シリーズ連載
再開しました 12月に本になる予定です
シリーズ連載
再開しました 12月に本になる予定です
エグゼクティブルームの部屋の鍵が閉まったのを確認すると、先に室内へ足を踏み入れていた女の方に目をやる。視線を外さぬまま、窮屈なスーツのジャケットを脱いだ。
部屋に向かう途中、お酒に酔ってしまったと仄めかしながら、赤井へ執拗に凭れ掛かる女の香水の匂いが染みついていた。嫌悪感を表情に出さぬよう取り繕って声をかけると、女はにこりと笑った。顔色も瞳孔も、とてもじゃないが酔っているようには見えない。
「赤井さん、お疲れじゃありませんか。シャワー、お先にどうぞ」
「……いや、いい」
首後ろへ手を回しネックレスを外す仕草を見ていると、突如、抜け落ちていた記憶が蘇る。女が左右のピアスを順番に外し、靴を脱いでベッドの端へ腰掛けた瞬間、赤井はその手首を掴み、ベッドに押し倒した。
「…………あっ」
艶のある声色が漏れる。女は頬を上気させ、膝と膝を擦り合わせた。
「想像通り、性急な方なんですね。……いいですよ、貴方の好きにして」
「戯言はあとにしてもらおうか」
赤井は女の手首を一纏めにして捻り上げると、襟首に仕込まれていた盗聴器を握り潰した。唐突な暴挙に、女は悲鳴を上げる。
「痛い、離してくださいッ……!」
「貴様らの狙いはなんだ。なぜ彼に執拗に関わる」
「何、言って……」
「マイク・ディーン・ダリス……いや、本名はアーロン・リンガーだったかな?」
「……!」
女が大きく目を見開いた次の瞬間、抑え込まれていた赤井の腕からするりと抜けた。その身のこなしは一般の二十代女性とは到底思えぬほど、機敏でしなやかなものだった。
「あんたの同僚……いやそれ以上の関係だったかは知らんが、そうだろう? コードネームはマルサラ――シチリアの酒精強化葡萄酒か」
「へぇ……人に興味なんてなさそうだったあなたが、よく覚えてたわね……ライ」
声のトーンが一つ落ちる。あの女狐と同じで、声帯模写のスキルを会得しているタイプか。
「当時はあんたの離脱の話で持ち切りだったからな。上手く逃げたもんだと感心していたよ。まさか顔も変えていたとはな」
「……あなたの正体を知った時は、全身の血が煮え立つかと思ったわ」
女はポケットから煙草を取り出し、火を付けた。シーツの上に灰が落ちるのも構わず、紫煙を吐き出す。
「最初の質問に答えてもらおうか。バーボンを狙う理由は何だ」
くすりと笑いながら、女は立ち上がると紫煙を赤井の顔へ拭きつけた。
「彼とそういう関係なの?」
「返答次第では、今すぐ身柄を拘束することもできるが」
部屋中に仕掛けていた盗聴器の存在を意識する。この部屋は、ホテルの地下駐車場で待機するジョディとキャメルに通信で繋がっていた。不測の事態に備えて赤井が予め準備していたものだ。
「それって、もしかしてあの可愛らしい金髪眼鏡のキティちゃんと、ガタイの良いドイツ系の彼かしら?」
「ほぉー……知っていたのか。さすがだな」
「それなら、さっき貴方の声で二人に電話をかけたわ。”すまないが決行は明日に変更する。各自解散してもらって構わない”」
見事なまでに自分の声を模した彼女の声域に、口笛を吹いてやりたい気分だったがそうもいかないようだ。
鍵がかかっていたはずのドアがガチャリと開き、武装した男が部屋へ雪崩れ込んだ。七人に銃口を向けられ包囲された赤井は、仕方なく両手を上げた。
「……招待してもらおうか、あんたらのボスの元に」
「その前に、あなたが隠し持っている全てをこちらに渡して貰おうかしら」
「それもそうだな」
フン、と鼻を鳴らすと、衣服の内側に隠し持っていた拳銃を床へ落とした。マルサラの部下と思われる男たちがそれを回収し、赤井の口をガムテープで塞ぐ。
「妙な真似をしたらどうなるか、……賢い貴方ならわかるわよね」
マルサラに銃口を突きつけられたまま何かで目元を覆われ、視界が漆黒に閉ざされる。
赤井の脳裏には、――あの雨の夜、まだ青く未熟だったあの日の記憶が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
二か月ぶりの異能の行使。忘れかけていた感覚を研ぎ澄まし、意識を集中させる。少しして鏡の中に現れたのは、真っ白く柔らかい毛並みの子猫。身体的な異常はなく、体調も良好だ。
SSID感染が減少傾向にあるにも関わらず、感染による副作用を利用した破壊活動が国内外問わず頻発していた。東都タワーでも大規模な爆発が発生したことで、多くの目撃者、メディアが集結した。もはやフェイク動画ごときでは誤魔化しきれず、情報統制は決壊。信じ難い超常現象による犯罪行為が、世間を恐怖と混乱で覆った。しかも犯人は国際的テロ組織によるものではなく、民間人――それもごく一般の大学生によるものだというから、尚更だ。
そんな非常時に、赤井は降谷の目の前から消えた。
発端は、あの種崎という女と接触をした直後。
書面上の経歴に不可解な点はなく、彼女の証言どおり休職中だというのも、勤め先から確認が取れている。だが、総務担当者によれば数ヶ月前から音信不通で、親族とも連絡がつかないという。
警察庁内で調べたところ、種崎の実家はもぬけの殻で、両親ともに行方不明とのこと。だが、捜索願いの提出記録すらなかった。
コンクリートジャングルの中を、慎重に進む。時折鳴る大きなクラクションの音が、耳に突き刺さった。
――まあ、かわいい! きれいな毛並みね、迷子なの?
反対側から歩いてくる女性たちが、降谷を見るたび膝を折り、手を差し伸べてくる。強い香水の匂いに思わずくらりとした。捕まった腕の中で一度だけ頬を擦り付け、女性の気が緩んだ瞬間を見計らって抜け出した。
銀座二丁目の通りを抜けると、洗練されたラグジュアリーなホテルの外観が見えてきた。この建物の四十階に位置するイタリアンレストラン――そこが降谷の目的地だ。
自動開閉のエントランスをするりと抜けると、ややふくよかなご婦人の後ろに隠れてエレベーターへ乗り込む。
チン、と軽快な音が鳴り、瞬く間に目的のフロアに辿り着いた。アーチ状の木造天井が印象的な異空間に圧倒されながら、気配を殺して忍ぶように足を踏み入れる。
嗅覚を研ぎ澄まして、周囲の空気を探る。――微かに香る、あのいけ好かない煙草の匂い。ビンゴ。
振り返った先には、やけに気取ったフォーマルスーツを身に包んだ赤井秀一の姿。そしてその視線の先には、バーガンディのワンピースを纏った種崎が、口元に弧を描いて談笑していた。
赤井が彼女に接触した理由が、調査目的だということは理解している。だが、この数日、報告も連絡も一切ない。ましてや、こちらの呼びかけを無視できるなんて、いい度胸だ。
……万が一、任務以外の理由だったとしたら?
あの男に限って、その可能性は限りなく低いと思っていた。そう思っていたはずなのに、この胸のざわつきは何だ。
もしそうなら、この関係を解消してしまえばいい。そもそも、進んで承諾をしたわけではない。つい、いつもの癖で流されてしまっただけだ。
それなのに、胸の奥深くに引っ掛かった何かが、胃の底からせり上げてくるようだった。
ホテルを抜けた降谷は、人通りの少ない路地へ入り、周囲を確認してから能力を解除した。
思わず掌を開いたり閉じたりして、指の感覚を取り戻す。
――人間の姿の方が、よっぽど良い。
降谷は先刻耳に入れた情報を素早く端末へ叩き込み、上司へ報告を送信する。その直後、提案を承諾する旨の返事が、すぐに返ってきた。
――勝手なことばかりしやがって、って思ってたけど、……僕も大概だな。
端末をポケットへ仕舞うと、停めてある愛車を迎えるため、夜風の吹く表通りへと歩き出した。
杯戸町から少し離れた高級住宅街。その一角にある喫茶店で、降谷は当店の看板メニューといわれるフレーバーティーを勧められるがまま口にしていた。
都会の喧騒を忘れさせるような木々に囲まれたテラス席は、若い女性で賑わっている。
「安室さん……! お待たせしました!」
種崎が姿を見つけるなり声をかけてきた。
「いえ、来たばかりですよ。お気になさらず。ご注文、どうされますか?」
降谷が手を挙げてウエイターを呼ぶと、彼女は同じものを頼み、外したサングラスを静かにテーブルの上へ置いた。
胸元の大きく開いたノースリーブ、脚線を際立たせるレザーパンツ、そして真紅のピンヒール。歩くたびに甲高い音を立てるその姿は、初めて会った時の印象とは随分違って見えた。
「すみません、突然お呼び出ししてしまって」
「とんでもないです。体調は大丈夫ですか?」
降谷のその言葉に、一瞬、種崎は目を丸くした。
「……はい、お蔭様で。 今日は、その件とは別件で」
ちょうどその時、注文したフレーバーティーが届いた。ソーサーがカタン、と小さく音を立てる。
ごゆっくりどうぞ、と声を掛けたウエイターを見送ってから、再び二人は目を合わせた。
「差し出がましいのはわかっているんです。でも、私……」
「どうしたんですか?」
「先日、ご一緒だったあの男性の……あの方を紹介していただけないでしょうか?」
「は?」
想像以上に素っ頓狂な声が漏れる。何を言い出すのかと思えば。……本当に何を言っているんだ。
「えーっと……」
降谷が返答に迷っていると、背後に不穏な気配が落ちた。まさか。
「安室君」
で、出た!
どうせこの男のことだ。今日のことを誤魔化しきれているとは思っていなかったが。だからってこのタイミングで出てこなくても。
「あ、あの!」
立ち上がった種崎は、赤井へ一歩踏み込む。
「種崎マリアと申します。その、安室さんとは仕事で時々交流をさせていただいていて……も、もしよろしければこのあと三人でお食事でも!」
げっ――。思わず喉まで出かかった声を嚙み殺した。
赤井は不機嫌そうな顔を一変させ、外向けの笑みを浮かべた。
「魅力的なお誘いだが、残念ながらこのあと安室君は仕事があるみたいでね」
……なんでお前が答えるんだよ。
「よかったら、二人でどこかへ行かないか?」
「はぁ!?」
思わず大声を上げ、周囲の視線を一斉に浴びる。さすがにこればかりは我慢が効かなかった。何を考えているんだこの男は。
「おい、貴様……」
詰め寄ろうとした瞬間、ポケットの中で端末が震えた。表示されているのは部下の番号。
「出ないのか?」
赤井に促され、キッと睨みを利かせてから、降谷は渋々席を外した。
胸の奥をむかむかとさせながら、鳴り響く着信をタップする。
『――降谷さん。先日依頼を受けた例の件ですが、詳細が判明しました。データが膨大なので、一度目を通して頂いた方がよろしいかと』
「分かった。お前は今庁舎にいるな、すぐ行く。ついでに一つ頼みがあるんだが……」
着信を切ると、元居たテラス席へと戻った。が、そこは既にもぬけの殻だった。
「……あの野郎」
冷めきったティーを横目にウエイターを呼ぶ。会計を頼むと既に支払い済みだと告げられる。降谷は深く椅子に沈み込み、盛大にため息をついた。
「――ん、……あっ! やめ……」
眼下で動く白い塊。干したばかりのシーツの中で、赤井が自分の性器を口で咥えている。その姿を視認できないからこそ、胸の奥にじりじりとした妙な緊張が走る。けれども、自らそのシーツを剥がす勇気は持ち合わせていない。
ヌルヌルとした感覚に思考が麻痺していく。時折、強い刺激が与えられると全身がびくりと跳ねた。
「……はぁ、はぁ、あかぃ……ぃ」
返事が来る気配はない。痙攣した太腿が、無意識に左右へ開いていく。前を刺激されているにも関わらず、降谷の下半身は寂しさを募らせていくばかりだった。ひくついた後孔がそれを物語っている。
赤井と正式に交際を始めてから降谷の身体は完全に作り変えられてしまった。
内腿をそっと撫でられ、また息が漏れる。先ほどから微弱な刺激しか与えてもらえず、膨れ上がった屹立の先から粘度のある蜜が溢れ出していた。
――この男、絶対に愉しんでいる。
意を決してシーツを剥ぎ取ると、自分のペニスを口に含んだ恋人の顔が現れた。
「どうした? 降谷君。取ってしまっていいのか?」
「~~~!!! だから……ッ!」
耳まで紅潮させた降谷の顔を見て、赤井が微かに口端を吊り上げる。その仕草に、居た堪れない気持ちになった。
「俺が君のを咥えているところは、見るに堪えない、と」
「まるで僕が強要してるみたいで嫌なんです!」
降谷は膝裏へ手を入れると、そのまま脚を持ち上げて大きく開いて見せた。
「もうッ……いいから、早く」
「ホォー……さっきのはお気に召さなかったのか?」
「逆ですよ! 気持ちが良すぎるから……っダメなんで…………あっっ!」
言い終わらないうちに強引に赤井のペニスが捻じ込まれ、意識が飛びそうになる。強すぎる刺激に、降谷はあっけなく吐精した。
「な、……ぁっ、なん、でお前、は、……っ! あぁっ……!」
「俺がなんだって? あぁ、別に昼間のことなら気にしなくていい。さっきは大人げなかったな、謝るよ」
「……っ! あぁ……イッ――」
もしかして、怒ってる?
――あの赤井秀一が?
訳が分からない。
「もう、駄目……」
「君の身体はそうではないみたいだぞ。ほら、まだこんなに溢れてくる」
力を緩めることなく腰を打ち付けられる。ベッドが軋む音が部屋へ響いた。
「や、あっ! だめ、もうこれ以上……ン!」
「生憎だが、俺の方がまだなんでね」
生理的な涙が滲み、視界が歪む。もう、自分が何を口走っているのか判別も付かなくなっていた。
「あん……やだ、も、……ん、赤井、赤井……だけ、だから」
「何が俺だけなんだ?」
「そんな、……の、自分で、かんがえろ、馬鹿……!」
後ろに収まっていた質量が大きくなったと思えば、顔面にキスが降り注がれた。わざとらしく音を立てながら、啄むように口付けが重ねられていく。
「参ったよ君には」
口付けが深いものへと変わる。赤井の首に腕を回して、その体温を全身で感じながらゆっくり目を閉じた。
アプリの通知音と振動で目を覚ました降谷は、重い瞼を擦りながら端末を手に取った。
画面には、見知らぬ番号からのメッセージが一件。
受信箱を開くと、末尾に『種崎』の文字。そういえば、昨日連絡先を交換していたのだった。
――昨日はありがとうございました。安室さんがよろしければ、もう一度会っていただけないでしょうか。
画面をしばらく見つめた後、そっとサイドテーブルへ戻して、もう一度白い海に沈み込んだ。
彼女に会ってくれないかと研究所から連絡があったのは二週間前のこと。完全とは言えないまでも健康の範疇である降谷は、感染者の中でも異例のスピードで特異への適応を果たしていた。多くの者は体調を崩したまま入院を余儀なくされ、回復の兆しが見えない――そんなケースが殆どだと聞く。その上科学では説明のしようがない奇妙な現象が起きるのだから、巷では様々な憶測が飛び交っていた。研究所は沈黙を貫いていたが、昨今の都内で相次ぐ発生事故を見ていれば、事態がこれまでとは違う局面にあるのは明白だった。政府が情報をひた隠しにできるのも時間の問題だろう。
種崎マリアの経歴に不審な点はなかった。出身は三重県で、就職を機に上京。二十六歳の独身。専門商社の事務職員として都内で勤務し、喫煙歴は無し。
「……僕もしばらくは制御が効かなくて、大変でした。あまりにも頻繁に起きるので、何度か実験をしたんです」
「実験?」
「ええ。いくつかの条件のもとで、変容と解除をコントロールするところまでは、なんとか。その瞬間を意識すれば、だれかと一緒にいる間だけは、回避できるかもしれません」
「解除の瞬間まで……!? そんな……凄いです。安室さん」
「ちょっとしたコツがあるんです。たとえば――」
降谷が過去に試した事象を話し始めると、彼女は目を輝かせながらその話題にのめり込んだ。
同じ境遇の人間が目の前にいる。それだけでも十分彼女にとっては救いなのだろうが、けれど、それ以上に異能への対処策が種崎の心を揺さぶったようだった。
「……すごく、参考になります。どれも、すぐに実践できることばかり」
「体質によって個体差が出る可能性もありますから、必ずしも種崎さんの助けになるかはわかりませんが。ご参考にしていただけたら嬉しいです」
「そんな……!本当に、助かります。そのお話を聞けただけでも、心が軽くなった気がします」
伏し目がちに、種崎は目の前のグラスに刺さったストローで半分になった2杯目のアイスティーをそっとかき混ぜる。唇を僅かに開くと、少し重たい口調で続けた。
「でも――」
「?」
「そんなに使って、大丈夫なんでしょうか」
「……というと?」
「あっ!……いえ、なんでもありません。私の勘違いでした。お気になさらないでください」
彼女はすぐに視線を逸らし、テーブルの一点を見つめた。首には僅かな発汗。
――今のは……
店のウェイターが追加の水を運んできたので、降谷は会計の合図を送る。
うっかり本音を漏らしてしまった仕草のようにも思えたが、彼女の言動には言いようのない違和感が介在していた。まるで、そう見せること自体が目的であるような。
店を出た二人は、駅までの数分の道のりを並んで歩いた。
例のウイルスが蔓延しているとは到底思えないほど、穏やかで静かだった。陽が傾いて茜色に染まった足元へ、風に乗った木の葉がくるくると踊る。見えないだけで、自覚症状がないだけで、すでに浸蝕が進んでいるかもしれないその世界は、本当に存在しているのかすら疑問に思えた。
最寄りの米花駅までは、種崎の職場の話や、趣味のガーデニングの話など、たわいもない雑談を続けた。数時間前とは違って、彼女の表情には晴れやかさが戻ってきていたような気がする。
「安室さん、今日は本当にありがとうございました」
改札の前で、種崎は降谷にぺこりと頭を下げる。
「とんでもないです。僕も同じように戸惑っていた時期があるので……種崎さんのお話を聞けて安心しました。お互い、無理のない範囲でやっていきましょう」
「はい。安室さんに教えていただいた対処法の数々、さっそく実践してみたいと思いま――」
最後まで言い終わる前に、言葉が途切れた。そのまま口を窄め、ぴたりと動きが止まる。瞳孔が開き、安室の背後へと一直線に視線を向けている。
一体何が……と思った次の瞬間、覚えのある重圧感が背後からのしかかってきた。
「……安室くん」
「は!?」
そこには漆黒のTシャツにブラックデニム――全身で太陽光を吸収するつもりか、と言いたくなるような降谷の半同居人が立っていた。
……どうみても、機嫌が悪い。
隣にいる種崎の存在を思い出し、内心で溜息を吐いた。降谷は彼女に悟られないよう、唇の動きだけで例の相手であることを伝える。その合図を確認した赤井の眉間の皺がより深いものになっていく。
赤井の凶悪すぎる顔を直視した種崎は、小さな悲鳴を洩らしそっと降谷の背後に身を隠した。
なにかが変だった。
この感じは、ただ怖がっている、というよりも。
「驚かせてしまってすみません。この人、仕事仲間なんですけど、この後飲みに行く予定だったの忘れていて。どうか気にしないでくださいね」
「はっ……! あ、いえ……そんな! そしたら私、こ、こここの辺で失礼します……!」
種崎は頬を染めながら、足早に改札口へと向かった。姿が見えなくなるのを見届けると、キッと背後にいた男を睨みつけた。
「……そんな人相で登場しないでくださいよ。僕まで不審がられたらどうするんだ」
「相手が女性だとは聞いてないが」
「性別なんて関係ないでしょう。そもそも、例の件は他言無用。ぺらぺらと詳細を話せるわけないじゃないですか」
「それで、収穫はあったのか?」
「僕を誰だと思っているんです」
得意げに笑みを浮かべた降谷の髪と睫毛が、夕陽を受けてきらきらと揺れた。
半月切りのレモンが沈むアイスティーが、からんと音を立てる。薄く色のついたサングラスをかけたまま本に目を落としていた降谷は、待ち合わせ相手の存在に気付くとそっとページを閉じた。
「……失礼ですが、安室透さんでお間違いなかったでしょうか」
そう声をかけてきた女性は、つばの広めなキャペリンを被り、清らかさを強調するオフホワイトのワンピースを靡かせ、降谷と同様サングラスをかけている。
「はい、僕が安室です。種崎マリアさん、ですか?」
降谷が腰を上げて答えると、種崎は分かりやすく胸を撫で下ろした。
「初めまして。種崎と申します。本日はどうぞよろしくお願いします」
降谷の向かいに座ったところを見計らい、ウェイターが注文を取りに来る。彼と同じものを、と告げると、種崎は黒のエナメル素材のハンドバッグから身分証を取り出した。
「念のため、ご確認いただけたらと思います。伊藤さんからお話を聞いて、実を言うと半信半疑ではあったのですが……来てくださって本当に嬉しいです」
赤く塗られた口元が弧を描く。降谷が想像していたよりも華美な印象を持ったその女性は、丁寧な口調で降谷へ感謝を述べ、頭を下げる。
伊藤は、降谷と種崎の共通の担当医である。今回二人を引き合わせたのもその人だった。
「こちらこそ。同じ境遇の方にお会いできるなんて、僕にとってもありがたいことです。ところで、場所は僕の方で決めてしまいましたが、問題なかったでしょうか? 周囲が気になるようでしたら、どこか別の個室へ移動することもできるのですが」
相手が女性の方だと聞いていたので、いきなり個室というのもどうかと思いまして、すみません。僕はどちらでも大丈夫です。サングラスを外しながら降谷は答える。
お待たせしました、とウェイターがアイスティーを彼女の目の前に差し出した。種崎は添えられたミルクを流し込むと、ストローでゆっくりと混ぜ合わせる。
「いえ、ここで大丈夫です。お気遣いありがとうございます。それにしても、素敵なお店ですね」
カラフルなランプやモロッカンスタイルなカーテンで彩られた店内は、少し薄暗くエキゾチックな印象を与えた。夕方からバータイムに切り替わるのだが、この時間はまだ客入りが少ない。降谷が座っていた席は半個室仕様になっておりオープンではあるものの、相手が探偵や警察でない限り会話を盗み聞かれるリスクはそう高くないだろう。
「御食事はどうされますか? もしまだのようでしたらご一緒にいかがですか」
「ええ、実は朝から何も食べていなくて、お腹ぺこぺこで」
種崎の表情が少しばかり明るくなる。メニューに載っていたおすすめを3つほど注文すると、降谷は目の前の女性に体を向きなおした。
「単刀直入にお伺いするのですが、種崎さん。あなたの異能は小動物に姿を変化できること。そう聞いていますが、間違いはないでしょうか?」
「はい。厳密に言えば小動物全般というよりも、猫の姿になれる、と言った方が正しいかもしれません」
降谷が担当医から聞いていた話と全く同じだった。この人は、降谷と全く同じ能力を、あの感染症によって引き起こしている。
相手を刺激しすぎないように、降谷は言葉を選んだ。
「それは、いつから? そうなる前に、何か兆候などはあったのですか」
種崎の目が泳ぎ始める。動揺を隠すように、アイスティーに口を付けて一気に飲み干した。ストローの端に口紅がべっとりと付着する。白く不健康な肌がぶるりと震え、祈るように両手を前で重ねた。
「……そう、ですね。ちょうど半年ほど前でしょうか。キッチンで戸棚からグラスを取ろうと、踏み台に乗ったんです。グラスを手に取った瞬間、視界が霞んで、目の前がぐらついて……気が付いたら、その、身体に異変が起きてました。グラスが床に落ちて割れて、その破片で足を負傷してしまって……」
それが、種崎が第一に感じた恐怖だと言う。種崎の話は続いた。
「怪我は大したことなかったのですが、精神的に参ってしまいまして。これが大きな事故に繋がったらどうしよう、と。検診で担当医にそのことを話したら、クリニックを紹介してもらいました。そこで処方してもらっている薬を飲んではいるのですが、それでも気分の浮き沈みが激しくて」
グラスが空になったアイスティーを、ストローでからからと掻き混ぜる。降谷が追加の注文を促すと、首を横に振ってお冷に手を付けた。
「……お付き合いをしている男性がいました。研究所からは他言無用だと言われていたので、彼にも言い出せませんでした。でも、彼の前で突然変異してしまったらどうしようって……ずっと不安で、眠れない日が続きました。基本的には一人きりの時にその事象が発生していたので、問題はなかったのですが……」
「変化が訪れる前に、何かを感じ取ったりはしなかったのですか?」
「特には。なんの前触れもなく、唐突に。自分がどうやって元の姿に戻ったのかも、記憶にないんです」
異能の種類は同じだが、発現する前後については症状に個体差があるということなのだろうか。
「ある日、彼を自宅に招いた時。……こんな場所で話すような話題ではないのですが、その、ベッドの上で。彼に抱かれているとき、それは突然訪れました。彼からすれば、抱いていた女が突然消え失せ、そこには子猫だけが残されているんです。気味が悪いですよね」
「…………」
「化け物だって罵られて、彼は部屋を出ていきました。彼に会ったのはそれっきりです。それ以来、外に出るのも怖くて、仕事も休職しています。研究所には、事情を話したら自宅まで迎えにきてくれるので、検診には足を運んでいるのですが」
「……それは大変でしたね。今日は、大丈夫だったのですか」
「はい。ピアサポートの件については、伊藤さんからよく聞かされていましたので。どんな方がお相手なのか不安だったのですが、安室さんのような素敵な方だと分かって安心したんです」
「そんな風に思ってもらえて光栄です。でも、無理はしないでくださいね。少しでも体調が優れなかったら、すぐ帰りましょう」
ケバブやシシ・トゥクが盛られた豪勢なプレートが降谷たちのテーブルへ運ばれた。食欲をそそる香りに、少しだけ種崎の表情が和らいだ気がした。
その様子を見てふと、数週間前に赤井が見せた怪訝な顔を思い出す。
無理もない。ここまでくると、自然発生的なものだと思わざるを得ないからだ。それが本来あるべき姿で、何も不都合はない。
……よかったじゃないか、それで。
本当に?
何かが胸の奥でもやもやとせり上がるのを感じながら、降谷は目の前の食事を平らげた。
やってしまった、と降谷は頭を抱えていた。
結局、僕と赤井は恋人という関係になった。何をどうしたら、一晩でこう事態が急変するのか。
能力を使って赤井を監視していたことに関して、色々と問いただされるのではないかと覚悟を決めていたのに、それを非難するようなことは一切しなかった。それが余計に降谷を苦しめる。
あんな捨てられた犬みたいな顔で頼むよなんて言われて、断れるか、馬鹿。
流されるまま首を縦に振ってしまったこと。男の言動一つ一つに振り回されている自分に辟易する。言い訳なのは重々分かっているが、あの時は少々頭が混乱していた。今更顧みたところで、取り消せないことは理解しているのだけれど。
そもそも、返事も聞かずに勝手に事を進めることがあるか!? ほとんど強制わいせつじゃないか。何を考えているんだあいつは……。
相手が僕だったからよかったものの、あんな規格外いきなり突っ込まれでもしたら相手が気の毒でならない。
「―――さん、―――さん」
しかし、その規格外の侵入を許してしまったのは降谷当人である。
あの夜、リビングでキスをしたあと、空白を埋めるようにベッドへ雪崩れ込んだ。はじめは異物感に耐えられず足を大きく空中に蹴り上げ、赤井の背中に強く爪を立てた。頭を撫でられながら耳元で「大丈夫だ、怖くないから力を抜いて」「好きだよ、降谷くん」などと甘い言葉を囁かれていると、いつの間にかそれは僕の中に収まっていた。繋がっている間も違和感が凄かったものの、額に汗を浮かばせながら男が幸せそうに目を細めるものだから、僕までなんだかすごく気持ちよくなってしまった。
「――降谷さん!大丈夫ですか? もう、終わりましたよ」
耳元で大きな声がして、はっと顔を上げる。
採血はとっくに終わっていたようだった。意識が飛んでいたことに対してバツが悪そうにすみませんと頭を下げると、担当医が安堵の微笑みを返した。
「体調が優れないようでしたら、すぐに言ってくださいね。毎月来ていただいて申し訳ないのですが……」
「いえいえ、国内での実例が少ない中、稀少な被検体であることは理解していますので。こちらこそ、考え事をしていて失礼しました」
担当医の女性は、以前庁舎で会った研究員とは違い穏やかな人物であった。ここに勤めている者の素性はデータベースを見ても詳細がわからなかったが、何か特別な経歴を持っているというわけでもなさそうだ。
変わらず降谷は月一の検診を受けている。未だこの場所がどこかは知らされていないし、同じ感染者を施設内で見かけたこともない。ここを訪れる時は、常に周辺が静かなのだ。情報保護の観点から検診時間をずらしていることは想像できるが、施設内を漂う冷たい空気はどことなく不気味に感じた。まるで見えない何かに監視をされているかのような、背筋がぞわりとする感覚。
実際、監視カメラと盗聴器は診察室を含め施設内至る場所に設置されていた。この施設自体が極秘に建設された場所であることは確かなようだから、何も不思議なことはないのだがそれでも居心地は悪い。
赤井とはやむを得ずお互いの特異について開示をすることになってしまったが、本来この情報は本人と施設の研究員しか知り得ないことだ。感染者の中には身内に打ち明けることもあるだろうが、感染を恐れ隔離を図ったり、中には"怪物"扱いをされ絶縁になった親族もいる。降谷に発症した特異は他者へ直接的な危害を加えるものではなかったからよかったものの、一般に未知のウイルスに対する恐怖は計り知れない。
いつものように書類にサインをして、診察室から出る。カツ、カツ、と鳴る足音の後ろに続いた。
施設の中央にあるエレベーターは地下駐車場まで繋がっている。担当医が降谷を見送ることができるのはそこまでだ。
視線を床に落としたまま、女医が言う。
「……あの、降谷さん。あと少しだけお話、よろしいでしょうか」
「はい?」
ロビーで運転手が待っていることは分かっていたが、女医があまりに視線を泳がせているものだから、一度来たエレベーターを見送った。
「実は……」
***
降谷が赤井の自宅に到着したのは午後二十一時を回った頃だった。
身体を繋げてから、自然と赤井の家にいることが多くなっていた。その原因の大半は、深夜に二人でベッドへ雪崩れ込み、そのまま朝まで体を拘束をされてしまうからである。それでも初めは赤井の目が覚める前に一度自宅へ戻って身支度をしていた降谷だったが、「俺がいない間も自由に使ってくれて構わない」などと言われなんだかんだで絆されてしまった結果、少しずつ私物をこの部屋に移動させていた。
「おかえり、降谷くん」
持たされた合鍵を回して扉をあけると、リビングから赤井が顔を出した。
「……ただいま」
ただ挨拶を交わすだけだというのになんだか照れくさい。今どき十代でもしないようなぎこちない反応をしていることは自覚しているのだが、こいつの前だと取り繕うことができない。帰りに購入した飲料と軽食をダイニングへ置き、荷物と上着を掛けに寝室へ向かった。
ゆっくりと男が近づく気配がして、鼓動が鳴った。荷物を下ろした降谷を赤井が後ろから抱きしめると、頬に軽いキスが落とされる。
「ちょっと、離れてください。まだお風呂も入ってないのに……」
「君はいつだっていい匂いがする。気にしなくていい」
「そういうことじゃなくって!」
重なるようにリップ音が鳴る。じゃれつくように肌を辿る唇がくすぐったかった。首に顔を埋める赤井から距離を取ろうと、腕を引き剥がそうとするが力が入らない。甘く吸い付く感触から、密着した身体から伝う温度が、気の緩みを生む。ついに降参した降谷は、くるりと身体を翻すと首に手を回してキスをせがんだ。歓迎するように、厚い舌が絡み侵入してくる。
「ん……」
目を閉じて赤井の体にぎゅっとしがみ付く。しばしば甘い声を漏らしながら、その時間を堪能した。
「……そんなことを聞かれていたのか」
ちょうど成人男性が二人入れるくらいの湯船に漬かりながら、本来であれば御法度である月一検診の話題に移った。
「ここ最近は血液検査の前に必ず聞かれますね。生活で困ったことはないかとか、"力"をどれくらい使ったかとか」
濡れた毛先に赤井の指が触れる。
「赤井は? なかなか大変なんじゃないか、動物の相手をするのも」
こいつが女性にモテるのは十分思い知っているが、そういう類にも好かれそうだし。
「そうでもないさ。頻繁に遭遇するわけでもないしな。彼らには彼らの生活がある。会話が聞こえてくるだけで、無暗に交流を図ったりはせんよ」
「……それもそうか」
能力を行使する回数によって、身体へ及ぼす影響が変化してくるのだろうか。それでいくと、実験を含め赤井にバレるまでは毎日のように使ってしまっていたような気もする。だが、血液検査でも数値は異常なし、特段心身の不調なども無い。
不可解なのは、散々感染拡大を恐れられていたのに、新規感染者の報道が減少傾向にあることだ。仮に感染が止まっているとすると一部地域では治療薬が完成したことになるのだろうか。本当にそうなら喜ばしい話だが、米国側にもそのような話は入っていない。
とすれば日本同様、情報規制が入っているのだろうか。万が一そうなら厄介だ。
それに、最後に話した女医の言葉がどうも引っ掛かる。
「赤井はあの施設で他の患者と会ったことってあります?」
「ん?あー……言われてみれば、あまり見ないかもな」
「そうなんですよね。僕もお会いしたことがないんですけど」
担当の女医さんが、僕に会わせたい人がいるって。
次回の検診の際にその人物を同席させてほしいとの頼みだった。盗聴器を気にしているのか、少し伏し目がちに小声で呟く彼女の様子が気になった。会わせたい人とは、なんだろうか。診察時間を大幅に過ぎていたため、他の警備員に怪しまれるとまずいと思い、詳細を尋ねることは避けたのだが。
次回の検診は一ヶ月後だ。
「……降谷くん」
しばらく黙っていた赤井が口を開いた。少し前までの甘い雰囲気から一転、空気が変わったような気がした。
「君のことは信頼している。だが、相手とその目的によってはこちらとしても出方を考えなければならない。それは分かっているな?」
「もちろんです。ただ、もし相手があちら側の関係者だった場合、これ以上ないチャンスだとも思いませんか?」
にやりと口角をあげる降谷に、赤井は本人に見えないよう小さく溜息をついた。
あれからどのくらい眠っていただろうか。ぼんやりとした思考のまま身体を起こすと、ベッドシーツが新しいものに交換されていることに気付いた。寝ている間に着させられたであろうスウェットの袖が少し余っていることに眉を顰め、再び枕に顔を沈ませる。
「……本当に、何をやってんだ僕は」
玄関から鍵が閉まる音がした。感じ慣れた気配と足音が近づき、背中を強張らせながら頭から布団を被る。
「降谷くん? 起きてるのか」
「……寝てますが。わからないんですか」
「起きてこれるか。ハンバーガーを買ってきたから、一緒に食べよう」
……ハンバーガー。赤井が口を開けて頬張っている姿があまり想像できない。不測の事態であるにも関わらず体の反応は正直で、胃の底からきゅう、と音が鳴った。吸い寄せられるようにリビングへと向かうと、ベランダで紫煙を燻らせていたこの家の家主が目線をこちらに寄越した。
「おはよう、よく眠れたか」
「……洗面台を、お借りしてもいいですか」
染みわたる冷たい水が降谷の思考をクリアにしていく。その反面、鏡の中の現実と向き合えば一段と気が重くなった。一体どんな顔をして、赤井と向き合えばいいのだろう。
数十時間ぶりの食事を前にすれば空腹が刺激されずにはいられなかった。肉厚なパティとオニオンスライス、バンズからはみ出るベーコンが食欲をそそる。程よく組み合わさったタルタルソースの酸味と肉汁が合わさって、枯渇した体を満たしていく。
その間は一言も発することなく、ただ夢中で飲み込んだ。
氷で味が薄まったコーラを口に含みながら、目線だけを動かす。視界の端に映った、国内最大手メーカーのロゴが描かれた段ボール。未だ処分されていないそれを見ると、改めてここが赤井の家だということを認識させられる。喉に何かがつかえたような焦燥感と、拭えない罪悪感。
そんな降谷に対して、眼前の男は特に変わった様子はなく、黙々とハンバーガーを平らげていた。昨夜、あれだけのことをしておいて、普段と変わらない態度でいられる図太さには驚きを通り越して感心すらしてしまう。この男にとって、あんなのはよくある事故のようなものなのだろう。これ以上考え続けるのは無意味だと、諦めがついたような気がした。
「いつからわかってたんですか、あの猫が僕だってこと」
意を決して口火を切った降谷の声は、少しだけ震えていた。ベランダの窓から差し込む茜色が、夜に溶け込むようにだんだんと色を変えていく。
「……確信は持てなかったが、疑いはじめたのは庁舎で話した時だな」
薄まったコーラを飲みながら赤井は答えた。
「あの猫が訪ねてきて数日経った頃だったか。『自分が感染者だったら、能力を使ってみようと思うか』と尋ねた時、君はどちらともとれないような態度だった。不自然なくらいに」
赤井に尋ねられた時、確かに動揺した。その自覚は少なからずあったが、まさかそれだけで疑惑を与えてしまうとは。
「まぁ、それはきっかけに過ぎないが。他にも不可解な点がいくつかあった」
「不可解な点?」
しばらくの間、沈黙が続いた。なぜかその先を赤井が出し渋っていることに違和感を覚えたが、続く言葉を待った。
「声が」
「え?」
突然出た言葉に虚を突かれ、目を丸くする。
「なんですか、声って」
「声が聞こえなかったんだ」
「はい?」
「君の猫から」
「何言ってるんですかあなた……」
当たり前でしょう、猫なんだから。頭でも打ったんですか。
陽が落ちて街灯がつき始めている。さすがに部屋の中が暗くなってきたので、電気をつけに席を立った。ふと、浮かんできた一つの可能性に思わず足を止める。
「貴方、まさか」
「……そのまさかだ」
「いつから……?」
「君よりも前だろうな、おそらく」
「どういうことですか、声が聞こえないって」
「どうやら俺のは、動物と意思疎通ができる類のものらしい」
電気をつけて再び椅子に腰を下ろし、薄まったコーラの容器に再び手を伸ばす。残念なことに中身は既に空だった。遠くから、鴉の鳴く声が微かに聞こえる。
「動物と、意思疎通」
時間が止まったかのように、降谷は硬直した。様々な感情が綯い交ぜになりながら、しかしどこかで糸が切れた降谷は、堪えきれず腹を抱えて噴き出した。
「……よりにもよって赤井が…………、ふふ…………はははは」
「笑いすぎだぞ。一応俺も被害者だが……」
「待って、ちょっと、だめかも。なんで、そんな、童話みたいな……ふふふふ……」
目尻に涙を溜めながら、身体を小刻みに揺らす。緊張から解き放たれたように、お腹を抱えて笑った。一頻り笑い切ると、小さく咳払いをして、体を正面にいる男に向き直した。
「動物の感情が読めるってことですか」
「感情が読めるというよりは、何を喋っているかが分かる。言語として理解ができるし、こちらから呼びかければ会話も可能だ。ただ、君の言語は理解できなかった。だとするとあの猫はカムフラージュなんじゃないかと考えた」
「へぇ……」
思い返してみれば、赤井は何度も子猫に声をかけていた。人間が動物に声をかけることくらい別に珍しいことではないが、赤井の場合本当にコミュニケーションを取ろうとしていたということなのだろうか。動物以外にはその力が発揮できないとなると、降谷の異能は本当に動物に変化しているわけではなく、あくまで外見のみ改変できるということなのだろう。実際、嗅覚が変わることはなかったのだから、合点がいくが。
「キャットフードに手を付けないという点も気になった。それと、あの猫が来るのは決まっていつも君と会った直後だったからな。まさかとは思っていたが」
「なんで、黙っていたんですか」
「それは、君にも同じことが言えるだろう」
「うっ……それはそうですけど」
そう返されてしまっては何も言えなくなる。元はと言えば降谷の方が能力を使って何度も赤井の家に不法侵入していたのだから。訴えられても文句は言えない。
「そんなことより、君からの返事をまだ聞かせてもらっていないが?」
「は?」
片手をぎゅっと掴まれ、反射で身体を強張らせた。
「もうあきらめて、俺の恋人になってはくれないだろうか」
「…………」
直球すぎる物言いに言葉を失う。細められた双眸に見つめられるとやっぱり居心地が悪い。だから、そんな目で見るなと言っているのに。包み込むような声が耳の奥で木霊する。
「君のことをもっと知りたい。仕事でも何でも構わない、近くに居られるだけで良いと思っていた。ただ、あの猫が君だと知って、気が変わった」
絡められた指先の感覚が昨夜の情事を思い起こさせた。こんなもの、すぐにでも振りほどけるはずなのに、追い詰められた獲物のように為す術を見つけられない。
「頼むよ、降谷くん」
もう片方の手が、降谷の頬に伸びる。電気をつけたことを後悔した。嫌というほど、柔らかく僕を見つめる赤井の表情が目に焼き付く。
「君の男にしてくれないか」
伝う体温が哀しすぎるくらい温かくて、今すぐ手を払いのけてしまいたかった。全身が叫ぶように、そのぬくもりを欲していることを、降谷は認めざるを得なかった。
「……後悔しても、知りませんから」
距離が近づいてくることを感じて、ゆっくり目を閉じる。数時間ぶりの赤井とのキスは、薄いコーラの味がした。
静かに目を瞑って、その唇を受け入れた。柔らかな感触を味わいながら、やがて腔内が蹂躙されていく。時折、唇を離されては、またすぐに触れ合う。離れるタイミングで、少しだけ目を開けて、お互いの表情を確かめ合った。確かめたはずなのに、キスに応えるのに精一杯で、赤井がどんな表情をしているかなんて分からなかった。
互いの唾液を交換して満足したのだろうか、赤井は口の端をあげた。それからまるで犬のように舌の先でぺろぺろと降谷の唇をしつこく舐められた。これではどっちがペットなのかわからない。降谷も別にペットになった覚えは無いのだけれど。
指と指を絡ませ合い、諦めたように赤井を受け入れる。鳴りやまない心臓の音が、どうかこの男に聞かれていませんように。
唇が首筋に移動し、ぞわりとした感覚に身体がビクッと跳ねた。重なるリップ音が鼓膜に響く。じゃれつくように顎や首にキスをされ、くすぐったい。恥ずかしいけど、不思議と少し気分がよかった。
「…あっ!ひゃっ」
これまで一度も触れられていなかった下半身に、赤井の手が触れたことで、甲高い声が出てしまった。
「降谷くん、勃ってる」
「うぅ……言うな」
キッと睨みつける降谷の顔に、いつもの威勢はなかった。長すぎるキスのせいか、早く触れて欲しいとばかりに、目を潤ませ、頬を紅潮させている。
ごりゅ、と何か硬い物が下半身に触れた。
「心配しなくていい、俺も同じだ」
衣服の上からでもわかる赤井のそれは、存在を主張するかのように硬度を増していた。
あの赤井秀一が、僕とキスをして、興奮している。
心臓の音がうるさい。既にキャパオーバーだったが、これ以上どうしろというのだろう。怖いのに、でもその先を知りたい、そんな矛盾した感情が共存する。
「理解」していなかったことが鮮明になっていく感覚が怖かった。知れば知るほど、目を背けてしまいたい、いっそこのまま逃げ出して、赤井に絶対見つからない地の果てまで飛んで行って、どこかの地下室で籠城していたい、そんな気持ちになる。
認めたくない。認めない。認めたい。
赤井は降谷のスウェットに手をかけ、下着ごと膝まで下ろした。冷たい空気が直接触れ、身震いする。
キスをしただけだというのに、降谷の屹立からは粘着力の高い透明な糸が引いていた。局部だけ晒されている状況で、それをじっと見つめている赤井がそこにいるだけで信じられないというのに、その光景から目が離せない。
男は慣れた手付きで聳え立った剛直を取り出すと、降谷のそれにくっつけて見せた。大きさの違いを見せつけられているようで、腹立たしかった。
両方をまとめあげると、ゆっくりと丁寧に扱き始める。中心に全身から血液が集まるのを感じた。既に膨張し硬度を持っていた赤井のそれに擦りつけられ、ダイレクトに快感を拾ってしまう。亀頭を親指でぐちゅぐちゅと撫でられ、卑猥な水音が早朝の光が差す部屋に響いた。
「……ん、……っあ」
カーテンは閉め切っているものの、漏れ出した陽射が明るく照らしているベッドの上では、完全に行為が丸見えだった。目を瞑っていればいいものの、どうしても視線を離すことができない。
「……んうっ、あ、……っあ、あ……」
自分から甘い声が溢れるたび、全身が心臓になったみたいに、身体が熱くなっていく。ふと赤井の方を見れば、いつからそうしていただろうか、じっと僕の顔を見つめていた。余裕のなさが感じられる獣のような目で、今にも瞳だけで犯されてしまいそうな、そんなゾクゾクする何かが降谷の背筋を走った。
「……すごいな、溢れてくる」
「……っ!……だから、黙っ、……ぁ!」
赤井が倒れこむように降谷の顔の横に腕をついたかと思えば、再びキスをせがんだ。無理やり舌を入れるようなことはせず、あくまで降谷の許しを待つ飼い犬のように、顔を近づけてはその時を待っている。首に腕を回して、赤く果実のような舌をちろりと覗かせると、それを合図と取った赤井は蠱惑的な唇にしゃぶりついた。口腔内が性感帯になったかのように、赤井の舌が這うたび下半身がドクドクと脈を打っていく。
「……んっ、ん!んんっ!」
呼吸が苦しい。唇が離れた瞬間を狙って酸素を取り込もうとするが、そんな隙も与えることなく濃密な口付けが交わされていく。僕の唇、いつしか食べられてしまうんじゃないか。そんな不安すら過る。ふわふわと麻薬のような快楽が降谷の思考を堕落させていく。これ以上気持ちよくなったらダメなのに。もうやめてほしい。やめないで。
射精感が近くなり、軽く赤井の肩を押した。
「も、もう、いいから、離れ、て」
「何故? こんなによさそうなのに」
「このまま、続けたら、イッちゃ、あ、あ」
「見せてくれ、君がイくところ」
「……ん、や、無理、ぜったい……、あ、んっ」
降谷の右頬に、触れるだけのキスが落とされる。小さく音を立てながら、何度もそれは繰り返された。全身あらゆる部分が敏感になっていて、赤井が触れる度に仰け反るように身体が跳ねる。
「かわいい。降谷くん」
耳元でぼそっと囁かれたその言葉のせいで、降谷はあっけなく射精を迎えた。
ぽたぽた、と粘度の高い白濁が褐色を汚していく。力を失っていく降谷の屹立に対して、赤井のそれは未だ臨戦態勢を保っていた。
「後ろを向けるか? 楽にしてていいから」
「ふ、うん……? うん……」
うつ伏せになるよう赤井に言われ、くるりと身体の向きを変える。ぐったりと四肢を投げ出し息を整えていると、臀部に赤井の息が触れた気がした。
お尻にチクりと痛みが走る。なに……?
確認をしようにも、赤井に体重をかけられていてうまく振り向くことができない。いや、でも、もしかして。もしかしなくても、こいつ、噛んで…!?
左右に一か所ずつ甘噛みされたかと思えば、双丘の境目に優しくキスが落とされる。尾骶骨からゆっくりと降りてくる感覚に、ぞわぞわした。このまま足蹴りして拒否することもできたが、既に脳が溶け切ってしまっている降谷は、ただただ快楽を享受することしかできなかった。
赤井の厚みを持った舌が、割れ目をゆっくりとなぞる。無理やりこじ開けるようなことはされず、傷口を舐められているかのように、ふわふわとした感覚が尾を引いていく。
これ以上はダメだと頭ではわかっているのに、降谷は対抗する術を持ち合わせていなかった。
会陰部まで辿り着くと、べろりと舌で舐め上げ、最後に内腿に甘噛みを残した。
「好きなのか?こうされるの」
「……なっ! す、好きなわけ、あるか!」
「抵抗しなかったのはなんでだ?」
「うっ…………」
真っ向から指摘され何も言えなくなってしまう。快楽に身を任せてしまったのは自分であると理解していたからこそ、悔しかった。
「冗談だ。悪かった。嫌だと感じたら拒否してくれていい。君に不快な思いをさせたくないんだ……。気持ちいいと思ったら、教えてくれ」
頭を撫でられる。お前、本当にそういうとこだぞ。
少し立てるか、と言われ四つん這いになると、内腿をぴったりと閉じられる。その隙間に、硬い熱棒が捻じ込まれ、腰を揺さぶられた。
覆いかぶさるように身体を密着させられる。擦る音が響いて、はずかしい。そればかりか、後ろから乳首を抓られて、また媚びるような声が出てしまう。
「……あんっ、やだぁ……」
腿にまで飛び散った白濁が潤滑剤となって、内腿の間を滑っていく。激しい腰の動きを肌で感じるたび、犯されているのではないかと錯覚してしまう。
恥ずかしさと快感が綯い交ぜになって、苦しいのに、あたたかくて、きもちいい。
「……っ、んん、はぁ、も、触らなくて、いい、から……」
直接挿入されているわけではないのに、まるでセックスをしているような猛獣の動きに腰が疼く。
今、自分に腰を振っている男がどんな表情をしているのか見てみたいと思ってしまった。好奇心というものは、いつだって厄介だ。
赤井の息遣いが聞こえる。あまりに性的な空間に、一度は力を無くしていた中心が再び擡げはじめていた。赤井がそのことに気が付かないはずもなく、乳首を摘まんでいない方の手で屹立に触れられ、びりびりと電流が走る。
「……あ!、あぁ!あ、あ、は、あ、ぁ」
「……っは、もう出すぞ」
臀部を支える手に力が入り、抽送が激しくなる。パチュ、パチュ、と肌が触れ合う音に耳を塞ぎたくなった。
しばらくして温かいものが内腿を伝うのが分かった。先に放出していた降谷のそれと混ざり合い、下半身もシーツもぐちゃぐちゃだった。
全ての力を使い果たしたように、二人はベッドへ沈みこむ。赤井は降谷を包み込むように腕の中に閉じ込め、こめかみにキスを送った。いつのまにか握られていた手が温かかった。赤井の膝の上で感じたそれと、同じ温度。絡み合う指から、耳に響く優しい声から、降谷を見つめるその視線から、愛情を感じてしまった。気づきたくなかったのに。だって気づいたら最後、この男にもっと捉われてしまうことになる。
そういえば、赤井はいつから子猫の正体が分かっていたのだろうか。そんな予兆、一切感じなかったのに。
微睡みの中、赤井が何かを言った気がしたが、暗闇に引きずられるように意識が落ちていった。
SSID研究センターから提出されたファイルに目を通しながら、男は角砂糖が大量に投入されたコーヒーを呷った。勢いよくカップを置いたせいで、残っていた液体の一部が書類の上に跳ねる。
画面の光が眼鏡レンズに反射する。真っ暗な研究室の隅で男は必死に「その人物」を探した。カチカチとマウスを操作する音が鳴り響く。
「違う、これも違う」
従来からの癖ではあるが、苛立ちが募るごとに膝を揺する速度が増す。資料に記載された名前と顔写真、症状傾向を目で追いながら、いつ開封したかもわからないスナック菓子の袋へ手を伸ばした。
「どいつもこいつも、出来損ないばかりだ」
腹の虫が収まらず、デスクに置いていた大量のスナック袋を床にぶちまけた。中身が散乱するが気にも留めず、別室から持ってきたカロリーメイトの封を開けると片手で頬張りながら作業を続ける。
気が狂いそうになるほどのデータ量に舌打ちしながら、リストに載った人間の顔と名前を確認していく。作業を始めてから二時間が過ぎた頃、見覚えのある顔が目に留まった。
詳細のプロファイルへアクセスする。男が求めていたものがそこにはあった。
「……これだ」
記載されている内容に大きく目を見開く。その瞳は赤く染めあがり、昂っていた。興奮のあまりマウスを掴んでいた手が痙攣するように震える。
「や、やっと見つけたぞ! これで、ようやく世界の構図は変わる。ボクの求めていた、"完全"な世界だ」
やった、やったぞ! と、誰もいない地下の一室で狂喜の声を挙げる。勢いよくデスクを叩いたことにより、散乱した大量のお菓子の袋とそのおまけのフィギュアがバラバラと倒れた。
男はもう一度画面を見返すと、唇を綻ばせながら呟いた。
「まさかもう一度君に会えるなんてな、バーボン」
***
体重をかけられ身動きが取れなくなってしまった降谷は、その時点で完敗だった。
「それで、何か言うことは?」
赤井の目を見ないように、ゆっくり顔を背ける。額にじんわり滲む汗が冷たい。
「…………」
この期に及んで黙秘権を行使できるとは端から思ってはいないが、今は目の前にある現実を受け入れられなかった。
赤井がため息を漏らす気配を感じる。次の瞬間、手首を掴まれたかと思えば近い距離に男の吐息が降りてきた。
「降谷くん」
柔らかく少し冷たい感触が、頬に触れた。やがてそれは耳朶に移動し、唇で優しく挟むようにぱくりと咥えられる。まるで捕食でもされているかのようなその行為に、頭が錯乱した。赤井は形を確かめるように舌を転がし、リップ音を鳴らしながら耳への刺激を続けた。
訳も分からずされるがままになっているその状況に居た堪れなくなった降谷は、ついに抗議の声をあげた。
「……お、おい! お前、正気か!?」
「君こそ、抵抗しなくていいのか。この程度の拘束、君ならすぐにでも抜け出せるだろうに」
現に、赤井は本気の力で降谷を押さえつけている訳ではなかった。それにも関わらず身動きが取れなくなっているのは、赤井の目を見て逃げられないと悟ってしまったからなのかもしれない。
「降谷くん、こっちを見てくれ」
…………見れるか!
赤井の考えていることが分からない。得たいの知れない恐ろしさが体の中から迫り上がっていた。無理やり顔を向けさせることくらい出来ないはずがないのに、赤井はあえてそれをしなかった。
試されている。
降谷は腹を括って、ゆっくりと視線を向けた。
やっとのことで、自分を拘束している男と対峙をする。深緑の瞳の奥にはまるで猛禽類を想起させるような、鋭利な眼光が見えた。
「……言ったはずだぞ、降谷くん。俺は」
いやだ。聞きたくない。
あの日の言葉の続きが、鮮明に蘇る。あれから僕は逃げ続けている。その自覚はあった。
どこか、赤井に甘えてしまう自分が嫌いだった。ライと初めて出会った頃から変わらないこの感覚。まるで自分が自分じゃないような気がして、コントロールが効かない。
だったらいっそ、赤井と出会う前に戻ることができたら。組織が壊滅して、後処理は多少残っているものの、事実上これから一緒に捜査をすることもなくなる。
長年募っていた蟠りも、あの時全て清算できたはずだった。でも実際はそうではなかった。なぜなら自分自身が、それを、「理解」していなかったからだ。
***
全てが打ち明かされたあの日。ビルの屋上、雲一つない空の下でその話をするには、だいぶ似つかわしくないようにも感じていた。
憎しみが増長すればするほど、そして内情を探れば探るほど、赤井がいかに正しくて、際限なく強くて、それでいてある種の脆さを抱えているかを理解した。
赤井の情報がアップデートされていくたびに内側に眠る憎悪が形を変えていく。その感覚がどうしても釈然としなかった。
それなのにこの男は、そんなこともお構いなしに平然と僕に近づいてくる。優しく笑うあの瞳を見るたびに、居た堪れない気持ちになった。
そんな目で僕を見ないでくれ。
強く風が吹いた。金糸がぶわりと宙を舞い、視界が揺れる。
『僕はお前のこと、許すつもりはない。でも、お前が勝手にそれを背負う必要もない』
今となっては何を喋っていたのか、細かいことは思い出せない。
喉の奥から込み上げてくる何かを必死に抑えるように、赤井から視線を逸らした。
『もうこれ以上、僕に構うな』
何か言いたげに、しかし、静かに赤井は降谷を見つめていた。
しばらくして男が口を開いた。
『……君は、強いんだな』
『馬鹿にしてるのか?』
『素直にそう思っただけだよ』
『僕のことなんて、何一つ知らないだろ』
顔を合わせないまま、吐き捨てるように出た台詞は、今考えればあまりに幼稚で愚かだったと思う。
目を合わせる気のない降谷へ一歩近づき、赤井は言葉を落とした。
『なら、教えてくれないか。君のこと』
低く落ち着いた声が、すっと耳に落ちてくる。一瞬芽生えた自分の感情に緩く首を振った。
嬉しい、と思ってしまったのだ。その事実が降谷を再び苦しめた。
『俺はもっと君と親しくなりたい』
『あの、話聞いてました?』
場違いな赤井の言葉に、乾いた声が出る。駄目だ。これ以上、こいつに踏み込まれるわけにはいかない。あれだけのことをしておいて、これから赤井と友人のような真似事を? ありえない。そんなことをする理由がどこにある。それにこれ以上こいつと一緒にいると、僕は僕でいられなくなる。正常な判断が出来なくなる。
『君のことを知りたい。わからないから教えてほしい。これじゃ駄目か?』
『………………』
手首を掴まれ思わず顔をあげる。想定よりも真剣に見つめられていたので、居心地が悪い。
『君はもっと強欲な人間かと思っていたが……いや、そんな君も好きだよ』
ゆっくりと近づいた赤井の手が降谷の頬に触れる。いつの間にか涙で濡れていた顔を、赤井の大きな掌が包み込んだ。降谷はその手を跳ねのけるようなことはしなかった。
頭の中で警鐘が鳴り響いているのに、その瞳から目が離せなかった。
『すぐに結論づけなくていい。ただ、君がそう思ってくれたのと同じように、君だけを一人残すことはできない』
ぽん、と降谷の頭に大きくて暖かい手が触れる。それだけ言うと男は降谷の目の前から立ち去ってしまった。それが最後に見た赤井の背中だった。
***
それからずっと、なんとなく赤井のことを思い出すのを避けていた。
……あの日までは。
好奇心に抗うことはできなかった。赤井と捜査の話をするのは嫌いじゃない。ましてや、子猫として生きる僕を扱うあの手が、あんなに温かくて優しいものだなんて思わなかった。
欲しい、と思ってしまった。その時点で、降谷の敗北は決まっていたのだ。
そうであるにも関わらず、赤井に黙ってその優しさを享受しようとしていた。その事実が情けなくて、恥ずかしくて、もうどうしようもない。
「……なんで君が泣くんだ」
「え……」
重力に従って頬を伝う涙の粒を男の親指で拭い取られる。いつの間にか拘束が解かれていた手が、赤井の体温に包み込まれる。
僕はこの温度を、知っている。
再び距離が近くなって、まるでそうするのが正しいことであるかのように、自然と引き寄せられた。
突発的に降谷に備わった『力』の検証が始まった。頭の中で、子猫の姿を強くイメージしていく。上手くいかないときもあれば、念じて数秒で変化することもあり、まちまちだ。
身体的な変化がある場合、通常痛みや体調不良が伴うものではないのかと考えていたが、降谷のその『力』は瞼を閉じるだけで魔法のように変身ができた。
"解除"についても、徐々に感覚を掴めるようになった。基本的には発症者自身で解くことはできないようだが、元の姿へ戻る直前に軽度ではあるが視界がぐらついて霞む。これが合図となる。例えるなら気圧の変化で生じる眩暈のようなものだ。変化する際と同じで特段痛みは生じない。
いつしか降谷はこの異能を自在に操れるようになっていた。はじめは影響のない自宅内で実験をしていたが、徐々に庁舎に居る時でも降谷の意志で変化ができるかを試した。
もちろん部下のいる前で突然姿形が変われば彼らを驚かせてしまうため、利用者がいない時間帯の仮眠室等で行った(そもそも降谷が感染者であることはごく僅かな人間にしか共有されていない)。
当たり前だが子猫の姿の時は、身に纏うものは何もない生まれたままの姿だ。しかしながら、人間の姿へ戻ればしっかりと服を着ている。これは自宅でも立証済だ。身体的な負担もなく、姿を自在に操れるなんてなんとも都合が良すぎる。
では味覚や臭覚はどうなるか。赤井の部屋を訪れた時は、身体が過敏に反応しており普段よりも紫煙の匂いが濃く感じられた。
しかし、何度か繰り返した検証の中で、「味」に関しては障害が起きることはなかった。事前にキャットフードを用意して容器へとセットし、猫の姿になっても目の前にあるそれが美味しそうとは感じない。人間の味覚のままである。
猫の姿で器用に端やフォークを使って食事をするわけにもいかないので、仮にこの姿で捜査をするようなことがあれば、"猫らしく"振る舞う必要もあると考えていた。そうとなればそれなりの訓練が必要だ。
ところで、あの日以来、捜査に大きな進展はないものの赤井とは相変わらず二人で会う機会は増えていた。
それも降谷が、赤井との飲みの日は決まって赤井の部屋へ訪れるようになったからだ。訓練中の『力』を使って。
初日は勝手がわからず赤井の部屋を隅々まで調べることはできなかったが、次こそはと意気込んでいた。しかしながら、男は子猫の存在に気が付くと、ひょいと捕まえてすぐに膝上に乗せてしまうのである。こうなればもう身動きは取れない。しなやかな動きでその腕からすり抜けようと何度も試したが、そこから感じる人肌が降谷の思考を堕落させ、そのまますやすやと眠りについてしまうのだ。
赤井の部屋へ忍び込む回数が増えていくものの、当初の目的をまだ一度も果たせていない。由々しき事態だ。
週に一、二回しか現れない子猫のために赤井はキャットフードを用意してくれていた。人の味覚を持ったままの子猫は、それを口にすることはできない。毎度律儀にお皿を用意され、食事を促される。手を付けられずにいると、やがて人肌までに温められたミルクを用意してくれるようになった。これであれば一応は飲める。小さな舌をちょろっと出してミルクを飲むと、赤井の表情が和らいだように見えた。
もしかして、ずっと食事を摂ろうとしない猫を心配をしてくれていたのだろうか。
猫の姿で赤井の部屋で過ごすことがいつしか日課になってしまっていた。……赤井の傍は、心地がよかった。
カタカタとキーボードを叩く赤井の膝の上で、まるでペットにでもなったかのように、身体を丸めては暖を取って眠る。
はじめは自分の知らない間に猫化の効果が切れてしまわないか心配をしていたが、ある程度自分でコントロールができるようになった今、以前ほどの懸念は抱いていなかった。
――今思えば、この時の油断が事の発端だったのかもしれない。
赤井の方も、仮眠をとるときは子猫を抱いて寝た。本格的に寒くなってきたから、体温を求めているのだろうか。ベッドの中で赤井の心臓の音を聴きながら、深く眠る。
この男と寝食を共にするなんて通常考えられないが、子猫の姿で対峙している時は、どういうわけか気が緩んでしまう。
僕という存在の代わりに子猫が対峙してくれているからだろうか。
……この姿であれば、僕は僕のままでいられる。感情に溺れることなく、冷静にこいつと向き合うことができる。
安心して眠りについた赤井の顔を見つめながら、もしこのまま本当に感染が広がり、世界の構図が変わってしまったら……と考えた。
だめだ……眠い。どうもこの頃、思考がクリアにならない。もう少しだけ眠ってしまおうか。
朝が来る前には戻らないと。いつもの降谷零の生活に。
***
腕の重みを感じて目覚めた。冬の朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。目を擦りながら上体を起こそうとしたが、上手くいかない。
そもそも今は何時なんだ。時計を探そうにも、今は子猫の姿だから時間を確認できるものを身に着けていない……と思っていた。
いつもの小さくて柔らかい肉球がない。その代わりに見慣れた自分の腕がある。
額に汗がにじむ。まさか、そんなことは……絶対に。いや、でもこの重みは……
降谷の脚を掴んで離すまいと、その上から太く屈強な脚が絡みつくように巻き付いていた。その上、両腕で後ろからがっしりと抱きこまれている。
おい、おいおいおい嘘だろ!?
抜け出そうにも、凹凸がしっかりと合わさったみたいに固定されていて動けない。少しでも身じろぎをしたら、後ろですやすやと寝息を立てている男を起こしてしまう可能性がある。
不法侵入も甚だしいが、どう言い訳をする?
さらに理解できないのが、今の降谷が身に纏っているのが下着一枚のみであるということ。
どうして。なぜこんなことに。泣きそうになりながら、脱出方法を考える。
もう一度猫の姿に戻ることができれば、あの姿で抜け出せるだろうか。頭の中でイメージをし、強く念じる。しかし、降谷の思いは叶わず、身体に変化が訪れることはなかった。
どうして。どうして。
「…………寒いな……」
口から心臓が出るかと思った。どうやら寝言のようだったが、降谷を抱きしめる力が先ほどよりも強まった。さらに脱出が困難になる。
もう一度意識を集中させる。ふわふわの白い毛並みを思い起こす。お願いだからどうか今、この窮地だけでも……!
「黙秘を続けるんじゃなかったのか?降谷くん」
血の気が引いて、全身に滲んだ汗が急激に身体を冷やした。
次の瞬間、身体の向きをくるりと変えられ掛け布団の中で男と向かい合う形になる。信じられない。どういう状況なんだこれは。
「いや、あの、これは違くて、別にあなたを騙そうと思っていたわけでは……」
話し終わる前に突然、唇を塞がれ、脳内に複数の疑問符が生まれる。しばらくフリーズしていると、赤井が覆いかぶさるように降谷の身体の上に乗りかかった。
こいつ、寝ぼけているのか……?いやでも確かに今、僕のことを認識していた。
朝の陽射が強くなり、二人を照らし影を作っている。
どうやら、脱出のルートは完全に絶たれてしまったらしい。
それからというものの、パラビッドに関する捜査に進展はない。降谷が個人的に進めているそれとは別に、巨悪組織解体後の後処理としてFBIと手を組んでいた合同捜査も着実と進み、元組織メンバーの摘発も終焉に近づいている。表向きには、長らく置き去りにされていた関連犯罪を捉えることができ、人々の生活は「日常」へ戻りつつあった。
しかし、まだ隠された何かが水面下で動いている。そんな気がしてならなかった。
赤井が言っていた「SSID」とは、Synchronized Supernatural Infections Disease――同時多発的異能関連感染症の略称である。仮に、全世界で未知の感染症や疾病が同時に発生したとしても、そのように呼称することはあまり考えられない。この『同時多発』という言葉には、誰かの意志が介在している。赤井はこの隠された意味について調査員たちの会話からすぐ読み取っていた。
とすれば、同時多発的にパラビッドを蔓延させることを仕組んだ何者かがいるということになる。こんなことができるのは、解体をしたばかりだというあの巨悪組織、或いは組織と深い関わりのあった者以外に考えられない。
表面的には着実に片付いているというのに、本案件だけは上層部からも追及されず、潜入経験のある降谷にも捜査命令が下りてこないという"異常"な状況である。それにも関わらず、動く術がないことに降谷は辟易していた。
ただし、SSIDがただの思い違いだという線も残っている。本当にただの自然発生的なウイルスが原因だとすれば、降谷が関与する理由もなくなる。
定期健診でも、特に怪しい点は見られない。いつも通り採血と簡単な身体検査を受けるのみだ。しかしながら、――これはそう思うだけで確証はないのだが――得体の知れないものが降谷の管轄外で動いている、そんな勘が働いていた。
庁舎内の休憩スペースでベンチに腰掛け、缶コーヒーを啜りながら思案していると、許可なく隣に腰を据えた男がいた。
「君が今考えていることを当ててみようか」
「いきなり隣に座ってきて勝手に僕の頭の中を覗くのはやめてください。それで?何か面白いものでも見れましたか?」
「……なかなか意地の悪いことを言ってくれるな、降谷くん。そうだな、面白い、と言えば嘘になるが、俺は君の思考には常に興味がある」
「…………結論から言え」
「パラビッドにこれ以上深入りすべきかどうか、というところだろうか」
あっさり思考を読まれてしまい、深く溜息を吐く。概ね赤井も同じことを考えていたのだろう。互いの組織から上がってくるものは、どれも海外のニュースサイトを見ればわかる情報ばかり。警察組織内だけで共有されている機密事項は、日本国内で報道規制がされているだけで、特段目新しいものはない。加えてSNS上では実際に海外で発生した『異能の力』を使った動画や画像が出回っているため、フェイク動画なのではないかという憶測が飛び交いながらも事実上国民全体に徐々に知れ渡ってしまっている。
いつまで規制をし続けるつもりかは知らないが、そろそろ情報統制にも限界があるだろう。
「中国の福建省で、中指の先から着火した人間がいたそうだな。喫煙者にとってはライター要らずで便利そうだ」
「自分で加減がわかればいいですけどね。能力を過信しすぎて、ふとした瞬間に大切な人を傷つける可能性だってある」
「……君は、もし自分が感染者だった場合、その能力を使ってみようと思うか?」
ドクン、と心臓が大きく高鳴る。現に降谷は、もうすでに、何回もその能力を試している。
別に赤井を騙しているつもりはないが、実際のところ赤井はその事実を知らない。冷たい空気がぐっと胸を締め付けるような感じがする。
「能力によりますね。現在発表されている異能は法則がないように見えますが……あ、あれとかいいですよね、寝ている間に体内物質の数値計量をしてくれて、目覚めた時には必要な栄養素の数値が脳内にインプットされている、とかいうイギリスで起きた事例の――」
「発症した能力が、国家を動かしかねないようなものだった場合は?」
再び、鼓動が大きく揺れ動く。現時点で、他者に危害を及ぼしかねない能力ですら数件しか見つかっていない。だが、赤井のこの口ぶりからすると――
「……何か動きでもあったんですか」
「いや、単純に気になっただけだ。万が一発症者が犯罪組織と無縁の一般人であっても、見つかってしまえば隔離対象にならざるを得ないからな」
「……そう、ですね。例えば、隣国の機密情報を盗み見る能力だとか、そういった類のものであれば申告しなければ誰もわかりませんから、黙秘をするかもしれません。今の所、発症者の申告以外では、その人がどんな異能を持ち合わせているかなんて判りようがないですから」
「そうか、安心したよ」
赤井は立ち上がると、ぽん、と降谷の頭に手を添えたかと思えば、何も言わずにその場を立ち去った。
赤井に触れられたところから、妙な熱を持っていくことがわかる。おいおい、冗談だろ。
『――すぐに結論づけなくていい。ただ、君がそう思ってくれたのと同じように、君だけを一人残すことはできない』
あの日の言葉が数ヶ月ぶりに蘇る。高鳴る心臓の音を無視できないところまできてしまっているようだった。一番厄介な問題が、降谷の思考を歪ませる。
「……どうしろっていうんだよ」
いつもより感覚が鋭くなっている降谷の耳が、扉の開く音に反応した。白く柔らかい小さな耳がぴくぴくと揺れる。
ゆっくり目を開けると、見慣れない景色が広がっていた。いつの間にやら眠ってしまっていたらしい。
ハッとして、恐る恐る自分の両腕を確認した。白く細い毛並みに、桃色の柔らかな肉球。どうやら"解除"は免れたらしい。元の姿に戻っていないことを確認した降谷は、ほっと胸を撫で下ろす。
大きく伸びをし、目を擦る。赤井が居ない間に部屋中を調べ上げようと思っていたのに、時間を浪費してしまった。しかしながら目覚めは大変良好で、溜まっていた疲労がかなり取れたような気もする。
やがてシャワーを終えた赤井がバスルームから戻ってきた。下はスウェット一枚、衣類を何も身に着けていない鍛え上げられた半身は、否が応でも人の視線を引き付ける。頭からタオルを被っただけの赤井の髪の毛からは水滴が滴り落ち、少しばかりフローリングを湿らしていた。
タオルを無造作に被っているだけにも関わらず、相変わらずムカつく位様になる男だ。組織へ潜入していた頃からこの男の裸を見る機会は何度かあったものの、その度圧倒的肉体の差を見せつけられてしまうのである。たいして身長も変わらないのに、身体の厚みや筋肉量だけで言えばどうしたって降谷の方が華奢に見えてしまうことは認めざるを得なかった。降谷がどれだけトレーニング量を増やしても、その差だけは縮まらない。
グラスに注がれた琥珀色を一口含んだ赤井は、ラップトップを開いて何かの作業を始めている。
(おい、水が垂れるだろ。ちゃんと髪を乾かして服を着ろ)
赤井が座る椅子の横へ移動した子猫は、赤井を見上げながら抗議の声を上げる。凛とした蒼い瞳が、いつもより存在を大きく感じるその男を睨みつける。
「うん?どうした?」
子猫の声に気が付いた赤井は、そのまま拾い上げ膝の上に乗せてしまった。腕とテーブルの間にすっぽりと収まってしまった子猫は顔を顰める。非常に不服だ。
ぺた、ぺた、と赤井の腹部に軽いパンチを繰り出すが微動だにしない。まだ少し湿った肌からボディソープの香りがする。
行動を制限されてしまった子猫は、ひたすらに抗議の目を向けていたが男はそれに気が付かない。それどころか、画面から目を離さず、黙々とグラスに入ったバーボンを嗜みながら子猫の背中を撫でている。
赤井の手が包み込むように優しく、心地の良いものだったので、だんだんと抵抗する力が弱まっていく。
こいつ、本当に好きなんだな。さっきも飲んでたのに……などと考えていると、こちらの思考を読み取ったのかそうでないのか、再び子猫に話しかけてきた。
「気になるのか?申し訳ないがこいつは俺の大事なものでね、君にはやれんよ」
…………なんだか、こっちまで恥ずかしくなってきた……。こいつ、こんなに動物好きだったのだろうか。見てはいけないものを見ているような気がして、むず痒い。
降谷の中で、『知らなかった赤井の一面』が着実にアップデートされていく。
作業の目途が立ったのか、ラップトップを畳んだ赤井は子猫を持ち上げて床へ下ろした。そのままソファへ倒れるように寝転がり、スマホを開く。
通知がきていないことを確認した赤井は、そのままスマホをテーブルに置いて目を瞑った。誰かからの連絡を待っていたのだろうか。
徐々に寝息が立ち上がり、呼吸が一定になる。今の内に部屋を物色しようかと思い立ったが、なんとなく赤井に悪い気がしてしまい、思い留まってしまった。
陽が昇ったら、ここを出よう。そう決心して、赤井が眠る横で小さく身体を丸めた。
***
朝方、無事に赤井のマンションを脱出した降谷は、ちょうど自宅に到着する数メートル前で突如元の姿へと戻った。
この"解除"タイミングに何らかの法則があるのか、そうではないのかは把握できていないが、いずれも周囲に人がいない時に戻ってくれるので今のところは助かっている。
結局、捜査上赤井が何を隠そうとしているのかは分からず終いだった。それにしても、あいつのプライベートを覗くような真似をしてしまったな……。自分でしでかしたことだというのに、猛烈に罪悪感と羞恥に襲われる。
子猫を見つめる慈愛に満ちた双眸。優しく甘い、低く落ち着いた声。背中を撫でる柔らかく大きな掌のぬくもり。どれもはじめて触れる赤井の姿だった。
たった一晩のことだというのに、どういうわけか、あの体温が恋しくてたまらなくなっている。
これも子猫化――パラビッドの症状の一つなのだろうか。そうじゃなければ説明がつかないと、自分に言い聞かせていた。
街灯と信号の光がゆっくりと過ぎ去っていく様子を、リアウィンドウ越しに見つめていた。静かなエンジン音を聞きながら、ただ流れていく夜の世界を眺めるのは、案外悪くないかもしれない。
運転に揺られること二十分。目的地であるマンションへ到着した。赤井の仮住まい先であるその場所は、降谷の家からそう離れてはいなかった。
エントランスの自動ドアを掻い潜ることに成功した降谷は、男と一定の距離を置きながらその後を追う。そこまではよかったのだが、同じエレベーターへ乗り込めばどうしたって存在に気づかれてしまうだろう。赤井の行き先を見送った後ですぐに追いかけたとしても、部屋番号を抑えない限りこいつの部屋には辿り着けない。
熟考の結果、止む無く赤井が乗るエレベーターへ同乗することにした。
音を立てず気配を消して乗り込んだはずだが、案の定すぐに尾行がバレた。
「…………」
エレベーター内の隅で身体を小さく丸めそっぽを向くと、あたかもはじめからここに居ました、とでも言わんばかりの態度をとる。
赤井の視線を感じる。どう考えたってもう逃げられない。見つからずに潜入できればよかったのだが、この男相手にそう上手く事が進むとも思っていなかった。
コツ、コツ、と靴音が鳴り響く。降谷はさらに身体を小さく丸め、ぎゅっと目を瞑った。
目の前で足を止めた赤井は、無言のまま子猫を拾い上げると、その腕の中にすっぽりと収めてしまった。
(は、離せ!赤井秀一!)
当然のことながら、猫化した降谷の言葉は赤井には届かない。体の勝手が効かなくなった降谷は手足をばたつかせ抵抗を始めたが、降谷の心情などお構いなしに腕の中へ閉じ込める。
(……片手で軽々抱えやがって……)
エントランスまで引き返すかと思いきや、赤井の様子から特にそのような気配はなかった。
まさか、このまま僕を部屋に運ぶ気か……?
赤井が足を止めた先で、カードキーを翳す。ピッと開錠の音が鳴り、扉が開いた。いつまでも降谷を抱えたままなので、もう一度「みゃ!」と声を出して抵抗をすると、頭部を軽く撫でられた後、その腕から解放された。
「ここまでよく耐えたな。何もないところだが、くつろいでいってくれ」
あまりに自然な手付きでフローリングに下ろされ、呆然としてしまう。赤井はポケットに仕舞い込んでいた煙草をダイニングテーブルへと置くと、その脇へジャケットを乱雑に放った。
玄関で行儀よく正座をしながら赤井の行動を観察していると、赤井もこちらの様子に気が付いたようで、再び距離を詰められる。
「そんなに遠慮するな。君の家だと思って適当に過ごしてもらって構わない。ほら、そこだと少し冷えるだろう」
子猫の目線に合わせるため少し膝を折った赤井は、軽く手招きをした。なんてことない仕草なのに、一々キマっているのが腹立つ。今度は降谷を無理に捕まえるようなことはしなかった。
躊躇い気味に前足を一歩踏み出してみた。少しずつ部屋の中へ進みながら、辺りを見回す。赤井にしては、案外綺麗にしているなぁと感心した。極端に物が少ないというのもあるが。
リビングまで辿り着くと、より生活感のある風景が広がっていた。テレビの横に国内最大手メーカーのロゴが描かれた段ボール箱が、少し蓋が開いた状態で置いてある。一度中身を取り出したということが一目瞭然だった。数時間前の赤井の話を思い出して少し愉快な気持ちになる。
椅子に腰かけタブレットへ目を落としている赤井の姿を捉えると、その視線に気がついたのかこちらへ顔を向けた。フッと微笑んだかと思えば、再びタブレットへ視線を戻した。おい、今のはなんだ。
とことん赤井の部屋を物色してやろうと、部屋中を詮索し始めた。
降谷に発症した『猫化する能力』に伴い嗅覚が普段より優れているのか、赤井の匂いがいつもより強く感じてしまい落ち着かない。
(煙草の量減らしたって、この前言ってなかったか?)
どこをうろついてもいけ好かない香りが漂っており、改めてそこが赤井の自宅であるということを実感した。
ぺた、ぺたと部屋中を探索していると、突然身体がふわりと浮いた。
(なっ、なっ……!)
両脇を手で優しく掴まれ、宙に浮かされる。身体は引力に従い、抵抗も無くだらりと地面に向かって伸びる。屈辱的な姿だが、両腕を万歳のポーズで拘束されてしまっているため抵抗ができない。
「落ち着きがないな、君は……」
背後でまた嘲笑された気がして、頭が沸騰しそうになる。落ち着け、今は冷静でいないと……いつこの力が解除されるかわからない。『猫化』した過去二回の傾向から、解除までは数時間を要していたため、すぐに元の姿に戻るということはあまり考えられないが断言もできない。ここで元の姿に戻ってしまったら、せっかくの計画が台無しだ。
赤井の顔面を引っ搔いてやりたい気持ちを抑えるべく、降谷は静かに大きく息を吸った。赤井は子猫をふかふかなソファの上へ下ろし、再び目線を合わせた。部屋中を嗅ぎまわられるのが嫌だったのだろうか。
「君はどこからきたんだ?このマンションの住人ではないよな」
こいつ、猫相手によく喋るな。僕と一緒に居る時より喋ってないか?
「満足するまでいてもらって構わないが、あんまり詮索はしないでくれよ」
あ、ほら。やっぱり嫌がってる。お前が寝ている間にくまなく調べてやるからな、僕に隠していることも全て。
「それじゃあ、少しばかりここで大人しくいてくれよ」
軽く頭を撫でられ、背中に小さなリップ音がしたかと思えば、そのままバスルームへと旅立っていった。
背中に……ん?
今、あいつ僕に何をした?
ドクドクと高鳴る心臓の音を抑え込む術がわからず、ソファから飛び降りてテーブルの周りをぐるぐると歩き回る。
落ち着け、別に猫にキスすることくらいあるだろ。決して僕に対して、……したわけじゃない。なのにどうしてこんなにも心がざわつくんだ。いい加減落ち着け。きっとこれは『猫化』の副作用で神経が過敏になっているだけだ。
勢いよく歩き回っていたせいで、テーブルの脚に思いっきり頭を強打してしまった。じわじわと広がる痛みが、思考を正常に戻していく。
(何をやっているんだ僕は……)
自己嫌悪に浸りながら、冷静さを取り戻そうと一度ソファへと舞い戻る。まるで羽のように軽い体が、弧を描いてクッションの上へダイブした。
赤井に触れられたところが、じりじりと熱を持っているのを感じる。
――ただでさえ厄介な問題が山積みなのに、これ以上どうしろというんだ。
バスルームから微かに漏れている水音を聞きながら、子猫は身体を丸め静かに目を瞑った。
――――おかしい。
あれから定期的な"情報共有"のため、降谷は赤井としばしば二人で会うことが増えた。場所については可能な限り声が他人の耳に入らないプライベートな場所を選んでいる。
そういった意味で赤井は降谷の自宅を候補としてあげたのだろうが、いきなり他人を本宅へ入れることには抵抗があったため真っ向から拒否をした。この期に及んで、赤井に見られて困るものは別にないのだけれど。
はじめは例の世界的感染症について真面目に考察をしていた。FBI側に入る情報もそれといって進展はなく、ただお互いの意見を交換するだけで特段手掛かりが見つかる気配はない。
じめじめと暑かった夏もあっという間に過ぎ去り、都内の新緑も徐々に色付きはじめていた。心地よくも少し寂しさを感じさせる風が、降谷の前髪を揺らす。
まだ完全には染まり切っていない銀杏並木の映える公園のすぐそばで、ベンチに座りじっと男を待っていた。感じ慣れた煙草の匂いがほんの僅かに鼻を掠める。
「やあ、待たせたかな」
ようやく現れたその男は、年がら年中そう変わらない服装をしているが、今日はいつもよりラフなダークネイビーのハーフジップニットを着用していた。これは先日、赤井と近くの商業施設へ立ち寄った際に降谷が購入を促したものだ。相変わらず服の上からもわかる体格の良さと持て余した脚の長さが気に食わないが、いつもの重い印象からカジュアルさをプラスできたことに内心愉悦感を得ていた。
……いやいやおかしい。なぜ僕と赤井が業務以外のことで頻繁に会ったりしているんだ。
昨日だって、緊急の用事はないというのになぜか二人分のお弁当を持って警察庁の外で会っている。降谷がお弁当を赤井に作りはじめたのは、あの契約を取り交わしてからたった二日後のことだった。
なぜ赤井が僕の自宅に来たがっているのか、理由ははぐらかされてしまったが、家に入れてもらえないなら食事を作ってくれないかと図々しくも別の条件を提示してきた。
君の部下がそれを貰っているのを見て、一度食べてみたいと思っていたんだ……とかなんとか言っていたが、あまりにも不釣り合いな条件だったので拍子抜けした。ちなみに風見にやっている弁当の中身は作りすぎたのを詰めただけのものが多いが、あの赤井秀一に差し出すとなると話は変わってくる。バランスの摂れた栄養素を意識しながら、飽きがこないよう毎日の献立を考える日々が始まった。
国際研究チームからの最新情報が入った日には、降谷が作ったお弁当を開けながらまず全体像を整理する。それが二人の間でルーティンと化していた。
そして、一度話始めるとなかなか切り上げるのが難しい。降谷が先に提示した疑念や問題点を基に、二人で次から次へと可能性を導き出す。そのテンポの良さに、降谷は悔しくも居心地の良さを感じていた。意見が衝突することはあれど、赤井の話は多様な視点を降谷にもたらしてくれる。
心に秘めていた柵さえ解き放たれたと錯覚をしてしまうほどに、いつの間にか赤井との会話に夢中になっていた。
赤井が意識的にそうしているのか、無頓着なだけなのかはわからないが、あれ以降あの日のことを想起させるような話題は口にしなかったため、それが降谷にとって安心材料にもなっていた。一方で、この距離感が正しいのか、降谷にはわからなかった。いくら捜査協力とはいえ、ここまで親密になるだなんて思ってもみなかったから。
赤井に対する好奇心の芽生えがあるのは、降谷の中で否定しようのない事実だった。どうやら僕はこの男のことをもっと知りたいと思っているらしい。過去一度も意識することのなかったこの感情を、どう扱っていいかわからずにいた。
ベンチに座ったまま赤井のことを見上げ、しばらくして相手に気づかれないよう小さな溜息をついた。
「いえ、僕も今来たところです。行きましょうか」
行先は降谷の本宅だった。あまりにも美味しそうに降谷の弁当を食べるものだから、つい『今度出来立てを食べさせてあげますよ』とポロっと口にしてしまったのだ。
さてはこいつ、こうなることを見込んで……。
一度した約束を無碍にすることはできなかったため、仕方なく招待するはめになったわけだが、逆にこれはチャンスなのかもしれないと降谷は考えた。
赤井は何かを隠している。はじめに今回の話を持ち掛けられたときから、そのことに降谷は気づいていた。
誰にも邪魔されない完全プライベートな空間で美味しい酒と料理を出せば、意識が緩んでその尻尾を掴めるかもしれないと、頭の中で綿密に計画を企てていた。
今に見てろ、お前の本当の目的が何なのか今晩こそ明らかにしてやる。
***
「……ふふ、あの赤井秀一が、炊飯器ごときに……っ、く、ふふふは」
「降谷くん、笑いすぎだ。君の国の炊飯器の性能が良すぎたんだ。まさかお釈迦にしてしまうとは思わなかったが……彼には悪いことをした」
「そもそも貴方自炊なんかしないじゃないですか。なんで貴方のお知り合いの方から引き取ったんですか」
「…………降谷くんにいつも作ってもらってるから、それを使ってたまには、と思ってな」
「お返しってことですか?僕に?赤井が?……っあはははは、おかしい」
何かがツボに入ったのか、お腹を抱えながら笑い転げる降谷の肩を赤井が支える。ローテーブルを挟んで向かいに座っていたはずが、どういうわけか今は横並びになり、肩を摺り寄せ合っていた。
降谷の自宅へ足を踏み入れた当初は警戒心を崩さない姿勢を保ったままだったが、ワインボトル四本目を開けたあたりから降谷の様子が豹変した。体勢がきつくなったのか、背凭れのあるソファがある方の赤井の横へと移動する。隣り合わせに座りつつも少し距離のあったその隙間が、今ではすっかり埋められている。
滅多に酔うことのない降谷だが、この時ばかりは軽くアルコールが回っていた。相手があの赤井秀一であるということを忘れてしまったのかと思うくらい、無防備に肩や腕を摺り寄せる。
笑いすぎて目尻に涙を溜める降谷を見て、「そんなに虐めないでくれ……」と軽く指で涙を拭おうとすると、その手をぎゅっと降谷が掴む。いつもに増してきらきらと輝きを増している碧が、赤井を捉える。
ついに崩壊したのか、これも何かの罠なのか、今はそれを判断する術を赤井は持っていなかったが、悪ふざけをする降谷に軽く水を飲ませ「今日はここまでにしておこう」と楽しい時間に終止符を打つ。
「もう帰っちゃうんですかぁ?別に、泊っていけばいいのに……」
「少しやることが残っているんでな。魅力的なお誘いだが、また今度にしておくよ」
「今度だと?そう何回もチャンスがあると思わないことだな、FBI」
軽く酔い覚ましにエントランスまで送ると言って、赤井と二人で玄関を出た。赤井が歩くその後ろを、こつ、こつ、と静かに音を鳴らしながら着いていく。
赤井の背中を見つめながら、徐々に抜けていくアルコールの存在を自覚していく。
――結局、こいつの目的が何なのか分からず終いだったな……それよりも……
今朝感じていたそれよりも、遥かに赤井のことをもっと知りたいという感情が強くなっていることに気が付いてしまい、ぶわりと顔に血液が集まる。未知の感情に脳が翻弄され、うまく処理できない。
きっと酒のせいだ、と思いながらも、その衝動を抑える術がどうしてもわからなかった。
「じゃあここで。夜は冷えるから早めに部屋に戻ってくれ」
「……あ、はい。お気遣いありがとうございます。では、また週明けに」
軽く手を振ってきた赤井に、心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
赤井の背中がどんどん遠ざかっていく。このままタクシーを捕まえて、あの壊れた炊飯器が置いてある家に帰るのだと思うと少し愉快だ。
ぼんやりと男の姿を目で追っていると、エントランスの扉の近くに一匹の猫が現れた。その姿を目で捉えた瞬間、エレベーター付近に設置されていた鏡に映る降谷の姿が消えていた。
猫化するのはこれで三度目だ。どんな条件下で姿が変化するのか、どうしたら戻れるのか、詳しいことははっきりとは分かっていない。
危険が伴うと頭では分かっていても、その時感じた探求心を抑えることはどうしてもできなかった。
エントランスを軽い足取りで颯爽と駆け抜け、タクシーを拾いに行った男の影を追う。タクシーのドアが閉まる瞬間を見計らい、するりと後部座席へ飛び移った。
「……遅くなりました」
約束の時間より十五分も早く、指示されていた場所には辿り着いていたはずだった。先に到着していた男の姿を確認し、降谷は小さく溜息を吐く。
長い脚を持て余し片手をポケットに入れながらスマホ操作をしていた男は、降谷を見つけるなり顔をこちらへ向けた。
「いや、俺も今来たところだ。仕事は大丈夫なのか」
「特に急を要するものはなかったのであとは部下に任せてきました。それで?プランはあるんですか?」
「そこに停めてある車に乗ってくれ。ここからそう離れてはいない」
ほとんど無言で助手席に乗り込み、ゆっくりとシートベルトを締める。赤井の車に乗るのは初めてのことではないが、全てが収束した今でもやっぱり慣れない。
パワーウィンドウ越しに見える夜の東京の光が、降谷の虹彩に吸い込まれ碧の色を変える。赤井との間に流れる静寂は、少しばかり決まりが悪いけど、想像していたほど悪いものでもなかった。
***
一通り料理を注文し終えた頃にファーストドリンクが運ばれてくる。格調高いわけではないが、出される料理には定評のあるお店だった。降谷も仕事で何度か利用したことがある。
俺のことは気にするな、と気を遣われ渋々降谷はアルコールを頼んだ。
「珍しいですね、貴方がこうして誘ってくるなんて」
「君とは一度こうして周囲を気にせず話してみたかったからな。あの時、君に伝えた通りだ」
「あ、ああ……」
一番触れられたくない話題に最初から入るか普通。降谷の中の居心地の悪さが膨らむ一方で、別の話題を探す。
「もう落ち着いたと言っていいんですかね、貴方たちにとっては。スターリング捜査官やキャメル捜査官はお元気ですか?」
当たり障りのない話をしながらどうやってこの場を乗り越えようか思案しながら、次々に届く料理に手をつけていく。
「実は最近彼らとも顔を合わせていなくてね。今日、君のところにも来ただろうから知っているとは思うが、例の」
「……国際研究チームと何か関係してるんですか」
箸を持っていた手が止まる。まさか赤井の口からその話題が出てくるだなんて露程も考えていなかった。
公安へ正式に情報が降りる前に、FBI側へ通達があったとは聞いていた。既に米国側で何か動いているのか。
「あの件で、ちょうどこちらの体制も変わり始めている。対策本部……いや、捜査機関の新体制が組まれようとしている」
「……別に貴方たちの管轄じゃないでしょう、パラビッドは」
「パラビッドか。君なら知っていると思うが、アメリカではPPVと呼称されることが多い。日本よりも規制は厳しくないから、一部の発現者の間では既に認知されている」
「発現者同士が独自のネットワークを築いた上で情報を共有するのは想像できますからね。国内では発症者がまだ出ていませんから、パラビッドもPPVも施設の人間と一部の警察関係者しか知り得ませんが……それが何か?」
「……たまたま盗聴していた彼らの待合室での会話を聞く限り、あの現象には別称があるそうだ」
盗聴という言葉が引っ掛かったが、続きが気になったため不問とした。
「強いアクセントのあるフランス語で妙に早口だったが、彼らの言語から"SSID"という単語が出ていたのは間違いない」
その言葉を聞いて、降谷の中の疑惑が確信を持つようになる。開いた瞳孔がじっと赤井の顔を見つめた。
「……その表情は、君も同じことを考えていたようだな」
「ええ、でもまさか……第一の発現者が出たのは、僕たちが討伐作戦を決行するよりもだいぶ前のはず」
「あの時期から人為的な操作があったのかもしれないな。確証はないが」
「一旦はその線で調べてみるしかなさそうですね……って、貴方まさかこれを伝えるために?」
「それもあるが、単に君と食事をしたかっただけだ。君の考えも知りたくてね」
会話の内容とは反対に、愉快そうな赤井を見て虫の居所が悪くなる。
まるで試されているような言葉と表情が、組織に居た頃からずっと気に食わなかった。そうであるにも関らず、僕の考えている一歩先を見据える赤井との会話は、複雑にも好奇心を刺激する。
「……貴方の周りに、出たんですか」
「いや、幸運なことに身近に発現者は出ていないな。被検体がいないから不運と言った方が正しいか」
「感染の被害に遭われた方をなんだと思ってるんです。まあ、検査結果は関係者内でもごく僅かな人間にしか共有されませんし、仮に自分が発症していたとしても他人にそのことを話すのは禁じられてますからね。それも検査結果が重症であった場合、なおさら」
それは降谷にも同じことが言えた。降谷の身に起きた超常現象はあれ以来発症していない。
今の所、「猫の姿」でしか発現はしていないようだが、他の小動物にも変幻自在に姿形を変えられるのだろうか。感染経路もわからなければ、異能の種類ですら経過をみてみないとわからない。
現時点では軽症だったとしても数日後、数ヶ月後には症状が悪化する恐れだってある。そうなったら最後、あの胡散臭い研究所で何をされるかわからない。いくら親しい間柄であっても、その事実を口にするなんて火中に飛び込むようなものだ。
「現段階ではあくまで自然災害です。僕の専門でなければ管轄でもない。ただ、貴方が想像している通りなら話は変わってきます」
感染者の来歴傾向などはまだ分かっていない。いや、"知らされていない"の間違いなのかもしれない。とにかく今は情報が必要だ。実態が分かっていない以上、あのことを赤井に知らせるわけにはいかない。
「僕の口から伝えられることには限りがあります。それでもよければ、定期的に情報交換をしませんか。おそらく彼らは日本警察と米国側に異なる情報を伝え、攪乱をさせようとしている可能性がある。表向きに合同捜査を行うとなるとその時点で目を付けられるでしょうし、僕たちが想像している証拠はきっと掴めない」
「……まさか君の方からそんな乗り気になってくれるとはな」
二人の間に沈黙が流れる。店内は静けさとは無縁なくらい繁盛していたが、その空間だけは冷え切っていた。
「ええ、別に僕一人でも捜査はできます。ただ、これは貴方を監視するという意味でもあります」
「監視?」
「貴方の方から僕に声をかけたということは、僕がこの提案をしていようがいまいが必ず探りを入れてくる。何が目的かは知りませんが、それなら正々堂々こちらでお渡しできる情報は差し上げます。その代わり、あくまでこれは個人的な探求心からの調査ということにしてください。でなければ僕にも疑惑がかかることになる」
「…………」
赤井が何をもってこの話を僕に持ち掛けたのか、何故相手が僕であるのか。いくつか検討はつくが、実際のところもっともらしい答えが見つからない。
赤井なら独自ルートで日本国内の感染者を割り出せるだろうし、そもそも日本の感染状況を知ったからといって何になる?
もし万が一にもこれが自然発生的なものではなく、組織が絡んでいるものだとしたら、僕が潜入している際に何か情報を掴んでいる可能性を考慮していたのか?
生憎"超常現象を引き起こす薬"のような類の話は耳にしたことがないし、もし知っていたとして、なぜそのことについて直接聞いてこないのか。
不可解な点が複数ある。そこが明らかになっていない以上、野放しにするのは危険だと判断した。
「……構わないが、一つ条件がある」
――この期に及んで要求だと。嫌な汗がじわりと手のひらに滲む。
降谷は真正面から赤井の目を見据えた。
「条件次第ですが、何ですか?」
「君の自宅に招待してくれないか?」
警備網が張られた永田町に、初夏の鋭い日射しが降り注いでいた。アスファルトにため込まれた重い熱が、大気中に滲みだし捜査官たちの体力を蝕んでいく。
警視庁公安部の刑事らが切迫した面持ちで各自配置につく中、今回の作戦には加えられていないであろう人物が一人、本部ビルの前で佇んでいた。
今にも体内の水分が全て蒸発してしまいそうな気温だというのに、一切暑さを感じさせない颯爽たる風姿。首もとまで緩みなく絞められたシャツに、皺のないグレースーツ。ネイビーブルーを基調としたソリッドの光沢が、より一層品の良さを引き立てる。
太陽ですら魅了してしまうほどの、きらきらと輝く柔らかな金糸が揺れ動くたび、本能的に視線を向けずにはいられない。しかしながら、追いかけているといつの間にか視界をすり抜けてどこかへ雲隠れてしまう存在、――それが降谷零という人間だった。
「降谷さん、これを」
現場にいた刑事の一人から差し出されたタブレットに、降谷は目を落とした。
「そうか、わかった。これから庁舎へ戻るが、また何か動きがあれば報告を」
画面に表示された内容を一瞬で確認してからすぐに踵を返した。歩きながら降谷の『目的』を達成する最短ルートを脳内でシミュレーションする。
それが導き出された瞬間、フフ、と自嘲にも近い笑いが零れた。まさかアイツを利用するという選択肢が浮かび上がるだなんて、一昔前の自分じゃ考えられない。
その最適解を採用するかどうかは置いておいて、こうなってしまった以上早めに決断するしかない。なんだか、生き急いでいるなぁ、と苦笑した。
一度冷静になろうと、思考を遮断する。途端に重く暑苦しい空気がずん、とのしかかり、降谷の体力を奪っていく。初夏とは思えない暑さである。
愛車を停めていた駐車場まで辿り着くと、ボンネットに黒い猫を見つける。偉く小柄だが、綺麗に手入れされた毛並みを見るに野良ではなさそうだ。どこから迷い込んだのだろうか。
柔らかく抱きかかえると、見た目よりも肉厚があり腕へ体重がのしかかった。澄んだグリーンの瞳が降谷を一心に見つめる。
同じ色の瞳を持つ男の存在を嫌でも思い出してしまい、先日の出来事がフラッシュバックする。黒い靄のようなものが胸中に湧き立って、蟠りとなって沈んでいく。非常に不快で一刻も早く消し去りたいのに、あの時向けられた視線がどうしても脳裏に焼き付いて離れない。
赤井のあの言葉。さほど深い意味はないだろうに、僕はどうしてこんな。
ちなみに赤井とはあれ以来会っていない。向こうも向こうで、各国との連携などで忙しくしているようだった。長年追っていた巨悪組織が事実上壊滅した訳で、様々な関係機関に影響が及ぶのは間違いない。
しばらく猫と目を合わせた後、驚かせてしまわないようゆっくりと地上へ降ろした。降谷から逃げるように腕の中から飛び出し、距離を取る。その様子を降谷が見つめていると、一度だけこちらを振り向いた。
そう、そのくらいでいいんだよ。僕のことを見るのは……。
気を取り直して愛車のドアに手をかけようとしたその時。
今まで見ていたはずの世界が、降谷の視界から消失していた。目の前にあるはずの愛車の姿が見当たらない。その代わりにあるのは、黒くごつごつした巨大な……壁?
ただし辺りを見渡すと、先ほど変わらない景色が広がっていた。遠くに別の車種も並んで停めてある。
そこが駐車場であることには変わりなかった。では、僕の車はどこへ?
地面に視線を向けると、決定的な違和感がそこにはあった。何度か目を擦ってみたが、変化は見られない。
一度外へ出てみようと出口に向かうその途中で、ここへ来る時に会釈を交わした警備員と出会った。四十過ぎくらいの強面が、真っすぐ降谷を捉える。
「おいおい、こんなところに居ちゃあダメじゃないか」
降谷と目が合った瞬間、先ほどまでの怪訝そうな顔からは想像できないほど、温厚な態度へと豹変した。優しく眉を緩め、にっこりとした表情で降谷に声をかける。そのままひょいっと降谷の脇腹を掴んで持ち上げるので、予想だにしていない展開に呆気に取られてしまう。
しかしもっと不可解なのは、この警備員の腕を振りほどけないことだった。いくらガタイの良さそうな身体であろうと、特別な訓練もされていない中高年男性に降谷が力で負けるはずがないのだ。
軽々と降谷のことを持ち上げ、そのまま出口へと向かう。対して降谷は身体をねじり動かしてどうにかその場から逃げおおせようと必死になる。
「落ち着きのない子だねぇ。この辺の子かい?えらい綺麗な毛並みをしているねぇ」
まるで子どもをあやすような口調である。またもう一つ不可解なのが、降谷の抵抗する言葉が全くこの男性に聞こえていないということだ。
地上へと近づき、昼間の光が差し込んだ。眩しくて目を開けていられなかった。
ぎゅっと目を瞑っていると、いつの間にか明るい世界に戻ってきていた。
「ほら、着いたよ。もうこんなところ入るんじゃないぞ」
ようやく警備員の手から解放される。自由の身になった降谷は、男性から距離を取った。駐車場上のビルには、広々としたテラス席が隣接したカフェがある。その窓に映った自分の姿を見て、息を呑んだ。
真っ白に輝く柔らかな毛並みと、大きく見開いたアイスブルーの瞳。窓辺に映っていたのは、そんな子猫の姿と先ほどの警備員だけだった。
「――以上が降谷さんの検査結果です。現段階では特別危険な能力でもないため、経過観察となります。月に一回、ご自宅に案内が届きますので、記載されている事項に従って検診を受けてください」
国際研究チームとの打合せの前日、降谷は一足先に説明と検査を受けていた。数日前から原因不明の倦怠感と吐き気が降谷を襲っていたし、目の前で起きた超常現象には心当たりがあったため、特に隠すこともなく然るべき対応を取ったのだ。
海外の報道で小動物に変化するといった事例があることは把握していたため、特段動揺することもなくすぐに受け入れた。まさか自分が感染しているとは思いもしなかったが。あと、あの強面の警備員男性に抱きかかえられることになったのは少々驚いた。
「結局、僕の『異能』はなんだったのでしょうか」
「こればかりは経過を診ない限りは断定ができないのです……既にフランスで発症が確認されている"小動物になる"類のものか、あるいは今回の事象から考えると"見たものに変化できる力"か、あるいは……。いずれにしても、血液検査からも高い数値は見られませんでしたので、今すぐ他人へ危害を加えるようなものでもないでしょう。また来月お越しください」
歯切れの悪い返答を今どうこう言っても仕方のないことは理解していた。
研究所の職員に渡された書類へサインをし、ここまで連れてこられた大型車に乗り込む。研究所の場所は公になっておらず、スマートフォンの類は検査が終了するまで職員に預ける規定になっていることからここがどこであるかも把握することができない。
大型車に乗っていた時間や進路を鑑みるに、そこまで遠くは離れていないはず。はじめは劣悪な実験でも受けるのではないかと危惧していたが、一般的な身体検査のみで終わったため拍子抜けした。検査の詳細は教えてもらえず、ただ結果のみを告げられた。
猫化したのは駐車場での一回と、庁舎前で一回。後者の際は、近くに子猫はいなかったから、先ほどの専門医が言っていた「見たものに変化できる力」ではなさそうだ。
入口近くに部下が居たため話しかけようとしたところ、あの警備員と同じような反応をされたのですぐに異変に気が付いた。鬱陶しいので早く離れてくれ……と視線を送るが、猫に夢中になっている部下たちがそのことに気付いてくれる様子はなさそうだった。あとで正体が僕であると分かったら、どんな反応をするかは少々気になるところだ。
高速道路を走っているであろう大型車に揺られながら、あの組織に潜入していた頃であればこの異能をいかようにも活用できただろうか、なんてくだらないことを考えていた。
大型車は東京駅付近で停車し、預けていた私物を受け渡される。ようやく自宅へ戻ることができると胸を撫でおろしていると、風見からの着信が鳴った。
「……ああ、問題ない。明日、正式に伝達があると思うが……そうだ。その件については、大丈夫だ。何?赤井が?」
研究施設の情報や検査結果について淡々と情報を述べる最中、突然部下の口から赤井の名が出てきたことにより、本日一番の動揺を迎えた。
そうか、FBIもまた庁舎に戻ってきているのか。って、なんで君がそれを僕に伝える必要がある。一応、ご報告をと思いまして……。大きな溜息が出そうになったことを悟られないように、静かに通話を終了させた。
ぽつ、ぽつと降り出した雨に気が付いて、丸の内の光輝くネオンを背に駅構内へと走った。
もしもあの時、君にかけた言葉が、行動が、何か一つでも違っていたなら。
肌寒く心地の悪い灰色の空気が鼻を掠める。そこに混じった血液の匂いが赤井の思考を歪ませた。
きっと君はいつだって正しくて、その美しい背中で前だけを見据えている。だからこの世で最も残酷な選択は俺だけに向けていて欲しい。これまでもこれからも。
「――以上が、現時点における国際研究チームによる見解だ。世間的な公表は数年先になるかもしれないし、一週間後になるかもしれない。こればかりは事態が掴めていない以上、流動的に判断していくことが求められる。定期連絡は特にないものだと考えておいて欲しい」
世界規模の犯罪組織の主要人物を捉えたばかりであるというのに、国家を揺るがしかねない事案が次々と舞い込んでくる。
最期まで敵・味方含め主要関係者に正体が露見することなく潜入をやり遂げた本件の立役者でもある降谷零は、長い期間いくつもの顔を被り多くの犠牲を抱えながらもその任務を全うした。現在は所属組織へ舞い戻ってはいるが、以前と比べて穏やかな日常を送れるようになったかといえば、そう簡単に同意はできない。
この国に及ぶ脅威が幾千と存在する限り、ほんの僅かな違和感にも常にアンテナを立て続けなければならない。芽を出す前に元凶を叩き、じわじわと滅ぼしていく。表立って日の目を見ることはないが、この国にとってなくてはならない存在。
「万が一、警察内部で発症者が出た場合はどう対処すべきでしょうか?」
降谷の部下の一人が発言をする。なかなか肝が据わっているな、と横目で見る。
「関係者内で発症者が出た場合は速やかに報告をあげてもらい、身体検査を行う手筈になっている。検査の結果によっては、一時的に特別研究施設への受け渡し、身柄の拘束を行う場合もあるが、軽度の場合は月一の検診であとは様子見となる」
現在議論になっているのは、ちょうどジンを含む幹部たちを捉える直前に各国で少しずつ報道が増えていた未知のウイルスに関する事象だった。
まだ日本国内では報道規制がされており、公安含め事情を知っている人間はごく僅かしかいない。症状に個人差はあるが、いずれも発症初期は吐き気を催し、高熱が出るパターンもある。2~3日もすれば平常時に戻るのだが、問題は非科学的な現象が慢性的に発症するという点。
例えば、相手のことをじっと見つめただけでその人物が次に発する言葉を推測できてしまったり、スマートフォンを手に持っただけで考えていることが画面上に文章として打ち込まれてしまうなど、"超常現象を引き起こす能力"が備わってしまうのである。
各国の機関が集結して作られた国際研究チームがこの事象の原因究明に努めているが、何が発端なのか、どのような人間が発症しやすいのか、傾向すら掴めていない。
人間を幼児化させる薬の存在がある以上、特異能力を引き起こすことが可能な物質を創造することも難儀ではないのかもしれない。現状、人に害を与えるような特異は報告されていないが、時間の問題だろう。
危惧すべきは、国内で殺傷力の高い異能が発見された場合だ。
本日特別講義に出向いた国際研究チームの研究員の話を聞く限り、特異の『程度』によっては平然と非人道的な実験を行うとも言いそうな口ぶりである。
二時間に渡る緊急会議を終えた降谷は、喉の渇きを潤すため休憩室へと向かう。扉を開けた瞬間、げ、と苦虫を嚙み潰したような顔で奇妙な声を出してしまいそうになった。
「久しぶりだな、降谷くん」
片手で缶コーヒーの蓋を開けながらタブレットに目を落としていた赤井が、降谷の存在に気づいて顔をあげた。
「……どうも」
赤井の目の前を通り過ぎ自販機の並びを見つめる。
ガコン、と音が鳴る。七月の猛暑日だというのに補充されたばかりなのか生ぬるいミネラルウォーターを手に取り、一気に喉へ流し込む。お世辞にも口当たりが良いとは言えない。
ちら、と赤井の方を横目見ると、休憩椅子から何故か立ち上がり僕と対峙していた。思ったよりも至近距離に赤井がいたので、思わず後退ってしまう。
「びっくりした。なんなんですか貴方、急に…」
「君の顔を久々に見たなと思って。少し痩せたか?」
「別に大きな変化はないと思いますけど」
実際はここ数日碌に食事が摂れていない。組織解体の後処理に加え、新たに発足された特異対策本部との連携などで仕事に打ち込む日が続いていた。ただ、それは赤井の所属する組織も同様である。
相変わらず濃い隈が目立つこの男に指摘されるのは少々癪ではあるが、人間の資本である食事を疎かにしている自覚はもちろん降谷の中にはあった。
「……今夜にでもどうだ」
「何がです?」
「食事に行かないか」
「赤井と?僕が?」
「何か問題があるのか?」
「別にないですけど……」
仕事が残ってて、と言いかけた口を噤み、どういうわけか気が付けば私用の番号を渡していた。
今更赤井と何を話すというんだ。降谷の中に渦巻いた、晴れやかではない感情が顔を曇らせる。ただ、それに比例するように、心のどこかで小さな好奇心が芽生えているのも確かだった。
「じゃあ、20時頃に」
連絡先を交換した赤井は飲み干したコーヒーの空き缶を捨て休憩室を去った。
本当に、何を話せばいいんだ。
あれだけ感情を剝き出しにして。恥ずかしくて死にたくなるくらい心を丸裸にされて。あの男に当たり散らかしたばかりだというのに。
『――すぐに結論づけなくていい。ただ、君がそう思ってくれたのと同じように、君だけを一人残すことはできない』
頭の中で何度も反芻した言葉。
僕はお前のなんだっていうんだ。
これ以上僕の人生に土足で踏み込まれては困る。あの日の出来事を清算したあとでも、なお目で追ってしまうのはなぜなのだろうか。危険信号が鳴り響いているにも関わらず、あの男のことを知りたいと思ってしまうこの感情は何なのだろうか。
新たに登録された番号を見つめながら、静かに靴音を鳴らした。