になっていた。二間に三間の床面積に板囲い、板屋根という恰も江戸の町に見られる自身番小屋といった粗末な造りだった。

 入った所は六畳間の広い土間で、竃はないが七厘が隅の台の上にあった。その傍には水甕が置かれ簡単な自炊が出来るようになっている。ただ、来原良蔵は他の藩士たちと同じく番食を寺の本堂で摂っていた。

 番食とは勤番の藩士に給される食事のことだ。長州藩では江戸藩邸でも京藩邸でも大坂藩邸でも、そして相州警護の地でも番食は判で押したように一日一人当たり白米五合と決まっていた。そのうち二合分が副食となり、その分量が朝と夕に分けて給された。

 伊藤利助は小屋へ入り上り框に腰を下ろすと、来原良蔵が引き寄せてくれた行燈の明りで書物を開いた。

 しかし、なぜ自分が書物を読まなければならないのか、伊藤利助には合点のいかないことだった。いきなり叩き起こされたのにも驚かされたが、裸足で歩くことにはもっと驚いた。十月とはいえ旧暦のことだ。秋は足早に過ぎ去ろうとしている。これから冬が訪れると思うとそれだけで寒気に身震いした。

 来原良蔵は何事か勤番小屋の老爺に言い付けて、後は伊藤利助の音読に聞き入った。伊藤利助が難しい言葉に詰まると書物も見ずに教え、そして段落の区切りに来ると文言の意味を問い、伊藤利助の解釈に足らざる所があれば訂正し付け加えた。

 やがて、騒がしいほどの雀の囀りが聞こえて窓から差し込む日ざしに行灯を吹き消した。伊藤利助の勉学は一刻以上に及んだ。

 武家の朝餉は五ツと決まっている。その習慣は相州の地でも厳格に守られていた。老爺の呼び掛けに来原良蔵は立ち上がり、

「そこもとの飯はここへ運ばせる。食した後、境内の井戸端で洗顔を済ませておくように」 と、伊藤利助に言い渡した。

 中間の食事は原則として自炊だった。番食は藩士たちだけに給される。いかに手附として役目を果たそうとも、足軽中間に番食が給されることはなかった。

 だが来原良蔵はそうした取り決めを馬鹿らしいものだと思っている。藩士が藩士たる所以は特権を有することではなく、忠を以って報いることだ。では忠とは何か。忠とは己を空しくして公に尽くすことである。

 吉田寅次郎は藩の兵学者の家に生れた者として凄まじいまでも責任を全うしようとしている。己を顧みず夷国の政治の在り様や夷国の軍事力の在り様を実際に両の目で見なければ、兵法家として藩公に適切な意見具申は出来ないと思い詰めて密航を企てた。それは苛烈なまでの忠だ。そしていま、吉田寅次郎は萩の野山獄に幽閉されている。

 しかし自分には何も出来ない。翼をもがれた鳥のように自分は相州の地に閉じ込められている。そして心ならずも平穏無事な日々を過ごしている。来原良蔵は薄い唇を引き絞り眼窩に鋭い光を湛えて小屋を出て行った。

 伊藤利助は強い衝撃を覚えていた。久保五郎左衛門の塾では懸命に学問を積み、曲りなりにも優秀な門下生だったとの自負があった。塾での出来が萩の町でも評判となり小若党の勤めで上った井原素兵衛の屋敷でも高い評価を得た。それがこともあろうに相州警護作事方吟味役来原良蔵の前では赤子同然だった。世間とは広いものだと痛感した。呆然とした頭でそう思い、久し振りに学問疲れの心地よさを味わった。

 間もなく来原良蔵の従者金蔵が盆に載せて熱い盛り切り飯と湯気の立ち上る貝汁と香の小皿を運んで来た。藩士が食する朝餉の番食だ。献立は常に一汁一菜。伊藤利助は一年ばかり相州の地に留まることになるが、その日々は寸分たりとも変わらなかった。

 伊藤利助は貪るように食った。数えで十六は育ち盛りだ。細い体の何処に入ったのかと訝しいほどに番食はあっけなく消えた。

 掻き込むようにして伊藤利助が朝餉を済ますと、ほどなく来原良蔵の声がした。

「出掛けるぞ、書物を忘れるな」

 油障子越しに呼び掛けられ、伊藤利助は桟に取り付くように急いで引き開けた。

 見廻る作事場は広範囲に及ぶ。長州藩に課せられた海岸警護は鎌倉腰越から三浦半島全域にわたっている。その地の海岸線に沿った道を整備し、海から切り立った高台の要所に砲台を築き、眺望の利く峠には見張り小屋を設ける。作事場は広範な地域に無数に点在していた。しかも、その費えは幕府からはビタ一文たりとも出ない。すべては長州藩が負担しなければならない。幕府から賦役を課せられることはすべてを負担せよ、と命じられるのと同じことなのだ。工事が一日遅れればそれだけ長州藩の負担が増えることになる。

 来原良蔵の使命は作事指図書通りに工事が進捗しているかを監理することだ。見廻る作事場も当然にして広範囲に散らばっていた。

 来原良蔵は馬を走らせて三浦半島を海岸沿いに北上した。伊藤利助はその後を追って裸足で駆けた。が、駆けるだけではない。大声を上げて書物を読んだ。

「ありゃあ、まるで拷問じゃ」

 との声が囁かれるほどだった。

 白股引に尻端折りの伊藤利助は髷を乱しながら駆けた。疲れた素振りを見せたところで、来原良蔵は伊藤利助を路傍に置いて馬を走らせるだけだった。

 作事場で来原良蔵が用向きの打ち合わせをしている間も、伊藤利助は寸暇を惜しんで馬の世話をし書物を開いた。しかし来原良蔵は優しい言葉を掛けないばかりか、伊藤利助が平易な解釈でもしようものなら頭から叱りつけた。眼光紙背に徹する、との文字通りに深い読みと解釈を要求した。

 ぼろ雑巾のようになりながらも、宮田へ戻ると勤番小屋で老爺が運んでくれた夕餉を貪った。本来なら武家の執務は七ツに終える。江戸城では奏者番や大目付は八ツ半には下城したという。総奉行所の作事吟味方も七ツには仕事仕舞いとして、暮れ六ツまでには番食を済ませる。そうする方が行灯の油の節約になるというものだ。しかし、伊藤利助はまだ終わりではなかった。高価な油を使って行灯をともして勉学を続けた。勤番小屋の座敷で来原良蔵が一日の作事内容を帳付けしながら、伊藤利助の音読を聞いている。段落まで読み終えると来原良蔵が内容の説明と字句の解釈を教えた。そして伊藤利助に続きを読むように促した。

 五ツ半を過ぎると立ち上がり、庫裏の外にある藩士の使う風呂場へ伊藤利助を伴った。まず来原良蔵が風呂に入り、背中を流すように命じた。伊藤利助は疲れた体に鞭打って糠袋で洗い、来原良蔵が上がると残り湯を使うように言われた。

 汗を流して中間長屋に戻り着くのは四ツ近くだった。ものも言わずに夜具にくるまると泥のように眠りこけた。

 そうした日課が日々繰り返された。中間の休日は月に三回、五と十五と二十五の日と定まっている。しかし、それらの日ですら昼までに汗臭い下着や着物を洗い部屋を掃除していると、番小屋から金蔵が呼びに来た。老爺は来原良蔵が番小屋で待っていると言う。勉学は一日怠ると今日という日は二度と取り戻すことは出来ぬ、というのが来原良蔵の言だった。結局、伊藤利助に休みはなかった。

 相部屋の中間たちは賽賭博に興じていたが、

「ご苦労なこった」

と、嘲りの言葉を投げ掛けた。

 足軽中間の身分でいかに学問を積もうとも、決して卒が士に取り立てられるものではない。士身分の中での抜擢はありえても、封建社会の厳しい身分の壁がある。賭博に勤しむ者たちには伊藤利助の勉学はまったくの無駄なものだと映っている。来原良蔵の鬱憤晴らしの道具に伊藤利助が使われているに過ぎぬ、と彼等は思っていた。

「おいらたちゃ、願い下げだぜ」

と揶揄するように言って、彼らは顔を見合わせて鼻先で笑った。

 しかしそれでも、伊藤利助は来原良蔵に喰い付いた。転がされても転がされても幼子が意地になって相撲を取るように、伊藤利助は執拗に喰いついた。幾度となく雷のような叱責を受けようとも、伊藤利助は学問を修めようと来原良蔵に喰いついた。足が痛くなり悲鳴を上げつつも馬の後を駆けた。途中で日が暮れると来原良蔵は騎馬提灯を伊藤利助に手渡してその明りで音読を続けさせた。

 やがて相州にも冬が訪れた。北風に雪が横殴りに吹き付ける日でも伊藤利助は裸足だった。思わず「寒い」と弱音を漏らすと、

「寒いと言ったところで寒さに変わりはない。武士は泣きごとを言わず、黙って耐えるものだ。何事に付けても堅忍が第一である」

 と、来原良蔵は馬上から諭した。そういう来原良蔵も厳寒にもかかわらず太木綿の単衣に木綿縦縞の裁っ着け袴だった。

 伊藤利助が手にする書物は年内に詩経を読破し、書経に移っていた。

 最初は辛い修行のように思えていた勤めも三ヶ月も経つと体が慣れた。むしろ、朝と夕に来原良蔵の心配りで給される番食が有り難かった。相州に来た当初は上背こそ五尺二寸余と平均的だったが、骨張った体付きはどこか弱々しかった。それが毎日のように裸足で山野を駆けるうちにいつしか足腰に頑健さが加わり、少々のことでは弱音を吐かない強靭な気力をも併せ得た。伊藤利助は気付かないうちに心身の鍛錬を積まされていた。

 同時に来原良蔵の適宜を得た指導により作事が順調に進むのも目にした。伊藤利助は具体的な行政の実地教育をも受けたことになる。

 末端とはいえ、行政遂行に肝腎なのは人であるとの教訓が伊藤利助の身に染み付いた。

 作事方の人足には近郷の百姓を銭で雇っている。それを現場で監督・督励するのは軽卒組の古手だ。少しでも気を緩めれば作事は遅れるし手抜きが平然と行なわれる。それかといって、吟味役が四角四面な理詰めで責め立てても人足から反発を買うばかりだ。

 来原良蔵は相手の言い分を聞き、時には相談に応じて作事方へも意見を通じた。しかし断固として遂行すべき作事場では彼も現場の人夫たちに混じって畚を手にした。すると現場差配の軽卒組の男たちは平身低頭し、作事を指図書通りに仕上げることを約束した。

 寒気が緩み春の訪れを肌に感じる頃、各地の作事場は足並みを揃えて完成を迎えていた。作事人足として近郷の百姓を銭で駆り出すのも農閑期に限られている。苗代作りが始まると百姓は日銭稼ぎの人足場へは出て来なくなる。作事方が秋から冬場にかけて目の色を変えるのはもっともなことだった。この時期の進捗具合が作事全般を左右した。

 作事吟味役として来原良蔵は役目を立派に成し遂げた。相州警護総奉行所で来原良蔵の評価は一段と高まった。さすがは藩校の英才だけはある、との賞賛の声すら聞こえた。が、来原良蔵はすべてを無視した。かつては密方右筆として藩主の傍に仕えたことのある身だ。相州で評価を得たところで始まらぬわ、と心の中で笑い飛ばしていた。

 それよりも藩の兵制改革である。早急に戦国時代そのままの藩兵制を洋式化し、武器を近代化しなければならない。夷国の脅威は年毎に高まっている。しかし、現在の軍備で戦えば間違いなく夷国に破れる。西洋列強と対等に伍していくことはできない。

 数年前、隣の大国清は英国の僅かな陸戦隊と戦って敗北した。それは後に阿片戦争と呼ばれるものだった。戦の詳細は長崎を通じて幕府にも長州藩にももたらされている。予備知識は十分に得ているはずが、米国艦隊が姿を現しただけで幕府はこの有様だ。

 来原良蔵は鋭い慧眼で事の本質を見抜いていた。彼我の相違は兵制と武器にある。それを改革しない限り、夷国と戦うことは出来ない。来原良蔵は数次にわたって相州の地から藩公へ建白書を書き送っていた。

 農繁期になると作事方は指揮監督すべき作事場を失った。作事現場がなくなれば作事方吟味役も暇となる。来原良蔵は伊藤利助の学問に没頭した。書経が済めば春秋。次に礼紀を終えて唐詩撰へと進み、漢詩をものにして詩作の素養を得るのが武家の学問だ。当然、その順序で来原良蔵は教授するつもりでいた。しかし途中で気が変った。

 書経を終えたところで、来原良蔵は伊藤利助に洋式兵学を講じ始めた。そのため伊藤利助は五経を一貫して学ぶ機会を失った。唐詩撰も学ばなかったため武士の素養の一つに数えられる漢詩も自在に詩作できるほどには身につかなかった。武士の学問を最後まで学ぶ機会は失われ、不完全なままに終えたことになる。だが伊藤博文は後に独学で詩作を習得し、自作の漢詩集を遺している。類稀な向上心と勉学への情熱がこの男から失われることは生涯を通じてなかった。

しかし来原良蔵の教える洋式兵学にしたところで充分なものとはいい難かった。蘭学塾へ通わなかった来原良蔵に本格的な蘭国兵学の素養があろうはずもなく、不完全な翻訳と不適切な語彙に悩まされながら、蘭書翻訳本を教材に教練や銃陣を教えた。

 安政四年の春先から、州の砂浜で来原良蔵は度々洋式銃陣を試している。暇になった軽卒組を浜辺に呼び集め、隊列を組ませて行進をさせたり、散開の銃陣体形を教練した。長州藩相州警護総奉行所は幕府の咎を恐れて、来原良蔵に幾度となく厳重な注意を与えた。

 ある日、来原良蔵は萩の噂話を小耳に挟んだ。

 秋風の立ち始めた夕暮れ、洋式銃陣で汗をかいた後だった。

 本堂で夕餉の番食を頂戴していた折りに、ふと来原良蔵は箸を止めた。

 すぐ斜め前の総奉行付きの若い右筆が、隣の同役の耳元で「吉田が……」と口にしたような気がした。吉田とは吉田寅次郎のことではないか、と心持ち頭を傾け咀嚼していた顎を止めて耳を澄ました。萩の百姓町人は敬意を込めて『松蔭先生』と呼ぶが、藩士たちは吉田寅次郎が罪人であるため名を呼び捨てにした。

「松本村で教えている……」と、男は声を潜めて囁いた。

 松本村、と聞いて吉田寅次郎のことだと確信した。来原良蔵は開け放たれた蔀から差し込む夕日を見詰めて、再びゆっくりと咀嚼を繰り返した。

 深い感慨が胸に湧き上がっていた。

 米国艦ミシシッピー号への密航に失敗した吉田寅次郎は浦賀奉行所へ自訴し、幕吏に捕らえられた後、国許へ送還された。

 長州藩は幕府の御定法に触れた吉田寅次郎を野山獄に幽閉した。しかし藩は吉田寅次郎の願い出によりその獄内で学問を教えることを許した。吉田寅次郎は獄内の罪人をはじめ獄卒までをも相手に孔子を説き和歌を詠んだ。

 安政三年四月、吉田寅次郎は自宅禁錮の刑に減じられて松本村の自宅へ戻った。しかし罪人であることに変りはない。禁錮の刑ならば他出は勿論のこと、外部の者がおとなうことも禁じられている。通常なら門前に藩吏が控えて監視の目を光らせるものだ。しかし長州藩の吉田寅次郎に対する扱いは異なっていた。藩主が吉田寅次郎の学才と私欲のない人物を愛していたため、自宅禁錮の身であるにもかかわらず塾を開き吉田寅次郎の許に若者が通うのを藩吏は黙って素知らぬふりをした。

 明くる日の午後、伊藤利助は軽卒組頭の許へ呼び出された。作事方が暇になり朝から番小屋で来原良蔵の傍らで命じられるままに洋式銃陣の翻訳書を音読していた。下役人の呼び出しに何事かと訝る伊藤利助に、

「行って参れ」

と、来原良蔵はそっけなく言った。

 伊藤利助は怪訝な面持で番小屋を出ると、すぐ裏手の中間の詰める軽卒組小屋へ赴いた。伊藤利助は裸足のまま土間に入るとその場に蹲った。

「伊藤利助、御役御免である。道中手形を下げ渡す、とくと国許へ帰るが良い」

 頭上から組頭の声がして、面を上げた伊藤利助に不憫そうな眼差しが向けられた。

 中間は御役に就いてこそ俸給を得る。その御役の中でも相州警護は希望者が多かった。一人前の俸給が国許の家に下げ渡される上に、相州へ赴いた者には日々の食が給されなにがしかの手当が頂戴できる。割の良い御役に小者たちは殺到していた。

 伊藤利助は不意に罷免を申し渡され、我が身に何が起こったのか呆然と組頭の顔を見詰めた。顔を上げ両手を漆喰で固められた土間についたまま面喰らっていた。しかし、気を取り戻すとニコリと微笑んだ。

「はい、しかと承りました」

 伊藤利助は明るく返答すると、頭を下げて小屋を出た。

 すぐに報告すべきは主人来原良蔵だった。足早に番小屋へ引き返した。

「来原様、御役御免となり国許へ帰ることとなりました」

 土間に蹲ると、伊藤利助は感情を交えずに言上した。

「うむ。明朝早々にも発つが良い」

 そう言いつつ、来原良蔵は横の文机に置いていた一通の書状を差し出した。

「これは紹介状だ。そこもとの暮らす松本村で吉田寅次郎が塾を開き身分に関わりなく教えている。これを持参して塾へ入り、勉学に励むが良い」

 来原良蔵は優しく諭すように言った。

 相州にいては伸びるべき芽も伸びない。若者には広い見識と現実を的確に把握する論理が肝要だ。来原良蔵は国許の藩兵制の洋式化の胎動を遠くから見詰め、切歯扼腕の感を禁じ得なかった。

 話は少しばかり時代を遡る。

 嘉永六年六月のペリー来航に徳川幕府は衝撃を受けた。何よりも彼我の造船技術の歴然たる差に目を剥いた。しかし、既に幕閣は全長七十間もの巨大な黒船が存在することを知っていた。数十年も以前から、長崎奉行所の報告により夷国艦船来航の知らせは江戸表に届いていた。その折り、艦船の長大さは目を見張るばかりと長崎奉行は書き送っている。が、実際に夷国艦船を目にしていない幕府首脳は長崎奉行所から届けられる切迫した報告書を無視した。七十間も有する長大な艦船とはいかなるものかとの考察を怠った。ぜんたいに彼等は工業技術に鈍感だった。

 しかし、目の前に小山のような米国艦船が現われると、いかに鈍い彼等とて現実の脅威を考えないわけにはいかなくなった。同年、大船建造禁止令を解くことを各藩に知らせ、幕府の許可を以って建造を認める旨を触れた。

 遅まきながら幕府は海軍の必要を痛感し、安政二年蘭国から軍艦スンピン(後の観光丸)を購入し、それを練習艦として長崎に海軍伝習所を開設した。そして幕臣のみならず諸藩の藩士をも受け入れた。

 当時、長州藩の海岸防備といえば日本海の北浦手当の役職があるだけだった。日本海を南下して来る露国艦船に備えるためのものだが、露国はペリーに遅れじとプチャーチンを大坂へ派遣した。長州藩への直接の脅威はなかったが、露国艦が馬関海峡から瀬戸内海を航行したことから、藩は瀬戸内海沿岸の防備も必要なことに気付かされた。と同時に、現実に具体的な脅威を目の辺りにして洋式海軍の必要性が藩首脳部に認識された。

 長州藩はさっそく桂小五郎を浦賀へ遣わし、米国艦隊を目撃した当地の船大工を長崎へ送り込んだ。しかし、見よう見まねで洋式艦船が建造出来るものではない。藩の計画は挫折したかに見えた。が、たまたま大坂での交渉を拒否されたプチャーチンが江戸へ向かう途中、伊豆沖で津波に遭って難破した。漂着した君沢郡戸田村で船大工高橋伝蔵らが露人の指揮で艦船の修理をしたことを知ると、長州藩は高橋伝蔵らを萩へ呼び寄せだ。

 萩小畑浦の戎ヶ鼻岬に軍艦製造場を設けて長州藩は露国艦船と同じものを建造するように命じた。安政三年五月に着手してその年十二月に進水、翌年二月に完成した。その迅速さには目を見張るばかりだ。それはスクネール型といわれる全長十二間、排水量四十七トンの木造洋式帆船で『丙辰丸』と命名された。

 来原良蔵の耳にもそうした藩の動きは入っている。その藩政府の方針は間違っていないし、そうすべきである。しかし藩の動きは余りに鈍く、迫り来る夷国の脅威に間に合わない、と来原良蔵は気が急いた。米国総領事ハリスは早くも日米修好通商条約(神奈川条約)の締結を迫っている。米国に続いて次々と他の西洋列強も条約締結を迫るのは目に見えている。だが、この国に外交を無難に乗り切る体制が出来ているだろうか。体面と前例にこだわる余り条約の内容に踏み込んだ議論が出来なければ、末代まで不利益を負わされるのではないか。そうした危機感が来原良蔵にはあった。

 この国は遅れている。何もかもが遅れている。それは長州藩とて例外ではない。相州の地にあって、来原良蔵はこの国に押し寄せる奔流のような西洋列国の動きに慨嘆した。

 西洋列強とまともな外交をなすには、まずは軍備がなければ始まらない。議論にとらわれ空疎な攘夷論を振りかざす者たちに本来の外交は覚束ないだろう。なにはともあれ藩兵制を一新する心積りで当たらねば、夷国に対抗できないとの感を抱いていた。

 伊藤利助の突然の罷免に確たる理由は見当たらない。咎めを受けるようなことを仕出かしたわけでもなく、相州警護の任が満ちたわけでもない。しかし伊藤利助は来原良蔵の手附を罷免され、代わりに吉田寅次郎への紹介状を手にした。

 安政四年秋、伊藤利助は相州宮田を後にして萩へと向かった。

 伊藤利助は強靭な足腰で街道を飛ぶように歩いた。茶木綿の単衣に縦縞の袴を着けて腰には小振りな差料があった。相州の地で一年にわたり来原良蔵の手附として厳しく仕込まれたのも、過ぎ去ってしまえば無性に懐かしかった。

 

  三、松下村塾へ

 相州宮田を後にすると残暑の去った晩秋の街道を歩いた。

 路銀が乏しいため脇道に逸れたり、京で名所旧跡を見物することもなかった。

 二十日あまりで萩へ辿り着き、茜の暮色に包まれる城下町を往還路の山道から望んだ。

 川島より更に上流で阿武川を渡り、松本川の東の土手道を松本村へと歩みを早めた。椎原の家の門を入った頃には、空を僅かな残照が錆色に消え残っているばかりだった。格子戸を開けると、伊藤利助は大きく声を弾ませた。

「只今、帰参致しました」

 伊藤利助の声に、玄関の明り障子を開けて十蔵が顔を出した。しかし、その表情は厳しく、とても歓迎の面持ちではなかった。

「相州で何を仕出かしたンじゃ」

 いきなり怒鳴りつけられ、伊藤利助ははっと緊張の色を刷いて面を上げた。が、すぐに表情を和らげると、目元に溶けるような微笑を浮かべた。

「いえ、何も粗相は致しておりません。罰を受けての帰参ではございません」

 伊藤利助は朗らかな声で答えた。

「しかれど、お役目罷免とは尋常でないぞ」

 十蔵は倅の明るさに拍子抜けしたように声を潜もらせた。

「入り小口で何を言い争っておる。利助は井戸端で体を拭って来るが良い」

 助け船を出したのは、養祖母のともだった。伊藤利助はともに向かって深く腰を折り、左手の犬走りに沿って家の裏手へ廻った。

 井桁の傍らに立つと着物を脱ぎ、下帯一つになった。晩秋の夜気は冷たく、鳥肌が立つのを覚えた。釣瓶を落として水を汲み、手拭で体を拭った。旅埃に塗れた首筋から脇の下、背中と拭って幾度か汲み上げた桶の水で手拭を濯いだ。山肌に沿って冷気が流れ、拭き清めた体から湯気が立った。辺りは地の底から湧上るような虫の音がかまびすしかった。

「ここに着替えを置いておきます」

 と琴の声がした。伊藤利助は振り返って「有り難うございます」と笑顔で応えた。

 こざっぱりとして威儀を正すと、伊藤利助は奥の間の伊藤直右衛門へ挨拶に上がった。「ただいま、帰りました」

 そう言って平伏すると、「うむ」と伊藤直右衛門が応じた。

「一年に亙る相州警護のお役目、ご苦労であった」

 そう言うと、伊藤直右衛門は相好を崩した。

「どうじゃった、峠の向こうは」

 伊藤直右衛門は養祖父の顔で訊ねた。

『峠の向こう』との言葉には格別の意味がある。その言葉はかつて藩老村田清風が発したものだった。村田清風は「若者は四峠を出ずべし」との言を吐いた。四峠とは萩を取り巻く峠のことだ。若者には機会を与えて広く天下を見聞させよと事あるごとに言い続けた。

「広う御座居ました」

 伊藤利助は明るい声で言った。満面は溶けるような笑顔だった。養祖父は孫が一回りも二回りも大きく成長したのを感じた。

「つきましては相州での主人、来原良蔵様より松下村塾への紹介状を頂戴して参りました。明日にでも入塾致したく存じますが、いかがでしょうか」

 そう言うと、伊藤利助は懐から一通の書状を差し出した。

 伊藤直右衛門は畳の書状に目を落として、一瞬返答をためらった。

 松下村塾の師匠は罪人だという。それも国禁の鎖国令を破ろうとした大罪人だと。しかも教えている教科は儒学だけではなさそうだ。国事を論じ国学を語っていると聞いている。

 国学は武家社会では異端の学問とされていた。儒学の説く本質は『君に忠、親に孝』で武家社会を維持するのに好都合の学問といえる。それに対して国学の本質は尊王だった。武家社会を揺がす芽を国学は内蔵している。が、吉田寅次郎が松下村塾で教えるのを藩が黙認しているのも紛れもない事実だった。

 心の四峠も越えねばなるまい、と伊藤直右衛門は鷹揚に頷いた。

「有り難う御座居ます」

 伊藤利助は再び深く頭を下げた。

 夕餉の膳に向かうと、十蔵が口を開いた。

「明日にでも組頭のお屋敷へ出向き、次の御役目をお願いしておくンだぞ、良いな」

 十蔵がそう言うと、伊藤直右衛門が首を横に振った。

「その儀は、わしが既に取り決めた。利助は吉田寅次郎の塾へ通う」

 そう言って、伊藤直右衛門は無表情に箸を動かした。

 

 翌朝、伊藤利助は心を弾ませて松下村塾へ向かった。

 晩秋の朝風が頬に心地良い。三尺幅のなだらかな坂道を半町ばかり下った。

 安政四年九月下旬、伊藤利助は吉田寅次郎の門下生になった。現在に残る塾生の名簿には百名近くの名が記されているが、伊藤利助の名は四十四番目にある。その前には品川弥次郎の名が記され、伊藤利助の次の欄には高杉晋作の名が記されている。

 伊藤利助は紹介状を差し出して吉田寅次郎の様子を窺った。吉田寅次郎は来原良蔵の紹介状と聞いて目を丸くした。すぐに拾い上げると書状を開いた。

 来原良蔵と同じ歳だと聞いていたが、吉田寅次郎は年よりも老成して見えた。細面の顔に鋭い眼差しと薄い唇が論理的な冷たさを漂わせ、濃い横一文字の眉が憂いを容貌に加味している。しかし、いったん講義を弁じると痩せた体のどこにそんな気力が潜んでいるのか、と思えるほど議論に隙がなかった。来原良蔵とは異なる異能の学才をそこに見た。

 塾に入って伊藤利助はすべてに面喰らった。まず束脩が不要だった。月々の塾料も徴しなかった。その代わり弟子たちは百姓仕事を手伝う。足踏みの米搗きや石臼を回して粉挽きなどをするが、そこかしこに書見台が作られていて書物を読みながら作業を行なった。

 塾生も百姓町人から武士の子弟まで様々な身分の者がいた。年令も二十歳過ぎの者から五つ六つの子供まで、これも様々だった。そして、何よりも講義が変わっている。師匠が講じるのは僅かで、多くは具体的な国事を巡って塾生が各々の考えを論じあった。吉田寅次郎はほとんど口を挟まず、議論が漂流した時にのみ指針を示した。

 その日のうちに一人の男と親しくなった。どうしたことか身分も年も同じで家まですぐ近所、塾へ行く道の途中にあった。名を吉田栄太郎といい後に久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と併せて松下村塾の四天王の一人と呼ばれた英才だった。

 吉田栄太郎は蔵書を次々と伊藤利助に貸し与えた。父親が借りた書物以上に書物が減少するのを不審に思って尋ねると、読んだ書物を家に置いておくよりも友に貸し与える方が書物も生きるというもの、と答えたという。

 伊藤利助の後を追うように、翌々日に一人の男が入塾した。

 男は不遜な面構えに颯爽とした足取りで門を入って来た。誰かが「高杉だ」と囁くのを聞いた。伊藤利助は顔を上げて男を見た。どこかでみたような顔だ、と思った。視線は男を追っていたが、庭先の莚の上に座り石臼を挽く右手はそのまま回わし続けた。

 男は伊藤利助より一二寸背が高く、年も自分より上のように見えた。絣の着物に紺袴を身に着けて腰には大小があった。見るからに男は士の身分だった。

 細面の顔に一面のアバタがあった。幼い頃に疱瘡を患ったもののようだ。目鼻立ちは整い負けん気の強そうな眉が眼窩の上に濃かった。

 奥の座敷で師匠と面談した後にふらりと庭に下りて来た。

「やあ、お主は法光院の小僧だろう」

 男は人なつっこい笑顔を浮かべて話し掛けて来た。『ああ』と記憶が甦った。

 男は法光院の裏筋、菊屋町に居を構える百五十石馬廻り役高杉小忠太の摘男晋作だった。田町の商店へ使いに出された折りに、道で何度か擦れ違ったことがあった。

 高杉晋作は天保十年八月に生れた。伊藤利助よりも二才年上の十九才になる。武は萩の尚武館道場で修行を積み柳生流免許皆伝、学はこの年の二月に明倫館の入舎生と呼ばれる学業優秀な者だけが入れる寄宿舎へ入る資格を得ている。筋目正しい小姓役を勤めた高杉小忠太の子にして文武両道に優れ、ゆくゆくは藩政の一翼を担う人材と嘱望されていた。当然、松下村塾への入塾は家人に秘してのことだった。

「いや、小僧ではない。法光院の神官が大叔父に当たり、一年半ばかり住み込みで学業を積んでいた。家はこのすぐ近く、椎原にある」

 伊藤利助は緊張の面持で高杉晋作の言辞を否定した。

「そうか」

 と素気なく言うと、高杉晋作は伊藤利助に興味を失ったかのように側を離れた。

 高杉晋作は学業では塾の誰にも負けないとの矜持があった。藩校では四書五経から唐詩撰を優秀な成績で終えた。詩作においても天賦の才の片鱗を示した。しかし、吉田寅次郎はことさらに久坂玄瑞を褒めて高杉晋作を発憤させるように仕向けた。二人は才能を伸ばし後に松下村塾の双璧と称せられることになる。

 久坂玄瑞は天保十一年(一八四○)医師久坂良迪の次男として生まれた。久坂玄瑞には二十歳違いの兄久坂玄機がいた。久坂玄機は天保年間青木周弼と共に蘭学医術を藩に持ち込み医学館を設立した。嘉永二年に医学館で長州藩では初めての種痘を実施している。蘭学者としても優れ翻訳も多岐に渡り、『新選海軍砲術論』『和蘭紀略』『牛痘纂論』『新訳小史』などその幅広い見識が伺える。久坂玄瑞はそのような開明的で頭脳明晰な兄を持っていた。しかし、惜しくも久坂玄機は安政元年に三十四才で病没した。その前後に両親も相次いで亡くなったため、久坂玄瑞は十四才で家督を継いだ。高杉晋作とは従兄弟に当たり、識の晋作とは対照的に才の玄瑞と謳われた。

 伊藤利助は久坂玄瑞よりも、高杉晋作の方とウマがあった。隙のない論理で相手をとことん論破する久坂玄瑞は吉田寅次郎に好まれ、塾生からも尊敬の眼差しで見られた。確かに久坂玄瑞の時代を見る目の鋭さは師匠譲りのものだった。国事を論じるときにその本領は遺憾なく発揮された。それに反して高杉晋作のものの見方は散文的で直截的だった。時として高杉晋作の物言いはなげやりのようですらあった。

 国事を巡って塾で闘わされる論議に伊藤利助は加わらなかった。年格好は同じでも相州を見てきた伊藤利助には何処か馴染めないものがあった。決して馬鹿にするというのではないが、どことなくそうした議論は言葉の上の空疎な遊びのように思えた。

 たとえば攘夷である。伊藤利助は十六才で萩の峠を越えて相州の地に赴いた。そこで一年に渡って長州藩の若い進歩的な英才からこの時代のものの見方、考え方を徹底的に叩き込まれた。門下生は勇ましく夷国艦船を追い払えと論じているが、攘夷の現実的な方策とは国力を富まし武器弾薬から糧秣の確保に海岸の道を整備し砲台を築き、武器を整え兵卒を教練しなければ始まらない。外交々渉とはそうした備えを万全にした上で、対等の立場で行うものだ。相州御備場で栗原良蔵から国防とはいかにあるべきかを繰り返し教えられ、伊藤利助も自然とそのようなものだと理解した。口角泡を飛ばして国事を論ずるより、具体的な政策を政治の場で着実に積み重ねる方が大事である。

相州の地で伊藤利助は基本的な国家のありようと、外交のありようを体の髄まで叩き込まれた。来原良蔵は攘夷々々と口にしたところで、いまの藩の軍事力で夷国艦を追っ払えるものではない、と真剣な眼差しで口癖のように語って聞かせた。国を頑なに閉ざして夷国艦を追っ払うには西洋列強に負けないだけの軍と防衛の備えが必要だ。また開国するにしても西洋列強の恫喝に臆しないだけの軍事力を保持した上で外交を展開しなければならない、と栗原良蔵は教えた。その教えが体の芯まで沁み込んだ伊藤利助の目から見れば、松下村塾で日々塾生たちが論じている国事なるものが児戯の言葉遊びのようにすら思えた。むしろ絵空事の攘夷や国事を論じるよりも、藩が来原良蔵の進言を聞き入れる方が先ではないかとの思いが伊藤利助の脳裏にあった。伊藤利助はことさら議論の場に加わらず、またそうした思いを仲間の前で決して披瀝しなかった。

 だが残念なことが一つだけあった。松下村塾で闘わされる議論で、塾生たちが四書五経から盛んに言辞を引用するのに驚いた。松陰先生の弟子たちは漢学の素養を確実に身に着けている。伊藤利助の武家の学問はついに中途で終わったが、それは大した事ではないと来原良蔵は言った。しかし松下村塾の議論を聞き及ぶに従って、自分に漢学の素養が備わっていないことを思い知らされ唇を噛みしめた。

 ある日、伊藤利助が庭先で薪を割っていると、ふらりと高杉晋作が傍にやって来た。

「どうだ、名を変えぬか」

 と、いつものように高杉晋作の物言いは前後に脈絡がない。

伊藤利助は鉈を振る手を休めて見上げた。すると、高杉晋作は腰を屈め木端を拾って地面に『利』と書いた。

「これはトシと読める。ならば、」

 と言葉を切り『俊』と書いた。そして更に、

「スケも、」

 と言いつつ『輔』と書き、

「この字に改めよ。読みもシュンスケとして『俊輔』と名乗るが良いぞ」

 そう言うと、高杉晋作は伊藤利助の顔を覗き込んだ。

「どうしてだ、」

 と聞き返すと、高杉晋作は細面の目元に笑みを浮かべた。

「名は体をあらわすという。利とは松陰先生が嫌う語彙の一つだ。名が『利を助ける』ではあたかも商人のようで、人から大成出来ぬと軽んじられようぞ」

 高杉晋作にそう言われて、伊藤利助は面白い講釈でも聞いたかのように素直に頷いた。名は人を識別する符丁だと思っていたが、なるほど高杉晋作に言われればその通りで体を表すものに相違ない。

「では、これより伊藤俊輔と致しましょう」

 その日を以って、伊藤利助は名を伊藤俊輔と改めた。

他にも俊介、春介等と名乗ることもあったが紛れもなく伊藤俊輔の名付け親は高杉晋作だ。明治以後に名乗る『博文』もその折りに高杉晋作が示した名の一つだった。その出典は漢籍『易経』の繋辞上伝の文中から「博文約礼」を採ったものだ。「博文約礼」とは「幅広い知識と礼儀正しい振る舞いが大切だ」という教えであった。高杉晋作の漢籍に対する造詣の深さに伊藤利助は驚きの表情を浮かべた。

 吉田寅次郎は決して度量の狭い人間ではない。むしろ、子弟には慈愛をもって接した。しかし、高杉晋作が吉田寅次郎に憚って伊藤俊輔に改名を勧めたのも確たる事実だ。高杉晋作は一字一句たりとも疎かにしない吉田寅次郎の潔癖な性格を熟知し、それとなく忠告したものと思われる。

 翌安政五年二月、罰を受けて相州警護のお役を罷免された来原良蔵が萩へ帰って来た。罪は藩の許しを得ずに洋式銃陣の教練を繰り返し行なったことにあった。幕府に聞こえたならいかなる咎が藩に及ぶか、相州御備場奉行は危険なものを感じていた。咎めの刑罰は自宅閉塞だった。

 しかし、吉田寅次郎は大いに喜び、さっそく文を書き送った。気持ちを表すために詩を送ろうとした。最初の二行はすぐに浮かんだものの、余りに喜びが過ぎたため続きの作詩がもどかしくなった。ついに四行で成り立つ七言絶句の二行だけを送っている。

      勤王敵愾世皆口

      刻意励行獨有君

 勤王を口にする者は多いが、その意を知って努力しているのは君だけだ……。

 本来、吉田寅次郎はバカがつくほど几帳面な男だ。半端な七言絶句を良とするものではない。しかし吉田寅次郎はそのまま送った。それほど嬉しかった。安政元年三月三日、米国艦へ密航を決意した吉田寅次郎が新橋の料亭伊勢本に招いた長州人は赤川淡水と白井小助、それに来原良蔵の三人だけだった。彼等は一様に藩から罰を受けて不遇な一時期を余儀なくされた。しかし吉田寅次郎は些かも気力を挫くことなく信じる道を邁進した。

 長州藩には飛耳張目とよばれる策があった。

 徳川幕府にいう隠密に相当する者が極秘のうちに各所で情報収集をしていた。

 例えば、長州藩士甲谷俊家は身分を隠して上洛し、絵を能くすることから丹青の技を以って公卿に近付いて京の情勢を国許へ伝えた。

 国事を論じあう萩にも刻々と変貌する世上の様子は伝わってくる。

 安政四年(一八五七)七月二十六日、幕府は米国に押し切られるようにして日米和親条約(神奈川条約)を締結した。内容は主に四カ条からなっている。それは外国人に居住権を与え、外貨との貨幣交換比率を定め、長崎を開港し、領事裁判権(治外法権)を認めることだ。それは後の明治政府に重い課題を残す不平等条約だった。

 同様に同年九月七日、露国使節プチャーチンと長崎で条約を締結した。そして、十月二十一日、米国大統領ピアースの親書を携えて米国総領事ハリスが将軍家定と謁見した。親書により突きつけられた要求は交易だった。幕府はその扱いに窮して、十一月一日に諸大名を江戸城中に集めると米国大統領の親書とハリスの口上の写しを示して諸大名から意見を徴した。徳川幕府開闢以来の出来事だった。

 当時、江戸城中も騒然としていた。病弱な家定の後継を巡って紀伊藩主徳川慶福(改め家茂)を推す彦根藩主井伊直弼らと、水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家に養子で入った一橋慶喜を推す福井藩主松平慶永らとの間で暗闘が繰り広げられていた。

 その間、飾り物に過ぎなかった朝廷の権威が外国との条約締結を巡って俄然甦りつつあった。そして、京では幕府が米露英仏と相次いで結んだ和親通商条約の批准を巡って攘夷論が沸騰していた。

 安政五年四月二十三日、江戸城中の権力闘争に勝った井伊直弼が大老に就任し、強権的な弾圧政策を開始した。そして日本全国に血生臭い空気が漂い始めた。

 安政五年(一八五八)五月、吉田寅次郎は京都の状況を探るため久坂玄瑞と中谷政亮を派遣することを藩に願い出た。

 そうした状況が京にはあった。

 前年十二月十一日から幕府は外交の全権を下田奉行井上清直に与え、米国総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を京都朝廷に無断で交渉させた。その事後報告として同月、老中堀田備中守らは朝廷の意向を伺うために学者の林大学と津田半二郎に上京を命じた。しかし、そうした経過を知ると朝廷は天皇を軽んじる仕儀だと激怒した。国事の報告ならば将軍直々とまでは言わないまでも、少なくとも老中が上洛して釈明するのが筋であろうとの議論が沸騰し、朝廷を蔑ろにするものだと攘夷派の反感を買った。

 当然のごとく、林大学と津田半二郎の上洛は不首尾に終わった。言を左右する朝廷によって交渉は少しも進まなかった。その報告を受けると翌安政五年一月五日、幕府は勅許を得るために日数を要するとしてハリスに日米修好通商条約の調印の二ヶ月延期を申し出た。そして業を煮やした堀田備中守は自ら上洛すべく一月八日に江戸を後にした。幕府の威光を全面に押し立てて強引に条約締結の勅許を得ようとの算段だった。通商条約締結に異を唱える攘夷派浪士がぞくぞくと上洛し、京の町は騒然とした情勢になった。

 長州藩は吉田寅次郎の申し出を受け入れて久坂玄瑞と中谷政亮に京の情勢探索を命じた。が、長州藩は松陰門下生たちだけを京都へ遣わすのに不安を感じたのか、藩の若い重臣中村九郎をつけた。中村九郎は吉田寅次郎とも親しい赤川淡水と兄弟だった。彼等兄弟二人の学才は藩の中では知らぬ者はいなかった。久坂玄瑞たちに伴わせるのに藩はそれなりの人物を選んだといえる。

 その折、吉田寅次郎は軽卒の者にも機会を与えるように申し出て、後日藩は藩士中村道太郎に随行する形でそれを許した。吉田寅次郎は塾生の足軽中間の中から伊藤俊輔、山縣小介、杉山松介、岡千吉、伊藤傳之助、總楽悦之助の総勢六人を選び京へ派遣した。

 それは飛耳張目の策と称されるものだった。長州藩は本州の西端に位置する地理的な不利を補うため、江戸や京に人員を配して情報の収集に意を用いていた。

 京の長州藩邸は三条河原町にあった。

 慶長八年(一六○四)、高須豊後元興を伏見留守居役に任じ引き続き京都留守居役に転じて常設とした。置かれた役職は京都留守居役、京都銀子方役、京都本締役、筆者役などであった。京都留守居役は京都々合人とも呼ばれ、大組二百五十石以下の藩士を以って任じた。延宝四年以来、京大坂の藩邸にも検使役が置かれ、京都留守居役の管掌の許に諸役の検断に当たった。

 伊藤俊輔たちは京藩邸に四ヶ月間宿泊したが、久坂玄瑞たちとはおおむね別行動だった。その代わり滞在期間中に梅田源二郎、梁川星巌、頼三樹三郎らと交わり、若い伊藤俊輔たちにとって知識を広げる好機で、目から鱗の取れる思いだった。

 久坂玄瑞と中谷政亮は京で大原三位と密かに会い、長州へ下向する意を受けた。その意向は直ちに藩へ伝えられた。ここに要駕策が始まることになる。だが当時の伊藤俊輔はそのような歴史の表舞台に出てこないし、久坂玄瑞のような重い役回りも与えられていなかった。

 安政五年九月、伊藤俊輔たちは萩へ帰って来た。京でそれなりの情勢探索を収集してきたが、伊藤俊輔たちは無視された。先に久坂玄瑞たちが報らせた大原三位下向の話に関心が集まっていた。すでに事態は進み吉田寅次郎が画策して参勤交代の途上、藩主を大原三位と共に入京させるとの密勅を得ていた。吉田寅次郎の目的は幕府の高圧的な態度に譲位をも考えた孝明天皇を思い止まらせ、御所の警護に長州藩が当たることだった。さらに吉田寅次郎は画策に没頭した。

 塾からの帰り道、後ろから坂道を駆け上がって来る草履の足音がした。

「俊輔、京はどうじゃった」

 吉田栄太郎が小走りに駆け寄ってきた。

「先生のおっしゃっていた通り、京には攘夷の空気が満ちておった」

 伊藤俊輔はそう答えて栄太郎と並んで歩き出した。椎原から塾までは半町余りだった。

「のんきなことを言うちょるの。久坂さんが八月の初めに大原三位の密書を藩に送って、それで藩論が沸騰しているのを知らんのか」

 覗き込むようにして吉田栄太郎は言った。

 伊藤俊輔はその言葉を聞きながら顔を俯けた。久坂玄瑞の京での行動力には目を見張るものがあった。しかし、ことが秘密を要するためか、伊藤俊輔たちに諮られることはなかった。

 先に京を去ったはずの久坂玄瑞は萩へ帰ってなかった。吉田寅次郎の許に置くのを恐れた藩により、蘭方医術研究という命を与えられて京から直接江戸へ遣わされていた。

「藩公が大原三位と伏見からご同行され駕籠で入京するということか」

 朧げに聞いていたことを伊藤俊輔は言った。それは『要駕策』といわれ、主に久坂玄瑞が謀った策略だった。大原三位とそのまま朝廷に参内し、藩主が攘夷献策の上奏を目指そうとするものだった。

「それじゃ。その議論があって幕府は警戒したのか、今では幕府が攘夷派を京から一掃しようと目論どるそうじゃ」

「幕府が?」

「そうじゃ。今度大老になった井伊掃部頭が画策しとるそうじゃ。先生は幕府を倒さなければならないとおっしゃっておられる」

 吉田栄太郎はそう言った。

 伊藤俊輔は強い衝撃を受けた。それまでも過激だった松下村塾の議論が、留守にしていたわずかな間に想像を絶するほどに過激になっていた。

 この時期、世間の議論はまだそこまではいっていない。外国艦船を追っ払えとの攘夷論は盛んだが、攘夷思想が尊王倒幕と結びつくにはいま暫く時を必要とした。

 伊藤俊輔たちが帰藩して京の情勢を報告する前に、吉田寅次郎は家老益田弾正に建白書を認めていた。

 建白書は三ヶ条からなっている。

   一、銃陣を盛んに興すべし、

   二、航海学を講ずべきこと、

   三、開港通商を起こし、士族をして海勢に慣れ、針路を覚えらしむこと。

 吉田寅次郎は攘夷を唱えながらも、しかしその行動原理は開国論者のものだった。その実、攘夷は幕府に対して朝廷の存在を覚醒させるために採った方便であった。安政元年米艦艇に密航を企てたのも西洋諸国の国勢を自分の目で見て、産業革命が如何なるものか見聞したかったからに他ならない。だが後に藩論が割れた時、松陰の弟子たちは頑なまでに攘夷論に拘泥することになる。

 前記建白書を送った際、吉田寅次郎は第一条の適任者として来原良蔵を推薦していた。

 藩は吉田寅次郎の進言を聞き入れた。藩主毛利敬親は家老益田弾正らと密議し、政務役周布政之助を密使として上洛させることにした。

 そうした動きを察知するかのように、大老伊井直弼は老中間部下総守を上洛させ、京都所司代を指揮して洛中にうろつく勤王浪士を手当り次第に捕縛した。

 

  四、長崎へ

 安政五年十月、来原良蔵は罪を許されて御手当方御用掛に任じられた。

 御手当方とは藩の防衛を司る部署で、御用掛とは特別な役目を拝命したことを示す。具体的には長崎へ赴き、西洋銃陣を蘭国武官から直伝習することだった。来原良蔵は山田亦介らと進めていた藩兵制改革の役目に復されたのだ。長州藩はいつまでも有為の若者を逼塞させておくわけにはいかなかった。

 出立を控えたある日、来原良蔵は吉田寅次郎を訪ねた。

 両袖から腕を抜いて懐で組み、青く澄んだ空のもと悠然と松本村へやって来た。吉田寅次郎は禁固の刑に服しているため、屋敷からは一歩たりとも出ることは叶わない身の上だった。誰彼が吉田寅次郎を訪ねることも実は憚れることなのだ。自宅禁錮とは本来はそのような厳しい刑罰だった。したがって、役目を頂戴している藩士が松本村へ足を運ぶことは稀だった。そうした定法を承知の上で、来原良蔵は悠然と松本村へ出向いてきた。

 晩秋の風に袂を靡かせて、来原良蔵は散歩の途中で立ち寄ったかのようにふらりと松下村塾に姿を現した。着流しに袴を着けた五尺三寸のがっしりとした体躯の背を少し丸めて、生け垣の間からいたずらっぽく屋敷の様子を窺った。

 伊藤俊輔は塾の屋内の座敷にはいなかった。師匠が講義する間、部屋に座っているのは身分の高い家の子弟たちだった。中間の伊藤俊輔は濡れ縁の外、庭先に近所の百姓の子供たちと一緒に立って聴いた。伊藤俊輔はすぐに生け垣の外に立つがっしりとした姿を認めた。来原良蔵も庭先の伊藤俊輔を見付けてにこやかに微笑んだ。来原良蔵は生垣の側を通って玄関に立つとおとないを入れ、吉田寅次郎の妹みわが講義中の兄に取り次いだ。

 微禄な藩士の常として吉田寅次郎の自宅は広くない。暮し向きは質素そのものだ。下級藩士の暮らしの有り様は百姓と大して変わらない。松下村塾に客を迎える特別な部屋があるわけではなく、来客があると塾生は庭先へ出なければならなかった。

 来原良蔵が来訪した用件は二つあった。

 まず第一に、藩命により長崎に洋式銃陣の直伝習に遣わされることになったことを吉田寅次郎に伝えて、併せて洋式兵法の伝習に来原良蔵を藩に建白書中で推挙してくれたことに対して礼を述べることだった。

 吉田寅次郎は来原良蔵の来訪を手放しで喜び、抱き入れるように部屋へ招くと再会の挨拶もそこそこに刎頸の友に腹蔵のない自説を滔々と述べ始めた。

「藩の兵制を速やかに洋式に改めなければならない」

 吉田寅次郎の物言いは常に激することがない。

 言葉は激しいが感情を露に話すのではなく、軍学を講ずるかのように的確な言葉を選び抜いて静かに語った。それでなくても長い顔が痩せて更に長く見えた。骨張った怒り肩も昔日のままだった。久しぶりの再会というのに冗談一つ言わないで持論を展開する吉田寅次郎に来原良蔵はある種の懐かしさを覚えた。

「もっともである」

 そう言って、来原良蔵はゆっくりと頷いた。

「銃陣も、洋式にすべし」

「しかと、その通りである」

「黒船を建造し、海軍力を創設拡大せねばならない。元就公以来受け継いできた旧来の兵学諸流儀では、夷敵とは戦えない。ことは盛功、急を要する」

 盛功とは良蔵の正式名である。来原良蔵は吉田寅次郎の意見に再度大きく頷いた。

「長州藩を強くし、以って勤王を断行しなければならない。爾来、日本は開国であった。鎖国は徳川家が便宜的に採った政策に過ぎない。それがため、西洋に大いに遅れを取った。その一事をとっても、徳川幕府は断罪されなければならない。政治は一人の英雄のためにあるのではなく、況や一族のためにあるのでもない。草莽のためにこそある」

 吉田寅次郎は名もない庶民のことを草莽と言った。既に『草莽崛起』という言葉をこの時期、吉田寅次郎は塾で使っている。驚くべきことに市民革命とでもいうべき概念をすでに語っていたことになる。

 しかし、来原良蔵の考えはそこまでには到っていない。あくまでも藩士による軍制の有り様を模索していた。来原良蔵はまだ幕藩体制の身分制度のしがらみから抜け出てはいない。しかし、それは来原良蔵だけが遅れているのではなかった。後年、長州藩の存亡を賭けた数次の戦を経て、はじめて上から下までそうした考えを獲得してゆくことになる。

 来原良蔵は吉田寅次郎の考えにある種の危険な匂いを感じた。先鋭的な剃刀の刃のような論理の鋭さが周囲の者たちを否応なく傷付けることになりはしないか。来原良蔵はある種の危惧を抱いた。

 とうとうと自説を述べる吉田寅次郎を遮るように、来原良蔵は右手を広げて突き出した。眉を顰めて吉田寅次郎の説を聞いていた来原良蔵はやむを得ず唐突に話の腰を折った。来原良蔵にはいま一つの用件があった。

「長崎の蘭国武官直伝習へ中間伊藤を同行させたいが、如何であろうか」

 来原良蔵がそう言うと、吉田寅次郎は我を取り戻したように強張った頬を緩めた。

「それは願ってもないこと。伊藤俊輔は久坂玄瑞同様に周旋の才に長けているが、学問も盛功承知の通り並々ならぬものがある。洋式銃陣の伝習に随行するは伊藤俊輔にとってこの上ないことである」

 来原良蔵の申し出に吉田寅次郎は即座に同意した。そして、庭先で高杉晋作と話し込んでいた伊藤俊輔を呼び寄せた。

「肥後に轟武兵衛という同志がいる。是非ともその者の許へ立ち寄られたし」

 そう言うと、吉田寅次郎は即座に伊藤俊輔のために紹介状を書いた。その紹介状が伊藤俊輔に対する吉田寅次郎の唯一の人物評となって今に伝わっている。

『軽卒であるが、我が輩に従って学んでいる者。才劣り、学いまだ幼稚。質直にして華無し。僕頗る之を愛している』

 松陰は伊藤俊輔を小物扱いにしているが、この評を額面通りに受け取ってはいけない。

 当時の修辞として、弟子を他人に紹介する場合は膝を屈するばかりに遜るものである。従って、吉田寅次郎の本意は最後の文句にある。

 伊藤俊輔は吉田寅次郎にとって愛すべき弟子だった。何よりも吉田寅次郎は彼の友人に伊藤俊輔を紹介した。他日、吉田寅次郎は伊藤俊輔に周旋家の才有りと評しているが、周旋とは人と人の間に立って物ごとの仲立ちをすることだ。政治家とまではゆかないまでも、いまにいう外交官ぐらいの才能はあるということだろう。政治家の才ありと認めたならば『宰相の器なり』くらいには評すものだ。いずれにせよ、吉田寅次郎の目に映った伊藤俊輔はその程度の愛すべき幼い弟子でしかなかった。

 松下村塾当時の伊藤俊輔の評を遺した人物がもう一人いる。名を富永有隣といい、伊藤俊輔を「ぬらぬらとした奴だった」と語っている。明治二十年前後の頃の話だ。

 富永有隣は手のつけられない乱暴者だったため、家族が藩に申し出て野山獄に押し込められていた。長州藩では罪人でなくても、そうした持て余し者を家族の要請で獄舎に入れることがあった。たまたま吉田寅次郎が野山獄に入牢した折りに知り合い、後に出獄した富永有隣の引き取り手がないため、憐れんだ吉田寅次郎が請人となり松下村塾の食客として暮らしていた。歳は吉田寅次郎よりも上だった。

 ある日、富永有隣は伊藤俊輔に命じて髷を結わせていた折り、毛髪を一本引き抜いたのでやにわに殴り飛ばした。すると、伊藤俊輔は怒るでもなく泣くでもなく、へらへらと笑って髷を結い続けたという。そうした逸話を紹介して「ぬらぬらとした奴だった」と伊藤博文の印象を語った。世間にはそうした愚かで厭味な男はいるものだ。

 毛髪を一本抜いた、というのが事実かどうか定かではない。たとえそうだとしても十七歳の伊藤俊輔を三十過ぎの男がいきなり殴り飛ばすとは尋常でない。そして伊藤俊輔はたとえ理不尽に殴られても、いわば師匠の客人に対して弟子が文句を言える筋合いではない。そうした無抵抗の者をいじめた過去を思い出し、三十数年後に明治政府の初代総理大臣となった男を殴ったことがあると吹聴して自慢したかったのだろう。その程度の男の評は取るに足らないが、注目すべきは伊藤俊輔が怒るでもなく泣くでもなく、曖昧な笑みを浮かべたことだ。もし武士の子弟であれば師匠の食客に対しても猛然と是非を正しただろう。しかし中間でしかない伊藤俊輔はそうした抗議をするでもなく、へらへらと笑って堪え忍ぶしかなかった。

 吉田寅次郎も認めた周旋家の才能は、確かに伊藤俊輔に備わっていた。明治新政府で外交官から総理大臣と活躍するが、伊藤博文は大久保利通のような強い指導力を発揮する怜悧な男ではなかったし、西郷隆盛や木戸孝允のような一言居士でもなかった。政府の実権を握った大久保利通は気難しい木戸孝允の意見を徴する場合、同じ長州閥の伊藤博文を用いて意向を問わせた。幕末・維新の動乱の余燼の漂う明治初年、壮士型の人物が多い中で伊藤博文は希有な調整・実務型の政治家として働き、強烈な個性を持つ下士あがりの政府要人や参議を説いて廻って合意を形成し、新政府を構築していった。

 そうした調整能力は成長期の試練によって培われたものと思われる。束荷村から逃散した当初はもちろんのこと、中間の身分を得てからも奉公時代の伊藤俊輔には筆舌に尽くし難い辛苦があったに違いない。顔色を窺うのは哀しい習性だが、物事には必ず表裏二面がある。良し悪しは試練を受け止める方にこそあるのだ。伊藤俊輔の場合はその辛い経験が人の心を取り結ぶ周旋能力を涵養し、後に政治家としての資質が開花する糧となった。

 

 安政五年十月、伊藤俊輔は来原良蔵の従者として長崎へ旅立った。

 相州の地から戻って国許での暮しはわずか一年しか送っていない。その間にも京へ派遣され、松下村塾で勉学した期間は通算して半年余りしかない。いやそもそも吉田寅次郎が松本村で教えた期間そのものがほんの二年半ばかりでしかなかった。後に多くの人材を輩出したことで広く知られる松下村塾そのものが短期間しか存在しなかった事実は驚くべきことであり、それほどに吉田寅次郎の教育家・思想家としての資質が傑出していた証といえるだろう。

 伊藤俊輔は嬉しかった。来原良蔵が長崎行きに伴ってくれたことが、である。

 旅に出ると気分がのびのびとするようだった。しかしその反面なぜ急に自分が手附として長崎へ行くことになったのか、伊藤俊輔は訝しく思った。だが天性楽天的なこの男は来原良蔵の腹の内をそれほど深く忖度しなかった。伊藤俊輔は概して自分の運命に柔順だった。手附として組頭に届けられると、来原良蔵の命に素直に従った。その思いに不安はない。相州で来原良蔵の人となりは良く知っていた。

 秋晴れの空の下、二人は玄界灘を望む海岸沿いの街道を急いだ。

「俊輔、と名を改めたのか」

 と、先を歩いていた来原良蔵が振り向いて笑顔を見せた。

来原良蔵も長年願っていた役目に就けて張り切っていた。伊藤俊輔は愛敬のある笑顔で頷いた。

「はい。松陰先生の許に弟子入りしてすぐに」

 そう答える伊藤俊輔に、来原良蔵は含み笑いをして再び振り向いた。

「名は符丁だ。符丁で人格が変わるわけではない。が、利助という名はいかにもまずかったな。利とは寅が最も嫌う漢字だ。名前が『利助』では具合が悪かっただろう」

 そう言うと、来原良蔵は声を出して笑った。

 高杉晋作と同じことを言っている、と伊藤俊輔は苦笑するしかなかった。

「この度、長崎行きに伊藤俊輔めをお連れ頂き、有り難う御座います」

 伊藤俊輔はそう言って頭を下げた。

 中間の自分を従者に選んだ来原良蔵の意図をはかりかねた。連れて行くべき小者は城下にいくらでもいる。従者としてでも同行を願い出た藩士も少なからずいたに違いない。長崎はこの国で唯一海外へ窓を開く時代の先端を行く地だった。世間では長崎へ行って来たというだけで、蘭方医の看板を掲げて町医を開業する者さえいるほどだった。出来ることなら来原良蔵の真意を聞きたかった。

「俊輔が改まって礼を言うほどのことではない。そこもととは気心が知れている。それに、何かと俊輔は気が付くから、拙者が助かるんじゃ」

 そう言うと、来原良蔵は両袖から腕を抜いて懐中で組んだ。

 街道の両側に松の大木が整然と並んでいる。その梢を震わして浜風が冬の予兆を孕んで吹き渡ってゆく。袂を風に靡かせて風と遊ぶかのように悠然と来原良蔵は歩く。その大柄な後ろ姿を見詰めて伊藤俊輔は心もち頭を下げた。それは心からのお礼のつもりだった。

 先を行く来原良蔵は青空に浮かぶ雲と涯てしない海に視線を遊ばせていた。そうしながらも、薄い唇を引き締めて思いは萩へと飛んでいた。口にこそしなかったが、伊藤俊輔をはじめ若者たちを吉田寅次郎の許に置いておくのに不安を感じていた。

 確かに吉田寅次郎は教育者としても卓越した人物だ。家学の継承者として幼い頃から過酷なほどに山鹿流兵学を教え込まれ、十一才にして藩公の御前で山鹿流兵法を講義し、十九才にして明倫館の教授となった。まるで鋭利な剃刀のような頭脳をしている。その学識と時代を洞察する眼力に於いて藩内に並び立つ者はいない。しかし、その一途さが現実社会へ向けられた時、その卓論は弟子たちを死へ追いやる凶器と化す。松下村塾に吉田寅次郎を訪ねた時、来原良蔵は漠然とそんな危うい不安を抱いた。しかし、その危惧をおくびにも出さず、来原良蔵は悠然と先を歩いた。

「見てみよ。のう俊輔、海は広いぞ」

 叫ぶようにそう言うと、来原良蔵は街道の右手に広がる玄界灘を顎で示した。

「世間は海の如しじゃ。多くの人と交わり人を識ることが、これからのそこもとの学問だ。人心面の如しという、人により考えは異なるものじゃから」

 そう言うと、「のう」と後ろを振り向いてにっこりと笑った。

 二人は長崎へ行く途中、肥後へ立ち寄り轟武兵衛と面会したという記録は何処にもない。細川家の文書にも何も遺されていない。吉田寅次郎の紹介状は使われなかった可能性が高いと断ぜざるをえない。

 

 十月に伊藤俊輔たちが萩を後にして間もない翌十一月、突如として松下村塾は閉鎖された。そして十二月二十六日、吉田寅次郎は再び野山獄に幽閉された。

 原因は吉田寅次郎が企てた老中間部要撃事件にあった。それは京の攘夷派を一掃するために大老井伊直弼の命により老中間部詮勝を派遣する、という報が京からもたらされたことに端を発した。間部詮勝は京都所司代を増強し、新たに市中見回組を創設しようとした。京からもたらされた報に接すると、吉田寅次郎は直ちに間部詮勝を暗殺することを決めた。

 そしてこともあろうに、藩に対してクーホール砲三門、百目玉砲五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目を要求した。書面で正式に届けられた要求に藩は驚愕し恐怖すら覚えた。吉田寅次郎の言動は常軌を逸している。老中を暗殺するのに堂々と武器弾薬を藩に要求するとは狂気の沙汰でしかない。たとえ藩が受け入れたとしても、大量の武器弾薬をどうやって京まで秘密裡に運ぶというのか。

 藩の誰もが吉田寅次郎を正気かと疑った。間部要撃企ての一件が幕府に聞こえたならば、どのような咎が藩に及ぶか知れない。藩首脳は吉田寅次郎に危険な匂を嗅ぎとり震え上がった。即座に吉田寅次郎は弟子たちから隔離され、再び野山獄に幽閉された。

 だが吉田寅次郎がじかに藩に要求したのは自然の成り行きだった。当時、松下村塾には頼みとする弟子が残っていなかった。双璧といわれた弟子の一人、久坂玄瑞は藩に命じられて蘭学医術研究のため出府している。いま一人、高杉晋作も遊学のために藩命で江戸の昌平校に入っている。萩の吉田寅次郎は手足をもがれていた。

 江戸へ出府している弟子たちの許へ、牢獄に幽閉された吉田寅次郎からしきりと決起を促す文が送り付けられた。しかし、吉田寅次郎の思いとは裏腹に高杉晋作や久坂玄瑞は送り付けられる文面が過激なのに狼狽した。師匠の現実を無視した純粋に論理的な叱責にうろたえた。思い悩んだ末、高杉晋作は決起する時節を得ていない旨の返事を認めて送り、吉田寅次郎に自重を求めた。だが吉田寅次郎は激烈な絶望の文を獄中から書き送り、

『僕は忠義をするつもりだが、諸友は功業をするつもりか』

 と、高杉晋作たちに絶縁の言葉を浴びせた。

 もとより吉田寅次郎は正気だった。ただ自分の思想に忠実なだけ、現実が視界の彼方に消え去っていたに過ぎない。その上、自身の命を度外視している。己の行動が草莽崛起の呼び水にさえなれば命はいつでも捨てる覚悟だ。そうでもしなければ幕府は倒せない、自分はそのための捨て石になる。吉田寅次郎の強い信念が異常とも思える言動を可能にしていた。しかし吉田寅次郎の言動が先鋭的になればなるほど、人々は吉田寅次郎から離れていった。そしてその思想の激しさを幕府の知る処となった。

 安政六年(一八五九)五月二十五日、吉田寅次郎は江戸送りとされた。

 萩から江戸へ行くには陸路と海路とを問わず、いずれにせよ必ず山口を通る。その萩と山口を繋ぐ往還路は今も往時の姿を留めている。萩の町から南に下り阿武川沿いの街道を山懐へ行くと、やがて一本の松が立っている。その木の緑蔭で吉田寅次郎は歌を詠んだ。

  帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな

 

 その頃、伊藤俊輔はまだ長崎にいた。

 来原良蔵とともに出島からほど近い外国交易を商う商人町に投宿していた。

 毎朝、来原良蔵は長州藩御用商人の店へ出掛けた。

 幕府は蘭国人から直に習うことを禁じていたため、表向き来原良蔵が蘭国武官から教えを乞うことは出来ない。購入した武器の操作方法を蘭国の駐在武官から聞くという名目で、出島の木戸が開く時刻になるとその店の者に連れられて行ってもらうのだ。長州藩の要請に応じて蘭国武官から洋式兵法の直伝習を取り持ったのは長崎の商人だった。

長州藩は長崎の交易商人を通じて大量の銃器を購入していた。彼等にとっては上客である。直伝習は幕府から厳しく禁じられているが、長州藩の頼みとあれば無碍に断わるわけにはいかなかったようだ。

 出島は外国人の居留のために造られた海岸の石垣から突き出た扇形をした人工島だ。今は周囲もすっかり埋め立てられて長崎市街地の一角に埋没しているが、当時は長崎の沖に浮かぶ小島だった。出入り口は本土と繋る石垣の上に築かれた一筋の道しかなく、途中に木戸が設けられて幕府の厳重な管理支配下にあった。江戸時代を通じて、出島は厳格な鎖国令の唯一の例外として西洋へ開いた窓だった。しかし、幕末ともなると出島以外にも外国人の居住は許されるようになり、さしもの厳格を極めた幕府の夷人管理も時代とともに弛緩していった。

 蘭国にとっても長州藩は大切な武器取引きの顧客だった。武器はいつの時代でも戦争によって革新的な長足の進歩を見る。当時、欧州ではナポレオン・ボナパルト以来の戦乱が終わり、各国に旧式武器が大量に余っていた。軍隊が廃棄した武器の処分先として洋式兵器に無知な日本は願ってもない顧客だった。長州藩が購入した数千丁の銃もすでに西洋軍隊では廃棄された先込め式のゲベール銃だ。雷管を装備した弾を用いて火縄こそないものの、様式としては火縄銃の範疇を出ていない。当時の各藩が購入した洋式軍艦にしても中古の洋式帆走商船に砲を積んだだけの代物に過ぎなかった。西洋ではスクラップとして潰すしかない旧式兵器でも、日本に持ち込むだけで膨大な利益をもたらした。

 蘭国同様、長崎の交易商人も長州藩の兵制改革を担う重臣来原良蔵を粗末に扱うわけにはいかなかった。なにしろ長州藩は武器商人にとって上客だ。来原良蔵は出島の交易屋敷で待ち、そこへやって来る蘭人武官から直接西洋兵制全般の話を伺った。伊藤俊輔は屋敷の書生部屋で主人の聴講が終わるのを待った。そうした日々が一年近く続いた。

 安政六年(一八五九)八月、伊藤俊輔は来原良蔵と勇躍長崎を発って萩へと向った。

 来原良蔵は駐在蘭人武官から授かった洋式兵制を下敷きに、長州藩兵制を抜本的に改革する青写真を胸に抱いていた。伊藤俊輔も来原良蔵の従者として通ううちに西洋の息吹を嗅いだ。朧げながらも西洋諸国の長足の進歩を遂げた異質な文明の存在が理解できた。それは十八才になった伊藤俊輔にとってこれからの人生を決定づける経験だった。

 この四年後、伊藤俊輔は仲間とともに英国へ密航することになる。命を賭してまで西洋へと駆り立てたのも長崎直伝習による西洋文化への憧憬があったからに他ならない。

 萩に帰ると二人は直ちに長崎直伝習の復命に登城した。伊藤俊輔は城郭の長屋門の中間溜りに控えて、来原良蔵だけが政庁へ上がった。

 中間足軽と藩士との間には厳然とした身分の隔たりがあった。刀にしても伊藤俊輔には小振りなものを一振りだけ腰に差すことを許されたに過ぎない。大小二本を差せるのは藩士だけだった。

 中間溜りは城郭の入り小口、長屋門にあった。六畳ばかりの広さに仕切られた部屋が大手門の両側にあり、従者として藩士の登城に付き従って来た小者たちが主の用向きが済むまでそこで控えた。

 溜り部屋では主人の格式に従って中間足軽の格式も自然と定まっている。来原良蔵は密用祐筆から御手当方御用掛となり長崎へ赴いた。当然ながら格式は低くない。主家の序列に倣って伊藤俊輔は部屋の上座に座らされた。すぐに好奇の眼差しが伊藤俊輔に注がれた。

「伊藤殿、」

 と、座の暖まる暇もなく、三十年配の小肥りの男が膝を擦って近づいてきた。

「噂に聞けば、長崎には丸山という良い所があると聞くが、如何であった」

 そう言う男の目が期待に大きく見開かれている。

 中間溜りの話題は大抵他愛ない世間の噂話か、この種の女の話と相場が決まっている。一斉に十数人の好奇に満ちた視線が伊藤俊輔に集まった。

 長崎は鎖国令を発している江戸時代にあって、唯一外国に向かって開かれた窓だった。特殊な用向きのある者以外には長崎へ出掛けることはない。長州人のみならず当時の日本人は一度も長崎を見ずに生涯を終える者がほとんどだった。色めきたった中間たちの気持ちが向けられた視線に籠っていた。

 伊藤俊輔は彼らの期待に添いたかったが、実は丸山へは一度も行っていない。主人が行かない楼閣へ手附の中間が一人で勝手に登るわけにはいかない。それに伊藤俊輔の懐には銭もなかった。なにより来原良蔵は艶福家ではない。むしろ厳格な武士であった。歌舞音曲に興じるよりも、寸刻を惜しんで勉学に励む。伊藤俊輔もそれに付き合わされ、蘭会話をそれなりに聞き齧った。

「のう、京の遊里と比べてどうじゃった」

 新手の男が伊藤俊輔の側へにじり寄った。

「京の遊里へ行ったことはないけえ、比べることは出来ん。じゃが、丸山は天国のようじゃった。入り小口に思案橋という石橋があってのう、そこで思案するんじゃ。楼へ上がろうか、いやよそうか、とな」

 そう言って、伊藤俊輔は周囲の好色そうな眼差しを見回した。

「それで、どうじゃった」

 と、上擦った声が伊藤俊輔を促すように聞いた。伊藤俊輔は声のした方へゆっくりと振り向いた。

「あたかも天国じゃ」

 呟くようにそう言って、伊藤俊輔はニヤリと笑った。

「そうであろう、そうであろうとも。それで、それで女はどうじゃった」

「じゃから、丸山は天国じゃった、と言うちょる。良い所とは聞いちょるが、まだ行ったことはない」

 そう答えると、周りを取り囲んだ男たちはあからさまに落胆した。

 小半刻ばかりを雑談のうちに過ごしていると、吏員が伊藤俊輔を呼びに来た。

「伊藤俊輔はおるか。城中西溜りへ来られよ」

 年老いた吏員に付き従って伊藤俊輔は城内へ上がった。

 溜り部屋に通されると来原良蔵の顔があった。伊藤俊輔は廊下に座って平伏した。

「ここへ」

 と言って、来原良蔵が手招きした。

 来原良蔵の前に一人の藩士が伊藤俊輔に背を向けて正座していた。二人の位置関係は来原良蔵が上座にあたった。伊藤俊輔は背を向けた藩士の遥か後ろへ一歩だけ座敷に入って正座した。

「いやいや、俊輔ちこう寄れ。そんな所に座っちゃあ話が出来ん」

 来原良蔵は再び手招きした。伊藤俊輔は袴を擦って膝で歩いた。

「これが、いま話した伊藤俊輔だ」

 そう言って、来原良蔵は若い藩士に伊藤俊輔を紹介した。

 相手の藩士は振り向いて小さく頭を下げた。伊藤俊輔も頭を下げて、その藩士を上目に見た。眉尻が上がり目元涼しく、口を横一文字にひいていた。容貌は整い全体から受ける印象は役者のようですらあった。体躯はそれほど大きくない。身長は来原良蔵よりも低く、五尺二寸の伊藤俊輔とそれほど違わないか。しかし端座しているその藩士からある種の威圧感を覚えた。体中から気を発しているような風圧が伊藤俊輔に伝わった。

「俊輔、これは義兄の桂小五郎だ。江戸藩邸大検使役として萩と江戸を忙しく往来している。昨日江戸より戻ったばかりだが、またすぐに江戸へ発つということだ。これより、そこもとは桂小五郎の配下となり、江戸へ随行せよ」

 すでに取り決めたことのように、来原良蔵はそう言い放った。

 大検使役とは行政職の「監理」や「監督」を行う検使役を取り纏める要職で、後に「政務」を司る重役に累進する若い藩士が経験する役職だった。

 伊藤俊輔は改めて桂小五郎を見た。名は知っていた。生家は法光院の裏筋にある。頭脳明晰にして文武両道に優れ、その上美男と評判だった。

 桂小五郎は天保四年(一八三三)藩医和田昌景の次男として生まれた。九才で隣家の七十石桂家の養子となったが、間もなく養夫婦が相次いで亡くなったため生家で育った。武は江戸の三大道場の一つと謳われた斎藤弥九郎道場で修行し、免許皆伝となり塾頭を勤めた。文は明倫館で学び成績優秀者のみが入れる宿舎生の資格を得ていた。後に桂小五郎が松陰の弟子に加えられるのも、藩校明倫館で松陰吉田寅次郎から軍学を教わったからに他ならない。一時期、吉田寅次郎の叔父玉木文之進が開いた松下村塾へ通ったこともあった。

 検使役とは諜報活動を主な役目とした。大検使役は飛耳張目の策を支える長州藩の重要な役職だった。年は来原良蔵の方が四才上だが、桂小五郎の妹春を妻にしていたため、姻戚関係から桂小五郎は来原良蔵の義兄に当たる。当時、桂小五郎二十六才。長州藩は能力のある若い下級藩士を大胆に登用していた。

「下両組山下新兵衛組の中間、伊藤俊輔めにございます。よろしくお願い申し上げます」

 伊藤俊輔はそう言って畳に這い蹲った。

「いやいや、僕の方こそ宜しく」

 と、桂小五郎は自分のことを僕と言った。相手に身分を感じさせない配慮があった。

「拙者も長崎直伝習の復命を片付け次第、後を追って江戸へ下るつもりだ。後日江戸で会おう。だが、京の祇園辺りで女をからかっていると追い付くやも知れぬぞ」

 そう言って、来原良蔵は桂小五郎にいわくありげな視線を送って朗らかに笑った。桂小五郎は戸惑ったように顔を俯けた。

 城から下がると、さっそく中間組頭の屋敷へ向かった。来原良蔵の手附として長崎随行の報告を今朝済ませたばかりだが、再び桂小五郎の手附として江戸へ出府することを届けなければならなかった。

 堀ノ内から武家屋敷の続く白壁沿いの道を東へ向かい、土原の一角軽卒の住まう町割に到った。組頭は城へ詰めていたため書役に目通りを求めた。

「長崎から戻ったと思うたら、すぐさま江戸かの。お主も運の良い」

 憐れみを含んだ声で書役はそう言った。そして、髪を引っ詰めてやっと小さな髷を結っている小柄な老人は癖のように筆先を舌で嘗めた。

 中間足軽は殆どすべてといえるほど畑地を持ち、百姓仕事にも励んでいる。役目を頂戴するのは有難いが萩の町屋敷で仕えるのと、他所へ出向くのとでは有り難さが違った。

「まっ、可愛い子には旅をさせよ、若い時の苦労は買うてでもするものってな」

 決まり文句のようにそう言って、帳面に『伊藤俊輔儀、桂小五郎様手附』と記した。

 

  五、江戸へ

 松本村椎原の家へ帰り、夕餉の後に江戸出府のことを両親と養祖父母に知らせた。

 行灯のほの暗い明かりの中で琴は俊輔の顔を見詰めた。目の前のわが子が何処か遠くへ行ってしまったような、頼もしくも寂しい思いがした。

 萩の町に逃散同然に出て来てまもなく、十才のわが子を児玉糺の屋敷へ奉公に出した。父十蔵は蔵元付き中間の水井家に元々は代勤役として奉公に上がったが、当主が成長した今は庭手子として屋敷の雑用を一手に引き受けている。生活はその昔も今も楽ではない。

 幼い我が子に児玉家で与えられた役目は賄い方の使い走りに過ぎなかった。

 初めて奉公に上がる朝、母は幼いわが子に「可愛がられる子におなり」と言った。軒先まで出て膝を折り、両手で小さな肩を抱き、幼い目を覗き込むようにして「可愛がられるには、陰日向なくご奉公に励むことです」と申し渡し、わが子は元気に頷いた。その時のいたいけな様子が琴の脳裏に甦った。その我が子が藩命により相州警護として相州へ下り、その後京へ派遣され、帰ったと思ったら長崎へ来原良蔵の従者として随行した。今また若い藩士の従者として江戸へ出府するという。家で休む間もなく広い世間を駆け廻るわが子の成長が嬉しかった。

 江戸への旅立ちは九月五日だった。

 萩の町がまだ寝静まっている払暁に二人は出立した。

 桂小五郎と伊藤俊輔は秋めく御成り道を山口へ上った。一息つく間もなく山口を通り過ぎて、宮下からは山陽道をひたすら歩いた。桂小五郎は強靭な足腰でサッサと先を行く。街道を歩き慣れた無駄のない足運びだった。伊藤俊輔は額に汗を浮かべて後を追った。

 桂小五郎との道中は来原良蔵の時と比べて余り楽しいものではなかった。来原良蔵よりも何かと気を遣った。だがそれは桂小五郎が特別に変っているというのではない。ただ役目がら桂小五郎は始終辺りに気を配っている。街道を歩きながらも桂小五郎は擦れ違う者や同宿した者にそれとなく鋭い視線を放った。桂小五郎の発する鋭い気が移ったわけではないが、伊藤俊輔も自然と気が抜けなかった。

 萩をたって六日後の夕暮れに京の町へ入った。桂小五郎の京の定宿は三条河原町の池田屋だった。その近くに長州藩邸があるが、桂小五郎は藩邸には向かわなかった。

 宿に上がると桂小五郎は荷を置き、伊藤俊輔を連れて街へ出た。勝手知った庭のように桂小五郎の足はどんどん狭い小路を進んだ。表通りから一歩路地へ入ると迷路のようだった。両側から突き出た低い軒が鬩ぎあうように路地を暗くしていた。二階建ての家並の続く一画へ、桂小五郎は伊藤俊輔を連れて行った。

 不意に立ち止ると、桂小五郎は黙ったまま一軒の格子戸を引き開けた。

「伊藤君、ここだ」

 桂小五郎に促されて、伊藤俊輔も家の中へ入った。間口はそれほどでもないと思えた家は奥に長い鰻の寝床のような造りをしていた。客商売の店だろうとは察しがつくが、雰囲気からして遊郭ではない。伊藤俊輔にも郭の知識はあった。

「まあ、桂はん。おこしやす」

 玄関に入ると長い廊下の奥から四十年配の女将が声とともに出迎えた。桂小五郎はそれに頷き、腰から鞘ごと抜き取った差料を手渡した。

「幾松はんをお呼びしまひょ」

 不思議な笑みを浮かべて、女将は伊藤俊輔に目を配りながらそう言った。

 その幾松が桂小五郎と関わりのある女だろうとの察しはついた。幾松は天保十四年に若狭の小浜藩士生咲市兵衛の二女に生まれ、祇園で売出中の芸者だった。時に十六才。

「うむ、頼む」

 ことさらに、桂小五郎は素気なく頷いた。

 六畳ばかりの部屋に二人を案内すると、女将は廊下を引き返した。

「伊藤君、もうじき幾松という祇園芸者が来る。引き合わせておきたい。」

 そう言うと、桂小五郎は床柱を背にして座った。自然と伊藤俊輔は下手に畏まった。伊藤俊輔の後ろに高窓があり、そこから障子越しに明かりが差し込んでいた。

「お今晩わ」

 廊下から女の声がして、障子が開けられた。にこやかな顔で一瞬部屋を見回して女はしんなりとお辞儀をした。

「幾松、これは朋輩の伊藤俊輔君だ。今後とも見知っておいて貰いたいと連れてきた」

 桂小五郎がそう言うと、幾松は緊張していた表情を崩した。

 伊藤俊輔は男の前で幾松ほど安らいだ表情を見せる女を知らなかった。来原良蔵が祇園を持ち出して桂小五郎をからかったのはこのことかと納得した。

 幾松は小柄な体をしていた。華やかな芸者の着物姿が良く似合い、艶やかな色香が匂った。その艶やかさは何処から来るのだろうか、と伊藤俊輔は女の横顔を盗み見た。瓜実顔に柳眉が形よく、切れ長の目と美形だが艶やかというほどではなかった。

「幾松どす。伊藤はん、どうぞよろしゅう、お願い申し上げます」

 幾松は伊藤俊輔の視線に気付いたのか、含み笑いをしながら頭を下げた。凝視していた伊藤俊輔は心のうちを見透かされたように目を伏せた。そして、声だと心の中で思った。幾松の声にはそのまま小唄でも歌うような艶があった。

「で、どうだ。何か変わったことはないか」

 桂小五郎は幾松にお役目で尋ねるように聞いた。幾松は少し拗ねたような目をした。

「変わったことと言わはっても。前にお越しやした時から、それほど日にちも経っていませんしぃ」

「それもそうだな。夕餉の膳を支度してくれないか」

「いや、まだでしたん。それをはよう、お言いやし」

 そう言うと、幾松は座を立った。

 桂小五郎と伊藤俊輔はそこで夕餉を摂り、伊藤俊輔だけ一足先に宿へ戻った。

 

 翌朝早く桂小五郎は宿へ戻ると、二人は何事もなかったかのように京を後にした。

 東海道を下るにつれて桂小五郎の周囲へ配る警戒が一段と厳しくなった。道中、殆ど口も利かない。鈴鹿峠を越えれば坂下宿だ。街道筋に家並が見えてきて気分が晴れやかになってくる。

いつものことだが、宿場町に着くと桂小五郎は決まったように飯屋の二階に上がった。伊藤俊輔にも上がるように勧めた。二階には女がいる。飯盛り女が春を鬻ぐことを幕府は一軒につき二人まで許したが、当然のことのように女を二人しか置いていない飯屋はなかった。

 二階に上がると桂小五郎は女を二人とった。二人とも二十歳過ぎた近在の百姓女のようだった。小柄で細身の女の一人の腕を取ると、残りのやや小肥大柄な女の背を伊藤俊輔の方へ押した。そして、桂小五郎は遊び慣れた男の仕草で女の肩を抱くようにして部屋へ消えた。伊藤俊輔は年増女と廊下に残され、所在なく化粧灼けした女の顔を見た。

「どうするのさ」

 と言って女は袖から出した腕を組み、険しい目で伊藤俊輔を見た。

「そうだな、腹が減ったな」

 伊藤俊輔はそう言って曖昧に笑った。

「そう。色気よりも食い気の年頃なのね」

 そう言って、女は詰まらなさそうに視線を廊下に落とした。が、次の瞬間女の体は宙に軽々と浮いた。伊藤俊輔は体を沈めて女の臀に手を回すと、米俵を肩に担ぐ要領で女を担いだ。足で障子を開け、肩に担いだ女を運び込んだ。女は驚きの余り声一つ立てなかった。

 部屋の隅の畳んだままの布団に女を下ろすと、伊藤俊輔は手早く袴を脱ぎ下帯を取った。女は驚いたように仰向けになったまま見詰めていたが、伊藤俊輔の忙しく動く手元を見詰めてくすくすと笑って着物の裾を両手で開いた。

 行為はあっという間に終わった。逆上していた憤怒が女の体の中で果てた。

「力が強いのね」

 女は伊藤俊輔の下から聞いた。伊藤俊輔は女から離れて下帯を拾った。

「力が強いのは、生まれつきだ」

 立ち上がると、伊藤俊輔は下帯を巻きながら答えた。女は上体を起こして襦袢の前を合わせ着物の裾を閉じた。

「お武家様のお供で、初旅なのかい」

 女はそう言った。伊藤俊輔は女の顔を見ながら座った。

「いや、初旅ではない。なぜそう思う」

「そう思っただけさ。遊び慣れてない様子だから」

 そう言うと、女は伊藤俊輔に微笑みながら立ち上がった。

「そうそう、おなかが空いていたンだね」

 伊藤俊輔を見下ろしてそう言うと、女は流し目を残して部屋から出て行った。

 食後、伊藤俊輔はその女を再び抱いた。女に誘われたといった方が良いような交わりだった。伊藤俊輔は女に挑発され、そして瞬く間に果てた。年増女に弄ばれたようだった。

 一刻ばかりして階下から桂小五郎の呼ぶ声がした。

「支度は良いか。出掛けるぞ」

 声に促されて、伊藤俊輔は階段を下りた。

 外に出ると、桂小五郎は真面目な顔で伊藤俊輔に聞いた。

「女から、何か聞き出したか」

 その問いの意味が分からなかった。伊藤俊輔は判然としない表情で首を横に振った。

「宿場の女は、街道の旅人をいつも見ている。どの様な者たちが街道を下ったか、上ったか。どの様な評判がこの近辺に立っているか。暮らし向きは良くなっているか、悪くなっているか。そうしたことを相手に気取られぬように、うまく聞き出すのも仕事だぞ」

 そう言うと、桂小五郎は伊藤俊輔を振り返った。

それは責めるような眼差しではなく、年若い弟に言い聞かせる兄のような温もりが感じられた。伊藤俊輔は劣情に衝き動かされて女と乱暴にただ交わっただけの自分を恥じた。

「草莽が時代を作る。その草莽を見ずして諸策を語るは風呂桶の水を見て大海を語るが如し、だ。良いね、伊藤君」

 諭すようにそう言うと、桂小五郎は何事もなかったかのように街道を歩いた。

 

 安政六年十月二日、桂小五郎と伊藤俊輔は江戸桜田の長州藩上屋敷に着いた。

 出府の道中、桂小五郎は伊藤俊輔に伝馬町の牢に繋がれている吉田寅次郎の身に危機が迫っていることを語って聞かせた。桂小五郎が急遽国許へ帰ったのもそのためだった。

 そしてまた来原良蔵が江戸へ出府するのも、吉田寅次郎の身を案じてのことだった。本来なら来原良蔵が萩を離れるのは許されない。長崎で仕込んだ直伝習の成果を藩兵制改革に生かす重要な役務が待っている。長州藩の兵制改革を進言し、その任に就いている者が萩を留守にすることなどあり得ないはずだ。実際に来原良蔵は山田亦介と共に着々と藩の兵制改革に邁進していた。しかも萩椿東中小畑の戎ヶ鼻に海軍造船所設立の建白の一件も着手前だ。やるべき仕事は山積していたが、来原良蔵はすべての仕事を放擲した。親友の急を聞くや、国許のあらゆる役務を投げ出した。上司が必死に諌めるのを無視して、江戸行の許可を願い出た。

 政務役山田宇右衛門に談じ込むと、来原良蔵の気迫に押されたかのように渋々ながら出府を許した。行くなと言ったところでまた新たな脱藩騒動を引き起すだけではないか、と悟ったようだ。しかし承諾するだけでは他の藩士たちに示しがつかない。そこで老練な政務役らしく江戸での御用を命じた。それは江戸藩邸の重臣たちから海軍造船所設立の同意を取り付ける、という厄介な仕事だった。それなら来原良蔵がこの時期に江戸へ出府しても、在郷の藩士たちから批判されることもない。もちろん自分も他の重役から来原良蔵に甘い、との謗りを受けないで済む。老政務役山田宇右衛門の亀の甲よりも年の功を示す措置だった。

 桂小五郎は桜田の江戸藩邸に着くと間もなく、有備館の御用掛を命じられた。

 有備館とは長州江戸藩邸の敷地内にある施設で、天保十二年に藩老村田清風の進言により江戸藩邸詰め藩士の文武鍛錬場として建てられた。桂小五郎を有備館の御用掛に任じたのは勝手に江戸の街を歩き回って、吉田寅次郎との繋ぎに狂奔しないかと危ぶんだからだ。

 実際にここ数年来、桂小五郎は藩邸に住まわなかった。以前から江戸にある時は斎藤弥九郎道場の一室に住み込んでいた。それは表向き道場の塾長の役目としてであったが、むしろ情報収集を役目とする大検使の勤めを果たす上で、藩邸に住んだのでは長州藩士としてあからさまに過ぎて、御役目遂行に支障があったからだ。この度は藩邸内の施設ではあるが、屋敷とは別棟の誰もが出入りしやすい有備館の一室で起臥することになった。伊藤俊輔も有備館入り口横の中間部屋に荷を解いた。

 桂小五郎はあらゆる伝を頼って、吉田寅次郎の罪を減ずべく幕府に働きかけた。伊藤俊輔は桂小五郎の活動を助けるために有備館の上り部屋でやって来る藩士たちの話し相手をしながら終日連絡役として常駐した。来客があればその応対をし、暇な時は書物を読み手習いをした。

 桂小五郎たちが萩をたってから十日後に来原良蔵も国許を発って江戸へ向かった。当時の江戸・萩間は徒歩でおよそ一月を要する。来原良蔵は九月半ば過ぎに萩を発ち、十月の半ば過ぎに江戸に着いた。京藩邸で仲間たちと痛飲することもなく、まっすぐに江戸へ向かったようだ。

 来原良蔵が江戸で命じられた役は有備館塾長だった。当然のことながら来原良蔵も有備館に寝起きした。そして日々桂小五郎のもたらす情報を沈痛な面持ちで聞いた。

 来原良蔵は伝馬町の牢獄に繋がれている吉田寅次郎を思うと心が痛んだ。吉田寅次郎を見捨てた、との忸怩たる深い悔恨があった。

 間部要撃の企てを知った折りに、来原良蔵は野山獄の吉田寅次郎に絶交状を送っている。それは逆上した自分の過った行為だっただろうか、と来原良蔵は自分を責めて気分は鬱積した。老中間部詮勝一人を要撃したところで何になるというのだろうか。いや、それよりも藩を間部要撃に巻き込むことなど到底許されない。米艦艇密航の企てを決意した折りに吉田寅次郎はすでに「死」を覚悟していたはずだ。吉田寅次郎は身命を賭してでも密航して西洋の兵法とその国力を知りたかったのではなかったか。それなら密航の企てが失敗に帰した折、既に寅次郎の命脈は切れているのではないか、と来原良蔵は自らを慰めたりもした。

 実際に吉田寅次郎が師と仰ぐ佐久間象山ですら「まず開国をせよ。そして国を富まし軍を強くして後、攘夷を実行せよ」と諭した。来原良蔵からすれば吉田寅次郎の行動はそうした方針で藩を動かそうと粉骨努力している同志の苦労を、むしろ蔑ろにするものでしかない。

 志士が攘夷論をふりかざすのは幕府を追い詰めるための便法だったはずだ。現実には夷国艦船をわが国の時代遅れの軍備で追い払えないことは、吉田寅次郎は百も承知している。そして老中間部詮勝が京へ上り攘夷派浪士を弾圧したとしても、それは時代を転回するためには避けて通れない犠牲だということも十分に承知していたはずだ。何もかも誰よりもすべて承知しているはずの男がなぜ間部要撃などと藩まで巻き込もうとしたのか。吉田寅次郎狂したか、と来原良蔵は憤慨した。だが、憂国の情が人一倍篤い男の心情が分からないでもなかった。そして、何よりも二人は刎頸の友だった。

 有備館入り小口の伊藤俊輔の部屋は溜まり場のようになっていた。昌平校遊学で出府した高杉晋作をはじめ江戸の松陰門下生が毎日のように顔を出した。彼等は牢に繋れた吉田寅次郎に差入れる金子の都合に奔走した。牢役人や獄卒は公然と袖の下を要求した。獄内の扱いは差し入れの金品の高で雲泥の差があった。

 当初こそ来原良蔵や桂小五郎が手持ちの金を用立ててくれたが、かれらの懐もすぐに底をついた。伊藤俊輔や高杉晋作に自由になる金は一文もない。その折り、江戸にいた白井小助が自身の長船祐定の差料を道具屋に売り払って七両を用立ててくれたりした。

 久坂玄瑞はすでに江戸にいなかった。伊藤俊輔たちと入れ違いに、西洋学門所官費生の役目を解かれて国許へ帰った。そして間もなく、高杉晋作にも帰国の命が下る。あたかも松陰の弟子たちによる不測の事態が起こるのを防止するかのように、藩は江戸から松陰の弟子たちを国許へ追い返していた。そして藩の措置をなぞるかのように、日を追って桂小五郎のもたらす吉田寅次郎を取り巻く状況は悲観的なものへと傾いていった。

 当初は誰も吉田寅次郎が極刑になると思ってなかった。江戸送りとなった夷国船密航未遂だけの罪状なら、悪くても「遠島」止まりと思われた。前例から推測すればせいぜい他所預かりの罪だ。吉田寅次郎本人もそう思っていた節がある。その証拠に、高杉晋作たちに遠島で十年ぐらいのんびりと過ごすのも良いかも知れない、と獄中から文を書き送っている。

 だが取り調べの白州で、吉田寅次郎は問われもしなかった間部要撃計画を論述した。自殺行為とも受け取られかねない自白をしたことになるが、吉田寅次郎は白州で彼の攘夷論を述べるつもりだった。かつて密航未遂で自訴した折り、浦賀奉行所では洋学の必要性を説く吉田寅次郎の言に幕吏たちは耳を傾けた。この度も幕吏たちは耳を傾けるものと思っていた。しかし、吉田寅次郎は見通しを誤った。間部要撃の謀を聞いた幕吏たちは驚き、激しく寅次郎を憎悪した。老中間部詮勝は井伊大老の腹心だった。しかも、吉田寅次郎の若い志士たちへの影響力もすでに密偵の調べで幕府の知る処となっていた。

 十月二十七日早朝、裁きがあった。下された断は斬首だった。

 直ちに伝馬町獄刑場で刑が執行された。

  親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ

 吉田寅次郎の辞世である。享年三十歳。

 吉田松陰刑死の悲報が藩邸に届いた。かねてより伝馬町に手配していた長州藩医者尾寺新之丞と松下村塾門下の藩士飯田正伯により有備館に伝えられた。桂小五郎と伊藤俊輔は脳天を斧で叩き割られたような強い衝撃を覚えた。覚悟を決めていたとはいえ、いざその報に接すると悔し涙が流れて止まなかった。

松下村塾の双璧と謳われた二人は萩で松陰の死を知ることになる。久坂玄瑞は萩にいたが高杉晋作は萩への帰途にあり、大坂から中ノ関へ寄港する廻船に乗ったばかりだった。

 江戸にいた来原良蔵も所用で出掛けていた。来原良蔵は造船所開設の件で、江戸藩邸の重臣たちへの根回しも首尾良く果たし、今では横浜の外人街へ頻繁に出掛けている。藩に洋式兵制と最新の武器を導入すべく、横浜の夷国貿易商館を訪ね歩いた。そればかりではない、横浜港に無数に停泊する夷国艦を事細かに観察した。来原良蔵は萩の造船所で洋式艦船を建造すべし、と藩に建策していた。

 吉田寅次郎処刑の報に接するや、桂小五郎は飯田正伯に松陰の遺体を引き取るべく画策した。処刑当日に桂小五郎は飯田正伯に命じて伝馬町の獄舎へ赴かせた。これまで差し入れで顔見知りになっていた獄卒の金六に若干の金子を与えて、遺体引き取りの折衝を伝馬町の役人にさせたが聞き入れられなかった。

 業を煮やした飯田正伯は翌二十八日に自ら伝馬町の役人と直接交渉に当たり、金子も十分に握らせた。それが功を奏したのか、獄中死骸の始末に困るという口実に無縁仏を葬る小塚原回向院に昼過ぎに送るので、そこで引き取るようにとの内々の沙汰があった。

 昼下がりに飯田正伯が藩邸にその報を持って帰ると、桂小五郎と伊藤俊輔はすぐさま松陰の遺体を引き取りに行くことにした。桂小五郎たち三人は役人の到着を回向院で待った。回向院の墓地で待つ間、沈痛な面持ちで誰一人として口を開く者はなかった。昼過ぎに引き渡すと言っていたが、遺体が届けられたのは陽も大きく傾き夕暮れ間近だった。

松陰の遺骸は四斗樽のなかに押し込められていた。『面色猶生けるが如く……』とある。首を拾うと縫髪が乱れて顔にかかっていた。身体は丸裸だった。刑死者の衣類は獄卒たちが余禄として剥ぎ取るのが習わしになっていた。

 桂小五郎たちは咽び泣いた。さっそく髪を結び顔の血を洗った。その水を流した柄杓の柄で首と身体を接ぎ合わせようとしたが、役人がそれを拒んだ。斬首で刑死した者の首を死後とはいえども繋ぐことは許されなかった。万が一にも検死改めがあったなら、首を接合した咎が自分に及ぶことを恐れたためだった。

 せめても裸の体に衣類を着せようと、飯田正伯は黒羽二重の下衣を桂小五郎は襦袢を脱いで遺骸に着せ、伊藤俊輔は帯を解いてそれを結んだ。松陰先生を裸のまま永眠させるのは忍びなかった。

 死骸を甕に納めると、橋本左内の墓の左方に埋葬した。そして、運んで来た石を墓碑と見立ててその上に立てた。橋本左内は若い頃に適塾で蘭方医を学び、帰藩すると藩主松平春嶽の側近として十四代将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政改革を訴えた。安政五年に井伊直弼が大老に就いて安政の大獄が始まり、藩主松平春嶽が謹慎蟄居に服すと橋本佐内にも咎が及び、二十日ばかり前に同じく斬首された。享年二十五歳と短い生涯を終えていた。生前二人に面識はなかったが、彼らは幕政改革の志を同じくしていた。

 率先垂範。吉田寅次郎は死によってすら、弟子たちを教育した。志を遂げることが人をいかに過酷な運命に導くか。そして、士たる者はいかに身命を賭して目的に立ち向かうべきか。吉田寅次郎は自らの死を以って示した。獄中で死罪を覚悟して書き遺した『留魂録』は飯田正伯の手を通して萩へ送られ、門下生によって回読された。その書の冒頭には次の歌が記されている。

  身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも 留置まし大和魂

 吉田寅次郎の死は弟子たち一人一人に決意を固めさせた。萩の町へ辿り着いた高杉晋作は、国許に届いていた松陰斬首の報に接した。吉田寅次郎の刑死を知ると高杉晋作は周布政之助に手紙を書いている。その中で『松陰先生の仇は必ず討ち果たす』と記した。周布政之助は村田清風の系譜に連なる改革派の政務役だった。

 翌日から、桂小五郎が変わった。

 内に秘めていた闘志が剥き出しになった。ひたすら吉田寅次郎の身を案じていた重しが取れたかのように、桂小五郎は伊藤俊輔を従えて攘夷派浪士たちと会合を重ねるようになった。それは諜報活動の領域を超えて倒幕の動きへと踏み込んでいた。

 桂小五郎は頻繁に水戸浪士たちと接触した。水戸は徳川の御三家でありながら、『大日本史』の編纂に尽力した二代藩主水戸光圀以来、藩風は勤王だった。

来原良蔵は桂小五郎を危ぶんだ。一夜、有備館塾長の部屋に桂小五郎を呼んだ。

「小五郎、よう出歩いちょるようだが、何処へ行っちょるンじゃ」

 来原良蔵は相好を崩して、笑うように言った。

 桂小五郎はその様子に安堵したように頷いた。すると、急に厳しい目をして来原良蔵は威儀を正した。

「誰と会うちょるんか知らんが、小五郎、命は大事にせんとな。貴殿まで井伊大老に睨まれてしまうぞ」

 その鋭い言葉に桂小五郎は表情を引き締めた。目が剣客の光りを放った。

「来原さん、幕府は倒さにゃいけん。もはや腐っちょる」

 桂小五郎の一途な物言いに、来原良蔵は曖昧に頷いた。

 吉田寅次郎の教えは病原菌のように周囲の者たちを吉田病に感染させる。口を開けば「攘夷」だ「倒幕」だと物騒極まりない。直情径行もほどほどにしないと命がいくらあっても足りない。

「倒す倒す言うても、どうやって倒すンじゃ。それに日本を窺う夷国の脅威もあるぞ。国が内戦状態になっては、朝幕両方にとって損じゃないか」

 来原良蔵は揶揄するような口吻で具体的な方途について聞き返した。言葉を発する以上はそれを実行する確実な方途が用意されていなくては「虚言」と批判されても仕方ないだろう。

「夷国に対しては、攘夷を断行します」

 桂小五郎は激高したように言葉を放った。

「のう小五郎よ、先年隣国清が英国の陸戦隊に破れたのは存じておるじゃろう。それがため領地を割譲され、租借地まで取られた。今の我が藩の軍事力では、攘夷は出来ぬ。戦えば必ず破れる。まずは国を開き、交易を盛んに行って国力を蓄えて、軍艦を造り兵制を洋式に改めねばならぬ。勝てぬ戦争など、最初から仕掛けてはならない。多くの人々を不幸にするだけでなく、国家存亡の危機すら招きかねない」

 と、来原良蔵は説いて聞かせるように持論を述べた。

「それは分かっています。しかし、松陰先生の仇を討たなければなりません」

 そう言うと、桂小五郎は俯いて涙を流し絶句した。

 伊藤俊輔は二人の話を部屋の隅に畏まって聞いていた。桂小五郎の心情は伊藤俊輔にも痛いほどよく分かる。いますぐにも幕府を相手に討ち入りを果たしたい心境に変わりはない。しかし冷静さを取り戻すと、自分の考えは来原良蔵の方により近いと思った。

「いかに斉藤道場の免許皆伝というても、剣客桂小五郎一人では戦は出来ん。それこそ寅次郎が言っていた草莽の崛起を俟たねばなるまい」

 来原良蔵の口吻はあくまでも沈着冷静だった。

 しかしそれがよほど気に障ったのか、桂小五郎は憤怒の表情を刷いた。

「来原さん、決して命を粗末には致しません。しかし、僕には僕の使命があります。それをどうしてもやり遂げなければなりません」

 そう言うと、桂小五郎は一礼して立ち上がった。

 来原良蔵はもはや止めなかった。伊藤俊輔は去って行く桂小五郎を座ったまま見送った。来原良蔵は腕組みをし、部屋の片隅で小さくなっている伊藤俊輔に視線を転じた。

「小五郎は一途じゃのう。そこもとを桂に預けたが、却って危ないかも知れぬ」

 来原良蔵は呟くようにそう言った。

 

 江戸の町に不穏な空気が満ちていた。

 安政六年六月横浜開港以来、江戸市中の物価は高騰を続けている。

 永く続いた鎖国策により国内は需給均衡が保たれ物価は比較的安定的に推移していたが、外国貿易の拡大により需給均衡が崩れて江戸市中では品不足と物価高が起きた。

 翌年三月、五品江戸廻送令が出され、雑穀、水油、蝋、呉服、糸の五品目については地方から直接横浜へ送ることを禁じ、一旦江戸を回送するように商人に命じたが、その効果はまったくなかった。また、天保年間末期より始まったお伊勢参り『ええじゃないか』は全国に広まり、閉塞感に満ちた幕藩体制に漠然とした不安が高まった。もはや時代の胎動を押し止めるには弾圧による締め付けでも、穏健な路線でも済まない処まできていた。

 明けて万延元年(一八六○)一月十九日、幕府は一隻の機帆船を米国に遣わした。品川沖から薪炭の積み込みに浦賀へ立ち寄った後、サンフランシスコを目指して出港した。船名は咸臨丸。オランダから買い入れた三百八十トンの螺旋式推進帆走船だった。艦長勝燐太郎で正使木村摂津守らを乗せて条約の批准書を交わすための使節として、日本人による最初の太平洋横断だった。

 桂小五郎の水戸浪士との交わりはいよいよ濃くなった。伊藤俊輔も従者として桂小五郎の傍にあって、自然と水戸浪士とも識り合った。彼らの言動は日に日に激しくなった。桂小五郎の動きと軌を同じくするように、強圧的な伊井大老の弾圧政策による閉塞状況を武力によって打開しようとする動きが台頭して来た。 

 万延元年三月三日、珍しく雪の降りしきる朝、登城途中の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された。水戸と薩摩の浪士たちの仕業だった。安政の大獄といわれ、恐怖政治を断行した張本人も自らの血の海に殪された。

 四月三日、来原良蔵は有備館塾長を辞して国許へ帰った。洋式兵制の必要性を江戸藩邸の重役たちに説いてまわりその意見が聞き入れられた。江戸での仕事は終わった。後は国許へ帰り藩兵制改革に着手しなければならない。それに進水式が来月に迫っていた。

 萩の小畑浦の戎ケ鼻岬にある軍艦製造所で長州人の手による最初の木造洋式軍艦を作っていた。その艦は後に庚辰丸と命名されることになる。洋式帆船の建造に是非とも立ち会いたかった。

 その一方で、有備館を後にする来原良蔵は江戸に残す桂小五郎たちが気になった。尊王攘夷に突き進む桂小五郎たちをそのまま放置しておくことに一種の脅威を感じた。が、かといって桂小五郎に苦言を呈しても無駄なことは分かっていた。後ろ髪を曳かれる思いで、来原良蔵は江戸を後にした。来原良蔵が去った後、有備館の塾長には桂小五郎が就任した。

 この時期、桂小五郎は伊藤俊輔を伴って数度にわたって水戸へ赴いている。幕吏の目をかいくぐって水戸へ行き、水戸藩士と密談を重ねた。元来、水戸藩は御三家の中でも他の尾張や紀州とは立場が異なった。将軍を出さないことと引き替えに、参勤交代の義務を解かれて常に江戸城に詰めた。そのため俗に副将軍と呼ばれたが、藩の空気は光圀以来勤王だった。毛利家も元就以来勤王を以って任じ『大膳大夫』との称号を朝廷より賜っている。水戸毛利両藩は勤王において近い。話し合うほどにやがて、その成果が一つ実った。

 七月十八日夜、江戸下谷の鳥八十という料理屋で桂たちは密談した。長州藩からは桂小五郎、松島剛蔵らが顔を出し、水戸藩からは西丸帯刀、岩間金平、園部原吉、越惣太郎らが出席した。そこでの相談はある密約についてだった。翌月八日人目を避けるため、萩から松島剛蔵が艦長として回航し江戸品川沖に停泊していた長州藩所有の丙辰丸の船中に彼らは再び集まった。そこで『成破の盟約』が交わされた。それは長州と水戸の分業を約したもので壊すこと、つまり殺戮は水戸が受け持ち、成ることつまり政治的蝶略を長州が受け持つという盟約だった。

 井伊直弼亡き後、幕府は独断専行を排すため幕閣による集団指導体制を採った。そして幕閣の主導権を老中安藤信睦が握った。そして世情を騒然とさせた井伊の力による弾圧に代わって、尊攘派を抑えるために安藤信睦が中心となって画策した妥協策は公武合体だった。

 公武合体とは文字通り朝廷と幕府が手を結ぶことによって反幕府を押え込み、四方丸く収めるという朝廷抱き込み策だった。その具体策は孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の正室として降嫁させ、幕府の威信を保つとする政略結婚だった。安藤信睦は尊皇派を宥めるために、厚かましくも強引な策略を幕府は朝廷へ申し出た。

 和宮には六才の折りに婚姻を約した宮がいた。その相手は有栖川熾仁親王だった。が、それを承知の上で幕府老中久世広周、安藤信正らは公武合体を強行した。政略結婚により公武一和、国内一致をなし然る後に攘夷を決行する、という名目で朝廷を説き伏せ従わせた。しかし、その欺瞞性が尊攘派浪士の怒りに油を注いだ。

 折りも折り、老中たちの公武合体策を補足する新たな策が長州藩直目付長井雅楽からもたらされた。それは『航海遠略策』と称され、内容は朝廷と幕府は反目し合うのではなく、朝廷が幕府に開国を命じて国内の意志を統一し、海軍力を増強し以って貿易を盛んにすれば世界を圧倒することができるというものだった。長井雅楽は大組士中老長井泰憲(馬廻役三百石)の長男として文政二年(一八一九年)五月に生まれた。母は家老福原利茂の娘で長州藩でも名門中の名門の嫡男として育ったが、四歳の時に父が他界したため幼子相続の定めにより家禄を半減させられた。後に小姓として藩主の近くに仕え、奥番頭などを歴任した。長井家屋敷の近くには前原一哉や周布政之助などの屋敷があった。

 万延元年五月十五日、長井雅楽は意気揚々と朝廷に「航海遠略策」を記した建白書を上奏した。現実を重視した「航海遠略策」は開国と公武合体を融合させた論理で幕府にとっては好都合だった。それが徳川幕府の世にあって、長州藩が中央政界に影響力を行使した最初の出来事だった。

 しかし討幕を目指す桂小五郎たちにとっては許し難い愚挙でしかなかった。もとより桂小五郎たちは「松陰先生の敵を討つ」という決意で固まっている。幕府と朝廷の手を握らせる航海遠略策は利敵行為以外のなにものでもない。しかも長州藩の重役の直目付が献策したとあって、桂小五郎たちに強い衝撃を受けた。長井雅楽が長州藩を代表していると水戸浪士たちに受け取られたなら、桂小五郎たちの命は危ういものとなる。狂信的な攘夷論者から裏切り者として背後から斬りつけられかねない。

 生来、桂小五郎は慎重な男だった。斎藤道場の免許皆伝が嘘かと思えるほど、周囲に細心の注意を配った。それは対人関係において如実に示された。この時代武士は一言居士を身上とし、言い訳をしたり逃げ隠れしたりすることを潔しとしなかった。人から後ろ指をさされれば名を惜しんで腹を切って命を捨てた。しかし桂小五郎の身の処し方はそうした武士の生き方とは異にした。

そもそも桂小五郎は武士の出自ではない。藩医和田家に生まれ、九歳の折り藩士桂家に養子に出されたが間もなく養父母が相次いで亡くなったため和田家で育った。医師の家で育ったためか、剣客として修行を積み免許皆伝まで上達したが、生涯一度も剣により人を倒すことはなかった。

あたかも患者の見立てを行う医師のように、世間の変化や相手の立ち居振舞いを観察した。伊藤俊輔も桂小五郎に従ううちに、医師が患者を見立てるように人を観る習癖を身に付けた。ことに藩士でもない伊藤俊輔にとって、人を見る鑑識眼を養うことは激動の時代を生き抜く上で必要不可欠だった。そうした眼が養われていなければ、巷にあふれる大言壮語に命を賭す浪士の口車に乗って、無用な乱闘に巻き込まれ命を落とすことになる。

 長井雅楽が江戸で脚光を浴びていた当時、久坂玄瑞は再び萩から出府して江戸藩邸にいた。万延元年二月、江戸から国許へ戻された久坂玄瑞は郷里で松陰の訃報を聞き、墓碑を在萩の塾生たちと建てている。その年の四月、西洋学問の習得を藩に命じられ、江戸の蕃書取調所教授内堀達之助の門下に入り、長州藩麻布藩邸から通っていた。

 その当時、松下村塾の双璧と称された高杉晋作は萩にいた。国許に帰った翌年の万延元年一月に嫁を娶っている。嫁の名は雅(まさ)といった。年は十六才。色白瓜実顔の評判の美人で山口町奉行七百石井上平右衛門の二女だった。当時としては当然のことながら、雅との婚姻は高杉晋作が希望したことではなかった。それはお家安泰を願う父小忠太の計らいだった。嫁を娶らせれば暴れ馬の晋作も少しは尻が落ち着くだろうと考えた。高杉晋作にしては珍しく父親の命に従順に従って妻を娶り、藩から役職として明倫館舎長を戴いた。高杉晋作は二十一歳になっていた。

 しかし一月と経たないうちに高杉晋作は飽きあきしてしまった。父親が手を回した明倫館舎長に収まり、自宅で新妻と不慣れな新所帯の主人を演じてみたが、どうにも腰の据わり具合が悪い。嫁を娶った翌二月には明倫館舎長を勝手に辞して軍艦教授所に入学し、さらにその翌月には軍艦丙辰丸で江戸へ出てしまった。ただ航海の間ひどい船酔いに悩まされたため「船は体に合わぬ」として、江戸に上陸するや直ちに軍艦教授所を辞めている。

無役になった高杉晋作は江戸藩邸でぶらぶらと過ごし、久坂玄瑞たちが国事に奔走しているのを冷ややかに眺めていた。しかし八月に突如として藩に願い出て暇を賜り『試撃行』と称して信州に佐久間象山などを訪ねた。その後萩へ帰郷して、高杉晋作は心ならずも彼の人生において最も平穏な日々を萩で過ごしている。

 伊藤俊輔は桂小五郎の命を受けて江戸の町を走り廻っていた。桂小五郎と共に有備館で寝起きし、諸藩の浪士たちと密会し攘夷活動を資金面などで支援した。

 

 ある夕刻、桂小五郎は桜田藩邸に呼び出された。政務役周布政之助から妙な用向きを命じられた。藩から流失したある人物を「随藩させよ」というものだった。

 市井から人材を求め藩が召し抱えるなら、桂小五郎にとって造作ないことだ。かつて経験があった。嘉永年間幕府の大船建造禁止令が解け、藩でも洋式造船技術の習得が不可欠との判断から早速桂小五郎に命が下され浦賀の船大工を集めたことがある。

 しかし、この度の役向きは船大工を随藩させるのとは勝手が違った。相手は幕府や宇和島藩、加賀藩から高く評価され禄を頂戴している高名な蘭学者だった。

 実はその男を藩に随身させようと工作したのは桂小五郎だった。吉田寅次郎の遺体を千住小塚原の回向院の墓地に埋葬した帰り、その寺の境内で女囚の腑分けが行なわれていた。藩医の家に生まれた桂小五郎は興味があって立ち寄り腑分けを見物した。

腑分けを執刀していたのは三十半ばの男だった。彼は小刀をとって腑分けを行ない、覗き込む江戸の蘭方医たちに詳しく説明していた。見物人に聞けばその男は幕府蕃書調所の教授手伝いであり、しかも講武所の教授として洋式兵法を講じているという。腑分けにあたって彼が片手に参考文献として使っていた『解剖手引書』もその男が蘭書を翻訳して意見を加えたものだという。さらに驚いたことに、その男は長州人だという。

 桂小五郎はその男を知らなかった。男は日本海に面した萩から遠く離れた周防国の鋳銭司村の村医者だった。長州藩からすれば一領民に過ぎない。しかし、彼の非凡な学識を知ると幕府に召し抱えられては大変だと考えた。講武所教授は雇いだから筋道を立てて交渉すれば辞めさせることはできるが、幕臣に取り立てられてからでは手出しができなくなる。

 桂小五郎は藩邸に帰ると、数人の重役にそれとなくその男のことを話した。重役の命によりその男を藩で召し抱える格好にしなければ、桂小五郎が独断で隋藩させることは出来ない。当時の桂小五郎には藩の人事に口出し出来る力はなかった。

 翌朝早く桂小五郎は出掛ける支度をした。そして、いつものように伊藤俊輔を呼んだ。

「伊藤君、これから訪ねるご仁は、ちょっと厄介だ」

 伊藤俊輔が塾長部屋へ入ると、桂小五郎は脇差しを腰に差している処だった。藩の正使として出掛けるのか、紋付き羽織に袴を履いていた。伊藤俊輔の身なりはいつもの平服に武者袴を付けただけのものだった。

「どの様なご仁ですか」

「うむ」

 と言って、桂小五郎は剃り痕の青い顎を撫ぜた。

「長州人らしいが、藩は彼の御仁を知らなかった。吉敷郡鋳銭司村の村医者で、名を村田蔵六という。面体は異形だ。年は三十と六。藩の命により随藩を乞いに行く」

 問わず語りにそう言いながら、桂小五郎は玄関へと向かった。剣術修業で身に着けた擦り足のためか、廊下を歩く桂小五郎の足音は聞こえない。

「輝かしいばかりの経歴だ。漢籍は豊後の広瀬淡窓に学び、蘭学を大坂の緒方洪庵に学んでいる。一時期長崎へ赴いて蘭学を深め、大坂に戻って適塾の塾長になった」

「ほほう、適塾の塾長ですか。それなら、三百石ですね」

 と、伊藤俊輔も草履を履きながら言った。

 幕末期、諸侯は競って学問に熱を入れた。江戸大坂の名高い学者を召し抱え、家臣に学問をさせるのが流行となっていた。城下で家臣に教えないまでも、江戸屋敷に高名な学者を召し抱えるだけでも藩の名誉となった。名の知られた塾の塾長経験者ともなれば召し抱える報酬は百石を下だらないが、数ある私塾の中でも適塾は破格の扱いを受けた。伊藤俊輔が三百石と禄高を口にすると桂小五郎は顔を歪めた。それが妥当な相場だった。

「藩のお偉方はそれほど出せないと云う。長州人であれば、たとえ微禄でも藩のために喜んで帰参すべきである、と。やれやれ、面倒な交渉になりそうだ」

 そう言うと、桂小五郎は手にしていた差料を腰に落した。

 門を出ると桂小五郎は颯爽と先を歩いた。その後を追い掛ける伊藤俊輔の額には汗が浮いた。初夏の日差しが埃っぽい道を白く照らしていた。

 目指すは番町新道一番町。

 安政元年、村田蔵六は幕臣篠山家の屋敷を買い取り、今はそこで蘭学を教えていた。塾は名を鳩居堂といった。鳩居堂の名は既に広く聞こえ、門弟は全国から集った。村田蔵六は自宅で私塾を開く傍ら、九段にある幕府の蕃書取調所の教授手伝いであり、作られたばかりの築地の講武所の洋式兵学教授をも兼ねていた。雇いでありながら幕府からつごう二百石に相当する厚い手当を頂戴している。また、宇和島藩から二百石の禄を頂戴しつつ、しかも加賀藩からも手当をもらって蘭書翻訳の役目をも仰せ遣っていた。俸給だけを見れば村田蔵六は長州藩の政務役にも匹敵する収入を得ていることになる。

「適塾で学んだ後、一時期国許へ帰り、村医者をしていたらしい」

「それで、はやったンですか」

「いや、周防鋳銭司村での評判はすこぶる悪い。寡黙にして無愛想」

 そう言うと、桂小五郎は小さく笑った。

「その後、宇和島藩から乞われて出仕している。その折りに蘭書を頼りに蒸気船を作り、船を宇和海に浮かべて伊達侯の御前で見事に蒸気機関で動かしたという。村田蔵六という御仁は希代の天才やも知れぬ」

 そう言うと伊藤俊輔に振り向いて頷いた。

吉田寅次郎が「理」の天才ならば、村田蔵六は「道理」を実践する当代随一の天才というべきだろう。伊藤俊輔は驚いたように再び「ほほう」と声を上げた。

「しかも、蘭学だけではない」

 と、更に桂小五郎は言葉を継いだ。

「先年、これからは蘭学ではなく英学ということで、横浜の米国博士ヘボンと称する医師に就いて英学を修めているそうだ」

 そう言い、呆れたというように桂小五郎は微笑んだ。

伊藤俊輔もその桂小五郎に合わせて頷いた。

「その御仁は英学まで習得されているのですか」

 頷きながら、伊藤俊輔は呟くように「英学ですか」とぽつりと言った。

 かつて、吉田寅次郎は弟子たちに蘭学の必要性を説いた。広く知識を世界に求めなければ、国を閉ざしている間に遅れてしまった西洋に到底追い付くことは出来ない。繰り返しそう言ったが、吉田寅次郎本人はついに蘭書を紐解かなかった。

 吉田寅次郎は蘭学を学べと勧めたが、しかし今は蘭学すらも古臭いものになっているようだ。これからの時代は英学なのか、と伊藤俊輔は驚きとともに心に刻んだ。

 新道一番町の鳩居堂は繁盛していた。笈を負って地方から出て来た生徒たちで、整然と並べられた下足は玄関の外まで溢れていた。敷居の外から来訪を告げると若い書生が出て来た。

「拙者は長州藩士桂小五郎である。これに控えるは朋輩伊藤俊輔である。藩命により、村田蔵六殿にご面会に上がった。何卒お取り継がれよ」

 桂小五郎は威儀を正してそう言った。

 桂小五郎と伊藤俊輔の関係は主従である。しかし、桂小五郎は常に伊藤俊輔を人に朋輩として紹介したし、日常そのように接した。

「ははっ。しばし待たれよ」

 そう言うと、書生は奥に引っ込んだ。間もなく先刻の書生が出て来ると、桂小五郎たちを玄関脇の小部屋へ案内した。掃除が行き届かないのか、妙に埃っぽい部屋だった。

 一刻半も、そこで桂小五郎たちは待たされた。奥では延々と講義が続いているのか、時折師弟の問答がその小部屋まで聞こえて来た。桂小五郎は怒るでもなく不機嫌になるでもなく、腕組みをして平然と目を閉じていた。幾度となく伊藤俊輔は立ち上がり奥の様子を窺った。やがて、午になった。

「何のご用件でしょうか」

 一人の男が部屋へ入って来ると、いきなりそう聞いた。講義疲れか声が嗄れている。自己紹介も時候の挨拶もない。その単刀直入さが却って清々しいほどだった。

 異形、と桂小五郎から聞かされていたが、その男の顔は正に異形だった。額がことのほか広い。ほとんど顔の半分近くが額だった。その下に目鼻口が圧縮されている。それに、太い眉の端がぴんと跳ね上がっていた。後年、村田蔵六の面体を高杉晋作は『火吹き達磨』と評した。それは言い得て妙だった。

「拙者は、」

 と、桂小五郎が名乗ろうとすると、村田蔵六は無愛想な表情のままに、

「既に、書生から聞いています」

 と言って、村田蔵六は右手で桂小五郎を制した。

「私は忙しい。ご用件は手短にお願いしたい」

 と言う不愛想な物言いに、さすがの桂小五郎も少なからず心外そうに顔を歪めた。

 自分は藩命で来ていると告げてある。その自分に対してそう言うのは藩に対して礼を失していないだろうか。桂小五郎は少なからず憤然とした。

「藩命である、ご随藩願いたい」

 桂小五郎はそう言って、形ばかり頭を下げた。すると、村田蔵六は心外そうに口を尖らせて、わずかに小首を傾げた。

「私は長州人だが、長州藩士ではない。従って、私に藩命は何の意味もない」

 そう言うと村田蔵六は立ち上がり、考え込むように腕を組んだ。

「明日は忙しくて時間が取れない。明後日の午後に来られよ。結論を出しておきます」

 それだけ言うと、村田蔵六はそそくさと奥へ入ってしまった。

 取りつく島がないとはこのことだろう。驚くほどの無愛想だった。しかし、怒るというよりもどこか清々しかった。門を出ると桂小五郎と伊藤俊輔は顔を見合わせて苦笑した。

 約束の日の午後、桂小五郎と伊藤俊輔は新道一番町の鳩居堂へ出掛けた。玄関先で来訪を告げると、前と同じく小部屋に通され、そして待たされた。

 桂小五郎は待ちながら、帰藩後の役職と待遇についてどの様に説明しようかと心を痛めた。村田蔵六を召し抱えるのに、藩が用意した待遇は到底相応しいとはいえない。重臣に村田蔵六の現在の立場と収入を、口を極めて繰り返し述べた。しかし藩人事の秩序を盾に取って藩邸の重役は僅かな扶持しか出せないとの返答を繰り返した。桂小五郎はそのことに憤慨し、心を痛めた。

 日脚が伸び夕暮れが迫る頃、村田蔵六は現れた。部屋へ入るとすぐに膝を折った。

「ご用向きの件、承知しました」

 と開口一番、村田蔵六は言った。

 その余りのあっけなさに桂小五郎は「えっ」と声を上げた。

「早速のご承諾、誠にかたじけない。お礼を申し上げる」

 桂小五郎はそう言って、形式通り深々と頭を下げた。

「それでは、これにて」

 それだけ言うと、すぐに村田蔵六は片膝を立てた。

「あっ、いや、待たれよ、村田殿。誠に申し上げ難いことだが、貴殿のご扶持は、」

 と、桂小五郎は慌てて待遇の説明をしようとした。すると、村田蔵六は太い眉を寄せて桂小五郎に視線を落とした。

「扶持は暮しが立てば、いかほどでも構わぬ」

 眉一つ動かさず、村田蔵六は無愛想に言った。

 村田蔵六の関心事に世俗的なものが入り込む余地はなかった。恬淡としているというよりも、禄高や世間的な地位や名誉には無関心といった方が良いだろう。しかし桂小五郎には後々齟齬を生じないために、藩が用意した処遇を説明しておく必要があった。

「藩の待遇は、二十五俵にて候。今現在、村田殿が頂戴しておられる待遇とは比較にはなり申さん。十分の一ばかりかと、」

桂小五郎はそう言って、表情を歪めた。すると、村田蔵六は浮かしていた腰を心持ち下げた。村田蔵六は世情には無関心だが、数字の誤謬を見逃すことは出来なかった。

「正確には、」と、村田蔵六は尾の跳ねた太い眉を寄せた。

「およそ十八分の一でござる。しかし、飢えなければいかほどでも良い」

 それだけ言うと、村田蔵六は立ち上がった。

「細かい話は、書生にして下さい。佐々木という者です」

 そう言い残すと、見送りもせずに村田蔵六は立ち去った。すでに村田蔵六の脳裏から二人の存在は消えているかのようだった。

 次の講義が始まるのか、生徒たちが廊下を続々と奥の部屋へと向かっている。

 村田増六と入れ替わるかのように、顔見知りの書生が部屋へやって来た。

「先生は国許へ戻られると言っておられます。いつどのようにして、ですか」

 佐々木も村田蔵六流で無駄口は一切たたかない。それかといって不快ではない。無愛想なのではなく、実用本位とでも言うべきなのだろう。

「当分の間、桜田藩邸の有備館にて洋式兵学を藩士に講義して頂きたい」

「当分、とは」

「国許で建設中の博習堂の準備が出来るまで。年内には整うでしょう」

「先生のご身分はいかがなりましょうや」

 と、佐々木は聞いた。その問に桂小五郎は一瞬言葉を呑んだ。村田蔵六の経歴に照らすなら藩士として遇すべきである。それも重役級の役職を以て任ずべきが適当であるが、しかし保守的な重役たちはそれを許さなかった。鋳銭司の村医者に過ぎない者はいかに厚遇したとしても「卒」以上には出来ない、と桂小五郎の進言を退けた。

「博習堂御用掛です。身分は卒」

 『卒』とは足軽中間に相当する身分である。『士』の配下に属して藩士の命に従う。よって藩主に目通りできる直属の家臣ではなく、行政体系からいえば藩士に仕える中間と同じ小者でしかない。

「分かりました。かように、先生に伝えます」

 そう言うと、佐々木は両手をついて頭を下げた。桂小五郎たちもそれに倣った。

 鳩居堂を後にすると、桂小五郎は伊藤俊輔を辛そうな目で振り返った。

「僕は恥ずかしい。天下の学者を招聘するというのに、藩はこの体たらくだ」

 桜田の藩邸へ歩を進めながら、桂小五郎にしては珍しく愚痴ともつかない重臣批判を口にした。

概して、桂小五郎は藩に従順な男だった。下級士族から登用された若い藩士が藩そのものを相手にして暴れ回るにはまだよほどの覚悟が必要な時代だった。ただ、桂小五郎の身辺に自由な空気が漂っていたのは、藩組織から離れた医師の家で育ったせいかもしれなかった。

 桂小五郎の後を歩きながら、伊藤俊輔は別のことを考えていた。伊藤俊輔の立場は藩医の家に生まれ育った桂小五郎とはまた異なっている。身分の低い中間で、しかも桂小五郎の従者という立場では直接藩政に関与することなど思いも寄らない。しかしその反面、中間という身分にはそれなりに窮屈さを感じさせない伸びやかさがあった。伊藤俊輔にとって藩の存在は桂小五郎が意識するほどの重みを持ってはいなかった。

「いいじゃないですか、桂さん。村田先生はお受けなさったのですから」

 そう言って伊藤俊輔は桂小五郎を慰めた。伊藤俊輔にとって大切なのは体面ではなく実利だった。桂小五郎は伊藤俊輔の言葉に頷いた。

「変わった人物だと聞かされていたが、そうではない。単に道理の勝った人でしかない」

 桂小五郎は呟くように言った。その桂小五郎の村田蔵六評に、伊藤俊輔も即座に頷いた。「来原様は山田亦介殿といま萩で東奔西走されている。藩の兵制を洋式に一新するために、まさしく獅子奮迅のお働きだ。村田蔵六殿にご助力頂ければ、お仕事も捗ることだろう」

 そう言う桂小五郎の表情に、満足そうな笑みが浮かんだ。

 村田蔵六の随藩は当時国許で来原良蔵、山田亦介らが中心となって推し進めている兵制改革を一層強力に推進するためのものだった。

 後年の慶応二年(一八六六)六月、長州藩の存亡をかけた第二次征長戦争(長州藩では『四境の役』と呼んだ)が勃発する。元治元年(一八六四)の第一次の場合は戦わずして長州は白旗を掲げて恭順の意を幕府に示した。しかし第二次の場合では長州藩は四方を包囲する十数万もの徳川幕府軍と敢然と戦った。その折に長州藩の首相格になっていた桂小五郎は村田蔵六を長州軍の参謀に抜擢し、石州口の采配を彼に任せている。桂小五郎は村田蔵六の才覚を正しく評価し、後の世に大村益次郎の名を歴史に刻ませた。鳩居堂で最初に出会った瞬間に、桂小五郎は剣客の鋭い直感で村田蔵六という男の才覚を見抜いていた。

 

 万延元年、桂小五郎の行動は水面下に終始した。

 長井雅楽の航海遠略策は朝廷を動かし、幕府の好感触を得ていたがまだ長州藩の藩是にはなっていなかった。桂小五郎が策動した成破の盟約も水戸浪士の桂小五郎に対する信頼感がいま一つ成熟せず、何ら効果を上げていなかった。それは、長井雅楽の動きが他藩の浪士たちには長州藩の方針と映り、桂小五郎たちに対する不信感となっていたからだ。長州藩の重臣長井雅楽の策が朝廷や幕府に受け容れられるに従って、桂小五郎たちの立場は微妙なものとなり攘夷運動の足枷となった。その一方で、幕府の老中久世広周、安藤信睦たちの働きかけた和宮降嫁は着実に前進し、八月十八日孝明天皇の勅許が幕府に内達した。公武合体論は万延元年の内に一定の成果を見ていたといえる。

 万延元年の終わりの数ヶ月間、村田蔵六は桜田長州藩邸の有備館二階の講堂で洋式兵学を講義している。講義内容は彼が蘭書を翻訳した兵法関係に終始した。伊藤俊輔も都合の許す限り村田蔵六の講義を拝聴した。江戸勤番の藩士たちも村田蔵六の講義に興味を示して結構な人気を博した。

「村田先生は宇和島藩で蒸気船を造られたと伺いしが西洋技術、なかんづく蒸気機関に関する知識はいずこで習得されたるや」

 ある日、後方に座った若い藩士が講義の途中で大声を出した。

 伊藤俊輔はその藩士を見知っていた。藩公の小姓役として参勤交代により出府し江戸桜田藩邸にいた上士で、名を士道聞多といった。

「宇和島にて、学びました」

 詰まらなさそうな顔をして、村田蔵六は講義を中断させた藩士に視線を遣った。

「宇和島ではいかなる先生に就かれましたるや」

 子細構わず、士道聞多はしつこく聞いた。

 しかし、彼に悪気はない。士道聞多に貪欲なまでの知識欲があるだけだ。それ故、藩公から『聞多』という名を賜った。村田蔵六は士道聞多を溜め息とともに見詰めた。

「先生はおりません。強いて挙げれば書物が先生です。造船と蒸気機関について書かれし蘭書を読み、その通りに造りました」

「蘭書にある通りに造りたれば、蘭国人の指導なくとも蒸気機関が出来上がり、しかと動くのであるのか」

「当たり前です。技術とはそういうものです。ただ宇和島では蒸気溜めの鋳造が粗悪で鬆ができたため、蒸気が抜けて圧力が足らず多少の苦労は致したが。しかしそれは蘭書とは関係のない、我らの鋳造技術の問題である」

 そう言うと、村田蔵六は教壇の書物に目を落とした。

 どこまで話したか段落を探していると、再び甲高い声がした。

「村田先生は蘭人師匠にも就かれず、誰からも秘伝や奥義を賜ることもなく、ただ蘭書を読んだだけで蒸気機関の船を造られて、宇和海で走らせたのであるか」

 と、猶も士道聞多はしつこい。

だが、そうした疑問を抱いたのは士道聞多一人ではなかった。当時は幕府のみならず藩においても、兵器に関する製造技術などは特定の家に伝わる書物に拠り習得するものの、最後の奥義は嫡男の家督相続とともに口伝されるものとされていた。それゆえお家伝承の学問は代々に伝わり、特定の家が儒学家や兵学家や砲術家などとして、累代に渡って幕府や藩が扶持を与え召し抱えた。奥義を一子相伝とすることに依ってのみ、それは可能となる。

いや兵法にだけ限ったことではない。武家の役廻りも大体似たようなものだし、家元制度の諸芸にもそれと似たような処がある。一子相伝の諸芸の家元にも、代々砲術家を以て藩に仕える家柄も同じだ、と村田蔵六は断言した。それに反して、西洋では最新技術の蒸気機関ですら、書物に記述されている通りに造れば誰でも造ることが出来る。士道聞多のみならず、誰もが驚愕すべきことだった。

「そもそも西洋の学問に家元はござらん。ましてや家名と共に扶持を頂戴する御家芸でもない。当然にして秘伝、口伝といった類の馬鹿げたものはござらん。大したことでもないことを、さも後生大事に扱う我々の学問のあり方こそが、西洋の学問に大きく遅れを取った所以である」

 淡々とした物言いで村田蔵六がそう言うと、一瞬講堂は水を打ったように静まり返った。

講義を聞いていた藩士たちは一様に雷に打たれたような衝撃を受けていた。事実、村田蔵六の言葉は驚愕すべき内容を含んでいた。

 村田蔵六の言を突き詰めれば、武家社会を支える身分制度の根幹を揺るがすことになる。藩主の嫡男が藩主に就き、家老格の家柄に生まれた者が家老になるのは恰も茶道や花道など諸芸の家元と同じだ、と言ったに等しい。つまり身分制度は諸芸の家元制度と同じだ、と断言したことになる。講堂を埋め尽くしていた藩士たちは一様に息を呑んだ。しかし、村田蔵六に特別なことを論述したという自覚はない。必死になって洋学を学び、その知識を淡々と述べたに過ぎない。村田蔵六はさも退屈そうな顔をして、呆然と沈黙した士道聞多を無視して講義の続きを始めた。

 その日の講義が終った直後、何を思ったか伊藤俊輔は英学の習得を江戸藩邸の重臣に申し出ている。もちろんニベも無く断られているが、諦めきれなかったのか、その年の十二月に萩の来原良蔵に宛てて文を出した。文面で伊藤俊輔は英学を学びたいとの心情を吐露し、万が一にも英学修業の機会があったなら、是非とも伊藤俊輔をご推薦願賜りたいと来原良蔵に訴えた。

その文は今に遺っている。伊藤俊輔は桂小五郎に随行して攘夷派浪士と交わりながらも、その目は村田蔵六に触発されたかのように英学へと向けられていた。

 西暦一八六○年、つまり万延元年という年は幕府にとって大きな節目となった。伊井直弼亡き後の様々な思惑が渦巻く不気味な静けさのうちに年が暮れた。時代は翌年から始まる激動の文久年間へと向かう。

 

 明けて万延二年二月十九日、突如として元号が改められた文久元年に長井雅楽が動き出した。

 三月、藩公毛利敬親に建言して航海遠略策が藩是となった。

 五月、長井雅楽は京へ上り孝明天皇の側近正親町三条卿を説き伏せて、攘夷論が大勢を占めていた朝廷の空気を変え、攘夷論者だった孝明天皇の賛意を得て、藩主共々謁見の栄誉を賜った。毛利敬親と長井雅楽は天皇より歌を賜っている。

  国の風吹越してよ天津日の もとのひかりにかへすをぞまつ

  雲井にも高く聞こえて皇御国 長井の浦にうたう田鶴の音

他に、菊の紋章入りの伊万里焼の茶椀十三組と扇子も賜った。

 長井雅楽は文政二年(一八一九)萩城下中ノ倉に生まれた。幼くして父泰憲が死去したため、石高半減の未成年相続により四才にして百五十石の家督を継いだ。文武両道に優れ、十九才で藩公毛利敬親の小姓役となり、三十二才で奥番頭格となった。その後、直目付役に累進した。長身美男の偉大夫で、弁舌も爽やかであったといわれている。

 長井雅楽は公武周旋の内命を受けるや直ちに江戸へ下り、幕府の首脳に対し航海遠略策を説いて回った。長州藩は関ヶ原以後、外様大名という立場に甘んじて、幕政に口出すことなど慮外のことだった。しかし、幕府の威信は落日の中にあった。安政四年、外交問題について江戸城中で諸大名に意見を伺ったことからも指導力の喪失は端的に窺える。徳川幕府開闢以来、諸大名の意見を徴すなど、有り得ないことだった。

 勇躍江戸へ下ると長井雅楽は老中久世広周たちと会い、持論の航海遠略策を説いた。和宮降嫁の公武合体論で朝廷や勤王諸藩から反感を持たれていた幕府には願ってもない助け船であった。勤王攘夷の総本家と目されている長州藩の重臣からもたらされた策は幕閣たちを秘かに喜ばせた。幕府の策に採られ、長井雅楽の建策は功をなすと思われた。

 だが、攘夷派浪士たちは無為無策のまま手を拱いていたわけではなかった。密かに謀を巡らし、明けて文久二年一月十五日朝、登城途中の老中安藤信睦を襲った。それは坂下門外の変といわれている。

 登城を待ち伏せていた水戸浪士たちは死を覚悟していた。二年前に大老井伊直弼が易々と暗殺されたことから幕府は用心し、老中の駕籠の警護には腕に覚えのある名だたる剣客が付き従った。そのことは秘されず、むしろ幕府の方から意図的に流された。水戸の浪士たちも剣客のことを知っていた。まともに立ち会えば必ず斬り殺される。命を捨てて一目散に駕籠へ駆け寄り、最初の一撃で老中を殺戮する戦法を採るしかなかった。

 江戸は雪の朝を迎えていた。作夜来の雪の降りしきる中を襷掛けした六人の水戸浪士らは登城して来る駕籠を待った。老中の駕籠はいつも定まった刻限に坂下門を通る。身を切るような寒さの中で彼らは松の木立の影に身を隠し、息を殺した。彼らは石のように動かなかった。吐く息だけが白くわき上がった。

 待つほどにやがて、老中の一行が墨絵の世界から抜け出るように近付いて来た。六人は静かに抜刀した。彼らの目の前にさしかかった時、彼らは石像から生身の刺客に変貌した。

刀を振り上げ一斉に木立の影から躍り出た。奇声を発しながら一団となって安藤信睦の駕籠目掛けて突進した。その先頭の一人が駕籠に刀を突き刺したが手応えがなかった。刀は駕籠の虚空を刺し貫いていた。安藤信睦は背中に三ヶ所の擦り傷を負っただけで、駕籠の反対側へ転がり出て逃れた。しまった、と思った次の瞬間、浪士の体は袈裟に切り裂かれてどっと倒れた。見事な太刀捌きだった。残る五人もたちまち手練の供侍によって斬り捨てられた。暗殺を目的とした襲撃は失敗に終ったといえる。

 その朝、有備館に血相を変えて飛び込んできた者がいた。坂下門外の事変はまだ有備館の者は誰も知らなかった。その男は内田萬之助けと名乗った。しかしそれは水戸浪人河辺活右衛門の変名だった。内田萬之助は塾長の桂小五郎に面会を申し出た。桂小五郎は部屋にいた。応接に出た者は内田萬之助を塾長部屋へ案内した。伊藤俊輔は所用で留守だった。

「私が桂だが、何か御用かな」

 と、文机から顔を上げて振り向いた。

内田萬之助は雪道を駆けて来たのか、息が乱れ袴のうしろは後跳ねの泥で汚れていた。顔面は蒼白で、口元が小刻みに震えていた。

「拙者は内田萬之助と申す。この部屋を切腹の場としてお借りしたい」

 そう言うと、内田萬之助は脇差しを腰から鞘ごと抜いた。

「如何なる子細であるか、ご説明願いたい」

 桂小五郎は正対すると気を鎮めるように静かに聞いた。

「今朝、同志と老中安藤信睦をその途上に襲うつもりであった。しかるに拙者は恥ずべきことに、刻限に遅れてしまった。坂下門へ駆け付けた時には、既に同志はことごとく絶命し雪を朱に染めていました。拙者一人恥辱に塗れて生き延びることは出来ぬ。何とぞ、介錯をお願い申す」

 そう言うと、内田萬之助は腰から鞘ごと抜いた脇差を、作法にのっとって正座した自分の前に置いた。今にも腹をくつろげて切腹をしかねない様子だった。

「気を鎮められよ。内田殿の存念は分かり申したが、今暫く生きて同志の遺志を果されるが筋であろう」

 桂小五郎はそう言って、内田萬之助を思い止まらせようとした。

ここで腹を切られては面倒なことになる。幕吏や密偵が藩邸に姿を現して、水戸浪士たちと長州藩とのかかわりを探索するに違いない。

 二人の間で暫く死ぬ、いや待て、と押し問答が何度か繰り返された。やっとのことで内田萬之助の気を落ち着かせると、桂小五郎は上方へ身を隠すことを勧めた。道中手形などの手筈や路銀はすべて桂小五郎が引き受けると申し添えた。いずれにせよ、内田萬之助が今朝の騒動の仲間ということは幕吏に知れているに相違ない。そのために長州藩が一肌脱ぐのは盟約上、当然のことだった。内田萬之助は桂小五郎の勧めに従うことを了承し、国許に文を書きたいと申し出た。桂小五郎は文机を内田萬之助に明け渡して部屋を出た。

 玄関脇の書生部屋へ行くと、伊藤俊輔が藩士たちと雑談していた。

「伊藤君、帰っていたのか」

 部屋へ入ると、桂小五郎は着物の前を叩いて胡座をかいた。

「内田某が参られているとか」

 と、伊藤俊輔は座った桂小五郎に聞いた。桂小五郎は口を結んだまま頷いた。

「内田萬之助、と名乗っているが、恐らく変名だろうよ。水戸浪士だ」

「それでは、今朝の坂下門の騒動と関係があるのでは」

「その通りだ。襲撃に行き遅れたため、恥を雪ぐために腹を切ると言い張っていた」

 そう言って「やっと思い止まらせたが」と桂小五郎は安堵の色を浮かべた。

 しかし伊藤俊輔は眉根を寄せると「そのご仁は何をしておられますか」と、聞いた。

「いや、国許へ文を書くということで、」

 と、桂小五郎は怪訝そうに伊藤俊輔を見詰めた。すると「部屋には、他に誰かいますか」と畳み掛けるように、伊藤俊輔は問うた。

「いや、一人だが」

 桂小五郎は伊藤俊輔の切迫した表情を「まさか」とでも言いたそうな眼差しで見た。

「桂さん、それはいけない」

 伊藤俊輔はそう言うと、桂小五郎はまさかというように表情を歪めた。

 二人は玄関脇の書生部屋から飛び出すと、廊下を駆けて奥の塾長部屋へ行き襖を開けた。すると生温かい血の匂いが二人の鼻腔に飛び込んできた。背を向けて窓際の文机に凭れ掛かるようにして、内田萬之助は血の海の中に蹲っていた。

「おい、内田殿、」

 と、桂小五郎は座ったまま上体を前に折っている内田へ駆け寄り抱き起こした。既に脈はなかった。腹を形ばかり横に切り脇差で喉を刺し貫いていた。頸動脈が切れて噴出したのか、おびただしい血が明かり障子から壁から天井まで飛び散っていた。

「桂さん、」

 伊藤俊輔は敷居に立ったまま声をかけた。

「駄目だ。事切れている。己としたことが、ぬかった」

 桂小五郎はそう言うと、内田萬之助の体を横たえさせた。

 どうしたものか思案したが、内田萬之助の死体を闇から闇へと消すことは困難だ。現場の部屋には手を付けず、見ず知らずの男が勝手に入り込んで自刃したことにして、とにかく幕吏へ届け出ることにした。説明に無理があるのは百も承知だったが、そういうことで終始一貫、言い通すより他に道がなかった。

 早速、幕吏に捕らえられ桂小五郎と伊藤俊輔の詮議が始まった。長州藩邸の座敷牢に幽閉され南町奉行黒川備中守の糺問を受けた。

 南町奉行黒川備中守の取り調べは厳格を極め、一月十八日と二月五日の二度にわたった。幕吏も桂小五郎が刑死した吉田寅次郎の亡骸を貰い受けに来た本人であることや、先年から水戸浪士たちとの浅からぬ動きなどもそれなりに把握していた。当然のことながら水戸浪人と桂小五郎との繋りに深く踏み込んだ尋問が執拗に繰り返された。もはや逃れられないと桂小五郎は覚悟を決めた。藩に迷惑はかけられないため責めを一人で負うことにして腹を切るつもりだった。ただ伊藤俊輔は自分の従者で身分も低いため死罪にはならないだろうと思った。それがせめてもの慰めだった。

 一方、長州藩は二人の免罪に全力を注いだ。幕吏との折衝には江戸にいた長井雅楽が当たった。幸いなことに長井雅楽は航海遠略策で幕府重臣の覚えが愛でたかった。

 三月十八日、長井雅楽の奔走が効を奏して桂小五郎たちは座敷牢から出された。しかし見ず知らずの者が勝手に自害したとはいえ藩邸に入り込み、その一室で切腹するとは武門の名折れとの咎めを受けた。ただし幕府が桂小五郎たちを処罰するのではなく、長州藩邸での不祥事とされた。つまり水戸浪士河辺活右衛門が長州藩邸へ勝手に入り込んだとしても、有備館の一室で切腹して果てている。それを有備館の責任者が防げなかったとは武門にあるまじきことではないのか。結局、館長の桂小五郎とその従者伊藤俊輔の二人を「取り締まり不行き届き」として長州藩主が叱り置く、という処置で決着がついた。

だが決着を見たからと云って、桂小五郎たちが江戸の町を他出することは不謹慎であるため、暫くの間二人は京へ行くことになった。桂小五郎と伊藤俊輔は長かった詮議のためすっかり晩春となり葉桜の茂る江戸藩邸を後にした。

 

  六、京へ 

 昨年の秋口から、長井雅楽の姿は江戸にあった。

 長州藩桜田藩邸に旅装を解き、紋付裃に威儀を正して幕府要人を訪っていた。

 京での朝廷工作はおおむね受け容れられた。航海遠略策は一定の成果をみて、天皇から褒美まで賜った。後は江戸で受け容れられれば長州藩の献策が天下に認められることになる。自然と晴れ晴れしい笑顔を見せて、長井雅楽は忙しく江戸の町を出歩いた。

 京の朝廷と同じく、徳川幕府の幕閣たちも長井雅楽の策に耳を傾けた。もっとも航海遠略策は幕府にとって都合の良い策略だった。なぜなら公武合体論を補強する策だったからだ。公武合体派は幕府側が朝廷に働きかけた宥和策だった。朝廷も幕府が持ち掛けた宥和策に乗り、その具体策として和宮降嫁の許諾が下された。

しかし降嫁の許諾が決定された朝廷側の人たちには屈辱感が渦巻き、幕府に対する反感が拭えなかった。それは和宮を幕府に人身御供として奪われ陵辱されたという許容し難い屈辱感だった。

長井雅楽は公家たちが強く抱く反感を理により説き伏せ、朝廷の反幕感情を緩和した。長井雅楽は京での成果を背景に、幕閣に対しても十分な根回をした。その手腕は精緻を極めた論理と同様に、幕閣への周到な根回しに現れていた。

長井雅楽は幕府と朝廷の仲を取り持ち、天下の動乱を避けた立役者として得意の絶頂期にあった。まさしく長州藩を代表して天下を動かしている、という自負心が威風堂々とした体躯に漲っていた。同僚の切れ者として知られる周布政之助でさえも長井雅楽の力量には舌を巻いた。藩首脳部も長井雅楽の働きを高く評価し、直目付から中老格に昇進した。

 だが、長井雅楽の動きを遥か遠くから窺い、幕府に対して影響力を持ちつつある長州藩に嫉妬した藩があった。それは西南諸藩の雄・薩摩藩だった。

 当時薩摩藩は賢君として誉れ高い島津斉彬が逝去し、異母弟の島津久光が藩政の実権を握っていた。島津久光は異母兄斉彬の死後自身の子忠義を君主に就けて、本人は国父と呼ばれる立場で実権を握った。久光は父島津斉興の五男だったが、異母兄斉彬の遺命で子の忠義が藩主に就くや本家に復帰した。島津久光は当時四十五歳と、まだ枯れる年でもなく野心満々の男だった。

島津久光は大久保一蔵、西郷吉之助らの意見を聞き入れて長州藩が幕府に進言した航海遠略策に対抗すべく、『紹述編年』という斬新な策を持ち出した。それは長井雅楽の「公武合体」策よりも一歩踏み込んだ、朝廷に耳触りの良い幕政改革を前提とした建白書だった。その紹述編年を上奏するに当たり、万事に派手好みの島津久光は薩摩から千余の兵を率いて華々しく京を目指した。

 文久元年三月十六日に鹿児島を発ち、同月二十八日に陸路下関へ着いた。そこから船に乗って瀬戸内海を東上し、四月十日大坂に上陸して十三日には伏見まで進んだ。その時、惨劇が起こった。

 島津久光が兵を率いて上洛するとの報に、薩摩の攘夷派浪士たちがにわかに京へ集結した。千余名の兵を引き連れて島津久光が上京するからにはただ事ではあるまい。おそらくは薩摩藩が倒幕の挙に出るもの、と攘夷派浪士たちは勝手に思い込んだ。

 薩摩脱藩者と浪士の主だった者が伏見の寺田屋に集まり、島津久光の兵と合流すべく満を持した。しかしそれを知った島津久光は不貞の輩たちが徒党を組んで天下を騒がすとは何事か、と激怒して腕利きの藩士たちを選抜して寺田屋を襲わせた。

これが世に言う寺田屋事件で、悽惨な薩摩人同志の斬り合いが演じられた。それと同時に一足先に京へ入っていた西郷吉之助も攘夷派浪士たちの同調者とみなされ、捕縛されて徳之島へ流刑に処せられた。それは先年逝去した島津斉彬の側近家臣たちを一掃すべく久光が仕組んだ謀略だった。

 伏見の寺田屋騒動後に京へ入ると、島津久光は朝廷に『紹述編年』を上奏した。朝廷の立場を強く擁護した『紹述編年』策と、過日の寺田屋事件が孝明天皇の心証を良くしていた。孝明天皇は即座に島津久光の策を受け入れた。

 孝明天皇は浪人を嫌っていたといわれている。それは理屈ではなく、猥雑な浪士たちに対する生理的な嫌悪感だった。しかもその嫌悪感に確たる根拠はない。ただ攘夷論を振り翳し京の街を我が物顔に往来する志士たちに対する生理的な拒絶だった。それは「嫌いなものは嫌い」という同語繰返しでしかないが、生理的な感情ゆえに理屈に勝る。

 長井雅楽の提唱した策が観念的だったのに比して、島津久光の策は攘夷決行までの道筋を示した具体的なものだった。つまり『紹述編年』策が航海遠略策と決定的に異なる点は朝廷が和宮降嫁を認める代わりに、将軍の上洛と攘夷の決行を幕府に約させるとした策にある。いわば幕府を朝廷の命に従わせて上洛させる策が、和宮降嫁による公家たちの幕府に対する憤懣を少なからず緩和させた。

 『紹述編年』が上奏されるや、孝明天皇は即座に島津久光の策を受け入れた。さっそく公卿の大原重徳を勅使として江戸に遣わすことを決定し、島津久光の兵が三位大原重徳に付き従って東海道を下った。それによりあって無きがごとくとされていた朝廷の存在が具体的な行列となって目の前に出現したことで、街道筋の民は大いに驚いた。時代が大きく変わろうとしていることを目の前の事実から思い知らされた。

 その間、幕府にも変化があった。

 四月十一日、突如として老中安藤信睦が罷免された。直接的な理由は去る一月水戸浪士たちに襲われた折りに、裸足で駕籠から逃げたという些細なものだ。武家にあるまじき行為との謗りを受けて失脚した。しかし、それは表向きの理由でしかなかった。本当の理由は『紹述編年』を受け容れるための下地造りだった。長井雅楽が持ち掛けた和宮降嫁を幕府側で仕切った老中安藤信睦を追い落とすためのものだったことは云うまでもない。

 果たして翌月、幕府は唐突に航海遠略策を却下した。その理由に一片の論理性すらない。むしろ破落戸同然の公明正大な言い掛かりに過ぎないものだった。

 ある日、兵庫警護の御備場にいた長州藩家老浦靱負は朝廷の議奏中山忠能から参内を命じられた。先年長州藩は相州警護から兵庫警護へと移され御備場総奉行に浦靱負が就いていた。

 急遽何事かと長州藩老臣浦靱負が参内すると、

「『謗詞似寄』の箇所之あり」

 といきなり中山忠能卿から航海遠略策の一節を指摘され、「不敬である」と断じられた。浦靱負が反論する暇も、一切の弁明も許されない高圧的なものだった。

 航海遠略策は四千五百字に及ぶ論文である。その文中から『攘夷は浅薄な慷慨家の考えること』という文言だけを抜き出して難癖を付けてきた。神州はそもそも攘夷を是とするものであるとの論を軽んじるものだと激しく叱責した。中山忠能卿は驚くべき言辞を披瀝したことになるが、彼に当節流行の攘夷論に感染しているとの自覚はない。

中山忠能卿は歴史的事実と、その時代の空気とを混同する過ちを犯したが、彼にそうした自覚はなかった。朝廷が代表しているこの国が幕藩体制以前から攘夷であったという歴史的事実はないが、中山忠能卿にそうした国史の素養はもちろんない。攘夷論が盛んなこの当時ですら開港場の貿易額は飛躍的に増大し、攘夷を唱える浪士たちの思惑とは別のところで時流は動き出していた。ことに横浜の繁栄は目を見張るほどで、攘夷論に凝り固まった浪士ならともかく、一流の政治家なら国益を考慮の一端に置くべきだが、朝廷の高官たちは一様に異国人に対して嫌悪の念を抱き薄汚いものとしか思っていなかった。そうした意味では夷人嫌いの孝明天皇だけが特異な思想の持主ではなかった。

 古今東西を問わず、歴史には時として不可解な出来事がある。ことに魑魅魍魎が跋扈する政治の世界では一夜にして政策が覆されることは日常茶飯事だ。この場合もそうだった。まず先に結論があって、その結論を導くために政策転換に必要な瑕疵を探し出す。それはまさしく公明正大な言い掛かりだった。ただ中山忠能卿は薩摩藩の手先になって動いたに過ぎない。それは薩摩藩お得意の謀略の賜物だった。

搦め手から、先に動かし難い結論を勝ち得た薩摩藩に利がある。いうまでもなく老中安藤信睦の罷免から一連の動きは長井雅楽を追い落とすためのシナリオだ。

 政治とは常に権力闘争だ。国家を動かすために権力の主導権を握り、わが意を広く及ぼそうとする。長井雅楽は薩摩藩を意識していなかったが、薩摩藩は長井雅楽が政治の表舞台に登場した時から彼を強く意識していた。そして、薩摩藩は実に巧妙な政治工作を展開した。そうした政略に於いて、薩摩藩は長州藩よりも格段に勝っていた。

 長州藩公毛利敬親は別名『そうせい侯』といわれている。家臣の意見具申のままに「そうするが良い」と快諾して藩政を重臣たちに委ねた。幕末期の長州藩は二大派閥の間を藩論が大きく揺れ続けた。

 村田清風から始まり周布正之助に連なる改革派(後に正義派と呼ばれる)と、坪井九右衛門から椋梨藤太に連なる保守派(同じく俗論派と呼ばれる)との二大勢力の間で権力闘争が行われ、藩論を揺れ動かすことになる。一方、薩摩藩は良くも悪しくもこの当時一人の権力者・島津久光によって牛耳られていた。大久保一蔵や西郷吉之助が薩摩藩で力を持ち始めるのは今暫く後のことである。

 幕府によって航海遠略策を退けられるや、長井雅楽は急遽京へ上った。それは朝廷の巻き返しに最後を期したからだった。見通しは絶望的だったが、一縷の望みを抱いた悲壮な上京だった。

 

 その頃、来原良蔵は長崎にいた。

 国許へ帰った村田蔵六を海軍局頭取に迎えて、来原良蔵は海軍力の増強に全力を注いでいる。数人の部下を率いて長崎へ行ったのは新式ゲベール銃の大量買い付けをし、洋式軍艦の買い付け交渉をするためだった。当時やっと藩の兵制改革が緒に付き、来原良蔵は人生最良の日々を送っていた。

 長崎での仕事を終えた来原良蔵は部下を帰して一人で九州を遊歴している。肥後には宮部鼎蔵とその弟子たちがいた。宮部鼎蔵とは吉田寅次郎密航の折り、京橋の料理屋伊勢本に集まった旧知の間柄だった。

 初夏の南国の日差しが眩しかった。

 いつものように来原良蔵は袖から両腕を抜き懐で腕を組んだ。袂が風をはらみ気持ちよさそうに肩で風を切って歩いた。来原良蔵は肥後への道中を楽しんだ。しかし肥後に着くと、宮部鼎蔵から長井雅楽の航海遠略策が朝幕双方から退けられたことを知らされた。

 突如、来原良蔵は京へ上った。

 来原良蔵は長井雅楽の甥に当たるが、彼の行動は肉親の情だけで片付けられるものではない。熊本から大分まで山路を駆け抜け、大分から大坂へは船で行き、五月の終わりには京へ入った。そして絶望的な事態の巻き返しに奔走している長井雅楽と三条河原町の長州藩邸で会った。偉大夫然としていた面影は既になく、頬は痩げ落ち目は虚ろになっていた。外にあっては薩摩藩とその工作に籠絡された朝廷を相手に奮闘し、内にあっては猛然と攘夷を主張する久坂玄瑞を筆頭とする松陰の弟子たちと戦っていた。まさしく、長井雅楽は孤立無援の闘いを余儀なくされていた。

 藩の兵制改革を託されてから、来原良蔵は兵制改革か成就するまで、長州藩は攘夷を決行すべきではないと主張していた。攘夷論に染まった連中は日本にやって来る夷国艦を打ち払わないのは大和益荒男の名折れだとか、敵に背を見せるとは命を惜しむ腰抜けだと大言壮語していた。しかし攘夷はそうした体面や精神訓話で片づけるような話ではない。

兵力が遥かに劣る長州藩が攘夷を断行すれば、清国がそうなったように圧倒的な武力を備えた欧米列強の艦隊の反撃にあい、間違いなく藩は灰燼に帰す。勝敗を度外視した無謀な攘夷を声高に叫ぶのは領民を苦しめるだけでしかない。まずは軍備を整えつつ開国して交易を成して、先ずは「開国強兵」策を推進するしかない。その現実に即した方策として長州藩は長井雅楽の唱える策を採るしかない、と来原良蔵は考えていた。

 上洛すると来原良蔵は浪士たちのたむろしている藩邸近くの旅籠池田屋に桂小五郎を訪ねた。面会するとすぐに「現実に目を向けよ」と来原良蔵は怒声を発して翻意を迫った。西洋列強の強大な軍事力を知らない書生論で攘夷を叫ぶは藩を危うくするのみだ、と桂小五郎を激しく叱責した。そしてその足で来原良蔵は藩主に会うべく江戸へ下った。

 桂小五郎は来原良蔵に意見されて急進的な攘夷運動を思い止まった。航海遠略策を唱える長井雅楽は幕府の公武合体におもねる佞臣ではないかとの怒りもあったが、同時に河辺萬之助自刃の折りに幕吏の追求から助けてもらった恩義もあった。

 しかし京では久坂玄瑞を首謀者とする長井雅楽暗殺計画が密かに進行していた。桂小五郎は京都三条河原町の長州藩邸に宿泊している長井雅楽の身辺に気を配った。その一方で、伊藤俊輔を暗殺者の仲間に潜入させ、久坂玄瑞たちの動きに目を光らせた。

 久坂玄瑞たちは伊藤俊輔が仲間に加わるのに何ら疑いを持たなかった。そればかりかむしろ伊藤俊輔が仲間に加わることを歓迎した。彼らは松本村の松下村塾に通った松陰の弟子たちだった。のみならず久坂玄瑞たちは長井雅楽暗殺の仲間に伊藤俊輔が加わることに、いま一つ別の意味を見出していた。つまり彼らは伊藤俊輔が暗殺の同士に加わったのは桂小五郎の指図だと受け止めた。繰り返すまでもなく、桂小五郎は尊王攘夷の急先鋒の一人と目されていた。少なくとも尊攘派の筆頭と思われる行動をとっていた。水戸の西丸帯刀たちと成破の盟約を結び、水戸浪士たちは坂下門外で命を捨てて実行した。仲間の内田萬之助の有備館での自決も壮絶だった。水戸の浪士たちと結んだ盟約からいけば、今度は桂小五郎が朝廷工作を実行する番だった。

 桂小五郎は微妙な立場にあったといえる。久坂玄瑞たちよりも十才近くも年上で彼らから兄と慕われている。同時に藩からは大検使の重責を仰せつかっている。桂小五郎自身には松陰門下の一人として吉田寅次郎の仇を討ちたいとの私情もあった。しかも厄介なことに、彼は義弟の来原良蔵から受けた叱責とともに、言い聞かされた現実論を理解する明晰な頭脳をも併せ持っていた。

 桂小五郎は伊藤俊輔からもたらされる久坂玄瑞たちの密行動に気を配り、長井雅楽の動きを横目で睨みつつ朝廷に攘夷の働き掛けを精力的に続けた。長州藩に好意的な公家三条実美、東久世通禧らと密に連絡を取って、薩摩藩に味方する公武合体派の中川宮朝彦親王らと対抗した。その頃すでに桂小五郎は朝廷のありようが明確に理解出来ていた。

 調停工作とは玉を取ることだ。玉とは天皇のことで、朝廷を動かすには天皇の覚え目出度くすることだ。御名御璽を記した勅命を行使することこそが、朝廷を牛耳ることになる。そして、朝廷のありようは長州藩と似てなくもなかった。天皇の意志は有力な公家たちの権力争奪の狭間で揺れていた。

 ある日、桂小五郎の許に伊藤俊輔から暗殺決行の報せが入った。

 長井雅楽の外出の予定を久坂玄瑞たちが掴んだ。それによると二日後に所用で長井雅楽が伏見に出向きそこに一泊するという。所要を果たした伏見からの帰途には気が緩み、警備も手薄になるだろう。その帰途の伏見の町外れの山道で、長井雅楽の一行を待ち伏せて襲撃するというものだった。顔ぶれは久坂玄瑞、福原乙之進、寺島忠三郎、堀真五郎、野村和作と桂小五郎が潜行させた伊藤俊輔だった。いずれも新進気鋭の松陰の弟子たちだった。

桂小五郎は彼らを無駄死にさせるわけにはいかない。彼らを助けるには長井雅楽に理由を明かさず伏見行きを密かに中止させることだ。その一方で伏見の宿屋には予定通り宿泊すると告げて宿の前書きも長州藩中老長井雅楽、と大書したものを出すように手配させた。そして、当日には予定通りに長井雅楽一行を擬した駕籠を仕立て伏見に赴かせた。ただ宿泊すると見せかけて、日が暮れてからその日のうちに伏見から京へ戻った。

 当日、伏見郊外の山道で久坂玄瑞たちは身を潜めて長井雅楽の駕籠がやって来るのを待った。しかしいつまで待っても一行はやって来ない。不審に思った久坂玄瑞たちは伏見へ行き、宿の主に長井雅楽宿泊の有無を尋ねて、長井雅楽一行が宿泊しなかったことを知った。

暗殺計画が失敗したと知ると、久坂玄瑞は悄然として長州藩邸に戻り、自首して出ると言い出した。藩の重臣の命を奪うことを謀った以上、すでに自分たちは罪人であると久坂玄瑞は弁じた。

 久坂玄瑞も桂小五郎と同じく医師の家に生まれたが、考え方は桂小五郎と異なり武士そのものだった。潔いといえば世上類を見ないほど潔い。確かに明晰な頭脳と弁舌で若者の指導者的立場に立っているが、しかし人物として線の細さは否めない。切れ味鋭い剃刀は同時に鉈の堅牢さに欠ける欠点も併せ持っている。

 他の同志たちは久坂玄瑞の意見に同意したが、伊藤俊輔だけが従わなかった。伊藤俊輔は「自首するも自決するも勝手になさるが良い、僕はそうしない」と言い放った。三条河原町の藩邸へ一緒に戻った後、久坂玄瑞たち五人が自首したのに対して伊藤俊輔だけは自室に籠った。

 藩邸の留守居役は自訴した久坂玄瑞たちの計画を聞いて腰を抜かさんばかりに驚いた。直ちに京藩邸の主だった役回りの者たちが一堂に参集して評定が始まった。重役たちは頭を抱え、意見が百出して評定は紛糾した。伊藤俊輔が一人だけ自首しないのは不届きであると別段の懲罰を求める意見も出されたりした。

 桂小五郎も協議の中にいた。腕組みをしたまま重臣たちの意見に耳を傾けていたが、本藩にお伺いを立てたらどうか、という意見が出るに及んで顔を上げて眉を曇らせた。それは京藩邸の留守居役が責任逃れから京藩邸で採決を下さず一室に押し込めて置こうというものだ。久坂玄瑞をはじめ松陰門下生たちは藩主の覚えがめでたい。そのため久坂たちを自分たちが罰して藩から咎めを受けないとも限らない、と彼らは恐れた。

本藩の裁断を仰ぐべき、とする留守居役に賛同する者が相次いだ。本藩に伺いを立てるべきとの意見が大勢を占めるに到って、桂小五郎は慌てた。本藩の判断を仰ぐというのは尤もだが、萩へ知らせれば事は大きくなる。当然ながら久坂たちの罪は免れ得ないものになるだろう。困り果てた桂小五郎は突如として大声で笑った。発作でも起こしたのかと、留守居役たちは驚いて桂小五郎に目を遣った。

そして、重役たちは口をつぐんで怪訝そうに桂小五郎の顔を覗き込んだ。桂小五郎は重役たちの視線が集まった頃合いを見計らって、

「久坂たちの申すこと、根も葉もない絵空事でござろう」

 と腹の皮がよじれんばかりに笑い、桂小五郎は息を乱しながらそう言った。

 白昼夢だ。いわば久坂たちは夢を見たに過ぎない。桂小五郎はそういう論法で強硬に評定を決着させようとした。夢に見た、というだけで本人が自首して来ればすべてを捕らえるのか。良い夢を見れば忠義で、悪い夢を見れば咎とするは笑止千万。そのような理屈を並べ立てながら、桂小五郎は猶も笑った。

 それは屁理屈だ。明らかに道理を無視した屁理屈だ。桂小五郎は世の中には共同謀議や未遂という罪もあることなど百も承知だ。しかし、その場では笑い飛ばすしかなかった。

「しかれど、桂殿。長井様を殺害しようと謀るは不届きなり」

 笑い転げる桂小五郎を呆然と眺めていた一人が不服そうに口を尖らせた。

 桂小五郎は目尻に溜った涙を指の腹で拭いながら、なおも笑って重役たちを見回した。

「はてさて、伏見の山中で待ち伏せ致した、と久坂たちは申しているようだが、悪い狐か狸に化かされたのであろうよ。すべて夢にて候、それも悪い夢にて候。斯様な悪い夢を本藩へ報告すれば、却って各々方こそが笑われましょうぞ」

 そう言いながら、桂小五郎は息を乱して猶も笑いながら席を立った。

そして、よろけるように退出した。評定の場に長居は無用だ。桂小五郎が抜けたことで京藩邸の沙汰は定まらず、結局お咎めなしということになった。

 維新後、伊藤博文は人から問われて答えている。

「なぜ伊藤公は仲間の内でお一人だけ自首されなかったのですか」

と、不首尾に終わった長井暗殺の件を聞かれると、伊藤博文は顔色も変えずに、

「自首することを拒絶したのは、国許にいる年老いた両親のことを考えたからだ。自ら命を縮めるようなことは出来なかった」

 平然とそう答えて、質問者を当惑させた。

 誰もが死を恐れているように伊藤俊輔も死を恐れたかも知れない。だが少なくとも当時の伊藤俊輔がひたすら身の安堵ばかりを願って苦難を避けていたわけではないのは明らかだ。むしろ連合艦隊との交渉や功山寺決起など、幾度となく自ら進んで死地へと身を投じている。そうした伊藤俊輔利の経歴を承知していればこそ、質問者は当惑したのだろう。

しかし当惑したのは伊藤俊輔の方だ。唐突に質問した意図をはかりかねた。伊藤俊輔は当時の自分を恥じていた。桂小五郎に命じられたこととはいえ、久坂たち松下村塾の仲間たちを見張ったことには恥ずべきことだ。維新後に栄達するに連れて、当時を振り返ると忸怩たる思いは強くなっていったようだ。

身分制度の世の中だったとはいえ、伊藤俊輔は桂小五郎の命により仲間五人を見張らざるを得なかった。それは彼にとって終生忘れ難い恥辱だった。伊藤俊輔は筆まめだったが、書き残した日記や書簡などを調べても、何処にも当時の心境は書き残されていない。伊藤俊輔は死ぬまで当時のことを秘匿した。

長井雅楽を見張った五人の仲間のうち、維新後まで生き永らえたのは堀真五郎と野村和作の二人だけだ。堀真五郎は判事畑を歩き東京始審裁判所長を経て明治二十三年に大審院判事になった。野村和作は名を靖と改め、政府高官となり内務大臣まで務めた。官位は正二位子爵に叙せられた。

しかし他の三人は維新を迎えることなくこの世を去っている。久坂玄瑞と寺島忠三郎は元治元年七月十九日の蛤御門の変で自刃して果て、福原乙之進(信冬)は前年の文久三年十一月二十五日江戸で討幕の密議中に捕吏に囲まれて自刃している。維新後まで生き延びた者は伊藤俊輔も含めてそれぞれが栄達しているが、道半ばで若くして落命した多くの仲間たちの無念さは推察するに余りある。

 

文久二年六月二日、長井雅楽は中老格の身分を剥奪されて帰国を命じられた。

 半年以上の自宅謹慎の後、文久三年二月六日切腹を賜った。享年四十五才であった。

 検使頭として長井雅楽の屋敷に向かったのは家老国司信濃だった。罪状を示すと長井雅楽はこの日があることを覚悟していたのか、静かに用意していた白装束に着替えた。介錯には親戚の福原又四郎が立ったが、長井雅楽は自ら命を絶つことを願い出て介錯を退けた。そして使者たちが見守る中長井雅楽は腹を切り割き、喉を突き刺して壮絶な最期を遂げた。

  君がため捨てる命は惜しからで 只思はるる国の行くすえ

 長井雅楽が京を去ってから一月後、京藩邸で重要な御前会議があった。

 その会議に列席したのは藩公毛利敬親の他毛利筑前、毛利伊勢、益田弾正、浦靱負の四家老に政務役の井上小豊後、周布政之助、兼重譲蔵、山田宇右衛門、中村九郎、宍戸九郎兵衛と桂小五郎の七人を合わせて十一人だった。薩摩藩の策に破れ時世で力を失った航海遠略策を廃した後、長州藩はいかなる策で行くべきかを定める会議だった。当然のことながら議論は新たな藩是を巡って熾烈なものとなった。

 現実路線を補強する形で浮上した長井雅楽の策が棄てられたからには、薩摩藩の策よりも先鋭的なものにならざるをえない。そうすれば『攘夷』で突き進むより他にないことになる。議論を重ねれば重ねるほど、思惟は観念の虜になり易い。御前会議は攘夷一色で染め上げられようとしたが、山田宇右衛門と浦靱負の両老臣と周布政之助が『武備攘夷』を唱えて急進的な攘夷論を止めようとした。

 武備攘夷とは攘夷そのものに反対するものではないが、現実問題として外国に勝てるだけの備えがなければ藩を危うくするだけのものである。まずは武の備えをした後に攘夷を行なうべきとの論旨だった。それに対して桂小五郎が急進的な『破約攘夷』を唱えた。外国と取り結んだ条約のすべてを破棄して断固攘夷を実施するとの過激な主張だ。議論は平行線をたどり、意見の一致を見ないまま三日経った。

 現実を考慮する妥協策は潔いと映らない向きがある。議論の場では急進的な意見の方が有利に働く場合が多い。議論を積み重ねた結果、急進的な『破約攘夷』に藩是が決した。

 これにより正式に長井雅楽の航海遠略策が退けられたことになる。幕府と組んだ薩摩藩に長州藩が対抗するために残された道はそれしかなかった。米国総領事ハリスと結んだ修好通商条約を破棄して攘夷を迫ることで朝廷を味方に付け、国論の主導権を握ることに長州藩論は決した。乾坤一擲、長州藩は『破約攘夷』にその全存在を賭けることになった。

 藩是転回の折、来原良蔵は江戸にいた。

 二年ばかり国許に戻っていた間に、江戸の様子は随分と変わっていた。横浜交易を抑制する目的で五品目回送令が出されたりしたが、江戸の物価は高騰を続けて幕府の威光は失墜していた。島津久光も千人からの兵を率いて江戸に入って来た。

 来原良蔵は江戸藩邸の重臣相手に武備開国を説いて回った。

 一度は長井雅楽の策を藩是としたものが、路線闘争で薩摩藩に破れるや一夜にしてそれを破棄するとは武門にあるまじき行為である。正義は必ずや行われる。徳を以って国を治めるに、しばし風雪の下を耐える覚悟を持つべきである。右顧左眄するは恥とすべし。

 来原良蔵は命をかけて諫言した。しかし、ひとたび藩是となったものが、いまさら来原良蔵一人が吼えたぐらいではどうにもなるものではなかった。来原良蔵は藩邸で孤立し深い焦燥感に苛まされた。

 

  七、再び江戸へ

 文久二年七月の終わり、桂小五郎と伊藤俊輔は江戸へ下った。

 役目は江戸薩摩藩の工作を見定め、出来ることなら薩摩藩の策略を攪乱することだった。少し遅れて久坂玄瑞たちも江戸の情勢を探るべく東海道を下った。この四月末に幕府随員として上海へ行った高杉晋作も八月には江戸へ出て来た。

 高杉晋作が上海へ行ったのは、周布政之助の命を受けた桂小五郎の尽力によるものだ。高杉晋作は長井雅楽の公武周旋に反対し、脱藩してでも長井雅楽を斬ろうとしていた。もちろん桂小五郎も長井雅楽の策には反対だったが、殺そうとまでは考えかった。高杉晋作を萩に置いておくのに不安を感じた桂小五郎はそのことを周布政之助に伝え、併せて文久元年末幕府が貿易視察のため勘定方根立助五郎等を上海へ派遣する計画のあることを認めた。桂小五郎はかねてより高杉晋作が海外渡航の願望を抱いていることを知っていた。さっそく周布政之助は幕府の一行に高杉晋作を随伴させてもらうことを願い出て幕許を得た。

 文久二年正月二日、藩公毛利敬親は高杉晋作を江戸へ召して幕府使節の上海随行を命じた。その際、上海の実情から夷国艦隊の実態と装備している武器まで具に視察して来ることを役目として申し添えた。

 高杉晋作は翌日江戸を発ち長崎へ赴いた。四月二十九日幕府軍艦千歳丸に乗船し、上海には五月六日に入港した。薩摩藩からは後の政商五代友厚も乗っていた。上海の逗留期間は二か月だった。その間、高杉晋作は実に足まめに視察し克明に書き記している。

 七月十四日上海から長崎へ戻ると、高杉晋作は藩に断わりもなく洋式艦船を勝手に買い求めた。上海の港に停泊する夷国艦隊を実際に両の目で見た衝撃がいかに痛切なものだったか如実だが、藩はその事後処理に慌てふためいた。この時点で、高杉晋作も攘夷派から脱却したと思われる。その後、藩公毛利敬親へ復命のために江戸へ出向き、八月二十八日藩公に拝謁して清国の実情を報告した。

 しかしその後、高杉晋作は国許へは帰らず江戸に居続けた。昼間は長州藩が良く使う藩邸近くの料亭で所在なく過ごし、日が暮れると品川一の妓楼土蔵相模へ出かけた。慶応三年四月、高杉晋作は明治の世を見ることなく労咳に殪れることになるが、その罹病は上海視察の折りではないかといわれている。

 高杉晋作の放蕩癖はこの頃から始まった。見様見真似で三味線をつま弾き出したのもこの時からだ。上士の嫡男が三味線を爪弾くとは脆弱に過ぎると批判されるご時世だったが、そんなことなど取るに足らないことだと思った。

 高杉晋作は租借地上海で家畜以下に扱われている中国人の哀れな様に接し、西洋人の高慢不遜な態度を目の辺りにした。国の一部を祖借地として西洋列強に奪われるとはどういうことか、西洋列強と戦って破れるとどういうことになるか、と怒りとともに心に刻み込んだ。しかも、高杉晋作は上海の港に林立する艦船の帆柱に目を見張り、舷側に並ぶ砲列に息を呑んだ。身をもって体験した西洋列強の軍事力の強大さに衝撃を受けた。長州藩で藩是となった破約攘夷は来原良蔵の言う通り空理空論だと得心した。

 高杉晋作は上海の銃器店で二丁の拳銃を購入している。それは六連発回転式短銃で当時としては最新式だった。一丁は慶應元年に坂本龍馬に贈られ、後一丁は太平洋戦争の終わりまで高杉記念館に遺されていたが、進駐軍により接収されて今はない。

 飛び道具といわれ卑怯な武器とされている拳銃を購入した高杉晋作の心理はかなり屈折している。高杉晋作の剣の腕前は桂小五郎に及ばないものの柳生流免許皆伝、萩の尚武館では十指に入っていた。

 しかも高杉晋作は毛利家の上士の若者として、ゆくゆくは藩の重責を担う人物と目されていた。高杉晋作は重臣の嫡男という強い矜持を心に抱きつつ、夷国から藩を守る役目を担うべき藩士として無力なことも承知していた。六連発リボルバーと立ち会えば剣技なぞ無用の長物にすぎない。政策の責務を負う藩士として破約攘夷は上海の港に停泊した夷国艦船の威容を一見すれば実行不可能な絵空事だということは明白だ。そうした二重の無力感が高杉晋作を現実から逃避させた。高杉晋作は妓楼に上がって酒を飲み、三味線を爪弾いて女を抱いた。高杉晋作は二十三才になっていた。

 一方、謹言実直な来原良蔵は高杉晋作のように登楼して現実から逃避することは出来なかった。すでに長井雅楽は失脚して、空理空論ともいうべき攘夷論が藩是となっている。数年にわたり必死になって藩兵制を洋式に改革してきたとはいえ、いまだ不備なことは火を見るよりも明らかだ。軍艦にしても長州藩所有の二隻の洋式艦も木造帆走船で、いわば洋式小型商船に砲を積んだ程度の代物に過ぎない。西洋列強の有する鋼板製の巨大な蒸気船と比べれば海軍力の格差は歴然としている。攘夷戦が断行されればその不十分な軍備で夷国と戦うことになる。結果は火を見るよりも明らかだ。間違いなく長州藩の洋式軍艦のみならず各所の砲台も撃破され、多くの兵が命を落とし完膚なきまでに敗北するだろう。藩から兵制改革を任された者として、破綻すると分かっている政策に従うことは出来なかった。

 八月二十一日、島津久光の一行が千余名の薩摩藩兵を率いて江戸から帰藩の途についた。そして、その行列が生麦村に差し掛かった時事件が起きた。武家社会で定められた作法の知識に乏しいイギリス人男性三人と女性一人の計四人の一行が大名行列を乱した。

 彼ら四人は騎乗していた。当時の慣例に従えば大名行列に遭遇すれば下馬し、その場で頭を垂れて跪かなければならない。しかし彼らはこの国の儀礼に無知だった。何事もないか迷うに騎乗したまま大名行列を横切ろうとした。だが激高した供侍たちはイギリス人たちを「無礼である」と大声で咎め立てて抜刀し、ただちに一人をその場で斬り殺しニ人に重傷を負わせた。残る一人の婦人は無事に難を逃れた。重傷を負った者の一人はその日のうちに死んでいる。これが世にいう生麦事件の顛末だった。

生麦事件は損害賠償を要求する英国と薩摩藩の火種となり、後に薩英戦争を引き起こすことになる。結局、薩摩藩は手痛い代償を支払うことになるのだが、当時横浜開港以来物価高に喘いでいた江戸庶民は夷人を打ち払った快挙だとして薩摩に喝采を送った。

 長州藩邸でも薩摩藩に遅れてはならじ、と攘夷を叫ぶ声が満ちた。横浜夷人館の焼き打ちをすべきと若い藩士たちが騒ぐに及び、ついに来原良蔵は世子毛利元徳に拝謁を申し出た。八月二十六日夕刻、世子毛利元徳はこれを許した。

「存念があるなら、じかに申せ」

 と、毛利元徳は直接話すことを許した。

「ははっ」

 来原良蔵は頭を低く下げた後ゆっくりと面を上げた。決意は固まっている。

「藩是たる攘夷は、現長州藩の軍備では叶わず。従って、拙者はその責任を取り、お役目を辞し、扶持を返上し、もって天下の浪人となる所存でござりまする」

 そう言うと、来原良蔵は一段上の毛利元徳を見上げた。

「戯事を言うべきでない。破約攘夷はすでに決した議であれば、それに言及するは不届きである」

「戯事に非ず。出来もしないことをやるというは、それこそ御正道に悖るものなり。民の暮らしを安寧ならしむることこそ、政の本なれば、速やかに藩是を復すべきである」

「藩政に言及するは盛功、無礼であろう」

「無礼は先刻承知の上でござる。無礼を恐れ正義を語らぬは、忠義に非ず」

 来原良蔵はそう言って、毛利元徳を凝視した。

「若殿、来原盛功七十石の禄を食み、そのご恩に報いるべく身命を賭して藩の兵制改革に邁進して参りました。しかし、未だその途半ばにして、夷敵と戦うは能わず。しかるに、藩是として攘夷を決するは愚行にして、すでに盛功の御役目これにて終われり」

「何と申す。藩是を愚かと申すか」

「もとより、命を捨ててのご諫言にござれば、何とぞお聞き入れ願いたし」

 そう言うと、来原良蔵は深々と頭を下げた。

 暇乞いのつもりであった。再び上げた来原良蔵の両目には涙が溢れていた。

毛利元徳は驚き、小姓役に桂小五郎をすぐ呼ぶように目で合図した。しかし、桂小五郎は藩邸を留守にして不在だった。その頃桂小五郎は松平春嶽と会い、京の状況を報告していた。

「盛功、早まったことを言うでない。其方が藩の兵制改革に励んで参ったことはよくよく承知している。其方の意見は意見として聞き置く」

 毛利元徳がそう言うと、来原良蔵は再び頭を下げ、膝を折ったまま座を下がった。毛利元徳は退出しようとする来原良蔵を呼び止めた。

「待て、盛功。主命である、死んではならぬ」

 来原良蔵から諫言は何度か聞かされている。耳に痛いことをずけずけと言う来原良蔵を藩公父子はむしろ頼もしく思い、七十石馬廻役の身分から抜擢して蜜用方右筆に取り立て、今は藩の兵制改革全般を任せている。村田蔵六の意見を重く用いて保守的な門閥出の重臣と渡り合い、藩の兵制改革を推進してきた得難い人物だ。

退出した来原良蔵と入れ違いにやって来た桂小五郎に、世子毛利元徳は来原良蔵との謁見の概略を話した。

「盛功のこと、気遣うべし」

 毛利元徳は桂小五郎にそう命じた。

 桂小五郎は謁見の間から下がると、その足で来原良蔵の許へ駆け付けた。

 来原良蔵は部屋にいた。桂小五郎が襖の外から声を掛けると、入るようにと返事があった。来原良蔵は窓際に置かれた文机を背にして座っていた。桂小五郎は来原良蔵を見詰めながらその場に座った。部屋には墨の匂いが漂っていた。来原良蔵の左側に開けられ硯箱が文机の上にあり、何か書き物をしていたようだった。が、巻紙は伏せられ来原良蔵の背に隠れてその内容は分からなかった。

「来原さん、如何なさいました」

 桂小五郎はそう言って来原良蔵の様子を窺った。すると、来原良蔵はいつものように袖から両腕を抜き懐で腕を組んだ。そして、小首を傾げると桂小五郎を見た。

「心配をかけたようだな。あい済まん」

 そう言って、微笑を浮かべて小さく頭を下げた。その表情には余裕すら伺えた。

「のう、小五郎」

 と、来原良蔵はいつものゆっくりとした口調で話し掛けて来た。

「お主は剣客だが、刀を抜いて立ち回ったことを寡聞にして知らぬ。まさか差料は竹光ではあるまいな」

「いいえ」

 と桂小五郎は答え、来原良蔵が何を言い出したのか心中を掴みかねた。

桂小五郎は来原良蔵の表情を探るように見詰めると、来原良蔵はフッと吐息を漏らした。

「そうか。それなら良い。武備は完璧を期すべし、その上で争いを自ら求めぬことだ。戦わなければ、決して負けぬからな」

 そう言うと、来原良蔵は自分の言葉を確認するように頷いた。そして、桂小五郎を見て朗らかに笑った。その様子に死の影は微塵も感じられなかった。

「何をお書きでしたか」

 と、いくらか安堵した面持ちで桂小五郎は聞いた。

「ああ、これか」と来原良蔵は曖昧に笑った。

「安堵せよ。遺書ではない。国許の村田殿に黒船購入の手筈について記している」

 来原良蔵はそう言った。桂小五郎の心を見通した返事だった。

 桂小五郎は曖昧に「いやいや」と言って笑みを浮かべた。

「もう、良いだろう」

 来原良蔵に促されて、桂小五郎は渋々と部屋を出た。それが最後の別れとなった。

 日が暮れた。

 玄関脇の部屋で桂小五郎は伊藤俊輔や高杉晋作たちといつものように攘夷について語っていた。他にも井上輿四郎、山縣弥八、佐世八十郎、波多野金吾、広沢兵助たちがいた。同世代の若者たちが軽口を飛ばし和やかに笑いあった。江戸市中には夷人を切る辻斬りが出没している。自分たちもそうするか、と冗談とも本気ともつかない談笑に花を咲かしていた。吏員が部屋の障子をあけて、日が暮れても来原良蔵の部屋に明かりがない、と言った。すると桂小五郎は「しまった」と大声で叫んだ。

「来原さん、来原さん、」

 桂小五郎は大声で叫びながら廊下を駆けた。生きていてくれと心から願った。

 来原良蔵の部屋へ行き襖に手を掛けた。が、心張り棒が支ってあるのか、開かなかった。桂小五郎は右足を上げて力任せに襖を蹴破った。部屋は暗く血の匂いが充満していた。素早くその暗闇に視線を走らせると明かり窓から洩れるほの暗い外の明かりに、文机に俯せになっている人影が認められた。桂小五郎はその人影に駆け寄ろうとして裸足の足を取られた。ぬるぬるとした生温かい血の感触が足の裏にあった。桂小五郎は黙って抱き起こした。すでに来原良蔵は絶命していた。とめどなく涙が落ちた。

 伊藤俊輔が行灯に火を入れた。桂小五郎は来原良蔵をひしと抱き大声を上げて泣いた。紋付き袴の礼服に身を正して文机には遺書が置かれていた。腹を横一文字に掻き切り頸動脈を断っていた。その脇差はすぐ側の板の間に突き立ててあった。記録によると脇差は湾曲していて鞘に収まらなかったという。享年三十四才。

 伊藤俊輔は来原良蔵の髷を切り落とし、萩の妻子の許へ届けた。遺骸は芝の青松寺に伊藤俊輔たちの手によって葬られた。

来原良蔵には二人の男子がいた。長男の正一郎は来原家を継ぐものとして、次男正二郎は子に恵まれなかった桂小五郎が嗣子養子として迎えた。しかし間もなく正二郎が死去したため正一郎が嗣子養子となり、桂小五郎改め木戸孝允の名の一字と「正一郎」の正とを合わせて孝正と名乗った。木戸孝允は明治の元勲として侯爵に叙せられが、孝允の死後に木戸孝正は爵位を継ぎ明治政府で外交官となった。最後の内務大臣となった木戸幸一は木戸孝正の子で来原良蔵の孫にあたる。

 来原良蔵の死は無駄だったのだろうか。

 彼が命を賭して諌めた破約攘夷の藩是は遂に変わらなかった。

 そればかりか後年、長州藩は絶望的な攘夷戦争を決行している。それがため長州藩は滅亡の淵まで追い詰められることになる。しかし少なくとも、来原良蔵の死を目の当たりにした桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔らは長州藩の攘夷戦には関与していない。それだけがせめてもの救いだと言えなくもない。来原良蔵の命を賭しての諫めは無駄ではなかったと思いたい。

 

 時は少しばかり遡る。

文久二年一月、長州藩は人材登用令を発した。

 具体的には『育』制度を緩和する、というものだった。

 江戸初期、長州藩では足軽中間の子弟で才ある者を『育』(はぐくみ)という制度で士分に取り立てていた。卒の者でも有能な者は藩士の「育」として藩士に準ずる身分を与える、という制度だ。もちろん「育」は養子ではない。いわば身元保証制度のようなものだ。藩に届け出ればよいだけで手続きは極めて簡単だった。

その簡便さゆえに「育」制度が濫用されるに及び、江戸中期に廃止されていた。毛利敬親は廃止された「育」制度を復活させて、広く人材の登用をはかった。ただ「育」により登用された「藩士」は一代限りで、しかも藩士なら誰でも頂戴すべき扶持もない。形だけのものでしかないといえばその通りだが、身分制度の厳しい時代にあって長州藩では画期的な人材登用策を実施していた。

 しかしそれは毛利敬親が他の藩主よりも擢んでて開明的だったということではない。長州藩には「育」を復活させなければならない事情があった。無節操なほどに人材を登用したため、長州藩は藩内の禄高による身分制度に破綻を来たしていた。家禄による身分の秩序を無視した人材登用は藩政遂行に様々な支障を露呈していた。

たとえば「卒」身分の中間足軽では登城一つとっても厄介だった。藩士の従者としてでなければ大手門から入ることは出来ない。他藩士との会合などでも同じ座敷に同席できない不都合が生じた。薩摩藩や土佐藩ほどではないにしても、長州藩にも家柄や門閥に拘泥する者がいて、藩士と足軽・中間が同じ座敷で対座して会談することを拒否することさえあった。

 形式的な面でもそうした不都合があったが、もっと切実な問題として藩政上の指揮命令系統と身分制度の間に齟齬が生じていた。極端な例が村田蔵六である。

 藩が能力を正当に評価して海軍局頭取に抜擢したものの、身分の上下関係から卒の者が士に向かって指図し号令をかけるのは具合が悪い。教練を行う必要上から、村田蔵六は身分を度外視して命令しなければなければならないが、藩士の子弟の中には号令に従わないばかりか、昂然と反発し拒絶する者までいた。

 身分制度で云えば「村医者」の村田蔵六は百姓よりも以下の身分だ。明治になって医師国家試験が実施されるまで、医師はかなりいかがわしい職業だった。江戸時代の厳格な身分制度下では、医師はどの階級にも属さない特殊な存在だった。もちろん御殿医は厚遇され、駕籠を用いることも許された。格式からいえば身分は大身の旗本と変らない。だが多くの町医者や村医者は身分制度の埒外にあった。彼らの多くは徒弟制度のように医師の家に住込んで年季を積み、見立て(診察)や薬の調合を覚えて開業した。国家試験がないため素人同然の者や薬種屋をしくじった者や祈祷師のような者まで本道(内科)医や外道(外科)医と称して看板を掲げた。婦人科は中条医と呼ばれ、御法度の堕胎を専門とした。

 医学書も蘭学が普及するまで平安時代の医学書が聖典とされ、漢方医や民間療法が混在した。しかし、江戸後期になって蘭学が入って来ると医学は長足の進歩を見せるようになった。中世天文学でコペルニクスの出現により学説の大転換があったが、まさしくそのようなものだった。細菌学や疫学はそれまでの漢方医学にはない概念だ。解剖学も杉田玄白たちが翻訳した『解体新書』によって格段の進歩を見せた。

 当時におけるわが国最高の蘭方医学を修めた村田蔵六ですら、出自が村医者というだけで多くの長州藩士たちは「いかがわしい村医者」としか認めなかった。玉石混交の世の中では人物を見分ける鑑識眼を持たない者には玉の価値は分からない。そうであるならば、身分の方を人物に合わせるしかない。

 身分制度社会の現実と能力本位の人材登用との乖離を解消するために、文久二年に育の制度を緩和する人材登用令を発した。その『育』により文久三年正月、村田蔵六、山縣小介、入江九一、品川弥二郎や杉山松助たちが一代限りとはいえ準藩士となった。伊藤俊輔は京にあったために申し出がやや遅れた。ちなみに、伊藤俊輔は桂小五郎の育だった。桂小五郎は伊藤俊輔を『桂家育』として士分にすべく藩に届けた。文久三年三月に許しが出て伊藤俊輔も士分となった。

「伊藤君」と、桂小五郎は藩からの「育」許諾通知書を伊藤俊輔に手渡した。

「お主も、長州藩士となった。もとより、僕は伊藤君を配下とは思ったことはない。朋輩だと思ってきた」

 桂小五郎はそう言って伊藤俊輔の肩に手を置いた。

 嬉しかった。理屈抜きで嬉しかった。他藩の者と接する折り、伊藤俊輔は自分の身分を名乗るのに言うに言われぬ苦痛を常に感じていた。今日を限りに引け目を覚えないで済む、そう思うだけで嬉しかった。それまでの伊藤俊輔は知らぬ間に不必要な力が肩に入り、人と接する時の表情は固かった。

 伊藤俊輔の若い頃の写真が何枚か今に遺っているが、そのいずれも不遜な面構えに険しい眼差しでレンズを睨んでいる。肩に力が入り何処か気負った、それでいて鋭い憤怒に満ちた悲しげな表情だ。藩士となってから撮ったものと見比べれば明らかに表情が異なる。それは心のゆとりとでもいうべきものだろうか。藩士以上の働きをして藩士以上に役目に命を懸けながらも、中間という身分が伊藤俊輔を身構えさせていた。

 準が付くものの藩士となり身分に対する劣等感が消えた。伊藤俊輔の体は感激で震えた。二十二才にして伊藤俊輔はれっきとした長州藩士となった。

 桂小五郎にしても伊藤俊輔が中間でいるよりも藩士身分の方が都合が良かった。中間はあくまでも藩士の従者に過ぎない。伊藤俊輔を他藩士との会合に差し向けても桂小五郎の名代ですらなかった。身分の上では伊藤俊輔は小者に過ぎない。頑迷な筋論にこだわる者がいれば同席すら許されず、他藩士との会合の場で、伊藤俊輔は廊下に正座したまま参加し、歯を食い縛って耐えるしかなかった。それが愚かしい身分制度社会の現実だった。伊藤俊輔が周旋家として存分に能力を発揮するためにも、中間の身分では不都合が多すぎた。

 当時、伊藤俊輔の父十蔵は萩で毛利家開作方を勤めていた。倅の仕事ぶりは折々に伊藤十蔵の耳にも入った。藩の上役の話によると伊藤俊輔は遠からず京都轉役になるという。藩主の特命を以って桂小五郎の育として士分に列するとも聞かされた。

 伊藤十蔵は倅のために嫁取りを決めた。当時、世間で「一人前の男」とは一軒の家を構え嫁を娶ることだ。伊藤十蔵は倅には何の相談もなく、勝手に入江九一の妹すみを相手と決めて婚姻届けを藩に差し出した。

 しかし、伊藤俊輔は何も知らなかった。婚姻届けを藩に差し出して後、すみが嫁として伊藤家にいる間、当の本人は一度も萩へ帰っていない。そして一年後、すみは離縁となり実家へ帰った。結果として親の早合点による悲劇がすみを見舞った。

 そうしたことが、萩で起こっていることを伊藤俊輔は知る由もない。忙しく桂小五郎の命を帯びて数度ならず京へ上り江戸へ下った。席の温まる暇もないほど多忙を極めた。吉田寅次郎が見抜いた通り周旋家の能力が伊藤俊輔に備わっていた。

 

 かつて藩公の小姓役に士道聞多という者がいた。一時期、高杉晋作も小姓役を勤めていたことがあり互いに顔見知りだった。天保六年十一月二十八日に生まれ、伊藤俊輔よりも六才年上の当時二十七才。禄高百石上士井上光享の第二子で家は山口の郊外湯田高田にあった。二百五十石の士道家の養子となり姓は士道を名乗っていた。

 ふらりと士道聞多が江戸藩邸へやって来た。伊藤俊輔と同じく五尺二寸余の体躯に丸顔で才気煥発な目鼻立ちをしていた。本人は脱藩して江戸へ来たと言ったが、藩邸では誰も彼を咎めなかった。それに脱藩した者が藩邸で平然といるのも可笑しなことだった。

 繰り返すが、長州藩は若者に寛大だった。前途ある若者に対して殆ど常軌を逸したとも思えるほどの寛大さを示した。それは士道聞多の脱藩騒動にも如実に現れている。

 ある日、士道聞多は萩城中で藩公毛利敬親に深々と頭を下げた。

「何事か」

 と鷹揚に言って、藩公は眠たそうな眼差しで士道聞多を見た。

「お暇乞いに御座いまする」

 緊張した口吻でそう言い、士道聞多は両手を畳に付けたまま顔を上げた。

「暇を取って、何とする」

 あくまでも鷹揚に、ゆったりとした物言いで藩公は聞いた。

「これより、脱藩を致し、横浜へ行きて英学を学びまする」

 士道聞多は叫ぶようにそう宣言した。だが、藩公は脇息に巨体を預けたまま、眠ったような眼差しをわずかに見開いた。

脱藩とは穏やかでないが、藩公の態度は平静だった。

「ほほう。それで、なにゆえ脱藩を致す」

 毛利敬親は珍しい愛玩動物でも見るように頬に笑みを浮かべた。

「志士とはそのような者です」

「ふむ。では、なぜ英学を志す」

「夷敵を知るためです」

「なるほど、そうか。では、脱藩を致せ。それも良かろう」

 そう言って、藩公は士道聞多の江戸行きを許した。

 聞多の父井上光享もかつて藩公の小姓役だった。士道聞多は親子二代に亙り小姓役を勤めた。そういえば、高杉晋作も親子二代に亙り小姓役を勤めたし、高杉小忠太の子息高杉晋作も江戸にいた。若い連中は江戸へ行きたがるものだ。それならば士道聞多が江戸へ行くも良かろう、毛利敬親はその程度に考えた。

 先年、高杉晋作は藩公に向かい、

「裃を着て攘夷は出来ません」

 と言い、許しを得ないまま遊学の旅に出たことがあった。

 それは公明正大な脱藩だった。それに対して藩は一切の咎め立てをしなかった。一部厳格な重役が騒ぐと、藩公毛利敬親は「あれには遊学のために、暇を与えた」と高杉晋作を庇った。そのため以後、誰もそのことに言及出来なかった。

 藩公は高杉晋作を可愛がった。高杉晋作にはそうした人に好かれる憎めない一面があった。議論好きな長州人の中にあって、高杉晋作はそれを余り得意としていない。むしろ詩作を愛し行動に重きを置いた。

 吉田寅次郎とその弟子たちの幸運は彼らの時代に毛利敬親が藩主だったことだろう。学問を奨励し奔放な人材登用を実施し、いつからか『そうせい侯』と陰口をたたかれるほどに家臣に藩政を委ねたが、その反面家臣たちを束縛しなかった。藩公は吉田寅次郎を愛しその弟子たちに対しても仁愛を以って接した。それは彼らの行動に私欲が感じられなかったということに他ならない。

 そして今、高杉晋作が江戸にいるのも正式な用向きではなかった。これもいわば公明正大な脱藩だった。

 この年、幕府が上海に使節を派遣するのに高杉晋作は長州藩から推されて随行した。そして、上海から長崎へ戻ると江戸へ出向きそのまま江戸に滞在した。藩公への復命を済ました後も、国許へ帰らず江戸でぶらぶらと過ごした。しかし、長州藩はそれを咎め立てしなかった。その高杉晋作の無軌道ぶりが士道聞多の勇気を奮い立たせた。表向きは横浜で英学を学ぶとし、藩より学費は頂戴したもののほとんど勉学していない。

 士道聞多は松下村塾門下ではないが、育ちの良いおおらかさで年下の松陰門下生たちと気軽に交わった。誰もが親しみを籠めて「聞多」(ぶんた)と呼び、それに士道聞多も笑顔で応じた。上士の出自にしては希有な人物だった。来原良蔵の自害後、江戸藩邸の雰囲気は重く沈んでいたが、士道聞多が一人加わっただけでがらりと雰囲気が変わった。

 つい三日ばかり前、伊藤俊輔は京から江戸へ戻った。

 文久二年から三年にかけて伊藤俊輔の動きは実に目まぐるしい。桂小五郎の命を受けて江戸と京の間を十数回にわたって往復している。頻繁に京と江戸を往復しなければならなかったのは桂小五郎の指示で京の久坂玄瑞と繋ぎを取っていたからだ。三条河原町の藩邸を根城として、久坂たちは他藩の脱藩浪士たちと朝廷工作に忙しく働いていた。

 久坂玄瑞たちの目的は公卿に意見書を託して朝廷に上奏させることだった。桂小五郎も京へ駆け付けたかったが役目から江戸を離れるわけにはいかなかった。伊藤俊輔は桂小五郎の指図を久坂玄瑞たちに伝え、その傍ら全国各地から脱藩して長州藩京藩邸を頼ってきた乞食同然の浪士たちと面談した。京の長州藩邸には尊攘派浪士が支援を求めてひっきりなしに訪れた。長州藩はたとえ多少は胡散臭くても彼らを門前で追い払うことをせず、面談して彼らの意を徴取し寛大に援助した。ただ余りに人数が多いため京藩邸の重役たちは辟易し、伊藤俊輔が京にいる間は縫依弊髪の浪士たちの相手を押し付けた。伊藤俊輔が面談し路銀を与えた浪士たちの一人に、まだ志士としては無名の佐賀藩の江藤新平がいたという。

 

 伊藤俊輔が江戸へ戻ると、高杉晋作は自宅のように流連ける品川随一の妓楼土蔵相模へよく呼びつけた。京の動向が気掛かりなのか、久坂玄瑞の消息を知りたがった。

「久坂さんたちは精力的に参内しておいでです」

 と、伊藤俊輔は真摯な面持ちに表情を改めた。

 このわずか半年の間に政情は激しく変化している。薩摩藩の島津久光が兵千名余を率いて上洛し、その後江戸へ下った。その上洛の際、島津久光は航海遠略策に対抗すべき改革趣意書九カ条を上奏し孝明天皇から勅諚を受けた。薩摩藩の周旋により朝廷は幕府に将軍の上洛と幕政改革を迫る勅使大原重徳を派遣し、警護と称して島津久光は兵を率いて江戸へ下った。

 幕政改革の主な内容はかつて井伊直弼一派によって退けられた福井藩主松平慶永と一橋慶喜の登用だった。そして、この七月に一橋慶喜は将軍後見職に、松平慶永は政事総裁職に相次いで就任した。幕府は安藤信睦の失脚以来、幕政を明確な方針で牽引する舵取り役を失っていた。たとえば人物器量を見込んで将軍後見職に据えた一橋慶喜にしても、掲げた方針といえば公武一和と参勤交代の緩和と陸海軍の創設に過ぎない。この国をいかなる体制の国家にすべきかとの根本的な考察と指針を一橋慶喜の改革策は欠いていた。

 幕末期、徳川幕府の最大の不幸は幕府首脳部に人材を得られなかったことだ。将軍は十三代十四代と続けて病弱だったし、実質的に政治を執る幕閣にしても硬直した身分制度により、有能な若手官僚が実権を握ることがなかった。良し悪しは別として、大老井伊直弼のような強力な指導者を幕閣に欠き、幕府の方針は雄藩諸侯の思惑の狭間で揺れた。

 伊藤俊輔が高杉晋作に披瀝した久坂玄瑞の朝廷参内の用件とは薩摩、長州、土佐の三藩主の連名で朝廷に進言したことである。その内容は勅使を幕府へ派遣して朝廷の親兵設置の承諾と攘夷の督促をすることだった。しかし、その奏上文は三藩主の許しを得たものではなく久坂玄瑞の謀略ともいうべき作文だった。が、それが功を奏して文久三年十月に勅使三条実美と副使姉公路公知が江戸へ下向した。

 勅使下向に前後して、久坂玄瑞が江戸へやって来た。

 久坂玄瑞は桜田の藩邸に着くと、さっそく高杉晋作を妓楼に訪ねて怒りをあらわに詰った。妓楼の一室には伊藤俊輔の他に士道聞多もいた。

「上海に行かれ、とうに長崎へ帰られたはずだと思っていたが、この半年余り高杉晋作殿は国許へも帰らず品川の妓楼で何をしておいでか」

 久坂玄瑞は理の勝った青年だ。それだけに言葉に遊びがなく座が白けた。

 久坂玄瑞には吉田寅次郎亡き後、松下村塾門下生を束ねてゆくべき人物は自分の他にいるとすれば、高杉晋作しかいないとの強い自負があった。それに高杉晋作とは従兄弟同士という遠慮のなさもあった。久坂玄瑞の苛立ちは伊藤俊輔や士道聞多に対するものまでも、高杉晋作一人にすべて向けられた。

「玄瑞よ、何を苛立っちょるンか。まあここは湯にでも入って汗を流して、旨い下り酒でも呑んでゆっくりされよ」

 そう言うと、高杉晋作は久坂玄瑞から目を逸らしてにやりと薄ら笑いを浮かべた。

「高杉さん、何を寝言のような。地球は動いちょるぞ」

 と、鼻白んだように久坂玄瑞が噛み付いた。

 地球とは当時の志士たちが好んで使った言葉で、国論とも世論ともいう意味だった。

「もちろん地球は、貴公が申すまでもなく、動いちょる。そんなことは分かり切っている。しかし貴公がそげんに激することもあるまい」

 高杉晋作は猶もうすら笑いを浮かべて、抱いていた三味線を爪弾いた。

 尊攘を掲げて闇雲に駆け回る久坂玄瑞が疎ましかった。疎ましいと同時に、拍車をかけられた馬のようにいきり立つ久坂玄瑞が野暮ったくさえ思えた。

 高杉晋作には何処か世間を拗ねているようなところがあった。

「話にならん、時局は急を告げているというに」

 久坂玄瑞はそう言って、伊藤俊輔に目を遣った。

 それは高杉晋作と関わるのが時間の無駄だと極め付けるような口吻だった。

「伊藤君、薩人がイギリス人を神奈川の生麦村で斬ったのを存じていよう。既に薩摩は攘夷をやっているというに、長州はどうなっておる」

 久坂玄瑞がそう言うと、高杉晋作が横から口を出した。

「あれが攘夷なものか。夷人の一人や二人斬ったところで、どうなるものでもあるまいに」

「高杉君、物事の本質を見極めなければならない。夷人を追っ払う攘夷は君の言う通り、夷人を斬ったところでどうということはないだろう。しかし、英国はその賠償を幕府に求め、幕府はそれを支払ったではないか。この国の外交は幕府が朝廷に成り代わって執り行っている。その程度の攘夷でも幕府の威信を地に落とす効果は充分にある」

 久坂玄瑞はそう言って一同の顔を見回した。

「ほほう、それは面白い。で、やるとしたら誰を殺る」

 三味線を置くと、高杉晋作が身を乗り出した。両の目が大きく見開かれていた。

 久坂玄瑞の言わんとすることが分かると、高杉晋作という男は決断が早い。

「同じ斬るンなら、そりゃあ、英国公使ミニストルじゃろう」

 と、即座に士道聞多が言った。話はそれで決まった。

 その夜の内に高杉晋作は公使暗殺に『攘夷血盟』を結成した。参加者は江戸藩邸に屯していた攘夷派たち若者の高杉晋作を筆頭に大和弥八郎、長嶺内藏太、士道聞多、久坂玄瑞、寺島忠三郎、有吉熊二郎、白井小助、赤根武人、品川弥二郎、山尾庸三らであった。後に伊藤俊輔も加わったが、この度も桂小五郎が伊藤俊輔に加わるように命じてのことだった。

 ミニストルの動向を探る役には伊藤俊輔と士道聞多が当った。翌朝、早速二人は横浜へ向かった。伊藤俊輔は歩き慣れているが、士道聞多は伊藤俊輔の足について行けない。品川の大木戸を過ぎた所で士道聞多が音を上げ、茶店で休もうと伊藤俊輔を誘った。士道聞多にそう言われると、伊藤俊輔は「厭」とは言えなかった。

 茶店の奥まった席に腰を下ろしていると、店先から声をかける者がいた。

「伊藤殿じゃないか」

 その声に伊藤は軒先へ目を遣った。土佐の中岡慎太郎がいた。その側に肩幅の広い眉目秀麗な侍が立っていた。

「やあ、中岡殿」

 伊藤俊輔はそう言って、士道聞多に土佐の中岡慎太郎だと耳打ちした。中岡慎太郎は早くから尊攘派志士の間で知られていた。

「こちらは土佐勤王党の頭目、武市半平太殿だ」

 伊藤俊輔と士道聞多は立ち上がって自己紹介した。

 頭目と紹介された武市半平太は涼しげな切れ長の目で中岡慎太郎を睨んだ。そして、

「頭目はひどいな。あたかも山賊のようではないか」

 と言って朗らかに笑った。

武市半平太は土佐勤王党の頭として論理的な頭脳を有し、江戸三大道場の一つ桃井道場の塾頭を勤めたことのある当代一流の剣客でもあった。

 土佐藩の事情も薩摩藩と似ている。個性の強い前藩主山内容堂が藩政の実権を握り、中央政界への意欲を滾らせていた。内助の功で有名な山内一豊の子孫とは思えぬほど、山内容堂は強権的な藩政を強いた。アクの強い個性の持ち主で斗酒をも辞さずの酒豪だが、その大造りの目鼻立ちが魁偉な印象をより一層強くした。山内容堂は戦国武将さながらに、臣下を従えて朝廷の政情に堂々と嘴を挟んだ。

 しかし古今東西の歴史上の人物がそうであるように、一手に政治権力を掌握した者は独断専行に陥りやすい。山内容堂もその例に漏れず、藩内の意見を取り纏める寛容さに欠けた。そのため開明的で行動力に富む若者は脱藩する他なく、土佐藩からは有能な若者がぞくぞくと脱藩した。しかも山内容堂は藩を捨てた者たちを決して許さず、捕吏や刺客を差し向けるなどしたため、土佐脱藩浪士は藩を後ろ盾として頼るわけにいかなかった。従って坂本龍馬や中岡慎太郎たちは仕方なく他藩の志士たちの間を命を賭して駆け回るしかなかった。その一方で土佐藩内にとどまった土佐勤王党にも容赦ない弾圧が加えられ、壊滅という悲劇的な運命が待ち受けていた。

 二人は伊藤たちの連台に並んで腰を降ろした。うららかな春を思わせる日差しは快かったが、冬の名残の風はさすがに冷たかった。中岡慎太郎と武市半平太は京から下ってきたばかりだと言った。

「ところでご両人は旅支度でないが、この近所へ所用でお出かけか」

 中岡慎太郎は一口茶をすすって伊藤俊輔に聞いた。

 中岡慎太郎とは京で何度か会っていたが、さすがに英国公使の動向を探りに行くとは言えない。秘すべきだと瞬時に判断して「春めいてきたので、」と伊藤俊輔は何でもないことのように微笑んだ。が、伊藤俊輔に代わって士道聞多が教えてしまった。

「英国公使の見張りだよ」

 秘密めかして声を潜めて、士道聞多は言った。

その刹那、伊藤俊輔の表情がさっと刷毛で掃いたように動いた。漏らしてはならないことを士道聞多は口にしたとの思いが、口惜しさとなって伊藤俊輔の表情に現れた。中岡慎太郎の表情も驚いたように強張った。

「公使を見張るとは、何事だ」

 中岡慎太郎が伊藤俊輔を咎めるように見詰めた。

出会った時のなごやかな眼差しはそこになかった。伊藤俊輔は中岡慎太郎の問い詰めるような眼差しに臆することなくフワリと笑った。笑って誤魔化すしかなかった。

「いやいや、中岡殿、毛唐見物でござるよ。僕たちは、夷人をこの目で見たことがござらん。それで、神奈川横浜村の港まで行って見ようと思って」

 何でもないというように、伊藤俊輔は余裕のある表情を作って横の中岡慎太郎を見た。中岡慎太郎は伊藤俊輔の顔に何かを探るような目をしたが、すぐににこやかな表情に戻った。それを汐に伊藤俊輔は士道聞多を促すように目配せをした。

「それでは、これにて」

 そう言うと、伊藤俊輔は先に茶屋を出た。

 士道聞多は伊藤俊輔の後について慌てて茶屋から出て来た。

「まずかったかのう。わしが口を滑らせて、のう」

 差料を腰に落としながら士道聞多が問いかけた。

「いやいや、ご懸念には及びますまい。ただ、今後は気をつけられよ」

 そう言って、伊藤俊輔は士道聞多を見て微かに微笑んだ。

 伊藤俊輔は怒ってはいなかった。むしろ、士道聞多の不用心さに驚いていた。人を悪人と見ない士道聞多の無用心さに、育ちの良さが窺えて羨ましいほどだった。

 

 二日ばかりミニストルの身辺を探ると格好の材料が手に入った。西洋人が七日ごとに区切る曜日と称するもののうち、毎週土日曜日にミニストルは武州金澤に遊びに出掛けるという。武州金澤は八景で知られる名勝の地だった。英国公使はそこへ英語でいうピクニックと称する漫遊に僅かな共揃いで出掛けるようだ。横浜の町から金澤までの道は途中人気のない寂しい場所を通る。伊藤俊輔たちは朗報を持って高杉晋作たちの許へ帰った。

 ただ伊藤俊輔たちの知らない処で攘夷血盟の仲間に勧誘の声を掛ける者があった。江戸に来た武市半平太を久坂玄瑞が誘っていた。尊王攘夷で奔走する久坂玄瑞と武市半平太は顔馴染だった。文久二年正月二十一日、京にいた久坂玄瑞は坂本龍馬に武市半平太宛の手紙を託している。

「諸大名や公卿はもはや頼りにならぬ。草莽の志士を糾合する以外に方法はござらん。失礼ながら、貴藩も我が藩も大義のために滅ぶとも致し方のないものと存ずる。これが我々の信念である」

 その文を一読するまでもなく、武市半平太は久坂玄瑞に恐怖を覚えた。

 武市半平太は土佐勤王党の頭目として久坂玄瑞と同じく尊王攘夷を唱えている。しかし久坂玄瑞のように藩を滅ぼしても構わないとは決して思っていない。久坂玄瑞の純粋なまでの直情径行的な論理と行動力に背筋の凍る戦慄を覚えた記憶が甦った。

 高杉晋作たちは金曜日の夜、武州金沢へ行く街道に面した宿を取り密かにミニストルの行動を見張ることになった。さっそく久坂玄瑞が格好の宿屋を見つけて、宿主の高島嘉右衛門に渡りを付けて来た。場所をそこにしたのは宿が街道に面していただけではなかった。その宿屋に京から下った勅使三条実美らが滞在していたからだ。それは幕府に攘夷の勅命を伝えるべきとする建議により勅使を東下させることになり、十月十二日に正使三條實美と副使姉小路公知と随員一行が京を発った。そして十月二十七日に勅使一行は江戸に着いた。しかし将軍徳川家茂が麻疹に罹っていたため、勅使一行は宿で徳川家茂の快癒を待った。ちなみに面会するまで一月近く待つことになる、生まれつき徳川家茂は病弱だった。

宿には久坂玄瑞、長嶺蔵太、山尾庸三、伊藤俊輔、高杉晋作らが潜んだ。夕刻前から宿に入り、五人はひっそりと息を潜めていたが、日が暮れると突然捕手が宿屋を囲んだ。明かりを消した雨戸から表を見張っていた伊藤俊輔がそれを見つけた。

「高杉さん、どうやら我らのことが幕吏に露見したようで」

 静かにそう言うと、雨戸の節穴から顔を上げた。

 床柱を背にして端座し、瞑目していた高杉晋作は目を見開いて伊藤俊輔へ顔を向けた。

「そうか。だとすれば、幕吏も万全の支度で臨んでいるだろう。ここは久坂君に任すしかないか」

 そう言うと、高杉晋作は差料を手に取り片膝を立てた。

そして目釘を確かめて腰に落とした。柳生心影流免許皆伝の腕に力が籠った。いざという場合は斬り合いになるやも知れぬ、高杉晋作はそう覚悟を決めた。仲間たちも高杉晋作と同様に差料を腰に差した。

「ここはひとつ、三條卿にお願い致そう」

 そう言い残すと、久坂玄瑞は部屋を後にした。

さっそく久坂玄瑞は三條實美へ面会に上がった。そして幕吏による宿改めの折りには自分たちを匿って欲しい、と願い出た。三條實美は久坂たちの企てを聞くと驚きの声を上げ、英国公使殺害などの暴挙は尊王攘夷とは異なると口を極めて諫めた。しかしだからといって久坂たちを見捨てることは出来ない。この度江戸へ下って将軍徳川家茂と朝廷の特使として面会するのも、偏に久坂玄瑞たちの働きによるものだった。

「よろしい。仲間をこの部屋へ連れて来るが良い」

 三條實美は久坂たちを匿った。

 旅籠の宿改めから逃れることができた。しかし高杉たちの英国公使襲撃計画が洩れて英国公使館の知るところになっているものと考えざるをえなかった。高杉晋作たちはミニストル要撃を断念し、夜更けて代々木の斎藤弥九郎道場へ引き揚げた。しかし、間もなく藩の使者がやって来て、高杉晋作たちに藩邸へ戻るように命じた。

 桜田の藩邸へ戻ると高杉晋作たちは藩吏によって捕らえられた。誰が暗殺計画を漏らしたのか、高杉晋作たちは何も分からないままに藩邸奥の座敷牢に幽閉された。

 やがて機密を漏洩した張本人が分かった。それは品川の茶店で出会った武市半平太だった。久坂玄瑞が武市を英国公使暗殺の企てに誘ったのが機密漏洩の発端だ。

武市半平太は返事に窮して言葉を濁したが、これ以上幕吏の目が尊攘派へ向けられては仲間が危険だ、と結論を出した。暗殺者として士道聞太や久坂玄瑞の態度は余りにも不用心で稚拙だった。そのような者が尊攘派にいたのでは後々他の仲間たちの迷惑になる。庇うに値しない者は速やかに処断されるべきだ、と土佐藩の明晰な頭脳は考えた。

 頭脳明晰な思想家は一面において非常なほど冷徹だ。武市半平太は江戸の長州藩世子を通じて藩士たちを諌めるように山内容堂に依頼した。そうすればたとえ英国公使が襲撃されようと、武市半平太たちが山内容堂からも幕吏からも睨まれることはない。

 高杉晋作たちは間もなく解き放たれた。彼らの窮地を救ったのは桂小五郎だった。長井暗殺計画の時と同様に、桂小五郎は「三條實美たちと宿で会っていたとして、藩に何か不都合でもおありか」と、あくまでも宿にいたのは三條實美と面会するためのものと強弁して藩吏たちを煙に巻いた。英国公使暗殺計画は計画に過ぎず、その計画を証すものは何もなかった。

 高杉晋作たちは「叱責」という微罪で放免となり、座敷牢から解き放たれた。

 解き放ちに桂小五郎の口添えがあったのは確かだが、あながちそれは桂小五郎の弁舌が功を奏したということでもない。実の処藩邸の重臣たちは松陰の弟子たちの処分を持て余した。しかも高杉晋作と士道聞太は小姓役上りで藩公の覚えも愛でたい。久坂玄瑞も京で朝廷工作に奔走していることも良く理解している。そのような者たちを罪に処して自分たちに累が及ばないとも限らない。桂小五郎の口添えは願ってもない助け船だった。

 ちなみに三條實美は十一月二十七日に将軍徳川家茂と面会している。その際三條實美は将軍徳川家茂に攘夷督促の勅書と親兵設置の沙汰書を授けた。それに対して幕府は将軍の上洛と攘夷の方針に従うことは約したが、親兵設置の件に関しては婉曲に断っている。

 高杉たちは務役周布政之助の烈しい諌言もあって夷人の暗殺を諦めた。しかしそれでおとなしく引き下がるような若者たちではなかった。高杉晋作は品川の妓楼土蔵相模に仲間を秘に集めて、

「幕府は攘夷を約束したが、外国の公使館を御殿山に建築しつつある。江戸の景勝の地にかかる外国人の館を建てるは座視するに忍びない。ここはあれを焼き払ってしまおうではないか」

 と、提案した。血の気の多い若者たちは即座に高杉晋作の案に同意した。

 その場にいたのは高杉晋作の他に久坂玄瑞、有吉熊次郎、大和弥八郎、長嶺内蔵太、白井小助、赤根武人、堀真五郎、福原乙之進、山尾庸三、士道聞多とそれに伊藤俊輔の十二人だった。

 公使館焼き討ちには完璧を期すために焼弾を拵えることが提案され、長州藩御用達の薬種問屋から材料を買い入れることにした。焼弾の製造には薬種に詳しい福原乙之進と士道聞多、堀慎五郎が当たることになり、硝石や硫黄などを買い入れ、それに桐炭を混入した。材料を細かい粉末にするため薬研も借りてきた。

 製造場所は機密保持のためから桜田藩邸内の有備館の一室にした。焼弾とはいまでいう着火剤のようなものだろうか。それらの材料を薬研で細かい粉末にして丁寧に混ぜ合せ、紙で塊に包み込んで糊付けし導火線を付けた。それを九つも作った。

 焼弾が出来上がると土蔵相模へ運ぶことにした。三人が各々三個ずつ懐に入れて桜田から品川へ行くことにした。が、万全を期して人通りの多い町家を避けて武家割の道を選んだ。武家屋敷の間を行く道は昼間でも余り人が通らない。

 士道聞多と堀慎五郎が先を歩き、福原乙之進は後ろからそろそろと付いてきた。が、何を思ったのか辻番所の蔭に隠れると、福原乙之進は袴の裾をたくし上げて小便をしだした。たちまち辻番所から番人が血相を変えて飛び出ると咎めたてた。

 町家には木戸の脇に自身番が置かれている。同様に武家屋敷の辻には辻番所が置かれ武家屋敷の士が自身番の名主に当たる支配方を勤めた。福原乙之進は辻番所に引き立てられ、拘留所に入れられた。番人が屋敷に支配方を呼びに行っている間に福原乙之進は懐の焼弾を見付からないように食べてしまった。万一身体を改められ焼弾を見付けられると御殿山焼き討ちの一件が露見すると思ったのだ。

 辻番所の横で小便をしたのは何故かと支配方に問われたが、したくなったからやむを得ずしてしまったと答えると、以後慎めとの叱りを受けただけで終った。

 焼弾は土蔵相模の屯している部屋の額の後ろに隠して決行の日を待った。

 高杉晋作は御殿山の外国公使館を焼き討ちにはするが、火が町に飛び火することは避けたいと思った。そのため雨上りの風のない日を待つことにした。

 現地の下見は周到に済ませてある。外国公使館の周囲には木の柵が廻らされ、その外には背丈ほどの空堀が掘り下げられていた。公使殺害の失敗に懲りて高杉たちは実行の段取りと役割までも細々と決めて万全を期した。

 十二月十二日夕刻、朝から降っていた雨が止み、願っていた通りの焼き討ちの条件が整った。高杉晋作たちは夜半の九つ半過ぎに土蔵相模を後にして御殿山に向かった。

英国公使館は完成していたが、横浜から移り住んでなく空き家だった。隣の仏国公使館はまだ建築途中だった。高杉晋作たちは御殿山の裏手に廻り堀割に飛び降りた。踝辺りまで雨水が溜っていた。木柵に取り付くと用意して来た鋸で挽き土手をよじ登った。

 火付役は士道聞多と福原乙之進それに堀慎五郎だった。三人は英国公使館に忍び込み、焼弾の回りに鋸屑や材木を積み上げて導火線に火をつけた。

 焼弾が燃え上がると二人はすぐに逃げ出したが、士道聞多は一旦外に出た後、中の様子を窺い燃え具合が悪いのに引き返した。そして焼弾の上に居間の戸板を蹴破って積み重ねると火勢が力を得た。

 見廻り下役人の提灯が事変に駆け付けて来たが、高杉晋作が差料を引き抜くと慌てて逃げてしまった。しかし、下役人に見つかったからにはいつまでもぐずぐずしている暇はない。洋館内で燃え具合を確認している士道聞多に「逃げるぞ」と叫び、高杉晋作たちは切り開いた柵の間から堀を飛び越えた。遅れて逃げ出した士道聞多は逃げ道を見失い、闇雲に柵を乗り越えて堀に転落した。

 高杉たちは近場の芝浦海月楼や高輪の引手茶屋の二階に上がって御殿山の火事を見物した。「愉快、愉快」と手を打って喜んだが、気が付くと士道聞多の姿がない。半鐘がジャンとうるさいほどに鳴り、火消人足が往来を駆けるのを眺める目にも心配の色が浮かんだ。しかし仲間の心配をよそに、士道聞多は土蔵相模に戻っていた。堀に落ちて泥まみれになり、その格好で町を歩くことも叶わず、勝手知った妓楼の女の部屋へ逃げ込んでいた。

 夷人虐殺の恐れのない新築なったばかりの空き家を焼いたのは三条実美の忠告に従ったまでだ。が、御城下の高輪御殿山の公使館を暴徒に焼かれて、幕府の威信は失墜した。そればかりか英国は公使館焼失の損害賠償を幕府に求めた。そして英国は「徳川幕府頼るに足らず」との心証を強くした。

 久坂玄瑞たちは御殿山焼き打ち事件の後も江戸にいた。

 桂小五郎も暫く江戸に残った。それは国許から村田蔵六がやって来るため、その手助けをするようにとの命が藩邸の重役より申し渡されていたためだ。当然ながら伊藤俊輔も江戸に残っていた。

 十二月中旬も過ぎた頃、村田蔵六が江戸藩邸へやって来た。江戸出府の役目は兵制改革格で必要とされる洋式銃などの兵器の調査と購入手筈などだろう。伊藤俊輔はその相手をするようにと桂小五郎から申し付けられた。さっそく村田蔵六の部屋に伺い、

「村田殿の手助けをするようにと申し付けられています。拙者は何をお手伝いすれば宜しいでしょうや」と聞いた。

 しかし村田蔵六は荷解きしている手を休めもしないで、

「別段、手助けはいりません」

 と、不機嫌そうに手短に答えた。

そして荷から手を離して背筋を伸ばすと、伊藤俊輔に視線を向けた。やや憮然とした色を浮かべて口を開いた。その目元はなぜ出府したお役目を伊藤俊輔に説明しなければならないのかと言いたそうだった。

「江戸へ出て参りましたのは兵制改革に必要な品々の買い付けと、異国の新式武器の調査のためです。それと他藩より頼まれた蘭書の翻訳を少々」

 村田蔵六は金沢藩などから蘭書の翻訳を頼まれていた。

「新式武器の買い付けとは来原様がなされていた兵制改革のためでござるか」

 伊藤俊輔の執拗な問いかけに、村田蔵六は小さく吐息を漏らした。

「左様。武士は後先の見境もなく腹を切られる。困ったものである」

 そう言って、村田蔵六は再び荷解きに取り掛かった。

「しかして、横浜の夷人商会で何を求められる」

 と、伊藤俊輔は執拗に質問を重ねた。

「兵器というものは買う前によくよく調べなければなりませぬ。まず何よりも軍艦が必要ですが、帆に依らず航行できる機関付きのものは高価であるため、長崎で買い付ける前に事前に相場というものを知らなければなりません。それからミネーという新式元込め銃が大量に必要です。先般、藩が買い求めた先込めのゲベール銃は西洋では廃棄する代物を高く売りつけたものでした。あれでは話にならぬ。その他には炸裂弾を放つアームストロング砲を。売り物があれば、の話ですが」

 村田蔵六は目を閉じてそう言うと、何かを思い付いたかのように目を見開いた。

「宜しければ、明日横浜までご同行願おう」

 村田蔵六にそう言われると、もちろん伊藤俊輔は従わなければならない。

 翌朝、伊藤俊輔は村田蔵六と同行して横浜へ行った。長州藩下屋敷は麻布藩邸と呼ばれ、今は檜町公園の中に跡地の石碑が立っている。その下屋敷から横浜へ行くのは一日の行程だ。麻布から品川宿・川崎宿・神奈川宿と東海道をのぼり、神奈川宿の外れから保土ヶ谷宿へと行く街道から分かれて、新開地の横浜村へと向かった。

明くる日の朝、村田蔵六と伊藤俊輔は横浜の夷人商館街へと足を踏み入れた。開港してわずか数年しか経たないが、隔世の感とはこのことだ。横浜の繁栄ぶりには目を見張るものがあった。恰も外国へ来たようだ、と伊藤俊輔は洋館の建ち並ぶ大通りを見回した。

村田蔵六は勝手知った町のように海岸通りへ行くと、一軒の英国商館に入った。

「御免」とドアを開けると、大きな声を出して訪いを入れた。

 入ったところは十畳ほどの洋室で、壁際の台に短筒や様々な鉄砲などが飾ってあった。大柄な赤ら顔の四十年輩の男が奥から出て来ると、村田蔵六は挨拶もそこそこに、

「早速である、ミネー銃は一挺いくらでござるか」

と村田蔵六は唐突に聞いた。勿論、日本語で。

大柄な男が主人なのか、村田蔵六を睨みつけるような眼差しで睨んだまま、小さなテーブルを挟んで奥の椅子に座った。その後から小柄な英国人が出て来ると村田蔵六と伊藤俊輔に椅子を勧めた。

 そして村田蔵六の日本語を主人の耳元で英訳して囁いた。すると主人は番頭と思われる者に振り返って、何事かを英語で打ち合わすと村田蔵六に向き直った。だが主人が口を開く前に村田蔵六が手を広げてそれを制した。

「五割がた値を増す、と英語で話されたようだが、それでは困る」

 村田蔵六は主人が話す前にそう言うと椅子を立った。

 横浜にはそうした得体の知れない異国の商人が多くいた。本国で食い詰めた者が一獲千金を目論んで東洋の果てまで流れ着いたような男たちだ。村田蔵六は毅然とした態度でさっさとドアを開けた。

 商館を出ると後を追う伊藤俊輔が村田蔵六に問いかけた。

「村田殿は英人の言葉がお分かりか」

 先を行く村田蔵六はわずかに振り返って、

「ヘボン博士に就いて学んだ故、多少は」

 と不愛想に返答した。詰まらぬことを聞く、と無愛想な村田蔵六の顔が語っていた。

 その日以後、村田蔵六は一人で横浜へ出掛けて商館を次々と回って、最新の西洋兵器とその値段を詳細に調べた。

 

 生麦事件などがあって、江戸でも攘夷を叫ぶ声が湧き上がった。

 夷人斬りは散発的に続いていたし、横浜の居留地まで出掛ける剛の者もいた。

 そうした世情を反映するかのように、伊藤俊輔にも奸物を斬ろうとの誘いがあった。 

 十二月二十一日、伊藤俊輔は仲間と一人の国学者を襲って殺害した。

 仲間とは山尾庸三だ。殺害した相手は幕府和学講習所の教授塙次郎だった。伊藤俊輔たちをけしかけた黒幕は高杉晋作だったともいわれている。

 夕刻、知人宅で催された歌会から帰途の塙次郎を九段坂下で襲い、暗がりで斬り付けて殺害した。だがその事件は史料として遺されていない。後に明治の元勲となった伊藤俊輔に憚って闇に葬られたのだろうか。他の事柄に関しては詳細に記されている『伊藤公実録』にもその部分は欠落している。

 当時、幕府は朝廷と権力を争うことに懸命で、北朝の正当性を揺るがす史料の発掘、もしくは朝廷の権威を失墜させようと目論んでいた。塙次郎は幕府から密かに要請を受けて、南北朝のいずれが天皇の正統か調査していた。

 そして塙次郎は幕府の意を体して、数々の論拠を上げて南朝の正当性を論証し、現天皇の北朝の家系廃位を唱えた。それは尊攘派の立場を根底から覆す学説だった。尊王攘夷の志士でなくてもその学説は驚愕すべきことだった。現天皇に対してこれ以上の不敬はない。その説が公表されるや、国学者塙次郎が許し難い巨悪として「尊王攘夷」を唱える志士たちの目に映った。

 夕刻、伊藤俊輔と山尾庸三は歌会から帰る塙次郎を待ち伏せた。世に名高い盲目の国学者塙己一は次郎の父にあたる。親子揃って国学者として幕府に重く用いられ、和学講習所の教授を勤めていた。「斬る」と決めてはいたが、伊藤俊輔も山尾庸三も正式に剣を習ったことはない。物陰から塙次郎がやって来るのを待ち構え、人影が辺りにないことを幸いに飛び出して斬りつけた。正面から伊藤俊輔が袈裟に太刀をふるい、山尾庸三が背後から肩甲骨の下辺りを突いた。塙次郎はたまらず叫び声をあげて逃げ惑った。伊藤俊輔は追いすがると力を振り絞って数度も太刀を叩き付け、塙次郎が倒れて動かなくなると後ろも見ずに逃げ帰った。

 当然ながら、伊藤俊輔らにの塙次郎殺害の動機には明快な論理性を欠いている。必ずしも天誅とは言い切れない側面があったのも確かだった。なぜなら国学者に対抗するには伊藤俊輔たちも史料や数々の書籍を紐解いて北朝の正当性を主張すべきだったからだ。しかし伊藤俊輔は塙次郎を「不敬極まる」との理由だけで殺害に及んだ。

伊藤俊輔が事件を起こしたのには別の理由があったようだ。当時、伊藤俊輔は桂小五郎の配下から抜け出そうとしていた。桂小五郎の存在は時に行動を束縛するだけでなく、伊藤俊輔の考え方にまで踏み込むこともあって、時として煙たいばかりではなく欝陶しくもあった。久坂玄瑞や高杉晋作たちのように意の赴くままに動ける自由を得たかった。来原良蔵に英学を学びたいと文に内心を吐露したのもその現れだ。桂小五郎の従者として様々な人物と会って議論をし、伊藤俊輔は並みの長州藩士以上に広い世間を知るようになっていた。恩義は恩義として丈の合わなくなった着物を脱ぐように、伊藤俊輔は自分の足で歩く生き方を切望していた。もちろん、そうした動機も塙次郎殺害に加味されていたと思われる。伊藤俊輔が人を殺害することは伊藤俊輔が桂小五郎の中間として配下にある限り、桂小五郎が関与をしたことになる。いうまでもなく、桂小五郎は藩から大検使役として情報収集と政界工作を命じられたである。だから伊藤俊輔が塙次郎殺害事件を起こせば、桂小五郎にとって不必要なことばかりか、お役目を果たす上でも大きな障害となる。桂小五郎はもとより伊藤俊輔も黒子役に徹して、目立つことは厳に慎まなければならなかった

 明くる朝、桂小五郎は伊藤俊輔を自室へ呼んだ。

 すでに桂小五郎の耳に塙次郎殺害の一報は入っていた。

「何ゆえ、塙と従者を斬った」

 桂小五郎は伊藤俊輔が部屋の杉板戸を開けるとすぐさま言葉を放った。目元が吊り上がり、怒りに口元が震えていた。

「天誅を加えただけにて候」

 伊藤俊輔は未だ嘗て目にしたことのない、願面に朱を刷いた桂小五郎の怒りの激しさに気後れして敷居の前の廊下に畏まった。

「人を殺める者は、畢竟斬り殺され自らの血の海に仆れる運命にある」

 桂小五郎は口から唾を飛ばし、詰るように叱った。

伊藤俊輔は口を一文字に結び視線を廊下に落とした。

「僕の従者である限り、勝手な行動は許さず。そう心得るべし」

 桂小五郎は言葉を投げ捨てると、伊藤俊輔を無視して文机に向かった。

 幸いにも幕吏に知られることはなく、伊藤俊輔に探索の手は伸びなかった。だが塙次郎を斬ったことは伊藤俊輔にとって終生心の傷となって消えることはなかった。

 

 明けて文久三年(一八六○)正月五日、高杉晋作たちは小塚原に葬られていた吉田寅次郎の改葬を行なった。それには一つの勅命があった。朝廷は前年の十一月に安政の大獄で刑死した者たちの名誉回復を命じていた。

 前日、山尾庸三と白井小助が小塚原へ行って準備を整え、五日早朝より山尾庸三、白井小助、とその他に高杉晋作、赤根武人、伊藤俊輔の計五人が吉田寅次郎の遺骨を掘り出した。改葬を提唱したのは高杉晋作だった。

「小塚原は刑者を埋むる汚穢の地である。忠烈の士の骨を安んずべき処にあらず」

 そう言った高杉晋作の言葉に、江戸藩邸に居残っていた松陰の弟子たちは直ちに賛成した。賛同した者の中で白井小助だけが異色だった。

 白井小助は松陰の弟子ではない。のみならず、年が高杉晋作たちとは一回り以上も違っている。吉田寅次郎よりも四才ばかり年上だった。

 白井小助は文政九年(一八二六)萩の家老浦靱負の家臣白井家に生まれた。従って、毛利家直径の藩士ではない。毛利長州藩家臣からすれば陪臣者である。

白井家は浦家の兵学家だったため幼い頃から学業を仕込まれ、並々ならぬ学才を示したという。十五の年に江戸遊学を志し儒学や蘭学を当代屈指の学者に学び、剣を斎藤弥九郎道場で修行した。吉田寅次郎が捕らえられた折りには差し入れに奔走し、銘刀長船祐定を売り払って七両もの金子を用立てている。後に浦家領地の伊保ノ庄阿月にあった私塾克己堂で会頭を勤めた。当時の教え子に赤根武人や世良修蔵などがいる。文久二年当時は克己堂の教授を辞して江戸へ出府し尊攘派浪士たちと交わっていた。年は三十の半ばを過ぎていたが攘夷運動に身を投じ忙しく江戸の街を歩き回っていた。後に白井小助は高杉晋作が呼び掛けた奇兵隊に参加している。馬関戦争の折りに銃の暴発で右目に大怪我を負い隻眼になったため『周南の独眼竜』と呼ばれた。

 維新後、白井小助は山形有朋から政府軍に入れという熱心な誘いを断っている。彼は世俗の栄達に背を向けて郷里田布呂木の庵に隠棲し、時折り東京の伊藤博文や山縣有朋の屋敷を訪れて無心した。上京した郷里の厄介者に対して、明治の元勲たちは年老いた白井素行翁を心から持て成して、夜遅くまで酒を酌み交わし昔話を楽しんだという。

 松陰改葬の地は荘原郡若林村の大夫山だった。その地は旗本志村勘右衛門の領地内を藩が買い取ったもので、地名も毛利大膳大夫という藩主の官名から取って付けられていた。

 高杉晋作たちは松陰と同じく安政の大獄で政治犯として処刑された頼三樹三郎と小林民部をも併せてその地に改葬した。

 その二日後、伊藤俊輔は山尾庸三に手伝いを頼み、二人で芝の青松寺へ赴いた。そして、その地に永眠していた来原良蔵の遺骸を掘り起こした。伊藤俊輔は来原良蔵の遺骸をそこに放置しておくのは忍びなかった。山尾庸三と共に若林村まで運ぶと、吉田寅次郎の隣に改葬した。生前の親友が並んだ墓を見て、伊藤俊輔はとめどなく涙を流した。これで来原良蔵も寂しくはないだろうと思った。その地は現在世田谷区若林四丁目の松陰神社になっている。

 正月十三日、久坂玄瑞たちは江戸を発った。だが行く先は京ではない。水戸の志士たちを尋ねた後に、その足で信州松代へ向かうことになっていた。それは桂小五郎の助言だった。信州松代へ佐久間象山を訪ね攘夷について佐久間象山の意見を聴するように勧めた。高杉晋作も「それが良い」と口を添えた。先年、高杉晋作は佐久間象山と会っている。

 久坂玄瑞、山縣半蔵、士道聞多らは水戸を廻って信州へ行くことになった。他の仲間は真直に東海道を京へと上った。再び攘夷派の関心が京に集まっていた。

 久坂たちが旅立って間もなく、高杉晋作にも藩から京での学習院御用掛が命じられた。学習院御用掛とは藩と朝廷との折衝窓口を果たす役目だった。高杉晋作は余り乗り気ではなく、つまらなそうに上洛の旅支度をはじめた。伊藤俊輔も急いで旅の準備を済ますと、藩邸の部屋に村田蔵六を訪ねた。

 村田蔵六は窓際の机に向かっていた。背を丸めて蘭書の翻訳に精出していた。伊藤俊輔が声を掛けると村田蔵六は机に向かったままゆっくりと頷いた。

「これより京へ発ちます。ご壮健であられよ」

 伊藤俊輔はそう言って頭を下げた。すると村田蔵六は首を回してギョロリとした目を剥いて伊藤俊輔を見た。

「過日、和学講習所の国学者が斬り殺されたが、あれはお主たちの仕業か」

 そう言うと、村田蔵六は筆を置き伊藤俊輔に身体を向けた。

 伊藤俊輔は黙って俯いた。暗殺から戻った仲間が首尾良くいった殺戮に興奮し、藩邸で酒を飲み英雄気取りで騒いだ。その声が村田蔵六にも聞こえたものか、或は藩邸内の密かな噂が村田蔵六の耳にも届いたのだろうか。

「人斬りは蛮行にして犯罪であり、厳に慎むべきである」

 と、村田蔵六は言った。静かな怒りに満ちた物言いだった。

 伊藤俊輔は冷水を浴びせ掛けられたようにサッと顔色を変えた。村田蔵六にそう言われると伊藤俊輔にふつふつと反抗の気持ちが涌いた。

「村田殿がなされていることは、まさしく戦の支度であろうと存じまする。戦も人殺しと考えまするが、戦と天誅といかほどの違いがありましょうや」

 伊藤俊輔がそう言うと、村田蔵六は憐れむような目をした。

「戦は政治の一形態にして天誅と称する虐殺にあらず。国家間の戦争は国際法に認められた外交手段の一つである。しかし暗殺は私情にして法の範疇に適さない。相手が巨魁であればあるほど、暗殺ではなく政治的に葬ることこそが肝要であろう。さもなくば伊藤殿は一介の人斬りになられまするぞ」

 それだけ言うと、村田蔵六は伊藤俊輔に背を向けた。

 そして何事もなかったかのように机に向かって筆をとった。

強い衝撃が伊藤俊輔の体を稲妻のように貫いた。伊藤俊輔はその背中に向かって深々と頭を下げた。以降、伊藤俊輔は剣を奮って人を殺戮することは二度となかった。

 伊藤俊輔が徒党を組み殺害を目的として人を襲ったのは生涯にただ一度だけだった。しかし、それはその後の彼の如何なる業績を以ってしても贖えないほどの汚点として彼の人生に残った。二十二才の若気の至りといえなくもないが、伊藤俊輔自身も一度の暗殺を断行して愚を悟った。そして、その後の伊藤俊輔は刀による尊王攘夷とは一線を画した。

 

  八、再び京へ

 文久三年(一八六三)一月五日、将軍後見役の一橋慶喜が上洛した。

 再度にわたる勅使下向による将軍上洛の要請に抗し難く、幕府は将軍徳川家茂の上洛を決めたが、その先遣役として一橋慶喜が入洛し二条城に入った。将軍上洛を久しく策動していた久坂たちの努力がようやく功を奏したことになる。

 ただ幕府は京の町を跋扈する勤王の志士に対抗するために浪士隊を結成して、将軍上洛前に数百名に上る佐幕派浪士たちを京へ送り込んだ。その中には武州百姓上りの腕に覚えのある近藤勇や土方歳三らの顔もあった。彼らは後に「新撰組」と称し、都の辻々は血で血を洗う凄惨な殺戮の場へと化してゆく。

 京へ上った松陰の弟子たちは三条河原町の長州藩邸にいた。町は尊王攘夷派と佐幕派が鎬を削り、既に冷静な常軌を喪っている。血を求める飢狼の群れが辻々に潜み、京の町では尊王と佐幕の誅殺が報復合戦のように繰り返されていた。夜が明けると京の町の路傍に無残な死体がいくつも転がっていた。

 桂小五郎は若い藩士たちに一人で藩邸から町へ出歩くことを禁じ、同時に求めて人を斬ってはならぬと厳命した。殺戮に若い血を滾らせる仲間たちに強い危惧を抱いた。

 伊藤俊輔は京にいた。桂小五郎の従者として忙しい日々を送っていた。一緒に京へ上った高杉晋作は春めいてきた京の町をぶらぶらと歩き、夜になると不用心にも花街へと出掛けていた。

 三月四日、将軍徳川家茂が上洛し二条城に入った。かつて三代将軍徳川家光が上洛した一六三四年以来、徳川幕府将軍の上洛は実に二百二十九年ぶりの出来事だった。しかし徳川家光が三十万の兵を率いて上洛して幕府の圧倒的な武威を天下に誇示した往時に比して、家茂が率いて上洛した随員や兵など三千余に過ぎなかった。しかも天皇の勅使に督促されて上洛して、朝廷に拝謁する形をとらざるを得なかった。そのため徳川幕府の権威が朝廷の風下に立つ権力構造を、満天下に具体的な形で曝してしまった。

 三月十一日、孝明天皇が将軍家茂を伴って賀茂上社、下社を参拝し攘夷を祈願した。形としては天皇の御幸に将軍が随行することになる。実際の統治権限はまだ幕府の方にあったが、諸外国との条約締結に勅許を求めて以来、幕府は自ら統治権能を放棄した格好になっていた。そして、こともあろうに京へ上った将軍徳川家茂は朝廷に対して臣下の礼をあからさまに取った。その行儀良さは武家の棟梁たる者の有り様ではなかった。

 もとより征夷大将軍は天皇が叙した官位だ。たとえそれが形式的なものであろうとも、実際には軍事力を背景に統治権を徳川幕府が握っているとしても、政治権力の仕組としては天皇の権威を借りて徳川幕府が朝廷になり代わって全国三百諸侯に号令をかける権力構造になっている。

現実には徳川幕府が財政力においても全国の殆どの鉱山を配下に治め、全国各地に直轄地を四百万石以上も擁して天下に紛れなき統治権者だ。その実力は西南雄藩が束になっても遥かに及ばないほどの財力と軍事力を有している。ただ徳川幕府にとって最大の不幸は幕末期の政権中枢に人材を欠いていたことだ。十三代将軍徳川家定と十四代将軍徳川家茂と相次いで病弱のみならず、一人前の男子としても気の毒としかいいようのない性格の持ち主で、とても激動の幕末期の徳川幕府を担うだけの人物ではなかった。そして、将軍を輔弼すべき幕閣においても奉行格あたりの下級職には小栗上野介などの人材がいたものの、老中格などに陋習と門閥の厚い殻を打破する変革期を担える人材は払底していた。

 経済構造の変化に伴う慢性的な財政困窮と、天保年間の天変地異や相次ぐ飢饉と、それに開国を迫る外圧と、徳川幕府は確かに様々な要因によって急速に求心力を失った。急激な重農主義経済から商業資本経済へと移行する経済構造の変化に武士社会が置き去りにされ、商人を中心にした市民社会への移行をもたらした。西洋の産業革命に触発されたかのように、江戸末期の日本社会が大きな転換期に直面していた。

しかし幕府瓦解の責に帰すべき要因を一つだけ挙げるならば、それはやはり権力の中枢にいた幕閣の政治執行者として時代を見抜く能力を欠いていたことを指摘する以外にないだろう。尊王攘夷に揺れる社会情勢を鎮静化するために、便宜的に受け容れた御幸随行が幕藩体制の日陰に細々と存在していた朝廷を大きく蘇らせて白日の下にその存在を白日の下に出現させた。そうしたことから宮中に参内して上奏を行う機能しか持たなかった公卿たちが政治的な発言力を持ちはじめ、飾り物でしかなかった天皇の権威が現実的なものとして認識されだした。

将軍以下幕府随員にとって御幸随行は屈辱を満天下に披瀝することに他ならない。将軍は天皇の臣下に過ぎないことを具体的な形で世間に見せつけるものでしかなかった。御幸の行列が三條河原町に差し掛かった折り、見物の大向こうから贔屓の歌舞伎役者にかけるような掛け声が上がった。

「イヨ、征夷大将軍」

 その掛け声が徳川家茂を揶揄したものであることは明らかだ。それでなくとも屈辱的な「随行」という役廻りに幕吏たちは苛立っていた。将軍の随員たちは色をなして群衆を見回した。沿道に群がった見物人の表情にも嘲笑の色が見て取れる。路肩の群衆が土下座している中で、平然と突っ立っている男がいた。細面のあばた面にニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる男。それは高杉晋作だった。その日、高杉晋作は山縣小介たちを誘って見物に出掛けていた。沿道でニヤニヤ笑いながら天皇御幸に随行する将軍徳川家茂の行列を見物した。

 明らかに将軍をバカにした所業だが、天皇の御幸に随行する幕吏たちが行列を乱して高杉に飛び掛かるわけにはいかない。幕吏たちは歯ぎしりするほどの怒りに震えて、高杉晋作を脳裏に焼き付けた。長州藩士高杉晋作の名は、彼らの心に憎悪と共に深く刻まれた。

 

 将軍の賀茂神社参詣祈願と前後して、久坂玄瑞たちの一行が信州松代を廻って京へ上ってきた。桂小五郎たちは久坂玄瑞たちが京にいない間にも攘夷運動が着実に前進していることを告げた。桂小五郎の話が一断落すると、

「ところで、佐久間先生はご壮健であられたか」

 と、高杉晋作が切り出した。

すると、久坂玄瑞は機嫌を損じたように横を向いた。

「はい、ご壮健でした」

 山縣半蔵が久坂玄瑞に代わって律義に答えた。高杉晋作は「そうか、そうか」と相槌を打つと、ニヤニヤと笑って再び久坂玄瑞を見詰めた。

「何だ玄瑞、松代で何か気に喰わぬことでもあったのか」

 高杉晋作は頬に薄ら笑いを浮かべて執拗に聞いた。久坂玄瑞がなぜ不機嫌なのか、高杉晋作はその理由を知っている。

「うむ、『攘夷も可ならん。然れども、軍艦一艘もなくしては攘夷も難しかるべし。宜しく先ず開国して、総ての事物を研究し、充分の準備成し後之を決行することこそ可けれ』と、佐久間先生に諫められては、久坂殿が機嫌の良かろう筈もない」

 と、士道聞多が松代での首尾を高杉晋作に教えた。

 高杉晋作は士道聞多の言葉に頷いた。思った通りだった。

 佐久間象山の持論は少しも変わっていなかった。かつて、吉田寅次郎が遊学の折りに佐久間象山を訪ねた時にも、そう言って吉田寅次郎の考えを変えさせた。

 高杉晋作二十一歳の折り『試撃行』と称して各地を遊学したことがある。江戸から信州へ足を運んだ時にも、佐久間象山は同様なことを言った。そして、

「小僧にはまだまだ分かるまいがな」

 と、傲慢不遜な態度で高杉晋作を小馬鹿にした。

 佐久間象山の屋敷を出しなに高杉晋作は俄に振り返り、門内に向かって「この大馬鹿野郎」と大声で叫んだ。高杉晋作には久坂玄瑞たちに佐久間象山がいかように接したか容易に想像がついた。

 だが、久坂玄瑞は意固地だった。それに信州の館で佐久間象山に接するや、その傲慢な態度に嫌悪の情を抱いた。佐久間象山は人と接する時、面白くなさそうに眉をしかめて小馬鹿にしたような三白眼で相手を斜に見る癖があった。

「僕は論じるのみで実行しない者の意見などに価値を見出さない。畳上の水練の講釈を聞いたとて、何になろうぞ」

 久坂玄瑞はそう言って、高杉晋作を睨んだ。

 松陰先生は既に命を捨てている。この期に及んで何を躊躇する必要があろうか。攘夷の実行を迫ることで幕府を追い詰め、天下の志士を糾合して倒す千載一遇の機会ではないか。そういう思いが久坂玄瑞の眼差しに籠っていた。

「しかし、久坂君。幕府は京都守護職の支配下に新撰組なるものを作り、手当たり次第に尊攘派の同志を殺戮し捕縛している。町を歩く時は気を付けねばならん」

 桂小五郎は厳しい口吻で久坂玄瑞に注意した。

 確かに京の町には得体の知れない浪人者のような男たちが溢れている。どうやら彼らは江戸者で浪士隊と称し、徳川家茂の上洛に先立って京の治安維持に名を借り、尊攘派を取り締まるために幕府が雇った破落戸のようだった。

浪士隊は徳川家茂が上下賀茂神社参詣祈願から二日後の三月十三日に解散したが、大半はそのまま京に残った。その浪士隊の残留組を会津支配下に置いて「新撰組」と称して壬生に屯所を置いた。毒を以って毒を制す、という。腕に覚えのある百姓や郷士たち、それに禄を離れた浪人からなる「新撰組」は命知らずの殺人集団として京を巡回し、徘徊する志士たちを震撼とさせた。

 それを溯ること三ヶ月前。

 その年の一月、長州藩士香川助三が京で殺害された。同じ攘夷派同士の仲間割れだったという。長州人は他藩の者から理に拘泥する性癖があるといわれる。ことに酒が入ると議論に熱中して激昂するキライがあるようだ。そうした酒席での口論が原因だったのか、とにかく長州藩士が殺害された。香川助三は長州藩の八組の士といわれ、馬廻り組の上士だった。年は二十二才。その殺人事件は長州藩内で秘匿された。

 同年三月、河原町の長州藩邸で香川助三暗殺者として勝木又三、中谷彪次郎、楢崎仲輔、松浦富三郎の四名が秘かに切腹に処せられた。四名とも香川助三と同じ八組の士だった。こともあろうに上士ばかり二十代の若者が五名も命を落とした。いずれも尊攘派の若者たちだった。

 長州藩でも尊王攘夷の活動に奔走した者たちが必ずしも思想統一されていたわけではない。とかく若者は論理の虜に陥りやすく、そうした血の粛正が行われていたようだ。

 四月二十日、朝廷から攘夷を迫られた徳川家茂は孝明天皇に攘夷決行日を五月十日と約定した。ただし、その攘夷決行には条件がついていた。一方的に夷国艦船に攻撃を仕掛ける「積極粋な攘夷」ではなく、相手から攻撃を受けた場合にのみ夷国艦を打ち払って良いとする「消極的な攘夷」だった。いわば専守防衛に徹せよとの但し書きが付いていたが、攘夷派浪士にとってそんなことは問題ではなかった。徳川幕府が攘夷決行を正式に天皇の御前で宣誓した、という話だけが独り歩きし始めた。その中身などはどうでも良い。

久坂玄瑞たちはさっそく京都藩邸で同志を募り始めた。ある程度の仲間が集まれば国許へ帰り、馬関海峡に築かれた藩の台場に陣取る。そして久坂玄瑞が策した通り馬関海峡を通行する夷敵艦船を攻撃し、攘夷を決行せんものとするものだった。

幕府が攘夷を宣言した以上、攘夷を決行しても咎められることはない。しかも攘夷は天皇の意思である。久坂玄瑞がそう説くと、たちまち三十名余の者が集まった。もちろん同志の中核は松陰門下で占められた。主だった者たちは天野、冷泉、山田、弘、滝、入江、山縣、馬島、赤根、岡、野村、吉田、白井、所らであった。長州藩の者たちだけでなく他藩の食い詰め浪士たちも参加し、数日にして総数六十名近くに達した。

 当然のことながら久坂玄瑞は京藩邸でゴロゴロしている高杉晋作も誘った。しかし高杉晋作はニヤニヤ笑うばかりで返答をしなかった。その翌朝、高木晋作は元結を切り、さっぱりと髪を下ろした。その剃髪した頭は僧形そのものだった。高杉晋作の姿を見た京藩邸の者たちは腰を抜かさんばかりに驚いた。

僧になるとは俗世間から離れ、仏門に帰依することだ。つまり家禄も家族も捨て去ることに他ならない。藩から命じられた学習院御用掛を蹴った以上、そうでもしなければ恰好はつかない。最悪の場合藩命に背けば切腹モノだ。高杉晋作は彼なりに筋を通したつもりなのかも知れない。

「僕はこれより十年間、隠棲し読書して暮らす。名も高杉晋作を捨て、東行と称する」

 藩重役にそう言うと、高杉晋作はさっさと一人で萩へ帰った。

 実際に高杉晋作は藩公に十年の暇をもらい、萩の郊外松本村弘法谷で世間と隔絶した日々を送っている。

 高杉晋作の胸中は複雑だった。久坂玄瑞や桂小五郎、それに宍戸刑馬たちが『破約攘夷』を振り翳して朝廷工作に奔走しているが、高杉晋作の目には子供じみた動きにしか映らない。そんなことで倒幕がすんなりと行くものか、と心の中では思っている。いかに屋台骨が腐っていようと、伸君家康公以来二百数十年も六十四州を束ねて来た徳川幕府が児戯に等しい攘夷騒動で倒れるわけがないと思いはするが、それは明快な論理により導かれた結論ではない。あくまでも高杉晋作の直感でしかない。直感でしかないため、他人に理路整然と説明できない。攘夷で凝り固まった久坂たちを相手に持論を述べることは危険ですらあった。「攘夷で幕府が倒れることはない」などと言辞を弄していると、下手をすれば攘夷でいきりたつ浪士たちに斬り殺されかねない。高杉晋作といえども自分の杞憂を彼らに開陳するのに細心の用心をしなければならなかった。

 しかし高杉晋作の決意は悲壮だった。頭を僧形に丸めることは今の感覚からは想像できないほどの決意を要する。身分により様々な制約と忌避を設けている社会では髪型も重要な約束事の一つだ。剃髪は藩士の身分も知行も家も妻も、何もかも捨て去ることに他ならない。高杉晋作は俗世間と縁を切り自分の和歌から採って『東行』と称した。いにしえの西行にあやかったもののようである。

  西へ行く人を慕うて東行く わが心をば神や知るらむ

 

 久坂玄瑞の心情は痛いほどよく分かっているつもりだった。吉田寅次郎の妹を妻とし師の遺志に沿うべく京での奮迅の働きは眩しいほどだった。しかし、久坂玄瑞の理詰めの性格はどうしても馴染めない。東行と称したように、高杉晋作の性格には情緒的な部分が色濃く漂っている。だが高杉晋作は命を惜しんでいるわけではない。いつでも死ぬ覚悟はある。ただ、いまはその時期ではない、と思っているだけだ。かつて、松下村塾の一室で高杉晋作は吉田寅次郎に尋ねている。

「男子の死ぬべき場所とは、どのように心得ておくべきでしょうか」

 そう訊ねた高杉晋作に対して、吉田寅次郎は黙ったまま答えなかった。きちんと端座したまま無言だった。その答は後年、伝馬町の獄中から送られて来た文にあった。

『死して不朽の見込あらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらば、いつでも生くべし』

 高杉晋作は師の言葉を片時も忘れなかった。

 自分は夷国との戦を恐れているのではない。攘夷とは幕府を追い詰めるための便法に過ぎない。その便法の攘夷戦で死んでは何にもならない。自分が命を賭ける時と場所はこの後に必ずやってくる、高杉晋作はそう固く信じていた。

 高杉晋作の去った京藩邸で、久坂玄瑞はなおも攘夷戦に加わる同志を募った。すでに攘夷の勅命も下っている。幕府もそれを実行すると宣言した。久坂玄瑞の呼び掛けに呼応して共に馬関へ下る浪士たちが陸続と集まった。先発隊は既に京を後にし、久坂玄瑞も旅支度に取り掛かっていた。

 賄い部屋へ行く途中、伊藤俊輔と士道聞多は久坂玄瑞の部屋の前の廊下を通りかかった。

「伊藤君はいかがなさる」

 久坂玄瑞は旅支度をしていた手を止めると、顔を上げて問うた。

「僕は、桂さんと共に京に残りまする」

 伊藤俊輔は明快に答えた。

 その実、桂小五郎は忙しく京の町へ出歩いていた。従って従者の伊藤俊輔も京藩邸を留守にしがちだった。晩食に姿を見せている方が珍しい。しかし誰も桂小五郎が外出する目的が何か気にもしなかった。

 桂小五郎は悪寒のような胸騒ぎを感じていた。それは剣客の勘ともいえる感覚だった。

確かに攘夷の勅命が下り、幕府もそれを約束した。朝廷は完全に長州藩の手中にある。このまま突き進めば、倒幕もその彼方に見えて来る気配すら見える。しかしこのまま一直線に「攘夷」で幕府を追いつめられるとは、何故だかどうしても思えない。もちろん病弱な将軍と無能な幕閣により右往左往している幕府は問題ではない。しかし、どうしても気になって仕方のない藩が一つだけあった。それは西南の雄藩・薩摩藩だった。

 薩摩藩には得体の知れない無気味さがあった。まるで鵺のようだとすら思える。会津藩は守護職となり桑名藩は所司代として、佐幕の立場は傍目にも鮮明だ。敵味方の旗色鮮明なものは分かり易く、対処に迷うことはない。しかし勤王の立場をとりながら長州藩と反目する薩摩藩は油断ならない。桂小五郎は薩摩藩の動向を秘かに探っていた。

 飛耳張目。桂小五郎は京の町に姿を隠して薩摩藩の動きに目を光らせた。彼に課せられた役目を果たすためにはどうしても京の町中に滞在し、長州藩邸の重役との繋ぎ役が必要だ。桂小五郎にとって繋ぎ役の適任者は伊藤俊輔の他ない。そして、そのことを伊藤俊輔も心得ていた。

 伊藤俊輔が答えると久坂玄瑞は士道聞多に目礼して二人に背を向けた。訊ねるまでもなく士道聞多の考えも同じと判断したものか、何も聞かずに手を休めていた旅支度に取り掛った。が、久坂玄瑞は士道聞多を無視したのではなかった。士道聞多は久坂玄瑞よりも身分も年も上だった。それに士道聞多は松陰門下でない。従って誘ったところで久坂玄瑞が士道聞多を指図出来る立場でもなかった。

 四月下旬、久坂玄瑞は京藩邸を後にして勇躍馬関へと旅立った。

久坂玄瑞の率いる集団は一風変わっている。街道を行く旅人たちは藩士とも浪人たちともつかない若者たちの一行を怪訝そうに眺めた。しかし久坂玄瑞は何も気にせず、颯爽と初夏の山陽道を下った。そして馬関に到着すると彼らは郊外の光明寺に荷を解いた。そのことから藩の重役たちは久坂玄瑞たちを光明寺党と称した。それは後の高杉晋作の奇兵隊の原形ともいえるものだった。

 久坂玄瑞たちが発った朝、ひときわ静かになった京藩邸で伊藤俊輔は士道聞多を番食に誘った。騒然とした嵐のようだった久坂玄瑞たちの朝餉が終わり、一陣の風が去ったかのように賄い部屋に人影はなかった。

「士道さんはいかがなされまするや」

 と、伊藤俊輔は飯を掻き込んでいた手を止めた。

 これからどうするのか、士道聞多の今後の身の振り方を聞いていなかった。

「僕か?」と、士道聞多は『僕』を使った。

「ぼく」とは志士の間で使われている一人称だった。その一人称を士道聞多も使っていた。

「僕は英国へ行く。国許へ帰り、藩公に願い出る」

 飯を掻き込みながら、士道聞多は何でもないことのようにそう言った。

 物見遊山に伏見へでも出かけるような気軽さで「英国」と言って椀の飯を掻き込んだ。

「英国へ?」

 伊藤俊輔は驚きの余り、噛んでいない飯の塊をゴクリと呑み込んだ。

 攘夷で沸き上がっている藩邸内で英国へ行く、なぞと他の藩士の耳に入りでもしたら大変な事になる。しかも幕府は未だ鎖国令を解いてはいない。二重の意味で厳に秘すべきことだった。

「いかにも。僕は英国へ行く。佐久間先生のご意見を伺い、そうすべきと心に決めた。攘夷は大事だが、まずは夷国を知らなければならない。英国留学こそが、今なすべき忠義だ」

 飯を噛みながらそう言うと、士道聞多は汁碗を啜った。

「そうだ俊輔、お主も一緒に行こう。お許しが出たら知らせる。共に英国へ参ろうぞ」

 士道聞多は何でもないことのように言った。

「いや、しかし僕は、」

 と、伊藤俊輔は瞬時に返答をしかねた。

「何だ、行きたくないのか」

「行きたいのは山々だが、藩の方で僕にお許しが出る道理がない」

 伊藤俊輔はそう言って士道聞多を見詰めた。

 伊藤俊輔は藩士とは雖も育に過ぎない。『士列士雇』として準藩士になったばかりだ。士道聞多のように禄を食むれっきとした藩士でもなければ学問所・明倫館で学んでもいない。

「ナニ、心配することはない。そのときは脱藩すれば良い。現に僕も脱藩している」

 事もなげにそう言うと、士道聞多は黙々と飯を掻き込んだ。

 朝餉を済ますと、士道聞多は萩へ向かって旅立った。久坂玄瑞たちが山陽道を下って行ったのとは別に、士道聞多は山陰道を伸びやかな足取りで去って行った。

 

 英国密留学の一件は、既に藩上層部では協議されていた。実は藩士を英国へ密留学させる話はこの春先から出て根回しされていた。だが幕府の御定法に背くため、ごく限られた重役たちの間で、秘かに進められていた。しかし英国密留学の件を藩に願い出たのは士道聞多ではなかった。

 この年の四月上旬に山尾庸三、野村弥吉の両名が藩の正義派重臣周布政之助や毛利登人、桂小五郎らを説いて回った。その中で周布政之助が最も理解を示した。

現在、長州藩は攘夷の大看板を掲げているが、やがて開国が時流となる日が来る、と周布政之助はその慧眼で見抜いていた。しかし攘夷の大看板を掲げて長州藩全体が攘夷派浪士の擁護者となっている時にあって、同じ長州藩が英国密航を策すことは藩にとっても最高の機密を要した。漏れれば命を狙われる。そのことを充分に承知の上で周布政之助は密かに根廻しを始めていた。

 四月十八日、藩主の許しを得ると周布政之助は具体的な密航の段取りに取り掛った。

 長州藩江戸藩邸出入りの貿易商に横浜の大黒屋貞次郎という者がいた。大黒屋は長州藩だけを相手に商いをしているわけではなく、諸藩や幕府にも出入りしている。当時、大黒屋は幕府から頼まれてフランスから機械を輸入する処だった。周布政之助は江戸藩邸にいた村田蔵六を通じて大黒屋を京へ呼んだ。

 三条河原町の京藩邸から程近い料亭『一力亭』に大黒屋を招くと手厚くもてなし、周布政之助は密航の一件を世間話のように切り出した。

「英国へ送り届けて頂きたいものがある」

 突然の話に大黒屋は「えっ」と小さく声を漏らした。

 そして杯から顔を上げて細面の藩重役の顔色を窺った。しかし周布政之助は表情一つ変えなかった。論理的な一面と豪放磊落を兼ね備えたこの男は、藩の重役を感じさせない物腰の柔らかさがあった。

「品物は何でございましょう」

 と、大黒屋は居住まいを正して杯を置いた。

京まで呼び出した上に一流料亭の一室で長州藩の重役が直々に町人の自分をもてなしている。幕府に秘して夷国から大砲でも買い入れる商談かと覚悟して横浜からやって来たが、それ以上の尋常な用件でないことは容易に察しがついた。

「それは、器械だ」

 周布政之助はそう言って、大黒屋から目を逸らした。

傍らには桂小五郎が同席していた。周布政之助は一瞬だけ桂小五郎を見遣った後に言葉を継いだ。

「それも、生きている器械だ」

「生きている器械で御座いますか」

 と、大黒屋は周布政之助の言葉を繰り返した。

 貞次郎は周布政之助の言わんとしている事柄を瞬時に理解した。そうした頭の巡りの良さが彼にはあった。

「そうだ、是非ともやって頂きたい」

 周布政之助はそう言って大黒屋の顔を見詰めて、僅かに頭を下げた。

 秘密を漏らしたからには断られれば斬るしかない。形だけ頭を下げたが、周布政之助の鋭い眼差しは用心深く大黒屋の双眸を凝視している。が、大黒屋は周布政之助の射るような視線を逸らすかのように頬にフワリとした笑みを浮かべた。

「宜しゅう御座います」

 軽く胸を叩いて、大黒屋は天下の大罪を犯すことをいともたやすく引き受けた。

 この当時の商人には武士に負けないばかりか、それ以上の胆力があった。周布政之助はそれを見て安堵したように視線を畳に落とし、深々と両手を突いて頭を下げた。

 それから一月、英国密留学の段取りは極秘の内になされた。ごく少人数の重役だけで密かに事を運んだ。万事慎重に進めたはずだったが、話はすでに漏れていた。少なくとも士道聞多は知っている。長州藩の最大の欠点は機密が漏れることだ。大家族主義とでもいうべきか、機密保持の観念が薄く、秘すべき事柄も仲間意識で漏らしてしまう。

 英国密留学の一件を聞き付けたのは士道聞多だけではなかった。出発間際にもう一人増えることになる。

 

 桂小五郎は京に残った。

 萩へ帰ることも出来たが、桂小五郎はそれを断った。何故か胸騒ぎがした。

「転ばぬ先の杖だ。僕は残ろう」そう言って、桂小五郎は伊藤俊輔に目配せをした。

 以心伝心である。伊藤俊輔も京に残った。

 桂小五郎には不吉な予感がしていた。幕府や京都朝廷に対してあれほど主導権を握ることに執着した薩摩藩がこのままおとなしくしているとは思えなかった。航海遠略策の長井雅楽も功を奏したと思われた次の瞬間、薩摩藩によって足元を掬われた。長井雅楽はこの三月、責めを負い自宅で凄絶な自刃を遂げた。幕府が苦し紛れに攘夷の決行期日を決めたが、それがすんなりと行くだろうかと気掛かりだった。それは根拠のない、ほとんど剣客の勘ともいうべきものだったが、桂小五郎は自分の嗅覚に従った。

「ごった煮はまだ煮詰まってはいない」

 天下の情勢を桂小五郎はそのように表現した。

 幕府を倒す意気込みで久坂玄瑞たちは攘夷戦争を幕府に迫ったが、徳川幕府という「ごった煮」はまだ食えるほど煮詰まっていないという意味だ。倒幕運動はほんの下拵えの段階でしかない。衰えたとはいえ、幕府の武威は長州藩を遥かに凌ぐ。だが幸いにして朝廷の力は日毎に増して、勅命の形で幕府に命じるまでになっている。ここは攘夷戦の帰趨と政局への影響を見極めなければならない、と医師のように天下の情勢を診断した。

 桂小五郎は後に『逃げの小五郎』と云われている。危険な匂いを嗅ぎ取ると桂小五郎は逸早く姿をくらました。江戸三大道場の一つと謳われた斎藤弥九郎道場の塾頭をつとめたほどの腕前でありながら、桂小五郎は生涯一度も刀を抜いて立ち回りを演じていない。医家に生まれた桂小五郎に窮屈な武士の矜持はなく、敵に背を向けるのにこだわりはなかった。たとえ乞食に変装してでも、桂小五郎は敵から逃げた。

 桂小五郎は寝場所を夜毎に変えた。潜行するには長州藩の匂いを消さなければならない。釘を隠すには釘箱の中という言葉がある。桂小五郎は遊客で賑わう祇園を根城にし、幾松を通じて薩摩藩の動向を探った。藩邸との連絡役を勤める伊藤俊輔も命懸けだった。幕吏に捕縛されたらいつでも自決できるように、着物の襟に毒薬を縫い付けていたという。

 潜伏した桂小五郎は意外な形で重きをなすことになる。文久三年八月十八日深夜の政変により長州藩は堺御門の警護役を解かれ、攘夷派七人の公家とともに京から追放された。いわゆる七卿落ちの変だ。その一夜を境にして長州人は防長二州以外に天下に居場所を失い、ただ一人桂小五郎だけが京に潜伏して貴重な情報を萩へ送ることになる。

 だが、この時期はそうではなかった。長州藩の策略に幕府が嵌まり、攘夷決行期日を決定した直後のことだ。長州藩は得意の絶頂にあった。攘夷派浪士たちは群れるように長州藩邸に出入りして金銭面での支援を求め、藩もそれに応じた。しかし、桂小五郎はすでに身を隠して薩摩藩邸の様子を探っていた。

 繋ぎ役は幾松と同じ置屋の半玉の芸妓・小菊が勤めた。年は十五。幾松と同じ若狭の出だった。伊藤俊輔は小菊と先斗町の小料理屋の座敷で数日ごとに会った。いかにも無粋な若い田舎侍が半玉に熱を入れ上げている様子を装った。

 小料理屋や置屋の者たちの目をも欺くために装っていたものが変な心持ちになった。役目上のことだと己に言い聞かせ、そのつもりだったが惚れたと思った。装っているつもりが本気でぞっこん惚れ込んでしまった。

 小菊は名の通り丸顔の小柄な娘だった。色は白くはなかった。貧乏な百姓の娘だといったが、京の水に洗われた容姿は伊藤俊輔の胸をときめかせた。せめて一夜でいいから二人だけで過ごしたいと痛切に願った。

 それは遅い初恋だった。しかし、伊藤俊輔は手さえ握っていない。同じ四畳半の部屋に二人だけで半刻ばかり過ごし、形ばかりの肴に箸をつけて僅かな酒を酌して貰うだけだった。桂小五郎に渡す金子を言付けて小菊から桂の伝言を聞いた。役目はそれで終わりだが、怪しまれないように暫く寡黙な時を過ごして帰った。が、そのわずかな間だけ伊藤俊輔は国許の父母や養祖父母のことを忘れ、血生臭い殺伐とした世間を忘れ、幕末の動乱の渦中にある自分の立場を忘れた。小菊のか細い声に心を奪われ、小首を傾げる些細な仕草に感動し、ほのかな女の匂いに体中の血が逆流するのを覚えた。

 見廻組や新撰組の警備の目を潜って出掛けるのは命懸けだったが、楽しみな逢瀬も長くは続かなかった。一月もたった頃、国許から早飛脚が来た。士道聞多からだった。

『藩公より英国派遣につき内諾これあり。直ちに萩を発って横浜へ向かう、君も共に行くべし。猶、事は厳に秘すべきものにて、この文はただちに焼き捨てるべし』

 一読して雷に撃たれたような強い衝撃を受けた。

 なんと、藩公は英国留学をお許しなされた。攘夷を藩是として今まさにそれを決行しようとすべき時期にあって、到底考えられないことだった。藩公毛利敬親の融通無碍な柔軟さは長井雅楽の悲劇ももたらしたが、同時にこのような僥倖をももたらした。

伊藤俊輔に迷いはなかった。すぐに脱藩を決意すると、その支度に取り掛った。

 伊藤俊輔には一つの胸算用があった。桂小五郎に脱藩の経緯を知らせておけば、後で良いように藩を取り成してくれるに違いないと考えた。桂小五郎のそうした手腕は幾度か目にしている。好都合なことに数日前、所用で江戸へ出向くように申し付けられていた。

 以前、横浜の英一番館といわれたマジソン商会を通じて蒸気船を購入したことがあった。後に長州で壬戌丸と名付けられた艦船だが、その時のよしみで今度は大量の武器を購入することになっていた。江戸へは買い付け資金として一万両ばかり密かに送ってあるから、麻布藩邸の奥平數馬や波多野籐兵衛たちと相談して購入の手筈を付けるように、という役目だった。伊藤俊輔はその役目を引受けてそのまま横浜から英国へ密航することに決めた。

 幕末期、海外派遣は幕府でも薩摩藩でも既に実施していた。

 文久元年(一八六一)十二月二十三日、遺欧使節として竹内保徳を遣わし翻訳方として福沢諭吉、箕作秋坪、寺島宗則を、そして通訳として福地桜痴を派遣している。しかし、鎖国令は解かれたわけではなく国禁としてその政策はまだ続いていた。そのような時期に、長州藩が勝手に藩士を英国に遣わすことは想像だに出来ないことだった。

 その日の夕刻、伊藤俊輔は一通の文を認め先斗町の座敷へ出掛けると、いつものように小菊を呼んでもらった。ほどなく小菊はやって来た。

「小菊、これを桂殿に」

 そう言うと、伊藤俊輔は懐に仕舞っていた文を小菊に手渡した。

「そして、これは其方へ」

 と、伊藤俊輔は懐から銀細工の平簪を取り出した。その品は来る途中に祇園の小間物屋で買い求めたものだった。小菊は顔を赤らめて伊藤俊輔の手元の簪を見詰めた。

「遠慮はいらぬ。受け取られよ」

 伊藤俊輔はそう言って、簪を小菊の方へ差し出した。

「どうして、私に」

 そう言って小菊は伊藤俊輔の目を見た。濡れたような目だった。

「良くしてくれるので、ほんの気持ちだ」

 そうは言ったが、本心は形見のつもりだった。

 この世の涯とも思える英国へ行く。生きては帰れないかも知れない。今生の別れの切なさが伊藤俊輔の胸を締め付けた。

 差し出した小菊の小さな白い手は微かに震えていた。矢庭に伊藤俊輔はその手を取って小菊を引き寄せた。小菊は伊藤俊輔のなすがままに素直に体を寄せた。伊藤俊輔は小菊を腕に抱くとしっかりと間近にその黒目がちな瞳を見詰めた。小菊は恥ずかしそうに目を閉じた。伊藤俊輔は小菊の体が折れるほどの力で抱き締めた。そして、小さな口を吸った。

 小菊は抗わなかった。伊藤俊輔のなすが儘に身を委ねた。ほんのわずかな一服するほどの束の間だったが、伊藤俊輔には数刻ものことに思えた。体を離すと瞬きもしないで小菊を見詰め、思いを断ち切るように部屋を去った。小菊の手には簪だけが残された。

 

  九、英国へ

 翌日の午後、早飛脚の後を追うようにして士道聞多が三条河原町の藩邸に姿を現した。だが士道聞多一人ではなく連れがいた。野村弥吉(大組二百五十一石)と山尾庸三(準藩士、元足軽)も一緒だった。その傍らに遠藤謹助(準藩士、元中間)もいた。顔を見合わすと言葉も交わさず、伊藤俊輔たち五人は直ちに京藩邸を後にした。

 ついに伊藤俊輔は桂小五郎の従者から外れる。もはや伊藤俊輔を庇う後盾はない。

 文久三年四月下旬、伊藤俊輔は生涯の友となる士道聞多たちと横浜へ向かった。京から横浜まで通常の旅では二十日余りの行程だ。しかし、彼らは十数日で歩いた。山や野を飛ぶように急いだ。初夏の東海道を楽しむ余裕はなかった。横浜には五月十日に着いた。

 士道聞多たちはさっそく英国領事ガワルを横浜領事館に訪ねた。手筈は藩公の命により内密に重臣周布政之助が江戸の長州藩御用達の豪商大黒屋を通じて付けていた。

 領事へ行くと早飛脚で連絡を取っていたのか、ガワルはマディソン商会を紹介した。

「藩から連絡があって、英国へ行く手筈は整っていると思うが」

 士道聞多はそう言った。それで万事巧くいくはずだった。しかし、マディソン商会の横浜支社長ウィリアム・ケゼックは費用を用意しているのかと聞き返した。

「それは、用意してある。一人二百両だ」

 胸を張ってそう答えた。それは藩が士道聞多に言い渡した渡航費用だった。しかし、ウィリアムは両手を広げるとこの世も末とばかりに首を横に振って「ノー、ノー」と繰り返した。そして、一人に付き千両必要だと尊大な態度で言った。

それは法外な値段だった。士道聞多たちは顔を見合わせた。当時、貨幣価値が下がったといっても普通の所帯なら月に一両二分あれば暮らせた。藩が一人二百両とはじいた渡航費用もそれなりに根拠があっての金額のはずだ。士道聞多たちは顔を見合わせたが、ここまで来ておめおめと国許へ引き返すわけにはいかない。

 マディソン商会を後にすると、士道聞多たちは江戸藩邸に掛け合うことにした。さっそく江戸麻布の藩邸へと向かった。しかし脱藩した遠藤謹助に捕縛の手配が回っているのではないかと一抹の危惧があった。国許から追補者が差し向けられていることすらあり得たが、それを逡巡している暇はなかった。

 江戸麻布の長州藩邸へ行くと村田蔵六が応対に出た。

 村田蔵六の表向きの役目は不要となった桜田藩邸の売却だった。しかし実際の要件は英一番館を通して最新式軍艦の購入だった。そのために江戸表に着手金として一万両が送られている。そうした差配の一部に伊藤俊輔も携わっている。伊藤俊輔は瞬時にして、桂小五郎から命じられた軍艦購入手付金一万両の一件は目の前にいる村田蔵六が担当しているものと察した。だがその件には触れないこととして、伊藤俊輔は士道聞多の肩越しに藩邸の様子を窺った。

 昨年参勤交代が緩和されて世子も奥方も国許へ帰り、桜田の上屋敷は閉鎖されている。元々参勤交代は三代将軍家光により制度化された。藩主は一年交代で国許と江戸で暮らすが、妻子は人質として江戸の各藩邸上屋敷に暮らす決まりだった。しかし譜代のみならず親藩からもの手元不如意を理由に参勤交代制度の緩和策が言上され、ついに参勤交代が毎年から三年に一度と緩和され、人質として江戸住まいを強いられていた妻子も領地へ帰るのを許された。だが実際は、三年に一度とされた参勤交代緩和策はそのまま参勤交代の廃止となり、ついに幕府滅亡まで参勤交代は実施されなかった。

 参勤交代が緩和されて妻子の江戸住まいが不要になるや江戸は様変わりした。長州藩も藩主の妻子が暮らしていた桜田藩邸は警備の者を残して閉鎖され、下屋敷の麻布藩邸にも重役はおろか留守番役のような村田蔵六がいるだけだった。遠藤謹助への脱藩の手配書も回っていない様子だった。

「五千両、御用立て願いたい」

 士道聞多はいきなり村田蔵六に切り出した。その切り口上に驚いたというよりも、村田蔵六は士道聞多の顔をうさん臭そうに見詰めた。そして心外そうな目をして伊藤俊輔に聞いた。

「何に、お使いなさるつもりでござるか」

 村田蔵六にそう言われて、伊藤俊輔は喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。

英国留学の一件を述べたものか逡巡した。だが頭脳明晰な村田蔵六を前にして、姑息な言い逃れでは通用しないような気もした。しかし藩の最高機密を明かしたものか、伊藤俊輔が迷っていると、士道聞多が口を挟んだ。

「理由を申し上げるわけには参らん。黙って出されれば良い」

 と言うなり、士道聞多は畳に置いていた差料を掴んだ。

 それは出さなければ斬るとの脅しだ。士道聞多の言葉には問答無用の気迫が籠っていた。英国密留学には藩公も関わり、事が露呈すると重役のみならず長州藩そのものの鼎の軽重が問われることにもなりかねない。ここで退くわけにはいかないとばかりに士道聞多は眦を決したが、村田蔵六に少しも動じた様子はない。そればかりか深くため息をついて、団栗眼のギョロリとした目で士道聞多を見ると、

「いやいや、五千両もの大金、黙って御用立てするわけには参らぬ」

 と、叱り付けるように言った。村田蔵六はそうした問答無用の手合いが苦手というより心底嫌いだった。

このままでは士道聞多が刀を抜きかねない。伊藤俊輔は意を決して「実は、」と士道聞多を鎮めるように話し始めた。村田蔵六には正直に話すより他に方法がないととっさに判断した。

「村田殿。われらは英国留学を内々に藩公に申し出てそれを許された。これより英国領事の紹介で英国へ渡るのだが、渡航費用として斡旋する英国の商会が一人千両を要求している。藩が用意した費用では到底足らぬ事態となって困っている」

 と、伊藤俊輔は困惑した表情を刷いた。

 江戸末期とはいえ、千両は現代の貨幣価値で約一億三千万円に相当する。だから五千両とは約六億五千万円となり、一人の江戸藩邸留守居役で右から左へと動かせる金子ではない。伊藤俊輔は困惑した表情に笑みを浮かべると、士道聞多の右腕を抑えて膝を擦りだした。伊藤俊輔は国表から村田蔵六へ送った一万両を口に出すべきか迷った。しかし村田蔵六という男は道理さえ適えば存外物分かりが良さそうに思えた。

「ほほう。で、藩はいかほど用意されたのか」

 と、村田蔵六は頬を緩めた。英国密留学の一件なら、村田蔵六も一枚噛んでいる。

「一人につき二百両でござる」

 伊藤俊輔はそう答えたが、藩が用意した総額は三人分の六百両であることは秘匿した。

 それに対して、村田蔵六は二度三度小さく頷いた。江戸時代末期の二百両とは現代の貨幣価値で約二千六百万円ほどに相当する。

「それが恐らくは、妥当な金子であろう。英国の商会が要求する一人千両は余りに高い。法外とも言える料金だ。だが商売人が足元を見るのは古今東西同じであろう。鎖国の御定法を破るのだから、その苦役も料金に含まれて当然かも知れぬ。苦役を算盤で弾くのも商売のあり様の一つというべきだろう」

 そう言って自身に得心させるかのように村田蔵六は小さく二、三度頷いた。

「それで、いかがであろうか」と、伊藤俊輔は返事を促した。

 村田蔵六はしばらく伊藤俊輔を見詰めていたが大きく頷いた。

「おそらく英国密留学の引受けは英一番館マディソン商会であろう。暴利を貪る商会に五千両は盗人に追い銭だが、それも仕方あるまい。貴君らが英国に学ぶ効用を考えれば、存外安い買い物かも知れぬ。分かり申した、明日の午に来られよ」

 すっきりとした表情を浮かべると、村田蔵六はそう言った。

 中古の洋式機関付き帆走船で二百五十トン前後のものなら七千両余りで手に入る。その対価と比較しても、渡航費用五千両は途方もなく法外だ。しかし、御定法を破って英国へ藩士を密留学させよと持ち掛ける方こそが法外ではないのか。どちらに理があるか、とやかく考えるのは無駄だが、と村田蔵六は意を決して首を縦に振った。五人の英国密留学に五千両の価値があるのか、その決断に対する評価はおそらく歴史が下すだろう。

 士道聞多たちは早速横浜へ取って返してそのことをマディソン商会に伝えた。翌日夜、闇に紛れて横浜沖に停泊中の英国商船ホワイト・アッダー号に乗り込むことに決まった。 士道聞多たちが横浜に着いたのは奇しくも五月十日だ。まさにその日こそが、幕府が宣誓した攘夷決行日だった。伊藤俊輔たちが横浜に着いたその日に、長州藩は他藩に先駆けて攘夷を断行していた。

 長州藩は馬関海峡で米国商船を一方的に砲撃した。米国船はペムブローグ号といい、船長は名をクーパーといった。米国船は横浜から長崎へ回航して上海へ向かう予定だった。馬関海峡は満ち引きの潮の流れが速い。その潮待ちのため豊前の田浦沖に投錨していた。それを長府の威兵城山の砲台から撃った。三発撃ち二発は船の上を通り過ぎ、一発が船腹に命中した。三田尻からやって来た長州藩の庚申丸も砲門を開いた。戦艦とはいっても庚申丸は木造帆走船に砲を積んだだけの代物だった。その艦長は松島剛蔵で久坂玄瑞も乗っていた。砲撃を浴びせられ驚いた米艦は錨を上げ、蒸気機関を全速力で稼働して激しい潮流に逆らって海峡を通過した。久坂玄瑞の乗っている帆走船では追い付けなかった。攘夷戦争の第一幕はそうして終わった。

 士道聞多たちは本藩が絶望的な夷国との戦に突入していることを知らない。ただ村田蔵六が首を縦に振ったものの、本当に五千両もの大金を用意出来るものかと危ぶんだ。

 村田蔵六は士道聞多たちが帰ると江戸新和泉町伊豆倉屋へ主人榎本六兵衛を訪ねた。伊豆倉屋は長州藩邸出入りの豪商で、六兵衛は村田蔵六の藩士らしからぬ気性を好んでいた。大黒屋貞次郎はその伊豆倉屋で番頭として働いていた。横浜で夷人相手に交易をすることが膨大な利益をもたらすことを主人に説き、貞次郎は伊豆倉屋から全額借りて店を出していた。目から鼻に抜ける腕利きと評判の男だった。

「村田様が商人なら、私どもの出る幕はございません」

 いつか、六兵衛は村田蔵六にそう言った。それはどういう意味かと村田蔵六は表情一つ変えずに聞き返した。

「例えば、来原様は腹を切られた。やむにやまれぬご事情がおありでしたのでしょうが、商家にはそういう作法はございません。お客様から注文があり引き渡しに必要な荷が必要な時に間違いなく入り、その代金が確かに支払われるかどうかが、命より大事でございますれば、村田様の方が私どもにはどことなく馴染みます」

「馴染むといわれても困る。わしは武士ではござらんが、商人でもない。藩だ家だといったややこしいものがない代わりに、貴殿のような「暖簾」もござらん」

 村田蔵六は詰まらなさそうにそう言った。

 六兵衛の言わんとする処は良く分かる。簡単に言えば約束を履行する、ということだ。商いでなによりも大切なのは約束の確実な履行だろう。翻ってこの国の政治は約束を実行しているだろうか。いや、そもそも政治を行なう者が何かわれわれと約束しているだろうか。門閥と家柄のみで執政となり、雲の上で年貢の使い道を勝手に決めているだけだ。

 それは政治だけの話ではない。学問についても、この国の学問は本来の学問の体をなしてない。西洋と比べてこの国の学問は長い間、四書五経を基本として余りに形而上学的な側面ばかりを追い過ぎた。一つ一つ事実を積み重ねてある成果を得て、それを実証する学問――それは究理学といわれるものだが――を軽視する風潮があった。しかし、それではこの国の学問が倫理的に高尚かといえばそれも怪しい。忠徳を押し付けるだけの儒学者の学問は堂々巡りの回廊の中をうろついているようにしか、村田蔵六の目には映っていない。

西洋に遅れるのも道理だ。実利的な究理の学問を蔑ろにしていては遅れるばかりだ。ただ唯一、武士の学問で実用的な部分があるといえば切腹の作法だけだ。それは馬鹿馬鹿しさを通り越して滑稽とさえ思える。かつてそうした感慨を憤慨とともに抱いたことを思い出しつつ、村田蔵六は道を急いだ。

 伊豆倉屋を訪ねると、六兵衛は奥から出てきた。

 村田蔵六はその顔を見ると何でもない時候の挨拶のように口を開いた。

「五千両、御用立て願いたい」

 土間に立ったまま村田蔵六は気負うこともなく淡々と言った。

六兵衛はにこやかに微笑んだまま板の間にゆっくりと座り、村田蔵六の顔を見上げた。驚いた番頭はあっけに取られて筆を取り落とし、帳場の結界から事の成り行きを見守った。

「ようござんす」

 と、六兵衛は即座に言った。理由は何も聞かなかった。

 当時の商人には伊豆倉屋六兵衛のような男が何人もいた。この人物と見込めば心中覚悟で無謀な取引を平然と行う。彼らの助け無くして、後の討幕もあり得ない。

「では明日の午、長州藩の伊藤俊輔という者を寄越すから渡して貰えまいか。横浜まで運ぶので、人一人と大八車をお貸し頂ければ助かります」

 それだけ言うと、村田蔵六は頭を下げて店を出た。

 金子の工面に関して、村田蔵六には一つの考えがあった。伊豆倉屋から借りる金子の返済で、本藩から拒否されれば桜田藩邸を売り払った金子で穴埋めすれば良い。長州藩も他の藩と同様に参勤交代の緩和令により、藩主の妻子が江戸に住まわなくてよくなったため、江戸藩邸を競うように売り出していた。長州藩もさしずめ桜田の上屋敷は不用になっていた。ただ洋式艦船購入に託された一万両の切手に手を付けるわけにはいかない。なぜなら一万両の切手は幕府に内密の送金だったからだ。切手とは現物の小判を運ぶわけにはいかないため、送金に際して米や金を担保として発行する為替のようになものだった。「切手」の発行が出来るのも、長州藩に潤沢な資金があるからに他ならなかった。

 長州藩とは反対に、江戸は不況のどん底にあった。一年交代だった参勤交代が諸大名の財政破綻から三年間隔に緩和され、人質として江戸に住まわしていた藩主の奥方や世子までも国許へ帰るのを許したため、一塊の消費団体が江戸から消え去った。しかも諸藩は江戸在府の奥方や世子から勤番の家臣までも引き払ったため、無用となった江戸藩邸や江戸屋敷を売りに出した。大名とその家臣が江戸在住に支払う諸掛りが消え去ったのが商人たちを直撃した。そして横浜が開港されてから、あらゆる生活物資が高騰した。その影響は深刻で、徳川幕府は慌てて「五品江戸廻送令」を出して雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の五品目に限り各地の生産地から直接横浜へ荷送りするのを禁じて、江戸への積み廻しを命じた。しかしその程度のことで江戸市中の品薄が解消されるわけもなく、横浜開港以来諸物価高騰に江戸庶民は苦しめられた。ちなみに参勤交代は幕府瓦解までついに行われず、幕藩体制は制度の上からも破綻の兆しを見せていた。

 実際に用立てた五千両をいかにして穴埋めしたのか、村田蔵六に関する記述は史料に残ってない。ただ桜田藩邸も麻布藩邸も翌年・元治元年の蛤御門の変により長州勢が敗退するや、同年八月に幕府により没収されている。そのさい留守居役などでいた百三十六名が捕らえられ、五十一名が獄死している。だから桜田藩邸は村田蔵六の手で売却されたわけではなかったようだ。そして村田蔵六が横浜で洋式軍艦を購入したという記録もない。つまり村田蔵六は洋式軍艦購入費の一部を伊藤俊輔たちの英国密留学に用立てたようだ。

 翌朝、士道聞多たちは麻布の藩邸を訪れた。

 午にはまだ一刻余りもあった。が、待ち切れない士道聞多に促されて早くに来てしまった。士道聞多たちは応接の間に通されたが、そわそわとして落ち着かなかった。一人伊藤俊輔だけが悠然としていた。

 村田蔵六が請負ったとはいえ五千両は余りにも大金だ。藩の重臣ならば口角泡を飛ばして議論するだけで、決して五千両を目の前に積む事はないだろう。しかし、村田蔵六なら間違いなく用意出来る。伊藤俊輔はそう見ていた。しかも、その根拠はあった。

 来原良蔵の「死に土産」とでもいうべきか、長州藩は武器や装備を洋式へ転換すべく邁進していた。今やその中心人物が海軍局頭取に就任した村田蔵六だった。彼の手元にはそのための資金が潤沢に用意されていた。事実、長州藩は一万両もの「切手」を村田蔵六に託して兵器買い付けに当たらせていた。

 伊藤俊輔たちは半刻ばかり待たされた。士道聞多たちは長々と待たされることに苛立ったが、伊藤俊輔には鳩居堂での経験があった。いきり立つ士道聞多を宥めた。

「確か昨日村田蔵六殿は『午に来られよ』と言われた。僕らが早過ぎたのだ、待つしかあるまい」

 伊藤俊輔がそう言うと、士道聞多たちもそれに従わざるを得なかった。

 金の工面を頼んでいる以上、待つしかない。じりじりとしながらも彼らは待った。そうしている内に午になった。

 いつもの詰まらなさそうな表情をした村田蔵六が五人の前に現れた。そして、士道聞多たちの前に座ると即座に口を開いた。

「処で、英国では何を学ばれるおつもりか」

 と、村田蔵六は聞いた。

すると、五人の中央に座っていた士道聞多が身を乗り出した。何を今更という表情がありありと目元に現れていた。

「兵制全般、特に海軍でござる」

「ほほう、海軍でござるか」

 と、村田蔵六は士道聞多に笑顔を向けた。

 それが小馬鹿にしたように士道聞多の目に映ったのか、士道聞多は刀に手を伸ばして片膝を立てた。その士道聞多の袖を傍らの伊藤俊輔が強く引いた。

「では、何を学べと、村田殿は仰せか」

 穏やかな口調で伊藤俊輔が聞いた。すると、村田蔵六は特徴のある丸いギョロ目を伊藤俊輔に向けた。

「兵制や海軍は既に書物で存じている。私が知りたいのは彼の国の軍事力を支える工業技術であり、それを可能ならしめている政治のありようである」

 村田蔵六はそう言った。

それはまさしく天啓だった。稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。伊藤俊輔は村田蔵六の言葉に深く頷いた。

「必ずや、それらを学んで参ります。村田殿のご好意を決して無駄に致しません」

 伊藤俊輔はそう言って、早々と五千両のお礼を言った。五千両は既に用意出来ているものとの伊藤俊輔の物言いに、村田蔵六はハッハッと甲高い声で短く笑った。

「どうやら、伊藤殿は先回りをされているようだ」

 そう言いながら村田蔵六は立ち上がった。

「新和泉町の伊豆倉屋へ行かれよ。五千両を用立てていよう」

 そう言い残すと村田蔵六は見送りにも出ず、何事もなかったかのように奥へと消えた。少しも恩着せがましくないその姿が清々しいものとして伊藤俊輔の目に映った。

 藩邸を出ると、士道聞多たちは急いで伊豆倉屋へ向かった。

 道々、士道聞多は不機嫌そうに黙り込んでいた。馬鹿にされたと思った。無駄口を叩かない村田蔵六にはそう思わせる一面がある。お追従などとは無縁の無愛想さだ。その性格が災いしてか、明治二年に暗殺されている。だが、村田蔵六に悪意はない。ただ冷徹なまでに合理的な思惟と実用本位の行動原理があっただけだ。

しかし、士道聞多は上士の家に生まれ毛利敬親の小姓役を勤めた。士道聞多には知らず知らずのうちに強い矜持が備わっている。その性癖は高杉晋作と共通している。一方、村田蔵六はいまでこそ長州藩海軍局頭取だが、元を正せば村医者でしかない。藩士はおろか足軽中間ですらない。身分制度のもたらす厄介な矜持は村田蔵六に無縁だった。

 伊藤俊輔には士道聞多を慰める言葉がなかった。村田蔵六同様、伊藤俊輔も生まれは百姓の倅だ。しかし、それにどれほどの意味があるというのだろうか。身分とは厄介なものだ、と秘かに溜め息を洩らした。

 人の貴賤は、生まれではない。もちろん貧富でもない。それかといって学問でもない。立身出世して獲得した名誉や地位でもない。人の貴賤は生き方そのものを以って論ずべきではなかろうか、伊藤俊輔は歩きながらそう考えた。

 伊豆倉屋では主人の榎本六兵衛が待っていた。

 午前中に土蔵から千両箱を五個運び出して、土間の隅に引き入れた大八車に積んで、その上を薦で覆っていた。十両盗めば首が飛ぶ時代のことだ。五千両とは大大名ですら簡単に右から左へ融通できない大金だ。その五千両が土間の隅の大八車に無造作に積んであった。それを横浜で洋銀に両替して、渡航費用として為替で支払う。

 村田蔵六は長州藩の伊藤俊輔という者が来ると言ったが、六兵衛は伊藤俊輔を知らなかった。しかし、落ち着き払って伊藤俊輔が現れるのを待った。長年の商売を通じてそれなりに人物を見る眼力は持っているつもりだった。一目見れば分かる自負があった。

 午を過ぎて店の暖簾を潜った数名の人影があった。六兵衛は帳場から男たちをじっと見た。先頭を入って来たのは伊藤ではない。六兵衛は僅かに首を左右に振ってそう断じた。目鼻立ちこそ聡明さを表わしているものの、村田蔵六が五千両を任せるに足りる男には思えなかった。何よりも腰の拵が立派に過ぎた。家柄の良い生まれなのだろうが、それが災いしている。腰に落とした差料の立派な造りそのままに、武士の矜持が男の表情に現れ、彼の人物・品格を貶めている。

 次に入って来た男を見て、六兵衛はゆっくりと立ち上がった。

 その男は大柄ではない。むしろ小柄といってよい。先頭を切って入って来た男を立てて控え目に振舞っているが、その実二番目の男が他の四人の者を従えている。

頑強そうな体躯をしているが、それは労を惜しまぬ働きをしてきた証に違いない。腰の物はごくありふれた小振りな刀で、身なりにも物腰にも妙な矜持がない。なによりも武士らしくないが、そういう処が村田蔵六と相通じるものがあった。しかも顔付きには隙がなく鋭い目の底が光っていた。

「伊藤様、お待ちしておりました」

 如才なく板の間を歩きながら、六兵衛は言った。すると思った通り、二番目の男が頭を下げた。伊藤俊輔は常に二番手の男だった。この時だけではない。明治維新に至るまでも、そして維新後も明治十一年に大久保利通が暗殺されるまで、伊藤俊輔は常に二番手の男であり続けた。

「かたじけない」

 それだけ言うと、伊藤俊輔は鋭い目の光を消すように相好を崩して微笑んだ。

 六兵衛は心から満足して土間に降り立った。

伊藤俊輔からは柳のような強靭さを感じ取った。波乱万丈のこの世にあって樫のような強さでは頼りにならない。樫の堅さは折れ易い脆さに通じる。この時代には曲がっても折れないしなやかさが必要だ、豪商六兵衛はそう考えていた。

 当節、頼りになるのは藩でも幕府でもない。薩摩藩と長州藩は別格としても、三百諸侯が看板倒れなのは商人の常識だ。商家に莫大な借金を抱えて財政難に喘いでいる。幕府ですら首が廻らないほどの借財を抱えていた。安政から万延に亙って財政改革と称して改鋳を繰り返し、却って貨幣価値を暴落させた。

 もはや頼みとなるのは人物でしかない。その人物に六兵衛は英知や機略と同様に柳のような強靭さを求めた。その要素が伊藤俊輔には見て取れた。商人六兵衛は五千両もの大金を貸す担保として自分自身の眼力に賭けた。しかしそれは六兵衛だけのことではない。幕末期、無名の志士に大金を注ぎ込んだ商人は何人もいた。今では考えられないことだが、彼らは年端もいかない若者たちに全財産と国の未来を託した。

 その時、最年長の士道聞多でさえ二十九才、伊藤俊輔二十三才、最年少の野村弥吉にいたっては弱冠二十一才の若者たちだった。

 横浜へ着くと大黒屋に潜み、夜になるのを待った。その間、行燈の明かりを頼りに五人は髷を切り落とし懐紙に包んで村田蔵六に渡すようにと貞次郎に託した。そして、英国密航に骨折った人たちに感謝をこめて、五人の連名で周布政之助、毛利登人、大和弥八郎、桂小五郎らへ宛てた文を記した。その際、士道聞多は士道家に離縁状を書いている。脱藩をした上に国禁を犯す以上、万一の場合その咎が養家へ及ぶのを思んぱかってのことだった。その夜を境に、聞多は旧姓の井上に戻った。

 伊藤俊輔も仲間たちを見習って辞世のつもりで歌を一首詠んだ。

  ますらおの恥を忍びて行く旅は すめら御国のためとこそ知れ

 

 夜が更けるのを待って、井上聞多たちは大黒屋裏の船着き場から短艇に乗り込んだ。

 一様に、誰もが無言だった。短艇に身を潜めて上から菰を被せると、大黒屋の番頭が友綱を解き船頭が櫓を漕ぎだした。月明かりに照らされた江戸湾は小粒銀を散らしたように輝いた。岸から見た時にはそれほどでもなかったが、近づくにつれてロセッタ号は小山のように井上聞多たちの眼前に迫った。

「この黒船に乗るのか」

 井上聞多は興奮したように低く呟いた。

下ろされた縄梯に取り付いて縄梯の先を見上げると、まるで船腹は巨大な崖のようだった。五人はウィリアム・ケゼックの後に続いて一人ずつ縄梯を登った。舷側の手摺を乗り越えると異様な獣脂のような臭いが鼻を突いた。「これが黒船か」と臭いに驚かされながら船に乗り込むと、五人は船底の船員室へ案内された。そこには三段ベッドが壁に造りつけられていて、その板のベッドで寝るように指図された。寝具は彼らが見たこともないゴワゴワとした茶色の毛布が一つのベッドに一枚あるだけだった。

 ロセッタ号は貨物船だった。従って瀟洒な客室はない。いやそもそも、ロセッタ号の船長は英国へ密航する五人を客として処遇するつもりは毛頭なかった。彼らをバカ高い輸送費を払った貨物の一つぐらいに思っていたし、実際に荒い気質の船員たちはそのように密留学の五人を扱った。

 明けて文久三年(一八六三)五月十二日、井上聞多たちは船底の重く淀んだ空気の中で目覚めた。船は汽缶を焚き始め、蒸気が蒸気溜めに満ちる金属音が船内に不気味に響いた。やがてガラガラと錨を上げる音と轆轤の軋む音が響き渡った。すると蒸気機関が大きな音を轟かせて外輪を回す波音が船底にも聞こえた。伊藤たちは知らなかったが、横浜の埠頭には駆けつけた村田蔵六と貞次郎が二人して並んで立ち、出港する英国貨物船ロセッタ号を見送っていた。

 ロセッタ号はこの当時には極ありふれた普通の機帆船だった。港への出入りは蒸気で機関走行するが、外洋では帆を広げて帆走した。大きさは三百トン足らず。現在の船でいうなら遠洋マグロ漁船を一回り大きくしたほどだ。その船で井上聞多たちは上海まで行った。

通常ならば江戸から上海へ向かうた船は潮岬を過ぎると紀伊水道を北上して瀬戸内海に入って大坂に寄港し、馬関海峡を通過して長崎へ向かう。しかしロセッタ号はどこにも寄港せず、四国沖の外洋を一路まっしぐらに帆走して上海へ直行した。

それが彼らに幸いした。もし通常の航路を採っていたなら、間違いなくロセッタ号は馬関で久坂玄瑞の指揮する攘夷軍に砲撃されただろう。まさし外国船打ち払い令の決行日が井上聞多たちの出港日だった。

 五月十日から長州藩の攘夷戦争は数次にわたって行われた。当初、長州藩首脳部は攘夷に対して慎重だったが、攘夷にはやる者たちによって藩の意向は無視され、馬関の砲台は夷国艦船に向かって砲火を放った。五月十日の砲撃により最初の餌食となったのは米国商船ペムブローク号だった。まさか砲撃されると想像だにしていないベムブローク号を一方的に砲撃して蹴散らした。緒戦の戦果に気を良くしたのか、赤間関海防奉行の寄組以下各要所の砲台は馬関海峡を通過する外国船に対して手当たり次第に砲撃を加えた。

 同月二十三日は仏軍艦キンシャンに、二十六日には蘭軍艦メジュサと相次いで交戦した。キンシャンは応戦もせず直ちに全速力で逃げたが、メジュサは果敢に応戦して、船員九人が戦死し艦腹大破の損害を受けた。長州側もメジュサの艦砲攻撃により民家四戸が全壊した。長州藩が攘夷戦の勝利に沸き立ったのも、この日までのことだ。

 外国艦船による反撃は意外と早くやって来た。馬関の各砲台が外国船を攻撃する、との報せが欧米列強の艦隊に行き渡るや、六月一日には横浜にいた米戦艦ワイオミングがただちに出向して馬関へ向かい、報復のために海峡深く侵入して艦砲攻撃を加えた。ワイオミングの放つ砲の照準は正確で、応戦に出撃した長州藩の虎の子の艦船庚申、葵亥、壬戌の三隻ともたちまち撃沈された。同時に陸上の砲台も大損害を被り死者十三人を数えた。僅か一時間余りの交戦だったという。

 続いて三日後の六月四日、仏東洋艦隊旗艦セミラミスと戦艦タンクレードの二隻が下関を襲った。二隻の戦艦は陸上の砲台の射程距離外から三十五門を休みなく撃ち込んだ。たちまち砲台は破壊され、守備隊の藩士たちは先を争って逃走した。悠々と上陸した仏陸戦隊は砲台を破壊し、民家に火を放って三十三戸を焼き払った。その時に戦利品として長州砲が押収され、現在もフランス・バリのアンバリッド(廃兵院)の前庭にモニュメントの一つとして置いてある。完膚なきまでの敗北だった。

 藩公は山口の政事堂にいた。政事堂とはあくまでも仮の山口政庁として幕府に届けられたお屋敷の名称であった。政事堂の必要性は栗原良蔵たちが早くから説いていたもので、長州藩の萩城は海に突き出た指月山に築かれているため、陸からの備えとしては万全だが、海から攻められると弱い側面があった。そのため攘夷戦を戦うには不利なため長州藩庁を萩から山口へ移した。政事堂は高い塀囲いや大砲などの備えもあって、まさしく城と呼ぶにふさわしい体裁を整えていた。

 その政事堂に早馬で刻々と下関の戦況がもたらされた。

 やがて完敗の報告が藩庁に届き、その報せと共に敗走した藩士たちが這々の体で山口へ逃げ帰って来た。完膚なきまでの惨敗ぶりに恐怖して、毛利敬親は一つの決断をした。

 譜代の藩士は役に立たないという苦い思いが固まっていた。この期に及んで事後を託すには彼を措いて他はない。毛利敬親の脳裏には二十五才の若者の名があった。

「高杉晋作を呼べ」

 毛利敬親は菅高い声で側近に命じた。

 もちろん毛利敬親に名案などない。もちろん高杉晋作がどんな知恵を出すかも、想像もできない。高杉晋作ならどうにかすると思っただけだ。人知を超えた案でなければこの難局は乗り切れない。そういう確信だけが毛利敬親にあった。

早馬が往還路を萩へと駆けた。

 高杉晋作は萩郊外松本村弘法谷の小さな庵にいる。

頭を丸めて十年の暇を賜り、高杉晋作は伸び放題のザンギリ頭で晴耕雨読の日々を送っていた。ただ雅がもたらす噂話で馬関の惨状は知っていた。「だから攘夷は止めろと云ったンだ」と呟いた。彼が上海で見た夷国艦の威容は戦を仕掛けてどうにかなるものでないことは百も承知だった。

高杉晋作の許に毛利敬親の使者が訪れた。

下賜された十年の暇はその年の六月五日にたった三ヶ月で終わることになった。

 山口に召し出されるとさっそく毛利敬親の御前に引き出された。

「馬関での顛末を承知しているであろう。晋作、何とかせよ」

と毛利敬親は命じた。

夷敵に対抗する策を講じるように命じられたが、それに対して高杉晋作は直ちに、

「庶民からなる兵を組織する」と申し出た。

正規の八組の士によって構成される正規兵に頼らず、庶民から兵を募るという高杉晋作の奇策に居並ぶ重臣はどよめきの声を上げた。

もとより、武力は武士の領分だ。「イザ」という時に槍刀を手にして身一つで死地へ赴く。その日のために禄を食み、御城下で暮している。そうした武士の領分を庶民に分け与えるとは由々しき事態、というよりも武士の名目を取り上げるに等しい。御前の広間に広がったどよめきが怒気を帯びて来ると、毛利敬親も場を鎮めるために「無礼を申すな」と叱責の言葉が出た。

すると高杉晋作は藩主の顔を正面に見つめた。この事態を打開するには「奇策」しかないことがお解りでないのか、と高杉晋作は憤怒の眼で訴えた。もちろん毛利敬親は士分からなる軍が攘夷戦ではものの役に立たなかったことを痛感している。しばらく沈黙した後がくりと首を折ると、毛利敬親は「そうせい」と高杉晋作の進言を受け容れた。

「採用してもよい人物がいたら、軽輩身分を問わず其処許に一任する」

 そう申し渡し、下関にいる来島又兵衛と力を併せるようにと言い添えた。

来島又兵衛は身分の低い『無給』の藩士の家に次男として生まれたが、来島家の養子となり大検使役や所帯方頭人などの要職を歴任した。当時すでに四十代半ばの戦国武士の風格を漂わせる豪胆な振舞で知られていた。その名を聞くと、「『サイタケ』にゃ来島又兵衛しかおるまい」と重役たちは顔を見合わせて胸を撫で下ろした。『サイタケ』とは鋤などを曳かせて牛を農耕用に使う際、牛が手綱だけではいうことを聞かず、後ろの人へ向かって角を突き立てないように鞭代わりに持っている『割り裂いた竹』のことをいう。つまり「暴れ牛」高杉晋作の暴走を抑えるサイタケに来島又兵衛が付けば安心だというのだ。

同時に、毛利敬親は高杉晋作の行動を補足するように、六月二十一日に再度の人材登用の藩令を出した。それは高杉晋作が後に創設する「奇兵隊」を想定していたかのようでもあった。

 高杉晋作は下関へと馬を奔らせた。来島又兵衛もさることながら、攘夷断行のため久坂玄瑞たちが率いて四月に京から下った光明寺党の仲間がそこに残っている。彼らを誘って庶民からなる軍を創設しようと考えた。

 しかし、既に久坂玄瑞は馬関にはいなかった。京に異変の兆が見えたからだ。薩摩藩に不穏な動きがあった。京の薩摩藩邸に島津久光が兵を率いて上洛していた。

 高杉晋作は毛利敬親の許を辞すと馬を走らせて、その日のうちに下関に着いた。そのまま海岸沿いの道を駆けて、馬関海峡を望む竹崎町の豪商白石正一郎の屋敷へ向かった。高杉晋作の胸中には一つの案があった。

 白石正一郎は馬関の豪商竹崎白石家の第七代卯兵衛資陽の長男として文化九年三月七日に生れた。多くの兄弟に恵まれたが当時の常として幼くして亡くなる者が多く、成人した男子は六男の廉作と七男の伝七だけだった。正一郎は天保三年正月晦日に林次郎左衛門の一女加寿を妻に娶った。八代目の当主として家業に精出す傍ら尊攘運動にのめり込み、特に高杉晋作には惜しみなく援助を続けた。そのため、さしもの屋台骨も明治維新を迎えた頃にはすっかり傾き没落することになる。

『畢竟匹夫も志を奪うべからず候えども、これらも拒ぎ難く趣にござ候』

奇兵隊結成綱領にそう記されている。

 新しく創設する奇兵隊は百姓町人の身分を問わず兵として取り立てる。これからの戦は槍刀で戦うものではない。洋式銃陣には剣客や槍術の達人は無用の長物だ。指揮官の命に従い機敏に行動し、銃が撃てればそれだけで事足りる。それが高杉晋作の考えた新しい軍隊の骨子だった。それは上海で二丁のリボルバーを買い求めたときの心情を色濃く反映したものだった。

 攘夷戦争で露呈した藩士の無能ぶりが高杉晋作の奇兵隊を生んだといえる。しかし、藩士からなる藩兵は本当に無能だったのだろうか。

 本来、武士は家名を賭して戦場で働く。その働きにより褒賞と石高が決まる。しかし、太平の世に慣れて彼らは家名を守ることにのみ心を奪われた。武士とはいえ戦乱のない二百数十年間、彼等は軍人であるよりも行政を司る官僚に成り果てていた。

 家名を守るためには、死ぬことがあってはならない。死ねば家名断絶となる恐れがある。彼らの臆病さはあながち笑われるべきではなかった。その反面、百姓町人の次・三男に失うものは何もない。文字通り命を的に彼らは戦場を駆けることが出来た。

 西洋ではナポレオンが創設した国民軍を、日本では長州藩の高杉晋作が創った。藩士による正規軍に対して、高杉晋作はそれを奇兵隊と称した。そして、自らが初代総督になった。後々まで高杉晋作は奇兵隊創設者として誇りを持ち、墓碑に奇兵隊開闢総督と刻むように云い遺していた。どれほど彼が奇兵隊に歴史的価値を見出だしていたかは疑問だが、奇兵隊の創設により幕末日本で近代軍隊の第一歩を馬関で踏み出したことは紛れもない史実だ。

 白石正一郎に六月六日から庶民からなる兵を募集すると告げると、即座に彼が入隊を申し出た。続いて二番目と三番目として弟の廉作と伝七も入隊した。奇兵隊の正式な旗揚げは米軍艦ワイオミングに打ちのめされた攘夷戦から僅かに五日後、文久三年六月八日のことだった。

 町々に募兵を触れると、わずか二日にして奇兵隊員は六十名を数えた。十日と待たず百五十名を越え、その後も応募は続いた。馬関光明寺からも相次いで入隊希望者が駆け付けた。入江九一や山縣小介、それに白井小助、世良修蔵、赤根武人らも白石正一郎の屋敷へやって来た。入江九一は理財に関して頭脳明晰だったため、とりわけ入江九一の入隊を高杉晋作は喜んだという。高杉晋作が苦手とする事務方をすべて入江九一に任せると、山縣小介と白井小助を軍監に任命して隊士の教練に当たらせた。

 隊士が百名を越えると白石正一郎の屋敷では手狭となった。新たに奇兵隊屯所を馬関郊外吉田に求めて移した。ただ奇兵隊の運営に関して、藩政府からはビタ一文たりとも支給されなかったため、そうした諸掛かりはすべて豪商白石家が賄った。

 十月一日に新たな役目に任ぜられるまで、高杉晋作は馬関にいた。そして十月一日に藩から奥番頭を命じられ、扶持も百六十石を与えられて山口の政事堂に移った。破格の出世といえる。だが、それは高杉晋作に奇兵隊を任せておくことに危険を感じた周布政之助の措置だった。高杉晋作の創った奇兵隊は河上弥一と滝弥太郎に任せられた。

 

 船は外洋を一路上海へと向かっている。

 船中の井上聞多たちはそうした長州藩の存亡をかけた馬関戦争を知らない。

 白波を蹴立てて走る船上で、伊藤たちは疲れきっていた。しかし実のところ帆走船は揺れが少ない。その上、初夏の海は穏やかだった。船旅としては申し分ないが、伊藤たちは疲れ切っていた。

井上聞多たちは優雅に船旅を満喫していたわけではなかった。彼らの待遇は劣悪そのものだった。扱いは最下級の水夫見習。船底で真っ黒になって汽缶へ石炭をくべ、甲板の掃除に汗を流した。法外な渡航費用を支払ったにも拘らず、彼らは船客としての扱いを受けなかった。井上聞多たちは英国人の水夫たちに命じられ、さながら牛馬のように働いた。

 五日後、上海に着く頃には五人とも簡単な日常英会話を習得していた。操船についても実地に会得できたし蒸気機関というものも体で理解できた。何よりもザンギリ頭の風に靡く髪が新鮮だった。油で髪を撫ぜ付け元結で縛る髷は慣れていたとはいえ、窮屈で手間の掛るものだと得心できた。

 上海に着くと井上聞多は甲板の手摺に凭れて身を乗り出し大声で叫んだ。

「攘夷はやめだ、止めだ。これでは逆立ちしても勝てぬ」

 港に林立する巨大な艦船の帆柱や煙突を眺めて井上聞多は意を翻した。変わり身が早いのも彼の真骨頂だ。もう攘夷を捨てるのかと他の四人がからかった。

 一行は上海で二人と三人の二手に分かれた。五人を二手に分けたのは井上聞多の提案だった。万が一にもいずれかの船が沈んで海の藻屑となったとしても、残る一隻は英国へたどり着けるだろう。そうすれば生き残った者で藩命の英国留学を果たすことができるだろう。彼ら五人は上海で水杯を交わした。それほどまでに彼らの忠義心は健気だった。

 井上聞多と伊藤俊輔はペガサス号(三百トン)に乗り、残りの三人はホワイト・アッダー号(五百トン)に乗り込んだ。ここでも年長者の井上聞多は残る三人に大型船を譲った。伊藤俊輔も井上聞多の差配に従った。

いずれの船も清から茶を英国へ運ぶ貨物船だった。客船ではないため、とても丁寧な扱いは期待できなかった。井上たちのペガサス号が十日ばかり早く上海を発った。二人は白木綿の水夫服に着替えさせられ、甲板で使役に追われ船底で酷使された。

 東シナ海を過ぎてマラッカ海峡を通り抜けると広大なインド洋に出る。蒼穹の涯を思わせるほどの大海原だ。うねりは高く三百トンのペガサス号は木の葉のように翻弄された。山の頂に持ち上げられると次の瞬間谷底へ落ちた。

粉目の荒い日干し煉瓦のようなビスケットに干乾し牛肉と紅茶といった、口に合わない食事に閉口していたが二人とも酷い船酔いになり、井上も伊藤もすっかり体力を失った。それでも夜になると二人は船底の黴臭い毛布に包まって、郷里の様子を案じて顔を寄せあった。

 航海途中に香辛料を積み込むためインドのカルカッタに寄港した。三日間停泊した後、インドを出港するとマダガスカル沖で酷い嵐に遭い、甲板に置いていた食料や水を流失した。うねりは何日も続き伊藤俊輔はひどい船酔いになり、下痢と嘔吐を繰り返した。貨物船に満足な便所はないため、船尾に突き出した二枚の板に跨がって用をたす。山のような大波に翻弄される船尾で用をたすのは命懸けだった。身体をロープで縛って端を井上聞多に持ってもらい、海に落ちないようにして用を足した。

 喜望峰を回ってロンドンへ到ったのは夏も終わった九月二十三日の昼下がりのことだった。井上聞多と伊藤俊輔はダブダブの白い水兵服を脱ぐと、長州藩士として体面を穢さないように着物の袖に手を通して袴を穿いた。そして、大小を腰に差すと甲板に出た。

 九月の抜けるような青い空が広がり、その下にロンドンの大都会があった。海に面した海岸通りには幾つもの巨大なドックが並び、その背後の街には屋根に屋根が折り重なるように連なり、上海でも目にしたような教会の尖塔が聳えていた。

曇天かと思ったが、そうではなかった。無数の煙突から黒々と煙を吐き出し、空を覆うばかりの勢いだ。それはイギリスの活気の現れであるかのようだった。まさにロンドンは産業革命の真っ只中にあった。

 井上聞多と伊藤俊輔は舷側に身を乗り出して町を眺めた。

 日本随一の船溜りは江戸湾鉄砲州沖の石川島あたりにあった。帆柱を林立させる船の群れを知らないわけではないが、目にするロンドン港の景色は想像を絶するものだった。

「こりゃあ、攘夷なぞ絵空事だ。とてもかなわない」

 井上聞多と伊藤俊輔は声もなく、呆然と夷国の都を眺めた。

 町の活気というか、長州とロンドンを見比べてあまりの格差に慨嘆した。

 何たる違いかと、伊藤俊輔は叫ぶように呷いた。女子供に至るまで長州人が残りの一人となるまで死力を尽くしても、遠く英国の足下にすら及ばない。英国一ヶ国と戦ったとしても、万に一つも長州藩に勝ち目はない。攘夷なぞは夢のまた夢に過ぎない、伊藤俊輔は驚きと諦めの入り交ざった頭で呆然とそう思った。

 港には数え切れないほどの黒船がマストを林立させていた。その間を縫うようにペガサス号は微速で機関走行し、静かに埠頭に接岸した。そこには鉄で造られた蒸気機関で動く巨大なクレーンが稼働していた。伊藤俊輔はそうした港の設備に目を見張りながらタラップを下りた。四カ月と十日に及ぶ長旅だった。

 当時、世界に百万都市は僅かしかない。当時の江戸は世界でも有数の百万都市だったが、ロンドンも大英帝国を代表する世界に冠たる百万都市だった。ただ江戸とロンドンとの違いは木造住宅の家並みと重厚な煉瓦造りの街並みにあった。

船員の案内でタラップを下りると、伊藤俊輔たちは気忙しく立ち働く人々の間を縫って海岸通りを歩いた。見慣れない着物袴姿の東洋人を物珍しそうに群衆が取り囲むようにして眺めた。海岸通りの雑踏には喧騒と活気が漲り、荷馬車がひっきりなしに行き交った。船員の先導で埠頭の海岸通りから街へ入り、すぐ近くの商会が軒を連ねる一画へ案内された。通りを一つ隔てただけで、そこには落ち着いた煉瓦造りの館が立ち並ぶ商業街だった。

 船員は一軒の商会の前で立ち止まると、頑丈そうな厚板のドアをノックした。

「東洋人を二匹、約束通り連れて来た」

 そう言って、出て来た白人に井上聞多たちを指差した。

 英語には日本語のように単位の名称で人とサルを識別することは出来ない。ただ船員のぞんざいな指の差し方は東洋から連れてきた「サル」を引き渡すかのようだった。

「まるで荷物扱いだな」と井上聞多は憤慨した。奥から出てきた大男は二人をしげしげと見回した。確かに正装した紋付羽織は彼らの興味を喚起したに違いない。

「オーケー、オーケー」

 納得したように頷くと、その大男は船員と握手した。

 そして、ドアを広く開けて井上聞多たちを室内へと導いた。

 薄暗い商館へ入ると洋装の小柄な男たちが出迎えた。伊藤と井上は驚きの声を上げた。男達は山尾たちだった。彼らの方が一週間ばかり早く着いていた。

 山尾庸三たちは井上聞多と伊藤俊輔に丸テーブルの椅子を勧めた。にこやかに談笑しながら彼らは丸テーブルを囲んで椅子に腰を落ち着けた。

「たまげたのう」

 と開口一番、井上聞多が山尾たちにおどけたように言った。

 旅の無事を喜び合うよりも国力の違いに目を奪われた。先刻の憤慨も驚きとともに井上聞多の脳裏から去っていた。良くも悪しくも井上聞多にはそうした処があった。熱し易く冷め易いというのが長州人の通り相場だ。が、伊藤俊輔は井上聞多のように無邪気ではなかった。

 伊藤俊輔は傍らに立っている赤鼻の大男を睨み付けると、彼の名を聞いた。男はクラークと名乗った。伊藤俊輔は表情を険しくすると椅子から立ち上がった。そして、クラークに英語で言った。

「我々は英国領事の仲介でマディソン商会に五千両もの渡航費用を支払った。しかるに、航海中貴社の待遇は料金と見合ったものではなかった。是非とも理由を伺いたい」

 伊藤俊輔は胸を張って相手を睨み付けた。

 元来、伊藤俊輔には人並み以上の周旋能力があった。それが船中での四カ月以上に亙る夷人との暮らしにより、伊藤俊輔の周旋の力量に磨が掛かった。なによりも、相手の身分に臆することがなくなった。相手がいかに大男であろうと、言うべきことを言わなければそれを認めたことになる。そうした西洋流の交渉術が伊藤俊輔の身に備わっていた。

「それは、私では分からない。私は一社員に過ぎないから」

 と男は気弱そうに言って、眉尻を下げて小さく両手を広げた。

「では、分かる者をここに寄越して貰いたい。この場で話の決着をつけるつもりだ」

 伊藤俊輔は「I decide」と、敢えて強い決意を表す言葉を言った。それは只ならぬ気配としてその男に伝わった。

 この時期、日本の武士は西洋にローニンとして紹介され、夷国人を刀で斬り殺すことで有名になっていた。紛れもなく伊藤俊輔たちは腰に差料を帯びている。男は東洋の果てからやって来た小柄な侍たちに「ヒトキリ」を連想して恐怖した。

「しばらく待たれよ。社長にそのことを伝えます」

「いや、この場で、責任ある者と、今すぐに、話したい」

 力強く英単語を羅列して、伊藤俊輔は執拗に迫った。その剣幕に驚いたのか、男は扉を開けて奥へ駆け込んだ。

 クラークが社長を呼びに行っている間、伊藤俊輔は山尾庸三に聞いた。

「どこで暮らしている」

 すると、山尾庸三は伊藤俊輔のクラークに対する剣幕に驚いたのか居ずまいを正した。「このすぐ近くの煉瓦造りの旅籠の二階に三人で暮らしている」

「それは、どれぐらいの広さか」

「二十畳ほどか、部屋は結構な広さだ。待遇は伊藤殿が怒られたほどには酷くない」

「そうであったのか」

 と言って、伊藤俊輔はクラークに威け高に言ったのを少し後悔した。

 多少とも目鼻の利く西洋の貿易商人なら、いずれ西南雄藩が今後の日本貿易の得意先になることは心得ている。そうであればこそ彼らは幕府の鎖国令を犯してまで、長州藩に貸しを作るために長州藩士の密航に手を貸した。事実この後、イギリスは西南雄藩と結び付き幕府と手を握ったフランスと対抗することになる。

「私が社長のジャジン・マディソンだ」

 と言って、五十過ぎの男が現れた。クラークほどは大きくないが、それでも六尺近い小肥りの大男だった。酒樽のような体躯に赧顔をしていて、高い鼻が鈎になっている。伊藤俊輔は椅子から立ち上がった。

「私は長州藩士・俊輔伊藤だ、宜しく」

 そう言って、伊藤俊輔は堂々と見上げ西洋の儀礼に従って右手を差し出した。毅然としたその態度がジャジンに感銘を与えた。

 伊藤俊輔たちが乗った船員たちがことさら横暴だったわけではない。他の書物には井上聞多が航海中に「航海術」を学びたいと「ナビゲーション」と申し出るところを、「ナビゲーター」(航海士)と言ったため、新米航海士の扱いを受けたためだとしているものが多いが、果たしてそうだろうか。たとえ「ナビゲーター」と言ったところで、航海士にも様々な階級がある。よりによって最下層の船員の扱いをする必要はないはずだ。

 おそらく、船員たち東洋人に対する普通の扱いをしたまでではないだろうか。当時、英国はインドを植民地とし、アヘン戦争を清国に仕掛けて上海などを租借地として奪っていた。七つの海を支配する大英帝国の船員が常識として東洋人に丁寧な扱いをするとは考えられない。

 しかしジャジンは英語を話す、毅然とした態度の伊藤俊輔に驚きの目を向けた。

「往路の船中での手違いを許して頂きたい」

 と、ジャジンはきっぱりと言った。そして、騎士に対するように礼をした。

 藩士は英国社会で言えば諸侯に仕える騎士に当たる。ジャジンは伊藤たちを騎士と理解している。英国は日本以上に厳しい階級社会だ。それに英国日本領事から井上聞多たちの扱いに留意するように記された文書が届いていた。長州は日本で最も開明的な雄藩であり、井上たちは藩政府の幹部の子息であると書かれていた。その文面がジャジンの態度を変えさせた。

「山尾たちの部屋の隣に、宿舎は用意してあります。今日はゆっくりと休まれて、明日から工場見学をしましょう」

 そう言うと、伊藤俊輔に椅子を勧めティータイムを一緒に過ごすことを勧めた。

 三日ほどでホテル暮らしを切り上げると、五人は英国の滞在先へ分宿した。

 伊藤俊輔と野村弥吉、遠藤謹助の三人はロンドン大学教授のドクトル・ウィレムソンの家に寄宿し、井上聞多と山尾庸三はガール街のクーパーという人の家に寄宿した。

 すでに手はずが整えられていたのか、間もなく野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助、伊藤俊輔の四人はロンドン大学の豫科に入った。当時、英国は世界に広がる植民地経営のために、現地人の指導者を育成すべく教育に力を入れていた。ロンドン大学も人種や地域を問わず積極的に留学生を受け入れ、キャンパスには雑多な人種が溢れていた。四人はロンドン大学で英語を学ぶかたわら造船学の講座を選択した。しかし、井上聞多だけは大学に見向きもせず、英国の国家としての成り立ちや社会の仕組、文化の有り様や工業技術に強い興味を示した。

 藩公から五年という賜暇を下されている。井上聞多以外の四人は藩命に厳格に従って本格的に学問を学ぶことにした。だが、まもなく伊藤俊輔も大学へ通うことをやめて井上聞多と連れだって町を見物して歩くようになった。ロンドン大学へ入った者のうち、伊藤俊輔だけが講義にほとんど出ていない。

結局、伊藤俊輔と井上聞多は後の三人とは別行動を取ったことになる。なぜ伊藤と井上の二人は英国密留学の所期の目的に背いたのだろうか。おそらく攘夷を藩是とした長州藩の藩士として、自分たちにはゆっくりと五年間も勉学に勤しむ暇がないのではないか、との予感がしていた。ロンドン滞在の時間は少ない、と強迫観念にも似た思いに駆られた。一刻も早く英国そのものを学ばなければならない、二人は漠然と胸中に渦巻く『明日をも知れぬ思い』に急かされた。

 ウィレムソン教授の弟子に大学生のカンペントルという名の若者がいた。教授は英国を知りたがる伊藤俊輔と井上聞多に便宜を計らい、カンペントルの案内で二人は諸官庁、博物館、陸軍の練兵場から大規模な工場等を見学して廻り、西洋文化の吸収に全力を注いだ。伊藤俊輔と井上聞多は何かに追い立てられるように、息付く暇もなくカンペントルに要請して来る日も来る日も町や工場や軍隊を見て廻った。特に井上聞多の知識欲は飽くことを知らず、重工業会社を見学したがりカンペントルでは埒が明かないとばかりに、直接ジャジンに頼み込むほどだった。

「それほど急いで英国を見学して、帰国後に「英国見聞録」でも書くつもりか」

とジャジンは呆れ返ったが、仕方なく腰を上げ、井上聞多と伊藤俊輔を連れてロンドン港の外れの造船所まで足を伸ばし、時には馬車に乗って郊外の製鉄所を見て廻った。

 毎日、二人は忙しく出歩いた。寸刻を惜しむかのように巨大な機械仕掛の重工業の工場群を見学し、英国人の暮らす煉瓦造りの町並みを散策し、テムズ川の河畔に立ちすくんで河川を行き来する小型蒸気船の運輸を眺め、ウェストミンスター寺院の尖塔を見上げ、ビッグ・ベンの鐘を聞いた。当時のロンドンには既に地下鉄も走っていた。

 まったく異なる文化に接して、伊藤俊輔は目から鱗が落ちるようだった。心が何かから解放されるような不思議な心持ちがした。これ以上の学問はないと伊藤俊輔は思った。百聞は一見にしかずというが、まさしく諺の通りだった。

 ある日、ジャジンが若い娘を連れて来た。これから二人を鉄道に乗せてウェールズ地方の都市バーミマガムにある、この地方最大の製鉄所を案内すると言った。

「これは、」

 と、ジャジンは二人に若い女を紹介した。五尺五寸はあろうかと思える長身痩躯の女は金色に輝く髪をし、碧眼は哀愁を含んだような不思議な光を放っていた。

「ミス・マーガレットだ、私の秘書をしている」

小柄な東洋の紳士二人に引き合わせると、紹介されたマーガレットは威厳をもって右手を差し出した。井上聞多と伊藤俊輔は戸惑い、この国では女も男と同様に堂々としている、と文化の相違に驚いた。そして気後れしたように右手を差し出して細い手を握った。

 四人が乗った蒸気機関車は轟音を響かせて馬よりも早く疾駆した。まるで割長屋が座った大勢の客を乗せたまま疾駆しているようだった。伊藤俊輔と井上聞多は窓外に流れ去る景色に心を奪われ思わず子供のように興奮した。

「処で、ロコモーションは荒野を見境なく疾駆しているが、国境の関所は如何するのか」

 井上聞多は真顔でジャジンに聞いた。

 ジャジンは井上聞多が何を言い出したのか、と怪訝そうな顔をしてマーガレットと顔を見合せた。「関所(ゲート)」とは何を意味しているのかと首を傾げた。

しかし井上聞多が抱いた疑問はもっともだ。通行手形も持たず汽車に乗った旅人を、素晴らしい速度で領地から領地へと番人の誰何もなく駆け抜けさせて良いのか。確か、英国にも領主はいるし、騎士という武士軍団まで抱えているはずだが。大勢の他国者が汽車に乗ったまま領地へ侵入するのに対して、領主はいかにして体面を保つのか。井上聞多は驚きとともに浮かび上がった疑問を口にした。

「関所(ゲート)?」

 と、ジャジンは聞き返した。その隣でマーガレットも怪訝そうな目をした。

「左様、領主の土地を他国者が通るのであるから、当然通過する者たちの身元を改める必要があるであろう。他国者が断りなく領地に立ち入るは不都合ではないのか」

 井上聞多はたどたどしい英語を操ってジャジンに聞いた。

 普段、井上聞多は英語をほとんど話さない。夷国の言葉を操るのに抵抗を感じているのか、それとも上士は相手と対面しても直接言葉を交わさない、という日本での慣習を英国でも貫こうとしているのか。英国人との会話はもっぱら伊藤俊輔に押し付けた。そのため、井上聞多の英会話術はそれほど上達せず、彼の発音が聞き取りにくいのだろう、ジャジンは助けを求めるように伊藤俊輔の顔を見た。

「つまり、汽車に乗ったまま他国人が勝手に領地に入り込むは、他国人による領地の侵犯に当らないのか」

 伊藤俊輔が井上聞多の尋ねる意味を補足して、流暢な英語でジャジンに質問した。

すると、ジャジンは大袈裟に両手を広げて「問題ない」と言って笑った。

「諸侯は土地を所有するが、統治権は持っていない。つまり英国内に治外法権の場所はない。法は一つで、それは全国に及ぶ。国家とはそういうものだろう、違うか?」

 ジャジンは説明してから念押しするように小首を傾げて見せた。

 その説明に伊藤俊輔は驚いた。それは井上聞多も同様だった。

 英国と日本とでは国家観が全く異なっている。日本を一つの国ととらえるなら、幕藩体制の日本はいわば連邦国というべきだろう。全国は六十余州の国に分かれて、それぞれの藩が統治権を有している。しかも藩主は領地を統治し君臨するが、土地は所有していない。藩にはそれぞれに法があり、徴税権があり、統治のための藩吏や兵馬を擁している。それに対して英国の領主はいわば日本の豪農のような存在であり、土地の所有権は有しているが課税権も軍事権も国家に帰属している。二人は日本語でそうしたことを囁き合い、頷いた。が「しからば、」と、井上聞多は重ねて聞いた。知識に対する貪欲さが井上聞多の真髄だ。

「町を巡回する警察官と称する者は、誰に対して忠節を尽くすのか」

 日本では幕吏は幕府に対して、藩吏は藩に対して忠節を尽くす。しかし、ジャジンの説明では統治権というものが日本とは異なるような気がした。

「当然のことながら、スコットランド・ヤードは市民と法に対して忠節を尽くすためにある。誰のためでもない、我々が決めた法を守るために彼らは職責を果たす」

 何でもないことのようにジャジンはきっぱりと言い切った。

ジャジンの言葉に二人は驚いたように顔を見あった。『法に忠節を尽くす』とは仰天動地だった。警察は当主に対して忠誠を尽くすのではなく、国民が取り決めた「法」に対して忠誠を尽くすとは。伊藤俊輔たちにとって衝撃だった。社会を法が支配する。それも一つの法があまねく国中に及ぶ、というのは驚き以外の何物でもない。国民が自ら定めた法により国を治め、税を徴収し、軍に君臨する。仰天動地とはこのことではないか、と二人は顔を見合わせた。そして伊藤俊輔はジャジンの言葉を牛が反芻するように何度も何度も噛み締めた。

 伊藤俊輔の驚きがジャジンに新鮮に映ったのか、彼は更に言葉を継いだ。

「因みに、マーガレットという名は、王女陛下と同じ名だ。しかし、法で禁じられていないから、彼女は誰からも罰せられない」

 そう言って、ジャジンは横のマーガレットにウインクした。

 名を名乗るのに制約がない、というのも伊藤俊輔にとっては驚きだった。

 国家とは何か、という根本的な疑問が伊藤俊輔の胸の中で大きく膨らんだ。徳川様は朝廷から征夷大将軍に任じられて六十四州を束ねている。しかし、それはあくまでも便宜的なものでしかない。国を統治とするとは誰の為に誰が行うのか。欧州諸国でも押しなべて英国と同様な国家体制ではないというではないか。いずれにせよ、日本のように六十四州が分離し独立していては兵馬と装備の面で欧州諸国に劣るのは当然だ。

車中でのやり取りは衝撃とともに記憶された。伊藤俊輔は日本に欠落しているのは『大政の統一』ではないかと、深く胸に刻んだ。

西洋列強と伍していくためには幕府も藩もない。あるべきは一つの国家と法による支配だ。徴税権も軍事力も国家に帰属し、すべての力を結集して一つの国を創る。その思いが伊藤俊輔の心に強く焼き付いた。

 見学に訪れたバーミンガムの製鉄所は二人の想像を絶した。無数の煙突から吐き出される煙が濛濛と空を覆い、赤く溶解した鉄が流れ出る様は工業力の違いをいやというほど見せつけた。しかし実の処、英国の産業革命は北部スコットランドの方が先行していた。更に大規模な工場生産はグラスゴーで行われていた。

「なあ俊輔、攘夷なぞ夢のまた夢じゃのう」

 ロンドンへ戻り、井上聞多は革靴の足音をトラファルガー広場の石畳に刻みながら、マントを翻してふと伊藤俊輔を振り向いた。家々の煙突から上がる暖房の煙がロンドンの空を包んでいた。彼らは英国の冬を暮らしていた。

「とうてい出来ぬ話じゃ。これほどの大仕掛けで船やら大砲やらをつくりょうるんじゃぞ。攘夷を決行すりゃあ、どう転んでも負け戦じゃ。それじゃが、これから僕らは何をすべきか。国許へ帰って攘夷で凝り固まった連中をいかようにして説き伏せれば良いのか、考えただけで骨折りじゃのう。身震いがするわ」

 そう言って井上聞多は伊藤俊輔を見て笑った。

 笑いながら明確な一案が伊藤俊輔の脳裏に去来した。その一案とは日本国を英国のように大政統一することだった。日本が三百諸侯に分かれていてはとても英国に対抗など出来ない。日本を一つの国にまとめ上げて、英国に負けないほどに国力を富ます必要がある。西洋列強と対等な立場で物が言えるようにしなければ、早晩日本もアジアの他国と同様に欧米列強に侵略されるだろう。そして日本人は犬以下の扱いを受けることになりかねない。

しかし大政の統一を実現するためには、まず藩の重役諸氏にその概念を啓蒙しなければならない。まずは長州藩こそ大政統一を図る藩に変えなければ何も始まらない。しかし、そのことを口にすれば即座に斬り殺されかねない。そう思うと山のような壁が伊藤俊輔の前に立ちはだかっているような気がした。

 山高帽子を被り羊毛の三揃えのスーツを着こんで、北風に靡くマントを羽織った小柄な東洋人の紳士が二人、枯れ葉の舞う広場を宿舎へと向かった。

 春めきだした三月の早朝、井上聞多と伊藤俊輔がマディソン商会の応接室で紅茶を飲んでいると、慌てたようにジャジンがロンドンタイムズ紙を持って入ってきた。

「イノウエ、イトウ、大変だ。この記事を読んで下さい」

 そう言って、ジャジンは新聞を二人の前に突き出した。

「何事ですか」

 伊藤俊輔は新聞を受け取った。英新聞も読めるようになっていた。

 差し出した新聞の中ほどに二段の記事が載っていた。『チョウシュウ』との見出しが伊藤俊輔の目を釘付けにした。

「俊輔、何とある」

 急かすように井上聞多が聞いた。何か異変があったことは井上聞多にも想像がついた。

「こりゃあ、大事(おおごと)ぞ、井上さん」

 と、新聞を強く両手で握り締めて伊藤俊輔が声を上げた。

「ここにゃ英、仏、蘭、米の四カ国連合艦隊が長州を攻める、と書いてある。『昨年五月馬関海峡を航行せし外国艦船に長州が不当にも砲撃を加えしことに対する報復』じゃそうだ」

「何ということぞ、四ヶ国の連合艦隊が報復に長州を攻撃する、というのか」

 井上聞多は仰天せんばかりに驚いた。

 異国の暮らしに忘れていたが、国を発った直後の五月十日が攘夷決行日だった。その頃久坂玄瑞たちは攘夷の勅命に浮かれていた。長州藩は馬関海峡に砲台を増強し、京からも諸藩の脱藩浪士たちが攘夷派藩士たちに導かれて馬関へと下っていた。

「何たることだ、」と井上聞多は呻くように叫んだ。

 攘夷の詔勅通りに前後の見境もなく、長州藩は無謀な攘夷戦を決行したのか。

「で、あなたがたはどうするつもりか?」

 ジャジンが伊藤俊輔の顔を覗き込んだ。伊藤俊輔は新聞紙から決然とした眥を上げた。

「ただちに、」と、伊藤俊輔に一瞬の躊躇もなかった。

「日本へ向かう船便の手配を願いたい」と言った。

 その決断が伊藤俊輔の人生を大きく変える。

一介の密航留学生が瞬時の決断により、幕末の時代に英国を見聞した希有な政治家へと大変貌を遂げる契機となる。だがジャジンは「ノーノー」と首を横に振った。

「あなたたちが長州藩へ帰っても殺されるだけではないのか。たとえ藩政府に登庁できたとしても、長州様があなたがたの意見を聞くだろうか」

 ジャジンは若い二人を交互に見た。

 何の分別もなく外国艦を砲撃するからには、長州藩は攘夷論で凝り固まっているはずだ。二人が英国帰りと知られればその場で、鋭利な日本刀で斬り殺されるのではないか、と。

「僕は藩主の側近であった。僕が言えば藩主も耳を傾ける」

 と、井上聞多は自信たっぷりに言った。攘夷派の多くは身分の低い者たちだ。小姓勤めをした大組の子弟たる自分が英国事情を話せば、敬親公も耳を傾けられるはず、との矜持があった。

 自信に溢れた井上聞多の態度に、ジャジンは日本行きの船の手配を約束した。ジャジンが急いで部屋を出ていくと、井上聞多が「なあ、俊輔」と伊藤俊輔に声を掛けた。

「俺たちは帰ると決めたが、山尾たちはどうする」

 二人だけで帰るか、それとも五人で帰るかだが。藩が許した英国密留学は三人だった。伊藤と井上以外の三人には藩から命じられた通り五年の勉学を英国で積むべきか。

「井上さん、帰るのは僕と貴殿の二人だけにしよう。夷国より帰ったと知られれば命を狙われるのは火を見るよりも明らか。五人が五人とも殺されてしまっては何にもなりませぬ。残りの三人はこのまま英国に留まって勉学して頂きましょう。それも藩命に対する忠義というものです」

伊藤俊輔は冷静な眼差しを向けた。

「うむ、あい分かった」

 井上聞多がそう言うと、二人は宿泊先へ戻り早速荷造りを始めた。

 その翌日、五人は連れ立ってロンドン橋近くの写真館へ行った。

 かつて、伊藤俊輔は日本で写真を撮ったことがある。銀盤写真館はすでに横浜と長崎にあった。文久三年三月、準藩士になったのを記念して江戸へ行く途中、街道から横浜の写真館まで足を伸ばして二本差しの勇姿を撮った。当時手に入れた長刀は無銘ながら白鞘でなかなか洒落たものだった。その刀はこのロンドン滞在中に手放している。暖かく持て成してくれたジャジンに伊藤俊輔はお礼として進呈した。元来が武士でない伊藤俊輔にとって、刀は魂というほどのものではなく、手放すのに殆ど抵抗はなかった。刀は伊藤にとって紋付き羽織と同じく、藩士として整えるべき服飾品の一つでしかなかった。

 五人はロンドン橋近くの写真スタジオへ入った。ロンドンに残る三人を中にして、井上聞多が右端で椅子に跨るように座り、伊藤俊輔が左端に立った。五人とも羊毛の三揃えの背広を着てごく自然なポーズで写真に納まった。その写真は「長州ファイブ」として今に遺っている。

 ちなみに英国に残った三人は明治初年に帰国した。

後に山尾庸三は明治政府に出仕して工部卿となり、東京大学工学部の前身となる工業学校を創設して、日本工業技術の進展に尽力した。遠藤謹助は大阪造幣局長となり、明治新政府の貨幣制度の確立に尽力した。野村弥吉は井上勝と名を改めて、伊藤俊輔と大隈重信が新橋横浜間に敷設した鉄道の後を引き受けて日本鉄道の発展に生涯を捧げ、日本鉄道の父と呼ばれている。彼ら三名はいずれも明治政府の高官や実業家となり、新国家の礎を築いた。周布政之助の次代を見据えた慧眼通りに、彼らは英国で学んだ新しい工業技術と知識を生かして明治日本の躍進に活躍した。だが彼ら三名は英国に残ったことにより、実業家になったが維新の元勲にはなり得なかった。

 

 怒涛の元治元年(一八六四年)三月半ば、井上聞多と伊藤俊輔はロンドンを発った。

帰路での待遇は往路とは丸で異なった。待遇に天と地ほどの開きがあった。二人が荷を解いたのは船底の三等水夫たちの船員室ではなく、船長の案内で一等客室に荷を解き、丁寧な応対を受けた。甲板にある部屋からは海が望め、窓からは心地よい春の風が入った。

 甲板までやって来た山尾たちと別れを惜しみ、やがて彼らはタラップを去って行った。埠頭から手を振る山尾たちやジョセフやカンペントルたちの見送りを受けて、船上で井上聞多と伊藤俊輔はちぎれんばかりに手を振った。

 港を出ると船室に戻り、機関走行の船が静かなのに二人は気づいた。バシャバシャと海水を掻き回す音が全くしなかった。それにも拘らず、舳先は海を分けるように掻き分けて力強く前進している。二人が乗った船は船底の後尾に突き出したスクリューという金属の薄板を捩た羽根車を回転させて前後進させる新型だった。日本の諸藩が購入していた蒸気船は外輪船、すなわち船腹の両側に水車を付けてそれを回転して推力を得るものだった。外輪船は嵐に弱く推進力が弱いため欧米では駆逐されていた。

 井上聞多と伊藤俊輔が英国で過ごした期間はわずか半年に過ぎない。しかし滞在の長短など問題ではない。英国留学の体験は井上聞多と伊藤俊輔にとって、なにものにも代え難い体験だった。十九世紀末の英国社会に暮らし英国の文化に触れて、二人は彼我の相違を肌に感じて具体的に理解した。それは村田蔵六が言った社会のありようの違いだった。

 ともすれば明治日本の長足の近代化を、産業革命の模倣から論じる向きが多いが、国家の仕組みを欧米化し国民の考え方まで近代化するには、まず国そのものの構造を転換しなければならない。明治日本がわずか数十年で欧米に追い付けたのは幕末期に欧州へ留学した人材が明治政府で活躍したからに他ならない。伊藤俊輔もそうした留学生の一人として、英国の国家と社会のあり方に強烈な衝撃とともに学んで帰国した。

 伊藤俊輔は英国のありようを克明に脳裏に刻んだ。留学当初、英国は何により成り立っているのか、という疑問に伊藤俊輔は悩まされた。そして形而上学的な疑問に頭を悩ましている自分に驚いた。おそらく松下村塾の仲間たちは「国は何により成り立つのか」といった疑問すら抱いてはいない。ただ頭に被る冠さえ変えれば国は変わると信じている。しかし幕府が統治しようが、朝廷が統治しようが、国家体制を変えなければ何も変わらない。だが、日本国中でそのことを真剣に議論している者が何人いるだろうか。いかなる手立てを講じれば、人は欧州の「国家」というものを理解するだろうか。

六十余州に君主が割拠する日本を如何にすれば、英国のような強大な国家に変貌させることが出来るのか。その考えを突き詰めれば、つまりは自分たちを英国へ送り出した「藩」そのものを消滅させなければならない、という結論に到るのは明らかだ。そう考えるだけで伊藤俊輔は重罪を犯した極悪人のような思いに囚われた。恩を仇で返すような理屈を手に入れるために、はるばる英国下りまで長州藩は自分たちを留学させたのか。まさに天地がひっくり返るような飛んでもない理屈を、誰よりも先に自分が受け容れなければならないことに伊藤俊輔は苦悩した。それは藩により一介の百姓の子倅が中間となり藩士となって英国留学までさせて頂いた恩顧に報いる人としての道に悖るではないか。

しかし生まれながらの藩士の子息と異なり、伊藤俊輔にとって藩の重みは高杉晋作たちが考えているそれほど重くはなかった。

伊藤俊輔は考えた。日本を国家として欧米列強の侵略にさらされないようにするにはどうすれば良いか。どうすれば日本を欧米諸国と同等の強国にすることが出来るのか。それには藩により分割されている国境を取り払い国の統一が必須だ。同時に幕府に代わる「政府(government)」なるものを設置しなければならない。そして国を支え動かす人材の登用と工場を動かす技術者の育成が何よりも急がれる。

既に伊藤俊輔は国家体制のありようと、全国統一の教育の普及の重要性に思い至っていた。西洋に劣らない国家を建設するには国民の教育こそが肝要だ、とするその思いは晩年も変わらず、朝鮮総督に任じられるや朝鮮人の教育に意を砕いた。

 大仕掛けの工業を興すにはまず何よりも大量の鉄が必要だ。来原良蔵も早くから製鉄の必要性に気付き、鍋島藩の反射炉を真似て萩にそれらしき仕掛けを作った。しかし萩郊外に築造した反射炉は失敗に終わっている。基本的に鉄を溶解させる熱量が不足していたからだ。木を燃やした火力では鉄鉱石が溶解する熱量を手に入れることは出来なかった。

軍艦を造るにしても大砲を製造するにしても、まずは良質な鉄が大量に必要だが、長州藩にはもちろんのこと、わが国にそうした製鉄工業はまだ興ってなかった。

 しかし英国では石炭を加工したコークスを用いて、煉瓦造りの大筒の中を坩堝と化し、大仕掛けの装置で鉄を作っている。日本の各地で行われている蹈鞴製鉄とは比べるまでもない。井上聞多と見学に訪れたグラスゴーの製鉄所で溶鉱炉を目にして二人は舌を巻いた。製鉄所だけではない。紡績工場でも轟音と共に蒸気機関が稼働して、目の回る速度と大規模な「factory」と呼ばれる長屋門のような家屋で織物を作っていた。

さらに黒々と煙を吐いて轟然と共に走る鉄道も二人の肝を冷やした。英国の工業力を知るにつけて攘夷を唱えて走り回っている連中は、ほんの書生の真似事でしかないと打ちのめされた。

とてもかなわない。英国一国と戦っても、とてもかなわない。一日も早く近代化しなければ、日本も他のアジア諸国と同じように欧州各国の植民地にされてしまう。怖気を震うような恐怖感とともに、伊藤俊輔と井上聞多は英国の国力に打ちのめされた。

 明治になって伊藤俊輔は大隈重信と力を合わせ新橋・横浜間に陸蒸気を走らせた。伊藤俊輔は西洋文化の実物を日本国民の目の前で動かして見せた。それこそが西洋を理解させるのに一番の近道だと、伊藤俊輔は英国で体験した。

もちろん蒸気機関で走る鉄道は荷馬車に代わる道具に過ぎない。しかし鉄で出来た陸蒸気こそが西洋文化そのものだ。一つの文化が社会に形を成す過程で、その文化が包括する新しい思想も移入される。陸路を陸蒸気で走れば藩や関所といった概念は陸蒸気の煙突から吐き出される煙によって払拭されるだろう。まさに自分たちがそうであったように、つまりは蒸気により疾駆する鉄道に凝縮された工業技術こそが時代を変える力を持っている。伊藤俊輔は鉄道をその象徴だと考えた。

「なあ俊輔、英国は島国で大きさも日本と大して変わらんというが、国のあり様はえらい違いじゃったのう。鉄路が街の地中にも走り、家々の部屋もスチームで暖められていた」

 井上聞多はベッドに腰を下ろして、伊藤俊輔に呟くように言った。伊藤俊輔は窓際の椅子に腰を下ろして頷いた。

 日本と英国とでは何もかもが違っている。入れ札によって首相を選任することのみならず、そうした入れ札により各地の「議員」を選出し、議員が一堂に会す会議を以て諸事取り決めるという。そうした政治の仕組みだけではない。暦も英国ではグレゴリオ暦を使い、七日を以って一週とし、一日を十二等分に別って一時間とし、十二時間をもって一日の前半と後半に分けている。

西洋列強と対等に渡り合うには様々な制度を変えなければならないし、日本にない制度は取り入れなければならない。そのような社会制度は勿論だが、国力を富ますには何よりもまず工業を興さなければならない。だが工業を興すためには、その前提となるバンクの設立からカンパニー創設など、日本そのものを丸ごと一新しなければならない。社会を一新するための諸法度なども整備しなければならない。

そうした作業を実施するために、わが国にどれほどの人材が必要だろうか。考えるだけでも気が遠くなりそうで、伊藤俊輔は呆然として瞑目し深い溜め息をついた。

「村田殿から英留学で学ぶべきは工業と社会形態であると指摘されたが、まさしくその通りだった。日本が遅れているのは工業と社会のあり様だ。もちろん巨大な鉄鋼製造業や造船業を興すには巨額なキャピタルを必要とするし、その調達にはバンクなるカンパニーが必須だ。英国は蒸気機関を用いた工業を興して、世界でも最強の国になっている」

「それに、議会を構成している諸侯が万民による入れ札にて選ぶ、というのも驚きだったな。我が国では家督相続でお役に就いているが」

「いかにも。英国にも王室はあられるが、飾りものでしかない。しかし我らが英国で学びし諸事を国許へ帰りて述べれば、攘夷派たちによって即座に首が胴から離れようぞ」

 そう言って伊藤俊輔が深刻な目をして腕を組むと、井上聞多が思い出したように笑った。そして、伊藤俊輔の肩を叩いた。

「のう俊輔、一夜構武館のような場所で大勢の着飾った男女が手を取って踊るのを見物したが、あれは珍奇であったのう」

 井上聞多はロンドンで見物した舞踏会がよほど気に入ったのだろうか。

「盆踊りのようでもない。泥鰌掬いでもない、それかといってお神楽でもない」

「井上さんは、あれが余程気に入りましたな。だけど、公衆の面前で男と女が体を抱き合って踊るのは、どうも僕は感心できません」

 そう言って伊藤俊輔はベッドから立ち上がり、窓外に広がる海を眺めた。

 井上聞多はあらゆることに興味を持ち、一通りそれらを知識として頭に詰め込まなければ気の済まないたちだった。それも確かに一つの博識に違いない。そうした井上の倦むことを知らない貪欲な知識欲を藩公は愛でて、この男に聞多という名を与えた。

井上聞多は貪欲な知識欲がある反面、物事を深く掘り下げて考える思考の粘着性に欠けていた。どうやら一つの事柄を丹念に研究する性質ではないようだ。何に関しても博識ではあるが、その道の権威とか専門家になるような男ではなかった。

 英国で目にした舞踏会は井上聞多の心に強く刻まれ、西南戦争後に鹿鳴館時代を演出することになる。井上馨の鹿鳴館政策は西洋かぶれの愚策と評されがちだが、良くも悪くもそれこそが、井上聞多が英国で見た西洋だった。

しかし日本では女人が人前で舞い踊るのは元者のやることで、普通の娘がやるべきことではない。もちろん上士が出自の井上聞多はそうしたを百も承知している。伊藤俊輔が必死になって憲法を制定し、法体系を整えて国家として体裁を整えて近代化しようと、欧米の公使たちを不平等条約改定のテーブルに付けることすら出来ない。それならいっそのこと法体系ではなく、即物的に日本の欧米化を公使たちに見せつける方が早いのではないか、と井上聞多は考えた。もちろん日本国民にも西洋文化を理解させるには言葉で理屈を百万遍説くよりも、即物的に西洋そのものを眼前に出現させる方が手っ取り早いのではないか、と井上聞多は考えた。外務卿を何度も歴任した井上聞多の働きなくして、不平等条約を改定することは出来なかっただろう。

 日本への復路は往路ほどの日数を要しなかった。偏西風の追い風を受けて船足は快調に捗り、僅かに三カ月足らずで横浜に着いた。船が浦賀水道を通過したのは午後、まだ陽の高いうちだった。船室の小窓から二人は日本の景色を貪るように眺めて、米飯とみそ汁の味が口腔に広がるのを禁じ得なかった。

 英国渡航で乗船して以来、一年以上も井上聞多と伊藤俊輔は月代を剃らなかった。今は伸びた総髪を村医者のように頭の後ろで縛っていた。散切り頭に馴れた二人にとって髷を結うのは厄介な習慣に思えて、とどちらからともなくぼやきを漏らした。

 夜が更けるのを待って、洋服姿で短艇に乗り込んだ。時に元治元年(一八六四)六月十日だった。

 

  十、長州へ

 夜陰にまみれて二人は横浜の商館街に上陸した。

石階段に打ち寄せる波に靴を濡らしつつ、河岸から足早に路地へ身を隠すように移った。

僅か一年余りしか経っていないが、横浜は大きく変貌しつつあるのが分かった。二人は前後になって路地を急ぎ、大黒屋を訪ねた。

 潜戸を叩くと戸が開き、顔見知りの番頭が顔を出した。

「なんと、」と若い番頭は押し殺した声で驚き、二人を招き入れて木戸から顔を出して往来に人影のないのを確かめた。

「ささっ。すぐに主を起こしてきますゆえ、そこでお待ち下さい」と応接間を指さした。二人は丸テーブルと四脚の椅子が置かれている奥の一室に入った。

 間もなく貞次郎は応接間に顔を出し、「なにか異変でも、」と口を開いた。

二人が急遽帰国した理由を聞くと、貞次郎は心の底から驚いたように頷いた。

「確かに、そのような噂はここの夷人たちから伺っています」

 と、貞次郎は四カ国連合艦隊による長州攻撃の動きがあることを告げた。それも間近い、と付け加えた。

「是非とも英国公使に会いたいが、取り計らってはもらえないか」

 と、伊藤俊輔は貞次郎に頼み込んだ。

「分かりました。やってみましょう」

 貞次郎はそう言って店から出ていった。

 貞次郎が横浜の英国人社会とどのような繋がりがあるのか定かではないが、とにかく速やかに公使から面会応諾の連絡が来た。この当時、欧米列強はアジア諸国を植民地化しようと、アジア進出に鎬を削っていた。ただ米国は一八六一年から六五年に及ぶ南北戦争に突入していたため植民地競争から脱落している。よって英国が強敵と見なすのは仏国だけだった。その英仏両国は連合して一八六〇年十月一八日に清国とアロー戦争を戦い、紫禁城内に進軍していた。次に狙うべきは日本だが、英国は前年(文久三年)七月二日から四日にかけて薩英戦争を戦ったばかりだった。これまで英国は世界中で植民地戦争を経験して来たが、薩摩藩と戦っただけでも苦戦した。日本を征服するのは容易ではない、と思い始めていた。欧米で日本の雄藩として知られているのは薩摩藩と長州藩だった。その長州藩に四ヶ国連合艦隊が攻め込もうとしている。ここで長州藩を叩くのは欧州各国にとって必要だった。

 英国領事を訪れると、吏員が二人の到来を待っていた。夜中だったが領事館には明かりが灯り、出迎えた吏員が二人を招き入れた。

 通された応接室で井上聞多たちは暫く待たされた。オールコックは寝床にあったものと思われる。

 応接室に現れるとオールコックは二人と握手し、尊大な仕草で二人に座るように椅子を勧めた。傍らには日本語の達者な英国人が通事として控えた。その通事はアーネスト・サトウと名乗った。

 「サトウ」という姓はスラヴ系ドイツ人に稀に見られた姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ人だった父の姓で、日本になじみの深い「佐藤」とは関係も繋がりもない。しかし親日家のサトウは自身の姓に漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式の姓を名乗ったりした。明治四年に日本女性武田兼と結婚している。長男の武田栄太郎をケンブリッジ大学へ入れようと英国へ呼び寄せたが結核に罹っていたため、進学を諦めてアメリカのコロラドへ療養のために移り、そこで農業に従事して「サトウダイコン」の生産者として暮らした。また次男の武田久吉はサトウの世話でロンドンに学び植物学者となった。サトウ自身は退職後に英国へ帰国して、多くの著述を遺している。そして彼が記した「英国策論」は明治維新後の日本の政治にも影響を与えた。アーネスト・サトウこそが英国における日本語翻訳の先駆者といえよう。

「四ヶ国連合艦隊による長州総攻撃に、今暫くの猶予を頂きたい」

 伊藤俊輔は手短に用件を切り出した。井上聞多はそうした交渉事を苦手としていたため、専ら伊藤俊輔が話した。オールコックはにこやかな笑みを湛えて、まず伊藤俊輔の英語を褒めた。そして、

「我々も、戦争を好むものではない。だが公海を通過する船舶に砲撃を加えるとは何事か」

 と言って一呼吸間を置き、にわかに目付きを険しくして語気鋭く言葉を継いだ。

「我々は謂れなき無礼に対しては、断固とした措置を取る。これは国際航海法に認められた権利である。あなたがたは我が国に滞在されたようだから、国際法がいかなるものか学ばれたであろう。貴藩の重役たちの見解はいかがであろうか」

 そう言って、オールコックは皮肉な眼差しで伊藤俊輔を見た。

 この年の三月二十二日、仏国公使としてレオン・ロッシュが着任した。ロッシュは野心的な外交官だった。積極的に幕府に取り入り日本での地歩を固めようと策動していた。それに対抗して英国は西南雄藩と手を結ぶ外交戦略を立てた。当然にしてオールコックは長州人と聞いて無視できなかった。が、目の前の英国仕立てのスーツを着た二人の小柄な藩士が本当に頼りになるのだろうか、そういう思いがオーロコックの脳裏を駆け巡った。

 彼は母国に留学した長州藩士がどんな人物か興味があった。これから攻撃に向かう西南雄藩の一つ、長州藩との交渉の手掛かりを得たくもあった。ちなみに四ヶ国連合艦隊による長州総攻撃はオールコックが上海に駐屯している各国に呼びかけたものだった。

 伊藤俊輔は大男に臆することもなく、オールコックを睨み返した。

「我々が、藩を説こう」

 伊藤俊輔はそう言い放った。オールコックは伊藤俊輔の言葉にゆっくりと頷いた。

「良いだろう。では暫くの猶予を与えよう。明朝、長崎へ向けて出発する英国商船がある。これからただちに、その船で諸君を国許まで送ろう」

 そう言うと、オールコックは別れの握手に右手を差し出した。

 オールコックは小柄な二人の長州藩士を当てにはしていなかった。いずれ、英国は西南雄藩の薩摩藩・長州藩と手を結ぶことになる。そうした使命を帯びてはるばる極東の果ての島国へやってきた。そのためには、英国の強さを彼らに骨身に沁みて分からせておく必要がある。そうした方が後々の交渉が英国有利に働く。オールコックは当時の外交官の常識としてそう考えていた。彼ら欧米人が白人以外の人種の国民と接する際には常に高圧的で恫喝的だった。

 井上聞多と伊藤俊輔は急ぎ足に英国公使館を出た。品川へと急ぎ夜陰に乗じて英国商船に乗り込んだ。商船には英仏軍艦の二隻が護衛として付いて行くことになっていた。それは、馬関海峡の砲撃を警戒してのものだった。

 航海の間、伊藤俊輔と井上聞多は殆ど口を利いていない。帰国の航海と打って変わって、異常なほど無言だった。国を後にして一年有余もの月日が流れていた。

 伊藤俊輔と井上聞多は黙ったまま船の揺れに身を委ねた。一言も語り合わなかったが、彼らの心には共通の思いがあった。それは藩論の転回をいかにして説くか、だった。政事堂で御前に二人が罷り出て、攘夷で沸き返っている破約攘夷を説いたところで、藩論を俄かに転回させられるだろうか。その思いが二人を寡黙にした。

さらに伊藤俊輔の胸中には久坂玄瑞たち松下村塾門下生たちの面影があった。

 久坂玄瑞たちは攘夷運動を強力に推進する動力源となって朝廷を動かし、遂には将軍徳川家茂を上洛させて攘夷決行を宣誓せしめた。尊王攘夷へと天下の流れを導く政治的手腕は高く評価されるべきものだが、攘夷派の本家・元祖のようになってしまった彼らに、その志を捨てさせ翻意を促すことができるだろうか。それは命さえ落としかねない途方もない大事業のように思えた。

攘夷に燃えて京を下った仲間たちには久坂玄瑞をはじめ松陰門下の四天王といわれた英才の吉田栄太郎や入江九一もいる。頭の回転と弁舌では彼らに到底適わない。しかし、及ばないまでも彼らに西洋列強の国力を語って聞かせなければならない。実際に自分の両の目で見た英国を説いて聞かせなければならない。英国の国力がいかに想像を絶するものかを。だからここは是が非でも、四カ国連合艦隊との戦を阻止しなければならない。

 伊藤俊輔は小さな丸い船窓に凭れて小さく溜め息をついた。ただ伊藤俊輔にとって高杉晋作が彼らと行動を一にしていないのがせめてもの救いだった。昨年、京藩邸を去る際に高杉晋作は藩から命じられた学習院応接係を拒絶し、その代わりに剃髪して十年の暇を請い郷里の山麓で「隠棲」していた。

 二日後に艦船は瀬戸内海周防灘大分沖の姫島付近に投錨した。伊藤俊輔たちは英軍艦の艦長ドヴェル大佐に「四ヶ国連合艦隊の攻撃は藩の返答があるまで暫くの猶予を頂きたい」と願い出てから、水兵たちが漕ぐ短艇で姫島の海岸へ送ってもらった。

 島の漁師を見つけると、拝み倒すようにして雇った。小さな手漕ぎ船で昼過ぎに姫島から漕ぎ出して周防灘を渡り、夕暮れに防府郊外の両側を壁のような崖に囲まれた砂浜に開けた聚落の「富海」へ着いた。距離からいえば「中ノ関」へ行く方が近いが、会所のある防府の主要港へ降り立つのは危険だと判断したからだった。

三田尻の海軍局へ行けば伊藤俊輔や井上聞多の顔を知らない者はいないが、攘夷派の巣窟を頼るわけにはいかない。洋装に革靴を穿いた二人を見ると、何か伊藤か井上が一言いう前に首が胴から離れかねない。危険を避けるために二人は三田尻の中ノ関に向かわず遠方の富海へ迂回した。

人影のない黄昏時とはいえ、二人は素早く浜の舟陰に身を隠して辺りを窺った。誰かに見つかれば面倒なことになるのは火を見るよりも明らかだ。なにはともあれ人目に立つ洋装をどうにかしなければならない。国許の地に降り立ったものの、二人とも腰には刀すら帯びていない。髷を切り落とした散切り頭は笠で隠せるが、革靴に洋服でうろつくことは攘夷派浪士に斬ってくれと申し出ているようなものだ。

 富海は戸数わずか十戸余りの漁村だった。ごくありふれた寒漁村だが、ただ聚落に一軒だけ飛船問屋を商う屋敷があった。屋号を八木屋といい、主人の名を入江磯七といった。二人は旧知の飛船問屋「八木屋」の入江磯七を頼った。

 まず飛船問屋向かったのは「天下の情勢がどうなっているか」を知るためだった。この国の様子を知るには全国各地と海で繋がり、人と物が動く「飛船問屋」ならば天下の様子が分かるに違いないと考えた。それに飛船問屋なら着ている二人分の着替から差料までは勿論のこと、幾許かの銭も都合がつくだろうとの算段があった。

 井上聞多は入江磯七を良く知っていた。藩主の小姓役で参勤交代に御供する都度、船荷の手配などで飛船問屋の入江磯七とは頻繁に接触していた。夕日に染まった入江磯七の屋敷の大戸を叩いたのは井上聞多だった。

「入江磯七殿はご在宅か」

 井上聞多が小さく叫ぶと、板戸の内から微かな返答があった。

「拙者は長州藩士井上聞多である」

 そう言うと、切り戸が少しだけ開いた。そこに年老いた下男の顔があった。井上聞多は素早く老人の肩を押して強引に切り戸を潜った。

 井上聞多が中へ入ると伊藤俊輔が後に続いた。珍奇な二つのジェントルマンの人影が聚落の路地から家の中に消えた。

「御洋行なされたのではないか、との噂は伺っていましたが、真でしたか」

――まさか、と入江磯七は二人の姿を見て目を丸くした。年は四十過ぎだが元々が潮風で鍛えられた漁師のため体付きは貧弱でない。

「おうともよ。だが今は土産話よりも、まずは何か着替えはござらんか。それと大小も」

 そう言いながら井上聞多はもどかしそうに土間に靴を脱ぎ捨てると板の間に上がり、返答も聞かずにズボンを脱ぎ始めた。伊藤俊輔も井上聞多の後に続いて土間に皮靴を脱いだ。

 入江磯七は「へい、」と軽く返答をして、下男に二揃えの着物と袴を持って来るように命じた。

「ところで、藩はどうなっておる」

 シャツの白い貝殻ボタンを外しながら、井上聞多が聞いた。

「長州様は、関ケ原以来の未曾有の大難局に直面しています」

 と、入江磯七は板の間に正座して二人を見上げた。

「未曾有とは、何がじゃ。拙者たちは英国より戻ったばかりで今浦島だ。よって何も分からぬ。一つ要領よく、教えてやってはくれぬか」

 井上聞多はシャツを脱ぎ捨てるとフンドシ姿で立ったまま聞いた。

 入江磯七は去年五月から六月にかけて起こった馬関の攘夷戦争で、長州藩が完膚なきまでに叩きのめされた敗戦と、八月に京から長州勢力が駆逐された政変の『七卿落ち』を教えた。そして無謀にも、長州藩は京へ軍勢を差し向けようと発進論に揺れていることをも付け加えた。

 井上聞多は表情を暗くして「やはり、そうか」と頷いた。

そして差し出された単衣の袖に手を通した。まだ藩のお歴々は四ヶ国連合艦隊が長州攻撃にやって来るのを知らないようだ。

「容易ならざる事態だ」

 下帯一つになった伊藤俊輔も眉間に皺を寄せてそう呟いた。

 井上聞多は袴の紐を結わえると、その手で腹をポンポンと叩き「腹が減っちょる」と叫んだ。井上聞多の厚かましい申し出にも、入江磯七は微笑で答えた。

 夜半のことだから何もないと恐縮しながら、入江磯七は飯と汁と漬物の膳を用意した。

「長州藩は天下の孤児になりました」

 と、入江磯七は寂しそうに言った。

 伊藤俊輔と井上聞多は箸も止めずにその言葉に視線だけを送った。冷や飯と沢庵が極上の御馳走に思えた。入江磯七は二人が忙しく飯を掻き込むのにも構わず一人で喋った。

「去年の八月十八日、突如堺御門の護衛を解任され、三条実美様以下七人のお公卿様が京を追放され、今は宮市の毛利様の別邸大観楼に奇遇しておられまする」

「それは、薩の計略でござるか」

 忙しく咀嚼しながら、伊藤俊輔が聞いた。

別に確信があってそう訊いたのではなかった。ただ桂小五郎が長州藩に仇なす藩として最も警戒していたのが薩摩藩だった。

「正しく、そのようで御座います。薩摩が会津と手を組んでやった、という専らの噂で。それで朝廷に対して長州の赤心を示し、恭順の意を伝えるべく吉田様や杉山様、それに桂様たちが京に残って命がけで働いておられます。久坂様も上洛されたと伺っています。そうした一方で、藩では来島又兵衛様たちが兵を率いて京へ発進すると騒いでおられるようで。来島又兵衛様は京で一戦も辞さじ、と激高されているとか」

 入江磯七は長州藩の状況をかいつまんで話したが、六月五日の夕刻に京の池田屋であった大騒動をまだ知らなかった。

「あい、分かった」

 搔き込むようにして食べ終わると、寸暇を惜しむかのように井上聞多と伊藤俊輔は立ち上がった。長州藩が一刻の猶予もならない状況にあることだけは疑いなかった。

 夜明けまでに二人は山口への道を踏破するつもりだった。

 富海を発つと提灯の明りを頼りに聚落の路地を登って山懐の山陽道へ出た。まずは三田尻の代官所を訪れて山口入りの手筈を整えなければならない。幸い三田尻の代官は井上聞多が旧知の湯川平馬だった。もちろん家格は百石の井上聞多の方が上である。

 夜半にも拘らず、湯川平馬はさっそく鑑札を出した。そして藩士としての体面を保つために羽織・袴と大小、それに髷がないのを隠すために笠まで用意してくれた。

 三田尻からは萩へと続く御成道を行く。ただ英国と違って汽車もなければ乗合馬車もない。とにもかくにも、ひたすら歩くしかない。三田尻の街を過ぎると急な坂道に差し掛かる。昼間なら暑くてかなわなかっただろうが、夜道はかえって歩きやすかった。草いきれのする山道を前屈みに登り、勝坂峠を過ぎると後は駆けるように坂道を下った。山口の盆地に入ってからもなだらかな下り道が続き、山口の町外れの椹野川まででもかなりの道のりだった。彼らは競うように二人が前後しながら夜通し歩き続けた。

 井上聞多は山口の郊外湯田に生まれ育ったため、山口の地理に詳しい。藩庁が山口に移されると家臣たちも萩の屋敷を出て、山口の近在の格式ある屋敷に移り住んだ。二人はまずは藩の重臣毛利登人を頼ることにした。毛利登人は開明的な思想を持ち、松陰門下生に対して常に好意的に接していた。奥番頭を勤めた重臣でありながら、英国密航の際にも密かに力を尽くしてくれた。

 空が白みはじめた頃、二人は山口の町外れを流れる椹野川河岸に面した重臣毛利登人の屋敷にたどりついた。さっそく鎧戸を叩くと家人が起きて来た。

「どちら様でしょうか」

 と、年老いた男の声が尋ねた。

 その声のした辺りの鎧戸の焼杉板に、井上聞多は口を付けるようにして囁いた。

「拙者は、藩士の井上聞多と申す。伊藤俊輔と共に当家にご滞在の毛利殿に子細あり、ご面会に上がりました」

「暫く、お待ちのほどを」

 そう言うと、鎧戸の内の人の気配が奥へ遠のいた。

 毛利登人は屋敷にいた。井上聞多と伊藤俊輔は顔を見合わせて小さく頷いた。

 潜り戸が開けられ、二人は長い土間を通って裏へ案内された。毛利登人は屋敷の奥の座敷に姿を現した。単衣の着物を体に巻つけ小肥りの腹を博多帯で締めていた。先刻まで寝床にあったものと見受けられた。

「いかがした」

 ゆったりとした仕草で座ると、毛利登人は素気なく言った。

 散切り頭の英国から戻ったばかりの二人を前にして、昨日別れたばかりの者に対するかのようだった。長州人の常としてまどろっこしい形式的な挨拶はすべて省略された。

 この時期、まさしく長州藩は剣が峰にいた。前年の文久三年八月十八日の七卿落ちの政変以来、長州人は京を追われていた。馬関の攘夷戦でも初戦の勝利に酔う暇もなく、八月には米蘭の戦艦によって徹底的に叩きのめされた。そして、京を追われた長州藩の立場を回復すべく、桂小五郎や久坂玄瑞たちが朝廷に長州藩の誠意を説き伏せようと奔走している。しかし、その活動を支援すべく上洛した若い志士たちが六月五日の夕刻に京の池田屋で壬生浪士といわれた新撰組に襲われて多数落命したばかりだった。

 池田屋の事変を二人は毛利登人の口から初めて知らされ、驚愕の余り声も出なかった。

「で、誰が?」

――討たれたか、と伊藤俊輔は身を乗り出した。

「桂は危うく難を逃れたが吉田稔麿(吉田栄太郎)、杉山松助、肥後の宮部鼎三……」

 と、毛利登人は名をあげて声を詰まらせた。

 後の歴史家が池田屋の変により明治維新が一年は遅れたと評されるほどの打撃だった。

「池田屋の事変の報が本藩に届くや、政事堂でも京へ兵を差し向けようと発進論が勢いを得てな。それで、自重派を以って任じる家老の根来上総殿、井原主計殿らが上洛し、去年の八月の政変の嫌疑を晴らさんと朝廷に嘆願書を持って臨まれたが、一向に埓があかない。今では藩公までも発進論に傾いておられるようだ」

 発進論とは兵を率いて上洛することで、武力衝突を想定したものだった。

「それは、無謀というもの」

 伊藤俊輔は涙を拭うと、毛利登人に言った。

それに毛利登人は頷いた。毛利登人も兵を率いての上洛は危険過ぎる、と発進論には反対の立場をとっていた。

「京では桂がすでに上洛した発進論の連中を相手に自重を求め、政事堂では周布殿や清水殿が藩公父子に冷静なご対応を促しておられる」

 そう言うと、毛利登人は顔をしかめて小首を傾げた。

「だが、止まるまい。御家老の重鎮福原越後殿を筆頭に来島又兵衛や真木和泉らが既に発進し、他に二人の家老国司殿と益田殿も発進の準備を整えている。藩として流れがそうなった以上、一政務役の儂にはいかんともし難い」

 毛利登人はそう言って首を横に振った。すると、今度は井上聞多が身を乗り出した。

「御重役、まもなく西洋列強が大挙して攻めて参りますぞ」

 井上聞多がそう言うと、眉を寄せて眠ったようだった瞼をカッと見開き、毛利登人は井上聞多を睨んだ。

「何と」

 絞り出すような声でそう言って、毛利登人は苦渋に顔をしかめた。

「ロンドンにてその報に接し、急ぎ帰って参りました。横浜で英国公使オールコックと会い、艦隊来襲をしばし猶予して頂いておりますれば、何とぞ御前にて講和を提起され、早急に我らを横浜へお遣わし下され」

「前門の虎後門の狼、とはこのことか。正に長州、窮したり」

 と言って、毛利登人は目を瞑り、腕を組んだ。

「して、高杉殿はいかがなされておられるや」

 先程からの毛利登人の話に高杉晋作の名が出て来ないため、伊藤俊輔が聞いた。

 昨年四月に突如頭を丸めて京から国許へ帰った所までは知っている。その後この事態に到っても、隠棲したまま高杉晋作が知らぬ半兵衛を決めこんでいるとも思えなかった。

「晋作か」

 と言って、毛利登人は目を開けた。そして困ったものだというようにフッフッと笑った。

「京へ進発するといきり立つ来島又兵衛殿を宥めるようにと、この一月に周布殿が晋作を遣わしたが、説得に失敗するや上洛して脱藩騒動を起こしおった。今は野山獄よ」

 そう言う毛利登人の目元に笑みがあった。

 高杉晋作という書生のような粋狂好きな男のことが毛利登人の脳裏に去来した。松陰の弟子にしては珍しい。二十五になっても、未だに跳ね返りの小僧のように騒ぎを起こしては周囲をはらはらさせる。そして、本物の未曾有の騒動の時には忽然と政治の表舞台から姿を消している。馬関戦争の時も、そして今も。

 毛利登人は周布政之助と共に高杉晋作のよき理解者だった。藩の大事と東奔西走する久坂玄瑞たちを横目で見ながら、高杉晋作は拗ねたように頭を僧形にして東行と称し、萩郊外の山麓に隠遁してしまった。高杉晋作という男は平時では身の置き場がない、と毛利登人は思っている。しばらくは入牢して頭でも冷やすが良い。やがて大乱ともなれば高杉晋作の出番も来るであろう、という重役たちの配慮だった。

「あい分かった。早速、政事堂にてそこもとらの意見を申し立てる場を作ろう。聞多、これから何処へ草鞋を脱ぐ所存か」

 そう聞かれて井上聞多は少し戸惑い、

「竪小路、十朋亭」と、答えた。

 英国密航に際して養子先の「士道」には離縁状を出している。今更、士道家に戻れない。かといって兄が当主となっている湯田高田の井上家へ戻るのは憚れた。かつて泊まったことのある山口竪小路の商家萬代利七の離れを思い出した。

「あい、分かった」

 そう言うと、毛利登人は座を立った。

 伊藤俊輔と井上聞多は山口下堅小路の商家萬代利七の家へと向かった。萬代家は江戸時代の半ばから醤油製造で財を成し、幕末の利七の代には手広く事業を拡大していた。

十朋亭とは屋敷の裏庭にある茶室だった。もちろん豪商萬代家の母屋は下竪小路の表通りから入る造りだが、庭の裏木戸から一の坂川にも出られた。十朋亭は六畳間の他に四畳半の部屋もあり、茶室というよりも別邸といった趣があった。萩から山口へ出た折りなど、高杉晋作や桂小五郎や久坂玄瑞から周布政之助なども宿屋代わりに泊まった。

 山口の藩庁から迎えが来たのは昼過ぎだった。意外と早い呼び出しに、毛利登人の政治的な手腕を感じた。二人は泥のように眠っていたが、飛び起きると借り物の紋付き袴に裃を付けて正装した。人目を憚るように裏口から出ると一の坂川沿いの河岸道を上り、山を背にして建つ政事堂の大手門から入った。

 政庁に上がると廊下を井上聞多が先に立ち、伊藤俊輔は震えるような思いで後に続いた。その実、伊藤俊輔の膝頭は震えていた。度胸がなく怯えていたわけではない。この世の涯とも思える英国へ密航した。いわば井上聞多と伊藤俊輔は松陰先生以上の無法者の大罪人だ。しかし、藩公の御前に罷り出るのはそうした度胸とは勝手が違った。極度の緊張感が伊藤俊輔の全身を痺れさせていた。

 この日の登庁が大きな転機となった。伊藤俊輔の生涯で椿の峠を越えて萩の町へ足を踏み入れたとき以上の転機だった。

藩公の御前に罷り出る、ということはかつての身分では考えられない。中間が藩主と同室することなど決してあり得ない。しかし井上聞多の後に続いて御前の間に入った。そして居並ぶ重役たちの重々しい物言いに平身低頭した。

だが重役たちの取り調べのような問答を耳にすると、たちまち藩に対する生来の呪縛が解けた。彼らの余りもの無知・蒙昧さに呆れ返った。居並ぶ重役たちの桁外れの無能ぶりを目の当たりにして、伊藤俊輔の劣等感の根源とも言うべき身分制度の呪縛が解けた。この日を境に伊藤俊輔の眼前に立ちはだかっていた身分の『四峠』も越えた。そして同時に、伊藤俊輔という名が藩の上層部に広く認識された。英国密留学に関する一通りの聞き取りが済むと、二人に藩主が声を掛けた。

 二人は重役の居並ぶ謁見の間に膝行して、藩公毛利敬親に深々と平伏した。

「存念を有り体に申せ」

 藩公は巨体を脇息に預けるようにして座っていた。眠たそうに上から垂れた瞼は閉じているかのようだった。伊藤俊輔は井上聞多の後ろにはいつくばって、藩公の顔すら見ていない。

 伊藤俊輔はわけもなく体が震えた。いまでこそ準藩士となっているが、元を正せば熊毛郡束荷村野尻の百姓の倅に過ぎない。御前に罷り出ることはおろか、藩庁の屋根付き大手門でさえ潜れる身分ではなかった。

 御前会議では専ら井上聞多が喋った。

 まず滔々と英国の実情を披瀝した。帰朝報告とでもいうべきもので、英国の社会の仕組みから論述をはじめ、商業の隆盛から大仕掛けの重工業に話が及び、そうした国力に裏打ちされた軍事力、とりわけ兵器の相違について井上聞多は熱弁を奮るった。藩公をはじめ居並ぶ重役たちは呆然と井上聞多の独演に聞き入った。

 そして、いよいよ四ヶ国連合艦隊が攻撃に移らんとしている現実の脅威に言及した。

「四ヶ国連合艦隊が長州総攻撃に向けて着々と結集しておりまする。我ら両名が身命を賭して英国より急遽帰藩致しましたるも、四ヶ国との和議を講じて頂きたく藩公に御進言を申し上げるためで御座いまする。順々と彼の国の実情を申し上げましたるも、夷敵の国力を正しくご承知願いたく存じ上げればこそで御座いまする。攘夷は空理空論に過ぎず。ただちに四ヶ国と和を構ずべし。更に、帰山後聞き及べば、世子御自ら兵を率いて御上洛のご予定とか。愚行にして、何たる浅慮。只今、藩の力を空費するは愚かと謂うべきなり。腹背に敵を受け、それらと戦うは長州藩を滅亡せしむるに非ずや」

 井上聞多は朗々と理路整然に弁じた。

 英国の工業力・軍事力を考えれば、英国一カ国との戦であっても必ず破れる。前年の文久三年七月二日から四日にかけて戦った薩英戦争で鹿児島の町は焼き払われたと聞いた。英国一国を相手にしてさえ薩摩藩は手酷い目にあったという。それが英国のみならず蘭、仏、米を加えた四ヶ国の連合艦隊が長州へ攻め込もうとしている。

必破というべきこの戦は避けるべきである。ただちに藩の正使を仕立てて姫島沖の英国艦へ赴き和議を講ずべきである。そして長州藩は攘夷を廃し朝廷を奉り、王政復古のために全藩一丸となるべきである。

 井上聞多は延々と論述し、激昂し、遂には叫んだ。喉から血飛沫が迸り出るかと思った。彼の生涯を通して、これほどに全力で弁じたてたことはない。その大演説は実に昼過ぎの八ツから暮れ六ツまでの二刻にも及んだ。

 藩の重役たちは御前で二人の意見を十分に聴取した後、引き続き御前で協議をすると約して二人に退出を命じた。玄関脇の侍溜まりまで下がると、後日藩の意向を知らせるとして二人には宿舎にて待機せよと申し渡された。

藩論が割れた。二人が退出した後、政事堂は収集のつかない大激論の場となった。

 しかし二人は楽観的だった。井上聞多と伊藤俊輔は意気揚々と政事堂を退出した。帰りの道々、二人は顔を見合わせ安堵するものがあった。あれだけ論述したのだから必ずや我らの意見を聞き届けてくれるに相違いない、という思いがあった。

 萬代利七の屋敷に着くと、家の者が屋敷の回りを撰鋒隊の連中がうろついていることを告げた。撰鋒隊とは藩士からなる正式な長州軍のうち、高杉晋作が作った奇兵隊と対峙するかのように若手藩士たちが結成した先鋭的な保守派戦闘集団だった。

 井上聞多と伊藤俊輔は自分たちの危うい立場を悟った。政事堂で論述した二刻の間に、二人の意見は御前の間から洩れて藩士たちに広まり、さっそく二人を斬ろうとする者が現れた。

 しかも二人の命を付け狙うのは撰鋒隊だけではないだろう。いずれ攘夷派の連中からも命を狙われると覚悟しなければならない。

 身の危険を感じたが、藩の回答も得ずに使命を放棄して遁走するわけにはいかない。姫島沖には英国艦が二人の回答を待っている。その猶予の約束は二十日間だった。

 伊藤俊輔と井上聞多は息をひそめて十朋亭に籠った。政事堂へ上がってから二十日後、やっと藩の決定が下された。だがそれは「しばしのご猶予を」という小馬鹿にしたような内容だ。しかもあまりに遅い決断だった。「見通しが甘かったか」と臍を噛んだが、二人は藩の回答書を持って直ちに英国艦へと向かった。

 小郡の漁村で漁師二人に命じて二丁櫓の艀を仕立て、周防灘を漕ぎ渡って姫島へ行き、姫島から地元の漁師の世話で短艇に乗り込み、沖に停泊する英国艦へ乗り移ったのは七月十三日の夜中の子の下刻だった。結局、二人は約束の期日から丸一日遅れたことになる。だが通訳のサトウは怒るよりも驚いたように目を丸くした。幽霊でも見るような目付きだった。

 サトウは二人が攘夷派浪士に斬り殺されたものと思っていた。去年の七卿落ち以来、京は新撰組や見廻組が厳しく志士たちを取り締まり、天下の攘夷派浪士が長州一藩に集まってきた感があった。夷人と見れば斬りかかる浪士たちは『ローニン』として西洋本国にも知れ渡っていた。サトウは流暢な日本語を操った。彼には漢籍の素養まであった。

「よく来られた。しかも、お前たちは生きているではないか」

 そう言ってウィスキーをグラスに注いだ。伊藤俊輔はそれを受け取った。が、井上聞多は遠慮した。井上聞多は腹痛を催していた。

「それで、結論は如何」

 サトウは喉を湿らすと、流暢な日本語で井上聞多に聞いた。

「わが藩は京での緊急事が控え、今暫くの猶予を頂きたし」

 井上聞多は藩の下した決定通りの口上を述べた。サトウはひどく落胆した様子でドヴェル大佐に通訳した。

「何ということだ。こんな若造を信用して待っていた我々が馬鹿だった」

 大佐は烈火の如く怒り、ウィスキーグラスをテーブルに叩き付けた。

 落胆しているのは井上聞多の方だった。長州の仲間に斬られることを覚悟で波濤はるばる帰国したものが何の役にも立たなかった。悔し涙のこぼれる思いだった。その情けなさを我慢して井上聞多は今暫く待つように懇願したが、ドヴェル大佐の態度は二人を脅すように傲慢だった。

「もはや猶予はならず。然らば近日の内、馬関に於て弾丸の間に相見ゆるの外なし」

 そう言い放つと、ドヴェル大佐は音を立ててテーブルを叩くと会見の席を立った。

井上聞多と伊藤俊輔は首を項垂れて仕方なく帰路についた。

 小舟で波に揺られながら、二人は藩の無策を嘆いた。何のために命懸けで英国から急遽戻って来たのか。ずしりと肩に疲労感が重くのしかかった。山口に辿り着くと二人は政事堂へ登庁し、毛利登人の許を訪れて英国艦長との交渉経緯を報告した。

「是非もなし、か」

 と、毛利登人は遠くを見詰めるような目をして力なく呟いた。

 藩は明確な方針を示せないでいた。船影の見えない四ヶ国連合艦隊の対策を考えるよりも、間近に迫った愁眉の問題が控えていたためだ。池田屋騒動が発進論に油を注ぎ藩論は収集のつかない混乱に陥っていた。混乱したまま、六月十五日に藩論は発進と決した。

 井上聞多と伊藤俊輔は萬代家の十朋亭を出て湯田の河原屋という旅籠に潜伏した。藩論が発進と決まってからは山口に屯していた攘夷派浪士も大挙して上洛し、それほど身に差し迫った危険は感じられなくなったが、それでも気軽に町を出歩くわけにはいかない。長刀を腰に帯びた何処の者とも知れない浪士が山口の町を徘徊していた。その中には狂信的な攘夷派浪士がいないとも限らなかった。

 その夜、井上聞多と伊藤俊輔の旅籠に山田宇右衛門、長岡輿右衛門、野村靖之助らが集まって話し込んでいると、河原屋の玄関口が騒がしくなった。その声は旅籠の土間から階段を伝って二人の耳にも届いた。旅籠といっても大層なものではない。間貸しの木賃宿に近いものだった。

「ご亭主、この家に夷人が二疋泊まっていると聞いてやって来た。その面妖なる者は未だ投宿中か」

 かなり酒に酔っているのか、怒鳴り散らす言葉は呂律が回らない。伊藤俊輔にはどこか聞き覚えのある声だった。

「どちら様でございましょうか」

 と、主人が相手の身元を確かめた。井上聞多がそうするようにと申し付けていた。

「僕は石川精之助、と申す」

 と、その相手は答えた。

石川精之助とは中岡慎太郎の偽名だった。当時中岡は遊撃隊に身を隠していた。

「手前には、夷人は泊まっておいでにはなりませぬ。井上様と伊藤様がお泊まりです」

 うろたえたように主人は答えた。その返答の際、主人は階段から二階を見上げた。視線の先に二人がいるものと察知して、中岡慎太郎は草履を脱いで式台に足を掛けた。

「そう、その夷人に用がある」

 そう言うと、中岡慎太郎は主人を押し退けて階段を登ってきた。

 二人に階下の押し問答は一部始終が筒抜けだった。別段身構えることもなく襖の開くのを待った。確かに、中岡慎太郎は尊攘の志のために土佐藩を文久三年九月に脱藩した紛れもない攘夷派浪士だが、彼の知略と行動力は知れ渡っていた。決して狂信的な危険人物ではなかった。

 が、中岡慎太郎は襖を引き開けるといきなり刀を抜いて上段に構えた。

「君等は大和魂を知らぬのか」

 と叫びつつ、中岡慎太郎は擦り足を部屋へ滑らした。伊藤俊輔は部屋の隅に立て掛けてあった差料に飛び付いた。井上聞多は座ったまま後ろへ振り向き、中岡慎太郎を見上げた。

「僕等を斬ることが攘夷か」

 と、井上聞多は激しい口調で言ったが、既に体は動かなかった。

中岡慎太郎が振り下ろせば刀刃は井上聞多の頭骨を二つに割り裂く距離にあった。

「伊藤君も、よせ。我らは同志ではないか」

 井上聞多はそう言い、静かに体を反転させた。そして、中岡慎太郎の刀の切っ先の圏外に身を置いた。が、それでも半歩踏み込めば中岡慎太郎の刀は井上聞多に届く。危機が完全に去ったわけではなかった。

「英国へ行ったは、何故か」

 中岡慎太郎は刀を振り上げたままそう聞いた。

「彼を知らずんば、戦になるまい。攘夷攘夷と唱えたとて、攘夷は出来まいぞ」

 吼えるように伊藤俊輔が言った。

そして闘う意思のないことを示すために、伊藤俊輔は右手を柄から手を離すと刀を中岡の足元へ抛った。

 それは伊藤俊輔が事を構えると井上聞多が危ういからだった。伊藤俊輔は中岡慎太郎を凝視した視線をそのままにニヤリと笑った。愛嬌のある伊藤俊輔の笑顔に毒気を抜かれたのか、中岡慎太郎は力なく刀を振り下ろして畳に刺した。人並み以上の知恵者の中岡慎太郎ですらこの有様だ。当時の浪士たちは攘夷の熱病に芯の髄まで冒されていた。

 中岡慎太郎の気持ちが落ち着くのを待って、二人は部屋の者たちに英国の実情を語って聞かせた。国力の礎ともいうべき産業革命を成し遂げ、大規模な仕掛けによる生産設備、夥しい数の商船や軍監などが碇泊する港の様子などを語って聞かせた。

「しかして、この国の大政を統一するしか西洋列強と互角に向き合う方途はござらん。国が六十余州に分かれ三百諸侯が兵馬を有していたのでは到底対処できぬ。国を一つにまとめ兵馬を国の下に置き、交易を盛んになして国力を蓄え、然る後に西洋と対抗できようぞ」

 伊藤俊輔は力を込めて語った。

「そう言えば、同郷の坂本龍馬も同じようなことを言うちょったのう」

 中岡慎太郎はそう言って頷き、間の悪そうな顔をした。

そして畳に突き刺した刀を引き抜いて鞘に戻すと、その場に脱力したかのように座り込んだ。

 

 井上聞多と伊藤俊輔の両名が復命した七月十四日に時は戻る。

藩は毛利能登が報告した伊藤・井上両名とドヴェル大佐との会見内容に驚き、急遽重役を招集して御前評議を開いた。結果は三日後に出た。実に悠長としか云いようがない。遅ればせながら、伊藤俊輔の許に藩吏を差し向けて登庁を命じた。同様に井上聞多の許にも藩吏は差し向けられたが、井上は藩の無能・無策ぶりに対する怒りから、その日の登庁を拒否した。

 裃を着けて政事堂へ上がり伊藤俊輔は何事かと畏まった。伊藤俊輔に与えられた使命は江戸へ行き英国公使オールコックと面会して、四ヶ国連合艦隊の長州攻撃に暫くの猶予を得るように申し出て、総攻撃を九月まで延期するように交渉をせよ、というものだった。「何を今更」と伊藤俊輔は余りのばかばかしさに呆れ、藩首脳部は外交々渉がいかなるものか知らないばかりか、事態掌握能力すら喪失しているのではないかと密かに疑った。重役が藩命を重々しく伝えるのを平伏して聞きながら、伊藤俊輔は自害して果てた来原良蔵の無念さが身に沁みた。

 

 伊藤俊輔は命を帯びて藩庁奥部屋を辞すと、藩入口の控溜りにいた若い家老清水清太郎に相談を持ち掛けた。伊藤俊輔は江戸へ行くつもりはなく、独自の判断で京へ上る覚悟だった。しかし独自の判断で藩命に背けば死罪は免れない。後の申し開きのために、伊藤俊輔は清水清太郎に事前に告げた。

 猶予ならない事態は江戸にではなく京にあった。藩命に背いてまで京へ上洛する必要を痛切したのは緊迫した京の情勢にあったからだ。長州藩は七月の初めに後詰めとして世子毛利定広が兵を率いて、京へ向けて山口を発っていた。発進はまず半月前に来島又兵衛が兵を率いて先頭を切り、真木和泉がそれに続いた。福原越後、国司信濃、益田弾正の家老たちも藩兵を率いて長州を発った。公卿三条実美らも軍を率いて山口を後にしていた。

 会津桑名だけでなく薩摩までが満を持して長州が暴発するのを待ち構えているに相違ない。数年にわたり桂小五郎の従者として京の町を走り回っていた伊藤俊輔には薩摩藩の底知れない政治力を熟知していた。薩摩藩を敵に回すからには一筋縄ではいかない。長州藩が激情にかられて暴発すると、それは間違いなく相手の罠に嵌まることだ。相手が画策した注文相撲を取って勝てるわけがない。伊藤俊輔は京の情勢を的確に見抜いていた。その見識は桂小五郎の許で働いていたうちに培われた直観とでもいうべきものだった。

 長州一藩だけの軍事力で『玉』を奪うことは不可能だ。玉とは天皇のことである。桂たちは常々天皇を玉と呼び、朝廷全体の政治力をも玉と包括して表現していた。

「攘夷を廃し、王政復古を断行すべし」

 伊藤俊輔は清水清太郎を相手に英国で得た持論を繰り返した。そのためには、まず京での軍事行動をどうしても中止させなければならない。だが、藩命に背く行為を伊藤俊輔の独断で実行するわけにはいかなかった。相談と持ち掛けて、遂に清水清太郎を同調させた。

 早駕籠を仕立てると、伊藤俊輔は山口を発った。

 四ヶ国連合艦隊の軍事力を藩首脳部の誰も知らない。その思いが伊藤俊輔の中で焦燥となって煮え滾った。長州軍が京で暴発する前に防ぎ、ひたすら朝廷に恭順するしかない。そのためには不穏な事態に到る以前に、京藩邸で外交掛を担当している宍戸左馬介や桂小五郎たちと会わなければならない。その一心で伊藤俊輔は駕籠に揺られた。飛ぶように走る駕籠から落ちないように必死で紐にしがみついた。駕籠よ矢のように飛べ、と伊藤俊輔は心の中で叫んだ。

 駕籠は駆けた。嵐に翻弄される小舟のように、駕籠は激しく揺れた。道中、伊藤俊輔は駕籠から転がり出て何度か吐いた。気が遠くなり、幾度となく駕籠から落ちた。三日三晩駆けて備中まで来た。そこで、駕籠が止まった。

「旦那、」

 と、六尺が息を弾ませて叫んだ。伊藤俊輔は朦朧とする意識の中で聞いた。

「どうした」

 やっとのことで、伊藤俊輔は言葉を返した。

「あれは、長州様ではないですかね」

 その声に、伊藤俊輔は駕籠から転がり落ちた。そして、地面に胡座を掻いて顔を上げた。

 白昼夢かと思った。夏の陽光が辺りを白く照らし、目に見える風景は白色と化して色彩を失っていた。真夏の陽炎にゆらめいて揺れ、それらは幻のように淡く切れ切れに屏風絵のように見えた。伊藤俊輔は呆然と目を見開いた。

 長州藩の旗差し物の後に哀れな敗残兵が続いていた。白っぽい景色の中を世子毛利定広の軍兵が粛粛と退却していた。突然、腹の底から嗚咽が伊藤俊輔の喉を突き、悔し涙が頬を濡らした。伊藤俊輔の目に映ったのは山陽道を下って来る長州兵の無残な姿だった。

 七月十九日早暁、久坂たちが世子毛利定広の到着を待つように自重を促すのも聞かず、まず来島又兵衛の軍勢二百名が蛤御門に殺到した。それに引きづられるようにして国司信濃の兵五百名、小玉小民部の兵二百名らが後に続いた。圧倒的に優勢な軍勢で待ち構える薩摩会津の罠に向かって、自殺行為に等しい無謀な突撃を行った。世に言う元治元年の蛤御門の変である。それは戦略も戦術もなく、半日とたたずして長州藩の完敗に終わった。

「遅かったか」

 伊藤俊輔は拳を握り締めて胡座を組んだ太腿を何度も打った。心の底からの悔しさと、無念さと、無力感が伊藤俊輔を襲った。目の前の光景に説明はいらない。負け戦だったことは哀れな兵を見れば明らかだった。

 隊列の中に伊藤俊輔は顔馴染の品川弥二郎の姿を見つけた。品川弥二郎は伊藤俊輔が入塾する前日に松下村塾に入った男だった。松本橋河端に住む足軽の子で俊輔よりも二才年下だった。すぐ傍には政務役前田孫右衛門もいた。伊藤俊輔はヨロヨロと立ち上がった。

「おい、弥二郎じゃないか」

 伊藤俊輔が声を掛けると、品川弥二郎は立ち止まり無表情な目で振り向いた。煤けた顔に鉢巻きの跡が白く残っていた。着物には返り血が黒く糊のように粘り付き、武者袴は左大腿部が大きく裂けていた。

「伊藤さん」

 そう言うと、品川弥二郎は伊藤俊輔を見詰める目から涙を流して頬に白く筋を引いた。

「無念だ。久坂玄瑞も入江九一も寺島忠三郎も有吉熊次郎も――、みんな死んだ」

 とぎれとぎれに品川弥二郎は言った。非業の最期を遂げたのは松陰門下生ばかりではない。来島又兵衛や真木和泉たちも命を散らした。

「なんたることか、」

 と言って、伊藤俊輔は絶句した。松陰門下の大勢の若い仲間の命が失われた。

「俊輔、悲しんでいる暇はないぞ。跼天蹐地、長州人は防長二州以外に行き場を失った。恐らく、時を措かずして幕府が長州に攻め込むだろう」

 と、前田孫右衛門が傍らから声を掛けた。上士の家に生まれた前田孫右衛門は常に冷静な能吏だった。伊藤俊輔は力無く頷いた。前田孫右衛門は品川弥二郎の肩を抱き、隊の歩みに加わった。伊藤俊輔も隊列の歩みに和した。

「それで、俊輔は何の御用だったのだ」

 前田孫右衛門は世子の兵にいたのか硝煙の匂いがしなかった。それでも疲労のために頬が痩け目が落ち窪んでいた。

「外務掛として江戸へ赴き各国の公使と会って、四ヶ国連合艦隊の長州攻撃を引き伸ばす役目を藩より仰せ付かった」

 伊藤俊輔はそう言って本来の御用を告げて、京へ行こうとしていたことを秘した。上洛を目論んだ事態はすでに終わっている。

「長州人が陸路を行くことは出来ぬ。長崎へ下り、船で行くしかあるまい」

 前田孫右衛門はそう言った。伊藤俊輔は途方に暮れたような表情でそれに頷いた。

 

 馬関戦争で破れ、いままた京の軍事衝突で敗北した。

 一日にして藩政府の雰囲気が変わった。発進論を説いた改革派は立場を失い、椋梨籐太を首魁とする保守派が発言力を増した。

 備前から山口へ戻ったものの、四ヶ国連合艦隊の総攻撃は切迫している。

 どちらから持ち掛けるというのでもなく、伊藤俊輔は井上聞多と二人で萩へ行くことにした。高杉晋作と会うためだった。いずれ戦となれば高杉晋作が引っ張り出されることは目に見えている。高杉晋作に二人の考えを開陳し仲間に引き入れておく必要があった。

 その頃、高杉晋作は野山獄から自宅の座敷牢へ移され幽閉されていた。松下村塾四天王のうち、生き残っているのは高杉晋作ただ一人だけだった。

 二人は足ごしらえをすると萩へと向かった。

 八里余りの中国山地を越える御成り道を二人は歩いた。

 夏の暑い日差しが照りつけ、息苦しいほどの草いきれがした。石清水の滴る谷の日陰で体を休め、気力を取り戻すと再び山道を歩いた。往還路を行く道中、二人は終始無言だった。心の奥底にはどうにもならない藩への不満が渦巻いていた。

 二人は英国密留学を打ち切って波濤遥々、死を覚悟して攘夷で沸騰している長州へ帰って来た。しかし、その苦労は報われるどころか、必死の諫言も聞き入れられず、京で無謀な軍事行動に突き進んで壊滅し、ついに長州藩は天下に孤立無援の存在となってしまった。

 山尾庸三たちはいかがしているだろうか、と英国に残った仲間のことを思い浮かべた。彼らのように実際に西洋を自分の目で見れば、攘夷がいかに荒唐無稽な絵空事か直ちに得心がゆくに違いないが。

 初秋を思わせる風の中、二人は往還路を黙々とひたすら歩いた。

 肩を並べて早足に旅人を追い抜きつつ、二人は同じことを考えていた。それは英国とは何か、だった。西洋文化とは何か。国家とはなにか。

それは文化だけでもなければ、生活習慣だけでもない。教育水準だけでもない。もちろん行政組織だけでもない。ましてや工業力だけでもない。そして全国に及ぶ一元化された法体系だけでもない。それらが渾然一体となって英国を構成しているとしたら、先進国家に必要なのはそれらすべてであるといえよう。それらが大気のようにあまねく存在し、それらを意識しない大衆が平穏に日常生活を送ることだ。

 二人は英国に半年暮らし、日本と英国の社会の相違を文字通り肌身に沁みて実感した。それをどの様に説明すれば「西洋国家」を理解するのだろうか。どの様に弁じれば、人は西洋を理解するのだろうか。政事堂の御前会議で井上聞多は懸命に口角泡を飛ばして論じ、弁じ、吼え、叫び、そして絶望した。無知とは、空恐ろしい。何も知らぬままに井の中の知識だけで物事を決め藩論を導いて行く。その涯に待ち受けているのは滅亡だけだ。

 しかし、高杉晋作にだけには分かって貰いたかった。いや、分かってもらわなければならなかった。井上聞多と伊藤俊輔は思いを同じくして萩へと急いだ。

 日暮れ時に二人は萩の町へ入った。高杉晋作を訪れるのは翌日にして、二人はそれぞれのねぐらへ向かった。井上聞多は城下町の小澤家に泊まった。井上聞多の姉が萩の上士小澤家へ嫁いでいた。伊藤俊輔は萩郊外の松本村椎原、両親の暮らしている家へと向かった。

 椎原は松本村の山麓にあった。すでに養祖父母は他界し、そこには両親が暮らしていた。家は茅葺きの粗末な平屋で広さは三十坪ほどでしかない。

「ただいま、戻りました」

 伊藤俊輔はそう言って引き戸を開けた。懐かしい両親の暮らす家へ戻って来た。うねりのように湧き上がる深い感慨が伊藤俊輔の体を満たした。

「誰かいのう」

 と、弱々しい女の声がした。既に五十の坂を目の前にした年老いた母の声だった。

 何年も萩を離れて江戸へ京へと忙しく走り回り、ついには英国へまで足を伸ばした。伊藤俊輔は不意に胸が詰まった。しかし、故郷の両親を忘れていたわけではなかったのだ。

「俊輔です」

 と、伊藤俊輔は声を弾ませて家の中へ入った。

「あれ、まあ。利助が帰ってきた」

 母は叫び、奥にいる十蔵に息子の帰宅を教えた。

「なに、利助が戻ったとな」

 と、奥から嗄れた声がした。

父十蔵は既に五十の半ばに達している。数年も前から俊輔と名を改めているが、両親にとってはいつまでたっても利助だった。

「腹は空いていないか、雑炊しかないが、それでも良いか」

 と、母は覗き込むようにして尋ねた。

「はい、有り難く頂戴致します」

 そう答えると、伊藤俊輔は半間の土間を通って裏庭へ向かった。

裏庭には山の際に木を井桁に組んだ井戸があった。そこへ行くと伊藤俊輔は下帯まで解いて水を浴びた。

 いつか、同じようなことがあった。そう思いながら伊藤俊輔は汗まみれの体を井戸端で洗い流した。虫の音がうるさいほどにかまびすしかった。

 記憶は遠い昔へとさかのぼり、安政四年(一八五七)九月へと辿り着いた。同じように長旅の汗と埃を井戸水で洗い流したことがあった。相州御備場での役目を罷免され、相州宮田から歩きに歩いて十七日で国許へ戻ってきた夜のことだ。

 十六歳の伊藤利助は来原良蔵配下の中間として一年余り相州の地で励んだ。最初は辛さのあまり来原良蔵を疎ましくさえ思った。しかし、相州の地で暮らした一年が自分の考え方と生き方を決定的に変えた、伊藤俊輔はそう思っている。そして、松陰先生の弟子になれと言われて、来原良蔵の添え状を懐に松本村の家へと帰った。

 早いものだ。あれから七年もの歳月が流れている。

 自分の人生は来原良蔵との邂逅で開けた、と伊藤俊輔は固く信じている。

 来原良蔵との出会がなれけば相州に留まることもなく、着いた日に何事もなく萩へ帰ったはずだ。もちろん、貴重な学問を積むこともなかっただろうし、吉田寅次郎の塾へ入ることもなかっただろう。確かに、伊藤俊輔は松陰の弟子として世に広く知られている。しかし、明治の元勲と称された晩年に「伊藤公は松陰先生のお弟子ですね」と人から聞かれて、それを言下に否定している。質問者は怪訝な思いに顔を歪めて、かつて吉田松陰と伊藤公との間に感情的な対立でもあったのか、と苦しい憶測を記している。

 しかし、そうではない。伊藤俊輔はもとより吉田松陰の弟子であることに終生誇りを持ち続けた。伊藤俊輔が世間に名を知られたのも、数多くの松陰門下生と知り合えたからだ。山縣有朋のように自ら人々に「松陰門下」と吹聴こそしなかったが、松陰門下の一員であることを誇りに思っていた。

しかし、それでも伊藤俊輔は「松陰門下生である前に、栗原良蔵の唯一の弟子」との気負いがあった。来原良蔵こそが伊藤俊輔を最初に見出してくれた恩人だ。しかし死後数十年しか経っていないにもかかわらず、明治の半ばにして来原良蔵の名は人々から忘れ去られていた。そのことが口惜しかった。歴史に名を残し賛辞を浴びている吉田松陰に対してよりも、来原良蔵に対する恩顧の念の方が遥かに優っていた。

 井戸水を浴びて汗を流し、伊藤俊輔は母が出してくれた浴衣を着た。土間に面した板の間に上がると、母は伊藤俊輔が以前に家で使っていた箱膳に箸と茶碗を調えていた。雑炊が懐かしい湯気を立てている。給仕に母が付添い、父は奥の部屋にいた。

「利助、藩士に取り立てて頂いて以来、何をしておいでだね」

 母は心配そうに尋ねた。

伊藤俊輔は箸を止め、溶けるような笑顔を見せた。余りにたくさんの出来事があり過ぎた。その一つ一つを母に説明することは不可能だ。そしてすべてを語って聞かせることは、却って年老いた親に心配を掛けることでもあった。

「今は、山口で藩の御用を賜っています」

 簡単に、伊藤俊輔は答えた。

「そうかい、のんた。無事な顔を見て安心じゃが、先日京で長州様の若い御家来衆が大勢死んだと聞かされて、気が気じゃなかったけえ」

 母はそう言うと、深い皺を寄せて俊輔を覗き込んだ。

「ご安心下あれ。この通り元気ですから」

「何かあったら、いつでも家へ帰って来られよ」

 母はいつまでも伊藤俊輔が小さい子供でもあるかのように、諭すように言った。

そんな母を見ると胸の詰まる思いがした。

 食事が済んで奥の部屋へ挨拶に伺うと、父は伊藤俊輔の顔をまじまじと見た。

「主人の水井様から伺ったが、利助は何処か遠くへ行ったとかいう噂があるということじゃが、それは真か」

「遠くと申されますと」

「それが遥か遥か涯の遠方じゃ、とだけ聞かされた。詳しくは何も聞いちゃおらんがのう」

 父はそう言うと、怪訝そうに伊藤俊輔を見た。

「はて、」

 と言って、伊藤俊輔も首を傾げた。

 国禁を破って蒼穹の涯とも思われる英国へ行ったと言えば、父は腰を抜かすに違いない。無用な心配を掛けることを避けて伊藤俊輔は英国密留学を秘した。

「それなら良い。現に、利助は無事ここにおるのじゃからな」

 そう言って、満足げに父は頷いた。

 翌日、伊藤俊輔は井上聞多と共に菊屋町に高杉晋作を訪ねた。

 座敷牢幽閉の身だからおおっぴらに人と会うことは出来ない。が、家人の格別の配慮を得て一刻ばかり時間をもらった。

「英国へ行ったと聞いたが、真か」

 障子を開けて伊藤俊輔と井上聞多が顔を出すと、開口一番に高杉晋作が聞いた。

 屋敷の座敷牢に閉じ込められて格子越しに世間を見詰める者にまで、既に伊藤俊輔たちのことは知れ渡っていた。長州藩の機密保持という概念のなさに、二人は怒るよりも呆れ果てて、ただ声を出して笑うしかなかった。

「いかにも」

 と、年長の井上聞多が答えた。

 高杉晋作は姿勢を崩して脚を伸ばし、ひとしきり足を揉んだ。

「足が萎えていけん」

 高杉晋作はそう言った。

 顔色は悪くなかったが、それでなくても面長あばた面が痩せたせいか余計に長く見えた。

「それで、高杉君に話があって、山口からやって来た」

 と、井上聞多が用件を切り出した。

「西洋の軍事力は我々の予想を遥かに越える。攘夷なぞ絵空事だ。到底出来はしない」

 井上聞多がそう言うと、高杉晋作は自明の理だというように深く頷いた。

「西洋諸国の国力が強大なことは松陰先生も、佐久間象山先生も既に仰せのことだ。しかし、天下の力を一つに纏めるには、誰にでも分かりやすい掛け声がいる。その便法として『攘夷』を用いたまでのことよ」

 そう言って、高杉晋作は姿勢を正した。

 上士の家に生まれた高杉晋作には意外にも躾の良い一面があった。

「凡そ、時代を回転するは、一つの力にあらず。一つの力にあらざれば、一つの考えにあらず。あらゆる力が一つに纏まり、しかして後、時代は回転すべし」

 高杉晋作は滔々と弁じ始めた。

 普段は無口で久坂玄瑞の十分の一も喋らない男だ。しかし、一旦火がつくと弁舌が止まらない癖があった。

「『攘夷』は既に便法の域を越えたり」

 高杉晋作は断定するようにそう言って、二人を格子の間から見詰めた。

 座敷牢に幽閉された高杉晋作は静かに時代を見守っていた。その高杉晋作の目で見ると、長州藩は存亡の淵まで行かなければ次への展望は開けない。「攘夷」が一つの革命哲学にまでなってしまった限り、燃焼し尽くさなければ脱却することは出来ないだろう。これから藩は危うい綱渡りをすることになる。高杉晋作は目を細めて占い師のように二人に語って聞かせた。

「では、間近に迫った四ヶ国連合艦隊の攻撃は、」

 と、井上聞多が口を開くと、高杉晋作は僅かに首を横に振ってそれを遮った。

「避けられもしないが、避けるべきでもない。戦って破れることこそが肝要なり」

 戦って破れれば、両君が百万言を労するよりも上から下まで如実に目が開ける。同時に、藩の軍備がいかに遅れているかも容易に分かるというもの。高杉晋作は冷徹な究理学者のように予言した。そして、薄ら笑いを浮かべると砕けた口調で井上聞多と伊藤俊輔に攘夷派を装うことを勧めた。そうしなければ命がないぞ、と忠告とも諧謔とも取れる冗談を言って声を上げて笑った。

 高杉晋作は萩の自宅の座敷牢の中にいて、千里眼のように時代を見通していた。それはまさしく慧眼といえた。

 高杉晋作の許を辞去すると、その足で二人は山口へ帰った。

 湯田の旅籠に帰ると、待ちかねたかのように政事堂へ呼び出された。

長州藩の政局は混乱を極めていた。蛤御門の変のわずかに五日後に、朝廷は幕府に長州藩を追討するように命じた。勅命を戴くと幕府は時を移さず山陽、山陰、四国、九州の二十一藩に一万五千人の出兵を命じた。長州征伐に幕府が乗り出したことは日を措かずして政事堂にも届いていた。

 幕府の動きとは別に、今一つの脅威が長州に迫っていた。

 四ヶ国連合艦隊が長州の周防灘沖に続々と到着していた。国内国外の敵に囲まれて長州藩は四面楚歌ともいうべき状況だった。誰の目にも藩そのものの存続が危うかった。

 八月二日、英国海軍中将キューパーを総司令官とする連合艦隊が姫島沖に集結した。その陣容は英軍艦九隻、仏軍艦三隻、蘭軍艦四隻、米船一隻の計十七隻で、装備砲門は実に二百八十八門を数え、兵員も五千人を越えていた。それに対する馬関の備えは各所砲台の砲を併せてもわずかに七十門。それも、旧式の青銅砲から擬似に備え付けた木砲までを勘定してのことだった。動員した兵も撰鋒隊から奇兵隊まで併せてわずかに千人。しかも、彼らが手にしているのは旧式のゲベール銃だった。軍事力、とりわけ火力の差は歴然としていた。

 政事堂の御前会議は和平と開戦をめぐって激論が続き、連合艦隊が姫島沖に集結した後も結論はなかなか出なかった。やっと海峡の通行の自由を保障するとの和平論に決したのは八月四日も昼過ぎになってからだった。さっそく松島剛蔵と伊藤俊輔を召し出し、連合艦隊と交渉するように下命が申し付けられた。正使・松島剛蔵で伊藤俊輔は通事だった。

 この時も、井上聞多は藩の下命を拒否した。本来なら切腹を申し付けられる事態だが、長州藩は若者に対して甘かった。

「かかる上は、井上聞多も攘夷を致しまする」

 と、井上聞多は説得に来た藩の重役に向かって叫ぶように言い放った。

 あれほど発進論の無意味さを弁じて四ヶ国連合艦隊との戦を避けるように進言したが、藩は聞く耳を持たなかった。命を賭した論述を無視された以上、井上聞多には臍を曲げるべき公明正大な理由があった。藩は井上聞多に通事役を下命するのを諦めて、伊藤俊輔に連合艦隊との通事役を申しつけた。

 松島剛蔵と伊藤俊輔の二人は駕籠に乗り、急遽三田尻へ向かった。

 三田尻の港は中ノ関と呼ばれ、藩の海軍局があった。去年の馬関戦争の時には松島剛蔵はそこから藩の帆走木造軍艦庚申丸を操船して米仏軍艦と交戦したが、到底鋼鈑船の相手ではなかった。そのことを松島剛蔵はよく承知している。撃沈された長州藩の三隻の軍艦は引き上げて修理したが、以後は三田尻の海軍局に係留したままだ。四ヶ国連合艦隊の集結した姫島沖へ長州藩海軍が出撃して海戦を仕掛けるつもりは毛頭なかった。夷国軍艦の圧倒する火力を知り抜いている松島剛蔵は和平の使者に任じられたことを喜んだ。

 伊藤俊輔は何事につけても対応の遅い藩に苛立ちを覚えていた。

『時期すでに遅し』駕籠に揺られながら伊藤俊輔は諦めにも似た心境だった。西洋との交渉術というものを伊藤俊輔は英国人との接触を通じて体得していた。その論理からすると彼らは圧倒的な軍事力を誇示すべく、完膚なきまでに馬関を破壊し尽くすだろう。そして、和睦交渉は困難を極めるに違いない。その期に及んで藩は的確に対応する術を持たないだろう。もし、この藩を救い得るとしたら、強力な実行力と決断力を兼ね備えた人物が藩政を握らない限りだめではないか。漠然とそう思いつつ、伊藤俊輔の胸中に高杉晋作の面影があった。伊藤俊輔が知り得る藩の人材は松下村塾の門下生に限られ、松陰門下の四天王と謳われた人物の中で生き残っているのは高杉晋作ただ一人だけだった。

 夕刻、三田尻に着くと姫島の方角に黒煙が濛々と上がるのが見えた。連合艦隊が蒸気機関を稼動している証左だった。

「遅かったか」

 と伊藤俊輔は嘆いて南西の空を見詰めた。伊藤俊輔は無駄だと止めたが、松島剛蔵は短艇で姫島へ向かうと言い張り、海軍局の者数名を駆り立てて小船を出した。

 この時期、村田蔵六は海軍局にいなかった。元治元年二月、山口宮野に兵学校が開設されると、村田蔵六は兵学校教授を命じられた。そもそも兵学校とは村田蔵六が発案した歩兵・騎兵・砲兵の三兵科からなる洋式軍隊指揮官の養成所だった。速成に将官を育成する必要から、教科書は村田蔵六が蘭書を翻訳した日本語で書かれたものを使用していた。

 松島剛蔵が船で漕ぎ出してゆくのを見送ると、伊藤俊輔は再び山口へ向けて駕籠を走らせた。政事堂へ辿り着いたのは夜半だった。

 藩は伊藤俊輔の復命を聞くと応接使として前田孫右衛門を馬関へ遣わせた。通事には井上聞多が当たることになった。藩命だった。重役の言うことを聞かない井上聞多に藩主の名を持ち出した。さすがの井上聞多も藩公には逆らえなかった。

 藩は何としても連合艦隊との戦を避けようとした。が、藩の決定は余りに遅過ぎた。

 伊藤俊輔は井上聞多たちが馬で払暁の大手門を駆けて行くのを見送ると、湯田の定宿河原屋へ戻った。ばかばかしい、という思いが胸に渦巻いていた。

 二階の部屋へ上がると真ん中で大の字になって男が眠っていた。高杉晋作だった。藩公の命により高杉晋作は咎めを解かれ、さっそく山口へ呼び寄せられていたのだ。

 障子を締め切った部屋の真ん中で、高杉晋作は肘枕で眠っていたが、伊藤俊輔が部屋へ入ると頭をもたげた。

「おお俊輔か、首尾はどうだった」

 起臥すると、高杉晋作は薄ら笑いを浮かべた。そして不首尾に終わったと書かれたような疲労困憊した伊藤俊輔の顔を眺めた。

「いやいや俊輔、落胆するな。それで良い。攘夷に凝り固まった連中に攘夷が出来ぬことを分からせるには、論を尽くすより戦って破れるのが一番手っとり早い」

 座り直すと、真面目な顔をして高杉晋作はそう言った。

 そうかも知れぬと頷いて、伊藤俊輔は崩れるように腰を下ろした。

「明日、朝飯を食ったら馬関へ行こう」

 と、高杉晋作は言った。

 またしても唐突な話だ。藩公から呼び出されたなら、山口で控えているべきだ。が、高杉晋作はその先を読んでいた。藩公からの呼び出しは攘夷戦の敗戦処理を下命されるに相違ない。間違っても陸戦隊を率いて馬関へ駆けつけろ、という命令ではないはずだ。それなら先回りして馬関へ行っていた方が、何事に付けても都合が良いだろう。

 その実、高杉晋作には夷国戦艦の砲撃戦を見たかった。去年の攘夷戦争の折りには高杉晋作は萩の郊外に隠棲していたため、夷国艦の威力を目のあたりにしていない。艦隊の海戦とはどのようなものか、一度自分の目で見ておきたいと思った。

 翌朝、伊藤俊輔は高杉晋作と一緒に馬関へ向かって旅籠を出た。

 昼下がりに二人が小郡まで来た時、突然遠雷のような砲声が聞こえた。それも止まることを知らないかのような遠雷がドッドッドドと轟き渡った。

 八月五日午後三時四十分、連合艦隊旗艦ユーリアラスに戦闘旗が翻り、それを合図に各艦の右舷の砲、総数百数十門が一斉に砲撃を開始した。その砲声が二十余里離れた小郡まで鳴り響いた。

 二人は足を速めた。山陽道を馬関へと急いだ。山中まで来たとき前方から早駕籠がやって来た。高杉晋作は駕籠の使者に大声で聞いた。

「如何であるか」

「本家へ御注進。被害甚大なり」

 早駕籠はそう言い残すと、街道を駆け抜けて行った。

 顔を見合わせると二人はものも言わずに道を急いだ。馬関は大丈夫か、奇兵隊をはじめ諸隊の仲間は無事か、と二人の胸は騒いだ。

 船木まで行くと、再び早駕籠がやって来た。高杉晋作と伊藤俊輔はその駕籠を覗き見た。すると、紐をつかんだ男の見慣れた顔が揺れていた。

「おい、聞多ではないか」

 高杉晋作は呼び掛けた。

「おお、」

 と、井上聞多の声が聞こえ、駕籠は二人の横を通り過ぎ暫く行って止まった。高杉晋作と伊藤俊輔は止まった駕籠に駆け寄った。

「和議交渉の件、如何であったか」

 伊藤俊輔は駆け寄りながらそう聞いた。井上聞多は駕籠から立ち上がると辛そうな顔をして右手を大きく振った。

「馬関へ到着した折が、戦端が開かれる正にその時であった」

 井上聞多は無念そうに答えた。

「それで、馬関の戦況はどうだ」

 真剣な眼差しで高杉晋作が聞いた。伊藤俊輔もその傍から井上聞多を覗き込んだ。

「馬鹿げちょる、」

 そう言いながら、井上聞多は着物の埃を払った。

「去年の馬関戦争に懲りて、装備を充分にしたというが、まるで大人と子供の喧嘩じゃ。だから、四ヶ国連合艦隊との戦を止めるようにあれほど御前で弁じたに」

 井上聞多は怒ったように語気を強めた。

「前田、壇ノ浦、亀山の各砲台は頻と応戦したが、いかんせん砲弾が届かん。その射程外から、夷国艦船は悠々と炸裂弾を撃ち込み、当方の砲台は間もなく沈黙した」

「だが、昨年の敗戦に対策を講じて、砲は新しい大型砲にしたと聞き及んでいるが」

 高杉晋作は腕組みをした。昨年、奇兵隊を組織するために馬関にいた。藩は破壊された馬関の各砲台を百姓町人までも総動員して改修工事に当たっていたのを知っている。

「いや、高杉さん、西洋商人が我々に売りつけているのは、本国では既に使わなくなった旧式の武器ばかりだ。砲にしても青銅砲なんか使っちゃいない。すべて炸裂弾を放つ鋼鉄砲だし、銃にしても施条銃だ。先込め式のゲベール銃なんか西洋諸国ではどこも使っちゃいない。今は元込施条銃のミネー銃かスナイドル銃だ」

 と、横から伊藤俊輔が詳しく説明した。

 砲も西洋では鋼鉄製で造り炸裂弾を装備し始めている。日本の幕府をはじめ諸侯が装備している大砲は未だに鉄の塊の砲丸を撃ち出す仕掛けの青銅砲に過ぎなかった。時代後れでスクラップ同然の武器を高値で売り付けられていた。

「そうか。それでは、勝てぬな」

 高杉晋作はそう言って表情を曇らせた。

「壇ノ浦の守備隊は山縣小介の奇兵隊だが、苦労しているだろうな」

 井上聞多もそう言って表情を曇らせた。うなだれたまま三人の足は山口へと向った。

 奇兵隊開闢総督は高杉晋作だが、去年の十一月に藩の重役となり、高杉晋作は総督を辞めた。その後、奇兵隊総督は河上弥市を経て、いまは赤根武人が就いていた。松陰門下の山縣小介は副総督の立場にあった。

 夜更けて山口の政事堂へ行くと、世子は予想以上の敗戦の報に動転していた。

「高杉晋作、直ちに和平を申し出でよ」

 三人を前にして、世子毛利忠広は恐怖の眼差しで言った。

「いやいや、若君、」

 と、醒めた面持ちをして高杉晋作が口を開いた。

「こうなったからには、長州人の最後の一人が死に絶えるまで攘夷戦を断行すべし。我らも長州藩の御為に死すことはもとより覚悟の上でござる」

 高杉晋作はそう言って、断固とした眼差しで世子を睨み付けた。ここで安易な和平をしたのでは藩公父子をはじめ藩内の攘夷派を覚醒させることは出来ない。

「あい分かった。井上聞多、そなたに第四軍を与える。小郡口を守るべし。高杉晋作と伊藤俊輔は山口にて待機せよ」

 毛利忠広はそう申し付けた。

 小郡は山口に敵が攻め込む際には必ず通る道筋にあたる。毛利忠広は四ヶ国連合軍が山口まで攻め込んで来るものと思い込んでいた。井上聞多は指揮官となるのを固辞したが、高杉晋作が「若君のご下命を有難く受けよ」と承けるように口添えした。

 政事堂を退出すると第四軍へ向かう井上聞多と別れて、高杉晋作と伊藤俊輔は大手門に向かう坂を下った。

 大手門を出るとその傍に諸隊の一隊がたむろしていた。諸隊と藩兵は服装ですぐに見分けがついた。諸隊の着物は白麻布、袴は絹の縦縞、小袖には『赤心報国』などと思い思いの文字が書かれていた。が、そのきっかけは蛤御門で戦死した入江九一が白の羽二重で作った胴着の背中に『海行婆水漬化屍 山行婆草蒸屍』と書いたことによる。それが人目を惹き、各諸隊で文字を書くのが流行りとなった。見ると、隊士の掲げる白木綿の連隊旗には墨で黒々と『忠勇隊』と大書してあった。

「高杉殿」

 と、呼び掛ける声があった。二人は足を止めた。

「おお、中岡君」

 と、高杉晋作が答えた。中岡慎太郎だった。陣羽織を着こみ右手に手槍を携えていた。「堂々としたいでたちではないか」

 高杉晋作は薄ら笑いを浮かべて中岡慎太郎を見た。高杉晋作は人一倍派手好みだった。しかし、その高杉晋作の目で見てもいかにも趣味が悪かった。中岡慎太郎の出で立ちは田舎芝居の銀流しのようだった。

「当たり前だ、僕は忠勇隊の隊長だ」

 中岡慎太郎はそう言った。

 忠勇隊とは脱藩した諸国の浪士で結成された諸隊の一つだった。中岡慎太郎の傍らには何処から出て来たのか、田中顕助が顔を出した。田中顕助も中岡慎太郎と同じく土州の脱藩浪士だった。年はまだ若く高杉晋作に弟子入りを申し出たこともあった。

 長州は天下に残る唯一の尊王攘夷の砦だった。諸藩を脱藩した浪士たちが京を追われ長州藩を頼って流れ込んだ。そして長州藩は従来通り彼らを支援した。

「中岡君が忠勇隊の隊長か。それで、ここで何をしている」

「何をしているかは酷いな。夷国人から藩庁を護るべく、こうして守りを固めている」

「そうか、それは御苦労でござる。我らはこれより小郡へ向かう」

 高杉晋作はそう言った。

 伊藤俊輔は高杉晋作の言葉を聞き、思わず高杉晋作の横顔を見詰めた。これより向かうといった小郡は井上聞多が守備を命じられた山口の山陽口だ。

 つい先刻、世子より山口で待機せよと高杉晋作と伊藤俊輔は命じられたばかりだった。しかし、高杉晋作は最初から井上聞多の隊と一緒に小郡へ行くつもりでいた。『萩の放れ牛』と高杉晋作は藩士たちに陰口を言われている。何処へ行き何をしでかすか見当がつかない、という意味だ。百五十石の上士の子弟にしてはその行動はまるで放埓者と変わらない。自由奔放といえば聞こえが良いが、高杉晋作の場合はどこまでも放れ牛だった。

 高杉晋作の行動の根底には強烈な矜持があった。理詰めでは従兄弟の久坂玄瑞に分がある。政治や剣では桂小五郎に一日の長がある。何事においても高杉晋作と比らべるき実力者が彼の身近にいた。そしていま、英学では井上聞多と伊藤俊輔には到底及ばない。高杉晋作にはそれでも長州藩の上士としての悲しいまでの矜持があった。ギシギシと歯軋りするような矜持に背中を押されるようにして、高杉晋作は時代の荒波に自らを押し出して行くしかなかった。

 井上聞多は第四軍二百名を指揮して、小郡の仁保津に陣を敷いた。第四軍隊は洋式陸軍で砲も数門有し、兵はゲベール銃を装備していた。

「なぜ晋作は僕に指揮官になれと勧めたンだ」

 床机に腰を下ろすと、井上聞多は不服そうな顔をした。

「第四軍隊の指揮官ならば、金や米に不自由しないだろう」

 詰まらないことを聞くな、という表情をして高杉晋作はそっぽを向いた。

 諸隊はもとより藩命により高杉晋作が創設した奇兵隊ですら、藩から金品の支給は一切なかった。それのみならず、軍に必要不可欠な武器や糧秣すら配給されなかった。藩公は理解を示して人材登用令まで発したが、政務を執る重役たちは奇兵隊の存在を無視した。そのため篤志家や尊攘派の豪商の支援を得て銃砲を整え糧秣を購入して隊を運営するしかなかった。奇兵隊と藩の正規軍とは根本から大きく異なる。

 四ヶ国連合艦隊の攻撃は翌日も続き、馬関の砲台をことごとく破壊し尽くした。仏国陸戦隊は上陸して戦勝記念に青銅砲を奪い残りの砲身に釘を打ち込んで破壊し町を焼き払った。上士で結成された正規軍は大した抵抗もしないままに退却し、山縣小介の率いる奇兵隊だけが最後まで頑強に抵抗した。

 戦況は逐一早駕籠で山口へ報告された。その途中で陣を張っている井上聞多たちには逸早く馬関の様子がもたらされた。四ヶ国連合艦隊の猛攻は熾烈を極め『煙草を二、三服吸う間に、砲弾が雨霰と数百発も飛んで来た』というほどの激しい艦砲射撃に曝されて、各砲台は半刻と経たないうちに完全に沈黙した。

 やがて、高杉たち三人は山口へ向かった。そろそろ藩が和平を申し入れる頃合いだと判断したからだ。陣地から出て小郡の町へ行くと、はたして世子が山口から出向いていた。待機を命じた高杉晋作たちが小郡へ向かったことを聞いて駆け付けて来ていた。

「高杉晋作、和平の応接を申し付ける」

 と、毛利忠広は重々しく下命した。

 高杉晋作はその言葉に恭しく頭を下げた。しかし、顔を上げると世子に注文を付けた。

「応接の儀、確とお受けするに付、馬関の各軍に対し停戦を徹底して頂きたし」

 藩命で和議の話し合いに敵艦へ行くのに後ろから撃たれては適わない。そうした思いがあった。狂信的な攘夷信者が一朝にして変節するとは思えなかった。

 毛利忠広は頷いた。すると、高杉晋作は更に言葉を重ねた。

「藩命にて和平の申し出に向かうことを、諸隊に重々承知させて頂きたし」

 攘夷の坩堝と化している長州藩にあって、和平の使者に立つことは弾丸が後ろから飛んで来ることも覚悟しなければならない。怖いのは連合艦隊よりも、むしろ狂信的な攘夷派浪士たちだ。

「分かった。ただちに命ずる」

「命ずるだけにあらず、徹底させることこそ肝要なり」

 高杉晋作は厳しい顔でくどいほど言葉を重ねた。

 攘夷でいきりたつ諸隊の連中を藩命で鎮めてからでなければ和平の使者に立つことは出来ない。毛利定広はそれにも深く首を折ってこっくりと頷いた。

「しからば、」

 と、高杉晋作は朗々と弁じ始めた。

「信義を以って和を講じ、条約成立の上は防長二州を賭して幕府と決戦し、また朝廷に対しては死を以って攘夷を諌止し奉るべし」

 高杉晋作の本心がはじめてその口から発せられた。

 攘夷を廃し倒幕のために全力を尽くすこと、それが高杉晋作の固い決意だった。

 高杉晋作に迷いはなかった。そうすべきだ、と座敷牢の中で心に決めたことだ。その決意がやがて長州藩を動かし時代の黎明を迎えることになる。

 高杉晋作を正使、杉徳輔、渡辺内蔵太の両名を副使とし、伊藤俊輔を通事として馬関の旗艦ユーリアラスへ向かった。高杉晋作は家老宍戸備前の養子と偽り、宍戸刑馬と名乗った。藩の正使として外国と交渉にあたるにはそれ相応の身分の者でなければならない。井上聞多は第四軍の司令官として小郡に残った。

 

 高杉たちの使節は短艇に白旗を掲げて馬関沖の旗艦へ向かった。

 伊藤俊輔が戦時国際法ではそうなっていると言い、急遽晒を裁って用意した。

 英国艦へ赴いた正使高杉晋作の装束は公卿を思わせる仰々しいものだった。直垂れに立て烏帽子を冠し、堂々とした足取りで英国艦船の一室へ入りテーブルに就いた。英国の記録によると、高杉晋作の態度は恰も傲慢なる鬼のようだったと記されている。

 まず連合艦隊司令長官英国中将キューパーが尊大そうに胸をそびやかして口を開いた。通事のサトウがいなかったため、伊藤俊輔がすべて通訳した。

「貴藩が和を乞うるに当たり、如何なる条件を提示せるか」

 戦勝の将の傲慢な言葉を伊藤俊輔が高杉晋作に伝えた。

 すると、高杉晋作は怖い顔をしてテーブルをドンと叩いた。

「我らが参ったるは和を乞う為にあらず。ただ止戦に応ずる用意のあることを告げに参ったまでのものである。お望みとあらば、そなたたちの陸戦隊で山口まで攻めて来られよ。堂々と雌雄を決しようではないか」

 キューパーに負けず劣らず、高杉晋作も睨みつけて大音声で応じた。

 これではどちらが戦に勝ったのか分からない。

 四ヶ国連合艦隊の陸戦隊は総勢五千。地理不案内の内陸へ進軍するのは得策でない。

そもそも侵略国に対して欧米列強は戦後交渉すらしたことはない。これまでは有色人の棲む地域を一方的に侵略し、気の赴くままに現地女性を凌辱し現地住民の大人から子供までをスポーツかゲームのように狩って虐殺し、成年男子を牛馬以下の処遇で使役した。欧米列強が連合艦隊を編成して攻め込むことも、相手政府と戦後処理交渉することも、他の有色人種の棲む地域ではあり得ないことだった。

しかし日本だけは他の有色人種とは勝手が違った。彼らは統一国家の下に諸侯が整然と全国を統治している。驚くことに政府首脳の高い知識と教養だけでなく、庶民の識字率においても欧米列強のレベルを遥かに超えている。そして全国の諸侯は良く訓練された武士団を擁し、死をも恐れず切れ味鋭い刀を振りかざして斬り込んでくる。連合艦隊の陸戦隊五千人で内陸深く山口まで攻め込むのは不可能だった。

キューパーは言葉に詰まり、いくらか表情を和らげた。手強い交渉相手を見詰める碧眼に戸惑いの色が浮かんだ。それは東洋人との交渉では高圧的に出る方が良いとの経験則がこの男には通用しないことへの戸惑いだった。しかし公使から厳命されている彦島租借の一件を成功させなければならぬとばかりに語気を強めた。

「何を言われるか。神奈川条約を無視したる昨年の砲撃にかかる賠償はいかが相成るや。止戦といえども無条件にて受け容れられるものにあらず」

 キューパーは喋るうちに勢いを得て、高杉晋作にも負けないほどの大声で責め立てた。

 高杉晋作はその言葉に傲慢な態度で頷き、伊藤俊輔に向かって顎を一つしゃくってみせた。高杉晋作の返答はそれだけだった。なんら言葉を発していない。伊藤俊輔は目を白黒させたが、高杉晋作の回答を聞いたかのようにキューパーに向かって弁じはじめた。

「わが藩が攘夷を決行したるは、幕府が攘夷を上奏し天子様より下された勅命に従ったまでのことである。文句は攘夷を上奏した幕府に言われよ」

 伊藤俊輔がそう言うと、キューパーは更に烈火の如く怒り早口でまくし立てた。

「先年、馬関にて商船が攻撃されし時も、そして今次我が連合艦隊が被弾せしも、それらはことごとく長州藩の砲弾に依るものである。従って、当事者は長州藩であると我らは認めるが、いかが返答されるや」

 伊藤俊輔の英語力は達者といえるほどのものではなかった。早口で喋られると伊藤俊輔には相手が何を言っているのか判然としない。しかし、怒っていることだけは誰の目にも一目瞭然だ。伊藤俊輔は横に座っている高杉晋作の顔を見た。

「宍戸様、いかが取り計らいましょうや」

 伊藤俊輔は高杉晋作に小声で言った。すると、高杉晋作はむっつりとした表情で伊藤俊輔を見返した。

「よきに計らえ」

 一言そう言って、高杉晋作は決然とキューパーを睨み付けた。

 一説によると和平交渉は高杉晋作が古事記を諳んじてキューバーを煙に巻く、という下りになるようだが、同席していた英国の記録には高杉晋作は次第に言葉数が少なくなった、としか書き記していない。キューバーがどのような人物か定かでないが、連合艦隊の提督を任されるほどの学識ある英国人が東洋人の諳んじる神話で煙に巻かれるとは思えない。むしろ意味不明な日本の神話を使者が語り始めたとしたら和平交渉そのものが決裂しかねないだろう。

 高杉晋作は彦島の割譲を要求されるのではないかと恐れていた。阿片戦争に敗北した清国は香港を割譲させられた。同じように馬関海峡に浮かぶ彦島の割譲を申し入れられはしないかと。その場合は断じて拒絶しなければならない。高杉晋作の表情は険しさを増し、鬼の形相で睨み付けた。『犬とシナ人は公園に入るべからず』と上海で目にした立て看板が脳裏を過ぎった。

『よきに計らえ』とだけ言われて伊藤俊輔は高杉晋作の口元を見た。どう返答すれば良いのか窮し、忙しく頭脳を回転させた。そして顔を上げると伊藤俊輔は己自身を鼓舞して口を開いた。キューバーの剣幕に負けじと、伊藤俊輔の口から激しい言葉が発せられた。

「そちらこそ何を言われるか。被害者はむしろ長州藩である。幕府の命に従って攘夷を決行したるは幕府に対する忠義である。しかるに長州藩は砲台を破壊され、町を焼かれ、多くの人命を失った。我が藩の戦費こそ、幕府に求めるものである。貴下も当然にして損害賠償は幕府を相手に交渉すべきであって、我が藩に補償を求めるは見当違いも甚だしい」

 伊藤俊輔は大声で弁じた。

 まず西洋人との交渉は気迫で負けてはならない。決して弱味を見せず、堂々と我が有利なるを理路整然と弁ずべきである。たとえそれが屁理屈であろうとも正々堂々と論じるべし。外交交渉では日本のように忖度したり、言外の気持ちを斟酌されることはない。従って武士の潔さは通用しないばかりか論外だ。幸いにして伊藤俊輔は生まれながらの武士ではない。主張すべきことは余さず主張しなければならず、西洋人に対して日本人と同様に忖度や斟酌など期待する方がどうかしている。荒くれの英国水夫たちとの交わりや英国に滞在した一年余りの経験から得た自分の考えに従った。

 伊藤俊輔の強気の論述が功を奏したのか、キューパーの態度に変化が現れた。頬に笑みを浮かべると「オーケー、オーケー」と首を横に振った。伊藤俊輔が弁明する通り、国の統治権を幕府が掌握しているのであれば、長州藩に彦島割譲を要求するのは筋違いだ。実際に英国側の交渉記録にも彦島割譲を要求した記録は一行もない。

「それでは、」

 と、キューパーは口吻を和らげてゆっくりと口を開いた。

「和平の条件を伺おう」

 和平交渉の前哨戦はどうにか制した、との安堵感が伊藤俊輔の体全体に広がった。

 キューパーの言葉を伊藤俊輔は高杉晋作に伝えた。高杉晋作はなおも傲慢な態度で懐から書状を取り出し、それを重々しく伊藤俊輔に手渡した。伊藤俊輔はそれを丁寧に広げて逐条を英訳して読み上げた。

「一つ、馬関海峡を通行する外国艦船を優遇し、薪炭食糧を供給する。一つ、砲台はこれを廃棄し、新たに築かない。一つ、艦隊の戦費はこれを支払う。但し、金額については江戸にて四ヶ国の公使と引き続き交渉する」

 読み終えると、慣例に従ってそれを裏返してキューパーに開示した。

 キューパーは長州藩の提示に頷いたが即答を避けた。翌日再び艦上にて和平会談をして、そこで返答をすると約した。

 夕刻、高杉たちは船木で世子毛利忠広に拝謁した。和平交渉の首尾を心配する余り、世子は馬関のすぐ近くまで出向いていた。高杉晋作は交渉のあらましを語り、世子から労いの言葉を頂戴した。

 世子の御前を退出し、本陣の垂幕の側を歩いていると中から数人の声がした。

 耳をそばだてて聞くと、それは高杉晋作と伊藤俊輔を暗殺する手筈を相談しているものだった。攘夷を唯一の目的として命を懸けてきた者たちにとって、和平を連合艦隊に持ちかけた高杉たちは夷国と通じた裏切り者に見えたのだろう。

 高杉晋作は伊藤俊輔を物陰に誘うと「逃げる」といった。

最初、高杉晋作が何を耳打ちしたのか伊藤俊輔は理解できなかった。しかし唇を噛んだ悔しそうな高杉晋作の顔を見て「逃げる」という言葉の意味が分かったが、それでも釈然としなかった。正義は自分たちにあるのに、逃げるまでもないではないか、と不満の色を浮かべた。ただ、高杉晋作と伊藤俊輔が姿を隠したところで支障はない。すでに和平交渉は事実上の決着を見ており、必ずしも高杉たちが明日も和議交渉の場に臨む必要はないことではあった。

「是は如何ともし難い。我々はこの大事に当たっているというのに、暗殺するという者が目の前にいても藩政府はどうすることも出来ぬ。実に犬畜生か。斯なる上は去るにしかず」

 それだけ言うと、高杉晋作は振り返りもしないで本陣から逃げた。

 そして厚狭川河口まで行くと魚船を手配して、脱兎のごとく九州へ落ちのびた。

 たとえ小心者といわれようと、高杉晋作はまだ首を刺客に呉れてやるわけにはいかなかった。長州藩は自分を必要としている、との矜持が高杉晋作の逃げ足を早めた。

 伊藤俊輔も下関の豪商白石正一郎を頼って馬関の町に姿を隠した。

 高杉晋作と伊藤俊輔の突然の逃亡により、二回目の四カ国連合艦隊との交渉には正使毛利登人副使渡辺内蔵太の手で引き続き進められた。そして、前日に高杉たちが交渉した線で一応の決着を見た。

 日を措かずして、和議は一応の成立をみた。

 しかし、長州藩は賠償金額を巡って四カ国の公使と横浜で折衝しなければならない。

 藩は慌てて伊藤俊輔の行方を求めて四方八方に藩吏を走らせ、三日後に馬関郊外豊浦の商家に潜んでいた伊藤俊輔を捜し出した。

 横浜出役の藩命を潜伏先の馬関で聞かされ、伊藤俊輔は一行とともに通事として横浜へ発った。この度も井上聞多はふて腐れて横浜行きを断っている。

 井上聞多は藩の使者に対して、二カ月近くも以前に政事堂で自分が弁じたことを聞き入れていれば、こうした事態にはなっていなかったと返答した。その上で、攘夷攘夷と騒いでいた者たちこそ横浜へ行き四ヶ国の公使を相手に交渉の任に当たるべし、と悪態を付いた。さすがの藩公も井上聞多の言い分には黙るしかなかった。

 横浜出役一行の正使は馬関の総奉行だった家老の井原主計が任じられ、副使として杉徳輔、山縣半蔵の両名が随行した。伊藤俊輔の役目は通事でしかなかった。依然として小者の扱いだった。長州人は陸路を通れないため横浜への往復には海路をとった。

 記録によると九月五日に三田尻から発ち、五日後の十日に横浜へ着いている。

 一行の複雑な心中をよそに、秋の航海は順調だった。だが船が錨を下ろすと途端に正使井原主計は病気と称して、交渉に臨まないばか部屋に籠もったきり一度も下船すらしなかった。長州藩の申し出により、交渉は横浜沖の英国艦上で行われることになった。江戸府内はもとより、郊外の横浜ですら長州人が上陸するのは危険だった。

 英国艦には杉徳輔と山縣半蔵それに伊藤俊輔が出向いて交渉の場に臨むことになった。

 英国戦艦に乗り移るとその威容と下甲板に並ぶ夥しい砲列と銃を捧げ持つ兵列に迎えられて、副使杉徳輔と山縣半蔵の二人は圧倒されたように押し黙った。

 会見の場に臨むと四ヶ国の公使は高圧的に総額三百万ドルの補償を要求した。長州藩にとって逆さになっても到底支払えない金額だ。杞憂していたとはいえ、莫大な請求額に杉と山縣は蒼白になり、一言も発しないばかりか通訳した伊藤俊輔の顔を見詰めたままだった。突きつけられた法外な要求と交渉相手の傲慢な態度が副使の二人から言葉を奪ってしまった。副使の両名に成り代わって、伊藤俊輔は昂然と顔を上げて熱弁を奮った。

「この国の外交権や条約締結権は幕府が有している。よって、長州藩は幕府の攘夷令に従ったに過ぎない。勇猛果敢に攘夷を断行した長州藩は、むしろ被害者であれこそすれ断じて加害者ではない。それよりも火力において遥かに劣る長州藩を大挙して襲撃し、馬関砲台をことごとく破壊した連合艦隊こそ正義に悖るものである。むしろ、我が長州藩の被害を償って頂きたいと考える。貴艦隊の戦費は支払うが、要求されている補償金は一銭も出せないし、出す必要もないと考える」と。

 そうしたことを伊藤俊輔は堂々と胸を張って英語で捲くし立てた。

 伊藤俊輔は攘夷戦争の経緯を知らないほど愚かではない。間違いなく馬関戦争の当事者は長州藩だ。攘夷の詔勅も久坂たち長州藩士が働きかけたものだ。そうしたことを知って知り抜いた上で、異国人に負けじとばかりに胸を張って弁じた。論理が現実から乖離していることはしゃべっている伊藤俊輔本人は百も承知していたが。

 ただ伊藤俊輔は幕藩体制下の日本の政体のあり様、幕府が諸藩に執りうる指揮命令と長州藩の立場を強い口調で論じた。日本の外交権は長州藩になく、現在は徳川幕府が「征夷大将軍」に任じられて、諸々の執政権を朝廷に成り代わって執っている。だから四ヶ国連合艦隊が戦った長州藩との戦費保障及び賠償責任を負うべきは日本の一藩たる長州藩にあらず。四ヶ国公使は徳川幕府にこそ請求すべき、と伊藤俊輔は英語で捲し立てた。

その気迫に押されるように四ヶ国の公使は長州藩に対する補償要求を取り下げ、交渉相手の矛先を幕府に変えた。横浜での交渉は成功裡に終わった。後日、幕府は四ヶ国の要求に屈して莫大な賠償金の支払をのまされている。

 元治元年九月十五日、役目を果たした伊藤俊輔たちは横浜を発ち、二十日に馬関へ辿り着いた。二十二日に意気揚々と山口へ入り、翌二十三日政事堂の御前へ上がって横浜の首尾について復命した。ちなみに、その褒賞として正使井原主計は刀一振りと銀五十枚を頂戴し、副使杉徳輔と山縣半蔵は短刀一口と銀十枚、そして通事伊藤俊輔は金十両を頂いた。三百万ドルの補償を免れた褒賞としては寒い限りだったが、当時の褒美は多分に精神的なもので、働きを経済的価値に換算したものではなかった。

 

 伊藤俊輔が山口を留守にしていた間に、藩論は保守派へと急旋回していた。

 蛤御門の変に出兵した三家老は国許へ逃げ帰った後に捕らえられ幽閉された。福原越後、国司信濃、益田弾正の三家老は支藩の徳山に場所を変えて繋がれ、彼らの処罰を巡って藩論は沸騰していた。

 徹底恭順を説く椋梨籐太らの保守派(高杉たちは彼らを『俗論派』と呼んだ)と、武備恭順を説く周布政之助、清水清太郎らの革新派(同じく『正義派』)とが甲論乙駁、両派とも一歩も譲らずに論戦を戦わしていた。

 元治元年九月二十五日、早朝より藩の方針を定める会議が開かれた。

 山口政事堂の奥座敷に藩公毛利敬親の出座を願い、御前に重役が顔を揃えた。

 毛利家安泰のため幕府に恭順の意を表すべき、とする俗論派と、幕府には恭順を装いながらも武備を充実し、時と場合によれば追討軍と一戦をも辞さない、とする正義派がそれぞれの持論を展開した。蛤御門の変に出兵した三家老の扱いに対しても俗論派は厳科すなわち斬首を叫び、正義派は処罰に及ばず幕府と対抗せよと一歩も譲らなかった。昼食もとらず激論は夕刻まで及んだ。

 その会議の場で井上聞多の活躍は目覚ましく、武備恭順を滔々と説き藩公もその考えに傾いたといわれている。井上聞多と同じく武備恭順を説いたのは若い家老の清水清太郎だった。椋梨藤太たちも激しく応酬し、議論は白熱した。空腹に耐えかねた藩公が退出しようとすると、井上聞多が激しい口調でそれを制した。

「藩の重大事を議論しているというのに、藩公が空腹とは何事ぞ。今暫く議論の央におられ、藩論の是非を見極められるべし」

 藩公毛利敬親も井上聞多の見幕に再び腰を下ろしたほどだった。

 が、その日の議論はついに結論を得ず、翌日再度家老から末家に至るまで会議に加え最終結論を得ることとして散会した。

 井上聞多が政事堂を後にした頃には辺りはすっかり暮れていた。五ツを回った時分だったという。下僕の浅吉の提灯を頼りに井上聞多は湯田村高田の自宅へ向かっていた。途中、讃井町の袖解橋の手前に差し掛かった時、三つの人影が井上聞多の行く手を遮った。

「井上か」

 と、その影が問いただした。

「いかにも」

 と、井上聞多は答えて、相手を確認するために浅吉の提灯を手にしようとした。その刹那、後ろに回った一人が井上聞多に体当たりして前へ押し出した。つんのめった井上聞多を目掛けて前の二人が斬り付けた。左肩から袈裟に斬られ、俯いた処を頭から顔にかけて次の刀が斬り裂いた。同時に背中も斬られ、井上聞多は横に倒れると道から一間ばかり低い田に転げ落ちた。

 浅吉は「ヒェー」と叫び、高田へ向かって駆け出した。三人は浅吉には目も呉れず土手を飛び降りると井上聞多を追ってなおも数太刀浴びせかけた。刀を抜く暇もなく井上聞多は刀刃を浴びて全身を斬り刻まれながらも気力を振り絞り這って畑の畝に逃れた。

 作物の間に身を潜めると息を殺した。不思議と痛みはなかった。しかし夥しい血が流れている。重傷を負っていることははっきりと分かった。『とうてい助かるまい』井上聞多は悲しいまでに冷静な頭脳でそう思った。

 井上聞多を襲ったのは俗論派の撰鋒隊士だったといわれている。無警戒だった井上聞多に向かって三人が滅多切りに斬り付け、棒立ちだった井上聞多は全身を斬られた。井上聞多の顔といわず体といわず背中といわず、全身から血が噴き出て彼らの企みは成功したかに見えた。しかし、刺客としては未熟であった。彼らは決定的なとどめを刺していなかった。体の奥深く突くことこそがとどめとなる。そうした意味では彼らは刺客としては素人だったといえる。

 暗闇の畑の畝に身を隠した井上聞多の姿を見失ったのか、それとも充分な手応えに満足したのか、刺客たちは井上聞多をそれほど探し回らずに遁走した。人気のなくなったのを確認して、井上聞多は畑を這って側の百姓屋の戸を叩いた。桑葉という家だった。桑葉の家の者は井上聞多の顔を知っていた。

 井上聞多は畚に担がれて湯田の井上家に運ばれた。ただちに近所の漢方医を二人呼んだが、彼らは一様に首を横に振った。手の施しようがないといって治療を断った。全身を斬られボロ雑巾のように血まみれになって転がっている井上聞多を見て、誰もが駄目だと思った。井上聞多本人も苦痛の余りトドメを刺して楽にしてくれと懇願した。枕元にいた聞多の兄が差料を手に取り下緒を解き、鯉口を切って抜刀の構えに入ると、母親が「聞多を斬るなら私を斬ってから」と聞多の上に覆いかぶさった。

 その時、家人が誰かがやって来たと告げた。一人の男が玄関に駆け付けていた。

 井上家に忽然と現れた男は名を所郁太郎といった。吉敷村新町円正寺前の借家に住む蘭方医で長州人ではない。所郁太郎は美濃国中仙道赤坂羽根町の酒屋矢橋亦一の四男として生まれた。隣村の医者所伊織の養子となり加納藩医青木松軒で漢方医学を学んだ後、大阪過書町の緒方洪庵の適塾で蘭方医学を学び、京の長州藩邸に近い河原町で開業した。そこで藩邸に出入りする浪士の考えに共鳴し多くの既知を得ていたが、蛤御門の変直後に蘭学仲間の長州藩医長野昌英を頼って長州藩へ下って来た。山口で開業するや、周布政之助にその確かな医術を見込まれて藩病院総督に抜擢された。長州藩の奔放なまでの人材登用がそこでも遺憾なく発揮された。

 さっそく座敷に通された所郁太郎は焼酎で六ヶ所の傷口を丁寧に洗い、畳針で五十余針も縫った。当時のことで麻酔はない。手術中、井上聞多は呷き、悶え、泣き喚いたという。手術が終わると井上聞多は晒でサナギのように全身を巻かれ、虫の息で布団に寝かされた。

 手術後に血染めの割烹着を脱ぎながら「化膿しなければ命はとりとめるでしょう」と所郁太郎は言った。そして「九月も下旬だから、おそらく化膿することはないでしょう」と付け加えた。

 井上聞多遭難の事変は俗論派・正義派を問わず当夜のうちに瞬く間に広まった。井上遭難の報を周布政之助は軟禁されていた山口矢原の豪商吉富籐兵衛の家で知った。井上聞多を失えば藩論の主導権は俗論派のものとなる。これまでかと思い詰めて、周布政之助は翌二十六日の未明に家を抜け出して裏の畑で自刃した。享年四十二才だった。彼こそが薩摩藩の西郷隆盛に匹敵する長州藩きっての政治家と目されていただけに惜しい人物だった。

 井上聞多遭難の翌朝、伊藤俊輔は事変を馬関で知った。横浜での折衝を無事に終えて藩公から褒賞をもらい、馬関へ戻ったばかりだった。翌日も山口の藩庁事務方へ四ヶ国公使との交渉経過の復命に出掛ける手筈になっていた。

 翌日、用向きを済ますとその足ですぐに井上聞多を見舞った。伊藤俊輔は井上聞多の惨状に驚き、声を上げて男泣きに泣いたという。井上聞多は肩で息をして伊藤俊輔に逃げるように勧めた。

「ここで君と己、二人とも死んでは、日本は闇の世になる」

 井上聞多はそう言い、傷が痛むといって苦痛に顔を歪めた。

 すでに正義派勢力は藩庁から一掃され、伊藤俊輔も身に迫る危険をひしひしと感じていた。街中を撰鋒隊士たちが我が物顔に歩いている。彼らに見つかれば問答無用で斬り殺されかねない。俗論派の牛耳る藩政府の拠点に変貌した山口に長居は禁物だった。伊藤俊輔は用心棒のために山口にいた諸隊の一つ力士隊三十余名を引き連れて馬関へ逃げた。

 高杉晋作は九州から自宅へ舞い戻り、俗論派に牛耳られた藩政府の命により自宅座敷牢で謹慎していた。しかし山口での異変が萩に伝わり、城下の雰囲気が俗論派一色に染まっているのを感じ取ると、高杉晋作は神官に変装して夜陰にまみれて萩を脱出した。高杉晋作の鋭い嗅覚は彼の身に迫る危機を敏感に嗅ぎ取っていた。

 その足で夜中から日中と歩き通して山口へ行き、夜更けてひっそりと井上聞多を見舞った。井上聞多は高杉晋作を見ると苦しみに耐えかねて殺してくれと哀願した。さすがの高杉晋作も声もなく、ただただ井上聞多を見詰めるばかりだったという。

 翌日、高杉晋作は同じく自宅謹慎中の前政務員楢崎弥八郎を訪ねた。楢崎弥八郎は発進派の一員として蛤御門の責を負わされて自宅謹慎を命じられていた。周布政之助と井上聞多を失ったいま、藩政を俗論派がほしいままにして、正義派弾圧を強行すると察した高杉晋作は楢崎弥八郎に一緒に逃げようと誘った。しかし、楢崎弥八郎は首を横に振った。

「正道を踏んで仆れるだけだ。君命で死ぬは、武士の本懐」

 毅然としてそう言う楢崎弥八郎に、高杉晋作は怒りをあらわにした。

「君命とは名ばかりなり。俗論党が殿様を操っているに過ぎぬ。そんなことで殺されることを犬死にというンだ」

 高杉晋作は楢崎弥八郎に生きることこそ忠義であり使命だと説いた。

死ぬことは簡単だ。自分もうかうかしているといつ何時、井上聞多と同じように斬られるか分からない。しかし、生きて藩論を転回させなければ長州藩は昔日の意をなくした一大名に成り下がってしまう。なんのために松陰先生は命を散らし、なんのためにあたら多くの松陰門下が非業の最期を遂げたのか。高杉晋作は胸に燃え上がる炎のような身を焦がす無念さに歯を食い縛った。たとえ武士として一時は面目を失うとも、生き延びて藩論を転回させるために力をそそぐことこそが忠義ではないか。高杉晋作は自身を納得させるためにも言葉を尽くした。

 しかし、ついに楢崎弥八郎の意は変わらなかった。

「君命は君命である」

 楢崎弥八郎はきっぱりと言った。それが最後の別れとなった。

 高杉晋作は徳地を回って奇兵隊の屯所に山縣小介を訪ねて逃走することを告げた。そして、防府の三田尻から船で馬関へ行き白石邸に二日ほど潜んだ。その間、高杉晋作は白石正一郎と長州藩の情勢をつぶさに分析している。廻船問屋を手広く商う白石正一郎には全国の動きが手に取るように分かっていた。検討の末、高杉晋作が長州藩内に留まることは不可能だと判断した。高杉晋作は再び九州へ遁走した。

 周布政之助と井上聞多を失った藩は完全に俗論派のものとなった。唯一対抗しうる人物といえば桂小五郎がいるが、蛤御門の変以来京の町から姿を消し、その後の行方は杳として知れなかった。清水清太郎は藩論の帰趨に悲観して領地の立野(光市)へ帰った。後に『役務中無断逃亡』との咎を受け、その年十二月二十五日に萩で死を賜っている。ときに清水清太郎、享年二十二才。藩論は俗論派に完全に制され、藩庁も山口の政事堂から萩・指月城へと移された。

 

 元治元年(一八六四)七月二十四日に時を遡る。その日、幕府は長州追討の勅命を得た。

 蛤御門の変の日からわずかに五日後のことだった。そして幕府は直ちに諸藩に出兵の命を発した。朝廷と折衝した幕府方の手回しの良さには驚くばかりだ。長州追討軍総督には御三家の一つ紀州藩主徳川茂承、副総督として越前藩主松平茂昭が任命された。総督参謀には薩摩藩の西郷吉之助が就いた。後に総督は前尾張藩主徳川慶勝と交代したが、やはり御三家の中から選ばれ、徳川幕府の威信を賭けた軍事行動だった。しかし、出兵要請を受けた諸藩の代表者が大坂城へ集まったのはそれから三ヶ月も経った十月二十二日だった。諸藩はそれぞれに厳しい財政事情を抱え、戦費のかさむ軍事行動には消極的だった。

 長州追討の勅命から三ヶ月以上もたって、遅ればせながら大坂城に代表者が集い、長州藩追討の軍議が開かれた。そして長州追討の総攻撃は十一月十八日と決せられた。時を措かず、幕府軍による討伐の報が四ヶ国連合艦隊に打ちのめされた長州藩に届いた。

 幕府と長州の交渉は幕府軍が本陣を置いた広島の国泰寺で行われた。幕府軍からは総参謀として薩摩藩の西郷吉之助が交渉に当たり、長州からは支藩岩国藩主吉川経幹がその任にあたった。それは、その日のあることを期して周布政之助と清水清太郎が吉川経幹の許を訪れ、幕府との仲介役を頼み込んだことによる。

 西郷吉之助は幕府軍が防長二州に攻め込むことに賛成ではなかった。確かに薩摩藩は再三再四長州藩と敵対してきたが、長州藩を滅ぼすのが目的ではなかった。いわば、国論の主導権争いをしていたに過ぎない。ただ、長州藩の外交は余りに直線的で稚拙に過ぎた。権謀術数を用いないといえば聞こえが良いが、愚直の誹りは免れない。人の良さは外交の場では斟酌されないばかりか、藩を危うくするものでしかないのだ。

 西郷吉之助は長州藩を十万石ぐらいの小大名にしようと考えていた。実の所、長州藩を徹底的に蹂躙するのは得策でないと考えた。長州藩を滅ぼせば、天下に尊王攘夷を目指す藩は永久に失われる。それかといって幕府の武威を旧に復して、従前の幕藩体制でこれからの日本が世界と伍してやっていけるとも思えない。いずれ、徳川幕府には政治の舞台から退いて頂くしかない。主導権は薩摩藩が握り、雄藩連合で日本国を運営してゆくしかあるまい。西郷吉之助はそう考えていた。第一次征長で総参謀西郷吉之助の腰が退けていたと言われる所以はそこにあった。

 吉川経幹は藩主毛利敬親父子の謹慎と三家老の処分を条件に和解するように持ちかけた。西郷吉之助の手元には長州藩内の俗論派と正義派の勢力争いの様子も入っていたが、敢えて言及しなかった。『長人のことは長人にさせよ』それが西郷吉之助の採った政治手法だった。藩内で長人同士を争わせて内部から勢力を枌落とそうとした。

 撤兵条件として幕府軍は吉川経幹の申し出た案に三項目を追加した。参謀及び過激派家臣を厳罰に処することと五卿を他藩に移すこと、それに山口の政事堂を破棄することを幕府は課した。

 長州藩は恭順の意を示すため、三家老に切腹を命じた。当初、処刑を十一月十二日と予定していたが、山縣小介が奇兵隊を率いて三家老幽閉先の徳山へ奪還に押しかける、という噂が流れたため藩は処刑日を一日早めた。

 国司信濃は徳山の澄泉寺で切腹した。まだ二十三才の若さだった。益田弾正は同じく総持院で君命に従った。時に三十二才。長老格の福原越後は岩国に移され、川西竜護寺で切腹して果てた。享年五十才。三家老の首級は幕府軍本陣の広島の国泰寺へ送られた。

 同じ日、野山獄で宍戸左馬介、佐久間佐兵衛(赤川淡水)、竹内正兵衛、中村九郎の蛤御門の変の四参謀も斬首に処した。併せて正義派政府要務員前田孫右衛門、楢崎弥八郎、松島剛蔵、毛利登人、渡辺内蔵太、大和国之助、山田亦介の七名を捕らえて野山獄に幽閉した。西郷吉之助は三家老の切腹はまだしも、四参謀の斬首や正義派政府要務員らの投獄を聞き「それはやり過ぎだ」と、眉を曇らして呟いたという。

 吉川経幹は十一月十六日、国泰寺に赴き幕府軍総督名代成瀬正肥らと面会した。そこで幕府大目付永井主水正の尋問を受けた。

 第一の問題は家老国司信濃が持っていた藩主の軍令書だった。

「軍令状については、如何に」

 永井主水正の舌鋒は鋭かった。軍令状がある限り、蛤御門の戦は藩主の意志によるものとなる。

「藩公父子は暴臣に迫られて、心ならずも発したものなり」

 吉川経幹はそう答えた。

 会議場の周囲は槍を構えた幕府軍兵士が幾重にも取り囲んでいた。一方、吉川経幹は刀を持たず扇子一棹を持って会議に臨んだ。

「しからば、世子上阪の理由とは」

「夷艦襲来につき、天意をお伺いする所存にて」

「上阪に際し、軍を率いたるは如何なることや」

「夷艦の襲撃に備えてのことにて」

「京の敗戦の報に接するや、撤退したるは、何ゆえか」

「意外の出来事につき、藩主の命を伺うためでござる」

 吉川経幹は永井主水正の詰問に即座に答えた。

 返答のあまりの見事さに、永井主水正は追求を諦めた。

「では、桂小五郎、高杉晋作はいかがしている」

「いまもって、行く方知れずにて」

 吉川経幹は手短く答えた。それで尋問は終わった。

 事実、高杉晋作は長州藩を逃亡して筑前に潜み、野村尼僧の庵に身を寄せて九州諸藩の志士たちと倒幕を策していた。桂小五郎は京から但馬出石に逃れ、身を潜めて幕府と長州藩の情勢を窺っていた。

 伊藤俊輔は下関に潜み、三十人ばかりの相撲取りで編成された諸隊の一つ力士隊の隊長になっていた。巨漢の中にいれば斬り殺されることはないだろうとの読みがあった。相撲取りたちも伊藤俊輔が食料を調達してくるのでその手腕を頼りにしていた。

 井上聞多は傷が良くなると、藩命により座敷牢に幽閉された。それは不幸中の幸いといえた。遭難に会わず井上聞多が元気ならば、野山獄へ投獄されて正義派要務員と運命を同じくしていたものと思われる。

 山口の政事堂廃棄は形式的なもので済まされた。検分改めの前、数日間に亙って幕府の目付役を湯田で下にも置かぬほどもてなしたため、幕吏たちは盛大に目こぼしをした。政事堂を囲む白壁の瓦を数枚壊しただけを検分して彼らは帰ったという。毛利敬親父子も謝罪書を提出し大方の案件は片付いた。しかし、五卿を他藩へ移す一件は難航した。

 頑なに反対する一群の勢力がいた。それは馬関に拠点を置く諸隊だった。

 五卿を失えば長州藩に着せられた朝敵の汚名を晴らす手立てを失うことになりかねない。そればかりでなく、五卿を御護りする役目とする彼らの存在意義すら消滅することになる。諸隊幹部は危機感を深めて五卿を九州へ移すのに反対した。藩を後盾とする正規軍と異なり、諸隊には天下の正義を奉じるとの大義名分以外に存在理由がなかった。

 西郷吉之助は筑前と馬関を忙しく往復した。西郷吉之助にすれば一日も早く幕府軍を撤退させたかった。長州藩の力をそぐ目論見は充分に達成し、長州藩は牙を抜かれて外様大名の一つに成り下がっている。この時点で西郷吉之助の心配事は長州藩ではなかった。帯陣が長引けば長州藩への懲罰を更に嵩上げし、幕府が治世に自信を取り戻すのではないかと危惧していた。

撤兵協議で五卿を筑前へ移すことに決していたが、馬関の諸隊の幹部たちは五卿移転に強硬に反対した。西郷吉之助は諸隊をはじめ正義派の長州藩士たちと会い彼らを説得した。その交渉の中で、ひたすら恭順を示す俗論派よりも、正義派の方が確かなものと西郷吉之助の目に映った。いずれ長州藩の実権を握るのは正義派ではないかと西郷は看破していたという。

 やがて話はついた。征長軍の撤兵を条件に、五卿を筑前へ移すこととなった。

 西郷吉之助が馬関と筑前を行き来している間、伊藤俊輔は馬関にいた。だが、伊藤俊輔にとっても馬関の町が安全なわけではなかった。藩政府は執拗に捕縛しようと伊藤俊輔を付け狙っていた。藩吏が馬関の町に目を光らせ家の周囲にもたびたび顔を見せた。しかし、だからといって四六時中家に籠もって震えているわけにもいかない。藩吏の目を避けて忙しく町中を走り回り、町の情勢を探り諸隊の隊長たちと秘かに連絡を取り合った。

 伊藤俊輔を最も悩ませたのは十月二十一日に藩から出された諸隊解散令だった。

 ここで諸隊を解散させられては元も子もなくなる。正義派は防長二州から完全に消滅することになる。長州藩が昔日の牙をぬかれた従順な外様大名に戻ることを怖れた。

 藩政府は諸隊解散令を発したが、具体的に武装解除を具体的に実現させる手立てを有していなかった。諸隊は長州藩の組織に組み込まれた正式な軍ではない。よって諸隊に対して藩から一文の俸給もコメも支給してもらっていない。藩命を無視し咎めを受けたところで、諸隊が失うものは何もない。しかし諸隊に対する藩の態度は日に日に厳しさを増していた。

俗論派が牛耳った藩政府では正義派政府員を徹底的に弾圧し、諸隊が頼りにしていた顔見知りの政務員はことごとく役職を追われた。主だった正義派重役たちは俗論派政府によって根刮ぎ野山獄に繋がれた。やがて萩政府の正義派狩りの矛先が自分たちに向かうのではないかとの恐怖がら、諸隊々長たちの間に動揺が広がった。更には、藩政府が徹底恭順を貫く余り藩士からなる撰鋒隊に諸隊追討を命じるのではなかとの噂が駆け巡り、彼らの心理に追い討ちをかけた。しかも幕府征長軍は威圧するかのように長州藩を包囲している。海峡を挟んで目と鼻の先の小倉口にも幕府軍は陣幕を張り、諸隊を馬関に釘付けにした。沈鬱な空気の漂う膠着状態のまま、元治元年は師走を迎えた。

 

 師走になって、町に一つの噂が流れた。

 高杉晋作が馬関に舞い戻っている、という。

 諸隊幹部の間にその噂が口伝えに波紋のように広まった。

 追い詰められた諸隊にとって、それは最後の希望の明かりだった。

諸隊の彼らにとって高杉晋作の名は特別な意味を持っている。藩公から設立を認められた奇兵隊の開闢総督だ。今その任には三代目の赤根武人が就いているが、人望は高杉晋作に遠く及ばなかった。

 赤根武人は天保九年岩国支藩柱島に生まれた。十五歳で遠崎の僧月性の門人となり、その後阿月克己堂で学び師範代も勤めた。やがて阿月を訪れた梅田雲浜と行動を共にし、安政五年に梅田雲浜が大獄で捕らえられると赤根武人も一時期捕らわれの身となった。

 赤根武人はかつて高杉晋作の呼び掛けた攘夷血盟に参加したが、いまは諸隊存続に全力をかけて穏健路線を採り、三日とあけず萩と馬関を忙しく往復していた。俗論派が牛耳る藩政府の意に沿いつつも諸隊解散を阻止して、その存続を図ろうと奔走した。しかし、俗論派政府は幕府に対して恭順の態度を鮮明にする立場から、諸隊そのものの存在を否定的だった。長州藩には正式に藩士で構成される撰鋒隊があり、浪士や百姓町人で構成された諸隊を正式な長州軍と認めるわけにはいかない。何よりも諸隊は正義派頭目・高杉晋作の産物だった。萩城中で交渉にあたる赤根武人への萩政府の風当たりは強くなり、諸隊存続の形勢は日に日に悪くなっていた。

 十一月末、高杉晋作はひそかに馬関へ帰っていた。九州から戻ると竹崎町の白石正一郎の屋敷に潜み息を殺した。俗論派政府の藩吏に捕らえられれば如何なる処罰が待っているか分かっている。しかも高杉晋作の首を狙っているのは藩吏だけではなく、幕府も付け狙っている。

高杉晋作の動きは慎重だった。白石正一郎の屋敷に潜み、密かに伊藤俊輔の居場所を捜させた。諸隊の様子を探り藩の情勢を探るには伊藤俊輔を頼るより他になかった。

 これまで、高杉晋作は長州藩の危急の際は常に姿を消していた。文久三年五月から六月にかけて馬関戦争の折りには高杉晋作は萩の郊外で隠遁生活をしていた。元治元年の蛤御門の変の際にも彼は野山獄にあった。そして、四カ国連合艦隊の攻撃の時にも高杉晋作は戦場から遥か後方の小郡にいた。しかし、この度は死を賭して戦うしかあるまいと覚悟を決めた。

 高杉晋作は萩政府が幕藩体制下で小心翼々として生き延びる方途を探るのが我慢ならなかった。いうまでもなく、幕府は吉田松陰の仇だ。久坂玄瑞をはじめ多くの命を落とした仲間たちのためにも、長州藩が幕府に従順で無力な藩に成り下がるのを看過することは出来ない。

 その頃、伊藤俊輔は馬関の港町下関の田中町に小さな小間物を置いた店を出していた。商売の元手には伊藤俊輔が知り合いの大店に綿布の相場で二百両ばかり儲けさせ、その謝礼として頂戴した金を充てた。他藩とりわけ薩摩藩は長州藩士を『商人のようだ』と半ば軽蔑の意を込めて嘲笑した。武士が商売をするのは当時の概念からすれば当然の侮りだった。しかし、長州藩士の多くは関ヶ原の敗戦で減封され、生きるために百姓になり商人になった。そして村田清風以来、藩が率先して殖産興業を奨励した。

 店には一人の女が番をしていた。馬関の芸妓上りの女で名を梅といった。年は十九。小柄な女で目端の利く商売向きの怜悧さがあった。少し気の強い処があり伊藤俊輔が手を焼くこともあったが、それが却って可愛く思えた。芸妓をやめて一つ屋根に暮らしているが、伊藤俊輔がその女に惚れて芸妓を落籍せたわけではなかった。

 十一月初旬、命を狙われる日々の憂さ晴らしに夜遅くひそかに料亭の座敷へ上がったことがあった。だが鬱々として楽しまず、酌をしていた芸妓の梅に「所帯でも持つか」と伊藤俊輔が呟いた。すると果たして、二日後に女は風呂敷き包み一つを持ってやってきた。かえって伊藤俊輔の方が狼狽したほどだった。が、お梅の面差しがふとした加減で京の小菊と瓜二つに見えた。梅と暮らし始めた理由はそれだけだった。もちろん梅の氏素姓を伊藤俊輔は詮索したことなどなかった。梅の身寄りや親兄弟も詳しいことは何一つ知らなかったし、別段知りたいとも思わなかった。それは多分に時代のせいだったかも知れない。

 明日をも知れぬ、と伊藤俊輔は思っていた。彼が親しく交わっていた松陰門下の多くが非業のうちに仆れた。井上聞多も今は重傷を負ったまま座敷牢に幽閉されている。高杉晋作は行方が知れず、桂小五郎にいたってはその生死すら分からない。伊藤俊輔が曲がりなりにも領地内で生きてこられたのは、萩政府から単に小物と見做されていたからに他ならない。しかし今度はその小物の首を狙う者がいないとも限らない情勢だった。

 梅と一緒に暮らすようになり生活費を稼ぐ必要を痛感した。豪商から支援を受けた諸隊の賄い費を流用することは伊藤俊輔の性格から出来なかった。それで小間物屋の小商いを梅にさせた。伊藤俊輔は早朝から馬関に散らばる諸隊々長のもとを廻り、昼からは馬関の豪商を訪れて諸隊への支援を頼んだ。そして日が暮れると店へ戻り、二階で梅を抱いた。

 馬関は防長二州の中でも俗論派政府が最も手を出しにくい処だった。何よりも攘夷派最大の拠点だった。反幕勤王の浪士たちが攘夷運動を断行した土地だ。長州藩を頼って流れて来た諸藩の脱藩浪士たちには天下六十余州に彼らの行き場所はもはや唯一馬関だけだ。もとより命を捨てることを厭う者はいなかった。しかし、攘夷に凝り固まっている連中は高杉たちにとって厄介な側面をも併せ持っていた。

 高杉晋作は白石正一郎の屋敷に十日近く潜み、馬関の様子や萩政府の情勢を探った。既に十一月二十五日に敬親父子は幕府への恭順を示すために萩城を出て天樹院に蟄居している。五卿を九州へ移送すべく小倉には西郷隆盛たちが控えていて、五卿の従者・中岡真太郎が小倉へ渡って打ち合わせていた。五卿警護の名目で馬関に駐屯している奇兵隊及び諸隊は、五卿を失えば俗論派たちによって解散されるのは目に見えている。

そうした状況を踏まえた上で、高杉晋作は伊藤俊輔と繋ぎをつけて白石正一郎の屋敷に呼んだ。裏庭に面した小部屋で黙ったまま伊藤俊輔から諸隊の様子を聞き、白石正一郎から長州藩を取り巻く藩外の情勢を聞いた。そして俗論派政府と戦う大義名分を考え、糧末の手配や軍資金についてじっくりと戦略を練った。

 元治元年十二月十三日、高杉晋作は伊藤俊輔に命じて奇兵隊の陣屋に諸隊の隊長を集めるように手配させた。奇兵隊の陣屋は長州支藩の一つ長府藩の豊浦郡吉田地区諏訪にあった。その日は朝から冷え込んだ。夜が更けて雪道を高杉晋作は馬で出掛けた。馬上の高杉晋作はすでに死を覚悟していた。その日、高杉晋作は遺書と思われる手紙を遺している。不在の人であり続けた男がついに決意を固めた。馬上頬を打つ風は氷のように冷たく、身を切るようだった。

 奇兵隊の陣屋へ向かいながら、高杉晋作ははやる気持ちに胸が躍った。集まった諸隊の隊長たちは挙兵に沸き立っているだろう、と信じて疑わなかった。しかし、屯所の門を潜ってもその気配は一向にしなかった。陣屋へ近付いても酒席の華やいだ声一つ聞こえず無人のように静まり返っていた。が、明かりだけは洩れていた。伊藤俊輔は如才なく酒と肴を用意して諸隊幹部を呼び集めたはずだが、と高杉晋作は怪訝な思いに包まれつつ馬を下りた。

 数段の階段を上がり引き戸を開けると、丸座卓を囲んだ床几に座った一座の視線が高杉晋作に集まった。だが、それは気魄のない死者のような視線だった。まるで通夜のようだと思った。高杉晋作は鋭い眼差しで面々を見回してゆっくりと板の間へ上がった。そして、故意に末席の酒樽に座ると正面の赤根武人を睨み付けた。諸隊隊長たちの冷ややかな反応は赤根武人に原因がある、と高杉晋作は即座に見抜いた。

 伊藤俊輔が盃と一升徳利を持って来た。高杉晋作は無言で盃を受け取った。赤根武人を見据えたまま伊藤俊輔に酒を注がせると、一気に飲み干した。そして、

「諸君は、」と、口を開いた。

 力強い声がその場に響き渡った。

「五卿を他藩へ移すことを条件に、俗論派政権に取り入り、諸隊解散命令を撤回させようと目論んでいるようだが、」

 と言って、再び伊藤俊輔が注いだ盃を飲み干した。

「不敬の極みなり。五卿を取り引きの道具となすは如何なる所存や」

 そう言って言葉を切り、高杉晋作は一堂を舐めるように見回した。

 射るような鋭い目付きだった。誰一人として反論をしなかった。反論しないばかりか、隊長たちは高杉晋作から目を逸らして俯いた。

 高杉晋作は盃を伊藤俊輔の方へ差し出して酒を注がせた。そして、それを一気に飲み干した。赤根武人は青ざめた顔をして上目使いに高杉晋作の様子を凝視した。

「俗論派政府と交渉するは、俗論派を認めることにしかずや。諸君は戦わずして、既に俗論派の軍門に降りたるか。仲間の首がいくつ刎ねられれば、諸君は目が覚めるのか」

 高杉晋作は大声で叫び、口を横一文字に結んだ。

 面と向かって俗論派政府との工作を罵倒されて、赤根武人は沈黙を守れなかった。

「さすれど、藩内二派に分かれて争うは益なし。我らは同じ毛利の家臣である」

 必死になって赤根武人は高杉晋作に反論した。しかし、高杉晋作はいつもの薄ら笑いを浮かべると、盃を伊藤俊輔へ差し出した。伊藤俊輔は求めに応じて酒を注ぎ、高杉晋作はそれを一気に飲み干し「この土百姓めが」と呟いた。いやしくも武士ならば目先の安寧を問題にすべきではない。武士であればいかに死ぬべきかを問うべきだ。背骨を貫く志を貫徹するために、この時がどのような意義を持つかをこそ思惟すべきだ。徳川幕府は松陰先生のみならず仲間の仇である。その徳川幕府に恭順するだけの萩政府も仇に他ならない。

 口の端に滴る酒を手の甲で拭うと、鋭い眼差しで赤根武人を睨み付けた。

「俗論派と気脈を通ずるは、裏切り者なり」

 高杉晋作は言葉激しくそう断じると、膝を立てて台から静かに立ち上がった。そして、手にしていた盃を床板に叩き付けると一堂を見回した。

「我と行動を一にする者は、共に来られよ」

 そう言い残すと、高杉晋作はゆっくりと陣屋を出た。

 

 途中で伊藤俊輔と別れると、高杉晋作は白石の屋敷に戻った。

 来るだろうか、と高杉晋作は思案した。欲を言えば百人、と高杉晋作は願った。しかし、たとえ自分一人だけだとしても決起する。高杉晋作の腹は決まっている。しかし情勢は高杉にとって予想以上に厳しいものになっていた。

 長府藩家老や清末藩主正義派復権のために萩へ出向いていたが、結果として逆に藩主父子を擁立する俗論派から藩主の言葉として「長州本藩の命として五卿を九州へ移すように」と厳しく言い渡された。帰還した支藩藩主たちは萩政府の命により「諸隊は萩政府に恭順し、五卿に九州行きを進めるようにすべし」と言い渡した。

 そのためか、当初は高杉晋作と共に決起するとしていた太田市之進率いる御楯隊が意を翻した。高杉晋作は激怒して太田を斬ると叫び、太田市之進も腹を斬る覚悟を決めたが、野村和作が仲に入った。野村和作は蛤御門の変で討ち死にした入江九一の弟で、伊藤俊輔の最初の妻すみの兄だった。そのため高杉晋作は野村和作の仲介を受け容れて太田市之進と和解した。しかし正義派は風前の灯火となり、高杉晋作一人だけが灯を掲げているといっても過言ではない情勢だった。

 赤穂浪士の討ち入りを意識したのではないだろうが、高杉晋作は十二月十四日夜に決起すると告げた。

 その日の夕刻、伊藤俊輔が秘かに奇兵隊や諸隊を回った。しかし反応は冷ややかだった。夜高杉晋作の許へ駆け付けた人数は彼の期待を裏切った。伊藤俊輔が隊長を務める力士隊二十数名と、遊撃隊総督石川小五郎以下五十名余りが集まっただけだった。他に一人、松陰門下で馬関惣奉行補佐を解任された佐世八十郎(前原一誠)がやって来た。総勢八十名か、と目で人数を数えると高杉晋作は馬に跨がった。古武士の出陣にあやかってか、高杉晋作は緋縅の鎧を着込みその上から陣羽織を纏い、兜を背に負っている。そして用意した馬に飛び乗ると、高杉晋作は挙兵の意義を馬上から全員に告げた。

「共に立ち藩論を旋回せしめる。不幸にして途中で死すとも天命である。一里ゆけば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義を尽くすことになる」

 そう叫ぶと、馬の首を回しながら「功山寺」と叫んだ。

 向かうは五卿が滞在している功山寺。高杉晋作は五卿の御前でこの度の挙兵の大義名分を明らかに宣言しなければならない。

 長州人は理屈っぽいといわれている。説明が多く行動よりも議論に熱する嫌いがある。人は理によって動くと思い込んでいる。それだけ長州人は一本気だといえなくもない。従って、長州には薩摩の西郷隆盛のような巨人は現れない。清濁併せ呑むといった芸当は長州人の最も苦手とするところだった。

 長州では人材として理論の発明家は輩出するものの、彼が一家言をなして巨頭となるのを認めない風潮があった。一つの理論が受け入れられると、彼らは書生のまま仲間の中へ埋没するのを常とした。一人の巨人が育ちにくい雰囲気は長州人の理屈好きに原因がある。ともあれ、高杉晋作は挙兵の大義を世間に知らしめるために、八十数名の反乱軍を率いて功山寺へと向かった。

 高杉晋作が騎馬で先頭を駆け、その後を八十余名が続いた。伊藤俊輔はかつて相州で騎乗した来原良蔵の側を駆けた記憶が甦った。どんなに寒い日でも来原良蔵は少しも手心を加えなかった。それが何故か鮮明に甦り、懐かしくさえあった。既に来原良蔵はこの世を去っているが、近々自分もそうなるかも知れない、との感情が全身を揺さぶった。しかし不思議と後悔の念はなかった。今夜、高杉晋作が命を賭して決起する、それに参加する自分が誇らしくさえあった。聞いた話では正義派政務員はすべて山口から萩へ送られたという。正義派は根こそぎ粛清されようとしている。ただ井上聞多は移送に耐えられる体でなかったため、山口の寺に幽閉されていると噂に聞いた。それだけが幸いと云うべきかも知れなかった。

 吉田川沿いに小月を過ぎ清末を通った。功山寺は長府毛利邸から近い山懐に抱かれた山寺だ。街道に面した総門から広く長い坂が大伽藍の山門まで続いている。その総門の両側には篝火が燃え尚義隊と忠勇隊が守っていた。近くにも功山寺を護るように諸隊が幾重にも展開して守備を固めて、萩政府の命を受けた撰鋒隊の刺客から五卿を護っていた。

総門に差し掛かった騎乗の武者が高杉晋作だと分かると、彼らは誰何一つせずに道を空けた。伊藤俊輔たちも高杉晋作の後に続いた。

 十二月十五日夜半、夕刻から降り頻っていた雪も止み、空には満月が出ていた。山門を潜り境内へ馬で乗り入れた。広々とした参道は両側に山裾が迫り、長い登坂が月明かりにこうこうと照らされている。高杉晋作の乗った馬は雪を踏み締めて参道を駆け上がる。蹄の音とそれに付き従う兵の足音が静寂を破った。大木の枝に積もっていた雪が高杉晋作の騎乗した馬が通り過ぎると思い出したように一塊となって落ちた。高杉晋作は参道の長い坂を馬で駆け上り、騎乗したまま壮大な二層の山門をくぐると数段の石段を駆け上り、仏殿前の広場で馬を止めた。そして馬から飛び降りると、仏殿脇の方丈の間の前に歩みを進めた。

「毛利大膳大夫が家臣高杉晋作罷り越したり」

 高杉晋作はそう叫んだ。

「如何なるご用であるか」

 板戸を開けて、回廊へ出て来た五卿の従者が尋ねた。

夜中の訪問を誰何するというよりも、明らかに驚愕に震える声だった。夜半に武具甲冑で身を固めた男が突然乱入して、驚かない者はいない。

「三条実美卿に御面会に上ったもの。とくとお取り次ぎあれ」

 高杉晋作は従者に向かって言った。従者は既に床にあったのか、頻と眠そうに目をしばたたかせた。しかし、高杉晋作のいで立ちを見ると、すぐに板戸の内に姿を消した。

 その後、従者の水野丹後が回廊に現れ高杉晋作を部屋へ招じ入れた。高杉晋作は戦場の作法で草鞋のまま部屋へ入った。三条実美が起きて来るまで水野丹後は高杉晋作に酒を勧め、重箱の隅に残った煮豆を差し出した。高杉晋作はその煮豆を勢いよく口へ放り込むと盃の酒を一気に飲み干した。そして盃を水野丹後へ差し出し酒を注ぐように求めた。水野丹後は寒さのためか手が震え、酒器が盃の縁に当たってカチカチと音がした。高杉晋作はそれをも一気に飲み干した。漸くして奥から人影が現れた。その姿を認めると、高杉晋作は歩み寄った。

「藩の実情、見るに忍びず。我が師我が友、その多くは已になく、残されたる朋輩、もとより死を恐れず。これより、高杉晋作、身命を賭し、卿を奉じ挙兵致す」

 叫ぶようにそう言うと、高杉晋作は作法通りに盃を床に叩き付けて砕いた。

 三条実美は声もなく、砕け散った陶片に首を縮めた。

 高杉晋作は外へ出ると回廊で三条実美に跪いて暇乞いの挨拶をした。月光に浮かび上がった横顔は蒼ざめ、すでに死霊のようであった。雪化粧を施された境内そのものが死後の世界のようだった。伊藤俊輔たちも片膝を付き、高杉晋作を見守った。伊藤俊輔の膝頭が小刻みに震えた。しかし、それは寒さのせいばかりではなかった。藩政府に戦いを挑むと言った高杉晋作の言葉に嘘はないだろう。だとすれば、自分の行く手にあるのは死のみではないか。伊藤俊輔は血が滲むほど唇を噛み締めて自らの運命を受け入れた。

 高杉晋作は三条実美に深々と一礼すると、馬に歩み寄り地面を蹴った。

「最早口舌の間にて成敗の論無用なれば、これより長州男児の腕前御目にかけ申す。篤と御高覧あれ」

 高杉晋作の声が静寂を破って境内に響き渡った。そう言い放つと高杉晋作は手綱を絞り馬の腹を蹴った。そして、二度と振り返ることはなかった。

 功山寺の参道を戻って来ると、奇兵隊幹部・福田侠平が石畳の中央に脆座していた。高杉晋作の姿を認めると大声で叫んだ。

「将に事を共にせんとするものを以って、暫待て」

 それは、高杉晋作の今夜の挙兵を阻止しようとするものだった。福田侠平の本意が那辺にあるのか、判然としない。赤根武人の意を受けて挙兵そのものを阻止しに来たのか、それともいずれは俗論派政府と戦うが、幕府軍の包囲下にあるこの時期は自重すべきという意味なのか、高杉晋作にもそれは分からない。だがそのいずれにせよ、もはや高杉晋作には無用のことだ。馬の足を緩めず福田挟平に近付くと馬の腹を蹴ると馬は福田侠平をさっと飛び越えた。

 

 高杉晋作は功山寺から街道へ下ると、その足で下関の本藩新地会所を襲った。

 下関は支藩長府藩内にある交易港だ。長州藩は下関の交易を独占するために、新地の会所を本藩管理下に置いていた。高杉晋作は長州藩の税関とも云うべき施設を急襲した。

 交易事務を取り扱う会所には宿直の僅かな番兵しかいなかった。その上、会所奉行の根来上総は正義派に同情的な人物だった。戦端を開くまでもなく制圧出来ると踏んでいた。

 目的は軍資金と武器弾薬を確保するためだった。しかし、高杉晋作はそのためだけに本藩新地会所を襲ったのではなかった。長州藩随一の港の会所を奪えば、藩に及ぼす影響は計り知れないものがある。その反面、戦闘になれば対岸の九州に布陣している幕府軍にその様子が筒抜けになる恐れもあった。そうなれば、幕府軍が恭順を示している萩政府の援護に動かないとも限らない。ことは慎重迅速に行わなければならなかった。

 高杉晋作は新地会所へ着くと正門から奉行に面会を求めた。耳門を開けた藩吏は武装した兵が集結しているのを見て驚き、

「何事ぞ」と、叫んだ。

「お奉行にご面会を求める。とくと、取り継がれよ」

 そう言いながら高杉晋作は土足で押し入り、驚いて逃げようとした藩吏を拘束した。高杉の後から玄関土間に入ったのは伊藤俊輔の力士隊だった。物音を聞きつけて奥から飛び出て来た数名の藩吏たちを力士たちが玄関框でねじ伏せた。やや遅れて寝巻き姿のまま玄関に出て来た奉行根来上総はその様子を見ると、手にしていた差料を抜くでもなくそのまま式台に座った。

「晋作、謀反は極刑であるぞ。貴殿はそれを承知の上でか」

 言葉は厳しかったが、根来上総は笑みさえ浮かべて世間話でもするような口吻だった。根来上総はひたすら幕府に恭順を願う萩政府が鼻持ちならなかった。俗論派政府に渡すくらいなら高杉晋作にすべてを呉れてやろう。根来上総はそう思っていた。

「もとより、覚悟の上でござる」

 高杉晋作は穏やかにそう言った。阿吽の呼吸が二人に通った。

「会所の有り金を残らず頂戴したい」

 高杉晋作がそう言葉を続けると、根来上総はフッフッフと笑った。この決起が成功すれば良いがと密かに願った。

「余りないぞ、五千両ばかりだ」

 そう言うと、根来上総は立ち上がって高杉晋作たちを奥の勘定部屋へ案内した。

 夜が明けると会所の藩吏たちはそそくさと萩へ帰った。徹底抗戦するでもなく、それかといって役所を奪われて腹を切るでもなく、如何に混乱の極みにあったとはいえ、根来上総たちの武士としてのこの時の行動には解せないものがある。それとも、萩政府を牛耳っている俗論派政権は幕府の傀儡であり、藩公の覚えめでたい高杉晋作こそが正統な長州藩を代表していると彼らの目に映ったのだろうか。

 ついに、高杉晋作は決起した。

 馬関の異変は日を措かずして萩政府へ届く。本藩直轄の新地会所を襲ったからには引き返すことは出来ない。退けば切腹斬首の刑罰が待っている。

 それは伊藤俊輔も同じことだ。戦いに敗れれば謀反人として磔刑に処される。

 馬関の治安には毛利支藩の長府藩が当たっていた。本来なら反乱軍の鎮圧に兵を差し向けるはずだが、長府藩は高杉たちの挙兵に対して何ら鎮圧行動を取らなかった。 

 以前から長府藩は本藩の俗論派政府に異を唱えていた。強烈な尊王攘夷の思想は未だに長府藩内には根強く残り、ひたすら幕府に恭順を示す萩政府の姿勢は武士として恥ずべきことだと思っている。それは高杉晋作にとって幸運だった。長府藩は恭順を貫く萩政府よりも、むしろ高杉たちの挙兵に共感した。支藩として反乱軍に加勢は出来ないまでも、鎮圧軍を差し向けないことで彼らは高杉晋作に協力した。

 その翌日、高杉晋作は三田尻の海軍局を襲った。萩政府が高杉晋作の決起に対応する暇を与えず、即刻次の作戦へと移ったのは当初からの予定だった。

高杉が率いた手勢は石川小五郎、所郁太郎以下僅かに十八人でしかなかった。一見無謀とも思える作戦行動だったが、高杉晋作には十分に勝算があった。当然ながら三田尻までは陸路を通らない。海路を行けば誰にも邪魔されることなく海軍局に到る。

 高杉たちは和船で海軍局の埠頭に横付けすると、

「高杉晋作である。義により海軍局を襲う。長州藩に忠節を尽くす者は共に立て。俗論派政府に味方する者とはここで一戦を交えて、共に討ち死に致そう」

 高杉晋作は大音声で叫んだ。

 海軍局は洋式軍艦の繰船と海戦の習得をすべく設けられた長州藩の海軍である。数ヶ月前まで頭取には村田蔵六が就いて軍備の増強に邁進していた。

そもそも海軍局は来原良蔵の進言により創設されたものだった。つい先日まで総督には松島剛蔵が就いていた。しかし村田蔵六は宮野に創られた兵学校の教授となって山口へ去り、松島剛蔵は俗論派により捕らえられて、今は萩の野山獄に幽閉されている。実の所、海軍局は指導者を失い、萩政府からは見捨てられて、三田尻に孤立していた。いわば長州藩俗論派政府は海軍局を無用の長物とみなしていた。萩政府では海軍局の閉鎖すら論議されていた。

 高杉晋作が襲撃して来たと知るや慌てて海に飛び込む者もいたが、海軍局の大勢は大人しく開門し高杉たちを迎え入れた。高杉晋作の思い描いた通りに事は運んだ。

 海軍局の者たちはひたすら恭順を示す藩政府に秘に反感を抱いていた。そのため進んで高杉晋作に降伏したといってよい。長州藩軍艦が幕府軍に接収されるぐらいなら、高杉たちの軍に呉れてやろうと考えた。三艦のうち航行可能な癸亥丸と丙辰丸の二隻は三田尻から馬関沖まで海軍局の者たちの手によって回航された。

 高杉晋作の鮮やかな手際に、伊藤俊輔は風神かと驚いた。瞬く間に、高杉晋作は長州藩の三関と云われた交易港のうち下関と中ノ関の二港を抑えた。軍資金にはこれで事欠かないはずだった。会所交易方藩吏との交渉は伊藤俊輔に一任しておけば良い。高杉晋作は算盤勘定が苦手としていた。

晩年、高杉晋作の碑銘文を託された伊藤博文は『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目は駭然として敢えて正視するもの莫し。これ我が高杉東行君に非ずや……』と名文を寄せて回想している。

 その一方で伊藤俊輔の動きも素早かった。

戦に必須なものは兵員は云うまでもないが、肝心なのは兵糧と軍資金だ。現有兵力では到底足りないため、新規に兵を募らなければならない。その場合、軍資金がなければ兵を募ることすら敵わない。

会所勘定方から軍資金を獲得すると馬関一帯の諸隊に檄を飛ばし、近在の豪商豪農に協力を呼びかけた。挙兵後間もなく、伊藤俊輔は下関の豪商入江和作から二千両を借り受けている。

高杉晋作の挙兵に異を唱えていた諸隊も、徐々に情勢が変化した。高杉たちの活躍が馬関の街に華々しい快挙として喧伝され、なおかつ充分な武器と軍資金があることも宣伝されると街の雰囲気が一気に変わった。その諜報活動も伊藤俊輔の働きだった。

 伊藤俊輔は軍資金の調達と平行して馬関で兵の募集を行った。赤根武人がどう動くか分からない以上、手持ちの軍兵を増強することが急務だった。人は勝ち馬に乗りたがるものだ。緒戦の勢いを持続しなければ、たちまち高杉の軍は孤立して先細りとなる。幸いにも緒戦では勝ちを制し馬関の人心掌握を果たした。

この勢いをさらに拡大するために兵員を増強しなければならない。勢いがあることを見せれば諸隊幹部も動かざるを得なくなる。勝ち馬に乗る、という言葉があるように、戦に勝ち続ければ兵員の募集も容易になるだろう。果たして兵は集まるだろうか。伊藤俊輔は入隊数にこの戦全体の帰趨を賭けた。募集対象者は奇兵隊と同じく身分を問わなかった。

伊藤俊輔の懸念を打ち消すかのように入隊希望者が続々と集まった。数日にして応募者数は百二十名を数えた。伊藤俊輔は新たに隊を組織し好義隊と名付けて自ら総督となった。

その一方、萩城中は大混乱に陥った。『高杉晋作挙兵』の報は驚愕を以って受け止められた。「高杉晋作を捕り漏らしていたか」と萩政府は臍を噛んだ。

 俗論派政府は政権を掌握した折りに、敵対する正義派の主だった者をすべて捕縛し、更にその首謀者たちを斬首の刑に処したはずだった。正義派の大物はことごとく根絶やしにしたと思っていた。あと藩内に残っている正義派の敵対勢力は足軽上りの率いる諸隊だけのはずだった。

それら足軽たちの兵は物の数ではない。諸隊のうち百名以上を擁する最大勢力の奇兵隊ですら、総督の赤根武人は萩政府に隊の存続を願い出て汲々としている。萩政府正規軍二千で蹴散らせば、寄せ集めの諸隊なぞは簡単に撃破出来ると考えていた。

 しかし、高杉晋作という名は彼らを震撼とさせた。『しまった』との思いが恐怖に変わった。討ち漏らした大物がいた。松陰の弟子たちのうち主だった者は池田屋騒動や蛤御門の変で非業の死に斃れ、ただ一人松下村塾で久坂と並び双璧と謳われた高杉晋作だけが生き残っている。その屹立した存在はいやがうえにも大きかった。

 高杉晋作が立てば彼の許に諸隊が結束する。その恐怖から彼らは慌てて諸隊に武装解除を発令し、発狂したかのように蛤御門の変の責任者として野山獄に投獄していた前政務員の毛利登人、前田孫右衛門、楢崎弥八郎、松島剛蔵、渡辺内蔵太、大和国之助、山田亦介ら七人を刑場に引き出して次々と首を刎ねた。しかし、それがまた事態を一層悪化させることになった。

 広島に戻っていた西郷吉之助の許にも高杉挙兵の報は伝わっていた。もちろん幕府軍本陣では長州藩内の異変を反幕勢力の台頭と捉え、征長軍で協議検討すべきとの意見が湧き上がった。しかし西郷吉之助は征長軍が長州藩内へ進軍するのに反対し、五卿を筑前に移すのを条件に、征長軍は撤兵するとの約束を厳守すべきと主張して、十二月二十七日に征長軍に出兵した各藩へ「撤兵の命」を発した。

 当然ながら西郷吉之助の決定は征長軍内では不評を買った。京都にいた禁裏御守衛総督一橋慶喜は嘆きの余り、「征長軍総督の英気はいたって薄いものだ。イモに酔い、イモの銘は大島だそうだ」と、西郷吉之助に当て付けた。

「酔ったイモ」とは芋焼酎のことで暗に薩摩藩を指し、「大島」とは大島紬の奄美大島と、西郷吉之助が変名で使った名前を掛けたものだ。ともあれ西郷吉之助は正義派を叩く事はしないで「長人の事は長人に始末させる」という当初の方針通りに征長軍を引かせた。それも高杉晋作に幸いした。

 しかし高杉晋作はそのことを知らない。三田尻から馬関までの一帯を押えたものの、高杉晋作は馬関から動けなかった。呼べば届くほどの海峡を挟んで対岸の門司には征長軍が陣幕を張っていた。

 高杉晋作の挙兵により諸隊の中で危険な立場になった者がいた。それは赤根武人だった。赤根武人は諸隊の存続を願って俗論派政府と折衝を重ねつつ、諸隊挙兵には慎重な態度をとり続けていた。そのため高杉晋作の戦功が諸隊に広まると窮地に陥った。

 挙兵前夜、諸隊の隊長たちが居並ぶ面前で高杉晋作から『裏切り者』と罵られた。これ以上の侮辱はない。しかし、事ここに到って決起を躊躇することは自らの死を意味する。赤根武人が総督を務める奇兵隊内ですら険悪な空気が漂った。隊士に殺されるぐらいなら戦で死のう。赤根武人は渋々ながら腰を上げた。隊内の蜂起の声に抗し切れず、赤根武人は奇兵隊をはじめ諸隊に進軍を命じた。その軍令を待ち受けていたかのように、奇兵隊を主力部隊とする反政府軍は馬関を発ち、萩へと向かって進軍を開始した。

 軍事行動の大義名分は筑前ヘと移る公卿が藩主毛利敬親に別れの挨拶に萩へ行く「護衛」として諸隊の軍勢が付従うという理屈だった。そのため諸隊は五卿のうち三条西季知、四条隆謌の両卿を擁した。だが諸隊にそれほど戦意が高揚しているわけでもなかった。出来れば穏便に事が進み、何とか武力衝突は避けたいという空気すらあった。もちろん諸隊幹部で萩の正規軍と戦って勝てるとは誰も思ってなかった。位負けという言葉があるが、諸隊幹部ですら、彼らは足軽や中間上りの者でしかない。御城下の藩士からなる正規軍三千の軍勢と戦えば、どう転んでも勝てないだろうと誰もが考えていた。

 諸隊は萩との中間地点、伊佐まで来るとそこに陣を張った。諸隊々士には藩士からなる撰鋒隊を懼れる空気が強く、必ずしも開戦で意思統一されていたわけではなかった。

しかし、萩政府は対処を誤った。萩の俗論派政府はそうした諸隊の空気が読めず、馬関で決起した「高杉晋作」という名に恐怖した。

恐怖により混乱に陥った俗論派首脳は続けざまに命を下した。まず萩政府は二卿の萩入りを拒否し、次に野山獄から七名の正義派要務員を刑場に引き出して次々と斬首に処した。それだけではなく藩主の名で諸隊に武装解除の命令を下した。

強硬策は前者二つの策であった。公卿は正義派が勝手に担いだもので藩は預かり知らぬもの、との態度を押し通した。それどころか、撰鋒隊の中には公卿を斬ってしまえと叫ぶ者すらいた。七名の正義派政務員を斬ったのも諸隊が野山獄に殺到して七名の正義派政務員の奪還を恐れたからだ。それと同時に諸隊々士への見せしめでもあった。

懐柔策として後者の武装解除令の発令であった。速やかに武装を解き、隊を解散すれば隊士のみならず諸隊幹部たちの罪を問わないとした。

 しかし萩政府は策を弄しすぎた。もしも進軍した諸隊幹部を速やかに萩城中に呼び寄せて、藩主の権威を後ろ盾に諭していれば容易に鎮圧できただろう。この時期の諸隊はそれほど武力闘争に固執しているわけではなかった。しかも萩政府打倒を叫ぶ高杉晋作は伊佐にいなかった。萩政府との斡旋に動いていた赤根武人を諸隊代表として幹部たちを萩城中へ招集し、御前の間で説き伏せれば苦もなく武装解除と諸隊解散が出来ただろう。しかし、萩の俗論派政府は高杉晋作を怖れた。

萩政府の下した正義派政務員七名の斬首の知らせが伊佐に伝わるや、進軍した諸隊幹部は否応なく決死の覚悟を決めざるを得なかった。ここで降伏すれば正義派政務員と同じ運命をたどると覚悟するしかなかった。

 立て続けに萩からもたらされた「解散命令」報に諸隊幹部は憤り、

「俗論派が主君を自在に操っているに過ぎない、ただちに萩へ進軍すべし」

 と一気に武装闘争に意思が統一され、諸隊々士も決死の覚悟を固めざるを得なかった。

 だが赤根武人は勇ましく伊佐まで進軍を進めたものの、もとより萩まで攻め込むつもりはない。出来る事なら萩政府と穏便に話し合いで決着をつけたいと考えていた。

 征長軍との講和と云い、赤根武人は萩政府の政策にこそ手堅いものを感じていた。これまで正義派が藩論を導いて碌なことはなかった。正義派が主導して藩を動かした政策はことごとく失敗し、藩に甚大な厄災をもたらした。今年だけに限っても蛤御門の変から無謀な攘夷戦争と、長州藩を存亡の淵にまで追い詰めたのはいずれも正義派の策だった。そしていま長州追討令に従って長州藩に迫る幕軍と話し合って、懸命に長州藩の存続を図っているのは俗論派といわれている萩政府の首脳たちだ。赤根武人は常識的な経験則から俗論派の政策を是とし、高杉晋作の挙兵を無謀と断じている。萩正規軍と諸隊の兵員数と軍備を比較するなら、赤根武人の融和策を採用するのが常識的といえよう。しかし、元治元年の日本はそうした常識的な考えが通用しない非常時だった。時代感覚を持たない赤根武人に悲劇が襲う。

 元治元年の暮れに赤根武人は馬関へ舞戻っていた。

 この時期の赤根武人の行動は理解に苦しむ。本来ならば諸隊連合軍の総司令官として、兵と共に伊佐の陣に腰を落ち着けていなければならない。萩政府の出方に素早く対処すべく情勢を読み、的確な軍令を発しなければならない立場だ。しかし赤根武人は諸隊の幹部に指示を与えるでもなく、軍の配備や守備体勢に意を払うでもなく、総督の職務を厭うかのようにたびたび陣地を留守にした。

 その日、馬関に現れた赤根武人は伊藤俊輔を捜し出すと、裏町の中清という茶屋へ誘った。そして、人払いして辺りに人影のないのを確認すると、

「高杉殿はお元気か」

 と声を潜めて言った。

そう問いかけることで赤根武人は馬関を動けないでいる高杉晋作を気遣って見せた。赤根武人は明るさとは無縁の、どこか暗い翳りのある男だった。この場合も高杉を言葉では気遣いながら、心底忌み嫌っているのが落ち着きのない目の動きに見て取れた。伊藤俊輔は赤根武人の心の動きを察知しつつ、それでも普段通りに天性の明るい溶けるような笑みを浮かべて機嫌よく答えた。

「そりゃあもう、海軍局の軍艦を手に入れてからというもの元気そのものじゃ。馬関沖へ回航して浮かぶ砲台となして、九州の幕軍に対する守りを固めていなさる」

 そう言って伊藤俊輔は相好を崩した。

 高杉晋作は時々軍艦に乗り込み子供のように船内を歩き回った。その様を思い出したように伊藤俊輔は笑みを浮かべた。しかし、伊藤俊輔の目は笑っていない。それは伊佐まで進軍した今も、まだ萩政府への攻撃に赤根武人の腰が退けているのを知っていたからだ。

「ところで伊藤君、君の率直な意見を伺いたい」

 と、赤根武人は用心深く言葉を選んだ。

「まさしく藩は存亡の危機にある。我らも藩のために役立つべき時と思うが、如何か」

 と、赤根武人は言った。伊藤俊輔は人の良さそうな笑みを引き締めて小さく頷いた。

「尤もである」

 そう言って、続きの言葉を促すように伊藤俊輔は真っ直ぐに赤根武人を見た。

 赤根武人は一瞬躊躇した後、意を決したかのように口を開いた。行燈の明りが頬の殺げた横顔を仮面のように闇から浮かび上がらせた。

「藩内で争うは、何等益なし」

 赤根武人はそう言って口を閉じ、窺うように光る眼差しで伊藤俊輔を見た。

 実務家の伊藤俊輔を高杉晋作から引き離すことが出来れば、後は自分が諸隊を代表して萩政府と交渉して鉾を納めることが出来る。赤根武人はそう考えていた。

「しかして、どの様に為されるのか」

 伊藤俊輔は赤根武人の言葉に賛同した様を装って聞いた。

その実、赤根武人の策略がどの程度のもので、既に諸隊幹部たちを恭順派で固めているかを確かめるつもりだった。諸隊の中で最大勢力を誇る奇兵隊の総督は赤根武人である。その赤根武人が萩政府との戦いに最初から腰が退けていたのでは戦にはならない。たとえ進撃したところで勝ち目はない。事と次第によっては赤根武人を斬らなければならない。伊藤俊輔の冷めた双眸が光った。

「諸隊の武装を解き、藩の命に従う」

 赤根武人はそう言って、伊藤俊輔をじっと見詰めた。心を明かしたからには伊藤俊輔の返答次第では伊藤俊輔を斬らなければならない。

「あい、分かった。殺戮し合うのみが策ではござらん」

 伊藤俊輔は瞼を伏せて大きく頷いた。

「その時には、僕は赤根君を支持しよう」

 伊藤俊輔は笑みを浮かべて赤根武人の手を握った。

 論理的な人物ほど混乱期には迷うものだ。時流とは偶発的な様々な人々によって織りなされるもので、筋道立った理屈で御せられるものでない。時代の匂いを敏感に嗅ぎ取る者のみが混迷期には生き残れる。これまで危機が迫る都度、高杉晋作は鋭敏な嗅覚により危うい場面では姿を晦まして不在の人だった。

 しかし、論理と嗅覚を兼ね備えた人物は自己矛盾に陥る。来原良蔵が良い例だ。武士としての忠節と藩兵制を担う責任の狭間で自己矛盾に陥り自ら命を絶った。だが赤根武人の場合はひとえに論理的に過ぎた。

 伊藤俊輔は赤根武人の許を去ると、馬関にいた野村和作と会った。その場で伊藤俊輔は自分一人でも赤根武人を斬る覚悟だと告げた。野村和作も赤根武人を斬るべしと口にした。ただちに馬関に残る諸隊々士たちに赤根武人を捕らえるように命じた。

「才子に一杯喰わされた」

 と、赤根武人が臍を噛んだのはその夜のことだった。才子とは伊藤俊輔のことだ。正月三日夜、赤根武人は脱兎のごとく筑前へ逐電した。

 

 赤根武人の逃亡後、奇兵隊総督には副総督だった山縣小介が就いた。

 就任にあたって山縣は名を小介から狂介と改めた。山縣狂介は奇兵隊を率いて萩政府軍と戦に臨むにあたって自らを『狂』と改名した。過日、高杉晋作の功山寺挙兵に消極姿勢を取っただけに、今度は決して逃げるわけにはいかない。しかし、おそらくこの戦いで死ぬことになるだろう。山縣狂介はそう覚悟を決めた。わずかな手勢を率いて藩正規軍に戦を挑むのは誰の目にも無謀だ。とうてい狂人でなければ諸隊を率いて死地へと進軍出来ない。山縣狂介は震えるほどの悲壮感に満ちていたが、その決断こそが彼の人生を決めることになる。後に明治陸軍で隠然たる力を獲得する山縣有朋の人生はこの時に決まった。

 十二月二十七日、広島国泰寺の幕府軍本陣から征長軍撤兵令が出た。

 奇しくもその日、萩政府は藩主の名で諸隊追討令を出した。それはもちろん俗論派の工作によるものだ。ただ毛利敬親は追討令を出すに当たって、奇妙な軍令書を追討軍幹部に渡した。その軍令書は六ヶ条から成っていた。

     一、人を殺してはならぬ。

     二、敵に近づいてはならぬ。

     三、先に鉄砲を撃ってはならぬ。

     四、刀を抜いてはならぬ。

     五、水責め火攻めをしてはならぬ。

     六、兵糧攻めのみ、これを許す。

 毛利敬親の出した軍令書もある意味では狂である。山縣狂介が死を覚悟して戦いに挑むことを狂と表現したのに対して、その軍令書は常識を喪っている意味で狂だった。

 俗論派は狂気じみた軍令書を頂いて、萩城下の武士団から成る撰鋒隊二千を派遣した。粟屋帯刀が前軍千人の大将となって伊佐から三里ばかりの絵堂に陣を敷き、中軍の総奉行として毛利宣次郎が五百を明木に、後軍の大将として児玉若狭が三隅に五百の軍を進めた。

 秋吉台を挟んで正義派は伊佐に、俗論派は絵堂に本陣を敷き、睨み合いが始まった。その間、伊藤俊輔、品川弥二郎、野村和作らは下関から佐波郡にかけて村々の庄屋を回り、挙兵の大義を説き軍資金や糧秣の提供を求めた。

 長州藩は防長二州から成っている。山陰の長門と瀬戸内の周防二国が長州藩の版図だ。萩は長門にあって、長州藩は別名萩藩とも呼ばれている。しかし米や塩の生産で長州藩を支えているのは周防の国だ。中国山地を挟んで二つの国が一つになっているため、それぞれの国人には口に出せないわだかまりがあった。

 もちろん伊藤俊輔は周防の国の出自だ。そうした周防の国人の機微は心得ている。だから合力を得るために彼らが向かったのは周防の国の米どころだった。

 明けて慶應元年(一八六五)正月八日、小郡下郷の庄屋秋本新蔵、嘉川村庄屋本間治郎兵衛、名田島郷士上田源五郎ら吉敷郡から山口一帯にかけての大地主二十八名による庄屋同盟が結成され、決死の覚悟で諸隊支持を決めた。これにより糧秣の心配は解決した。

 伊佐では両軍が睨み合いのまま日が経った。

 糧秣に乏しい諸隊を指揮する山縣狂介は持久戦の不利を承知していた。

 機先を制するために山縣狂介はある作戦を提示する。武装解除を要求する俗論派政府軍に対して、山縣狂介は武装解除の要求を呑むと使者を走らせ、諸隊の布陣に都合の良い中間地点に武器を持ち込み、受取に来た萩政府軍と戦端を開く、という作戦を諸隊幹部に伝えた。さっそく使者が絵堂の敵陣地に赴き、武装解除と武器引き渡しを申し入れた。

 慶應元年正月三日、武器引き渡しの約束の日になった。しかし、萩政府からは武器の受け取りに誰も来なかった。明くる四日も翌五日も、何の返答もないままに日にちが過ぎた。

「もう待ち切れぬ、直ちに出撃すべし」

 と、いきりたつ諸隊々長を前に、山縣狂介は六日未明に夜襲決行を決意した。

 これより数次に及ぶ長州藩の内戦が始まることになる。その戦は長州では内訌戦と呼ばれている。この内訌戦は武士軍と市民軍の戦闘であり、それ自体が既に革命であった。

 当時、伊佐の軍は総勢二百名ばかりだった。そこに長府で五卿の護衛に当たっていた総督大田一之進率いる御盾隊約百名が駆け付けた。それでも僅か総勢三百名に過ぎない。

 六日深夜、天宮慎太郎他数名を斥候として先発させ、その後から奇兵、膺懲、南園の諸隊約二百名が続いた。

寡兵で立ち向かうには奇襲しかない。山に囲まれた谷間の道を二里ばかり行くと大田に着く。秋吉台の裾野を半周近く迂回した勘定になる。その大田から絵堂まで道は権現山を迂回する二手に分かれている。二手の一つは長登を通る本道と、もう一つは大田川に沿って川上を通る脇道だ。山縣狂介たちは本道を進んだ。途中出会った里人達には猿轡を噛せて、道の脇の木立に縛り付けた。里人に危害を加えることは厳禁とした。

 絵堂は山が道から遠のき、中国山地にぽっかりと開いた狭い盆地だ。撰鋒隊は絵堂の造り酒屋柳井家に本陣を構えていた。山縣たちは足音を忍ばせて近づくと、正規軍の本陣を取り囲むように布陣した。そして、午前四時頃に中村芳之助、田中敬助の二人に開戦状を持たせた。足軽上りの山縣狂介だからこそ、そうした戦の作法を尊重したといえる。

 中村芳之助が先に立ち足音を忍ばせて本陣に近付くと、兵士約千人は死んだように眠りこけていた。二人は屋敷の中へ侵入し柳井家の玄関の引き戸を開けて「御免」と叫んで開戦状を投げ込んだ。そして、後も見ずに一目散に逃げ帰った。

 投げ込まれた開戦状を見て撰鋒隊幹部は驚き、大将粟屋帯刀へ注進に駆け付けた。粟屋帯刀はまだ寝床にあった。具足を付ける暇もなく四方から銃弾が本陣へ撃ち込まれた。それも土砂降りのような銃撃だった。

「出会え、出会え」

 と叫びながらも、撰鋒隊は浮き足立った。

撃ち込まれる弾丸が屋敷の板壁を貫通して、板の間で撥ねる有様に撰鋒隊は本陣を放棄し裏口から退散した。

 ただ一人、財満新三郎だけが馬に飛び乗り諸隊の中に突撃した。撰鋒隊にあって勇将と名高い男だったが、彼の時代感覚は戦国時代そのままだった。上士が一声発すれば足軽の率いる軍は四散すると勝手に思い込んでいた。

「不意打ちとはけしからん、殿のご命令である。引き揚げい」

 と叫んだが、たちまち十数発の弾丸を浴び、蜂の巣となって馬から転がり落ちて絶命した。諸隊が装備していた銃はミネー銃だった。四ヶ国連合艦隊の陸戦隊と銃撃戦を経験した彼等は銃の相違に気付き元込式ミネー銃を装備していた。

 元込式ミネー銃の性能は撰鋒隊の先込式ゲベール銃の十倍以上に相当する。

 桟を乱して撰鋒隊は北方一里の赤村まで退却した。諸隊の中にはこの勝利に乗じて攻め続けようとする意見もあったが、山縣狂介は僅かな手勢で深追いするのは危険だと判断した。撰鋒隊が退却したのを確認すると、号令を発して兵を絵堂の南一里半の大田金麗社まで退いた。せっかく占領した地を放棄したのは盆地の絵堂では地形から守りに適しないと判断したからだ。第一回目の攻撃で失った兵は僅か数人だけだった。

 「絵堂敗戦」の報は萩政府に深刻な衝撃を与え、大混乱に陥れた。

 数の上でも圧倒的な武士の軍団が、僅か二、三百の足軽百姓の寄せ集めに過ぎない諸隊に破れたとの報らせは、俄かには信じ難いものだった。すぐにも諸隊が萩城下に攻め込んで来る、と流言飛語が町を駆け巡った。萩の俗論派政府は直ちに総動員令を発し、家老職の宍戸備前、毛利将監を玉江口と大谷に派遣して萩の守りを固めさせた。

 一方、大田の金麗社に本陣を置いた山縣狂介は隊を分散して襲来に備えた。

 それは山縣狂介の作戦だった。絵堂から大田までの道は狭く、両側は崖と山だ。大軍が狭い道に押し寄せたとしても、隊列が縦に長く伸びるだけで、衝突する戦闘員は双方とも大差ないことになる。山肌に散開して待ち伏せ、長く伸びた側面を衝けばミネー銃の性能がいかんなく発揮されるだろう。山縣狂介はその戦術にすべてを賭けた。

 絵堂に近い支道の川上に三好軍太郎の率いる奇兵隊の精鋭部隊を配し、八幡、南園、膺懲の各隊を本道の長登付近に隠し、御盾隊を防御線として大田の入口の呑水峠に展開した。

 正月十日午前九時過ぎ、萩の正規軍は撰鋒隊を先頭に怒涛のように大挙して絵堂から南下し、川上、長登の両道から大田を目指した。だが、山縣狂介の予想に反して撰鋒隊の主力部隊は脇道の川上に向かった。そのため、川上を固めていた三好率いる奇兵隊は苦戦に陥った。本道の長登では諸隊が優勢に押して絵堂まで撰鋒隊を退却させたが、奇兵隊の応援に駆けつける余裕はなかった。

 三好軍太郎は死を覚悟して隊長の久我四郎、杉山荘一郎とともに敵中に斬り込んだ。しかし、百名の奇兵隊に対して敵は千と十倍にも達し、劣勢を挽回することは出来ず、じりじりと後退を重ねた。山縣狂介のいる本陣にも銃声が次第に近づいて来た。高台の金麗社から望むと味方の劣勢は一目瞭然だった。山縣狂介は床几を蹴り手槍を掴んだ。山縣狂介は手槍に多少の心得があった。

「この一戦がすべてである。退くことはならぬ」

 大声で檄を飛ばすと、三好軍太郎の軍に本陣の予備兵投入を命じて白襷をかけた。自ら三十数人の鉄砲隊を率いて山伝いに前線を越えた。そして、撰鋒隊の側面に出ると一斉に弾丸を浴びせかけた。狭い山道に縦に伸びた撰鋒隊の軍勢はまともに側面の山肌から銃撃を受け、瞬く間に隊列を乱して後退し始めた。一旦崩れ始めると軍勢は踏み止どまることもなく、撰鋒隊は死傷者を救護する暇もないほどに混乱したまま敗走した。そして日暮れと共に戦闘は終わった。両軍とも損害の大きい熾烈な戦いだった。

 萩政府は前回に続く敗戦の報に接して驚愕を通り越して恐怖にかられた。戦況が捗々しくないため大慌てに岩国、徳山の両支藩に援軍を求めた。本藩の面子に拘る余裕はなかった。萩政府は最後の決戦を挑むべく隊列を整えると、粟屋帯刀が撰鋒隊以下兵千人を率いて街道を一気に南下した。

 山縣狂介は疲弊した軍を激励し、十三日夜奇兵隊を移動させ絵堂近くの川上の山肌に隠して待ち伏せた。翌、正月十四日は早暁から氷のような霙が降り頻った。風も強く下帯まで濡れた兵たちは青ざめた顔をして濡れた枯れ叢に身を隠して敵を待ち受けた。

 粟屋帯刀の軍が絵堂に差し掛かったのは午前十時頃だった。しかし、主力の奇兵隊が待ち伏せる川上へは向かわず、この度は本道を突き進み長登を守っていた膺懲隊百人と衝突した。粟屋帯刀率いる撰鋒隊の軍勢は千人。たちまち膺懲隊は苦戦を強いられ、呑水峠まで退却した。そこで後続の八幡隊と合流して防戦に努めたが、怒濤のように押し寄せる敵の軍勢に苦戦を強いられ総崩れも時間の問題かと思われた。そのとき、絵堂から本道を引き返して来た奇兵隊が撰鋒隊の背後から弾丸の雨を降らせ、山を迂回していた南園隊が山の斜面から撰鋒隊の長く伸びた軍勢の側面を目がけて銃を放った。

 みたび、撰鋒隊は隊列を乱して壊走を始めた。粟屋帯刀も馬の背に体を伏せて弾丸を避けるようにして赤村の陣屋まで敗走した。敵も味方も泥塗れの戦いが終了したのは午後二時過ぎだった。

 山縣狂介は疲れ切った兵を大田まで退いた。確かに勝ち戦に違いないが、総力戦に全員が疲労困憊の極致にあった。誰一人として口も利かず霙に打たれ冷えきった身体を引きずるようにして陣屋まで辿り着いた。すると、金麗社境内に大勢の人の気配がした。山縣狂介は石段を登り境内を見渡した。そこには大勢の里人が集い、竈が築かれ、鍋から暖かそうな湯気が立ち上っていた。

 大田とその近在の百姓たちが炊き出しに集っていた。女子供まで集まって、飯を炊き汁物を作っていた。兵たちは飛び上がって喜び、中には泣き出す者までいた。

長州藩全域に諸隊の連戦連勝が口伝えに広まり、藩内にも続々と諸隊の応援部隊が結成されるようになった。内訌戦の勝敗はこの時点で決したといえよう。

 明くる正月十五日、幕府は毛利父子の服罪により長州征伐の中止を布告した。それを待ちかねていたかのように高杉晋作が動いた。馬関を幕軍から守る必要がなくなり、高杉晋作はその日のうちに遊撃隊百二十名を率いて馬関を去り、大田に陣を敷く諸隊の軍と合流した。高杉晋作の参謀は所郁太郎だった。所郁太郎は井上聞多の命を救った医者だが、同時に洋式兵法の心得があった。

「医者は患者を治す者であるが、拙者は国の病気を治す医者である」

 所郁太郎は俗論派政府を倒すために、その短い人生を燃焼させた。

 ちなみに慶應元年三月十二日、参謀を勤める遊撃隊が高森に転戦しようとした途中、突然腹痛を起こして自宅へ戻ったが、その日の内に死んでいる。腸チフスであったといわれている。享年二十七才だった。

 正月十五日夜、高杉晋作が全軍を指揮して萩正規軍の寝静まっている赤村に夜襲をかけた。粟屋帯刀の撰鋒隊は高杉・山縣両軍の不意の攻撃を受けて、抵抗をする暇もなく命からがら萩からほど近い阿武郡明木まで敗走した。

 高杉晋作は追撃を主張したが、兵の疲労をあげて山縣狂介は反対した。高杉晋作はそれまでの山縣狂介の奮戦に敬意を払って、山縣狂介の主張通りに山口へ向かった。山口は井上聞多の率いる鴻城隊がすでに政事堂を掌握していた。

 鴻城隊は山口近在の商人、神官、僧侶と百姓らで作られた諸隊の一つで、土地の庄屋吉富籐兵衛、松山孝太郎らが中心をなしていた。彼らは傷が癒えて座敷牢に幽閉されていた井上聞多を救い出して隊長に担いだ。それは百姓一揆と間違えられないように、上士の井上聞多をカタに取ったともいえる。

 山口に本陣を置いた諸隊は萩に圧力をかける格好で陣形を敷いた。大きく猛禽類が翼を広げた形で佐波郡徳地、吉敷郡小郡、阿武郡明木、美禰郡大田、阿武郡佐々並、吉敷郡仁保などに軍を展開させ、山口を中心にして萩を取り囲む格好で包囲した。同時に海にも癸亥丸を萩沖に回航して艦から威嚇の空砲を撃たせた。轟音は萩の背後の山々に胤々と響き、その効果は高杉晋作が想像した以上のものがあった。萩城下は軍艦から放たれる空砲に驚愕し、諸隊の存在を恐怖と共に具体的に実感した。高杉晋作のとった戦法は勝ちに乗じて攻め込むのではなく、萩に無言の圧力をかけることだった。山口からは何も言わず、負け戦にうちひしがれた俗論派に圧力をかけ内部崩壊を待った。

 高杉晋作の狙い通りに萩城中では俗論派は主導権を失い、鎮静会議員と称する中立派が現れて政権の委譲を工作し始めた。太田・絵堂の敗戦に次ぐ敗戦で、俗論派は戦意を喪失していた。

 鎮静会議員とは香川半助、桜井三木三ら三十数名からなる集団だった。彼らは俗論派の勢力を藩政府から一掃して、正義派に政権を引き渡すことに決めて藩政府の周旋に乗り出した。藩主もその意見に賛成して一月末に俗論派の政務役椋梨藤太、岡本吉之進、熊谷式部らを罷免した。そして撰鋒隊を解散し、正義派政務員の復職を認めた。俗論派は諸隊からなる正義派軍と数次に渡る戦闘がすべて敗北したため、萩城中の要職から一掃されてしまった。

 萩城下の人心も俗論派から離れ、山口に本拠を置く正義派との講和を望むようになった。そうした世論の後押しを受けて萩城内を掌握すると、中立派の鎮静会議員が萩から山口まで交渉に出向いた。だが鎮静会議員は何等武力の後ろ盾を持っているわけではない。したがって彼らの周旋も命懸けの行動に変わりなかった。

 二月初旬、山口で打ち合わせを済ませた議員たちが往環路を萩へ戻るべく急いでいると、権現原に差し掛かった所で待ち伏せていた椋梨藤太の息子を頭目とする一団によって暗殺されるという事件が起こった。その報を聞くと山口から直ちに八幡隊が出動し、俗論派勢力を蹴散らした。二ヶ月にわたった内訌戦も権現原襲撃事件を以って終わりを告げた。

 この頃、諸隊は各地に乱立していたが、やがて三月までには整理統合された。当時の記録によると大田市之進を隊長とする御盾(百五十名)、山縣狂介を総督とする奇兵(三百七十五名)及び白井小助を隊長とする第二奇兵(百名)、森清蔵を隊長とする鴻城(百名)、堀真五郎を隊長とする八幡(百五十名)、石川小五郎を隊長とする遊撃(二百五十名)、佐々木男也を隊長とする南園(百五十名)、桜井慎平を隊長とする集義(五十名)、赤川敬三を隊長とする膺懲(百二十五名)、守永弥右衛門を隊長とする萩野(五十名)の十を数える諸隊がありその他に雑隊があった。これに藩士正規軍で作られた干城隊があり、諸隊のない地域はないといわれたほど諸隊は藩全域に結成され勢いを増していた。

 

 形勢は定まった。

 俗論派の消長も記しておこう。

 慶應元年二月十四日、椋梨藤太をはじめ俗論派の主だった者十三名は、萩の小畑から城下を脱出して小舟に乗り江崎へ向かった。それは、俗論派に理解を示していた岩国支藩の吉川経幹を頼り助命を求めるためだった。しかし、冬の日本海は時化がちでその日も荒波に針路を失い、石州国飯之浦に上陸した。そこから岩国に向かうために中国山地へ分け入ったところで津和野藩に捕らえられた。それは、椋梨藤太が政権にあった時、正義派の者が中国山地を隣国へ逃亡するのを防ぐために津和野藩と結んだ追補協定に基づくものだった。皮肉にも彼らは自らが結んだ協定によって捕らえられた。

 椋梨の一味は萩へ回送されたが、その途中で小倉源右衛門、岡本吉之進、山縣与一の三名が自殺した。助からぬ命と覚悟を決めたものだった。椋梨藤太は野山獄に繋がれ、五月三十日首を刎ねられた。享年六十一才だった。残りの者もすべて死を賜った。

 慶應元年二月二十二日、藩主毛利敬親は祖霊社臨時祭を修し庶政の革新を誓った。そして、五日後に萩を発った。それは政事堂へ藩庁を移すためだった。しかし、山口への往還路はとらず、美禰郡へと向かう道を進み絵堂、大田の内訌戦の跡を巡視した。そして、大田に一泊すると代官以下在郷の諸士を召して二ヶ月にわたる内訌戦の労をねぎらい、政治を改革することを宣言した。二月二十八日、山口に到着した後も毛利敬親は民意慰撫のため小郡、三田尻を巡視して回った。

 政庁は再び山口へ移され正義派が実権を握った。当然ながら高杉晋作は政庁の重要な地位に就いてしかるべきだった。上士の家に生まれ久坂玄瑞と共に松陰村塾の双璧と謳われ、敢然と俗論派政権と武力で戦い完全な勝利を収めた。高杉晋作には旧来の萩藩士を纏める立場と家柄があり、同時に松陰の弟子として正義派を束ねた経歴があった。さらには奇兵隊開闢総督という全諸隊に君臨すべき軍歴もある。しかし、高杉晋作という男はそのような政治とは無縁の存在だった。

 彼はあくまでも理想を求める書生に徹していた。「学問は立身出世の道具にあらず」という松陰の教えを頑なに守っていた。松陰は世間での栄達を求めず、自らの命を燃焼させて尊王攘夷を説いた。師の生涯を貫いた悲壮なまでの殉教精神が高杉晋作の中にも色濃く影を落としていた。『諸友は功業を求めるのか』と伝馬町の獄中から叱責の文を受け取ったことがあった。高杉晋作は用意された藩政府の役職には見向きもせず、湯田の温泉宿で酒を飲みながら薄ら笑いを浮かべて次の絵を描いていた。

 出仕せよとの幾度目かの求めに応じて登庁すると、高杉晋作は藩公の御前に罷り出て重役たちの招集を求めた。何事かと重役たちが取り囲むと、

「下関を開港すべき」

 と、高杉晋作は藩公に向かって進言した。

 下関を開港し五大州へ防長の腹を押し出せ、と持論とでもいうべき『大割拠』を主張した。五大州とは世界のことである。貿易を振興し長州藩に力を蓄え徳川幕府の支配を受けないで長州藩を一つの独立国家とする。群雄割拠ではなく長州藩だけを日本の中から屹立した存在にする。大割拠とはそういう策だった。ただ言葉はいかにも勇ましいが、中身は村田静風が財政改革を強行した「殖産興業」策の焼き直しでしかない。それは長州藩のみの絵図面を引いたに過ぎない。決して日本に迫る西洋列強と正面から向き合う策とは云えない。

 伊藤俊輔も同じく開港を主張したが、彼の目は長州藩だけには注がれてはいなかった。長州藩に閉じ籠もっていては西洋列強と対抗でるほどの国力を付けることは出來ないと主張した。このままではやがてジリ貧に陥り、早晩長州藩は滅亡する。西洋列強を相手に渡り合い、対等な立場を築くには長州一藩だけではいかんともし難い。日本が三百諸侯に分立したままでは到底、西洋列強に対抗する力を得ることは出来ない。一日も早く日本全土を一元的な支配の及ぶ国家とすべきだ。そのためには、現在の幕藩体制から脱却して、王政復古をなし遂げ、大政を統一すべきである。本来、行政権は朝廷の専権であった。西洋列強の国家と同じく外交、軍事、課税、司法などの国家を形成する上で不可欠な権能を国が一元的に集中掌握すべきだと論じた。藩主の御前だということを忘れて、伊藤俊輔は堂々と自らの考えを陳述した。

 その論旨は英国滞在期間中に得た国家論だった。伊藤俊輔は自分の考えを『大政の統一』と表現した。幕藩体制下で諸藩が独立した課税権と軍事権を持ついわば連邦国の様相を呈している日本を、一つの国家に統一すべきであるという論理を伊藤俊輔は展開して見せた。

 しかし、藩是を論ずる場で「藩を消滅させよ」とは、喉元まで出かけていても呑み込むしかなかった。当然のように、藩の中枢に座る者たちは伊藤俊輔の云う「藩から徴税権や兵馬を取り上げ」長州藩を解体するような論理を真っ向から取り上げる者はいなかった。それよりも各自の所存を陳述し、御前会議は大いに湧き上がり様々な議論が沸騰した。従って誰一人として伊藤俊輔の意見を議論の俎上に載せることはなかった。当時の日本で最も進歩的と目された長州藩ですら、藩士たちの議論は藩の存続を前提としたものにとどまっていた。

 伊藤俊輔の意見が無視されたのは、彼の論理が突飛で理解しがたいだけでなく、彼の身分の低さ故もあったのだろう。本来なら藩主の御前に罷り出られる身分ではない。ましてや、意見を陳述するなど身の程知らずといって良いだろう。末席で陳述する彼の意見が黙殺されたのは当然と云えば当然だが、それが却って彼の身を守ったともいえる。

しかし一人だけ眉根を寄せてて聞き入っている者がいた。大きく見開いた眼で伊藤俊輔を睨みつけていた。その藩士とは高杉晋作だった。頭脳明晰な高杉晋作は伊藤俊輔の考えが明確に理解できた。

 英国留学の成果か、と下座に控える伊藤俊輔の横顔に鋭い視線を走らせた。高杉晋作の考えは『大割拠』に留まり、伊藤俊輔の主張した『大政の統一』までには至っていない。高杉晋作は自らの思索の限界に苛立った。

 しかしながら、高杉晋作と伊藤俊輔の主張は下関開港という部分では一致をみている。神奈川の横浜村が開港以来数年にして見事な交易の町に発展したのを、彼等は知っている。そこから得られる富みも想像を絶するものがあった。下関を長州の横浜にする、二人の意見はその点で合致した。しかし、それが彼らに危機を招いた。攘夷思想を合い言葉として戦ってきた者たちにとって、高杉たちの進言は裏切り行為でしかなかった。夷国艦船と戦って夷人を国領から追い払う、とする攘夷論に凝り固まった観念は度々の夷国艦船との負け戦を経ても、いささかも変わることはなかった。高杉晋作を斬れとの声が湧き起こり、その報は高杉晋作の耳にも入った。攘夷派の拠点となっている下関へ赴くのは危険過ぎるだろう。下関開港に着手できないまま、高杉晋作は山口に留まっていた。

 慶應元年(一八六五)二月末、いつものように高杉晋作は山口郊外の湯田の温泉宿の一室に籠もって杯を傾けている。相手をしているのは伊藤俊輔一人だけだった。

 本来、高杉晋作の酒は賑やかで陽気なものだった。自ら三味線を弾き、都々逸を即興で作って渋い喉で唄って聞かせた。

    三千世界の烏を殺し

       主と朝寝がしてみたい

 高杉晋作は都都逸をいくつか残している。多くが男女の情を詠んだ粋なものだ。

 いつもは酒を飲むと自作した都都逸を自ら三味線を爪弾いて聞かせるが、その夜は少しばかり様子が違っていた。自ら三味線を弾き芸妓を侍らすこともなく、高杉晋作は黙り込んで胃の腑へ酒を流し込んでいた。いくら酒を飲んでも高杉晋作は酔わない。その代わり酒が体を蝕んでいた。

 ふと眼差しを上げると、高杉晋作はいつもの薄ら笑いを浮かべた。

「おい俊輔、僕は西洋へ行く。道案内してくれんか」

 手拭い一本持って湯治へでも出掛けるように、高杉晋作は気楽に言った。

「かかるこの危急の折に西洋へ行くは、藩を見捨てることにはなりますまいか」

 と、伊藤俊輔は高杉晋作を見た。

 正気だろうか、と伊藤俊輔は高杉晋作の気持ちを推し量った。

 命を捨てる覚悟で功山寺に決起し、事が成就したばかりだ。当然、高杉晋作は藩の要職に就くべき立場にある。それを放擲して西洋へ行くというのだろうか。伊藤俊輔には高杉晋作という男が理解し難かった。

「ナアニ、後は井上聞多や広沢兵助たちに任せれば良い。そのうち桂さんも帰ってくるだろう。宮仕えは息が詰まる。それよりも俊輔が見た西洋を僕も自分の目で見たいものだ」

 高杉晋作は酒をあおり、口元を手の甲で拭うと伊藤俊輔を見て言葉を継いだ。

「およそ人というものは艱難は共にすることは出来るが、富貴は共に出来ぬ。ことが成就したからには僕の出番は終わった。だがそのうちに、また次の幕が開くだろうよ」

 そう言うと、高杉晋作はいつもの薄ら笑いを浮かべた。

 人は捨て身で困難に立ち向かう場合は容易に団結出来るが、事が成就した暁にはそれぞれに欲が出る。世の中には猟官という厭な言葉すらある。まさしく、官職を漁る。戦功を嵩に着て官職に就けろと藩に要求する。そうした有様を見聞するのが高杉晋作には耐えられなかった。

「一昨年の折り、俊輔たちは英国へ一人千両で行ったのだろう。だったら、こたびは聞多に言って藩から、二人前の路銀として三千両ばかり出させろ」

 そう言って、高杉晋作は再び杯に酒を注いだ。

 伊藤俊輔は「本気なのか」と杯を傾ける高杉晋作を見詰めた。

 常人ならば用意された藩政府の重役の役職につき、高禄を頂戴して家名を上げるものだ。そうしたことを目指して幼少の頃から懸命に勉学や剣術の研鑽を積んできたはずだ。

しかし、高杉晋作という男は用意された役職にはまったく興味を示さず、湯田の温泉料亭の一室に籠もって朝から酒に浸っている。あたかも平時の藩政府には身の置きどころのないかのようだ。

 

 さっそく伊藤俊輔は高杉晋作の西洋渡航を叶えるべく井上聞多に相談を持ちかけた。

 井上聞多は藩内抗争を治めたばかりのこの時期に、高杉晋作が夷国に密航するなぞ飛んでもない、と井上聞多は即座に反対した。高杉晋作が長州からいなくなるのも困るが、藩にそれほどの金子を工面出来る余裕などありそうになかった。。

 だが、伊藤俊輔も簡単には退かない。伊藤俊輔は「自分たちは英国へ強引に渡航したではないか」と井上聞多に喰い下がった。それが何故、高杉晋作には許されないのか。

「それに、たとえ高杉晋作が山口にいたところで何の役にも立たない。朝から酒を飲むばかりで、治世の歯車とも言うべき藩吏には向かない。向かないことを強いるはその人物を殺すことである。高杉晋作は傑出した軍略家であり英才であるが、行政官として毎日決まった時に登庁するように出来ていない。高杉晋作を生かすために今は藩が三千両を出すしかない」と伊藤俊輔は井上聞多に対しては論述の手を緩めない。それほど伊藤俊輔と井上聞多の絆が強かったと云えるだろう。

「井上さんの捻り出す三千両が高杉晋作を生かすことになる。自分たちが打ち首にもならず、藩の要職に就けたのも高杉晋作のお陰ではないか。それとも長州藩はもはや今後一切、高杉晋作を必要としないのか」と伊藤俊輔はそんな理屈にもならない屁理屈を捲くし立てた。

 井上聞多は決して暗愚な男ではない。学問の素養も西洋に対する見識も人並以上のものを身につけている。それだけなら普通の知識人だが、井上聞多は普通ではなかった。

 井上聞多にはハラがあった。それも、すべてを呑み込むほどに大雑把なハラを持ち合わせていた。井上聞多という男はそれ以上でも、それ以下でもない。始末が悪いことに、井上聞多のハラに他意がない。私腹を肥やそうとかいった思惑は微塵もなかった。

井上聞多のハラは人の良さが大風呂敷を広げたようなものだった。私と公が混在し、その区分を苦手とした。ただ、明治政府の要人になってからも井上聞多は変わらなかった。そのハラゆえに井上馨は西郷隆盛から『三井の番頭さん』と譏りを受け汚名に塗れることになる。ともあれ、井上聞多は伊藤俊輔に向かって鷹揚に胸を叩いた。

 井上聞多は必死になって三千両を工面した。藩庁にしてみれば面喰らう要求だった。通常の藩の事務処理からいけば、当然却下されてしかるべき金子だ。しかし、要求する井上聞多に私する後ろめたさがないばかりに威風堂々としている。結局、藩はこの度の藩内抗争最大の立役者のために目を瞑った。だが、いくらなんでも英国渡航費用としては出せない。したがって、長崎にて語学習得のため、という名目を付けた。

 三千両の為替を手にすると高杉晋作と伊藤俊輔は山口を後にして、意気揚々と長崎へ旅立った。目指すは英国だ。しかし、それほど急ぐ旅でもあるまいと、二人は馬関まで来ると港町で随一の妓楼大坂屋に草鞋を脱いだ。

 だが、それが間違いだった。芸妓を総揚げして一晩派手に騒ぐと、元奇兵隊総督高杉晋作が馬関に凱旋してきたとの噂がその宵のうちに町中に流れた。すると夜明け前から大阪屋の門前に味噌屋や醤油屋や酒屋、それに薪炭屋から魚屋に呉服屋に米屋とありとあらゆる馬関の商家が掛け取りに押しかけた。掛取りとは「ツケ」で購入した代金の支払いを求めることだ。妓楼の門前に市をなすほどの突然の騒動に、妓楼の主人が慌てて高杉晋作に取りついだ。

 高杉晋作に番頭たちに掛取りを求められる心当たりがないわけではない。昨年十二月半ばまで、数百人もの諸隊兵士が一年以上にわたって馬関に駐屯していた。奇兵隊をはじめ諸隊に藩から手当は支給されなかった。それ隊士への手当どころか、一切の支給がされず糧秣から武器までも自前で賄うしかなかった。そのため、窮乏に苦しむ諸隊は馬関の商家を半ば脅し、押し込み強盗さながらに「ツケにしろ」と米味噌醤油から隊士の制服まで掛けにしていたのだ。

 二階の明かり障子を少し開けて様子を窺うと、妓楼の門前には掛け取り帳を手にした商家の番頭や主人たちが群がった。

「俊輔、何とかしろ」一言そういうと、高杉晋作は明かり障子から離れた。

 高杉晋作は奥の一室に籠もりお気に入りの芸妓おうのを相手に憮然として酒を呑み、商人との折衝には伊藤俊輔にあたらせた。しかし、伊藤俊輔に妙案があるわけでもなく、払うべきものは払わなければならない。妓楼玄関脇の一室を借りると、伊藤俊輔は大福帳を作って順次黙々と商家の名と掛取りを書きつけて代金を支払った。三日もかかって諸隊が溜めた掛けを整理すると、三千両がきれいに消え失せてしまった。

 諸隊が作った旧債の支払は済ませたものの、西洋へ行く路金がなくなった。困った二人は馬関の網与という藩の別荘に寄った。洋行費用として用立ててもらった三千両の切手は諸隊が溜めたツケ払いで消え去ったと、伊藤俊輔の書きつけと掛け支払いを子細に記録した大福帳を添えて網与の別当に差し出した。そして僅かでも当座の費用を工面してもらえないかと頼み込んだ。誰かを山口へ派遣して井上聞多に追加の路銀を手配してもらうように頼み込んだ。

どうしたことか網与に野村和作やって来た。野村和作は入江九一の弟で、同じく松下村塾の門下生だった。内訌戦では伊藤俊輔と力を合わせて軍資金の調達や糧秣の補給に死力を尽くした。才気煥発な男だが理が勝ちすぎて、官僚には不向きな男だった。

何処で聞き付けたのか洋行へ自分も連れて行け、と強硬に申し入れて来た。長州藩の最大の欠点は機密がもれることだ。重要であればあるほど機密は滂沱と洩れる。機密漏洩の悪弊は藩の首脳陣が入れ替わっても変わることはないようだ。

「洋行などしない」と高杉晋作はニベもなく言い放った。

 すると「連れて行かないのならここで腹を切る」と野村和作は言い出した。野村和作のような男は言い聞かすよりも脅して肝を冷やさせる方が手っ取り早い。それなら、と言って高杉晋作は下げ緒を解いて襷掛けにし、ゆっくりと刀を抜いた。「僕は洋行なぞしない。西洋へ行かない者が君を連れて行く事は到底出来ないから己が介錯をしよう」と言うと、野村和作は震え出した。高杉晋作なら本当にやりかねなかった。

 攘夷論者が群れている馬関で「西洋へ行く」とは口が裂けても言えない。路銀の都合をつけに網与へ寄ったのだが、飛んでもない者と出会ってしまった。高杉晋作の脅しに野村和作がたじろぐと、高杉晋作は刀を鞘に納めて網与を出た。当座の路銀の調達には失敗したものの、それでも長崎へ行けばどうにかなるだろう、と二人は呑気に足を九州へと向けた。

 単衣の木綿の着物に武者袴を穿き、何一つ荷物を持たない男二人がゆく。その姿からは二人がどのような素姓の者か判然としない。何しろ二人の頭には髷がない。ザンギリ頭の高杉晋作は雲水のようでもあったし、元結を縛っただけの総髪の伊藤俊輔の頭も異形だった。髷を結わない者は江戸時代では埒外の存在だ。つまり世間並ではない、ということだ。月代を剃っていない頭は童のトンボのようであり、当時の職業に仕分けられている髪型からすれば、伊藤俊輔は町医者か絵師のような分類に入る。

時に高杉晋作二十六才。伊藤俊輔二十四才。それに小者の少年が一人。三人の気楽な旅姿だけを見れば命がけの藩内抗争を戦い勝利した男たちとは思えない。あばた面の顔の長い高杉晋作が前を行く。身長は高杉晋作の方がやや高い。今は亡き来原良蔵の癖を真似て、伊藤俊輔は両袖から腕を抜いて懐で組んでいる。春の風が袂に孕む。心地よい、と伊藤俊輔は目を細める。茶屋の竿先の旗が春風に揺れている。つい数ヶ月前まで命懸けの闘いを繰り広げて来たのが嘘のようだ。蝶が舞い、鳥が囀り、旅行く人達もどこかのんびりとしているように見えた。

 長崎に着くと二人は先ず西洋渡航の段取りに、伊藤俊輔の案内でグラバーの屋敷へ向かった。グラバーと伊藤俊輔は横浜で何度か会った旧知の間柄だった。

 グラバーはトーマス・ブレーク・グラバーといい、一八三八年にスコットランドに生まれた。一八五九年に上海に渡りジャージン・マゼション商会に入社し、日本担当として同年九月に開港間もない長崎へやって来た。二年後にフランシス・グラームと共同でジャージン・マゼション商会の長崎代理店として「グラバー商会」を興した。

 当初は生糸や茶の輸出を中心として扱っていたが、八月十八日の「七卿落ち」政変を機に日本が大量の武器を必要とする時代が到来する、との読みから武器商人に転じた。グラバーは討幕藩と佐幕藩とを問わず、武器弾薬を求められるままに販売した。坂本龍馬の亀山社中とも取引を行い、品物のみならず五代友厚、森有礼、寺島宗則、それに長州藩の五人などの海外留学の手引きも秘かに行っている。

当然のことながら、伊藤俊輔は高杉晋作との西洋留学をグラバーに頼むつもりでいた。湾を見下ろす高台の館にグラバーを訪ねると、英国横浜領事のラウダもたまたま居合せていた。ラウダは新任駐日公使のパークスを長崎まで出迎えに来ていた。

 伊藤俊輔はワイングラスを片手に、流暢な英語で二人が長崎へ来た目的を話した。すると、グラバーとラウダは色をなして反対した。日本国や長州藩がこれからどうなるか分からないのに、英国へ遊学するは藩士として職務放棄ではないかと諌めた。それよりも、

「下関を開港してはどうか」

 と、ラウダが持ち掛けた。そして開港すれば巨万の富を長州藩にもたらすであろうと付け加えた。

いうまでもなく、高杉晋作は下関開港論者だった。伊藤俊輔にも異存はない。

「それでは国許へ帰り、下関開港を藩に説こう」

 と、高杉晋作はあっさりと英国遊学を諦めた。

 相手の言い分に理があると認めると、ただちに自分の考えを撤回する。変わり身の早さは高杉晋作の身上だった。

 二人は急いで馬関へ引き返した。長崎行きはまるで「トンボ釣り、今日は何処まで行ったやら」と詠った童のトンボ釣りのようであった。

 馬関まで帰ると、たまたま応接掛として、井上聞多と楊井謙蔵が滞在していた。楊井謙蔵は藩大組士の出自で、当時奥番頭という重役を担っていた。

高杉たちは得たとばかりに井上聞多と楊井謙蔵に下関開港を相談した。二人もそれに賛意を示し、井上聞多が内々に藩に諮った。すると、藩政府もその議を容れることになり、高杉晋作と伊藤俊輔に馬関応接掛を任じて、下関開港の段取りをするように命じた。

 しかし、長州藩には機密のもれる欠点がある。抜け駆けを許さないといえば聞こえは良いが、玉石混交の社会で頑なまでに対等意識が強く、優れた人物を容易に認めようとしない風潮があった。上から下まで団子のように混然とした強いムラ意識が支配していた。だから薩摩藩などでは考えられないことだが、藩の立役者・高杉晋作の命を付け狙う長州人がいたり、明治四年には日本軍の第一級の人物となっていた村田蔵六(大村益次郎)が同じ長州人によって暗殺されたりした。

 高杉たちが下関開港を策している、との噂が馬関の攘夷派連中の耳に入った。その上、馬関を本藩の直轄地にしようとする動きが支藩長府藩と清末藩を硬化させた。馬関とは下関の古い呼び名で、当時の下関と呼ばれる地域は港近辺に限られていた。長府藩は長州四支藩の一つで下関会所から瀬戸内海海岸線に沿って東側へ少し離れた地を領地とし、石高は五万石。一方清末藩は毛利支藩の一つで長府藩よりも東の海岸から離れた地に位置し、石高は一万石。いずれも大名としての格式を誇っていた。

 馬関の地にある長府、清末両支藩にとって下関港は重要な収入源だ。それを本藩に取り上げられては一大事と、攘夷派浪士たちと呼応して「下関開港反対」の立場を表明した。それのみならず、下能勢の開港は夷人たちを馬関の地へ招くもの、と攘夷派たちを煽り立て、浪士たちが血相を変えたと知るや高杉たちは身の危険を感じた。

 さっそく高杉、井上、伊藤の三者は馬関の地を離れることにした。高杉晋作は着流しに道中三味線を手に芸妓おうのを連れて四国の讃岐へ逃げ、井上聞多は腹掛け半纏の人足姿になって豊後の別府へ落ちた。ただ伊藤俊輔だけは対馬藩へ逃げ込むつもりで、船便の都合がつくまで馬関の廻船問屋伊勢屋に潜んだ。

 伊藤俊輔の命を付け狙ったのは長府藩に駐屯する報国隊の過激な攘夷論者たちだった。人数は十四、五人もいたという。長州人が長州人の命を狙う、という愚行を生き甲斐とする狂人は確かに長州藩にいた。その狂人たちが田中町の家にも姿を見せて、梅に伊藤俊輔の所在を執拗に訊いた。今度こそは危ない、と伊藤俊輔は本物の身の危険を感じた。対馬への船便を待つ間、伊藤俊輔は伊勢屋の屋根裏部屋で息を殺した。

 

 ある日、稲荷町の旅籠の下男が、

「伊藤様はここでしょうか」と、伊勢屋を訪ねて来た。

 刺客の手先かと探りを入れると「梅に聞いて来た」と答えた。

 用向きを店の者が尋ねると村田蔵六の言付けを持って来たと言う。伊藤俊輔は潜んでいた屋根裏部屋へ下男を上げて用件を聞いた。

「今夜五ツ、宿へ一人で来られますように」

 と、旅籠の下男は村田蔵六の言葉を伝えた。

 村田蔵六は博習堂用掛兼赤間関応接掛として藩政府で働いているが、未だに雇士の身分だった。さすがに兵学校教授方並びに海防掛の役目は解かれていた。馬関へは技官として砲台再築の指図役で出向いていた。村田蔵六は鋳銭司村と山口、それに馬関を忙しく行き来する毎日を過ごしていた。

 夜が更けて、伊藤俊輔は稲荷町の旅籠へ出向いた。

 村田蔵六は二階の一室で待っていた。他に小間物行商の身なりをした三十年配の小柄な男が一人いた。他国から行商してきた様子で長州人ではなかった。伊藤俊輔はその男の顔を一瞥すると驚きの声を上げた。かつて京で桂小五郎の手先として働いていた男だった。但馬出石の生まれで名を孝助といった。当然ながら孝助も伊藤俊輔を知っている。なぜ村田蔵六が自分を呼んだのか、その真意が分かった。それは面通しだった。

「桂殿が生きておられる」

 と、村田蔵六が感情を押し殺した抑揚のない声で言った。

「藩へ帰ったものかどうか、様子窺いにこの者を使いに出されたようだ」

 そう言って男の鼠のような顔に視線を遣った。

「それで、どこにおられる、」

 伊藤俊輔は身を乗り出すと、孝助に向かって言葉を放った。

 長州藩は余りに多くの人材を失った。幕末の数年間で、長州藩ほど多くの犠牲を払った藩は他にない。夜空に輝くきら星のごとく輩出した人材も京や藩内抗争の過程で多くが命を散らし、今では藩政府を統括する人材にすら事欠いていた。

 桂小五郎は蛤御門の変で長州藩が惨敗すると、孝助らの手引きにより身に迫る厳しい幕府の追捕網をくぐり抜けて京から脱出した。そして孝助の郷里の但馬出石に潜伏していたが、長州藩の内訌戦が終結し藩論が回復されたのを知って帰藩を決意した。

 孝助も顔見知りの伊藤俊輔に安心したのか、

「実はお松さんを連れて来ている」と、打ち明けた。

 松とは幾松のことだ。対馬藩の樋口謙之允に連れられて長州藩に船便でやってきて、馬関の対馬屋敷に潜んでいるという。

 伊藤俊輔はその夜のうちに松と会った。祇園で芸者をしていた頃とは打って変わって、落ち着いた新妻の艶やかさを漂わせていた。一日も早く桂小五郎を藩に呼び戻すように懇願して、すぐさま伊藤俊輔は馬を駆って夜道を山口へ向かった。

 早朝から政事堂は沸き立った。

「桂小五郎が帰って来る」との報に、藩公毛利敬親も相好を崩して喜んだ。

 桂小五郎は帰藩するに当たって、まず村田蔵六に潜伏先を知らせた。それは桂小五郎がもっとも頼りにしている男は村田蔵六であると藩内に向かって宣言したに等しい。村医者上りの蘭書読み、と軽んじていた者たちも思いを変えざるを得なかった。

 慶応元年四月下旬、桂小五郎が松とともに北前船で馬関へ帰って来た。港に降り立つと桂小五郎は一人で忽然と伊藤俊輔を田中町の家に訪ねた。

「で、どんな様子だ」

 と、辺りを憚るように桂小五郎は小声で聞いた。

 帰藩するに当たっても慎重を期し、長州の地に降り立ってもすぐに山口へ入らない。臆病かと思えるほどに桂小五郎は用心深かった。それは数年に亙る潜伏生活で身に付いた護身の習癖かも知れなかった。

 伊藤俊輔は下関開港を巡って高杉晋作と井上聞多が刺客に付け狙われ、藩外に逃亡していることを告げた。

「いつまでそんなことをしているンだ。すぐさま二人を呼び戻せ。早急に藩の兵制を一新しなければならないというに。幕府は再び征長の勅命を上奏しているぞよ」

 桂小五郎はいつまでも書生のような動きをしている高杉晋作に嘆息した。自分がいない間、長州藩を動かしてゆく人物は高杉晋作だと思っていただけに嘆きは深かった。

 さっそく桂小五郎は伊藤俊輔を伴って長府藩の家老に談じ込み、報国隊士が高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔の三人を付け狙うなぞ論外の愚挙であると弁じた。家老は事態の解消を約束し、後日首謀者の野々村勘九郎を伊藤俊輔の許へ遣って詫びさせた。

 伊藤俊輔は高杉晋作と井上聞多に早飛脚で文を送って呼び戻した。

 さっそく桂小五郎は政事堂へ上り、長州藩の方針を巡って政務員たちと論議を重ねた。

 二人が馬関に帰り着くと、伊藤俊輔は二人を連れて政事堂へ桂小五郎を訪ねた。

 四人で論じ合うと考えは一致した。攘夷を止めて開国進取の方途を採り、幕府を倒して大政を王室に帰し、国政の一元化を図らなければならないとの結論を得た。

 

 軌を同じくするように、薩摩藩を倒幕で掻き口説く男たちがいた。

 それは土州浪士の中岡慎太郎と坂本龍馬だった。

 元来、薩摩藩には倒幕とはいわないまでも反幕の気風があった。

 関ヶ原で徳川方に破れて以来、薩摩藩は外様大名として事々に冷遇された。とりわけ江戸中期に莫大な夫役を課せられた。宝暦年間、木曾川と長良川それに揖斐川の合流点の河川工事を徳川幕府に命じられ、薩摩から遥々と千人余の藩士を夫役に出向かせ、二年に及ぶ難工事に当たった。四十万両にも及ぶ費用も過重な負担だったが、それよりも慣れない土地で想像を絶する難工事に病死する者三十三人、自殺者五十二名もの犠牲を払った。難工事の賦役を課された薩摩藩は上から下まで幕府に対する反感を募らせた。

 当時の薩摩藩内には幕府は薩摩藩を潰すつもりだとの声が上がり、どうせ潰されるのなら幕府と一戦をも辞さず、との強硬論が鹿児島城下に沸き起こったほどだ。工事を終えて幕府に引き渡した家老平田靫負は幕府賦役方の検分の後で自刃して果てた。幕府に対する反感と怨念は薩摩藩士の心の奥底に澱のように残り、百年近くたっても消え去ることはなかった。

 『倒幕』と聞いて薩摩藩士の心が騒がないわけはない。

 徳川幕府は憎むべき敵である。そのためには長州藩と薩摩藩が反目していたのでは事は成らない。手を握り協力し合って事に臨むべきだ、と坂本龍馬は諭した。坂本たちの言辞に耳を傾けたのは薩摩藩家老小松帯刀と西郷吉之助、それに大久保一蔵だった。もちろん彼等に異存はない。しかし、彼らはすぐにも坂本竜馬の手を取って頼むとは言わなかった。

「じゃが、それが出来る相談でごあんどか」

 と、謎掛けのように西郷吉之助は呟いた。

 長州藩は薩摩藩を憎んでいる。それも尋常一様な憎しみではなく、心の奥底から憎悪している。『薩賊会奸』と長州人は合言葉のように叫び、草履の裏にその四文字を書いて踏みつけて歩く者さえいた。長井雅楽の失脚をはじめとして、七卿の都落ちから蛤御門の変に到るまで長州藩が手酷い目にあった事変には常に薩摩藩が関与していたし、先の征長軍の実質的な指揮も薩摩藩が執った。長州藩の進路を邪魔し壟断し窮地に陥れた謀略にはいつも薩摩藩が一枚噛んでいたのは周知の事実だ。長州では藩士のみならず町人百姓にいたるまで薩摩に煮えたぎる憎悪を覚えていた。

 幕末から明治維新にかけて歴史に登場する人物で、西郷吉之助は人気のある人物の筆頭に挙げられるのは衆目の一致するところだ。しかし、それは山口県以外のことである。長州人の間では西郷吉之助の人気は坂本龍馬より遥かに劣る。薩摩人だというのもその理由の一つだがそれだけではない。繰り返すようだが長州人は理に勝っている。いうまでもなく西郷吉之助は明治維新の立役者だが、その行動原理は明快な論理性を欠いている。大雑把な理解しがたい存在として親近感を覚えにくい側面を持っているのも否定できない。むしろ西郷吉之助は権謀術数を用いる老獪な政治家と断じる向きすらある。

 いままでの経緯から、薩摩藩から長州藩に「薩長」連合を切り出すわけにはいかない。しかし、長州藩の方からはもっと言い出しにくいことだ。西郷吉之助は坂本龍馬に長州藩を口説く役目を押し付けた。それこそが西郷吉之助の老獪さといえなくもなかった。

 坂本龍馬はさっそく行動に移った。

 鹿児島から筑前に行き、太宰府の三条実美ら五卿を訪ねた。

 京を追われて長州藩に逃れていた五卿は和睦の約定により太宰府に移されていた。

 坂本龍馬は公家と面会して長州藩のしかるべき人物を紹介してもらうつもりでいた。折りよく、太宰府を訪れると長州藩の小田村素太郎と長州藩支藩長府藩の時田少輔が五卿の無聊を慰めに来ていた。

 坂本龍馬は三条実美に謁見して薩長連合の私見を述べて長州人との引き合せを願い出た。三条実美は坂本龍馬の意を汲み、別室で控えていた小田村たちを紹介した。坂本龍馬は強い土佐訛で一気に薩長連合の必要を説いた。

「藩の面子を四の五のゆうちょる場合じゃありゃあせん。この国をどうするかを考えにゃならん。そのためにゃ、薩摩だけでも長州だけでもいけんのじゃ。このことを長州の偉い人に話したいンじゃ。取り次いでもらえんじゃろうか、わしも近いうちにゃ行きたいがに」

 そう言うと、坂本龍馬は六尺近い大柄な身体を折って頭を下げた。

 小田村素太郎は坂本龍馬の人柄に惚れ込み、話を桂小五郎に伝えることを約束した。

 当時、長州藩の家老格には山田宇右衛門翁が就任し、藩政全般を執る首相格に桂小五郎が就いていた。約束通り、小田村素太郎は帰藩すると桂小五郎に坂本龍馬の提言を伝えた。

 もとより、桂小五郎に異存はない。冷静に考えれば薩摩と手を握る益は大きいと分かるが、長州藩が即座に坂本龍馬の話に飛び付くだろうかと危ぶんだ。長州人は薩摩藩を憎んでいる。散々煮え湯を飲まされてきた薩摩藩と手を組むぐらいなら長州藩は滅亡した方がましだと、悲憤慷慨の悔し涙を流すのがオチではあるまいかと思えた。

 桂小五郎は政務員と相談する前に馬関へ出向き、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔らと内密に諮った。他の者が反対するのならまだしも、心から同志と恃むこの三人からだけは全面的な支持を得ていたいと考えた。すると三人に異存のあるはずもなく、過去の行きがかりに拘るよりも大義のために薩摩藩と連合を結ぶべし、と桂小五郎に同意した。

 慶応元年五月一日、桂小五郎の応諾を得て坂本龍馬は馬関へやって来た。木綿の単衣によれよれの袴を着けて坂本龍馬は船から降り立った。癖の強い縮れ毛の頭髪を後ろで無造作に結え、潮風に灼けた赤銅色の顔に整った目鼻立ちをしていた。目が近いためか常に眉間に皺を寄せ、人と会うと細い一重の目を更に細くした。

 桂小五郎はこの日が来るのが待ちきれず、前日から馬関に来ていた。桂小五郎がかつて江戸三大道場の一つ九段坂下の斎藤弥九郎道場で塾頭をつとめたように、坂本龍馬は桶町の千葉道場で塾頭をつとめた剣客だった。対外試合で相見えたことはなかったが、お互いに剣の腕前を認めあう仲だった。

 この日を迎えるに当たり、桂小五郎は性格さながら慎重に根回しをした。一人でも仲間を増やしておきたいがために自らが藩公に謀ることをしなかった。まず家老山田宇右衛門翁と相談し、直目付の林主税を通じて薩摩藩との連合話を藩公の耳に入れて「そうせい」との応諾を得た。

 桂小五郎は坂本龍馬に長州藩としては薩摩藩と手を結ぶことに異論はない、と返答して両藩に協力関係が成立するように一層の尽力を頼んだ。

 時は急を告げている。

 五月十六日、将軍徳川家茂が征長のために大阪へ進発した。

 時同じくして、長州藩は全藩を挙げて幕府軍と闘う準備に忙殺されている。

 坂本龍馬と中岡慎太郎は桂小五郎たちと会談を済ますと薩摩に引き返し、成果を報告するとともに今度は薩摩人と長州人が胸襟を開いて話し合うことが必要だと説得した。西郷吉之助は「ようごわす」と京へ上る途次に馬関へ立ち寄ることを承諾した。

 中岡慎太郎はさっそく桂小五郎に連絡を取り、馬関に西郷吉之助が行くことを知らせた。桂小五郎は馬関に出向き薩摩船が入港するのを待った。しかし、西郷吉之助は立ち寄らなかった。急な用事ができたとして、真直に上洛してしまった。

 薩摩は信用できないと他の政務員から罵声を浴びせられ、桂小五郎は窮地に陥った。馬関に来ていた中岡慎太郎や高杉晋作も事態の推移に落胆の色を隠せなかった。だが、急遽薩摩から坂本龍馬が馬関に駆け付けて、連合話が解消したのではないと理を説いた。

 馬関の料亭で坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎、高杉晋作、村田蔵六、井上聞多、伊藤俊輔たちが一堂に会した。会談の主導権は坂本龍馬がとり、長州藩へ幕府軍が再び迫ろうとしているいま、長州藩が取るべき道は一つしかないと弁じた。

「長州藩の海陸軍の軍備を強力にするにゃ、外国の艦や銃を大量に買い入れるしかありゃせん。しかるに、目下長人は国境を出ずるを能わず。しからば、薩摩と手を組み薩摩の名義で購入するしかなかろうが。薩長連合の一歩はこれから始めるべしじゃ」

 まず確かな果実を一つ示して、それを以って具体的に薩摩と長州の連合へと話を進めるのが長州人に理解されやすいだろうと坂本龍馬は言った。ともすれば観念論に陥り憎悪の虜になり易い両藩の連合を具体的な形で分かり易く示したものといえる。それは坂本龍馬の物事の本質を見抜く慧眼が如実に示された提案だった。

 桂小五郎たちは即座に同意した。桂小五郎が藩の上層部に根回しをすることを引受けて、伊藤俊輔と井上聞多が長崎へ武器の買い付けに赴くことになった。

 坂本龍馬の提案はおおむね長州藩でも受け入れられた。しかし、すべての者から拍手喝采を浴びたものでもなかった。新式兵器を手にするために、渋々承知したというのが一般的な受け止め方だった。そうしなければ長州藩は滅ぶ。圧倒的に強大な幕府軍と戦うために長州藩は耐え難きを耐えて薩摩藩と連合を組むことにした。長州人に沁み込んだ薩摩藩に対する憎悪は生易しいものではなかったのだ。当然のように、事務手続きの細部では様々な軋轢を引き起こすことになった。

 諸隊からも不満の声は聞こえたが、まず強硬に異議を唱えたのは海軍局だった。艦船の専門家である海軍局を差し措い軍艦の買い付けに井上・伊藤両君が長崎へ行くは越権行為だと中止を求めた。諸隊からも薩摩藩の名義を借りることに昂然と反発が起こった。

 諸隊をなだめるために、伊藤俊輔は長崎へ発つ前日に諸隊最大勢力の奇兵隊総督山縣狂介を訪ねて、今般の武器購入の意義について論じて同意を求めた。当初不承知だった山縣狂介は話すほどに理解を示して、薩長連合を後押しすることを約束した。

 九州へ渡るに際して伊藤俊輔は吉村庄蔵、井上聞多は山田新助と名を変えた。長州人が国境を出るには細心の注意が必要だった。伊藤俊輔と井上聞多は命を賭けて長崎へ向かった。が、二人が旅発った長州藩では面子を賭けた争いが起こっていた。

 伊藤俊輔たちが旅立って間もなく、艦船購入を海軍局に任せよと海軍局幹部が藩政府にねじ込んだ。潮灼けした精悍な容貌の屈強な者たちが政事堂に乗り込んで声を荒げた。そのため、藩政府幹部が動揺した。海賊のような連中に命を取られるのではないかと恐怖して桂小五郎に善処を頼み込んだ。

 桂小五郎と高杉晋作は当事者を奥部屋に集め、藩公の臨席を求めて藩論の統一を試みた。

 開口一番、高杉晋作が吼えた。

「海軍局が独自で艦船の買い入れが出来るのなら、勝手に長崎へ行かれよ。伊藤・井上両君が命を賭けて奔走しているのにあれこれ注文をつけるは、両君を猿回しの猿と見なすに等しい。恥ずべきである」

 高杉晋作は頭ごなしに海軍局幹部を激しく叱責した。

 藩政奪還の革命軍総大将として全軍の指揮を執った男の発言である。海軍局幹部たちは畏怖したように沈黙した。

「両君の買い入れた艦船が老朽で使用に耐えないものであれば代金の支払をせず、坂本龍馬に引き取ってもらえば良かろう。その検査に海軍局が当たれば良いではないか」

 と、桂小五郎がなだめるように海軍局の面子を立てた。それで御前会議は終った。

 五月二十一日、伊藤たちは長崎に着いた。

 かねての打ち合わせ通り、草鞋を脱いだのは坂本龍馬の海援隊だった。

 坂本龍馬を頼って海援隊に土佐藩脱藩浪士が吹き溜まりのように集まっていた。藩の庇護を当てにできない土佐浪士は藩の枠を超えて日本の国民として働き、いち早く国の有り様について考えるようになった。

 あいにく坂本龍馬は京へ上って留守だった。伊藤俊輔と井上聞多は千谷虎之助、多賀松太郎、上杉宗次郎、新宮馬之助らと薩長連合について話し合った。彼等にも坂本龍馬の意向が伝わっていたのか、銃や艦船の買い付けについて格段の協力が得られた。

 しかし、それは当然といえば至極当然なことだった。海援隊は坂本竜馬が創立した我が国最初の商社だ。薩長連合は政策だが、艦船や銃器の買い付けは商売に他ならない。

 坂本龍馬の行動は議論で倒幕を語っていた者たちには全く思いも寄らない型破りなものだった。長州人は理によって動くといわれている。議論好きで理屈の多いのが長州人の特長だ。当然、人も国も理で動くものだと思い込んでいる。常に理を重んじるのが長州人だが、坂本龍馬は海援隊の商いにより薩摩と長州を具体的に利で結び付けようとした。利を用いる長州人とは異なる行動原理は、長州人に一つの政治的な有り様を示したといえる。これなら幕府を倒せる、と伊藤俊輔は具体的な手応えとともに確信した。

 政治は議論だけを積み重ねて成り立つものではない。かつて、来原良蔵は作事場の進捗を督促するのに自ら畚を担いで見せた。来原良蔵は情により人を動かしたが、土州人は利によって人を動かそうとしている。政治の手法に様々な選択肢があることに気付かされて、伊藤俊輔は土州人の明るい気質に救われたように満面に笑みを浮かべた。

 グラバーとの手筈を付けるのは海援隊が引受け、伊藤たちは用心のため長崎の薩摩藩邸に泊まることになった。町には幕府の密偵が長州人の動きを嗅ぎ回り、見付かりでもすれば捕縛される恐れがあった。

 折よく、薩摩藩邸には若い家老小松帯刀が鹿児島から出向いていた。伊藤俊輔と井上聞多は小松帯刀と率直に語り合った。

 小松帯刀は薩摩藩切っての新進気鋭の開明派重臣だった。名を清廉といって天保六年十月の生まれで、伊藤俊輔より六歳年上。当時三十前後の若さながらな将来を嘱望されていた。維新後も薩摩藩を代表して政府で重きをなす人物と目されていたが生来の病弱な体質で、明治三年七月に腹部悪性腫瘍で亡くなっている。享年三十四歳だった。アーネスト・サトウは小松帯刀について「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だがそうした階級の人間に似合わず政治的才能があり、態度が人にすぐれ友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」と評している。

 小松帯刀は眉目秀麗な英才気質の顔立ちに物静かな男だった。そこに伊藤俊輔は桂小五郎とどこか似たものを感じた。

「長州藩は開国勤王を基本政策として日本を統一国家となしてゆく所存である。ついては貴藩と協力して目的を達成したい」

 伊藤俊輔は英国で胸に深く刻んだ国のありようを小松帯刀に披瀝した。そして日本が幕藩体制ではなく、国家の大政を統一して一纏まりにならなければ欧米の植民地になりかねないと力説した。

「喫緊の課題として、目前に迫った幕府との戦にどうしても軍艦と新式銃、大砲が必要である。長州藩が国境を閉ざされ藩の名目で交易が出来ない以上、貴藩の名義で買い入れるしかござらん。坂本殿の斡旋を受け入れる所存であるが万事取り計らい願いたし」

 井上聞多も小松帯刀に向かって、長崎へやって来た目的を率直に申し述べた。

「よろしゅうごあんど。万事そのように取り計らいましょ」

 小松帯刀も伊藤たちに賛意を示し、その上で藩是として長州藩を具体的に支援することに決していることを告げた。

 その日の夜更け、海援隊・多賀松太郎の案内でグラバーの屋敷を訪ねた。

 段取り良く坂本龍馬からグラバーに根回しがしてあり、商談は順調に進んだ。

 小松帯刀は長州藩が買い入れた船に乗って薩摩へ帰ることになったが、両名のうち一人が一緒に来ないかと申し入れてきた。この機会に薩摩へ長州人が赴き気脈を通じておくことは非常に大事なことだった。

 江戸時代、薩摩藩は極端に国境を閉ざし他国人を受け入れることは希だった。誘いを受けることにしたが、一人は商談を遂行するために長崎に残らなければならない。伊藤俊輔は井上聞多に薩摩行きを勧めた。井上聞多に異存はなく、即座にそのように決まった。

 伊藤俊輔は一人長崎に残った。この時の商談が長州藩の死命を決することになる。

 海援隊員上杉宗次郎たちの助けを借りて、伊藤俊輔は膨大な兵器購入に一月余りを費やしている。買い付けた兵器は多岐に渡り、しかも数量が尋常ではなかった。とても一つの藩が一度に買い付けるような量ではない。蒸気商船一隻、軍艦二隻、元込め式のミネー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺で、実に総額九万二千四百両もの大取引であった。井上聞多のいない間に、伊藤俊輔が手堅く商談を取纏めた。

 慶応元年八月二十六日、伊藤俊輔と井上聞多は海援隊の上杉宗次郎を伴い薩摩藩の蝴蝶丸に乗って馬関へ帰ってきた。伊藤俊輔と上杉宗次郎は馬関から陸路を山口へ行くことにして、井上聞多は兵器の陸揚げ指図のために三田尻へ回航した。

 伊藤俊輔と井上聞多は上杉宗次郎を伴い山口の政事堂へ上がった。毛利敬親はことの成就をいたく喜び、上杉宗次郎を謁見し褒美を与えた。

 長州藩は買い入れた蒸気商船を薩摩藩に貸し与え、実質的な運用は海援隊に委ねた。マストに掲げた船印が薩摩のため、幕府は手出しが出来なかった。幕府の許可なしに、下関が外国交易港として密かに開港された。その外国交易港の応接掛兼越荷方の役目に藩は高杉晋作を任じて、補佐役を伊藤俊輔に下命した。こうしておけば実務を伊藤俊輔が取り仕切り、高杉晋作は馬関で自由気侭におとなしくしているだろうと考えた。

 二人は飛ぶように馬関へやって来た。足取りが軽かったのにはわけがある。伊藤俊輔は田中町に家があり、そこに嫁の梅がいた。高杉晋作も白石正一郎の屋敷におうのを預けていた。高杉晋作は実務を伊藤俊輔に任せて、白石正一郎の屋敷の離れにおうのと暮した。

 この後にも薩摩藩との協力関係を嫌って報国隊士の一部が騒いだが、薩摩との協力関係の具体的な成果として大量の最新式洋式武器購入が成ったことから、藩上層部の薩摩藩に対する感情は好転した。しかし、まだ一般藩士は平然と薩賊と呼び憎しみを露にする者もいたが。七卿落ちから蛤御門の変に到るまでの遺恨は容易に消えるものではなかった。

 身の危険を冒して、伊藤俊輔はこの後も数次にわたって一人で長崎へ出向いている。その頃すでに高杉晋作は体の不調を訴え、長旅に耐えられる体ではなかった。

 購入代価の支払いに黄金を船に積み込み、伊藤俊輔は長崎へ運び込んだ。十万両近い金子である。萩の金蔵倉から千両箱を運びだすのは壮観だったという。荷車一台に千両箱二つを積んだ列が延々と続き、大勢の人夫たちが機帆船に積み込んだ。長州藩は村田清風の改革により夥しい黄金を有していた。

 長崎で取引の始末を付けると、先般の商談で買い入れたユニオン号(乙丑丸)に乗り込み、海援隊員の操船で馬関に回航してもらった。だが、意気揚々と晴れやかな気持ちではなかった。伊藤俊輔は鬱屈したように沈んだ面持ちをしていた。この長崎滞在中に海援隊の上杉宗二郎が切腹するという痛ましい事件が起こったからだ。

 上杉宗二郎は土佐の饅頭屋の倅に生れた。幼い頃から坂本龍馬に心酔し、長崎へ坂本龍馬の後を追うようにしてやってきた。勉学も優れていたが算盤勘定も出来、坂本龍馬も将来を楽しみにしていた。伊藤俊輔も武器購入に際して彼の手並みを拝見している。山口で藩主に拝謁し相応の労いの言葉と褒美を頂戴した。

 その上杉宗二郎の人物を見込み、薩摩藩家老小松帯刀が費用を負担して欧州留学をさせようとした。それが、海援隊の他の者たちの嫉みを買った。海援隊を自分ために利用したのか、と詰め寄られて腹を切らされたのである。事件後に長崎へ戻った坂本龍馬はそのことを知って号泣したという。

 伊藤俊輔にとっても後味の悪い事件であった。土佐は身分制度が厳格に守られた藩だった。関ヶ原の合戦以後、移封されて来た山内家臣が絶対的な支配をして前藩主長宗我部氏に仕えた家臣たちを虫けら同然に扱った。その藩風はあらゆる階層に及んだ。彼等の観念では饅頭屋が武士よりも偉くてはいけなかった。時代を先駆けた商社で働く者たちですら、まだ身分制度の呪縛は解けていなかった。

 もちろん伊藤俊輔にとって、他人ごとではない。百姓の倅が中間となり、今では雇士とはいえ重い役目を頂戴している。だが、いつ誰に嫉まれるか分からない。飛んでもない言い掛かりで上杉宗二郎のように詰め腹を切らされないとも限らない。

 この後も自重して、伊藤俊輔は決して一番手に躍り出ようとはしなかった。繰り返すようだが、彼が政界の第一人者として活躍を始めるのは、明治十年に木戸孝允が病に仆れ西郷隆盛が西南戦争に横死し、翌年に大久保利通が刺客に殺されてからのことである。維新の三傑が存命中には、伊藤俊輔は木戸孝允の配下として動き、後に大久保利通の麾下で働いた。国家体制や行政のありようなどに関してなら英国密留学により人より一歩先んじているとの自負はあったが、決して人より前に出ようとはしなかった。常に二番手として年上を立てながら、慎重かつ堅実に行政手腕を発揮した。

 乙丑丸に乗って、伊藤俊輔は長崎から馬関へと向かった。慶応元年秋、玄界灘の海原を白波の航跡も鮮やかに蒸気船は力強く前進する。蒼穹の大空と海原の接する水平線に溶け込むように船は進む。伊藤俊輔は舳に立ち、潮風を胸一杯に吸い込んだ。瞳には果てしない蒼穹が映っている。英国も米国もこの空の下にある。深い感慨が湧き上がり、脳裏に英国の町並が過った。懐かしいと思った。その英国から命懸けで戻り、命を賭けて藩内抗争を戦った。もう一度、伊藤俊輔は潮風を胸郭の隅々まで吸い込んだ。幕府は長州藩に兵を差し向けるべく号令を発している。今度の戦がどうなるのか伊藤俊輔には見当が付かなかったが、それすらも蒼穹の大海原を見渡すと脳裏からすっかり消え去るようだった。

 桂小五郎が軍務方参謀に据えた男、村田蔵六は大量の洋式兵器を調達すべく藩に途方もない要求を突き付けた。たとえば銃にしても最新式の元込銃一万挺を揃えるように督促した。藩も膨大な要求に驚きはしたが、村田蔵六の冷徹な算術ではじき出した勝利の方程式にしたがって、兵器の一新を急がせた。そのため藩は伊藤俊輔に洋式兵器の買い付け命令を次々と下した。そのため伊藤俊輔は藩の下命に応じて兵器を備えるべく、長崎と山口を何往復もして走り回った。

 村田蔵六という蘭書読みに戦が分かるのか、と嫉む藩士の声がしきりと伊藤俊輔の耳にも入った。累代の藩士を差し置いて立身出世した村田蔵六に対する怨念ともいえる嫉妬だ。それは村医者上りに何が出来ようぞ、という怨嗟の声として現れた。しかし、それは饅頭屋の倅は饅頭を売っていれば良い、というのと同じものだ。伊藤俊輔はそうした議論に決して同調しなかったし、むしろ秘かに実力本位で人材登用を果敢に行う藩の方針を歓迎した。忙しく働きながらも伊藤俊輔は鳩居堂での出会い以来、心の底から深く村田蔵六を信頼していた。

 

 慶応元年十月、西郷吉之助の密命を受けて薩摩藩の黒田了介が京から馬関へやって来た。伊藤俊輔は長崎へ行って不在だったため、応接には高杉晋作が当たった。黒田了介の役目は長州藩を代表して桂小五郎に上洛してもらい、薩摩藩の京藩邸で薩長連合の盟約を締結しようとするものだった。高杉晋作はさっそく山口へ赴き、桂小五郎に是非とも薩長連合をなすべきと勧めた。すぐにも桂小五郎が同調して動くと思っていたが、なぜか桂の腰が重かった。それは長州藩には薩摩藩に頭を下げてまで、援助を乞うのは恥ずべきであるとする空気があったからだった。その雰囲気が桂小五郎を逡巡させた。

 生来、桂小五郎は慎重な男だった。敢えて火中の栗を拾うような人物ではない。返事を一日延ばしに延ばして藩内の空気が落ち着くのを見計った。

 長崎から馬関へ戻った伊藤俊輔は桂小五郎がなかなか決断しないのに驚いた。すぐさま高杉晋作と共に山口へ行き、桂小五郎に上洛を勧めた。

長州藩の面子に拘る時ではない。幕府との戦に薩摩藩の協力が必要不可欠なことは村田蔵六でなくとも誰にでも分かることだ。同席した井上聞多も桂小五郎に早く上洛すべしと勧め「諸隊の反発をご懸念なさるのなら、上洛に諸隊幹部を伴えば良いではないか」と知恵を授けた。

 井上聞多の意見を容れて、桂小五郎はやっと重い腰を上げた。

 奇兵隊からは三好軍太郎、遊撃隊からは早川渉、御楯隊からは品川弥二郎を連れて行くことになった。桂小五郎の一行は黒田了介とともに十二月二十七日に北前船でひそかに馬関を出立した。

長州人では差し障りがあるため芸州人と偽って大坂へ向かい、天保山沖で薩摩藩の御用船に乗り換えた。淀川を遡って伏見に到着すると薩摩藩の村田新八が出迎えた。伏見の薩摩藩邸からは竹田街道を薩摩の護衛で上洛し、相国寺傍の西郷吉之助の家に宿泊した。二日後、小松帯刀の別荘に移り、西郷吉之助も交えて最初の会談を行った。

 だが、その席で桂小五郎は薩摩藩と長州藩の過去の行きがかりを蒸し返した。それも時系列に沿って繰り言のように子細を漏らさず述べ立てたという。こともあろうに両藩士の居並ぶ正式な席上で粘着質な性格さながらに、子細にわたって薩摩藩を糾弾した。それは決して将来へ向けて薩長連合の話し合いをしようとする場にふさわしい口上ではなかった。西郷吉之助は畏まって拝聴して「その通りでごわす」とのみ返答をしたきり困窮した表情でむっとしたまま押し黙った。

 不見識とも思われる言動だが、桂小五郎には述べなければならない理由があった。その言辞は同席した諸隊幹部を慰撫するためのものだった。薩摩藩の敵対行動によって蛤御門で多くの長州人が血を流した。薩長連合の締結に桂小五郎が意を砕かなければならなかったのは、薩摩人ではなくむしろ長州人だった。長州藩から膝を屈してまで薩摩藩に助けを乞うような態度を取ることは断じてできない理由があった。まずは筋を通さなければ長州人の反発を招き、かえって連合締結を難しくさせるからだった。

 一月七日、桂小五郎たちは小松帯刀の別荘から薩摩京藩邸に入った。

 その一室で正式な会談が始まることになっていた。が、桂小五郎は木石と化して何も語らなかった。一方の西郷吉之助も敢えて話を切り出さなかった。西郷吉之助は昔の話をくどくどと弁じた桂小五郎の真意が分からなかった。既に長州藩には具体的に銃や船を薩摩藩の名義で買い入れた。長州人は何に拘っているのかとの思いこそあれ、長州人の理にこだわる性癖が理解出来なかった。これまでの行きがかりを蒸し返す方こそ武士として恥ずべきではないか、西郷吉之助は憮然として口を閉じていた。両藩の者たちは対面したまま何も語らず、時だけが流れた。それも一日だけではなかった。十日間も彼等は何も語らないままに、いたずらに時だけが過ぎ去った。

 慶応二年正月十六日、桂小五郎はついに痺を切らした。

「明日にも長州へ帰る所存でございまする」

 と、西郷吉之助に向かって口を開いた。内心忸怩たる思いは隠せるはずもなく、表情は暗く沈んでいた。薩摩藩と連合を組まずに長州藩のみで幕府と戦うことは長州藩の滅亡を意味する。しかし、そうであっても自分の口から「ご助力願いたい」とは言えない。長州藩は強大な幕府軍に蹂躙され滅ぶも已む無し、との思いが桂小五郎の胸を掻き毟った。

「名残り惜しゅうござる」

 西郷吉之助は表情一つ変えず、会談が不成立のまま終ることを了解した。

 桂小五郎は部屋へ戻ると、仲間に長州藩へ帰ることを告げた。諸隊の幹部たちも桂小五郎の判断を「已む無し」と受け入れた。

 いよいよ帰り支度を始めようとした折りに、薩摩藩邸に坂本龍馬が姿を現した。

 坂本龍馬は長崎での用事を済ますと馬関に立ち寄って高杉晋作たちと会談した。その折、高杉晋作は上海で買い求めた二丁の六連発拳銃のうち一丁を坂本龍馬に贈呈している。その足で坂本竜馬は長州藩が護衛につけた槍術の達人三吉慎蔵を伴って上京した。正月十五日に伏見の寺田屋に泊り、不用心にも翌朝一人で京へ入った。

 坂本龍馬はすっかり薩長連合の話は出来上がっているものと思っていた。なにしろ半月以上も会談を重ねれば、細部まで詰めが終ったはずだと考えても当然だ。笑みを湛えてぶらりと無遠慮に桂小五郎たちの部屋の唐紙を引き開けて、瞬時に異様な雰囲気に息を呑んだ。

「これは何事じゃ。条約は成ったんか」

 坂本龍馬はただならぬ桂小五郎の様子に声を荒げた。

「いや、まだでござる」

 と、桂小五郎は蚊の泣くような声で言った。

「なんちゅうことじゃ、十日以上も何をしとったンじゃ」

 坂本龍馬は敷居に仁王立ちになり、荷造りをしていた桂小五郎を見下ろした。

「拙者の方から切り出すわけには参らん。たとえ長州藩が滅亡しようとも、長州人から膝を屈して薩摩藩に助力を乞うわけには参らぬ」

 桂小五郎は声を詰まらせ、俯いて涙を零した。

「何ちゅうことじゃ、桂はん。藩の面子にこだわっとる場合じゃなかろうが」

 そう言い捨てると、坂本龍馬は廊下へ飛び出すや「西郷はん、西郷はん」と叫びながら走り去った。

 西郷吉之助は居室にいた。

 荒々しい足音と共に、坂本龍馬の怒声が近付いて来るのを耳にして居住まいを正した。

「西郷はん、」

 唐紙を引き開けると、坂本龍馬は唾を飛ばして西郷吉之助を怒鳴り付けた。

「おまんにゃ長州人の悔しさが分からんのか。散々薩摩に邪魔されて大勢の長州人が仆れた口惜しさが分からんのか。その悔しさを押し殺して、京の薩摩藩邸までやって来た桂はんの胸中が分からんのか。このままじゃ長州は滅ぶ。長州が滅んでも、それでもええンか。薩摩だけで倒幕が出来るンか。藩の面子が何じゃ。わしら土州人は藩の後ろ盾もなく、多くの仲間があたら命を散らした。それもこれも国のためじゃないか。いつまで詰まらんことにこだわっとるンじゃ」

 そう叫ぶ坂本龍馬も、いつしか涙を流していた。

「分かり申した」

 ひとことそう言うと、西郷吉之助は深々と頭を下げた。

 正月十六日の昼過ぎから、薩摩藩邸の一室で薩長連合の話し合いが始まった。

 条約は主に次の六ヶ条から成っている。

 一、幕府との戦が始まったならば、薩摩藩は京に三千の兵を出し京大坂を固める。

 一、長州藩が優勢になったならば朝廷に長州藩に対する朝敵の汚名を晴らすために尽力   する。

 一、長州藩が劣勢の場合は薩摩藩が長州藩に助勢する。

 一、万一幕府軍がこのまま引上げた場合は、薩摩藩が朝廷に周旋して朝敵の汚名を晴ら   す。

 一、一橋、会津、桑名が朝廷に働きかけるようなことがあれば、薩摩藩は意を決して立   ち上がる。

 一、幕府軍を長州藩が破ったならば、王政復古のために薩摩藩は全力を尽くす。

 慶応二年正月二十一日夜、薩摩藩邸の一室に桂小五郎、西郷吉之助、小松帯刀、それに坂本龍馬が列席して酒を酌み交わした。ここに薩長連合は成立し、合意に達した六ヶ条を書面にして証明のために裏書きをした。

 薩長連合を成し遂げた桂小五郎の一行は黒田了介を伴って帰藩の途に着いた。

 大坂から薩摩藩の船に乗り、広島で上陸して幕府と応接に当たっていた宍戸備後助と面会した。そして密かに薩長連合の一件を宍戸備後助の耳に入れてから、陸路を黒田了介とともに山口へ帰ってきた。

 藩公毛利敬親は薩長連合の成立を喜び、黒田了介を謁見した。藩公は鄭重に言葉を掛けて、黒田了介が京へ帰る折りには品川弥二郎を同行させた。品川弥二郎は薩摩藩邸に身を隠し京の実情を国許へ送った。

 慶応二年は長州藩の立場が鮮明になる時期でもあった。攘夷で沸き返っていた藩論が俄かに様変わりして英国と手を結ぶ議論が出た。そもそも、英国と話し合いを持つべきと言い出したのは伊藤俊輔だった。

 伊藤俊輔は英国の実力を熟知している。同時に長崎で得た情報から、仏国が幕府に接近して幕府陸軍に仏国将官を派遣し、大量の武器や艦船を売り付けているのも知っていた。しかも国際社会で仏国と英国は勢力拡大に凌ぎを削っている。当然、幕府に仏国が擦り寄るのなら、薩摩・長州に英国が興味を示すはずだ、と推測した。それは伊藤俊輔の英国密留学の経験と国際感覚が優れていたからに他ならない。

 二月二十一日、伊藤俊輔は馬関から山口の桂小五郎に手紙を出した。内容は薩摩藩と英国が会盟を結ぶのに長州藩も加わるべきとの内容だった。そのために高杉晋作を派遣するようにと願い出た。この話には高杉晋作も乗り気になり、伊藤俊輔と鹿児島へ行った帰りに長崎から洋行しようと考えた。そのことを井上聞多に打ち明けて後事を託そうとしたが、井上聞多は寝耳に水の話に驚き、山縣狂介や久保松太郎らとともに必死に止めた。この時期に高杉晋作が長州藩を留守にするのは無謀と思えた。しかし、高杉晋作は聞き入れなかった。

 月明かりの下、伊藤俊輔は総髪を揺らして馬関の海岸通りを懸命に駆けた。馬で山口から帰りその足で竹崎町の廻船問屋白石正一郎の屋敷へ行ってみたが、目当ての病人が離れにいなかった。落胆というよりも不得手な馬に必死でしがみついていた間は忘れていた怒りが昂然と全身に甦り、伊藤俊輔はすぐさま白石邸を後にした。政事堂で耳にした軍務方の決定を一刻も早く高杉晋作の耳に入れなければならない。もちろん高杉晋作に知らせたところでどうなるというのでもないが、藩の不甲斐ない措置に怒りとも諦めともつかない憤懣が心の奥底に渦巻き、誰かに吐き出さないと気持ちが収まりそうもなかった。

あろうことか軍務方は幕府海軍に対して作戦行動を一切とらず、不戦敗で臨むことに決したという。したがって海軍局軍艦の木造帆船三隻も三田尻の埠頭に係留されたまま出撃命令は下されないことになった。これほどの重大事を村田蔵六がほとんど独断で決めてしまったというのだ。なんたることか、と伊藤俊輔は怒りよりも体中の力が抜けてしまった。慶應元年の春先から幕吏が目を光らせている街道を命懸けで数度に亘って長崎へ行き、村田蔵六が藩に差し出す軍備要望に従って大量の最新式銃器から艦船まで英国武器商人を相手に買い求めてきた。それもこれも幕府を倒すためではなかったか。

伊藤俊輔には分からない。村田蔵六という大坂の適塾で塾頭まで勤めた天下の逸材のことが、である。いまでは四十の坂を越えているが、かつて適塾を去った後の一時期郷里鑄銭司村へ帰って村医者をしていたという。だが彼の医院は流行らず、宇和島藩に招聘されて宇和島へ行き、蘭書に拠って蒸気船を建造して宇和海で走らせた。その後、江戸番町一番町に私塾鳩居堂を開く一方で幕府に招聘されて蕃書調所教授として働いていたものを、桂小五郎と伊藤俊輔が隋藩を乞いに出掛けた。当時、村田蔵六は加賀藩からも頼まれて翻訳なども手掛け、実質四百石もの収入があったという。それがわずか二十五俵博習堂教授の待遇で長州藩に帰って来た。前年、桂小五郎は首相格に就くと、直ちに軍務方参謀に村田増六を登用した。もちろん伊藤俊輔も村田増六に信頼を寄せていたが、その男の策定した作戦にしては余りにお粗末ではないかと憤慨した。

そもそも幕府艦隊に不戦敗で臨むというが、それはどういうことだろうか。長州藩は瀬戸内海と日本海に囲まれている。幕府艦隊が制海権を握って自在に海から町や港に砲撃を加えれば長州全藩が混乱に陥るだろう。さらに幕府海軍に有能な指揮官がいて、幕府陸戦隊と連携作戦をとりながら長州軍に砲撃を加えたら、村田蔵六の立てた動員計画そのものが変更を余儀なくされる事態にもなりかねない。何よりも軍艦は時代の先端科学と最新技術の粋を結集した強力な兵器だ。その圧倒的な海軍力を擁する幕府と戦って勝てるのだろうか。伊藤俊輔は激しい憤怒と恐怖を胸に抱いて懸命に駆けた。

既に初夏といえる時候だが稲荷町までの道すがら、夜の海峡を吹き抜ける風はひんやりとして疲れた体に心地よかった。英国から戻って以来めまぐるしく走り回って碌に月代すら剃ったことはないが、もはや面倒な丁髷を結おうとは思わなかった。後ろで括った総髪を揺らして駆けるうち、やがて稲荷町から太鼓や三弦の音が夜風に乗って聞こえてきた。

 大坂屋の門内へ駆け込むと「おい、何処へ行く」と門番役の三下が尖った声をかけた。

「高杉さんが揚がっているだろう」

 走りながら訊くと、目の前を走り抜けた男が伊藤俊輔だと三下に分かったのだろう。

「いえいえ、お姿は見ちゃいませんぜ」

とこたえるのにも構わず二間の石畳を三歩で駆けると、格子戸の桟に手をかけた。

格子戸を引き開けて下足番に「何処だ」と声をかけ、乱雑に草履を土間に脱ぎ散らした。

「チョイト、何処へ行かれます」

 驚いたように聞く下足番の狐顔の男に、伊藤俊輔は港の見える部屋の名を言った。

「二階白萩の間だろう、高杉さんがいるのは」

 と声をかけたときには、伊藤俊輔は式台から階段へ飛び上がっていた。

 身の軽いのは伊藤俊輔の身上だ。いつもは下足番にも声をかけるが、無愛想だったのは高杉晋作の我侭に腹を立てていたからだ。おそらく高杉晋作が若い者に「俺が揚がっていると言うな」と命じたのだろう、下足番の男は白々しくも白目を見せて「お揚がりになっちゃいませんぜ」と首を振った。しかし、その折に一瞬だけ下足番の若い者が目の端で玄関脇の広い階段を捉えたのを見逃さなかった。

 高杉晋作と共に長崎から小型戦艦に乗って帰ってきたのは二日前のことだ。その小型戦艦こそがオテントサマ号だった。オテントサマ号はグラバーが個人的に乗り回すクルーザーのつもりで購入したのだろう。実際に軍艦というにはあまりに小さい。前甲板には炸裂段を放つ最新のアームストロング砲が三門ほど備えてあるが、総トン数九十四トンの小型鋼鉄艦だった。一昔前の遠洋航海用のマグロ漁船が約二百トン前後だったから、遠洋マグロ漁船の前甲板に三門のアームストロング砲を装備しただけの代物だ。明治初期まで廻船として使われていた「千石船」が約全長二十九メートルで幅約七メートル半、積載重量で約百五十トンほどの和船だったから、千石船より少しばかり大きいだけで、軍艦としては小さいというよりも、まさに砲を備えたクルーザーというべきだろう。

沈着冷静にして算盤勘定に聡い英国人としては珍しく、グラバーは上海から長崎に届けられたばかりのオテントサマ号を無邪気な子供のように見せびらかした。わざわざ係留してある港まで高杉晋作を招いて船内を案内した。商売上の仕入れのためなら儲けの大きい、もっと大型艦船を仕入れただろうが。

グラバーにしては珍しく破顔しつつ『太陽』の意の日本語名を付した鋼鉄船を不用意にも高杉晋作に見せた。それが間違いの元だった。高杉晋作はオテントサマ号を「買う」と言い出し、グラバーが「ノー」というのも聞かず、奪い取るようにして乗って帰ってきた。対価三万九千二百五両二分を強引に後払いにした上に、操船する乗組員まで借りるという無体ぶりだった。

だが藩には「軍艦購入は海軍局の専権とすべし」との取り決めがあった。高杉晋作の職務権限では独断で軍艦を購入することは出来ない。オテントサマ号を高杉晋作が購入したとの報に海軍局のお歴々が三田尻から山口政庁へ押しかけて来た。しかし高杉晋作が勝手に軍艦を購入したという理由だけで、海軍局の幹部たちが押し掛けたのではない、ということは解っていた。

それでなくても長州藩海軍は華々しい戦歴とは無縁だった。文久三年の馬関戦争では意気揚々と出撃したが虎の子の軍艦三隻をたった一隻の米軍艦によって撃沈され、翌元治元年八月の四ヶ国連合艦隊襲来の折りには藩から出撃命令すら下りなかった。万が一にも連合艦隊を迎撃していれば、間違いなく瞬時にして撃沈されていただろう。そして今次の征長戦争にいたっては、長州海軍は作戦計画そのものから外され、海軍局幹部は面子をなくして苛立っていた。せめて軍艦購入ぐらいは海軍局の差配を仰がれなければ海軍局の立つ瀬がなかった。

しかし伊藤俊輔にはオテントサマ号をどうしても買わなければならない理由があった。海軍局がうるさく吼えるのは百も承知の上で、それでもオテントサマ号を勝手に購入して乗って帰らなければならない理由があった。しかしその理由とは何かを問われても、海軍局の連中はもちろん、奇兵隊の仲間にすら伊藤俊輔は明らかに出来ない。その口が裂けても言えない理由とは、高杉晋作が癆痎に冒されていることだった。

丸山遊廓に十日も流連けて豪快に洋行費二千五百両を使い果たして仕舞ったが、往時の高杉晋作を知る者の目には何処か覇気のない遊び方だった。現に、長崎の写真館で撮影した今に残る銀盤写真を見れば、そのやつれようから癆痎に蝕まれているのは明らかだ。既に高杉晋作の体は長崎から馬関まで陸路を歩いて帰るのは困難だった。

そのことは政事堂の廊下で会ってすぐに井上聞多にだけ耳打ちした。勘定方が目を剥いて文句を言うだろうが、高杉に罰を与えては元も子もない。もはや座敷牢への入牢にすら耐えられる体ではない。伊藤俊輔は高杉晋作を庇うべく、井上聞多に協力を仰いだ。井上聞多は高杉晋作の病状に目を剥いたが、気を取り直すと鷹揚に「任せろ」と胸を叩いた。二人の間には命懸けで英国密留学をともに決行した厚い友情が通っていた。

 案の定、勘定方で少しばかり揉めたが、井上聞多が尻を捲くってケリをつけた。

「お前たちは二言目には高杉が冗費を使ったと目くじらを立てるが、元治元年九月二十五日の夕刻に俺は俗論派の刺客に膾のように切り刻まれた。伊藤俊輔は命を捨てて、高杉晋作の決死の功山寺決起に馳せ参じて内訌戦を戦った。そもそも高杉が決起しなかったら今日の長州藩はなかった。俺たちが命懸けで奮闘していた折、お前たちは三田尻で何をしていたンだ。得心がゆくように説明してもらおうじゃないか」

 頬の刀傷跡を指で撫でながら井上聞多が凄むと、海軍局の誰も二の句が継げなかった。

無事に長崎の復命を済ました頃にはすっかり遅くなってしまった。井上聞多が今夜は湯田温泉に泊まって飲まないかと誘ったが、その日のうちに馬で馬関へ帰った。

 

馬関の町に入ると真っ直ぐに竹崎町の廻船問屋白石正一郎の屋敷へと向かった。

体調が思わしくない高杉を馬関に残して復命に山口政事堂へ伊藤俊輔一人だけで行ったのも、病を養って健康を取り戻してもらいたいとの思いからだ。しかし、馬関に帰ってみると当の高杉晋作の姿が白石邸になかった。屋敷の離れに臥せっているはずが、駕籠を呼んでおうのと二人して妓楼に揚がってしまったという。

高杉晋作は重篤な病に罹っているから看病するように、とおうのに厳しく言い付けたはずだ。酒に堪え性のない高杉が駕籠を呼べといっても、その気まぐれをおうのは叱らなければならない。元々どこか夢見ているような掴み所のない女だったが、高杉晋作の病状が一様でないことは分かっているだろうに、と伊藤俊輔はおうのに腹を立てた。

おうのは大坂屋の芸妓だったが、高杉晋作が気に入っていると知って白石正一郎が病人の相手にと落籍せた女だ。さすがの白石正一郎も匙を投げたように溜息をついた。

「裏庭から駕籠で抜け出られては、見張りようもございません」

 玄関先でそう言って嘆いてみせたが、白石正一郎は高杉晋作のやりたいようにさせている節があった。それほど症状が芳しくないということなのだろうか。

 伊藤俊輔は白石正一郎への挨拶もそこそこに、さっそく大坂屋へ向かった。

高杉晋作が揚がる妓楼は昔から土地で随一の見世と決まっている。江戸でごろごろしていた書生時代でも、金がないにもかかわらず品川随一の妓楼土蔵相模に流連けた男だ。

 階段を一段抜きに息を切らせて駆け上がり、海に面した部屋の襖を引き開けた。すると高杉晋作はおうの肩を抱いて開け放った窓の外を眺めていた。視線の先には、港に繋がれた最新鋭の小型戦艦が月夜に浮いていた。毒気を抜かれたように伊藤俊輔もその船を見た。なるほど、小型戦艦というが余りに小さい。全長三十七メートル、わずか九十四トンの三本帆柱を備えた鉄鋼艦だ。高杉晋作はスクリュー推進機を備えた最新鋭の小型戦艦に惚れこみ、漢詩まで作って独断購入の正当性を訴えた。

    一隊奇軍襲豊前

    怱聴警報喜将顛

    見機得実兵家事

    不待君裁購火船

――敵軍が豊前沖に集結したとの報に接すれば喜ばしい。機会を見つけ優位にたつのがすぐれた軍事指導者だ。藩の許しを待たずに蒸気戦艦を購入したのもそのためだ。

 一昨年八月、四ヶ国連合艦隊が馬関を襲来した折に豊前沖姫島近海に集結したので、おそらく幕府艦隊も豊前の姫島付近に集結すると読んだのだろう。高杉晋作は幕府艦隊が襲撃するのは馬関の町ではないかと考えていたようだ。いずれにせよ高杉晋作はオテントサマ号のことを奇兵隊総督山縣狂介に『底込ライフル大砲三挺相備候』と書き送り、装備された三門の最新式アームストロング砲を大いに気に入っていた。

アームストロング砲とは英国で開発された最新元込砲だ。砲筒の内側に切った施条により有効射程が四キロメートルと従来の倍近くに伸び、しかも椎実型の炸裂弾の威力が強烈だったため非人道的な武器として、非人道的な帝国主義の尖兵だった英国海軍をして装備品に採用されなかったほどの代物だ。後年、村田蔵六が強引に鍋島藩から借りた二門のアームストロング砲を加賀藩邸から砲撃して、上野山に籠もる彰義隊を壊走させたのは有名だが、戊辰戦争当時の幕府艦隊の旗艦で二千七百トン最新鋭戦艦開陽丸には九門も装備されていたのは余り知られていない。とにかくオテントサマ号は快速のうえ強力な破壊力を有する砲を備えた実用的な戦艦だが、それにしても余りに小さい。高杉晋作の視線の先の揺れる船影を港に見て、伊藤俊輔は高杉晋作が何を考えているのか訝しかった。

 当時高杉晋作は二十六歳、伊藤俊輔より二才年上だった。二人の間柄は松下村塾での出会い以来七年余と長い。利助と称していた名を俊輔と改めるように勧めたのも高杉晋作なら、明治以後に名乗る博文という名を漢籍から採って示したのも高杉晋作だった。

 伊藤俊輔は桂小五郎の中間だったため、高杉晋作と行動を常に一にしていたわけではなかったが、文久二年に高杉晋作が画策した江戸御殿山焼き討ち事件にも井上聞多や白井小助たちとともに加わっている。桂小五郎は情報収集を役目とする大検使役に就き、各地の情勢を逸早く知る立場にあった。当時の高杉晋作は全国の動向を知る上で、桂小五郎の従者で諸藩の情報に聡い伊藤俊輔を重宝に使った形跡がある。

 慶應二年三月当時、高杉晋作は藩から馬関応接掛兼越荷方を命じられていた。藩政府がそうしたのは転地療養ぐらいの気持ちだったのだろうし、伊藤俊輔を「助」としてその補佐役に任じたのも、実は高杉晋作のお守りのつもりだったのだろう。その二人が長崎へ行ったのは薩英戦争後に急接近した薩摩と英国が会盟を結ぶのに、長州藩も加わるためだった。会盟の件は伊藤俊輔の提案と周到な根回しもあってすんなりと認められ、後はかねての手筈通り西洋へ旅立つばかりだった。藩から洋行費用として二千五百両ばかり井上聞多が藩からむしり取ったが、高杉晋作は丸山遊廓でそれをすっかり使い果たした上に、港に係留されたグラバーの小型戦艦に惚れ込んだ。

「貴殿は物を売りつけるのが商売なれば、あの船も売るべし」

 そう言ってグラバーを押し切り、船員まで借りて長崎から乗って帰ってきたのだ。

 その年の四月、徳川幕府は戦争開始を六月五日と定めて長州藩に宣戦布告をし、西南諸藩に発した出兵令により諸藩兵からなる幕府軍が国境に迫っていた。

「屋敷を勝手に抜けて出られる、と白石さんが弱っとってじゃ」

 敷居に立ったまま、伊藤俊輔はなじるように言った。

 開け放たれた窓から海峡を吹き渡る夜風が汐の匂いを運んでいた。

「俺が生きようが死のうが、そんなに目くじら立てることではあるまい」

――人生に値をつければ三文ほどのものよ、およそ人なんてものは大層なものではない。

 杯を呷ると、高杉晋作は前後に何の脈絡もない散文的な事柄を呟いた。

「なにをのんきな」と伊藤俊輔は怒ったように頭を振ると膝を進めた。そして軍務方参謀会議で決まった大島口の作戦を伝えた。大島とは柳井湊の南東一里ばかりの瀬戸内海に浮かぶ周防大島のことだ。

 長州藩では征長戦争を四境の役と呼んだ。つまり、幕府軍と四ヶ所の国境で戦うということだ。その地勢から長州藩は隣国と陸路の二ヶ所と海路の二ヶ所ほどで国境を接する。陸路は山陽道と山陰道で、それぞれを芸州口石州口と呼んだ。海路の一ヶ所は誰の目にも明らかな、大声で呼べば届くほどに近い馬関海峡を挟んで接する小倉口だ。後の一ヶ所は瀬戸内海のいずれかに違いないが、その四ヶ所目の場所を巡って軍務方は頭を悩ました。

 何しろ幕府艦隊は大量の砲と兵員を満載して海を自在に動ける。何処と定めず日本海沿岸から瀬戸内海沿岸と気ままに航海しながら砲撃することだってありうる。漏れてくる噂では艦隊に三千人からの陸戦隊が分乗するという。それだけの兵員がいれば萩への上陸作戦だって視野に入ってくるだろう。果たして幕府艦隊が襲うのは瀬戸内海の上関や中ノ関や下関といった北前廻船の交易港か、それとも山口の喉元の小郡かと参謀会議は異論が続出して徒に紛糾した。ついには山口北方郊外、宮野の兵学校で將官の育成に当たっている村田蔵六からも意見を徴すべしとして使者を走らせた。

政事堂の参謀会議に呼び出され、藩重役から幕府艦隊は何処へ襲来すると思うかと諮問された。それに対して村田蔵六は憮然としたまま自明の理でもあるかのように「周防大島である」と即答した。そして「なぜ周防大島なのか」と、問いたそうな一堂の眼差しには一瞥もくれず「しかし、捨てるべきである」と断じた。まさしく一刀両断だった。

長州藩は国境を取り囲む十六万余の幕府軍と戦うことになる。よって兵員の分散は得策にあらず、というのがその理由だが、そうした回りくどい説明すらしていない。だが御前会議では異議もなく村田蔵六の言葉通りに決した。

「軍務方の進言により、藩は周防大島を捨てることにしたようです」

 伊藤俊輔が藩の方針を伝えると、高杉晋作は「フン」と鼻を鳴らした。

 どこか厭世的な気質の高杉晋作を正気に戻し奮い立たせるのは藩に降りかかる艱難辛苦だ。命を賭した功山寺の決起により長州藩を倒幕へ転回させた男だが、平時には身の置き所に困っている。幼くして藩公の小姓役を務めた筋目正しい家柄があり、正義派軍の総指揮官として内訌戦を戦った実績もある。藩では高杉晋作の指導力に期待し政事堂に上がって政務に就くように願ったが、高杉晋作は用意された官職には見向きもせず、湯田の温泉宿で酒を飲み暮らし、その挙句に洋行を藩に願い出たりした。目先の栄耀栄華に血眼になる世俗を達観した、それでいて酒と女がとことん好きな、どこか生臭い仙人のようだった。

 高杉晋作は頤を見せて杯を飲み干すと「蘭書読みの村医者めが」と低く呟いた。

 蘭書読みの村医者とは村田蔵六のことだ。村医者の出自にして緒方洪庵の許で学んだ当代随一の蘭学者だが、身分制度の範疇からすると村医者の身分は百姓よりも低い。だから蔵六の陰口を叩くときに藩士たちはそう呼んだ。しかし、実際には村田家は三段の田を耕作する農家だったし、高杉晋作も身分制度にこだわる頑固者ではなかった。武士階級が軍事を独占する世で身分制度の枠組みを取り払った軍隊を最初に創った男だが、累代の上士としての頑なまでの矜恃が無意識にそう言わしめたのだろう。

 確かに村田蔵六の描く通りなら、長州藩に兵員の余裕はない。事実、各線戦へ動員された長州軍の兵員は幕府軍に比べて十分の一程度でしかない。幕府が動員した軍は特に芸州口に関しては広島国泰寺に幕府本陣を構えた面子からか、紀州や彦根など譜代の諸藩による総数三万近い軍勢に対して、長州支藩岩国藩が国境の備えに派兵したのはわずかに二千。それに本藩から支援に差し向けた遊撃隊が三百ほどだった。石州口に配備した長州藩の軍勢も千人程度でしかないが、益田や浜田のみならず因幡からも動員された兵員を合わせて幕府軍は総勢一万五千。小倉口にいたっては老中小笠原壱岐守の下、九州諸藩から参じた幕軍は総勢三万余を数えたが、それに対し奇兵隊や撰鋒隊などからなる長州勢は千ほどでしかない。

 しかし村田蔵六が強調するほど、動員すべき兵力が長州藩に底払いしているわけではない。長州藩士からなる正規軍に加えて領内全域各地に諸隊が結成され、動員可能な兵員は万余に及んでいた。村田蔵六は長州藩の全軍に出兵令を発したのではなかった。

 軍務方参謀に就任した村田蔵六は余分な軍勢を動員するのはいたずらに物資の消耗を大きくするだけでなく、無駄なことだと考えた。陸戦で戦うのは前線の兵だけでしかなく、たとえ膨大な部隊を動員したところで後方に、実効性のない軍勢を張り付けるだけだ。

 御前会議では周防大島放棄の理由を兵員の分散を避けるためとしたが、それは方便に過ぎなかった。動員に割く兵員に余裕がないのではない。では、村田蔵六の真意が那辺にあるのか、高杉晋作は鋭い直観力でその真意を見抜いていた。

なぜ村田蔵六は幕府艦隊の攻撃目標を周防大島と予言したのか。それは征長幕府軍の本陣が広島に置かれていたからだ。何が何でも芸州口の闘いで幕府軍は大勝して堂々と山陽道から長州藩領に侵攻しなければならない。そのためには周防大島を幕府艦隊の基地として、背後から芸州口で戦う長州軍に艦砲攻撃を加えて撃破すると読んだ。

しかし、なぜ村田蔵六は「周防大島を捨てる」と断じたのか。その理由は幕府艦隊にあった。徳川幕府は千トンから二千トン級からなる巨艦を主力とする大艦隊を擁している。それは全国三百諸侯が束になってもかなわないほどの海軍力だ。しかも陸軍と違って、海軍将兵の養成は短期間にできない。よって幕府海軍の優位はここ数年で揺らぐものではないからだ。長州海軍が幕府艦隊と海戦すれば必ず大敗する。村田蔵六は幕府艦隊を慴れていた。

 幕府は安政二年から長崎に蘭国武官を教官に迎えて海軍伝習所を設けて、幕臣や諸藩士などの伝習生に操船技術を習得させ、蘭国から譲り受けた五百トンの「スームビング」(後の幕府軍艦観光丸)を使って実地に将兵養成に乗り出した。後に江戸築地へ移転して軍艦操練所となったが、人材の蓄積はこの国で屹立していた。長州藩でも嘉永六年大船建造禁止令が解かれたのを機に洋式艦船の建造に乗り出し、安政三年にスクネール型といわれる洋式木造帆船を完成させた。後に「丙辰丸」と命名される長州藩の虎の子の軍艦だが船体の長さ約二十五メートル、排水量四十七トンと明らかに時代遅れの小型艦だった。

しかし今次の戦いで一筋の光明があるとすれば、幕府軍と大海で雌雄を決する戦いではない。確かに物資輸送と後方支援に海路を用いるのなら瀬戸内海の制海権は必要だろう。しかし軍事物資の補給に陸路だけを使用する長州藩にとって、制海権の喪失は大したことではない。戦争は最終的に歩兵が地域を制圧してこそ勝利が確定する。ならば戦闘を陸地だけに限定して、圧倒的に強大な幕府艦隊と戦わなければ良い。なまじ周防大島へ襲来する幕府艦隊を迎撃すれば、数刻ならずして長州海軍は撃破される。撃破されるだけではない、海戦での大敗は長州軍の士気を落とし、他の戦線に波及する可能性さえある。それなら周防大島を幕府の切り取りに任せて、戦力で優る陸戦で決着をつけるしかあるまい。

窮理学を突き詰めるように、彼我の戦力を比較洞察して導かれた村田蔵六の作戦は掌を転がすように思い描ける。おそらくはそれが現実的で妥当な作戦だろう。しかし、周防大島を放棄するとどうなるか。島とはいっても瀬戸内海で淡路島・小豆島に次ぐ三番目の面積を有し、島民も七万人を超えている。さらに幕府軍が占拠した周防大島を兵站地として岩国の背後を衝けば、芸州口で戦う岩国藩は苦戦を強いられることになる。

 問題はそれだけではない。幕府艦隊との海戦をいつまでも回避出来るのか。上海に基地を置く西洋列強の東洋艦隊ほどではないものの、二千トンを越える巨艦を擁する幕府艦隊の威力はこの国では頭抜けた存在だ。山口の政事堂で大島口の放棄作戦を耳にした折、密かに村田蔵六が幕府艦隊を恐れているのではないかと察して、伊藤俊輔も幕府艦隊に畏怖の念を抱いた。その幕府艦隊の脅威に対して高杉晋作がどのような反応を示すのかと、伊藤俊輔は頬の殺げた痘痕面を凝視した。

 高杉晋作は膳を脇に退けると、伊藤俊輔にそこへ座るように目顔で言った。

「俊輔、近いうちに岩城山へ行けンか」

 腰を下ろすのを待って、高杉晋作が乾いた声を掛けた。

 岩城山とは商都柳井の北西へ約三里、伊藤俊輔の生まれ故郷熊毛郡束荷村と柳井のほぼ中間地点に聳える独立峰だ。瀬戸内海航路の廻船なら岩国から馬関へ行く途中で柳井湊にも停泊する。奇しくも山口で岩国藩へ使者として行く役目を桂小五郎から命じられたばかりだ。桂小五郎への復命が一日遅れて、冷やかな眼差しで見詰められ皮肉たっぷりに叱られるのを覚悟すれば、岩国からの帰りに柳井湊で下りて岩城山で一泊できなくもない。

「桂様から明日、岩国へ行く役目を命じられています。藩主吉川公に来山を承諾させよと」

 そう言って、おうのが差しだした杯を受け取った。

 岩国藩は長州四支藩の一つだが、必ずしも本藩としっくりといってなかった。浅野芸州藩と国境を接し岩国藩はかねてより左幕的な態度をとっていた。その発端は関ヶ原の合戦にまで遡る。岩国藩には東軍に破れて取り潰しの危機にあった毛利家を救ったのは小早川・吉川家の働きがあったからだとの自負があるが、毛利本藩には西軍が破れたのは両家の裏切りがあったためとの反感がある。しかし今次の征長戦を戦うには藩内にほんのわずかでも齟齬があってはならない。本支腹を合わせ全藩一丸となってこそ勝機もあろうというものだ。いよいよ幕府との決戦が避けられなくなった今こそ、藩公と吉川経幹が面会して話し合わなければならない。その段取りの適任として伊藤俊輔が派遣される。

「それなら好都合だ。岩国からの帰りに岩城山へ寄って、白井小助と会うちゃくれんか」

 そう言って杯を置くと、高杉晋作は情熱を込めて語りだした。

 岩城山には第二奇兵隊が駐屯している。総督は白井小助で軍監には世良修三や林半七らが就き、五百もの隊員を擁して上関から周防大島に到る周南守備を固めていた。

「立石孫一郎の一件で謹慎処分に罰せられ、第二奇兵隊には出兵令が下りちょらん」

 高杉晋作は記憶を手繰るように目を細めて天井を見上げた。

 この一月ばかり前の四月五日、第二奇兵隊の幹部で暴れ者の立石孫一郎が白井小助たちの留守を狙って兵を扇動して暴発し、諌止する藩吏を斬って六十九名が海上から倉敷の代官所を襲った。折もおり、藩は軍備の時間稼ぎに汲々として広島国泰寺の幕府本陣へ山県半蔵らを派遣して交渉を引き延ばしていた。決定的な打撃を与えるのならまだしも、児戯程度の暴発をして、いたずらに幕府を刺激し怒らせて開戦を早めては何にもならない。

藩は血気にはやる立石孫一郎たちの暴挙に激怒し、幕吏に追われて室積港へ逃げ帰ってきた決起軍を島田川に架かる千歳橋へ誘い出して撃ち殺した。その事件があったため、第二奇兵隊は統率がとれていないとして動員計画から外された。

「周防大島を放棄すれば、岩国藩は腹背の敵に備えなければならないことになる。さらに幕府軍が周防大島を兵站地として、本格的に柳井などへ艦砲攻撃を始めたら厄介だ。この体では走り回って陸戦を指揮するのは無理だが、船に乗って暴れるのならお役に立てるだろう」

 そう言って、高杉晋作は一つの策を授けた。

 だが、それは子供が大人に喧嘩を挑むような無謀極まりない代物だった。とてもまともな将官が決行するような策と呼べるようなものではない。が、実行すればそれだけでは済ない。周防大島を放棄すると決定した軍務方の方針に真っ向から逆らうことになる。

「高杉さん」と呟いて伊藤俊輔は絶句したが、高杉晋作は平静な眼差しでおうのの肩を抱き寄せ、港に浮かぶオテントサマ号へ視線を逸らした。

ふと、高杉晋作は死ぬつもりではないか、との思いが脳裏を過った。伊藤俊輔は泣きたいような心持で、頬が殺げてげっそりとやつれたあばた面の横顔を見詰めた。

しかし諫めても止まるまい。高杉晋作のことだ、一度言い出したら後には退かないだろう。小さく溜息を吐くと「はい」と、その策を岩城山の白井小助に伝えることを約した。

 

 岩国藩六万石は徳山藩清末藩長府藩とともに長州四支藩と呼ばれていた。だがそれは幕府によって認められた藩ではなく、支藩地も本藩の領地を削って与えられた便宜的なものに過ぎない。従って一国一城の原則により支藩に築城は許されず、岩国城山に一度築かれた小体な城は開府当初に取り壊されていた。

 移封以来、吉川岩国藩は錦帯橋で名高い錦川下流の三角州の干拓に全藩を挙げて取り組んだ。その結果幕末には実質十万石を超えていたともいわれ、質実剛健の気風が漲っていた。

 今津湊の船着場に着くと盥谷鼎助と大草修吉と名乗る岩国藩応接役の二人に出迎えられた。ゆるゆると屋形船で錦川をさかのぼり、会談場所に設えた錦帯橋河畔の旅籠の一室に案内されると、伊藤俊輔はさっそく用件を切り出した。

岩国藩は毛利長州藩と幕府との折衝窓口を任じてきたし、今後も徳川幕府との仲立ちをするつもりのようだが、徳川政権下で本家を滅亡の淵から救ったとはいえ、関ヶ原の合戦で行ったような裏切り行為を繰り返すことは許されない。長州人のすべてが心を合わせて幕府と対峙するためにも吉川公の来山が必要と、伊藤俊輔は意を尽くして説得した。

 しかし、応接役は幕府軍が国境に迫り藩内の民情が緊縛しているため、藩主が岩国を離れることは出来ないとして伊藤俊輔の要請を拒否した。

 しからば、と伊藤俊輔も覚悟を決めた。拒否されたまま山口へ帰るわけにはいかない。

「たとえ毛利宗家が滅んでも、吉川岩国藩のみが存続されるを以って是とされるや」

 伊藤俊輔は錦帯橋袂の旅籠の二階から、豊かな水を湛える錦川の流れに目を遣った。

 この度の戦に破れれば、間違いなく長州藩は滅ぶ。藩が滅ぶのみならず、この国の未来も永劫に閉ざされてしまうだろう。伊藤俊輔は視線を二人に戻すと必死の形相を浮かべた。

 数拍の沈黙の後、盥谷鼎助大草修吉のいずれからともなく返答が帰ってきた。

「分かりました。山口へ参り毛利敬親侯に拝謁なさるよう、進言いたしましょう」

 伊藤俊輔はやっと相好を崩して、二人に深々と頭を下げた。

 後日、約束通り応接係の進言によって岩国藩主吉川監物が来山し、毛利藩主毛利敬親と会談して征長戦争に力を併せて当たることを約している。

 伊藤俊輔は岩国での役目を終えて、その夜は川辺の旅籠に泊まった。岩国の湊は錦川が三角州で別れた左手今津川の河口にあって瀬戸内海を行き来する廻船が出入りしていた。

 陸路としては山陽道があるが、長州人は船便を用いるのが身についていた。参勤交代ですら大名行列は御成道を三田尻まで行き中ノ関から大坂まで船を用いた。

 一夜河畔の料亭で岩国藩の接待役と胸襟を開いて酒を酌み交わすと、当初抱いた違和感は掻き消えて十年来の友のように打ち解けた。それも伊藤俊輔が使者に選ばれた理由として出身地と関わりがあるのは否めない。藩から岩国行きを命じられたのも、高杉から岩城山へ行くように頼まれたのも、伊藤俊輔が単に器量人だっただけでなく周防人だったからだ。この地方の村に生まれ地域の人情と世情に通じていたからに他ならなかった。

 翌朝、瀬戸内海を行き来する三百石ばかりの小さな廻船に乗った。今津川河口を一町も下るとすでに瀬戸内海だ。蹴鞠ほどの波を蹴散らして、船は五月の微風を帆に受けて快走した。まるで湖を行くようだ、と一刻余りの初夏の航海を楽しんだ。

 三年前、伊藤俊輔は仲間と五人で英国へ密留学した。藩からは五年の暇を賜っていたが、伊藤俊輔と井上聞多は二年前の春先にロンドン・タイムズの記事に『四ヶ国連合艦隊による長州への報復攻撃』を実施するとあるのを見て、留学生活をわずか半年で打ち切り急遽帰国した。他の三人は英国に残ってロンドン大学で勉学に励み明治初年に帰国している。

 しかし、命懸けの決断も結局は無駄骨に終わってしまった。帰国した九日後に長州藩は無謀にも京は蛤御門で軍事行動を起こして大敗し、さらには翌々月の八月五日に四ヶ国連合艦隊により馬関は熾烈な砲撃を受けた。前年、馬関戦争で米国と仏国軍艦の砲撃により徹底的に破壊されたために、馬関海峡の砲台は百姓町人にまで動員令を発して馬関の要所々々に台場を築いて西洋艦隊の襲来に備えたという。しかし、すでに西洋では台場に砲を据えるのは時代遅れで、軍艦の襲来に備えるには堅固な要塞を築くのが常識になっている。そうした西洋軍事々情を井上聞多とともに藩首脳に開陳したが、彼らは一切耳を傾けなかった。そして、その結果は火を見るよりも明らかだった。

四ヶ国連合艦隊に撃破された戦後処理を任されたが、伊藤俊輔にとって西洋列強が何を要求してくるかは想像に難くない。アジアの各地を見れば歴然としている。砲艦外交という言葉がある。圧倒的な武力で屈服させ、鼻面を引き摺り回すのが彼らの常套手段だ。

伊藤俊輔は留学で得た知識と英語を駆使して連合艦隊と和睦の交渉に臨み彦島の租借を阻止した。損害賠償の交渉には通事として船で横浜へ赴き、困難な交渉のすえ賠償請求の矛先を長州藩から幕府へ向けさせた。英国留学の成果が遺憾なく発揮された交渉だった。

その後、井上聞多とともに長崎へ下り英国商人と折衝して膨大な武器取引を取り纏めた。それも変名を用いて幕吏の目を逃れての隠密行動だった。これまで伊藤俊輔は何度も命を懸けて走り廻ってきたが、幕府に破れればそうした努力はすべて水泡に帰してしまう。

島が近づくにつれて、次第に大きくなる周防大島の島影を伊藤俊輔は感慨を持って見つめた。ちなみに、岩国から柳井へ船で向かえば目にするのは周防大島でも安下庄から久賀にかけての東北の海岸線だ。そこは瀬戸内海でもさらに島陰の内海に面しているため、久賀沖は波の穏やかな格好の停泊地だった。廻船は周防大島と本土を隔てる鯛釣りで名高い渦巻く大畠瀬戸を通って柳井湊に碇を下ろした。

 何人かの乗客と共に艀に乗り移ると、伊藤俊輔は振り返って廻船を仰ぎ見た。和船はあたかも竹篭を浮かべたような船だ。堅牢さに欠け横波への復元力に弱い構造といえる。洋艦のように龍骨を用い蒸気機関を備えた頑丈な鋼鉄艦でなければ大洋を自由に往来することはできない。そのためにも目を覆うばかりの科学技術と、鉄に関する工業技術の遅れを何とかしなければならない、そう思って深く溜息をついた。密留学した仲間のうち英国に残った三人がロンドン大学でしっかりと学んで帰ってきたとしても、彼らがその成果を存分に発揮できる国に、この国を変革していなくては何にもならない。

「大政を統一して開国をなし、以ってこの国を富ませなければならない」

 なによりも国の大本となる政治体制の変革こそが大事だ。まずは政治体制を一新しなければならない。英国でそう思い到ったが、それは何も伊藤俊輔だけに限ったことではない。半年も英国に暮らせば誰にでも容易に分かることだ。しかし、問題はその先にある。この国の幕藩体制を打破し三百諸侯を一つにまとめなければならないが、欧米諸国の国家の仕組みを詳細に知り、大政を統一した日本に植え付けるには様々な困難が目の前に立ちはだかるだろう。果たしてこの国の民に欧米諸国のような国家の有り様を分からせることができるのだろうか。

 元冶元年六月に急遽帰国した井上聞多と伊藤俊輔は御前会議で重役たちに四ヶ国連合艦隊と戦うのが如何に愚か論述した。そして英国の社会の成り立ちから科学技術がいかに進歩し文明社会がいかなるものか説明した。井上聞多は喉が裂けるかと思えるほど熱心に述べ立て、激しく弁じてついには吼えた。彼らは感じ入ったように話に耳を傾けたが、ついに発進論に凝り固まった藩の方針を変えなかった。それはなぜだろうか。

 井上聞多や伊藤俊輔が西洋事情を論述したからには、すでに藩首脳は無知ではない。世界情勢を承知した上で、その後も遂行した愚かな政策は何だったのか。彼らはたとえ知識を得ても状況を的確に判断できないほど蒙昧な為政者ということなのだろうか。揺れる艀から伊藤俊輔は暗く遠い道のりを眺めるような鋭い眼差しで柳井の町並みを見詰めた。

 

 商都柳井は白壁の町ともいわれ、古くからこの地域の瀬戸内海交易の中継地として繁栄してきた。萩や山口といった日本海や内陸地の長州藩政治中枢の地から遠隔地にあるため、幕府との戦が近いというのにこの町に煙硝のキナ臭い匂いはまだ漂っていない。瀬戸内の明るく自由で伸びやかな雰囲気の大通りには多くの町人が行き交い、萩とは違った賑わいを見せている。伊藤俊輔は繁華街を脇目も振らず大股に柳井川に沿った家並を抜けて、稲穂の出揃った田園風景の畦道を北西へ向かって歩いた。これから白井小助と会って、高杉晋作から頼まれた案件を果たさなければならないとの思いが自然と足を速めさせた。

白井小助は家老浦家兵学者の家に生まれ、十五の年に学問修行で江戸へ出た。陪臣という身分が藩で活躍する場を奪い彼の世間を狭くしたが、そうした出自は百姓の生まれの伊藤俊輔の境涯と似通っている。今では四十の坂を越えているが剣技と学識に優れ、その志士歴は「癸丑(嘉永六年)以来」と図抜けて古い。安政の大獄で吉田寅次郎が伝馬町の牢獄に繋がれた折り、備前長船祐定の愛刀を七両二分で処分して差入に用立てたほどの筋金入りだ。文久三年の人材登用令により、長州藩士に取り立てられたのも伊藤俊輔と似ている。高杉晋作が創設した奇兵隊にも馳せ参じて軍監となり、山縣小介とともに新兵の銃陣教練などに当たったが、その最中にゲベール銃が暴発して右目を失っていた。

岩城山は柳井新田開作の外れ、田布施村と塩田村の境に聳える三百五十二メートルと小高いながら裾野の広い独立峰だ。陽差しが大きく傾き周防の山並が長く影を曳いた頃、伊藤俊輔は田布施の登山口に到り二人の歩哨から誰何された。伊藤俊輔も二十四と若いが二人の隊員も二十歳前後の若者だった。彼らは伊藤俊輔が長崎で買い入れた真新しい元込のスナイドル銃を誇らしそうに構え持ち、その姿は筒袖に股引きの軽装だった。

「長州藩士馬関応接役助伊藤俊輔である。役目により白井小助殿へ面会にやって来た」

 明快にそう言うと歩哨は敬礼をして道をあけ、伊藤俊輔は登山口へ足を運んだ。

 林檎の皮を剥くように山を一周半も廻って山頂にたどり着いた。概して周防の山々はなだらかな稜線を持ち、切り立った険峻な山容を探すのは難しい。岩城山もそうした形状をなし、山頂は広く眺望も開けている。そこには古くから神護寺が建っていたが、今では他に兵舎が三棟と厩舎に病院まで建てられていた。

 山頂から眺める景色には目を見張らせるものがあり、足元の田布施から平生柳井へと広がる平野の緑と夕日にきらめく瀬戸内海に目を楽しませた。伊藤俊輔は山頂の南端へ歩み寄ると汗にまみれた顔や首筋を手拭いで拭き、誰憚ることなく衣紋をくつろげて風を入れた。

 間もなく呼びに来た兵卒の案内により、伊藤俊輔は神護寺の本堂に上がった。そこが本陣で隻眼の白井小助や世良修三、それに林半七らの他にも顔見知りの幹部たちが揃っていた。軽く目顔で挨拶をしながら案内されるままに阿弥陀仏を背にして座った。

「幕府艦隊は周防大島に襲来すると、軍務方は睨んじょる」

 長州人の常として、伊藤俊輔はまどろっこしい挨拶を省いた。

 対する白井小助たちは予期していたかのように別段驚きを現さなかった。それよりも、

「して、軍務方はいかようになされるのか」

 と、幹部たちは一様に真剣な眼差しで伊藤俊輔を覗き込んだ。

 岩城山に篭もり日々熾烈な訓練に明け暮れているが、第二奇兵隊に出兵令は下りていない。兵を預かる幹部たちにとっては無念の極みだろう。白井小助たちは目に力を込めた。

「捨てるというちょる。周防大島は幕軍の切り取りに任せる、とした」

 と伊藤俊輔が告げると、幹部たちはあからさまに落胆の色を露にした。

「何を考えとってじゃ、軍務方は。幕府軍に蹂躙される七万島民はどうなるンじゃ」

 と、世良修三が喚いた。

 第二奇兵隊の駐屯する岩城山は周防大島から近く、隊員に島民出身の者も大勢いた。ちなみに、世良修三も周防大島椋野の出自だった。

「それでじゃ、高杉さんが軍務方の決定を無視しろ、と」

 声を顰めて、伊藤俊輔は高杉晋作から聞いた作戦を授けた。

 だが作戦といっても大それたものではない。伊藤俊輔の目にはまったく杜撰で無謀な悪戯程度としか思えない。その概要は襲来した幕府艦隊に高杉晋作が小型戦艦で奇襲攻撃を仕掛け、その後で第二奇兵隊が周防大島へ上陸して幕府陸戦隊と戦うというものだ。高杉晋作流の洒落かとも思える作戦で、軍務方の正式な作戦会議に持ち出せば到底相手にされない代物だが、しかし高杉晋作の眼差しはあながち冗談を言っているようでもなかった。

 おそらくそれは高杉晋作の天啓とでもいうべき直観力だろう。村田蔵六の窮理学を突き詰める、冷徹な目で戦力を数式でも解くように解析する洞察力とはまた違った才能だ。伊藤俊輔は村田蔵六の洞察力を頭から信頼したのと同じほど、高杉晋作の直観力に人生を賭けている。その矛盾した生き方こそが伊藤俊輔を明治の功労者にした。

時代を見通すには一つ一つの事実を検証する洞察力もさることながら、最後の決断は直観力に拠る。ただし、当然のことながら直観に確たる根拠はない。だがそもそも、時代の変わり目には必ず価値観の大転換を伴う。時代の変わり目には従来の価値観が否定され、新しい価値観が登場する。よって確たるものは何もない。伊藤俊輔の直観力が確かなことは功山寺の挙兵に際して誰よりも逸早く、高杉晋作に合力を申し出ていることで尽きる。

 高杉晋作がなぜ無謀な奇襲作戦を考えたのか。その理由は長州藩が文久三年の馬関戦争で西洋列強の戦艦と戦ったことにある。その戦で藩士からなる「撰鋒隊」は全く役に立たなかった。砲撃戦が始まると、彼らは桟を乱して逃走した。持ち場に残って最後まで戦ったのは庶民からなる奇兵隊だった。

その経験が高杉晋作にはあった。陸上の砲台で戦艦と戦うのですら決死の覚悟が必要だ。ましてや海上で艦船が大砲を撃ち合うのは想像を絶する覚悟がいるだろう。それも生半可な覚悟ではない。艦が被弾すれば火炎が船内を走り、舷側の鋼鉄も材木も人肉もけし飛ぶ。弾薬庫に火が入れば軍艦は大爆発を起こす。しかも海上であるため、逃げ場はない。そうした熾烈な海戦をも辞さじとする覚悟が幕府海軍の将兵に果たしてあるだろうか。

 高杉晋作は幕府艦隊の将官たちにそうした覚悟は希薄だ、と睨んだ。それは高杉晋作が奇兵隊を創設したのと同じ理由からだ。いうまでもなく幕府艦隊はこの国で最新鋭にして最強の艦隊だ。そしてそれを指揮し命令する一人一人の将官たちも操船に熟練した死をも恐れない立派な人物に違いない。だが、地上で敵と刀を交え切り結んで死ぬのと、艦船で砲弾を浴びて爆死するのとでは大違いだ。

 武士は名を惜しむ。いかに武士らしく槍を振るい刀で斬り込んだか、証言する陣中目付がいてこそ戦死しても家名が立つ。しかし、海戦ではそうはならない。砲撃されれば艦内は修羅場となり直撃を受ければ人は肉片となって飛び散る。敵と顔を合わせることもなく、一合も切り結ぶこともなく戦死してしまう。これほど無残な犬死はない。

いうまでもなく徳川幕府は軍事政権である。武により天下を統一し、天皇より征夷大将軍に叙されて全国を統べている。その実力は八百万石ともいわれる領地に各地の要衝と金銀をはじめとする鉱山を押さえ、江戸には俗に旗本八万騎といわれる直属軍を擁していた。戦国の余燼が漂う開府当初、軍事力は当時の世界でも一目置かれ、キリシタン弾圧により宣教師を磔刑に処してもスペインはわが国に侵略戦争を仕掛けなかった。当時キリスト宣教師の背後にはスペイン艦隊が待ち構えて、宣教師へのわずかな無法行為を楯に残虐な侵略戦争を仕掛けるのを常としていた。そのスペインをしても日本進攻を躊躇させたほど、当時の徳川幕府は強大な軍事力を有していたのだ。しかし、それから二百数十年も続いた鎖国と太平の世によって軍事力は陳腐化し、旗本八万騎も幕府官僚の文官に堕していた。

そうした状況の中で幕府海軍はある種の期待を担って誕生した。安政二年に長崎に海軍伝習所が開設され「海軍と海運の一致」を主張する勝麟太郎が幕府海軍の主導権を握った文久三年から元治元年にかけて外国製の中古商船を大量に買い付けて幕府軍艦に改造した。そのため幕府艦隊は急速に規模を拡大し、士官の任用にも個人の能力に基づくものへと改変されていたが、蛤御門の変により勝麟太郎は失脚して海軍の人事制度も以前の門閥に復してしまった。同時に幕府海軍が近代的な海軍へと成長する途中の段階で止まってしまったのも高杉晋作には幸いした。

本来なら幕府近代化の象徴として幕府艦隊は幕府組織の中で重く用いられなければならない。しかし人は自分の観念で相手を観る。幕閣が文官の集まりなら、幕府艦隊は常に「艦隊」として燦然と輝いていなければならない、と考える。つまり幕府艦隊は戦の道具ではなく、徳川幕府の武威と権力の象徴であり続けなければならない。つまり「燦然と輝く」とは比喩ではなく、文字通り物理的に「燦然と輝く」ことだ。万が一にも激しい海戦により艦船が被弾し毀損したならば、艦隊司令長官は始末書で済ませられない責任を問われることになる。

そして累代の家柄により選抜された海軍将官たちは「累代の家柄」という呪詛から逃れられない。つまり指揮官は当然にして筋目正しい幕臣の子弟ということになる。本来なら勝麟太郎が目指したように、海軍伝習所の成績により身分制度の垣根を越えて人材登用をすべきだった。しかし勝が失脚すると、そうした空気は掻き消えてしまった。

その結果累代の家柄というだけで、冷や飯食いの厄介者として生涯を終えるはずだった名家の次男や三男が期せずして海軍の枢要な御役を頂戴した。そうしたらどうなるか。望外の僥倖により手にした地位を守り、失脚を恐れるのが人情だ。

幕府艦隊の将官が恐れる失態とは何か。当然のことながら、それは所管する艦船が被弾し損害を蒙ることだ。長年にわたって教練を積んだ乗組員が戦死することよりも高価な戦艦を失う方が重大事だ。何があっても艦船が大破したり、間違っても沈没して艦を失うような事態があってはならない。たとえ目の前で幕府陸戦隊が攻撃されていようとも、彼が管掌し指揮する艦船が無事なら良い。幕府艦隊はそうした原理で行動するはずだ。

しかし幕府艦隊の将官がそう考えたとしても責められることではない。彼らに決死の覚悟が希薄だったとしても、それは武士として惰弱なわけではない。ただ二百数十年に及ぶ大平の御代が戦国の世を駆け抜けた野武士たちを惰弱な官僚にしてしまっただけだ。

長州藩にもそうした苦い経験がある。四ヶ国連合艦隊襲来では藩士からなる撰鋒隊は守備していた台場の近くで砲弾が炸裂しだすと桟を乱して蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、最後まで持ち場を死守したのは山縣小介の率いる奇兵隊だけだった。また内訌戦でも山間部の絵堂に藩正規軍が五倍以上の大軍で三度押し寄せたにもかかわらず、百姓町人兵と嘲り笑っていた軍勢に三度とも撃ち負かされた。個々人が対面して雌雄を決する戦国時代の戦なら、剣技に優れた者が勝つだろう。しかし時代は大きく変わり戦術も様変わりしている。将兵は作戦を考える参謀であり艦船を操る技師であり、罐焚きの火夫であり砲を放つ砲手だった。

だが、いかに最新鋭の戦艦でも指揮官に自艦への砲撃をものともせず海戦に臨み、艦船の戦闘能力を存分に発揮する決意がなければ、それはたちどころに海に浮かぶ巨大な張子の艦隊と化す。高杉晋作はその慧眼で幕府艦隊は張子の艦隊と見抜いた。が、そう睨んだのは高杉晋作の直観でしかない。万が一にも幕府艦隊の将官が死をも恐れない使命感と戦闘意欲に燃えて万全の備えをしていれば、その海域に小型戦艦のオテントサマ号により単独で突撃するのは自爆行為だ。伊藤俊輔は表情を暗くして高杉晋作の作戦を授けたが、白井小助たちは高杉晋作の作戦を聞くとその危うさを一顧だにせず、晴れやかにして無邪気な笑みを浮かべた。伊藤俊輔が感じている懸念は彼らの脳裏には微塵も去来しなかったようだ。

『高杉晋作』という名は諸隊幹部にとって現人神の響きを持つ。いわばその名により中間足軽にも及ばない草莽の者たちが腰に差料を帯び肩に銃を担いで軍事行動を起こしても『一揆』としての咎めを受けなくなった。高杉晋作の創設した奇兵隊が端緒となって、藩内各地に百姓町人からなる諸隊が続々と結成された。奇兵隊の前例がなければ、それらは暴徒群集による『一揆』と見なされかねない。慶應元年正月の藩内戦争で高杉を総大将とする正義派軍が勝ったため、草莽の諸隊も藩正規軍に組み込まれていた。

 第二奇兵隊の幹部たちは伊藤俊輔の持ち込んだ策を信じ難いほどの無邪気さで朗報と喜び、山頂のささやかな酒宴はいつ果てるともなく深更まで続いた。

 

 翌払暁、伊藤俊輔は岩城山を下りると陸路を急いだ。

 汗みずくで山口へたどり着き、政事堂へ上がったのは夕刻近くだった。

 当時、木戸準一郎と改名した桂小五郎は病的なほどに気難しくなっていた。復命を終えた伊藤俊輔を労うでもなく、

「えらく手間取ったようだが、物見遊山に岩国へ行ったのではあるまい。オテントサマ号購入で海軍局が軍務方へねじ込んで来とるぞ。何とかしろ」

 復命に執務室を訪れた伊藤俊輔を、桂小五郎は頭から叱りつけた。

 余りにも非礼な言動ではあったが、桂小五郎との主従関係は伊藤俊輔十八才の秋口からと長い。年代でいえば安政年間の終わりから文久三年五月に英国へ密留学に旅立つまで、四年近くを桂小五郎の従者として仕えた。それだけに桂小五郎の方に遠慮がなかったといえなくもない。伊藤俊輔は「はい、直ちに」と返答をして、長い廊下を軍務方へ向かっているとその部屋の方角から井上聞多がやってきた。

「おお俊輔ではないか、軍務方へ何か用か」

 井上聞多は愛想良い笑みを浮かべた。

 六才も年上でしかも百五十石上士の出自だが、英国密留学以来親しい間柄になっていた。

「いやいや、桂さんから海軍局が怒鳴りこんどると聞いたもので」

「ああ、そのことなら俺がケリをつけた」

 と、涼しい顔で笑った。

「海軍局の連中にお前たちは艦船購入に立ち合わせろというちょるが、洋式艦船について俺や俊輔より詳しい者がいるのか、と怒鳴ってやったらすごすごと三田尻へ引き上げたぜ」

 そう言うと、井上聞多はちらりと振り返って軍務方の部屋へ視線を遣った。

 英国への往路では井上聞多と伊藤俊輔は共に水夫として三ヶ月も酷使された。海軍局の誰よりも洋艦に詳しいのは自明の理だ。なるほど井上聞多にすごまれて言い返せる海軍局幹部は誰もいない。しかし伊藤俊輔にはそうした言辞を吐くことは出来なかった。伊藤俊輔が累代の藩士からなる海軍局幹部を相手に、井上聞多の真似をするわけにはいかない。志士としての経歴は伊藤俊輔に優る者は誰もいないが、上士の幹部連中を元百姓の倅が怒鳴りつけては収拾がつかなくなる。文久三年三月にやっと『育』制度により中間から藩士に取り立てられた者が上士を叱り飛ばしてはならないのだ。伊藤俊輔は井上門多に「そうでしたか」と頭を下げた。

「今夜は山口に泊まるのだろう。どうだ、湯田温泉で芸者相手に一杯やらないか」

 井上聞多が差し出した右手の人差し指を曲げて誘ったが、伊藤俊輔は首を横に振った。

 高杉晋作が岩城山の首尾を待っているだろうし、なによりも馬関田中町の小間物屋には十九歳の新妻お梅が待っている。

 

 山口から馬関へ戻ると、その足で白石正一郎の屋敷へ行った。離れからは珍しく三味線と渋い喉が聞こえていた。高杉晋作は自前の道中三味線を持つほどに三弦に親しみ、弾き語りに都々逸を即興に作っては唄った。

さっそく病床を見舞った伊藤俊輔に、高杉晋作はオテントサマ号の乗組員を出してくれるように海軍局に掛け合ってくれと頼んだ。いかに小型戦艦といっても動かすとなると罐焚や水夫や砲手など何やかやと、少なくとも二十人前後の人手が必要となる。それを海軍局に頼むのは購入の経緯からすれば無理な注文に思えた。が、伊藤俊輔は即座に頷いた。

「オテントサマ号を高杉さんが勝手に購入したと海軍局の連中はカンカンですが、海軍局幹部には草創期から桂さんや来原さんたちが面倒を見た顔見知りの古参兵も残っていますから、その方から頼んでみましょう」

 そう言って、伊藤俊輔は安心させるように微笑んでみせた。

 離れから廊下を伝って母屋へ行くと、白石正一郎が心配顔で待ち受けていた。

「幕府艦隊が周防大島へ襲来したら、高杉様はオテントサマ号で出撃されると仰せですが」

――止めさせてはもらえないでしょうか、とその目顔が訴えていた。

 高杉晋作は長州藩士として人一倍強い矜恃を持っている。藩の存亡を賭けた戦のさなかに竹崎町の屋敷の離れで病臥しているのは生身を裂かれるほど辛い。それならいっそのこと戦場で死ぬ方が良い、そう覚悟を決めたとしてもなんら不思議ではない。

「高杉さんが一度言い出したら、後には退かないでしょう」

そう言って、伊藤俊輔は沈痛な思いに眉を曇らした。

蘭書読みの村医者は幕府艦隊と正面からまともに戦う作戦を考えるから駄目なのだ、と高杉晋作は言った。しからばまともでない作戦とはいかなるものかと聞くと、「幕府の肝を抜くのさ」と言って薄ら笑いを浮かべた。奇襲作戦がすべてなのか腕を組んで考えていると、白石正一郎が顔を寄せ憚るように声を落としてひそやかに訊いた。

「いよいよ戦が始まるようですが、勝てるでしょうか」

 と、誰もが疑問に思いつつも心の奥底に秘している言葉を口にした。

「勝てるのか」と、廻船問屋を営む白石正一郎がそうした疑問を抱くのは至極自然なことだ。商売柄各地を巡る廻船が日々馬関の港に入り、船頭たちから全国の動きが耳に入る。彼らの話によると幕府は必勝を期して将軍徳川家茂が大坂城へ入り、西南諸藩に命じて総勢十六万ともいわれる軍勢を長州藩へ差し向けている。海軍に関しては当然のこと幕府艦隊の威容を藩幹部の誰よりも詳しく承知している。そうした新しい知識を寄せ集めて考えれば、どのように理屈を捏ねても長州藩勝利の結論は見えてこない。

 それは白石正一郎が特別に心配性なのではない。政事堂でも白石正一郎と同じ質問をくどいほど繰り返す男がいた。それも軍務方総参謀に向かって何度も繰り返した。

「幕軍と戦って勝てるでしょうか」

 と、くどくどと同じ質問を繰り返す男、それは桂小五郎だった。

桂小五郎は自分が軍務方最高幹部に任命した村田蔵六に繰り返し同じ問を浴びせた。

 だが桂小五郎の病的ともいえる恐怖心を笑うことは出来ない。藩論は倒幕で統一され、この年の始めに坂本竜馬の仲立ちで薩長連合の盟約も締結された。しかし果たしてそれで万全といえるだろうか。たとえ屋台骨が腐りに腐り切っているとしても、二百数十年も連綿と続いてきた幕府を洋式大砲と元込銃だけで倒せるだろうか。

長州藩の首相格に就いた男は不安の色を隠せなかった。蛤御門の変に破れて命からがら京を脱出して一年半も但馬出石に潜んでいたためか、桂小五郎は病的なほど疑い深くなっていた。

 しかし村田蔵六は繰り返される質問に怒るでもなく、同じ質問に同じ答えを返した。

「兵卒に到るまで新式の元込銃を持たせることです。さすれば負けませぬ」

 と素っ気なく言い捨てると、政事堂を後にして山口北郊外の宮野へ帰っていった。

 村田蔵六は戦争というものを窮理学の数式のように考えている。糧秣の手配から武器弾薬の備えと兵員の数など、彼我の火器の相違と兵卒の鍛錬度を比較して軍の優劣を数式化して勝つための作戦を考える。広大な平原で戦うのなら戦線は長くなり兵員の多寡が勝敗に重大な影響を及ぼすだろう。しかし芸州口も石州口も小倉口も幸いにして広大な平野ではない。戦線はそれほど長いものとはならず、むしろ装備する火器と作戦こそが勝敗を左右する。それは既に慶應元年正月の藩内戦争大田・絵堂の戦いで実証済みだ。五倍する萩正規軍を相手に奇兵隊を主力とする百姓町人軍が数度に亙って撃破した。それは偏に火器と狭隘な山道を利用した作戦の勝利であった。萩正規軍は先込のゲベール銃を装備していたが、諸隊は元込のミネーやスナイドル銃を装備していた。先込と元込とでは性能で六倍ほどの開きがあった。内訌戦の経験から兵員の多寡は大した問題ではないと既に証明されている。具体的に証明された事柄に疑義を抱き怯えるのは愚劣だ。

 藩内抗争が終わって間もない慶應元年五月のある日、軍務方で今後の軍政を巡って議論が沸騰したことがあった。藩是として倒幕を決したからには軍の早急な整備と増強が必要なのは火を見るよりも明らかだが、その目指す軍備と実現可能な方策を定めなければならなかった。当然のように新式銃を装備すべきとする意見と、剣槍を重視すべきとの意見が激突した。しばらくの間参謀たちが口角泡を飛ばしているのを一人の新任参謀が部屋の片隅で聞いていたが、やおら立ち上がるとすべての議論の腰を折るように両手を振った。額が広く突き出て濃い眉の端がピンと撥ねている異形の男は村田蔵六だった。

――幕府軍との決戦までそれほど日時はない。おそらくは一年程度か。よって堂々巡りの議論に無駄な時を費やす暇はない。そうした状況を手短に述べたうえで、

「長藩の兵は弱い」

 と、村田蔵六は御神託のように厳かに言い放った。

 何を言うか、と血相を変えて憤る藩士たちに向かって、

「薩兵の鍛錬度と比べれば明らかである」

 と、体に叩き込む薩摩示現流の苛烈な稽古を持ち出して反論を封じ、

「よって、一万挺の新式元込銃が必要である」

 との結論を一同に得心させ、爾来わずか一年で藩兵制の近代化を成し遂げた。

 伊藤俊輔は村田蔵六の明快な論理を幼児のような単純さで信じた。そのため命を賭けて幾度となく長崎まで行き、軍務方が要求する武器購入を手堅く取りまとめてきた。

「今次はこれまでのような面子の戦じゃありません。村田さんの理詰めの戦ですけえ」

――だから勝てる、と伊藤俊輔は白石正一郎に微笑んでみせた。

 

 翌朝、下関港から廻船に乗せてもらって三田尻へ出掛けた。

 断られるかも知れぬとの懸念を抱きつつ海軍局の門をくぐったが、あっけないほどの杞憂に終わった。高杉晋作が小型戦艦で幕府艦隊に突撃するが手伝ってくれないか、と持ちかけると海軍局幹部たちは二つ返事で引き受けてくれた。出航期日について綿密な打ち合わせを求めるどころか、肝心の突撃作戦計画すら問う者はいなかった。

勝手に高杉晋作がオテントサマ号を購入したと、政事堂へ押し掛けて派手に文句をつけたのは憤懣の発露の一つに過ぎなかったようだ。今次の征長戦争で海軍局がすべての作戦から外され、無視されたことに対する鬱憤晴らしだった。

高杉晋作が合力を要請した奇襲作戦は軍務方には内密だと断ったが、海軍局はそんなことはお構いなしだった。さっそく三田尻や国分の商家など四方八方へ大っぴらに薪や糧秣を手配して海戦の準備を始めた。

 高杉晋作が単独奇襲攻撃を敢行するつもりだと広まると、藩の軍務方が慌てた。

村田蔵六はその洞察力により非難されるのも承知の上で、周防大島を捨てると決した。それが藩の正式な作戦だったが、高杉晋作があっけなく覆してしまった。高杉晋作の作戦は無謀だが、いくつかの幸運に恵まれたとしたら、まったく勝機がないわけでもない。軍務方は渋々ながら黙認する形をとった。

 五月二十七日、高杉晋作は唐突に海軍御用掛に抜擢され、宣戦布告の日を一日過ぎた六月六日に長州藩海軍総督に任命された。長州藩海軍総督の前任者は松島剛蔵だったが、元治元年に正義派政務役の一人として捕らえられ、十二月の内訌戦前夜に他の正義派政務員六名とともに野山獄で斬首されて以来空席になっていた。

 海軍総督になったが、高杉晋作は碌に海軍将官の教練を受けていない。万延元年二月、海軍局の前身軍艦教授所に入ったが、丙辰丸に乗って萩から江戸へ回航しただけで酷い船酔いに悩まされ「船は体にあわん」と、勝手なことを言って高杉晋作はその年の八月に辞めている。海軍士官の経験はその半年だけだが、軍務方はそうした経歴にも目を瞑った。

 伊藤俊輔が海軍総督に抜擢されたと告げても、本人は別に嬉しそうな顔をしなかった。

「四角四面な桂さんの考えそうなことよ」と、高杉晋作は鼻先で笑った。

 しかし高杉晋作の海軍総督就任よりも、作戦そのものが藩の承認を得たことの方が大きな意味を持つ。つまりこの作戦に手を貸す者が藩から罰を受ける心配をしなくて良くなっただけではなく、作戦に要する物資や兵員の手当や糧秣を軍務方に要求できる。高杉晋作は物資の調達は伊藤俊輔と井上聞多に任せておけばなんとかなるだろう、くらいに思っていたようだが、後方支援の任に当たる者の苦難は想像を絶する。功山寺挙兵から始まった内訌戦では糧秣から武器弾薬の手配まで、高杉晋作はすべてを伊藤俊輔に任せっきりにした。しかし任された者の苦労は並大抵ではない。今度のオテントサマ号の奇襲作戦に関しても「俊輔あの船を買う、後は頼むぜ」と、高杉晋作は丸投げにした。今回の奇襲作製は軍務方の知れるところとなって糧秣や薪炭の心配をする必要がなくなった。軍務方に知られて、心底安堵したのは伊藤俊輔かも知れなかった。

 

 慶應二年六月七日夕刻、会所の土間に入ってきた男が下役人を相手に大声で話していた。

顔を上げて役所の入り小口を見ると、その男は大坂から新潟の間を往復する北前廻船の船頭だった。どうやら朝早く芸州宇品を出港して、つい先刻下関に着いたばかりのようだ。昼下がりに通過した上関付近で幕府軍艦が村や町を砲撃していたと喚いる。帳付けしていた伊藤俊輔は筆を置くとその船頭を帳場格子越しに手招きした。

船頭の話によるとその日の昼前、宣戦布告の日から遅れること二日目にして幕府艦隊が攻撃を仕掛けてきたようだ。一千トン級の幕府軍艦が一隻、柳井から突き出た半島沖に姿を現すといきなり本土の室津を砲撃し、向かい合う長島の交易港の上関をも砲撃した後、周防大島へ向かったという。上関や室津ではそれほどの被害を受けなかったが、昼下がりから襲われた周防大島では町々を焼かれ被害は甚大だったようだ。ことに島の南海岸、安下庄の町に向けて放った艦砲射撃は執拗でかなりの死傷者もでたようだった。

「やはり幕府艦隊の狙いは周防大島か」

 声高に言い募る船頭に、伊藤俊輔は眉根を寄せた。

 高杉晋作には伝えたくないが、馬鹿なお節介焼きが遠からず晋作の耳に入れるだろう。おとなしく病を養っていて欲しいが、累代の誇り高い藩士としてそうはいかないのだろう。武士とは厄介なものだ。伊藤俊輔は溜息と共に天井を仰ぎ見た。

 船頭が話した通り、幕府軍艦は宣戦布告日から二日過ぎた六月七日に室津港を襲った。昼前に長州藩交易港の一つ上関を砲撃して、近くの周防大島へ舳先を向けた。果たしてその後、幕府軍艦は周防大島の南海岸安下庄の家並を艦砲射撃して立ち去った。

 翌八日には周防大島の東部東和町油宇港に幕府艦隊でも千トン級の旗艦富士山丸と翔鶴丸と八雲丸の三巨艦の他にも、機帆船の旭日丸など十数隻で押し寄せて熾烈な艦砲射撃を浴びせた。砲撃は執拗を極め海岸から三町ばかり奥まった山麓に建つ浄土寺の石垣にも大穴をあけ女子供の二人が犠牲となった。艦隊はそのまま島を半周して久賀沖に碇を下ろし、三千名もの陸戦隊が上陸の機会を窺った。

 九日と十日は大雨で、六月とはいえ山へ避難した島民はずぶ濡れになって震えたという。

 その雨のさなかの十日に、高杉晋作はオテントサマ号に乗って機関走行で下関港を発ち三田尻へ回航した。当時の蒸気機関は燃料を大量に消費する。高杉晋作に心酔している土州浪士田中顕助が船底で罐焚きを勤め、伊藤俊輔も水夫として回航を手伝った。田中顕助は明治後に田中光顕と名を変え、明治政府で要職を歴任し伊藤博文第一次内閣では初代内閣書記官長になった。官位は伯爵。ただ当時は高杉晋作に陶酔した青年に過ぎなかった。

伊藤俊輔には英国密留学した折り、往路の英国船で井上聞多とともに水夫としてこき使われた経験がある。幸いなことにオテントサマ号はわずかに九十四トンと小型のため操船に手間取らなかった。

オテントサマ号が三田尻港に碇を下ろしたその日の夕刻にも、幕府艦隊の主力艦十数隻が襲来し久賀の町を砲撃してあらかた焼き払った。

 翌十一日、幕府艦隊は周防大島久賀北方の宗光に艦砲射撃を加えた後、東海岸から上陸を開始し流田の丘陵地を占領して久賀の町を北西から砲撃の射程に収めた。同じ時刻、南海岸の安下庄にも松山藩の陸戦隊百五十名が上陸した。

 そうした情勢を察知して、周防大島久賀代官所に詰めていた長州藩守備隊二十名余は戦うこともなく大畠瀬戸を渡って遠崎へ逃れた。大島郡代官斉藤市郎兵衛は早駕籠を山口へ走らせて幕府軍進攻の急報を伝えたが、軍務方は何の反応も示さなかった。

 村田蔵六は幕府艦隊と戦うのは得策でないと断じた。高杉晋作が小型戦艦で突撃する作戦は黙認したが、藩としては一艦なりとも援護作戦に出撃させるつもりはなかった。

 海は広い。たとえ瀬戸内海の島影を利用するにせよ、幕府艦隊とまともに海戦を闘うにはそれ相当の艦船を揃えて、砲門の数においても見劣りしないだけの装備を用意しなければならない。しかし、それはできない相談だ。軍務方の描いた窮余の作戦では、幕府艦隊に蹂躙されるままに周防大島は放棄されるはずだった。

 だが高杉晋作は軍務方とはかかわりなく独自に作戦を立てた。

 岩城山の白井小助の率いる第二奇兵隊は五百名からなる大部隊で、兵卒に到るまで新式の元込銃を装備している。対する幕府艦隊に乗艦して襲来する陸戦隊は松山・彦根藩兵により構成され、火縄銃で装備した三千名ほどの軍勢と予測された。単に幕府軍の陸戦隊と戦うだけなら、白井小助の率いる第二奇兵隊の戦力だけで十分だ。しかし海岸部の戦闘では上陸した長州軍に対して海から幕府艦隊の艦砲射撃を側面に受けることも想定しなければならない。そうすれば白井小助といえども苦戦することになる。そのために高杉晋作があらかじめ小型戦艦のオテントサマ号で幕府艦隊に奇襲先制攻撃を浴びせるのだ。

 しかし伊藤俊輔には小型戦艦で一度きりの奇襲攻撃を加えて何がしかの効果があるのか訝しかった。心の底には高杉晋作の奇襲作戦は蟷螂の斧でしかなく、幕府艦隊の集中砲火によってオテントサマ号が撃沈されるのではないかと危惧した。だが高杉晋作は無用な心配はしないものだ、と薄ら笑いを浮かべて取り合わなかった。

 高杉晋作には確たる読みがあった。幕府艦隊は威容を誇るだけの「張子の虎」ではないかとの読みだ。幕府艦隊は擁する軍艦の数とそれらに装備されている砲門の数でも確かに巨大な存在だ。しかし巨大で強力な艦隊も所詮は道具に過ぎない。命知らずの将兵がいてこそ道具は真の威力を発揮する。だが肝心の幕府艦隊の将官に命を賭して戦う覚悟があるのか。さらには海陸幕府軍全体を統率する大本営が存在するのか。それこそが大きな問題だ。艦砲の射程内で展開される海岸部の作戦では陸海軍が連携して行うのが常道だが、幕府軍にそうした連携は取れていないのではないかと疑った。幕府艦隊は長崎海軍操練所時代から鍛錬してきた生え抜きの海軍将兵が乗艦しているが、陸軍は出兵令により派兵された松山・彦根藩を主力とする軍勢だ。両者の連携作戦は当然困難だろうし、巨艦からなる艦隊を座礁の危険を冒してまで海岸近くまで近づけて艦砲で陸戦隊を支援するとは思えない。

 六月十一日、オテントサマ号は終日海軍局の埠頭に係留されて出撃準備に余念がなかった。高杉晋作は船から降りて三田尻港に近い貞永という知人の商家で一日を独りで過ごした。二階の一室に籠もって作戦を練っていたとも、病に冒された体を休めていたともいわれている。が、単純な作戦を熟慮する必要はないため結論は自ずと明らかだ。家人の話では高杉晋作は両足を高く上げて柱に凭れかけさせ、両腕を頭の下で組んで枕にして仰向けに寝て瞑想していたという。よほど足がだるかったのだろうか。

 伊藤俊輔は土佐浪士田中顕助を伴って御船倉の海軍局へ行き、オテントサマ号乗組員の手配に当たった。高杉晋作が海軍総督に就任したため、奇襲作戦は藩の正式な作戦になっている。幹部たちをはじめ古参兵たちも喜んで乗り組みを申し出た。

海軍局で過ごした一日は何が目的だったのだろうか。もちろん高杉晋作が一日病の体を養ったというのもあるだろうが、本当の理由はオテントサマ号に乗組む海軍局の連中に訓練を課したのではないか。確かに海軍局は日常的に操船や砲撃の実地訓練もしているし、実際に西洋列強の軍艦と戦って撃破された経験を持つ。しかし彼らは砲丸を発射する大砲を撃っていたに過ぎない。オテントサマ号の三門はアームストロング砲だ。砲丸ではなく、椎実型の炸裂弾を放つ。その装填と照準の習得に一日かけたとみるべきだろう。

 翌日昼前、オテントサマ号は三田尻の岸壁から離れた。伊藤俊輔は今後の動員計画と必要物資の書き出しを軍務方から命じられていたため、下船して三田尻の海軍局に残った。

 十分な人手を得てオテントサマ号は軽快に機関走行で進路を東へ取った。

 昼下がり、上関の港に入ると碇を下ろして、会所の役人から幕府艦隊の動向を詳しく聞いた。そこで薪と水を充分に補給して、日が暮れるのを待って遠崎へ回航した。

 遠崎沖で船を下りると、高杉晋作は柳井湊で白井小助たちと会った。高杉晋作が授けた作戦通りに、第二奇兵隊は兵五百余名を率いて岩城山から遠崎まで進軍していた。

「今日の大島進攻を待ってくれ。幕府の肝を奪ったら、あとは貴公らに任せる」

そう言って、高杉晋作は白井小助たちと今度の作戦が幕府艦隊へ奇襲作戦を敢行し、幕府陸戦隊への支援を困難にするのが目的であることを確認した。

 夜更けて高杉晋作は明かりを消したオテントサマ号の甲板に立った。船底では田中顕助が真っ赤になるほど罐を焚き、スクリューを全速で回転させた。甲板の施条(ライフル)を施された元込砲最新式アームストロング砲の傍らには、砲手を買って出た山田市之允の姿もあった。山田市之允は明治以後に山田顕義と名乗り陸軍中将となり爵位は伯爵。十四歳という最年少で松下村塾に入門し高杉晋作や伊藤俊輔の同門だった。戊辰戦争当時に西郷隆盛は山田市之允の差配を見て「あの小わっば、用兵の天才でごわす」と感嘆せしめたという。しかし山田顕義は独逸憲法を学び「法律は軍事に優先する」との信念をもっていたという。

 島の東側の久賀沖の海域に到ると海岸から漁船などによる奇襲を警戒しているのか、艦隊は久賀浜の沖合に浮かぶ無人島・前島周辺に整然と碇泊していた。旗艦富士山丸は伊予方面へ出動して留守だったが、残りの幕府艦隊は整然と碇を下ろし、小山のような艦船の船窓からは明かりが漏れていた。整然と碇泊した艦影に目を凝らして、高杉晋作は思わず身震いした。上海で目にした西洋列強の艦隊には劣るものの、村田蔵六が幕府艦隊との海戦を回避するのも無理からぬものと得心した。

 久賀沖の幕府艦隊が停泊している海域に入ると、高杉晋作は扇を軍配のように振って両舷側の砲門を開くように命じた。部下たちが船内へ入るように進言したが、高杉晋作は「鼠賊の船を撃破するには、この扇骨一本で十分だ」といって退かなかった。

 停泊する巨艦の海域に入り込むと、オテントサマ号は果敢に砲撃を開始した。三門のアームストロング砲は立て続けに火を噴いた。たちどころに大音響とともに幕府軍艦の舷側が爆破され火柱が上がった。オテントサマ号は小型艦の特性を生かして、幕府艦隊が碇泊している前島沖を絶え間なく砲を放ちながらくるくると走り回った。

 砲撃は面白いように命中した。静寂を破って轟渡る砲声に幕府艦隊は混乱に陥り、砲に飛びついた砲手が闇雲に反撃を開始した。幕府艦隊に攻撃を仕掛けるからにはそれなりの艦隊が攻め込んできたものとでも思ったのか、恐怖に駆られるように闇夜に浮かび上がる僚船の巨大な艦影に向かって砲撃をおこなった。首尾よく海面を走り廻る小型戦艦を見つけて照準を合わせても砲弾は飛び越えて僚船を爆破した。結果として幕府艦船は同士討ちを繰り返し甚大な損害を蒙った。やがて幕府艦船の煙突から黒煙が上がり、蒸気溜に蒸気が満ちた頃にはオテントサマ号は島陰を縫って上関に引き揚げていた。

 いかに幕府艦隊が油断していたかは罐の火を落としていたことからも伺える。その仕組から蒸気機関は火を入れてもすぐには始動できない。戦時下に敵の領海に碇泊する艦船が火を落とし蒸気圧を上げていないようでは指揮官の資質が問われても仕方ない。そうした油断が高杉晋作に幸いした。もっとも幕府艦隊が入手している長州海軍に関する情報では長州藩が所有する軍艦は年代物の小型木造帆船に大砲を積んだものが三隻だけのはずだ。よって、まさか夜間の狭い海域を機関走行で縦横無尽に砲を放ちながら攻撃してくると予想してなかったとしても無理はない。

 ただ不可思議なのはその後の幕府艦隊の行動だ。奇襲攻撃を受けた直後に追尾して反転攻撃に移らなかったのは夜間だったためだとしても、翌朝になってもオテントサマ号の捜索をしなかったのは奇怪だ。

まともな指揮官なら夜明けとともに船足の早い艦に命じて、オントサマ号の出撃基地となったと思われる近くの港の捜索を行い、発見したなら艦隊の一部を派遣して報復攻撃を加えて掃討するのが常道だ。そうでないなら上陸している陸戦隊三千名の後方支援のために久賀沖に碇泊する間、常に奇襲攻撃に備えなければならないことになる。しかし幕府艦隊はオテントサマ号の捜索活動をするでなく、柳井湊や上関に報復攻撃を加えるでもなく、修理のためか昼前には広島方面へ撤退して陸戦隊を孤立させてしまった。

 翌十三日、オテントサマ号は三田尻に凱旋し、艦から下りた高杉晋作は長州藩海軍総督として海軍局の建物へ入った。伊藤俊輔も出迎えたが、筒袖に陣羽織を着た高杉晋作が背筋を伸ばして歩く様には驚いた。労咳に蝕まれ臥せっていた男には見えなかった。

 伊藤俊輔が立案した糧秣や弾薬の補充計画に目を通すと、幹部たちと諮って藩軍務方へ出すように裁定した。次なる作戦は小倉口だ。高杉晋作は岸壁に係留されたままの三隻の軍艦に出港準備をするように命じ、伊藤俊輔には山口へ赴いて軍務方と作戦計画の兵站と事務折衝を命じた。いつの間にか伊藤俊輔は海軍局事務官の仕事をさせられていた。

 大島口の顛末を記しておこう。

 慶應二年六月十四日藩祖毛利元就の命日の夜半、高杉晋作の授けた作戦通りに第二奇兵隊と島民有志による浩武隊は周防大島に上陸作戦を敢行した。狭い大畠瀬戸は周辺から集められた六百隻もの和船で埋まり、あたかも船橋が架けられたようだったという。

上陸すると、隊は三方向から幕府軍本隊へ迫った。八小隊からなる本隊が中央山岳路をたどり、七小隊は西海岸へ廻り、十二小隊は北海岸沿いに幕府陸戦隊が上陸した久賀へ向かった。本隊以外の海岸線を行く二隊はあくまでも中央山岳部を行く本隊との決戦に幕軍を引き込むための囮として行動させた。そのため白井小助は海岸線を行く二隊には幕府陸戦隊と遭遇しても全面衝突を避けるように厳命していた。それは海岸線で滞陣することになると幕府艦隊の艦砲射撃の餌食になる恐れがあったからだった。

その命令通りに海岸線では本格的な戦闘はなく、幕軍を見つけると諸隊は即座に山中へと逃げ込んだ。途中、幕軍の斥候などと遭遇する小競り合いもあったが、大した戦闘もないままに上陸一日目は暮れた。

 翌十五日、島の北海岸を進んでいた第三隊が碇ヶ峠を越えたところで幕府軍と遭遇した。待ち構えていた幕府軍は臼砲や火縄銃で迎え撃ってきた。第三隊は一小隊を西廻りに幕府軍の背後を衝かせたが、さらにその後ろに幕府軍が回り込んで乱戦となった。この戦いで長州軍は死者一名と数人の負傷者を出したが、夜四つ頃には幕府軍を敗走させた。

 本隊は中央山岳路を進み、十六日に島の中央源明山を挟んで幕府軍松山隊と対峙した。

当日は朝から雨だったという。幕府軍の指揮官は松山藩家老七十二才の管九郎左衛門、長州軍指揮官は林半七だった。鎧兜の幕府軍と筒袖の上着に小倉袴白鉢巻の長州軍では時代認識に大きな開きがあった。さらに装備している銃には格段の差があり、山頂を挟んだ戦闘が十時頃から始まり、昼過ぎには大将の戦死により幕府軍は敗走した。松山藩兵は山を下ると久賀沖の艦船に逃げ込み、ほうほうの体で四国へ帰ってしまった。明くる十七日、奇兵隊を主力とする長州軍は山から久賀へと攻め込み、彦根藩兵からなる幕府軍本隊と熾烈な銃撃戦をおこなった。しかし幕府軍は上陸時に町をあらかた焼き払っていたため、怒涛のように攻め込む長州軍を食い止める防御線を構築できないまま、後退を重ねて海岸へ追い詰められ海上の艦船へと逃れた。

 十九日にも幕府軍は久賀に上陸作戦を敢行して寺や神社を焼き払ったが、駆けつけた長州軍によってたちどころに撃退された。それ以後は周防大島での戦闘はなかった。幕軍は威容を誇る幕府艦隊と三千名もの陸戦隊で周防大島を占領しようとしたが、小型戦艦オテントサマ号一艦と第二奇兵隊など五百名余りの諸隊によって蹴散らされたことになる。

そして何よりも大きな収穫は幕府の陸軍と海軍が連携していないことが明白になったことだ。久賀に撤退した幕府軍を第二奇兵隊が追撃した折、海上の幕府軍艦は第二奇兵隊に向けて艦砲射撃をしなかった。それは陸海軍の連携が取れてなかったのではなく、幕府艦の砲手に幕府陸戦隊の頭上を飛び越えて正確に第二奇兵隊を砲撃する自信がなかったからなのか判然としないが。ともあれそれが悪しき伝統になったかのように、幕府艦隊は二年後の倒幕戦争に際しても、ついに幕府陸軍を支援しなかったし、倒幕軍の補給艦を攻撃することもなかった。

ただ倒幕戦争で幕府軍の敗北が決した頃になって、何を思ったか品川や仙台などで敗残兵などを収容して函館へ向かった。艦隊司令長官榎本武揚は蘭国海軍兵学校へ六年も留学して戦時航法や国際航法などを学んだという。専攻科目からいえば海軍の将官ではなく文官になるべきだった。しかし艦隊司令長官となった榎本武揚はその学識を生かして万国公法に基づき北海道に共和国を建設しようとしたという。その函館へ向かう途中で蘭国で建造したばかりの二千七百トンの開陽丸を函館沖で嵐により座礁させ、九門のアームストロング砲ともども失ってしまった。日本から独立して国家建設を目論む西洋知識は有していたが、操船技術をはじめ軍事力による領国支配や徴税権の確保といった独立国家の要件を整える厳しい現実的な問題までには手が廻らなかったようだ。

 

 馬関下関の会所に海軍局事務所を移して、伊藤俊輔は海軍局事務の取りまとめにも当たった。高杉晋作は船に乗っているとき以外は白石正一郎の屋敷の離れに臥し、微熱に悩まされ死んだように横たわっていた。当時すでに病は進行し、喀血を繰り返していたという。

 大島口の戦い以後、征長戦争に幕府艦隊が積極的に関与した形跡はない。艦隊がもっとも威力を発揮すると恐れられた小倉口の初戦にさえ姿を現さなかった。

 六月十七日、高杉晋作は丙寅丸(長州海軍オテントサマ号の船名を高杉晋作は「丙寅丸」と改めていた)に乗艦し癸亥丸(木造帆船二八三トン)と丙辰丸(スクネール型木造帆船四十七トン)を率いて田ノ浦へ出撃した。そして小笠原藩が馬関上陸作戦に用意していた和船数百隻を蹴散らした。その日たまたま長州藩の乙丑丸(旧ユニオン丸木造船三百トン)に乗って馬関へ来ていた坂本竜馬も長州藩の帆船庚申丸(丙辰丸と同じスクネール型)とともに門司浦の幕府軍に艦砲射撃を浴びせた。

その日以後も幕府艦隊はついに馬関海峡に姿を現さず、制海権は長州海軍のものとなった。狭く流れの速い海峡では巨艦の操船は難しく、巨艦を揃えた幕府艦隊は高杉晋作が快速艇のような丙寅丸に乗って指揮する長州海軍と戦うのに躊躇したのかも知れなかった。

 ただ六月の終わりに幕府艦隊の旗艦富士山丸が単独で小倉口で苦戦する幕府軍の支援に駆けつけた。米国で建造されたばかりの新鋭艦で、全長六十八メートル幅十メートル排水量千トンの巨艦に三百五十馬力の機関を備え両舷側に砲十二門を装備していた。見る者を圧するばかりの巨大艦だった。

長州陸軍が小倉での戦いを継続するには対岸の馬関から物資の補給が欠かせない。しかし巨艦とまともに戦火を交えれば長州海軍に勝ち目はない。当然のように富士山丸の来襲に際して長州海軍は出撃しなかったが、七月三日の闇夜に小船に三門の砲を積んで接近して奇襲攻撃を敢行した。同時に馬関の各砲台も火を吹いて富士山丸を砲撃して馬関海峡から追い払った。単独作戦とはいえ第二次征長戦で幕府戦艦が作戦行動を実施した唯一の例外だった。

 陸戦で唯一苦戦をしいられた小倉口の戦いも、七月五日に小倉城内で指揮を執っていた小笠原壱岐守が病に倒れると戦況が一変した。まず肥後藩が戦線を離脱し、次いで久留米藩と柳川藩が撤兵した。さらに七月二十七日大坂城内で将軍家茂の病死が伝わると小笠原壱岐守も戦意を失い、城に火をかけると富士山丸に乗って小倉を脱出した。この頃から高杉晋作は病に臥し、海軍の指揮を佐世八十郎(後の前原一誠)に任せるようになった。

 他の戦線のことも記して置こう。村田蔵六が指揮官となった石州口は一月足らずで勝利のうちに終結し、芸州口は芸州領内の久波辺りまで攻め込んだまま膠着し、十月に幕府の使者として勝海舟が宮島に来て広沢兵助や井上聞多たちと話し合った後に軍を退いた。

 ただ小倉城が陥ちると高杉晋作の病状は一気に悪化して、臥したまま起き上がることも出来なくなった。十月に幕府との間で止戦が締結されると高杉晋作は海軍総督を辞した。

馬関海峡を季節風が吹きぬける頃、街中の白石邸から馬関郊外清水山の麓の庵へ転地した。看病には野村望東尼が付き添い、萩から来た妻の雅とおうのも枕頭につどった。

翌慶應三年四月十四日、わが国で初の機関を備えた戦艦で海戦を敢行した男は明治維新を見ることもなく二十七年を一期とした。墓碑には奇兵隊開闢総督と刻まれている。

 第二次征長戦争で伊藤俊輔はいずれの戦場の場にも臨んでいない。戦地へ足を運んだことと云えば藩政府の文官として前線の状況視察に井上聞多と石州口へ赴いたぐらいのものだった。その折りに落馬して怪我をしたが、打撲したぐらいでそれほどの傷ではなかったようだ。

 長州藩勝利のうちに第二次征長戦は終息を迎えた。しかし、それによって新たな課題が明らかになった。長州藩は陸戦では幕府軍に対して圧倒的な強さを発揮したが、海軍力では艦船の質量ともに幕府海軍に劣った。長州藩の首脳部はそのことに危惧を抱いた。そのため、伊藤俊輔に戦艦購入の折衝のため秘に長崎行きが命じられた。

 藩命により海軍局の藤井勝之進とともに長崎へ行き薩摩藩邸に潜んだ。薩摩の応接には五代才助が当たりグラバーとの連絡を取り結んだ。長州藩は急遽艦船を二隻購入する予定だった。実物を目で見ないと船の程度が分からないため、伊藤俊輔と藤井勝之進はグラバーの屋敷や港に頻繁に出掛けた。五代才助は伊藤俊輔の身を案じて藩邸に留まる限りは命を保証するが、町には幕吏が目を光らせているから用心するようにと釘を刺した。

 しかし伊藤俊輔は気軽に他所した。たまたま知り合った大村藩の渡邊昇と会談を重ね、大村と平戸の両藩を勤王倒幕に藩論を転回させるべく説き伏せた。が、伊藤俊輔の不用心さに堪りかねて五代才助は渡邊昇に苦言を呈した。事実、何度か幕吏と覚しき男につけられたことがあった。恐らく伊藤俊輔が思っていたよりも、危険に満ちた外出だったのだろう。

「薩摩藩邸にいる限り幕府といえども手出しは出来ぬが、こう出歩かれては危なくて仕方がない。貴殿からも申し添えてはもらえぬか」

 五代才助は渡邊昇にこんこんと言い聞かせた。

 そのこともあって、渡邊昇は伊藤俊輔を大村へ連れて行くことにした。長崎の港から和船に乗り込み、大村の領地で身の安全をはかった。そこから平戸の田助港へと赴き、志々岐楚右衛門と会って九州の勤王同志と心を一にするべく話し合った。

 七月七日、長州藩へ行きたいと願う渡邊昇を伴って馬関に戻った。山口の桂小五郎に面会を求め渡邊昇は九州の勤王派有志の動きを詳細に語り、再び長崎へ行く任務を帯びた伊藤俊輔とともに帰った。

 七月二十八日、グラバーから文が来た。先般買い付けた艦船を幕府がどうしても買いたいと無理を言うため、別の船にしてもらえないかとの内容だった。さっそく伊藤俊輔は海軍局の財満百合熊を伴って馬関を出立した。

 長崎に着くとグラバーの案内で港に係留されている艦を見て廻ったが適当な船が見当たらないため、伊藤俊輔は上海まで出向くことにした。その上海で二隻の蒸気船を購入し、たまたま銃と砲を求めて上海へ来ていた長州藩の軍務方総参謀大村益次郎を乗せて真直に馬関へ帰った。

 まだ第二次征長戦争が終結していないこの時期に、大村益次郎は密かに上海へ来ていた。長州藩の銃をすべて元込めのミネーかスナイドルにすべく、命がけで買いつけにやって来たのだ。そればかりではない、大村益次郎は最新式の元込め式の陸軍大砲アームストロング砲を探し求めていた。鋼鉄製の施条砲は英国製のアームストロング砲しかなく、日本ではわずかに佐賀の鍋島藩が二門所有するのみだった。その強大な殺傷力から英国海軍は採用しなかったが、アームストロング砲は円錐形の炸烈弾を撃ち照準も四キロメートルと従来のものに倍する有効射程距離を有していた。大村益次郎はこれからの戦は兵器の優劣によって勝敗が決すると見抜いていた。

 帰路、船中で大村益次郎は征長戦については何も語らなかった。もし尋ねたなら、「それは既に済んだことである」と答えたに違いない。そうでなければ戦闘が終息していないこの時期に、軍務方最高責任者が長州藩を留守にして密かに上海まで来てはいない。大村益次郎の精緻な頭脳は目の前の勝利が確かなものとなった戦よりも、既に次の倒幕戦争に対する必要な軍備を明確に思い描いていた。

 船中、伊藤俊輔は倒幕後の新政府のありようを訊いた。

「幕府を倒して後の政治体制の考え方に、賢侯会議を新政府の中心に据えようとするものがありまするが、大村殿はいかがお考えか」

 すると、大村益次郎は特徴のある大きな目を剥いて、言葉を吟味するかのように答えた。

「賢侯とは何ぞや。中国のいにしえの書物に登場する竹林の七賢人を手本とするは現実的にあらず。公儀とは何か。公儀とはかつて吉田殿が言われた草莽のこと、士民万民のことでござる。公儀の意を体して政治を行うはそれにふさわしい仕組がござろう。西洋においては入り札によって指導者を決めるという」

 大村益次郎はそう言い、

「そうするには藩主から領地と兵馬を取り上げなければならぬが」

 と、付け加えるように呟いた。

 大村益次郎は驚くべき国家論を語った。

だが、当人には大それたことを語ったとの意識はない。ただそうしなければ国家として西洋列強と伍していけない、と当然のことを口にしたまでだった。伊藤俊輔が驚きの眼差しで見詰める大村益次郎の頬を潮風が嬲った。

 

 小倉城落城から間もなく、芸州藩を通じて幕府から止戦の提案がなされた。

 慶応二年九月二日、長州藩からは政務員の広沢兵助を正使とし、太田市之進と井上聞多を副使として会談場所に指定された安芸の宮島へと出向いた。幕府からは勝安房守(後の勝海舟)が一人で臨んだ。

 勝安房守は宮島の大願寺に現われると、部屋の中で座る位置を譲りあって長州藩の使者と堂々巡りの話をするのを嫌ってさっさと縁側に座ってしまった。

「幕府は負けたが、負けたとは言えない辛い処を斟酌してやっちゃもらえないかぇ」

 勝安房守は苦笑いを頬に浮かべて、立って来た井上聞多を見やった。

「お前さんは博徒の親分のようだな」

 と、井上聞多の頬を這う三寸ばかりの斬り傷痕を指差した。

「いやいや、攘夷の権化に斬り付けられたものにて」

 頬の刀傷痕を指先で撫でながら井上聞多は砕けた物言いをして、勝安房守のそばの縁側に腰を下ろした。

「幕臣にお前さんぐらい骨のある者がおったら、こんなことにゃならなかったろうよ」 そう言うと腰から扇子を取り出して広げた。腰にはそれしか差していなかった。

 大願寺は朱塗りの海中回廊で名高い巖島神社とは少し離れた山麓にある。紅葉の色付く季節にはまだ早く、緑葉が陽の光りにきらめいていた。

「長州藩はもっと攻めたいだろうが、将軍も薨去されて、ここは止戦ってことで手を打っちゃもらえないかぇ」

 勝安房守がそう言うと、部屋で端座している広沢兵助が理屈っぽく言葉を投げ掛けた。

「止戦止戦と言わるが、長州藩から仕掛けた戦ではござらん。幕府が諸藩に呼び掛けて軍を募り攻めて来られたもの。幕府が軍を引けば戦は終るものである」

 広沢兵助は生真面目に役目を果そう考えていた。それは決して悪いことではない。しかし、井上聞多は振り返ると「よせ、よせ」と手を振った。

「勝先生がそう言われるのなら止戦で良いではないか。長州藩に異存はござらん」

 と、井上聞多は勝手に話し合いを纏めてしまった。

 広沢兵助は不満そうに眉根を寄せた。しかし、正使とはいえ広沢兵助に井上聞多ほどのきらびやかな経歴はない。有能な官僚として明晰な頭脳を駆使し、藩庁内の執務室で職務を実直に勤め上げてきただけでしかない。その一方、井上聞多は藩のために幾度となく命を賭け刃の下を潜っている。それに、藩士としては井上聞多の方が広沢兵助より毛並が良かった。広沢兵助は正使という立場から井上聞多に反論したかったものの、不服そうな表情をしたまま口を閉じるしかなかった。

 結局、勝安房守との会談は止戦で決着した。

 

  十一、倒幕へ

 公儀もしくは公論という言葉が人々の口の端に上りはじめた。

 公儀とは『おおやけ』ということであり、その概念は『私』の対極にある。

 江戸時代に「公儀」といえば徳川宗家を指した。しかし、どうやら徳川宗家は朝廷から征夷大将軍に任じられた「役職」でしかないという概念が志士たちの間で広まった。

 いわば将軍も藩主も所詮は『私』だから、役職を戴いているだけの彼らが公儀とは言い難い。だが「政(まつりごと)」は『公(おおやけ)』の意を体して為されなければならない。そうした考えは江戸時代を通じて一般に広く解釋されていた。

国学者の一部では、それを「天意」とも表した。もちろん将軍といえども「天意」に従うべきだとされ、彼らは概して質素な食事を摂り木綿を平服に用いて、現代の常識で推し測るよりも江戸時代の治政者たちは遥かに己を空しくしていた。

 それでは改めて公儀とは何か。『天』と解釈する向きもあるが、それは少し違うようだ。昭和の戦前の一時期、公儀の意味が天皇に集約され、政治利用されてねじ曲げられたが、もちろん天皇が公儀ではない。志士たちは西洋から得た知識で、朧気ながら「公儀」というものを理解した。しかし当時の彼らが認識した公儀が現在の民主主義のようなものかといえば、それもどうやら違うようだ。

日本は国家として九州から北海道まで版図は広い。しかも「日乃本」と一括りにされる国全域を旅した者など誰もいない。しかし志士たちは日本という国を標榜し、国を夷敵から守らなければならないと叫んでいる。つまり公儀とはそうした構想上の産物ではないのか。公儀とはこの国に棲む人々を統合し統べる「国家」とでもいうものではないか。少なくとも、公儀とは徳川幕府のような剥き出しの政治権力ではないのではないか。国家というものはその地に棲む人たちが国土の上に構想する共通の「社会」として統べる地域を指すものではないか。それがすなわち公儀ではないか。そうした議論が盛んになされるようになった。

 最初に公儀もしくは公論が政治の表舞台で論議されたのはハリスにより米国大統領親書がもたらされた折りだった。安政四年十一月一日、老中首座にあった阿部正弘が幕臣から諸大名までを江戸城に集めて、米国への処し方について広く諮問したことがあった。

 幕府の政治方針に関して諸侯から意見を求めることは徳川幕府の伝統から前例のないことだった。それが幕政の権威の失墜を招いたともいわれている。しかし徳川幕府は政治に関して幕閣以外の市井の有識者から意見を徴することは、三浦按針は別格としても開府初期から新井白石や室鳩窓などを招聘して行なわれていた。ただ阿部正弘の過ちは外交政策を諮問するのに見当違いの諸大名を江戸城へ招集したことにあった。確かに諸侯は徳川幕府によって封じられた門閥を誇る者たちだが、家柄と見識とは明らかに別物だ。外交には素人同然で領国運営すら家臣に任せて、政務を執らない諸大名を相手に米国大統領親書とハリスの口上の写しを開示して意見を聞いてみたところで始まらなかった。

 もとより徳川幕府は軍事独裁政権である。強大な軍事力を背景に徳川家康が天皇から征夷大将軍に任じられて江戸に政権を開いたものだ。しかし徳川幕府の軍事力は代を経るごとに弱体化した。経済学に限界効用逓減の法則というのがある。一つの商品が当初は莫大な利益をもたらしても、やがて競争相手が新規参入して利益は順次減少するという理屈だ。軍事力もそれに似ている。一時は強大な軍事力を独占しても、その優位性が永久に続くものではない。いわば徳川幕府は代を重ねるごとに弱体化し、やがては張子の虎になっていた。ただ諸侯に染み付いた開闢当初の強迫観念にも似た恐怖心が幕藩体制を支えているに過ぎなかった。

 史上、他国にあっては政権を失った一族は滅ぼされるか、その地を捨てて逃亡するのを常とした。それも軍事的優位性を確保するためには必要な手段だったかもしれない。仏国や露国では市民革命によって樹立された政権ですら国王を処刑した。現代国際社会を見まわしても前政権者の血で贖われるか、前政権者を国外に追放して樹立された国家は普通に見受けられる。現代でも国の根幹を揺るがす権力闘争では、武力によって決着をつける例が多いのには驚くばかりだ。

 しかし日本の天皇を頂点とする朝廷だけは幾たび政権を失っても規模の縮小こそあれ、滅亡することはなかった。むしろ朝廷の権威を借りて武家軍事政権は威を全国に及ぼし治政の安定を得た。そして基本的に徳川幕府も三百諸侯も領地に対しては徴税権を行使するが土地を所有しなかった。これも他国のありようとは異なる。世界史上では征服者は被征服者のすべてを奪うのが通例だ。土地も家屋も財産も、そして往々にして命までも。北方領土もそのような考え方で勝手に征服され、日本人島民は追い出されていまに到っている。

 江戸時代、大名の改易は頻繁に行なわれた。移り住むのは大名とその家臣だけで、土着領民は移らずに新しい領主を迎えた。それゆえ鉢植え大名と称された。勢い、政治権力と土地支配とは別物との観念が育ったのもこの国ならではの特異性といえる。

 公儀とは単に政治権力の在り様だと、幕末の思想家が思い到ってもそれほど不思議なことではない。問題とすべきは「公儀は那辺に存在するのか」との見極めに過ぎないと考えるようになった。賢侯会議を以って公儀とするのか。賢侯に徳川家を含めるのか否か。いや、そもそも賢侯が公儀たり得るのか。西洋では議会を以って公儀となしている。そうした議論が幕末に向かってこの国の新しい政治体制のありようを巡って盛んになってゆく。

 ともあれ、阿部正弘は叡智を諸侯や旗本から求めようとした。それが幕政に対して人々が臆せず異義を唱え出すきっかけになったことも確かなことだ。そして時代は西洋列強と対抗しうる、この国の新たな統治の仕組みと政治思想を必要としていた。

 慶応元年九月、薩摩藩は幕府から長州藩討伐の出兵を求められ、西郷吉之助は幕府だけの考えでは大義名分が立たないから衆議公論を求むべきであると返答している。それは重大な意味を持つ発言だった。幕府は公儀を体していないと宣言したに等しい。

 その後も繰り返し出兵を求められたが、ついに薩摩藩は今次の長州征伐に軍を送らなかった。そればかりか薩摩の大久保一蔵や長州の品川弥二郎らが薩長連合の盟約に従って京で政治工作に奔走した。薩摩藩においては幕府の存在がそれほどに小さくなっていた。彼等が頼ったのは京の郊外岩倉村に逼塞させられていた公家の岩倉具視だった。

 慶応二年八月三十一日、徳川家茂の逝去により将軍職に空位が生じた。一橋慶喜は徳川家の相続は承知したが将軍職への就任は拒んだ。

 その間隙を逃さず、岩倉具視は一通の建白書を上奏した。

「長州征伐は徳川家の私怨にして速やかに矛を収め、国家の大方針について諸大名を集めて公儀を問うべきである」

 徳川家の相続だけなら一橋慶喜は三百諸侯の一藩主と何ら変わらない。

 建前上、徳川家は征夷大将軍職を以って三百諸侯に号令を掛けてきた。しかし、征夷大将軍職の空位がにわかに出現したことからここを機とばかりに、岩倉具視は幕府に秘な恐れを抱いている孝明天皇や朝彦親王をはじめとする佐幕派公家を説いて回った。

 岩倉具視は薩摩藩と長州藩が結んだ連合の密約を是認し、それを推進しようとした。そのために長州藩に対する朝敵の汚名を濯ぎ、勤王の実を挙げることを推し進めた。

 奇しくもその日に小倉城は炎上し幕府軍は敗退した。残っている戦線は芸州口のみで、それすらも芸州領内に攻め込まれ久波あたりで睨み合いを続けているばかりだった。幕府軍一万をしても三千の長州支藩岩国藩兵と諸隊の混成部隊を攻めあぐねていた。

 一橋改め徳川慶喜は大坂城にいた。

「毛利大膳父子は君父の仇である。たとえ千騎が一騎になろうとも山口へ攻め込もうぞ」

 と城内に集めた旗本衆を前に檄を飛ばした。

 勇ましくも『大討込』を叫んだが、間もなく小倉口の敗戦を知ると悄然と前言を翻した。

 徳川慶喜は御三家の水戸藩主だった徳川斉昭を父に持ち、三卿の一つ一橋家に養子として入った。聡明にして沈着、徳川幕府を建て直す最後の人物であると衆目の一致するところだった。しかし、彼は征夷大将軍に就くことを拒み、大坂城と京を行き来して朝廷工作に徒に日にちを費やした。

 その時期、長州藩は軍備を整えるべく奔走していた。

 藩命を受けて、伊藤俊輔は馬関と長崎の間を数度にわたって行き来している。

 桂小五郎が軍務方最高職に押し上げた男、大村益次郎から出される膨大な新式銃や大砲や艦船などの購入要求が伊藤俊輔を忙しく走らせた。

 今次の征長戦では長州藩は幕府軍と戦う各地の戦線を山口の参謀本部で一元支配する方法をとった。各地の前線の戦闘状況を掌握し、前線へ送る糧末から武器弾薬に至るまでの指令をすべて本部に集約した。これまでの日本の戦にはなかった大本営方式を最初に採用したのは大村益次郎の発案だった。彼は蘭書からそれを学び作戦本部が各前線の将官に指示を与える方式を山口の兵学校で生徒に教えた。わずか一年余りの講義で若者たちに教え込むために、当初から彼は原書による講義をせず、彼が翻訳し作成した教本で教えた。幕府が兵の洋式化に向けて仏軍人に仏語で教練させたのとは根本的に異なった。

 桂小五郎は幕府軍の実力を過大に評価して、倒幕軍は幕府軍と戦って倒せるかとの危惧を常に抱いていた。幕府の征長軍を撃破したとはいえ、それらは出動要請を受けて各藩が繰り出した混成軍に過ぎない。幕府の主力陸軍仏式歩兵隊と戦ったわけではなかった。

 ただ大村益次郎も幕府軍の力は侮れないと考えていた。が、桂小五郎の強迫観念じみたものと違って、大村益次郎の危惧はもっと具体的だった。

 幕府の仏式陸軍といっても急造りの猿真似に過ぎない。戦って負けることはないだろうが、倒幕軍が危ういと考えられる場合は幕府が仏国の口車に乗せられて仏国の介入を許したときだ。ただ、幕府軍が元込め銃を兵卒の一人一人すべてに装備させ、鋼鉄製の元込め砲(アームストロング砲)を配備したら厄介なことになると思っていた。

 倒幕軍は幕府軍に勝てるだろうか、と不安にかられた桂小五郎はしばしば大村益次郎に問い掛けている。桂小五郎は慎重というよりも、その懐疑心は病的ですらあった。それに対して大村益次郎はギョロリとした目で睨み重い口を開いて、

「倒幕軍の兵卒全員に元込め銃を持たせることです。さすれば、負けは致しません」

 と客観的な事実を述べるような口吻で答えた。

 長州軍は諸隊からなる軍が主力となっている。諸隊は高杉晋作が創設した奇兵隊をはじめとする百姓町人からなる軍だ。その将官には大村益次郎が山口宮野の兵学校で養成した者たちが就いているが、当然にして個々の兵卒は弱い。刀槍を交える白兵戦では訓練の熟度からいって薩摩の軍兵には到底及ばない。それを補うとすれば何かと彼は考えた。

 征長戦の帰趨が決するや、終戦を待たずに大村益次郎は武器や艦船の買い付けに密かに上海へ出掛けた。総参謀が大本営を留守にすることは通常なら決してありえない。彼がいかに武器の充実に意を砕いたか、それを見るだけでも明らかであろう。

 

 話はその時期より二ヶ月ばかりさかのぼる。

 高杉晋作が病に臥せた。

 白石正一郎は商人のれいに洩れず几帳面に日記を付けている。

 白石正一郎日記の慶応二年六月二十二日の項に「高杉不快」とある。それは高杉晋作が小倉口の指揮を執り、自ら丙寅丸に乗艦にして海戦を行なっていた時期に当たる。昼間は小倉口で幕府軍との戦闘の指揮を執り、夜に馬関へ戻ると高杉晋作は白石正一郎の屋敷で病に蝕まれた体を養った。高杉不快とは病状が悪化し、白石正一郎の屋敷で床に就いたことを指している。

 翌六月二十三日、朝には福田侠平が、昼からは久保松太郎らが見舞っている。夜には奇兵隊より鯉の差し入れがあった。鯉の生血は癆咳に効くといわれていた。

 丙寅丸に乗り込んで周防大島で幕府海軍に夜襲を決行した頃、高杉晋作は既に喀血していたといわれている。

 八月一日に小倉城が落ちると高杉晋作の病状は急速に悪化した。

 九月一日、片野十郎と三吉太夫が高杉晋作を見舞った。

 九月二日、安芸の宮島で止戦会議が開かれ、第二次征長戦争は終結を見た。

 九月四日、高杉晋作は激しく咳き込み、痰とともに血を大量に吐き医者を呼んだ。

 伊藤俊輔は高杉晋作が病に倒れたため、馬関応接使の役目をも負わなければならなかった。表向き下関は幕府の命により港を閉じたことになっている。だが、実際は港を開き海援隊の働きで交易を行なっていた。伊藤俊輔は外交官と通事を兼ねる大任に忙殺された。

 慶応二年十二月、高杉晋作と伊藤俊輔に約束した長州藩と英国の会盟のために、英国公使パークスが英国東洋艦隊司令官キングを長州藩へ差し向けた。藩主父子は三田尻へ出向き、会見場として準備された豪商貞永隼人の屋敷でキングを謁見し、丁重にもてなした。藩主父子の随従は吉川監物、宍戸備後助、木戸準一郎(桂小五郎)らで、通事には井上聞多と英国から戻ったばかりの遠藤謹助の二人が当たった。翌日はキングが藩主父子を艦船に招き、艦内の案内や音楽でもてなしたという。これにより長州藩と英国は正式に盟約を結んだ。会見のきっかけを作った高杉晋作と伊藤俊輔は馬関を離れられなかった。

 一方、幕府は威信を挽回すべく改革に着手していた。

 慶応二年十二月五日、徳川慶喜は征夷大将軍職を授けて名実共に武家の棟梁に君臨した。しかし、同じ月の二十五日夜に心情的に幕府を支持していた孝明天皇が突如崩御した。その様が唐突に過ぎたため毒殺説が囁かれたほどだった。徳川幕府に同情的だった天皇の崩御は朝廷の空気を変えた。

 三田尻でキングとの会見を済ますと、井上聞多は英国艦に乗って密かに上洛した。役向きは朝廷内部の情勢収集にあった。

 京に入ると品川弥次郎の紹介で西郷吉之助と大久保一蔵に会い、岩倉具視の働きで勤王派公家仲間の数をふやして、すでに二十二名を数えるようになっていることを知った。幕府が長州征伐に敗北した現実に、京の公家衆は敏感に反応したといえる。

 慶応三年正月九日に幼少の天皇が踐祚され、京の情勢は動きを激しくした。井上聞多が京から帰ると、入れ替わるように伊藤俊輔が京へ上った。任務は京の情勢を探ることと兵庫開港、それに長州藩の処分について薩摩藩と腹を合わせることにあった。

 幕府は長州藩と止戦を結んだのみで、処分に関しては保留の態度を取り続けていた。徳川慶喜は雄藩に対して主導権を確保するために薩摩藩島津久光、越前藩松平春嶽、宇和島藩伊達宗城を招聘して話し合いを持とうと呼び掛けた。しかし西郷吉之助が薩摩へ下って徳川慶喜の企てに乗ってはならない、と藩主に時期尚早と進言したため藩父島津久光は上洛を拒否して沙太止みとなった。

 伊藤俊輔が京の薩摩藩邸で大久保一蔵や西郷吉之助と話し合った結果、倒幕のためには薩摩藩と長州藩の両藩だけでは天下に公儀とは認められ難く、芸州、土佐、宇和島、越前にも呼び掛けることになり、薩摩、土佐、宇和島、越前の藩主に呼び掛けて四侯会議を策すことにした。その際、西洋四ヶ国から求められている兵庫開港についても協議することにした。

 伊藤俊輔はそうした情勢を藩に報告すべく京を後にした。

 慶應三年四月初旬、山口で復命を済ませて馬関に戻ると、高杉晋作が危篤に陥っていると聞かされた。伊藤俊輔は取るものもとりあえず旅装のまま駆け付けた。

 高杉晋作は白石正一郎の屋敷から新地町の豪商林算九郎の別荘に移っていた。高杉晋作重篤ということから萩から妻雅が駆け付けた。だが、高杉晋作は愛人おうのと妻との板挟みにあって困り果てた。とりあえず妻を白石正一郎の屋敷に置いてもらい、新地町の別荘におうのを住まわして、枕頭で女二人が角突き合わせる事態だけは避けようと腐心した。病に臥した高杉晋作の看護には野村望東尼があたっていた。

 野村望東尼は筑前藩士野村新三郎の未亡人で、福岡郊外の平尾山に庵を結んで隠棲していた。国学を学ぶうちに勤王の志士と交わるようになり、筑前に逃亡して来た高杉晋作を匿ったことが原因で藩吏に捕らえられ姫島に幽閉された。それを前年九月に病床の高杉晋作が知ると床から起きて、自ら手勢を率いて救出し白石正一郎の屋敷に匿った。

 伊藤俊輔が見舞った折り、病身を養う高杉晋作の許にはおうのの他に妻の雅もいた。

 高杉晋作は二人の若い妻と妾に気を揉み「長生きしたために、こんなことで苦しむ羽目になった」と、面目をなくしたように伊藤俊輔にこぼした。

 高杉晋作は短い生涯を華々しく生きた男である。艶福家というのでもないが、彼の身辺には絶えず女の影がつきまとった。懐に金があるとなしとにかかわらず、酒を飲み派手に騒ぐのが好きだった。三味線片手に即興の都々逸を渋い喉で聞かせた。讃岐に逃亡したときには道中三味線と下関の芸妓おうのを連れての洒落た道行だった。

 ある日、臥せっていた高杉晋作が短冊を求めた。

 野村望東尼が差し出すと、高杉晋作は「面白きこともなき世を面白く」と狂歌めいた文句をしたためて疲れたように筆を置いた。息が上がり痩せた胸が大きく波打っていた。気力も萎えて後が続けられそうにないのを見て、野村望東尼が短冊を拾い上げて後を続けた。

「棲みなすものは心なりけり」と書いたのを見て、高杉晋作は満足したように「面白いのう」と呟いた。それが高杉晋作の辞世となった。

 慶應三年四月十四日、高杉晋作は亡くなった。享年二十七才だった。

 死に臨んで高杉晋作は藩に遺言を残した。軍事はすべて大村益次郎に託すようにとの内容だった。藩内で大村益次郎の手腕を買っていたのは桂小五郎と高杉晋作だった。

 葬儀の段取りは山縣狂介が手配し、式には藩公の正使が訪れた。奇兵隊士や藩士それにゆかりの者が葬列を見送り、その数は三千人を数えたという。墓は馬関市街地から北東六里の清水山の麓にたてられた。

 葬儀の夜、伊藤俊輔、白井小助、山縣狂介、井上聞多など生前高杉晋作と親交の深かった仲間が下関の妓楼大坂屋に集まった。葬ったら墓前に芸者を呼んで三味線や太鼓で賑やかにやってくれ、と言い遺した高杉晋作を偲ぶための会合だったが、誰も口を開かず一様に押し黙り、静かな宴となった。とりわけ伊藤俊輔の沈痛な面持ちは、誰の目にも悲痛なものがあった。功山寺挙兵以来、伊藤俊輔は命を賭けて高杉晋作を助けて来た。内訌戦で勝利を制したのも、第二次征長戦に勝ちをおさめたのも、高杉晋作の存在があればこそだった。いまここで高杉晋作を失っては先行きが限りなく心許なく思われた。

 これから誰を頼って働けば良いというのか。伊藤俊輔は開け放たれた妓楼の二階の窓から朧に霞む十六夜の月を見上げた。兄とも慕った高杉晋作の面影がそこにあるような気がした。わが名を俊輔と定めたのも高杉晋作だった。伊藤俊輔の気持ちは深く沈んでいた。

 しかし伊藤俊輔の感傷とは関わりなく、時代は激しく動いている。高杉晋作を失ったところで時が動きを止めるものではない。生き残った者が高杉晋作の遺志を継ぐしかない。

 薩摩藩は長州藩との盟約を守り、長州藩の汚名を濯ぐために奔走した。西郷たちの明言した通り、四侯は上洛し徳川慶喜の御前で長州藩の処分と兵庫開港について協議した。

 徳川慶喜は長州藩の協議よりも、まずは英仏から催促されている兵庫開港から議題に上げることを提案した。長州藩は未だ恭順の意を表明していない、というのが徳川慶喜の意見だった。しかし島津久光はまず内政問題を片付けてから、外交問題に心を一にして当たるのが筋として一歩も譲らなかった。いや譲らないどころか、そもそも長州藩には何ら瑕疵はなく、幕府が好んで兵を差し向けたのであるから、朝廷に上奏した長州藩征伐の勅命を撤回すべきであると詰め寄った。

幕威が盛んな頃ならばそうした議論はあるべきもないが、既に幕府の威光は地に堕ちていた。徳川慶喜は渋々ながらも島津久光の意見に従うしかなかった。その実、幕府は第二次長州征伐で長州一藩に破れ、十余万もの幕軍を退くしかなかったのだ。

 二侯は強引に言い立てる島津久光の意見に従ったが、土佐藩父山内容堂は薩摩の強引な舞台廻しに不満を示し、病気と称して会議を欠席した。土佐はあくまでも幕府を排斥する薩摩に組せず敵意すら抱いていた。

 五月二十三日、徳川慶喜は老中板倉伊賀守とともに参内し、長州藩を寛典に処するとして譲歩の姿勢を示したうえで兵庫開港をも併せて願い出た。しかし薩摩藩は長州藩の汚名を濯ぐことが先決であるとして同時上奏に同意せず朝議は混乱した。

 長州処分と兵庫開港の一件は薩摩の強硬な態度で膠着状態に陥った。そうした策で押し通す一方で、薩摩は着実に次の手を打っていた。

 慶応三年七月十五日、薩摩の村田新八が長州藩を訪れた。村田新八は西郷吉之助を師と仰ぐ男で、六尺豊かな体躯をしていたという。

 彼は重大な用件を命じられていた。かつては寺田屋騒動を引き起こして攘夷派浪士を弾圧したが、この頃にはさすがの藩父島津久光も徳川幕府に見切りをつけて、西郷吉之助や大久保一蔵の意見を容れて倒幕で腹を固めていた。薩摩藩士の間でも倒幕が公然と語られ、諸藩の志士を倒幕で糾合しつつあった。

 幕府軍と戦うには具体的な挙兵の期日と手筈を整えなければならない。西郷たちはそのことに頭を悩ませ長州藩士や芸州藩士、それに土佐藩士たちとも心を通わせてそれぞれの藩を説き伏せようと策動していた。

 ただ土佐藩の若い野心的な重役後藤象次郎がその動きに水を差した。自分が藩父山内容堂を説き伏せて土佐も倒幕の兵を共に挙げるから、それまで待ってくれるようにと西郷吉之助に申し入れて来た。村田新八が山口へ来たのは西郷吉之助の命を受けてのもので、土佐の足並みが揃うまで長州藩もしばし待つようにと伝えに来たのだった。

 長州藩は土佐藩の申し入れに懐疑的だった。自分の影響力にこだわり自己顕示欲の強い山内容堂が薩摩や長州と腹を合わせて倒幕に踏み切るとは思えなかった。だがそのことを了解して、村田新八が薩摩の船で帰京するのに品川弥次郎、世良修蔵の両名を同伴させた。その目的は西郷吉之助の真意を両名に探らせるつもりだった。

 両名は京の薩摩藩邸に入ると、大坂の薩摩藩邸にいた西郷吉之助の許へ倒幕挙兵の時期を打ち合わせるために長州藩の御堀耕助と柏村數馬を遣わした。大坂での会談には西郷吉之助の他に小松帯刀、大久保一蔵も加わった。その場で、西郷吉之助は土佐の山内容堂が挙兵に踏み切らない場合には、後藤象次郎たち土佐の藩士たちだけでも倒幕軍に加わることを明言していると伝えた。

 その頃、伊藤俊輔は木戸準一郎とともに長崎へ下っていた。表向きの役目は蒸気船の買い付けだが、実の処は海援隊の坂本龍馬と会って土佐藩の動向を探るためだった。坂本龍馬からは藩論工作するから今しばらく待ってくれと言われていたが、倒幕の時期をそうそういつまでも引き延ばすわけにはいかない。倒幕で西南雄藩が動きだしたように、幕府も存続を賭して朝廷工作で懸命に巻返しを策している。機を逸してはならない。いつまでも土佐藩にばかり気を使って待つのではなく、事と次第によっては薩摩と長州だけで兵を挙げようとする動きすらあった。

 伊藤たちが長崎へ下るのと前後して、折り良く後藤象次郎も長崎に姿を現した。彼も交えて坂本龍馬と倒幕後の政体の有りようを話し合った。土佐藩の重臣たちは幕府を倒した後の藩主の処遇に気を揉み、倒幕後の新政府でも山内容堂の発言権と影響力を保持しようとの思惑があった。だが、坂本龍馬は早くから土佐藩を脱藩し、彼の考えは土佐藩父の処遇に意を砕く後藤象次郎とは異なっていた。坂本龍馬は幕府が政治の表舞台から退き、有力諸侯で集団指導体制による政権を打ち立てることを目論んでいた。

 坂本龍馬と後藤象次郎が会談を重ねる間、土佐藩の動向を見極める役目は木戸準一郎に任せて、伊藤俊輔は長崎に停泊していた英国艦隊の旗艦に司令長官を訪ねた。

 諸侯政体論者の坂本龍馬の論理や、土佐藩父山内容堂を常に思考の中心に据える茶坊主のような後藤象次郎の論述をいつまでも聞いたところで埒はあかない。伊藤俊輔の考えは彼らとは遥かに隔たっている。賢公会議などは無駄だった。伊藤俊輔の目には彼等が論じる所はいずれも古びた概念としか映らない。英国で見た政治体制は彼等の論じるいずれでもない。入り札で議員を選び議員に政治を委ねる英国の政治を、しかし伊藤俊輔は口にしなかった。ここで彼がそれを述べれば、倒幕運動のすべてが水泡に帰すおそれがあった。命懸けで奔走する者の努力が彼等の将来を決して約束するものでないと知れば、誰が本気で倒幕で駆けずり廻るだろうか。土佐藩との話し合いを木戸準一郎に任せて、伊藤俊輔には英国艦で遂行すべき重要な任務があった。伊藤俊輔は論理の噛み合うことのない無意味な論議の場を去り、演習航海に出港する英国艦隊旗艦に乗艦した。

 実のところ、伊藤俊輔は重要な密命を帯びていた。

 幕府に仏国が肩入れをしているように、薩摩と長州は英国と会盟を結んでいる。それは今次の幕府との戦に仏国が介入することのないように英国と誼を通じておく必要があったからだ。いや、誼を通じるためだけではない。伊藤俊輔はどうしても司令長官と話をつけておくべき重大な役目があった。それは強力な幕府艦隊に対する備えだ。巨大な軍艦を揃えたこの国に存在する海軍と呼べるものは、唯一幕府艦隊しかない。その脅威を伊藤俊輔に説いたのは大村益次郎だった。

 伊藤俊輔は英国艦隊の司令長官と船中で会談して西洋列強の、とりわけ仏国と英国の倒幕戦争に対する考えを聞いた。表向き仏国も内政不干渉を貫くだろうと司令長官はいった。

 伊藤俊輔は長州藩が必要とする輸送艦船や野砲の調達に便宜を図ってくれるように申し入れた。司令長官は快諾し、倒幕軍艦船の後方支援を約束した。

 だが会談は後方支援だけに止まらなかった。更に大きく踏み込んだ話を持ち掛けたのは伊藤俊輔だった。それは長州藩の軍務方最高指揮官大村益次郎の密命だった。

 英国艦上での会談で倒幕戦争全体を左右するほどに重大な話し合いを持った。そして伊藤俊輔は一人で秘に英国艦隊司令長官と「ある密約」を結んだ。

 密命を滞りなく果たして、伊藤俊輔は司令長官との会談を終えた。英国艦隊は朝鮮近海を航海しそのまま江戸へ向かう途中に、兵庫沖で伊藤俊輔は下船した。

 京の薩摩藩邸に入ると品川弥二郎がいた。彼から薩摩藩は武力で幕府を倒すことに決めた、ついては長州藩と腹を併せたい、との申し入れを聞いた。さっそく大久保一蔵と大山格之助に会うと、山口に赴き藩主を拝謁したいとの申し入れをしてきた。もちろん伊藤俊輔に異存はない。それこそが伊藤俊輔が待ち望んでいたことだ。伊藤俊輔は品川弥二郎とともに山口へ帰り拝謁の根回しに奔走した。

 九月十八日、大久保一蔵と大山格之助が山口を訪れた。

 さっそく両名を山口へ案内し、待ちかねていた毛利父子が引見した。

 木戸準一郎も長崎から戻っており、倒幕について毛利父子の御前で広沢兵助も加わって話し合った。その席上、木戸準一郎は「土佐藩は当てにならぬ」と言った。

「後藤象次郎なる者、言論の輩にして武断の者にあらず。倒幕は言論では成らず。戦によって決するものなり。ついては土佐を待つことなく薩摩と長州、それに援助を申し入れて来ておりまする芸州にて倒幕軍を挙兵すべきであると思いまするが、いかが思し召しでござりましょうや」

 万事に慎重な木戸準一郎にしては珍しく「挙兵すべきである」との下りでは声を震わせた。顔面を朱に染め、さすがの木戸準一郎も高ぶる気持ちを抑え切れなかったようだ。この日の来るのを心待ちにして、多くの仲間が非業の最期を遂げた。彼らの面影が木戸準一郎の脳裏に去来して言葉を詰まらせた。

 毛利敬親は別名『そうせい侯』といわれている。家臣の意見具申のままに「そうせい」と承諾を与えて藩政を委ねてきた。この場合も「そうせい」と言ったが、しかしいつになく明快な声を上げた。

 発した毛利敬親の声は力強く、二重に括れた顎で大きく頷いた。晴れ晴れとした心中を表すかのように、毛利敬親の眼差しはカッと見開かれていた。

 長州藩には『正月の儀』と呼ばれる儀式があった。

 元旦早朝、打ち鳴らされる太鼓の音に萩城下の家臣が裃に威儀を正し総登城して大広間に集う。やがて藩主が御座に就くと家臣は一斉に平伏し、筆頭国家老が大音声で尋ねる。

「今年はいかが取り計らいましょうや」

 その問いかけに、藩主は平伏した家臣を見渡して、

「未だそのときにあらず」

 と、重々しく一言こたえる。そして、家臣が平伏したままに藩主は退席する。

 正月の儀とは、それだけのことであった。禅問答にも等しく、文言からだけでは何のことだか定かではない。しかし、城中の大広間に集った家臣たちすべてがその意味を知っていた。

 正月の儀に秘められた意とは倒幕だった。二百数十年間も連綿として正月に儀式として繰り返され、徳川家康によって防長二州に閉じ込められた毛利家の怨念を継承してきた。

 しかし、そもそも儀式とはそのようなものだ。なんらかの意思を具体的に様式化し、儀式として伝えることでその意思を継承させる。倒幕の志を儀式としたことにより、毛利長州藩は徳川幕府に対する怨念を挫けることなく受け継がしめ、幕府の奨励した儒学を『腐儒』と軽蔑し、国学なかんずく神道を学ぶ土壌を長州の地に培った。

 毛利敬親は「今や、その秋(とき)」と心の中で叫ぶ何代にもわたる先祖の声をはっきりと耳にした。倒幕が藩首相格の木戸準一郎から進言された。それは長州藩主が何代にもわたって待ちに待った家臣からの具申だった。

 ここに、長州藩は徳川幕府を倒すために挙兵する意を決した。

 晴れ晴れしいことだが、毛利敬親の表情は苦悶に満ちていた。ここに漕ぎ着けるまで、実に多くの人材をあたら死なせてしまった。長井雅楽、吉田寅次郎、来原良蔵、久坂玄瑞、周布政之助、蛤御門の変で責めを負って腹を切った三家老に来島又兵衛、内戦の折りに首を刎ねられた政務員たち……。いずれも今は亡き大勢の忠臣たちの面影が脳裏を過ぎり、毛利敬親は胸を掻き毟られるような切なさに首を折った。巨躯の肩がわずかに震えた。

 慶応三年九月十八日、倒幕に向けて薩摩の大久保一蔵と長州の木戸準一郎との間に一つの密約が成った。大きくは次の三ヶ条だった。

   一、倒幕軍は両藩が主力となる。

   一、連合軍は長州三田尻で軍勢を整える。

   一、連合軍は先発と本隊に分け、先発は海路大坂へ向かう。

この密約に芸州藩も参加した。

 ただちに長州藩は奇兵隊などに召集令を発し、当月二十五日までに兵五百を三田尻鞠生の松原に待機させた。

 その間、伊藤俊輔は長崎へ出向いた。薩・長・芸の連合は成立したが、大坂まで五千人に近い兵員を輸送する艦船を確保しなければならない。買い入れるのでは間に合わないため、掻き集められるだけ手当り次第に蒸気船を借りるつもりでいた。たまたま長崎から戻りまた馬関から旅立とうとしたとき、坂本龍馬が船に乗って現われた。

「長州藩は薩摩藩と密約が成立し、いよいよ倒幕の兵を挙げる」

 と告げると、坂本龍馬は大いに喜び、

「小銃千梃ばかり芸州の船に積んで土佐へ運ぶことになっておるンじゃ」

 と、坂本龍馬は土佐藩も共に立つと明言した。

「しかし、貴藩は因循にして貴君の願う通りにはならぬかも知れぬ。その場合、小銃は長州に回してもらえぬか」

 伊藤俊輔は坂本龍馬に皮肉とも取れる言辞を吐いた。藩父にへつらう後藤象次郎はどうにも信用ならなかった。しかし、坂本竜馬はいささかも気にせず、

「なあに、後藤象次郎が躊躇するようなら、役目を乾退助に変えるまでのことよ」

 と言って、伊藤俊輔の言辞を杞憂とばかりに笑い飛ばした。乾退助とは後の板垣退助のことだ。

 皮肉は別として、武器に関する伊藤俊輔の言葉は長州藩の本音だった。とにかく、長州藩は性能に優る銃が一挺でも多く喉から手が出るほど欲しかった。

 極秘事項だが長崎へ出向くと伊藤俊輔はグラバーの助けを得て輸送船の手配を済ませた後で、そのまま姿をくらますことになっていた。過日、英国艦隊に乗船した折りに、伊藤俊輔は英国艦隊司令長官と幕府艦隊が倒幕軍の輸送船団に攻撃作戦をしかけたなら、速やかに英国艦隊が幕府艦隊に砲撃を加えるという密約を結んでいた。長州藩は伊藤俊輔に『英国艦隊乗組』との辞令を発し、身分が長州藩士なら万事に都合が悪いだろうと無期限の暇を与えた。

 幕府艦隊を最も恐れたのは大村益次郎だった。陸戦ならば決して負けることはない、と大村益次郎は自信を持っている。しかし幕府艦隊が出動して空家も同然の鹿児島か馬関か萩を襲撃したらどうなるか。城郭や砲台は徹底的に破壊されて市街地も焼き尽くされ、倒幕軍全体の士気に重大な影響を与えるのは必至だ。

 大村益次郎は想定しうる最悪の事態を考えた。討幕軍にとって幕府艦隊がとりうる最悪の戦略とは遠路はるばる鹿児島や萩まで出向かなくても、万が一にも幕府艦隊が兵庫沖に集結する倒幕軍の輸送船団を襲撃したらどうなるか。戦艦といえども艦船は碇泊時にもっとも脆弱となる。しかも輸送船団は幕府艦隊に応戦する装備を一切持たない。兵庫沖に兵員上陸のために停船した倒幕軍の輸送艦船を、幕府艦隊が急襲したなら収拾のつかない混乱と決定的な敗北をもたらすだろう。

大村益次郎は幕府軍がとりうるすべての作戦を検討し、最悪の場合に備えることを伊藤俊輔に求めた。それこそが長崎行の真相だった。過日、伊藤俊輔は長崎から英国艦隊に乗り込んだ折り、倒幕軍の動きを側面から支援する密約を結んでいた。

 その当時の伊藤俊輔の動きは幕末史でこれまでほとんど触れられていない。予備的な密約とはいえ国内戦争に英国の力を借りようとしていた事実は不名誉であるばかりか、万が一の場合は重大な外交問題に発展することも考えられる。

 ただ、この一件には周到な検討がなされていたようだ。伊藤俊輔から木戸準一郎へ送った手紙に「奪艦の一条は予て大山格之助とも相談し置き候ことにて、都合次第人数は鹿児島黒田嘉右衛門まで申し遣はし候えば、早速出崎仕まり候様、種々相約し置き申し候……」との文言が見受けられる。伊藤俊輔の行動には木戸準一郎も関わり、薩摩藩もそのことを承知していたことになる。

 しかし『艦を奪う』とはどこの艦を奪うのだろうか。英国艦隊が倒幕軍に助勢して出撃し、奪うとすれば幕府艦船でしかないだろう。こと海軍力に関しては倒幕諸藩の軍艦を束にしても幕府艦隊にはかなわない。そのことを長州藩の大村益次郎が危惧したように、薩摩藩の大山格之助も心配していた。必要とあれば薩摩藩が人数を繰り出すとの手筈も整っていたようだ。

 伊藤俊輔は英国艦隊の旗艦上にいた。

 国内戦に外国の軍事力を借りる危険性は十分に承知している。そのために伊藤俊輔は長州藩籍を離れた。万一英国艦隊が幕府艦隊と砲火を交える事態が生じ、戦後処理で英国がなんらかの居留地なり分け前を要求した場合、伊藤俊輔は『私事の依頼』で押し通して英国のあらゆる要求を伊藤俊輔一人の責任で引き受ける覚悟でいた。いざとなれば腹を切れば済むこと、と悲壮な決意を固めていた。

 すでに伊藤俊輔は長州藩の者でないばかりか、いかなる藩の者でもない。伊藤俊輔は英国艦隊に乗船しているたった一人の日本人だった。日本国を新しく生まれ変らせるためならば、自分の命を投げ出しても悔いはないと決意していた。

 英国艦隊は長崎を後にすると瀬戸内海に入り、三田尻沖に集結する薩摩海軍の後方支援に当たった。艦船は将兵の乗船時と下船時に投錨しなければならず、攻撃に対して無防備になる。艀に乗り移る処を幕府海軍に急襲されれば、甚大な損害を被る事態を覚悟しなければならない。しかし、幸いにして幕府艦隊は三田尻沖に姿を現さなかった。

 慶応三年十一月二十一日、倒幕軍兵員を満載した輸送船団が三田尻を出港した。付き添うように英国艦隊も追従し、瀬戸内海を東上し兵庫沖に停船した。すると英国艦隊の動きを牽制するかのように仏国艦隊も姿を現した。兵庫沖に異様な緊張感が漲った。

 輸送船の周囲に蟻のように艀が群れて取り付いている。伊藤俊輔が必死で手配した蒸気船で先発隊の薩摩三千、長州千二百、芸州三百の将兵が兵庫沖に到着し、続々と艀に分乗して十一月下旬の白波の立つ海を兵庫の港へと向かっていた。

 伊藤俊輔は英国艦船上から長州、薩摩、芸州の倒幕軍が上陸するのを見守った。英国艦の甲板に立ち、伊藤俊輔は感慨深く手摺に凭れて眺めた。いよいよというべきか、やっとというべきか、倒幕を目指して兵が兵庫の港に上陸している。

「稔麿、九一、忠三郎、久坂さん、高杉さん、来原さん、松陰先生……」

 伊藤俊輔の目には涙があった。彼等にこの光景を見せたいと心底から思った。

 冬の空を忙しく飛ぶ雲のように時は流れた。彼等はその時々の舞台で人生を賭けて活躍し、華々しく輝いて流れ去る雲のように消えていった。雲が流れ去った後には抜けるような蒼穹の空があるのみだ。伊藤俊輔は手の甲で目を拭った。

 しかし拭っても拭っても滂沱として涙が溢れた。走馬灯のように来し方が伊藤俊輔の脳裏を駆け巡った。萩の町に来た当初、伊藤俊輔に同年齢の仲間は誰一人としていなかった。田舎を捨てて逃げてきた父親の後を追って異郷の地にやって来た浮浪人の子だった。その後様々な人との邂逅があり、曲がりなりにも長州藩で棲む場所と活躍の場を与えられた。

 強運。確かに他人から見れば伊藤俊輔は人一倍運が良かったといえるだろう。

 しかし伊藤俊輔は自分が運に恵まれているとは考えなかった。運という言葉に押し込めるには余りにも多くのことがありすぎたし、瞬時の判断次第で命を落としかねない白刃の上を歩くような苦難の連続だった。英国から帰国するに際して英国人ジョセフですら命を落とす行為だと諫めた。功山寺決起に際しても命を捨ててかかってのことだ。

 こうして英国艦の上から倒幕軍の上陸を眺める機会に恵まれたのも、来原良蔵や高杉晋作たちの導きだと思っている。人生とは人との出会いこそがすべてだ。伊藤俊輔はそう考えていた。

維新後、明治政府の重鎮となった伊藤博文は同郷の若者たちを書生として大井町の私邸に住まわせた。伊藤博文ほどこまめに面倒をみた元勲は他にはいない。そのため明治の御代で長州閥を築いた統帥のようにいわれているが、それは誤解だ。ただ単に伊藤を頼って上京して来た郷土の若者たちの面倒を見ただけだ。

伊藤博文はかつて来原良蔵の「面倒見の良さ」で世に出るきっかけを得た。当時の来原良蔵のように、同郷の若者たちに接したに過ぎない。それは来原良蔵から受けた恩義の幾許かでも、世間に返そうとした気持ちだったかも知れない。

 伊藤俊輔は自分の運命に従順だった。時代の奔流に流されて来ただけだといえばその通りだが、剣技でも学問でも論理でも体力でも、何一つとして当代一流というべきものを持ち合わせていたわけではない。時代を洞察する叡智では遠く吉田寅次郎に及ばないし、高杉晋作のように屹立した天才的な存在として天下に号令を発するような人物でもない。それかといって究理学論理では大村益次郎に遠く及ばない。そうしたすべてのことを、この若い苦労人は知っている。元を正せば束荷村の百姓の倅だ。禄を離れたなら元の百姓に帰れば良い。心の片隅には常にそうした開き直りがあった。

 豆粒のような艀のうごめく上にも茫々たる空があった。伊藤俊輔は甲板の手摺に凭れて空を見上げた。ふと英国へ向かう航海で見上げたインド洋上の濃い青空を思った。望郷の念が湧いたわけではなかったが、英国へ渡航する甲板で井上聞多と「この空の涯に故郷がある」と語り合ったことを思い出した。

空は何処までも涯しなかった。青い海の蒼穹の涯にはどこまでも空があった。しかし、ここで見上げる空は英国の空ではない。明日を拓く新しい日の本の蒼穹の空だ。

 

 しかしこの碧空の下、兵庫沖からは目と鼻の先、摂津天保山沖の空の下にも一群の艦船が停泊していた。それは大村益次郎が最も恐れる榎本武揚率いる幕府艦隊だった。

 その日、幕府艦隊に倒幕軍をまとめて撃破する絶好の機会が訪れていた。幕府艦隊の旗艦はこの年(一八六七年)三月二十六日にオランダから榎本武揚(釜次郎)が回航して来た幕府最新鋭艦・開陽丸だった。榎本武揚は一八三六年に伊能忠敬の弟子の榎本武規の子として生まれて当時三十歳。昌平黌で学んだ後に海軍伝習所に学び、文久二年(一八六ニ年)に幕府が軍艦発注に際してオランダに派遣された。発注から完成までの四年間オランダで榎本武揚は留学生として海洋関係の国際法や操船を学んだ。慶応二年に完成した開陽丸を回航して帰国し、その後五月十日に幕府に召し出され百俵十五人扶持を賜った。

開陽丸は全長七十二・八メートルで全幅十三メートル、装備した蒸気機関は出力四百十馬力で機関航行の最速は十ノット。三本マストで二千五百九十トンの巨艦にクルップ砲を主体とした二十六門にアームストロング砲が九門の合計三十五門もの重装備の軍艦だった。ことにアームストロング砲は大村益次郎が喉から手が出るほど欲しがった最新式の砲で、到達距離と破壊力に於いて当時では比類のないものだった。後に大村益次郎は鍋島藩所有の二門のアームストロング砲を借りて、本郷台加賀藩の江戸屋敷に据えさせた。その殺傷力を怖れた鍋島藩から使用砲弾数まで制限され、不忍池越しに僅かに五発ずつの計十発の砲撃で彰義隊を上野の山に撃破した。アームストロング砲とはそれほどに威力のある砲だった。

しかし重装備を施し過ぎたため開陽丸の船足は遅く、風波に弱い重心の高い艦になっていた。しかも鋼鉄船として鉄板を灼熱のリベットで繋いでいては建造に日数を要するため、建造期間短縮のために木造船の側に鉄板を打ち付けるという「禁じ手」で建造された艦船だった。そのため船体強度は木造船のそれでしかなく、後に江刺沖で座礁して船底が破損し沈没することになる。しかし開陽丸は当時としては紛れもなく最大級の火力を有し、欧米列強ですら恐れる戦艦だった。

 もしも幕府艦隊が作戦行動を起こして兵庫沖を急襲し、甲板に装備した射程の長いアームストロング砲で輸送船団を砲撃したなら、倒幕軍は上陸する前に兵庫沖で壊滅していただろう。その後の歴史は大きく異なるものになっていただろう。しかし榎本武揚はついに摂津沖を動かなかった。榎本武揚は長崎の海軍伝習所で一期生として操船術を学んだ後、幕府の和蘭伝習一期生として六年間も蘭国の海兵学校に留学して学んだ。帰国後に幕府軍艦頭を命じられて幕府艦隊を任された。しかし、彼が蘭国海兵学校で専攻したのは航海国際法と戦時国際法だった。もしも彼が戦術兵法論を専攻していたならば迅速に行動して、大村益次郎が恐れた事態になっていただろう。

 この後も榎本武揚は幕府艦隊司令長官として、戦略上ことごとく不可解な判断を重ねる。長州の奇兵隊を主力とした倒幕軍が越後で河井継之助の軍勢に苦戦しているとき、幕府艦隊が新潟沖に駆け付けたなら勝敗は逆になっていた可能性が高い。会津で手こずっていたときにも幕府艦隊が仙台湾に駆けつけていたなら、戦局は一変していただろう。近代戦争は直接的な戦闘行為とともに膨大な物資の消耗戦でもある。戦闘を継続するには兵站を整えて兵員はもちろん武器弾薬糧秣までも絶え間なく補給しなければならない。陸路からは劣悪な未舗装の街道を人馬以外に膨大な物資を輸送する手段のない当時、制海権と港を制した方が戦局を有利に導けるのは自明の理だった。

 だが出撃要請を受けたいずれのときも、榎本武揚は徹底抗戦を唱えながらも討幕軍を攻撃しなかった。江戸城を明け渡すときにも、討幕軍の武装解除を無視して品川沖に艦隊を留めたまま動こうとはしなかった。そして彰義隊が上野の山から敗退した後に、何を思ったか突如として函館へ向けて出港し、国際法に則り蝦夷に独立国家を打ち立てようと試みる。

 その不可解な行動は将軍徳川慶喜が朝廷に恭順の意を表明したために討幕軍の攻撃をためらったのと、幕府陸海軍を明快に統括司令する部署がなかったためとも考えられる。だがそうした理由で討幕軍に艦砲射撃を加えなかったのなら、幕府艦隊を品川沖に投錨させたまま、政府軍の武装解除に応じるべきだった。

近代戦では陸・海軍は相互に連携し補完しあって、総合的な戦略に基づいて作戦行動を取るべきだ。断じて私憤や義憤を晴らすために幕府艦隊のみで勝ち目のない無謀な戦いに臨み、将兵の命を徒に犠牲にしてはならない。少なくとも彰義隊が上野の山に立て籠もって抗戦している間に、フランス陸軍に学んだ大鳥圭介率いる幕府伝習隊と連携作戦を取るべきだった。

 端的にいえば、榎本武揚は幕府艦隊司令長官になるべき人物ではなかった。蘭国海兵学校で専攻した科目から推測すれば、彼は海軍武官としてではなく海軍文官としての研鑚を積んだことになる。そのため幕府海軍事務長官にはなりえても、たとえ推されても幕府艦隊司令長官になるべきではなかった。だが、そのことが倒幕軍には幸いした。

 倒幕軍の兵庫上陸を見届けると、伊藤俊輔は英国艦隊を離れた。兵庫に上陸して倒幕軍の後を追った。西宮で長州軍に追い付くと諸隊長官の林半七らと面会し、

「僕も倒幕軍に加わりたい」

 と、その場で伊藤俊輔は願い出た。密命を帯びた兵員輸送の重要な役割はひとまず終わった。これからは実際に山野を駆けて幕府軍と戦をするのみだ。伊藤俊輔は一兵卒として、倒幕戦争に参加したいと願い出た。林半七は第二奇兵隊の軍監で「槍の半七」と謳われた槍の遣い手だった。当時既に四十を超え、白井小助たちと同年配だった。維新後は友幸と名乗り元老院議官を勤め族院議員や枢密顧問官を歴任している。

林半七や白井小助たちは伊藤俊輔の申し入れに驚きの眼差しを向けた。

 彼等は山口の兵学校で大村益次郎から武官と文官との区別を教え込まれている。自分たちは兵隊を指揮する武官だが、伊藤俊輔は行政を司る文官だ。しかも志士として活躍した経歴は伊藤俊輔の方が彼等よりも古い。彼等は伊藤俊輔よりも年上だが、伊藤俊輔を配下として指図する立場にはなかった。林半七たちは「いや、いや」と一様に首を横に振った。

「伊藤殿には他に成すべき仕事がある。戦はわれらにお任せ頂こう」

 と林半七は豪快に笑い飛ばした。

 

 話は一月ばかりさかのぼる。

 この時期、長州藩に対する朝廷の方針が大きく変わった。

 慶應三年十月十三日に蛤御門の変以来着せられていた朝敵の汚名が濯がれ、長州藩主父子の罪が許された。翌十四日に倒幕の密勅が長州の広沢兵助と薩摩の大久保一蔵に手渡された。これにより幕府を倒す大義名分が成ったことになる。薩摩と長州は大いに喜んだが、それは糠喜びに過ぎなかった。

 同じ日、突如として徳川慶喜は大政奉還を上奏した。

 大政奉還は『公議政体』論に立つ土佐藩主山内容堂の献策だった。その戦略は三段論法と似ている。朝廷が大政奉還を受けて政権を手中にしても、結局は困り果てて幕府や雄藩を頼らなければならなくなるだろう。朝廷には統治する全国的な機構も人材もなく、行政の実務能力が備わっていないのは誰の目にも明らかだ。公卿たちが幕藩体制の官僚を頼ってくれば天皇を飾り物に祭り上げて、実質は徳川家を加えた雄藩連合でこの国を統治していこうとする旧勢力温存策だった。

 土佐藩主の父山内容堂にその策を進言したのは後藤象次郎だった。それは坂本龍馬が示した『船中八策』を基にして後藤象次郎が描いたものだ。坂本龍馬も『公議政体』論に立ち、全国的な統治政権を実現するために穏便な方法を採ろうとした。悲惨な倒幕戦争を回避するにはそれしかないとの判断からだった。

 徳川幕府は御所の塀の内側に政権を投げて寄越した。

 すると山内容堂が考えた通りに、公卿は事の重大さに驚き朝廷は混乱した。

 公卿たちは行政実務を知らないばかりか、行政体系がいかなるものかすら知らない。幕府から上奏された大政奉還を歓迎したものの、公卿たちは煩雑な行政の現実を目の前にしてたちまち腰砕けとなり、全国統治機構として現存する幕藩体制の武家官僚に統治を委ねる公議政体論に救いを求めようとした。そうした朝廷の混乱を目の辺りにして『公議政体』論の元々の出所が坂本龍馬と知ると不快感をあらわにした者がいた。

「余計なことをする」

 と、西郷吉之助は言下に不快の念を呟いたという。

 坂本龍馬は倒幕勢力の軍事力と幕府勢力の軍事力とを天秤に掛け、実質的に薩摩長州の両藩しか当てにならない倒幕軍を危ぶんだ。その心理は長州の桂小五郎に似ている。そして、何よりも坂本龍馬は現実論者だった。西洋列強が近隣諸国にまで植民地争奪の策動を繰り広げている国際情勢からして、日本国内で戦乱を全国に及ぼすことがいかに危険かを十分に承知していた。それは国際政治の現実を視野に入れた妥協策だったが、坂本龍馬の献策は薩摩との関係を悪化させる原因となった。

 公議政体論に対して、大久保一蔵も露骨な嫌悪感を隠さなかった。

「平穏無事を好んで諛言を以って雷同を公論になし、周旋尽力するの次第は実に憤慨に堪うべからず」

 と、土佐の動き、とりわけ坂本龍馬の策動を慨嘆し、

「勤王無二の藩、干戈を期し戮力合体非常の尽力にあらざれば能わず」

 と言って、倒幕戦争の必要性を力説した。

 大久保一蔵たちは倒幕戦争の帰趨よりも『言路洞開』の政体を打ち立てる方が必要であるとの論に立っていた。言路洞開とは上下を問わず人々に発言権を与え、公議輿論を形成することである。そうしなければ、下級士族出身の彼等に新政府での発言権が確保できないことになる。諸侯の会議による政体が出現したのでは旧来の幕藩体制と何等変わりなく、倒幕の企てが元の木阿弥になってしまうとの危機感があった。

 だが、形の上では大政奉還により徳川幕府は瓦解してしまった。理屈からすれば倒幕軍は戦う相手を失ったことになる。

 朝廷では坂本龍馬の献策により土佐藩父山内容堂が主導権を握った。当然、倒幕の密勅は反故同然になったと考えざるをえなかった。幕府を中心とする旧体制を根刮ぎ倒さなければ徳川家の影響力を完全に排除することは出来ない、とする薩摩と長州の策は宙に浮いた形になってしまった。

 何が何でも武力で古い体制を根刮ぎ倒さなければ将来に禍根を残す、と考える薩摩長州の思惑と、幕藩権力を温存しようとする土佐の思惑と、徳川家の存続を願う会津桑名の思惑とが朝廷と公卿を巻き込んで京に権謀術数が渦巻いた。

 大政奉還により倒幕の大義名分を失ったまま、薩摩長州芸州の三藩は西宮に兵を留めて武力蜂起の機会を狙った。大久保一蔵はこの時期を『丁卯の冬』と呼んだ。せっかく進めてきた倒幕の準備が宙に浮いたまま、いたずらに時を過ごさざるを得なくなった。

 そうした折りも折り、坂本龍馬が暗殺された。

 十一月十五日、京の河原町蛸薬師下ル醤油屋近江屋の二階で何者かに襲われた。不意を狙われたとはいえ、坂本龍馬は北辰一刀流免許皆伝の達人だ。よほどの手練をそろえ、周到な準備の上で急襲したものと思われる。同室していた中岡慎太郎も深手を受けて非業の最期を遂げた。当時下手人は京所司代支配下の見廻組とも、近藤勇率いる新撰組とも十津川郷士ともいわれた。後に犯人は捕まり坂本龍馬暗殺事件は一応の決着をみているが、いまだに真犯人を巡って諸説が取り沙汰されている。

 

 事態の打開に薩摩藩が動いた。

 慶応三年十二月九日、岩倉具視などの尽力により王政復古の大号令が出された。

 その前夜、薩摩藩の大山弥助は西宮へ赴き明日にも『大政復古の大号令』が発せられることを告げて、滞陣していた軍を京へ進めるように促した。その夜のうちに倒幕軍は進軍を開始し京を目指して西宮を発ち、大号令当日に大挙して隊伍整然と上洛した。朝廷の親兵ともいうべき倒幕軍の上洛により、一挙に軍事衝突の脅威が高まった。

 しかし京の二条城にいた徳川慶喜は『公議政体』を掲げて土佐、尾張、越前などの後押しを得て巻き返しを計る一方、十六日には公然と大阪城で仏英蘭などの外国公使を引見し、外交権も含めて政治権力を依然として将軍家が握っていることを内外に知らしめた。

 幕府の意外な巻き返しに公卿たちは『公議政体』論に靡き、岩倉具視らは朝廷で孤立した。このままでは倒幕の密勅が宙に浮くばかりではなく、徳川家も含めた諸侯が参議となり幕藩体制が温存されることになりかねない。

 薩摩と長州は『公議政体』に対抗する策として、徳川慶喜に無理難題を突き付けて幕府を挑発した。その要求とは徳川家の「辞官」と「納地」だった。大政を奉還したからには征夷大将軍の官職も、全国に擁する四百万石におよぶ領地も必要ない、当然にして朝廷に戻すべきだと詰め寄った。いわば、徳川家を丸裸にするのも同然の薩長の要求に、大阪城に入っていた会津桑名の藩兵たちは敵愾心を露にした。

 薩長の策動と対抗するために土佐藩の山内容堂は他の同調諸藩と力を併せて、徳川慶喜を首班とする諸藩連合体制を朝廷に迫った。あとは岩倉具視らによって突きつけられた徳川家の官職と領地を返納すれば『公議政体』は成るばかりとなった。

 薩摩長州をはじめとする倒幕派はいよいよ窮地に陥った。

 局面を打開するために西郷吉之助は京で懸命に策略を凝らす傍ら、禁じ手ともいうべき博奕を江戸で打った。それは正に窮余の一策、博奕以外のなにものでもない。

 西郷吉之助は腹心の藩士益満休之助らを江戸の三田薩摩藩邸へ送り、江戸市中の浪人を使って乱暴狼藉を働くように仕向けた。薩摩藩邸を根城として公然と豪商の屋敷に押し入り、勤王の軍資金と称して強奪させて幕府を挑発した。子供じみた乱暴この上ない謀略だが、幕府を戦争に引きずり出すにはこれより他に手立てがなかった。

 しかし、このような意図の見え透いた挑発に、あろうことか幕府は乗ってしまった。

 十二月二十五日払暁、江戸市中警備の幕府軍と庄内藩兵二千が薩摩藩邸を取り囲み、焼き打ちと殺戮の挙に出た。前夜、ことを察知した薩摩藩士たちは品川沖から薩摩の翔鳳丸で逃走したが、益満休之助だけは藩邸に留まり捕らえられた。

 西郷吉之助の策略は見事に的中したことになる。

 あとは江戸の憤怒の炎が大坂城内に飛び火して、燃え上がるのを待つばかりだった。

 十二月二十八日、江戸薩摩藩邸襲撃の報が大坂城に届くと、はたして京摂津でも薩摩を蹴散らすべきとの主戦論が城内で沸騰した。入洛した薩摩を主体とする倒幕軍を撃破すべしと将兵たちは口々に叫んだ。京に集結した薩摩兵はわずかに三千、長州・芸州の倒幕軍を総計しても五千でしかない。それに対して大坂城に滞陣している会津桑名を主体とする軍勢は一万五千。何を怖れる必要があろうか、薩摩討つべしとの意見が大勢を占めた。

 大坂城内の激情に衝き動かされるように、徳川慶喜は『討薩の表』を朝廷に上奏した。それは幕府が薩摩を討伐すると表明したことに他ならない。ここに国内戦争を回避しようとした山内容堂の『公議政体』策はついえた。短慮というべきか、徳川慶喜は前後の見境もなく薩摩藩に宣戦布告をしてしまったのだ。

 皮肉を込めて言うならば、徳川慶喜はいかにも徳川幕府最後の将軍に相応しい人物だった。首尾一貫した冷静な判断力と状況掌握力が備わっていたなら、彼は悲惨な国内戦争を防げただろうし、維新以降も新政府でしかるべき立場と一定の発言力を確保できただろう。しかし徳川慶喜は大坂城内で湧き上がった憤怒の激情に敢えて抗せず、大上段にも宣戦布告をしてしまった。ものの見事に、西郷吉之助の老獪な策略に嵌まってしまった。

 慶応四年(明治元年)正月二日、大坂城から会津桑名などの藩兵一万五千が鳥羽伏見街道を京へ向かって進撃を開始した。それに対して京に入っていた薩摩長州を主力とする倒幕軍五千が鳥羽伏見へ進軍し、翌三日未明ついに戦端が開かれた。

 当初、軍勢の数に優る幕府軍が押し気味だったが、やがて火力に優る倒幕軍が攻勢に転じると、一挙に幕府軍は総崩れとなり敗退を重ねた。その様は第二次征長戦争を彷彿とさせるものだ。敗退を続けた幕府軍が大坂城に逃げ戻って来ると、徳川慶喜は悄然と戦意を失った。

 一年半前にも長州藩と戦った折りに、徳川慶喜は『大討込』と称して旗本を大坂城に招集したことがあった。第二次征長戦争を勝利に導くべく徳川慶喜は意気揚々としていたが、小倉城陥落の知らせを受けるや一夜にして『大討込』を取り止めた。徳川慶喜にはそうした性癖があった。

 正月六日夜、大坂城では徳川慶喜の御前で作戦会議が開かれた。

 会津桑名両藩の将兵たちは口々に抗戦を申し立てた。緒戦で敗退したとはいえ幕府軍は薩長軍に倍する軍勢と装備を持っている。将軍が前線に出馬されれば兵卒も奮い立ち、幕府軍は決して負けはしないと弁じた。たとえ倒幕軍に攻め寄せられても天下の大坂城に籠城して援軍を待つ方法もあるとの意見もだされた。摂津沖には威容を誇る幕府艦隊が控え、海戦でも薩長海軍を凌駕し制海権を確保できるとの検討もおこなわれた。ようやく徹底抗戦で衆議が決し、翌日には将軍が前線に姿を現して倒幕軍と戦うことになった。

 その作戦会議の通り徳川慶喜が行動していたなら、歴史は変わっていた可能性が高い。それは会津・桑名両藩の武将たちが進言した情勢分析そのままに推移したと思われるからだ。しかしその夜半、徳川慶喜は会津藩主松平容保とその弟桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静らわずかな側近とともに天保山沖の米国艦船に逃れ、翌早朝開陽丸に移ると艦長榎本武揚の不在にもかかわらず副艦長の沢太郎左衛門に命じて江戸へ遁走してしまった。大坂城内の将兵たちには一切知らされず、将軍自らが敵前逃亡する前代未聞の出来事だった。

 将軍慶喜が抗戦しなかったのは倒幕の勅命が出されて倒幕軍に錦旗が翻り、幕府軍が賊軍になったのを畏怖したためだといわれている。それならそもそも『討薩の表』を上奏すべきではなかったし、山内容堂たちの働きに任せていればよかった。徳川慶喜本人は何もしないで大阪城に鎮座していれば、自然と公議政体ができ上がる仕掛けになっていた。

しかし、いったん戦端を開いたからには一度や二度の敗戦で将兵を見捨てて江戸へ逃げ帰るべきではなかった。勝敗がまだ決していない緒戦の段階で、徳川慶喜は白旗を掲げるに等しい行動を取った。とても古狸と称された徳川家康の子孫とは思えない、二百数十年も続いた徳川幕府の将軍として思慮分別を欠く身の処し方だった。

 

 伊藤俊輔は西宮から長州藩へ帰るに際して一人の米国人を伴った。

 名をドクトルベオールといった。彼を招いたのは何も特別な西洋の学問を広めるためではなかった。かねてより伊藤俊輔は三田尻に英語学校を建てる計画を暖めていた。英国ロンドン大学で学んだ英語を学問として教えられる教師を求めて、この国の若い世代に英学を教えようとした。そのため過日英国艦船に乗艦の折り、艦長に適当な人物がいたら紹介してくれるように頼んでいた。この度さっそく司令長官が一人の米国人を紹介してくれた。それがドクトルベオールだった。

 意気揚々と帰山すると、ドクトルベオールを伴って政事堂へ上がった。しかし、すべてにおいて勝手が違った。誰一人として伊藤俊輔を相手にせず、耳を傾けようとしなかった。

 政事堂では誰もが目を血走らせ鬼のような形相になり、藩全体が戦争準備の渦中にあった。いよいよ倒幕戦争が始まると長州藩は沸騰していた。そうした局面にあって、伊藤俊輔は臆することなく自説を述べ、政務員を捕まえては英語学校設立の趣旨を説いて回った。しかし親しい井上聞多や広沢兵助ですら聞く耳を持たなかった。

「何を寝言みたいなことを言うちょるんか。倒幕戦争の最中ではないか」

 と、頭から問題にされなかった。

 上方から風雲急を告げる知らせが日に幾度となく届き、有能な吏員ですら足下から鳥が飛び立つような喧騒に浮き足たっていた。冷静に伊藤俊輔の提言を聞く者はおろか、米国人をこの時期に藩へ連れ戻ったことにあからさまに嫌な顔をした。

 藩は兵隊の編制に慌ただしかった。隊列を整えた兵を次々と京を目指して送り出していた。やがて、鳥羽伏見の勝利が伝えられると、いよいよ伊藤俊輔は孤立した。独り慌ただしい政事堂の廊下に佇み「わしゃあ、大事じゃと思うがのう」と愛敬のある丸顔を曇らせて取りつく島のない藩に概嘆した。

 伊藤俊輔は有能な文官として来たるべき時代を見据えていた。

 倒幕の戦乱は二年とまたず収まる、と未だ始まったばかりの戦の後を考えていた。伊藤俊輔は楽天的だった。倒幕戦争の帰趨について桂小五郎ほど悲観的ではない。

 今次の倒幕戦はおそらく短期間に終結すると予測したのは大村益次郎だった。一年のうちに勝利し九割方の戦闘は収まると予言した。倒幕戦争は大量の洋式武器を備えた薩摩長州軍と仏式幕府陸軍が激突して雌雄を決する戦いになるだろう。だとすれば凄まじい消耗戦となるのは必至だ。とても長期戦にはならない。兵站が整い弾薬や糧秣の補給の続く方が勝ちを制する。大村益次郎が予測した倒幕軍の勝利を、伊藤俊輔は驚くほどの素直さで信じて疑わなかった。なにしろ大村益次郎は第二次征長戦で四境の前線を山口の本営で統括支配して作戦を与え、十倍する幕府軍をすべての戦線で撃破した。いまはまだ山口の兵学校で将官を教練しているが、やがて桂小五郎が倒幕軍の総帥に仕立てるだろう。そうした予見を持ち、伊藤俊輔は幼児のような単純さで信じていた。薩摩藩や長州藩の人材を見回したところで、洋式の戦に精通した人物を大村益次郎の他には知らなかった。

 いまは軍人の時代だ。薩摩の西郷隆盛や長州の大村益次郎が戦略や戦術で優れている。しかし、やがて戦乱は治まる。そうすれば国の行政を司る官僚が必要となる。それも世界を相手に活躍できる有能な人材が大量に必要とされるに違いない。

 かつては戦乱を制した武将が敗者の領地を支配し、将軍となって全国に号令を発した。武家社会とはそうした殺戮の過程を経て成立し、勝将が統治するのを常とした。しかし今次の倒幕戦争が終結すると同時に、武家の世は終わる。

 この内戦が終結した後、国を支配するのは覇を制した倒幕軍の大将ではない。大政の統一とは法の下に一元化された官僚組織が統治する国家をいう。そのためには新国家のありようを明快に理解できる大量の行政官僚が必要となる。なによりも学問、それも西洋諸国のありようを理解した新国家の官僚を育成する学問こそが必要だ。

 しかし、伊藤俊輔の理念は長州では芽吹かなかった。藩は軍事一色に染まり英語学校設立の建議を取り上げる段ではなかった。それよりも突如として、伊藤俊輔は新政府の命により大坂へ赴くことになった。

 

   十二、新国家建設へ

 当時、外交は内政以上に混乱を極めていた。

 この国の政治権力との国家の主体がどこに存在するのかを巡ってである。

 慶応三年十二月十六日、すでに二ヶ月前の十月十四日に大政奉還をして王政復古がなされたこの時期にあって、あろうことか徳川慶喜は外国公使を大坂城に招いて披見し、日本の正統な政権は徳川幕府であると宣言した。

国内政治が混乱するのも好ましくないが、外国に対して政権がどこにあるのか混乱させるような言動は著しく国益を損なう懼れがある。侵略国家が他国に触手を伸ばそうとした場合、往々にしてその国の政治の混乱に乗じて介入し、政治勢力と国論を四分五裂させて、その間隙に乗じて侵略・侵攻するのを常としている。

しかし徳川慶喜に外国公使を披見して国家を危険な瀬戸際に追いやった、との自覚は微塵もない。間もなく公議政体が実現すれば、ふたたび政治の表舞台に復帰できるとの読みがあったのだろうが、その目論見は十二月二十八日に『討薩の表』を上奏したことで自ら放棄してしまった。だが、もしかすると徳川慶喜に自ら『公議政体』を破棄したという自覚すらなかったのかも知れない。

 そのわずか一月後の一月十日、新政府軍が幕府軍の放棄した大坂城を占領すると、朝廷は昨年十月十四日に「大政を奉還したため徳川幕府に外交権はない」と各国公使に通告した。

 通告はしたが、実際に外交を取り仕切る人材が新政府にはいなかった。京に集まった倒幕諸藩の志士たちは外交に関して門外漢だった。いや、外交そのもののあり方すら分からない。もとより新政府の官僚たちで外国人と話したこともなければ、欧米列強の公使と交渉はおろか会談に当たった経験を持つ者すら皆無だった。

だかといって国家として外交を放擲するわけにもいかず、新政府は必死になった人材を探していた。そして馬関で応接係として英語で外国要人と交渉し、豊富な実務経験を積んでいる伊藤俊輔に白羽の矢が立った。

 慶應四年(明治元年)一月十二日、伊藤俊輔は馬関から兵庫へ立ち寄り横浜へ行く英国船に便乗した。「チョウシュウのイトウ」はロンドンへ留学をした英語の話せる実務家として、外国人の間ではかなり名が知れ渡っていた。下関で入関手続きを担当していたため、外国艦船が港に入ると応接使として艦船まで出向いていたことからも顔を広くしていた。元来、伊藤俊輔は物怖じしないタチで、英国人はフランクな態度に好感を抱いていた。

 瀬戸内海の航海は順調だったが、兵庫に上陸すると一騒動が彼を待ち受けていた。

 備前藩兵と英国人が銃火を交えるという騒動を起こしていた。

 十二月末備前藩は朝廷から西宮警衛の命を拝し、正月十一日家老日置帯刀が兵を率いて西宮へ向かう途中、仏国人二名が隊列を横切った。驚いた藩兵が外国人を戒め制しても命に従わないばかりか短銃で撃ってきた。そのため備前藩兵は応戦し英国居留地に逃げ込んだ仏国人に向けて銃撃した、というのが事件の顛末だった。

 兵庫で顔見知りの英国公使パークスに会うと、伊藤俊輔に噴怒の表情で息巻いた。

「仏人が事を起こしたのに、英国居留地に向けて発砲したとは何たることか」

 鷲鼻赧顔の大男が興奮して喋るのに任せて、伊藤俊輔は黙って聞いた。

「王政復古と称してこの国は政権が変わったと聞くが、何処の誰が君主なのか皆目分からぬ。朝廷の命を受けた兵が居留地に発砲したるは、朝廷の方針が攘夷であるからか」

 パークスは喋るだけ喋ると口を閉じて伊藤俊輔の顔を覗き込んだ。

「僕は知っての通り、貴国の船で兵庫に到着したばかりである。さっそく事実を調査の上、適切に対処することを約束する。三日の猶予を賜りたい」

 そう言ってパークスを宥めると、伊藤俊輔は大阪城へ向かった。

 わずか五日前、大阪城は幕府軍が遁走した後に無血で倒幕軍が占領したばかりだった。そこに俄作りの新政府の役所が置かれていた。

 新政府は一月九日に大政官代を九条邸に置いた後、二条城に移転した。同十七日には総裁、議定、参与から成る三職七科の官制を定めた。この後も、新政府は次々と政令を連発して行政体制を整えていくが、出来たばかりの新政府は混乱していた。

 新政府の外国事務総裁は仁和寺宮が就任していた。東久世通禧卿が外国事務取調掛として補佐に当たり、小松帯刀、後藤象次郎、寺島陶蔵らが働いていた。伊藤俊輔が辞令を持って出頭すると「良い処に来た」と彼等は安堵の色を浮かべた。

 伊藤俊輔は小松帯刀等と相談して、まずは王政復古の詔勅を外国公使に通告させることにした。対外的に政権の所在が新政府にあると宣言しなければならない、と進言した。

さらにパークスから言われた西宮の一件について新政府としていかに対処するのかを聞くと、彼らはどう手をつければいいのか分からないと回答した。そして信じられない素直さで外国事務総裁以下、新政府の外国事務関係者はあっさりと当事者能力のないことを認めて兜を脱いでしまった。彼らは面妖な荷物を投げ渡すように、伊藤俊輔に山積みとなっている外国事務に対処するべきと命じて、その場でにわかに外国事務掛に任命した。いかに新政府が外交の当事者能力を欠いていたか如実だが、外国事務掛こそ伊藤俊輔が明治政府で最初に得た官職だった。

 正月十五日、大坂にやってきてわずか三日後に伊藤俊輔は東久世通禧卿と共に神戸へ出向いた。仏英伊米独蘭の六ヶ国公使と会見して王政復古を布告する国書を授けた。その場に列席したのは伊藤俊輔の他に岩下佐治右衛門、寺島陶蔵、吉井幸輔、交野十郎、陸奥陽之助らであった。そこで外交の主権が朝廷にあることを明確に宣言した。

 しかし、西宮事件については英国から強硬な申し入れがあり伊藤俊輔も苦慮した。

 事件経過を備前藩家老日置帯刀から聴取すると、備前藩士瀧善三郎がすべての責任を一身に引受け、自分が撃てと命じたと言い張った。伊藤俊輔は事件を穏便な形で収めたいと願ったが、英国の態度は強硬だった。

 事件の処置次第では一戦も辞さず、との英国の強硬な姿勢に仰天し、朝廷は正式な評定も経ずに瀧善三郎に切腹を命じた。事実、英国は艦から野砲を引き下ろして陸戦の構えを取り、兵庫に停泊している諸藩の艦船の武器を取り上げて航行を阻止した。そうした措置は日本の法律を無視する侵略者のやり口そのものだが、英国は無頼漢の本性を露わにした。そのため兵庫を通過する交通は難渋を極めた。

この国の主権を侵害する目に余る傍若無人な振る舞いだが、わが理を声高に申し立てて相手の非を鳴らすのは欧米列強の外交の常套手段だ。そのことに怯んでいては今後ともまともな外交は成り立たない。交渉はこれからだと伊藤俊輔は覚悟を決めて上洛するつもりだったが、朝廷はあっさりと英国の強行姿勢に屈服してしまった。

 伊藤俊輔はパークスの傲慢な態度に辟易した。度し難い高慢な振る舞いに欧米人の東洋人に対する外交姿勢を見たようで強い嫌悪感を覚えた。そればかりか瀧善三郎の潔さに比べて英国の傍若無人な振る舞いに強い怒りすら抱いた。しかし伊藤俊輔は我慢してパークスに向かって笑みを浮かべた。

「どうだろう、公使閣下が赦されるならば罪一等を減じて、切腹だけは避けたいが」

 伊藤俊輔はなんとか瀧善三郎の命を助けたいと持ち掛けた。しかし、パークスは敖慢な態度を崩さなかった。

「既に朝廷が下した裁断に、英国公使が口を挟むべきではなかろう」

 と、パークスの返事は素気ないものだった。

伊藤俊輔は万止むなしと表情を曇らせた。

 瀧善三郎の切腹は兵庫の寺の境内を借りて行なうことになった。

 備前藩士が思わぬ騒動を起こさないとも限らないと、境内に薩長の兵を屏風のように整列させた。役目から伊藤俊輔が検視を勤めることになり、英国の書記や海軍士官も大勢見物に来た。

 瀧善三郎は国許で剣術の師範を勤めていたため、大勢の門弟が寺に来ていた。

 作法通り、瀧善三郎は本膳を食し謡曲を唄った。実に堂々とした態度だった。

 境内に下りると、伊藤俊輔に一礼し列席し外国人にも一礼すると、

「過ぐる十日、主人通行の折り外国人に向かって発砲したるは瀧善三郎の号令に従ったに相違ない。その罪により朝廷より割腹を仰せ付かった。宜しく御検証を願う」

 そう言い放つと麻裃を払い、作法通りに三寳の短刀で腹を切り、首を差し出したのを門人が見事に斬り落とした。

 見物していた外国人は肝を冷やし、西宮の一件はこれで始末が付いた。

 しかし、伊藤俊輔にとっては後味の悪い決着だった。瀧善三郎の態度が立派だっただけに、惜しい人物を助けられなかったとの悔いが残った。

 西宮の事件処理の功績により、一月二十五日に伊藤俊輔は参与職に任じられた。そして、二月二十日には徴士参与職外国事務局判事に任じられ、兵庫で外国公使との折衝にあたることになった。いまでいう外務省事務次官に就任したことになる。

 二月末に仏英蘭の三カ国公使が新政府に挨拶のため参内することになった。実際には参内当日に英国公使パークスが暴漢の襲撃に遭って負傷し二ヶ国公使の参内となったが。ともあれ、伊藤俊輔はその際の案内と通事を命じられた。

参内当日に伊藤俊輔は突如として従五位下に叙せられた。朝廷に参内するのは官位ある者と限られていたため、無冠の伊藤俊輔が参内するのは不都合だった。

かつては大名が得ていた従五位下という官位を伊藤俊輔は頂戴した。ときに伊藤俊輔二十七才だった。官位を得て名を俊輔から博文に改めた。それも高杉晋作が松下村塾の前庭で伊藤利助に示した名の一つだった。だから伊藤博文の名付け親は高杉晋作ということになる。

 伊藤俊輔と名乗っていた期間は安政五年から明治元年まで足掛け十年のことだ。年齢でいえば十七歳から二十七歳にかけて。時代でいえば安政年間の終わりから万延、文久、元治、慶應、明治と激動の時代を伊藤俊輔は全力で駆け抜けたことになる。それは修辞ではなく、まさしく激動の時代だった。

 この年の五月二十三日、伊藤博文は兵庫県知事を拝命した。仕事は外国事務局判事の仕事に兵庫県下の治安から行政までの仕事が新たに加わった。しかし、仕事の重きは諸外国公使との応接にあった。独立国家として外交に一日の遅滞も疎漏も許されなかった。

 話は少し前後する。

伊藤博文が兵庫で外国公使を相手にしている間、戦局は江戸で膠着していた。江戸に進軍した官軍は五千人と少なかった。それに反して江戸城下には通称旗本八万騎といわれる旗本御家人からなる武士団がいた。慶応四年四月に江戸城の無血開城は果たしたものの、東国では左幕の勢いが盛んで薩長からなる官軍の威光はまるで霞んでいた。 

 無血開城とは市街戦を避け非戦闘員を戦禍に巻き込まないオープンシティの概念である。古今東西にそうした例は数多くあるが、第二次世界大戦でも進軍したドイツ軍に対してフランス軍はパリから撤退し無血で進駐させた。また連合軍が進軍した際にもドイツ軍はパリから無血で撤兵した。そのためパリは歴史的建造物の破壊を免れ、文化遺産とともに多くの市民の命も守られた。非戦闘員の殺害はジュネーブ条約違反とされている。ちなみに現在論議の盛んな南京は日本軍進撃に対してオープンシティとされず、中国軍は市民を戦禍に巻き込む市街戦を選択した。ともあれ江戸城の無血開城とはそうしたオープンシティの概念に基づくもので、無血入城させた幕臣が武装解除をせず、進駐した新政府軍と市街戦を演じるのはいわば戦時契約違反でしかない。にわかに湧き上がった幕臣の好戦的な義侠心が江戸市民を戦禍に巻き込まないための叡智を蔑ろにしたといえる。

 しかし、江戸の治安を任されていた西郷吉之助は有効な手段を講じないまま、無政府状態に陥った江戸市中の治安維持に手を拱いていた。

 大村益次郎は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、四月二十一日に海路より江戸に出府した。役職は軍務菅判事兼江戸府判事だった。大村益次郎はさっそく江戸の取り締まりを厳しく命じた。そして西郷吉之助が躊躇している幕臣たちとの一戦を決断した。

新政府に敵対する旧幕臣たちを一網打尽に撃破すべく、大村益次郎は上野の山の総攻撃の日を大々的に公表した。そうすることで江戸中にいる好戦的な反新政府軍を一ヶ所に集めることが出来る。大村益次郎は未明の奇襲を主張する薩摩の幹部たちの意見に反して夜明けからの総攻撃を決定した。それは夜間に奇襲すれば上野の山から逃げ出した暴徒が江戸市中に火を放たないとも限らないからだった。

慶応四年五月十五日、昨夜来降っていた雨が夜明け前に上がり、作戦決行にうってつけの条件が整った。大村益次郎は作戦通りに夜明けとともに旧幕臣たちが根城としている上野の山を攻撃し、鍋島藩から拝借したアームストロング砲二門で撃破した。そして見事に幕臣たちの籠る寛永寺を炎上させた。

 江戸の平穏を得ると、北陸から東北にまで拡大した戦線を大村益次郎は江戸城を大本営として一元指揮した。伊藤博文が想像した通り大村益次郎は的確な指示を前線へ送り、困難な戦争を勝利へと導いた。

 その年の九月二十二日に会津城が落城し東北の戦乱も収まった。

 この後、幕府艦隊は榎本武揚の指揮のもと蝦夷へ向かい函館五陵閣に立て籠るが、折からの暴風により旗艦開陽丸を江刺で座礁転覆させてしまった。開陽丸に積んでいた新式大砲も失い、もはや榎本軍に新政府軍を撃破する力はなかった。

 先の見えた戊辰戦争の心配よりも、官職を頂戴して伊藤博文は愕然とした。新政府の内実は丸裸も同然だった。法整備もだが何よりも、まず頼みとすべき金蔵が空だった。新政府は財政的な基盤を持たず、公卿社会を支えることはおろか、近衛兵を抱えることすら出来ない状態だった。その実態はとても日本国を統治する新政府とは言い難かった。

 徳川幕府を倒して、幕藩体制から大政の統一を成し遂げたが、まだそれは上辺だけだ。政治体制一つとっても、王政復古とは掛け声だけの絵空事に過ぎない。伊藤博文はただならぬ事態に足の竦む思いがした。倒幕戦争に勝利したものの、実を伴わない脆弱な国家体制がこの国に再び戦乱を招きはしないかと密かに恐れた。

 かつて英国留学の折りに、国が一つの法によって治められ徴税権と軍事権が国家に属して一元支配されているのを見た。西洋列強と伍してゆくためには日本を英国のような国にすべきだ、そのためには諸藩主が支配している領地と兵馬を朝廷の許に一元支配しなければならない。そのことは二年前に馬関で出石の潜伏地から戻った木戸準一郎と高杉晋作、それに井上馨(聞多)らと膝を交えて話し合ったことだった。

 版籍奉還と廃藩置県を実施して日本全国から藩をなくし、藩主から領地と藩兵を取り上げ財政基盤を確立しなければ、成し遂げたばかりの新政府は中央政権の体をなさないまま早晩瓦解する。軍事・徴税・行政の一元支配を確立しないうちは国家として成立したとは言い難い。しかし、新政府の誰が天下の諸藩に令を下し、その命に対してどの藩が新政府の求めに応じて領地と兵馬を朝廷に奉還するのか。新政府軍に抵抗して破れた左幕諸藩ならまだしも、薩長の呼び掛けに呼応して軍を出した諸藩に版籍奉還と廃藩置県を実施させ、領地と兵馬を取り上げるのは困難な事業のように思えた。

 明治元年二月、木戸準一郎は諸侯に版籍を奉還させて王政維新の礎を築くべし、と三条実美と岩倉具視に申し出た。しかし、岩倉具視はまだ戦乱が治まって間もないこの時期に諸侯の反発を招くような政策は実施できないとして木戸準一郎に自重を求めた。

 しかし事は急を要する。伊藤博文は木戸準一郎の働き掛けが退けられたのを知るといよいよ危機感を募らせた。手をこまねいて機の熟するのを待つべき時ではない。大政統一のための最初の峠を越えられなくて、国の統治権を確立するのは難しい。伊藤博文は命を賭けて事にあたることを覚悟した。

 伊藤博文は兵庫で陸奥宗光、中島信行たちと密談した。陸奥宗光もかつて薩摩藩の密留学生として英国に渡った者の一人だ。それだけに理解が早く意見の一致を見た。伊藤博文はさっそく彼等との議論を書面にした。諸侯が擁している領地と兵馬を朝廷に帰し、法の一元支配による実質的な日本の統一を成し遂げるべき、とする大改革策を書き上げた。

 すぐにでも朝廷へ建白するつもりだったが、反発は思ったよりも早く伊藤博文の身に迫った。長州藩では伊藤博文が藩を滅ぼそうとしているとの論が湧き、西洋風に心酔した怪しからぬ奴は斬ってしまえとの騒動にまでなった。急遽、藩から御堀耕助が上洛して木戸準一郎や広沢真臣(兵助)らと面会して、伊藤博文を政府から排斥するように求めた。

 長州藩も困難な事態に直面していた。倒幕軍に加わり転戦していた諸隊が凱旋したのは良いが、藩政府が何ら対応しないため不満が沸騰した。戦功に対する褒章はもとより、今後の生活のために兵卒として引き続き雇用すべきとの要求を突き付けた。しかし藩はそれほどの常備軍を必要としないばかりか、兵士に俸給を与える財政的余裕すらなかった。

猛然と藩政府への反感が募ったところに、伊藤博文が藩解体の策を新政府に進言しようとしているとの噂が流れたため、彼らの不満に火がついた。

 御堀耕助が急を報せて上京し、長州藩内に不穏な動きがあると伝えた。明治二年十月、長州藩では長らく筵旗を見なかった百姓一揆が美祢郡や馬関近郊で起こっていた。翌三年二月には元諸隊兵士二千人による大規模な反乱が起こった。国許へ駆けつけた木戸孝允や井上馨などが藩正規軍を指揮して小郡郊外の柳井田関で戦い、反乱軍を鎮圧した。しかし、その後も熊毛郡上ノ関などで小規模な反乱があり、最終的には明治九年十月に前原一誠が首謀して起こした萩の乱が鎮圧されるまで、諸隊などの不満兵による騒乱は散発的に続いた。

 ただならぬ事態に木戸準一郎は一時的に伊藤博文の官職を解いて新政府から放免してはどうか、と岩倉具視に相談した。すると岩倉具視は頑として伊藤博文排斥の策動に賛成せず、朝廷の官職に留めることを主張した。しかし、それでは伊藤博文が刺客に襲われないとも限らない深刻な事態になっていた。

 一夜、岩倉具視は伊藤博文を呼んだ。

「自分もかつては奸物視され、洛外の岩倉村へ蟄居させられたことがある。この際は十分に堪忍し自重するが良い。お前のことは必ず自分が身の立つようにする」

 と、岩倉具視は木戸たちの意見を容れて、伊藤博文の職を一時的に解くことにした。

 伊藤博文が罷免された後、兵庫県知事の後任には久我卿が就任した。しかし英語が話せないのはまだしも、外交経験もなくまったく実務に対処できなかった。新政府の外交が停滞したため、ふたたび伊藤博文が判事として久我卿を補佐することになった。

 外国公使と頻繁に面会して実務を果たす傍、伊藤博文は木戸準一郎に国のありようについて諄々と説いた。朝廷が行政を一元化しても、大政を統一しないうちは国の体をなさない。国家とは全国に徴税権を及ぼし兵馬を掌握し、法による一元支配をなすものである。版籍奉還と廃藩置県は国の体をなすのに必須事項であり、諸藩の反発を恐れて強行しなければ、何事も出来ないうちに新政府は数年と俟たずして瓦解するであろう。伊藤博文は全力を傾けて説いた。耳を傾けていた木戸準一郎はやっと意を決して、閏四月に京を発って国許へ帰った。

 魁より始めよという。諸藩主に版籍奉還を求める前に長州藩主毛利敬親に目通りして、長州藩が率先して版籍奉還を進言する腹積もりだった。

 倒幕軍を派遣した諸藩はいずれも国許へ凱旋した軍兵の処置に苦慮していた。幕府を倒すために勲功のあった将兵は当然のように褒賞と官職を要求する。新政府を打ち立てたのは自分たちとの気負いがある。しかし、樹立されたばかりの新政府に財政力はない。有力諸藩も派兵に費やした軍事費の負担は重く、新政府の財政は逼迫していた。事情は長州藩も同様だった。その一方で、倒幕に派兵した西南諸藩の発言力が朝議で増し、うかうかしているとかつての『公議政体』論が形を変えて出現しかねない有様だった。

 一刻の猶予もならない。木戸準一郎は山口で毛利敬親に目通りすると即座に版籍奉還を意見具申した。すると、藩公は往時のようにコクリと首を折り、

「そうせい」と言った。

 あまりのあっけなさに、木戸準一郎はしばし毛利敬親の表情を窺った。

 そして思わず涙が頬に伝い、木戸準一郎は這いつくばるように深々と平伏した。

 藩公はすべてを承知の上で御快諾を賜ったのだ。営々と護ってきた領地も兵馬もすべてを手放し、一介の民になることをご承知の上だと、その慈愛に満ちた双眸に読み取った。

 御前を下がろうとすると、毛利敬親が声を掛けた。

「戦乱の後で人心が荒廃している。俄にこのような大改革を断行すると、どのような事態が生じるやも知れぬ。時期を見計らい万事粗相のないように進めよ」

 藩公から声をかけられて、木戸準一郎は畳に額が触れるほど這いつくばった。

『そうせい侯』と呼ばれたことから、毛利敬親を愚昧な藩主だったとする説がある。しかし事の本質を見抜き、私心を去らしめた言動は賞賛に値する。木戸準一郎は偉大な藩主を戴いたことに心の底から感謝した。

 だが、御前を下がると藩政務員が木戸準一郎に「毛利家を滅ぼす所存か」と食って掛かり、政事堂は険悪な雰囲気となった。時代を切り開いた長州藩にしてこの体たらくかと木戸準一郎は憤然とした。

「長州人が大勢に暗くして、一藩のみに目を奪われるとは何たることぞ」

 沈着冷静な木戸準一郎にしては珍しく声を荒げた。

 藩公がすべての事情を承知の上で版籍奉還に同意されたのに、家臣が自分たちの安逸を計らんがために反対するのが許せなかった。木戸準一郎は怒りのあまり取り囲んだ藩政務員を斬り捨てて、自分も腹を切ろうかとすら思った。

     人間恰似黄梅節

     半日陰晴不可知

     七百年来時稍到

     危疑尚恐誤機宜

 七百年来武門が執ってきた政権を朝廷に返す時期が来た。しかるにあたかも梅雨のように尚も因循としてこの好機を誤ろうとしている……、木戸準一郎は鬱屈した気持ちを七言絶句に著した。

 長州藩主の快諾を得て、木戸準一郎は勇躍京へ戻った。維新の立役者の一翼を担う長州藩が率先して版籍奉還を実行した。京へ帰った木戸準一郎は即座に長州藩の版籍奉還を披瀝して、他藩も追従すべきと呼びかける腹積もりだった。

が、上洛して木戸準一郎は躊躇した。京の空気が険悪になっていたからだ。多くの志士たちは藩がなくなれば「藩士」たる身分はいかなることになるか、との不満の声が湧き上がっていた。新政府の官職にありつけた者は良いが、そうでない多くの志士たちは維新回天の功に対する褒章は「士籍を喪う」ことなのか、という憤懣だ。

木戸準一郎は身の危険を感じて、ひたすら参内し上奏する機が熟すのを待った。

彼は能吏かも知れないが、時代を切り開く勇気に欠けた。一方で木戸準一郎が躊躇している間に、姫路侯酒井忠邦が版籍奉還を願い出た。その版籍奉還を決意した理由は藩財政が破綻して、もはや藩政を維持できなかったからだ。

その機を逃さず伊藤博文はさっそく参内し朝廷に働き掛けた。そして「朝廷は酒井忠邦を激賞し公卿に叙すべき」と進言した。そうすれば他の諸侯がこれに倣うに違いないと考えた。しかし伊藤博文の意見は聞き入れられなかった。

 江戸御幸の直前、再び木戸準一郎は岩倉具視に版籍奉還の一件を申し出た。しかし、猶も岩倉具視は上奏を躊躇して時節を待つように返答した。だが長州藩主から諾意を取り付けているためなんとしても早く実施すべきと考えて、大久保利通(一蔵)に相談した。

 大久保利通は薩摩藩を代表する長身痩躯の論理的な実務家だった。新政府の財政基盤を確立し諸侯の軍事統帥権を奪うためにも、版籍奉還は是非とも必要として木戸準一郎の考えに賛同した。彼はすぐさま土佐藩と肥前藩に持ち掛け、倒幕に功のあった有力藩から版籍奉還をなさしめようと画策した。しかし、薩摩藩の島津久光は「一蔵や吉之助どもが勝手に倒幕を成し遂げたが、自分はいつになったら将軍になれるのか」と側近に聞く始末だった。子供じみた言動を弄しては大久保利通たちを悩まし続けた。

 

 慶応四年七月十七日(一八六八年九月三日)に江戸が東京と改称され、同年九月に元号が明治に改められた。そして同年十月十三日、天皇は二千三百人の行列を従えて東京に入った。明治二年に政府が京都から東京に移され、明治二年三月、伊藤博文も東京へ居を移した。

東京で役職を勤めるかたわら、度々築地西本願寺傍にあった鍋島藩出身の大隈重信の屋敷へ井上馨と共に赴き、版籍奉還の具体的な実施について協議した。彼等は既に『海外各国と並び立ち、文明開化の政治を行い天性同体の人民、賢愚その処を得、上下均しく聖明の徳沢に浴せしめん』との伊藤博文の論に同調し、全国一致の論議と称して法による一元支配を国家の根幹に据えていた。

 彼等は築地の梁山泊と称されるほどに国家のありようを論じ、西郷隆盛や大久保利通、木戸準一郎らに働きかけた。ついに、まずは倒幕に功のあった藩が率先して断行することで全国に版籍奉還の策に従わせることになった。

 朝廷は混乱の極みにあった。版籍奉還がいかなるもので、国家のありようにとってどれ程の重みを持つものか公卿には理解できなかった。それよりも事務方は混乱し、洪水のように全国から寄せられる日々の問題が処理し切れないままに山積していた。幕府から政権を奉還されたものの、朝廷に行政を執り行う体制が整っていなかった。

 明治初年、全国に一揆が起こり時世は不穏な空気に包まれていた。各地から報告される騒動の鎮圧にまで手を回せる状態ではなかった。各地の問題は諸藩の問題として、出来たばかりの明治政府は素知らぬふりをした。御一新で世直しされるとの期待が高かっただけに、庶民の落胆は大きかった。

 またこの時期、新政府の方針と相容れない者たちによる政府要人の暗殺が相次いだ。長州人ではその年九月四日、京で兵部大輔大村益次郎が刺客の手にかかり、十一月五日に亡くなった。享年四十五歳だった。襲ったのは長州藩士団伸二郎、太田光太郎、神代直人ら十数人で、大村益次郎の策した徴兵制が武士を無用のものとすると反発し、新政府に登用されなかった旧藩士たちが凶行に走ったようだ。

 当時、新政府は財政基盤も確立せず、大村益次郎が手をつけようとした徴兵制も発足していない。この間隙に乗じて日本に攻め込む外国があれば、日本はなす術なく破れるだろう。清国の例を持ち出すまでもなく、欧米諸国は隙あらばアジア諸国に侵略し、領国領民の安逸を脅かそうと狙っている。日本もそうした危機に瀕していた。

 明治二年正月二十日、薩、長、土、肥の四藩主が連署して版籍奉還の上疏文を奉じた。明治政府は取り扱いに困惑したが、四藩に追従して諸藩が相次いで版籍を奉還してきたため六月七日、版籍奉還を受け入れて廃藩置県を断行した。それでも藩主を県知事に任じるなどの措置を講じて急激な改革を避けた。しかし、これにより明治政府は全国の統治権を確立し、財政基盤の整備に着手したことになる。

 その間、明治二年五月に函館戦争が終結した。

 七月十八日伊藤博文は大蔵少輔に任じられ、八月十一日には民部少輔と兼務となった。 重い役目を拝命したものの、大蔵も民部も実態は国家の行政体系とは言い難いものだった。たとえば貨幣にしても英国では全国に同一の貨幣が流通していたが、明治初年のこの国には各藩が発行した藩札がまだ残り、一両は四朱など貨幣の単位に十進法が用いられてなかった。今後、急ぐべきは法体系の整備と公儀の具現化の手段として、新時代にふさわしい政治の仕組みを構築することだった。一刻の猶予もならない喫緊の問題だが、どのような手法で政府要人に説けば良いのか頭を抱えた。貨幣制度一つ近代化させるにも難儀する。各藩でバラバラな刑法や民法を全国一元化するにはどうすれば良いのか。思案を重ねた結果、伊藤俊輔はある結論を得た。

 国家とはいかなるものかを具体的に理解させるには明治政府要人を欧米へ連れて行き、西洋そのものを実際に見せることだ。国家の礎として自明の理とも思える版籍奉還ですらこれほどにてこずったのであれば、じかに西洋を見せなければ百万言を費やしたとしても西洋の法体系や行政体系を認識させ理解を得ることは難しい。伊藤博文は大隈重信たちと相談して、海外視察の必要性を明治政府要人に働き掛けることにした。

 明治三年閏十月三日、伊藤博文は新政府高官として米国へ派遣されることになった。その役務は財政通貨事情調査及び条約改正の準備と全権大使派遣の根回しにあった。

 その月の二十日、伊藤博文は維新政府の功労に対して位階二等昇進して従四位となった。

 翌明治四年五月、米国から帰朝するとさっそく大阪へ出張を命じられた。それは幕藩時代に勝手に発行された膨大な額にのぼる諸藩の藩札の取纏めと破棄、改鋳により暴落していた旧幕府の貨幣制度を廃して、新たな貨幣制度の確立などを実施する準備のためだった。一刻の休みもなく、伊藤博文は新国家建設に走り回った。八月五日には造幣局頭を兼任するように命じられ、翌九月二十日には工部大輔に任じられた。

 明治初年の新政府がいかに混乱していたか、伊藤博文は席を暖める暇のないほどの忙しさで走り回った。三十一才になった伊藤博文は若手の実務官僚として、未だ国家として体を成していない新政府の骨格作りに忙殺された。しかし場当り的な仕事をいくら着実に遂行したところで、国家とはいかなるものかを新政府幹部たちが知らなくては如何ともし難い。所詮は薮医者が瀕死の重病人に膏薬をベタベタ貼っているのと大差ない。

 伊藤博文はこの頃から木戸孝允(木戸準一郎)と相談するよりも、大久保利通と諸事を諮るようになっていた。維新後、木戸孝允は病的なほど人嫌いとなり、海外視察にあまり積極的ではなかった。むしろ国内政治の遅れを指摘して深刻な表情を浮かべるばかりだった。

問題は国内に山積している、海外視察など物見遊山ではないか、と木戸孝允は持ち前の臆病ともいえる慎重な性格で断じた。しかし、大久保利通は違っていた。彼は欧米諸国を実際に見聞したいと賛意を表した。伊藤博文が提言する諸政策を聞いても、大久保利通には今一つしっくりと理解できないところがあった。それが西洋を見聞した者と、西洋を見聞していない者との違いなのか、と大久保利通は考えた。新政府官僚では数少ない洋行経験者の伊藤博文が提言する洋行視察の必要な所以かもしれないと理解した。

 大久保利通は優秀な者の常として、ほんの一ミリでも自分で分からないものがあってはならない。すべてを自分の頭脳で理解し、統治する国家像を明確に描けなければ得心しない性分だった。それゆえ欧米視察を実施すべきと伊藤博文に同調した。

 伊藤博文は大隈重信など若手官僚を動かして、欧米視察の重要性を執拗に働きかけた。

 その成果は明治四年に実り、特命全権大使岩倉具視らの一行が条約改正のために欧米へ出掛けることになった。特命全権副使には参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、及び工部大輔伊藤博文の三名が任命された。随員は総勢百名にも達し、新政府の中心的指導者が総出の大使節団であった。なかには津田梅子など若い留学子女も含まれていた。出発は十一月十二日で、その後二年近くも費やす欧米の大視察となった。その欧米視察から帰朝後、大久保利通は欧米諸国で目の当たりにした産業と国力の強大さに自信を喪失し、一時期仕事が手に付かないほどの衝撃を受けることになる。しかし、それほどに得たものが多かったといえる。

 明治新政府の留守を護る西郷隆盛や江藤新平などに新しい政策には着手しないように、外国との取り決めは一切しないようにと釘を刺しての出港だった。しかし、そのことが後に征韓論を巡って大久保利通と西郷隆盛の間に修復不可能な深い亀裂を生み、明治十年の西南戦争にまで発展する事態を招くことになるとは知る由もない。ただ、この場合は日本の新しい国家体制を作り上げるために欧米諸国を見聞することの方が優先されたし、その選択は正しかったといわざるをえない。

 特命全権副使に任じられるに際して、伊藤博文たちは天皇より勅語を賜った。

『今般汝等を使として海外各国に赴かしむ 朕素より汝等の能く其職を盡し使命に堪ふべきを知る今国書を付す 其れ能く朕が意を體して努力せよ 朕今よりして汝等の恙なく帰朝の日を俟つ 遠洋千里自重せよ』

 

 伊藤博文は天保十二年九月二日周防国熊毛郡束荷村野尻に生れた。本来なら長州藩周防国の山間に散在する小さな聚落の一つで、自作農として一生を終えるはずだった。父親と同じく畔頭として村人の世話を焼き、村娘を妻として峠の向こうに広がる世間とは隔絶した暮しを送ったであろう。しかし、運命の巡り合わせで萩へ出た。彼の人生は両親とともに椿に由来する地へ逃散同然にして移り住むことにより拓けた。萩へ移り住んでから望むと望まないとに関わらず、伊藤博文の人生は時代の流れに巻き込まれていった。

 時代が伊藤博文の身辺で激しく渦巻いた。攘夷の坩堝と化した長州藩でその中心にいた人物の多くが明治維新を見ることなくこの世を去った。寒椿が春の温もりを待つまでもなく落花するように、慌ただしくも死に急ぐように若者たちは足早に逝った。尊王攘夷・倒幕運動に身を投じた松陰門下生で、明治維新後まで生き長らえた者は極めて少ない。幸運にも、伊藤博文は幕末を生き延びた。いや、生き延びただけではなかった。井上馨たちと共に文久三年から元治元年にかけて英国へ密留学を果たした。国境の峠が富士の白峰よりも高かった時代に、波涛遥かな大洋の向こう側の西洋世界を目にした。しかし、すべては四峠を越えて萩城下から外へ出たことから始まった。

 太平洋を横断しサンフランシスコに上陸した一行はモントゴメリー街のグランド・ホテルに宿泊し、歓迎を受けることになる。ホテルの大広間で伊藤博文は使節を代表して英語で演説を行った。それは『日の丸演説』として今に遺っている。

 大広間には日章旗と星条旗が交差して飾られ、サンフランシスコ知事をはじめ軍幹部や新聞記者や市民がつめかけていた。

 伊藤博文は胸を張り眼光鋭く聴衆を見渡した。

『われらが望むは、欧米諸国の文明を我が国に取り入れることである。そのために、陸海軍や学問教育に関する諸制度を採用する。また、外国貿易の進展により西洋諸国に関する知識は国民に広く行き渡っている。しかし、我が国における欧米文明の吸収が迅速なりといえども、国民の精神改良は一層遥かに大なるものあり。爾来、我が国民は思想の自由を知らず、専制政治のもとに絶対服従を強いられていた。しかし、物質的な文化とともに彼等に許されなかった特権のあることを知った。そして、数百年も堅固さを誇った日本の制度を一個の弾丸も放たず、一滴の血も流さずして、わずか一年以内で撤廃せしめたのだ。この驚くべき事実は政府と人民の合同行為によって達成され、いまや進歩の平和的道を前進しつつある。中世におけるいずれの国が戦争なくして封建制度を打破せしや……』

 伊藤博文の胸中には五カ月前に成った版籍奉還・廃藩置県が去来していた。そして、なおも声を張り上げて言葉を継ぐ。

『……我が国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋の如く見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす』                                       ―完―

 

 

 

――あとがき――

 現在、林利助生誕の地に復元された藁葺き屋根の粗末な家が建ち、十蔵一家が暮らした往時を偲ぶことが出来る。産湯に使った井戸や当時から植わっていた紅葉などの立木もあって、今も利助が生まれた地に天保年間の面影そのままに遺しているといえよう。しかし、敷地内に壮麗なコンクリート造りの伊藤博文記念館を建築する際に裏山を削って出た土の処分として盛ったのか、背丈よりも高い築山が前庭に作られ、出入り口には屋根付き門に格子戸まで嵌め込まれている。江戸時代、百姓家に門を造ることは固く禁じられていた。それに生活に何の足しにもならない築山を前庭に盛り上げる百姓はいなかった。現代の感覚で安易に遺構を復元してはいけない。私たちが林利助に思いを馳せる時、彼自身の生涯はもとより彼が活躍した時代背景から国際社会の有り様にまで検証を及ぼさなければ、それは的確な考証とはいえないだろう。

 同様に、歴史上の人物を今の常識で論評してはならない。どの時代でもその時々の空気が支配している。私たちは無意識のうちに『いま』の空気を受け容れて、心に常識という忌避の壁を設けている。大勢の人が醸し出す時代の空気、とりわけ大声で喧伝するマスコミに惑わされず自己の考えを保つには何よりも冷静な思索と勇気が必要だ。人は歴史でこそ評価されるべきであろう。その当時の国際社会を支配していた観念と史実のみを根拠に、その人生全般を論証することが正しい評価のありようといえよう。

 後に明治政府高官となった伊藤博文は憲法制定の準備を命じられ、明治十五年宰相ビスマルクにより強国となったプロシャへ赴き、独国憲法と立憲王政の英国憲法を参考にして欽定憲法を起案し法制定に尽力した。そして曲がりなりにも議会制民主主義の礎を築くべく、わが国初の総理大臣となった。確かに、後に実施された選挙は有権者を高額納税者の成年男子に限定した普通選挙からほど遠いものではあったが、民主主義の本家を自任している米国ですら普通選挙が実施されたのがいつだったか想起して頂きたい。その米国で人種差別を撤廃する公民権法が制定されたのがいつだったか、想起して頂きたい。いまの自由で平等な社会がこの地上に出現したのはそれほど遠い昔ではなく、手を伸ばせば届きそうなほどつい最近の出来事なのだ。

 二十一世紀の現在も、この国の国民が普通に観念しているほど世界はフェアーな国々で構成されているのではない。たとえ史実を捻じ曲げようともわが理を声高に叫び、相手国を不当に貶めていささかも恥じない国は存在している。恫喝を有効な外交手段だと思い込んでいる国家も存在する。国益を守るためには国際法を無視してでも他国の領国を掠め取ろうとする国すら存在する。他国の人権抑圧には敏感な国際社会も戦後六十年を経たにもかかわらず、国連憲章に敵国条項が存在して、いまだにこの国が差別されていることには驚くほど鈍感だ。そもそも、二百近い世界諸国によって構成される国連の運営が民主的で公正平等の精神によって貫かれてきただろうか。昔と同じく現代も国際政治は権謀術数と巧妙な駆け引きが多用される十九世紀さながらの残滓をいまだに濃厚に宿している。

 しかしながら併合による統治と、戦争による占領と、国際法を無視した占拠を明確に区分し論理的な議論すら行えないこの国の政治家や評論家には失望する。わが国の益を理路整然と主張できない者に外交々渉を行う資格はないし、間違っても今日の安逸を得るために十年後二十年後の国益を毀損してはならない。もちろん、狭隘な国粋主義は良くないし善隣友好が望ましいのは論を俟たないが、道理の通らない安易な妥協は厳に排すべきだ。

 晩年の明治三十八年(一九○五)、伊藤博文は初代朝鮮総督になった。伊藤博文は朝鮮半島にわが国が深く関与することに消極的だった。まだ国内に果たすべき課題は山積し、国民の税を半島に使うべきではないと主張した。しかし、それが避けられないと悟ると有能な文官として半島経済の自立を促し、朝鮮人による安定的な政治が行われることを目指して、総理大臣まで勤め上げ明治の元勲と称された伊藤博文は敢えて格下の困難な役目を引受けた。

だが、そうした伊藤博文の目論見を否定して、彼が日本による朝鮮半島支配を確立した人物だとして、現代のこの国と近隣諸国との関わりから彼の評価を割り引かせているとしたら不幸なことである。歴史的な事実は客観的な数字・史料として今に遺り、それはわが国が朝鮮半島を植民地として搾取した事実のないことを雄弁に物語っている。誤解を恐れずに語るなら、十七世紀から二十世紀にかけて世界は西洋列強が植民地を血眼になって求めていた破落戸国家の時代だった。いま国際社会で人権を声高に叫ぶ国ですら、あからさまな帝国主義を外交政策の中心に据えて恥じなかった時代だ。第二次世界大戦以前、アジアにおいて独立国家は日本しかなく、他の地域は欧米列強によって蚕食され植民地とされていた。アジア諸国をどのような国々が侵略していたか、簡単な歴史書を紐解いても分かることだ。今では許されないことだが、それが当時の国際社会の常識だった。

 そうした時代にあって日本は朝鮮半島を一九一○年に国際法上問題なく併合し、わが国民の巨額の税を投じ、李氏王朝の愚民政策を廃して、当時たった四校しかなかった義務教育施設を半島全域に四百校以上も建設し、各地に水力発電所を建設して重工業を興し、農地の開墾拡大を実施し、さらには鉄道の敷設や医療制度の確立に尽力した。その成果として、併合時千三百十三万人だった半島の人口は一九四二年には二千五百五十三万人になっている。ただ、半島統治に李氏王朝の両班(文官と武官)を用いたため、併合後も半島に蔓延る一族意識の悪弊を絶てなかった。

 後に、わが国は帝国大学を国内と同様に朝鮮半島や台湾にも設置し、併合した地域からの留学生を国内の大学や兵学校に受け容れた。そのようなことを植民地に行なった欧米列強があっただろうか。半島の併合が植民地政策の一環であったなら、国民の税を投じて義務教育から高等教育さらには最高学府を半島の人民に施す必要があっただろうか。わが国の先人は隣国を同朋として遇し、対等以上の扱いをしたといっても過言ではない。

 二十一世紀の常識で事の善悪を断じているのではない。時代によって国際社会を支配する観念は変わり、その時々によって判断基準は変化する。たとえば米国にはこの国の幕末まで奴隷が存在し人間を家畜のように売買取引きしていたが、今そのことについて糾弾する国際世論はない。歴史とはそういうものだ。現代の判断基準を歴史に持ち込んで善だ悪だと感情的に論議するのは不毛以外のなにものでもない。

 第二次世界大戦についても、当時のこの国を取り巻く国際状況と開戦原因、戦争行為そのものと、戦後に課された国際法を無視した懲罰について、この国はこの国の立場に基づく客観的な検証をしなければ、他国の判断基準でいつまでも反省だ懺悔だと強いられていてはまともな外交はできない。繰り返すようだが、人の良さは外交の場では無能と取られ戦略のない国家だと侮られるだけだ。世界諸国はそれぞれの国益を外交戦略の中心に据え、あらゆるチャンネルを利用して国家利益をはかり、間違ってもこの国に利するような善人外交を仕掛けてはこない。昔も今も国際社会が弱肉強食であることに変わりはなく、いかに言葉で飾ろうとも、本質は帝国主義の残滓を濃厚に宿した国家群が世界を支配しようとしている。この国の国民の安全を護り繁栄を願うのは基本的にこの国の国民だけしかいないのだと肝に銘ずべきであろう。

 時代の空気は常に移ろう。その時々の世論のありよう、権力のありよう、そして国際社会のありようで史実はいとも簡単に陽炎のように真実の姿を歪めて評される。しかし、歴史は事実に基づく公正な史料と数字によって検証されるべきである。間違っても、時の権力者が歴史的事実を歪曲し捏造して治世の道具とすべきではない。いかに捻じ曲げようとも、いつの日にか真実は必ずや白日の下に曝されると自覚すべきであろう。

 われらの先人は幕末から明治にかけて、欧米列強の脅威にさらされながら新国家建設に全力を傾けた。近隣諸国が蚕食され侵略されている現実を見つつ、当時の国際社会の様々な力関係と制約の中で最善の努力を傾けた事実を忘れてはならない。しかし、この国の義務教育の場から先人の物語が消えて久しく、この国がどのような艱難辛苦を乗り越えて近代国家になったのか若い世代の国民は知る由もない。歴史の彼方に遠ざかった先人に対して、いまを生きる私たちは尊敬の念を失い、あまりに傲岸不遜・御都合主義になってはいないだろうか。

 ちなみに明治四十二年(一九○九)十月二十六日、伊藤博文は六十九歳で異郷の地で凶弾に倒れた。国は維新の元勲に対する礼儀として国葬にすることにしたが、その折り政府役人は伊藤博文の自宅を訪れて、余りのみすぼらしさに息をのんだ。葬列の馬車を屋敷の車寄せから出発させるため、国家の体面もあることから明治政府は遺族に二千円を下賜して急遽屋敷を新築させた。生前、伊藤博文は自宅に大勢の書生を住まわせて若者の育成に意を用いたが、ことさら家屋敷に意を用いようとはしなかった。

 

 

(参考文献)

『伊藤公実録』       中原邦平 著       マツノ書店

『防長回天史』       末松謙澄 著       柏書房

『近代防長人物誌』     井関九郎 著       マツノ書店

『山口百年 維新の遺跡』  読売新聞西部本社 編   浪速社

『来原良蔵傳』       妻木忠太 著       ㈱開明堂東京支店 

『周布政之助傳』      周布公平 著       (財)東京大学出版会

『村田清風』        平川喜敬 著       大村印刷㈱   

 最後に、旧山口県熊毛郡大和町元教育長・松岡氏より林利助幼少期の逸話に関して貴重な参考文献並びに御助言を頂きましたことに感謝申し上げます。

 

 

 

(日の丸演説の英文と訳)

 

Gentlemen!

I would like to express my sincere gratitude to all of you, ladies and gentlemen, for the warm hospitality we have received everywhere since our arrival as envoys, and especially for the special welcome reception you held this evening. I would like to express my deepest gratitude to the citizens of Japan for their generosity.

I think this evening is a good opportunity for me to give you an overview of the many reforms that have been implemented in Japan. This is because apart from us, it seems that there are very few Japanese people in the region who have accurate knowledge of the situation in our country.

Although the United States was the first country to do so, friendships with the great powers with which Japan has concluded treaties are being promoted, and commercial relations based on mutual understanding are increasing.

At the behest of His Majesty the Emperor, this envoy will endeavor to protect the rights and interests of you and our people, and at the same time, we hope that in the future the bonds between the peoples of Japan and Japan will become even closer. We will strive to further promote mutual understanding, and I am confident that we will further communicate our intentions.

By reading, listening, and observing foreign countries, our people have acquired a general knowledge of the polities, manners, and customs existing in most foreign countries. Nowadays, foreign customs and manners are understood throughout Japan. The most ardent hope of our government and people today is to reach the highest point of civilization enjoyed by the developed nations.

With this purpose in mind, we have adopted an army, navy, science, and educational system, and with the development of foreign trade, a wide range of knowledge has freely flowed into our country. Improvements in our country have been rapid in terms of material civilization, and the spiritual improvement of our people has been even greater. The wisest men of our country, after careful observation, have arrived at this opinion in unison. For thousands of years, while our country was subjected to absolute obedience under tyranny, our people lived without knowing freedom of thought.

With material improvement, they came to know that there were privileges that had not been granted to them for many years. Although there was a civil war associated with this, it was only a temporary event. The feudal lords (Daimios) of our country voluntarily surrendered their titles, and their voluntary actions were accepted by the new government. It was disposed of within a year without shedding any blood.

These remarkable results were achieved through collaboration between the government and the people, who are now moving together on a peaceful path toward progress. Was there any country in the Middle Ages that was able to break out of its feudal system without going through war?

These achievements prove that spiritual progress in Japan has surpassed material improvement. I also sincerely hope that by promoting girls' education, our country will naturally develop even more superior intelligence in the future. It is from this perspective that girls from our country are already visiting your country and starting to study.

Japan cannot yet be proud of its creative ability, but in view of the history of civilized countries that take experience as their master, we hope to take advantage of others, avoid shortcomings, and thereby acquire practical wisdom. I'm here.

Less than a year ago, when I visited Washington to examine your fiscal system, I received valuable assistance from senior officials in your Treasury Department. I have sincerely reported what I have learned to our government, and many of the recommendations have already been adopted and many have been put into action. Even in the Ministry of Industry, which is under my jurisdiction, the speed of progress is truly remarkable.

Railways were built on both the east and west sides of the empire, and communications lines were stretched across hundreds of miles across the empire, reaching almost a thousand miles within a few months. Lighthouses are now being built one after another along the coasts of our country, and shipyards are also actively operating. All of these facilities foster the civilization of our country, and we are deeply grateful to your country and other great powers.

Our greatest hope, both as envoys and as individuals, is to return home with materials that will be useful to our beloved country and that will contribute to its permanent material and intellectual progress.

While we have an obligation to protect the rights and interests of our people, our role is to promote trade. We hope to create a solid foundation for further development.

As a citizen of a large trading nation that is trying to do great things by participating in the new era of trade in the Pacific Ocean that is about to unfold, Japan would like to promote wholehearted cooperation with your country. With the fruits of your latest inventions and accumulated knowledge, we may be able to accomplish in days what your ancestors took years to accomplish. In these days of concentrated precious opportunities, we have no time to spare. Therefore, Japan desperately desires rapid development.

The dotted red dot in the center of our flag no longer looks like the sealing wax that sealed an empire, but the future is effectively its original design: forward and upward like the rising sun. Let us be a symbol of the noble spirit of the world, and a symbol of our desire to move forward to the next level with the civilized nations of the world.





紳士諸君!

私どもが使節として当国に到着して以来、到る所で受けたご懇篤なる接遇、殊に今夕の特別な歓迎レセプション開催してくださったことにつき、ご列席のみなさまとみなさまを通じてサンフランシスコ市民の方々に衷心より厚く御礼を申し上げます。

思うに今夕は、日本において実施された幾多の改革について、その概要をご紹介できる好機かと存じます。というのは私ども以外には、我が国内の状況について正確な知識を持つ日本人はご当地では稀だと思われるからであります。

アメリカ合衆国がその最初の国でありますが、わが国が条約を締結した列強との親交が推進され、相互理解に基づく通商関係は増進しつつあります。

本使節は、天皇陛下の持命により、みなさまと私ども両国民の権利及び利益を保護するのを努めると同時に、将来において内外国民の結合を一層親密になるものと期待いたしておりします。私たちは互いに相互理解の一層の促進に努め、双方の意思はさらに疎通してゆくものと確信いたします。

わが国民は、読む事、聞く事並びに外国において視察することにより、大抵の諸外国に現存する政体、風俗、習慣について、一般的な知識を会得しております。今や外国の慣習やマナーなどは日本全国を通じて理解が進んでおります。今日のわが国の政府及び国民の最も熱烈な希望は、先進諸国の享有する文明の最高点に到達しようということであります。

この目的に鑑み、私どもは陸海軍、科学、教育制度を採用し、わが国には外国貿易の発展に伴って、広範な知識が自由に流入したのであります。我が国における改良は物質的文明においても迅速であり、しかも、国民の精神的向上はさらに大なるものがあるのであります。わが国の最も賢明な人々は、注意深く観察した挙句、この見解に一致して到達しているのであります。わが国は数千年来、専制政治の下に絶対服従させられた間、我が人民は思想の自由を知らずにすごして参りました。

物質的改良に伴って、彼らは長い歳月の間彼らに許されない特権が存在することを知るようになりました。もっともこれに伴う内戦はありましたが、それは一時の出来事に過ぎません。わが国の大名(Daimios)たちは自主的に版籍奉還を行い、その任意的行為は新政府に容れられるところとなり、数百年来強固に継続してきた封建制度は一個の弾丸を放たず、一滴の血を流さないで、一年以内に廃棄させられました。

このような驚くべき結果は政府と国民との協調により成就させられましたが、今やそれぞれ一致して進歩に向った平和的道程を進みつつあります。中世において戦争を経ずして封建制度を打破しえた国がどこかにあったでしょうか。

これらの事績は、日本における精神的進歩が物質的改良を凌駕するものだということを立証しております。また、わが国は女子教育の振興により、将来、今より一層優秀な知能を自然に養っていくことを心から願っております。こうした視点からわが国の少女たちが既に貴国を訪問し、勉学を開始しつつあるのであります。

日本は未だ創造的能力を誇り得とは言えませんが、経験を師範とする文明諸国の歴史を鑑みて、他の長をとり短を避け、それでもって実際的良智を獲得したいと願っております。

一年足らず以前に、私はワシントンを訪問し、貴国の財政制度を精査したことがありますが、その時、貴国の財務省の高官から貴重なご支援をいただきました。そして私は学んだ内容を誠実にわが政府に報告し、その献策の多くは既に採用され、実行に移されたものも少なくありません。現に私の管轄下にある工部省においても、進歩の速さは大いに目を見張るものがあります。

鉄道は帝国の東西両方面に敷設され、通信用の電線は帝国の数百マイルにわたって伸張され、数ヵ月中にほとんど一千マイルに及ぶほどになりました。今や灯台はわが国の沿岸に次々に設置され、造船所もまた活発に稼動しつつあります。これらの施設は総てわが国の文明を助長するものであり、貴国及び他の列強諸国に対し、深く感謝する次第であります。

使節としてもまた個人としても、私どもの最大の希望は、わが愛する国に有益で、その物質的及び知的恒久の進歩発展に貢献すべき材料を持って帰国することでありす。

もとよりわが国民の権利及び利益を保護する義務を負うと同時に、通商を増進することが私どもの役割であり、かつ、これに伴うわが国の生産力の増強を図り、産業の一層大なる活動を助長すべき、磐石の基礎を作ることを望んでおります。

今まさに展開しようとしている太平洋上の新通商時代に参加し、大いに事を為そうとする大きな通商国家の国民として、日本は貴国に対し、心からなる協力を推進してまいりたいと存じます。貴国の最新の発明及びこれまで蓄積された知識の成果に依り、あなた方の祖先が数年を要した事業を私どもは数日で成就させることができるかもしれません。貴重な機会の集中する現在、私どもには一時も暇はありません。故に日本は急激な発展を切に望んでいるのです。

わが国の国旗の中央に点じた赤き丸形は、もはや帝国を封じた封蝋のように見えることはなく、将来は事実上、その本来の意匠である、昇る朝日のように、前方にかつ上方に向う気高い象徴となり、世界の文明諸国に伍して進もうとする象徴となりましょう。