朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
「あっという間に世紀末だね、シロ」
テーブルの向かいにいる少年へ話しかけると、前髪の隙間から冷たい眼が覗いた。けれども、もし天使が睨むならこんな目つきだろう、という愛らしさで何のダメージもない。
先ほどからシロは、僕のよりひと回り小さな子ども用の椅子をがたがた揺らし、懸命に全身を跳ねさせていた。腰から伸びたコードを後ろ手でたぐり寄せ、プラグを自力でコンセントから抜こうと躍起になっているのだ。ただ僕としては今、自由に歩き回られると非常に困る。「尻尾みたいで可愛いね」と褒めて誤魔化そうとしたが、身長百二十センチのアンドロイドは口を尖らせて「嘘つき」と僕をなじった。
「ドラマの再放送です。これが本当なら三回は世界が終わっています」
シロはテレビに向かってすっと腕を伸ばし、人差し指を向けた。たちまちプツンと音を立てて液晶画面は真っ黒になり、代わりに四畳一間が反射して映りこんだ。狭いアパートの一室、旅番組で遭遇する町の人Aといった顔面の僕の隣で、まさにテレビの住人めいた少年の美貌が歪み、ふうとため息をつく。
「先生、こんなもので俺の性能を試す気ですか? もっと上手な嘘をついてくれないと張り合いがありませ、んっ」
シロは勢いをつけて立ち上がり、力任せにプラグを抜いた。白い額の真ん中に、ぼうと浮かび上がる『充電完了』の文字を細い腕で強引に拭い去る。最近、こういう乱暴な所作が目立つ。おそらく僕の真似だ。
「嘘、苦手なんだよね」
「それなのに嘘発見器のテスターに応募したんですか?」
「そう。給金がいいからね。それに顔が良かった」
シロはあからさまに嫌な顔をした。僕や誰か他の人間の模倣ではなくプリセットされている表情は久しぶりに見たが、どこかぎこちない表情は昔も今も寸分違わず、やはり好みだとしか言いようがない。
引き取ってきた当初、シロは深窓の姫君そのものだった。充電が終わっても、黙ってゆっくり手招きをするだけ。僕はそのアルカイックスマイルに吸い寄せられるようにプラグを抜き、恭しい手つきで瞼を閉じさせ、首の後ろにある電源スイッチをオフにして、小さな体を布団まで運び、横たえた。眠る姿は大理石でできた彫像のようで、久しぶりに僕は目を閉じたヒトの顔をひとしきり眺めていた。
それが今や表情をころころ変えて、プラグを抜いてくれなかった仕返しにテーブルの下で脛を蹴りつけてくる。痛みを紛らわそうと、僕はリモコンを手に取って再びテレビをつけた。
「昔これ流行ったんだよ、アンドロイドと人間の恋模様。完璧超人に欠けている恋愛感情を教えられるのは平凡なわたしだけ、恋が成就する頃には隕石が衝突して世界は終わる。なんて儚い恋物語だろう。シロ、バイトは?」
「今日は休みになりました」
「ネットパトロールに休日があるの?」
「もちろん。不満ですか?」
ようやく蹴りを止めて不敵に笑うシロに、僕は再び同じ場所を蹴られぬよう足を組み替えながら返答を考えた。こんなはずじゃなかった。
この部屋に入れた翌日、一晩中電源をつけっぱなしだったシロに「おはよう、よく眠れた?」と尋ねると「おはようございます、よく眠れました」と返され、それで会話は終了した。せめて「あなたはよく眠れたのですか?」と返してほしかった。それだけだ。
アンドロイドの会話は、膨大な会話パターンを蓄積することで成り立っていくらしい。それなら僕と一対一で暮らせば、そのうち僕のクローンのような言葉遣いになるのだろう。自分と会話するなんて、黙っていたってできる。つまらない、どうにか他人の言葉を学ばせないと、と考えた末のネット巡回バイトだ。馬鹿みたいにかかる電気代の足しにもなるし一石二鳥だ、そのうち彼なりに言葉を覚えてくるだろう、とのんきに構えていたのがよくなかった。テレビや雑誌では弾かれるような罵詈雑言、反論の仕方まで学んできた。ひどい高性能だ。
「シロもたまには休まないとね」
舌打ちを飲み込んで笑ってみたが、シロは真顔だった。
「嘘です。先生はいらいらしている時に顔を触る癖があります」
指摘されて初めて頬を掻いていることに気付き、すぐさま手を膝の上に置いた。
シロの言うとおり僕は苛立っていた。この可愛らしい顔と向かって、意味のある会話をしたかった。けれども僕を理解してほしいわけではなかった。予想を超えるペースで知識を吸収するものだから、近いうちに俺の計画が次々と水の泡になるのは確実だ。
「先生は嘘ばかりです」
嘘発見器としての判定結果は、感情のない声にのせられて僕の耳から一気に心臓までを突き刺した。ほら、来た。
「先週喫茶店で会った女性は誰ですか」
「前に勤めてた会社の同僚だよ。あの頃はシロと暮らすなんて思ってもみなかったな」
「先生はやけに親しげでしたが相手はそうでもありませんでした」
「僕の用事で会っただけだから、元からそれほど仲は良くないよ」
シロは黙りこんだ。先週の記録メモリと比べて答え合わせをしているのだろう。僕は耳たぶをつまみ軽く引っ張りながら頭を整理し、次の質問に備えた。
「では三か月前、男性に夕飯をご馳走してもらいましたが、あれは誰だったのですか?」
「えらーいお医者さまだよ。都心の大学病院に勤めていて、前に胃をやった時にお世話になったんだ」
「先生は半年前、あの医師の名前を俺に調べさせましたが、医師名簿データベースには名前がありませんでした」
シロは淡々と言った。さすがアンドロイド、よく覚えている。期間を空けても無駄だったか。シロの可愛らしい罠にかけられたことに気付き、僕は笑いだしたいのをこらえて真面目な顔を作った。
「変だね。バグかな」
「それに先生は、高校の同級生だと言っていました」
「そうだよ。そのよしみでときどき会うんだ」
「そして五十万円を貰うのですか?」
シロはどこからか通帳を取り出してテーブルの上に開いて見せた。自称医師に振り込ませた金額が連なっている。
「友情積み立てだよ。海外旅行でも行こうかな、って」
「パスポートはどれを使うんですか?」
テーブルの上に、スーツケースにしまっておいたはずのパスポートがずらりと並べられた。
「タッチパネル式の鍵をかけておいたはずなんだけどな」
「まずパネルにセロハンテープを貼り付けます。剥がして、指紋がベタベタついているところがパスキーです。あとは四桁の組み合わせですから、二十四回挑戦すれば必ず開きます」
シロは得意そうに胸を反らした。その仕草を微笑ましく思いながらも、僕は今さら探偵もののアニメを見せたことを後悔していた。
「シロ、他人の物を勝手に触っちゃいけないよ」
「他人ではなく先生の物です。でも、このパスポートを見てください、サトウ、スズキ、タカハシ、どこにでもいそうな苗字です。灰戸ではありません」
随分前から、シロは僕が初めに名乗った「灰戸」をつけずに「先生」とだけ呼ぶようになっていた。あの頃からずっと僕を疑っていたに違いない。最後のあがきとして、素知らぬ顔で答えた。
「友達から預かってるものだよ」
「すべて先生の顔写真です」
黒目がちの大きな目をかっと見開いたシロと目が合う。正誤判定しづらいよう、虫が死んだふりをするように僕は息を潜めて頭を空っぽにする。数秒間、僕らは見つめ合った。
「先生、あなたは誰ですか?」
とうとうこの日が来た。僕は観念し、すでに開けられたスーツケースから皺になった名刺を取り出してテーブルへ放った。シロが慌てて掴み取るが、そこに書かれている内容には満足できないらしく、名刺はぐしゃりと握りつぶされた。
名刺の人物は灰戸教授、専門はロボット心理学。立派な肩書きがずらずらと並ぶ「僕」のモデルだ。同じほど連ねられるのは前科ぐらいの俺とは似ても似つかぬ老人を思い出す。あんたの目論見は成功だ。
「嘘発見器をなめないでください」
シロの目がギラリと光った。レーザー光線でも出そうな勢いに、俺は大きなため息をついた。
一体どこのどいつだったか。嘘発見器が人間みたいに喋ったら面白いと思ったクソ科学者は。
「司法取引って分かるかな?」
手錠をはめられパイプ椅子に座らされた俺の前で、くたびれたスーツの老爺がにこっとした。香りの強いムースで撫で付けられた白髪やベルトの太い腕時計が、私は立派な人間だと主張している。眼鏡の奥は笑っておらず、俺もよそ行きの笑顔を返す。
「うーん、聞いたことないですね」
俺が首を捻ると、後ろに立つ刑事が舌打ちし、ぼそりと呟くのが聞こえた。よく言うぜ、元締めの名前を教えてほしければ減刑しろって啖呵きっておいて。
「灰戸先生、こいつ昨日は一日中いもしない娘の話を陽気に喋り詰め、一昨日は何を聞いても映画みたいな空想の話ばかり、今日はマシな方ですが、まともに話なんかできませんよ。ちょっとアレなんでね」
前にいる刑事は自分のこめかみをとんとんと叩いて肩をすくめてみせたが、灰戸先生と呼ばれた老人は涼しい顔で言った。
「日替わりランチみたいで面白いね」
呆れ顔の刑事たちを押しとどめ、皺だらけの手が俺に名刺を差し出した。ひったくるように受け取ると、手錠の鎖がじゃらんと鳴った。
「数年ほど嘘発見器のテスターをしてもらいたいんだ。その代わりにキミは無罪放免。どうだろう」
「はあ。やたら都合のいい話は断ることにしているんですが」
「そう言わずに。さあ、おいで」
老爺が振り返って手招きすると、細く開いたドアの隙間から小さな体が滑り込んできた。小学生ぐらいの少年で、きれいな顔をしているが子供服売り場のマネキンが歩いているように見えなくもなかった。
「これが嘘発見器くん。どうかな、一緒に暮らせる?」
まだ何も言っていないのに話が進んでいく。そこら中に突っ立っている刑事どもの様子をうかがうと、連中はくたびれた様子で視線を虚空にやっていた。マネキン少年もとい嘘発見器は気にする様子もなく無表情でその間を突っ切って歩いてくる。
「テスターって具体的には何をするんです?」
「毎日話しかけてくれればいいよ。この子は優秀だから、それで事足りる」
嘘発見器が隣に立つと、灰戸教授は満足げに言った。
「巷でAIと呼ばれているものは、結局は機械学習の装置だ。この子はその頂点だと思ってくれればいい。量産できるようになれば、取調室を覗くと彼が容疑者とにらめっこ、そして延々と質問し続ける。やったのか、やっていないのか、その返答時の態度一つ一つを精査し、事実と照らし合わせ、嘘である確率を弾き出して報告する」
「するとテストとやらが上手くいけば、どの警察署にも嘘発見器が溢れかえるわけですか。想像すると気味が悪い」
「少なくともキミが増えるより、社会にとっては有意義だと思うよ」
気に障ったらしく少しけんのある言い方に、オレはふっと口の端を吊り上げた。
「おじいちゃん、人を口説く時は、相手をいい気持ちにさせなきゃだめだよ」
「別にキミじゃなくてもいいよ。嘘なんて誰でもつけるからね」
「じゃあ、どうしてオレに? あいつらでもいいじゃん」
散らばった紙類を拾い上げている刑事たちを指させば、彼らの一人はうんざりした顔で灰戸教授を見つめた。
「先生、そいつの相手はやめた方がいいですよ。さっき話してた男の方は話が通じますが」
まるでオレが二人いるような台詞に眉をひそめる。
その刑事の手の中に、私に騙されてうっかり死んだ男の写真がちらりと見え、それがオレの顔だと分かった瞬間、ふとここにいるのがいったい何者なのかわからなくなった。自意識は身体を抜け出して部屋中に広がり、男の写真へ収束していきそうになる。
「えっと、もしかして――キミにとって僕ははじめまして、なのかな」
恐る恐る尋ねる教授の姿を見下ろして、オレははっとして拡散してゆく自我を綱引きよろしく引っ張った。
「違うよ。オレは単に他人を演じているだけだから」
嘘を語れば上手く生きられる。そして、もっと上手くいく方法は自分がその嘘を本当だと思い込むことだ。それに気づいたのはいくつの時だっただろう。オレは思い出そうとしたが、調べ上げた経歴を読み込んで人柄ごとトレースした他人の想像上の人生が邪魔をする。過去の記憶は朧げで母親の顔すら霞がかっていた。
拡散する自我を無理やり断ち切れば、再び手錠をかけられパイプ椅子に座る俺に戻った。
「俺は詐欺罪で逮捕されているんです。この意味、わかりますよね?」
「ただ他人を演じて騙しているだけだと、言いたいのかな」
「ええ。自分でコントロールできますから、気にしないで。多重人格ではありませんから。俺ではない誰かだと、強く思い込めば誰にでもできます。それを悪いことに使った結果がこれですよ」
灰戸教授は静かに俺を見ていた。その視線に哀れみを感じとった瞬間、俺は急いで過去に騙した相手を探した。今演じている「俺」はかなり気楽なタイプだが、誰か、誰でもいい、心底人間を馬鹿にしている、そう、「おれ」みたいな。
「この子と暮らすのはいい気分転換になるかもしれないよ」
アンドロイドの肩を抱き、カウンセラーのように微笑む男に、指を突きつけて大笑いしてやりたいのを必死にこらえる。この科学者様はおれのような人間を知らないのだろうか。金はなく頭もない、心さえない。アンドロイドならバラしても金になり、ましてや嘘発見器だなんておれと同じような法螺吹きどもの金を巻き上げるのにぴったりだった。
灰戸教授の傍で佇むアンドロイドの無垢な笑みを冷めた目で眺める。人型ATMだ。当面の生活には使えるだろう。
「さっきの発言は謝罪するよ。この子をキミに任せてみたい」
それでも、嘘発見器だ。おれのままで何事もなく暮らしていけるだろうか。ふと視界に入ったのは、何事にも動じず、常に穏やかな語り口調の老人。理想的だった。
「引き受けてくれるね?」
僕の返事は決まりきっていた。
それが今から二年前ほどのことだった。僕は定期的にシロのデータを灰戸教授へ送りながら、これまでと同じように誰か一人を捕まえては不動産屋になったり新規事業を起こす起業家になったりして金を出させ、それで暮らしてきた。初めはシロを使って詐欺師をゆすってもいたが、上には上がいるもので早々にやめた。シロは何も気づかずに嘘発見器として育っていった。
老教授は、嘘発見器が人間の子どものように育っていくことを知っていた。雛鳥のように盲目的に慕ってくるか弱い存在に、庇護欲を掻き立てられ、同時に自尊心は満たされるだろうと、そう考えたのだろうか。素敵なドラマのようだ。
もしそうなるならば、僕はとっくに嘘をつくのをやめ、真っ当な職につき、ロボットをさっさと完成させて血の通った人間と暮らすだろう。それができないから、歪な家族ごっこを続けていたのだ。けれども、それも今日で終わりだった。
「どうして何も言わないんですか」
シロが呟くのも構わず、僕は黙って立ち上がった。テーブルの上には嘘の残骸が散らばっており、これ以上見ていられなかった。
「まだ話の途中ですよ」
焦るシロが判定をする前に、僕は用意していたシロの書類をテーブルの上にまとめて置いた。そして教授の真新しい名刺をもう一枚添える。戸棚の裏に隠しておいた小さなスーツケースだけを提げ、玄関へ向かう。僕は迷いなく扉を開けた。シロが行動を起こす前に狭い廊下を駆け抜け、階段を一段飛ばしで降りていく。
目の前には落ちかけた陽が街を赤黒く染めていた。
「先生!」
いつになく大きなシロの声に、僕は立ち止まった。シロは部屋を出て追ってきたらしかった。
「どこかへ行くんですか。俺も行きます」
「ついて来なくていい、ちょっと散歩に行くだけ」
「スーツケースを提げて散歩ですか?」
肩越しに振り返ると、シロは強い視線で僕を射抜いた。
「君は不幸になるよ」
「先生が不幸になるの間違いではないですか?」
シロは挑戦的な目つきで言った。
「俺、知っているんですよ。先生はテスターを放棄したら捕まるんでしょう」
心臓が跳ねた。表情には出なかっただろうけれど、僕は動揺していた。シロがどこまで勘づいているのかと想像すると、ひどく手が震えた。
「せんせ、」
「もう先生じゃない」
シロは大きな目をぱちくりとさせた。僕が僕でなくなるのを見せるのは、取調室以来だった。見せものではないと分かってはいたが、焦燥感に突き動かされていた。
すべてを捨てて逃げる時は、その人格ごと置いていかなければならない。でなければ足がつき、たちまち刑務所行きになる。今はその時ではなかったが、どうにも僕が僕のままでいることに耐えられなかった。
「私は少し前に病気をしていてね。あまり過去の記憶はないんだ」
シロはきょとんとした。
「誰の話ですか?」
「私の話。前から言おうと思ってたよ」
「先生、またですか」
シロはいつかの刑事たちのように呆れて僕の腕を掴んだ。視線がぶつかる。黒目がちの大きな目が、真実か見極めようと揺れていた。しばらくして、シロは頭を振った。
「嘘です。先生は嘘をつく時、ごくたまにですが目を一ミリも反らしません。それに何よりも、今までの会話と内容が全く噛み合いません。なぜこの期に及んでまで俺に嘘をつこうとするんですか。……エラーが出そうです」
「出たらいいのに」
シロは目を丸くした。口を滑らした僕の方も驚いたが、そんな素振りはけして見せないよう、これから演じていく真面目な「私」を構成する細い糸を手繰り寄せた。けれども世界はピントのずれた写真のように二重にぶれ、「私」の糸は宙に浮きあがって風に飛ばされていった。「私」を失った僕は、誰か別の人間になりすまそうともがいたが空を掻くばかりで、どの他人の意識も掴むことはできなかった。やがて僕はひとりになった。
寂れたアパートを背に、僕を見上げてくるシロだけが色鮮やかに浮かび上がる。対して今の僕は、たった数時間会っただけの灰戸教授をまねてシロと暮らしてきた大嘘つきの「僕」のままだった。
「今のはどういう意味ですか?」
シロの目が、日が落ちていくのに合わせて暗視カメラへ切り替わるのが妙に艶めかしく見えた。僕の心臓はエラーが出たようにばくばくと派手な音を立てている。頭の中で場面に適した台詞を完成させる前に、口が動いていた。
「お前が、僕のことを疑わなければ幸せにしてやれたのに」
シロはぽかんと口を開けてから、ゆっくりと耳たぶをつまんで軽く二、三度引っ張った。僕が深く考え込む時の癖と同じだった。しばらくして、ぼんやりしていた僕の両手からスーツケースを僕の分とシロの分、小さな手が続けて二つひったくった。
「そんな独善的な幸せは結構です、先生」
シロはぴしゃりと言うと、住み慣れたアパートと呆気にとられて立ち尽くす僕を尻目に、二人分のスーツケースを、明かりが灯り始めたネオン街へ向かって勢いよく転がしていった。