毒蜘蛛の跫(あしおと)

(登場人物)

・縁 廉太郎(えにし れんたろう):♂

山奥で旅籠を営む若主人。

目立った特徴は無いが、人一倍正義感が強い。

家事全般が得意分野。


・縁 左近(えにし さこん):♂

旅籠の従業員で廉太郎の義理の弟。

女好きで軽口も多いが、根は真面目。

力仕事が得意分野。


・椿 綾女(つばき あやめ):♀

旅籠の看板娘。

廉太郎の婚約者でもある。

家事全般、特に料理が得意分野。


・シオン:♀

旅籠に突然やって来た女性客。見た目20歳前後。


・N(ナレーション):不問


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(役表)

廉太郎:

左近:

綾女:

シオン:

N:

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N:今は昔、ある冬の日の事。

  一面の雪景色となった山の奥、人目の付かぬその場所にひっそりと佇む旅籠にて、

  陽が昇る直前の仄暗い早朝、雪掻きを行う二人の男の姿があった。


左近:……よ、いしょっと!

   ふう~……廉ちゃんよ、こんなもんで良いかね?


廉太郎:そうだな。

    ひとまずはこんなもんで充分だろう。


左近:やれやれ。

   毎年の事とはいえ、雪掻きは骨が折れるわ。


廉太郎:はは、ぼやくなぼやくな。 

    これも、僕達の仕事のうちさ。


N:屋根の上で文句を吐く左近を、玄関前に居る廉太郎が嗜める。

  この年は特に例年よりも積雪量が多く、こうして定期的に雪掻きをしてしまわなければ、

  あっという間に、膝辺りまで積もってしまいそうな勢いだった。

  そんな中、雪掻きをしていた二人に、窓からひょこっと顔を出した綾女が声をかけた。


綾女:二人共、お疲れ様です。

   温かいお茶と、お風呂も沸かしておきましたから、戻ったらどうぞ。


左近:おお、有難いねぇ!

   こんな寒い、中いつまでも屋根の上なんかにいちゃあ、全身悴んじまうわ。

   廉ちゃんよ、とりあえずこっちは一通り落としたから、俺は先に戻ってるぞ。


廉太郎:ああ、ご苦労さん。


N:梯子で屋根から降り、意気揚々と旅籠の中へと入っていく左近。

  廉太郎は、陽が昇り始めてもやや薄暗いままの空を、ぼんやりと眺めていた。


廉太郎:……こりゃあ、また一降り来そうだなあ……


綾女:廉太郎さん、どうかされましたか?


廉太郎:ああ……いや、今年はよく降るなあってね。


綾女:そうですね。

   ただでさえ、山は天候の変化が激しいと言いますし……


廉太郎:こんな調子じゃあ、客足が減ってしまうのが心配だよ。


綾女:あら、元よりそこまで多くもないではありませんか。


廉太郎:……はは、なかなか皮肉が上手くなったね。

綾女:うふふっ。


N:笑い合う二人。

  廉太郎は軽く伸びをし、店前の看板を「商い中」に置き換えた。

  そして、雪掻き道具と梯子を片付けた後、白く溜息を吐く。


廉太郎:さて、じゃあ僕も、茶と風呂を頂くとしようかな。

    良かったら綾女も、後で入るといい。

    ただでさえ、今年は冷え込みが強いからね。


綾女:あ、……はい。


廉太郎:……?

    どうかしたかい?


綾女:あ、いえ……

   何か、向こうの方に人影が見えたような……


廉太郎:……?

    誰もいないよ、気のせいだろう。

    ほら、とにかく中に入った入った。

    無闇に身体を冷やして体調を崩したら、元も子もないよ。


N:そう言って、綾女の背を押しながら旅籠の中に戻る廉太郎。

  そんな景色を見下ろす空には日光こそあれど、既に乱層雲が近付きつつあり、

  太陽の射光は、何時もよりも弱々しかった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


左近:あ~あ……こいつぁひでえや。


廉太郎:ん、どうした?


N:夕刻。

  窓から外の様子を見ていた左近の、ぼやきにも似た呟きに、廉太郎は掃除の手を止めた。


左近:見なよ、まぁた雪だ。

   しかも、これまた結構な勢いで吹雪いてやがらァ。

   せっかく今朝、雪下ろししたばっかだってのによー……


綾女:あら……本当ですね。

   山を登られてる方達は大丈夫かしら……


廉太郎:そういう人達は僕達よりも、こういう山の気紛れは熟知してるだろうさ。


左近:雪の重みで、この旅籠が潰れなきゃ良いけどなぁ。


廉太郎:おいおい……止してくれよ。

    確かに威張れるほど立派な物でもないが、そこまで貧相な作りでもないさ。


N:そう笑いながら言いつつも廉太郎は、窓や木製の扉を揺する雪風に、一抹の不安も感じていた。

  その時、小刻みに震えていた扉が、外側から何者かに叩かれ始めた。


左近:うぉ!?


廉太郎:風……か?

    それにしては……


シオン:ごめんください……ごめんください……


綾女:あぁっ、ごめんなさい、すぐ開けます!


左近:おっ?

   今の声、もしかして、おなごか?


廉太郎:こんな天候の中、この時分にか?


N:既に若干の下心を覗かせる左近と、訝しげな表情の廉太郎。

  そんな二人を背に、綾女は扉を開ける。

  そこに飛び込んできたのは、強く冷たい吹雪と、杜若色の着物を纏った、髪の長い幽艶な女性だった。


シオン:はぁ……助かりました……


左近:うっはぁ~!

   これまた結構な美人で、いだっ!


廉太郎:茶化すな、左近。


シオン:えっ……あの……?


廉太郎:ああいや、気にしないでくれ。

    ゆっくり挨拶もしたいが、こんな雪の中来られたんだ。

    さぞ体も冷えていることだろうし、話は後回しにしよう。

    綾女、すぐに浴場へご案内して。


綾女:あ、はい。

   さあさ、どうぞどうぞ。


シオン:え?

    あっ、あの、ちょっと待っ……!


N:状況を飲み込めないシオンの背を押して、浴場へと連れて行く綾女。

  それを見送る廉太郎の隣で、左近は口元を緩ませていた。


左近:いやぁ、こんな辺鄙な旅籠でも、待ってりゃ別嬪は寄ってくるもんだなぁ!


廉太郎:辺鄙とはなんだ、辺鄙とは……

    それに、人に言えないような訳ありの遭難者かも知れないんだ、迂闊に軽口を叩かないでくれよ?


左近:まぁなあ……確かに。

   こんな時分に、こんな雪ん中、あんな軽装で来なすったんだ。

   十中八九、ただの旅のお人ってわけじゃぁないだろうなぁ。


廉太郎:そういう事だ。

    まあ、分かってるんだったら良いさ。

    僕は部屋の準備をしてくるから、左近は食事の用意を頼む。


左近:はっ!?

   おいおい、俺に料理を作れってのか?


廉太郎:そんな危険な事、させる訳無いだろう。

    もう料理は一通り作ってあるから、食器とかを出しといてくれって事だよ。


左近:ああ、何だそういう事か。

   あいよ!


廉太郎:全く……

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


N:ところ変わって、浴場。

  湯煙の中、綾女がシオンのやや白みがかった背中を流している。


綾女:ごめんなさい、半ば無理矢理、ここまで連れ込んでしまって。


シオン:い、いえ。それは良いんですけど……此処は?


綾女:此処は、旅籠「縁屋」です。

   私は、此処で働いてる椿 綾女といいます。


シオン:旅籠?


綾女:そうです。

   と言っても、そうそうお客様が来られるわけでもないんですけど。

   こういう商いが、此処の主人の、夢だったらしくって。


シオン:そう……ですか。


綾女:よければ、貴女の名前も、聞かせてもらえませんか。


シオン:ああ、あたい……じゃなかった。

    ……私は、シオン、といいます。


綾女:シオンさん……素敵な名前ですね。


シオン:有難う、……ございます。


綾女:それで、……あの、シオンさんは何故、こんな雪の中を?


シオン:……最初は、山菜とか、茸を採りに来ていたんです。

    雲は出ていたけれど、少しだけなら、大丈夫かなって思って……

    でも、あっという間に吹雪いてきて、行きも帰りも、道が分からなくなってしまって。

    それで、無我夢中で歩いていたら、偶然此処に辿り着いたの。……です。


綾女:そうでしたか……

   それなら、不幸中の幸いでしたね。


シオン:ええ、本当に。


綾女:……それじゃ、私は食事の準備を手伝ってきます。

   お着替えも置いておきますから、ごゆっくりどうぞ。


シオン:すみません、何から何まで……

    ……不幸中の幸い……ね……ふふふ。


N:湯船に浸かりながら、ぽつりと呟くシオン。

  その表情には、なぜかうっすらと、笑みが浮かんでいた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


廉太郎:話は一通り綾女から聞いたよ、シオンさん。

    いや、随分大変な思いをされたようで。

    自分で言うのもなんだが、こんな雪の中、此処に来れただけでも良かった。


左近:そうだよなぁ。

   まさかこんな辺鄙な場所に建ってる旅籠が、本当に人の役に立つ日が来るとは思ってなかったよ。


廉太郎:左近、お前はいつも一言多い。


シオン:……はい。


廉太郎:そういえば自己紹介がまだだったね。

    僕は、縁 廉太郎。

    この旅籠の主をやらせてもらってる。

    で、


左近:俺が縁 左近ね。

   まぁ、俺はこの二人に比べたら、力仕事くらいしか出来ないけど。


N:自虐気味に笑いながら話す左近。

  この時シオンには夕食が出されていたのだが、普通の旅籠と異なっていたのは、

  その食事の席に、廉太郎、左近、綾女の三人も、さも当然の様に同席している事だった。

  さながら、家族のそれの様に。


シオン:……あの、ここまでしてもらって言うのも申し訳ないんですが、

    あたい……じゃなくて私、見ての通り、無一文で……


廉太郎:ああ、それくらい分かってる。

    今回はお代を貰う気は無いから、この雪が止むまでは、ゆっくりしていけばいいさ。


シオン:えっ?

    ……で、でも。


左近:いーのいーの。

   他ならぬ旅籠の主人が、そう言ってるんだしよ。


綾女:そうですよ、遠慮なんてなさらなくても。


シオン:で、では、せめて何か、お手伝いさせてはもらえませんか。

    いくらなんでも、このままでは申し訳なくて……


廉太郎:え?

    いや、お客人にそんな事させるわけには……


シオン:お願いします。


N:やや強めの口調で繰り返すシオン。

  その瞳に真っ直ぐ見つめられ、廉太郎は戸惑いを隠せずにいた。

  しかし心の内では、その瞳に、その感情に、曖昧な既視感を覚えていた。


廉太郎:まぁ……そこまで強情になられては、断るわけにはいかないか。

    ……分かったよ。

    此処にいる間、仕事の手伝いも多少はしてもらおう。


シオン:はい。


左近:廉ちゃんよぉ、実際のところ嬉しいんじゃねぇの?

   ただでさえ人手不足って口癖みたいにぼやいてたし、その穴を埋めてくれんのがこんな美人さんでよ。


廉太郎:馬鹿を言うな。

    それと、その廉ちゃんというのは、お客人の前ではやめろといつも言ってるだろう。


綾女:あら、そうなんですか?

   廉太郎さん、私少し妬いてしまいます。


廉太郎:綾女まで。

    揶揄わないでくれよ。


シオン:ふふっ、よろしくお願いしますね。


N:こうして、この吹雪の夜に、シオンは旅籠の一員となった。

  しかし、道に迷って旅籠へと辿り着いたこと、無一文であること、

  その時の言葉に嘘偽りは一切無かったが、シオンにはまだ言わなかったことがあり、

  また廉太郎も、その事を見抜いていた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


左近:シオンさん、こいつとかはどうだい?


シオン:これは……駄目ですね、毒がある物です。


左近:かぁ~……またかぁ……


シオン:毒茸は色が派手な物が多いですから……ついつい目に止まるのも、仕方ないかも知れませんね。


N:吹雪の夜から幾日か経ったある日、晴れ渡った空の下で、左近とシオンは食材調達へと繰り出してきていた。

  しかし、シオンはともかくとして、山菜の知識など持ち合わせていない左近は、

  とにかく目に付く茸を適当に引っこ抜いては、シオンに諭されていた。


左近:やっぱり俺にゃぁ、こういうちまちました作業は向いてねぇや……

   どっちかと言えば、この辺の木々切り倒して薪を作るような仕事のほうが、

   分かりやすくて良いんだけどなぁ。


シオン:まあまあ。

    折角、今の時期にでも採れる恵みがあるんですから、また雪に埋もれてしまう前に、採っておかないと。


左近:そうだなぁ……

   しかし、シオンさんが此処に残るって言い出した時は流石に驚いたが、

   今じゃあこうして一緒に、山菜なんて取ったりするようになってるもんなぁ。

   人間の慣れってのは早いもんだ。


シオン:……そうですね。


(回想)


廉太郎:……此処に置いて欲しい?


N:吹雪が止んだ、とある日の夕刻のこと。

  突然のシオンの発言に、縁屋の面々は作業の手を止めた。


シオン:……本当に、ご迷惑で無ければ……ですが。


綾女:そんな、迷惑だなんて……ね?


左近:別に……いいんじゃねぇの?

   なぁ、廉太郎さんよ。


廉太郎:ああ……シオンさんが構わないのであれば、僕は良いんだが……

    しかし、何故?

    貴女にも、帰る家や家族などがあるだろうに。


シオン:……無いんです。


廉太郎:え?


シオン:……徒に不安にさせてしまう訳にはいかなかったので、なかなか言い出せなかったんですけど……

    実は、私の村は昔から、この山に古くから棲むとされる人喰い妖怪に脅かされ、

    毎日毎夜、恐怖に苛まれてきたんです……

    かく言う私の両親も、その妖怪の餌食になったと聞いて、私はいてもたってもいられなくなって……

    次に、いつ何時に、私が狙われるか分からない……

    その恐怖から逃れる為に、あの夜、私は村を抜け出して来たんです。

    ……だから、今の私には、帰る家も、家族も無いんです。


綾女:……そんな……


シオン:だから……お願いします……


[回想終了]


左近:しかしまあ、家族が増えるのはこっちとしても万々歳だからなぁ。

   これで、縁屋にもますます、彩りが増えるってもんだ。


シオン:………………


左近:…………?

   どしたんだい、押し黙っちゃってさ。


シオン:いえ……別に。


左近:今更隠し立てすることも無いだろうよー。

   まあ、話したくないってんなら無理にとは聞かないけどさ。

   ……それより、日も暮れてきたし、さっさと帰ろうぜ。


シオン:……あ、はい。


N:夕暮れ時になり、山を染める紅い陽を背に、帰路につく二人。

  左近は旅籠に着くまで何かしらの話題を振り続けたが、シオンは最後まで、空返事しか返すことは無かった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


廉太郎:左近。


左近:んぁ?


廉太郎:お前、シオンさんに何か言ったか。 

    いや、何かしたか?


左近:なんでそこ言い直すんだよ。

   何も言ってねぇし、何もしてねぇよ。

   しかし、なんでまた?


綾女:最近、様子が変じゃありませんか?

   いつ話し掛けても上の空ですし、食事もまともに摂られないし……


左近:うーーーん……確かに、言われてみれば……

   しかし、悪いが俺には、特に覚えは無ぇなあ。

   様子がちょっとおかしいのは、結構前からのような気もするし……


廉太郎:そうか……うん、分かった。

    悪かったね、妙な疑いかけて。


左近:良いって事よ、そういうのは慣れっこだ。


綾女:それもどうなんでしょうか……


N:苦笑いを浮かべる三人。

  そこへ、噂を聞いて影を現したとでもいうように、シオンがお遣いから帰ってくる。


シオン:ただいま戻りました。


廉太郎:ああ、お帰り。

    買ってきて貰う物多かったけど、大丈夫だったかい?


シオン:ええ……


廉太郎:……シオンさん?


シオン:……あっ、え、はい?


廉太郎:本当に、大丈夫かい?

    体調が優れないとかあったら、遠慮無く言ってくれたら……


シオン:いえ……大丈夫です。

    ああ、それより、今日はまた吹雪きそうですよ。

    雲も厚いですから、かなり酷くなるかもしれません。


左近:げぇっ、最近結構落ち着いてるとか思ってた矢先にそれかよ。


廉太郎:今慌てても仕方がないだろう、今の時期はそういうものだ。

    ……でも、今のうちに念の為に、出来るだけ補強はしておこうか。

    手伝ってくれ。


綾女:はい。


左近:おうよ。


シオン:………………


廉太郎:…………?


N:慌ただしく視界を行き交う綾女と左近を、ずっと眼で追うシオン。

  その場から微動だにせず、ただただ眼だけを動き回らせるシオンの様子を、

  廉太郎は訝しげな表情で窺っていた。

  ……そして、その日の深夜。

  シオンの予告通り、強烈な吹雪が訪れ、補強された窓を激しく殴打し、

  建物全体を倒さんとする勢いで襲い掛かった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


綾女:……廉太郎さん……


廉太郎:……綾女?

    どうしたんだい、こんな夜更けに。


綾女:あっ、……ごめんなさい、起こしてしまって……

   いえ、特に用という用は無いんですけど……その……


N:もじもじしながら言葉に迷う綾女。

  そんな綾女を見て、廉太郎は少し考えた後、軽く微笑んで布団を空けた。


廉太郎:……ああ、成程ね。

    全く、君はいつまで経ってもそういう所は童のままだな。


綾女:……意地悪を言わないでください。


廉太郎:ははっ。


N:深夜の静寂が支配する旅籠内に響き渡る、木材が軋む音と、風が鳴く音。

  その不気味な恐怖感に耐え切れず、綾女は廉太郎の部屋を訪ねて来たのだった。

  やや不機嫌そうに廉太郎の布団に入った綾女は直後に眠りに入ってしまったが、

  廉太郎は尚、寝付けずにいた。


廉太郎:(M)

    ……やっぱりだ。

    さっきから、部屋の外で妙な物音がする……

    何かを、引きずっているような音……違う……なんだ……?

    ……気のせい、か。

    そうだな、気のせいだ。

    たぶん、木が擦れる音か何かだろう。


N:無理矢理自分を納得させ、ほどなく眠りにつく廉太郎。

  そして、それとほぼ同時分。

  左近の部屋には、シオンが訪ねて来ていた。


シオン:……左近さん……左近さん……


左近:……んん……っ?

   その声、シオンさんかい……どした、眠れねぇのかい?


シオン:………………


左近:……?

   おい、シオンさん?


シオン:……左近さん……私……あたいはもう……我慢の限界……

    貴方を見ているだけで、この胸の高揚が、激情が、息苦しい衝動が治まらない……!


左近:はっ?

   お、おいおい……随分積極的じゃぁないか。

   いや、俺は嬉しいけどよ……


N:互いの顔も見えない暗闇の中で、甘美な雰囲気を醸し出すシオン。

  普段お淑やかな振る舞いを見せていたシオンの、突然の夜這い行為。

  ただでさえ、当初からシオンの美貌に見惚れていた左近は、その甘言に促される儘に、その蜜壷を受け入れた。

  熾烈な吹雪の音に二人の声も掻き消されていたが、交わりが尽きるまで、

  互いの精が果てるまでに、およそ丸一晩を要した。

  ……そして、翌朝の食事時。

  相変わらず豪雪が降り続く中で、この旅籠の四人の日常は、崩壊を始めていたのである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


廉太郎:……遅い。

    左近の奴、いくらなんでも寝過ぎだ。

    もう直ぐ昼になってしまうぞ。


綾女:左近さんが寝坊なんて……珍しいですね。

   普段は鶏が鳴くよりも早く、起きていらっしゃるのに……


廉太郎:流石に何時までも寝ていられては、仕事が増える。

    綾女、悪いが起こしてきてくれないか。

    少しくらいなら、乱暴な手を使っても構わない。


綾女:はい。


N:木製の階段をぱたぱたと登っていく綾女。

  その背をぼんやりと見送るシオンと、それを横目で見る廉太郎。

  この二人の間には、こういった無意識の沈黙が癖のようによく起こった。


シオン:あの、廉太郎さん。


廉太郎:……あ、えっ、なんだい?


シオン:私は、何をしていれば……


廉太郎:ああ……そうだな、じゃあシオンさんは、


N:廉太郎が言葉を続けようとした刹那、綾女の金切り声がそれを打ち消した。

  血相を変えて階段を駆け上がり、綾女の元へと急ぐ廉太郎。

  それをまた見送るシオンの口元には、妖艶な微笑みが浮かんでいた。


綾女:……あ……あぁぁ……っ!


廉太郎:綾女、どうした!?


綾女:……れん……太郎さ……っ……

   左近さんが……左近さんが………!


廉太郎:左近が一体、どうしたって……

    …………ッ!!!


N:綾女が、痙攣するように震えながら指差す先に、視線を送る廉太郎。

  そこに在った「それ」を見て、廉太郎は思わずたじろいだ。

  彼の視界に飛び込んできた左近は……否、元左近であったであろうモノは。

  顔面を歪に抉られ、右腕一本と、左肘以下を乱暴に毟り取られたように失い、

  筋肉質であった腹は見るも無惨に、さながら内から破裂したかのように、内臓を撒き散らしながら開放され、

  下半身に至っては、僅かな肉と欠片のような骨を残して、

  凡そ、人間のモノであった事を連想させる形状をしていなかった。

  そして、廉太郎と綾女が言葉を失い立ち尽くす様を遠目で見ながら、シオンはぽつりと呟いた。


シオン:……やっぱり……


廉太郎:………………

    綾女は部屋に戻っていてくれ。 こんな天候じゃ、助けも呼べない。

    とりあえず、少しでも僕が、 ……言い方は悪いが、片付けておく……


綾女:……は、はい……


シオン:……廉太郎さん、綾女さん……少し良いですか。


廉太郎:え?


綾女:…………?


(間)


廉太郎:……それで、話、とは?


綾女:………………


シオン:……本当は、こんな事が起きる前に話しておくべきだった。

    いいえ、今話したとしても、どうにかなるわけではないかもしれない。

    でも、何も知らないまま左近さんのように、殺されて欲しくはないから……


綾女:……殺、され……?


廉太郎:……どういう……事だい?

    確かに、左近の死に方は、尋常ではなかったが……

    僕達もまた、同じ目に遭う可能性がある、と?


シオン:……私の住んでいた村が、人喰い妖怪に脅かされていた……というのは、既に話したと思います。

    ですが、それが具体的にどういうモノかまでは、

    ……私自身も、思い出したくなかったから、言えずにいたんです。

    でも、村の一員だった私を追って、此処にも手を伸ばして来ているんだとしたら……

    黙ってなんて、とてもいられなくて……


綾女:……それは……どういう……


シオン:………蜘蛛、です。

    それも、只の蜘蛛じゃない。

    悍ましい程巨大で、人間の命を啜る毒蜘蛛の妖怪が、この山に棲む、恐怖の権化なんです。

    それが現れる時は決まって、視界も潰れるような吹雪の夜……

    まるで、何かを引き摺るような軋んだ足音を合図として、欲望のままに私達を喰い散らかし、

    何処からともなく現れたそれは、また何処かへと消え去ってしまう……

    そんな惨劇が、太刀打ちも出来ないまま、ずっと続いているんです。


廉太郎:……そんなモノが存在する、とは俄には信じ難いが……


シオン:………………


廉太郎:……信じるしか無い……か。


綾女:廉太郎さん……


廉太郎:………僕だって怖いさ。

    だけど、何も出来ずに喰われるのだけは、真っ平御免だからね。

    ……それに、丸腰ならともかく、対抗する手段も、無いわけじゃない。


N:そう言い残すと、廉太郎は倉庫に篭もり、只管に何かを探し続けた。

  綾女は、一生懸命いつも通りに振舞おうとしていたが、脳裏に左近の凄惨な死に様が鮮明に焼き付き、

  何をするにもまるで手に付かず、体の震えが止まらなかった。

  そして、シオンはと言うと。

  ただただ窓から外を眺め、そのまま月が昇るまで、一言も話す事は無かった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


綾女:……廉太郎さん、それは……


廉太郎:猟銃だよ。

    元は、左近の私物だけどね。

    ……妖怪に通用するのかは分からないけど、何も出来ないよりは多少はマシなんじゃないかって、ね。


綾女:……そう、ですか……


廉太郎:綾女?

    どこに行くんだい?


綾女:……雪隠です。


廉太郎:そ、そうか、失礼。

    ……一人で平気かい?


綾女:大丈夫ですよ、すぐ戻りますから。


N:そう言って、そそくさと部屋を出て行く綾女。

  廉太郎はそれを見送ると、枕元に猟銃を備え、鈍く光る灯をじっと見つめていた。

  そして、それからたった何分経とうかといった頃。

  廉太郎の耳は、風と雪が板を叩く音に混じる、奇異な物音を再び捉えた。

  左近が死んだ、その夜に聞いた音。

  何かを引き摺るような、妙な音を。


廉太郎:(M)

    ……また、この音……

    また気のせいか……それとも、疲れてるのか……?

    ……っ……待て、待てよ……!?


シオン:………蜘蛛です。 それも、只の蜘蛛じゃない。

    悍ましい程巨大な、毒蜘蛛の妖怪が、この山に棲む、恐怖の権化なんです……


廉太郎:(M)

    ……蜘蛛、……蜘蛛……!?

    まさか……まさか!!


N:廉太郎の中で、微かな疑念が、最悪な確信に向かって歩み始める。

  そんな唾棄すべき予感を抱きながら、廉太郎は綾女の元へと急いだ。

  その途中に、何度も、何度も、無理矢理にでもついて行かなかった自分を責めながら。


廉太郎:くそっ……僕は……馬鹿だ……!!


N:そして、廊下の突き当たりに差し掛かる刹那。

  廉太郎の正面の壁面に飛び散った血飛沫が、廉太郎の意思を、思考回路を、

  そしてその脚を、完全に停止させた。


廉太郎:……あや……め?


シオン:……ふふっ……ざぁんねん。 一足遅かったねぇ。


廉太郎:その声……!?

    っぐぁッ!!


N:一瞬気を抜いたその隙に、鋭い鉤爪のような巨大な脚が伸び、

  廉太郎の腕から猟銃を弾き飛ばし、床にその身体を叩きつけた。

  その妖怪の表情には、もはや見慣れていた、妖艶な微笑みがあった。


廉太郎:っまさか……君が、全部……ッ!?


シオン:ふふ……そうだよ。

    全部、全部、ぜぇんぶ、あたいが仕組んだ事さ。

    窮屈なモンだったよ?

    馬鹿みたいに丁寧な言葉を振り撒くのも、あんな慣れない着物なんか纏って、人間のフリをするのもね。


N:硬質の毛に覆われた、紫黒の胴体から生える、八本の堅固な脚。

  そして、胴体に繋がれた、本来はその生き物が持っている筈も無い、女性の上半身。

  その姿は、紛れも無く、シオンだった。


廉太郎:……何故だ。 何故、こんな事を……!


シオン:何故?

    小腹が空いて獲物を喰らう事に、いちいち理由がいるのかね?

    ……って、普段のあたいなら言ってるとこだけどさ……

    ねえ……廉太郎さんさ、ホントに、本当に。

    あたいの事、覚えてないのかい?


廉太郎:何を……言って……?

    ……いや、待て……その、瞳……?

    君……は、どこかで……


N:シオンのその瞳に吸い込まれるかのように、廉太郎の脳髄は追憶を始める。

  それは、今から数年前。廉太郎達一行が、旅籠を始めるに辺り、この地を下見に来ていた時の事だった。


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(回想)


左近:はぁ~……やっと着いたかぁ……

   なんでただの下見で、こんな山登りしなくちゃなんねぇんだよ……


廉太郎:なんだ、もう限界か?

    今から音を上げてたんじゃ、これから先もたないぞ。


綾女:お疲れ様です、左近さん。


左近:お二人さん、見た目華奢の割に体力あんなぁ……


廉太郎:お前が軟弱なんじゃないのか?

    まあ、二人は此処で少し休んでてくれ、僕は周辺を見て回ってみるから。


綾女:はい。

   気を付けてくださいね。


N:それから、若干奥まった雑木林の中へと入っていった廉太郎。

  無論、無闇に立ち入った訳ではなく、他人よりも少し優れた聴力が、

  微かな苦悶の声を聞き取っていたのである。


廉太郎:多分、この辺りのはず……

    ……これは、軽い土砂崩れでもあったのか。


シオン:……痛い……いたい……!


廉太郎:いた!

    こんな場所に……こんな女性が……?


シオン:……そこのお方……助けて下さいまし……!


廉太郎:ああ、言われなくとも。

    よっ、と……これは、結構骨だな……


N:廉太郎はシオンの足元に回り込み、彼女の下半身に伸し掛る巨大な木の端材や、岩を一つ一つどかしていく。

  重さに加え、かなりの量があった為、廉太郎一人で全てを片付けるにはかなりの時間を要した。

  そして、廉太郎は汗だくになりながら全てを除け終わると、すっかり夕暮れ時になっていた。


廉太郎:ふぅ……すまないね、随分時間を掛けてしまった。

    ……大丈夫かい?


シオン:あ、はい!

    本当に、有難うございました……!


廉太郎:はは、そうかそうか。

    それなら良かった。


シオン:………………


廉太郎:………………


シオン:………………


廉太郎:あの……何か?


シオン:あっ、いいえ……何でも……


廉太郎:そう。


シオン:………………

    ……あ、あの、


左近:おーい、廉ちゃんよぉ、いつまで道草食ってんだー?

   さっさと帰ろうや、俺もう、腹減ってぶっ倒れそうだよ!


廉太郎:ああ、いけない。

    じゃあね、次から気を付けなよ。


シオン:……あ……

    廉太郎さん、か……


(回想終了)

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廉太郎:やっぱり……君は、あの時の……!


シオン:そうさ。

    あの時のあたいは初心だったよ。

    たかがあんな程度の出来事で、人間なんかに、本気でお礼をしちまったんだからね。

    ……でもさ、ダメなんだよ……あの日から。


廉太郎:……何が……


シオン:あの日からさ、あたいの此処が、胸が、心の臓が……締め付けられてるみたいに痛いんだよ。

    あんたの事を、あの日の事を思い出すたんびにズキズキして、ムカムカする。

    何人殺して、何人喰い散らかしても、全然楽しくないし、満たされない……

    ……イライラするんだよ。

    あたいの頭にチラつく、あんたの笑顔がさ……


廉太郎:……シオン、さん、それは……


シオン:あたいは考えたよ。

    どうやったら、このムカつく感じは無くなるのかって。

    ………とは言っても、答えを出すのにそんなに時間は掛からなかった。

    そうさ、単純な答えじゃないか。

    その元凶を、殺しちまえば良い。 喰っちまえば良いんだ。

    原因をこの世から取り除いちまえば、このイライラは無くなるんだってね。


廉太郎:……違う。


シオン:ん?


廉太郎:こんな事をしたって、君はその苦しみから解放されたりしない!

    ……やめるんだ。こんな事は。

    こんな事をしたって、悲しみを増やすだけじゃないか!!


シオン:……へぇ?

    だったら、教えておくれよ。

    あたいのこれは、一体何なのか。

    あんたを喰う以外に、どうやってこの憑き物を、取っ払えばいいのかをさ!


廉太郎:……それは、「恋慕」だ。

    人に恋し、人を慕う感情……!

    憑き物でも何でもない。 人として生きていれば、自然と芽生えるものだ!


シオン:…………ふっ、あっははははははははははは!!

    恋慕か、この感情は! この胸の激情は!!

    そんな、下らないモノにあたいは!!

    あっはははははははははっ!!

    はははっ……そうか……そういうことだったのかぁ……はは……


廉太郎:……シオン……?

    …………ッ……!!?


N:束縛されたまま茫然としていた廉太郎の喉を、シオンの鋭い脚の一本が貫く。

  声を出すことも出来ず、ただただ痙攣しながら血溜まりを広げていく廉太郎の眼前に、

  シオンは顔を近付け、不敵に笑いながら、しかしどこか切なそうに、ゆっくりと呟いた。


シオン:……冥土の土産に、教えといてあげるよ。

    毒蜘蛛ってぇのはね、惚れたヤツを喰って、喰い散らかして生きていく生き物なんだよ……

    ……いっそ、あたいをあの時見殺しにしてくれれば、こんな事にはならなかったのに。

    言うに事欠いて、恋慕だなんてさ……

    ……くだらない。

    くだらないよ、廉太郎さん。

    ……って、もう……あたいの声も、聴こえてないか……

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N:吹雪の夜の中、端麗な女性の上半身と、巨大な蜘蛛の下半身を持った妖怪が、

  ぽつりと佇む一軒の旅籠から、何処かへと去っていった。

  その身を、永遠に消えない朱に染めて。

  その唇を、永久に色褪せない、紅で汚して。


シオン:ああ……ムカムカするなぁ。 どうしたら良いんだろうなあ。

    やっとこさその元凶を、喰っちまう事が出来たのに……

    腹は満たされてるはずなのに、胸がどんどん空っぽになっていく……

    ……分からない、分からないよ……廉太郎さん……

    ねぇ、あの日の優しい目で、いつもの温かい瞳で、あたいに説いておくれよ……

    あんたはもういないのに、あたいはこのムカムカのせいで、あんたを喰うことしか考えられないんだ……

    もう一度でいいから、あたいの前に出てきておくれよ……

    そして、もう一度。 

    もう一度でも、何度でも、この心が癒えるまで、あたいに喰われておくれ………?

    ……はは、あっははははは……


N:その身から血を垂らしながら、その口から壊れた笑いを口吟みながら、そして、その目から涙を零しながら。

  毒蜘蛛は、吹雪の中へと消えていった。

  その血の跡も、涙の痕も、引き摺るようなその跫も。

  降り積もる雪と、吹き荒ぶ風が、全てを消してしまう。

  間もなく響いた無数の銃声も、悲鳴と笑いが混じった断末魔も。

  全て、全て。


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