プロローグ
ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置する大都市ケルン。その市街地から少し離れた緑に囲まれた住宅街は、昼も夜も変わらぬ静けさを保っている。
一人の老人と、長く年月を共にした愛犬のジャーマンシェパードが、夕食を終えた午後七時頃、いつもの散歩コースを巡っていた。
唐突に、シェパードが繋いでいたリードを強く引いた。不審に思った老人は、痛めていた膝を折り、愛犬と目を合わせる。
――パァン! と、銃声が鳴り響いた。
次の瞬間、ガラスの砕け散るような大きな音が鳴り響き、パン、パン、と二発の銃声が続く。聴力が衰えた耳では鮮明に聞き取ることはできないが、どこかから怒号が響いている。
腰が抜けそうになった老人は、愛犬を抱きかかえるように電柱の影へ身を寄せ、一際大きく息を吐いた。勇敢にも主人を護ろうとするシェパードを、弱々しく震える手で抑え込む。
突風のような黒い影が、目にも留まらぬ速さで横切った。ヴーッ……グルルル……と警戒を解かないシェパードを横に、老人は思考を手放したようにぺたりと地面に座り込んだ。今度は本当に腰が抜けてしまったらしい。
その目に刻み込まれたのは、電灯の下で煌々と揺れる長い銀髪だった。
豪邸の窓を突き破り脱走したキュラソーは、程なくして大通りへと抜けた。信号待ちをしていたバイクのフルフェイスにサイドから蹴りを入れると、男の身体は車体から吹っ飛び、ヘルメットだけが宙を舞った。
シートに飛び乗りヘルメットを片手で掴むと、素早く装着してバイクを走らせる。
「……ハァッ!? ちょ、オイこら、ざけんなテメェ! ……痛って……」
バイクの持ち主の男の悲痛な声は、女の耳に入ることなく掻き消された。
しばらく走行しているうちに、ケルン市街地が見えてきた。首に下げたひし形のペンダントトップがバイクの反動で跳ね、刻まれた「PT003」の文字が視界にチラついて思わず舌打ちが出る。今回はしくじったが、まぁいい。
既に州警察が到着しており、数台のパトカーがキュラソーのバイクを追っていた。ルートヴィヒ美術館周辺の広場を抜けると、さらに夥しい数が待ち構え、進路を塞がれる。
異様な光景にぎょっとする観光客を横目に、女はヘルメットの奥で不敵に笑った。
「そこのバイクの女! 無駄な抵抗はやめて投降しなさい。さもなければ……」
拡声器を使って叫ぶ警官の声を聞き流し、ハンドルを切ってホーエンツォレルン橋を渡る。欄干に連なる南京錠をバックに記念撮影をする東洋系のカップルの横を、キュラソーの乗ったバイクが駆け抜けていく。大聖堂をはじめとした歴史的建造物が神秘的にライトアップされる景色を見ながら、女は追っ手を撒くことだけを考えた。
進行方向から州警察のバイクが迫る。脳裏に取引相手の男が最後に浮かべた顔がよぎり、眉を顰めた。大した権力もないくせに、執念深さだけは一流だ。
その後ろに、見知った顔の乗ったバイクが付いてきているのを、女は見逃さなかった。
「……面白い」
キュラソーは一度バイクを停め、欄干越しにライン川を覗き込んだ。ツアー客向けの遊覧船が鉄橋の下をゆっくりと通過している。デッキには優雅に食事を楽しむ家族連れの姿。
助走をつけるべく少し距離を取った。そのまま加速し、車体ごと欄干に乗り上げる。
『あの女……まさか……!』
異変に気付いたドイツ連邦情報局のエージェント、レオナ・ブッフホルツが、走行速度をあげて州警察の先頭に出るが、すでに遅かった。
キュラソーがバイクごと遊覧船のデッキへ飛び降りると、乗船客から悲鳴があがった。女はヘルメットを外して鉄橋を見上げる。大量のバイクが溢れかえり、中央で警官らが右往左往していた。その様子にフン、と鼻を鳴らす。
「止まりなさい」
振り返った先に、銃口をこちらに向けた碧眼のブロンドヘアーの女が立っていた。いつの間にここまで追ってきたのだろうか、気配を悟らせない動きに少し感心する。
バイクから降り、彼女の方へ体を向けた。
「リースリング。どうして貴方がここにいるのかしら」
拳銃を下ろした女は、ヒールをコツコツと鳴らしながら歩み寄る。
「ジンに貴女がここにいると聞いたの。ちょうどこの街で野暮用があってね。それにしても、これは何の騒ぎなの?」
「あなたには関係のない話よ」
異様な気配を纏う二人の女の威圧感に耐えられず、デッキに出ていた観光客は声を挙げながら船内へと逃げていく。
次の瞬間、左腿にじわりと痛みが走る。デッキに銃弾がめり込んでいるのを確認し、船内から狙撃されたのだと認識する。
キュラソーはデッキにまだ残っていたミルクティーヘアの少女を人質にとると、船内に潜むスナイパーを炙り出した。
「おい、待て! 女の子がいるぞ! それにまだ彼女から指示が出てない!」
「構うか! 相手はあの組織の……うわぁあああ!」
声のした方へ、少女を盾にしたままキュラソーは銃弾を放つ。
「ちょっと! 民間人がいる前で何を」
レオナが制止に入るが、逆に銃を突きつけられてしまう。
「あなたが拳銃を抜くのと、私がこの引き金を引くのと、どちらが先かしらね」
「……」
その時、ガタンと船が大きく傾いた。反動で抱えていた少女が腕から飛び出し、空中へ舞う。
少女が咄嗟に伸ばした小さな手が、キュラソーの首に下げていたペンダントトップを掴んだ。
「……あっ」
体勢を崩したキュラソーはブルワークに激しく叩きつけられる。背中に走る痛みに、思わず蹲った。
投げ出された少女を両手で受け止めたレオナも同様に背中を打ち付け、庇うように倒れ込んだ。
『……怪我はない?』
『うん』
ドイツ語で小さく囁いた後、レオナは顔をあげ、キュラソーの姿を探した。
船内で待機していた捜査官が女を囲んで銃口を向けている。
もう彼女に逃げ場はない。そう確信した瞬間、再び船が傾き、その場にいた男たちがよろめいた。
その隙を彼女が見過ごす筈がなかった。
――水面を叩く音。次の瞬間には、キュラソーの姿は消えていた。
『申し訳ありません。取り逃がしました。こちら負傷者は一名、命に別状はありません。私は、一度ベルリンへ戻ります』
無線を切ったレオナは、デッキの床に散らばった割れたグラスや食器を見下ろし、唇を噛んだ。
――嫌な予感がする。
不穏に鳴り響く警鐘が、どうか思い過ごしであることを願うしかなかった。
その頃、捜査官の一人に保護されたミルクティーヘアの少女は、船内で無事に母親のもとへ引き渡されていた。
母親がトイレに行っている間にいなくなった娘の小さな体を強く抱きしめ、涙を流し続けている様子を、レオナは外から黙って見守る。
母の腕の中で、少女は抜け殻のような表情をしていた。だがその小さな左手の中には、ひし型のペンダントが握られている。その宝物をそっとポケットの中へしまいこむと、ペンダントの持ち主であるあの人のきらきらと光る透明な瞳の色を思い出していた。
沿岸に辿り着いたキュラソーは、人通りの多い道を避けて宿泊していたホテルへ戻った。水を含んだ衣服が肌に張り付き、蝕むように体力を奪う。今すぐにでもベッドへ倒れこみたい欲を抑え、ぼろぼろになったシャツを裂くように脱ぎ捨てると、浴室で全身にへばりついた泥と血を洗い流した。
捜査官が発砲した銃弾は左腿を掠めただけで、女にとっては擦り傷にも満たない。血もすでに止まっている。だが銃を構えた男の表情や仕草、そして自分に向けられた殺意が鮮烈に脳裏に焼きつき、今すぐにでも両目を潰してやりたいという衝動に駆られ、少し吐き気がした。
浴室を出て、備え付けのガウンを羽織る。スマートフォンの電源を入れると、軽快なメロディーとともにいくつかの通知が並んだ。
受信箱の先頭に目をやり、返信ボタンを押して手短にテキストを打つ。ブルル、と端末が震えたかと思えば、画面には今まさに報告を入れようとしていた相手――ラムから着信が入っていた。
「私です。申し訳ありません、例の件はまだ――」
『……入り込んだ鼠は早々に駆除をしなくてはなりませんね』
「は?」
『今すぐ日本へ向かいなさい、キュラソー。話はそれからです』
短く用件を伝えたラムは、すぐに電話を切った。ツー、ツー、ツー、と無機質な音が続く。相変わらず声は機械で変えられているが、普段よりも動揺が混じっているような気がした。途中まで打ちかけたメールを削除し、少しくらいは高層階の窓から見えるこの幻想的な夜景を堪能したかった、などと柄にもないことを思いついては自分に苦笑する。
火を付けたばかりの煙草を灰皿へ押し付けると、トランクから乱雑に着替えを引っ張り出した。
米花町二丁目、二十一番地。
観覧車の事件から二週間。世界中を震撼させた大事件であったにも関わず、今やそれを報道するメディアはほとんどいない。国際的犯罪組織が関与していたという事実も、徹底した情報統制のもと闇へ葬られていた。
『――それって、もう友達なんじゃない?』
事件があった翌日、阿笠邸に仕掛けた盗聴器を通じて耳にした子どもたちの声が、ぼんやりと脳裏に蘇る。
沖矢は淹れたばかりのコーヒーを片手に、工藤邸の一室の扉を開けた。マグカップをモニターの近くに置き、電源を立ち上げる。風が窓を叩くと、カーテンが微かに揺れた。
布越しに外を覗いて、エントランスへと目を落とす。以前は頻繁に路肩へ停まっていた白いRX-7も、最近は姿を見せていなかった。
一度ノックリストが組織の手に堕ちた事実は覆らない。警察庁内含め、各所への対応に追われていることは想像に難くない。もしそのために身動きが取れなくなっているのだとしたらまだいい。問題は、組織内での彼らの立場だ。あのボウヤの機転で、二人は一時的に窮地を脱している。その後のキールからの報告によれば、二人を始末するのはひとまず様子見になったそうだが――
赤井がマグカップに口をつけようとした時、ブルル、と端末が鳴った。
画面に表示されたのは『キール』――組織に潜入中のアメリカ中央情報局諜報員、水無怜奈だ。
阿笠博士が開発したチョーカー型変声機をオンにしたまま、着信を取った。
「赤井だ」
『時間がないから手短に話すわ』
開口一番、キールは早口で捲くし立てた。通信はノイズが酷く、背後からクラクションも混じっていた。沖矢は耳を澄ませた。
『組織が再び動こうとしている。それも三日後――ドイツで開催されるGlobal Innovators Conferenceに潜入するそうよ。どうやらキュラソーが生前関わっていた任務の後処理らしいけど』
「……世界的な技術博覧会と、あの工作員に何の繋がりがあるんだ?」
『そこまでは不明。ただ、ジンの話では組織のナンバー2……ラムが深く関与している』
沖矢は無意識にジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、端末を肩で挟みながら火を付ける。
「ホォー。つまり、大物を仕留めるなら三日後のドイツということか」
『いいえ。行くのは最近、新たにコードネームを与えられた男。名前は確か、――――。それからその同行者のことなんだけど』
吐き出した紫煙が静かに広がっていく。吸い殻が溜まった皿に灰を落とし、左手でマウスを動かしてGICの公式サイトをモニターへ映す。名だたる大企業からスタートアップ、大学研究チームまで、出展一覧がずらりと並んでいる。
『……バーボン。彼もその任務に任命されたそうなの。ラム直々に』
「なぜ彼が?」
『さぁ。キュラソーの一件で、彼も私も一度は疑われた身だから……一時的に疑いが晴れたとしても、中核となるような仕事は降りるとは思っていなかったから、正直耳を疑ったわ』
「……」
『一応、貴方には伝えておこうかと思って。それじゃ』
一方的に通話が切れた。
あのキュラソーという工作員が関与していたとされる任務。それが今回の騒動と何か関係しているのか。あるいは、今回以上の謀略が裏に潜んでいるとすれば――
通話終了を示す画面を、沖矢は眉をひそめて見続けていた。
一、宵闇
白く霞む視界の中で感じる、手のひらの温もりと、優しい声。目を凝らせば、目の前にはっきりと人影が見えた。引き寄せられるように、光に照らされた道を進んでいく。
『――ケンカする子は、お断り』
幼い自分に膝を折って声をかける、先生の姿。
これが夢であることは分かっていた。何度も空想の中で掴み損ねてきた、幻想。
『ゼロ!? どうしたんだ、その怪我……』
『行くぜ降谷ちゃん!』
『ゼロ、舌噛むんじゃねーぞ』
『やるな降谷!』
まるで昨日のことのように、鮮明に映る記憶。名前を呼ぶ同期たちの声。自分の声は聞こえないし、姿も見えない。意識がそこに存在しているだけ。だが、彼らと過ごした日々は、確かにそこにあった。
『私の事は先生と呼びなさい、安室君!』
『安室さん、これ、すっごく美味しいです』
潜入先で目にする、柔らかくゆるやかな日常。僅かなコーヒーの香りと、焦げたトーストの匂い。泡沫の平穏をこの眼に焼き付けるたび、自分が何のためにここに立っているのか、その目的を強く噛みしめる。
『……バーボン』
その名を呼ばれた瞬間、視界は純黒の闇に包まれた。
今、自分がどこに立っているのか、地に足がついているのかすら分からない。
『貴方、最近コソコソ調べてるみたいね』
夢の中にもう一人の自分が現れ、応答する。だが、声は依然として聞こえない。
『ほどほどにしておくのね。貴方、目をつけられてるみたいだから』
電話越しの声が、直接脳内に響く。
これは、観覧車の事件が起きる少し前の記憶だ。なぜ、今これが夢の中で蘇るのか、見当は付いていた。
キュラソーの死後、ノックリストは未来永劫、組織の手には渡らなくなった。今回の件を受け、警察内部でも厳重に処理をされ、データは全て消滅した――はずだった。
もう一人の自分の影が、消える。
残されたのは、意識だけ。
『言ったはずだぞ、安室君』
耳元に響く、打ち上げられた花火の音。
その音に塗れながらも、声だけははっきりと降谷の元へ届いた。
『狩るべき相手を見誤るな、と』
閃光が脳裏を灼くように、それは降谷の心を震わせた。
なぜ。
どうして。
じりじりと開く傷口。汗と硝煙の匂い。
明滅する観覧車のライトアップと、七色に弾ける火花が二人を照らしていく。
『……降谷君』
――蓋をしようとしていた断片的な記憶。耳元に落ちた低い声が、鼓膜を揺らした。
鋭いグリーンアイズが、ゆっくりと近づいて、キスを落とす。
事件で負った傷口を、男は丁寧に避けて肌へと触れる。そんな中途半端なことをするくらいなら、一思いにやってくれた方が、マシだ。
このまま男の首元にナイフを突きつけ、思い切りその喉を切裂くことができたなら、どんなに楽だろう。
どうして。お前は。お前ほどの男が。
渦巻く灰色の靄が、鋭い茨と化して細胞へと浸食する。身を切るような、情念の具象。それが自ら作り出しているものであると分かっている。こんなこと、今すぐに止めるべきだということも。
それでも――その真相を知りたいと願っている自分がいる。
追いかけて、追いかけて、やっとこの手に掴んだ。あの男は、死んでなんか、いなかった。
暴かなければ、きっと、一生後悔するんだろう。
「ちょっとバーボン、早く開けて頂戴」
フロントウィンドウを叩く音にはっと気が付いて、意識が現実へと引き戻される。
暗い地下駐車場に現れた女は、バーボンがロックを外すと、苛立った様子で助手席へと座り、勢いよくフロントドアを閉めた。
「らしくないじゃない。この私を待たせておきながら居眠りだなんて」
「……少々考え事を」
座るやいなや、ベルモットは細長い煙草を咥え、その先端に火をつけた。ぶわりと紫煙を吐き出しながら、薄い鞄からタブレットを取り出し、バーボンへと差し出す。
バーボンは画面に映し出された男のプロファイルに目を落とした。
――サミュエル・パク。茶髪のマッシュヘアに、黒縁の眼鏡。写真の横には居住地や勤務地、家族構成などの情報が詳細に並んでいる。肩書には、システムエンジニアと記載されていた。
「この男を探して頂戴。例のGICに参加するそうよ」
「ドイツですか。……過去に取引のあるエンジニアですね。目的は?」
ベルモットは煙を細く吐き、淡々と告げた。
「ラム直々の指示よ。……この意味が分かるかしら」
バーボンは僅かに目を見開いた。ノックリストの件でかかった嫌疑が、今なお晴れていないことなど分かりきっている。だが、何故このタイミングで。
「なんでも、生前キュラソーが関わっていた任務と関連があるらしいけれど」
「彼女はドイツで何を?」
「詳細まではわからないわ。でも、"裏切り者"にはぴったりなんじゃない?」
「……」
バーボンがベルモットへ視線を向けるが、彼女は既に手元のスマートフォンへと関心が移っていた。
「それと、もう一つ。ドイツ行きは貴方だけじゃないわ」
彼女が表示したスマホには、メールの受信ボックス。本文には、ある酒の名前が打ち込まれている。
「――メスカル。メキシコ原産の蒸留酒、ですか」
「ラムのお気に入りみたいね。組織に入って三ヶ月で幹部昇格」
「ああ、最近よく名前を聞くアレックスとかいう男……そんな話もありましたね。見た目の特徴はレディッシュブラウンの短髪に細身の長身。噂通りだとまだ二十歳前後だと聞きましたが――へぇ、大出世じゃないですか」
「気をつけることね。貴方なら気付いてるでしょうけど」
「つまりは監視役――僕がボロを出す瞬間を待って、ボスに差し出すつもりですか?」
「さぁ……どうかしら」
「それで? 本当にそうだった場合、今度はどんな手でラムの気を引いてくれるつもりなんです?」
「…………」
本当に可愛くないわね、とでも言いたげな表情でバーボンを睨みつけたベルモットは、しばらくして二本目の煙草に火をつけた。
「安心してください。ターゲットの来歴も所在も、分かっているんでしょう。五日もあればお釣りが来ますよ」
もっとも――その彼が足を引っ張らなければの話ですが。
最後に付け加えた言葉を飲み込んで、バーボンは車のキーを回した。
各国の最先端テクノロジーを搔き集めた年に一度の国際イベント、Global Innovators Conference――通称GIC。最新の製品や技術、トレンドを紹介する交流型イベントで、開催からすでに二十年以上が経つ。展示会場周辺は、各国の言語が入り混じったざわめきで溢れ、活気に満ちていた。
バーボンは入場口近くの自販機でミルク入りの缶コーヒーを買い、ベンチに腰を下ろした。長いフライトから解放された身体が、無意識にカフェインを求めている。待ち合わせの時間までは、まだ少し余裕があった。
会場マップをタブレットで確認していると、コツン、と乾いた音がした。視線を上げると、一人の少女が足をもつらせ、コンクリートに膝を打ったらしい。少し血が滲んでいる。
「立てるかい?」
バーボンは少女の手を取り、ゆっくりと膝を折って目線を合わせた。年齢は九歳か十歳ほどだろうか。肩より少し上の位置で切り揃えられた、ミルクティーブロンドの髪。バーボンとよく似たアイスブルーの瞳が印象的で、首にはペンダントが下げられている。
施設の横に市民公園があることを思い出し、バーボンは時間を気にしながら少女を連れて水受けまで歩いた。砂埃を軽く洗い流し、持っていた絆創膏で手当てをする。
「痛いかもしれないけど、これでしばらくは大丈夫。親御さんは一緒じゃないのかな?」
「……」
言語は間違っていないはずだが、反応がない。現地の子ではないのだろうか。それとも何らかの事情で、口がきけないのかもしれない。生気を失っているわけではないが、感情をどこかに置き忘れてしまったかのような、空虚な目をしていた。まるで、見えている世界から色を失ってしまったような。
もう一度、今度は英語で話しかけてみるが、依然として反応はない。
「一人で帰れる? お兄さんは、これから約束があるから」
ドイツ語で話しかけると、少女の瞼が僅かに動いた。気が付けば、ジャケットの裾を遠慮がちに握られている。
やはり、迷子なのだろうか。
裾を掴んでいない方の小さな手で、少女は自分の胸元に下がったひし形のペンダントトップをぎゅっと握りしめた。少女が身につけるには、少し大ぶりである。
「素敵なペンダントだね」
その言葉に、少女の瞳がかすかに揺れる。そして、少し躊躇するように口を開いた。
「……パパに貰ったの」
「そっか。そのパパにはどこで会える?」
「……パパは、ここにいる……けど、会えない」
伏し目がちに、少女は呟いた。
その時だった。遠くから、誰かの名を呼ぶ声が響く。
「エマ! エマ、どこにいるの?」
グレーのコートを羽織った女性が、息を切らして公園の敷地に駆け込んできた。やがて少女の姿に気が付くと、顔面蒼白のまま必死に駆け寄った。少し癖のある、少女と同じミルクティーブロンドの髪が揺れている。
「エマ!」
少女の名前を叫び、その身体を強く抱きしめた。
「無事で本当によかった……怪我はない? まぁ、擦りむいてるじゃない。これは……?」
膝の絆創膏に気が付いた女性が、少女の顔を見つめる。少女は無言のまま、バーボンを指差した。
「……貴方がこれを?」
「たまたま持っていただけです。ここまで自力で歩いて偉かったですよ。ね、エマちゃん」
「…………そうですか。助かりました。……すみません。私たちは、これで」
母親はそう言うと、少女の手を引いた。そしてバーボンに視線を合わせることもなく、逃げるようにしてその場を去った。
「…………」
後ろ姿を目で追っていると、バーボンの背後に、人の気配が訪れた。
――組織特有の、毒を孕んだような威圧感。
「集合は入口前じゃなかったかァ?」
バーボンが感じた空気とは対照的に、軽快な英語が聞こえてくる。ジャケット裏に隠した拳銃の存在を意識しながら、ゆっくりと体を向ける。
そこには、黒のレザージャケットを羽織った背の高い男が立っていた。背丈はバーボンと同じか、わずかに高い。レディッシュブラウンの短髪に、ヘーゼルの切れ長の瞳が鋭く光る。
「あんたがバーボンさん? 初めまして。今日はよろしくな」
「こちらこそ。良い仕事を期待してますよ……メスカル」
「ほぉ……知ってたんか。さすがは組織随一の洞察力を持つ探り屋、と言われるだけあるなァ。まぁ、この名を呼ばれるのは、まだ自分でも違和感があるんだがな」
軽く頭を掻きながら、男は気安い調子で笑った。
――ラムのお気に入りみたいね。
先日、ベルモットが言った言葉が脳裏に浮かぶ。少なくともラムにとって、この男は使える駒であること。勝利を切り拓く鋭利な刃物であると同時に、扱いを間違えれば自らの喉を切り裂く凶器にもなり得る。
次に殺されるのは、自分かもしれない。バーボンは隣の男に気取られぬよう、静かに笑った。
GICの開催場所である世界最大のエキシビジョンセンター・ハノーバー国際展示場は、ドイツのニーダーザクセン州ハノーファーに位置している。総面積はおよそ100万平方メートル。半世紀以上前に建設されたこの巨大施設では、世界的なイベントが定期的に開催されていた。
待ち合わせ相手との合流場所は、入口から少し離れた展示ホールFに隣接するカフェテリアだ。展示はカテゴリごとにホールへ分けられており、多くのエリアでは入場パスが必要となる。だが展示によっては、自由に閲覧ができるフリーエリアも設けられていた。
バーボンとメスカルは、そのフリー閲覧エリアを渡り歩いていた。
ハイテク・アジェンダ・ドイツを軸とした、ドイツ政府による技術推進のための展示プラットフォーム。最先端のエネルギー関連技術、産業用部品が展示ケース内に並び、その傍らでは各企業の営業担当が来場者に製品の説明をおこなっている。
メスカルが何気なく展示ケースへ視線を向けた先に、他の展示品とはどこか系統の違うオブジェクトが置かれていた。
(あれは……)
ピンクゴールドに輝く、ひし型のペンダント。ショーケースの前に置かれた鉄製のネームプレートには、『Global Innovators Conference 開催記念品』と記載されている。
メスカルは、前を歩くバーボンへちらりと視線を向ける。ペンダントに気が付いている様子はない。
「…………」
やがて通路が開かれ、二人はフリー閲覧エリアを抜けたようだった。目的の展示ホールFまでは、あと三つほどホールを越えなければならない。
「疲れたなぁ。ちょっと休んでいかないか?」
メスカルが気怠そうに腕を頭の後ろに回して呟いた。
「何言ってるんです。彼との約束まであと三十分しかないんですよ。そんな余裕は……」
「ここからなら十分弱そこらで着くだろ。あ、ほら。あそこのスムージー、美味そうじゃん」
テイクアウト店を見つけるやいなや、まるで観光にでも来ているかのような行動を取るメスカルに、バーボンは深い溜息を吐いた。メスカルが注文したバナナヨーグルトのスムージーが出来上がるのを待つ間、バーボンはスマートフォンに目を落とす。そこには、これから接触する相手の来歴データが表示されていた。
その時だった。
刺すような視線が、バーボンを襲った。
「…………」
――なんだ、今のは。
「お待たせ。意外とすぐだったぞ。本当にいいのか?」
バナナヨーグルトスムージーを片手に、空いた手でお店の方を指し示すメスカルに、バーボンは呆れたように言った。
「仕事に向かうのに、そんなもの持っていく馬鹿がどこにいるんです。到着するまでに飲み干してくださいね、それ」
バーボンが冷たく言い放つと、再び目的のホールへと歩き出した。
先ほどの視線はなんだったのか。あるいは、気のせいか――。
メスカルの他にも監視が付いているのなら、ここに到着するまでの間に気配を察知していたはずだ。だが、先ほどそれは、監視の視線とはどこか質の違うものだと、本能的に理解していた。
展示場内を流れる生ぬるい空気が、バーボンの頬を撫でた。
展示ホールFのすぐ傍にあるカフェテリアで待つこと十分。やがて、待ち合わせ相手が姿を現した。
「遅くなりました。お電話ではどうも、私がリー・ジーユエンです。本日はよろしくお願いします」
「安室透です。こっちは助手のアレックス・ハワード」
「どうも~! ハワードです。素敵なジャケットですなぁ。フルオーダーですかァ? 高そ~!」
「は、はぁ……どうも」
ぐいぐいと距離を詰めるメスカルに、バーボンは肘で軽く突いた。振り向いたメスカルに視線だけで「下がれ」と伝える。
「失礼しました。それでは、行きましょうか。展示Fでお間違いないですか?」
「ええ、その通りです。あ、会員証……こちらに用意しましたので。今送りますね」
展示ホールFは、関係者のみが入場可能なエリアのため、同行者が必要だった。基幹システムへ不正にアクセスするよりも、今回の出展企業やスポンサーの関係者と接触し、自然な形で潜入する方が、怪しまれにくく効率的だった。
リーから受け取ったQRコードを翳して、入場ゲートを潜る。ホール内は、フリー閲覧エリアからは想像もできないほど、多くの技術関係者や政界の重要人物らで溢れかえっていた。バーボンは目を凝らして参加者の顔を頭に叩き込む。
目当てのブースへ到着すると、リーに代わってバーボンが挨拶を切り出した。
「こんにちは」
ブースにいた営業担当が、にこやかに対応する。
「中国・北京华域视觉科技で、人工知能を用いた映像解析の開発を担当しております。部門長のリー・ジーユエンです。私は、彼の通訳として、同席させていただいています」
「あぁ……! 貴方が! 本当にこの度はお世話になりました。御社の商材のおかげで、ここまで発展することができたんですよ」
男とリーが握手を交わし、軽くハグをした。
「申し遅れました。わたくし、民間病院向け防犯システム開発に従事しております、イージス・ジーヒャーハイト社のダニエル・ホフマンと申します。以後、お見知りおきを」
リー、バーボン、メスカルの順に名刺が渡された。ダニエルが話し終わると同時に、バーボンは内容を中国語でリーへと通訳する。
するとリーが、バーボンの耳元で小さく何かを囁いた。リーが話し終えるよりも先に、バーボンはダニエルに視線を戻す。
「こちらこそ、招待していただいて光栄です。ところで、こちらの展示物は……?」
「まだ未発表のものでして。政府からの正式認可は降りていないのですが、とある人工知能を搭載した防犯カメラシステムになります。うまくいけば、この国での実装が世界最速で決まるとも言われているんですよ」
バーボンとメスカルは、同時に展示されているモニターと、それに接続されたカメラへ視線を向けた。
「リー先生は、いつまでこちらに滞在のご予定で? もし明日まで居られるなら、面白いものが見られると思いますよ」
ダニエルの言葉を聞くや否や、バーボンは即座にそれを中国語へと訳した。リーは目を輝かせ、バーボンに耳打ちする。
(一週間ほどドイツには居る予定です。休暇も兼ねていますから……明日もまたここに来れば、何かが見られるということですよね?)
言葉を紡ぎ終わったリーに対し、ダニエルがバーボンの通訳を待った。
その視線を受け止めながら、バーボンは一度間を置いた。そして、ダニエルにドイツ語で静かに告げる。
「実は、明日の夕方にはフライトが……」
「それは残念」
ダニエルが軽く肩を落とした。
「ところで、サミュエル・パクさんは今回のイベントには参加されているんでしょうか?」
問いかけに、ダニエルの表情が露骨に曇った。その様子に、バーボンとメスカルは違和感を覚える。やがて、動揺を隠すようにダニエルは口を開いた。
「ご存じないですよね。実はサミュエルは……先日事故で亡くなられたんです」
「!?」
バーボンとメスカルが顔を見合わせる。
言語が分からないリーだけが、落ち着かない様子で三人の顔を見比べていた。
「運転中にブレーキが故障して……山岳の急カーブだったものですから、そのまま転落してしまったそうです。彼は、国が掲げる一大プロジェクトにも大きく貢献をしてくれていましたから……本当に残念でなりません」
バーボンは、リーの耳元で囁いた。
(――ダニエルは明日、フィナーレ準備で忙しく、このブースには来られないかもしれないみたいです)
(そうですか……それは残念ですね……)
その言葉を訳すことなく、バーボンは続けた。
「その一大プロジェクトとは?」
「リー先生の会社も出資しているでしょう。ドイツ・ケルンを皮切りに全土に導入される予定の、包括型スマートシティプロジェクトですよ」
ダニエルは声を潜めて、続けた。
「明日の夜、関係者限定のパーティが別館で開かれるんです。主催から聞いてませんか? 確か、リー先生も名簿リストに載っていましたよ。身分証さえ提示すれば参加できます。……あ、でもフライトがあるんでしたね」
その瞬間、バーボンは背後でメスカルに小さく合図を送った。
通訳を待つリーの耳元へ、バーボンはそっと顔を寄せる。
(実はこの後、ダニエルさんは講演会があるそうです。一度この場を離れなくてはならないと。僕らも行きましょう)
(えっ……本当に? それだけですか?)
疑問を向けるリーの言葉を無視して、バーボンはダニエルに向き直る。
「実はこのあと予定がありまして……名残惜しいですが、こちらで失礼いたします。パーティの件ですが、どうにかフライトを調整してみますね」
「本当ですか……! 嬉しいです。お待ちしていますね」
バーボンは半ば強引にリーの腕を引くと、その場を離れた。振り返ると、遠くからダニエルが軽く手を振っていた。
――サミュエル・パクが死んだ。
その男は、今回バーボンとメスカルに与えられた任務における最重要ターゲットだった。結局、詳細は掴めないままだったが、ベルモットの話では、生前のキュラソーの任務と深い関わりがあるそうだ。
それが、まさかスマートシティプロジェクトと関係しているとでもいうのか。
もしそうだとすれば、今回の任務はただの尻拭いでは済まない。背後でより大きな力が働いている可能性だってある。
隣を歩く男――メスカルはどこまで把握しているのか。まずはプロジェクトの関係者を洗い直す必要があるなと、バーボンはそっと端末を開いた。
ハノーバー国際展示場の西口から出る送迎バスに乗って約十分。会場から少し離れた場所に位置する外資系ホテルは、国際イベント時期になると絢爛なライトアップに包まれる。駐車場脇に備えられた噴水の水面には、ラグジュアリーな光が揺れていた。
大宴会場前には、厳重な荷物検査もなく、名前と身分証の確認だけで入場ができた。関係者リストに載っていなくても、招待客に同行していれば名簿に名前を記載するだけで通過可能だ。
万全とは言えないセキュリティの懇親会会場に、バーボンはメスカルと共に到着していた。――正確には、『リー・ジーユエンに変装したメスカル』と、だが。
「おいっ、バーボン! これ、クソ熱いんだけど!? もう、脱いでいいだろ!」
「どこで監視の目が光っているか分かりませんよ。もう少し我慢できないんですか」
念には念を入れ、ベルモットから拝借した特殊3Dプリンターでリー・ジーユエンの変装マスクを作製していた。彼女のような声帯模写の技術はメスカルにはないが、パーティー会場で顔見知りと軽く顔を合わせる程度なら問題ないだろう。万が一話しかけられても、風邪とでも誤魔化せばいい。かつてバーボン自身が使った手だ。
そんな助言もあり、メスカルは肌にぴったり張り付く変装マスクの上から、不織布マスクを重ねて着けていた。
「これじゃあ酒もまともに飲めねーし……」
「そんなに飲みたければ、今すぐその胃に直接穴を開けて差し上げてもいいのですが」
笑っていないバーボンの瞳を見て、メスカルは思わず肩を竦めた。
「おー怖……。そんなに真に受けるなよ、バーボンさん」
リーの顔をした男は、ジャケット裏に手を入れると、煙草を取り出そうとしてそれが自分のものではないことに気付き、舌打ちした。ジャケットだけは本人の物を拝借してきたのだ。
リー・ジーユエンなら今頃、宿泊先のホテルで気絶したまま転がっているはずだ。メスカルに手刀を打たれ、そのまま意識を失った。身分証をくすねたのもその時である。
給仕から差し出されたシャンパングラスを手に取ると、中の泡が静かに立ちのぼった。さっきまで右隣にいたはずの男は、ついに我慢が出来なくなったのか、会場の端まで離れ、不織布マスクを外してビールを煽っている。
バーボンは小さく息を吐き、周囲を見渡した。ステージのすぐ傍に、小さな人影を見つける。小学生くらいの少女が一人、ぼんやりと天井から吊り下げられた大きなモニターを見上げていた。
見覚えのある影に、バーボンは目を凝らした。
――あの子は、もしかして昨日の……
淡いピンクのシフォンドレス。お姫様のようなドレスに、柔らかい髪をハーフアップにしている。首に下げたペンダントを、大事そうに右の手のひらの中に収めていた。間違いない。
また一人のようだ。近くにあの母親の姿は見当たらない。
やがて、会場の照明が落ち、大きな音楽とともにステージ中央のモニターに映像が流れた。
――秩序と安全を外部から守る高機能型防犯システム。人工知能を搭載した特殊な防犯カメラが、あらゆる脅威からあなたの家族、そしてあなた自身を守ります。光りある未来都市は、もうすぐそこに――
ケルンの伝統ある街並みと、建設中のエリア。そして、AIが描き出したかのような不自然なほどに整った近未来都市。
それらの映像が、順番に映し出される。
――あれが、包括型スマートシティの完成図。
音楽が鳴りやむと同時に、会場から盛大な拍手が巻き起こった。再び照明が戻ると、壇上には一人の男が立っていた。
「皆様、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。ケルン地区新都市開発プロジェクトのリーダーを務めております、ネッツヴェルク・シュタット社のマティアス・シュトラールです」
男は、深々と頭を下げた。
「多大なるご支援のおかげで、本プロジェクトをここまで具現化することができました。この場を借りて、改めて心より御礼申し上げます」
その声に、再び拍手と歓声が広がった。
「今夜は未発表情報も含め、皆さまにたくさんの驚きと感動を届けていきたいと思っていますが――その前に。今日は珍しく、僕の家族が来ているんです。簡単に紹介させてもらってもいいかな」
ステージ脇で待機している人影へ、彼が手招きする。すると、息子二人と娘一人が、やや照れくさそうに、もじもじしながら壇上へ姿を現した。高校生くらいの長男に、中学生くらいの次男。そして、最後の一人。バーボンの視線が、わずかに止まる。
それは、バーボンが手当てをしたあの少女だった。
マティアス・シュトラールは業界ではよく知られた実業家だ。その父は、欧州最大の建設企業グループを率いていたヨハン・シュトラール。ヨハンが亡くなる数年前に息子・マティアスが事業を引き継ぎ、現在は総合インフラ企業として手広く運営をおこなっている。父がまだ存命だった頃は、マスメディアにもよく顔を出していた。
その息子が、関係者だけを集めて新プロジェクトのお披露目とは。メディア関係者がいてもおかしくないものだが、ざっと見渡した限りごく一部の関係者とその親族ばかりだ。
マティアスが順番に名前を紹介すると、子どもたちは軽くお辞儀をして、ぎこちなく手を振った。どうやら彼にとって、ここに集まった人間は身内も同然らしい。
子どもたちがステージから降りると、三人は並んで近くのテーブルに腰を下ろした。ほどなくして現れたウェイターが、オレンジジュースを差し出す。
「……それでは! そろそろ本題と行きましょうかねぇ。ステージ中央に注目!」
再び大音量の音楽が流れ、巨大モニターに映像が映し出された。
ドイツ警察所管の防犯カメラの映像だ。そこに映った一人の男性がクローズアップされ、画面の下には顔画像とともに、名前、生年月日、住所が表示された。
次の瞬間、男性の目の前にあったロッカーが開いた。中からカードキーを取り出すと、そのままスーパーマーケットの中へ入っていく。
カメラは男性の動きを追い続ける。食品棚の前で男が立ち止まると、頭上の小型カメラのスピーカーから音声が流れた。
『ハロー。ミスタージェイムズ。昨日は深酒をしてたんじゃない? アナタが昨日購入したリストはこれよ』
ホログラムのディスプレイが現れると、そこには男が購入した食材や飲み物の履歴が、リアル店舗や通販サイトを含め、購入先ごとにずらりと一覧表示されていた。
『それに、肌が乾燥して脱水気味になっているわ。お酒は適量が大事! そんなアナタにおすすめなのは、この100%オーガニック野菜ミックスよ』
次に表示されたのは、男の身長や体重、健康状態に関するデータだった。買い物かごに自動で商品が放り込まれ、男はそのまま無人レジを通過した。備えられた小型モニター付きのカメラが、こちらを見つめている。男が画面を見返して首を縦に振ると、「Payment Sucessful(支払い成功)」の文字が表示された。
――AIを活用した都市開発。この男がやろうとしているのは、防犯カメラと個人情報、いや――個人行動プロファイルとの完全な紐づけか。
映像が終わると、マティアスは再びマイクを手に壇上へとあがった。
「今ご覧頂いた映像は、プロジェクトのほんのごく一部。まだ始まりに過ぎません」
彼は穏やかな笑みを浮かべて、続けた。
「このように、個人の行動パターンとAIのデータ蓄積があれば、人々の暮らしはより豊かになる。都市そのものが、犯罪や災害、そして病気から人々を守る装置になるのです」
そして、少しだけ声を落として、告げた。
「僕の父は、そんな利便性と光ある未来のために、生涯を捧げてくれました」
ヨハンと親交のあった者もいるのだろう。静まり返った会場のどこかから、啜り泣く声が聞こえる。
バーボンはステージから視線を外し、メスカルの位置を確認すると、男は会場の端で相変わらず気怠そうにビールを飲んでいた。特に不審な動きはなかった。
なぜラムが彼にコードネームを与えたのか、未だに見当がつかない。
腕時計に目を落とすと、時刻は十九時を回っていた。サミュエルが関わっていたとされるプロジェクトの全貌は概ね理解できたが、今回の任務と、どう結びつく?
ふと、一つの疑念がよぎった。最近、組織内で頭角を現し始めている、ピンガという男。顔を合わせたことはないが、ラムに腕を買われ、どこかの国際施設に潜入しているという噂だけは耳にしていた。その男が携わっていたのは、確か……
バーボンが思案を巡らせていると、背後に人の気配が近づいた。
視線を動かさないまま、ゆっくりと背後を確認する。
長身の男。ブロンドグレージュの髪。チャコールグレーのコートに、磨き上げられたブラックレザーのオックスフォード。銀縁の眼鏡に隠された瞳の色は、暗がりで確認できない。
――まさか。
そんなはず、あるわけない。
バーボンは昨日感じとった、不気味な視線を思い出していた。
男は背後でオードブルを手に取っていた。きっとただの招待客だ。深く考えるのはやめよう。
「すみません、そこのサラダを取りたいのですが」
「……!」
突然声を掛けられ、心臓が跳ねた。
「……どうも、すみません」
何をこんなことで動揺しているんだと、焦燥が広がる。こんな任務、さっさと終わらせて報告を上げなければ。"せっかち"なあの人にとって、時間の浪費ほど重い過ちはない。
バーボンはシャンパンをグッと一気に飲み干すと、空のグラスをウェイターへ渡した。
サミュエルを知る関係者なら、この会場にいくらでもいる。適当に話を振れば、何かしら情報は引き出せるはずだ。
動き出そうとしたその瞬間、会場の照明が落ちた。辺りは一瞬で暗闇に包まれる。
何かの演出か――そう思ったが、近くにいるスタッフも事態を把握していないようだった。
「どうしたんだ……?」
「停電? やだー」
ざわめきが広がる中、一発の銃声が鳴り響いた。
「きゃぁあああっ!」
どこからともなく悲鳴があがる。やがてステージ中央のモニターが光り、映像が映し出された。
先ほどマティアスが演説をしていたケルンの建設中の再開発エリア。まるでリアルタイムでの中継のようだった。
その直後、映像内の建物の一つが、火を噴いて爆発した。黒煙が立ち上り、上層階から瓦礫が崩れ落ちる。
映像に気を取られている間に、ステージ上に数人の人影が現れた。目出し帽を被った男の一人が、マティアスの娘を脇に抱えている。少女のこめかみに、拳銃が突きつけられた。
ステージ下で、父親が手を挙げたまま膝をついて叫んだ。犯行グループは、そのまま少女を連れて立ち去っていく。
「そんな……エマ、エマ……!」
マティアスは腰が抜けたまま立ち上がることもできず、声にならない声を絞り出していた。中央のモニターでは、なおも燃え盛る建物が映し出している。
その映像を見つめながらバーボンが周囲の様子を伺っていると、隣にいた眼鏡の男が小さく呟いた。
「フェイク映像、ですね」
「…………」
バーボンは正面からその男を見据えた。だが、この暗さでは表情すら読み取れない。
「バーボン!」
どこからか、メスカルの声が響いた。馬鹿、こんな場所でコードネームを呼ぶ奴があるか。心の中で悪態を吐きながらバーボンは静かにその場を離れ、メスカルのもとへ向かった。
「おい、どうなってんだよ」
「さぁ……元々セキュリティ対策は万全とは言えなかったようですが、このタイミングでプロジェクト責任者の娘を誘拐するとは。厄介なことに巻き込まれたものですね」
「悠長なこと言ってる場合かよ……結局サミュエルの手掛かりも見つからねぇし。奴は死んだって一旦報告に帰るか?」
「馬鹿言わないでください。何のためにラムが僕たちを派遣したと思ってるんです? 目的はターゲット確保じゃない。キュラソーがドイツでやり残した任務の後始末だ」
「だから、あの女の任務ってなんなんだよ」
やがて非常用電源が作動し、会場に灯りが戻った。二人の視線の先には、怯え切ったマティアスの姿がある。
バーボンはゆっくり歩み寄ると、刺激しないよう慎重に彼の肩へ手を置いた。
「マティアスさん。大丈夫ですか? まだ彼らが逃げてから、それほど時間は経っていません。きっと目撃者がいるはずです。この一帯は警備で固められています。犯人たちも、まだ会場内にいる可能性があります」
「君は……?」
「リー先生の通訳をしている、安室と言います」
バーボンは、穏やかに微笑んだ。
「実は、私立探偵もしていまして。今日は彼の付き添いでお邪魔していました」
話しながら、バーボンはメスカルへ目配せした。今はリー・ジーユエンであることを思い出したメスカルが、慌てて笑顔を作る。
「あ、貴方はミスターリーではないですか……! お恥ずかしいところをお見せしてしまって……」
バーボンの手を借りて立ち上がったマティアスは、震える膝を軽く叩いた。
「今すぐ、このホテルと周辺地域から地区外へ出ようとしている車両を止めてください。そこで不審な動きがあれば、割り出せるはずですから」
「あぁ、わかった……君の言う通りにするよ……」
マティアスがスマートフォンを操作したその時、ブルルと振動音が鳴った。
見覚えのないメールアドレスからの新着メール。マティアスは一番上の未開封のメールをタップする。次の瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
「……そん、な……」
バーボンとメスカルが画面を覗き込むと、そこには一件の画像データと、短い文章が表示されていた。
画像には、手足を拘束され、口をガムテープで塞がれたエマの姿があった。そして 『計画を中止しろ』の文字。
「まさか、この短時間で外へ!?」
メスカルの声が裏返る。
「この会場から外へ出るまで何キロあると思ってるんだ。そんな魔法みたいなこと……」
その横でバーボンは黙り込んだままスマートフォンの画面をじっと見つめ、静かに眉を寄せた。
*
唇の先が触れたのは、ほんの一瞬だった。口の隙間から、赤井の舌がゆっくり侵入してきたかと思えば、いつの間にか両手を強く絡みとられ、動きを封じられていた。
押し返そうとするが、腕に力が入らない。歯列をなぞられ、舌を吸われる。口内を蹂躙するその感触に、降谷の思考が白く塗り潰されていく。ようやく唇が離れた頃には、息が上がっていた。
「……っ、はぁ、」
「……手をあげて」
赤井の手で脱がせられた降谷のワイシャツは、乱雑に床へと放たれた。衣服の下に隠された素肌には、今なお痛々しい傷跡が残されている。
観覧車の夜、赤井が手当てをした包帯は、もうそこにはなかった。それに安堵のような寂寥のような、言葉にできない感情が赤井の中で湧き上がる。
横たわる降谷の肌に、赤井の手がゆっくりと触れた。
首筋を甘く噛まれ、そのまま唇が鎖骨へと落ちる。さらに滑るように胸へ、腹へ、臍へと辿っていく。焦れるような感覚に、思わず腰が僅かに揺れた。
「…………っ」
ベルトのバックルが外されると、そのままスラックスと一緒に床へ落とされる。赤井は下着越しに降谷のペニスを手の中に収め、ゆっくりと上下に動かし始めた。
「……おい、何やって……」
「大丈夫だ。君はこのまま身を任せていればいい」
「ふざける、な……やめ、ろ、って……あぁっ!」
ペニスを弄られながら、乳首を噛まれ、思わず甘い声が出た。乳輪を舌先で刺激されると、鼻に抜けたような声が零れてしまう。赤井の身体を押し返そうとするが、片腕を掴まれてしまい、そのまま手首を引かれ無理やり下半身へと導かれる。
「自分で、できるか?」
「なっ……!!」
赤井に自分で弄るように促され、言われるがままに手を伸ばす。すると、ペニスを包み込んだその手の上から、赤井の手が重なった。
「いい子だ」
再び口付けが落とされたかと思うと、厚い舌が口内へと入り込んできた。同時に、赤井の手が重なったまま、ペニスを握る降谷の手の動きを強引に早める。途端に、猛烈な快楽が押し寄せてきた。
「……ンッ……ハァ……」
「我慢しなくていい。もっと声を聞かせてくれ」
「んなこと……、できるか! ……あっ」
「怖がるな。そのまま、息を吸って」
「……うぅ、あっ、や……ぁ、あぁあっ!」
無意識のうちに、降谷はベッドの上で膝を立て、脚を大きく開いていた。
「……っ……あか、い……」
「ん?」
「……直接が、いい……」
「……あぁ、気が利かなくてすまなかった」
降谷の下着をずらすと、透明の糸が細く光を引いた。先端の粘膜をぐるりと撫でまわすと、降谷の口から嬌声が漏れる。
「あああッ! ……ン……も、やっ……ひ……」
赤井は空いている手で乳首を押し潰した。快楽に耐え切れず、降谷の腰が揺れ動く。頬は紅潮し、懇願するような熱を帯びた視線が赤井に向けられていた。そんなことで高揚している自分に気が付き、赤井は心の中で悪態を吐いた。
降谷の口を塞ぎ、ペニスを弄る手の動きを速めた。捕食するように唇を深く重ねていると、不意に降谷の身体がびくりと跳ねた。