ニア-ミス/切ない恋の終わらせ方
【あらすじ】
そしかい後、両片思いのまま、想いを告げることなく日米へと離れた赤安。
ある時、休暇で家族に会いに東京を訪れた赤井は、東京国際空港で潜入任務中の降谷の姿を見つけた。
外国人旅行者の手助けをしていた降谷のサポートをした赤井に、降谷は頼みがあるという。
滞在予定は1週間。
仮初めの恋人は務まるのか─。
12/19(月)
12/19(月) Afternoon @Airport
久しぶりに訪れた東京国際空港で不意に聴こえてきたそれは、聞き間違いなんかじゃない、忘れることのない彼の声だった。
周囲の迷惑顔などお構いなしに赤井は足を止め、声が聴こえた方を振り返る。空港への乗り入れ線から降りた人々は、スーツケースを持った人は案内看板を見上げながら、そうでない人は足早に、改札を抜けて行く。
そんな人混みが途切れた地下コンコースには、残念ながら探し人の姿はなかった。
聞き間違い? 空耳?
そんなにも想い焦がれているのか、と自嘲して元の進行方向へと向き直った時、また聞こえた。
『……と来たの? おかあさんは?』
間違いない、ともう一度視線を向けた先に、探し人の姿はない、いや、居る。
スーツ姿の男性が、子供を前にしてしゃがんでいる。背を向けてはいるが、背格好は覚えのあるもの。目に焼き付いている。見間違えるはずがない。ただ、黒髪なのが記憶とは異なる。
近づくと、
「迷子、だよなぁ、どっちだろう……」
左右に視線を送った横顔はまごうことなき、彼、降谷のものだった。
彼の傍らでしゃくりあげている男の子は金髪。ゲルマン民族っぽい。まだ就学前か。
『Hallå Vad är fel?』(こんにちは。どうした?)
『Förstår du?!』(わかるの?)
俯いてべそをかいていた頭が勢いよく赤井を振り返った。
隣にいたスーツ姿の降谷も振り返り、途端に顔をしかめる。でもそっちは後回し。
『俺はアカイだ。きみの名前は?』
『……カール』
『おかあさんかおとうさんと来たのか?』
『おとうさんと』
『そうか、じゃあカール、係の人におとうさんを探してもらおう。抱き上げてもいいか?』
『え?』
知らない人に身体を触られるのはためらわれるだろう。子供だからこそ聞くのは礼儀だ。
『高いところからの方が、探しやすいかもしれないぞ』
『うん』
20㎏ほどの身体をひょいと片腕で抱き上げて、傍らで憮然としていた降谷に話しかける。
「案内所とかは近いのか?」
「あ、あぁ、あっちです」
案内する彼に並んで歩き出す。
「何語なんですか」
「スゥェーデン語だ。『旅行で来たのか?』」
『うん。……あ! おとうさん!』
その声に、進行方向の案内所で係員と話していた男性が振り返った。
◇
「ありがとうございました」
礼儀を尽くしているようで、声音に不本意さをにじませるのは忘れない。相も変わらず器用なものだ。
「で、なんで国内線に?」
「あぁ、さっき着いたところだ。ジョディから菓子を買ってこいと言われてな」
「菓子」
ちらりと横目で見られて、次は何を言われるかとおもったところで、
「高橋くん!」
「あ、課長」
歩み寄ってくるスーツ姿の男性、降谷の胸元の身分証と同じデザインのものを着けているあたりで、察する。
今の降谷は「高橋」で、この辺りに潜入先があり、この男は潜入先の同僚か。
「急にいなくなるから」
「迷子がいたので、その先の案内所に連れていってたんです」
「そうだったのか。御苦労さん。……こちらは?」
「あぁ、外国人のお子さんだったんで、通訳してくださった方です」
「それはそれは」
言いながら伺うような視線に、なんとなく違和感を感じる。なんだ? 探られるような覚えはないが。
「課長、迷子の通訳の御礼に、この方の案内もちょっとしてきていいですか、買い物の場所に迷われていたようなので」
「分かった、じゃあ先に戻ってるから、あまり遅くならないように」
「はい」
降谷はにっこりと笑って、課長から見えない位置で赤井の服を引っ張る。
そうして課長からはすっかり死角になったあたりで、ふっと息をついた。
「で、ジョディさんのお使いは何なんです? 御礼に案内しますよ」
記憶にある菓子名を告げると、
「うわっ、2タミじゃないか、反対側だよ」
ぶつぶつ言いながら、さっさと歩きだす。
「違ったか」
「違いますね。ここは第1ターミナル、お探しのお菓子は特設スペースで第2ターミナルで売っているんです。片道でも5分以上かかるので、急ぎますよ」
と言いながら、さっき来た地下の私鉄方面へ歩き始める。
「1タミと2タミの間には地下の連絡通路にムービングウォークがあるので、そこを行きます」
早い。
元々歩くのが早いのはお互い様だが、それにしても早足だ。勤務中だからだろうか。
「あー、勤務中だろう、大体の場所が分かれば一人で行くが」
降谷は赤井をちらりと見て、また前に向き直る。
「……口で説明するより、連れてった方が早い」
「そうか」
まぁ案内はありがたいが、この早足では汗をかきそうだ。
そう言えば、ますますムッとした顔で、速度が上がった。なんでこうなった。もくもくと進む降谷の背を見つめながら、こちらも大股でついていった。
◇
「買えました?」
「あぁ、これで良いと思う」
手にした紙袋をひょいと見せると、降谷の目元がちょっと緩んだ。
「それ、僕も食べましたけど美味しいですよ。あちらに持って帰るんですよね、大丈夫だとは思うけど、早めに食べてって伝えてください」
「分かった」
「どうせ書類仕事を押し付けたお詫びに、とかって言い遣ったんでしょう?」
「よく分かったな」
「いまさらですよ」
ふふんとちょっと自慢げになる。機嫌は上向いてきたらしい。
「助かったよ、迷わずにすんだ」
これは本当だ。たくさんあるエスカレーターやエレベーターの中から、最短ルートをチョイスしてくれたのは分かる。
「本当にそう思ってます?」
「あぁ」
「だったら」
だったら?
「ちょっと頼まれごとを引き受けてくれませんか?」
思ってもみなかったことに、ちょっと言葉が出なかった。
君が? 俺に? 頼みごと?
黙ってしまった赤井に、あわてたように降谷は続ける。
「そんなに大したことじゃないです、あなたに迷惑かけることはないと思いますし」
「まずは、内容を聞いても?」
そう聞いても、視線を合わせないまま言葉を綴る。
「あー、ちょっとここでは説明しづらいので、場所を変えて……、今晩は空いてますか」
「あぁ」
「じゃあ、後で連絡入れとくんで」
と踵を帰して離れていってしまった。あっと言う間に人ごみにまぎれて姿が消える。
連絡、ね。
電源を切ったままだったスマホのスイッチを入れた。
12/19(月) Night @Gotanda
カラカラン、とカウベルを鳴らしてドアが開く。
それを背後で聞きながらグラスをあおると、カウンターの隣席に待ち人が座った。
昼とは打って変わって、持ち前の金髪に碧眼の姿。
「やぁ、久しぶりだな」
「なに言ってるんですか」
からかいを受け流して、赤井の手元を覗き込み、同じものをとバーテンダーに注文する。
「で? 秀吉さんのご結婚、決まりましたか」
「よく分かったな」
「分からいでか」
誉めたのにむっとした顔をされる。この程度で、ということだろうか。
「いつまで居るんですか」
「今度の日曜に帰る予定だ」
「ふぅん……」
手の中のグラスを揺らして、カラカラと氷を鳴らす。
思えば、降谷と一対一で飲むのは初めてかもしれない。バーボンとはある。ライは寡黙な男だったから、ほとんど話は弾まなかったが。あの頃に比べれば、今はもう少し気を楽にして話せていると思いたい。
当たり障りのない話をぽつりぽつりと続けて、ふ、と間が空いた。
「あの、ですね」
「うん」
「あー……」
何度か口の中で言葉をころがしている風にしてから、ようやく顔を上げ、降谷はにっこりと笑った。
「ぼくと付き合ってもらえませんか」
「……」
「……」
その笑みは、バーボンのものだ。ということは本心ではないということか。
「どこに、と聞くのと、なぜ、と聞くののどちらが正解かな」
「やなやつ」
ちっと舌打ちして、座っていたスツールに蹴りが入れられる。
「あー、訳あって、恋人役をしてくれる人がいないかなと思ってたとこなんです」
「恋人、役」
「そう」
「あいつか」
空港での上司とやらの視線を思い出す。
「気づいてるなら話が早い。やんわりかわしてるんですけどね、ちょっと面倒な人で」
「そうか。分かった」
「え、分かったって」
「仕事だろ、聞かないさ、一週間であっちに帰るなら後腐れがなくて良い、というところか、白羽の矢が立ったのは」
「いや、そうなんですけど」
すべて見通されるのも面白くないということか。
かすかに口を尖らせる仕草を横目で見ながら、ふっと笑う。
「なんだよ」
余計に機嫌を悪くさせてしまったか。
表情豊かな降谷に、なんだか楽しい気分になってくる。
きみが表情豊かなのは知ってはいたが、それが赤井に向けられることはなかった。一番多かったのはスコッチ、そして公安の部下たち相手か。
ずっと見ていたからな、知ってはいたが。
組織を壊滅させ、後処理に奔走して、降谷とは特に親交を深めることなく米国へと帰還した。なにかもの言いたげな視線を感じることもあったが、個人的に話すことはなかった。
降谷への特別な想いは、赤井の中で形を成してからすぐに受け入れられたが、なかなかに複雑な経緯がある彼との間柄だ、それを白日の下に晒すのは必ずしも正解だとは思えず、身の内深くに納めていた。
それでいいと思っていたが。
「いいよ」
「……いいのか」
「あぁ」
2つのグラスが同時に、カラン、と音を立てた。
日本へ戻ることになっても降谷へ想いを告げるつもりはなかったが、期せずして想い人と会えたのは嬉しかった。縁があればまた会える、なければそれまで、と日本を離れた日には、こんな風に肩を並べて飲める日がくるとは思わなかった。降谷がいることにこんなにも心浮き立つとは思わなかった。
「きみの依頼を引き受けよう」
「あの、でも御礼とかは……」
「うん、そうだな、じゃあ一つだけ条件をつけさせて欲しい」
「え、条件」
「あぁ」
少し早いクリスマスプレゼントをもらった気分だ。
「引き受けるからには、いい加減なことはしたくない」
「……」
「今から一週間、君と俺は恋人だ。いいかな」
「……え?」
きょとん、と降谷の瞳が丸くなる。
あぁ、かわいいな。
しばらく固まっていた表情筋が、かすかに溶けたかと思えば、バーの暗めの照明でもわかるくらいに朱がのぼった。
「え、えっ、なんで」
「よろしく、恋人さん」
身を乗り出して、頬にキス。
拳が飛んでくるかと身構えたが、そのまま硬直してしまった降谷に、内心焦ったのは想定外だった。
12/20(火)
12/20(火) Morning @Home
ふ、と目が覚めた。あれ、寝てたのか。見慣れた降谷宅の天井模様が視界に映っている。
「・・・!」
がばっとスマホを手にして起動、
「ゔあ゙……」
そこにある画面は夢じゃなかった。
「あああ……」
ぎりぎりとスマホを握りしめて、あわてて力を抜く。
昨夜の記憶は、優秀な海馬がきちんと保存していた。
うっかり魔が差したとか、つい出来心を起こしたとか、思わず欲が出たとか。
空港で声を聴いた時から、きっとタガが外れていたんだ。あの、忘れることのなかったバリトンボイスが聴こえた時から。
「ゔー……」
スマホのSNS画面には、赤井からのメッセージ。
『無事家に着いただろうか。今日は嬉しかったよ、ありがとう。明日のランチは空港に行くから一緒に食べよう。良い夢を。おやすみ。』
なんだなんだなんなんだこの甘い文面は。
誰かのスマホを間違えて持って帰ったかとも思ったが、見直せば確かに自分のもの。誰か他人へのメッセージを誤送信されたかとも思ったが、文面に記憶との齟齬はない。
「なんで」
こうなった。
頭を抱えて枕にぽすんと突っ伏した。
妄想したことがないとは言わない。赤井から、こんなメールがもらえたら嬉しいだろうな、と。ポアロで女子高生たちの会話を聞きながら、赤井も恋人には甘いメールを送るのだろうか、いやいや、そんなタマじゃないか。でもあいつ、あの組織にいても浮かないくらいポエムの才能あったからなぁ。そんな妄想をしながらグラスを拭いていたこともある。
だって降谷は、もうかなり前から赤井への「特別な想い」を自覚していたので。
先生といい赤井といい、どうしてこう僕は叶わない相手に想いを寄せてしまうんだろう。
でもだからって、赤井への感情が「なにか」だなんて突き詰めようとは思わなかったし、自分にとっては「特別」でも、赤井にとってはそうじゃない、と思う。
だから、この想いは大事に大事に胸の奥底にしまって、時々そっと取り出して切なくなる……くらいが自分には丁度いい、なんて思っていたのに。
「あああ……」
顔と言わず、頭も首も、なんなら足の先まで真っ赤になって暑くて汗が噴き出そうだ。
昨夜もメールを受信してから、のたうち回って七転八倒して、ご近所迷惑にならない程度に唸って身悶えしているうちに寝落ちたらしい。
でも。
「……これ」
保存しといてもいいよな、バレないよな。
大事にしよう。
きゅ、と胸元でスマホを抱きしめて、そんな自分にじたばたと暴れる。
見なかったふりをしていた想いは、消えた訳じゃなく心の奥底で滓となっていたのが分かった、よ-く分かったので、消化もとい昇華させるにはどうしたら良いものか。ちょっとだけ叶えさせてあげたら、この切ない痛みも解消するかな、するといいな。
昨夜から無体な扱いを受け続けている降谷の枕は、夜が明けても待遇改善されることはなかった。
12/20(火) LunchTime @Airport
げ。
つい反射的に癖で顔をしかめてから、いやいやマズいと慌てて表情筋をコントロールする。
ランチのお誘いは赤井から言い出してくれたことではあるけれど、空港内で「高橋くん」である降谷が誰かと親しげにしていることを見せるのが、初期設定のプロジェクト?の目的だ。(いや、真の目的は臨時上司への牽制だけれど。)
その上司から誘われたランチには、昨日の人と食べるので、と断りを入れてきた。初対面かと思ったら実は大学時代の同期で、との設定付きだ。
待合せは第2ターミナルのクリスマスツリー前。
まぁ季節柄だよね、目立つしな、と足を向けると、案の定。
「……なにやってるんです」
「いや、紹介しよう、恐竜博士くんだ」
雪モチーフのスタイリッシュなクリスマスツリー、傍らのベンチにはサンタクロース姿のいかつい恐竜が座っている。
その隣に腰かけた赤井は、恐竜と肩を組んでご機嫌な様子。見事に周囲の視線を集めている。
お前、まだ昨夜の酒が抜けてないのか。
「……酔ってます?」
「いや? あぁ君とのランチが楽しみでね」
ふ、と目元が緩んだ表情に、言い返そうとした言葉が出てこなかった。
なんで、こいつは。
半年前に合同捜査本部が解散し、チームの皆と米国に帰っていった赤井。降谷は空港での見送りもしなかった。業務上の会話はたくさんしたけれど、私語はほとんどしなかった。
スコッチの件を話そうとしたこともあるがやんわりと避けられた気がしたし、自覚してしまった想いを告げる気はなかったので意識して距離を置いたのもある。
米花町の子供たちやFBIの同僚たちとのやり取りを遠目で見て、あぁそんな顔もするのかと思ったけれど、それが自分に向くことはないと思っていた。
だから今、そんな穏やかな顔を赤井から向けられると、どうしてよいものか戸惑うしかない。
「行こう、ランチだけれど一応席は押さえておいたよ」
そう言われて向かった先は、第2ターミナルビルの展望デッキに面したイタリア料理店。ランチタイムはどこもウェイティングが出るターミナルで、ちょっと値の張るコースも出すここはそこまで混んでいない。
「わざわざ」予約したんですか?と問えば、「せっかくだからな」と返ってくる。
「昼休みは時間が決まってるだろう?」
そうだけど。降谷は今、黒髪ウィッグに黒カラコンで地味なつもりだけれど、こんな洒落たところに居る赤井は、またしても人目を引いている。
かっこいいもんな。
つきんと痛んだ胸は気づかないことにして。
あまり職員が来るような店ではないけれど、これなら、あっという間にウワサが回るのは間違いない。
高橋くん、イケメンとランチしてたって?と女性陣に聞かれるのはさぁ何時間後か。
「ランチコースでいいかな」
「えぇ。でも時間、足りるかな」
お手軽なランチメニューと違って、何品かが順に出てくるようだと危ないかもしれない。
「そう思って、実は頼んである、サーブのタイミングを速めてくれと」
「さすが」
あぁ、悔しいけれどエスコート慣れしているなと思う。
それにしても、今、僕の目の前にいるのはほんとうに赤井なのか。手配をほめてくれと自慢げな表情と、降谷の機嫌を損ねていないかとほんのかすかに不安そうな表情とが、隠されることなく降谷に向けられている。
「エンドが決まってますから、有難いです」
と言えば、ふっと表情が和らいだ。
これが、素の赤井なのか。
出たとこ任せの思い付きで始まった関係は、手に入るとは思ってみなかったものを惜しげもなく与えられて、それはそれで逆に居心地が悪い。数回、空港内で一緒にいるところを見せられれば良いくらいの思い付きだったのだ。
では、終わらせるか?
それは、……それはあまりに惜しいな。
「一人だとこの店には入らないですからね、ありがとうございます」
「それは良かった」
「そう言えば、皆さん、お元気ですか」
直接対面したことがあるのは真純だけだが、秀吉は有名人だから顔は知っているし、由美も一方的に知っている。
「元気なんじゃないか」
「え?」
「まだ会ってないからな」
「えぇ?!」
「明日、母と妹に買い物に付き合わされることになっている。食事会は木曜だしな」
「ちょっと、じゃあこんなところで」
油を売っていていいのか、と続ける前に、
「ん? せっかく恋人のいる日本に帰って来たんだ、恋人が優先だろう?」
と顔を覗き込まれて、言葉が出なくなる。
「あー、でも……」
口ごもると、
「頼むよ、君と一緒にいたいんだ」
演技にしては真に迫っていて、赤井が本心から言っているのではと錯覚しそうになる。
こいつは恋人の前ではこんなやわらかな表情をするのか。
いいな、彼の恋人は。
ずくりと胸の奥が痛くなる。
これは僕のものではないけれど、でも、本気で赤井が恋人ごっこに付き合ってくれようとしているのなら、こちらもその気でいかないと失礼だろうか。赤井が日本に居るのは週末まで。その数日の間に何回会えるか分からないけれど、その間だけでも、降谷も恋人のふりをしてもよいのだろうか。
仕事だって分かってて、引き受けてくれたんだもんな。
胸の奥底の宝箱に、もうちょっとだけ特別な思い出を増やしてもいいかな。そうしたら、この切ない思い、……か、片思いも、そうラベリングしてしまっておけるかもしれない。
「……そのお気持ちは、有難く受け取っておきますよ」
そうして始まったランチタイムは、思った以上に楽しかった。
知ってる面々のアメリカでの様子や、クリスマスの街の喧騒、今年はまだそこまで降っていない雪のこと、降谷の知らない赤井の話は思ったよりも説明上手で飽きさせない。
時折ふっと会話が途切れれば、視界の彼方で航空機の尾翼が滑走路を横切っていく。
メインを食べ終わる前にテーブルに置かれたドリンクも飲み終わり、ちらと時間を確認すれば昼休みの終わる10分前。
「そろそろか、チェックはしておくから、行った方がいい」
「じゃあ」
と財布を出そうとすれば、
「次に会った時でいい」
「え」
「さぁ、早く」
12/20(火) Evening @Kasumigaseki
「って、なんでここに」
「ん?」
昨日と今日で何回見たかも分からなくなってきている、赤井からの柔らかで愛おしげな眼差し。
それを自分に向けられるのがどうにも慣れなくて、降谷は自分の後ろにいる誰かに微笑みかけているのかと振り返りたくなる。
「待ってたんだ、君の顔が見たくて」
「え、なんで」
「そりゃ、恋人だからに決まってる」
「……」
「……」
「……は?」
ひどいな、と言いつつ機嫌を悪くした風もない赤井は、ガードレールから腰を上げた。
研修名目の空港から定時で退社した後、霞が関まで戻って並行して仕掛かっている仕事などをこなし、もう少しで日も変わろうかという今、やっと庁舎から出てきたところだった。
一体どれくらいの間、待っていたのか。よくも不審者扱いされなかったものだ。
「手、貸して」
「あ、はい」
手のひらを上にして差し出されたので、反射的にそこに自分の手を乗せる。
その手はそのまま赤井の頬へと導かれた。
「ほら、こんな冷えてしまった、いい子で待ってたんだ」
「え、あ」
はっと我に返り、手を引いた。
赤井の頬。
初めて触った。
冷たかった。
何を言えばよいのか分からなくて、固まっていると、
「でも今日中に会えて良かった。君は働き者だからな」
「……」
「泊りだったらどうしようかと思った」
いたずらっぽく微笑まれて、なぜか涙がにじんでくる。
涙腺は、感情が動くと緩みがちになる。そうだ、びっくりしただけだ。待っててくれて嬉しいなんて、そんなこと。
「じゃあ会えたことだし、帰るよ」
「え」
ひらひらと手を振って、黒づくめの背が地下鉄の階段を下りていく。
その背を呼び止めたくて伸ばした手は、でも届かなかったし、呼び止める声も発することが出来なかった。
12/21(水)
12/21(水) Afternoon @Nihonbashi
「……ほぅ、珍しいな」
背後からかけられた声に、振り返ることなく、口ずさんでいた声だけを止める。近づいてきていたのは気付いていたが、自分がハミングしていたのは気付いていなかった。
赤井がむっつりとした表情でいるのを見ても、母・メアリーは意に介さない。
「スティービー・ワンダー、か?」
「……」
「なになに? スティー?」
メアリーの脇から顔を出した妹・真純には聞こえていなかったようだ、と意味もなく安堵する。
「スティービー・ワンダー。アメリカのミュージシャンだ」
「あー、名前は知ってるよ」
「『I Just Called to Say I Love You』なんかは有名だと思うが」
と、娘に聞こえるくらいの小声でサビを歌ってやる。
「あ、それなら知ってる」
真澄の頭の上に浮かんでいた『?』が『!』に変わった、ような気がした。
「それがどうしたの?」
「いや、なんでもない」
メアリーが赤井が口ずさんでいた曲に言及しなかったのは、特に意味があってのことではないだろう、多分。曲名は『Part-Time Lover』。モータウンビートから始まるポップな曲調は、アメリカビルボードで1位を取り、歌詞の意味を考えずとも耳に残る名曲だ。
それでもなんとなく気まずくて、タバコの入っているポケットに手を突っ込んで、ここは禁煙地区だと思い出す。
そんな息子の挙動を見ながら、母はふっと笑った。
「わたしもメロディラインは好きだ」
「……」
「まぁ、お前にはそんな器用なことは縁がないだろうがな」
鼻で笑われて、仏頂面がしかめっ面になる。
歌詞に触れての当てこすりは、気分の良いものではない。それでも、タイトルからの連想で思い出して無意識に口ずさんでいたのだろうから、自分も大概だ。
期間限定の恋人。
まさかそれを、叶わぬ想い人の降谷の方から提示されるとは思っていなかった。
もっとも降谷としては、面倒の種を避けるために一緒にいるところをちょっと目撃させれば良い、くらいの考えだったようだ。一週間ほどで米国へと戻るのならば後腐れもない。それは分かっていた。短期の潜入捜査中ならば揉め事は避けたい。実のところ降谷なら別に赤井を頼らずとも一人で対処できるだろう。
赤井が断るのも、想定の中に入っていたはずだ。
実際、降谷からの提案は思ってもみなかったものだから、驚かなかったと言えば噓になる。なにか更に裏があるのではないか。そんなことを勘繰るほどには、赤井は降谷からの自分への感情を冷静に見積もっていた、つもりだった。
それが、まさか。
仕事のためでも、期間限定の関係でも、叶わないと思っていたものを手の内に捕らえられるのならば、この機会を逃すことはしない。
物分かりの良いふりをして快諾し、条件として期間限定の恋人ポジションを要求した。さすがに降谷も断るかと思ったが、それも見込みが外れた。
ならば、機を逃さず短期決戦でアプローチするまでだ。
月曜火曜と押しまくり、今日明日は会うことはない。
昨夜、省庁前で別れた後もホテルからメールした。「冷えてしまった、もう少し君の手を握っていたかったよ。なにを飲んだら温まるだろうか。紅茶かバーボンか。」と。
返信は30分ほど経ってからで、「生姜葛湯」が正解だったらしい。
生憎、ホテルの備え付けのラインナップにはなかったし、フロントにも用意がないか尋ねたが残念ながらと返された。それを更にメールしたが、そのメールには返信はなかった。
そうか、君から返事をもらうには、提案を求める質問形式が良いんだな。
「秀兄? 行くよ」
「あ、あぁ」
気が付けば真純が腕に取りついていた。
「どうせレンタルスーツを借りる当てすらないんだろう」
「これでは」
「ダメに決まってるだろう」
ぴしゃりと言下に否定される。黒づくめなら良いかと思ったが、さすがにダメだったか。
明日は、弟・秀吉と婚約者・宮本由美との結婚を祝って、お互いの親族だけでの食事会が設けられている。
なにせ秀吉は、羽田秀吉と言えば知る人も多い天才将棋棋士で「太閤名人」の異名を持つほどの有名人だ。騒ぎにはしたくないとの二人の意向で、両家だけで祝ってから、由美の職場へ報告し、それから公に文書を出す予定だと聞いている。あの気の強そうな彼女ならウェディングドレスを着たいと言い出しそうだなと思ったが、仕事で着たこともあるので別にこだわらない、とのことだそうだ。
でも明日は、タキシードとまではいかなくても、それなりのダークスーツがお相手の家族への礼儀だ、とは母の弁。なら任せたと丸投げすれば、サイズ合わせは来いと呼び出されたのが今だった。
老舗デパートのフィッティングで用意されていた何着かを合わせられ、真純が楽しそうなのだけが救いだなと思いを逸らす。
「秀兄はなにを着てもカッコいいなぁ!」
「務武さんには及ばないがな」
「……」
比べられる相手があの父では、言い返すのも憚られた。
降谷は今頃、なにをしているだろうか。
12/21(水) Afternoon @Airport
「お疲れ様です」
ひょいと頭を下げて警備員室の前を通り過ぎる。ターミナルビルの端から外へ出れば、冬の海風がびゅうと吹き付けた。
空港ビルディングでの仕事は、先週と今週の2週間。その間に、国際的にブラックリスト入りしていた人物がこの空港内で危険物の受け渡しをするのを阻止し、犯人を確保するのが任務目的だ。
大まかな筋書きはリークされた前情報で掴んでいる。
空港ビルのセキュリティー会社の職員が、航空機の搭載荷物積込会社の職員と、空港内のどこかで接触する。その「どこか」だけは、情報がなかった。
その為、セキュリティー会社と搭載荷物積込会社のそれぞれに公安から潜入捜査官が入り込み、人物の絞り込みと引き渡し現場の確定をすることになったのだ。ただそれも直前で紆余曲折があり、潜入予定者は急遽降谷に、潜入対象会社もセキュリティー会社から親会社である空港管理企業・空港ビルディングへと変更となった。
今の降谷のプロフィールは、国交省航空局からの短期研修者・高橋一哉だ。
東京の玄関口のみならず日本の玄関口でもあるこの空港は、当然のことだが国交省との関係は深い。
いかにもな霞が関エリート官僚の「高橋」に、皆は分かりやすく親切に接してくれる。そしてあまり目立つのは本意ではないが、当たり障りなく接しているうちに、一部の女性を惹きつけてしまったらしい。業務に支障のないようあしらおうと溜め息をついた矢先、臨時の上司が彼女たちを遠ざけてくれていることを知った。有難い、と感謝する間もなく、今度は彼が自分への距離を詰めてくる。
参った。
どうしようか、と気にするような気にしないような、どこか他人事で自らのタスクをこなすために動いていた、そんな時に赤井と会ったのだ。
空港内は、テロ対策もあって数多くの警戒の目が光っている。勿論、関連会社には警備会社もあり専門の警備員による巡回も行われているが、関係会社などの管理職クラスも、定期的に巡回のローテーションに加わることになっている。
そのタイミングを利用して、「高橋」は上司に空港内のあちらこちらを案内してもらっていた。
一般客が行き来するターミナルロビーから、施設運営会社の事務所や航空会社の事務所が入っているフロアへは、暗証番号やIDカードでの認証システムが設置されている。そして「高橋」には業務上、ほぼフリーパスのIDカードが貸与されていた。その気になれば一人であちこち見て回ることは可能なのだ。しかし、このバックヤードが意外と入り組んでいるのと、そのバックヤードも会社ごとにパスを変えてあるので、見知らぬ顔が歩いていると不審げに見られることになる。
「高橋」の上司は、親会社の総務部門の課長ということで顔は知られており、彼と一緒に歩いていればさほど目立たない。それはメリットだったのだが。
「まぁ、あとちょっとだし……」
独り言は、北風と着陸機の逆噴射音とでかき消える。ターミナルビルの並びに建つ関連会社の事務所へは、吹きっさらしの北風へ立ち向かわなければならない。
あとちょっと、は赤井との関係もそうだ。
「なに考えてるんだろうなぁ……」
自分も大概無茶ぶりをしたものだと思っているが、それを唯諾する赤井もどうかと思う。
黒ずくめで威圧的な第一印象の強い赤井だが、アスリートのように引き締まった体躯と俳優ばりに整った顔立ちは、同性から見ても敵わないと思わせるものがある。
はち合わせした時に、それだけでも課長へのインパクトはあったようだったので、あと一回くらい、どこかで親密な「振り」をしてもらえれば十分牽制になる、と思っていた。
それが、どうして、こうなった。
スラックスのポケットに入っている個人スマホを上から押さえる。
ついさっきもメールが入っていた。明日に合わせて選んだ、いや選んでもらったというスーツ姿は、首から下の写真だったが、それだけでもカッコ良くて息を飲んだ。
「……ちょっと早いけど」
お互い、潜入捜査官なんて因果な商売をやっていたこともあって、なかなか思い出の写真などを残せない。何の変哲もない特徴のない写真からも個人情報を読み取れる分析官は、世界中にごろごろしているのだ。まぁそのうちの二人が、降谷と赤井な訳だが。
想い人の写真を見せ合ってきゃっきゃとはしゃぐ女子高生たちを眺めていた時には、自分には縁のない世界だと思っていた。自分が高校生の時分には、今のように個人情報端末がそこまで普及していなかったのもある。
警察庁の秘匿エリアにある情報ファイルには、勿論ライのものも赤井のものもデータがあるのは知っている。でもあれは極秘資料に近しいものであるから、降谷個人の手元に置いておけるものではない。潜入中に所持していた写真なども、類するものは全て処分してしまっていた。
プライベートのスナップショットをもらえるなんて。
クリスマスは数日後だけれど、前倒しでプレゼントをもらった気分だった。
ふ、と頬に当たる風の向きが変わった。
傍らの建物の角を覗き込めば、
「ビンゴ」
こんなところから、滑走路が見えるじゃないか。
勿論、容易には通れないように、径の太い鉄柵の扉が設置されてはいるし、監視カメラだってある。でも、あの柵の幅ならば包みの大きさを考えてあれば中と外で受け渡しができるし、監視カメラを効かなくするのだって方法は幾らもある。
ふっと口元だけを緩めて、降谷は踵を返した。
12/22(木)
12/22(木) Night @Gotanda
カラカラン、とカウベルを鳴らしてドアが開く。カップルが入ってくるのと一緒に木枯らしが吹きこんで、赤井の足元を冷やしていく。
今夜もこのバーに着いたのは赤井が先だった。
想い人との待ち合わせは、その待っている時間も愛おしい。そんな風に思ったのはそれなりの数の恋愛をしてきたというのに初めてだった。
「参ったな……」
まるでティーンのよ
うなことを思う自分が気恥ずかしくて、ふっと笑いが漏れる。
こんなにも特別だと思うのは、降谷相手が初めてだ。
今までの相手だって、付き合うからには余所見をせず誠実でいたつもりだった。大切に思い、愛していると思ってきた。
ただそれは今思えば、一方的に守る相手として接してきていたように思う。なにかあれば彼女たちを背にして外敵から守る、そんなイメージか。
でも降谷は、違う。
出会いからして、お互いの力量を図るところから始まったのだ。気を抜けば殺られる。そんなピリピリとした緊張感を伴う犯罪組織の中で、相手の能力を冷静に見積もってミッションをこなしていく。相手が無能なら足を引っ張られて致命傷になりかねないし、優秀であればあるほど自らの正体を悟られないよう警戒をしなければならない。
バーボンは飛びぬけて優秀だった。
魔女と呼ばれる幹部ベルモットに目をかけられ、手に入れられない情報はないと言われていた。ヒューミントもハッキングも軽々とこなす。その上、実働部隊としても優秀だった。近接戦での体術も、銃器の類の扱いも爆弾に関する知識もずば抜けていた。
いずれかの分野に秀でている者は、いままでにもそれなりに会ってきたが、降谷ほどオールマイティにハイレベルでこなせる者はなかなかいない。敵に回せば厄介な相手だが、味方としてはこれ以上に心強い者はいない。
彼が思う存分に走れるようにすることは、自分が存分に動けるようにするのと同じことだと気づいたのはいつだったか。
また、バーのドアのカウベルが鳴った。
「お待たせしましたか」
「いや、ここは美味しいからな」
グラスをからんと掲げて見せれば、カウンターのあちらにいたバーテンダーがそっと頭を下げる。
「僕は、そうだな、バーボンをハイボールで」
「ん?」
赤井の手の中にあるのは、バーボンのロック。前回は降谷も同じものを頼んでいた。
「今日は酔いが早く回りそうなので」
「じゃあ酒じゃない方がよかったか」
「構いませんよ」
そう言って、赤井の前にある小皿から、ダイス状のスモークチーズを楊枝でつまむ。
「ここ、つまみも美味しいですから」
カウンターのあちらにいたバーテンダーがこちらを見ずに軽く頭を下げた。
「改めて、弟さんのご結婚、おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう」
お互いにグラスを掲げる。
「みなさん、お元気でしたか」
「あぁ。落ち着きがなさすぎるのばかりだな」
「良いことじゃないですか」
ふふっと笑う降谷の声は知っている声のはずなのに、甘くとろけるように耳に流し込まれていく。これをずっと聞いていられたら、どんなに幸せなことだろう。
「君こそ、空港にいると、どこか旅に出たくはならないか」
「んー、自分が乗りたいっていうのもなくはないですけど、単純に飛行機の離着陸を見ているのは楽しいですよね」
まぁ今回は、そんなにのんびりと眺めていられるような時間はなかったのだが。それでもふとした隙間から空を望み、航空機の姿を見上げるのはやはり良いものだ。
「空港勤め、か。実は昔、スカウトされたことがあるんだ」
「へぇ? 空港の、なにに?」
一口に空港と言っても、そこに関わる職種は多岐に渡る。赤井に勤められそうな仕事は、と考え始めて、すぐに止めた。降谷に負けず劣らずオールマイティになんでもこなす赤井なら、どんな職種でもアリだろう。
「バードパトロールだ」
「あー、なるほど。バードパトロールね」
バードパトロールとは、飛行機と鳥の衝突を未然に防ぎ、航空機の安全運航を支える職業だ。赤井がスカウトされたのは、まずは銃の腕を買われてのことだろう。そしてバードストライクなどを防ぐために、銃器の扱いだけでなく、威嚇用の爆薬の知識、航空機の知識なども求められる仕事。
なんか、いいな。
「どこの空港だったんです?」
「その時はワイオミング州の田舎だと言っていたかな」
「あはは、周りなんにもなさそうだし、暇そう」
「それがな、意外と車よりも小型飛行機での移動の方が早いっていう層もいるんだ」
しかも人よりも動物の方が個体数が多いような地域であれば、滑走路の障害になるのは空中の鳥類だけでなく、地上の動物たちも対象となる。
「そっか、広いですもんね、アメリカ。いいな、楽しそうじゃないですか」
「そうか、一緒に来るか?」
「えっ?!」
赤井が身を乗り出して、降谷の顔を覗き込む。
言われた言葉にも、近づいた顔にも反応が遅れて、それから盛大にのけぞった。
「なんで僕が」
「いや、楽しそうって言うから」
「いやいやそれは」
言葉の綾で、と続けようとして、でもたしかに楽しそうだな、と思ってしまう。
「あー、そうですね、年を取ってリタイアしてからなら、考えなくもないですけど……」
「そうか。じゃあ予約しておこう、君のリタイア後の就職先だ」
「ちょっと待て」
なんか本当に連れて行かれそうで怖い。楽しそうだけれど、でも。
そんな先のこと、赤井と自分がそんな時まで関わっているかなんて分からないじゃないか。いや、関わっていない可能性の方が高いと思うから。
あ、ちょっと悲しくなってきた。
「そんな顔をするな」
「え」
「俺もそう言ったんだ、『リタイアした頃にまた、声をかけてくれ』って」
「ですよね」
「でも覚えていてくれると嬉しい、君の老後の選択肢として」
「あー……、はい、選択肢として」
いいな、そんな老後がほんとうに待っているのなら、それを楽しみに頑張れそうだ。
夢も見るだけなら誰にはばかることもない。こっそりと胸の奥底の宝箱にしまうものが増えるだけだ。この数日で、思いがけずたくさんのカケラが増えた宝箱。ほんとうに一足早いクリスマスプレゼントたちだ。
奥歯にはさまれたメープルナッツが、かり、と砕けた。
「明日のランチも誘っていいかな」
「すみません、明日は研修最終日だというので課のみんなで一緒にランチということになっていて」
「そうか、それは仕方ないな」
僕だって赤井と食べたかった。降谷は胸のうちで呟く。
上司からの執着を交わすために始まった偽物の関係だ、空港での研修が終われば、当然この関係も終わる。
そう、赤井は週末にはアメリカへと戻るはず。
思ったよりも顔を見られたし、メールも貰った。でも、最初から分かっていたことだ、期限があるということは。今日が会える最後であってもおかしくない。というか、そうした方が良いかもしれない、後腐れのないように。名残を惜しんでいてはキリがない。
思いもしなかった時間を過ごさせてもらった、それだけで十分だ。
「あの」
「なぁ降谷くん」
「はい?」
話しかけようとしたのを遮られて、気勢を削がれる。
「これ、良かったら着けてくれないか」
そう言って赤井は、降谷がいるのとは反対側の椅子に置いてあった包みを、降谷の前に置いた。
「これは?」
「空港で君を待っている時に、スーベニアショップで見つけたんだ」
「……」
細長い包みの形で分かる、これは多分、ネクタイだ。
これを僕はもらうべきなのか。
逡巡したのは一瞬で、降谷に向けられている赤井の眼差しを見たら、断る言葉は出てこなかった。
お前、なんて顔をしているんだ。
ただただ優しさに溢れた眼差し。それが降谷に向けられている。なにがどうなったら赤井にそんな顔をさせることになるんだ。
その表情を止めるすべを降谷は持っていなかった。
「開けてみてくれ」
「あ、はい」
言われて、包み紙を丁寧に剝がしていく。
出てきたのは、シルクの照りが美しい青みのネクタイ。青藍という単語が真っ先に浮かんだ深みのある青地は、シルクの特性と織りの複雑さで渋みのある照りが角度によって浮かび、地味ではあるが地模様の上に施された同系色の刺繍が美しい。
「ほら、そこ」
赤井が指さした大剣の、スーツに隠れるぎりぎりのところに、
「あ、飛行機」
「うん。目立たないけれど」
同系色の刺繍で、ワンポイントで入っている。
「これなら、霞が関でもつけていられるかなと思って」
合同捜査の時に霞が関に出入りしていたから、赤井もあの辺りのドレスコードは知っている。もっとも本人は我関せずといつもの黒づくめ姿で闊歩していたのだが。
「ありがとうございます。大事にします」
涙腺が緩みそうになって、あわてて柄でもないとセーブする。
大事にする。一生ものだ。
「……あ、でも僕はあなたに返せるものが」
「いいよ。十分、もらってるから」
「え?」
「こうやって君と過ごせる時間。これ以上に有り難いものなんてないさ」
「……」
分からない。なんでだろう。
赤井は何故。
「なんで」
「ん?」
「あの、なんで今回、引き受けてくれたんですか」
「うん?」
「だって、あなたが引き受けるメリット、思いつかない……」
「分からない?」
「え」
「そうか、もうちょっと時間が欲しかったな」
ちょっと口角を上げて苦笑いする顔も、かっこ良くて悔しくなる。
分かりやすく頭からハテナが生えていそうな降谷の様子に、赤井はいつ言おうかと伺っていた言葉を口にする。
「君が好きだから」
「……」
「もう一度言おうか? 俺は君が」
「ちょちょっと! 待って!」
思わず声を張ってしまって、あわててボリュームを落とす。
「え、ありえない」
「なにが」
「だって、赤井が? 僕を?」
「うん。好きだよ」
有り得ないだろ、そんなの。
だって赤井だぞ?
僕が赤井のこと特別だって想うことすら想定外なのに、ましてや赤井が、僕を。
「あ、好きって、『like』の」
「きみ、往生際が悪いぞ」
「だって」
「じゃあなぜ、君の恋人の振りなんて役、引き受けたとおもうんだ?」
「えっと」
えっと、
「暇、つぶし?」
「君なぁ」
勘弁してくれという風に天を仰いでから、赤井は身体ごと降谷へと向き直る。
「じゃあ君は、なんとも思っていない男からを恋人役をしてくれと言われて、人目のあるところで付き合ってる振り、できるのか?」
「……」
どうだろう。
「仕事、なら」
「ほう、どこで知り合いが見ているかも分からない、日常の行動範囲でも?」
「……」
「俺はできるよ、君相手ならな」
正面から赤井に見据えられて、その瞳から目が離せなくなる。全世界人口の2%ともいわれるグリーン・アイが、降谷を見つめている。
自分の瞳は、きちんと赤井を見返せているだろうか。
「そんな顔をしないでくれ」
君、自分が今どんな顔をしているか分かっているか。
天下の降谷零ともあろうものが、そんな途方に暮れた顔をするなんて。自らが引き出した表情に昏い喜びを感じつつも、困らせたなと反省する。
「悪かった、気にしないでくれ」
「え」
「単なる独り言だと聞き流してくれていい」
「……」
「でも本当だ、俺の気持ちを嘘で片づけないでくれないか」
「……」
「今、返事をもらいたいとは思っていないから。でも、『期間限定の恋人』は御褒美としてもうちょっと続けさせてくれないか。イヤかな」
「……イヤじゃ、ない」
ちょっと俯いて、赤井を見ていた瞳が伏せられてしまった。
でも拒否されなかったのは喜ぶべきだ。
「ありがとう。次に会えるのがいつになるか分からないけれど、またメールさせてくれ」
「はい」
12/23(金)
12/23(金) Morning @Airport
「ほんとにいた……」
相も変わらず黒づくめの男は、オープンキッチンを囲むカウンターの一番奥で、レンゲに粥をのせて口元へ運んでいた。
「やぁ、おはよう」
「おはようって」
「君に会えるとはな。今日は良い日になりそうだ」
空港第1ターミナルの出発ロビーにあるこの店は、建物内に木造建築を建てたような造りで、入り口ののれんをくぐると出汁の良い香りがふわりと身を包む。
一応、朝ごはんは食べてきたけれど、この香りの誘いは反則だ。
「いい御身分ですねぇ、朝からおいしそうなものを」
「君も食べればいい」
そう言いながら、赤井は隣の空いていた椅子を示す。
タイミング良く、店員がメニューをカウンターに置いた。あぁ、断るには誘惑が過ぎる。
「でも時間が」
「仕事始まりまで、まだ1時間ほどあるだろう?」
よく御存知で。
早めに着いて、展望デッキから飛行機を見るのが楽しくて、と言えばだれも疑わないのが空港関係者の良いところ。実際、今日も第1ターミナルとは滑走路を挟んで反対側に建つ国際線ターミナルの展望デッキから、滑走路を走る飛行機を見る振りをしながら第1ターミナルの建物を見ていたのだ。まだ見落としている空隙がないかと。
「余裕行動は社会人の基本ですよ」
「そうだな、じゃあ大丈夫だな」
「まぁ……」
ここは一度入ってみたかったし。
内心で言い訳をしながら、降谷は腰を下ろした。
「オーダーしてから5分くらいで出されるから。奢るから一緒に食べてくれないか」
ここまで全て見越してだったのか、と溜め息をつく。
さっき国際線ターミナルの展望デッキに居た時に、メールが届いたのだ。今朝は遅かったなと思いつつ開けば、なにやら美味しそうな和食膳の写真。
「……これは」
店の見当はすぐついた。すっ飛んで来てみれば、予想通りの男が居たという訳だ。
赤井が頼んだのと同じ、白粥膳を注文する。テーブルに出汁のコップが置かれて、空いていないはずの胃がはやく寄越せと催促する。
「今日は会えないって」
「うん。忙しいのは知ってるからな、約束はしなかった」
「じゃあ」
「調べたんだ、ホテルの朝食も飽きたからな、美味しそうな朝ごはんを出す店がないかと。そうしたら、ここがヒットした」
「はぁ」
「見ていたら食べたくなったから、来た」
それだけだ、と言われたら降谷が何か言う筋合いではない。
「でも、来たら、君にも見せたくなったから写真を送った」
「……」
「同じ建物の中に君がいるかもしれないと思うだけでも、美味しいものがもっと美味しくなるんだな、知らなかったよ」
あぁ、敵わない。
昨日の今日で、気不味くて連絡もできなくなるかと思っていた。今日明日は今回の任務の山場だから、そちらに集中するのは当然としても。
「赤井でも……」
「ん?」
「赤井でも、食事の写真なんて撮るんですね」
「あぁ、初めてじゃないか、自分でも驚いているよ。誰かと共有したくて撮ることもあるんだな」
赤井は自分のスマホを取り出すと、何やら操作してから降谷に画面を向ける。
「見てくれ」
「……えっ?!」
「どうやったら美味しさが伝わるかと」
画面には、同じような膳の写真がたくさん並んでいる。一体何枚あるのやら。
「気付いたら、こんなに撮ってた」
む、と口元を結ぶのを見て、つい吹き出してしまう。
伝わってしまった。
この枚数は、赤井から降谷への想いの数だ。
食事の写真なんて、実際には撮り直したってそう変化が出るものではない。でも、焦点の位置とか照明の当たり具合とか自分が良いと思ったものをどれだけ相手に届けることが出来るか。そう考えていた時間や試行錯誤が写真フォルダの量に出ていた。
あぁ、敵わない。
こんな真っすぐな想いを見せられて、素直に返せない自分が歯がゆくて情けなくて。
でも、今はだめだ。
少なくとも、今日明日は。
「日曜の朝、羽田から飛ぶ」
「……そうですか」
「出来れば見送りに来てほしい」
「……約束はできません」
「そうか。でも待っているよ」
そう言いながら、ほら仕事だろ、と送り出してくれる。
降谷が気まずくならないように。
12/25(日)
12/25(日) Morning @Home
ふ、と意識が覚醒して、手を伸ばしてスマホで時間を確認する。
6時48分。
ちょうど日の出の頃合いだ。
昨日の捕り物は想定通りの展開で、いささか物足りなかったと思ってしまうのはさすがに不謹慎というものか。手待ちの全ての条件を加味して立てた計画は、過不足なく完璧だったということだ。
実際、違法取引の現場を想定して、人員の配置や機器の設定などすべてを策定した後は、実働部隊に任せて降谷は傍観者として潜んでいた。実働部隊には伝えていなかったが、想定外の事態の場合の対応についても数パターン考えてはいたけれど、それらは杞憂に終わった。良かったと思うべきだ。
でも、だから昨夜は家に帰れる余裕ができてしまった。
「うー、忙しかったらなぁー」
行かない正当な口実があったのに。
この場合、言い訳の相手は自分自身だ。仕事で行けなかったんだからしょうがない、と自分を納得させるための言い訳。
だって、本当は行った方がいいのかな、とちょっとだけだけど思っているから。
きちんと別れを告げて見送ることができれば、この切なさもきちんと終うことができるだろうから。
12/25(日) Morning @Airport
「……あーあ」
目前のC滑走路をジャンボジェット機が飛び立っていく。
家を出る時に確認していた今日の離陸滑走路は、C滑走路。国際線ターミナルから出た航空機は、A滑走路から第1・第2ターミナル北側の誘導路を通って延々と地上を走り、第2ターミナル北側のC滑走路から離陸する。
国際線利用者の見送りと言えば、単純に考えたら国際線ターミナルの展望デッキが定番だけれど、離陸時の天候次第では第2ターミナルの展望デッキの方が良い場合もある、ということだ。
離陸した機体は一気に上昇した後、ゆっくりと右に傾いて、あっという間に小さくなっていく。
無事に太平洋を渡っていけよ。
「……やっぱり、無理だよなぁ」
なにが?
「だって赤井だぞ? 俺なんかが好きになって良い訳がない」
そうなのか?
「だって赤井だから」
赤井だから?
「特別なんだよ」
「そうなのか?」
「うん。……って、お前!」
一人問答していたはずだ。
空港の展望デッキから想い人を乗せた飛行機を見送って、片思いにも片を付ける。語呂も良いし、きれいな終わり方じゃないか。まるで映画みたいで、この僕にしちゃ上出来だ。……まぁ片思いじゃなかったけど。
それが何故、会話の相手が出現している?
しかも、その相手が。
「え? なんで?」
「ん?」
降谷の問い掛けに、隣に並んだ赤井は首を傾げて応える。
その表情が、やけに楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「お前っ、あの飛行機に乗ってたはずっ?!」
「あぁ、明日の便に変えた」
「はぁぁ?! 変えた、って、いや仕事は」
「これから連絡する」
「報連相!」
「アメリカにいなけりゃしょうがないだろ」
飄々と答える様子に、一気に脱力する。これで首にならないのだから、FBIという組織の柔軟性には恐れ入るし、こいつの上司には同情申し上げる。
「信じらんないやつ……」
「そうか? 最後にやっぱり君に会いたくなったんだ」
「……」
「来てくれると思ったよ」
いや、見送り行ってませんよ。
そう思いながら、じろりと横目で見たのが伝わったらしい。
「出発ロビーに来てくれるとは、最初から思っていなかったよ。君のことだから、風向きで滑走路まで見越した上で、離陸を見届けてくれると思っていたからな、こちらに来てみて正解だった」
なんでそんなに嬉しそうなんだ、赤井。
なんでそんなに僕のことをお見通しなんだ、えふびーあい。
「そこまで分かっているのなら、見送りに行かなかったのも察してくださいよ」
「ん?」
「会いたくないんだな、って分かるでしょ」
「うん、そうだな、理由を聞いても?」
「だって、会ったら」
「会ったら?」
「……」
口を閉ざして視線を反らしてしまった降谷を、赤井はしばらくじっと見ていた。彼が口を開く気がなさそうだと見て取ると、滑走路に背を向けて腰を柵にもたれかける姿勢で、降谷の顔を覗き込む。
「君の考えていること、分からないよ、分かるはずがない。だから楽しいんだ、君ならどうするかどう考えるか、それを考えるとわくわくするんだ」
「……変なやつ」
「誉め言葉かな」
「そんな訳ないだろ」
ははっ、と笑う赤井の、その声。
ずっと、そばで聞いてみたいと思っていたんだ。こんなところで叶うとは思ってもいなかった。
「俺にとって君が『特別』なように、君にとっても俺が『特別』になったらいいなと思ってたんだ」
視線は滑走路に向けたまま、降谷は呟く。
「……そんなのもう、とっくの昔になってますよ」
吹き付ける北風にさらわれそうな小さな声は、でも赤井の耳にしっかりと届いた。今はそれで充分だ。
「ところで相談なんだが」
はい?
急に声を潜めての言葉に、つい身構えて耳を澄ます。
「今夜、泊まるところがない」
「……は?」
「ホテルはチェックアウトして出てきてしまったからな」
「あ、そうでしょうね」
ほんとに思い付きで、ここに来たのか。
あぁ、次に言いそうな言葉がさすがに分かる、これは推測するまでもない。
「ホテルならこの空港にもありますよ」
「君のウチに泊めてくれないか」
「人の話を聞け」
「君の返事を聞かずに、海の向こうへは帰れないからな」
そうだった、まだ降谷は明確な返事をしていない。
思わず口ごもった降谷に、赤井は楽しそうに続ける。
「それに君も聞きたくはないか? 俺が君のどこを好きになったか、とか」
「……」
「聞きたいだろ?」
「……うん」
もう取り繕う気力もなく、こくんと頷く。
それを見て、赤井の笑みはさらに深くなる。こいつ、こんなに表情筋を動かせるんだな。FBIや子供たちの前で笑みを作っているのは遠目で見ていたが、間近で見せられるとさすがに破壊力がやばい。
あぁ、心の奥底の宝箱は溢れそうで、でももう蓋をしなくても良いのだろうか。
「ねぇ」
「ん?」
「さっきから鳴ってませんか」
どこかでバイブレーションの音がすると思っていたが、多分赤井のだ。
「そうだな」
「いや、そうだなじゃなくて」
「うん」
「あーもうっ、出ろ!」
分かっていて放っておいたのか。いい加減うるさいので、止めろと急かす。
渋々といったていで赤井がスマホを操作するのを、傍らで見るともなしに見ていて、発信者名が見えてしまった。
げ、と声が出る。
「あぁ、なんだ。…… あぁ、そうだったな。…… そのまま持っていてくれても、…… いやまだ空港にはいるが、…… あぁ、分かった分かった、取りに行く時に連絡する」
「真澄さんか」
「あぁ」
「なんて」
「荷物を取りに来いと」
「荷物?」
赤井が移動の際に最低限での荷物で移動するのを、ライの頃からの付き合いで知っている。だから今も手ぶらでいても、どうせスマホと財布くらいしか持っていないのであろうと、特に違和感はなかったのだが。
「あ、お土産か」
「うん、キャンセル手続きをしてすぐ、こちらに来てしまったからな」
そう言えば背後でなにか言ってたような気が、と他人事のように続けるのを聞きながら、降谷はあえて聞く。
「なんでそれを真純さんが知らせてくれるんです?」
「見送りに来ていたからな」
兄思いの妹だな、と思おうとしたが、
「秀吉の新婚旅行に行くのと時間が近かったんだ、それでせっかくだからと付いてきて、荷物を持ちたいというから持たせていた」
「で、それを放って、こちらに来た、と」
うん、とうなづくのへ、降谷は我慢ならずに声を上げた。
「とっとと取ってこーいっ!」
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