しあわせのハンバーグ

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:母が死んだ。

:確か、小学校入学を控えていた頃だっただろうか。

:父の口からは何故か、事実以外、何も聞かされていない。

:ただ、それを私に告げる父の顔が、少し歪だったことだけが、妙に印象付いている。

:当時幼かった私は訳も分からず、ただ漠然と、

:「母がいない1日」を繰り返した。

:父は家に居る時間が長くなり、髭も剃らなくなった。

:父のスーツやシャツに染み付いていた臭いが、

:何時しか家の何処に居ても、鼻をつくようになった。

:だが、不思議と、それに嫌悪感を抱いていた記憶は無い。

:それはきっと、いつも顔を合わせる機会の少なかった父が、いつもよりも傍に居てくれる。

:その幸福感が、私の思考を、占拠していたからなのだろう。

:年端もいかぬ少女と、家事などついぞ、関心も無かった父。

:家事が疎かになり、食事も質素になるのは、必然のこと。

:小さなテーブルの横には、空のプラスチック容器が積み重ねられ、

:一緒に転がる空き缶は、吸殻でいっぱいになってから、

:コンビニや、公園のゴミ箱に捨てていた。

:当時はそれが正しい分別だと教えられ、信じ込んでいたが、

:近所の住人からは、さぞかし訝しみの目で見られていたことだろう。

:そんな、変わり映えも無い2人での食卓だったが、

:1週間に1度だけ、父自ら、食事を作ることがあった。

:なけなしの材料で作られた、酷く不格好で、なんとも不細工なハンバーグ。

:父はそれを、母が死んだ時から欠かさず作ってくれ、それがあまりにも美味しくて、

:嫌な事があった時でも、それさえ食べれば、すっかり元気付けられていた。

:我が家での、数少ない贅沢品だったからだろうか、

:わざとらしい程に大きく作られていたのもまた、

:口いっぱいに肉の塊を頬張る多幸感を助長した。

:素面の父と過ごす時間と、ハンバーグを食す時間。

:幼少の私にとって、これらが、全てを癒す万能薬だった。

:しかし、何時しか万能薬を飲み干した時、

:抑え込まれていたモノが、ここぞとばかりに溢れ出す。

:その日の父は、朝から酒を飲んでいた。

:「ハンバーグに使うお肉が、無くなったんだ」

:そう話す父の表情は、とても残念そう、と表現するには、あまりにも歪で。

:ああ、確か、そうだ。

:母が死んだと話していた時も、父は、こんな顔だった。

:そういえば、あの日もまた、金曜日だった。

:帰宅した時、既にリビングには、空き缶が散乱していた。

:「今日はいつもよりペースが早いな」

:その程度の認識だった。

:陽が沈み、部屋が仄暗くなった頃。

:会話の流れは覚えていないが、興味本位か、

:はたまた父のすすめか、若しくはその両方か。

:いずれにせよ、私は、初めて、酒を数口飲んだ。

:……それを最後に、翌朝までの記憶がぷっつりと途絶えている。

:何かを盛られていた、と薄々ながらに思うのは、

:とっくに遅い、今更になってからだ。

:ただひとつ覚えているのは、自分と、不自然にべた付く自分の服と、

:自分が横たわっていた布団に染み付いた、匂い。

:何かに似ていた、時々通学路でも嗅いだことのあった、何かの。

:……そう、そうだ。

:あの匂いは、あの記憶は今でも尚、まざまざしい。

:あれはそう、吐気を催す程に、酷く芳醇な、栗の花の匂いだった。

:その日から後の事は、喩えるならば霞の様で。

:思い出そうとする意思すらが、最早夢より脆いもの。

:ただ唯一、厭になるほど鮮明に憶えているのは、

:囁きにも、嗚咽にも似た、酷く純粋な衝動と、

:生温く、鉄臭い泥濘に塗れ、痺れ、何時までも震えていた両の手と。

:そして、そして。

:忌々しいほどに幸福で、憎々しいくせに口福な、

:あの父に与えられ、あの男に学んだ、あの肉の味。

:咀嚼も、嚥下も、吐瀉も、

:あの男の味がする。

:気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

:吐き出したい。

:吐き出せ。

:吐き出してしまえ。

:吐き出して、棄ててしまえ。

:全て、全て、全てを。

:そう感じる事が出来たなら、そう思う事が出来たなら、

:それがきっと、ようやく手に入れられる、「普通」という幸せなのだろう。

:あの父がいなくなっても、あの男がいなくなっても。

:私はずっと、心も躰も、

:侵された昔のまま、犯されたあの日のまま。

:しあわせのハンバーグはまだ、なくならない。


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