まだ恋を知らない
まだ恋を知らない
艇はゆっくりと慎重に、雪が降り続き厚い氷に閉ざされた島に向かっている。いつだって薄着のルリアも帽子とマフラーを用意していた。燃料や資材、食料も多めに発注して積んだ結果、それらの整理に慌ただしい艇内を、面倒事を頼まれないように音と気配を消して歩く。
甲板の上まで出てくると冷たく乾いた風が吹き荒んでいる。目を凝らすと真っ直ぐと立っているお目当ての相手の姿を見つけた。遠くを見つめている背中に近寄って少し離れた位置から声を掛ける。
「サリュ、シエテ」
「やぁ、ロベリア。元気そうだね」
人間一体分の距離を空けて立つ。こちらからは近付かないし、相手からも近付いてこない。これ以上近くに寄ると危ない。何が危険なのかはわからないが、オレたちの距離は近くてはいけない。相手を壊せる間合いだとかそういう問題ではない。もっと距離が遠くたって生き物は簡単に壊せる。オレも、シエテもそうだ。
あの日、あの瞬間を迎えるまで、オレたちの距離はずっと近かった。
会えば近寄って距離なんてなかった。シエテの肩はオレの手を置くのに丁度よい高さで、それは逆も同じだった。よくシエテがオレの肩に腕を回して髪が触れ合う距離で会話をしていた。髪だけではない。額や鼻先も触れ合う程の距離のこともあった。シエテはいつも清潔にしているし触れ合っても不快感はない。彼の使っている石鹸や香油の香りも上品な爽やかさで彼自身の匂いに合っている。トク、トク、と非常にゆったりと力強く鳴る心臓の音も落ち着く。それにシエテの空色の瞳にオレの姿が映っているのを見たことが何度もある。
「ロベリアの瞳の色って不思議だね」
シエテの声は柔らかく、甘く、耳に優しい。どうでもいいような冗談や自慢話も聞いていて飽きない魅力に溢れている。その時も今度は何を話してくれるのか期待して続きを待った。
「薄い茶色に見える日もあるし、鮮やかな緑色に見える日もある。何か理由があるの?」
言われた内容に心当たりがない。本当に色が違っているのかも定かではない。こっそりタワーにそうなのか聞くと、そんな小さい部位の色などわからないと言われた。確かにそうだ。
「さぁ? そんなこと気にしたことがないな」
瞳の色が変わるなんてパパやママにも指摘されたことがない。自分では緑色だと思っているが、変わるのだろうか。
「髪を整える時しか鏡を見てないのかな。綺麗な顔をしているのに、勿体ないなぁ」
シエテはオレの頬を突きながら、俺がロベリアの顔だったらもっと頻繁に見るのにと言って笑う。シエテはよく笑う。いつも楽しそうに笑みを浮かべて冗談を交えながら喋る。
そんなシエテの瞳を眺めながら顔を寄せた。
「キミの瞳も遠くから見ると晴れた空の色をしているし……」
笑って細くなった目が、こちらの様子を探るように開く。澄んだ瞳を確認するように覗き込む。凪いだ水面のような静かな印象が浮かぶ。
「近くで見ると湖の底のような緑色がかった色にも見えるぜ」
そう言って、鼻先同士が触れた。ちょんっと触れるように近付いたから当然のことだ。まるで犬みたいだねと言って背中を撫でながら笑うシエテの楽しそうな顔を見ると気分がいい。
シエテはオレのことを本当に大型犬か何かだと思っているのかもしれない。依頼が終わって帰還してこれからシャワーを浴びるくらいしか予定がない時にだけ、頭をワシャワシャと両手で撫でてくる。髪をセットしている時にはしてこないからタイミングは考えているようだ。
オレたちは艇の中で会ったら立ち話をするだけの関係で、シエテはオレを他の予定には誘ってはこないし、オレから誘うこともない。
決して無理強いはしてこない隣人はとても好ましい。それは今までと変わらない。変わったのは距離だけだった。
どうしてそうなったのか、きっかけは何だったか覚えていない。艇の揺れが強かっただとか、突風が吹いただとか、些細なことだとは予想がつく。そんなちょっとしたことで触れるほど近かったのだから、いつかはそうなったのだろう。
唇が、唇を、掠めた。
バチンッと、強い電流が全身を流れた。思ったよりも柔らかくて、他の触れ合っていた部分とは違う触感に驚いて体を離す。脳が混乱している。心臓が荒れ狂い、瞳と腹の辺りが煮えるように熱い。思わず片手で口の周りを覆う。立っていられなくて座り込んだ。
何かされたのかとシエテを見上げるが、シエテも片手で口の周りを覆って驚いた顔をしている。
「シエテ?」
汗が吹き出しそうなくらい暑いのに、シエテの顔は血の気が引いたように青白くなっている。
温めないといけないと立ち上がって手を伸ばすと、はたき落とされた。
「あ、いや、ごめん、その……」
手が手を叩く音は、とてもいい音だった。咄嗟に手首のスナップを効かせて的確に打てるのは才能がある者の動きだ。録音しておけばよかった。手の側部にじわじわと弱い痛みが広がるのも音の余韻のようで心地がよい。かといってこの場でもう一度手を伸ばすのもよくないことは理解している。
音に興味が移ったおかげか頭が冷えてきた。どうやら二人共調子が良くない日なのだろう。
「ノン、どうやらお互いに疲れているようだ。今日のところは解散しよう」
気にしていないと伝えるように笑みを浮かべると、シエテの顔もいつもどおり気の抜けたにやけた顔に戻った。
「うん、またね」
「オールヴォワール」
別れた後、ただ歩いているだけなのに何かが違っている。おかしい。何かが欠けて失くなってしまった感覚がある。ほんの数分前とは変わってしまった。本当にシエテになにかをされたのではないか、そうでないと説明がつかない。この形容し難い喪失感は危険だ。いち早く忘れるように幸福の音を聞く。先ほどの手が叩かれた音を録音していなかったのは実に惜しかった。日頃からシエテといる時の音を録っておけばよかったと後悔している。
なんだかわからない隙間を、音で埋めていく。幸福の音を求めていた時とはまた別の落ち着かない足りていない感覚が何なのかはわからずにいる。
冷たく強い風が轟音を響かせる。
咄嗟に身を寄せ合おうと思ったが、その場に踏みとどまった。
唇が掠めたあの日からどちらともなく人間一人分の距離を置いている。近寄りそうになるのを堪え、行き場のなくなった手を握って誤魔化す。何かしたのかと聞けないまま、他愛もない話を重ねる。
「本当にこの空域は冷えるねぇ」
呟く声がほんの少しだけ震えを含む。口を開くと熱が逃げるからか口数も少ない。
シエテの薄く開いた唇から白い息が漏れるのを眺める。周囲の空気は冷たいが、オレは音を振動させれば熱を持つことを知っていて、体に影響のない程度に温まるように扱うことが出来る。ただでさえ金属の鎧を身に纏うシエテの方が冷えるのに、シエテは甲板から移動しようとせず空を眺め続けている。雪混じりで遠くまで白く覆われているというのに、空の先を見ている。オレが破壊の音を求めるように、シエテは空を見つめる。
「珈琲を飲みに行かないか」
「えっ」
いつまでも寒い甲板の上で何もない空なんか見ていないで、暖かい艇の中に入ったらいい。そう伝えたかっただけなのに口から出たのは誘いの言葉だった。艇の中で珈琲を飲みに行ったこともなければ飲みたいとも思っていないのに。シエテも驚いて目を丸くしてこちらを見ている。
「寒そうだ」
冷えて青白くなった肌が痛々しい。唇だって色が薄くなって乾いている。もっと赤く血の通った健康的な色でいて欲しい。
「うん、寒いよ。でもこれくらい全然平気だから」
艇の中に入る気はないようだ。足を動かそうとしない。
このまま寒い場所にいて欲しくない。どうしてこんなにも放っておけないのかわからない。
手を伸ばす。はたき落とされるかもしれないと思ったが、そんなことはなくあっさりと手首を掴むことが出来た。防具越しとはいえ久しぶりに触れる。なんだか指先がいつもより熱く感じる。ゆっくりとその熱がシエテの全身に伝わるように集中して魔力を流す。
「……温かい」
シエテの感想に黙って頷く。上手く言葉が出てこない。口を開いてもおかしなことを言い出しそうだから代わりに奥歯を噛みしめる。
「ロベリア、何か俺に言いたいことはある?」
手首を握っている手の上に、反対側の手を置かれた。シエテは何故か緊張しているようで不自然に力が入っている。
言いたいことと言われても、言葉が出てこない状況では何も言うことが出来ない。
「ノン、わからない」
答えが正解だったのか、シエテは安堵したように息を吐いて力を抜いた。
「そっか、俺も正直よくわからないんだよねぇ~」
満面の笑みは久しぶりに見た気がする。これまでも笑ってはいたが、こんなにも嬉しそうなのはいつぶりだろうか。きっとあの日よりも前だったはずだ。シエテが嬉しそうにしていると幸福な気持ちになる。
「くはっ、アンサンブルだな!」
腕を引き寄せて抱き締める。頬が触れ合って丁度いい。どうしてこんなに良いことを危険だと感じていたのか我ながら理解出来ない。触れ合う距離が幸福を感じられる。
少し体を離して向かい合うとシエテの瞳に自分の姿が映っているのが見える。額と額をつけるとコツンと小気味良い音が骨に響いた。
「わからないんだよ。……本当に、どうしたらいいんだろうね」
シエテは体中が温まったようで頬まで赤く染まってきた。血が通ったならそれでよかった。役に立てたようで嬉しい。
頬を撫でながら鼻先をくっつけると笑ってくれる。それでいい。あるべき距離に戻れてよかった。
幼い頃に聞かされた童話の最後と同じく、終わりよければ全て良しだ。頭の中でそう締め括っている最中に、唇が重なった。掠めたのとは違う。熱く柔らかくしっとりとした感触が唇を覆っている。シエテの瞳は閉じていて、何を見ているのかは見えない。
どうしてこんなことになっているのか、心臓が破裂しそうなくらい暴れ狂っているのか、振り払うことも出来ないのか、何もかもわからない。魔術の調整を誤ったのか汗ばむほど暑いのにどうすることも出来ない。
シエテの顔が離れる。凪いだ目でこちらを見て、唇の端を拭ってくれた。唇が重なっていたのはそう長くない時間だったはずだ。なのに確かに触れていた感覚が残っている。
あんなに近い距離で何度も話していたのに、シエテが何を考えて行動したのか全くわからない。触れた唇がとても柔らかかったことに意識が飛んでしまう。
「珈琲を飲むのはまた今度ね」
そう言って去っていったシエテの背中を見つめることしか出来なかった。混乱した脳は正常には動かない。
「オーララ……」
この前の反省を活かして音は録っていたが、音では再現出来ないことがあると思い知らされた。吹く風によって唇に感じたあの感覚が薄れていくのが酷く惜しい。この現象が何なのか掴めそうで掴めない。
本当に何がなんだかわからなくてタワーに話しかけたが返事はない。何一つわからないまま甲板の上に立ち尽くし、たまたま甲板に出てきた団員に回収されるまでその場を動くことが出来なかった。
恋慕の情がオレの中でイメージしていたものとは全く別の音と形と熱量をしているのだと知るのは、まだ先の話だ。