diary
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2026/02/19
「☾」https://www.youtube.com/watch?v=-hmp7Z7CAFQ
2026/02/14
「♡」https://www.youtube.com/watch?v=-5Ipn5bYzCI
2026/02/13
内的冒険と外的冒険について。私は内的冒険を本拠地としている人間だ。思索や自己理解を深める事に喜びを感じるし、内的な世界の広がりに興味を惹かれやすい。かといって外的冒険を軽視している訳ではない。私には一つの傾向があり、何事においてもそこへ物語を見出そうとする面がある事、そして場所を消費するのでは無く、場所と対話する性質を持っていて、その中でも意味の立ち上がる場所が特に好きなのだと思う。
私の好きな場所を挙げると、海、川、港、喫茶店、雑貨屋、 名画座、空港、大きな駅、深夜の高速道路、深夜のファミレス、水族館etc…となるのだけど、それぞれの場所に行って自分が同じ事について思索しても、場所によって浮上する考えは違ってくると思う。場所と思考はどこかで結びついている。
私はそんな様な事を近所の喫茶店で一人で考えていた。傍らには鬼海弘雄の本「誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録」が置いてある。そして、いつもこの喫茶店で閑談会を開いているおばあちゃん達が、私を挟んだ状態で両脇のテーブルに座って語らい合っていた。以前にも同じ状況に遭って、その時私は席をずれたのだけど、今日はわざと席に居座ってみた。なんだか私もおばあちゃん達の閑談会に参加しているみたいな状況で、少し面白かった。
文章を読んでいると分かるのだけど、鬼海弘雄は場所や人間の中にいつも背景や物語を見出しているし、場所や人間や動物と対話をしていると思う。そして本のタイトルにもある様に、どの対象の事をも好きになれる可能性というのを探っている気がするのだ。
2026/02/12
今日、水族館に行く目的もあって一人で臨海公園へ行った。そしたら振替休日で水族館はお休み、お魚やペンギンに会いたかったから少しがっかりしたのだけど、公園内を少し散歩してそのまま海に出られるので砂浜まで歩いてみた。人はほとんどいなかった。波の音を聞きながら白っぽい海を眺めていると、お昼の12時を知らせるメロディが何処かで流れ始めて、そのメロディが哀愁のある可愛らしい音楽を奏でていたので、録音代わりに海をビデオ撮影した。そして帰ってそのビデオを見返したら、流れている音楽が悲しすぎて少し笑ってしまった。だけど波の音に混じって流れるその音楽に、何か既視感を感じてしばらく考えていると、ドラクエの「おおぞらをとぶ」にどこか似た情緒を感じると思い出した。
この曲は主人公が鳥の背中に乗って空を飛んでいる時に流れるBGMなのだけど、鳥の様に空を飛ぶ事は果てしない自由の中にいる一方で、微かな孤独も伴っているという、そういう人生の物悲しい側面も語っている様な曲で、この二つの曲はどこかで繋がっている様な気もした。物悲しくて美しい。海を感じる時、空を感じる時、人は自由を感じながらも同時に孤独の気配に触れている。自由の中で屹立する孤独は美しい。
そういえば、最近読んだ友達の描いた漫画は海へ行く漫画だった。私は自分自身に帰りたくて海に行ったのだ。もしかすると友達も同じ様な気持ちでその漫画を描いたのかも知れないと、ふと思った。
2026/02/08
「ふりをしてまでもお互いのこと けなして愛すのは あまりにもあまいよね」 https://www.youtube.com/watch?v=YZXGxHauBJI
2026/02/04
人間は生成変化の只中にいて、それでも「私は何か」「私は誰か」と問わずにはいられない。人間は常に、physisと愛・倫理の間で引き裂かれている。引き裂かれた所に立ち現れる物は、存在の裂け目だ。存在の裂け目は、倫理と愛が生きている場所だ。そこを見て感じる事は、痛みを引き受ける事にも等しい。人間は嵐の中にいて、それでも裂け目を静かに見ようとする事をやめないでいられるのか。
自分が救われる瞬間というのは、自分と限りなく同じ光景(孤独・苦しみ)を見ている人が存在する、もしくは存在した、という事実に触れた時なのかなと思う。それは間接的な接触でも良くて、本や映画や音楽やアニメやゲームなどといった作品の、その向こう側にいる作者としての人間を感じる体験であっても構わない。
2026/02/02
スーパーでC1000のビタミンオレンジを買って飲んだ。この手のオレンジジュースというのは全然果汁感が無くて、グミや飴のお菓子のオレンジ味によく似ていると思うのだけど、懐かしくて存在として可愛い感じがするのと、瓶に入っているからか昔飲んだバヤリースの瓶のオレンジジュースの事を思い出す。私はぼーっとオレンジジュースを飲んでいるうちに、気が付けば遠く甘い幼少期の記憶に辿り着いていた。
子供の頃、両親とお爺ちゃんと一緒によく近所のお寿司屋さんに行って食事をした。お寿司は何を食べていたのかあまり思い出せないのだけど、子供だから多分玉子とかかっぱ巻きなどをよく食べていた気がする。カウンターやテーブル席ではない広い座敷席で、皆で和気あいあいとテーブルを囲んでお寿司をつまんだ。それに、自分だけDSを持ってきていてたまにニンテンドッグスをやった。広い座敷も相まって、どこか祝祭的な自由で楽しい空気が流れていたと思う。ここのお寿司は、グルメなお爺ちゃんが気に入っているだけあって美味しかった。そして私の飲み物はいつも、瓶のオレンジジュースだった。普段瓶のジュースにあまり馴染みがなかったので、子供ながらに物珍しい気持ちと、オレンジジュースの懐かしくてお菓子の様な甘い味をとても気に入っていた。
私の家は両親の喧嘩が多かったので、お寿司屋さんに行った時は皆で楽しく食事が出来るのが嬉しかった。今でもその記憶には温度があって、思い出すとなんだか安心するし、割と不安な子供時代ではあったけど楽しかった記憶も暗闇の中で星の様に光っている。そういう想い出の中にある瓶のオレンジジュースは、とても優しい味をしている。
2026/02/01
・好きな読書日記ブログを読んでいたら、たまたまマックス・ピカートという哲学者を知る事になった。彼の沈黙についての哲学的知見に触れ、私はすぐに自分が以前描いた漫画「ガラス製空耳通信」に登場する〈空耳〉という架空の概念の事を連想した。あの漫画は写真と存在と実在について、稚拙ながらも自分の思索の軌跡を物語化したものだと思っているのだけど、私が〈空耳〉と呼んで無言のフキダシを使って表現したかった物と、マックス・ピカートの言う〈沈黙〉の捉え方には、すごく近い物があると感じた。
マックス・ピカートは「沈黙とは、言葉が出てくる以前に人間の中にある全体性である」と述べていて、ここで言う全体性とは、分節化される前のまだ言葉にならない感受性の事を指しているらしい。私はあの漫画で〈空耳〉について「まるで赤ん坊が聴く人の言葉みたい」だと書いている。赤ん坊は誕生する言葉の萌芽を感知する。両者が表したい文脈は限りなく同じ物に近い。
先日、台湾で視覚文化や写真に関する学術研究をされている張晉瑋さんという方が、「ガラス製空耳通信」についての文章を書いて下さった。非常に興味深いので、読みたい方がいましたら下記リンクから日本語版をどうぞ。
https://drive.google.com/file/d/1ubeon96YiIbQfoUrbjqR-jlT50jMDG5P/view
・連続射殺魔・永山則夫の「無知の涙」における孤独は、自意識によるものとは質的に全く違うものだと感じる。〈私〉という存在が世界と対峙して、命というものが極限まで削られていった時に、ふと気が付いてしまった光景へ応答する、痛みの最中で身体が発した信号の声として私は聴く。
・ガロで一番好きな漫画家、春礼六。彼の漫画は主にガロとアックスに掲載されていて、単行本は出版されていないので該当する掲載号を買って読むしか作品に触れる機会は無い。彼の台詞は詩的だ。そして彼の絵はトーンを使わずに線だけで色の濃淡を表現した白黒の画面作りが為されていて、描線のタッチは生き物の様に波打っている。この独特なタッチは芸術的だし、画面に統一感を与えていて、見ていてすごく癖になる。
彼の作品には病気を患っているキャラクターが頻出する。例えば「モナミモナミ」における主人公の鱗粉病の恋人。彼女は病の為に知恵遅れの状態になっているが、とても純粋で心の清らかな女性だ。主人公は彼女の為に夜店の輪投げ屋で、彼女の欲しがった景品を当てようと命をかけて奮闘する。最後のシーンは祈りの様でもあるし、彼の弱い者への愛のある眼差しを感じられるとても美しい物語だと思う。彼のどの作品も短いながらにインパクトがあり、心に刺さって抜けなくなる。彼の詩的なセリフはシュールで悲しくてユーモアに富み、絵柄と調和してモノクロの画面の中で鮮やかな色彩を放ち続ける。
2026/01/13
孤独の音色が聴こえる。それは肩を寄せ合えない青い光、ハートの形をした空洞、あらかじめ喪われている場所、静かで誰もいない場所、けっして何者によっても塞ぐ事は出来ない場所、ここは冷蔵庫の中の無機質な静けさに似た、孤児の星達の集う波止場。この場所は何も無いけれど、それ故にこの場所から美しい物は生まれてくる。私達はどうにも独りだけど、誰かと出会ったり語り合ったり、約束を交わしたり、感情を何色にもして生きていて、胸の内には一瞬が永遠に焼き付いて、いつまでも炎の様に揺らめいている。世界はそんな風に出来ているから仕方ないと、幸福な諦めをする。溜め息が魚になって海を泳ぐ。魚は未だ見ぬ誰かを探しながら、ふわふわと揺蕩っている。
私は小さなトイカメラで写真を撮る事があって、チープに変身した姿でカメラに収められたこの世界はプチ・ワールドと呼べる様なLo-Fi的な質感の可愛さがあって、そういうフィルターをかけて自分は世界を読み取ろうとしている様な感じもする。解像度が下がった世界はデフォルメされていて、可愛らしく見える。犬を愛でるみたいに世界を愛でる事が出来る。世界の解像度を下げると、途端に世界が自分の部屋の様に見えてくるし、シャッター一つで世界の在り様を変化させてしまえる。ある種の魔術。
2025/11/28
誰でも心の中に天使が住んでいる。その天使は自分で自分を世界の淵に突き落としそうになってしまった時、見知らぬ母の様に、瞳に星を映しながら心の中に現れる。その星はぴかぴかと点滅し、全ての悲しみに光を当て、幸福の背骨に変えてゆく。
窓の外の青白い景色が、カーテンの僅かな隙間から覗いている。灯りは間接照明だけの母胎の様な部屋の中で、大好きな音楽を流して、傍で眠っている犬を眺めたりしていると、静寂の温度がよく分かる。静寂は様々な温度に変わるけれど、こういう時の温度は人肌位で、ココアに浸かっているみたいで心地良い。部屋の中で、目覚めながら夢を見ている。外ではきっと、人々の命がそこら中で沢山煌めいて、街を賑やかにしている。明日はきっと、お洒落をして街へ出よう。
2025/11/09
人と話す事と映画を観る事は、実は同じなんじゃないかと思った。映画を観ている時、心の中で何かを感じて感想を持ったりする訳だけど、それを声に出さないだけで、心の中には確かに言いたい事があるはずで、知らず知らずのうちに、実は沈黙の中で私達は、映画や映画の向こう側にいる作者自身と対話しているのだ。それは映画に限らず、あらゆる音楽、小説、絵画、演劇、ドラマ、ゲームなどの作品の物語に触れている時にも行われている。物語の作者は、作品を通してこちら側に何かを投げかけているのであって、その何かを各自の感性や方法で受け取って、自身の内に感情や想いが生まれてくる事は、一種のコミュニケーションなのだ。対話は沈黙をしていても可能なのかも知れない。
最近、四月物語という映画を観た。私はこの映画からたくさん話し掛けられた気がする。世界は怖い場所なのではなく、優しい場所なのだと、毎日世界のどこかで密やかに、愛の奇跡がたくさん起こっているのだと、そんな風に言って貰えた気がする。そして私はその日、安心して眠りに就けた。琥珀色の様な懐かしい眠りだった。本当は誰もが皆、話したい事がたくさんあるのだ。
2025/01/04
日常の中に潜む、詩的事実がある。それを言葉として残せば、一瞬が永遠になるような気がする。この世のあらゆる芸術は、一瞬を永遠にするために存在しているのかも知れない。何度も何度も繰り返されてきた、一瞬を永遠にするためのこの儀式は、人間の持つ欲求の中で一番眩しくて、それについて接触したり思考したりすると私は眩暈がするし、どんな感情になることだってできる。何もかもが解放される事を望んでいるのは魂だ。言語化されていない事や目に見えないものを、言語化したり見たりするのも魂の仕業だ。ブルーになりやすい私には、心臓が震えるような事がどうしても必要で、何を知り何を見て何を聞くか、全部自分で決めたいし、そういう行為が明日を太陽でいっぱいにしてくれると思っている。
2024/11/06
この間、心療内科の主治医に「事象は事象としてただ存在しており、それに対して色々な事を思ったり考えたりするのは人間の方である」という様な事を言われた。事象というのは日々の出来事もそうだし、あらゆる存在に触れる事について、例えば景色を見たり音楽を聴いたり、映画を観たりする事などもそうだろう。人間が事象に遭遇して、何かを感じたり考えたりしている時、五感の働きや気持ちの動き方などの反応は、その人間の数だけ存在する。それらは様々な色や形や奥行きを持っていて、その人の個性がよく表れている部分でもある。私はそれを愛おしく思う。
鬼海弘雄の写真が好きだ。写真集は「PERSONA 最終章」だけ持っていて、「靴底の減りかた」というエッセイを読んだ。鬼海さんはよく「人間の森」という言葉を使っている気がする。この言葉を聞くとわくわくするし、人間は多層的で、沢山の秘密や謎を持ったキュートな存在なのかも知れないと思う。鬼海さんの撮る人物は、存在の密度が特に濃いと感じる。その人自身が身体に収まりきっていないという風に。服装にだって個性が強く表れていて、頭の中をそのまんま身に纏っているみたいなのだ。これは相当に愛おしいことだ。こういう写真は、深い人間愛を持つ人ではないと撮る事ができない。
「PERSONA 最終章」の中で、イネで作ったバッタを三匹(しかも三日ごとに作り替えている)、頭に乗せているおじいさんの写真があって、この人が一番意味が分からないと思って好きだった。簡潔な説明のキャプションが、余計に興味を引き立てる。このおじいさんはそもそも、なぜ作り物のバッタを頭に乗せているのか? なぜ三日ごとに作り替えているの? なぜ、なぜ…とハテナマークの嵐でとても興味を惹かれてしまう。そうやって誰かに対して、想像力を膨らませるのが私は好きなのかも知れない。人間の森で迷子になりたいのだ。
2024/08/13
所有したいという欲求について。私は好きなモノ・コトに対して、それを手元に持っておきたいという強い気持ちがある。漫画や文庫本、DVDやCD、レコードもそうだし、インターネット上の文章に対してもそのような気持ちを抱いてしまい、自分で文章を勝手にPDF化してコレクションをしている。インターネット上に存在するものに関しては、突然跡形もなく消えてしまう可能性があるから、そうなっても見られるように保存しておきたい、という気持ちもそこには含まれている。
それとは別のことで、歌詞などでたまに、「君がほしい」というフレーズを見かけることがある。ぱっと思いつくのは、Kinki kids の「Kissからはじまるミステリー」の歌詞の中で繰り返されるフレーズだが、ここでいう「君がほしい」という言葉には、どういった意味が含まれるのか。別に人をモノ化して、「ほしい」と言っている訳ではないだろう。誰かに対して「ほしい」と表現をするくらいだから、そこには激しい感情が含まれていることは確かだ。
恋愛についての心の働きの中で、相手と同一化しようとする、という説明があるけれど、もし本当に相手と自分が全く同じになってしまったら(そんなことはありえないけれど)、二人が向き合っているはずなのに、他者が存在しないというような状態になって、鏡とキスするみたいな、すごく孤独な世界に変わる。そういう事態に到達する可能性があるような心の働きを、仮に持っているのだとすれば、人間はなぜ持っているのだろう。
「君がほしい」というのは、恋愛感情を詩的に表現したもので、少なくとも実際に誰かに対して「ほしい」と思ったりすることはない。けれど「ほしい」という表現があるのは、相手が手に入らないと分かっているからこそ、出てくる表現なのではないか、ということ。
心にせよ身体にせよ、誰かのことを手に入れるということは不可能だ。人間が生き物なら恋愛感情も生き物で、刻一刻と変化していくのだから、その自由を縛ることは誰にもできない。「君がほしい」というフレーズを見たり聞いたりする度に、「君を所有することは不可能」だ、ということを強く感じてしまう。「Kissからはじまるミステリー」で何度もその言葉が歌われる度に、「君を失う」ということが強く意識されてしまう。
私は何かを「失う」ということが、とても怖いのだ。何よりもきっと、それを恐れているのだ。だからもしかすると、その反動でさまざまな好きなモノ・コトを所有しようとするのかも知れない。それらを集めて、「失う」ことの埋め合わせをして、安心したいのかも知れない。それは端的に言って、自分が淋しさを感じやすい質だからというのもあるだろう。「失う」ことを恐れるというのは、それが淋しいことだと知っているから。私はこれからも、色んなモノ・コトを集め続けるだろう。「失う」ことの影を引き連れながら。