一
閑散とした十号館の地下カフェテリア。授業を終えた学生たちが、チャイムの音とともに姿を現し始めた。
三限の終わりを告げるメロディーを聞きながら、降谷は飲みかけのアイスコーヒーを啜った。コンビニエンスストアと隣接しているその場所は、お昼時になると一瞬にして満席になる。ふと、携帯のロック画面を確認すると、午後三時を回っていた。
都内有数の名門校のうち、グローバル色が強いことで知られる白楓大学は、全学生数のうち帰国子女や交換留学生が半数を占めている。国際学部、政治経済学部が特に人気で、例年倍率は右肩上がりだそうだ。キャンパス内に楓の並木道があることで有名なこの大学は、秋の名所としてメディアの取材を受けたり、シーズン中は海外客が訪れるなど、ちょっとした観光スポットになっている。
一号館から十五号館まである校舎は、どれも先端的なデザインと技術を取り入れている。降谷が今いる十号館は、外観がレンガ造りになっており、モダンな雰囲気が若い女性に人気らしい。
そろそろ彼女も到着する頃だろう、と再び画面に目を落とした。
数分前に送ったメッセージに、デフォルメで描かれた白いうさぎが土下座をするスタンプが届いていた。
メッセージを開くと同時に、焦りを含んだ声が後ろから降ってきた。
「ごめんなさい! お待たせしてしまって。二号館からここに来るの、意外と距離があって……」
ダークブラウンに、ほんのりカールがかかったセミロング。清潔感のあるオフホワイトのブラウスに、シンプルなライトグレーのテーパードパンツを着用した彼女の左手首には、月を象ったモチーフが入ったピンクゴールドのブレスレットが光っていた。
降谷の待ち合わせ相手、中屋香凜は白楓大学に通う女子大生だ。
「僕も今来たところだよ。ところで、本当にこの場所でいいの?」
「パソコンも持ってきてるし、充電コンセントもたくさんあるし大丈夫です! 本当、透先輩がいて助かっております」
「僕にできることであれば何でも聞いて。一人でここへ入るのはいくら卒業生でもこの歳になると忍びなくてね、中屋さんがいて助かりました」
「そこは全然構わないんですけど……透先輩が探してる人、そろそろ教えてくださいよ」
「それは詮索しないって約束したじゃないか。ほら、論文やるんでしょう?」
「はぁ~い」
深いブラウンアイズを持つ彼女は、パンパンに膨れ上がったトートバッグを両手に抱えていた。そのうち一つは大学の公式グッズ。楓のシルエットの周りを小さなハートがぐるっと一周しているようなロゴが大きくプリントされている。もう片方は持ち手が依れた無地の白いキャンバス。重い参考書を入れすぎているせいか今にも引きちぎれそうだ。
鞄からノートパソコンを取り出した香凜は、電源を入れてとあるファイルを表示する。
中屋香凜は、困っていた。
大学四年の年ももう半分が終わろうとしているというのに、卒業論文の進捗が恐ろしく進んでいなかったのだ。
――安室透と出会ったのは、三週間前。大学近くにある喫茶店内でのことだった。
参考資料を広げて頭を悩ませていると、狭い店内で手を滑らせ、分厚い参考書を落としてしまった。
テーブルから転げ落ちた東南アジア現代政治史Ⅱの教科書を拾い上げた褐色肌の男は、地味な黒淵眼鏡をかけ、モスグリーンのジップパーカーに身を包んでいた。
第一印象はぱっとしなかったが、よく観察しているとその男はかなりの美形で、ついつい見惚れてしまうほどのオーラを放っている。
「懐かしいなぁ。君も国際関係学を学んでいるのかい?」
テーブルに重ねていた参考書の数々に目を向けた男は、香凜に声を掛けた。
すぐに反応ができず、慌てふためく。この時の自分はかなり不審者だったと思う。
「あっ、あっ……あの…………」
これまでの中屋香凜の人生において、〝逆ナン〟を試みたことはおろか、その単語を思いついたことすらなかった。しかし、この時の香凜は気が動転していたのだ。
このままでは卒業が危うい。でも、頼る相手もいない。キャンパスでの人脈のなさは、学科内随一だった。
本来であれば、二人の間に春の風が吹いて恋でも始まるのではないかと期待に胸を膨らませてしまうところだが、そんな発想に至る余裕は毛頭なかった。
一か八か、通りがかっただけのお兄さん(と言っても、外見はかなり若く見える。香凜と同年代と言われても不思議ではない)に、問いかけてみた。
「もしかして、白楓大学の卒業生ですか……?」
「? その通りだけど」
「突然こんなこと言われても困るだろうし、無礼なのは重々承知をしているのですが、折り入ってお願いがありまして……あ! 飲み物ご馳走するので! ここ座ってください!」
希望も聞かずにレジへと走った香凜は、順番が回ってきてハッとなる。咄嗟にお兄さんがいた席の方を見ると、彼もまたこちらに顔を向けていた。
〝君と同じもので〟
柔らかい笑顔で口元を動かしながら、テーブルに置いてあった香凜の飲みかけのアイスティーを指差しているのに気が付き、ほっと胸を撫で下ろした。
中屋香凜と安室透の出会いは、そんな偶然なものだった。
――降谷零は、白楓大学への効果的な潜入方法について思案していた。
安室透名義の偽造された古い学生証は手配済み。現役の学生を装ってもよかったのだが、教員らとも接触する機会を踏まえると、あくまで白楓大学の卒業生として振る舞う方がリスクが少ないと判断した。
まだ世間には公表されていない議員の裏金疑惑。公安の調査により、日本を代表する有数な大企業と政界の間で、資金移動を行う裏ネットワークが築かれていたことが発覚。複数の企業や財団、個人口座を経由させることで、万が一その動きが明るみになっても、彼らが関与した形跡を掴ませない狡猾なやり口だ。
警察側は関わりのあった大企業幹部らを水面下で取り押さえた。その後、司法取引によって関与者の名前を吐かせたことで、裏ネットワークの企てが徐々に表面化しつつある。
しかしながら唯一、数ヶ月前から足取りを掴めずにいる男がいた。
長峰泰明。御年五十七。世界的に有名な大手日用品メーカーの役員であり、業界誌や地上波にも度々顔を出しているメディア慣れした人物。重要参考人の一人だ。
奇妙なことに、警察が動き出す前から家族とも長いこと連絡を取っておらず、行方不明だという。
その家族の一人である、長峰陽樹。彼の母親は、彼が幼い頃に旦那を亡くし、数年後に泰明と再婚。以来陽樹と三人で暮らしていたが、大学進学をきっかけに陽樹は独り立ち。陽樹の実家へ何度か捜査官を送り込んではいたが、母親も泰明の所在を把握しておらず、特段有益な情報は得られなかった。
現在同居をしていない息子が手掛かりを持っているとも考えにくいが、彼の携帯の通話履歴を調べてみたところ、一度だけ泰明から着信が入っていたことが分かった。情報としては薄いが、唯一泰明に繋がる可能性があるとすれば彼しかいない――降谷はそう判断した。
陽樹の経歴を調べた結果、最も親交のありそうな人物がこの中屋香凜だった。
直接陽樹に近づくより、彼と関係のある人物と接触した方が疑念を持たれにくい。彼女と一緒なら、キャンパス内に一人でいるよりも潜入を疑われるリスクが減る。
香凜はコンビニエンスストアで購入した紙パックのコーヒー牛乳をストローで吸いながら、パソコンの画面を睨んでいた。
「透先輩のおかげで希望が見えてきたのはよかった、けど……やるべきことが明確になると逆にしんどいかも。見ないふりをしていた問題が降りかかってきているようで……」
「そこに気付けただけでかなり前進してますよ。このあいだ僕が紹介した参考書の内容もしっかり要約できてる。中屋さんは全体の枠組みを理解するのが得意なんだね」
「それは先輩が教えてくれた本がわかりやすいからで……あぁ、本当にどうしよう。今まで何をしていたんだ私は……」
カタカタとキーボードを打ち込みながら、付箋がびっしり付けられたノートを覗き込む。そんな彼女を横目見ながら、降谷はカフェテリアの様子を観察した。
長峰陽樹は香凜と同じく白楓大学の在学生だ。ここ数日キャンパス内に張り込んでいるが、その姿を見たことはまだ一度もない。
そもそも彼女は本来一年生で取得できるはずの単位を三年連続落としている。卒業要件を満たす単位が足りていないため今も毎日のように校舎にいるのだが、本来四年生は卒論やゼミ以外の時間はほとんど学内にはいないはずだ。
なかなか姿を見せないのは、納得だった。香凜に直接繋いでもらうという手もあるが、突然彼の名前を出せば不審がられる可能性はある。
四限の終了を知らせるチャイムが鳴ったと同時に、香凜の両目が絶望の色に変わった。
「そ……んな……」
空き時間に切りの良い所まで仕上げたかったのだろう。
次は学部共通の必修科目だ。それも、全学部生がこの時期に一斉に履修を行う。長峰陽樹に接触できるチャンスとして、降谷はこの時を待っていた。
「中屋さん」
ノートパソコンにカバーを掛けて、移動の準備をしていた香凜が顔を上げる。
「なんでしょう、先輩……」
「迷惑じゃなければ、次の講義一緒に入ってもいいかな? お世話になった先生だから、ちょっと挨拶したくて」
「え、いいですけど……。それって藤本先生のことですか? 藤本先生、昨年ご退任されて今期から新任の先生に変わったんですよね」
想定していなかった反応に、降谷は目を丸くした。
「高身長でスタイルも顔もすっごく良い先生で、顔面ばっか見ちゃうから、言ってることあんま頭に入ってこなくて困ってるんですけど」
「へえ……そうなんだ」
降谷の記憶の引き出しにはなかった情報だった。このタイミングで新任だと?
階段を上り、地上に出る。既に空は茜色になっていて、遠くから鴉の鳴き声が響いていた。
香凜とともに十号館を出たところで、降谷はふと足を止めた。
嗅ぎ慣れた煙草の匂い。
葬り去ったはずなのに、脳が、体が、嫌というほど鮮明に記憶している。
そんなはずあるわけない。よりにもよって、こんな場所で。
十号館には、このキャンパスで二つしかない喫煙スペースの一つが隣接されていた。きっと、あの男と同じ銘柄を吸っている学生がいるのだろう。
だからこれは絶対に、気のせいだ。
「透先輩……?」
「あ、ごめんごめん。行こっか」
香凜に声を掛けられて、ようやく我に返る。一瞬でも馬鹿なことを考えた自分に辟易した。
しかし、次の瞬間、降谷の中の疑念が確信に変わってしまった。
体の芯まで響く、低く落ち着いた声。降谷より少し高い背丈。長く持て余した脚と、衣服の上からでも分かる鍛え上げられた身体。
見間違うわけがなかった。
心臓の鼓動音が、徐々に大きくなる。
「あれぇ? 諸星先生と坪坂じゃん。二人が一緒にいるの珍しい。何してんの?」
香凜が呼び止めたことで、二人は足を止めて振り返った。降谷は咄嗟にキャップを目深に被ったが、おそらくあまり意味を成してはいないだろう。
「透先輩、紹介しますね。同じ学科の坪坂知也くんと、さっき話してた新任の諸星先生!」
黒縁眼鏡の奥で、アイスブルーが揺れ動く。顔を上げた降谷は、目の前にいるその男と視線が交差した。
――それは紛れもなく、FBI捜査官、赤井秀一。
一度別れた降谷の元恋人だった。
***
降谷が庁舎を出たのは深夜一時を回ったところだった。調査中の案件についていくつか報告書を纏めているうちに、随分と時間が経ってしまった。
霞が関から車で約二十分走った先に、赤井が滞在しているホテルはあった。
近くのパーキングエリアに車を止め、見上げるようにその建物を眺めると、フン、と鼻を鳴らした。なかなか良い場所に泊まっているじゃないか。
エレベーターに乗り込んだ降谷は、行先階のボタンを押した。紙切れに書かれていたルーム番号を思い出して、また気が重くなる。
なんだって僕は、手ぶらでこんなところに来てしまったのだろう。
チン、と軽快な音が鳴って目的のフロアへと到着した。ルーム番号が示す方向に、音を立てずゆっくりと歩き出す。
扉の前まで辿り着くと、降谷は背筋を正して目を瞑り、深く息を吸った。
部屋に備え付けられたインターホンを鳴らす。
扉の向こうから、気配が近づくのが分かった。
体を硬くして、身を構える。
施錠が外れる音がして、扉が開いた。
「……零」
降谷の姿を目の当たりにした瞬間、赤井は驚いたように目を見開いた。
頭にタオルをかけたまま、半裸の状態で出迎えた降谷の元恋人は、シャワーを浴びたばかりなのか毛先が濡れていた。肩や鎖骨にぽつぽつと水が滴り落ちている。
「今日はもう来ないかと思った」
降谷を捉えたエバーグリーンが、優しく形を変える。
あの時から何一つ変わってない。
喉の奥が詰まり、視界が揺れた。
扉を背にして部屋へ一歩入り込むと、降谷は赤井の首の後ろに手を回して、深く口付けた。
荒く、何度も角度を変えながら。
それに応えるように、降谷の頭に柔らかく触れる赤井の左手。反対の手で腰を支えられ、ぴったりと体を密着させた。
降谷が夢中で口付けを繰り返していると、やがて手首を掴まれ壁に押さえつけられた。立場が逆転し、今度は降谷が赤井の獲物となる。
まるでこれから捕食でもされるのではないかという鋭い視線に、腰が疼いてしまう。差し入れられた舌が腔内を蹂躙し、息をするのも精一杯だった。
一度口が離れたかと思えば、頬、瞼、そして額に、湿のある音とともに柔らかなキスが落とされる。
「会いたかった、零……」
低く甘い声が、直接体の中へ入ってくるようだった。痺れるような低音が、全身を震わせる。
「ん、……零、零くん」
「あかい……」
匂いを嗅ぐようにして首筋に擦り付いてくる。いつも冷静沈着で理性的な男が、余裕をなくして自分を求めてくるのは気分がよかった。褐色肌の上を辿るように吸われ、ふわふわと浮き立つような感覚になる。今はこの男のしたいようにしてあげたい気持ちが勝った。
割り込んでいた脚の間から、赤井の雄芯が主張を始めているのが分かった。衣服の上から触れるとぴくり、と反応する。
我慢の効かなくなった猛犬は、飼い主の体を翻して壁に抑えつけると、ベルトのバックルを外して下着ごと引き下げた。勃ち上がったペニスからは先走りが溢れ、糸を引いている。
弾力のある双丘に聳え立った男の象徴を宛がうと、びくりと背中が強張った。
「ん……もう、挿れていいから……」
降谷は自ら尻を左右へ開いて見せた。中に仕込んでいたローションが褐色の上を滴り落ちていく。その光景に、赤井の下腹部に重く熱が籠った。
「零、すまない」
通常よりも遥かに膨張した雄芯を勢いよく捻じ込んだ。強すぎる刺激に膝が崩れ落ちそうになるのを、なんとか足を付いて踏みとどまる。
「……ァッ!ン! ……はぁ…………」
息を整える間もなく、顔を強引に振り向かせられキスをされる。後孔にじんわりと広がっていく赤井の熱が気持ちよくて、どうにかなってしまいそうだった。
ゆっくりと体を擦り合わせて、二人の隙間を埋めていく。
「ン……、ァ……それ、気持ちい、もっとして……」
「どれのことだ?」
耳朶を甘噛みされながら、腹部あたりを円を描くように触れられる。歯がゆい刺激ですら快感に変換されてしまう。
徐々に赤井の手が下っていくのを感じ、手首を掴んで制止した。赤井の動きがぴたりと止まる。
「どうした?」
「……同時にしたら、……でちゃうか、らぁ……」
「好きなだけ出せばいい。あとで俺が処理しておくから」
「そういう問題じゃ……、あっ、あ!」
耳に舌が侵入し、堪らず嬌声があがった。降谷の意識が逸れたのを良いことに、硬度を増した雄芯を奥深くへと侵入させていく。それと同時に、涙を流し続けるペニスの先端を親指で擦った。
「っ! むり、やめて、っ!あぁっ……! イッ……ちゃ……」
強すぎる快楽に勢いよく白濁が溢れ出し、壁を汚した。体幹が崩れ、自分の脚で立つことが困難になった降谷を、赤井は横抱きにしてベッドまで運んだ。
ぽすん、と情けない音と共にベッドへと降ろされる。視界には真っ白な天井と、自分を見下ろす赤井の姿。
降谷は両腕を伸ばして赤井の口付けを強請った。それに優しく応えるように、唇を重ねていく。
目尻に溜まっていた涙を赤井が指で軽く拭うと、ふふふ、と笑いが溢れた。
「……やっと貴方の顔、見れました」
「これから嫌になるほど君の視界を占領することになるだろうから、覚悟しておけ」
そう言って戯れながら、既に乱れた衣服を脱がせ合う。汗ばんだ肌が、熱が、全てが愛おしかった。
キスをしていない場所なんてないのではないかと錯覚させられるくらい、赤井は入念に降谷の身体へと触れた。
長く空いてしまった時間と、失われていた体温を取り戻すように。
***
よく晴れた土曜日の午前、赤井はとある青年の家を訪れていた。赤井がかつて居候をさせてもらったことのある邸宅。少しばかりノスタルジーな気分になるのは、歳を重ねたせいだからだろうか。
「検証の結果、赤井さんの想定通りあの薬と同じ成分がいくつか含まれていました。宮野曰く、当時のAPTX4869よりも限りなく殺傷能力が高いそうです。物質構造は異なるけど、製造工程は殆ど同じ。服用してから死に至るためのリードタイムが短く、当時のデータからかなり改良を重ねられている」
「悪いな、ボウヤ」
出力されたデータに目を落としながら、差し出されたコーヒーを口にした。
「でも、なんでそんなものが今になって判明したんです? 赤井さん」
コーヒーに角砂糖を落とした工藤新一は、不信感を抱きながら眼前の男に問いかけた。
快晴の空には似つかわしくない、重々しい空気が工藤邸を包んでいた。
「判明したのが実際にいつだったのかは、俺自身も知らされていない。内通者による工作かもしれないからな」
「内通者ってまさか……」
「ボスは今回の合同捜査に加わったビュロウのメンバーを疑っている。組織幹部との接触経験のある捜査官は除いてな」
「そんな……」
組織壊滅の立役者となった、当時はまだ高校生探偵だった工藤新一。あの毒薬を飲まされ、体を小さくされた当事者だ。新薬の物質構造が異なるとなると、江戸川コナンから元の工藤新一の姿へ戻した解毒薬が効果を持たない可能性もある。
新薬を開発した犯人は、一体どこから製造に関するデータを得たのだろうか。あの組織の関係者は数年前に全員摘発されたと思っていたが、まだ残党が生き延びていたのだとしたら、非常に厄介だ。
コーヒーを啜りながら、工藤新一は思案していた。
「あ、……そういえば」
突然、思い出したように新一が口を開いた。
「ちょうど赤井さんが日本に戻ってきたタイミングで、白楓大の学生から調査依頼の相談があったんです。十四年前に起きた片岡家心中事件について」
「片岡家?」
「はい、これなんですけど」
そう言って新一はタブレットを起動した。映し出された画面に表示されていたのは、『横浜・一家二人死亡 父親が無理心中か』と大きく書かれた見出し。
「横浜市の住宅街で起きた事件です。亡くなったのは父親・片岡隆二(当時三十一)とその息子、片岡葉月(当時七)。父親が息子を刃物で刺し、抵抗しようとした反動で父親に致命傷を負わせ、死亡。弟も出血多量で数時間後に息を引き取りました」
スクロールされた画面には、亡くなった親子の写真が映し出された。
「当時は『家庭内トラブルによる無理心中』と報じられましたが、不可解な点もいくつかあったようで……」
息子の写真を見て赤井は何か引っかかりを覚えたが、違和感の所在までは突き止められなかった。
「家には母親と、もう一人、兄がいたそうです。彼らは寝室のクローゼットで息を潜めていて、幸い無傷でした」
「…………」
「依頼内容は、この父親がどうしてこのような奇行を犯したか、その真相を突き止めて欲しいというものでした。当時の彼に何があったのか……あまり大きく報道はされなかったみたいですが、多額の借金を背負っていたみたいですね」
新一はタブレットをテーブルに置いたまま、普段から持ち歩いているメモ帳を開いた。
「それで、もう少し踏み込んで調べてみたところ、驚くべきことが分かったんです。片岡氏の借金の理由は、彼の同僚から資金洗浄の片棒を担がせられ、最終的にその全ての責任を押し付けられたからなんだそうです」
「何だと?」
「利用されていたんでしょうね。その同僚に、事業推進で必要だと言って名義貸しを持ちかけられ、片岡氏は書類上では合意をしたようなのですが、実際はその名義を使って不審な資金が動かされていました。そして、海外から送金された怪しげな資金が、関係口座を通過。その時点で監査に引っかかり、片岡氏が会社から訴えられそうになったんですが、同僚から全てを揉み消す代わりに取引予定だった全額を支払うようにと脅しがあったそうなんです」
「知らない間にマネーロンダリングへ加担させられ、その尻拭いまでさせられていたということか」
「警察側はそう見ているそうです。ただ、片岡氏が亡くなる直前に逃亡した犯人を突き止められないままお蔵入りになったそうで」
冷たくなったコーヒーを、赤井はぐっと飲み込んだ。
「……片岡隆二の妻、片岡芽衣。彼女が、渦中の長峰役員の現在の妻なんだそうです」
赤井は表情を変えず、僅かながら目を開いた。
「何か裏がありそうだとは思いませんか、赤井さん」