境界線

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(役表)

井奈(いな)♀:

車掌/キャスター♂:

由恵(ゆえ)♀:

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井奈:(M)

   ……あれは、いつ頃の記憶だろう。

   遠い遠い記憶の中にぼんやりと浮かぶ、何の変哲も無い思い出話。

   今は連絡さえもめっきりくれなくなった兄が、私が幼い頃に話してくれた、怪談めいた話。

   あれは、どんな内容だったっけ……?


由恵:井奈、井奈。


井奈:あっ、え、なに?


由恵:なにって、井奈の番だよ。

   ほら、後ろ並んじゃってるから。


井奈:っああ、すみません、すみません!


由恵:あははは、全く。

   ボーっとするのはいいけど、時と場所を選ばなきゃ。

   バスに乗るのは、私と井奈だけじゃないんだからさ。


井奈:う、うん、そうだよね。


   ちょっと、考え事してたから。


由恵:考え事? どんな?


井奈:大した事じゃないよ。

   それよりほら、もう出発みたいだよ、ちゃんと座らないと。


由恵:わっとと……危ない危ない。


井奈:(M)

   この日は、たまの連休を使って、幼馴染の親友の由恵と、都内のテーマパークへ行く予定だった。

   ただ、バイトをしてるとはいえ、遊び盛りな年齢で、

   しかも2人共、お世辞にもお金の管理が上手いとは言えなかった。

   出来れば新幹線で行きたかったけれど、そこまで余裕があるわけでもない。

   仕方なく、夜間バスで行くことにしたのだった。

   新幹線と車内環境を比べるのは無粋だけれど、慣れてしまえば、そこまで悪いものでもない。

   手持ち無沙汰な私たちは、眠気が来るまで、だましだまし時間を潰していた。

   移動中寝ること大前提の夜間バスの中だからと、極端に小声で。


由恵:し……鹿!


井奈:カモシカ。


由恵:かーかーかー、かもめ。


井奈:めだか。


由恵:か、カモノハシ?


井奈:しまうま。


由恵:まー……マーライオン。

   ……あ。


井奈:はい、また私の勝ちー。


由恵:あーあ、動物縛りでもダメかー。


井奈:というか、マーライオンって動物じゃなくない?


由恵:あれ、そうだっけ?

   そもそも、マーライオンってなんだっけ。


井奈:あれでしょ?

   ほら……頭がライオンで、口から水吐いてるやつ。


由恵:温泉の壁についてるようなやつ?


井奈:違うと思うけど……わかんない。

   少なくとも、実在する動物ではないと思うよ。


由恵:そっかー。


井奈:もう一回やる?


由恵:んー、やめとく。

   そろそろ私も眠くなってきたし。


井奈:まあ、いつまでもこうして喋ってたら他の人に迷惑かもだしね。

   そろそろ寝よっか。


由恵:ん、おやすみー。


井奈:おやすみ。


​井奈:(M)

   気休め程度にリクライニングを倒して、ゆっくりと目を閉じる。

   バスの走行音にも耳が慣れ、たまの振動が、適度に眠気を誘う。

   少しずつ遠のいていく意識の中で、私はもう一度、兄の話を思い出そうとしていた。


   ……そうだ。


   あれは確か、生きたまま死んだ、或いは、死んでるのに生きている。

   そんな感じの話だった気がする。

   そこから先は、まだ、思い出せない。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


井奈:(M)

   ……どれくらい、眠っていたのだろう。

   ぼやける眼をこすりながら、左手首をちらと見る。

井奈:……あれ?

​   腕時計が無い……

井奈:(M)

   5年ほど前に、兄から譲ってもらったアナログの腕時計。

   もちろん男物ではあったけれど、それほど気にしてはいなかった。

   むしろ、とても気に入っていて、いつも肌身離さずつけていた。


   その腕時計が、無い。


   始めはそれで頭がいっぱいで、他の事はなにも頭に入ってこなかった。

   ……でも、ふと周りを見直したとき、明らかに状況が違っていた。

井奈:……え? あれ……?

   どこ、ここ……電車?


井奈:(M)

   自慢になんてなりはしないけれど、私は普段から、よく無意識的に行動することがある。

   言い換えれば、ボーっとしてしまう事が多いのだ。

   呼ばれても気づかなかったり、電柱にぶつかったり、酷い時にはなにも無い所で転んだり。


   ……だけど、これは流石におかしい。

   いくら私でも、バスから降りて、電車に乗るまでの行動の一部始終を、無意識のうちにするなんて。

   しかも、時間帯はおそらく、まだ深夜。

   どこの電車だろうと、とっくに終電の時間は過ぎている。

   はずなのに、まるで、通勤ラッシュのようなギュウギュウ詰め。

   それに、なぜか自分以外の人たちは、なにも話さないどころか、微動だにしない。

   なにより、窓の外が、まるで完全な闇に堕ちたかのような、完璧な、黒。

   明らかに、おかしい。


   ……そして、もう一つ。

   眠る前とは明らかに違う所があった。

   隣の席で寝ていた由恵が、いないのだ。

   状況が状況だけに、たった一人にされただけで、恐怖と不安の重圧に押し潰されてしまいそうだった。

井奈:ゆ、由恵ー……?


車掌:ご乗車、お疲れ様でございました。

   まもなく****、****です。


井奈:っ!?


車掌:こちらでお降りになるお客様を、五十音順でご案内させていただきます。

   呼ばれた方から、順にお降りください。


井奈:な、なに……?

   どういうこと?


車掌:あいざわ・こうすけ様、あいだ・かんた様、

   あおき・ゆみえ様、あかば・れん様、

   いがらし・りょうこ様、うきた・しんすけ様、

   かとう・しょうたろう様、きくたに・たえこ様、

   きくち・けいこ様、くりきだ・りょう様、ごとう・たいち様……


井奈:なんなの……これ……

​井奈:(M)

   私の目の前に立っていた人、少しむこうに座っていた人、

   周りにいた人が少しずつ、車掌らしき声に促されて降りていく。

   一言も喋らずに、少しの足音も立てずに、淡々と、流れ作業のように。


   ……不気味すぎる。

   他にも車両があるのか、誰も動かない事もある。

   延々と機械的に人の名前を呼び続ける車掌のアナウンスに、

   言いようの無い不快感と、恐怖心を抱かずにはいられなかった。

   その意味がわからないからこそ、尚の事。


   呼ばれた人は、一体どこへ向かうというのか。

   次には、自分が呼ばれるのではないか。

   やがては、そんな不安にすら、駆られ始めていた。


車掌:……なみき・しおり様、なんば・ゆうと様、

   のだ・しんいちろう様、のだ・しんじろう様、

   のだ・つきこ様、のなか・あきよ様、はら・かずこ様……


井奈:まだ、続くの……

   一体何なのよ、これ……


由恵:井奈。


井奈:!?


由恵:やっぱり……井奈、だよね?


井奈:あ……由恵……?


由恵:よかった、とりあえず井奈が見つかって……


井奈:やっぱり由恵も、乗ってたんだ。


由恵:うん、なんか気がついたら、二つ隣の車両の中にいた……

   井奈も?


井奈:うん……

   私は、今さっき起きたばっかりなんだけど。

   ……私達、知らない間に乗り換えてた、とかじゃない……よね。


由恵:流石に有り得ないでしょ、そんな事……

   それに、万が一そうだったとしても、全然違う車両に乗ってるなんておかしいじゃない。


井奈:だよね……

   これって、電車……かな。


由恵:たぶん……ね。


車掌:……まなか・あきと様、まなか・とうこ様、

   まの・しょうたろう様、みたむら・たいち様、

   むとう・れいこ様、むらかみ・けんた様、むらた・よしこ様……


由恵:……これ、なんなんだろう。


井奈:わからない。

   かれこれもう、40人か50人は呼ばれてるよ。


由恵:……呼ばれてない、よね?


井奈:うん。

   私も由恵も、呼ばれてない。


由恵:よかった。


車掌:……わきた・こう様、わきたに・しんじ様、わだ・まきこ様……

   以上、58名。

   ご乗車、ありがとうございました。


井奈:あ、終わった……


車掌:ドア閉まります。

   ドア付近の方はご注意ください。

   ****の次は、****に、停まります。


由恵:……今、なんて言ったか聞こえた?


井奈:ううん、わからなかった……


由恵:さっき停まった時もそうだったよね。


井奈:うん。


由恵:……結局、私達以外、全員降りたんだね、この車両……


井奈:う、うん。


由恵:………………


井奈:………………


井奈:(M)

   気味が悪いほどに静かだった。

   自分達以外、誰もいない。

   この電車と思われる乗り物は、おそらく走っているはずなのに、

   走行音も、揺れも、一切無い。

   ただでさえ高まっている焦燥感と不安で、加速している鼓動の音までもが、

   この空間に響き渡っているのでは……と思える程だった。


   その、次の瞬間。


   唐突に現れた声に、私の心臓と、そしておそらくは、由恵の心臓も。

   他の内臓にぶつかるのではないかと思うほどに、跳ね上がった気がした。


車掌:お客様、切符を拝見してもよろしいでしょうか。


井奈:えっ!?


由恵:ひっ!?


井奈:(M)

   誰?

   いつから?

   どこから?

​   いつの間に?

   どうやって?


   自分達の目の前に佇む、車掌らしき出で立ちの男性に対して、

   ありとあらゆる疑問を、心の中で投げかけた。

   けれど、あまりにも突然の出来事に、それら全てを、声帯が音にする事を出来ずにいた。


   ……やがて、男性はもう一度口を開いた。

   ついさっき、嫌というほどアナウンスで聞いた声で。

   一度目の言葉を、もう一度そのまま再生したかのような、無機質な程に、全く同じ口調で。


車掌:お客様、切符を拝見してもよろしいでしょうか。


由恵:あっ、ああ……えっと。

   これ、かな。


車掌:……はい、ことじ・ゆえ様、ですね。

   そちらの方は?


井奈:えっ、あの……

   切符って、なに……?


車掌:おや、お持ちのはずですが。

   上着の右ポケットに入っている物、それではないのですか?


井奈:上着の、右ポケット……?

   ……!?


井奈:(M)

   買った覚えも無い、そこに入れた覚えも無い、一枚の切符が、ポケットに入っていた。

   よく見る形の、切符だった。

   ちゃんと、行きの改札を通った証である穴まで空いている。


   ……もちろん、そんなものを通った覚えも、私には、無い。

   それよりも、なにより……なによりも不気味だったのが、

   その切符が、まるで子どもが、無邪気にクレヨンか何かで塗り潰したかのように、真っ黒であったこと。

​   何が書いてあるのか、そもそも、何かが書いてあったのかすら分からない、

   切符と呼ぶにはあまりにも、あんまりにも奇怪極まりない、

   ただ黒一色に塗れた、一枚の、紙切れ。


​   よく見ると、由恵の切符も、同様だった。

   それを、車掌は私の手から受け取ると、すぐさま言葉を返した。


車掌:……はい、からすだ・いな様ですね。

   失礼致しました。


井奈:は、はあ。


車掌:……ことじ・ゆえ様は次の、からすだ・いな様はその次の駅、終点での降車となります。

   到着次第お名前を読み上げますので、順にお降りください。


由恵:………………


井奈:それって、どういう、

   車掌さ、……っ!?

   ……嘘……消えた……


車掌:……次は****、****です。


井奈:ちょっと……車掌さん!?


車掌:まもなく****、****です。

   お出口は左側です。

   ドアから手を離してお待ちください。


井奈:……どういうこと……!?

   やっぱり、私達も降りなきゃダメなの!?

   そもそも、この電車は一体なんなの!?

   どこに向かってるのよ!?

   降りろって言われたって、降りたら、どうなっちゃうの!?

   ねえ、答えてよ!!


由恵:……井奈。


井奈:由恵……?

   ……なに、どうしたの……なんで、笑ってるの……?


由恵:……もう、諦めよう?


車掌:ドア開きます、ご注意ください。

   こちらでお降りになるお客様を、五十音順でご案内させていただきます。

   呼ばれた方から、順にお降りください。


井奈:由恵……?

   なに、言って……


由恵:分かったの。

   解っちゃったのよ。

   考えても、無駄なんだ、意味無いんだって。

   今更もう、何をどうしたって、どうしようも無いんだって。


井奈:なに言ってるの、由恵……!?

   しっかりしてよ……!


車掌:あかにし・かよ様、あとう・しんたろう様、いかた・としろう様……


由恵:……井奈も、早く、諦めようよ。

   今更何を考えたって、どんなに喚き散らしたって、もう、遅いのよ。

   だって、全部が全部……手遅れなんだもの……

   フフ、あははははははッ……!


井奈:何言ってるのか全然分かんないよ!

   ねえ、お願いだからしっかりして!!

   由恵ったら!!


車掌:……ことじ・ゆえ様、こみやま・とうこ様、しばた・きょうへい様……


由恵:ああ……呼ばれたみたい。

   ごめんね、井奈。

   私ももう、いかなきゃ。


井奈:待って!!

   行っちゃダメ!!

   行かないで、由恵、戻って来てよ!!


由恵:……じゃあね、井奈。


井奈:由恵!!


車掌:以上、13名。

   ご乗車、ありがとうございました。

   ……次は、****、****に停まります。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


井奈:(M)

   ……行ってしまった。

   由恵も、他の人も、誰も、彼も。

   もう、この電車に乗っている人間が、あと何人かなんて、どうだっていい。

   私は、次の駅で降りる。

   降りなければ、ならない。

   この電車はどこに行くんだとか、降りなければ、

   若しくは、降りたらどうなってしまうのかとか、

   もう、全部が全部、どうだって良かった。


   さっきまでの、得体の知れない恐怖に飲み込まれそうだった私の心は、

   まるで、何事も無かったかのように、何もかもが抜け落ちて、がらんどうにでもなっている気分で。

   思考も、疑念も、恐怖も、絶望も……

   私の中の色んな感情が、私の中の、私だったモノたちが、

   少しずつ、泡沫のように、浮かんできては、消えていってしまうのが分かる。


   ……ああ、そうか。


   きっと、さっきの由恵も、降りていった人達も、こんな気持ちだったんだろうな。

   何もかもが、くだらなく思える。

   ただ、次の駅で、私は、この電車を降りる。

   それだけ、なんだ。

   頭の中には、それしかなくて、それ以外が入る余地なんて、存在しなかった。


   ……でも、どうしてだろう。


   こんな時になぜか、兄のあの話を、今更、思い出し始めたのは。

   生きたまま死んだ、或いは、死んでるのに、生きている。

   それは、どんな意味だったっけ……


車掌:……まもなく、****、****です。

   お降りのお客様は、車内にお手荷物など、お忘れ物をなさいませんようご注意ください。


井奈:ああ、もうすぐだ。

   切符も持ったし、鞄も、大丈夫。

   ……あれ?

   そういえば、そもそも私は、この電車に乗る前は、何をしていようとしていたんだっけ。

   誰と、一緒にいたんだっけ。


   ………………

   まあ、いいか。

   そんなこと……もう、どうだって。


車掌:……お待たせ致しました。

   ****、****、終点です。

   からすだ・いな様、ご乗車ありがとうございました。


井奈:……あ、もう、私しか乗ってなかったんだ。

   結局、駅の名前、なんて言ってたのか、わからなかったな……

   ……それにしても、ここ……私の、家?

   どうして……?


   みんなが、いる。

   お母さんも、お父さんも、おばあちゃんも、妹も、泣いてる。

   お兄ちゃんは……いない、か。

   きっと、お兄ちゃんも、あの電車、乗ったんだろうなあ。


   ……あれ?

   向こうの部屋、テレビつけっぱなしだ。

   ニュースやってる。


キャスター:先ほどお伝えしました、昨晩、****線の電車が突如脱線し、横転した事故で、

      今入ってきた情報によりますと、乗務員、乗客合わせて58名、全員が亡くなりました。


井奈:(M)

   ……ああ、そうか、そういうことだったんだ。

   きっとほとんどの人は、何が起こったか分からないうちに、死んじゃったんだろうなあ。

   そうだ……やっと、思い出した。

   何が起こったか、分からないうちに、死んだから……

   そう、だったんだ。


   生きたまま、死んだ……?

   違う。

   ……死んでるのに、生きている?

   ……違う。


   そうだよ、それは……つまり。

   死んでるのに気付けずに、生きてるつもりでいる、ってことだったんだ。


キャスター:……次のニュースです。

      昨晩11時頃、東京に向かっていた夜間バスが、ガードレールを乗り越え、崖下に転落。

      近くの民家に住んでいた住民が、119番通報しました。

      女性一人が救助されましたが、搬送中の救急車の中で、息を引き取りました。

      救助は困難を極めており、車内に取り残された方達の命が心配されています。


井奈:今の、私みたいに。

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