不可視の天使はかく語りき

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(役表)

♂:

♀:

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男:(M)

  ……目が覚めたとき、俺は此処にいた。

  具体的には、おそらく病室と思われる部屋の、壁際に置かれた、ベッドの上に。

  体に包帯が巻かれているわけでも、ギプスで吊り下げられているわけでも、

  点滴の針が刺さっているわけでもなく、ただ、そこに寝そべっていた。


  ……此処に至るまでの過程を、俺は何も、思い出せない。


  此処がどこで、なぜ此処にいるのか。

  小一時間は錯綜していただろう。

  なにより不可思議だったのが、おそらく病院であるはず、と思われる此処で目覚めてから、

  自分の呼吸音と、ベッドの衣擦れの音以外、一切の音も、誰の声も聞いていないということ。


  自分の鼓動音までが聞こえてきそうなほどの、静寂な世界。 

  呆れ返るほどの沈黙。

  孤独感をひたすらにあおる、閑静。 

  ……そして、雑多の果てに自分だけが取り残されたような、溢れ出しそうな孤独感と、寂寥感。

  そんな、寂寂たる世界に罅を入れたのは、どこからともなく静かに響いた、

  ひとりの、声。


女:……もしもし、起きてる?


男:……誰だ、あんた。


女:ああ、よかった。

  本当に応えてくれるとは思ってなかったけど、やっと返事がもらえた。


男:どこから話してるんだ?

  まさか、天の使いとかか?


女:まさか。

  隣の病室だよ。

  此処の壁、薄いから、ちょっとした物音も筒抜けなんだ。


男:……そうらしいな。

  壁の向こう側にいるはずなのに、すぐ隣から話しかけられてる気分だ。


女:でしょ?

  でも、そのおかげで、こうして話すことが出来るんだから、一概に悪いこととも言えないよ。


男:そうかもな。

  じゃあ、あんたは別に神様でも、悪魔でも天使でもないし、死神でもないんだな?


女:もちろん。

  あなたがそうでないのなら、私はあなたと同じ、ただの人間だよ。


男:そうかい。

  じゃあ、此処がどこなのかってあんたに聞いても、いい答えは期待できなさそうだな。


女:此処は、病院だよ?


男:そんなことは、見ればだいたいわかる。


女:それ以上のことは、私にはなんとも……


男:だろうと思ったよ。

  だけど、誰の声もしない、何の音も聞こえないっていうのはどういうことだ。


女:それも、私には分かんない。

  私は気がついたら此処にいて、特に何もすることも無かった。

  ぼーっとしてたら、そっちから物音がしたから、試しに話しかけてみたの。


男:じゃあ、俺と似たようなもんか。


女:あなたも?


男:ああ。


女:ふうん。

  ……ねえ、どうせお互いヒマなんだし、もっとお話しない?


男:え?

  ああ、いいけど。


女:やった!

  それじゃあねー……


男:(M)

  ……こんな感じで、隣室の女性……

  いや、声だけ聞けば、女子だろうか。

  彼女は、とにかくひっきりなしに話し掛けてきた。

  あちらの様子がどうなのかは分からないが、おそらくはこちらと同じで、

  何も無く、何も聞こえない、物寂しい世界なのだろう。

   

  壁一枚隔てているだけで、俺と彼女は、全く同じ状況に放り込まれている。

  だが逆に、壁一枚隔てているだけで、俺と彼女は、違う世界に放り込まれている。

  そんな事を、心の片隅に浮かべていた自分がいた。


(間)


女:へー、妹さんがいるんだ。


男:ああ、5つ下のな。


女:かわいい?


男:まあ、身内贔屓を差し引いても、一般的には美人に分類されると思うね。


女:へー。

  その人、今はなにしてるの?


男:今は……どうだろうな。

  親父と仲良くやれてればいいんだけどな。


女:親子喧嘩とか?


男:いいや。

  親父は、10年以上前に他界してるよ。


女:え?


男:要するに、妹ももう死んじまってるのさ。

  だから、妹がいた、ってのが正しいかな。


女:亡くなっちゃったんだ……どうして?


男:交通事故。

  飲酒運転で反対車線から突っ込んできた車と、運悪く正面衝突しちまったんだとさ。

  妹は意識不明の重体で、何箇月も入院してたけど、結局一度も目を覚ます事すらなく、そのまま他界。

  なのに、皮肉な事に、相手は奇跡的に無傷ときた。

  当然、相手側は逮捕されたけど、遺族はハイそうですかで納得は出来ねえわな。


女:それで、どうしたの?


男:どうもしないさ。

  今の世の中じゃ、身内を殺されたから相手を殺し返すなんて、そんな馬鹿馬鹿しい事は罷り通りやしない。

  被害者と加害者が入れ替わって、また裁判が起こるだけだ。


女:そうだよね。

  それじゃあ誰も救われないし、なにより、死んだその人だって、そんな事望んではいないもんね。


男:そういう事。

  納得できるかって言われたら正直できないけど、俺たちが騒いだところで、

  妹が帰ってくるわけじゃないしな。


女:……よかった。


男:は?


女:あ、ううん、なんでもない。

  それより、妹さんの話ばっかりで悪いけど、どんな人だったの?


男:あー……

  どんな人だった、って言われてもなあ……

  正直、一緒に住んでたのは高校卒業するまでだったし、

  大学入ってからは、正月くらいしか、会う機会もなかなか無かったからなあ。

  部屋も別々だったから、兄妹らしいやりとりも、ほとんど無かったし。

  どんな人だったっていう質問に応えられるほど、妹に詳しくないな、情けないが。


女:そっか。


男:……けど、そうだな。


女:ん?


男:直接関わった時間は少なかったけど、それでも……

  誰よりも大切な妹、だったな。

  そんで、死んだって聞かされた時には、内心信じたくない気持ちでいっぱいだった。

  妹からは、無愛想だし、無口だし、勉強も教えてやれないしで、

  とんだダメ兄貴だって思われてただろうけど。

  それでもやっぱり、紛れもない家族だったからな。

  葬式の時なんか、誰よりも俺が一番泣いてたんじゃないかって思うくらい、涙が止まらなくてさ。


女:……いいお兄さんだと思うよ、私は。


男:え?


女:だって、今でもそうやって、妹さんのことが大事だったって心の底から思ってるんでしょ?

  それなら、なにも自分を卑下する事なんて無いよ。


男:そうか。

  顔も知らない相手から言われるのも変な気分だけど、ありがとな。


女:どういたしまして。

  ……あ、そうだ。

  いつまでも「あなた」って呼ぶのも窮屈だし、「お兄さん」って呼んでもいい?


男:……好きにしたら。


女:じゃあ遠慮なく。

  お兄さんって、ここに来た理由、思い出せた?


男:……そうだな。

  思い出したよ、ついさっきな。


女:聞いてもいい?


男:……まだ、ところどころ記憶が抜けてるけどな。

  それでもいいなら。


女:うん。


男:単刀直入に言えば、自殺しようとしてた。

  いや、自殺しようとしたけど、失敗して此処にいる、が正しいのか。

  此処が、あの世とかじゃなければ、だけどな。


女:自殺……って、なんでまた?


男:……なんでだろうな。

  衝動的に起こした行動の理由なんて、後から聞かれたって説明できないもんだ。

  仕事がうまくいかないとか、人間関係とか、未来への不安とか。

  たぶん、そういうありきたりな理由で、俺は近所のマンションの屋上から飛び降りた。


女:マンション?


男:住んでたアパートは二階建てだったからな。

  確実に死ねるとは限らなかったから、もっと高くて、もっと確実に死ねる場所を選んだ。

  死ぬ間際の一瞬の苦しみも味わいたくなかったからなんて、中途半端な臆病風も吹いてたしな。


女:……そっか。

  ……でも、死ななくてよかったじゃない。


男:どうして?


女:どうしてって。

  死んだ人は、今日を生きれない。

  けど、生きてる人は、今日だって、明日だって、明後日だって、

  自分がやりたいようにやれるし、生きたいように生きられるんだよ?


男:……?

  当たり前じゃないか。


女:そうだよ、当たり前のこと。

  でも、当たり前なことほど、無くしてみないと大事さには気付けないでしょ?

  友達だって、いなくなったら寂しい。

  家族だって、いなくなったら悲しい。

  恋人だって、いなくなったらつらい。

  でも、誰もそんな事すら考えてない。

  誰も、当たり前のように今周りにいる人が、突然いなくなるなんて思ってないから。

  いなくなって初めて、手遅れになって初めて、その存在の大切さに気付く。

  命の大切さだって一緒。

  ……ううん。

  私は、もっと大事だと思ってる。

  自分がこうして息を吸って、吐いて、

  見て聞いて、話して、感じて、時には涙を流して。

  それがどれだけ大事で、かけがえの無い事かなんて、自覚なんて出来ない。

  出来たとしてもそれは、当たり前の事だから、価値なんてつけない。

  だけど死んだら、死んでしまったら、そこで何もかもおしまい。

  何にも気付けず、何にも感じることも出来ないまま、

  心も体も動かなくなって、そこでおわり。

  そんなの、自分にとっても、他の人にとっても。

  あんまりにも悲し過ぎるし、寂し過ぎるんじゃないかな、って。


男:……それは、誰かの受け売り?


女:まあ、全部受け売りとまではいかないけど、

  色んな人の考えを聞いて、私自身の体験とかもひっくるめて、私はこう思うかなってだけ。


男:遠回しに、俺を責めてないか?


女:あ、バレた?


男:そりゃあな。


女:まあ、そりゃそうだよね。

  うん、責めてるよ。

  自殺なんて誰も救われないし、誰も変われない。

  なにより、自分の可能性を、自分で全部捨てることになるんだから。

  不慮で亡くなったお兄さんの妹さんだって、お兄さんのそんな最期は望んではいないと思うよ。

  ……私と同じでね。


男:ああ……

  きっと、そうなんだろうな。


女:うん。


男:そういや、聞いたことなかったけど。


女:え?


男:君は、ここに来る前のこと、思い出せたのか?


女:私は……

  ううん、全然。


男:そうか。

  まあ、思い出したら教えてくれよ。

  俺だけこんだけ話したんじゃ、不公平だからな。


女:あはは。

  ……うん、そうだね。


男:…………?


(間)


女:……お兄さん……お兄さん……


男:ん?


女:……今、起きてる?

  ううん、寝ぼけ眼でもいいや。


男:どうした?

  なんか、いつもよりずいぶん、声が遠いけど。

  体調悪いのか?


女:……ううん、そうじゃないの。

  それより、私、やっと思い出したんだ。

  私が此処に来る前、何をしてたのか……


男:へえ。


女:……私、母子家庭だったのね。

  父親が亡くなったのか、離婚して母親に引き取られたのかまでは、思い出せないけど。

  でも、お母さんは無気力で、いつも家でお酒ばっかり飲んで、家事もまともに出来なかったから、

  あんまりいい家庭とは言えなかったんじゃないかな。


男:そりゃあ、大変だったな。


女:……それで、私は私で、大学に入ってはいたけど、ろくに講義にも出ないで、アルバイトばっかりしてた。

  当然、学費がかさむだけだったから、その大学もすぐに辞めちゃったよ。

  お母さんには内緒で、ね。

  ……心配、かけたくなかったから。


男:でも、後で絶対バレるだろ。

  そんときゃ、余計話がこじれるんじゃないのか?


女:……うん。

  今、冷静に考え直せば、それが当たり前だったなって思う。

  なんでその選択肢が一番正しいって思えたのか、私にもわからない。

  ……それで、

  …………だけど。


男:……え?

  なんだって?


(以降、女の言葉は途切れ途切れになる)


女:……疲れが……ってたんだと……うんだけど。

  その日は……に眠くてね。

  車の運転……のに、全然集中……なくて。


男:おい、なんだってんだ、急に……

  よく聞こえない。


女:……気が……時には、もう遅かった……

  目の前……車、迫ってて、 ……たぶん、そこで私は…………だ。

  お兄さんの話……いて、分かった。

  ……でたんだ、私。


男:……おい、今なんて言った?

  もう一回言ってくれ、おいったら!


女:……こえ……?……

  ……にいさん…………お……さん……?

  ………………

  …………

  ……


男:くそ、どうなってんだ!

  頼む、もう一度言ってくれ!

  なにも……何も聞こえないんだよ、なあ!!


女:…………ね、……さん。


男:……っ!?


女:……生きて、ね。

  兄さん。


(間)


男:(M)

  ……そこで、俺はもう一度、目が覚めた。

  同じような間取りで、同じような風景の、病室の一角のベッドの上で。

  ただ違っていたのは、その傍らには、疎遠になっていたお袋と、看護師らしき女性が、

  驚きと感動を入り混じらせた表情でこちらを見ていたこと。

 

  ……その二人の話によれば、俺は記憶の通り、自殺をはかり、マンションから飛び降りた後……

  奇跡的に命は取り留めたものの、意識不明の重体。

  一ヶ月近く、目を開けなかったとか。

 

  ……じゃあ、あれは全部……夢……?


  そう思って、俺は意を決して、看護師に聞いた。

  夢の内容をあらかた話した上で、隣の病室には、人がいるのか、と。

  ……半信半疑な顔の看護師からの答えは、おおかた予想通りで、

  そして、大きく期待はずれなものだった。


女:(看護婦)

  隣の病室は空室です。

  仮に誰かいたとしても、声が聞こえるほど、此処の壁は薄くはありませんよ。


男:(M)

  そうだろうな。

  ……ああ、そうだろうさ。

  全部が全部夢で、あの会話も全部、俺の深層心理が見せた、綺麗事だったってわけか。

  ……自分でも醜いと感じるほどの、自分勝手な自己解釈と、自己完結。

  中途半端な生き方で、中途半端な自殺を、中途半端に失敗した。

  それだけの事だ。 

  ……そんな、俺の腐りかけた性根を、再び叩き直すきっかけを与えたのは、お袋の独り言。


女:(母)

  そういえば確か、あの子が担ぎ込まれた病室が、ちょうど此処の隣だったっけ。

  ……きっと、もしかしたら、兄が自殺なんかで死んで、自分に会いに来るのが、嫌だったのかもね。

  今度お墓参りに行ったら、お礼を言っておかなきゃ。


男:(M)

  ……ああ、ありえない話じゃないな。

  俺よりよっぽどしっかりした考えを持ってて、死んでも死にかけた兄を心配してるなんてさ。

  呆れかえるほどよくできた妹だよ、ほんと。

 

  ……ああ、そうか。

  俺がこのまま死んでたら、そんな事にも、気付けなかったんだもんな。


  ……あーあ。

  こんな事なら、もっとあの時褒めちぎっとくべきだったのかな。

  せめて生涯を全うして死ねば、今回の言い訳くらいは、聞いてくれるかなあ。


  俺も一から、やり直し……だな。


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