タイトル:持って戻る グライダー
作家 :梅原 義幸
画廊 :ARTDYNE
展示会 :梅原義幸個展「持って戻る-bring back-」
購入日 :2022年 8月6日
サイズ :45×36cm
技法画材:油絵
タイトル:持って戻る グライダー
作家 :梅原 義幸
画廊 :ARTDYNE
展示会 :梅原義幸個展「持って戻る-bring back-」
購入日 :2022年 8月6日
サイズ :45×36cm
技法画材:油絵
稜線に沿って大きく旋回するグライダーを描いたこの作品はどこか風変わりで、鑑賞者を釘付けにするインパクトを放っている。ペインティングナイフを大胆に用いた描法は、左官の職人技のように隙がない。モチーフは空、グライダー、山の峰と少ないにも関わらず、どこから観るべきか悩む。気分を落ち着かせるため、一旦、作品から離れてみよう。
私は個展のDMを手にしたとき、「持って戻る」という個展のタイトルを繰り返し呟いてしまった。今回の個展は、作者が旅行した際に目にしたものがモチーフになっている [1]。タイトルが「持って帰る」であれば理解しやすい。家からグライダーが見える山に出かけ、そこで得た何かを家に持って帰ると想像できる。しかし、「戻る」という、一見すると似たような単語に変換されるだけで、意味合いは変わってしまう。「帰る」という単語は、旅行から帰る、仕事から帰るというように一般的に物事が帰結することを意味する。一方、「戻る」という場合、元いた場所に移動することは同じでも、次の行為に移行することを予想させる。仕事から戻ると言うときは、戻ったら買い物に行く、誰かを迎えに行くなど別の行為に繋がるわけだ。また、「帰る」という場合、場所の主従関係が明白である。家と山であれば、主たる場所はもちろん家になる。家に向かう場合「帰る」は自然であるが、山に向かう場合「帰る」は馴染み難い。しかし、「戻る」という言葉は、場所の主従関係が失われてしまう。家であれ山であれ、次の行為が予想されるため「戻る」ことに違和感はない。「持って戻る」というタイトルは、単純に山で見たことを家で描いたのではなく、作者の意思が往復し連鎖していること、また、家や山という位置的な主従関係を超えていることを意味しているのではなかろうか。この点はアーティスト・ステートメントからもうかがえる[2]。
個展風景①
これを踏まえたうえで作品を鑑賞してみよう。まずは構図である。グライダーは画面の左上から右下に大きく傾き、旋回している。左翼がわずかに見切れることで、風を切る勢いが感じられる。直線的な右翼に対し、左翼は空位の抵抗を受け、大きくたわんでいる。グライダーの滑空力を高めるために軽量でしなやかな素材が用いられているとしても、ここまで翼が湾曲することはないであろう。これは作者が最初に見た風景と自らの意識をキャンバスに投影するという往復の過程で生まれたイメージと思われる。作者はグライダーが鳥のように見えたと話していた。作者が目にしたものはグライダーであるが、それを描く中では、必ずしも物質的なグライダーを表現したものではなく、グライダーの滑空する観念的な形の美しさに昇華したものかもしれない。グライダーでも鳥でもない、飛ぶことから連想される、憧れや爽快さ、自由といったイメージが作者の思考形として表出したと想像しうる。
グライダーは画面を二分するほど大きく描かれており、かえって実際の大きさは不明瞭になる。あたかも望遠鏡で覗いているようだ。山の稜線はどこまで続くのかわからない。拡大されたイメージの中では、グライダーの高度や作者との距離も捨象されてしまう。これも「キャンバスとイメージの間を行ったり来たりする」ことに由来すると考えられる。鑑賞者は意識しないうちに、自分の記憶の中から不足する情報を埋めることになる。作者がキャンバスに向き合って「山の光景を思い出すと同時にひたすら自分を見つめる」のと同様に、私は「グライダー」を眺めるうちに、自らの記憶の中でひたすら自分を見つめていることに気づかされた。
山の稜線はグライダーの動きを補完する。左の山は急峻であるが、グライダーはそれ以上に傾いている。右の山はなだらかでグライダーの翼に歩調を合わせるような線を形成している。山が二つに分かれているのも見逃せない。鑑賞者の視線は稜線に沿って動き、画面下中央で一旦、吸い込まれるように抜け落ちる。そして、視線が右の山に戻ると、グライダーの左翼と峰の狭間という狭い空間に閉じ込められる。グライダーの右翼はのびのびと、左翼は詰まったような感覚を与えることで、気流を利用して滑空するグライダーの浮遊感が生まれるのだ。山のモコモコした質感と空の滑らかさの対比も面白い。
次に配色について考えていると、一つの疑問が浮かんできた。なぜグライダーを水色にしたのだろう。そもそも水色のグライダーは存在するのだろうか。一般的に航空機は白をベースにしていることが多い。発色という点から下地は白の塗料が用いられる。つまり、青や赤にするには2回塗布することになり、コストがかかるうえ、塗料の重みが増えてしまう。熱を逃がすという点でも白が効果的である。もちろん期待を目立たせるためカラーリングすることはある。しかし、機体の全体を水色にしてしまえば、空と同化してしまう。戦闘機にグレーが多いのは曇天や海上で目立たなくするためであるが、ブルーも同化しやすい。まして、この作品のような晴天では遠目からグライダーの存在がわかりにくく、視認性を欠く。作者が実際に見たグライダーの色はともかく、作品においてはどのような配色にするかは自由だ。白の単色としても構わないし、部分的にストライプなどの意匠を凝らすこともできる。とすれば、水色のグライダーは作者の強い意思があったと推測される。空を舞うグライダーは地上にいる作者から見て、不思議な存在に感じたのかもしれない。グライダーは雲のように影のように空と渾然一体となり、キャンバスと自分を往復する中で観念として残った形とも言えよう。そして、これは作者の最大の魅力であるレイヤー(層)に至る。
個展風景②
この作品はレイヤーによって構成されている。油絵では何層目というように幾つもの段階を経るがそれは色彩に深みを与えるためで、層を意識させることは意図していない。それに対し、この作品は空、グライダー、山というレイヤーを基軸としている。単純に盛り上げによる視覚的な演出とは全く異なる。我々がいる三次元の世界を二次元においてどのように表現するかという絵画の根本的な命題に対し、レイヤーという観点からアプローチしている。そのため、この作品はレイヤーを意識させて初めて鑑賞が成り立つとしても過言ではないだろう。しかしながら、この作品におけるレイヤーの解釈は難しい。空と山の境目に着目してみよう。山は全体的に厚みがあり、空との境界は海岸線を思わせるようなダイナミズムに富む。絵具が有する物質感が強調され、デジタルとは異なるマテリアルの世界がせめぎ合う。ここまでは直感的に理解し、多くの人が魅了されるポイントである。しかし作者曰く、空のレイヤーは稜線との境界で遮断されているわけではない。山と空のレイヤーは重なりもするようだ。グライダーに着目してみよう。遠目ではグライダーも山と同様に盛り上がっているように見えるかもしれないが、実は削り取った後に埋めている。まずは空となる薄い水色をキャンバスに塗布する(巨大なローラーで塗るか、ペインティングナイフのようなもので表面を一気に削ぎ取る)。その後、グライダーの部分は削り、水色で埋め、山の部分をペインティングナイフで盛るという工程を経る。そのため、グライダーと山は異なるレイヤーにあり、グライダーは空に溶け込むような効果をもたらす。空とグライダーは接近したレイヤー、山は鑑賞者に迫るレイヤーとなる。グライダーを空と同系色にしたのは、鑑賞者に色彩ではなくレイヤーを意識させるためかもしれない。
さらに作者は、グライダーの黄色の部分、空に打たれたピンクと青の点すらレイヤーであると言う。ピンクの点からグライダーの黄色い部分を結ぶと翼のように湾曲しており、複層的な流れを生む。指し色としても有効である。しかし、点をレイヤーとして意図するのは大胆な試みである。近寄ってみると、ピンクの点は打たれたというより、海面から火山の頂上が浮き出ているように突出している。水色の上にピンクを塗ったのではなく、グライダーと同様に一旦水色を削り、埋めたものと思われる。空、グライダー、山に加えて、謎めいたピンクのレイヤーが加わることで、作品を構成するレイヤーは一層複雑なものになる。最初にこの作品を見たときに、どこから鑑賞すべきか迷ったのは、指し色以上に存在感を放つこのピンクのレイヤーがあったためかもしれない。これは作品を読み解く鍵でもある。
作品全体はもとより、部分ごとの完成度を意識するという作者の言葉も印象に残った。レイヤーとレイヤーがぶつかり合う部分は、納得のいくものが描けているか細心の注意を払うと言う。画面を分割して、個々のブロックに問題がないことを確認して完成に至る。もしポップアートは全体的なコンセプトを重視するものと定義すれば、この作品はポップアートからかなり離れた位置にいることになる。梅原さんは「瞳」をモチーフの主役に据える作品が多い。人物はもとより、花や草木にも「瞳」が現れる。作者は作品を、作品は作者を見ているのかもしれない。この作品ではグライダーの窓のような黄色い「瞳」が作者を見つめている。そこに鑑賞者という新たな「瞳」が登場することで、幾つもの様相が生まれ出ずる。(2022年9月12日)
[1] 群馬県の妙義山に取材した作品が多いが、「グライダー」は長野県の霧ヶ峰による。
[2] アーティスト・ステートメント
落ち着かない時は山に入る、そこには沢山の気配がある。鳥の鳴き声、獣道、音や匂い、それに加えて石や木、川の水、全てが持っている。気がつくと散らばった意識を集中させてその見えない姿を想像している。気配に私が持ち込んだ沢山が包まれて行く、絆創膏のように被さって形になった。私はそれを持ち帰り絵を描いた。
キャンバスとイメージの間を行ったり来たりする、この工程では山の光景を思い出すと同時にひたすら自分を見つめることになる。繰り返していくとイメージは独立した物となって現れた。記号のように単純な瞳が沢山の情報を持ちながら、逸らした目で再度自分を見つめてくる。私が見てきた沢山から逃げることはできない。そしてまた絆創膏のようなあの気配を探して外に出る。あのとき感じた気配は最初から自分の中にあったのではないかと思う。 梅原義幸
個展風景③