総合庁舎内の大会議室に集められた警察官らは、大きく映し出されたスクリーンを前に、神妙な面持ちでスピーカーに耳を傾けていた。
「――以上が、現時点における国際研究チームによる見解だ。世間的な公表は数年先になるかもしれないし、明日にでも必要になるかもしれない。こればかりは全容が掴めていない以上、流動的に判断していくことが求められる。定期連絡は特にないものだと考えておいて欲しい」
「発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「万が一、警察内部で発症者が出た場合はどう対処すべきでしょうか?」
張り詰めた空気の中、降谷の部下の一人が発言する。なかなか肝が据わっているな、と横目見る。
「関係者内で発症者が出た際には速やかに報告をあげてもらい、身体検査を行う手筈になっている。検査の結果によっては、一時的に特別研究施設への受け渡し、身柄の拘束を行う場合もあるが、軽度の場合は月一の検診であとは様子見となる」
議論になっているのは、ジンを含む幹部たちを捉えた少し前から世界各国で少しずつ感染が広がっていた未知のウイルスに関する事象だった。
まだ日本国内では報道規制が敷かれ、公安含め事情を把握している人間はごく僅か。症状には個人差があるが、いずれも初期は吐き気や高熱を催し、二日~三日もすれば回復の兆しがみられる。厄介なのは身体的な不調よりもむしろ、副産物として非科学的な異常現象が慢性的に発症するという点。
例えば、相手のことをじっと見つめただけで次に発する言葉を予測できてしまう。あるいはスマートフォンを手に持っただけで考えていることが画面上に文章として打ち込まれてしまうなど、いわば『超常現象を引き起こす能力』が備わってしまうのである。
各国の機関が集結して作られた国際研究チームが原因究明に努めているが、何が発端なのか、どのような人間が発症しやすいのか、傾向すら掴めていない。
そして危惧すべきは、他者へ致命的な危害を与えうる異能が国内で発見された場合だ。現時点ではそのような異能は報告されていないが、それも時間の問題だろう。
国際研究チームの研究員の話によれば、特異の「程度」によっては平然と非人道的な実験を行うとも言いかねない口ぶりであった。このご時世、そんなものが許されていいはずがない。
質疑が終わり、各自解散となると、自席に戻る部下たちを横目に降谷は休憩室へ向かった。二時間も拘束されていた上に、今日は朝から何も食べていない。乾いた喉を一刻も早く潤したかった。
がちゃり、と扉を開けると、思いもよらぬ人物が視界に入り、「げ」と苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。
「久しぶりだな、降谷君」
端末に視線を落としていた赤井が、降谷の存在に気づいて顔をあげた。片手には缶コーヒー。全身をまとう黒い服装は相変わらずで、目の下には深い隈が目立つ。
「……どうも」
それだけ言って、降谷は赤井の目の前を通り過ぎ、自販機の並びに目を向けた。背中に刺さるような視線を感じたが、振り返ることはしなかった。
ガコン、と音が鳴る。七月の猛暑日だというのに、補充されたばかりだからなのか、取り出したミネラルウォーターは妙にぬるかった。なぜか冷房が切れているこの部屋の温度も相俟って、あまり気分が良いとは言えない。
ちらりと横目見ると、視線の先にいた赤井の姿は消え、いつの間にか降谷の背後に立っていた。思ったよりも顔が近かったので、無意識に身を引く。
「びっ、くりした。なんなんですか急に……」
「久しぶりに君の顔を見たなと思って。少し痩せたか?」
「別に……大きな変化はないと思いますけど」
深緑の瞳にじっと見据えられ、居心地が悪さから降谷はふいと視線を逸らした。
ここ数日、まともな食事が摂れていないのは事実だ。組織解体の後処理に、新設された特異対策本部との連携。充分に休む間も取れず、珍しく熱まで出した。濃い隈が目立つこの男に指摘されるのは少々癪ではあるが、人間の資本である食事を疎かにしている自覚は降谷にもあった。
「……今夜の予定は?」
「どういう意味ですか」
「食事に行かないか」
思いもよらない提案に、動きを止める。
「僕と? 赤井が?」
「君なら知っていると思うが、ちょうど一昨日戻ってきたばかりなんだ。日本食が恋しくてね」
「そんなの、気の置けない方たちと行ってくればいいじゃないですか」
つい、愛想のない返しが口からこぼれる。
「それは誰のことを言っているんだ」
「……」
無言を貫いていると、無造作に千切られた紙切れを渡される。
「その気になったら連絡してくれ」
「ちょっ……!」
飲み干したコーヒーの空き缶を回収ボックスに投げ入れると、赤井は一瞬だけこちらを見て、軽く手をあげるとその場を後にした。取り残された降谷は、手の中に収まった紙切れをぽかんと見つめる。そこに書かれた番号を瞬時に記憶してしまう自分が、ひどく憎かった。
いまさら、赤井と二人で何を話すというのか。
――すぐに結論づけなくていい。ただ、君だけを一人にしておけない。
頭の中で、何度も反芻した言葉。今でも、その言葉の意味を落とし込めずにいた。胸中に渦巻くのは、晴れやかとは程遠い感情。これ以上、僕の人生に土足で踏み込まれては困る。
感情を剝き出しにして、恥ずかしくて死にたくなるほど心を晒されて。あの男に当たり散らかしたばかりだというのに。
あの日の出来事を清算したあとでも、なお目で追ってしまうのはどうしてなのだろう。深入りすれば、取り返しのつかないことになるのは分かっている。それでもなお、あの男のことを知りたいと思ってしまうこの感情は何なのだろう。
渡された紙切れを見つめながら、降谷は静かに靴音を鳴らした。
警備網が張られた永田町に、初夏の鋭い日射しが容赦なく降り注いでいた。アスファルトに蓄えられた重い熱が大気へ滲みだし、捜査官たちの体力を蝕んでいく。
警視庁公安部の刑事らが切迫した面持ちで配置につく中、今回の作戦には加えられていないはずの人物が一人、ビルの前で佇んでいた。
灼け付くような気温の中でも、その暑さを一切感じさせない端然とした姿。首もとまで緩みなく締められたシャツに、皺ひとつないグレースーツ。ネイビーブルーを基調としたソリッドタイの光沢が、品の良さをより一層引き立てる。
太陽すら魅了してしまうほどの燦然と輝く柔らかな金糸が揺れ動くたび、視線を向けずにはいられない。しかし、追いかけていたと思えばいつの間にか視界をすり抜けてどこかへ消えている――それが降谷零という存在だった。
「降谷さん、これを」
現場にいた刑事の一人から差し出されたタブレットに、降谷は目を落とした。
「そうか、わかった。これから庁舎へ戻るが、何か動きがあればすぐに報告を」
画面に表示された内容を確認し、すぐに踵を返した。
愛車を停めていた地下駐車場まで辿り着くと、ボンネットに黒い猫を見つける。小柄だが、手入れされた滑らかな毛並みを見るに野良ではなさそうだ。どこからか迷い込んだのだろうか。
そっと抱きかかえると、見た目以上のしっかりした重みが腕へのしかかった。澄んだグリーンの瞳にじっと見つめられる。
同じ色の瞳を持つ男の存在を、嫌でも思い出してしまう。黒い靄のような感情が胸中に湧き立って、澱みとなって沈んでいく。一刻も早く忘れたいのに、記憶の中の男の眼差しがしつこく脳裏に焼き付いて離れない。子猫の瞳を見つめながら、降谷の表情はどこか遠くをぼんやり眺めているように曇っていく。
赤井が帰国する前に、最期に残したあの言葉。深い意味などないはずなのに、どうしてこれほど縛られているのだろう。
あの男とは、あれ以来会っていない。向こうも各国との調整などで多忙を極めているようだった。長年追っていた巨悪組織が事実上壊滅したことは、世界的にも大きな波紋を呼んでいる。合同捜査会議で遠くから目を合わせることはあっても、言葉を交わす機会はなかった。
しばらく猫と目を合わせた後、驚かせてしまわぬようゆっくりと地面へ降ろした。逃げるように降谷の腕の中から飛び出し、距離を取る。その様子をしばらく見つめていると、猫は一度だけ振り返った。
そう、そのくらいの距離でいい。僕のことを見るのは……。
黒猫が出入口の方へ姿を消していくのを見届け、気を取り直して愛車のドアに手を伸ばした――はずだった。
目の前にあるはずの車体が、どこにも見当たらない。
先ほどまで見ていたはずの光景が、忽然と消失していたのだ。代わり視界を塞いでいたのは、黒く、ごつごつとした巨大な壁。
反射的に辺りを見渡すと、遠方には他の車が普段通り並んでいる。そこが駐車場であることには変わりなかった。では、自分の車はどこへ?
足元に視線を落とした瞬間、背筋を冷たいものが走った。
何度か目を擦ってみても、その違和感は消えない。
出入口へと一歩踏み出したその途中で、声をかけられた。先ほど挨拶を交わした警備員だった。四十代半ばほどの強面が、真っすぐこちらを見据えている。
「おいおい、こんなところに居ちゃダメじゃないか」
視線が合った瞬間、表情がふっと緩んだ。普段の怪訝な顔からは想像できないほど温厚な笑み。
次の瞬間、身体が宙に浮いた。脇を掴まれ、そのまま持ち上げられる。
予想だにしていない展開に、言葉を失った。
それ以上に理解ができないのは、振りほどこうとしても、腕がびくともしないことだった。いくらガタイがよかろうと、特別な訓練もされていない中年男性に降谷が力で劣るはずがないのに。
警備員は軽々と降谷を持ち上げたまま、出入口のスロープをあがっていく。必死に身体を捩じり動かして抵抗をするが、状況は変わらなかった。
「落ち着きのない子だねぇ。この辺の子かい? えらい綺麗な毛並みをしているねぇ」
まるで子どもをあやすような口調である。
降谷の声による抵抗が、まるで届いていない。
地上へと近づくと、光が差し込んだ。強烈な眩しさに、思わず目を瞑る。
しばらくして、ゆっくりと瞼を上げた。いつの間にか、駐車場の外へと戻されていた。
「ほら、着いたよ。もうこんなところ入るんじゃないぞ」
ようやく警備員の手から解放される。自由の身になった降谷は、すぐに距離を取った。近くのビルには、広々としたテラス席が隣接した飲食店がある。その窓に映った自分の姿を見て、息を呑んだ。
真っ白に輝く柔らかな毛並みと、大きく見開いたアイスブルーの瞳。反射ガラスに映っていたのは、そんな子猫の姿と中年の警備員だけだった。
*
「……遅くなりました」
ショートメッセージで伝えた時間よりも十五分は早く到着していたはずなのに、指定された場所に佇む男の姿を確認し降谷は眉を寄せた。長い脚を持て余し、片手をポケットに入れたまま端末を操作をしていた男は、降谷の気配に気が付くとこちらへ顔を向けた。
「俺も今来たところだ。仕事は大丈夫だったのか」
「急用はなかったので、あとは部下に任せてきました。……すみません。お店の場所、特に考えてなくて」
この男の前だといつもこうだ。気まずくなり、ふいと目を逸らす。
「気にしなくていい。乗ってくれ、実はもう予約してあるんだ。ここからそう離れてはいない」
そう言いながら赤井は愛車の運転席へ乗り込んだ。
赤井に促され、フロントドアに手を伸ばした降谷は助手席へ乗り込む。重厚なレザーの香りと、煙草の残り香が広がった。
無言のままシートベルトを締めれば、座席が左右から体を包み込まれているような感覚に陥り、落ち着かなかった。エンジンからまるで鼓動のような重低音が全身に伝う。シート越しに主張されるV8の存在感。自分の心臓の音が大きくなっている気がするのは、この振動に共鳴しているからに違いない。降谷はそう思うことにした。
パワーウィンドウ越しに見える東京の夜の光が、降谷の虹彩に吸い込まれ碧の色を変える。赤井との間に流れる静寂は、少しばかり居た堪れないけど、想像していたほど悪いものではなかった。
赤井が予約をしてくれていたお店は、格調高いわけではないが料理の質には定評があった。降谷も仕事で何度か利用したことがある。
お店の中央には囲炉裏が据えられており、串に刺した魚や野菜など色とりどりの食材が焼き上げられていた。小さく爆ぜる炭の音と香ばしい匂いが、空腹を刺激する。
賑やかなカウンター席を通り抜け、案内されたのは温かみのある木材を基調とした個室だった。
運転がある赤井に遠慮して烏龍茶を注文しようとしたが、「俺のことは気にするな」と逆に気を遣わせてしまい、渋々降谷はビールを注文した。
「貴方がこういうお店を知っていたなんて意外でした」
「知人に教えてもらってな」
テーブルの端に置いてあった灰皿をどうぞ、と差し出す。赤井は少し考えた後、ジャケットからシガーケースを取り出した。
「君とは一度こうして周囲を気にせず話してみたかったからな。あの時君に伝えた通り」
「……」
このデリカシーのなさ。一番触れられたくない話題から入ってくるか、普通。
じわりと居心地の悪さが膨らむ。
沈黙を破るように、店員が個室の扉を開けた。注文した品がテーブルに置かれていく。
「スターリング捜査官やキャメル捜査官はお元気ですか。討伐作戦以来、直接はお会いできてませんが」
当たり障りのない話で場を繋ぎながら、届いた料理に箸を伸ばす。
「実は俺もあまり顔を合わせていなくてな。今日、君のところにも来ただろうから知っているとは思うが、例の」
箸を持っていた手が止まった。
「国際研究チーム……と、何か関係してるんですか」
公安へ正式に情報が降りる頃、FBI側にも通達があったとは聞いていた。赤井の方からその話題を持ち出すということは、すでに米国側でも何か動いているのだろうか。
「あの件で、こちらの体制も変わり始めている。対策本部……いや、捜査機関そのものの新体制が組まれようとしている」
「別に貴方たちの管轄じゃないでしょう、パラビッドは」
「パラビッドか。向こうの報道機関がよく使う名称だな。日本ほど規制は厳しくないから、一部の発現者の間では既に認知されている」
「発現者同士が独自のネットワークを築いて、情報を共有している……というのは想像できますからね。国内では感染者がまだ出ていませんし、施設関係者と一部の警察官しか知り得ませんが……それが何か?」
赤井は軽く煙草の灰を落とすと、間を置いてから続けた。
「……仕掛けていた盗聴器からたまたま彼らの会話を拾ったんだが……例のパンデミックは別名があるらしい」
盗聴器、という単語に思わず降谷は眉を寄せたが、続きが気になったため不問とした。
「強いアクセントのフランス語で妙に早口だったが、SSIDという単語が聞こえたのは確かだ」
その言葉を聞いて、降谷の中で釈然としていなかった疑念がはっきりと形を持った。見開かれた瞳孔が、赤井の顔を真っすぐに見つめる。
「……その表情は、君も同じことを考えていたようだな」
「ええ。でもまさか……第一の発現者が確認されたのは、僕たちが討伐作戦を決行するよりもずっと前のはず」
「あの時期から人為的な操作があったのかもしれないな。確証はないが」
「一旦はその線で調べてみるしかなさそうですね」
箸を置き、端末に手を伸ばした。警察庁内のデータベースへとアクセスする。
ふと、降谷は手を止め、視線を眼前の男の方へと移した。
「……貴方まさかこれを伝えるために?」
「それもあるが……単純に君と食事がしたかったんだ。君の考えも聞きたくてね」
試されているような眼差し。こちらの内側を覗き込まれているようなばつの悪さ。組織に居た頃からずっと気に入らなかった。
一方で、その冷静な判断力と鋭い推察力が生み出す一歩先に触れられる赤井との会話は、複雑にも降谷の心を刺激した。
「……貴方の周りに、発現した人が?」
「いや、幸運にも身近には出ていないな。被検体がいないから不運と言った方が正しいか」
「被害に遭った方をなんだと思ってるんです。まあ、検査結果は関係者内でも限られた人間にしか共有されませんし、仮に発症しても他人へ話すのは禁じられてますからね。特に検査結果が重症であった場合、なおさら」
それは降谷自身にも、同じことが言えた。
あれ以来、猫へと変化する超常現象は起きていない。感染経路もわからなければ、異能の種類すら不明。
現時点で軽症だった場合でも、数日後、数ヶ月後には症状が悪化する恐れだってある。そうなったら最後、あの胡散臭い研究所で何をされるのか――あまり想像はしたくない。
親しい間柄であっても、その事実を口にするなんて火の中へ自ら飛び込むようなものだ。
「現段階では、あくまで自然災害としての扱いです。こちらの専門でもなければ正式な管轄でもない。まぁ、貴方が想像している通りの事態なら話は別ですが」
感染者の来歴傾向等の基礎情報ですら共有されていない。いや、正確には情報を伏せられているだけ、なのかもしれない。実体を掴めていない以上、あの現象について赤井に話す訳にはいかなかった。
「僕の口から伝えられることには限界があります。それでもよければ、定期的に情報交換をしませんか」
「ホォー……まさか君の方からそんな乗り気になってくれるとはな」
「貴方の仮説が正しければ、彼らは日本警察と米国側に異なる情報を伝え攪乱させようとしている可能性がある。正式に合同捜査なんてすればその時点で目を付けられて終わりでしょう。僕たちが想定している証拠には到底辿り着けない」
店内は活気に満ちているのに、その空間だけは異様に冷え切っているように感じた。
「ただ、一つ条件があります」
「条件?」
「あくまでこれは個人的な探求心からの調査ということにしてください。でなければ僕にも疑惑がかかることになる」
この話の影響がどこまで及んでいるのか。それを確かめてからでないと正式に動くことはできない。
「…………」
それに、赤井がどういう意図でこの話を僕に持ち掛けたのか、いくつか検討はつくが、決定打が見当たらない。
赤井なら独自ルートで日本国内の感染状況を割り出せるだろうし、仮にそれを知ったところでどう利用するつもりなのか。
もし万が一、これが自然発生的なものではなく、組織が関与している事案だとしたら。彼らの意志を継ぐものがいたとすれば。
降谷が潜入していた時期から、水面下で何かが動いていた可能性もある。組織が医学会を裏で牛耳り非人道的な実験や薬の開発を繰り返していたのは言うまでもないが、『超常現象を引き起こす薬』なんて聞いたことがない。
赤井が何を知っていて、何を隠しているのか。そこが明らかになっていない以上、野放しにするのは危険だ。
「それは構わないが、俺からも一ついいか」
*
それからずっと、赤井を思い出すこと自体、避けていた。
……あの日までは。
好奇心に抗うことはできなかった。赤井との情報共有は、嫌いじゃない。ましてや、子猫としての自分を扱うあの手が、あんなにも温かくて優しいものだとは思わなかった。
欲しい、と思ってしまった。その時点で、降谷の敗北は決まっていたのだ。
そうであるにも関わらず、赤井に黙ってその優しさだけを享受しようとしていた。その事実が情けなくて、恥ずかしくて、もうどうしようもない。
「……なんで君が泣くんだ」
「え」
重力に従って頬を滑り落ちた涙の粒を、親指でそっと拭い取られる。気づけば、赤井に押さえられていた拘束が解かれ、自由になった手がそのまま赤井の体温に包み込まれた。
僕はこの温度を、知っている。
再び距離が近くなって、まるでそうすることが正しいことであるかのように、自然と引き寄せられた。
静かに目を瞑って、その唇を受け入れた。柔らかな感触を味わいながら、やがて腔内が蹂躙されていく。唇を離されては、またすぐに触れ合う。離れるタイミングで少しだけ目を開けて、お互いの表情を確かめ合った。確かめたはずなのに、キスに応じるのに必死で、赤井がどんな表情をしているかなんて分からなかった。
互いの唾液を交換して満足したのだろうか、赤井は口の端をあげた。それからまるで犬のように舌の先で唇をしつこく舐められた。これではどっちがペットなのかわからない。降谷も別にペットになった覚えは無いのだけれど。
指と指を絡ませ合い、諦めたように赤井を受け入れる。鳴りやまない心臓の音が、どうかこの男に聞かれていませんように。
唇が首筋に移動し、ぞわりと身体が疼いた。じゃれつくように顔と首にキスが降り注ぐ。恥ずかしいけど、不思議と少し気分がよかった。
「……っ!」
緩く立ち上がった中心部に赤井の手が触れたことで、思わず声が漏れる。
「降谷君、勃ってる」
「うぅ……言うな」
睨みつける降谷の顔にいつもの威勢はなかった。キスのせいか、早く触れて欲しいとばかりに目を潤ませ、頬が朱く染まっている。
次の瞬間、硬い何かが降谷の下半身に触れた。
「心配しなくていい、俺も同じだ」
衣服の上からでもわかる赤井のそれは、存在を主張するかのように硬度を増していた。
あの赤井秀一が、僕とキスをして、興奮している。
とうにキャパシティは超えていたが、これ以上どうしろというのだろう。怖い。でもその先を知りたい。そんな矛盾した感情が共存する。
「理解」していなかったことが鮮明になっていく感覚が怖かった。知れば知るほど、目を背けてしまいたい、いっそこのまま逃げ出して、赤井に絶対見つからない地の果てまで飛んで行って、どこかの地下室で籠城していたい、そんな気持ちになる。
認めたくない。認めない。認めたい。
赤井は降谷の下着に手をかけ、ゆっくり膝まで下ろした。冷たい空気が直接触れ、膝を擦り合わせる。
キスをしただけだというのに、降谷の屹立からは透明な糸が引いていた。局部だけ晒され、じっと見つめられている。
赤井は慣れた手付きで聳え立った剛直を取り出すと、降谷のそれに重ねて見せた。……凶悪すぎる大きさだった。
降谷が驚いていると、赤井は両方をまとめあげ、ゆっくりと扱き始めた。全身から血液が集まっていくのを感じる。亀頭を親指でぐちゅぐちゅと撫でられ、卑猥な水音が部屋に響き渡り、耳を塞ぎたくなった。
ただでさえ凶暴なサイズだというのに、次第に膨張していくそれを見て降谷はごくりと唾を飲み込む。自然と腰が揺れ動き、呼吸が浅くなっていく。
「……ん、……っあ」
カーテンの隙間から漏れた陽射が、明るくベッドを照らす。これでは、完全に行為が丸見えだ。目を瞑っていればいいものの、視線を離すことができない。
「……んうっ、あ、……っあ、あ……」
全身が心臓になったみたいに脈が速くなる。ふと赤井の方を見れば、降谷の顔をじっと見つめていた。余裕のない獣のような目で今にも犯されてしまいそうな、ゾクゾクする感覚が降谷の背筋を駆け抜ける。
「……すごいな、溢れてくる」
「……っ! ……だから、黙っ、……ぁ!」
赤井が倒れこむように降谷の顔の横に腕をついたかと思えば、唇の前でキスを待った。無理やり舌を入れるようなことはせず、あくまで降谷の許しを待つ飼い犬のように、顔を近づけてはその時を待っている。首に腕を回して唇を薄く開き、赤く果実のような舌を覗かせると、それを承諾と取った赤井は吸い付くように口付けを深めた。口腔内が性感帯になってしまったのではと錯覚するほど、舌が這うたびドクドクと脈を打っていく。
「……んっ、ん! んんっ!」
呼吸が苦しい。唇が離れた瞬間を狙って酸素を取り込もうとするが、そんな隙も与えることなく濃密な口付けが交わされていく。
いつしか食べられてしまうんじゃないか。そんな不安すら過る。麻薬のような快楽が降谷の思考を堕落させていく。これ以上、気持ちよくなったらどうなってしまうんだろう。
射精感が近づき、軽く赤井の肩を押した。
「も、もう、いいから、離れ、て」
「何故? こんなによさそうなのに」
「このまま、続けたら、イッちゃ、あ、あ」
「見せてくれ、君がイくところ」
「……ん、や、無理、ぜったい……、あ、んっ」
降谷の頬に、触れるだけのキスが落とされる。小さく音を立てながら、何度も繰り返された。ありとあらゆる部分が敏感になって、赤井が触れる度に仰け反るように身体が跳ねる。
「かわいい。降谷君」
耳元でぼそっと囁かれたその言葉のせいで、降谷はあっけなく射精を迎えた。
ぽたぽた、と粘度の高い白濁が褐色を汚していく。勢いを失っていく降谷の屹立に対して、赤井のそれは未だ臨戦態勢を保っていた。
「後ろを向けるか? 楽にしてていいから」
「ふ、うん……? うん……」
うつ伏せになるよう赤井に言われ、くるりと身体の向きを変える。四肢を投げ出し息を整えていると、臀部に赤井の息が触れた気がした。
お尻にチクりと痛みが走る。確認をしようにも、赤井に体重をかけられていて振り向くことができない。いや、でも、もしかして。もしかしなくても、こいつ……!
左右に一か所ずつ甘噛みをされ、双丘の境目に優しくキスが落とされる。尾骶骨からゆっくりと降りてくる感覚。脳が溶け切ってしまっている今の降谷には、されるがまま快楽を享受することしかできなかった。
厚みのある舌が、割れ目をゆっくりとなぞる。無理やりこじ開けるようなことはせず、まるで傷口を舐められているような、ふわふわとした感覚が尾を引いていく。
これ以上はダメだと頭ではわかっているのに、降谷は抵抗する術を持ち合わせていなかった。
*
半月切りのレモンが沈むアイスティーが、からんと微かな音を立てる。薄く色のついたサングラス越しに本へ視線を落としていた降谷は、待ち合わせ相手の存在に気付くとそっとページを閉じた。
「……失礼ですが、安室透さんでお間違いなかったでしょうか」
声をかけてきた女性は、つばの広いキャペリンを被り、淡いオフホワイトのワンピースを揺らしていた。降谷と同じようにサングラスをかけているが、その仕草やたたずまいには、どこか繊細な緊張が滲んでいる。
「はい、僕が安室です。種崎マリアさん、ですよね?」
降谷が席を立つと、種崎は安堵の吐息を洩らした。サングラスを外すと、胸に手を当てて微笑んだ。
「初めまして。種崎と申します。本日はどうぞよろしくお願いします」
ちょうどそのタイミングでウェイターが現れ、種崎は「彼と同じもので」と注文をする。黒のエナメル素材のハンドバッグから身分証を取り出し、両手でそっと差し出した。
「念のため、ご確認いただければ……伊藤さんから伺っていましたが、実を言うと半信半疑で……来てくださって本当に嬉しいです」
赤く彩られた唇が弧を描く。降谷が想像していたよりも華美な印象の女性だったが、言葉遣いは丁寧で、礼儀正しさが滲んでいた。伊藤とは、降谷と種崎の共通の担当医である。今回二人を引き合わせたのもその人だった。
「こちらこそです。同じ境遇の方にお会いできるなんて、僕にとってもありがたいことです。ところで、お店はこちらで勝手に決めてしまいましたが、問題なかったでしょうか? もし周囲が気になるようでしたら、個室へ移動することもできるのですが」
「いえ、ここで大丈夫です、お気遣いありがとうございます。それにしても、素敵なお店ですね」
カラフルなランプやモロッカンスタイルなカーテンで彩られた店内は、少し薄暗くエキゾチックな印象を与えていた。夕方からバータイムに切り替わるのだが、この時間はまだ客入りが少ない。降谷が予約した席は半個室仕様になっておりオープンではあるものの、よほどのプロでもない限り会話を盗み聞くことは難しいだろう。
お待たせしました、とウェイターが彼女の目の前にアイスティーを差し出す。種崎は添えられたミルクを流し込むと、ストローでゆっくりと混ぜ合わせた。
「御食事はどうされます? まだでしたら、ご一緒にいかがですか」
「ええ、実は朝から何も食べていなくて、お腹ぺこぺこで」
種崎の表情が少しばかり明るくなる。メニューに載っていたおすすめを三つほど注文すると、降谷は目の前の女性に体を向き直した。
「単刀直入に伺います。種崎さん、あなたの異能は小動物への変化。そう聞いていますが、間違いないですか?」
「はい。厳密に言えば小動物全般というよりも、猫の姿になれる、と言った方が正しいかもしれません」
降谷が担当医から聞いていた内容と一致している。つまりこの人は、自分と全く同じ特異を、あの感染症によって引き起こしている。
相手を刺激しすぎないよう、降谷は言葉を慎重に選ぶ。
「それは、いつから? そうなる前に、何か兆候などはあったのですか」
種崎の視線が揺れた。動揺を隠すようにアイスティーに口を付けて一気に飲み干し、グラスの中で氷がからんと鳴る。白く不健康そうな肌がぶるりと震え、祈るように両手を前で重ねた。
「……そう、ですね。ちょうど半年ほど前でしょうか。キッチンの戸棚からグラスを取ろうとして、踏み台に乗った時でした。手を伸ばした瞬間、視界が霞んで、目の前がぐらついて……気が付いたら、もう異変が起きていて。倒れた表紙にグラスが床に落ちて割れて、足を少し切ってしまって……」
それが、種崎が第一に感じた恐怖だと言う。種崎の話は続いた。
「怪我は大したことなかったのですが、精神的に参ってしまいまして。これが大きな事故に繋がったらどうしよう、と。検診で医師に相談したらクリニックを紹介されて、薬を処方されるようになりました。ただ、気分の浮き沈みがひどくて」
グラスが空になったアイスティーを、ストローでからからと掻き混ぜる。降谷が追加の注文を勧めると、首を横に振って冷水を口へ含んだ。
「……お付き合いをしている男性がいました。研究所からは他言無用だと言われていたので、彼にも言い出せませんでした。でも、彼の前で変異してしまったらどうしようって……ずっと怖くて、眠ることができなくて。幸い、今までは一人のときだけだったのですが……」
「変化が訪れる前に、何かを感じ取ったりはしなかったのですか?」
「特には。なんの前触れもなく、唐突に。自分がどうやって元の姿に戻ったのかも、記憶にないんです」
異能の種類は同じでも、発現する前後の症状には個体差があるということなのだろうか。
「ある日、彼を自宅に招いた時。……こんな場所で話すような内容ではないですが、その、ベッドの上で。彼に抱かれている最中に、突然、起きてしまって。……彼からすれば、抱いていた女が突然いなくなって、変わりに子猫だけが残されているわけですから。気味が悪いですよね」
「…………」
「化け物だって罵られて、彼は部屋を出ていきました。彼に会ったのはそれっきりです。それ以来、外に出るのも怖くて、仕事も休職しています。研究所だけは、事情を話したら自宅まで迎えにきてくれるので、検診にはなんとか足を運んでいるのですが」
「……それは大変でしたね。今日は、大丈夫だったんですか」
「はい。ピアサポートの件は伊藤さんから何度も説明されていましたので。最初は不安でしたが、安室さんのような方で安心しました」
「そう言ってもらえて嬉しいです。でも、絶対に無理はしないでください。少しでも辛ければ、すぐ帰りましょう」
そこへケバブやシシトゥクが乗った豪勢なプレートが運ばれてくる。食欲をそそる香ばしい匂いに、ほんの少し種崎の表情が和らいだ。
その顔を見て、降谷はふと赤井のことを思い出す。数週間前、赤井はどこか言葉にしにくい違和感をなぞるように、僅かに眉を寄せていた。
自然発生、個体差、偶発的な変異。そういうことで片付けば、楽なのかもしれない。きっとそうなのだろうと言い聞かせる声と、本当にそれだけなのか、と問い返す声が胸の奥で交差する。
何かがもやもやとせり上がるのを感じながら、降谷は目の前の食事を平らげた。
*
薄暗がりの中で、見知った顔に思わず視線を向けた。天井の低い古典的な木造のイングリッシュ・パブは、組織内で情報交換の場として重宝されている。店内はいつにもまして血気盛んで、ざらついた空気を漂わせていた。すれ違いざまに当たった腕に、ライは眉一つ動かさず店の奥へと突き進む。
琥珀色の液体が入ったグラスをカウンターで受け取ると、気配を消すように壁際へ背中を預けた。視界の端には、羽目を外した男が大きな体をよろめかせていた。唐突にテーブルに肘を突き、反動で何かが割れる音が響く。ライは目を細め、店内の様子に眼を凝らしながらウイスキーを流し込んだ。今夜は一段と、喉が焼けた。
体内から何かがじわりと迫りくるような、言い知れぬ違和感。苛立ちや畏怖ともまた違う。だが、その感情は明らかに動揺を煽っていた。
無駄のない仕草、隙のない情報戦。鋭い双眸に読み解けない感情の動き。それでいて、不意に見せるあどけなさ。
――バーボンの第一印象は、赤井がこれまでに出会った誰よりも、不可思議で掴みどころのない存在だった。
あの男が短期間で幹部という地位に上り詰めたことに、疑う余地など最初からなかった。同時に、なぜあの組織に身を置いているのか疑問が残る。
本当に組織の思想に身を染めているか、あるいは自分と同じ――
そこまで考えるとまた悪態を吐きそうになった。何かに縋った時点で、この不条理な世界でそれは敗北を意味する。
また別の誰かがバランスを崩し、派手な音を立てた。壁に飾られた小さなアンティークフレームの一つが落下し、そのまま踏みつぶされる。しかし、誰一人として気に留めなかった。
『……お前、それ、どこから持ってきた』
地を這うような低い声が、ライの耳に入った。数日前に、任務で共に行動をした組織の末端構成員――名前は確か、ダリスと言ったか。コードネームを与えられていないわりには、頭の回転が速く隙のない動きが印象に残っている。
『相当トべるんだってな、まだ俺は試してないが……さっきの礼にお前にやるよ』
『だから、どこから持ってきたと聞いている』
『しつけえな、ラボだよ。あのいやみな爺がちょうど出入りしてる隙に覗いたら開いてたんでな』
『それはお前に扱える代物ではない。全部出せ』
口論になる様子を、ライは視線だけで追った。何やら研究所で試作中の開発中の新薬を掠め取ったらしいが、記憶を辿るとすぐに思い当たった。あの女狐が呆れた声で漏らしていた組織の問題児。
――あの男の実験には絡まない方がいいわよ。悪趣味なだけで何の利益も生まないガラクタ。でも、なぜかラムにだけは気に入られてるみたいね。関わりたくないわ。
組織命令の研究とは別に、非人道的な薬の開発を行っているという話はライの耳にも入っていた。だが具体的にどのような効能をもたらすかについては不明で、あの女からも大した情報は出ない。確かなのは、組織にとっての実益はほとんど無いということだけ。
『誰に向かって口聞いてんだ?』
『……近いうちに身を滅ぼすぞ』
胸倉を掴まれながらも、ダリスは動じず冷ややかな目で男を睨み返した。ただのドラッグにここまで執着する様子に妙な引っ掛かりを覚える。
男は腕を放すと、ピルケースからタブレットを取り出し、それを無理やりダリスの口へ押し込んだ。首を両腕で押さえつけられ、拒み切れずそれを口内へ含まされる。近くに置いてあったグラスを手に取った男は、ダリスの口元に液体を注ぎ込み強制的に飲み込ませた。ライの眉が僅かに動く。
『ははっ! どうだぁ? まさか本当に死んじまうのか? 身をもって教えてくれるんなら感謝するぜ……くく』
興奮した男がダリスを押し倒し馬乗りになる。騒ぎに気付いた周囲の客が瞬く間に退いていく。だがダリスは乱れることもなく、浅く息をするだけで変わった様子はなかった。
『……おい。なんとか言ったらどうなんだ』
『……』
『ちょっとは楽しませてくれよぉ』
男は、常軌を逸していた。薬物常用者特有の、上気した肌。支配の感覚に酔いしれ、口元を不気味に吊り上げる。組み敷いた男を弄ぶことだけが、今の男の頭を支配しているのだろう。
乱れたダリスのシャツのボタンに手をかけ、ゆっくりと中へ手を侵入させようとした、その時。
男の身体が不自然によろめき、そのまま勢いよく床に顔面を叩きつけた。何が起きたのか、瞬時には理解ができなかった。
――忽然と、姿を消したのだ。
ライは目を見開いた。一体どんなイリュージョンだ、と訝しむ。目の前で起きた現象に、訳も分からず震える男の身体を取り巻きが引き起こし、コップ一杯の水を飲ませた。事態を把握している者は一人もいなかった。