鳥の巣
鳥の巣
自室の壁に取り付けた鏡の前に立ち、櫛と整髪料を取り出してサイドの髪を真っ直ぐ後ろに流す。ボリュームが収まってすっきりとした印象になった。こうして整えることにより清潔感が出て対面した相手にエレガンスな印象を与えているはずだ。好感を持たれることの重要性は、幸福を追い求めて生きていた中でよく理解している。
人間は美しいものを好む。オレの恋人もそうだ。シエテは強く美しい剣をこよなく愛し、気に入った相手を着飾ることも好んでいる。仮にオレの顔が今ほど良くなかったら、ここまで仲良くなるまでに余計な時間がかかったかもしれない。
後頭部まで毛先が纏まっているのを確認すると櫛をしまった。何もしないと癖の強い髪が自分勝手に各々好きな方向を向いてしまう。服の袖口に汚れがついていないか確認するともう一度鏡を見る。
以前は恋人という存在の前では常に万全の格好でいるものだと思っていた。パパもママもお互いに身嗜みに気を遣って褒め合っていた。しかし、シエテとそこそこ長い時間を共にした結果、身なりを整えていない姿を見せても感情に影響はないのだと学んだ。二人きりの時はどんな格好をしていても褒めてくる。寝起きの腑抜けた姿ですら可愛いと言って喜ぶのだから、オレであれば何だっていいのだ。何だっていい中でも整った姿で背筋を伸ばして見せると心音が一番良い音をすることを、心臓のすぐ近くに触れられるオレだけが知っている。指を鳴らしてクラポティを取り出し、オレだけが聞くことの出来る甘ったるい音を聞く。
今日はそんなオレのことを愛してやまない恋人が数週間ぶりに艇に帰ってくる。いつも以上にしっかりとセットした髪型を見て、思わず「くはっ!」と笑い声が漏れた。
振り分けられた依頼や雑務を終えて自室に戻る頃には日が暮れていた。一日中足取りが軽く、靴の底が廊下から僅かに浮いていたことにタワーから指摘されるまで気が付かなかった。
着替えを終えると同時にドアがノックされた。一瞬だけ鏡を見てから迎え入れる。シエテはシャワーを浴びてそのまま訪ねてきたのか、ゆったりとした部屋着姿で首にタオルを掛けている。髪の先は薄っすらと湿っていて普段は跳ねている髪もしなだれていた。防具を身につけている時には隠されている白い頸に吸い付いて跡を残そうと死角から近寄るも、ひらりと避けられてしまう。思い通りにいかないもどかしさに身体が疼く。めちゃくちゃにしてやりたい。
「まーた悪いことを考えてる……まぁ、いいや。魔術でさくっと乾かしてよ」
「ウィ、任せてくれ」
シエテはシャワーを浴びた後に髪を軽く後ろに流す。他にはなにもせず、髪が乾くといつも同じ髪型に戻っている。どうなっているのか聞いたが、本人もよくわかっていないそうだ。強い癖毛はそういうものだと平然と言われたことがある。
指を鳴らして音を小さく振動させる。湿っていた髪が乾き、それだけでいつもの髪型に戻っている。美しい曲線を描く髪に、つい悪戯心が疼く。長く伸びた髪の束に指を這わせて毛先を掴み引っ張った。
「痛っ! ちょっとちょっと、そんなに引っ張ったら抜けちゃうって」
余程痛みを感じたのか、シエテはオレの手を覗き込みながら、自身の髪に触れて毛束の安否を確認している。普段は堂々とした佇まいをしているというのに、こうして慌てふためく姿は小動物のようで愛くるしい。思わず握り潰してしまいそうな衝動を飲み込みながら口を開く。
「くはっ! キミのことだから抜けても寝れば治るんじゃないか?」
「あのさぁ、お前と違って普通の人間はすぐに再生しないんだよ」
「オレの可愛い恋人が普通の人間だったなんて、知らなかったな」
「人間だよ……、普通の……」
軽口の応酬のつもりだったが、お気に召さなかったのかシエテの視線は迷子の子供のように彷徨った。部屋の中には二人しかいないというのに、瞳がどこか遠くを見ているのが気に食わない。顔を近づけて強引に目線を合わせる。
「そんなことはどうでもいいさ。それよりも、もっと楽しいことをしようぜ」
眉間に唇を落とすと、空色の瞳がはっきりとオレの顔を映す。朝起きて整えた髪型は形を保っている。前髪の毛先を少しだけ弄ると、シエテがにんまりと笑みを浮かべてから両手でオレの頭をぐしゃぐしゃと撫で回してきた。整髪料で固めているのもお構いなしに頭頂から側頭部、後頭部までかき混ぜられる。
「おいおい、どうしてくれるんだ!」
すぐに頭に触れるが、後戻りできないくらいにぐちゃぐちゃになっている。タワーと共に幸福を求めた後よりもずっと酷い有り様だ。少し髪を引っ張っただけなのに大人気ない。文句を言いたかったが唇を人差し指で軽く突かれて出鼻を挫かれてしまった。
「あははっ、これで許してあげよう。どうせすぐに乱れるんだし、いいよね」
親指の先で下唇の縁をなぞられ、鋭い視線が刺さる。畏れを感じさせる顔つきに思わず息が止まりそうになる。
この命を破壊したら、聞いたことのない良い音がする。けれどまだ壊さない。代わりがいない存在だから、最高の状態で壊したい。愛情を注いで注いで、もうこれ以上ないくらい愛し合ってから壊して、シエテの音をオレだけのものにしたい。
「ノン! 誠心誠意、お詫びをさせてくれないか」
「そこまで言うなら……楽しませて貰おうかな」
シエテがへらへらとにやけた幸せそうな顔を浮かべるとオレの心臓か激しく良い音を立てる。もっとシエテの音を感じたくて顔を近づけると鼻先が触れ合い、互いを焦らすようにゆっくりと唇が重なり合った。舌を絡めて息を奪い合うような激しいキスをして、ベッドに組み敷くと首の大動脈に耳を押し付ける。薄い皮膚の下の血管がバクバクと音を立てているのを聞いて局部が滾ってくる。
情事が始まるとシエテはなんだって許してくれる。焦らされた分だけ頸に噛み跡も付けた。頭を乱雑に撫で回されてから両耳を塞がれて、いつになく興奮してしまってどんどん歯止めが効かなくなっていく。
いつも余裕ぶった顔をしているシエテが、瞳に涙を浮かべて嬌声をあげて声が枯れるまで夢中になって腰を振った。何度も奥に吐き出すと、ベッドに身を投げ出して意識を手放した。
カーテンの開く音がして日が差した。光の眩しさに身を捩り、顔を両手で覆う。朝かと思った瞬間に、もう昼だとタワーの呆れたような声が聞こえてきた。
目覚めたくない。もっと眠っていたい。そう思ってしまうほど体が重たい。特に首から上が重症だ。手当たり次第に壊して回りたいような暴力的な気分になっている。
「よほど疲れたんだねぇ」
心地の良い柔らかな声が聞こえる。片手をベッドの上に滑らすが思った人物の肉体に触れることはなかった。代わりにくすくすと笑う声が、少し離れた場所からする。
カーテンが半分閉じられ、日光が顔には直接当たらなくなった。薄っすらと目を開くと人影が近付いてくるのが見える。シエテは上機嫌に笑みを浮かべている。
水差しからコップに水注ぎ美味しそうに飲む姿を眺めていると喉の乾きを覚えた。もう一杯注いでこちらに差し出すのを黙ったまま体を起こして受け取る。水はよく冷えていてほんのりと甘く全身に染み渡る。
「ボンジュール」
「おはよう、お寝坊さん」
シエテは着替えを終えて昨晩とは違う服を着ている。どうやら随分と寝坊をしてしまったようだ。
「あははっ、まるで鳥の巣じゃない」
優しい手つきで髪の毛を混ぜられる。気持ちが良い。鳥の巣という言葉に、自身の髪がどんな状態になっているのか容易に想像がつく。酷い姿をしているだろうというのに嫌な気が全くしない。いつの間にか起き抜けの暗澹とした気持ちは消え失せている。大きく体を伸ばして爽やかな朝の空気を吸い込む。
水差しの表面から雫が滑り落ち、テーブルが濡れていることに気がついた。冷たい水をわざわざ用意してくれたのだろう。緩みそうになる口元を片手で覆い隠す。
「長い冠羽の生えた黄色い鳥が住んでいて、たまにここに帰ってくるのさ」
シエテの髪が揺れるのを見て勝手に口が動く。オレの頭が鳥の巣なら、住んでいる鳥を選ぶ権利がある。か弱いひよこならずっと手元にいてくれるが、ひよこなんてすぐに壊してしまうから、今くらい飛び回ってくれる方がオレにはお似合いなのかもしれない。
「とても可愛い声で鳴くんだぜ。昨日の晩も……」
続きを言いかけたところで毛布を剥ぎ取られた。当然のことながら下着も何も身につけていない。明るい室内で自分だけ裸を晒すのは落ち着かない。居心地悪く座っていると下着を投げつけられる。
「寝言はそこまでにして早く身支度をしなよー。その頭で団長ちゃんの前に出るつもり?」
そう言ってシエテは椅子に座る。準備が整うまで待っていてくれるようだ。
「団長には見られたくないな」
急いで着替えを済ませ、鏡の前で髪を整える。オレの幸福の理解者であり、恩人である団長には格好良いところだけを見せたい。オレの全てを、何もかもを知ってもらいたい気持ちもあるが、隠しておきたいことも多い。まだ子供の団長に情事の後の姿は刺激が強すぎる。
「鳥の巣も可愛いんだけどねぇ」
「いつもの髪型の方が好きだろう?」
「まぁ、それは……そうだね、よく似合ってると思う、し……、俺の住処を見せびらかすのもねぇ」
珍しい発言に驚いて振り返ると、シエテは両手で顔を覆い隠していた。よほど照れているのか隠しきれていない耳も、手の甲も赤く染まっている。
「ジュテーム、オレの可愛い小鳥」
ぐぅっと息を飲む音がして、つい口元が緩んでしまう。シエテが大きく息を吐くと感情が落ち着いたのか手を下ろし、いつもと変わらないにやけた顔を見せた。
「……次はすぐに帰って来れるよ」
落ち着いた大人の低い声を出されると、今度はこちらが照れくさく感じてしまう。なんだかんだ言って、こういう時のシエテは物凄く格好が良い。
鏡の前に立ったオレの姿を、テーブルに肘をついて笑みを浮かべた恋人が眺めている。偶に視線が合って小言を言われる。こんな些細な幸福、隠して独り占めしてしても構わないだろう。