Diary
Diary
2025/11/09
人と話す事と映画を観る事は、実は同じなんじゃないかと思った。映画を観ている時、心の中で何かを感じて感想を持ったりする訳だけれど、それを声に出さないだけで、心の中には確かに言いたい事がある筈で、知らず知らずのうちに、実は沈黙の中で私達は、映画や映画の向こう側にいる作者自身と対話しているのだ。それは映画に限らず、あらゆる音楽、小説、絵画、演劇、ドラマ、ゲームなどの作品の物語に触れている時にも行われている。物語の作者は、作品を通してこちら側に何かを投げかけているのであって、その何かを各自の感性や方法で受け取って、自身の内に感情や想いが生まれてくる事は、一種のコミュニケーションなのだ。対話は沈黙をしていても可能なのかも知れない。
最近、四月物語という映画を観た。私はこの映画からたくさん話し掛けられた気がする。世界は怖い場所なのではなく、優しい場所なのだと、毎日世界のどこかで密やかに、愛の奇跡がたくさん起こっているのだと、そんな風に言って貰えた気がする。そして私はその日、安心して眠りに就けた。琥珀色の様な懐かしい眠りだった。本当は誰もが皆、話したい事がたくさんあるのだ。
2025/01/04
日常の中に潜む、詩的事実がある。それを言葉として残せば、一瞬が永遠になるような気がする。この世のあらゆる芸術は、一瞬を永遠にするために存在しているのかも知れない。何度も何度も繰り返されてきた、一瞬を永遠にするためのこの儀式は、人間の持つ欲求の中で一番眩しくて、それについて接触したり思考したりすると私は眩暈がするし、どんな感情になることだってできる。何もかもが解放される事を望んでいるのは魂だ。言語化されていない事や目に見えないものを、言語化したり見たりするのも魂の仕業だ。ブルーになりやすい私には、心臓が震えるような事がどうしても必要で、何を知り何を見て何を聞くか、全部自分で決めたいし、そういう行為が明日を太陽でいっぱいにしてくれると思っている。
2024/11/06
この間、心療内科の主治医に「事象は事象としてただ存在しており、それに対して色々な事を思ったり考えたりするのは人間の方である」という様な事を言われた。事象というのは日々の出来事もそうだし、あらゆる存在に触れる事について、例えば景色を見たり音楽を聴いたり、映画を観たりする事などもそうだろう。人間が事象に遭遇して、何かを感じたり考えたりしている時、五感の働きや気持ちの動き方などの反応は、その人間の数だけ存在する。それらは様々な色や形や奥行きを持っていて、その人の個性がよく表れている部分でもある。私はそれを愛おしく思う。
鬼海弘雄の写真が好きだ。写真集は「PERSONA 最終章」だけ持っていて、「靴底の減りかた」というエッセイを読んだ。鬼海さんはよく「人間の森」という言葉を使っている気がする。この言葉を聞くとわくわくするし、人間は多層的で、沢山の秘密や謎を持ったキュートな存在なのかも知れないと思う。鬼海さんの撮る人物は、存在の密度が特に濃いと感じる。その人自身が身体に収まりきっていないという風に。服装にだって個性が強く表れていて、頭の中をそのまんま身に纏っているみたいなのだ。これは相当に愛おしいことだ。こういう写真は、深い人間愛を持つ人ではないと撮る事ができない。
「PERSONA 最終章」の中で、イネで作ったバッタを三匹(しかも三日ごとに作り替えている)、頭に乗せているおじいさんの写真があって、この人が一番意味が分からないと思って好きだった。簡潔な説明のキャプションが、余計に興味を引き立てる。このおじいさんはそもそも、なぜ作り物のバッタを頭に乗せているのか? なぜ三日ごとに作り替えているの? なぜ、なぜ…とハテナマークの嵐でとても興味を惹かれてしまう。そうやって誰かに対して、想像力を膨らませるのが私は好きなのかも知れない。人間の森で迷子になりたいのだ。
2024/08/13
所有したいという欲求について。私は好きなモノ・コトに対して、それを手元に持っておきたいという強い気持ちがある。漫画や文庫本、DVDやCD、レコードもそうだし、インターネット上の文章に対してもそのような気持ちを抱いてしまい、自分で文章を勝手にPDF化してコレクションをしている。インターネット上に存在するものに関しては、突然跡形もなく消えてしまう可能性があるから、そうなっても見られるように保存しておきたい、という気持ちもそこには含まれている。
それとは別のことで、歌詞などでたまに、「君がほしい」というフレーズを見かけることがある。ぱっと思いつくのは、Kinki kids の「Kissからはじまるミステリー」の歌詞の中で繰り返されるフレーズだが、ここでいう「君がほしい」という言葉には、どういった意味が含まれるのか。別に人をモノ化して、「ほしい」と言っている訳ではないだろう。誰かに対して「ほしい」と表現をするくらいだから、そこには激しい感情が含まれていることは確かだ。
恋愛についての心の働きの中で、相手と同一化しようとする、という説明があるけれど、もし本当に相手と自分が全く同じになってしまったら(そんなことはありえないけれど)、二人が向き合っているはずなのに、他者が存在しないというような状態になって、鏡とキスするみたいな、すごく孤独な世界に変わる。そういう事態に到達する可能性があるような心の働きを、仮に持っているのだとすれば、人間はなぜ持っているのだろう。
「君がほしい」というのは、恋愛感情を詩的に表現したもので、少なくとも実際に誰かに対して「ほしい」と思ったりすることはない。けれど「ほしい」という表現があるのは、相手が手に入らないと分かっているからこそ、出てくる表現なのではないか、ということ。
心にせよ身体にせよ、誰かのことを手に入れるということは不可能だ。人間が生き物なら恋愛感情も生き物で、刻一刻と変化していくのだから、その自由を縛ることは誰にもできない。「君がほしい」というフレーズを見たり聞いたりする度に、「君を所有することは不可能」だ、ということを強く感じてしまう。「Kissからはじまるミステリー」で何度もその言葉が歌われる度に、「君を失う」ということが強く意識されてしまう。
私は何かを「失う」ということが、とても怖いのだ。何よりもきっと、それを恐れているのだ。だからもしかすると、その反動でさまざまな好きなモノ・コトを所有しようとするのかも知れない。それらを集めて、「失う」ことの埋め合わせをして、安心したいのかも知れない。それは端的に言って、自分が淋しさを感じやすい質だからというのもあるだろう。「失う」ことを恐れるというのは、それが淋しいことだと知っているから。私はこれからも、色んなモノ・コトを集め続けるだろう。「失う」ことの影を引き連れながら。