経 緯
2016(平成28)年夏頃、六甲学院の石崎先生より、日誌一号と記された古い冊子が学校宛に郵送されてきたと連絡がきました。内容は、六甲学院山岳部の前身である六甲中學校山岳班の創設当時のことが記載されているとのこと。学校としては資料として保存する方針だが、差出人の記載はどこにもないとのことだった。学校に伺って確認したところ、かなり痛んでいるものの、中身は十の掟や部歌の原形や、六甲中學校山岳班創立時(昭和14年9月9日)から「たきび」創刊(昭和18年)までの1期生~3期生等の活動記録等であり、「たきび」以前の貴重な資料であることが分かった。そこで、山岳会で一時お預かりし保存に耐えるよう修復作業を施し、修復したものを学校に返却し保存してもらうことで了解を得た。修復作業に先立ち、オリジナルのものを見たいとの要望が会員から寄せられたため、2016(平成28)年10月30日の総会を待って総会出席者に修復前のオリジナルを見てもらった。そして、修復作業後の日誌を2017(平成29)年3月11日学校に返却した。なお、差出人については、古いOB諸氏に聞き合わせしたものの判明せず、想像するに会員のご遺族が遺品整理で見付けた冊子を郵送して頂いたものではないかと推測した。いずれにせよ、このような貴重な資料が出てきたことに対しお届け頂いた方に感謝しなければならない。
小根田一郎(26期)
INDEX
1).表紙 [修復前・修復後]
2).十の掟 [修復前・修復後]
注) 山岳部部歌一番~五番とほぼ同じである。五番の一部歌詞が、戦争の影響なのか、「皇国の楯と誓ひ合う」とされている。現行では、これが「山の男とちかいあう」に改められている。
4).山の思ひ出 (昭和18年6月17日)
注)五年制の六甲中學校を卒業した旧制高校一年のオッサン(1期生阪上秀太郎氏)による寄稿文。
5).第一回雪彦山キャンプ (昭和16年8月3日~9日)
注)シュトルテ先生、若林先生、四年生(1期生)、三年生(2期生)、及び、二年生(3期生)による初めての雪彦登山。積極的に岩壁に取り付いたり、ルートを探っている。
6).六甲中學校山岳班アルプス涸澤キャンプ (昭和17年8月16日~26日)
注)シュワイツェル先生、シュトルテ先生、ラーデマン先生、五年生(1期生)、四年生(2期生)による初めての北アルプスへの遠征。3名の先生は山岳班の現班長、前班長、次期班長。徳本峠を超えて涸沢に入りテント設営。前穂岳北壁、前穂高岳北尾根~前穂高岳~奥穂高岳、涸沢~涸沢岳~北穂高岳~大キレット~南岳~槍ヶ岳(含む小槍登攀)~槍沢~横尾~涸沢周遊等。行き帰りは共に徳本峠越えしている。今のような登山靴ではなく、足袋に草鞋で登攀したり穂高の稜線を歩いたりしていることに驚く。さらに、雪渓の急場ではこれにアイゼンを着けて上り下りしていることにも驚く。
7).雪彦山不行岩登攀報告 (昭和18年8月11日)
注)卒業して旧制高校一年生となり夏休みで帰省していた阪上氏(1期生)及び朝日氏(1期生)と、文中「私」との三人パーティによる不行岩の初登攀の記録。キャンプに帰着後、「帰って早速この不行岩登攀成功を山麓の鹿野神社社司の柏尾三郎氏に報告した所、氏の驚愕又一通りでなかった。柏尾氏は関西RCC会員のクライマーである。」とある。なお、ルートの大半をトップで切り拓いた「私」はどなたであるか不明。
8).第二回アルプス登山日誌 (昭和18年7月20日~30日)
注)シュワイツェル先生、ラーデマン先生、五年生(2期生)、四年生(3期生)による二回目のアルプス遠征。徳本峠越えの予定が、雨のため沢渡から中ノ湯、釜トンネル、大正池を経て上高地に入っている。前穂高岳北壁、前穂高岳~奥穂高岳、北穂高岳、涸沢岳。槍ヶ岳への縦走や小槍登攀は天候に恵まれずに中止。帰路に白沢に張ったテントから焼岳往復した後、徳本峠経由で下山。前回と同じく足袋に草鞋で雪渓を登り降りし登攀もこなした上、今回は草鞋でグリセード成功とあり、驚かされる。又、涸沢最後の夜にキャンプファイヤとあり、登山人口も少なく古き良き時代を感じる。
9).裏表紙 [修復前][修復後]