幻雨
幻雨
2022年6月に発行したウツ←ハン♂前提モン姦小説本「幻雨」。本が完売しており、発行からある程度時間が経ったため全文掲載します。救い無し、おもくそバドエンです。
ウツ←ハン♂なので結ばれないことが前提ですが、途中ウツハン♂ぽい表現はあります。
大事な所では濁点喘ぎ、♡喘ぎが飛び出します。
モン姦、蟲姦、産卵、腹ボコ、嘔吐、流血、人の死の描写など有。閲覧の際はご注意ください。
目を覚ますと、窟屋の間から射し込む陽光が見えた。光の中を舞う砂埃。あれから、まだ幾許も経っていないのだろうか。
今、どうなっているのだろう。痛む身体に鞭打ち、起き上がる。そうすると、大小まちまちの岩の欠片や瓦礫らしきものが、バラバラと音を立てて身体の上から落ちた。生き埋めになりかけていたらしい。しかし、怒れる紫電に打たれ何度も地に叩きつけられた身体は、火傷や擦り傷は無数に負っているものの、まともな人のカタチを保っているらしかった。
身体の無事を確認していると、トトトト、と忙しい足音。見れば、ボロボロになりながらも見事に生き延びたらしいオトモたちが駆け寄ってきた。ガルクの背から飛び降りたアイルーは、こちらの脚にひしっとしがみついて泣きじゃくっている。困り顔で笑っていると、ガルクが腰に頭をぶつけてきた。大丈夫だから、と言えば、アイルーは余計に大声で泣き出す始末。ガルクもキュンキュンと喉を鳴らし、心配したんだぞ、とばかりに。
「いいんだ、もう。終わったんだな」
雷神龍、淵源ナルハタタヒメ。
カムラの里に、百竜夜行を招いた元凶。何十年に一度と里を襲う災禍の正体は、古龍と古龍の逢瀬だった。
存在が天災そのものとまで言われる古龍だ。人の世の道理と、交わることができるはずがなかった。滅ぶか、滅ぼすか。里の人々は、『猛き炎』と称された一人の青年ハンターに全てを賭けた。
馬鹿馬鹿しいとは、思わなかったのだろうか。古龍に人間一人を立ち向かわせるなど、無謀にも程がある。まあ、こうして今、件の古龍の遺骸を見下ろしておいて、何を言うかと言われてしまえばそれまでなのだけれど。
フクズクの脚に、文を結んで飛ばした。戦いが終ったことを、里に知らせなければならない。二日もすれば、ハンターズギルドの研究員たちと里の衆が船で漕ぎ着けるだろう。その中には、師もいるだろうか。
そうだとしたら、よくやったねと、言ってくれるのだろう。飛びきりの笑顔と、優しい声で───
「……───さん、旦那さん
「……あっ、ああ。なんだ」
「旦那さん、この龍の遺体はどうなるニャ?」
「そうだな……新種の古龍の遺体なんて、またとない研究材料だろうから、下手をするとこのままギルドに持ち帰るのかもしれないな」
「このままニャ?でっかいニャ……」
戦っている最中は怯んでいる間などなかったが、こうして見ると恐るべき巨体だ。その中でも一際目を引くのは、尽きてなお輝くようにも見える、腹の袋。それに抱かれ鈍く光る球体は、風神龍と雷神龍が成した命の結晶、だったものだろう。彼等が紡ぎ、交わり、融け合い生まれた、一つひとつ。その全て、人の安寧とは相容れぬものだった。産み落とす前に潰えたことはさぞ無念だっただろうが、こちらからすればそうも言っていられない。それに。
(子、か……)
スラリ、太刀を抜いた。切っ先を雷神龍の腹の袋に向け、刺す。袋に包まれた卵を貫き、手首を一度捻って、抜く。ひとつ。ふたつ。みっつ。順に順に、仕留めて潰す。
生きている今、産み育てたかっただろう。だが、やはり相容れぬ。死してなお番えたのなら、どうぞ彼岸で産み給う。
愛する者と番って、子まで孕んで死ねたのなら幸せではないか。この世には、それさえ許されぬ者もいる。
「だ、旦那さん……」
ツンツン、とアイルーが袴の裾を引いた。視線をやると、不安げな猫目がこちらの顔を見ている。どうした? と問えば、非常に言いにくそうにしながら口を開く。
「これ、ギルドに引き渡すなら余計な傷はつけない方がいいんじゃニャいかニャ……」
「あ」
しまった、と思うがもう遅い。古龍、その中でもとりわけ貴重な検体だったであろう卵は、光を失い無残な姿になっていた。
◆
竜宮城跡でギルドの研究員らと合流し、調査や後片付けを終えてカムラの里に帰還したのは、五日後のことだった。と言っても、現地での調査はまだ続いているはずだ。身体を張って里を守ったハンターをこれ以上こき使うわけにはいかないと、先に帰されたのである。そのタイミングで気を遣うなら、もっと早くに気を遣って欲しかった。命に関わるような怪我こそ無かったとはいえ、大物の中の大物を狩った後なのだ。小さな火傷や擦り傷は数え切れないほどあったし、当然疲れてもいた。
そんなわけで溜め息を吐きながら帰り着いた故郷の里で、更に数日後に催された宴。たたら場の前で皆に迎えられた時に十分労いの言葉はかけてもらっていたが、それでもまだ労い足りなかったらしい。まあ、本当は集まって酒を飲み交わしたいだけなのかもしれない。百竜夜行に終結の兆しが見えた今、里全体が祝賀ムードで満ち満ちているのだから。
宴は、いつかと同じく里の集会所で開かれた。『里を救った英雄』だと皆の前に引っ張り出されたので、仕方なく通りいっぺんの挨拶をした。飲めや食えやと色々な人に揉みくちゃにされ、嫌ではないのだが流石に少し気疲れもしてしまう。元々、大勢で騒ぐのがあまり得意ではない。里の衆もそれを解っていてか、ややもせず解放してもらうことができた。今は、宴会場の隅で一人、ちびちびとやっている。屋外に作られた席は風通しが良く、酒で火照った身体には心地がよかった。ふわり、桜の花弁が目の前で踊り、卓の上に落ちる。
「お、ようやくのんびり話せそうだ」
この小さな薄桃色は、この人が一陣の風と共に連れてきたのか。そんな風に思ってしまうようなタイミングだった。顔を上げると、琥珀色の瞳と視線が合う。こちらが無言のまま二、三度瞬きをすると、風───ウツシ教官は、熱燗と猪口を軽く掲げてにこりと微笑んだ。隣いいかい? と訊かれて、はい、とも否、とも言わずに横にずれて座席を空ける。
雷神龍を討伐した後、ウツシ教官は竜宮城跡には姿を現さなかった。里に帰還してからっも一言、二言交わしただけで、実のところ今ようやくまともに話をしている。こちらはギルドへの報告だ宴の準備だとバタバタしていたし、教官は教官で何やら忙しそうにしていたので、姿は視界の端にと捉えど、ゆっくり話をする暇などなかったのだ。教官も、ギルドとの折衝や里の周辺調査はしていただろうが……何故そんなにも忙しくしていたのか、考えると勝手に視線が下がってしまう。
「聞いたよ」
「……え、何がです?」
「ギルドの研究班に引き渡す検体に、傷をつけちゃったんでしょ」
検体、検体……竜宮城跡でのことを思い返し、続けて太刀で刺してしまった雷神龍の卵のことを思い出す。芋づる式にあの時感じたほの暗い気持ちまで甦ってしまい、首を軽く振る。
「あれ? もう酔ってるのかい?」
「いえ、そんなことは……」
「そうだよねぇ。ほら、飲んだ飲んだ」
教官が、こちらの猪口に酒を注ぐ。礼を言って、一口。
「気づいたら、刺してました。検体、ですか。雷神龍の、卵」
「ははは、うっかり屋さんだなぁ。誰に似たんだろう」
教官はカラカラと笑って、猪口に手酌しようとする。それを止めて、こちらから注いだ。瞬間、触れた手の温かさ。色々と考えて沈んでしまっても、この人の温度に触れられたのなら、その一瞬でも一つになれたのなら、それでいいかと思えてしまうのだ。この身体も、ハンターとしての技も、精神も、この人の教えと温かさでできている。誰に似たのかなんて、答えは一つだった。
「そうだ。君に、ひとつ言っておかなきゃならないことがあってね」
だからこそ、その先の言葉なんて聞きたくないと思ってしまうわけで。
教官が猪口を卓に置く音が、妙に大きく聞こえてしまう。やめてください。知っているんです。聞きたくないんです。幸せそうなこの人の顔を目の前で見ておいて、そんなことが言えるはずがなかった。
「祝言をね、挙げることになったんだ」
ぐっと喉が詰まる。それを胃の腑へ流し込みたくて酒を一気に呷ったが、何の効き目もありやしない。いけない。言え。言うべきことがあるだろう。早く言え。声が出ない。
「前々から里長やゴコク様に勧められてはいてね。それなりのところまで、話は進んでた。百竜夜行も収束しつつあるし、頃合いだろうって」
予感は、あった。教官が里の外の娘と見合いをしているらしいことは方々から小耳に挟んでいたし、目出度いことを進めるのなら里全体が祝賀ムードになっている今が一番良い。雷神龍を討伐した後竜宮城跡に姿を見せなかったのも、そちらの段取りがあったからだろう。
「おめでとうございます」
「はは、ありがとう。なんだか照れくさいね」
けど、君ならきっと祝福してくれると思ってた。そう言って、教官は屈託なく笑う。こちらも合わせて笑顔を作ってみるが、自然に笑えている自信が全くなかった。誤魔化すように手酌をして、酒を呷る。
「少しペースが早くないかい?」
「目出度いんで」
「はは、なんだいそれ。でも、嬉しいな」
教官は、自身も酒にひとつ口をつけて、これからは一段と忙しくなるなぁ、と夜空を見上げた。ここ最近のドタバタの中で段取りは落ち着いていたのではないのかと問うと、まだまだこれからなのだと言う。料理に使う食材の手配、参列者への案内状の準備、関係先への連絡や、新居の準備……指折り数えて苦笑しているところを見るに、本当にこれからが大変らしい。だが、なんだか幸せそうでもある。嫁いでくるのは、きっと良い人なのだろう。思うにつけ、ずし、と腹の奥に鉛の塊を落とし込まれたような気がした。
ひとつ、溜め息。
「……大丈夫かい? やっぱり飲み過ぎたんじゃ……」
「大丈夫ですよ、このくらいじゃ酔いません。それより、婚礼装束なんかはどうするんです?」
「ああ、それもだった……」
何が必要だったかなぁ、と教官は遠い目をする。装束は出来合いのものでも何ら問題ないが、里が誇るハンターならば、それ相応の素材で誂えた方が格好がつくというもの。この辺りは恐らく、里長やゴコク様から背中を押されてしまっているのだろう。
「素材が足りないなら、俺が採って来ますけど」
「えっ?流石にそれは申し訳ないよ」
「でもアンタ、忙しいんでしょう」
そのせいで祝言の日取りが決まらない、なんてことになったら洒落にならないのではないか。問えば、教官はんふふ、と苦笑した。百竜夜行後の里の周辺調査、闘技場の運営、ハンター候補たちの稽古───この人は、祝言を控えているとかそういったことは関係なしに、元から里で一番忙しい人だ。
「ま、俺からの祝いの品だと思って受け取ってください」
それから少しの間、他愛もない話をしながら酒を飲み交わした。宴会場に残っている人影が最初の半分ほどまでへったころ、教官はそろそろ明日の準備があるから、と席を立つ。これからまだ働くらしい。
「久しぶりに、きちんと話せてよかったよ。一人ですみにいるのも悪くないけど、皆の挨拶にはきちんと応えるんだよ」
「アンタの方こそ、祝言前に働きすぎで身体壊さないでくださいよ」
半分は茶化して、半分は本気で言えば、教官は「善処するよ」と笑って闘技場へ向かって行った。その背中を見送って、姿が完全に見えなくなってから、深く息を吐く。胃の奥がずしりと重いのは、飲み過ぎてしまったからではないのだろう。首を横に振る。自分はハンターだ。教官が祝言を挙げても、何一つ変わらない。変わる必要は、ない。これからも、里を守るために狩猟を続ける。それだけだ。言い聞かせたところで、気分は重く。
「一人で隅にいるのも悪くないけど、か……」
人の輪に上手く入っていけないのを、手を引いて連れ出してくれたのは教官だった。少し無愛想だ、なんて頬をつねられて、でも優しくお天道様みたいに笑うあの顔が、堪らなく愛おしかったのを今でも覚えている。
◆
数日後、溶岩洞へ足を運んだ。
狙うは、ヤツカダキ。妃蜘蛛の紡ぐ絹糸は、束ねればしなやかで強度は申し分なく、何より妖艶で美しい。ハンターが纏う婚礼装束には、うってつけの素材だった。
ギルドからの支給品を受け取り、フクズクの報せを元に溶岩が流れる洞窟内のエリアを目指す。入り組んだ岩の回廊を抜けて開けた空洞に出ると、さっそくヤツカダキが徘徊していた。ツケヒバキを引き連れて、獲物を探しているらしい。ヤツカダキはその体内のガスの高い温度を保つため、常に補食し続ける必要があるが、繁殖期には特にその傾向が強いらしい。そうでなくとも、凶暴な大型の鋏角種。まずは行動不能の状態にしてしまわなければ、絹糸の調達は難しいだろう。
気配を殺しつつ、岩影に身を潜める。ヤツカダキがこちらに背を向けたのを見計らい、駆け出した。低い姿勢のまま地を這うように走り、太刀を抜く。ヤツカダキがこちらの気配に気づいて振り向くより早く、白い糸に包まれた後ろ脚を一閃。悲鳴が響き、溶岩に照らされた岩壁に妃蜘蛛の影が踊る。だがヤツカダキは体勢を崩すことはなく、すぐさま跳んで距離を取った。その巨体からは、想像もつかないような敏捷さ。硬い鋏角を打ち鳴らし、ツケヒバキたちを従えて即座に臨戦態勢を取った。睨めつけるように輝く金の八つ目は、縄張りを荒らされたことへの怒りでゆらゆらと揺れている。
まあ、大型モンスターがこの程度では怯んだり逃げ出したりしないことは折り込み済みだ。太刀を下段に構え、相手の出方を伺う。ヤツカダキは一際大きく鋏角を打ち鳴らすと、高温のガスをこちらに向けて噴射した。なるほど、間合いに入る気はないということか。それならばと火炎を回避し、体躯の横に回り込む。するとヤツカダキはこちらに向き直ることなく、体表の横側からガスを噴射してきた。ヤツカダキ───八ツ火抱姫、火吹き御前。その攻撃手段、綿帽子を載せた髑髏のような頭部、全身を覆う白い糸。いつ見ても納得の異名だ。
炎を翔蟲で躱し、一度距離を取る。するとヤツカダキはこちらに向けてツケヒバキを放り、糸を引かせて一気に距離を詰めてきた。振り下ろされる鋏角を回避し、すれ違いざまヤツカダキとツケヒバキを繋いでいた糸を切断する。流石にこれには面食らったのか、ヤツカダキは身体のバランスを大きく崩した。そこを背後から太刀で叩き、先とは別の脚に斬撃。ギャアという悲鳴とともにヤツカダキが地面に崩折れた。全身に巻きついてきた位とがバラリと弛み、散る。これだけの量があれば、婚礼装束を仕立てるには十分だ。あとはヤツカダキを此処から追い払い、残った絹糸を回収すればいい。
だが、ポーチからこやし玉を取り出そうとしたその時、シュルシュルと何かが巻きつくような音が聞こえたような気がした。反射的に下を見ると、足首に無数の糸が巻きついている。なっ、と振り向くと、数匹のツケヒバキがこちらに向けて糸を伸ばしていた。太刀で切断を試みるが、幾重にも束ねられた糸は頑丈で、簡単には切れない。抵抗も虚しく、あっという間に足首をまとめて拘束されてしまう。踠いていると、起き上がり糸を巻き直したらしいヤツカダキがにじり寄ってくる。今回は狩猟ではなく素材の調達が目的だったため、オトモを連れて来なかったことが災いした。ヤツカダキは身動きが撮れない憐れなハンターに見せつけるようにして、鈍く発光する灯腹を振り上げた。あの一撃は、重い。加えて、受け身を取れず防御もできないこの状況───終わった。
だがどうしたことか、巨大な灯腹はこちらの鼻先を掠め、地面に振り下ろされた。ドフン、という地鳴りのような音と共に、衝撃で弾き飛ばされる。同時にツケヒバキが吐いた糸が弛み、足はやや自由になったが、岩肌で強かに背中を打ったせいですぐには起き上がれそうにない。何故だ。何故仕留めなかった。地面で無様に這いつくばりながら、ヤツカダキを見上げる。鋏角で八つ裂きにする気か、絹糸で繭のようにして火炙りにする気か、はたまた保存食にされるのか───この種は頭が良い。ハンターを嬲り殺す方法など、いくらでも知っているだろう。
このままでは不味い。こんな死に方をしては、教官に申し訳が立たない。太刀は弾き飛ばされた時に手からすっぱ抜けてしまっていたので、腰からクナイを抜いた。足にしつこく絡む糸を断ち切ろうとするが、粘度の高い糸は刃に絡みつき、簡単には切れない。クソ、と悪態を吐きながら格闘していると、ぬう、とヤツカダキがにじり寄って来た。鋏角で頬を打たれ、仰向けに転がされる。起き上がって抵抗しようとしたが、ヤツカダキがその巨体でこちらの身体を跨ぐように移動してきたため、動けずに終わった。のし掛かられているわけではないので潰されはしないが、黒紫の脚と白い糸に囲われしまい、まるで檻の中にいるかのような錯覚を覚える。見下ろすのは、ぬらりと光る八つの金目だ。キチキチ、と鋏角を鳴らし、擡げた頭部を値踏みするかのように傾ける姿はなんとも不気味に映る。太刀は何処かへすっ飛んで行ったし、クナイは使い物にならない。抵抗する手段は、ない。対するヤツカダキは鋏角を突き立てるでも火を吹くでもなく、不気味に首を動かしながらこちらを見下ろすばかりだ。何をするつもりなのだろう。逃げることもできずに硬直していると、ヤツカダキの後脚が鎧の腰の辺りを掻いた。腰当てを前で留めている紐を爪の先に引っ掻け、千切る。
「な、何を」
思わず声に出すと、ヤツカダキの八つ目がぐるんとこちらを向いた。思わず黙ってしまうと、腰巻きを千切った爪が更にその下の衣服をなぞり、皺になっている鼠径部辺りに引っ掛かったかと思うと、中のインナーごと紙のように引き裂いてしまった。下半身が外気に触れる感覚で、自分が今どんな状態になっているのかは想像がつく。しかし、何故。混乱し、言葉を失っていると、ふいにヤツカダキの灯腹の向こうで、ボト、と何か重みのある物が落ちるような音が聞こえた。首を少し動かして覗き見ると、小ぶりな瓜ほどの大きさの、つるりとした白くて丸い物が落ちている。
糸が解けてツケヒバキに逃げられたヤツカダキは、即座に産卵してツケヒバキを補充する。となると、あれがヤツカダキの卵だということは間違いないだろうが、ヤツカダキの後脚がこちらの脚を邪魔だとばかりに避けて開かせ、灯腹の先から生える大きな針をこちらの腹に向けて構えているのは何故なのか。針を凝視していると……否、針だと思っていた部分の先端が、中から圧されるようにしてぐぱりと開き、粘液まみれの卵が産み出され落ちた。ボト、ともベチャ、ともつかぬ、とにかく不快な音とともに。その光景を目にした途端、サッと血の気が引いた。鋏角種や一部の飛竜種は、別の生き物の腹に即死しない程度の穴を開け、その中に産卵することがあるという。まさか、あの針を腹に突き刺して───
「や、やめ」
どうにかして逃れようと、暴れた。しかし、鬱陶しいとばかりに四肢に糸を巻き付けられ、大の字のように手足を広げたまま地面に磔にされてしまう。逃げられない。
無情にもこちらに向けられた針には、一片の躊躇もなく。
「お゙ッ、」
トス、と針が突き刺さる。しかし、腹に突き立てられるとばかり思っていたそれは、少しばかり違う場所を荒らそうしているらしい。尻穴に、太い針が突き刺さって……いや、挿入されている、と言った方が正しい。
「いっ、ぎ、ぐぅ、ゔうぅ……ッ⁉︎」
異物に狭い穴をみっちりと拡げられ、悶える。粘液の滑りがあったせいか裂けることはなかったようだが、いつ裂けてもおかしくない。
「ぅ、お゙グ、ッ、うぐぅッ」
ヤツカダキは挿入した針を無遠慮に行き来させ、無様な人間を重ねていたぶる。やめてくれ、これ以上は裂けてしまう。痛みから逃れようと身を捩るが、妃蜘蛛の絹糸の頑丈さはよく知っている。人間が足掻いたところで、どうにもならない。そのうち、針の中ほどがボコリと膨らんだのが見えて、何をされるのか即座に理解してしまった。いや、そんなまさか。しかし、これは。
「あ゙」
ミヂィ……と嫌な音を立てて尻穴が拡げられ、更にその奥の直腸も拡げて、何かが腹の中に入ってくる。ひゅ、と喉が鳴った。
「ヒッ、ゃ、やめ、」
ひとつ、ふたつ。ボコン、ボコンと針が膨らんでは、何かが腹の中に侵入してくる。みっつ、よっつ。中から圧されたのか、ぼこ、と下腹が盛り上がった。腹の中でモンスターに産卵されているという事実を否応なしに突きつけられる。ぞわり、全身が総毛立つ。
「あ、ああ、あ……ああああ゙あ゙いやだ、いやだああぁッ‼ やめて、頼むからやめてくれえぇっ‼」
これから味わう、地獄の苦しみ。想像して、恥も外聞もなく叫んだ。しかし当然ながら、言葉が通じる相手ではない。いつつ、むっつ───ヤツカダキの産卵は、終わらない。腹が更に膨らみ、まさに身籠ったかのように形を変えていく。
「やめろ、やめろォッ! ぐむッうご、ぉ、お゙ォッ……⁉︎ っ、ぐ、ゔぅ、ゥ!」
叫び声が喧しく思えたのか、ヤツカダキの糸が口元に巻きついた。声の出所を塞がれ、呻く他ない。鼻が塞がれなかったのは単なる偶然か、それとも慈悲か。
「ごっ、ふ、お゙ッ、っぉぐ、ゔ、ぅえ゙」
みっちりと卵で腹を埋められ、中から圧されて苦しい。もはや臨月の妊婦もかくや、というところまで膨らんでいる。次が入ったら、裂ける。もう駄目だ。じわりと視界が滲んだが、ヤツカダキの産卵はそこで止まった。尻穴から針が抜けていく。塞ぐものがなくなったが、余程奥に産みつけられたらしく、出てくる気配はない。うー、むー、と唸り身を捩っていると、ヤツカダキが身体の上から退いた。巨躯が作る影がなくなり、溶岩に照らされ洞窟の中、膨らんだ腹がより鮮明に目に映る。叫び出したいが、口を塞ぐ糸がそれを許さない。せめて四肢の拘束が解ければと踠くが、太刀でも切断できなかった糸だ。憐れな人間が暴れたところで、どうしようもなく。
「うう、ぅ……」
絶望に呻いていると、ツケヒバキが数匹、カサカサと寄ってきた。このまま子供の餌にでもされるのかと思ったが、脚の間に陣取った二、三匹の様子が妙だ。何が起きるのかと首を持ち上げたと同時、一匹のツケヒバキの触肢が尻穴に突き刺さった。
「ぉごッ⁉︎」
その直後、腹の中に熱い粘液がビュルビュルと噴射されるのを感じた。この種のモンスターの雄は、雌とは比べ物にならないほど身体が小さく、雄は卵に種付けをするための道具として雌と共生しており───
「───がぁッ……⁉︎ ぁ、おごぉっ、ぅぐぉ、ごッ、おォッ!」
モンスターの生態を記す一文が脳裏をよぎり、腹の中の卵に種付けをされていると知る。ツケヒバキを蹴飛ばそうと脚をバタつかせるが、糸に妨げられて何もできやしない。その間にもツケヒバキたちは、生殖本能のまま代わる代わる尻穴から大量の精液を注入しては、ひっくり返って死んでいった。
「ゔ、ォ……ぉッ……」
ただでさえ産卵されて膨らんだ腹に、更に大量の精液を流し込まれたことで、息をするのも難しいほどの圧迫感に襲われる。膨れた腹を晒して仰向けのまま、半分白目を向いている姿を人が見れば、まるで虫の死骸のようだと揶揄するのかもしれない。ちょうど足元で死んでいる、ツケヒバキたちのようだと。抵抗する力を失い、ぴくぴくと痙攣するばかりでいると、不意に四肢を拘束していた糸が弛んだ。するすると解けて、地面に散らばっていく。ようやく解放されたらしい。まずは口を塞ぐ糸を取り除こうと腕を上げた、のだが。
「……ッ⁉︎」
一度は解放された手首に新たな糸が絡み両手をまとめてぐるぐると拘束されてしまった。足も拘束されるかと身構えたが、手首を縛ってなお余った糸の束は、ヤツカダキの鋏角の先端に繋がっている。このまま引き寄せられて食われるのだろうか。そうだとしても、もう『糸に繋がれたまま引き摺られたら背中が痛いだろうな』くらいしか考えられなかった。しかし、ヤツカダキは予想外の動きを見せる。鋏角から伸びていた糸を半ばで千切り、その先端を洞窟の天井から垂れ下がるような形になっていた岩にぐるぐると巻きつけたのだ。糸の反対側は手首と繋がっているため、天井から宙吊りにされてしまう。
「ゔ、」
頑丈な糸が手首に食い込み、呻く。身を捩ってみるが、この糸はヤツカダキの巨体さえ難なく支えるほどの強度と粘着力がある。人間一人を吊り下げたところで、切れることはなかった。体勢が変わったことで腹の中の卵が動いたのか、内側から尻穴がぐぱりと開き、粘ついた精液とともに一つ、飛び出て落ちる。ぼりゅ、と聞くに耐えない音が洞窟に響いて消えた。金の八つ目が、じい、とその様を見ている。相手がモンスターだとはいえ、耐え難い羞恥と屈辱に、引っ込みかけていた涙がまた滲んだ。無意味な自由を与えられた足をバタつかせてみるが、無様なだけだ。ふうふうと鼻から息を吐き、もうやめてくれと言おうにも言えず、ただただヤツカダキを見る。すると、ヤツカダキの鋏角の先端が口を塞いでいた糸にかかり、器用に引き千切った。ようやく口を解放され、ひゅう、と息を吸うが、腹を中から圧迫されているせいか大きく咳き込む。また尻から卵が出ていきそうになるが、力を籠めて耐えた。こんなおぞましいもの、早く出してしまいたい。だがモンスター相手とはいえ、これ以上無様な姿を晒したくない。歯を食い締めて責め苦に耐えていると、ヤツカダキはキチキチ、カタカタと鋏角を鳴らして首を左右に傾げた。そうしていたかと思えば、身籠ってぼってりと膨らんだ腹を鋏角の先でつつく。
「ひぎッ……! や、やめれ、ぇ」
糸で吊られた身体はヤツカダキの気まぐれでゆらゆらと揺れ、その度に尻から卵が飛び出そうになっては尻穴に力を入れて押し返す。それでも粘液までは抑えきれず、ぶびゅ、と隙間から漏れ出ていく。金の八つ目は、息を荒げ顔を歪ませて必死に耐える無様な人間を見て、嘲笑うかのように光る。だな、やがてそれにも飽いたのか、身体を吊り下げていた糸の束をブツリと切断した。支えを失った身体は重力に引かれ、地面に落ちる。
「ぐぅっ! ぇ、うう、ゔ……」
落ちたと同時、ぶぽ、と卵がひとつ尻穴から飛び出し、ん゙お゙ッ、とおかしな声が洩れた。覚束ない視線の先には、相変わらず八つ目で見下ろすヤツカダキの巨体が鎮座している。
「ぅ、ぐぅ……もう、さっさと殺せ、よ……」
火炙りでも八つ裂きでもいい。こんな風に弄ばれて、ハンターとしての矜持も人間としての尊厳も嬲られるくらいならば、もう死んだ方がマシだ。殺せ。早く。
だがヤツカダキは既に興が冷めていたのか、キチチ、と鋏角を鳴らすと、その場からそそくさと立ち去ってしまった。生き残っていたツケヒバキたちを引き連れ、洞窟の奥へ姿を消す。こちらに狩る気はないと悟り、仕返しをしたつもりだったのだろうか。
「…………ぅ、」
何もかもを踏みにじられた、惨めな姿。ハンターとして最大級の屈辱を味わったというのに殺されることもなく、暫し呆然としていた。
だが、一人になった今、徐々に冷静さを取り戻しつつある。腹の中の物を、どうにかしてしまわなければならない。まだ上手く力が入らない腕を突っ張り、起き上がる。膨らんだ腹に思わず手をやると、ぼこぼことした異物の感触があった。幾つかは外に出ているはずだが、まだ中に。胃液が込み上げそうになり、抑える。
「ん゙」
下腹に力を入れると、耐え難いほど汚ならしい音とともに粘ついた精液が出てきた。その後ろから、みち、と尻穴を拡げて卵が顔を出す。
「んぐっ、ぅ、うぐゔゔぅ~~……っ」
ぼと、ぼと、と瓜ほどの大きさの卵が、尻穴を拡げて落ちていく。腹を擦り、宥めながらの行為。苦しむ様は“雌”の産卵そのものだ。誰に見られているわけでもないのに、羞恥に打ち震えた。それでも幾つか卵を押し出し、荒くなった息を整える。まだ異物感があるので腹を押すと、残っていた精液がぶしゃりと噴き出し、更に足元汚した。筆舌に尽くしがたい嫌悪感とともに、再び胃液が込み上げてくるが、吐いている暇があるならこの不毛な行為を早く終わらせてしまいたい。腹の中にはまだひとつ、ふたつ、残っているのが感触でわかった。もう一度、ん゙、と下腹に力を入れて押し出す。何度かそうしてみると、みぢ、と中から尻穴が拡がり、ひとつが顔を出した。にゅるりと穴の縁を擦りながら、ようやく産み落とす。これで残りは、あとひとつだろうか。腹を揉むように擦ってみると、少し奥に残っているらしかった。腹を押し込んで、力を入れて……少しずつ動いてはいるが、時間がかかりそうだ。
「ん゙、うぅ、ん゙、っん゙ぐぅ……!」
唸りながら腹に力を入れると、産みの苦しみに喘ぐかのように尻穴がひくひくと疼いた。最後のひとつがようやく直腸辺りまで下りてきて、腹の内側から尻穴をくぱぁ、と拡げる。後少し、なのだが。
「うう、ん゙ッ」
少しでも産み落としやすくなるように、両手を尻穴の縁に添えて拡げてみる。しかし、ヤツカダキにいたぶられたことと、これまでの“産卵”でかなり体力を消耗しており、息が続かなくなってきていた。はあ、と一息つくと、一度顔を出しかけていた卵がまた腹の中に引っ込んでしまう。
「ん、お゙ッ」
瞬間、腹の中の柔らかい襞を卵に擦られ、おかしな声が出た。痛いわけではない。何か、尾骶骨から背骨へと柔く走るような。妙な感覚に戸惑いを覚えるが、一度産まれそうになったものだ。一刻も早く、と再び腹に力を込めると、腹圧で動いた卵が無遠慮に中の襞を擦った。
「あ゙っ⁉︎ ぅ、あ、あぁ……ッ」
出口近くまで圧し出して、息を継ぐたびに腹の中へ戻って、と繰り返すたび、ぐりゅぐりゅと腸壁が擦れて腰が揺れた。ツケヒバキたちに出された精液の滑りのせいなのか、いっそ恐ろしいほど痛みや不快感はなく、その代わりにジワジワと熱いような、なんとも言い難い感覚が押し寄せてくる。
「んく、ふっ、ん゙ふぅッ」
息むたびに鼻から抜ける吐息には、明らかに妙な色が混じり始めていた。顔が灼けるように熱い。ふうふうと息を吐いて首を振ると、額から流れていた汗が散った。あとひと息なのだ。深く考えている場合ではない。最後に力を振り絞るつもりで息むと、卵の径が一番太い部分がようやく尻穴を通った。
「うあ、ぁ、ひろが、るぅ……!」
ずりずりと腸壁と尻穴の縁を擦りながら、卵が出ていく。ぬぽんっ、と卵が尻から抜け落ちて、雷に撃たれたかのように腰が大きく跳ねた。
「お゙ぅっ、おほぉッ」
いつの間にか勃起していた前のモノに手をかけ、無心で扱き上げていた。腹の奥から熱いものが込み上げてきて、抗う間もなく白濁を噴射する。
「んあッ、あ゙ぁァ~~~……ッ♡」
感極まったような咆哮が洞窟の中にひびき渡り、尾を引いて消えた。耳に残るその声が自分のそれだと気づいたのは、茶色い岩場に飛び散った白濁を見てからだった。急に全身から力が抜けて、どて、と地面に倒れ伏す。うう、と呻きながら、尻から産み落としたものをつい見てしまった。つるりと白く、粘液に塗れ浸かった卵たち。ひとつ、ふたつ、みっつ……お前にも“産めた”じゃないか。あの日葬った古龍たちに嘲笑されているような気がして、うぷ、と口を押さえた。更に、その手が白濁塗れなことに気づいてなんとも情けない気持ちになる俺は、一体何を。
有り体に言えばショックだった。ハンターでありながらモンスターにいいように扱われ、挙げ句お情けで生きたまま解放されたこと。あんなことをされたというのに、みっともなく自慰に耽ってしまったこと。あんな卵で。
「うぅ……」
考えれば考えるほどに絶望してしまうが、こんな格好でいつまでも倒れているわけにはいかなかった。破かれた脚装備とインナーはどうにもならないが、腰巻きは紐を千切られただけなのでどうにかなる。当座はそれで誤魔化し、サブキャンプで他の装備を身に着けなければ。すっ飛んでしまっていた太刀拾って鞘に納め、それから───忘れてはならないことが、ひとつ。
あちこちに散らばっているヤツカダキの絹糸を、丁寧に拾い集めた。落とせそうな汚れや岩の破片は取り除き、切れてしまわないように束ねて、やんわりと紐でまとめる。折れないように注意しつつ、ポーチの中に仕舞った。
山頂付近のサブキャンプに立ち寄り、軽く身を清めた。
しかし、やはり頭から丸っと洗い流してしまわないと落ち着かない。疲れきってはいたが、着替えてすぐに里へ帰ることにした。集めた絹糸も、早く加工屋に渡したかった。この糸を織り込んだ婚礼装束を、教官に着てもらいたかった。決して切れない、この糸で編んだ婚礼装束を。何の意味もないことだと、頭ではわかっている。こんな気持ちを抱いて、不謹慎だということも。だけど、想いが叶わないならせめてこのくらいはいいじゃないか。想うだけならば、自由だ。
サブキャンプのテントを出ると、頭上にはどんよりとした曇り空が広がっていた。今にも降りだしそうだと思い見上げると、頬にポツリと雫が落ちてくる。それは次々と頬を、鼻を打ち、ついには本降りの雨となった。この空模様、いつもならばキャンプで一夜過ごそうかと思うくらいだが、今日はやはり。ポーチの中の絹糸が万が一にも濡れてしまわないよう、奥に仕舞い直した。こんな土砂降りに打たれれば、襲われ汚れた身体の痕跡も消えてくれるだろう。
船着き場まで濡れ鼠になりながら降りて行くと、船頭の男が驚いた様子で傘帽子を差し出してくれた。そんなにみすぼらしく見えただろうか。まあ、髪や顔がこれ以上ずぶ濡れにならなくて済むのはありがたい。船に乗り込み、カムラの里までと船頭に告げて、あとは何も話さなかったと思う。いや、漕ぎ出してすぐは船頭が「どんなモンスターが標的だったのか」とか、「溶岩洞の鉱石は質がいいから高く売れるだろう」とか、話しかけてくれていた。だが、こちらは気もそぞろで、ああ、とか、うん、とか返事をしていたか……もしかしたら、返事さえしていなかったかもしれない。そのうち船頭は何も話さなくなり、無言で櫂を振るだけになった。ハンターの癖に狩りの話にも金の話にも乗ってこない、つまらない奴だとでも思ったのだろう。それは間違いではない。ここにいるのは、叶う筈がない想いを抱えて拗らせ、後にも先にも進めずにいる、くだらない男なのだから。
悶々と考え込んで、しばらく。カムラの里近くの船着き場には、いつの間にか着いていた。到着してからもぼんやりとしていて、なかなか下りずにいたらしい。訝しげな顔をした船頭に何度か肩を揺すられ、ようやく船を下りた。
溶岩洞から里まで船に乗っている間、何を考えていたのか、そもそも起きていたのか寝ていたのかさえ覚えていない。ただ、大粒の雨が水面を打つ音だけが耳に残っている。
道中濡れ鼠になったままの姿で、加工屋へ出向いた。ミハバに声をかけると、あまりにもみすぼらしい姿に驚いたのか、一体何があったのかと心配そうな顔をされてしまった。帰りに降られただけだと受け流しつつ、ポーチの奥から束ねた絹糸を取り出す。
「これを」
「おおっ、早速か! ウツシさんから聞いてるよ」
ミハバは絹糸を受け取り、指先で撫でて質を確かめる。妃蜘蛛の絹糸は上等品。その中でも、ヤツカダキ自身がその身を守るために紡いだものだ。質に関しては間違いない。
「こんな上等な絹糸、師匠にかかれば最高の婚礼装束になるぜ」
「……、そうだな」
婚礼、と聞いて、一瞬言葉に詰まってしまった。そうだな、なんて月並みな返しをするのが精一杯で、その後が続かない。何をしている。俺はあの人の愛弟子なんだぞ。師が祝言を挙げること、もっと喜ばなければ。
「……なあ、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「ああ……雨に降られて、少し冷えたかもしれない」
「おいおい、こんな時に風邪なんか引くなよ?」
こんな時? 妙な言いように首を傾げると、ミハバは「ああ、里にいなかったから知らないよな」と気持ち視線を上へ。
「ウツシさんの祝言の日取り、決まったらしいぜ。お前にも来て欲しいって」
だから体調崩してる場合じゃないだろ、と笑う。教官の祝言に、出席。それもそうだろう。一応里で『英雄』などと呼ばれている人間だし、あの人の弟子代表と扱われてもおかしくはない。おかしくはない、が、それだけ。
それだけなのだ、あの人にとっては。だから。
「なあ、本当に大丈夫か?」
黙り込んでしまっていたらしい。心配そうに顔を覗き込んでくるミハバからそれとなく距離を取り、大丈夫だからと返す。ミハバはまだ訝しげな顔をしていたが、今これ以上語れることはない。今でなくとも、とても言えないことばかりだが。
「まー、あれだ。さっさと風呂で温まっとけよな。、まだ肌寒い日もあるし」
カジカの毛が浮いてるかもしれないけど、とミハバは笑う。悪意のない笑顔に救われた気がして、こちらも僅かばかり、口角を上げることができた。できたのは、それだけだった。
◆
妃蜘蛛の絹糸を加工屋に渡してからは、いつも通りに狩猟をこなしながら過ごした。百竜夜行が落ち着いてきたとはいえ、里や他の地域の集落周辺から危険なモンスターたちが消えたわけではないし、里の人々や商人たちからの依頼もある。時には緊急で飛び込んでくる討伐依頼などもこなして。いつも通り、いつも通りとは思いつつも、あまり教官とは顔を合わせる気になれず、なるべく里にいないようにしていることは否めなかった。
それから、いつも通りでなくなってしまったことが、ひとつ。あれから───溶岩洞でヤツカダキにいいようにされてからというもの、時折身体がおかしな疼き方をするようになってしまった。複数の大型モンスターを討伐したり、常にない大物を狩ったりした後など、昂ってしまうことは少なくはなかったが、そういう時でも機械的に出してしまえば問題なかった。だが、そうして欲の象徴を宥めてやっていると、どうにも尻の……いや、腹の奥が疼くようになってしまった。しかし、きっかけが「あの」溶岩洞での出来事だと思うと、何かをするにしても気が引けてしまう。だから、自分で慰める度にヤツカダキの卵で腹の中を擦られた時の感覚がチラついて仕方ないのは確かなのだが、気づかない振りをしてやり過ごしている。そのせいか、ここ最近は自分で処理をしても、どうにも消化不良のような状態が続いていた。
ある時、大社跡に大きなリオレイアが巣を作ってしまったという情報が飛び込んできた。巣があるということは、リオレウスも近くを縄張りにしているはずだ。居着いてしまう前に、狩る必要があった。危険な狩猟ということで、ギルドから上位ハンター限定で依頼があった。ちょうど別の依頼をこなして里に帰還したばかりだったが、すぐさま引き受けて大社跡へと発つことにした。
狩猟は、大乱戦となった。リオレウスの乱入こそなかったが、火を噴く飛竜に突如縄張りを侵されたタマミツネやヨツミワドウが殺気立っており、リオレイアと斬り結ぶ度に横槍を入れられる羽目になった。だが、他の大型モンスターの乱入は折り込み済みでもあり、その度に操竜を駆使して場を制することが続いた。そうは言っても三頭を黙らせる頃にはすっかり日が暮れており、その日のうちに里に戻ることは叶わなくなっていた。結局ベースキャンプで一晩過ごすことになり、今は釣りをすると言うオトモたちをテントの外へと見送ったところだ。
重い鎧を脱ぎ、インナー一丁の姿になってから香炉に火を入れて、大きく息を吸う。慣れたフィールドとはいえ、山道や崖を一日駆けずり回っていたので疲労感はある。夕食を済ませたら早めに眠って、さっさと里に戻って風呂に入りたい。そうは思いつつも、そこはハンターの性なのか、今日の狩猟の振り返りと一人反省会を始めてしまう。狩りの成功と失敗はいつでも紙一重。上手くいってもいかなくても、必ず振り返って次の狩りに活かすこと。教官から、口を酸っぱくして言われていたことだった。
「……、」
これはいけないな、と声には出さないまでも。狩りのことを振り返ったせいなのか、消化不良が続いていた熱はすぐに昂り始めてしまう。今夜はこのままテントで過ごすし、釣りに行ったオトモたちはややもせず戻ってくるだろう。それまでに、処理を終えなければならない。インナーの下をずり下げ、頭をもたげ始めていた自身を掴む。
「ふっ……ん、ッ」
いつもと同じように扱いて熱を導いてやれば、すぐに放出できた。しかし、いまいち満ち足りていないのもいつもと同じだ。どんなに気づかない振りをしていても、後ろが、腹の中が聞き分けなく疼いているのは明らかだった。蟠ったような熱は、日ごとに看過できなくなっている。このままでは、狩猟や日常生活に支障が出てくるかもしれない。そうだ、これはそうならないための、単なる処理だ。半端に下げただけだったインナーの下を、乱雑に脱ぎ捨てる。テントの床にうずくまり、股の間から恐る恐る後ろへ手を伸ばす。ぷく、と膨らんだような縁に指先が触れ、腰が跳ねた。こんなところ、自分で触れたことなどない。そうだというのに、これからしようとしていることは。
先ほど出したものの滑りを借りて、ぬるぬると所在無さげに行き来させていた指を、ゆっくりと尻穴の中に挿入してみる。
「ん、ぅ……ッ」
浅い場所から具合を確かめるように指を進めていくと、ん、と鼻から抜けるような声が勝手に洩れた。中指を半ばくらいまで挿入し、軽く曲げて中を擦るように動かしてみると、「これが欲しかった」とでも言うように下腹の辺りが……なんだろう、きゅんきゅんとする。怖いような、気持ち良いような、堪らないような不思議な感覚だ。もっと、もっと奥まで挿れて擦ってみたら、どうなるのだろう。
「うぅ、ん……!」
欲に任せて、人差し指も挿入した。中指と一緒に根本まで押し込み、中を擦りながら空いた方の手を前にかける。外にはオトモたちがいるはずなので、備えつけのお世辞にも綺麗とはいえない毛布を噛んで声を抑えるが、熱く湿った荒い鼻息とそこから抜ける細い喘ぎはどうにも制御できない。興奮しきった身体に限界が訪れるのは早く、あっと思う間もなく二度目の射精を果たした。白濁にまみれた手を見て、呆然とする。だが。
「あっ、ぅ」
後ろに挿入した指が、止まらない。性懲りもなく、ぐにぐにと中をいじくり倒している。そうだ、あの時。あの時卵で擦られたのは、確かこの辺りの。
「お゙っ、」
指先が、意図せず中のしこりのような場所を掻いた。随分と下品な声が洩れ出たが、そんなことには構っていられない。気持ちが良い。一度掻いただけでは足りない。腹の中で逃げようと動くしこりを二本の指で挟みこみ、押し潰し、抉る。その度に発情した獣のような声が押し出された。気持ちが良い、でも。でも、もっと太いものを挿れたらどうだろう。指を三本に増やしてみたが、物足りない。もっと熱くて、太くて、例えば教官の───
「ぅ、あっ……あ、ゔ! うぉえ゙ぇぇっ……!」
そう思ってしまった瞬間、言い様のない不快感と嫌悪感が胃の奥からこみ上げ、胃液とともにビチャリと吐き戻してしまった。
「……、」
他のハンターたちも使うテント、汚してしまった。片付けなければとは思うのだが、それよりも自分が今思い浮かべたことが信じられない。この汚い尻の穴に、何が欲しいと思ったのだ。再び胃液が上がってきて、蹲るようにして吐いて、茫然自失となる。師をこんな形で汚して、一体何を。
「旦那さ~ん! 魚がたくさん釣れたニャ!」
まずい、オトモたちが戻ってきた。動くのを拒否する身体に鞭打ち、なんとかインナーだけでも身に着ける。その直後、テントがサッと開いた。
「旦那さ……だ、旦那さん⁉︎ どうしたんだニャ⁉︎」
オトモアイルーがテントの惨状に気づき、魚籠を放って駆け込んできた。せっかく釣れたのだろうに、なんだか申し訳ない。
「旦那さんッ!」
「ああ、いや……ちょっと、な」
「調子が悪いニャ⁉︎ テントはボクらで片付けるから、少し横になるニャ!」
そのくらい自分でやるから、と断ったが、オトモたちに引っ張られて片づくまでの間だからと強制的にテントの外に出されてしまった。座る位置まで指定されてしまい、大人しく待つことにする。ついでに渡された水筒の水で口を濯いでぼんやりしていると、混乱していた頭の中が少しずつ落ち着いてきた。川を眺めながら、夜風に当たる。川のせせらぎと笹の葉が擦れる音が心地よいが、腹の奥にベッタリ貼り付いた不快感までは浚ってくれないらしい。深く、溜め息を吐く。
自慰をするまでは、まだいい。尻穴を弄ってしまったことも、良くはないが今は置いておく。だが、『あんなこと』を考えてしまったのは。がっくりと項垂れて再び大きな溜め息を吐くと、頭の後ろに何か当たった。雨、だろうか。ついさっき空を見上げた時は、星が出ていたはずなのに。随分と急なことだと思っている間にも、ぽつぽつ肩や背に当たる雨は勢いを増し、本降りになる。風の音も、川のせせらぎも、雨音に搔き消されていく。どうせなら、一緒にこの最悪な気分も洗い流してくれればいい。そんなことを考えてしまうのもまた、情けなかった。こんな奴の何処が『猛き炎』だ。せっかくあの人から貰った通り名だというに、雨に降られただけで勢いを失くして消えてしまう炎なんて。こんな男の、何処が。
「旦那さん、片付けが終わったニャ。毛布も敷いたから横になるニャ」
ぼんやりしている間に、オトモ達がテントの片つけを終えたらしい。礼を言うべきなのはわかっているが、言葉がまともに出てこなかった。黙っていると、オトモ達が川縁までちかづいてくる。
「……旦那さん?」
「ああ、いや……雨が降ってきた。外にいない方がいいぞ」
お前、濡れるの嫌いだろ、いつもの傘はどうしたんだ、とアイル-に言う。するとアイルーは、訝しげに空を見上げて、それからうんと心配そうな顔でこちらを見た。旦那さん……と呟いて、そのまま黙ってしまう。どうした? と尋ねると、トトト、とガルクが近寄ってきた。頭を脚に押しつけてくる。背中を撫でてやると、クゥン、と悲しげな声。
「旦那さん、最近ちょっと働き過ぎだニャ。少し休んだ方がいいニャ」
「そんなことないだろ。いつもと変わらないさ」
大丈夫だと言えば、アイルーはしょんぼりと髭を下げて俯いてしまう。隣に座っていたガルクも同じで、撫でてやっても項垂れたままだ。
「……旦那さん、自分では気づかないかもしれニャいけど、最近ずっと顔色が悪いんだニャ」
そんなことは、と言いかけるが、オトモたちの心配げな視線に何も言えなくなってしまう。疲れている、かどうかはわからないが、オトモ達にこんな顔をさせるのは本意ではなかった。
「……わかった。明日里に戻ったら、少しの間休暇にするよ」
悪いな暇にして、と続けると、オトモたちはブンブンと首を横に振った。随分と心配をさせてしまっているようだ。毛布を敷いたとも言っていたし、今日はジタバタせずに素直に休んでおいた方がいいだろう。川縁から立ち上がり、そろそろ休ませてもらうと告げる。夕飯は……食べられそうにない。
テントに戻る前、何となく空を見上げると、星が輝いていた。雨の気配は、何処にもなかった。
◆
翌日、昼過ぎには船で里に戻った。
家の蓄えや素材の余りを確認して、向こう数日は狩猟にも探索にも出ないことを改めてオトモ達に伝えた。その後、ゼンチ先生の診療所へ押し込まれそうになったが、単に疲れているだけだから平気だと言いくるめて水車小屋へ戻った。
オトモ達はイオリがいる広場に預け、ルームサービスにも暇を出した。体調を崩しているという噂を聞き付けたらしい里の人達が何度か手土産を持って訊ねてきたりもしたが、体調が優れないからなどと適当に理由をつけて皆追い返した。あまり、人に会いたい気分ではなかった。誰が訪ねてきたとしても、言われることは変わらない。きっと遠ざけたところで、あの人が心配していただの何だの、耳に入ってくるに決まっていた。
人を避けて独り引きこもっている間も、どうしても身体が疼いて仕方ない時があった。一度後ろを弄ることを覚えてしまった身体は快楽に従順で、単なる排泄器官でしかない場所に指を押し込んでは浅ましく欲を放った。もはや最中に思うのは明確にあの人のことになっていて、ここに子を孕むための臓器があって、教官を受け入れられたらどんなによかったかと考えては自己嫌悪する日々が続いた。寝て、起きて、疼けば慰めて、失意のうちにまた眠り、気が向いたら何か胃に入れて、ぼんやりしているうちにまた夜になって朝がくる。人とは話さないし、外にも出ないしで、昼夜の感覚も曖昧。そんなぼやけた日々の中でも、水車小屋の屋根と地を打つ雨の音だけは妙に鮮明だった。
そうして無為に過ごし、教官の祝言が半月後に迫った頃、教官その人が水車小屋を訊ねてきた。しとしとと小雨が降る、少し肌寒い日だった。引戸の向こうからあの人の声が聞こえた時、敷布の上でダラダラと過ごして昼夜の別もどうでもよくなっていたせいか、ついに幻聴でも聞こえるようになったのかと驚いた。なので、最初に「愛弟子ー」と声を掛けられた時は、驚きはしつつもなゆだ夢か、と敷布の上で目を閉じてしまった。だがあの人の声は繰り返し聞こえて……ああ、夢ではないのかと、ようやく起き上がって引戸を開けたのだ。
「やあ、愛弟子! すごい寝癖だね!」
「おはようございます」
「もう夕方だよ!」
言われて初めて空を見上げて、もう暗くなっていることに気づく。そういえば、水車小屋の中もなんだか暗い。行灯に火も入れていないのか、と妙に他人事のように思えた。
「体調を崩していると聞いてたけど、大丈夫かい?」
「ええ、まあ」
「なら、少し上がらせてもらってもいいかな?」
ね、と言いつつ教官が掲げたのは、それなりに上等な銘柄が記された酒の瓶だった。これから一緒にお酒を呑む機会も少なくなるだろうから、と。そう言われてしまうと断るわけにもいかず、昨日使ったまま炊事場に運ぶことさえしていなかった徳利や皿を急いで片付け、とりあえず囲炉裏の前に座ってもらう。行灯にも火を入れて……慌てていると、荒れ放題だね、と笑われてしまった。せっかく良い酒を持ってきてもらったが、酒のあてににできるようなものはあっただろうか。とりあえずキレアジの干物を網に置いて囲炉裏で焼き始め、昨夜気紛れで作った逸品タケノコの煮物にチャッカツオの削り節を乗せたものを出す。二人分の杯も用意して戻ると、教官がキレアジの焼き具合を見てくれていた。
「すみません、何もなくて」
「いいよ、突然押し掛けたのは俺なんだから」
なんとかこの申し訳ない気持ちとを伝えたかったが、そんな風に笑顔で言われては何も返せなくなってしまう。
「いや、その」
「なんだか、顔を見るのも久し振りだね。天の岩戸を抉じ開けた気分だよ」
天の岩戸とは、巧く言ったものだ。訪ねて来る人を片っ端から遠ざけていたのだから。まあ、隠れていたのはお天道様の化身ではなく、寝癖だらけの汚い男なわけだが。
「お酒は……どうする? 本調子じゃないなら、無理しなくていいよ」
「いえ、せっかくなので頂きます」
良い具合に焼けた干物とタケノコをあてにしながら、囲炉裏端で二人、ちびちびとやり始める。酷い部屋の有り様とドタバタから始まった会だが、教官はそれなりに楽しそうにしてくれていた。
「顔を見るのもそうだけど、こうして話すのも久し振りじゃないかい?」
「まあ、雷神龍やら百竜夜行やらで慌ただしかったですし」
「それもそうだなぁ。……ん、やっぱり君が作るタケノコの煮物は絶品だね!」
そうだろうか。自分でも食べてみるが普通の煮物と変わらないし、なんならルームサービスが作ってくれるそれの方がよほど美味い気がする。しかし教官に言わせれば、「適度に残った歯応えと染みた出汁の濃さが絶妙で、冷めても温かくても美味い煮物」だそうだ。そんなものか。ちびちびと酒を呑みつつ、教官の言葉に相槌を打つ。
「君も、立派に料理が出来る大人になったんだなぁ」
「いや、今更何を」
「だってねぇ。小さい頃は本当に無表情で無口で心配してたんだよ?」
話は自然と、昔へ遡った。幼い頃に流行り病で両親を失くし、身寄りがなかったところを引き取ってくれたのが教官の家だった。年上で、格好よくて、でも少し抜けている愛嬌たっぷりのウツシお兄ちゃん。共に過ごすうち憧れを抱き、その背を追ってハンターになりたいと思うようになったのは必定だった。そして正式にハンター候補生として教官に師事するようになってからも、今でさえも、その広い背中に憧れ続けている。
「君は訓練の時もいつも一人だったなぁ」
「人と話すのは苦手なので」
「俺とはこんなに話してくれるのに……けど、立派なハンターになってくれて、感無量だよ」
一人でいるばかりの子供の手を引いて、明るく暖かい場所に連れ出してくれるのは、いつだってこの人だった。心配ばかりかけていただろう。
「本当に、立派になったね。君は俺の自慢の愛弟子だ」
今もそうだ。こうして心配して、わざわざ家まで来てくれて。優しくて暖かい、今一番欲しいと思う言葉を、くれる。
「そ、……ういうことを、改まって言わないでください」
「ははは、照れてるのかい?」
なんだか恥ずかしくなって視線を逸らすと、教官が懐に手を入れた。取り出した何かを手のひらに乗せて、こちらに差し出す。手首に巻くタイプの、護石だった。
「これは」
「俺が若い頃使ってた護石」
「そ、そんな大切なもの頂けませんよ」
「いいから」
ね、と手を取って、護石を握らされる。触れた手の温かさか瞬く間に熱さに変わり、指先から腕を伝って全身に回り巡る。
「身につけると、幸運が訪れるんだって。これからもハンターを続ける君に幸あれ、ってね」
手の中の護石は、綺麗な琥珀色だった。行灯の淡い光を吸い込み、まるで自ら輝いている星のようだ。目の前にいるこの人みたいに、温かくて、優しい光。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
こんなやり取りをしていると、なんだか少し昔に戻ったような気になってくる。教官は、ウツシお兄ちゃんは、いつだって優しくて、あったかくて、そっと見守ってくれていて───
「ああ、そうだ。君が採ってきてくれた絹糸で、素敵な衣装ができたんだ」
「そうですか」
「ハモンさんが立派な花嫁衣装に仕上げてくれてね。彼女も喜ぶに違いないよ」
ウツシお兄ちゃんは、俺のことだけ、見ていてくれた。だけど。だけど、これから、は───
「実を言うと、彼女には君のことも紹介してあるんだ。里を守り抜いた英雄と、是非話してみたいって。よかったら、これからも家族ぐるみでつき合っていけたらって……」
教官の言葉が、途中からうまく耳に入ってこなくなっていた。家族ぐるみでのつき合い。教官の、家族。顔も知らない女と、その女と教官の子。ぎゅ、と拳を握り締める。そうか、あの妃蜘蛛の絹糸は。
俺があの時命懸けで採ってきた絹糸は、何処の誰かも知らない女の花嫁衣装をつくるためのものじゃない。
アンタのためのものだったんだ。
叫び出しそうな、暴れ出しそうな思いを抑えつけて、拳を握る力は更に強く。持っていた杯を握って割ってしまわないように、平静を装いつつ囲炉裏端に置いた。
「それで、もし子供ができたら君の名前にあやかって名前を……あれ、酔った?」
顔色がよくない、やっぱりまだ本調子じゃなかったかな、と教官が顔を覗き込んでくる。やめてくれ。今の顔は、アンタに見せられたもんじゃない。
「教官」
持ち上げて、落とされただなんて。
そんな風に思うこと自体が馬鹿げている。この人には、そんなつもりなどない。だって目の前の弟子がこんな想いを抱いているなんて、知りもしないのだから。だから。だから今、いや今だけじゃない。これから教官の前でどんな顔でいればいいのか、考えれば考えるほどにわからなくなってしまう。
「すみま、せん。やっぱりまだ、少し調子が良くないみたいです」
なので、今日はもう帰ってもらっていいですか、と絞り出すような声で言うと、教官は少しの間黙っていたが、すぐに「わかった」と応じた。
「突然押し掛けて悪かったね。しっかり休むんだよ」
教官は酒の瓶を置いて行こうとしたが、さすがに頂けないからと持って帰って貰う。良い銘柄のもののようだし、何より、この人の事を思い出してしまうようなものは今は家に置きたくなかった。
引戸のところまで行って、教官を見送る。外は、雨が降り続いているようだった。すっかり夜になっていたが、しとしとと降るだけだった雨がいつの間にか本降りになっていたらしい。教官と話し込んでいた時は気にならなかった雨音が今はやけに大きく、耳障りに思えた。
「あー、本格的に降ってきちゃったかー」
夜空を見上げる教官に、雨音に圧されるようにして下を向いているこちらの姿など見えていないのだろう。教官の足が水車小屋から出たのを見て、引戸をぴしゃりと閉めた。教官の温度を近くで感じるのも、耳障りな雨音を聞いているのも、ただただ辛かった。
「え、ちょっ」
教官の焦ったような声が、引戸の向こうから聞こえた。愛弟子ー、お別れの挨拶がー、と半笑いで言う教官。きっと、困ったような顔で笑っているのだろう。
「教官」
その明るい声を、遮る。
「もう、此処にはこないでください」
自分でも驚くほど、冷めた声だったように思う。引戸の外で、教官が息を呑む気配を感じた。困惑したような息づかいが、雨音に混じる。
「……どうしたの、一体」
「……」
明るかった教官の声は、今はこちらを案じるそれに変わっていた。それもそうだろう。本調子ではないとはいえ、さっきまで共に酒を飲み交わしていた相手がそんなことを言うのだから。やっぱりこの人は、優しい。とても。だが今は、それが辛い。教官は何度も声をかけてくれたが、こちらからは一切応えなかった。やがて諦めたのか、雨音の中に足音が混ざり、遠ざかって消えた。気配も完全に消えたことがわかり、引戸に背を預けてズルズルと三和土に座り込む。
「 」
手の中に残った琥珀色の護石を見て、少しだけ泣いた。
その翌日から、狩猟に復帰した。
まだ本調子ではないのに、とオトモ達には咎められてしまったので、彼らには何も言わず、一人で狩り場に出るようになった。だけど、何をしていても脳裏に浮かぶのはあの人のことと、顔も名も知らぬ女のことばかりだ。もう数日後に控えている祝言の席では、里の人々総出で盛大に祝福して、きっと自分がいてもいなくても、あの人は気がつかないのだろう。
狩猟を一つ終えて、メインキャンプに戻って来る。あまり集中できていなかったが、なんとか仕留めることができた。今日はもう暗くなっているし、このままテントに泊まることにする。ぼんやりと数日後のことを考えていると、不意にテントの外でサアア……と音がし始めた。雨が降り出したらしい。確か、教官を水車小屋から閉め出した日も土砂降りの雨だった。あの日を最後に、教官には会っていない。嫌なことを思い出してしまった。それもこれも全て、この雨のせいだ。早く止まないかな、とテントの幕を少し開けて、空を見上げる。目に入ったのは、よく晴れた星空───雨の気配は、なかった。
◆
その日集会所で見かけたのは、ベリオロスの狩猟依頼だった。
行き先は、寒冷群島。ベリオロスの姿が目撃されたのは、寒冷群島の小さな集落付近。依頼主は、その集落の長のようだった。
「この依頼、行くよ」
クエストカウンターでミノトに告げる。彼女は依頼の内容を確認し、こちらの顔と書面を交互に二、三回見た。別に間違いとかじゃないよ、と言うと、書面を一度カウンターに置く。「本日も狩りへ行かれるのですか? オトモも連れていないようですが……」
「ここ最近は、いつもこうだよ」
「ですが、今日は……」
ミノトは何かを言いかけて、こちらを見て、そうして少し視線を下げた。ベリオロスが暴れているのは集落の近くだから放っておけない、と念を押すと、観念したように書面をこちらに差し出した。いつも通りサインをして、印をもらう。ミノトがそのクエストボードに札を下げに行ったのを見届けつつ、相手に合わせた装備を頭の中で練る。炎属性の武器と、氷耐性は必須。早めに棘を叩き折って動きを封じたいと考えると、ここは───
「なあ、このベリオロスの狩猟、あんたが受けたのか?」
問われて顔を上げると、クエストボードの前にいた二人組がこちらを見ていた。がっしりとした体格で腕っ節の強そうな男と、背の高い涼しげな目元の男だ。それぞれ得物なのか、鎚と軽弩を背負っている。声を掛けてきたのは、鎚の男の方だったらしい。
「そうだが」
「なら、俺たちも一緒にいいか」
鎚の男の急な申し出に少し困惑していると、軽弩の男がフォローするよう入ってきた。
「ベリオロスの素材が入り用なのだが、我々は寒冷群島に行ったことがなくてね。情けない話、二の足を踏んでいたんだ」
案内をしておらえると助かる、と軽弩の男は笑う。それに続いて鎚の男も、そういうことだ! と豪快に笑った。どうやら二人とも、カムラの里の外のギルドに所属しているハンターらしい。こちらはベリオロスの素材が欲しい訳ではないが、あって困るものでもないし、「狩猟」という目的は同じ。利害は一致している、か。それならば、この申し出を受けてもいい。なあ、どうなんだ? と問うてきた鎚の男に、頷いて返した。
聞けばこの二人のハンターは各々別の拠点からカムラの里に流れてきたようで、特にペアを組んでいるというわけではなく、集会所で会ったばかりだったらしい。互いに名を名乗りあって、得物は太刀だと告げれば、すぐに『英雄』だと気づかれた。あの『英雄』殿と共に狩りができるとは、などと言われてしまうと非常にやりにくいわけだが、幸いこの二人のハンターは、こちらが『英雄』だとわかっても変にへりくだったり、やっかみを言ったりするようなタイプではなかった。最悪なのは、こちらが『英雄』だと知った途端「お手並み拝見」などと言って狩猟の大部分を押しつけて高見の見物を決め込む奴なのだが、寒冷群島の構造や地理的特徴、ベリオロスが通りそうなルートや寝床にしそうな場所の説明を真剣に聞いている辺り、そういう輩でもないのだろう。
「つまり、この祠の辺り一帯が───」
「恐らく寝床は此処だな。逃げるとすると、この岩場の間を───」
「今は繁殖期に入っているモンスターも多い。乱入には十分警戒して───
他地域のハンターたちがカムラに流れてきていることは知っていたが、こうして交流を持つのは初めてだった。オトモ達と作戦を考えることくらいはあったが、ハンター同士の練り合いというのもなかなか興味深い。
「あんた、随分楽しそうに狩りの話をするんだな」
「そ、そうだろうか」
「活き活きしているな。説明も丁寧で理解し易い。我々にとっては頼もしい限りだ」
よし、そろそろ行こう、と軽弩の男が残りの団子を頬張って立ち上がる。鎚の男もそれに続いた。今から船着き場に行けば、ちょうど良いタイミングで寒冷群島に向かう船に乗り込むことができるだろう。団子を頬張り、湯飲みの茶を飲み干して席を立った。
寒冷群島に着いたら、フクズクを飛ばしてベリオロスの居場所を探らせた。
二人のハンターにとっては、こうしてフクズクを使うことも物珍しいらしかった。地域によっては、飛行船に人間が乗り込んでモンスターを探したりするらしい。
戻ってきたフクズクの案内で、ベリオロスが休んでいるらしい場所へ向かう。その途中、雪原で大乱闘をしているバギィ達を見かけた。船に乗る前に確認していたように、今は繁殖期を迎えているモンスターが多い。バギィ達も例に違わず、子孫繁栄を賭けた縄張り争いを繰り広げているらしかった。群れのリーダーである雄、ドスバギィたちが、立派な鶏冠をぶつけ合っている。戦って敗北した雄は群れを根こそぎ奪われ、子孫を残す権利を失うことになるのだから必死だ。そのうち、体格で明らかに劣る方のドスバギィがヒイヒイ言いながら逃げていった。勝敗は決したようだ。その背中をエリア外に見送った直後、バギィ達が再び騒がしくなった。しきりに上を見て、ギャアギャアと吠えている。バサリ、羽ばたく音と落ちる巨影。白く輝く甲殻と、琥珀色の牙───氷牙竜ベリオロス。こちらから出向かずとも、迎え撃ってくれる気らしい。まあ、実際のところはバギィ達の騒ぎが気に障っただけなのだろうが。いずれにせよ、好機には違いない。二人のハンターに、短く声をかける。
「行こう」
「まだドスバギィがいる。今行っては乱戦になるぞ」
軽弩の男が、驚いたように言う。だが、制する術があるのならば乱戦も好機。問題ないと駆け出しながら応じ、翔蟲を飛ばした。ベリオロスではなくドスバギィに狙いを定め、高く跳んで背中に一撃。同時に鉄蟲糸を括り付けたクナイを突き刺し、背に飛び乗った。大人しくしろ! と横っ腹を踵で蹴飛ばし、ベリオロスに向かって突進させる。
「おお! あれが噂に聞くカムラの狩猟スタイルか!」
続いて飛び出してきていた鎚の男が、硬い棘は俺の打撃に任せろ! と挟撃になる位置に陣取る。ドスバギィの突進に気を取られていたベリオロスの翼に、巨大な鉄槌を叩きつけた。不意打ちで怯んだところに、もう一撃。スパイクの役目を果たしている棘を粉砕した。ベリオロスの狩猟は、この棘を早く叩き折れるかどうかで変わる。良い判断だ。更に、転倒したベリオロスに向けて容赦なく散弾が飛ぶ。圧倒的な火力で場を制するライトボウガン。牙は折れないまでも、ベリオロスの片目に傷がついた。
「離れろ!」
ドスバギィの首を無理矢理ベリオロスの方へ向け、踵で腹を蹴飛ばして突進させる。得意のタックルでフィニッシュブローを叩き込み、巻き込まれないように背から離脱。雪原に降り立つと同時に太刀を抜き放ち、頑丈な尾に一閃。だが劣勢と見るや、ベリオロスはすぐに体勢を立て直し、その場から飛び去ってしまう。
「ちぃっ! 逃げやがったぞ!」
「だが、滑り出しとしては上々だ。操竜、か? うまく意表を突けたらしい」
二人はカムラに来てから、疾翔けくらいは身につけているが、操竜は話に聞いていただけで実際に見たのは初めてだったらしい。やり方やコツを興味津々で尋ねられ、まずはモンスターの手足ろ首に鉄蟲糸を引っかけて主導権を、こう……と、上手いのか下手なのか自分でもよくわからないままに説明する。
「モンスターによって操りやすい奴や、そうでない奴もいるのか?」
「そうだな。個人的な感想だが、ゴシャハギやオロミドロは癖が強い。リオレイアや……飛竜種は全体的に操りやすい」
「一番乗り心地が良いのはどいつだ?」
「ラージャン」
「ガハハハ、あの大猿がか! あんた、大した度胸だな!」
鎚の男が、バシバシと背中を叩いてくる。少し痛いが、褒められて悪い気はしなかった。久し振りに、適度に緊張しつつものびのびと狩猟に挑めている。今は、一人でモンスターと向き合っていては思い詰めてしまうことが多い。こうして後腐れのない関係の同業者らと一緒にいるのが、良い気分転換になっているのだろう。
その後も、手負いのベリオロスを追って三人で寒冷群島を走り回った。最初に対峙した時に痛い目に遭ったせいか、ベリオロスはいつも以上に警戒心が強くなり、こちらが同じエリアに踏み込むとすぐにその場を離れてしまうか、遠距離からのブレス攻撃や突進を多用するようになっていた。あと一歩のところまで追い詰めては逃げられることが続き、気づけば長期戦になりつつある。
「ええい、アイツまた逃げやがったぞ!」
「落ち着け。有利なのは我々の方だ、じっくりやろうじゃないか」
苛立つ鎚の男を、軽弩の男が宥めることが増えてきていた。苛立つ気持ちはわかる。こうもあちこち飛び回られては、追いかけるだけで体力を消耗してしまう。強走薬の瓶を開けつつ、ベリオロスが飛んで行った方角を見る。脳内にある寒冷群島の地図と照らし合わせて……恐らく、四方を高い崖に囲まれた入江のエリアだろう。入江に侵入できる場所は限られている。まともに正面から行ったのでは、恐らくまた逃げられてしまう。
「崖の上から不意打ちを狙おう」
地図を拡げ、二人に示す。二人は、心得た、とばかりに頷く。まずは鎚の男に先手を打ってもらい、太刀で追撃。十分に体力を削ったところで罠を張り、軽弩の男の麻酔弾で仕留める───討伐して剥ぎ取りができた方が手に入る素材は多いだろうが、このベリオロスは少し厄介だ。捕獲を優先した方がいい。元々素材が入り用だったという二人のハンターにも、異論はないようだった。
入江のエリアに近づき、翔蟲の力を借りて崖を登った。岩陰に身を隠しつつベリオロスの背後を取り、不意を突くために様子を窺うことにする。ベリオロスはこちらには勘づいていないようだが、何かの気配は感じているらしく、しきりに首を左右に振って周囲の様子を確認していた。不意を突くといっても、これでは簡単にはいかないかもしれない。気長に待つしかないと思っていると、背後から軽弩の男に肩を叩かれた。
「おい」
「なんだ?」
「今、これが君の懐から落ちたが……」
す、と差し出されたのは、琥珀色の護石だった。ひゅ、と息を呑んでしまう。こんな反応をしたせいか、軽弩の男はこれが相当大事なものであると思ったようで……いや、大事なものではあるのだが、今は、あまり。なんとか「すまない」と絞り出し、護石を受け取った。翔蟲での移動中に落さなくてよかったとは思うが、今このタイミングで見たいものでもなかったのだ。何故ならば、今日は───
「おい、奴が背中を向けたぞ!」
チャンスだ! と言って、鎚の男が岩陰から飛び出して行く。崖下を見ると、ベリオロスは警戒を解いたのか、付近にあった草食竜らしき遺骸に鼻先を突っ込んで貪っていた。我々も行こう、と軽弩の男に声をかけられ、共に崖下へと飛び出す。
「そっちに行ったぞォ!」
鎚の男が、得物を振り上げて叫んでいる。どうやらベリオロスは、また逃げようとしているらしい。ここまで追い込んで逃げられるのは面倒だ。太刀を抜き、ベリオロスの退路を塞ぐように立つ。
───君は俺の自慢の愛弟子だ。
「───ッ!」
動揺した。立ち回りが、鈍い。
こちらの太刀が入る前に、鎚の男の強打がベリオロスの背中に入った。体勢を崩し、完全に無防備になった白い尾が目の前にくる。今しかない。だが、振りが甘かった。刃は尾に入ったものの、傷をつけるだけで切断には至らず、ベリオロスに逃げる隙を与えてしまった。
「くっ、また逃げるぞ!」
軽弩の男が散弾を撃ち込むが、撃墜はできず、ベリオロスは崖の向こうに姿を消した。
「ああっ、畜生!」
元々苛立ち気味だった鎚の男が、得物を岩場に叩き付けて地団駄を踏む。そうかと思うと、こちらを睨んで詰め寄ってきた。
「おい、あんた! 今絶対いけただろうが! もう片方の棘も叩き折るチャンスだったのによう! なんで斬らなかった⁉︎」
言いたいことはわかる。反論の余地はない。だが何故かと問われると……手の中で握り締めるのは、琥珀色の護石。鎚の男の手が、肩にかかる。
「やめないか! いつでも上手く行くわけじゃあない」
「おっ……! わ、悪かった。つい焦ってカッとなっちまったぜ」
軽弩の男が割って入ると、鎚の男はハッとして手を引いた。これだから俺はいけねぇな、と苦笑して、自分の頭を自分で小突く。すまなかった、とこちらからも軽く頭を下げた。顔を上げて視界に入った空は、夕刻も過ぎかけ紫色に染まりつつあった。
夜の狩りは、ハンターにとって不利だ。日没までにベリオロスを仕留めきれないと判断し、今夜はサブキャンプで過ごすことになった。
キャンプの近くにいたポポを狩り、肉とタンを焼いたものと携帯食料、それからキャンプに備えつけられているお世辞にも美味いとは言えない酒で夕食を済ませた。朝から晩までベリオロスと追いかけっこをしていたこともあり、三人とも疲れきっていたので早めに休むことにした。狭いテントの中に毛布を敷き、大の男三人が雑魚寝とはなかなかの絵面ではあるが、寒冷群島の夜は冷えるし、少し狭いくらいがちょうどいいのだろう。
夜半、寝つけずにテントを出た。キンと冷えて張り詰めた空気。紺青の海と空、そこに浮かぶ白い月と星。今夜は良く晴れていた。澄んだ夜空を見上げて、ふと手の中の琥珀色の護石に視線を落して、溜め息。今頃、カムラの里では───なんだかんだ言いつつ、今日のうちに里に戻ることにならずにホッとしていた。
「君も、眠れないのかい?」
テントの幕が上がり、軽弩の男が姿を現した。君も? と一瞬思ったが、上がった幕の隙間から大鼾をかいて寝ている鎚の男の姿が見え、合点する。目が合うと、苦笑。こちらはそれが原因で寝つけなかったわけではないが、お互いしばらく眠れそうになかった。軽弩の男が隣にいってもいいかと問うので、頷く。男は一言礼を言って隣に来ると、夜空を眺める。星が集まり、けぶるように光る場所は、天を流れる川のようにも見えた。
「君は、位置取りや相手の追い詰め方が的確だな」
「……ん?」
流石は『猛き炎』、と続いて、こちらに対する褒め言葉なのだと気づいた。
「君の先導に従えば、自然とモンスターを狩ることができると直感でわかる。そんなハンターだよ、君」
「そうだろうか。師の教えをなぞっているだけなんだが」
なんだか、もったいない言葉のように思う。モンスターと対峙した時の位置取り方、攻撃の予備動作や癖の見極め方、逃げ出した時の追い詰め方、寝床の捜し方───何もかも全てが、あの人の教えだった。自分で考えて編み出したわけでも、何でもない。
「君を育て上げた師か。立派なハンターなのだろうな」
「まあ……」
「一度は狩りの極意をご教授願いたいものだな」
その気持ちはわかる。あの人は、あらゆる種の武具を使いこなし鉄蟲糸技を考え出した狩猟の天才なのだから。どんなハンターでも、否、どんな人間でも憧れを抱く、手の届かない人。
「カムラの里に戻ったら、挨拶をさせてもらってもいいか? 君には随分世話になっていることだし」
「それは……難しいと思う」
「何故?」
「師は今夜、祝言を挙げていてね。しばらくは、そんな余裕はないんじゃないかと」
言うと、軽弩の男は少し目を見開いて黙ってしまった。まあ、普通はそう思うよな。
「……行かなくて、よかったのか?」
よかったのかと問われれば……まあ、よかったのだと思う。この依頼は緊急性の高い内容だったので、祝言に出席するつもりだったとしても、結局はこうなっていた気もする。それに。
「数日前に、下らない喧嘩をしてしまって……なんだか居たたまれなくなってしまったんだ。湿気た面をして、目出度い席に並ぶこともないさ」
「……」
「いつまでも師に甘えているわけにはいかないし、……そろそろ、潮時なんだ」
視線を夜空から外して、少し下げる。潮時だなんて、どの口が言うのだろう。往生際悪く想いを拗らせて、貰った護石も後生大事に持ち歩いておいて。なんだか、笑えてきてしまう。
「……すまない、面白くないことを話してしまった。カムラの里の『猛き炎』がこんな陰気な奴だなんて、幻滅させてしまったよな」
解っている。こんな男に、『炎』の異名は似つかわしくないのだ。あの人が与えてくれたものなら、尚のこと。此処にいるのは、『猛き炎』なんかじゃない。雨に打たれて消えてしまう、弱々しい死にかけの火種。
「……師の教えは、君の中に確かに生きているように思う」
「……」
「嫌った、わけではないのだろう?」
軽弩の男が、少し屈んで顔を覗き込んでくる。見せられるような顔はしていないだろうと、目を逸らした。すると軽弩の男は気を悪くするでもなく、むしろ笑って。
「今は難しくとも、いつか向き合える日が来るさ。炎が消えても火種さえ残っていれば、またきっと燃え上がる時が来る」
「……、」
「……なんて、少し無責任すぎるだろうか」
「いや、……」
今は難しくとも、いつか、か。
あの人の教えは今の自分をかたち創り、厳しい狩猟の日々を護り抜いてくれた。想いも、願いも、叶わずとも、雨に降られて炎が消えてしまっても、あの人の教えを火種として抱いて生きることくらいは、こんな奴にでもできるのだろうか。
「まあ、なんだな。まずは謝るといい」
「ああ……そうだな。そうさせてもらうよ」
何だかんだと言いつつも、こうして赤の他人に話をして、少し気持ちが軽くなった気がする。これまで、少しばかり近しい人達に囲まれ過ぎていたのかもしれない。目の前のことばかりに気を取られて、足元に一本道しかないような、そんな気になっていた。これまで暗い思いばかりが先走っていたが、明日からは集中して狩猟に打ち込めるだろう。
ひとつ、大きく伸びをする。流石に少し身体が冷えてきたかもしれない。それに、明日もベリオロスと追いかけっこをしなければならないのなら、もう床に入った方がいい。だが、そろそろ戻ろうかと軽弩の男に声をかけ、テントの方を振り返った時、幕が中から開いた。ふが、とか、むが、とか言いながら鎚の男が出てくる。
「なんだ、なんだァ? もう朝か?」
「まだ夜中だ。寝ていていい」
「あんたらは寝なくていいのか」
「君の凄まじい鼾で目が覚めたのさ」
軽弩の男が腰に手を当てて言うと、鎚の男は眠そうに擦っていた目を何度かしばたかせ、あっ、と声を上げた。
「そ、そりゃ面目ねぇ……!もしかして、あんたもそれで起きたのか?」
鎚の男は軽弩の男に謝ると、今度はこちらを向いた。そういうわけではない、と応じたのだが、本当か? その割には湿気た面だな、などと言われて困ってしまう。いつも通りにしていたつもりなのだが、そもそもいつも通りの顔が「湿気た面」に見えるのかもしれない。あの人にも、無口・無表情で心配だと言われていたし。苦笑いしていると、軽弩の男がフォローのつもりなのか口を挟んできた。
「彼が、師と喧嘩別れになっているようでね。話を聞いていた」
「お、おい……」
そんな恥ずかしいことは言わなくてもいい、と軽弩の男を止めるが、鎚の男は「ほう!」と目を輝かせて笑う。何か面白かっただろうか。
「喧嘩か! だが気にすんな、帰って謝ればそれでいい! な!」
「はは……、そうだな」
ありがとう、と小声で言うと、鎚の男は少し驚いたようだったが、礼には及ばない、とまた笑った。この男のように何でも笑い飛ばせるようになるには少し時間がかかるだろうが、やはりいつかは。そう思えるくらいには、気持ちが楽になっていた。
翌朝、ベリオロスの狩猟を再開した。
ベリオロスは相変わらず妙に警戒心が強く、つかず離れずを繰り返すために決定打が入らないまま時間が過ぎた。逃げて、追ってを繰り返すうち、昨日から妙に引っ掛かっていた疑問を軽弩の男が口にした。
「奴は一体、何から逃げているのだろう」
「あん? 俺たちじゃあねーのか?」
鎚の男が、何を今更、とばかりに返す。確かにそうだ。昨日から散々に痛めつけたし、追いかけ回しているし、警戒されるのは当然のことだろう。だが、手負いとはいえ大型モンスターだ。縄張りを守るプライドもあろう。それにも拘らず、こうも逃げ回るとは……何か、このフィールドそれ自体に怯えているようにさえ見える。
「ま、狩っちまえばこっちのもんよ。早く追いかけようぜ」
「そうだな。きっと思い過ごしだ」
さあ行こう、と二人の男に声をかけられ、ベリオロスが飛んで行った方を見る。冷たい風が頬を撫でた。これから天候が荒れるのか、視線の先には黒く分厚い雲が渦巻いていた。
何度か追跡を繰り返し、岩の隙間に上手く追い込んだところで、軽弩の男が放った火炎弾が残った片翼の棘を叩き折った。ベリオロスは岩場から抜け出し、銃弾の雨から逃れるが、棘が折られスパイク機能を失った翼では分踏ん張りが効かず、雪原で滑って大きな隙を晒す。
「ようやく留めだ!」
その隙を見逃さず、飛び込んだのは鎚の男。こちらも追撃に備え、太刀に手をかけて駆け寄る。だが、ベリオロスも黙って撲殺されてはくれないらしい。スパイク機能を失ったことを逆手に取ったのか、単なる偶然なのか、鎚の男の渾身の一撃を横に僅かに滑って回避した。空振りで隙ができた鎚の男に向けて、棘だらけの尾をぶん回す。強撃をまともに食らった鎚の男は、為す術もなく雪原に転がる。
「おいっ、大丈夫か⁉︎」
「うう、脚をやられちまった……!」
鎚の男を助け起こすが、目の前にはベリオロスが迫っている。今から男を連れて離脱するだけの暇はない。太刀を抜き、牙の一撃をいなす。軽弩の男がこちらに向かっているはず。散弾で脅せば、十分な距離が取れるに違いない。それまではなんとか時間を稼いで───思考を巡らせていると、不意に大きな影が足元に落ちた。空を覆い尽くしてしまうほどの、巨大な影だ。こちらに睨みを利かせていたベリオロスが、悲鳴を上げて飛び退く。大きく羽ばたいて、別のエリアへ逃げていく。何が起きたのかと見上げると、鈍く光る黒銀色の何かが陽光をギラリと反射し、思わず目を細めた。
「逃げろォ───ッ‼」
軽弩の男の叫びが聞こえたのと、巻き起こる風で冗談のように身体が浮き上がったのは、ほぼ同時だったように思う。遅かった。否、相手が早かったのだろうか。鎚の男もろとも黒い竜巻に巻き込まれ、紙くずのように吹き飛ばされてしまった。こちらはなんとか翔蟲で受け身を取ったが、鎚の男の方は負傷していたこともあり、まともに雪原に叩きつけられた。
なんだ。何が起きた。一体何が現れたというのだ。黒い風が、すぐ横を掠める。頬が僅かに裂けた。滲んだ血を、拭う間などない。
「あの龍は……」
黒銀色の甲殻に、猛々しい二本の角と巨大な翼を携えた龍。広い縄張りを持ち、比較的目撃例が多いこともあり、その姿形を認めた瞬間に何者なのかは解った。鋼龍、風翔龍───古龍クシャルダオラ。なぜ今こんな場所に。
「君たち! 大丈夫か⁉︎」
突然の古龍襲来に唖然としていると、軽弩の男が駆け寄って来た。そうだ、負傷者がいる。まずはこの場を離れなければ。
「俺は動ける。彼を頼めるか」
黒い風に吹き飛ばされたものの、受け身を取ることができたので大きな怪我はない、恐らく。それよりも、元々負傷していてまともに地面に叩きつけられたであろう鎚の男が心配だった。幸い、さすがは古龍というか、たかが人間のハンターにはさしも興味がないらしく、クシャルダオラがこちらを追撃してくる気配はない。軽弩の男に鎚の男を抱えてもらい、翔蟲で崖の上へ離脱した。クシャルダオラから視認されない岩陰に身を潜め、様子を窺う。
「まさか、古龍が現れるとは……ベリオロスの警戒心が妙に強かったのは、奴がこのエリアに接近していることに勘づいていたからかもしれないな」
軽弩の男が、布で鎚の男の脚の止血をしながら言う。冷静なようだが、少し声が上擦っている。無理もない。寒冷群島でクシャルダオラの姿が確認されたことなど、これまでに一度もなかったはずだ。これも、百竜夜行でモンスターたちの動きが活性化していた影響なのだろうか。正直言って、かなり動揺していた。
「もっ、もう駄目だ、無理だ! 古龍まで現れるなんて聞いてねぇよ!」
だが最も動揺している……というより、取り乱しているのは鎚の男だった。負傷した上、古龍の挨拶代わりの一撃を食った。それも、想定外の乱入で。見てわかるほど狼狽している。戦意を喪失しているのは、明らかだった。
「落ち着くんだ。まずはサブキャンプへ行って、怪我の治療を……」
「あんたは怖くねぇのかよ⁉︎ 古龍だぞ⁉︎ 天災級のバケモンが来たんだぞ!」
鎚の男は軽弩の男の腕を掴み、縋りつくようにして言う。こうなってしまっては、負傷していようがいまいがハンターは戦えない。だが、ここまで粘って戦果を得られないまま帰還するというのも。クシャルダオラを相手にする必要はない。先の悠然とした様子からするにあの場所に降り立ったのは偶然で、人間を狙ってのことではないはずだ。
「……ベリオロスは、あと少しで仕留められるはずだ。彼にはサブキャンプで休んでもらって、俺たち二人で早めに決着を」
負傷者を置いておくのは忍びないので、里にフクズクを飛ばしつつ……と考えていると、鎚の男がカッと顔を上げた。さも憎々しげに睨まれ、思わず一歩下がってしまう。
「仕留められそうだぁ⁉︎ あんたが何度もチャンスを逃したから、こんなことになってるんだろうが!」
「それは……」
確かに、そういう場面は何度かあった。特に昨日は、教官の祝言のことでいつもより集中力を欠いていたことは否めない。返す言葉もなく、すまない、とだけ言うと、鎚の男は足を引き摺りながらこちらに詰め寄ってきた。だが、その拳がこちらの肩を掴む前に、軽弩の男が間に割って入る。
「止めるんだ。こんな議論は無意味だろう」
さあ、と軽弩の男は鎚の男に回復薬の瓶を差し出す。だが鎚の男は差し出された手を瓶ごと振り払う。瓶は岩場に落ちて、割れた。軽弩の男が、おい、と流石に少し苛立ったような声を出す。だが鎚の男はお構いなしに、こちらに詰め寄ってきた。
「あんたよぉ、此処が古龍の根城だって知ってて言わなかったんじゃあねぇのか?」
「そ、そんなわけがないだろう!」
確かに、寒冷群島はクシャルダオラが好む環境ではある。しかし、カムラの里近くでクシャルダオラが目撃されたことなど、これまでになかったのだ。あんまりな言い様に思わず声を荒げると、それが癪に障ったのか、鎚の男がついに掴みかかってきた。軽弩の男が、鎚の男の腕を掴んで止める。
「やめろ! 我々で仲間割れをしてどうにかなる話でもないだろう!」
「うるせえぞ! コイツが仕組んだことに決まってるんだ! でなきゃ、たかがベリオロス一頭にここまで手こずるかってんだよ!」
「古龍の接近など予想できるものか! 我々を嵌めるつもりなら、こんなくどい方法など選ばないだろう!」」
こちらを差し置いて、二人が揉み合いになってしまう。こんなことをしている場合じゃない。怪我の治療も、作戦の立て直しも、クシャルダオラがここに現れたことを里に報告するのも、全て急務だ。取りあえず落ち着いて、と二人の間に入ろうとすると、鎚の男の手がふっとこちらに伸びてきた。殴られる。踏ん張らなければ、崖の下へ落ちてしまうだろう。来たる衝撃に備えて身構えた。だが。
鎚の男の腕を、軽弩の男の腕が押さえ込んだ。ずり、と雪で足元を滑らせたような音。
「あ、」
その瞬間は、まるでスローモーションのように見えた。軽弩の男の足が滑る。滑った先は、崖。ゆらりとバランスを崩した彼の装備でも、手でも、何だっていい。掴もうとした。だけどもう、遅かった。軽弩の男の姿が崖下に消え、伸ばした手は宙を掻いた。その直後、ドシャ、と何かが岩場にぶつかるような音が、崖下から。
「…………えっ、」
鎚の男が、揉み合いをしていたそのままの体勢で間の抜けたような声を出す。二人して硬直して、だが、このままでは。恐る恐る、崖の下を覗き込んだ。岩場にだらりと引っ掛かるようにして倒れた、軽弩の男。目と口を半開きにしたまま、動かない。岩場を伝って頭から流れた血、だろうか。入江の水面に、じわじわと黒く広がっていく。ああ、と吐息とも呻きともつかぬ声が、勝手に洩れ出た。後ろへ尻餅をつくように、へたり込む。
「あ、あ……ああああ、あ゙あ゙あ゙あああああァッ‼」
「お、おい……⁉︎」
だが、耳をつんざくような悲鳴を聞いてハッとした。鎚の男が、こちらとは比べものにらないほど動揺しているではないか。
「違うッ‼ 俺のせいじゃない‼ 俺のせいじゃないッ‼ こんな奴の言うこと信じるからだ‼ 俺のせいじゃない───ッ‼」
「落ち着け! まだ死んだと決まったわけじゃ……」
とにかく早く助けに行こう、と鎚の男に手を差し出すが、振り払われてしまう。
「うるせぇ──ッ‼ 近寄るんじゃねぇこの裏切り者ォ‼ お前、本当は『猛き炎』なんかじゃあねぇんだろう⁉︎ 俺達を嵌めて殺すつもりだったんだろう⁉ そうなんだろうが‼」
こんな時、教官ならどうやってこの男を落ち着かせるのだろう。自分では何も思いつかない。教官なら、教官なら、教官……教官───胸の中の種火を探れど探れど、何も燃え上がりやしない。思い浮かぶのは、祝言の席で笑うあの人。隣には、顔も名前も知らない女。妃蜘蛛の絹糸を編み込んで作った花嫁装束で、幸せそうに笑っている。あれがもし自分なら死ぬほど嬉しいのに、こんなことを考えてしまう自分が死ぬほど嫌いだ。吐き気がする。思わず顔を背けて目を閉じると、喧嘩別れしてしまったあの日の雨音が鮮明に甦る。あの時、冗談ですよと行ってもう一度あの人を迎え入れることができていたなら、今どんな気持ちでいたのだろう。目を閉じても、耳を塞いでも、あの日の後悔と嫌悪と雨音は消えてくれない。炎は雨に打たれ、煙だけど残して無惨に消えていく。
「カムラの本当の『猛き炎』もお前が殺したんだろ‼ お前は偽者だ‼ お前なんか炎じゃねぇ‼ 本物は俺達と同じように古龍に食わせたんだ‼」
鎚の男が、護身用の短刀を抜いた。色々なことが起きすぎて判断力が鈍っていたのか、突き出された刃を避けきれない。急所を庇うように出した腕を、傷つけられてしまう。雪原に跪く。見上げると、目の前には血まみれの足を引きずり、鉄槌を構えた男の姿。ぶつぶつと何か、呟いている。殺される、前に、殺して、やる───血走った目。完全に錯乱していた。
ああ、教官、教官。こんな時貴方なら、教官。
雨音が、脳裏を塗りつぶしていく。
◆
雪の上にいた。立っている。腕から滲んだ血がぽたぽたと滴り、白い雪に深紅の跡を残していく。目の前には、真っ赤に染まった男。撫で斬りにされた喉からごぼごぼと鮮血を溢れさせ、更に赤く、濃く染まっていく。己の手の中には、抜き身の太刀。鮮血が、ねっとりとへばり付いていた。
「ああ、」
ああ。
「あああ、」
ああ、ああ。やってしまった。だが正当防衛だ。相手は鉄槌を振りかぶっていた。こちらは怪我もしていた。やらなければ、やられていた。だけど。だけど。
崖下を、覗き込んだ。墜落した時の体勢のまま、岩場に引っかかっている軽弩の男がいた。流れる血が、先よりも濃く、赤く水面を染めている。一目でわかった。あれはもう、駄目だ。ゆるゆると首を振って後ずさると、雪の上に仰向けに斃れた鎚の男が目に入った。喉から噴き出していた血の勢いは収まり、閉じないままの目は光を失くして濁っている。
耳が痛い。身体が動かない。冷え切った空気のせいなのか、それとも。
フッと、頭上を何かが通り過ぎた。足元でくるくると回る影の数で、飛行型のモンスターだと知る。見上げると、数頭のガブラスがギャアギャアと鳴き騒ぎながら降りてきた。最初は崖の上、少し遅れて崖の下にも降りていく。
どうすればよいのだろう。何もわからないが、このままでは不味いということだけはわかる。とにかく、この場所を離れなければならない。ハンター三人でチームを組んで、討伐完了の報せもなく長期間里に戻らなければ、不測の事態を想定して捜索隊が来るに違いない。ベリオロスの狩猟にかかってから、既に約二日。「こう」なっていなかったとしても、異常事態の発生を疑われているかもしれない。不味い。なんとかしなければ。不慮の事故なのだと言えば嘘ではないが、カムラの里の人々はともかく、ギルド本部が信用してくれる保証はない。ハンターは、その刃を、力を、人には決して向けてはならない。あの人に性根から叩き込まれた、ギルドの不文律だ。
短刀で傷つけられた腕に軽く止血の処置をして、翔蟲でその場を離れた。サブキャンプのテントまで行き、近くの水場で血がついた太刀を洗う。濡れた刀身を布で拭いながら、これからどうするべきか考えた。死体を隠す? ガブラスに食い散らかされているので、太刀で斬られた痕跡は残らないかもしれないが、あんな場所にハンターの遺体があることそれ自体が不自然だ。唯一の生き残りである自分が真っ先に疑われるのは、火を見るより明らかだ。しかし、あんな崖の上から大男二人を一人で運ぶなど、腕を負傷していることを差し引いても無理がある。第一、運んだところで隠し場所もない。では、あの二人と共に寒冷群島に踏み込んだはいいが、喧嘩別れするなりして狩猟や探索は別行動だったと言い訳するか。いや、見え透いている。何よりも、討伐対象だったベリオロスの身体の傷が、三人で共闘していた何よりの証拠になってしまう。
はあ、と吐いた息は、自分でもそうとわかるくらい苛立っていた。気が動転しているせいか、ろくな解決策が思いつかない。そして窮地に陥った時、何よりも、誰よりも先に浮かんでしまうのが、あの人の顔だった。
こんな時、教官ならばどうするのだろう。そうだ、教官に助けを求めてみようか。フクズクを飛ばして窮状を訴えれば、きっと親身になって聞いてくれるに違いない。ハンターでは思いつかない、隠密ならではの上手い策を提案してくれるかもしれない。そこまで考えて、手紙を書こうと羊皮紙を取り出して。だけど浮かんできたあの人の顔は、幸せそうに笑んでいて───首を横に振って、書きかけの手紙を破り捨てた。幸せの絶頂にいる人に、こんな血生臭い秘密を共有させるなど。それ以前に、こんなことをやらかしておいて合わせる顔なんて。
そうだ、もう。あの人が嫁を取っても、せめて師弟としての関係が続けられたらいいと、思っていた。だけど、このまま近くにいては、この爛れた想いはいつか知られてしまう。そうなってしまっては、師だ弟子だなどと言っていられるわけがない。それなのに、祝言の日が近づくにつれて想いは膨らみ、肥大して、浅ましい欲まで走り出して、このままあの人の近くにいては、きっと止められなくなる。師弟として、などと未練がましいことを言わずに、淵源ナルハタタヒメを討ち、その子をも殺したあの日、百竜夜行の終わりとともにこの想いも縊り殺すべきだったのだ。あの時それができていれば、こんなに苦しむこともなかったのに。もう、もう、手遅れだ。もう自分の手では止められない。この想いは、そこまで来てしまっているのだ。それだけではない。勝手に想いを暴走させて酷い言葉を投げかけただけでなく、人殺しまでして、もうあの人の弟子だなどと言えるものか。想いを拗らせ、何故置いていくのかと駄々を捏ねて困らせ、ついには師としてのあの人の名まで汚したこんな男に、あの人の教えを胸に同じ里で生きていくことなど、最初からできるわけがなかったのだ。夢を見すぎた。ありもしない希望に、縋りすぎた。
もう。
───よくやったね。君は俺の自慢の愛弟子だ。
「ううぅ、ッ、教官、ウツシ教官……! 俺は、俺は……───ッ!」
もういい。もういいのだ。もう、消えてしまおう。名前も、何もかも全て捨てて、逃げて、何処か誰も自分のことを知らない土地で、ひっそりと生きよう。百竜夜行は終わった。カムラの里は、救った。あの人の、幸せそうな顔も見られた。もう、十分やったではないか。
サブキャンプのテントの隅でうずくまり、顔を手で覆う。喉から漏れ出る情けない嗚咽が、止まらない。零れて、零れて、虚しく消えていく。待っていても、抗っても、どうせ全てが終わっていく。それならもう、自分の手で、握り潰してしまおう。
日が落ちるまで待ち、テントを出た。
周囲に調査隊の気配がないことを念のために確認し、フクズクを呼んだ。腕にとまらせ、頭を撫でて餌をやってから、首に着けさせていた花を模したお守りを外す。首を傾げるフクズクの頭や首をもう一度撫でてやってから、空へ離した。だが手紙も託されず、目的地すら告げられなかったことに困惑したのか、フクズクはすぐに近くに戻ってきてしまう。
「もう、お前は自由の身だぞ。今までありがとうな」
無理もないが、これからは一緒にいても良いことはないだろう。こちらとしても、フクズクを連れているということでカムラの里との繋がりを気取られては、どこかで足がついてしまうかもしれない。行け、と短く言って、もう一度空へ離す。フクズクは少しの間、困惑したように頭上を周回していたが、もういいんだ、と伝えるように首を横に振って見せると、やがて遠くの空へと羽ばたいていった。
仮に、フクズクがカムラの里へ戻ったとしても、手紙も何も持たせていないので何が起きたかすぐにはわからないだろう。狩猟に出たハンターたちが戻らず、現地確認のために捜索隊が組まれるのに一日。その捜索隊が寒冷群島に漕ぎ着けるのに、二日。彼らの遺体が発見され、事件発生の報がギルド本部に伝わるのに、二日。この間に行方を眩ましてしまえばいいのだと考えれば、時間的余裕はある。腕は負傷しているが、歩くのには影響がない。装備を狩りから旅用の軽装に変え、顔を隠して集落付近の船着き場から船に乗ってしまえば、ハンターだとも思われないはずだ。行き先は、里から離れられるのなら何処だっていい。最初に来た船に、乗ってしまおう。その後どうするべきかは……今は、考えられない。
翔蟲でサブキャンプのテントを離れ、狩猟エリアから抜け出すための道を探す。メインキャンプを経由する正規ルートから堂々と抜けたのでは、怪しまれるからだ。なるべく人に会わないよう、集落付近を迂回して経路を模索することにする。入江付近を抜け、古の難破船のような構造物の隣を抜ける。突き当たった崖を蔦に掴まって登り、顔だけ出して上の様子を窺う。すると、何か白い大きな影が丸まっているのが見えた。日中まで戦っていたベリオロスだ。眠っているらしい。散々に痛めつけられたので、体力を回復したいのかもしれない。クシャルダオラの気配は、なさそうだ。ベリオロスを刺激しないようにそっと崖を登りきり、岩陰からなるべく近寄らずに済むルートを探る。このベリオロスも、もう少しサブキャンプで待っていればクシャルダオラに恐れをなして寒冷群島から逃げていくかもしれないが、今はその時間が惜しい。本来ならば、フクズクに手紙を持たせてクシャルダオラのことをカムラの里に報せるべきだったのだろうが、今は、もう。首を横に振る。考えたところで、栓のないことだ。
その時、背後で何者かが雪を踏むような音が耳を突いた。何かの気配がある。人、ではない。モンスターだ。振り向く。真後ろに、鶏冠が折れたドスバギィが迫っていた。おかしい、何故だ? 何故気がつかなかった? こいつらは、バギィ数頭を引き連れて群れで動き回る。ギャアギャアとけたたましい鳴き声のおかげで、少々離れていても気配を察知できるはずなのに。そうしてわかったのは、このドスバギィが群れを引き連れていないということ。こちらもベリオロスの挙動に集中していたせいで、背後への注意が疎かだったことは否めない。完全に誤算だ。無防備なまま、接近され過ぎている。太刀を抜くが、気がつくのが遅かったこちらが圧倒的に不利だ。ドスバギィが、上体を大きく反らす。これは───
「うっ……!」
びちゃり、粘度の高い液体が、顔に向けて吐きかけられた。ぐにゃぐにゃと視界が歪み、足元がふらつく。バギィ種特有の、催眠性の粘液。どんなに訓練を積んだ熟練のハンターでも、この強烈な眠気には絶対に逆らえない。腕の力が抜け、太刀が指から落ちる。それが岩場に落ちてガシャリと音を立てるよりも早く、視界は闇に包まれた。
う、と聞こえたのは、自分の呻き声だったのだろうか。
まだ覚束ない意識に鞭打ち、目を開ける。だというのに、視界に入るのは暗闇ばかりだ。恐らくどこか、陽の光の入らない場所にいるのだろう。一瞬、モンスターの腹の中かと錯覚したが、こんなことを考えていられるのなら、それはない。
冷え切ってしまった身体を擦りながら起き上がる頃には、この暗さに目が慣れてきていた。青く沈んだ岩肌。じめじめとした空気。寒冷群島の南部にある、洞窟の中だろう。ということは、此処はドスバギィのねぐらだ。意識が落ちる前の記憶と繋ぎ合わせても、合点がいく。獲物……保存食として、連れて来られたのだろうか。あのドスバギィは、群れを率いていなかった。平均よりも小柄で、鶏冠も折れていたか。縄張り争いに負けて、群れを奪われてしまった個体だろう。そのおかげで、意識を失っている間に雌達に食い散らかされることは免れたらしい。とりあえずは、動ける。
さて、ならばここから脱出せねばなるまい。幸いねぐらの主は留守のようだし、と思っていると、パキ、と何かを踏む音。主のお帰りのようだ。そう簡単ではないか、と小さく舌打ちをする。だが、邪魔になるバギィ達はいない。旅の軽装でも、武器があれば洞窟から逃げ出すくらいの隙を作ることはできよう。そう思い、背に携えた太刀に手を伸ばすが───ない。太刀が、ない。そうだ、さっきこいつに襲われた時、鞘から抜いてその場に。一瞬の動揺は、獰猛なモンスターが人に襲いかかるには十分だ。強烈なタックルをまともに食らってしまい、背を壁に叩きつけられる。
「うう……ッ」
首を振って意識を保つ。ここで倒れたら、もう無事では済まない。どうにか、どうにかここから抜け出す手立てを。
動かしかけた思考は、振りかぶった尾の一撃であえなく粉砕された。
◆
闇に閉ざされていた視界が、ふわりと明るくなった気がした。同時に、確かな温かさも感じる。なんだか、懐かしいような、安心できるような、優しい温かさ。
『──…、…し』
声が聞こえる。心の底から安心する、優しい声だ。ずっとずっと、聞きたかった声。ずっと……そばにいて欲しかった、声。
『愛弟子』
一瞬にして、意識が覚醒する。今の声は、なんだ。何故聞こえた。どうして。
『愛弟子、そんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうよ』
どうして此処に? フクズクがカムラの里に着いて、窮状を報せてくれたのだろうか。そんなはずはない、フクズクを放したのはほんの一刻ほど前のはず。いや、もしかすると、ドスバギィに襲われて意識を失っているうちにかなりの時間が経っていたのかもしれない。いずれにせよ、目の前にいるのは。
「ウツシ、教官……!」
教官。教官。教官だ。教官がいる。余りの驚きと嬉しさで、子供みたいに名前を呼んで手を伸ばすことしかできない。すると教官は、優しく微笑みながらこの腕を掴んで、引き寄せてくれた。ああ、教官だ。教官の体温だ。また会うことができたんだ。あの日水車小屋の引戸越しに酷い言葉を投げかけたこと、祝言に呼ばれていたのに行かなかったこと、全部全部、自分が悪い。謝らなければ。それにまだ、おめでとうございますの一言だって言えていないのだ。
「教官……ッ、教官、俺……!」
ああ、こんな時だってこの口は。言いたいこと、言わなければいけないこと、山ほどあるというのに、きちんと言葉を探すことができないのだ。それでも教官は、この口が不器用なことを知ってくれているから、怒らず、急かさず、言葉が出るのを待ってくれて。
『どうしたんだい?』
「おれ、俺は……」
『はは、仕方ないなぁ。ほら、早くこっちにおいで』
教官の手が、腕を強く引く。待ってください。そんなに強く引かなくても、必ず貴方の所へ行きますから。そう言いたいはずなのに、言葉が出てこない。そして何故だか、足も動かなかった。まるで根が生えてしまったように、一歩が踏み出せない。
『さあ、愛弟子』
「ま、待ってください教官、足が……」
教官に掴まれた腕が、ミシ、と軋んだ。それと同時、明確に痛みを感じる。痛ッ、と思わず声に出してしまったが、教官は腕を引く力を弛めてくれない。それどころか、更に力を強めて。だというのに足は動かず、前へ進めない。
『さあ』
この足では、教官のところへ、行けない。
◆
「待って、いッ……! 痛い! やめてください‼」
教官! と叫ぶと同時、ぶわりと意識が戻った。背中も尻も、硬い岩場の上。温かい光は感じない。優しい体温も声も、此処にはない。あるのは冷たく湿った洞窟と、モンスターのねぐら。腕を引いているのは、否、噛み付いて引き千切ろうとしているのは、鶏冠が折れたドスバギィ。
「ひッ、」
やめろ、離せ。口にする前に、ドスバギィが顎をしゃくり上げた。腕が捻られ───ゴギン、と鈍い音、が、
「い゙ッ、ぎィぁあああ゙あ゙アァ───ッッ‼」
今のは果たして、自分の口から出た声だったか。ドスバギィの脇腹を蹴飛ばして離れ、腕を庇って岩場を転がり、痛みでのたうち回る。折れた……か、どうかはよくわからないが、激痛に震え、まともに動かないことは確かだった。
「ぁ、あ……! うあ、ァ、がぁ……ッ」
たかが人間の力で蹴飛ばしたところで、大型モンスター相手では大したダメージにはならない。それが証拠に、ドスバギィは平然とした様子でこちらににじり寄ってくる。太刀は此処にはない。懐にクナイが残っていたとしても、この腕ではまともに投げられない。それ以前に今は、痛みに呻いて這いつくばっていることしかできない。それでもなんとかドスバギィから距離を取ろうと、岩の上をずりずりと這い進んではみるが、何の意味もなく。どし、と前肢で背中を押さえつけられ、後ろから覆い被さられてしまった。
「ぅぐ、」
首の後ろに、生温い吐息を感じた。抵抗の手段は残されていない。このまま首をひと噛みされて、終わり、か。せめてひと思いに終わらせてくれよ、と一人ごち、身体の力を抜く。だが予想に反して、ドスバギィが噛みついたのは首ではなく、装備している装束の方だった。いつもの鎧ではなく、旅に出るための軽装にしていたこともあり、モンスターの牙を前に紙のように引き千切られていく。食らうにしても、人工物である装束は邪魔になるということだろうか。それにしては、様子がおかしい。腰から下の装備だけが重点的に引き裂かれていき、ついにはインナーごと剥かれてしまう。
「えっ……」
下半身を丸出しにされたことがわかり、何を、と思わず振り向いた。それとほぼ同時、ざらりとした分厚いドスバギィの舌が、会陰から尻のあわいをベロンと舐め上げた。ぞ、と背筋を悪寒が走る。一瞬、思考が固まる。自分は食糧にされるために此処まで連れてこられたのではなかったのか。いや、それはこっちがそう思い込んでいただけで、ドスバギィの思惑は最初から別だったというのか。このドスバギィは、発情期の縄張り争いに負けて雌の群れを奪われてしまった、体格でも力でも劣る雄だ。それはつまり、こいつは発情期であるにもかかわらず、雌との交尾を禄に果たせていないということ。
「……、ぁ、おい、嘘だろ……?」
まさか、そんなわけがないよな? こっちは人間で、しかも男だ。群れの雌の代わりにしようとしているなんて、そんな馬鹿げた話はないよな? だが、ドスバギィの後肢の間で既にいきり立った異形の魔羅は、この想像が当たっていることを何よりも雄弁に語っている。
「お、おい、やめろッ! 俺は、俺は群れの雌じゃないッ!」
言ったところで通じるはずもないので、まずは離れようと岩の上を這いずる。だが、片腕しか使えないのではそれも知れていた。何処に行く気だ、とでも言うようにドスバギィに尻を蹴り上げられる。
「うぐぅっ! うぅ……」
地面にうつ伏せで這いつくばったまま、尻だけを高く上げるような体勢を取らされる。完全に獣の交尾の体勢になったことを知り、胃がぎゅっとせり上がる。これは、これは、本当か? 悪夢じゃなくて? ドスバギィは先ほどそうしたように尻穴をベロベロと舌で舐め上げ、醜悪な魔羅で狙いを定めた。ひっ、と喉が鳴る。どう考えても、入るはずがない。だが無情にも、ケダモノの魔羅は尻穴に押し付けられ、みぢ、みぢ、と嫌な音を立てて狭く閉じたそこを圧し始めた。小さな肉輪が、無理矢理に口を開かされていく。
「お、あ゙、ぁ……───ッ!」
もうこれ以上は裂ける。思った直後、肉輪が限界まで拡がり、ぐぽん! と魔羅の先端が嵌まった。
「ごお゙ッ……⁉︎」
排泄器官を逆側から拡張され、押し出されるようにして喉から空気と声が洩れる。裂けたような感覚はないが、肉を無理矢理拡げられているのは苦痛と暴虐以外の何でもない。だがこれは、奴にとっては、ドスバギィにとっては「交尾」なのだ。先端を入れただけで、終わるわけがない。案の定、今だ入りきっていない醜悪な魔羅を、腰を叩きつけたり揺らしたりして強引に捩じ込み始めた。
「がァッああああ゙あ゙あ゙⁉︎」
内臓と骨が、同時にミシミシと軋むような感覚。想像を絶する衝撃に、腕が痛むのも忘れて逃げようとするが、ドスバギィの前肢に背中を押され上半身を地面に押しつけられているせいで一寸たりとも動くことができない。
「お゙ご、ぉッ! ぐぅ、あ、あがァあッ!」
響き渡る苦悶の叫びなど、こいつにとっては雌が上げる歓喜の声にしか聞こえていないのだろう。背後から腰を打ちつけられ、みっちりと腹を埋められていく。ある程度のところまで埋まると、相手の快や苦痛など一切考慮しない、いかにも獣らしい激しい突き上げが始まった。
「お゙ッ! ごッ! やめ゙っ、ごふぉッ! がふっ!」
信じられない。ドスバギィに、モンスターに犯されている。雌の代わりにされている。交尾をさせられて、いる。いっそ気絶してしまえたらば楽なのだろうが、ハンターとして無駄に頑丈な身体と、与えられる衝撃の強さのせいでそれも叶わない。あまりの屈辱に、じわりと視界が滲んでいく。
「やめろ! やめ゙、お゙ッ! やめ、腹がァっやぶれ、え゙、えぇぁああ゙あ゙ァッ!」
体格で劣る個体だとはいえ、その魔羅は人間の腹に、まして排泄器官に収めるには無理がある寸だ。突き上げられるたびに、ぼこぼこと内側から腹が盛り上がる。
「お゙っ! お゙ォッ! がふっ、やめ、やめ、やめでぐれえ゙えぇッ! しぬ、じぬぅぅううッ‼」
やめろ、やめろと動く方の腕を振り回し、脚もめちゃくちゃに後ろを蹴飛ばす。それが邪魔に思えたのか、ドスバギィの動きが収まった。不意に与えられた暇に、ひゅうひゅう必死に呼吸をする。咳き込んで、情けなく喉を鳴らして、抑えを失った涙がぼろぼろと溢れた。
「やめ、ぇ、も、嫌だ、いやだぁ……っ」
もう、もう何もかもが嫌だった。想いを遂げることも告げることすらもできず、それどころか何よりも大切な人の名を汚してしまった。共に同じ里で生きるどころか、息をして、瞬きをして、当たり前にしていたことさえ辛くて、苦しくて。せめて逃げ出すことができればと思っていたのに、逃げることさえ許されずに、その上こんな目に遭って。もう嫌だ。もう全部嫌なんだ。何ひとつ思い通りにならないこんな命なら、いっそ。
グルル、と背後で唸り声がひとつ。こいつは只のケダモノだ。泣こうが喚こうが、同情の念などあるはずがない。今だって、こちらが暴れるのが気に食わなくて動くのをやめただけなのだろう。思ったとおり、更に強く地面に押さえつけられ、残った僅かな自由さえ奪われた。ああ、まだ犯されるのか。こいつの気が済むまで。
(もう、いいか)
抵抗の意思を失い、だらりと身体の力を抜いた。生きていても人殺し。死んだとて誰も気づかない。抗ったところで、全てが終わっていくのだから。
だが、予想していたような衝撃は訪れなかった。代わりに、びちゃりと粘度のある生温い液体が頭にかかる。耳の前を伝い流れ落ちてきたそれは、皮膚からも吸収されているようで。あ、と思う間もなく、頭に靄がかかる。意識は、一瞬にして沈んだ。
◆
ゆさゆさと、何かに身体を揺さぶられていた。くたりと沈んだ四肢は思うように動かず、相手に良いようにされているような感覚。だが不快感はなく、不思議と心地よかった。温かくて、気持ちがいい。何かに包まれているような、そんな感覚だ。
自分は今、どこにいるのだろう。つい先ほどまで、暗く冷たい岩の洞窟の中で地獄のような苦しみと屈辱を味わっていたはずなのに、今は。重いまぶたを、そっと上げた。全てを曝け出すように開かれた脚の間に、誰かがいる。ふわふわとした意識と開ききらない目では、ぼんやりとしか視認できない。だが、愛弟子、愛弟子……! と切羽詰まったような呼び声を認めたその途端、パッと視界が開けた。熱と欲を湛えた琥珀色が、こちらを見下ろしている。
「うつし、きょうかん……?」
目に入った人の名を、素直に口にした。するとその人は一瞬驚いたような顔をして、だがすぐに笑みを浮かべた。ああ、愛弟子、と感極まった声。無骨な手がこちらに伸びてきて、頬を優しく撫でてくれた。ああ、教官。教官。ウツシ教官、なのですか。そんなようなことを、呟いた気がする。すると教官はひとつ、はっきりと頷いて、こちらの膝裏をぐっと持ち上げた。一度は止めていた腰の動きを、再開する。……ん? 腰の動き? これは……これは、まさか、教官は今。
「ぇ、ッ⁉︎ きょ、教官……っ⁉︎」
「ああ愛弟子……君のナカは、とても心地がいいね」
ぶわぁ、と顔に熱が集まってきた。教官が、腹の中に? 一体どうして? 信じがたいことだったが、確かに尻を、腹をみっちりと埋める熱いモノの存在を感じる。腹の中で脈打って、解放の時を今か今かと待ち侘びている。それが今、この人の逸物でなければ何だというのか。
「愛弟子、動くよ」
「え、あ? んあ゙ぁっ……!」
熱の楔を受け入れた穴は、既にトロトロに蕩けていた。血管が浮いた逞しい砲身に柔らかい襞と入り口を擦られるたび、腹の奥がきゅうきゅうと収縮する。まるで、愛しさと快に堪えられないとでも言うようだった。こんなこと、今だに信じられない。だが、パンパンと尻たぶに肉がぶつかり弾ける音が、粘膜が擦れるいやらしい音が、他でもないこの人と性交していることを物語っていた。
「あっあっ、教官、教官ッ♡ そんな、あはあ゙ぅッ深いぃ……♡」
「愛弟子、愛弟子……ッ!」
名を呼ばれながら、こちゅ、こちゅ、と逸物の先端で奥の突き当たりを責められ、あっ、あっ、と勝手に声が洩れてしまう。ずっとずっと欲しかった、憧れの人。愛弟子、愛弟子、と必死に呼ぶ声。身体で、心で、欲しくても欲しくても絶対に手が届かないと思ていた人を独占している。腹の奥がきゅんきゅんして、ひとりでに揺れる腰はもう止められそうになかった。
「教官、きょぉかん……俺、おれぇ……ッ」
もっと呼んで欲しい。その優しい声で。もっと触れて欲しい。その無骨な温かい手で。もっともっと、欲望の淵に突き落として欲しい。その琥珀色の綺麗な瞳で。一度は諦めたというのに、こうして手に入るとどうしようもなく我儘になってしまう。抱き締めて欲しくて、よく頑張ったねと言って欲しくて。
「教官、もっと、もっと呼んでください、教官」
教官。教官。その声で、愛弟子と呼んで。もう弟子を名乗る資格など、ないと思っていた。それでも愛弟子と呼んでくれるのなら、その優しさに縋らせて。
「……、」
「……教官?」
教官が、俯いて動かなくなってしまった。どうしたのだろう。もしかして、少し締めすぎてしまっただろうか。こういうことは経験がなく、自分の快ばかりを追いすぎていたかもしれない。深呼吸をして、下半身から力を抜くように努める。それでも教官は、俯いたままだった。
「ぐ、」
その喉奥から、唸るような声が確かに洩れた。気のせいかとも思ったが、唸りは徐々に大きく低くなり、まるで獣のようだとさえ。膝裏を掴む手にも痛いほどに力が入っており、鋭い爪が皮膚に食い込んでいる。鋭い、爪……?
「きょ、教官……⁉︎」
「グ、……ッグウゥ! ガアアァッ‼」
教官が、否、教官だとばかり思っていたものの口が大きく裂けた。生臭い吐息をこぼすその中には、涎に濡れた無数の牙が並んでいる。皮膚は青白く変色し、所々に青光りする鱗が見える。
「あああ、ぁ、……うああああああ゛あ゛あ゛ァ───ッッ‼」
そして、折れた鶏冠も。教官。教官。教官じゃない。こんなのは教官じゃない。これはモンスターだ。
そうだ、俺は今、モンスターに、犯されて、いる。
◆
「あああ……教か、おぐゥッ⁉︎ ごっ⁉︎ おごぉっ⁉︎」
ドス! ドス! と人間とは比べものにならない大きさの魔羅が腹の中を蹂躙していた。突き上げられるたびに腹がぼこぼこと盛り上がっては凹み、既に体内に何度も吐き出されているらしい精液をごぽごぽとかき混ぜている。その量はとても腹の中に収まりきるものではないらしく、魔羅が尻穴を出入りするとぶしゃ、ぶりゅ、と尻穴の隙間から洩れ弾け、泡立つ。
「んごぉッ、たすけ……教か、どこ、どこぉッ⁉︎」
ちょうど頭上にあるドスバギィの口からだらだらと溢れ続けているのは、催眠性の粘液だ。もう乾いているところがないほど粘液を浴びせかけられ、昏倒と覚醒を繰り返しながら交尾を強要され続けて、一体どのくらいの時間が経ったのか。仰向けで開きっぱなしのまま揺れる脚には既に感覚がなく、股関節はぴりぴりと痺れていた。
「きょぉ、がん゙ん゙ん゙ぅ、たす、がふっ、だずげでぇへえ゙え゙ぇェッ……‼」
ゴツ、と一際強い突き上げを受け、折れそうなほど背筋が反る。萎えたままの魔羅の先からチョロチョロと溢れているのは、白濁したもの。排泄器官を性器に仕立て上げられ、強制的に快楽を享受させられているが、もはやそんなことなど認識できないほど、意識は混濁していた。
「きょうか、きょーかん、たすげで、ぇ、お゙ッ、おく、おぐううゔおおおおぉほおぉん……ッ」
強い突き上げを繰り返していたドスバギィの動きが、少し変わった。奥の突き当たりに魔羅の先端を押しつけ、ぐぐぐ……と圧をかけている。更に奥まで突き入れようとしていることは、明白だった。それ以上は無理だとわかっていても、止める手立てはない。それでも何かを叫ぼうと息を吸い込んだ拍子、頭からだらだらと流れていた粘液を鼻から吸い込んでしまった。元からぐにゃぐにゃに歪んでいた視界が、更に渦を巻くかのようにぐるんと歪んでいく。螺旋の中に揺れるようにして現れたのは、あの人───
「はあ゙ぁああぁ~~~……ッ♡」
滲んだ教官の顔。教官の声。教官の体温。さっきまで腹の中に収めていた、教官の魔羅。舌を突き出し、半分白目を剥いた酷い顔のまま、目の前の人に向けて手を伸ばす。
「う、ぅつ、し……ウツシ教官んんんん♡♡♡」
ああ、あの人に手が届く。それと同時、ごぽんッ! とおよそ腹の中から出たとは信じがたい音とともに、最後の砦ともいえる体内の肉弁が突き破られた。容赦なく結腸まで貫かれ、咆哮する。
「ん゙お゙おおぉお゙お゙ぉぉオォ~~~~ッッ♡♡♡」
ぎゅん、と腹の奥が引き攣り、結腸まで迎え入れた魔羅を締めつける。そうして絡みつく肉襞を擂り潰すかのように魔羅を引き抜かれ、腸壁をほじり出されるような感覚に悶絶した。
「お゙っほおおおぉォッ♡」
そうかと思えば、また結腸まで責め貫かれ。そのまま何度も激しく腰を振られて。
「あへっ♡ あへっ♡ はへえ゙ぇェッ♡♡ きょうかん、きよぉがん゙ん゙♡♡ もっと♡ もっどお゙ォんッ♡♡」
粘液の作用なのか、最初に感じていたような苦痛や痛みはもうなかった。役目を放棄してしまった肉弁は、魔羅を押し出すどころかぢゅぱぢゅぱと吸いつく。魔羅に擦られる尻穴が熱い。精液で満たされ蹂躙される腹の中が熱い。熱い。熱い。気持ちいい。気持ちいい。教官。気持ちいい。相手がモンスターであることなど忘れて……否、モンスターに犯されているという現実から目を逸らして、目の前で揺れている愛しい人の幻影に縋った。
「きょうかん、きょうか、もっと、もっときて、おれの、おれのとこ、きて」
手を伸ばしても、触れることができない。指先で宙を掻けば、あの人の顔はぐにゃりと歪んで、霞んでしまう。煙る雨に、掻き消されていくように。
いかないで。きえないで。そばにいて。
「あ、あ、きょうか、ん、きょぉかん、いかないで、いかないでくれよぉ」
もっと近くに来て。もっと触れて欲しい。もっと呼んで。呼んで。呼んでくれ。名前を、呼んでくれよ。そんな女じゃなくて。子供じゃなくて。俺の名前だけを呼んでくれ。
『愛弟子』
「ああぁ、ウツシきょーかんんん……♡」
『愛弟子、愛弟子、───……』
───どぢゅんッ‼
「ほお゙ッッ♡♡♡」
結腸の奥まで魔羅で貫かれ、視界がぐるりと回転した。直後、腹の奥でごぼごぼと大量の精液を発射され、腹の中から灼かれるような熱さに腰をくねらせる。同時に、びゅるりと射精した。
「お゙お゙おぉ~~ッ♡♡ 出てる、でてりゅぅッ♡ きょぉかんの子種ええ゙え゙ぇェ~~~ッッ♡♡♡」
熱く滾る溶岩のような欲で、腹の中が満たされていく。何度となく種付けされた下腹はぽっこりと膨らみ、妊婦のようにも見える。
「あ、うあ゙ぁ、はらいっぱいぃ……♡ 孕む、はらむぅ♡ えへッへへ、えへへへへェ……♡」
なおも続く射精を感じながら、膨らみ熱を帯びた腹を撫でる。教官が、あの人が、腹の中にこんなにも子種を出してくれた。このまま腹の中で育てたら、きっと───
「きょうかん、きょうぉかんの、こどもぉ ♡えへ、えへへ♡」
だが、射精を終えたらしいドスバギィが尻から魔羅を引き抜くと、栓を失った穴からごぷりと白濁が溢れた。長時間に及ぶ蹂躙と陵辱ですっかり緩んでしまった穴は子種を体内に収めておくことができず、息をするたびにぶぼっ、ぶぼっと噴射してしまう。
「おっ♡ お゙ッ♡ こだねぇ、お゙おおォッ♡ おんっ♡ お゙ぅん゙ッ♡♡」
もうすっかりドスバギィの雌穴に成り下がっていたそこにとっては、それだけでも堪らない刺激だ。ぶりゅ、ぼりゅ、と汚らしい音と共に尻穴から子種を噴くのに合わせるように、だらしなく股の間で垂れ下がった魔羅からぴゅるぴゅると白濁を漏らす。
「おあァ、こだね、こだねがぁ……♡」
でちゃう、でちゃう、とうわ言のように洩らしながら、必死に尻穴を締めようとするが、ぽっかりと開ききった穴は力を入れてもひくひくと震えるだけだ。だらだらとだらしなく流れるだけになった精液が、内股を汚しながら水溜まりを作っていく。どうしよう。このままではあの人の子を孕むことができないではないか。
「ああぁ、きょぅかんん……♡」
教官、教官、ウツシ教官───もう一度、たくさん種付けしてください。
後ろにいる「あの人」に向けて尻を高く上げ、ただでさえ開ききった尻穴を両手の指で更に開いて見せつけた。
「……───おほぁあ゙ぁァ~~ッ♡♡ ちんぽっ♡ ちんぽきたああ゙あ゙ぁ~~~っ♡♡」
ばすん! と後ろから突き上げるような衝撃。指で拡げていた尻穴を更に拡げて、巨大な魔羅が腹の中に侵入してきた。どちゅどちゅどちゅっ! と、およそ人間では繰り出せないであろう激しく素早い注挿。
「あっあっ♡ あ゙ッお゙っおォッお゙ッッ♡♡ お゙ぅっ♡ お゙ゔんッ♡♡」
洞窟に、下品な喘ぎが反響する。肉を打つような音もそこに混ざり、喘ぎは更に獣のように下劣さを増していく。それと呼応するように唸りを上げるのは、紛れもなくドスバギィなのだ。それなのに、今目に映っているのは。
「おんッ♡ お゙んっ♡ きょうかん、きょーかんッ♡ くらさい、きょぉかんのこだね、おぇのナカにッ♡♡」
『ああ、愛弟子。いくよ、たっぷり飲みなさい』
「あああ゙あ゙ぁぁァァァ~~~ッッ♡♡♡」
零れてしまった分を埋めるかのように、腹の奥にまた子種が注ぎ込まれた。灼けるように熱い灼熱に、背をしならせ脚を震わせて悶える。ひくひくと痙攣する尻穴の隙間からは、収まりきらなかった精液がまた、漏れ零れていた。
ああ、ああ。教官の子種。また注いでもらえた。今度こそ。今度こそきっと。
『───、』
「きょ、かん……」
『──、───』
目の前でゆらめく、あの人の笑顔。その優しい声で確かに名を呼んでくれているはずなのに、何も聞こえない。聞こえないのだ、あの人の声が。かわりに聞こえてくるのは、ザアザアという砂嵐……いや、違う。これは、雨だ。雨音だ。猛る炎を容赦なく討ち、吹き散らして消していく、雨。きょうかん、と確かに呼んだ声ですら、ザアザアと降りしきる雨の音に掻き消されてしまう。どうして? 教官。
縋るように伸ばした手の上で光るのは、琥珀色の護石だった。その中に見えるのは、やはり愛しい人の笑顔。手を伸ばす。伸ばしても、伸ばしても、届かない。届かない。声も、手も、指先も、何もかも、あの人には届かない。
サアア……と降りしきる雨の音が聞こえた。あの人の声も、後ろで唸りを上げるモンスターの声も、激しい性交の音も、自分の声も、なにもかもに上塗りして押し流していく。
俺は、俺は、どうしてこんな場所で───
「あああ」
聞こえない。
「教官、きょうかん」
聞こえない。
聞こえないんです、貴方の声が。
雨の音で、何も聞こえないんです。
煙る雨で、何も見えないんです。
優しい貴方の声が。
輝くような貴方の笑顔が。
琥珀色の光が。
ほんの少しだけ残った種火が。
また、燃え上がる日を待つことなく。
「う……し、きょ、ぉ、か…………」
虚ろの雨に、消されてしまうのです。