一
それは降谷零にとって人生最大の過ちだったのかもしれない。
履歴の先頭に表示されている名前を呼び出して着信拒否の文字を押す。ただそれだけのことなのに、踏み切れずにいる自分が情けない。何を躊躇うことがあるのだろう。煮え切らなさに辟易とする。
男と初めて一夜を共にした翌朝、隣にいるはずだと思っていたその存在は、まるで亡霊に抱かれていたのではないかと錯覚を起こすくらい、人知れず姿を消していたのだ。様々な紆余曲折を経て、多少なりと心の内を明かせるくらいまでには親密な関係になれたと思っていた。思い込んでいた。
抱き潰された身体には、人一倍に強い愛情と独占欲の証左が幾千と刻まれている。気を失いそうになるくらい甘く長い愛撫は体内に熱を籠らせ、その温度は今もなお降谷の身体の中に残存している。
散々甘やかされて溶かされた降谷の身体は、男を知る前のものから完全に作り変えられてしまった。「嫌だ」「怖い」と泣きじゃくりながら善がる降谷に、俺が全ての責任を取るから、君は何も心配しなくていいと囁いていたのはどこのどいつだったか。
何が責任を取る、だ。最初から僕のことなんて揶揄って遊んでいただけなくせに。
赤井秀一が帰国したとの情報は直接本人から聞いたわけではなく、ことづてに知ることとなった。日米合同捜査も終わりを迎え、来日していた捜査官たちも引き上げるタイミングではあったのだが、長期に及ぶ捜査がひと段落した赤井は、長く持て余した休暇を消化するため帰国を先延ばしにしたのだと聞いていた。そんなこともあって、男は何かにつけて降谷を食事へと誘い、時には互いの部屋へ招いたりと日々親交を深めていった。
はじめて二人で食事に出かけた日から、あんまり愉しそうに笑うものだから、これまで見たことのなかった赤井秀一を垣間見ることができたのは新鮮だった。とはいえ、次第に物理的な距離が近づいていくことに、胸中は穏やかではなかった。
だって気が付いてしまったのだ。赤井が降谷を見つめる視線に、紛れもなく情欲が含まれていたことを。
そのことに気が付いた時、心裏に秘められていた感情が擡げはじめていたことに、降谷は知らないふりを決め続けることがどうしてもできなかった。
アルコールの力を借りながら、降谷の方からも思い切って態度に示すことに成功した。その日は降谷のマンションで互いに酒やオードブルを持ち寄り、一夜を過ごした。酒に呑まれることは殆どない降谷だが、この時ばかりは酔ったふりでもしないと心臓が破裂しそうだった。
いつものようにさりげないボディタッチを交わす傍ら、事故を装って赤井の頬にキスをしてみたのだ。
どんな反応をするかと待っていたら、赤井は目を丸くさせ暫くの間降谷を見つめていた。長く続いた沈黙に耐え切れず、先に口火を切ったのは降谷の方だった。
「……おい、なんとか言え」
すると突然、手を強く掴まれたかと思えば、端正で彫の深い顔をぐっと近づけられた。
「降谷くん、いいのか?」
二人の間に沈黙が訪れたのはほんの一瞬だった。降谷の回答を待たずして、唇が重なりあう。角度を変えて何度も触れていくうちに、全身が燃えるように熱くなった。求めるように赤井の袖口を掴むと、今度は後頭部に手を回され深い口付けへと変わる。甘く啄むようなキスから一転、激しく獰猛な舌の動きに脳が溶かされてしまいそうだった。耳の輪郭を指先でなぞられたかと思えば、耳殻や耳筋の裏を軽く擽られびくりと肌が反応する。このままではイニシアチブを握られてしまうと危惧した降谷は、負けじと赤井の舌に絡みつくが、その行為が男に火をつけたようで、屈強で厚みのある腕によってソファに押し倒されてしまう。
はふ、はふと息も絶え絶えに瞼を開くと、ギラギラと獲物を狙うような双眸が降谷を捉えていた。
奴にしては余裕のなさそうな表情に一瞬呆気に取られるが、そんな稀少な一面を引き出すことができた愉悦感は、少なからず降谷を高揚させた。
「…………ベッドでするなら」
腕を首後ろに回しながら小声で囁くと、「仰せのままに」と額に柔らかい口付けが降ってくる。どこまでも気障な奴。
それからというものの、記憶が少々曖昧になるくらいには、それはもう、すごかった。一晩中降り注がれる愛の言葉に、頭のてっぺんから爪の先に至るまで執拗に可愛がられ、身も心もぐちゃぐちゃにされた。
……それなのに。
そんな甘いひと時が嘘だったかのように、赤井は降谷の前から姿を消した。
直接連絡を寄越さないことに腹を立てているわけではない。腹を立てているわけではなかったが、胸中に渦巻いた暗澹とした感情をどう処理していいかわからなかった。
降谷に黙って帰国したことに意味などないのかもしれない。でも、もしあの夜自分の知らないところで赤井を幻滅させる出来事があって、しれっと関係を終わらせようとしていたのなら。
その時は黙って身を引くしかない。そもそも、赤井と僕がそういう関係になること自体、おかしな話だ。
僕と赤井の間に流れていた空気は、思い返してみれば紛れもなく恋人同士のそれだった。気が付いたら赤井のペースに乗せられていて、どうすることもできなかった。そうだとしてもセックスにまで及ぶなんてどう考えても常軌を逸している。
初めてのお泊りだったのに、なんか、すごいことしちゃったな……
色々片が付いて、赤井と少しでも心の内から話すことができたら、以前のような関係から一歩前に踏み出せたら。降谷の中にあったのはそんな些細な願いだった。明らかに「親密な友人関係」と呼べるものの一線を越えている。
長年追いかけていた国際的犯罪組織の実質的な解体も終え、日常へと戻る最中、降谷自身がそんな幸福に慣れすぎてしまったのかもしれない。
所属している組織も違えば、国籍だってルーツだって違う。そもそも同じ日常を、同じ屋根の下で生活を営むこと自体おかしな話だったのだ。
あの数日間の甘く苦い日々は、記憶の引き出しにしまっておこう。そして二度とあの男とは連絡を取らない、そう降谷は決心した。
***
玄関に鍵を通す前から、空腹を刺激する匂いが立ち込めていることには気がついていたが、まさかその発生源が自分の家にあるとは思いもしなかった。
「……何してるんだ」
帰宅した降谷の目に飛び込んできたのは、キッチンで煮込まれた鍋の中を覗き込むぬいぐるみの姿だった。どこから持ち出したのか、ご丁寧にエプロンまでしている。
「お仕事お疲れ様です。キッチンをお借りして作ってみたのですが、もうお夕飯は済まされましたか?」
昨晩からここに住み着いている座敷わらしことおきぬいが、にっこり微笑みを浮かべながら降谷を出迎えた。
頭を抱えながらも鍋に入ったシチューが気になって仕方がない。空腹にはいつだって抗えないのだ。こんな小さな身体でどのようにして具材を切ったり鍋に火を付けたりしたのかは考えないことにした。
ぐつぐつに煮込まれたシチューをお皿によそい、ダイニングテーブルにつく。
「いただきます」
手を合わせて口へ運んだシチューは疲れた身体に沁み渡る。具材が煮込み切れていないのかところどころ半生なのが惜しい。以前、赤井がいつもの御礼にと作ってくれたシチューの味に酷似しており、懐かしい気持ちになった。
降谷が食事をしている様子をまじまじと見つめるおきぬいを見ながら、ふと、考えてしまった。
お前が赤井だったらよかったのにな。
具材を用意していた時に跳ねたのか、ぬいぐるみが所々汚れていたため軽くティッシュで拭ってあげる。
「ありがとうございます。あの時と一緒で、お優しいんですね」
一心に見つめられながら御礼を言われむず痒くなった降谷はおきぬいと視線を合わせないように目を逸らした。そういえばあの時もコーヒーを溢したおきぬいを拾って軽く応急処置をしてあげたんだっけ。……あの時ってなんだよ。夢と現実が混同する。
「昨日も聞いたが、お前は何者だ?何が目的でここにいるんだ」
「ですから、昨日も話したじゃないですか清掃員さん。あなたに恩返しをしにきたんです。まさかこんなにも早く呼び出していただけるなんて思っていませんでしたが」
「別に恩返しされるようなことをした覚えはないんだが……あとその『呼び出した』ってなんだ。まるで僕がお前に会いたくて呼び出したみたいじゃないか」
「ホォー……?私に会いたかった、と。それはそれは、光栄です」
「いやっ、そうじゃなくて……あぁもう!」
やはりまともにこの生き物と取り合うべきではなかった。あの男と対峙している時のように自分をコントロールできなくなる。ぬいぐるみなので大きく表情が変わることはないのだが、その分厚い皮の下で嗤われたような気がして腹立たしさが増す。
「冗談です。最近、何か覚えのない郵便物は届きませんでしたか?」
「やはりあのタンブラーか」
コーヒーを淹れたあたりから変な夢を見るようになったし、ましてやこんな幻覚まで。とっとと処分した方がよかったのだろうか。そんなことを考えていると、降谷の思考を読み取ったのかおきぬいが頭をぶんぶんと横に振る。
「あれを処分したとしても、すぐ新しい物が届くので根本的な解決にはならないかと」
おきぬいが言っていることが真実かどうかは定かではないが、今処分したところで既にこいつが住み着いてしまっているのだから手の施しようがない。
シチューを平らげた降谷は空になった食器を持って席を立つ。この先こいつと同居するのはいいとして、万が一赤井が帰ってきた時にこいつの存在を見られたらどんな反応をされるだろうか。そもそも僕以外の人間がこいつを認識できるのかどうかも謎だが。
……って、これじゃあ赤井が帰ってくるのを期待しているみたいじゃないか。
降谷の中に未練がましい気持ちがあること自体、忌々しく感じていた。
もう余計なことを考えるのはやめよう。雑念を取り払うように、降谷は冷水を浴びに浴室へと向かった。