遠い夜明け
遠い夜明け
良い酒が手に入ったので、年末年始を一緒にどうか。
そんなありきたりの文句で誘えば、彼はこちらの初売りの準備の心配をしながらも快く了承してくれた。
この年末は、雪が多かった。年の初めを明日に控えたこの日も、どんよりと灰色に沈んだ空が、彼の水車小屋を訪ねる今までチラリ、チラリと冬のかけらを零し続けている。そのおかげ、と言ってはなんだが、里一番のツワモノである彼も、ここ最近は積極的に狩猟に出ていなかったようで、のんびりと新年を迎える準備ができているらしい。今日も、明日も、余程緊急の討伐対象が里近くに現れない限り、双剣を振るうつもりはないようだった。
「里のみんなから、野菜とか米とか沢山もらっちまって。一人じゃ食い切れねぇなって、困ってたんですよ」
俺が食い切れないような量なんて、ふつう渡します? と彼は笑う。肉や魚は乾燥させて保存食に、野菜はぬか床に入るだけ入れて、米はすぐ使う分だけを出し、あとは風通しの良い場所へ───それでもなお山と積まれた新鮮そうな野菜や魚、肉。これらは恐らく、今日追加されたもの。なるほど、彼が困ったように笑うわけだ。
今夜訪問することを予め伝えていたのは先の通りで、彼は事前にルームサービスの手を借り、年越しの準備をしてくれていた。季節の山菜と厳選キノコが入った温かい蕎麦、それから酒のアテにと、今日貰ったのであろうチャッカツオのタタキに、肉味噌がたっぷり乗った根菜の煮物。
「明日からの雑煮と、お節料理も用意してあるんで、あとは寝て過ごすだけでいいですよ」
せっかくの年末年始、のんびりしましょう。そう言って笑う彼に、御札の下で曖昧に笑って返した。
用意された年越し用の料理に持参した酒を合わせ、囲炉裏の前でゆるりと過ごす。今年一年お疲れ様でした、と労いの言葉をかければ、本当に大変でしたよ、と茶化すような素振りで返ってくる。百竜夜行が落ち着き、安穏のうちに新年を迎えられる喜びは、里の英雄であり一番の功労者である彼にとってもひとしおなのだろう。普段はあまり酒が回らない彼も今宵は上機嫌なようで、盃にそそいだ酒をぐっと飲み干し、へへ、と頬をほんのり赤くして笑う。無邪気さの中、ここ一年で確かに色濃くなった逞しさと気高さに、こちらも思わず目を細めた。
「そうだ、カゲロウさん。明日は初日の出見に行きましょうよ。ゴコクじいちゃんが大社跡近くの良い場所教えてくれたんです」
「よいですな」
「ね! それから、戻ってきたら通りで獅子舞見て、雑煮とお節食って……ああそうだ、近所の子達と羽根つきする約束もあった。へへ、年明け早々やりたいことばっかりで忙しいや」
明日の約束を思い、ニカ、と歯を見せる。こみ上げるのは、愛しさと、それから。
「カゲロウさんは、何かしたいことあります?」
「それがしは……そうですな」
満面の笑みを向けられて、思わず手の中の盃に目を落とした。囲炉裏の火で淡く橙色に染まった水面。映るのは、御札に隠された顔。突然黙ってしまったことで、彼が少し困惑しているのが見ずともわかる。何か言わねばとは思う、が。そうですな、と先と同じ声を洩らすことしかできず。そうかといって彼の顔を見ることもできず誤魔化すように見上げれば、水車小屋の天窓。今は閉じられていて、その先の空を見ることは叶わない。
「……もしかして、酔いました? ちょっと寝ときます?」
「いえ、まだ年越しまで刻がありますから」
「年が明ける前に、もう一度起きりゃいいんですよ」
彼は「よいしょ」と言って立ち上がると、座敷に布団を敷き始めた。当然のように同衾するつもりで、一組だけ。
「そうだ、今日は冷えるし、これ使いましょう」
ほら、と布団が仕舞ってあった棚から出てきたのは、何やら金属製の枕のようなものだ。
「湯たんぽ。ハモンさんに色々教えてもらって、作ってみたんです」
カゲロウさん、冬場になると足冷たいでしょ、と。確かに、彼ほど体温は高くない。共寝をすると、足が冷たいと驚かれることもあった。よもや、そのせいで彼が湯たんぽを自作していたなど、思いもよらなかったが。
「これでよし、と。ほら、入った入った」
熱燗用に沸かしてあった湯を手製の湯たんぽに入れ、それを布団の中へ。手招きされて布団に吸い込まれると、隣に彼も滑り込んできた。湯たんぽのじんわりと温まるような温度と、彼の体温。
「結構温かいでしょ?」
これで来年以降も安心ですね。
温まりかけた身体の芯は、その言葉でキシリと冷えた気がした。
酒が入っていたこともあり、うつらうつらとし始めるのは早かった。眠りの淵と瀬を何度か行き来し、ふと目を開ける。囲炉裏の小さな火を頼りにぼんやりと見えるのは、天窓。あの向こうにある暗い空が白み、陽が昇り朝が来れば、新しい年が本格的に始まりを告げる。刻一刻と月日は進み、戻ることも、止まることもない。
隣で眠る彼が目を覚まさないよう、そっと身体を起こした。こちらが動いたせいか、ん、と小さな声。起こしてしまっただろうかと様子を窺うが、すうすうと安らかな寝息を零していた。こみ上げる愛おしさをそのまま、ほんのりと温かい頬を撫でると、指先を吐息がくすぐる。
ああ、また一年、生きてくださった。
声に出ていたのかどうかは、自分でもわからなかった。だが、彼の瞼がふるりと震え、薄く開く。起こしてしまったか。
「んあ、ぁ……? 今、何時?」
枕元に置いていた懐中時計を見て、ちょうど年が明けたところだと告げれば、彼は眠そうな目を擦り、瞬きをしてから敷布に頭を沈めた。
「ああ~、寝過ごしたぁ……まあ来年は起きて過ごせばいいかぁ」
やっちまった、と眠そうな声で言いながら、彼はもそもそと身体を寄せてくる。そうですな、と返すと、期待通りの答えだったらしく、へへ、とくぐもった笑い声が洩れる。
「……カゲロウさん、どうしたんですか?」
ん? と彼の顔に視線を戻して、また天窓を見詰めていたことに気づく。まだ朝は来そうにない。それでも、少しずつ、少しずつ。
「寝つけないですか? あ、湯たんぽ冷えちまってますね……湯、入れ替えてきます」
彼は行灯に火を入れ、手製の湯たんぽを抱えて布団から出る。否、出ようとしたところ、子供のようにその腕を引いて連れ戻してしまった。行灯の淡い光に照らされ、蜜金色の瞳が揺れる。
「此処にいてください。貴方がいないと、寒いのです」
少しの沈黙の後、彼は黙って布団の中に戻ってきた。もそもそと横になって、今度は此方の袖を引く。
「冷えますよ。ほら、こっち来て」
いつまでも身体を起こしたまま天窓を見てばかりいるので、さすがに怪訝に思ったのだろう。「冷える」という言葉通り、こちらがこの体勢では自分も、彼も温まりやしない。
「……窓、なんかありますか」
「いえ」
「朝になったら、いよいよ新年ですよ」
「そうですな」
「初日の出見て、餅焼いて食って、羽根つきと凧揚げして……そんでまた、狩りに出るんです」
新年の催しを一通り終えて、里と狩猟の安寧を祈願して、いつもの日常に戻る。それを積み重ねて一年後、また新しい年を迎えて、刻を積み重ねていく。積み重なる刻の高さは、彼と、自分と、今はどのくらいで、崩れるまでは、あと───
「カゲロウさん」
「はい」
「カゲロウさんは、俺が明日の話をするのが、嫌ですか」
問う、というよりは、断定。いつもなら、そんなことはない、とすぐに答えられたのかもしれない。だが、今は。
明日の話。それは、未来の話。彼と、自分と、随分長さが違う、未来の話。
「それがしにとって、明日になるということは」
明日になるということは、貴方と共に過ごした思い出を一つ重ねるということ。それは同時に、貴方と共にいられる刻が短くなっていくということ。いつ何処で貴方の命が尽き果てるかを考えながら生きる明日なら、要らない。そうならばいっそ、明日の朝も、明日の夜も、その次の日の朝も、その次も、その次も来なくていい。ずっと今が続けばいい。
不安な思いは、ぽつぽつと零れた。こんなことを言っても、彼を困らせてしまうだけなのに。どうしようもないことだと、解っているのに。解った上で、共に生きると決めたというのに。それなのに、こうして刻の流れのどうしようもなさを感じると。
「カゲロウさん」
「はい」
「俺、それは違うって、言えないよ」
「はい」
「カゲロウさんが不安なの、わかるし。俺も」
カゲロウさんを置いて逝くのは不安だから。笑顔が少し翳って見えたのは、行灯の明かりが隙間風で揺れたせいではないのだろう。
「申し訳ない……せっかくの年越し、それがしから御誘いしたというのに」
「いいんですよ。不安なら、独りでいるより二人の方がいいでしょ」
ほら、こっち。彼はそう言って、敷布をぽんぽんと叩いた。素直に布団の中に入ると、いい子ですねぇ、と頭を撫でられる。その吐息と体温に、不安で冷えていた気持ちが溶けていくようで、思わず頬を胸元に擦り付けてしまう。くすぐったいですと笑う声に混じる、確かな鼓動。彼が、生きている証。
「温かいですな」
「カゲロウさんは、ちょっと冷えてますね」
よしよし、と背中を撫でる右手。この里を守り抜いた、温かい手。だが左手の方は、二人の間で所在無さげにしている。それが、勝手な思い込みかもしれないがどうにも寂しげに見えてしまい、そっと握った。彼は、はた、と目を少し開いて、だがすぐに破顔する。
「日が昇るまで、こうしてましょうか」
「よろしいのですか、眠らなくとも」
「あったかくなって安心したら、自然に寝ちまいますよ、きっと」
ほら、いい子いい子。まるで幼子にそうするかのように彼が言うものだから、思わず笑いが溢れてしまった。すると彼は笑みを深めて、やっと笑ってくれた、とポツリ。そうか、今宵この水車小屋に来てからというもの、何処か心が冷えきったまま、笑う余裕などついぞなかったのだ。御札や面布で隠してはいたが、彼は最初から解っていたのだろう。
静かに降り積もるばかりだった雪は、うとうとしていた間に止んでいたらしい。こんな時間に往来を行く人もおらず、聞こえるのは水車が回る音と、それに重なる川のせせらぎだけ。静かな、冬の夜。深く、紺青の海に沈んだようなこの夜が明けるには、まだ少し時がかかりそうだ。夜明けが訪れるまで、せめて不安に凍えてしまわないようにと温かい手をしっかりと握ると、彼もまた柔らかく握り返してくれた。