2017年のノーベル化学賞は以下の3名の欧米の科学者に贈られた.
● リチャード・ヘンダーソン (Richard Henderson) イギリス MRC分子生物学研究所
● ヨアヒム・フランク (Joachim Frank) スイス ローザンヌ大学
● ジャック・デュボシェ (Jacques Dubochet) アメリカ合衆国 コロンビア大学
受賞理由は,「溶液中の生体分子を高分解能で構造決定できるクライオ電子顕微鏡法の開発」である.
受賞理由にある「クライオ(低温)電子顕微鏡」とは,一言でいえば,極低温で使用する電子顕微鏡である.電子顕微鏡は,試料に電子ビームを当てて原子レベルの大きさのものを観察できる装置であり,光学顕微鏡よりも,ずっと細かいものを見ることができる顕微鏡であるが,その電子顕微鏡にさらに工夫を重ねたものがクライオ電子顕微鏡(実際は高性能な透過型電子顕微鏡を極低温で操作する方式)である.それを使うことでタンパク質やウイルスなどの3次元構造を高分解能で見ることができる.
実際には,タンパク質などの生体高分子やウイルスなどを水に漬けた状態で,瞬間冷凍させることで,生きた状態に近い構造の画像を得ることができる.その際,生体分子が壊れない程度の弱い電子ビームで多数の粒子(同一でありながらランダムに配向した何千から何十万もの分子)を撮影して,向きが同じものを重ね合わせ,さらに向きが異なるものを組み合わせることで,三次元構造を再構築するというものである.最終段階ではコンピュータによる画像処理技術が大きな役割を果たす.
タンパク質の立体構造を決定するためには,1958年 Max Perutz らによるミオグロビンのX線結晶解析以来,主にX線回折像を解析する手法が用いられてきた(一部は核磁気共鳴法).しかし,それにはタンパク質を何らかの方法で結晶化する必要があった.結晶を作れないタンパク質も少なくなく,対象は限られていたと言える.国際宇宙ステーションの意義を説明する際,必ずと言ってよいほど,タンパク質の結晶成長実験が話題になる.無重力状態なら良質の結晶が得られる可能性が高く,難病の治療薬開発には欠かせないと言われると莫大な予算を使う宇宙実験といえどもその必要性を納得させられてきた.ところが,クライオ電子顕微鏡法なら単結晶を作成する必要がない.
次図はノーベル財団が提供している分解能の変化を示した画像である.画像の左橋は2013年当時の分解能,右端は劇的に進歩した現在の分解能である.4年前は原子団が団子状であるのに対し,現在は原子団を構成する個々の原子が確認できる.
注)クライオ電子顕微鏡の場合は,X線解析の場合とは異なり電子密度は観測されない.したがって,分解能を表すために近原子分解能が使われる.
グルタミン酸デヒドロゲナーゼ 左側は2013年,右側は現在の分解能
受賞者三人の貢献分野(少し詳しい説明)
ヘンダーソン博士は,初めてクライオ電子顕微鏡を使って実際に高精細な観察を行い,難しかったタンパク質の構造解析を簡単に成功させた.博士は,1970年代に,金属材料などの観察に使用されている電子顕微鏡に注目し,電子の波長は光より短いので,タンパク質内部の細かい構造がわかるはずであると考えた.しかし,金属とは異なりタンパク質のような軽元素で構成されている有機化合物に高エネルギーを有する電子ビームを当てると,壊れてしまう.また,測定中は真空にする必要があるので水分が蒸発し,コンフォメーションが変化してしまう.ヘンダーソン博士は,光合成を担うタンパク質,バクテリオロドプシンにおいて,細胞表面にある膜の中に埋め込まれているタンパク質を取り出すことなく,グルコース溶液で乾かないように保護し,これに通常より弱い電子ビームを使って観察した.その結果,従来得られていない分解能の画像を得ることができた.1990年には,原子レベルの精度で撮影することに成功した.さらに,ヘンダーソン博士はこの手法を使って立体構造未知のタンパク質の構造を観察し,クライオ電子顕微鏡観察がタンパク質研究に広く使用できることを明らかにした.
フランク博士は,数学的手法を用いて2次元画像を3次元画像に変換する手法を考案した.ヘンダーソン博士の方法は,当初,観察の対象が規則的に並んでいる場合(らせん対称性や2次元結晶を利用した方法)にしか使えなかったので,液体中の分子を観察することはできなかった.この問題を解決したのがフランク博士である.電子顕微鏡で撮影した写真は一種の影絵のようなものである.博士は,様々な方向から撮影された分子の画像をコンピューターで重ね合わせて高解像度の画像を作り,それらの写真から立体的な形を逆算する計算方法を考案した.現在,最高分解能は1.8Åと言われている.
デュボシェ博士は,サンプルを調製する方法を考案した.クライオ電子顕微鏡の観察では,粒子(タンパ ク質などの生体高分子)のいろいろな向きの写真を撮る必要がある.そのためには粒子を数多く並べる必要がある.しかし,電子顕微鏡像では,粒子同士が重なり合ってしまう可能性がある.ドゥボシエ博士は,粒子を数多く並べながら,それぞれが重なり合いにくい方法を考案した.すなわち,生体分子を氷で守るという方法である.氷ならば,真空中のようにすぐに蒸発することはない.しかし,普通に凍らせると水が結晶化してタンパク質を壊し,電子ビームの通り道の邪魔になる.デュボシェ博士は極低温の液体窒素を使って水を急激に冷却し,結晶化する前にガラス状に凍結させる方法を考案した.その結果,タンパク質は壊れず,分解能も落ちないことが判った.
日本最大の化学ポータルサイトである Chem-Station では,「クライオ電顕の発展を後押ししたのは実のところ測定の考え方ではなく、機械部品の小型化・高性能化や、IT技術の進展にこそあったのです」と書かれている.すなわち,CMOS (complementary metal oxide semiconductor,相補型金属酸化膜半導体) を使った電子直接検出器および動画撮影法等の技術および Relion という粒子画像解析ソフトウェアの開発である.
従来の単結晶X線解析では,結晶学を習得する必要があった.群論,晶系,対称性,数千〜数万点の反射データの収集,位相問題(重原子法,直接法,同型置換法等),フーリエ合成,最小二乗法等の理解,プログラムの取り扱い等々,現在は二次元検出器の導入を初めとしてその大半が計算機支援によって実行できるようになったが,単結晶の作成は避けることはできない.低分子の有機化合物とは異なり生体高分子の結晶化は多大の労力を必要とする.クライオ電子顕微鏡は,電子密度を求めるのではなく,様々な方向から撮った粒子の影絵から分子の形を割り出す手法が実現したとなればノーベル化学賞に値するのは疑問の余地がない.
原子分解能を達成するためには200 kVの加速電圧を有する高性能の電子顕微鏡が必要である.現状では,あちこちの大学等の研究機関で手軽に設置できる分析機器ではないが,これまでの分析機器と同様に科学技術の進歩が,近い将来それを可能にするはずである.
資料
X線回折の位相決定にブレイクスルーをもたらした直接法も1985年ノーベル化学賞を受賞している.「結晶構造を直接決定する方法の確立」,H.A.ハウプトマン(アメリカ),J.カール(アメリカ)
【速報】2017年ノーベル化学賞は「クライオ電子顕微鏡の開発」に Chem-Station
[詳報]2017年ノーベル化学賞はクライオ電子顕微鏡の開発!日本科学未来館
• Electron Microscopy & Protein Assemblies
• Cryo-electron Microscopy Breaks The Crystal Ceiling
• Crystallography Without Crystals
• 単粒子解析法 - Wikipedia 多数の均一な粒子を観察,撮影し,画像処理によって粒子の詳細な構造を得る手法の説明.
4 October 2017
The Royal Swedish Academy of Sciences has decided to award the Nobel Prize in Chemistry 2017 to
Jacques Dubochet
University of Lausanne, Switzerland
Joachim Frank
Columbia University, New York, USA
and
Richard Henderson
MRC Laboratory of Molecular Biology, Cambridge, UK
"for developing cryo-electron microscopy for the high-resolution structure determination of biomolecules in solution"
We may soon have detailed images of life’s complex machineries in atomic resolution. The Nobel Prize in Chemistry 2017 is awarded to Jacques Dubochet, Joachim Frank and Richard Henderson for the development of cryo-electron microscopy, which both simplifies and improves the imaging of biomolecules. This method has moved biochemistry into a new era.
A picture is a key to understanding. Scientific breakthroughs often build upon the successful visualisation of objects invisible to the human eye. However, biochemical maps have long been filled with blank spaces because the available technology has had difficulty generating images of much of life’s molecular machinery. Cryo-electron microscopy changes all of this. Researchers can now freeze biomolecules mid-movement and visualise processes they have never previously seen, which is decisive for both the basic understanding of life’s chemistry and for the development of pharmaceuticals.
Electron microscopes were long believed to only be suitable for imaging dead matter, because the powerful electron beam destroys biological material. But in 1990, Richard Henderson succeeded in using an electron microscope to generate a three-dimensional image of a protein at atomic resolution. This breakthrough proved the technology’s potential.
Joachim Frank made the technology generally applicable. Between 1975 and 1986 he developed an image processing method in which the electron microscope’s fuzzy twodimensional images are analysed and merged to reveal a sharp three-dimensional structure.
Jacques Dubochet added water to electron microscopy. Liquid water evaporates in the electron microscope’s vacuum, which makes the biomolecules collapse. In the early 1980s, Dubochet succeeded in vitrifying water – he cooled water so rapidly that it solidified in its liquid form around a biological sample, allowing the biomolecules to retain their natural shape even in a vacuum.
Following these discoveries, the electron microscope’s every nut and bolt have been optimised. The desired atomic resolution was reached in 2013, and researchers can now routinely produce three-dimensional structures of biomolecules. In the past few years, scientific literature has been filled with images of everything from proteins that cause antibiotic resistance, to the surface of the Zika virus. Biochemistry is now facing an explosive development and is all set for an exciting future.
私たちはすぐに原子分解能で人生の複雑な機械の詳細な画像を得るかもしれません。化学2017年ノーベル賞は、生体分子のイメージングを簡素化し、改善するクライオ電子顕微鏡の開発のためにJacques Dubochet、Joachim Frank、Richard Hendersonに授与されました。この方法は、生化学を新しい時代に変えました。
写真は理解の鍵です。科学的なブレークスルーは、しばしば人間の目に見えない物体の視覚化を成功させることに基づいている。しかし、生化学的地図は、利用可能な技術が人生の多くの分子機構の画像を生成することが困難であったため、長い間空白で満たされてきた。低温電子顕微鏡法はこれをすべて変える。研究者は、生命化学の基本的な理解と医薬品の開発の両方に決定的な、過去に見たことのないプロセスを途中で動かし、視覚化することができるようになりました。
電子顕微鏡は、長い間、電子ビームが生体物質を破壊するため、死骸を画像化するのに適しているとしか考えられていなかった。しかし、1990年にRichard Hendersonは、電子顕微鏡を用いて原子解像度でタンパク質の3次元画像を生成することに成功した。この画期的な技術により、この技術の可能性が証明されました。
Joachim Frankはこの技術を一般的に適用可能にしました。1975年から1986年の間に、彼は電子顕微鏡のファジィ二次元画像を解析し、融合して鋭い三次元構造を明らかにする画像処理方法を開発した。
Jacques Dubochetは電子顕微鏡に水を加えました。液体水は電子顕微鏡の真空中で蒸発し、生体分子が崩壊する。1980年代初頭には、水をガラス化することに成功しました。水を急速に冷却し、生物学的サンプルの周りに液体の形で凝固させ、生体分子が真空中でも自然な形を保つようにしました。
これらの発見に続いて、電子顕微鏡のすべてのナットとボルトが最適化されました。2013年に所望の原子解像度に到達し、研究者は生体分子の立体構造を日常的に作り出すことができます。過去数年間で、科学文献は抗生物質耐性を引き起こすタンパク質からジーファウイルスの表面までのすべての画像で満たされました。生化学は今や爆発的な発展に直面しており、すべてが盛り上がっています。