短編小説(全年齢)
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※2025年9月21日(日)『BinarySparksTUTORIAL WEBアンソロ(全年齢)』にて掲載
※『You Are My Obsession』の地続きですが、単発でも読めます。
遠くから子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。降谷はビーチパラソルの下で重い体を横たえ、力の入らない腕でうちわを扇いでいた。
数週間ぶりに休日が重なり、昨夜は帰宅するなりベッドへ雪崩れ込んでそのまま明け方まで過ごした。体の節々に痛みが残りつつも、降谷のリクエストで海水浴へ行く予定があった二人は、重い腰を上げて海辺へと車を走らせた。まさか午前中から赤井とガチ競泳をする羽目になるとは思わず、今や全身が悲鳴をあげている。海へ誘ったのは僕だが、これはかなりの割合で挑発してきたあいつが悪い。……挑発に乗った僕にも非はあるが。
額にぴたりと冷たい感触。視線を向けると、癖のある前髪から海水を滴らせる男の姿。全身のところどころに砂の跡がついている。相変わらずよく鍛錬された厚みのある体が目に入り、癇に障る。手にはキンキンに冷えたペットボトル、そしてもう片方の手にはなぜか馬鹿でかいかき氷。
「なんですか、それ」
「非売品のかき氷だ」
「非売品ってどういうことだ」
「アイスクリームがないか聞いてみたところ、完売したと言うからな。それに代わるものはないかと尋ねたら、オーナーが奥の棚から古い手動式のかき氷機を出してくれた」
「えっ!? 貴方あのオーナーに作らせたんですか。あの女性、たしかもう八十後半……」
「なかなかパワフルだったぞ。おかげでほら」
寿司桶のような皿に山盛りになったかき氷。その上からいかにもな着色料満点シロップが何故か四色もかかっている。
突き刺さった二本のスプーンのうち一つを手に取った赤井が、氷を掬って降谷の目の前に差し出した。
「……貴方ねえ」
「体力が限界で動けないんじゃなかったか? ならこうするしかないだろう。ほら、口を開けて」
この顔は、完全に揶揄っている。僕が恥ずかしがるところを見ていい気になっている時の顔だ。こうなったら恥ずかしがる方が恥ずかしい。堂々と行くしかない。
降谷は大きく口を開けようとした、その時だった。
冷たい感触が唇に触れた。それは甘いシロップとは程遠く、慣れ親しんだ苦い煙草の味。
「貴様!!! ふざけてるのか」
「悪かった。ほら、溶けるぞ」
機嫌をよくした赤井は、再びスプーンを傾ける。今度は観念して、甘く冷たい氷を頬張った。火照った体に冷たい感触が染みわたっていく。
いつか赤井と二人で訪れた浜辺に、こうして再び足を運ぶなんて思ってもみなかった。以前と異なる点といえば、ついに前線から退きデスク業務が中心になったことと、隣にいるこの男が降谷の恋人という枠に収まって一年半が経つということだろうか。
「暑い……」
陽も傾き始めているのに、灼熱の暑さは衰えない。パラソルとサングラス一つでこの陽射を妨げられるはずがなかった。それでも、この季節のこの風景を見てみたくなったのだ。滴り落ちる汗をタオルで拭い、シャリシャリと音を立てる氷を喉へ流し込む。
「あの時のこと、覚えてます?」
「心理テストのことか?」
「心理テストとかいうのやめてくださいよ。恥ずかしいから」
徐々に家族連れの姿が少なくなっていく。ここは人気の海水浴場に比べれば人は少なく、穴場の一つだ。
「大人になれば、怒りとか哀しみとかってうまく制御できるようになるって言ったじゃないですか。あれ、多分嘘でした」
「そうなのか?」
「制御してるんじゃなくって、切り離してるだけなんだろうなって」
夏は日が長い。照り付ける太陽の光は、今の降谷の表情を隠してはくれない。
「でも、貴方だけは切り離せなかった。結局のところ、僕は貴方に甘えてるんですよ! あーやだ!」
降谷は立ち上がって海辺の方へ一歩踏み出した。体を倒していた赤井が上体を起こし、その姿を視線で追う。
守るべきもののために、感情を制御できるだなんて嘘。心の深い場所へ閉じ込めて、見ないようにしているだけ。けれど、それを何度も抉じ開けてきた唯一の相手が、赤井秀一という男だった。
追い出そうとしても、何度だって僕の中に勝手に上がり込んで、一番触れられたくない部分に手を差し伸べてくる。それ自体が迷惑で、不愉快で、どんなに排除しようとも、消えてくれることはなかった。
今になって思えば、降谷自身がそれを求めていた証左だったのかもしれない。
――あれほどの男が、どうして。
その叫びは、降谷にとって唯一、心を映す対象そのものだった。守るべきもののために、見ないようにしてきた感情の行き場が必要だった。
自分は随分と前からこの男に守られてきた。その事実さえ腹立たしく、納得はできないのだけれど、受け入れるしかない。
だって最初からそうだったじゃないか。
対等でいたいと思うほどに、対等でいたくないと思う自分がいる。
僕の人生で唯一敵わないと思った相手。簡単に並べるはずがない。そう考えるのは驕りであり、怠慢だ。けれど、降谷が初めてその手で掴みたいと思った事実は、確かにそこにあった。
自分がこの目に映してきた赤井秀一という男を信じられるのは自分自身だけ。それに気付いた時、心の奥で絡み合った糸が緩やかに解けていくような気がした。
「零」
波が静かに寄せては引いていく。足首にひんやりとした感触を感じながら、愛しい声のする方へ振り返る。
「うん?」
「近くで花火大会があるらしいんだが、見に行かないか」
いつか夢で見たような現実が、すぐ目の前に存在している。
柔らかい赤みを帯びた光が、水平線の向こうにじんわりと広がっていく。そんな色彩をバックに立つ赤井の姿が、なんだか不釣り合いでおかしかった。
よく知ってましたね、この近くで花火大会があること。あぁ、あのオーナーに聞いたんですか。随分と気に入られてませんか、貴方。別に妬いてませんよ、うるさいなぁ。――そろそろ渋滞してきますから、早く行きましょう。潮風と汗でべとべとになった赤井の腕を掴んで、降谷は浜辺を歩き出した。
※2025年3月27日(木)『とらマルシェおためし会』にて掲載
夕陽に照らされた西洋の街並みが次第に闇に包まれ、辺りは一帯煌びやかな統合型リゾートが立ち並ぶエリアへと変貌していた。タクシーに揺られながら、右手に着けた腕時計に目を落とす。随分と時間がかかったな、と自嘲気味に笑った。
コタイ地区は、歴史的な建造物が立ち並ぶタイパ地区とは打って変わり、絢爛な印象を持つ。ラグジュアリーな施設が煌々と照らす光を鬱陶しく感じながら、赤井は携帯の電源を入れた。
降谷零が姿を消したのは二ヶ月ほど前のこと。
彼との関係が恋人という枠に収まってから長い月日が経った今でも、時折主張が噛み合わず衝突をすることは多々ある。巧みな洞察力を持った彼との対話は、一秒たりとも赤井を退屈させたことはなかった。遠慮なく議論を交わせるのは赤井にとって心地よく、日常の延長線上にあるそうした波瀾を彼自身も楽しんでいるものだと思っていた。
降谷が姿を消すのは初めてのことではなかった。いかなる時でも居場所を見つけ出し、その理由を問い詰めて、お互いの心の裡に触れた。そうやって少しずつ彼の内面を知り、彼自身も心身共に赤井を受け入れてくれるようになっていると思っていた。そう考えてしまうこと自体が、驕りだったのかもしれない。
長期にわたって足取りが掴めなかったのは今回が初めてのことで、時間が経つに連れて赤井の動揺を誘った。そして困ったことに、今回の件に関してはかなりの割合で、赤井の方に非があった。
シティ・オブ・ドリームスを抜けた先、荒い運転に揺られていると、指定していた場所で車が停止した。多くチップを残し車を降りると、煌びやかな夜の喧騒からは一転、人気の少ない路地へ足を踏み入れる。長らくニコチンが切れていたことに気が付き、息を吐きながら内ポケットから煙草を取り出した。一服し終える頃には、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
窓越しに眺めていた上品なライトアップとは異なり、ギラギラと欲望渦巻くネオンに彩られた異空間。事前に調査していた住所へ辿り着くと、古びた建物の扉を開けた。キィ、と甲高く耳障りな金属音が鳴り響く。施設内に足を踏み入れれば、大音量の音楽と客たちの歓声で賑わっていた。
赤を基調とした中央のステージで踊り子たちが妖艶に舞う。年齢は二十前後が多いだろうが、中には十代前半とも思わしき姿も並んでいた。ほとんど何も身に着けていないような恰好で、観客たちを煽る。
薄暗い照明の下で、ステージから降りた踊り子が観客の腰に跨り、艶かしい笑みで性的に誘うと、男はまるで許しを得たかのように接触を始める。チップを受け取った女は満足そうに男の額へキスを落とすと、再び舞台へ舞い戻っていった。
薄暗い照明の中でも、すぐに分かった。ステージ左手の前から二列目の円形テーブル。
金髪褐色のエキゾチックな容貌をした彼は、濃いグレーのスリーピースに真紅のネクタイを締め、左手には赤井が贈った腕時計を身に着けていた。その隣に座っていたロマンスグレーの男が、赤ワインを片手にショーを鑑賞しては時折その彼に耳打ちする。紳士な見てくれをしておきながら、酔いが回っているのか、はたまた目の前で繰り広げられる光景に翻弄されているのか、表情は完全に緩み切っている。
狙撃手の眼が男の唇を読む。違法ドラッグの名称がいくつか出たところで、再び正面を向いてしまった。彼のことを『トオル』と呼ぶ男は、馴れ馴れしく肩に手を置いたり不必要に後頭部を撫でたりしている。
ジャケット下に忍ばせたベビーイーグルの存在を確かめながら、深く息を吸った。……今日の目的はそこじゃない。
光の粒子を閉じ込めた鋭いアイスブルーが一瞬、ステージ上の女を捉えた。すぐに愛想の良い安室の顔に戻り、酔った男の不用意に伸びた手を元の位置へ押し戻す。ほら、時間がきましたよ。しっかりと見ててあげなきゃ。そうステージの方へ体を向けながら男に囁く降谷の唇の形は、異なる言語を奏でていた。
――手筈通りに。
男と流暢なポルトガル語で話す傍ら、降谷は通りがかった支配人に軽く手をあげる。すぐに別のウェイターがチェイサーを二つ、テーブルまで運んだ。
男がステージに釘付けになっている間に片方のグラスへ睡眠剤を沈ませると、男の手を包むようにグラスを握らせた。しかし、降谷の手を軽く握り返すだけでそれを飲もうとはしない。
降谷に手を握られた男が恍惚な表情を浮かばせていると、再びステージ照明が色を変え、踊り子が客席に降り立った。
黒と赤の薄い布を纏った二十そこそこの女は、本日のラインナップの中でも一際艶やかで蠱惑的だった。豊満な胸に光る汗の粒が、男たちの目線を奪う。小麦色の肌に宝石のような碧眼。背は少し低めで、自信満々で高圧的。降谷が事前の調べで把握していた男の好みと合致していた。
音楽に合わせて腰を振りながら、ゆっくりと男へ近づく。もったいぶらせて、男の感度を高めながら、高いピンヒールを鳴らして膝元へとしゃがみ込む。覗き込むように視線を合わせて舌なめずりをすれば、我慢の効かなくなった駄犬のように男は女の細い腕を引っ張った。女がそのまま体へ乗り上げると、擦り合わせるようにして疑似行為を始める。
その様子を横目見ながら、降谷は席を外した。
降谷が渡しても飲まなかったチェイサーを、女が口移しで男の喉奥へ流していく。ジャケット裏に潜めていたUSBメモリが抜かれているとも知らずに、男は二人だけの世界に溺れた。
男が意識を飛ばしたのを確認すると、ステージ裏で女は降谷と合流した。
「ご協力、感謝いたします。眠ってもらうだけでよかったのですが……おかげでひとつ仕事が省けました」
降谷はUSBを受け取ると、彼女の言語である広東語で礼を述べ、ジャケット裏から茶封筒を取り出した。
「トオルくんがずっと見ててくれたの、知ってるんだよぉ」
頬を紅潮させた女は体をくねらせながら降谷へ距離を詰める。
「ねぇ、報酬はいいから、ね? トオルくんの時間、あたしにくれない?」
呼吸を荒げながら女が降谷の頬に手を伸ばそうとしたその瞬間、後ろからどすの効いた声が鳴り響いた。
「その汚い手を放してもらえるか」
顔をあげて目があった女がヒッ……と小さく悲鳴を上げる。重すぎる威圧感に、金縛りにあったかのように体が硬直していた。
突然現れたハリウッド俳優顔負けの存在感を放つ高身長の男に、降谷は呆気を取られたように目を丸くした。トレードマークであるニット帽は外され、前髪を無造作に後ろへ撫で付けている。色のついたサングラスにノーカラーの黒いジャケットを身につけた降谷の恋人は、なぜ今までその存在に気がつかなかったのか疑問を抱くほど、圧倒的な異彩を放っていた。
劇場内で鳴り響く音楽が、鼓膜から消える。
赤井秀一は怒っていた。それも、かなり。
しばらくして、思い出したかのように降谷は眉根を寄せた。
「……邪魔しないでもらえますか」
二人の間に挟まれた女は行き場を見失い、そっとその場から離れた。
「帰るぞ」
「おい、離せって! てか、なんであなたずぶ濡れなんですか」
劇場に入る前に振られた雨のせいで、前髪やジャケットから雨が滴り落ちていた。それすら気に留める余裕もないほど、苛立ちと焦燥感が赤井の脳内の大半を占めていた。
「傘がなかった」
「そういうことを聞いてるんじゃなくて! 風邪でも引いたらどうするんです。FBIきってのスナイパーともあろう男が……」
ポケットからハンカチを取り出した降谷は、赤井の部屋から出て行く前と変わらない様子で髪と肌を拭ってくれる。その柔らかく優しい手の温度に、不思議と胸のつかえが取れていくのが分かった。
将来を誓いあった恋人たちがこうしたやりとりを日々送っていることを人に自慢したり惚気たくなる気持ちも理解できる。まぁ、絶対に他の奴らには教えてやらないが。
見つめる降谷の瞳の奥に、迷いと困惑の色が灯される。
君はわかっているのだろうか。君なしではもう生きていけなくなった憐れな男の末路を。
「零」
「なんですか」
「……すまなかった」
「うん」
「戻ってきてくれないか」
「それを言うためにわざわざここへ?」
「他にどんな理由がある?」
「……はぁ、まったくもう、あと二日もすれば帰る予定だったのに。なんでこんなところまで来ちゃうかなぁ……」
そんなことを言いながらも、その声は少し弾んでいた。
降谷の手首を掴んでいたはずが、今度は逆にジャケットの裾を引っ張られ、二人は劇場を後にした。雨はすっかり上がっていて、湿ったアスファルトと水溜まりにネオンの電光が反射していた。
しばらく二人で横並びに歩いて、大通りがある方面へと向かった。なんとなく気まずい空気の中、沈黙を破ったのは降谷の方だった。
「……僕も、大人気なくてごめんなさい」
「君が謝る必要はない。そもそもすぐに君の居場所を見つけられなかったのは俺の落ち度だ」
「貴方すぐ探し当てるから……今回ちょっと、いやかなり本気を出しました。ちょうど短期の任務も決まっていましたし。僕の見通しでは、あと半年は逃げ延びられると思ってたんだけどなぁ」
「冗談はよしてくれ。身が持たない」
本気なのか冗談なのか、どちらとも取れない発言に生きた心地がしなかった。君は本当に俺を惑わすのが上手い。
「ダンスショー、見てました? あの子たちも保護対象なので、いずれ現地の警察が到着するでしょうね」
「彼女らのことは知らんが、会場内にビュロウが追っている指名手配の男が居たものだから持ち物の中に発信機だけ残してきた。現地メンバーに連絡を入れておいたからそいつらも合流するだろうな」
「えっ……それ、貴方現場に残らなくていいんですか」
「管轄じゃないし、俺は完全プライベートだ」
「……そうですか」
降谷との距離を半歩詰めてみる。そっと手に触れてみると、降谷の肩がびくりと強張った気がしたが、拒否されている様子もなかったのでそのまま手を繋いだ。
「そういえば貴方、荷物は? 随分軽装ですけど」
「これだけだ。どうせ現地で調達できるし、また誰かに他国へ逃げられる前に一刻も早く辿り着きたかったんでな」
「ええー……」
鼠の死骸や乾いた嘔吐物が蔓延る薄暗い路地を抜けると、再び煌びやかな夜の世界が現れた。その光が溶け込んだような色をした彼の髪が、風に吹かれてぱらぱらと舞う。
「……僕のホテル、ここから近いですけど。寄っていきます?」
「君にこびり付いたそのいけ好かない匂いを早く洗い流さないと気が済みそうにない」
「一緒に入るのはいいですけど、そのあとまた外に出ますからね。せっかくここまで来たんだから、本場のアフリカンチキンは食べておきたいな。時間も遅いですけどあそこならまだ営業してるかも……」
「じゃあ先にその店に行こう」
「何言ってるんですか。そんな全身ずぶ濡れの不審者、どこのお店からも入店拒否されますよ。あ、テイクアウトできる店もあったような。探してみますから待っててください」
大通りを挟んだ先で、七色に光る噴水ショーが行われていた。遠くで花火が上がり、ただでさえ明るい夜の街が鮮やかな色彩に包まれる。
そんな情景に似つかわしくない男の姿を見て、降谷は思わず噴き出した。
「貴方って、そんなに後先考えないような人でしたっけ」
指を絡ませて距離が近づく。
どういうわけかご機嫌な彼が浮かべるその顔が、可愛くて仕方がない。ころころと変化する表情に翻弄されてしまうのは、自分には制御のしようのないことだ。
「君のことになると特にな」
「キザなやつ」
彼の柔らかい髪を掻き分け、耳にそっと手を当てながら額にキスをする。
夜空に舞う花火が次第に激しくなる。その音を聴きながら、少しだけ空いてしまった時間を埋めるように、ゆっくりと唇を重ねた。
「君の期待には応えられたのかな」
細められた目が真剣に僕を見つめるような気配がして、どことなく居心地の悪さを感じる。
赤井に背を向けたまま小さく溜息をついた。心臓の音がうるさい。
いつだってそうだ。僕はこの男に全てを乱される。
「……米軍の武器を勝手に持ち込んだ奴の台詞とは思えませんね」
「緊急事態だったからな。他に方法があればよかったんだが…どうしたってライフルじゃ歯が立たなかったからな。あのボウヤにも、もちろん君にも、感謝しているよ」
「フン…どうなんだか」
昨夜、組織の手によって破壊された世界的な大型施設パシフィック・ブイは、老若認証という革新的なシステムを搭載したままそのシステムもろとも海へと沈んだ。
そして、その組織が乗っていた潜水艦に致命的な打撃を与えたのがこの男。空中からあれをぶっ放すだなんて、正気の沙汰ではない。
あの武器は構造上かなり立射が難しく、委託物なしではコントロールが難しい。相当な精神力と体力がなければ、訓練された兵士でも一発で狙撃することなんて不可能。
しかし、スマートフォン越しに聞こえた赤井の声からその言葉を聞いた時、何の疑いもなく、この男はこんなことまでやってしまうのか、と直感的に思った。
全身の血液が沸騰するような、震えあがるような感覚に陥ったのは紛れもない事実。
僕はあの時、何かを赤井に期待したのだろうか。
こいつに確かめたいことは山ほどある。ただ、それは全てが終わった頃にしようと、自分の中で決断していたはずだった。
手が微かに震えている。最初に沖矢のことを疑ってここへ来た時よりも、何倍もの緊張感が漂っている。
そしてそれはきっとこの男にも筒抜けなんだろう。
「ところで、何か別に用があったんじゃないのか?」
「……ッ」
不意を突かれて、息を呑む。夜風が前髪を掠める。
昔からこいつのこういうところが苦手だった。
覆い隠したい部分があればあるほど、無理やりにでも剝ぎ取ろうとする。こっちの気も知らないで。
「小言を言うためだけに朝早くから裏口に忍んで俺に会いに来たわけではないと思ったんだが」
「悪かったですね小言が多くて」
悟られないように帽子を目深に被る。少し伸びた前髪が鬱陶しくも瞼に触れる。
「……別に、なんでもないですよ。大きな動きがあったから、一応、確認しておこうと思って」
「確認って何を?」
「…………なんでもないです」
「なんでもないことはないんじゃないか?」
「なんでもないですってば、ってちょ……何して…………あっ!」
手首を掴まれ強引に後ろから抱きしめられる。汗と煙草の匂いがふわりと鼻を掠めた。懐かしい匂いであると同時に、忘れてはならない、憎悪の対象となった匂い。
ただほんの僅かに違和感が脳を過った。それが何なのかは、分からない。
「まさか君が会いに来てくれるとは思ってなかったから…正直驚いた。理由はなんだっていい。あと少しだけ、こうしててもいいか」
「いいわけないでしょ。何考えて……」
「すまない。少し、声を抑えてくれ…」
「なん、で…………」
ベッドに腰掛けながら、赤井が僕の項に触れる。脚をきつく絡められ、後ろから体がぴったりと重なり、逃げることができない。
…逃げようと思えば逃げられる。でも、なぜだかそうする気になれなかった。逃げても結局力づくで捕らわれるんじゃないかとか、そういうことじゃない。
「君は、優しい匂いがするな。」
「変なこと言わないでください。なんですかそれ…」
赤井の声が頭の中に木霊する。その声はどういう訳か、泣き出しそうな、悲しい音色にも聞こえた。
「君は俺が出会った中で、いちばん、やさしくて、情熱的で、目が離せない存在なんだ。自分でもわからないうちに君のことを追いかけてる。どうしてだろうな…」
「知りませんよ、そんなこと…」
赤井がどんな表情をしているかは分からない。確かめるのが怖い。
それでも、今この一瞬だけは、このままでもいい、と思った。