2023年1203

どこまでいってもぼくは、

 作っていた曲が思っていたよりも早くできたので時間ができた。だから思ったことを書こうと思う。
 

 どこまでいってもぼくは、実体験を元にしなければ書けないことについて。

 ぼくが描く物語はすべて自分の体験を元にして描いている。登場人物は自分の投影であり、自分の範疇を越えた振る舞いをすることはない。感情もそうで、ぼくが思ったこと、考えたこと、思っていたこと、考えていたことを飛び越えることはない。

 つまりぼくにとっての創作は己の考えを表現することに等しい。だから自分の感情の機微から自己を知るためにぼくは、自分の深くに潜り、快も不快も余さず抉り出して、曝け出す。そうやって自分を痛めつけて考えることで、自己への理解を深めている。この自己理解がどれだけ深まったかを示すために、あるいは試すために、物語を描いて投影するのだ。

 しかしこのやり方には問題がある。それはぼくが精神負荷を与えられるような経験、外からの刺激を受けなければ自己理解が深まらないことだ。だから新しい刺激、つまりは痛みを求めて外への接触を図っているのだが、最近はあまりこの手の刺激を受けることができないでいる。

 これは家というぼくの人生において最大の苦痛をもたらした場所を離れたのが大きいのだと思うが、それにしても刺激が少ない。ぼくが自己探求をするための材料としている精神的苦痛を味わう機会。それが家を出てからめっきりなくなってしまった。
 まあ正しくは家で味わっていた苦悩と比べると、大抵のことが何でもないように感じてしまうのが大きいのだけれど。

 物語を描きたいとは思っているのだが、前回と同程度の自己理解で物語を描いたって何にもなるわけがないし、そんなものは描く気にもならない。

 これは困った。

 ああでもこの前、好きだったひとが結婚しているという事実を目の当たりにした。だからなんだという話だ。だがここでぼくはそのひとにどうこうではなく、そのひとを羨ましいと感じた。

 羨ましいと感じた理由はわかっている。それはその人がぼくに少し似ていたからだ。自分と似たふつうとはかけ離れた存在が、人並みの人生を歩んでいるように見えた光景に、ぼくは羨ましさを覚えたのだ。


 ああ、いいなあ。


 このときの精神的な負荷はなかなかよかった。不意打ちだったのもあって、かなりの衝撃を受けた。ぼくはこういう刺激を受けたとき、衝動的に感情を書き殴る習性がある。このときはスマホを打つ指が高速で動いていた。それだけにいい刺激だったというわけだ。つらさで言えば家にいたときとは比べるまでもないけれど、今後はこういう角度からの刺激も味わっていきたいと思う。確かに自己理解、人間の描写を深めるための一助となるだろう

 そしてこの経験は間違いなくぼくの物語に生かされる。昔関わりをもった、好きだったひとが結婚していたという場面はぼくの物語にも出てくることでしょう。


 どこまでいってもぼくは実体験を元にしないと描くことができない。

 理由は明白、結局は自分の愉しさしか考えていないからだ。

 自分を痛めつける自己探求というぼくの人生における一大娯楽が、娯楽ではなくなるとき。

 それはきっと、ぼくがぼくでいられなくなったときだろう。



 自分のことながら本当に気持ち悪いと思うけれど、他人と違いすぎるぼくにはこれくらいしか愉しみがないのだ。


 でもこの自己探求を物語に昇華することで、誰かの心を動かせるのなら、生々しい感情を飾らずに描くことで、誰かの心に訴えかけることできるのなら、苦しんだ自分が辿り着いた答えが、欠片でも人の心に残るのだとしたら、同じく苦しんでいる人たちの心に、少しの光を灯すことが叶うなら、それはとても素晴らしいことだと思いませんか。


 なんて、おこがましいかな。

おまけ
 鎌ヶ岳。よい山でした。