■第5話「コレクターはアートを救う?!」
■第5話「コレクターはアートを救う?!」
『コレクター福富太郎の眼 昭和のキャバレー王が愛した絵画』(東京ステーションギャラリー)2021年4月24日(土)~6月27日(日)
国立西洋美術館が所蔵する西洋画は、「松方コレクション」が中核をなしています。また、三菱一号美術館では、2018年度に「フィリップス・コレクション展」が開催されました。美術館は個人のコレクションが基になっていることが多くあります。
世間では美術コレクターというと、どのような印象を持っているでしょうか。実業家や資産家が財力に物を言わせて、著名な作品をオークションで高額で落札するような、あまり良い印象は持たれていないかもしれません。モディリアーニの裸婦像が1億7000万ドルで落札されたニュースは日本でも話題になりました。このような超高額なオークションは例外としても、美術品は公共財であり、公共の美術館で鑑賞できるようにすべきだという冷ややかな意見もあるでしょう。しかし、公共の施設である美術館は、公金を扱うがゆえに、美術史における位置づけや、地元出身の画家であるとか収蔵することへの説明が求められ、自由に蒐集することはできません。また、日本がバブル景気に沸いていた頃と異なり、企業が美術館を運営することは困難になっています。美術館の経営は赤字になることも多く、文化貢献といっても上場企業であれば、株主からの追求も避けられません。
今回の企画展のタイトルにあるように福富太郎は、キャバレー王の異名を持っています。キャバレーと絵画はあまり似つかわしくない組み合わせに思うかもしれません。しかし、だからこそ他に真似できないコレクション、しかも類まれな審美眼に基づく優良なコレクションが構築されたのです。パンフの表紙を飾る鏑木清方の「薄雪」(図録4)は名作であり、福富太郎が手に入れなくても、他のコレクターや美術館の収蔵品になったでしょう。福富太郎の鏑木清方コレクションは一級品が揃っており、コレクター垂涎の的です。それだけではなく、福富太郎がいなければ恐らくはこの世界から消えていった名作が多々あります。今回の美術館回想記では、福富太郎によって救われた絵画を紹介します。
著名な作家であっても、当時の評価が芳しくない作品として、鏑木清方の「妖魚」(図録5)が挙げられます。清方自身、この作品を失敗作と評価し、自らがかわった回顧展の年譜にも記載していないくらいです。本展の図録表紙にも使われていますが、清方が描いたとは思えないグロテスクな雰囲気を醸し出しています。緑青を惜しみなく使って描いた岩も素人目には不気味としか言いようありません。福富太郎は同じ清方作品である「洋燈」(名都美術館所蔵)と交換したということですが、どちらを飾りたいかと聞かれれば、「洋燈」に軍配あがるでしょう。「妖魚」は六曲一隻の屏風でかなりの大きく、個人はもとより美術館でもそれなりの管理コストを要しそうです。鏑木清方もたまには違った作風にチャレンジしたのかもしれませんが、なにもこのサイズの屏風にしなくても良いのではないかと思います。評価はともあれ、今となっては「妖魚」も清方を語る上で、重要な作品であると認識され、福富の先見の明に恐れ入ります。
続いて驚いたのは、伊東深水の「戸外は雨」(図録33)です。伊東深水といえば、鏑木清方よりも典型的な美人画の作家というイメージでした。雪景色に和傘をさす女性といった感じでしょうか。ところが、「戸外は雨」は日劇ミュージックホールの楽屋で着替えや会話に興じる踊り子、黒子の男性、道化師など陽の当たらない社会の一幕です。描かれている女性も、率直に言って美人ではありません。気がついたら流れ着いた場所で、今日を生きているような人々です。しかしながら絵画としては興味深く、洗練されています。道化師の幕間から垣間見える舞台、ひと仕事終えたとばかりに足早に階段を降りる女性など見れば見るほど絵画が放つ喧騒と静寂に吸い込まれていく感じがします。これも福富ならではのコレクションでしょう。
次に、作家自身はさほど有名ではなくても、後世に残されるべき絵画というパターンです。まずは鳥居言人の「お夏狂乱」(図録34)という作品です。図録によれば、鳥居言人は、鳥居派宗家の8代目で清方門下という以外ほとんど手がかりがない頃から、福富は同人の作品を探していたらしく、小学校の担任教師に女性が似ていたという不埒な動機であるにもかかわらず、徹底的に調査し、出物を待ったそうです。それだけに「お夏狂乱」は、姿勢や表情など一級品と言える作品です。もしかすると福富が蒐集しなければ、この作品は消えていったかもしれません。
今回の展覧会で私がもっとも魅了されたのは、松浦舞雪の「踊り」(図録40)という作品です。図録でも4ページをカラーで割いており、作品解説と作品リストの間にも2ページ挿入されています。図録担当者もお気に入りの作品だったかもしれませんね。「踊り」は、北野恒富の「阿波踊り」と鏡像の関係にあると図録に記載されています。インターネットの画像で見る限りでは、北野恒富の作品は率直に言うと、田舎っぽい印象を受けました。これに対し、松浦舞雪の「踊り」は、面白い動きや構図いう域を遥かに超え、息を呑む緊張感が漲ってきます。ところが、松浦舞雪について図録の解説では、1916年第2回大阪美術展覧会の入選後、画業の足跡は判明せず、没年不明となっています。一つの作品に、これだけエネルギーを注ぎ込むタイプの作家であれば、いずれ心身はもたないだろうと思わせるほどで、後半生が不明であるというのもなんとなく頷けました。この作品も福富が蒐集しなければ、北野恒富の「阿波踊り」のオマージュに過ぎないと、見向きされなかったかもしれません。一般的に没年不明の作家は、作品数が少なく、財物としての価値は低いはずです。福富は、販売目録価格に頼らない確たる審美眼を持っていたことがわかります。また、保存状態が良好であるのも、福富太郎の絵画への想いが伝わってきました。(2021年7月22日)
東京ステーションギャラリー http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202104_fukutomi.html