お互い、帰路に着くときには連絡を入れるようにしていた。いつもならメッセージアプリに、何かあれば電話で。今日はキバナの方から電話が入った。既に帰宅していたダンデは3コールで出る。時計の針は既に10時を回っていた。
『悪い、遅くなった。もう何か食った?』
「まだだ。大丈夫か?迎えに行こうか」
『ありがと。でも今タクシー拾ったから平気』
「タクシー?そんなに疲れてるのか?大丈夫か?」
『正直しんどい。……悪いけど、食材好きに使って良いから飯は何かテキトーに済ませて』
珍しい。ストレートな弱音だ。思わず眉を顰める。スマホを操作しながら、冷蔵庫の中を確認する。今週は激務になるとは聞いていたが、ここまでとは。食事はどうにでもなる。こうなることを見越して、キバナは万能ソースをタッパーにたっぷりと作っておいてくれている。豚肉をこれで絡めて焼いて、パンで挟んで今日は済ませてしまおう。自分だけならどんな雑なものを食べていても許される。野菜のない食卓を見ればキバナは良い顔をしないだろうが、一日、それも一食程度なら問題ない。しかし疲れているキバナはどうだろうか。
「分かった。ソースと豚肉使うぞ。キバナは何か腹に入れたか?」
『食欲ない。プロテイン流し込んで寝る』
「甘いものも駄目そうか?パンプディングでも作ろうか。ほら、この前作ってもらった」
『マジで?』
「そのくらいなら出来るぜ」
『頼む』
どんどん短くなるやり取りに、これは相当キてるな、と内心で溜息を吐いた。同棲が始まっても、キバナが疲れたと言うことは少なかった。いつもはダンデの方が何くれと世話を焼かれる側なのだが、時々こういう日がある。
「気を付けて帰ってくるんだぞ。帰ったら家のことは何もしなくて良いから」
『……ん、ありがと』
ふと声音が柔らかくなる。それに少しだけ安心して、ダンデは通話を切った。ついでに空調を操作してリビングの室温を2度上げる。パンプディングは疲れたときや風邪のときの定番メニューだった。混ぜてひたして焼くだけのお手軽料理だが、キバナのレシピは胃に優しくて甘さは控えめになっている。疲れた日にはホットミルクやロイヤルミルクティーと一緒に食べるのが定番だった。風邪をひいた時に作ってもらってからダンデもレシピを覚えた。いつかこういう日が来た時に作ってやろうと思っていたのだ。
冷蔵庫を開けて、必要なものを取り出していく。万能ソース。鷹の爪。パンプディングのために牛乳と、卵と。次々に取り出していこうとして、ふと手が止まった。卵置き場のポケットには行儀よく卵が整列している。卵の無機質な白が、冷蔵庫内部の照明を受けて存在を主張していた。二列横隊で6つ並んでいる卵を見ているとポケモンセンターに預けたモンスターボールを思い出すのが常だったが、今日はキバナの顔が脳裏に過った。
その瞬間、自分の中で何かがすとんと収まるべき場所に落ち着いて、唐突に理解する。
その何でもない光景から目が離せなくなった。キバナと一緒に暮らすようになってから卵も牛乳も一度も切らしたことがない。気が付けばいつのまにか補充されていることが多い。今日もそうだ。二日前に見た時には3つあった。だからまだ大丈夫だろうと思っていたのに、何も言わずに補充されている。今日確認して、なかったら買ってこようと思っていたのに。あたりまえのような顔で並ぶ卵を凝視しながら、ぐるぐる考え始める。あたりまえ。あたりまえ?他の人にとってはそうかもしれない。でも自分にはそうではなかったはずだ。多忙にかまけて投げ出した光景だった。
それは、自分の母親が当たり前にしていたことだった。ダンデは母がしてくれていたそれに10歳で別れを告げた。それからというもの、ダンデは多忙にかまけて卵や牛乳だけでなくすべての食材が途切れがちにしていた。そういう生活が一変したのはキバナと暮らし始めてからだ。一人のときは、冷蔵庫の中は飲料だけが冷やされているだけの、空洞ばかりが目立つ場所だった。それがキバナと暮らすようになって、卵を切らさないようになって、時々はダンデの方が気付いて買ってくるようになって。仕事帰りに同じタイミングで卵と牛乳を買ってきてしまったことも何回かあった。そうやって、この光景があたりまえにされていった。そうやってお互いにお互いの存在を許容しながら生活を成り立たせている。労力としては微々たるものかもしれない。だが確かに費やされているものだ。それは畢竟、愛だ。こんなところに彼の愛がある。不思議なくらいに自然に、あたりまえに、ここに存在している。確かにここにキバナがくれる愛情がある。
ソースや調味料も増えた。以前は塩と胡椒くらいしかなかったのに、今では冷蔵庫の扉側のポケットは色々なもので溢れている。チューブタイプのみずべのハーブ。マスタード。にんにくのすりおろしの瓶詰。ソース。ケチャップ。マヨネーズ。ドレッシング。その中にでさえ、このケチャップはダンデの好みに合わせてメーカーを変えただとか、キバナはあっちのソースよりこっちソースの方が好きだから減りが早いとか、そういう日々の積み重ねが詰まっている。一日ごとに、二人の生活が冷蔵庫の中に足されていく。こんなにも多くのキバナのもたらしたあたりまえに満たされている。
それを自分は今までどんなふうに甘受していたのだろう。そのことに思い至って、自分が急に恥ずかしくなる。礼を言っていた記憶も曖昧だ。人の愛の上に胡坐をかいて生活をするだなんて、子供と同じだ。10歳からぜんぜん成長できていない。開けっ放しの冷蔵庫のモーターが低く唸っているのが耳につく。いつもならそんな微音など気にかけないのに、どうして今日はこうなのだろう。
ひとつひとつラベルを丁寧に読みながら、どういう並びになっているのだろう、と考えてみる。並び方に規則性があるような、ないような。大きさ、形状、使用頻度…考えうる法則性を当てはめてもどれも違うような気がする。乱雑に押し込められているようで、きっちりとラベルは全部こちらを向いている。何かあるのかもしれない。ないのかもしれない。無意識に習慣化しているだけなのかもしれない。そういう何でもない日常に消費されて、補充されていく愛がここにある。
考えてみれば当然のことだ。自炊をすれば当然食材も調味料も減る。それを誰が買い足して、使っていたか。それを食べて、美味しいと言うだけだったのは誰か。どうして今まで気付かなかったのだろう。どうしてこんなに簡単なことに気付くのにこんなにも時間をかけてしまったのだろう。自分の無神経さが信じられず、恥ずかしく、悔しい。そして、どうしようもなく愛しさが溢れる。彼はこんなに優しく、何も言わず、ダンデが少年時代に失くしたあたりまえをくれていたのだ。そう思うと、なんだか自分がキバナに求めてばかりのような気がしてくる。
とにかく。牛乳と卵をひとつ取り出す。卵のひんやりとした感触が握りしめて、冷蔵庫の扉を閉める。どういう形で、自分はこの愛に報いることが出来るだろうか。どうしたらキバナの幸せに寄り添っていけるだろう。
卵と砂糖を混ぜて、牛乳を加えて混ぜて、切った食パンを浸す。時間がないのでそのまま軽くレンジで温めてやる。気が付けば首筋に軽く汗をかいていた。その間にキッチンに立ったまま自分の食事を済ませる。あとはキバナの食欲次第でドライフルーツでも添えて、と考えているうちに玄関の扉ががたんと鳴った。意外と早かった。いや、少し感傷に浸りすぎたのだろう。ダンデは慌ててモンスターボールからロトムを出す。ロトムは珍しい場所で出されたことに驚いて、目をぱちぱちと瞬かせる。ダンデはオーブンを指さした。無言で入れと促す。
「ロトム、キバナのパンプディングを覚えてるか?」
「ロ」
「それで余熱だ。頼むぞ」
レンジから一度皿を取り出す間にもロトムが喜んでオーブンに入っていく。何が楽しいのか、けたけたきゃらきゃらと笑い声を上げながらオーブンの予熱が始まる。それを確認すると、ダンデはキッチンを飛び出して玄関へ向かう。キバナはもう廊下の中ほどに来ていた。キバナはダンデの姿を認めると、口の端を歪めるようにして笑った。その表情だけで限界が近いと分かった。
「おかえり。悪い、出迎え間に合わなかったな」
「いいよ。ただいま」
顔色も悪い。心なしか声も弱弱しいし、いつもの軽口もない。本当に、ここまで疲れ切っているキバナの姿を見るのは珍しいことだった。笑おうとして強張っている顔も痛々しくて見ていられない。腰を抱いて体を支えてやると、キバナは素直に体をほんの少しダンデに寄せる。こういう風に黙って甘えることもとても珍しいことだった。いつもなら、軽口で照れているのを誤魔化してくるのに。
「今オーブンを余熱し始めたところなんだ。どうする?待ってる間にシャワーでも浴びるか?」
キバナは少しの間だけすとんと表情をなくした。そのまっさらな表情にどきりとする。思案しているだけとは分かっているが、それでも心配になる。
「……やめとく。バスルームでぶっ倒れる自信ある」
「分かった。ちょっと待っててくれ」
「ん」
ソファに誘うと、キバナは深く体を沈めて大きく息を吐いた。そしてずるずると横になる。足を肘掛けの向こう側へずらしてやってクッションを手渡すと、ぎゅう、と抱きしめて目を瞑った。眉を顰め、険しい表情をしていた。いつも柔らかく笑う人に相応しくない表情に胸が痛む。たまらなくなって、額にキスをする。そしてゆっくりと眉根を撫でた。皺が解れるまでそうして撫でてる。少しずつ、少しずつ力が抜けていった。
完全に力が抜けたな、と思った瞬間、ピーンと軽快な音がしてダンデは振り返った。オーブンの音だ。
「余熱終わったロ!」
けたけたけた、笑いながらばーんと派手な音を立てて扉が一人でに開けられる。それにダンデはしい、と口の前で指を立てて咎めた。ロトムは何が悪かったのか分からずぱちぱちと瞬きをする。いつもはキバナもダンデも褒めてやる場面だ。でも今日は少し間が悪い。
「悪い。キバナを少し眠らせてやりたいんだ。少し声量を落としてくれ」
「ロ……」
褒められると思っていたのに怒られてしょんぼりとしたロトムのボディを撫でてやる。ポケモンにこういう機微は難しい。ロトムのように人の生活に密着することが多いポケモンであっても、匙加減を間違える。
「ごめんな。今日だけだから。ありがとう。焼き時間も覚えてるか?」
「ロ」
「よしよし。焦がさないように頼むぜ」
「任せるロ」
パンプディングを中央に置く。ロトムは従順に返事をして、扉を閉める。
チーンと再び軽やかなオーブンの音がする。今度はロトムは無言で静かに扉を開けた。ダンデは小さく、グッボーイ、と呟いて褒めてやる。ロトムは嬉しげにロロロ、と小さく鳴いた。
パンプディングを取り出して、少し冷ましてやる。皿が素手でも掴める程度になった頃にキバナを揺り起こした。
「出来たぜ。食べられるか?」
「……ん。食べる」
返事をしながらキバナはゆるゆると瞼を上げた。ダンデは足元に跪いてスプーンと皿を差し出す。キバナはだらだらと体を起こし、軽く頭を振った。そして数秒、ダンデが差し出しているスプーンをぼんやりと見つめていた。深く静かに息を吐き出すと、不意にぱかりと口を開けた。
「……ん」
ダンデはあまりのことに瞬きをした。生まれたてのココガラが親に餌をせがんでいるような光景だった。ココガラにしては八重歯の鋭さが目立つが、大きな口は鳥ポケモンを彷彿とさせた。食べさせろ、と言うことだろうか。
「……ん」
迷っているうちに、キバナが再度促した。あまりに横着な甘え方に笑ってしまう。ダンデは笑いながら、キバナの望むとおりにパンをひとつスプーンに乗せて口に運んでやる。ぱくんと口を閉じたのを確認してスプーンを引き抜く。キバナはひと噛みひと噛み、ゆっくりとパンプディングを咀嚼していく。ダンデと目が合うと、キバナは少し目を細めた。
疲れ切って弱りきっているキバナを、抱きしめたいと思う。どんな彼も愛しいと思う。生涯、この人を愛していきたい。こういう何でもない時間を二人でどこまでも重ねていけたら、どんなに幸せだろう。病めるときも苦難のときも、彼さえいてくれればダンデは前を向いて進んでいける。けれど、キバナは?
「味はどうだ?君に教わった通りに作ったつもりなんだが」
キバナはこくりと一つ頷いて見せる。その顔は出迎えたときよりも幾分か柔らかになっていた。どうやら及第点を頂けたようだ。ゆっくりと、少し気だるげに咀嚼し嚥下する。喉仏がごくりと上下する様子を見守りながら、次を用意してやる。なるべく大きめのパンを見つけ出して、匙に乗せる。
「キバナ。食べながら聞いてほしい話があるんだ」
「うん?」
生返事をしながらまた再びぱかりと口を開く。ダンデも淡々と次の一匙を与えていく。キバナがスプーンに食らいついた瞬間。ここだ。
「君と結婚したい」
言いながら、キバナの口からスプーンをゆっくりと引き抜く。キバナは面食らった顔をして硬直していた。何事か言おうと口を開きかけて、パンプディングが放り込まれているのを思い出したかのように慌てて咀嚼が始まる。その一連の行動を見ながら、ダンデは笑った。
「ああ、そんなに慌てなくて良いから。ゆっくり味わってくれ」
先程よりも咀嚼のスピードが随分と速い。それをダンデはキバナの膝を軽く叩いて制した。キバナはじろりとダンデを睨み付け、それでも咀嚼を止めなかった。驚きと怒りの入り混じった視線に、ふふふ、と声が漏れる。大成功だ。ようやくパンプディングを全部飲み込んで、キバナは改めてダンデを睨み付ける。先程の疲れ切っていたキバナから少しだけ回復したらしい。
「……お前さ、それこのタイミングに言う?あと、普通はそういう話の時は食べるの止めてくれじゃねえの?」
キバナの長い腕が伸びてきて、ダンデの鼻を摘まんだ。ぎゅ、となかなかの力で掴まれて、口で息をする羽目になる。ムードがないのはダンデも百も承知だ。怒られることも。
「きばな、いひゃいぜ」
「なあ、ダンデ。お前どう思う?」
パッと捕らえられていた鼻が解放される。弁明しろ、と顎で促された。ダンデはもう一匙パンプディングを差し出したが、キバナは口をきゅっと結んでそれを拒否した。仕方がないので皿とスプーンをテーブルに置いておく。
「今日はもう一秒でも早く寝たいかと思って。それなら食べてる間に話をするのが一番良いと思わないか?」
「寝たいよ、寝たいけどさあ。だからなんで今なんだよ」
ここは出来心とは言わないでおこう。照れ隠しもある。だがそれを言えば怒らせてしまうし、半分は見通されているだろうから言わないでおくことにした。ここで茶化して怒らせてノーと言われたらさすがに笑えない。
「卵が買い足してあったのに気付いたんだ。今週はずっと忙しいって言ってたのに。俺に言ってくれればいくらでもやるのに。でも君は何も言わずにいつも頑張ってくれてたんだなって気付いて、どうしようもなく愛しくなった。あと、不安にも」
「不安?」
「君にこんなに依存して生活してたんだって思い知った。俺はそうしてもらえて幸せだけど、でもこれじゃ君を離してやれなくなる……」
こんなに赤裸々に心情を吐露するなんて何年ぶりだろう。告白したときだって、たった一言で済んだのに。気恥ずかしくなって、まともにキバナの顔が見られなくなる。じっとキバナの膝辺りを見る。
「なに。離す予定があるような言い方だけど」
「俺からはない。君とずっと生きていきたいと思ってる。でも、キバナが俺といっしょで幸せになってくれるかは分からないから。君が望むなら、別れたくなったら、言ってほしい」
別れたくなったら、なんて自分から言い出したくはなかった。自分で言っておいて、少し胸が痛む。
「俺は君の愛情に甘えすぎているんだ。だから……」
キバナの手を取り、包み込むようにして握る。大きな手だ。少し指を曲げるだけで骨の形が分かる。肉の薄い手はいつも少しだけひんやりしていた。今日は指の先が随分と冷たい。
「俺はキバナと結婚したいけど……。正直、君が俺と結婚したいと思わせるようなメリットを提示できない。だから、君はこの話をなかったことにしてくれても良い」
「お前はそれで良いわけ?」
ひどく静かな声音だった。どういう感情なのか、この声だけでは判別が出来ない。
「本音は嫌だ。でも、キバナの幸せをちゃんと考えたい……。せめてそのくらいは出来る男でありたい」
ダンデがそう結ぶと、ふ、と笑ったような気配がした。思わず振り仰ぐ。鮮やかなブルーの瞳が穏やかに、波が揺蕩うように揺れていた。口の端に笑みがある。出迎えのときのような引き攣れたものではなく、零れるような。その表情で、ダンデの不安が帽子が風にさらわれるように吹き飛ばされる。
「……お前の話は大体わかった。じゃあ、次はオレさまの番な」
「ひと思いに頼む」
覚悟を決めて背を伸ばす。ひと思いにね、と呟いてキバナは笑った。
「まず、ダンデの愛がオレさまと同じである必要はないだろ。オレさまがいろいろやってるって言うけど、ダンデだってオレさまにしてくれてることはたくさんあるぜ」
「たとえば?」
「この家でオレさま、一度も紅茶とコーヒーだけは淹れたことないんだぜ。それと、先に帰ってきた時はどんなに忙しくても必ず出迎えてくれるし。あとは空調のリモコンを探したくなったこともない。それって、全部お前がオレさまにしてくれてることだろ?」
「リモコン?」
ダンデが首を傾げると、キバナは笑ってダンデの首筋に腕を伸ばした。なにを、と言う前に、首の裏を撫でられた瞬間に、あ、と思い出した。汗をかいているのを失念していた。キバナは自らの手でダンデの首の汗を拭ってやりながら、楽しげにくすくす笑う。
「オレさまがちょっとカーディガン羽織っとけば済む話なのになあ。お前、オレさまに合わせるから」
「……バレてたのか」
「気付いたのはけっこう最近だけどな」
「そうか」
気付かれていないと思っていたのに。羞恥で顔が熱い。変な汗が、首とは言わず全身から噴き出ている。ぶっきらぼうに返すと、キバナはますます上機嫌に笑う。
「それで、プロポーズの方なんだけど」
キバナの顔からふっと笑みが消えた。ダンデはきゅっと口を結ぶ。
「……ああ」
「こういうのはちょっと予想外だった」
「だろうな。もうちょっと君が好きそうなやつも考えてたんだぜ」
「悪くなかったぜ。ダンデお手製のパンプディング食べながら、っていうのが良かった。でもタイミングはもうちょっと考えろよなあ」
キバナは言いながらパンプディングを手に取った。一匙掬うと、ダンデの方に向ける。ダンデは大人しくそれに齧り付いた。
「人がもの食ってるときにさあ。ちょっと卑怯じゃねえの」
スプーンが抜かれると急いで咀嚼して飲み込む。三秒。あまりの速さにキバナが嫌な顔をした。多分意趣返しがしたかったのだろう。だが自分の作ったものなら味を判別する前に流し込むのに全く抵抗がない。にやっと笑ってやると、キバナはますます嫌な顔をした。いつもの調子が戻ってきている。いいことだ。
「それは悪い。今度ちゃんとしたやつもやらせてくれ」
ちゃんとしたやつ、と口の中で鸚鵡返しに繰り返して、キバナの顔がじわりと緩む。
「因みに。どんなのだよ?」
「……今言うのか?」
ダンデが胡乱な顔で言うと、キバナは呆れた顔で返した。
「お前な、今日でだいぶ信頼落としてるんだぞ。自覚しろ。事前に申告してダメ出しされとけ」
あんまりな言いように、む、と口を尖らせると、尖らせた口を指で軽く摘ままれる。すぐに離されたが、むくれた子供にするような行為だ。そういう扱いをされて、あまり愉快な気分にはなれない。
「……まず、ジュエリーショップに二人で行くんだ。あちこち見て回って、君が一番気に入った指輪を買う。それから映画館にでも行って少し時間をつぶす。夜はロンド・ロゼで食事だ。満腹になったら夜景の見えるスイートルームへ。そこで俺は君に跪いて、プロポーズする」
こっちの方こそサプライズにしたかったのに。朝、微睡んでいるキバナに出かけようと声を掛けて、何も言わずにジュエリーショップに連れていくつもりだった。目を白黒させているキバナに、どんなデザインが良い?と聞きながらカタログを片っ端から出してもらって。店をはしごして、カフェで休憩がてら、どれにしようか、石を入れるの入れないの、裏側に掘る文句はどうするの、二人であれこれ言い合いたかったのに。そういう日だから、全然趣味じゃない映画を見るのも悪くないと思ったのだ。ホテルにも小さなサプライズをいくつか仕込んで、それを見付けてもらうたびに笑ってもらって。彼に跪くときはバラの花束を渡すことも決めていた。そういう準備を少しずつしていたのだ。その一端をこんな形で開示するだなんて。
出来るだけそういうものが見えないように語ると、キバナは明るく笑い飛ばした。
「ベッタベタだな。何年前のドラマだよ」
「でもそういうの好きだろ?」
キバナの好みは熟知していた。こういう節目や大きなことについては、キバナはきっちりと古典的なものを好む傾向にあるとダンデは分析している。誕生日の祝い方で一番喜ばれたのは、結局名前入りのチョコレートが乗ったケーキにクラッカーだった。
「どうかな。あんまりにもベタで笑っちまうかも」
言いながらも、ダンデがベタベタのプロポーズをするところを想像しているのだろう。キバナは口元を軽く隠しながらくつくつと楽しげに笑っていた。ダンデは困ったように眉根を下げる。
「全部分かってたとしても、YESって言うまでは絶対に笑わないでくれよ。俺も頑張るから」
「なんだよ、オレさまがYESって言う自信あるのか?」
キバナが茶化すので、ダンデは思わず真顔になった。全然減らないパンプディングとスプーンを取り上げて、テーブルに置く。身を乗り出して、キバナに覆いかぶさるようにしてソファに乗り上げる。さっきから楽しいって顔を隠しもしないくせに。ちゃんとしたプロポーズが楽しみなら、素直にそう言えばいいのに。
「あのな。君、自分がさっきからどんな顔してるか分かってるか?」
楽しみなんだろ?そんな、きらきらした顔するくらいには。そう伝えるために、頬を撫でる。今度はキバナの方が顔を赤くする番だった。その顔に、どこかでしてやったりという気になる。キバナ相手に勝った負けたという話ではない。世界中でこの顔を引き出せるのは自分だけだという自負がある。キバナに対してではなく、キバナ以外の全人類に勝利している。頬にキスをして、キバナの左側に陣取る。再びキバナの手を取って、キバナの顔を見詰めた。
「……君のこの指に、俺が指輪を填めたい」
左手の人差し指の付け根を、すり、と親指で撫でる。キバナはうっとりとした顔でダンデの好きなようにさせていた。ベッドでしか見せてくれないような、甘い顔で受け入れてくれている。
「……うん」
指先に口付ける。ちゅ、と軽い音を立たせれば、キバナはますます顔を赤くした。
「俺に、その権利をくれるか?」
キバナが甘やかに微笑む。目尻にはほんの少しだけ涙が滲んでいた。その表情でダンデの心が浮き立つ。はやく、と急かしてしまいたいのを堪えて、ダンデも微笑みを返した。いとしい。溢れるほど愛しいこの光景を、目に焼き付けておきたい。
「いいぜ。オレさまも、お前のこの指がずっと欲しかった」
キバナが答えている間に、自然と指が絡み合う。キバナが伏目がちにダンデの方に顔を寄せたのを合図に、やさしく唇を重ねた。
END.