フィレンツェ2日目は9:50からスカルツォの回廊を見て、10時からサンマルコ修道院、11時からサン・ロレンツィオ聖堂を見学
キオストロ・デッロ・スカルツォは、フィレンツェのカヴール通りの69番にある小さな回廊
ここは10時前から10分ちょっとで観覧
Andrea del Sarto(アンドレア・デル・サルト1486/7/16-1530/9/29)が1509年から1526年の間に聖ヨハネの洗礼について4つの美徳( 信仰、希望、慈愛、正義)をテーマに描いた。絵は全部で16枚ある。
アントニーノ・ピエロッツィは、サンタントニーノ・ダ・フィレンツェ(1389/3/1-1459/5/2)としても知られたイタリアの神学者、カトリック大司教、聖人でもある。
Battesimo di Cristo(キリストの洗礼1509-10)かも
マリアは、エリサベトが身ごもって6か月になることを受胎告知の折に告げられて、出かけてエリサベトを訪ねていった。エリサベトと胎内の子(洗礼者ヨハネ)は聖霊に満たされ、エリサベトはマリアを祝福した。マリアはマニフィカトを歌って主を賛美し、エリサベトのもとに3か月ほど滞在した。Incontro di Cristo e san Giovannino(キリストと洗礼者ヨハネの出会い)かもしれない。
ヘロデ王には愛人のヘロディアスがいて、バプテスマが拒絶されたことで憎んでいた。ヘロディアスには魅力的な美しさの娘サロメがいて、ヘロデも「崇拝者」だった。ヘロデは宴会の間、サロメにダンスを頼んだ。母親はバプテスマの聖ヨハネに復讐する機会として娘に受け入れるように言った。ヘロデはバプテストの頭と引き換えに同意し、サロメは彼のダンス(七つのベールのダンスとして知られる)を行った。その後、テーブルで、宴会の間に、バプテスマの聖ヨハネの頭が王に提示された。
サンマルコのメディチ家礼拝堂のチャペルだったが、現在は控訴裁判所となっている
サンマルコ修道院。元来ドメニコ会修道院であり、その一部を美術館として公開、修道院に所縁の深い美術品を展示。建築家ミケロッツォの傑作で館内には、修道士として当修道院に居住した画家フラ・アンジェリコが残した板絵およびフレスコ画が保管されている。他にもフラ・バルトロメオ、ドメニコ・ギルランダイオ、アレッソ・バルドヴィネッティ、ヤコポ・ヴィニャーリ、ベルナルディーノ・ポッチェッティ、ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ等の作品を見学することができる。
フィレンツェが首都となった一時期(1865-1871)に再開発と称して取り壊された建物の遺構も保管されている。2014年までドメニコ会の本拠地で、修道士たちは建物西翼に居住していたが、2014年以降に同じくドメニコ会であるサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院へと移った。
左の写真の右横にある。10時から1時間程度で見学。中は撮影禁止
ファサードの真裏(東)にある
突き当りにEUIが見える
欧州共同体加盟国がヨーロッパ社会の展望について文化的、科学的な発展に寄与するために設立。法令により政府間機関とされる。EUの歴史文書館を併設し、ヨーロッパ研究、特にEU研究において、世界最高峰の教育・研究機関として名高く、ヨーロッパを中心に世界中から著名な教授陣、及び、優秀な博士研究員が集うことで知られている。経済学研究科、歴史・文明学研究科、法学研究科、政治・社会学研究科がある。サンマルコ薬局の筋向いにある。
フィレンツェ検察庁。控訴裁判所と最高裁判所の検察官の事務所。EUIの南隣。サンマルコ修道院の西向い。
右がサンマルコ修道院
植物園、入場無料
ベルナルド・ファラニにより1775年から1780年の間に建てられた。1786年、この小さな宮殿は、大公の愛人であるバレリーナ・リビア・ライモンディの住居となり1865年まで続いた。その後、国有財産税総局の事務所の一部となった。
カミッロ・カヴェール通り、右手前に左の写真の建物がある・
サンマルコ修道院の北西に隣接するサンマルコの薬局。サンタマリアノヴェッラの双子の薬局としてドミニカの修道士によって設立され、1450年に一般公開されたが1995年に閉鎖。有名な製品はアルチェルメス(メディチの酒といわれるシナモンなどが入った薬草酒)、解毒水、胃薬、ローズウォーター。
マンフレド・フランティ将軍(1806/2/23-1865/4/5)の像。イタリア王立陸軍(Regio Esercito)の創立者として知られる
トスカーナ地区軍事指揮所/陸軍インフラ指揮所。サンマルコ修道院の北250mくらいのところにある
マルチェッリアーナ図書館。カミッロ・カヴェール通りにある。2つ上の右の写真の真ん中あたりにある
いずれもイタリアの筆記具メーカー。sferaはボールペン、rollerは水性ボールペン、stilograficaは万年筆
ヴィスコンティの万年筆は630ユーロ、レンブラントの万年筆は95ユーロ、アウロラのアジアの限定品は675ユーロ。
1923年創業のおもちゃ屋
現在の通りがカヴール通りではなくラルガ通りと呼ばれていた時代、15世紀半ばにサン・マルコ教会近くにあった旧メディチ邸からこちらのより大きい家に引っ越しをします。かつての有力貴族たちが、妬みや中傷や陰謀などで政界から追放されゆくのを見ていた老コジモは、自分たちの家の設計を見た目を質素に、とミケロッツォ・ミケロッツィに依頼。
フィリッポ・ブルネッレスキがその前に豪華なデザインをして却下されたとも言われるが、共和国派だったブルネッレスキを採用したくなかったという政治的理由によると考えられている。ブルネッレスキの案を元に弟子が設計したピッティ宮殿のオリジナルの姿はこのメディチ宮殿(リッカルディ家による拡張工事の前)に似ている。外壁は派手でないが地下の基礎構造は非常に堅牢な造りをしており、メディチ家の潤沢な資金が感じられる。
1600年代半ばに、すでにピッティ宮殿に居を移していたメディチ家からリッカルディ家に売却され増改築される。この時からPalazzo MediciからPalazzo Medici Riccardiメディチ・リッカルディ宮殿へと呼ばれ方が変わった。収められていた美術コレクションはメディチ家追放の際に各地に散ってしまうが、現在でも残る東方三博士の礼拝堂(マージ、もしくはマギの礼拝堂)は小さな空間に隙間なく繊細な装飾画が施されたベノッツォ・ゴッゾリの代表作。
サン・ロレンツオ聖堂
1419年にブルネレスキによって再建されたメディチ家の聖堂。正面はミケランジェロの設計したファサードで飾る予定が実行されないまま、現在も残る。堂内の中央廊と翼廊が交差する祭壇前には、コジモ・イル・ヴェッキオとドナテッロの墓碑があり、隣接のメディチ家礼拝堂には一家の歴代の大公が葬られている。堂内は薄いグレーのモノトーン。
フィリッポ・リッピの”受胎告知”やドナテッロの最後の作品、2つの説教壇に施されたレリーフ”キリストの復活”、ブロンズィーノの巨大なフレスコ画”聖ロレンツオの苦痛”がある。聖堂左翼廊の先にはブルネレスキの旧聖具室があり、幾何学模様のクーポラの下にジョヴァンニ・メディチの棺が置かれている。また2階はミケランジェロ設計のラウレンツィアーナ図書館。
中左上の像。ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネレの記念碑。この像はもともと1540年にコジモ・イ・デ・メディチによって、父ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネレを記念して委託された。彫刻家はバッチョ・バンディネッリ。契約は2年以内に彫像と浅浮き彫りの完成を求めたが、1560年にバンディネッリが死んだ時、後者は未完成のままだった。像自体はヴェッキオ宮殿の大ホールに、台座はサンロレンツォ大聖堂のネローニ礼拝堂に残っていた。1620年、コジモ・デ・メディチは、台座を広場に移動した。
Casa Buonarroti(ミケランジェロの家。Via Ghibellina, 70 ドゥオーモの南東750m)にある。
サン・ロレンツォ聖堂に付属する、「新聖具室」と「君主の礼拝堂」と呼ばれる2棟の建物の総称。ミケランジェロは、この建築計画以前にサン・ロレンツォ聖堂のファサード建設をレオ10世の従弟ジュリオ・デ・メディチ枢機卿(後の教皇クレメンス7世)から受けていたが、様々な要因により1520年3月にその契約を取り消しており、これと同じ月に新しい礼拝堂の建設計画は始まった。ブルネレスキによる旧聖具室と対を成す形で、同じ形状の建物を建設することが意図された。ミケランジェロは様々な装飾計画を考え、最終的にヌムール公とウルビーノ公の墓廟を左右の壁面に設置し、マニフィコと弟ジュリアーノの共同墓廟を祭壇に対面する壁面に設置するという考えに落ち着いた。しかし、1521年にレオ10世が没したことで、計画は一旦中断された。
ジュリオ・デ・メディチ枢機卿が1523年にクレメンス7世として教皇に選出されると、その年の12月にミケランジェロはメディチ家の墓廟建設のためサン・ロレンツォ聖堂に再び召喚された。この墓廟にレオ10世とクレメンス7世の墓廟も含めることも考えられたが、結局2人はローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に葬られることとなる。1524年の春にミケランジェロは模型を作り、秋には白大理石の産出地カッラーラから大理石を調達。1525年から1527年の間に4体の彫刻(中に「夜」と「曙」が含まれる)を完成し、その他4体の模型も完成していた。ローマ劫掠(スペイン国王カール5世によるローマ侵略、1527年)により教皇クレメンス7世は強烈な打撃を受けたうえ、この機会にフィレンツェ市民はメディチ家支配に反旗を翻し、クレメンス7世の庶子でフィレンツェ僭主アレッサンドロ・デ・メディチを町から追放。
ミケランジェロは若年期からメディチ家と強い結びつきを持っていたものの、フィレンツェ共和国支持者の側について要塞の責任者として1529年から1530年のフィレンツェ包囲戦を戦った。この戦いでフィレンツェ人は負け、ミケランジェロは町から逃亡したものの、重度の処罰を避けるため自主的に町に戻った。クレメンス7世はサン・ロレンツォ聖堂での礼拝堂建設を直ちに再開するという条件でミケランジェロを許した。
ここは11時から40分ぐらいで見学
1531年4月に新聖具室の建設は再開され、夏までに2体の彫像が完成した。ウルビーノ公の肖像は1531年から1534年の間に制作され、ヌムール公の肖像は1533年に仕上げのためジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリに託された。同時期にミケランジェロは2体の寓意像『天』と『地』を用意していたが、後にニッコロ・トリボーロが完成し、ジュリアーノの墓の両脇の壁龕に設置されることになっていたが実現していない。1532年から1533年の間にジョヴァンニ・ダ・ウーディネが丸天井(クーポラ)にストゥッコ装飾を施したが1556年にジョルジョ・ヴァザーリにより消されている。ミケランジェロは新聖具室の仕事への意欲を失っており、フィレンツェの政治状況にも耐えかねローマで新しい仕事を獲得したことを機に1534年、フィレンツェを去り、以来フィレンツェに戻ることは一度もなかった。
マニフィコとジュリアーノの墓に捧げられる壁面は全く手を付けられておらず、河の神々の像やその他の彫像、フレスコ画など契約書にあった仕事は終わっていなかったが、ミケランジェロが去った時点で新聖具室の仕事は完了と見做された。彫刻群が新聖具室に安置されたのは1545年、トリボーロの指揮によるものだった。 メディチ家の守護聖人である聖コスマとダミアーノの彫像はミケランジェロの模型をもとにそれぞれモントルソリとラファエロ・ダ・モンテルーポの手で彫られた。1559年になりメディチ家の初代トスカーナ大公コジモ1世の命で、芸術家ヴァザーリと建築家バルトロメオ・アンマナーティの指揮下で礼拝堂は整備され、おおよそ今日の姿となった。
八角形の君主の礼拝堂は、ドーム状の屋根を持つ高さ59mの建物で後陣の礼拝堂という聖堂身廊のなかでも重要な場所に位置している。君主の礼拝堂にはマドンナ・デッリ・アルドブランディーニ広場に面した入り口があり、ベルナルド・ブオンタレンティが設計した円天井の地下聖堂へと続く。君主の礼拝堂の設計原案は初代トスカーナ大公コジモ1世による。第3代トスカーナ大公フェルディナンド1世がこの原案を引き継ぎ、設計は建築家マッテオ・ニゲッティ。コジモ1世の息子ドン・ジョヴァンニが1602年に非公式に行ったコンペを経て決まった。壁面を大量の彩色大理石と半貴石で飾り立てるために、トスカーナ大公家は専門の加工工房(現在のピエトレ・ドゥーレ博物館)を設立。礼拝堂内部には6個の石棺が安置されているが中は空である。これは礼拝殿完成後もメディチ一族が地下聖堂に埋葬され続けたため。16枚に区分けされた装飾羽目板には、メディチ家支配下時のトスカーナの紋章が表現されている。壁龕にはメディチ一族の有力者たちを記念する肖像彫刻があり、そのうちフェルディナンド1世の彫刻とコジモ2世の彫刻はピエトロ・タッカの作品。
右は曙。女性への擬人化。モデルはローマのセプティミウス・セヴェラスのアーチの山と川の神々。頭はベールに包まれ、睡眠から目を覚まし、ベッドから立ち上がり、胴体をこちらに向け、一方の肘を支持として曲げ、もう一方の腕を肩の高さで持ち上げるようなジェスチャーをしている。一方の脚は石棺に沿って柔らかく伸び、もう一方の脚は前方に曲がっている。
左はたそがれ。男性への擬人化。片方の脚を他方の脚に引き伸ばしてダイナミズムを持ち、腕は太ももにそっと休み、後ろに落ちるベールを持ち、もう一方は肘を曲げて体を支え、手足が疲れて休まようとしているように見える。顔はひげを生やしていて、思慮深いように見える。右の写真とともにウィキから引用。
右の昼は男性の擬人化。夜の反対のポーズで、背中を見せる唯一のもの。 左肘は曲がっているが、右腕は何かを探すため伸びている。前腕だけが彫刻され、脚は胴体の回転とは反対方向に交差し、ひげを生やした顔は、その不完全さのために神秘的な表情を示している。この作品は、奴隷制からの反乱の政治的象徴、または自由への衝動の自伝的テーマなど、数多くの解釈を受けている。
左の夜は女性の擬人化として表され、モデルとして、おそらく、レダや眠っているアリアドネの古代の表現を持っていた。左足が曲がり、左腕は後ろに曲がり、右腕は左太ももに寄りかかって頭を保持する。髪は長く、三つ編みに集まり、頭の上に三日月と星を持つティアラを身に着けている。