この後すぐ見つかる
この後すぐ見つかる
カゲハン♂がつき合うまでのお話です。
泥を纏った尾が、その巨体から繰り出されたと俄には信じ難い速さで空を切った。
空を切った、というのは少し違う。ちりりと走った痛みで、頬が裂けたと知る。ほんの少し掠っただけでこれだ。身を躱さなければ、背後の崖下まで吹っ飛んでいたかもしれない。滲む血と跳ねた泥を乱暴に拭えば、泥沼の主は尾を鎌首のようにもたげた独特の体勢をとり、唸り声を上げた。次は仕留めるぞ、とでも言うように。
泥翁竜オロミドロ。
山深い泥沼地帯に生息する海竜種の大型モンスター。人里近くにに姿を現すことは稀───の、はずなのだが、どうしたことかカムラの里近くの水没林に現れた。ゴコク曰く、「百竜夜行の影響がまだ残っているのではないか」とのことだが、この際こいつが人里に姿を現した理由は何でもいい。こいつがその巨体に纏う溶解液、そしてそれが混ざった大量の泥は、周辺の農地に深刻な被害をもたらす。縄張り意識も強く、これ以上人里に近付かせては作物への被害も人的被害も大きくなろう。カムラの里を守るハンターとして、意地でも狩らねばなるまい。
悪く思うなよ。口内で一人ごち、両手に携えた双刃を握り直す。猛攻を掻い潜り、身を翻しては斬撃を叩きつけ続けてきた。こちらもギリギリだが、相手もかなり追い詰められているのか怒りの咆哮の頻度が上がってきている。あと一歩。振り下ろされた強靭な尾の、括れた細い部分を狙う。泥が跳ね回るがお構い無し、だ。
───獲った。
度重なる斬撃で、弱っているはず。その目論見は当たった。切断できたのが、巨大な尾のほんの先端だけだということを除けば。
相手の武器は何よりもこの尾だ。そう簡単には壊させてもらえないということか。それにしたって、これには拍子抜けだ。拍子を抜かしている場合ではないので、なおのこと質が悪い。こちらを見据えた目付きは、さも老獪に嗤う翁のそれか、それとも泥沼の怪異か。即座に泥に沈んだせいで、定めることも叶わず。
足元に、泥の波が押し寄せる。これまでの様からして、この後更に大波が来るか、泥の塔が建ち並ぶか───高を括っていたが、オトモガルクが激しく吼えたことで何かが違うことに気付く。それなりに長い付き合いだ、彼が何を主張しているのか、嫌でもわかる。
逃げろ、だ。
咄嗟、隣で毛を逆立てていたオトモアイルーの首根っこを引っ掴み、翔蟲の力を借りて後方へ大きく跳んだ。相手が巨大な泥団子をその尾に携えて泥沼から姿を現したのも、同時。マジかよ、と、意図せず声が漏れる。あの泥団子、見たところ大量に溶解液を含んでいる。質量も尾の比ではない。一時撤退、の文字が頭をよぎる。刹那、オトモたちに号令を掛け、自らは翔蟲を利用して高く跳んだ。とりあえず、奴から見えない場所へ───といっても、この状況でキャンプへひとっ飛びというわけにはいかない。内心で舌打ちをすれば、主人の焦りを察したのかオトモガルクが一つ吠えた。何を、と見れば、岩壁の高い位置に横穴が見える。
穴に隠れるなんて格好悪いことこの上ないが、そんな悠長なことは言っていられない。戻ってきた翔蟲を即座に走らせ、オトモたちと共に横穴に転がり込んだ。
「ああクソ! あんな大技聞いてねぇぞ!」
ダン、と岩壁を足蹴にすれど、狭い横穴の中でそう音が響くわけでもなく、苛立ちの叫びと共に虚しく消えた。岩壁に着いた泥の足跡を見るに、そういえば全身泥まみれだったと思い出す。オトモたちも傷は負っていないものの、全身泥だらけの惨憺たる様だ。
泥翁竜オロミドロの狩猟を請け負い、水没林を訪れて既に半日以上。日が傾きかけている。夜目の利くモンスター相手、夜までに片をつけなければ不利だ。相手の老獪とも言える戦法に惑わされたおかげで時間がそう残されていないことも、せっかくハモンに作ってもらった防具や得物を泥だらけにされたことも、泥に身体を沈めている姿が風呂に浸かるオッサンのように見えることも、何から何まで腹立たしい。
「旦那さん、落ち着くニャ。なんだかんだで結構いいとこまで来てるニャ、大技出してきたのがその証拠だニャ」
「あー……悪りィな、ちょっとここで頭冷やすわ」
オトモアイルーのユタに諌められ、首を横に振る。その通り、あの泥団子さえどうにかすれば、勝機はある。双剣の刃を覆う泥を丁寧に拭い、ふう、と呼吸を一つ。よくもまあ、こんな短い刃二振りであんな大物を追い詰められたものだと、自分でも感心してしまう。そうだ、ここまでやれたのだ。あと一押しすればいい。今までだってそうしてきた。
「ガウ!」
「ん? どうした?」
横穴の奥で、不意にオトモガルクのイサナが吠えた。見れば、地面を前肢でてしてしと叩いている。こっちへ来い、と言っているようだ。言われるがまま奥へ足を向けると、一振の古びた刀が突き刺さっていた。
「こいつは……」
里の周辺を探索する中で、同じようなものを何度か見たことがあった。これは確か、と軽く土を掘り返してみると、やはり。
「先人の遺物、ってやつか」
「あの小難しい巻物ニャ?」
「ああ……いや、待てよ。これは俺でもなんとなく意味がわかるな」
これまでに発見してきた巻物は、やたら難しい古語で記されていたり、絵本のような語り口で記されたりしていた。しかしこの巻物の書体や文面は、現代の言葉とほぼ変わらない。比較的近い時期のもの、ということだろうか。何にしても、こういうものに特段詳しいわけでもない自分が考えたところで、答えが出るはずもなく。
「いつも通り、カゲロウさんに見てもらうとするか……」
◆
夕刻。
どうにか日没前にオロミドロとの死闘を制し、カムラの里へ帰還した。相手が大物だっただけに、持ち帰った素材も大量だ。あれだけ叩いて先っぽしか斬れなかった尾も、もとは強靭なモンスターの一部。ありがたく頂戴してきた。
「おかえりなさーい!」
「あら、おかえりなさいませ。うふふ、手こずったようですね」
傘屋のヒナミに挨拶し、通りを抜けて来たところでコミツとヒノエに迎えられた。コミツはともかく、ヒノエは疲れて帰還したことなどお見通しらしい。隠しても仕方がないので随分苦労したことを明かせば、御苦労様でした、と綺麗で優しい笑顔。
「旦那さん、旦那さん。オロミドロの素材はボク達が持って戻るニャ」
「お、そうか……なら頼む。俺は雑貨屋に寄ってから戻るよ」
「ルームサービスに飯の準備も頼んでおくニャ」
「ははっ、それも頼むよ。腹が減って死にそうだ」
オトモたちの好意に甘えさせてもらい、素材をイサナの背に乗せる。乗せきれなかったものはユタに渡し、明日の予定を確認してから往来で別れた。
「さて、と」
腰巻きの間に手を突っ込み、もう一つの戦利品を取り出す。戦利品といっても、その価値が判明するのはこれからなのだが。
雑貨屋の前まで行くと、チンドンシャンシャン、特売を知らせる音。そういえば大タルの備蓄が減っていたなあ、と自宅のアイテムボックスの中の在庫を思い浮かべていると、ふ、と甘いような、心地よい香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
あ、と顔を上げる。それでも顔が視界に入らず、更に視線を少し上へ。ようやく視界に収まったのは顔ではなく、特徴的な御札だ。
「カゲロウさん! こんにちは」
「こんにちは。本日の狩猟,お疲れ様でした」
いやあもう、本当に疲れましたよ、と軽口を叩けば、雑貨屋の店主カゲロウは、それはそれは、と笑ってみせた。
竜人族であるこの店主は、元は里の外の人間だが、丁寧な接客と柔らかな物腰、落ちついた優しい声色、そしてたまに覗かせる茶目っ気もあって、カムラの里にすっかり溶け込んでいる。
「本日は、何をお探しですかな?」
「ええと、大タルがいくつか……あ、そうだこっちも」
本来の用事はこちらだったと、手にしていた巻物をカゲロウに渡す。これは……! と興味津々で巻物を受け取り、はらりと開いて目を走らせる姿は、どこか熱心な子供のようにも見えて微笑ましい。
「この手記はどの辺りで?」
「…………」
「……ん?」
「はッ⁉︎ はい」
この人のこういうところ、結構可愛いんだよなあ。
などと思い耽っていたことを気取られまいと、努めて平静に「水没林の穴です」と返事をする。上手くいっていなかった気もするが、大丈夫、たぶん。
「こちらの手記、これまでのものとは少し毛色が異なるようです」
「あ、やっぱそうですよね。俺でも読めるし」
「恐らく、五十年前の百竜夜行について記したものではないかと」
「五十年前の?」
それって、作者はもしかして……雄々しい髭面と豪快な笑い声が脳裏をよぎり、思わず振り向く。目が合ったような、そうでもないような。
「……とは言えまだ一冊だけですので、なんとも言えませんね」
カゲロウもまた、同じ方向を見つつ言う。これまでの手記と同じく、狩り場のあちこちにばら蒔かれているのだろう。何故そんな置き方をしているのかは、まあ、今は気にしないとして。
「そんじゃあ俺、この手記の残りも探してみます」
「では、お言葉に甘えて」
「はは、すぐに全部見つけちまうかも」
里近くの狩り場の様子は、概ね頭に入っている。まだ手付かずの場所もあるが、そういう場所を集中的に探せばよいのだ。そうすれば探索と同時に手記の解読が進むし、カゲロウは喜ぶしで一石二鳥だろう。
「ところで」
明日は何処から探索しようかと思いを馳せていると、ふと足元に影が落ちた。見上げると、カゲロウの顔、もとい御札。急に影になったのは、アケノシルムの素材から作られているらしいカゲロウの傘のせいだろう。
「えと、」
なんでしょう、と問うよりも先、カゲロウの袖がスッと頬を撫でた。へ、と吐息のような声が思わず洩れる。ふわりと、甘い香の匂い。
「お顔に泥が」
「…………ぁ、え⁉︎ あッ、」
袖が汚れますって! と言うも、時既に遅し。里に帰還する前にキャンプ近くの水場で綺麗にしてきたつもりだったのだが、拭いきれていなかったらしい。あれだけ泥まみれになったのだから、致し方ない。致し方ないのだが、それなら言ってくれるだけでよいものを。
「あークソ、オロミドロの奴……袖、汚れちまいましたよね、すんません」
「ふふ、それがしのことならお気になさらず。それに、貴方にこうして触れることができましたので、オロミドロには感謝しなければ」
「なっ、」
ぶわ、と顔に熱が集まるのがわかった。誰かに見られてはいないかと思わず周囲に視線を走らせるが、傘で絶妙に遮られているため、往来を行く人々には腰から下しか見えていないだろう。
「あ、あの……」
「はい」
「お、大タル三つください……」
「ふふ、承知いたしました」
少々お待ちください、と恭しく一礼して荷車の方へ。そんなカゲロウの後ろ姿を見守りつつ、先ほど撫でられた頬に何となく触れてみる。ふわりと、カゲロウの残り香。
「いい香りだな……」
「お待たせいたしました」
「へぁ⁉︎ はい!」
カゲロウさん。雑貨屋の人。竜人族。背が高い。声がいい。元ハンター。
指折り指折り数えてみるが、それ以外のことは何も知らない。物心ついた時からカムラの里で雑貨屋を開いていたが、その頃から外見が全く変わらないのは竜人族ゆえだろう。もっとも、顔を見たことがないので外見が変わっていないのかどうかも知れないが。
「俺、あの人のこと何も知らねぇな……」
「カゲロウ殿のことニャ?」
「あー、そうそう……って⁉︎」
「さっきから全部口に出てるニャ」
マジかよ、と控えたもうひとりのオトモ、イサナを見れば、ガウ、とひと声。長い付き合い、考えなくても解る。今の声は疑いようもなく「是」、だ。
いかん、気を引き締めろ。目的は採集だとはいえ、此処は狩り場の真っ只中だ。それに、今日の探索で発見したこの手記。
発見に至ったのは、単なる偶然であった。今後の狩猟生活を楽にするため、薬の材料となる昆虫を探していたときのこと。樹木や岩場で羽根を休めていることが多い彼らの姿を探して、ほんの出来心で大木に登ってみたのだ。翔蟲の力を借りて辿り着いた先、何故だかこれ見よがしに放置された手記を見付けたのである。
「これ……里長が書いたモンだよなぁ? なんでこんな変な所にばっかバラまいてんだ……?」
一流のハンターならば見付けてみせろということなのか、ただ単に狩猟中に書き殴って放置したのか───何にせよ、真相は闇の中。それにしても木の上って、と内心で改めて突っ込みつつも、今重要なのは其処ではないと首を横に振る。とにかくこの手記を、無事に里まで持ち帰らねば。
「カゲロウさん、喜んでくれっかな……」
カゲロウさん。雑貨屋の人。何も知らない。
だが、香りだけは妙に鮮明に、記憶に残っていた。
◆
あれから、何冊か手記を見付けてはカゲロウに手渡した。カゲロウはその度に、喜んで受け取ってくれた。手記を解読する真剣な眼差しや(見えないが)、ありがとうございます、と言う時の優しい顔(見えないが)を、帰還後に見るのが密かな楽しみになっていた。そうしているうち、あの甘い香りを、いつしか一等心地好く感じるようになっていた。
今日も今日とて探索中に手記を一冊手に入れ、雑貨屋へ向かう途中である。探そうと思えばトントン拍子で見付かるものなのか、もう何冊目だったかそろそろわからなくなってきた。オトモ達からは「手記と狩猟、どっちが目的ニャ?」などと言われたりもするが、モンスターの討伐や採集はいつも通りにこなしているし、問題はない。
「おかえり! 今日も良い狩りだったみたいね」
門を潜るなり、傘屋のヒナミに言われた。いつも里に戻って最初に顔を合わせるせいか、ヒナミとはその日の狩猟の成果について話をすることが多い。が、今日はどうしたことか、こちらから何も言っていないのにこれだ。キョトンとしていると、なんだか嬉しそうにしてたから、と。そんな顔してたかなあ、と首を傾げつつ通りを行けば、オトモガルクを撫でていたイヌカイからも首尾が良かったようだと言われる始末。確かに首尾は悪くなかったが、言うほど大物を相手にしていたわけでもなく、再び首を傾げる羽目になった。
「お帰りなさい、今日も見つけられたみたいですね」
「え? 何が?」
「何って、うふふ」
顔に書いてありますよ、とお天道様みたいに優しく笑うのはヒノエだ。おかげさまで、もともと傾げていた首を今度は逆側に捻ることになる。このままだと首を痛めそうだ。
「自覚がないのは質が悪いニャア」
首を自然な角度に戻すと、お次は足元から声が聞こえた。ゼンチが一人チンドン屋をやっていたらしい。この店、八割方安売りしてないか。後でゆっくり買い物させてもらおう。それより先に。
「お帰りなさいませ」
「カゲロウさん!」
今日も一冊見つけましたよ、と告げれば、それはそれは、と優しい声。さっそく手渡して中を確認してもらうと、既に発見していた手記と前後の内容が繋がるらしく、いつも以上に喜んでいる様子。多少遠回りでも、手付かずの場所を探索してきた甲斐があった。
「こちらをご覧ください」
「ん? ……ああ本当だ、中身繋がってますね」
「ええ、この一文が意味するところは……」
手記の文字を、カゲロウの指先がツツ、と辿る。自分とは、少しかたちが違う手。
(あ……手、初めて見た、かも?)
男性らしく無骨ではあるが、長く白い指が優美でもある。不思議な魅力に、吸い寄せられるようで。
「…………」
「どうなさいましたか?」
ふいに、カゲロウが顔を覗き込んできた。どうしたのかと手元を見ると、カゲロウの白い手と、それをさわさわと撫でる、日焼けした自分の手が───
「……、……へあァ⁉︎ すんませんッ‼」
瞬間、手を離した、だけではなく蛇でも見つけたアイルーのように飛び退いてしまった。待て、落ち着け、落ち着け自分。カゲロウにきちんと申し開きをしなければ、突然手を握ろうとした気色悪い奴になってしまう。早速、カゲロウさん! と顔を上げたが、カゲロウはやけに遠くにいた。もしや、気持ち悪過ぎて逃げられ……
「なに生娘みたいな反応してるニャ?」
「…………えっ、カジカ?」
なぜこんな所に? と疑問を得たのと、ここが魚屋の前であるということに気付いたのは、ほぼ同時だった。どうやら雑貨屋から魚屋までぶっ飛んできてしまったらしい。鍛えてるからなあ。いや、そうじゃない。今はそれじゃない。
「あ、ええと、カゲロウさ」
「はっはっは、それがしの手は少しかたちが違いますゆえ、気になるのも無理はありませんよ」
その場で話そうにも遠い。どうしたものかと思えばカゲロウに笑われてしまい、ついでに、お気になさらず、と大人のフォローを入られてしまう。こんなに恥ずかしいことがあろうか。
結局、カゲロウには蚊の鳴くような声で謝罪することしかできず、魚でも食ってしっかりするニャ、というカジカの的外れな慰めを背に、トボトボと家路に着いたのだった。
◆
「ハァ……今日はイマイチだったなぁ」
「ニャァ? お前さんでも落ち込むことがあるのニャ」
「いやそれどういう意味……いててて、痛いって!」
「ほれ、終わったニャ」
ペチ、と肉球で腕を叩かれる。
治療を終えたゼンチは、使った道具やらなんやらをさっさと片し始めた。そんなゼンチの丸まった背中と、白い包帯が巻かれた右腕を交互に見て、ハア、とまた溜め息。
今日の戦果は、先に洩らした通りであった。獲物はトビカガチ。標的を発見したはよいが、妙に苦戦した挙げ句ほうぼうの体で捕獲した。剥ぎ取りができなかったため素材が手に入らず、得物の新調も先延ばしである。その上、この右腕の怪我。捕獲時に暴れられてしまい、うっかり引っ掻き傷を作ってしまった。オトモ達には油断するなと扱き下ろされ、今しがたゼンチにもハンターのくせに鈍くさいと評されたところである。
「毒のあるモンスターじゃなくて良かったニャァ。今日明日は安静にして、その次からもう軽い探索くらいは行っていいニャ」
「へーい……」
こんな日は好きなものを食べて、酒も飲んでさっさと寝てしまうに限る。いや傷があるから酒は駄目か。とにかく、明日以降のことは明日の朝起きてから考えればいい。
ゼンチに礼を言って、診療所を出た。トボトボと通りを抜ける。自宅への道すがら、必ず雑貨屋の前を通ることになるのだが、あいにく今日は用事がない。狩猟に気を取られて余裕がなく、手記を探すことができなかった。そうでなくとも、うっかり手を握りかけたあの日からカゲロウに話しかけるのは少し気不味く……手記が見つかればいつも通りに声をかけることができるかもしれないと考えていたが、そう上手くはいかないらしい。小さく、再三の溜め息をついて、なるべく雑貨屋の方を見ないようにしながら足早に通り過ぎ───
「お帰りなさいませ」
───ることができなかった。最近足が遠のいていたとはいえ、まさかこんな気分の時にカゲロウから声をかけてくるとは思いもしない。思わず振り向いたが、片足は完全に自宅の方を向いていた。
「ぁ……、すんません、今日は何も見つからなくて……」
「ふふ、お気になさらずとも。御用がなくとも、お顔を見せて頂ければよろしいのに」
「えっと……」
どんな顔をしてよいのかわからず、言葉に詰まってしまう。そうしている間もやはり気不味く、視線が下がる。
「……おや、お怪我を」
「あッ、いや、もうゼンチ先生に診てもらったんで!」
大丈夫です! と焦って答えるが、声が少し裏返った。実際のところ、これっぽっちも大丈夫ではない。いや、傷は大したことないので大丈夫だが、とにかく大丈夫ではないのだ。失礼とは知りながら、逃げるようにしてカゲロウに背を向ける。が、それよりもカゲロウの方が速かった。何が起きたのかわからない程の身のこなしで距離を詰められ、あろうことか腰を抱き込まれてしまう。
「へぁッ⁉︎ ちょっ、カゲロウさ……⁉︎」
こんな往来のど真ん中で何を、と言いかけるも、あの傘でしっかり遮られている。長い腕が腰にしっかと回り、逃げようにも身動きが取れない。下手に暴れてハンターならではの腕力で傷付けてしまっては洒落にならないし、と困惑したまま固まっていると、カゲロウの指がツ、と右腕の包帯を撫でた。
「ぁ、」
あの甘い香が、ふわりと胸に広がる。久方ぶりの感覚に、思わず身体を預けてしまう。
「ふむ、確かに深い手傷ではないご様子……ですが、油断はなりませんね」
「せ、説教ならもう色んな人から食らってますって」
我ながら、酷い言いぐさである。もっと別の返し方があったはずだが、今はそんなことを考える余裕が全くない。それを知ってか知らないでか、カゲロウは気分を害した様子もなく。
「失礼、少し目を」
「え、」
閉じてください。
優しいが、抵抗は許さない。そんな声色。同時にあの香にあてられて、身体が痺れたように力が入らなくなった。何が起きるのかわからないまま、ぎゅっと目を瞑る。視覚を失った状態で、いい子ですね、なんて耳元で言われたら、もう動くことも叶わない。心臓がうるさい。そんなはずはないとわかっているのに、聞かれていたらどうしようと思ってしまう。このまま、何をされてしまうのだろう。まさか、接───
「動かないでくださいね」
返事の代わりに顔を突き出すと、何か細いもので目蓋の縁をなぞられた。右、左と順にそうされ、はて、と内心で首を捻る。
「……はい、もうよろしいですよ」
思ってたのと何か違う。素直に目を開けると、夕刻に差しかかり少し向きの変わった風がふわりと頬を撫でた。香の香りと共に、カゲロウの顔を隠した御札が舞うように揺れる。ふと垣間見えた唇が優しげに微笑んでいるのを目にしてしまい、いまだにやかましい心臓が更に大きく跳ねた。
「よくお似合いです」
どうぞご覧ください、と、何処からともなく出てきたのは手鏡だ。その中に映った自分の顔はキョトンと間抜けで……瞼の縁に、見覚えのない化粧。切れ長の目を強調するように、目尻を囲む美しい紅が引かれていた。
里の中にも、同じような化粧をしている者がちらほらいる。顔に引く紅は魔除けの一種で、無事であるようにと願を込める。
「これ……?」
「はい。貴方は里の希望の炎なのですから、お身体を大切にしなければ」
「…………アッ‼ そうですよね‼ ハンターは身体が資本ですからハハハハ‼」
いや、それはいいのだが。
突然至近距離で触れられたことも、まるで儀式のように化粧を施されたことも、それをよく似合うと言われたことも、全てが動揺に油を注いでくるのだが自然な態度に見えているだろうか。不味いぞ、今絶対に耳まで真っ赤だ。とてもじゃないが、カゲロウの顔を見てなどいられない。とりあえず俯いて誤魔化すが、どうなさいました? と覗き込まれてしまい、万事休す。
「すっっっっ、すんませんッ!」
体勢が変わったことで腕の力が緩んだのを見計らい、なんとかカゲロウから距離を取る。同時、ふわりと広がった香の匂いを吸い込んでしまい、これは失敗したと思った。
「俺っ、今日は飯食って早めに寝ます! さっさと傷治さないと! それじゃあッ‼」
魔除けの礼を言わなかったことに気付いたのは、自宅に向けて駆け出した後だった。
「はぁ~~~~……」
自宅に帰り、引戸を後ろ手に閉めた後、口をついて出てきたのは深すぎる溜め息だった。それだけでは飽き足らず、首をゆるゆると横に振る。それでもなお、カゲロウの体温、声、におい───あらゆる感覚が、身体中に残っていた。
「ああぁ~~もう……」
なんとも胸の辺りがモヤモヤする。このモヤモヤは一体……いやもう、解ってる。解ってる、自分のことだ。もう言いようがなく、あの人の、カゲロウことが気になって仕方ない。いや、気になるなんて生温いものではない。いつか誰かに言われたような、「生娘みたい」に純真無垢な感情などではない。
これはもっと、ずっと、生々しいものだ。
そんな感情を抱いてしまっているところ、あんな触れ方や話し方をされては、都合よく捉えてしまうではないか。
「お帰りニャさいませ」
三和土でへたり込んでいると、ルームサービスがてちてちと肉球を鳴らしてやって来た。なかなか上がってこない主人を心配したのかもしれない。案の定、右腕の包帯を見て声を上げた。
「お怪我をされたのですかニャ⁉︎」
「ああ、いや……大したことねーから……」
本当に、身体の怪我は大したことがない。どちらかというと胸が苦しい。だがそれを打ち明けるわけにもいかず、大丈夫だと応じることしかできなかった。
「ニャ? そのお化粧、どうされたのですニャ?」
「……えっ⁉︎ いやっ、これはそのっ、知らんうちに、こう、なってたわけじゃ、ねぇけど……っ」
「よく分からないけど、お似合いですニャァ」
お似合い。……お似合い? カゲロウもそう言っていた。あの優しい声を思い出し、更に傘の陰で密かに行われたことを思い出し、また顔に血が集まりそうになる。いかん、落ち着け。カゲロウは言っていたじゃないか。ハンターは里の希望、だから身体を大切にしなければ───里のために、五体満足でいなければと。だからこの化粧は、里のため。
(俺のためじゃない)
「そりゃそうだよな……」
所詮は全くの親切心から出た行為。舞い上がったところで、空しいだけなのは解っている、のだが。
「……なあ、俺のこれ、本当に似合ってるか?」
「ニャ? はい、よくお似合いですニャ」
ルームサービスは、大きな丸い目を更に丸くして首を傾げる。可愛いやつめ。いや、それは今はいいとして。
「この家、化粧筆ってあったっけ?」
顔に施す紅は魔除けの一種。里を守るハンターが、万が一にも災禍に見舞われないよう、願を込めて紅を引く。うん、何もおかしくない。
おかしなことは一つもない。
◆
それから数日、右腕の傷が塞がるまでは軽い鍛練をこなし、ゼンチの言い付け通り簡単な採集や探索の依頼から再開した。大型モンスターが相手でなければ、大量発生した小型モンスターを狩るか、食材や素材を収集するかして過ごすしかなく、少々退屈であった。しかし、余裕があれば、それだけ未探索の場所を見て回る時間も増える。カゲロウに渡せる手記はないかと、ここぞとばかりに探して回った。だが未発見のものはそう残されていないのか、単純に探し方が悪いのか、新たな手記の発見にはついぞ至らぬまま、時間だけが過ぎた。
そうこうしているうち、大型モンスターの狩猟にも復帰した。いつも通りに里の人々やギルドからの依頼や指令を受け、いつも通りにモンスターを狩る日々。中でも集会所に依頼が来るような狂暴なモンスター相手となると、キャンプを拠点にして数日間睨み合うことも少なくない。自然、里でのんびりと過ごす時間は減った。早朝に里を発ち、戻るのは数日後の夜、なんてこともザラで、そういえば最近顔を見ていないな、と思う里の住人の数は日々増えた。余裕のない日々の中、手記を探す余裕も同じく無くなり、また時間は過ぎた。
そんなある日の、狩猟帰り。
今回の依頼は、リオレウスの捕獲であった。行き先は溶岩洞。過酷な環境の中、数日に渡って捕獲対象とジリジリと睨み合い、時に斬り結び───最終的に捕り逃した。ここ最近は難しい狩猟が続いていたが、なんとか上手く切り抜けてきていた。それ故、今回は久々の……というより、上位ハンターに昇格して初めての大きな失態であった。肩を落として集会所に戻ると、ゴコクとミノトがいつも通りに迎えて労ってくれた。しかしやはり、足取りは重い。
「はぁ~~~……」
「どうした元気がないぞ愛弟子! 今夜はしっかり食べてしっかり寝るんだ!」
アイテムボックスの整頓をして、オトモ達と集会所の前で別れたところ、屋根の上からウツシが降ってきた。出で立ちからして、これから調査任務といったところか。
「教官……相変わらず元気っすね……」
「しっかり食べてしっかり寝ているからね!」
俺もめっちゃ食ってめっちゃ寝てます。それでも今回は失敗したんです。
なんて、ウツシに言ったところでどうしようもない。失敗したのは自分。反省するのも後ろ指さされるのも自分。この経験を次に活かせるかどうかを決めるのも、自分。ハンターとはそういうもの。他でもない、ウツシに叩き込まれたことだ。
「はあぁんがぶもッ……⁉︎ ちょっ、何……⁉︎」
深い溜め息を吐きかけたところ、ウツシに掌で口を塞がれた。痛い。歯が折れそうだから止めて欲しい。
「溜め息を吐くと幸せが逃げるって言うだろう?」
「幸せ……教官、俺にとっての幸せって何なんだろう……」
「唐突な哲学だね愛弟子⁉︎」
いかん、なんだか今日は本当に駄目だ。自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。これから任務に向かうウツシを、こんな訳のわからない問いかけで足止めするわけにはいかない。今日はもう休むと伝えると、ウツシは一つ頷いてから肩を叩いて激励してくれた。痛い。肩が外れそうだから止めて欲しい。
「君は誰よりも強い! 頑張れ愛弟子! いけるぞ愛弟子───‼」という近所迷惑レベルのボリュームのエールを背に、トボトボと通りを抜けて自宅に向かう。もう日も沈んだ後だ。うさ団子屋も林檎飴屋も、店仕舞いした後だった。通りを行き交う人影も、まばら。
(雑貨屋は……いや、でも、用事ないしな……)
あれから里でのんびり過ごす時間が減り、最低限の買い物は集会所で済ませるようになって、また足が遠退いていた。用事がなくても来ていいと言って貰えたが、相手は商売でやっていること。金を落とさない者など、行ったところで仕事の邪魔でしかないだろう。そうでなくとも、もう店仕舞いをしている時間だ。ウツシに言われた通り、しっかり食べてさっさと床に入ってしまおう。できれば酒も欲しいが、備えはあっただろうか。
「おや? 今お帰りですかな?」
自宅の棚の様子を思い出そうとしていると、不意に声がかかった。よく見れば、ちょうど雑貨屋の前。店仕舞いの準備をしていたらしいカゲロウが、荷車の脇に佇んでいる。
「ぁ……カゲロウさん、なんか、久し振りですね」
「そうですね。近頃は御多忙なようでしたから」
今、自然な顔ができているだろうか。
正直なところ、少し忙しすぎるくらいで丁度良かった。カゲロウへの生々しい思いを自覚してしまってからというもの、なんとなく顔を合わせるのが気不味かったからだ。それでも話をしたいという気持ちは捨てきれず、雑貨屋に立ち寄る口実にするために手記を探し続けていた辺り、自分でも往生際が悪いと思う。しぶといのは、狩猟の時だけでいいのに。
「……何やらお元気が無い御様子ですな」
「ああ、いや……わかります? 狩りで下手こいちまって、反省中なんです」
「それはそれは。お怪我はございませんか?」
「はい。それよりカゲロウさんこそ、こんな時間まで店開いてるなんて珍しいですね」
「ええ、実はこちらを」
言いながら、カゲロウがちょいちょいと手招きをする。そうされて初めて、会話するには妙に離れた位置にいたことに気付いた。近付いていいのだろうか、となぜか不安になる。そのまま固まっていると、カゲロウは首を傾げて再び手招きした。このままの方が不自然だ。意を決して、だが努めて平静を装ってカゲロウの隣に並ぶ。久方振りの香りが、鼻腔をくすぐった。
(あー……)
この香りに心地好さを覚えている自分が、確かにいる。もっと傍にいたいと、思ってしまう。
「……これって、例の手記ですか?」
「はい、解読を進めておりました。流れや内容からするに、あと一冊で全てが繋がりそうなのです」
なんと。必死こいて探し回っていたのが奏功したらしい。あと一冊。あと一冊見つけたら、カゲロウはきっと喜ぶ。でも、手記を探してカゲロウに手渡すのは、そこで終わり。そうなったら……そうなったら?
「俺が……って、言いたいんですけど、他のハンターが見付けちまうかもしれないですね」
ここで、「俺が探してきます!」と胸を張って言えたらどんなによかったか。今が落ち込んでいるタイミングで良かった。きっとカゲロウには、今の自分は狩猟でヘマをして自信喪失している奴に見えていることだろう。
「……魔除けの化粧、続けてくださっているのですね。やはり、よくお似合いです」
どく、と心臓が跳ねた。似合うと言われて、勝手に舞い上がって化粧を続けていたなんて、知られたら恥ずかしいでは済まない。それなのに、気付いてもらえて嬉しいなんて。こちらの気など知らないのであろうカゲロウの指先が、スルリと目元を撫でる。
「っ、もう、やめてくださいよ、こーゆーの」
まるで愛でられているようで、でもそんな筈はなくて。
「ハンターは身体が資本ですから、願掛けでもなんでも里を守るためならなんだってやらなきゃ、ッ」
嘘だ。本当は見てもらいたくて。
「それに俺、カゲロウさんにそんな風にされたら変に勘違いしちまいそうっていうか……」
これも嘘。勘違いしそうじゃなくて、勘違いして、勘違いだと理解した上で凹むところまで行ってしまっている。
カゲロウの顔を見ていられなくて、俯く。御札の向こうで、ふっとカゲロウが笑った気配がした。
そうだよな、こんなのは滑稽だ。
「……すんません、俺なんか、今日は駄目なんです」
「では、こちらを」
「だから今日はもう帰って飯食って寝……はい?」
どうぞ、と何かを差し出されて、思わず掌を出してしまった。さすがは商売人、こういうタイミングは心得ているらしい。ではなくて。
カゲロウが差し出したのは、金塗りと細かな紋様が施された、掌より一回り小さな貝殻だった。見たことのない物に困惑していると、カゲロウが貝殻の合わせをそっとずらした。その内側が、いつの間にか昇っていた月の光を受けて玉虫色に艶めく。
「これって……?」
「紅です」
「紅? ……の、色じゃないけど」
「上質な紅は、乾くとこのように玉虫色に輝くのです。肌に乗せれば体温に馴染み、深い紅に色付くのですよ」
紅というよりは緑だ。これが肌に乗せると鮮やかな紅に変わるなど、にわかには信じがたい。おそらく希少価値の高いものなのだろう。器の貝殻も、施された装飾も、素人目で見ても一流の技師によるものだとわかる。こんな紅を日常的に使えるなんて、名家のお嬢様か、下手をしたらお姫様くらいではないのだろうか。
「こちらは、貴方に是非使って頂きたく」
「……へっ、」
変な声が出た。こういうものは、さぞかし位の高い御方が使うのだろうと考えていたばかりだ。
「えっ、と……その、確かに化粧はするようになりましたけど、こんな良いモンじゃなくても」
「ですが、これは、」
「っ、誤解しちまうって言ったじゃないですか。それにたかがハンター一人の願掛けのために、アンタがここまで───」
しなくたっていいのに、と続けようとした口を、そっと袖で塞がれた。もご、となっている間に、カゲロウが少し身を屈める。
「これは、貴方のために誂えたものでして」
ほら、と金塗りの貝殻を示すのは、白く長い指。妖艶にも見える仕草に気を取られていると、玉虫色に輝く貝殻からふわりと香る、甘いにおい。
「あ、」
この香。よく知っている。目の前にいる人が、普段から纏っている。
(やばい、これ、頭クラクラす、る……)
「古来より、香にも紅と同じく魔除けや厄除けの意味があります。ですからこの紅には、香も練り込んでおりまして」
「香……って、カゲロウさんの、」
言いかけると、また口を塞がれた。今度は人差し指の先で。指先から薫るのも、あの香。
「貴方は、カムラの里を守る御方。里のためにご壮健でいて頂きたいのは勿論です」
香りに当てられて、頭がふわふわする。
「ですが、それ以上に……それがしの為に、御無事で里に戻ってきて頂きたい。この紅には、それがしのそんな願いを籠めて、貴方に」
早鐘を打つ心臓がこれでもかと血液を送ってきて、顔も耳も月明かりの下でもわかるくらい真っ赤になっているのではないだろうか。が、こんなに首から上に血が巡っているというのに、頭は何を言われたのか全く理解してくれない。カゲロウのために? 里のためではなくて? 無事でいて欲しいと願いを籠めて? わざわざ高価な紅を? 俺のために誂えたって?
「はぇ、」
「はい」
「へ……」
いかがされましたか? と首を傾げるカゲロウ。いや、いかがされましたかって、いかがな状態になってしまっているのか、この無様に真っ赤っ赤になった顔を見てわからないのだろうか。
「ふへ」
「ん?」
「す、」
「す?」
「す、すすすすすんませんッッッ‼‼」
ちょっとこれ以上は無理です。完全に脳味噌の処理容量を超えました。処理落ちしてぶっ倒れそうです。
などと説明できるような余裕があるはずもなく、ハンターだからこその跳躍力でカゲロウから距離を取る。名前を呼ばれた気がしたが、今はちょっと、本当に無理。動揺を隠すこともなく一目散に自宅に向かって駆け、引戸を閉めて土間に転がり込んだ。
「行ってしまわれた……」
その場に残されたカゲロウの、落胆を含んだ声だけがぽつり……大変悲しげに、月明かりの夜空に吸い込まれていったことなど、知る由もない。
時刻が時刻だ。ルームサービスは夕食の作り置きと労いの手紙を置いて、住み処へ帰った後だった。それでよかった。今のこの状態、どうしたと訊かれて上手く言い訳をする自信がない。
転がり込んだ土間の冷たさで、少し冷静になれはしまいか。無理だ。だって今、今、なんだかすごいことを言われてしまった。今夜は疲れたし、さっさと飯を食って酒も飲んで寝てしまおうと思っていたが、とても飯を食える状態ではない。酒は……呑んでもいないのに酔っぱらっているみたいだ。頭がふわふわくらくらするし、鼓動は異様に速いし、身体も熱くて仕方ない。
「は……」
とにかく落ち着かねば、とガチガチに握りっぱなしだった拳をゆっくりと開く。開いたら、中から金塗りの貝殻が出てきて気絶しそうになった。よくもまあ、握り潰さなかったものだ。
「……っ、」
すん、と手の中の香の匂いを吸い込む。カゲロウがすぐ傍にいるかのようで、満たされるような、逃げてきてしまった後悔に苛まれるような───いやでも、逃げるなと言う方が無理だ。カゲロウの御札で顔が隠れていてよかった。「いけめん」らしい顔が見えていたら、多分言われた瞬間に心臓が止まって死んでいた。
とりあえず、いい加減落ち着こう。まずは家に上がろう。ルームサービスが作り置きしてくれた漬け物のさっぱりした香りが、今はありがたい。冷めてしまっているが茶を喉に流し込んでいると、だんだん鼓動が収まってきた。
もう、日が落ちて幾何か時が過ぎている。雑貨屋以外の店はとうに閉じていたし、通りにほとんど人影はなかった。里の夜は静かなもので、目を閉じて深呼吸を繰り返していると、僅かな風の音と虫の声、そして水車の回る音だけが聞こえる。いつもの、静かな夜だ。こうして瞑想していると、不思議と波立っていた心が凪いでくる……
「ニャンとフカシギ。謎の情報屋、ただいま参上……だニャ」
「うわあ」
……はずだったのになあ。せっかく落ち着きかけていた心臓が、さっきまでとは別の理由でバクバクと跳ねる。なんてことをしてくれた。
「ここで、すぺしゃるな情報を一つ……」
訊いていない。全くもって訊いていない。そもそもこのフカシギ、一体いつここにいて、いついないのか不明だ。日中はいることが多いが、もしや夜中もいるのだろうか。
「このカムラの里の『猛き炎』は……」
え、誰の情報だって? ちょっと待って、
「なんと…………雑貨屋のカゲロウ殿のことが好き~~~‼」
「~~~ッッッ‼ いやそんなこと知ってるからッ‼」
いつもは言いたいことだけ言って勝手に閉まるどんでん返しを、強制的に引っくり返してフカシギを自宅から追い出す。回転が速かったせいか壁の向こうからなんとも言えない叫び声が聞こえたが、こんなタイミングで出てくる方が悪い。次に来たら、板を打ち付けてどんでん返しできないようにしてやる。というか、すぺしゃるな情報を本人に言いにくるか、普通。
「知ってるんだよォ、そんなことは……」
見ない振りをしていたことだが、他人にこうして指摘されると、はっきりと自覚してしまう。
(俺は、……カゲロウさんが、好き)
どて、と囲炉裏の傍らに横になる。手の中にあるのは、自分にはもったいな過ぎるくらいの、あの人からの贈り物。ふわりと香るのは、あの人のにおい。これを身に着けて、里のためじゃなくあの人のために無事に帰ってきてくれって。考えれば考えるほど、とんでもないことを言われたのだとわかってくる。そして、そのとんでもないことに対して返事も何もせず、動揺して逃げてきてしまった。よく考えなくても、これって結構最低なのではないだろうか。
(返事……返事ってどうすんだ?)
答えなど決まっているのだが、脳味噌が茹だって馬鹿になっているせいか、全く考えがまとまらない。冷静になろうとすればするほど、顔も身体も、何もかもが熱くなってくる。
「ああぁ~~もぉ~~~……」
畳にだらしなく横になったまま、手の中の贈り物を見詰める。
今夜は、なかなか眠れそうにない。
◆
「起きてくださいニャ、起きてくださいニャ」
ゆさゆさ、ぺちぺち。
何やら身体を揺さぶられ、それでもなお目を開けずにいると、今度は頬をフニフニと柔らかいもので軽く叩かれた。
「こんなところで寝入ってはお風邪を召されますニャ」
なんだろうなあと、ほぼ寝ている頭の片隅で思う。そう言えば、瞼の外がやけに明るい。なんだか背中も痛い。というか、全身が寝違えたようにバキバキだ。
「んあ……? ぇ、あ……あれ?」
ようやっと目を開けると、ルームサービスがくりくりと真ん丸な目でこちらを見下ろしていた。おはようございます、と言われた気がしたが、もしかして今は朝なのか。それなら、ルームサービスがいるのも納得がいく。
「ふあ……おはよ」
「おはようございますニャ。こんなところでお休みになるなんて、昨夜はお疲れだったのですニャ」
こんなところ? そういえば目の前に囲炉裏があるし、下も畳で固くて痛い。枕は、いつも使っていないので別にいいが。
「俺、なんでこんなとこで寝てんだっけ……?」
昨日は確かに疲れていた。だからといって、深酒をしたかのように布団も敷かずに……身体の色んなところが痛いのはそのせいか。とりあえず、固まってしまった筋肉を解すために起き上がる。んー、と伸びをした時、何かを手の中に握り締めていることに気付いた。
金塗りの貝殻。一瞬にして、昨夜の出来事が甦る。夢のようでいて、だがこれが手の中にあるということは、紛うことなき現実である。
「………………ハッ‼」
「どうされましたニャ?」
「いやっ、これ……、これって、アッ、これっ……!」
「綺麗な貝殻ですニャァ」
贈り物かとルームサービスに問われ、寝起きなせいもあって思考が固まってしまう。当然、昨夜カゲロウから贈られた紅なのだが、まさか一晩中胸の前で握り締めて眠っていたのだろうか。握り潰したり押し潰したりしなくて本当によかった。が、我ながら執着心の強さに恐怖を覚えたりもするわけで。
「俺、どんだけあの人のこと好きなんだよ……」
「ニャんと! 想い人からの贈り物ですかニャ⁉︎」
「えっ、ちが、いや違わないけど、ええと」
「こんな素敵な香りの贈り物をするなんて、その御方は旦那様のことが大好きニャンですニャァ」
ルームサービスの言葉に、カッと顔が熱くなる。大好き。あの人が。自分を。
これはやはり、「そういう」意味合いで贈られたものだ。だとしたら昨夜、「○」とも「✕」とも言わぬまま逃げてしまったのは失礼だった。自分が同じことを想い人にされたら……きっと傷付く。
「……」
「何はともあれ、まずは朝御飯ですニャ」
「ん、ああ、そうだな。顔洗ってくる」
昨夜は動揺したまま横になり、食う物も食わず風呂にも入らず着の身着のまま寝入ってしまった。ルームサービスが作り置きしてくれた夕飯に手を付けなかったこと、謝っておかなければ。
あの後顔を洗い、風呂で汗や砂埃を落とした。土間に戻る頃には朝食の準備が整っており、昨夜食べなかった分を取り戻すかのように美味しく頂いた。
「では、こちらが今日のお昼御飯ですニャ」
「ん、今度はしっかり頂くよ」
ルームサービスから、笹の葉でくるんだ弁当を受け取る。中身は大きな握り飯だ。いつも通り、シンプルな塩結びが三つと、季節の野菜の漬け物だろう。
さて、今日はどうしようか。オトモ達には、特に今日はどうするという話をしなかった。念のために緊急の依頼が出ていないかは確認するとして、何もなければ薬の材料でも調達しにいこうか。
(……いや、それより)
集会所へ行くにせよ、ヒノエと話すにせよ、雑貨屋の前は避けて通れない。そして今、雑貨屋を、というよりあの人を避けて行くわけにはいかない。
もうすっかり慣れてしまった魔除けの化粧を、目元に。使ったのは、昨日贈られた紅だ。化粧筆に取り、肌に乗せる。最初は玉虫色の不思議な風合いだったが、徐々に鮮やかな紅色に変わった。昨日まで使っていたものとは紅の純度が違うらしく、目尻に細く控えめに引いただけでも存在感がある。ふわりと香るのは、もちろんあの人と同じ匂い。
金塗りの貝殻を合わせて、じっと見る。しばらくそうした後、傷ついたり割れたりしないように、清潔な布に丁寧に包んで腰のポーチに入れる。持ち歩くのもいかがなものかと思ったが、身につけておきたかった。
「旦那様」
具足の紐をしっかりと締め、よし、と一つ気合いを入れて立ち上がると、神妙な顔付きのルームサービスに呼ばれた。何か忘れ物でもあっただろうか。
「どうした?」
「旦那様。今日の旦那様は、里で一番……いや、世界で一番格好よく決まっておりますニャ」
「……うん、そうか。ありがとな」
「いってらっしゃいませ」
「おう、行ってくる」
ルームサービスに見送られ、自宅を出た。既に日は高く昇っており、早起きな里の住人たちは忙しなく働いている。自分の顔くらいある大きなお結びを店先に並べるセイハクと、野菜を洗っていたワカナに挨拶をし、加工屋のハモンたちにも軽く会釈をする。それから前を向くと、ニッコリ笑って手を振るヒノエと目が合った。全くもって、いつもの里の光景だ。
ということは、いつも通り雑貨屋も店を開いているわけで。見れば、カゲロウもまたいつも通り、傘をさして店先に立っていた。少し離れた所からその姿を見て、両手で自分の頬を軽く叩く。気合いを入れろ、気合いを。
「ッ、おはようございます、カゲロウさん」
「おや。おはようございます」
いらっしゃいませ、と落ち着いた声で言うカゲロウに、いつもと違った様子はない。相手は自分よりずっと大人、昨夜のことなど気にも留めていないのかもしれないと思うと足が竦む思いだったが、ぎゅっと拳を握って気合いを入れ直す。
「本日は大特価でございます。どのようなものが御入り用でしょう」
それにしても完全に通常運転だなオイ。それなのにこんなことを言い出してよいものか……いやいや、気合いを入れてきたばかりだろうに。
「あの、ええと、昨日のこれ、なんすけど」
我ながら、挙動不審が過ぎる。それでもなんとかポーチから金塗りの貝殻を取り出し、布を開いてカゲロウに見せる。
「その、えーと」
「はい」
「……アッ、返しに来たとかじゃなくて」
「ええ」
「昨日はびっくりしちまって、でも、う、嬉しく、て……ありがとう、ございます」
ああもう、脳内で何度も予行演習したのに。言いたいことの二割も言葉にできていない。
「セジ殿」
「……ハッ! はい⁉︎」
下を向きかけた視線が、名を呼ばれたことで上を向く。いつもの御札。いつものカゲロウ。こんなに動揺しているのは、自分だけ。余計に恥ずかしくなってきた。 また耳まで真っ赤になっていることだろう。
「……うむ、やはりよくお似合いですな」
え、と吐息のように零すと同時、カゲロウの指が目尻の辺りをそっと撫でた。
「貴方の肌色に、きっとお似合いだろうと思いまして」
受け入れて頂けたようで何よりです、と……瞬間、これ以上赤くならないだろうと思っていた顔に、更に血が集まる。待って、待ってくれ。もしやここで声をかけた時から、贈り物の紅を使っていることが分かっていたのか。それはつまり、答えは「○」だと最初から分かっていたということじゃないのか。いや、もしかしたらもっと早く、昨夜叫んで逃げたときから───下手をしたら、それよりもっともっと前から。嘘だろ、おい。
「~~~ッッ……!」
「あまりお顔を赤くされますと、紅が見えなくなりますぞ」
「そっ、そそそんなに赤くないですって流石に! ていうかもう! 全部最初から分かってるんじゃないすか‼」
「ふふ、貴方の可愛らしい顔が見られて何よりですな」
「なっ、ちょっ……! もう……っ!」
意地悪! と顔を真っ赤にして子供のように罵ると、カゲロウは申し訳ない、と全く申し訳なくなさそうに笑いながら言った。かと思えば、長い腕が腰に回る。
「ひぇっ、」
「ですがそれがし、昨夜貴方に逃げられた時は傷付いたのですよ?」
「そ、れは……すみません、突然でびっくりして……」
突然のつもりはなかったのですが、と、また御札の向こうで笑われる。もう、何を言っても勝てる気がしない。とりあえず落ち着け、と深呼吸するが、不意に取られた左手の甲に唇を落とされて、もう駄目だった。落ち着けるか。口は陸に打ち上げられたガライーバみたいにはくはくと動くだけで、言葉も声も出やしない。
「お前さんら、こんな往来のど真ん中で朝っぱらから何やってるニャ」
「…………ぜぜぜぜゼンチっ⁉︎ いつの間に⁉︎」
「ずっとおったニャ。ついでにみんなニヤニヤしながら見とるニャ」
そう言えば、カゲロウが「本日は大特価」と言っていたか。それよりも、みんな見とる、とは。何やら生暖かい視線を感じて周りを見れば、セイハクに目隠ししながら若いねぇと笑うワカナ、あらあらうふふと上品に微笑みつつどう見ても面白がっているヒノエ。どちらとも目を合わせていられず視線を走らせた先で、ハモンの咳払い。これはあれだ、孫には見せられんとか思われているやつだ。
「店番はワシがやっとくから、続きはそこらの旅籠でやってこいニャ」
はーやれやれ、と腰を叩くゼンチ。続き。これの続きとは。チラリとカゲロウを盗み見る。顔は相変わらず御札で分からないが、絶対に笑っている。
「続き、どうされますかな?」
極めつけにこんなことを訊かれ、空いた手で顔を覆って天を仰いだ。ちなみに左手はカゲロウに握られたままだ。
「そ、そんなこと訊かないで……」
「おやおや」
「それに、贈り物も、魔除けも、……あと色々、俺ばっかり特別なことしてもらい過ぎですって」
「ということは、いずれも好ましく感じて頂けたと」
「ぅ…………、はぃ」
誤魔化す気にもなれなかった。せめて跳ね回ってばかりいる心臓だけでも静かにさせようとまた深呼吸してみるが、腰に回っていた片腕が両腕になったことで徒労に終わる。
「では続きを、」
「まままぁっまって待って待ってください‼ 流石にいきなりそこまでは……‼」
「それがしがしたいだけですので、御気遣いなく」
「結構強引なんすね⁉︎」
とにかく、今すぐは駄目だ。色々と駄目だ。心の準備はできていないし、これから狩りに行こうと思っていたところだし、そもそも色恋沙汰に疎すぎてカゲロウが何をしようとしているのかもよくわかっていない。そして、よくわかっていないながらも、拙い想像通りのことだとしたら……やはり、いきなりは駄目だ。死んでしまう。
なんとかカゲロウに解放してもらい、深呼吸で今度こそ心臓を落ち着かせる。ふー、と長めに息を吐いて、吸って。想い人の前で呼吸をすることがこんなに難しいなんて、初めて知った。
「かっ、カゲロウさん、俺ッ、」
「はい、なんでしょう」
「俺、俺っ……手記の最後の一冊、探しに行ってきます‼」
行ってきます、きます……ます……───と、山びこが里の大通りに響き渡る。
「俺だって、カゲロウさんの喜ぶ顔が好きです。もっと見たいです。俺が貰うばっかりじゃなくて、カゲロウさんにも幸せになってもらいたいです。だからちゃんと、お返しさせて欲しい」
元はと言えば、カゲロウに喜んでもらいたかったが故、必死になって手記を集めていたのだ。そんなこと、カゲロウはきっと最初からお見通しだったのだろうけど。
「そんで、手記が全部揃ったら…………ッ、さっきの続き、ください」
言うと、今まで静まり返っていた周囲から歓声が上がった。何故かさっきより人が増えている。それでこそ男! と囃し立てられて振り返れば、籠を担いだツリキ。なんで今通った。他にも、おめでとう! なんて言われて、とんでもないことを言ってしまった自覚が出てくる。
「ふふ、今すぐにでも続きを差し上げてもよろしいのですが」
「う」
「しかし、貴方の御望みとあらば。それがし、いつまでもお待ちしましょう」
手記はあと一冊。広い狩り場の中で、あと一冊。見つかるのは、いつになるかわからない。だけど、いつか必ず。決意を籠めて頷けば、カゲロウは優しく笑った。
「ああ、そういえば」
「え、あ、はい?」
「それがし、一つ大切なことを伝え忘れておりました」
カゲロウの方から、スッと一歩近づいてくる。いつかと同じように傘で往来からの視線を遮ったかと思うと、指先でスルリと頬を撫でられた。そのまま擽るように耳に触れられ、ん、と声が洩れる。
「カゲロウさ、」
カゲロウが、少し身を屈める。耳元に唇を寄せられ、ぞわりと背中が震える。嫌、だったのではない。何か、感じたことのないもの。
「貴方のことを、心からお慕いしております」
この日。
カムラの里の『猛き炎』は、人生初の腰砕けを経験したのであった。