2024年4月20日
創作の感情「ガールズバンドクライ」というアニメを見て
めんどくさい人間が、そのめんどくささを歌に乗せるという熱い展開のバンドアニメを見た。このアニメを見てぼくは、自分には表現したいもの、表現するべき感情が欠落していることを強く思わされた。
主人公の仁菜は縛りの多い家庭で育っていたり、学校で虐げられたりと鬱憤や苦悩を溜め込んでいた。都会に出ても上手くいかない場面が多々あって、その度に悩んだり落ち込んだり、時には涙や怒りを表出させていた。仁菜には相応に感情があって、自分の居る一瞬一瞬を生きているのだろう。
だからこそ仁菜の歌声には、人を惹きつけるだけの感情が乗っているのだ。
対してぼくはどうだろうか。ぼくが作る曲に、感情は乗っているだろうか。
答えは間違いなく否だ。
そもそもぼくが感情を表出させる場は、ノベルゲームなど文章の中の物語だ。自分が作る曲に、歌詞に感情なぞ乗せていない。
いや、正しく書けば、乗せようと思ってはいるが、乗せられていない。
これには複数の理由がある。まず第一に、今のぼくには表出したいと思うほどの鬱憤も苦悩もないことが挙げられる。家を出て一人暮らしを始めてからというもの、こういった経験を得る機会がめっきりなくなった。これにはぼくが家で溜め込んでいたものが、その性質が悪すぎたというのもあるが、それにしても今の暮らしには苦しみが欠如している。
もちろん作曲やギターが上達しないなど、悩み自体はあるにはあるのだが、これらの例からもわかるように、今ぼくにある悩みは、大したことのないものばかりなのだ。
大した悩みはない、つまりはそもそも創作物に乗せるような感情が欠落している。これでは感情の乗せようがない。どうしたってないものはないのだ。
次の理由は技量の問題。これは単純な話で、ぼくの実力が不足しているだけ。ただでさえ感情が乏しい上に、技量までないときたら、感情を乗せようとしてもできないのは道理だ。ただこちらに関しては、自分の力を深めればいい。これは努力次第でどうにかできる。
やはり問題なのは、乗せるような感情がそもそも存在していないことだ。
自分の経験を切り売りする私小説のような書き方を好むぼくは、すでに書き遺したことを焼き増しするのは好まない。ならば新たな経験を、と考えたところでそんなものは存在しないことに気づいてしまう。
このような調子であるため、ぼくは感情を揺らす経験が訪れることを切に願っている。とはいえ家で味わっていたような理不尽極まる苦しみは、もう食傷しているから全くもっていらないけれどね。
いい経験を掴むために、日夜刺激を求めて頭を巡らせ試行を繰り返す日々に、終わりは来るのだろうか。
描きたいほどの刺激感情が訪れるのが先か、技量が上がって感情を上手く乗せられるようになるのが先か。
どちらにせよ機会だけは逃さないように、意識を張って過ごさねば。
最後にガールズバンドクライの話に戻って、二話終盤のとても好みだった描写について少し触れておく。
桃香とすばるに対してめんどくささを発動した仁菜が、感情を吐露するところ。特にすばるに「めんどくせえ」と言われて足を殴る仁菜の描写は、心の底から素晴らしく感じた。言葉では表出できなかった感情、「めんどくさい」と言われたことへ苛立ち、優しさを向けられている自分の状況に対して、腕の振りという明確な抵抗を示す。優しくされているあの状況でさえ、上から目線で語るなと言わんばかりに必死に争おうとする姿は、まさしく拗らせ人間であり、ぼくが大好きな人間の描き方だ。
あのような描写があるとわかった以上、このアニメは最後まで見なければいけなくなった。
ガールズバンドクライ、続きが楽しみだ。
おまけ
ギターのマルチエフェクターを買いました。ギター本体より高価です。
桜を見ました。左の屋外ステージは休日でも1000円で使えます。
円形分水を見に行きました。こういう構造物好きです。