2025年5月24日
2025年5月24日
いいことをしたと思う
横須賀に三笠を見に行った。
https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
その時の出来事
この日、三笠観覧券の販売機には列ができており、私の前には中学生くらいの二人組が並んでいた。前の二人は列が伸びていることを気遣ってか、片方がまとめて券を買って、手早く列からはけていった。いいことをするひと達だと感じた。
そして自分の券を買ったところで、前のひと達がお釣りを取り忘れていることに気付いた。軽く周りを見ると、精算をしているのかすぐ近くで立ち止まって、財布を広げている姿が見えた。私は残されたお釣りを持って行って渡した。
「ありがとうございます」という言葉と、残金がおかしいと感じていたのもあったのか、去り際に納得感のあるような言葉も聞こえた。
この日、ぼくはきっと、いいことをしたのだと思う。
自分の行動を世間に開け放つ行為は、世界への応答を求める姿勢に見える。
世間にはこのような言葉が当たり前に存在している。
「頑張って書いたので感想をください」
これは作品への純粋な反応や感想ではなく、生み出した自分、つまりは作者へのねぎらいや賛美を直接要求する行為だ。このような概念に対して世俗では、承認欲求という言葉が広く使われる。
称賛、賛美、礼賛を求める中に、本質は介在し得るのだろうか。稚拙な欲の見え透いた部分から、だれが純なる心を見出せるのだろうか。
で、私が書いた今回の日記はなんだ。
いいことをしたと思ったから、残そうと思った。そこまではいい。
その状況を思い出せるように書き残した。そこまでもいい。
書き残した内容を世間に投じた。これはなんだ。
ぼくは褒められたいのか。こういうことをするひとだと、できるひとだと知ってほしいのか。
それは承認欲求、ひいては賛美欲と変わらないのではないのか。
なぜこれを自分の記録から引っ張り出して、公開したのか。
そんな理由くらい知っている。ぼくがこの中身をわからないわけがない。
まず、これは自慢ではないのだ。
ぼくを知っていてほしい。
ぼくを覚えていてほしい。
ぼくを忘れないでほしい。
その気持ちが表に出ているだけ。表に出た気持ちをなだめるための行為が、このページを更新することであっただけ。内容は、最近の自分の記録にある中から、誰も傷つけないような、一番当たり障りのないものを選んだだけ。
ぼくは、さみしさを感じた。
だから声を投じることで、ぼくを思い出してほしかった。
誰かの心の隅に、住まわせてもらえることを願っただけなのだ。
おまけ
館内の写真