今回は活動報告というより、xでいか先生(@kokokokugo_97)がPodcastで「現代の国語」の「話すこと・聞くこと」の指導で「ビブリオバトル」を実践すると聞いたところから、自分の「話すこと・聞くこと」に関する認識や課題をまとめていこうと思う。
「話すこと・聞くこと」は高等学校でいかほどに指導がなされているのだろうか。例えば、今年度(2024)から赴任した勤務校は進学校で、教員は「話すこと・聞くこと」や「書くこと」よりも大学入試に直結する「読むこと」が重要視される。「書くこと」や小論文や記述問題などがあるため、まだ理解が得られるが、「話すこと・聞くこと」を実施できる雰囲気はまだ醸成されていない(自分が「現代の国語」を持ったら関係なく「話すこと・聞くこと」を実践すると思う)。
ひとまず、「話すこと・聞くこと」に関する備忘録をつけておきたい。
1.中学校との差別化、学校種を超えた系統性の確保
これは「話すこと・聞くこと」に限らないが、いかに今までの「話すこと・聞くこと」の学習と連関させていくか、同時に中学校との学習と差別化を図っていくかということである。例えば、勤務している自治体では中学校で弁論大会を実施している。時間内に説明的に話すこと自体は経験がある。その上で高等学校でどのような「話すこと・聞くこと」を展開していくのかが課題である。
昨年度は、「現代の国語」で「対比」をテーマに「読むこと」を実施したのち、「話すこと・聞くこと」でもレトリックとして「対比」を用いたスピーチを実施した。よく、自分の好きなもののスピーチはあるが、提示する資料の作成(指導事項で言えば、「話すこと・聞くこと」のウ)に力点を置き、パワーポイントで作成するスライドと話す言葉について学習していった。スライドはリメイクをしてもらったが、他者からのフィードバックだけでなく、外部から講師を呼び、情報伝達という意味でスライドをどのように作成するのか、良いスライドとは、悪いスライドとは、などを学習していった。
中学校の学習との差別化は、指導事項が異なっているため、自然と差別化が図られると思われるが、授業者が差異がある点に自覚的になっている必要があるだろう。最近実践報告をする機会に恵まれているが、自分自身、意識している点である。
ただ、「話すこと・聞くこと」は単発の学習になりやすいため、1年間の中でどのように発展させていくか、その見通しの確保が何より大切であろう。
2.指導事項について
「現代の国語」における「話すこと・聞くこと」の指導事項を見ると、ア「〜内容を検討すること」イ「〜話の構成や展開を工夫すること」ウ「〜表現を工夫すること」などとなっている。個人的な解釈になってしまうが、実際にうまく話せたかどうかというより、相手意識を持ち、より良くしようとする思考を育成するような位置付けなのではないかと考えている。ただ、これらの指導事項が達成されたか見とるタイミングや評価物の精査が難しい。今のところは二つで評価していくことは必須なような気がしている。1つは実際の発表の姿、もう1つは検討の過程や工夫の過程がわかる記録である。
前者に関しては、スピーチなどの独話形式であれば難しくないが、対話形式や議論形式では適わなくなってしまう。そうすると、発話の履歴をもとに考えていくしかないのかもしれない。後者については、発表の姿などだけになると、本人の特性によっては話せなくなってしまうことが考えられる。そもそも「現代の国語」は「内容を検討」しているかどうか、「話の構成や展開」、「表現」などを工夫しているかどうかが評価のポイントになっていくはずなので、実際に話せなくてもこれらのポイントが向上していればいいはずである。しかし、実際に話してみないとわからないことも多い。ということで、2つのもので見とっていくことが今のところの最適解だと考えている。ただ、授業デザインや年間指導の中の位置付けなどによって山場も見取りも異なっていくと思うので、現状はこのような形が理想なのでは?という程度で留めておく。
本当はもっと詳しく、他のこともつらつらと書きたかったが、入力するのが疲れてしまったので終わり。
8/14に國學院大學の国語教育研究会?ゼミ?の中で実践報告をするのですが、本当は「現代の国語」の「話すこと・聞くこと」におけるスライドリメイクから育む相手意識というテーマで行おうと考えていましたが、実践の新規性があまり見い出せず断念し、「読むこと」の実践報告としました。そんな状況の中でpodcastを聴いて、とりあえず形にしていこうという流れです。これ、打つの面倒ですが、話したら簡単なのでしょうね。とりあえず見直しもせずおーわり。
自分が大学院の修士課程に所属していたころ、研究室で「活動報告」というものがあった。院生が月に1度、見聞きしたことや経験したことを記入する、いわば研究室のブログのようなものだった。そこで、自分の研究の進捗状況や参加した学会の感想などを述べていた。院生が修了し、現職となってからも時折、活動報告を見て自分が励まされていた。ただ、今は研究室のHPが閉鎖してしまい、その時の記事は閲覧できなくなってしまった。その活動報告に代替できるものとして、備忘録的にこのサイトで記事を書いているが、頻度が低く、放置気味だったので、毎月何かしら形にしていこうと思う。過去の自分に励まされることは大いにあるだろう。
さて、先日、國學院大學国語教育研究会で「言語文化」の実践を報告した。「絵仏師良秀」(『宇治拾遺物語』)と同文話である「良秀の「よぢり不動」」(『十訓抄』)を比較するものである。詳細は省略するが、実践報告をしてみて良かったなと思うところの一つに、自分では気づかない点に価値を見出してもらえるということが挙げられる。かなり盛沢山でハードルが高い実践であると指摘をうける一方で、高校の最初の単元で学習者が見通しをもつという点でいえば、とても良い実践ではないかという意見ももらった。自分自身、高校の学びは中学校と違うんだぞ、内容は高度でもっと面白いんだぞ、ということを学習者に実感してもらいたくて考案した単元であったので、非常に励みになった。実践報告の準備は時間がかかるが、自己の実践の価値づけを自分自身がすることで見えてくるものや、学習者の成果物をゆっくり分析することで得られるものなど、学びが非常に多く存在するので今後も続けていきたい。次回は8月中に異なる実践を報告する予定なので、自分の実践に自分自身が価値を見出し、報告していこう。
あと、別件で最近よく思うのは、自分がやりたいことと周囲から求められることのギャップである。これは異動した人ならだれでも感じるかもしれないが、自分が熱量をそこまで注げない分野に自身の適性があって、周囲からもその分野への注力を期待されることがあるだろう。そこのギャップを2024年4月からはとても感じている。いろんなことを考えたが、現在の考えは、自分の人生一度きりなら、自分がやりたいことができる環境に身を置こう。である。自分にとっては一生で一度の30歳、その時間をもやもやしながら過ごすなんてもったいなさ過ぎる。環境を変えていこう。今の環境は数年経ると、大きく変わっていきそうな気がする。それも面白いと思われるが、それを待つ時間がもったいない。自らの道を切り開いていこう。
こんな感じで今月の活動報告は終わり。1か月1記事だとしても年間で12記事になるので、ひとまず2年間はためていきたい。ゆるくやっていきましょう。
今回は日本国語教育学会 高校部会にオンラインで参加しましたので、そちらの報告と日常の報告を兼ねて記しておきます。あまり学会や研究会の報告を記しておりませんでした。しかし、過去のブログ(Wordpress)がたまたま見つかったので、見てみると学会や研究会の報告が仔細に記されていて有益でしたので、久しぶりに報告しておこうという動きです。お付き合いください。
今回の実践報告は日本大学第一中学・高校の髙橋先生の高校1学年の「言語文化」の授業開きでした(恐らく「言語文化」だと思われますが、特に言及がなかったので、推測です)。
【実践の紹介】(資料の内容ママではありません)
科目:言語文化
対象:高等学校1学年
時期:高等学校1学年4月
単元の目標:同一原作の漫画二作品を比較することで、それぞれの作品の特徴を読み取り、解釈は多様であることを理解する
教材:①有川浩『図書館戦争』②ふる鳥弥生『図書館戦争 SPITFIRE』③弓きいろ『図書館戦争 LOVE&WAR』
※取り扱い場面は笠原郁と郁の教官である堂上篤が初めて一緒に任務を行う場面
単元の計画:(全1時間)
①『図書館戦争』の内容把握②原作と二次創作作品の関係性の把握③二次創作作品2種の内容の把握
④二次創作作品2種を比較し、違いを確認⑤二次創作作品2種の違いを確認する中で感じたことの交流
授業者の問題意識としては、学習指導要領では「読み手に既有の知識や経験によって解釈の多様性が生み出される」とあるが、目の前の学習者は「解釈とは唯一の正解があると考えている高校生は少なくない」、「『解釈とは多様なものである』と実感することができる指導を入学直後に行う必要がある」というところから本実践が実施された。先行研究としては、佐々木正樹(2014)、山元隆春(2014)、住田勝(2015)を挙げた。その上で「解釈が多様であることを学ぶ」ために、以下の指導法の条件を付した。
条件1.二つの解釈を比較して、それぞれの解釈の違いを読み取ることができる指導法
条件2.生徒自身で解釈を生み出さなくて良い指導法
以上の条件をもとに、すでに解釈が反映されているであろう二次創作作品、かつ二次創作作品が2種類以上ある作品ということで今回は『図書館戦争』が選出された。
実際の実践では、最初に原作の抜粋を渡し、その後に二次創作を配布して比較を図ったようである。比較した結果、生徒の感想には内容面か表現面に触れるような記述が多く見られ、一部内容面と表現面ともに触れている生徒もいたようである。
授業者は、解釈が多様であっても良いということを生徒が感じ取ってくれたというところで成果を述べていた。一方で、解釈はどこまで自由なのかと生徒が考えている場面もあったとのこと。
以上概略となるが、実践報告の大筋である。
質疑応答も含めて、雑感を記しておく。個人的に印象に残ったことは以下の3つである。
1.単元の位置付け
まず単元の位置づけである。発表者は本単元を「解釈とは多用なものである」と生徒が実感することをねらっていた。二次創作作品の比較から、解釈は固定的でなく種類が存在するということを生徒が認識するに至ったが、解釈が「多用」なものとまでは実感することは難しかったのではないか。そもそも一つの単元でそこまでの到達度は困難であろう。そのため、本単元を年間の中でどのように位置づけていくのか、また他の単元との結びつきをどのように考えるのかが重要である。
個人的には、本単元をもととするなら、そこから寓意性がある「良識派」や「山椒魚」などを扱っても面白いかもしれない。その教材を用いて、解釈の種類を学び、なぜ解釈の異なりが生まれてくるのかを分析することで解釈を固定的に考えない学習者像が育まれるかもしれない。
2.解釈と改変
質疑応答の中で指摘があったが、二次創作作品は解釈をもとに改変した作品ではないかという指摘がなされた。発表を聞いているの中で、「解釈したものを漫画で表現する」、これは純粋な解釈なのか?という疑問を抱えていたが、この指摘で整理された。まさしく、今回のものはコンテクストに影響を大きく受けた改変なのではないか。読者層や出版刊行物、その他の要因から脚色された作品ではないか。その作品を高等学校1年次に扱う価値については検討を重ねる必要があるだろう。
3.異なる解釈の誕生
解釈が多様であるとした場合に最も気になるのは、なぜその解釈になったのかという分析的な視点である。授業者がもつことはもちろん、生徒同士でも解釈誕生の背景に関心を向けることは重要であろう。また、それだけでなく、異なる解釈が誕生した場合に、その解釈を表現することが厭われない場の整備は欠かせない。見取り方法も含めて検討する余地がある。
研究会当日に入力しきれなかったため、入力の熱量が下がってしまい、メモ程度になっているが、ご愛嬌ということで。
研究会に出る1番の目的としては、自分が考えるためのヒントをもらうという立場かもしれない。時間をかけて発表や運営をしてくださっている方々に感謝を述べて、今回の記事を終わらせていただく。
1年ぶりの更新となってしまいました。この1年間はプライベートにも大きな変化があり、幸せかつ忙しい日々を過ごせています。
久々の記事で書くのは、進路指導に関することです。
現在、僕は進路指導部を務めています。学年の進路指導部を務めて4年目、2週目に入りました。
学年スタッフが変わると、様々なところで方法を更新していく必要があると日々感じています。
いま高校3年生は総合型選抜の出願や対策に追われていると思います。自分のところにも小論文や志望理由の添削が舞い込んできます。今日、偶然、進路指導部兼国語科の後輩と同じ空間で生徒対応をしていて、お互いが終了した後に、何か困っていることがあるかを聞いてみました。そうすると、
「塾の先生と一緒に準備してきたようなんですが、塾の先生の言葉になっていて、内容を尋ねても答えが返ってこないんです。」
と悩んでいました。進路指導の上ではあるある案件かと思います。
個人的には、入試形態や課題、書類の提出先(勤務校は校内にだす書類もある)によって求めるレベルを変えてもいいと思っています。つまり、注力箇所の精選です。
大学入試は、多くの人が1度しか経験しません。教員であるならば毎年の出来事ですが、生徒にとっては大一番です。
その時に、入試形態や日程などの全体像から何を注力すべきか考えることは教員に利があります。
今回の場合は、専門学校で出願したら合格する可能性が限りなく高い場所だったので、面接対策として記述したものの添削をしていくのはどうかという結論に至りました。
概要の概要みたいになっていますが、今日1番感じたことは、良かれと思うことを行なうことがすべてではないし、努力の方向性を確認できる組織でありたいということです。
他の人が指導しているときに一緒にいられる機会は少ないですが、困り感を共有しながら同僚と一緒に進める空間なんて素敵ですよね。
本日は第143回全国大学国語教育学会千葉大会の方に参加してきました。約3年ぶりの対面実施の学会というところで参加人数はざっと見たところ、今までよりも少ないように感じたもののオンラインでは味わえなかった、学ぶ雰囲気が感じられた初日でした。
部活動等の関係で初日は午前中のみしか参加できなかったのですが特に興味深かった報告をここには記しておこうと思います。今回は岡山理科大学の井浪真吾先生と岡山大学の池田先生の共同研究、「戦後国語教科書における古典教材の中の「説話」」について紹介したいと思います。この調査報告は戦後国語教科書内の説話、その中でも『宇治拾遺物語』の再録状況を確認し報告したものとなっています。お二方が戦後の国語教科書の中から『宇治拾遺物語』が実際にどの程度、どの種類の話が採録されていたか、分析をしながらの報告でした。
実際に古文教材が含まれている教科書1323冊を調べたところ、『宇治拾遺物語』が採録されていた教科書は438冊となっていました。今回特に驚いた点は、『宇治拾遺物語』の中で1度でも採録されたことのある章段は58話にも上るということです。今までは『宇治拾遺物語』の章段がこれほどまでに幅広く教科書に採録されていると思っていませんでしたので、かなり衝撃を受けました。
詳細を述べすぎると報告者の方に迷惑になってしまいますので結果の概要のみにしようと思いますが、やはり『宇治拾遺物語』だからという点で教材化されているわけではなく、説話教材の中の1つというくくられ方をしているようです。そして展望としては『宇治拾遺物語』の文学研究の成果を教材の方でも反映させることはできないのかというところで問題意識を挙げておりました。この点に関しては非常に賛同しています。ほかの古典作品は作品自体に価値があると認識された上で教材化がなされているように思います。ほかの同ジャンルの作品ではなくその作品だから良いという教材化の方向性です。それを『宇治拾遺物語』でも同様にしていきたいと私自身も思っています。実際質疑応答の中で、「連想の糸のように文学研究の成果を教材化の中で行おうとすると、入門期ではない方が適切なのではないか」という質問を行なわせていただいたところ、理由を丁寧に述べられたうえで「賛同します」とお答えいただきました。
説話に関しては研究があまり盛んではないため、自分自身の問題意識とかぶり、なおかつ自分よりも先に進んでいる方と考えが少し共有できたというところが非常にうれしく思いました。その中で入門期ではない『宇治拾遺物語』の学習指導のあり方として実践報告を行われているそうなのでそちらを参照したいと思います。
会終了後に直接お話ししたかったところですがお会いできなかったので明日どこかでお会いしたいなと思っています。
この調査報告を直接聞けて、その場で質問できた対面式を実施してくださった運営の方には感謝の想いでいっぱいです。
対面では、遠方からの参加が難しいですが、何かを得るには何かを捨てなければいけないので、そのあたりが難しい点だなと思いました。
最近全く記録しておりませんでしたので、久々に書き溜めようかと思います。やはり、何かあったときに見返せると頑張れるのでまた時折書いていこうと思います。
さて、授業デザインについて少し書いておこうと思います。
授業デザインってよく「逆向き設計」ですると良いといいますよね。基本は僕自身もそういうように考えています。到着地点を決めてから進めていくという流れは機械的ですが、見通しをもって学習活動を臨める点では優位性があると思います。
ただ、僕が以前赤坂中に授業見学に伺った際に、甲斐利恵子先生(現:軽井沢風越学園)は、自分が授業で必要、したいことをしていく、そのために理論武装をするのよとおっしゃっておりました。語弊があると思いますが、これは学習活動などをメインに据えた授業デザインの在り方の可能性かと思います。つまり、指導/学習目標から授業デザインするあり方と、学習活動から授業デザインするあり方どちらもあるということです。
何をあたりまえのことを言ってるのかと思う方もいるかもしれませんが、これは非常に重要なことなのです。
授業者が目の前の生徒のことを思って、考えている授業だという可能性が高いです(捉え方によってはそうではないように思われる場合もありますが、授業者の視点でいえば、生徒のためになる場合が多いかと思います)。そこで重要となるのが、なぜそれを行なうのかという価値づけ、説明の部分です。
ある実践で漢文を白文で読むという実践がありました。授業者の意図としては、漢文を読めるようになるために行なうという価値づけです。これで学習者は心から学習に臨めるでしょうか。僕であれば普通にしんどいです。漢文読めなくてもと思います。
別視点で見ると入試漢文の対策としてはばっちりです。語順を理解し、中国と日本のことばによる差異なんかも明確になります。そういう意味で一定の価値があるのだと思いますが、授業者がうまく説明できなければその学習活動は良い学習活動にはなりえないでしょう。
先日、僕の授業終わりに、生徒が一人よってきて、教科書のこの文章を授業で扱おうと考えたのは先生ですか?と聞かれました。最初はなぜそんなことを聞くのかわかりませんでしたが、そうだよ、と返事をしたところ、やっぱりと満足した顔をしていました。
扱った文章は「リスク社会としての現代」。高校3年生の最初に扱った文章です。進路など「選択」することが多くなるので内容的にも読んで考えてほしいと思い、最初の題材としました(もちろんほかの理由もあります)。その文章の内容と授業で「選択すること」について話したことから、僕がこの文章を設定したに違いないと感じてくれたようです。
授業の意図は説明できればいいと思っておりましたが、生徒を取り巻く環境と授業が絡んだ時、生徒は学習する価値を見出すということを感じました。もちろん、そこまで認識しない生徒の方が多いと思います。しかし、この一件で、国語以外の学校状況を踏まえて指導計画を立てる必要があるのだと感じました。
最後になりますが、まずは授業者がしっかりと意図をもって授業デザインすることが重要だということは誰でもお分かりになるかと思います。個人としては学校全体や生徒の環境を踏まえて授業デザインする必要性を感じました。
大人がしっかり考えて取り組んだものに対しては生徒も敏感かと思います。しっかり仕事しなくてはなりませんね。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。巷では緊急事態宣言や蔓延防止などコロナウイルス感染症によって従来の学校行事のみならず、学習指導までもが形態を変えざるを得ない状況となっています。10/1には全国一括で緊急事態宣言や蔓延防止などが解除されるようです。現場の努力と生徒の我慢で学校教育はどうにか保っているような気がします。学校教育に関わるすべての方に慰労と感謝の念を伝えたいですね。
さて、「HB」に関してですが、これは本校の授業様式の名称です。ちなみに僕はハイボールよりもジンジャーハイボールが好きです。実は「HB」というのは「ハイブリッド授業」の略称です。こやつは学級の半分は登校し、残る半分は自宅でオンライン授業に参加するという様式です。夏休み明けから、完全オンライン授業から、ハイブリッド授業まで幅広く実施してきました。直近では6時間すべてハイブリッド授業でしたが、夏休み明けから様々行っていることもあって現場の教員からの反発は一切ありませんでした(こんな反発が起きない職場は全国でも少ないのかなと思っています)。その中で感じたことなど記しておきたいと思います。ハイ、前置きの長さですね。
色々考えた中でも2つは共有しておきたいと思います。
1.授業方法の可能性
何よりもこれですね。オンライン授業やハイブリッド授業ということもあって、どのような形の授業形態が生徒にとって有益なのか考えていたわけです。今まではパワポやPDFを先に配信しておき、授業では投影したパワポか事前配布した資料を各自が閲覧するという形で進めていましたが、事前配信を一切やめて、代わりにパワポにApple Pencilで書き込みながら、チャット機能を使って大多数が表現する展開にしていきました。他の教員はチャット機能を使った授業をしていなかったので、生徒からは新鮮だったようです。他のクラスの担任が生徒に、よかった授業を教えてくださいのようなアンケートを取ったら、そのクラスの34%が僕の授業を紹介してくれていて、よかったです。個人的な裏テーマはチャットでわからないということを表現できる空間にするということでした。ただでさえ、ネットという不安な環境ですが、少しでも安心できる授業空間にしたかったので、とにかくわからないということをチャットに入力することを推奨していました。生徒の振り返りで安心して受けられた、なぜかコメントする気になれたなどの言葉をもらい、非常に嬉しかったです。
このように、普段だからできない授業方法を試すことができ、生徒も違う環境を楽しめたようでした。
2.教員の可能性
個人的なところでは上記のものですが、オンライン授業で、ツールにこだわって模索する教員が多くいました。主にiPadの画面を共有しながら授業していくことに関して、僕自身が非常に多く質問され、iPadの活用方法を共有する日々でした。ちなみにiPadは公費ではなく私費で揃えているものです。しかし、これを機に購入した方も数名いました。
私費を注いで授業することに嫌悪感を示す方もいるでしょう。この働き方が正解とは思っていませんが、生徒のより良い学びを提供するために、何ができるのか、何を揃えるともっと良くなるのか、といった生徒のために何ができるか考える方が非常に多くおりました。僕自身まだ3年目なので、偉そうなことを言うことはできませんが、教員の大きな可能性を体感しました。中には、対面が始まってもこの形式で授業しようかなと、iPad活用前提で授業構想する方も出てきたほどです。この状況の中で、どう動くか考えて行動する力を持つ方の多さを目の当たりにした、貴重な期間だったと思います。
本当に大変な毎日であるはずなのに、熱量を持って生徒のために行動する方が多くいたので、まだまだ教育の世界も明るいなと思ったわけです。SNSを見ると、批判的に表現する方が数多くいます。それはそれで大切ですが、現場でどれほど動いているのか、その一言に尽きると思っています。僕もどれほどできているかわかりませんが、口だけにならず、ずっと前線で動いて行きたいと思っています。目指すところは「ウマに言われたらしょうがないなぁ、協力するよ」というような関係性を多くの方と取れるような人間です。さて、そんな人間になれるか、今後も邁進していきます。長い分掌読んでいただいてありがとうございました。明日は模試です。進路指導部なので、運営です。ぼちぼち頑張ります。
本タイトルは夏期講習の時に用いる自作テキストの名前です。勤務先では夏休みに希望教員が決められた期間に夏期講習を実施することができます。ウマは夏季休暇は授業準備・修学旅行・探究学習・進路指導を先回りしておきたかったので、夏期講習実施を見送る予定でした。
そんなことを考えていたところ、同学年スタッフの方が高2対象の古文の講習会を実施。到達度が低い学習者対象な会に、到達度が高い学習者が一定数きてしまったので到達度が高い学習者用の講習会を急遽ウマが担当することに。
ただ、問題は夏期講習のコマが3時間ということなんですね。今まで3時間の夏期講習なんて経験したことがないわけで。時間配分とかもわからないわけです。とりあえずいろんな古文の文章でこんなところみるといいのではという展開にしていくつもりです。初日は教科書の文章をベースにした自作テキストを使うとして、2日目はどうするか。非常に悩ましいところです。今のところは大学入試問題をいくつか参考にして出題していくという感じでしょうか。そうすることで、入試だとこういう問題が出るんだと自覚的になりそうですからね。ともかく、安請負いをするのは良くないなと思った今日この頃でした。頑張りすぎですね。
自作テキストも試案載せておきますが、うまく変換されていないところもありますがご愛嬌ということで。
ウマはハンドボール部の顧問(未経験)をしているのですが、そこには1人のマネージャーがいます。
昨年、コロナウイルスで代の引き継ぎがうまくいかったことや保護者が試合を観戦できなくなったことなどから、Google Siteや動画を作成して広報活動をするようになりました。今までのマネージャーは選手の直接的なサポートでしたが、今ではこの広報活動の運営を担ってくれています。
本人からは、もともと小学校教諭を目指していたけれど、ウマとPCをいじるようになってから、デザインするのが楽しくなってきた。今では広告会社で働いてみたいんですと言うようなマネージャーです。何気ない行動が人の生き方に影響しているんだなと強く感じたのですが、それは置いておきます。
そのマネージャーと授業について話しており、今度からウマの授業はもっと進化するよ、パワポとかを自分でカスタマイズできるようにしていくよと伝えたら、マネージャーは大喜び。理由を尋ねると、授業の中でこの授業で大切なことと、生きる上で大切なことがあると捉えているようで、それをパワポ上で整理できたら本当に嬉しいんです。と言っていました。
マネージャーはPCが好きなので、肯定的な反応だっただけかもしれませんが、やはり、自分が学びをカスタマイズするということを試してみたいと強く感じました。
実は教員である自分が生徒の可能性を閉じていたのかもしれません。何より、力不足で生徒の認知特性や発達特性はなかなか踏まえきれません。さまざまな方法から生徒自身が最適な方法を選べるように配慮、デザインすることが大事なのではないでしょうか。次の単元からはその一歩として進んでいきます。
今週はテスト期間となっています。こんばんは、ウマです。
今日少し早く帰れたので、19時ごろ退勤したのですが、30代中盤の先輩国語教員と校門で立ち話をしました。その中で先輩教員から出てきた話題について紹介します。
先輩教員「最近のうちの若い教員で国語が好きな人が少なくて不安になる」
ウマ自身も若いですが、先輩教員はウマと年齢が近い、若い教員が「国語」好きなのかわからない場面が多々あるようです。
それは国語に関する話、教材論であるとか、指導法であるとかについて教えることはあっても議論したりできる教員が少なくなってきたと実感しているところからでした。
いろんな人がいていいと思うが、高校ではもう少し、熱いおもいの教員がいてもいいのになぁとぼやいていました。
学会や研究会は自分の知見こそ広げられますが、学校を変える力まではありません。どう波及させていくかが要ですが、公立だと結局異動してしまうしなぁとも思うわけで。校内でどういうネットワークを作るかが大切ですね。
本日初めて活動報告を残します。公開するか分かりませんが、関東圏の公立高校に勤務している者です。ウマと呼んでもらえたらと思います。
少し自己紹介していきます。この時点で公開を前提にしていることがわかってしまいましたね。僕は修士卒3年目の国語科教員です。修士在学時に残しておいた研究会サイトの活動記録を見返したときに、何か文章を一覧化して残しておく、そんなプラットホームがあったらいいなと思い、Google Siteを開設しました。ぜひご笑覧ください。
本日は弊校の希望研修、特別支援教育コーディネーター研修に参加してまいりました。本日は早稲田大学大学院の髙橋あつ子教授講師のもと、教育相談に関する研修でした。若いうちに様々な資格をとっておきたかったことと、現場には多様な学習者がいますので全ての学習者にとって学びやすい空間をどのようにデザインすればいいのか、知見が欲しいという理由で参加しています。
何よりも、研修室に1番乗りでしたが、最前列に座ったことで、教授と会話することができ、関心を持っていただきました。開会後は教育相談の概括や基本知識、具体的な方法など学びました。そこまででも有意義でしたが、普段の実践について質問したところ、様々なヒントをいただきました。僕は普段パワーポイントで学習指導をしています。その中で、
①学習記録はノート・PCなど学習者が自由に選択
②投影されたパワーポイントで同期的に授業に参加するか事前に配布しているPDFで授業に参加するかは学習者が自由に選択
ということを行なっています。ただ、学習者から板書でもいい内容は板書にしてほしいと声が上がりました。そのことについて教授に聞いたところ、学習者が学び方を選択できていないという言葉と具体的な方策を様々ご教示いただきました。その中で印象に残ったことを紹介します。
【学習者が学びをデザインする】
まず紹介された動画がこちら。
この動画はざっくりいうと支援の必要な学習者がツールによって学ぶエネルギーを消費したい方向に向けられるようになったというもの。これは非常に考えさせられました。現在のICT活用でも、教具ではなくて文具利用と言われていることの根本的な理由がここに現れていると思います。
教員ができないから、苦手だからといって、可能性を模索しないことは怠慢ではないかとさえ思ってしまいます。生徒の学びのために何をできるか考えさせられました。
先の実践にも当てはめたときに、僕の使い方はまだ教具です。ICTを使うことが目的ではないです。そこにあるのは生徒が様々な学び方を選べるようにするということです。そこでパワーポイントを生徒にカスタマイズさせた方がいいのではにかという話が出てきました。色覚、フォント、アニメーション、40人の内で何人が今のパワーポイントに満足しているのか。生徒が学びをカスタマイズすることを提案していただきました。昨年はパワポを配信しましたが、学習者はダウンロードではなくGoogle classroomで閲覧するのみでした。そのため画角が崩壊しないPDFで配信しましたが、カスタマイズする意義を語らなかったためにダウンロードがなされなかったのだと思います。
その関連で「継次処理」「同時処理」という観点をご教示くださいました。人は認知方法として、段階的提示か同時的提示どちらが優位なのかということです。これによって、どのようにパワーポイント、PDFを閲覧するか変わってきます。学習者にアンケートをとり、そこから学びの自己調整という観点で生徒の学びを見とっていきたいと思います。12月に研究会で研究会で発表する機会があるので、この観点で発表してみようと思います。かなりはしょりながら綴っているので分かりにくいこともあるかと思いますが、ご愛嬌ということでお付き合いください。