■第3話「個性って何だろう 微温の画家 南薫造」
■第3話「個性って何だろう 微温の画家 南薫造」
『没後70年 南薫造』(東京ステーションギャラリー)2021年2月20日(土)~4月11日(日)
「南薫造」を知ったのは、没後70年を記念して開催された東京ステーションギャラリーの展覧会である [1]。もしかすると同氏の作品はどこかで見ていたのかもしれない。しかし、意識しない限り彼の名前を覚えるのは難しいだろう。同氏の作品は個性が薄すぎるのである。南薫造を一言で紹介すれば、「微温の画家」である。有島生馬は文展に出品された南薫造の作品を見て「どこまでも微温的である」と評したという。これは旧弊の殻を破ることができないという批判の意味があるようだが、今回の展覧会を鑑賞して、まさに微温であると適確な表現に感心した。
微温というのは、彼の作風だけではなく生き方にも当てはまる。同氏の来歴については、東京ステーションギャラリーの図録に掲載されている『南薫造-自然を見つめた眼、瀬戸内へのまなざし』[2] 及び『「微温的な」な芸術 南薫造と団体展』[3] が分かりやすく一読されたい。
南薫造は1883年(明治16年)に広島県賀茂郡内海町に生まれる。父は医者で比較的裕福な家庭で育ったようだ。幼い頃から米国帰りの内藤殖に水彩画を学び、東京美術学校に進学、卒業後は英国及びフランスに留学し、画家として順調に船出する。父は医業を継がせたかったようであるが、東京美術学校に進学させた時点で画業に対して一定の理解を持っていたのだろう。経済的な困窮や家庭内の不破等から無縁だったことが「微温」の下地になっているかもしれない。
画家として地位を固めていく南薫造は、画壇の争いから距離を置く。文展の洋画部門を新旧に分けるべきかが争われた二科騒動では、南薫造は二科会には入らず、文展に留まることを選択した。さらに、文展が帝展に改組された後は帝展に出品を続け、官と在野の争いに関わることを避けている。文展等の審査員や東京美術学校の教授を努めるなど官の側に軸を置きつつ、新しい側にも理解を持っていたのである。南薫造が要領良く立ち回ったというより、争いを好まない性格と人望によるのだろう。
南薫造の評価が定まらないのは、時代の流行りに沿った画風を器用に取り入れつつも、インパクトに欠けるとみなされたためではないか。確固たる画風、すなわち「個性」が欠如しているように見えてしまうのである。同氏の初期の頃の作品は、黒田清輝が率いる白馬会に属していたように外光主義の特色を持つ。今回の展覧会ではバーン=ジョーンズの「ミル」の模写が展示されていたが、「春(フランス女性)」(図録51) [4]や「二人の少女」(図録52)のようにラファエル前派の特徴が見て取れる作品もある。30代~40代になると筆致が荒く、色彩も大胆になっていく。しかし、どこか突き抜けておらず、小さくまとまっている印象が否めない。「石割り」(図録107)はゴッホ、「農村風景2」(図録135)はゴーギャンに通じるものがあるが、彼らより画風は穏やかになっている。また、印象派の要素を含む「童子」(図録114)や「六月の日」(図録108)は、当時としても古めかしい作風と評価されよう。「洞爺湖畔」(図録175)や「風景」(図録181)は一見すると革新的であるが、1910~1920年代は、ダダイズムやドイツ表現主義のように過激な芸術運動が広がりを見せており、同氏の作品は物足りないとされても仕方がない。円熟期の作品においても、これぞ南薫造といった画風を確立するには至らなかったように感じる。
しかし、南薫造の作品を鑑賞するには、「個性」というものを再考する必要があるというのが、今回私が述べたいことである。絵画を含め現代のアーティストは、個性を表現することを前提とし、自らの作風を確立することに囚われすぎている。絵画の歴史を辿れば、かつては工房で共同して制作するものであり、一人の作家が全てを描くことは求められなかった。また、理念を同じくする作家が集まって創作活動に励むことも多かったが、画風が似ることで画家が対立するという話はあまり聞いたことがない。時代が新しくなるにつれ、「パクリ」が大々的に論じられるようになる。
画風の確立という視点で、南薫造を評価するのは適切ではない。同氏は画風は技術に過ぎず、その技術を用いて自らが何を描き、表現するべきかが最も大事であると考えていたように思われる。画壇の対立から一歩引いていたのは、美術団体や組織は自らの芸術を追求するための活動の土台であり、芸術の優劣を決めるものではないという考えである。南薫造の「微温」の芸術とも符合する。同氏の作品を一連に鑑賞していくと、画風の確立に悩んでいるというより、様々な画風や技法を自らが描きたいものにどのように活かせるか試しているように見える。
では、南薫造は何を描きたかったのだろうか。今回の展覧会で気がついたのは、一つは「光」である。19世紀後半の印象派以降、20世紀中頃まで「光」をどう描くかは、絵画の最大のテーマと言っても過言ではない。東京美術学校在学中の作品である「瀬戸内海」(図録6)から、晩年に描いた「瀬戸内」(図録213)まで南薫造は一貫して「光」の描き方にこだわりを見せている。瀬戸内海という舞台は彼の原点でもある。「葡萄畑」(図録115)は木漏れ日という主題に正面から挑んでいる。
そして、南薫造の最大の魅力は、「風景に描かれる人物」である。風景を通じてそこに暮らす人物の営みを描くことこそ、彼なりの「個性」であったと思われる。「甘藍畑」(図録187)は、画面いっぱいに描かれたキャベツに目が行くが、黄色い麦わら帽子を被った人が収穫に勤しんでいる。奥には馬と一緒に作業をする白い服の人物も見て取れる。「高原の村の朝」(図録188)は、家屋の隣でしゃがむ二人の童が素晴らしい。「犬吠埼」(図録185)にも岩陰に座る3人がいるのを見逃してしまいそうである。人物を見つけた途端、そこで暮らす人びとに思いを馳せてしまう。「ノースモルトン風景」(図録26)、「白壁の農家」(図録27)と英国留学時代から人物を風景に溶け込ませることに類まれなセンスを発揮している。晩年の作品である「瀬戸内風景2」(図録205)、「須和風景」(図録195)は傑作である。小さい姿ながら息遣いまで聞こえてきそうな存在感を放っている。南薫造は「微温の画家である」が、その温もりは消えることがない。(2021年5月9日)
[1]同時期に『渋谷区立松濤美術館所蔵南薫造 日々の美しきもの』(渋谷区立松濤美術館)2021年2月12日(金)~3月7日(日)も開催された。https://shoto-museum.jp/exhibitions/2021salon/
[2]藤崎綾 広島県立美術館主任学芸員
[3]冨田章 東京ステーションギャラリー館長
[4]図録の番号は、東京ステーションギャラリーの『「没後70年 南薫造」展図録』のもの。
東京ステーションギャラリー http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202102_minami.html