ワールドアナグラム

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(役表)

A♂:

B♀:

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


A:さて。


B:はい。


A:ここに取り出しましたるは、何の変哲もない、一つの赤い果実。


B:良く熟れていますね。


A:本日の議題は、

  「この赤い果実と、この世界と、言葉の接続を題材にした、

   存在と価値の概念の変化、及びそれらの証明について」、です。


B:言葉の響きだけでは、殆ど内容の理解が出来ませんが。


A:順を追って行います、先走らないように。


B:失礼致しました。


A:では、まず、根本的な所から。

  「この赤い果実は、林檎である」。

  間違いありませんか?


B:間違いありません。


A:その根拠は?


B:切り分けていただいてもよろしいですか。


A:どうぞ。


B:ありがとうございます。

  見た目、香り、感触と食感、味。

  視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、全てで確認しました。

  これはまさしく、林檎そのものです。


A:よろしい。

  これによって、「この赤い果実は林檎である」、ということが証明されました。

  では、もうひとつ。

  「この林檎は、此処に存在している」。

  間違いありませんか?


B:間違いありません。


A:その根拠は?


B:見る事が出来、聴く事が出来、嗅ぐ事が出来、味わう事が出来、触る事が出来ました。

  間違いなく、此処に存在しています。


A:よろしい。

A:これによって、「この林檎は此処に存在している」、ということが証明されました。


B:こんな所から始めなければいけないのですか。


A:当然です。

  そうでなければ、この議論は開始することすら不可能なのですから。


B:分かりました。


A:ご理解頂けて何よりです。

  では、本題に移る前に、例題をひとつ。

  もう少し、視野を狭めた見方をしてみましょう。


B:どういうことでしょうか。


A:この林檎は今、何処に在りますか?


B:目の前の机の上です。


A:その通り。


A:今此処に在る状況は、「机の上に在る林檎」、と表すことが出来ますね。

  では、アナグラム。


B:「上の机に在る林檎」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:机と林檎が、同じ場所に在る事は変わっていませんが、

  林檎の位置が、机の上なのか下なのか、はたまた中なのかが曖昧になりました。


A:そして、机の位置も我々から見て、上に移動しましたね。

  浮いているのか、それとも上の階層へ移動したのか。

  これは、ひとつの状況変化と言えるでしょう。

  では次、アナグラム。


B:「机に在る林檎の上」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:林檎は机と共に在る状態は変わらず、その場所も曖昧なままです。


A:しかし、林檎の上に、新たな存在の可能性が生まれましたね。

  林檎の上に何かが在るのか、はたまたこれから林檎の上で、何かが起こり得るのか。

  では次、アナグラム。


B:「林檎の在る机の上」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:林檎と机が一つの存在として一体化し、更に其処に、新たな存在を迎え入れる準備が出来ています。


A:「机の上」という空間に空きがある限り、ありとあらゆる存在が介入出来る事になりますね。

  これは大変な変化です。

  無限に近しい可能性が生まれた、と表現しても良いでしょう。

  だいぶ要領が掴めてきましたか?


B:それなりには。


A:では最後、アナグラム。


B:「林檎の上に在る机」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:林檎が潰れました。


A:当然ですね。


B:これは、必要な過程だったのでしょうか。


A:勿論。


B:分かりました。


A:では、仕切り直しします。

  新たにここに取り出しましたるは、一つの赤い果実。


B:それもまた、よく熟れていますね。


A:「この赤い果実は、林檎である」。

  間違いありませんか?


B:間違いありません。


A:その根拠は?


B:まさか、新しく林檎を出す度に、その証明を行うつもりですか。


A:勿論。


B:省略は出来ませんか。


A:出来ません。


B:進行が滞りはしませんか。


A:何の問題もありません。

  これも、れっきとした議論の一部です。


B:分かりました。

  しかし、時間は有限です。

  限られた時間を有意義に使う為、議論上で生じる重複箇所は、削減すべきであると判断します。


A:仕方ありませんね。

  では特別に、一度でも証明を行った事実は、この場に於いては常に成り立っているものとし、

  「この赤い果実は林檎であり」且つ、「この林檎は此処に存在している」、

  これらを、覆らない前提条件として置くこととします。


B:ありがとうございます。


A:では先程の例を踏まえて、ここからが本題です。


B:はい、どうぞ。


A:「この林檎は、世界に一つしか無い」。

  この一文についての議論を行います。


B:質問をよろしいでしょうか。


A:どうぞ。


B:なにをもって、その林檎が世界に一つしか無い林檎であると?


A:今のところ、それを証明する材料は在りませんね。


B:ならば、まずそれを証明すべきかと思いますが。


A:そうでしょうか。


B:少なくとも、私はそう思います。


A:分かりました。

A:では、まずこう置き換えましょう。

A:アナグラム。


B:「この世界に、林檎は一つしか無い」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:幾多もの種類の林檎が全て淘汰され、林檎は林檎でしか無くなりました。


A:そして、冒頭で証明を行い、先程その証明は常に働いていると決定しましたので、

  林檎が間違いなく、此処に存在している事実は揺るぎません。

  つまり、今この場に存在しているこの林檎は、

  「この世界に一つしか無い林檎」、となります。


B:成程。


A:お分かり頂けましたか?


B:何か、釈然としない思いはありますが。


A:それは心に留めておいてください。


B:分かりました。


A:よろしい。

  では改めて、もう一度。

  アナグラム。


B:「この世界には、林檎一つしか無い」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:大変な事になります。


A:そうですね。

  たった一文字が少し移動しただけで、この林檎以外の、全ての存在が消滅してしまいました。

  こうなると、林檎以外の、全ての存在の証明を行わなければなりません。


B:それはもはや、世界の創造と同義では?


A:まさしく。

  つまりこれこそが、エデンの林檎といったところでしょう。


B:禁断の果実、ですか。


A:その通りです。

  おいそれと触れられるものではなくなってきましたね。


B:因みに、旧約聖書における禁断の果実が、林檎である、という確証はありませんが。


A:イチジクや、ブドウと考える場合も有るそうですね。

  罪深いことに、私はよく覚えていませんが。


B:私もです、罪深いことですね。


A:では次、アナグラム。


B:「この林檎に、世界は一つしか無い」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:……これは、文章として成立しているのでしょうか。


A:しています。

  この林檎に、世界は一つしか無い、とはつまり、

  世界の中に林檎が在るのではなく、林檎の中に世界が在る、という逆転の発想です。


B:話が飛躍し過ぎでは。


A:しかも、ニュアンスを捉えてみれば、

  林檎だけでなく、この世界の凡ゆる存在の中にもまた、世界が存在している、という事を言っているのです。

  どうです、規模が壮大になってきたとは思いませんか。


B:正直、話の内容が突飛過ぎて、いまいち理解が追いつきません。


A:そうですか、残念です。


A:まあ、先程林檎以外の全ての存在を消してしまった今の状況下では、

  あまり意味の無い仮定かもしれませんね。


B:そうですね。


A:では次、アナグラム。


B:「この世界一つにしか、林檎は無い」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:「この世界」という表現を用いる事によって、

  不特定多数の別次元の世界、パラレルワールドが創られ、

  それと同時に、全てのパラレルワールドから、林檎という存在が消滅し、林檎という概念だけが残りました。


A:とうとう、世界を増やしてしまいましたね。


B:しかも、ここに在る林檎の希少価値は、上がる一方です。


A:欲しいですか?


B:いりません。


A:では、私が頂いてもいいでしょうか。


B:なりません。


A:何故?


B:禁断の果実と仰っていたではないですか。


A:確かに。

  二度も同じ過ちを犯してはなりませんね。


B:そういうことです。

  そうやってあなたは、簡単に欲に負けるんですから、しっかりしてください。


A:大変失礼致しました。

  しかし、あなたも人の事は言えないでしょう。


B:ええ、まあ。


A:では、そろそろ最後にしましょうか。


B:そうですね。

  結局、この議論には何の意味があったのでしょうか。


A:意味など、後からいくらでも付いてきます。


B:要は、暇潰しですか。


A:そういう事です。


B:仕様も無い人ですね。


A:仕様が無い事です。

  アナグラム。


B:「過去の世界は死に、林檎一つ無い」。


A:こうなるとどうでしょう。


B:……林檎が、無くなってしまいましたね。


A:しかも、どうやら世界そのものまで、消してしまったようです。


B:これはまた、面倒な事になりましたね。


A:そうですね。

  少しばかり、無茶をしてしまいました。


B:どうしますか?

  一から全て、世界の証明を行いますか?


A:そうですね。

  とりあえず、順を追って行う為に、事の発端となった林檎の証明から始めましょう。

  どうやら、前提条件すら、抹消されてしまったようですから。


B:結局、またそうなるんですね。

  終わりが見えませんよ。


A:ええ、全くです。

  さて。


B:はい。


A:ここに取り出しましたるは、何の変哲もない一つの赤い果実。


B:よく熟れていますね。


A:本日の議題は、

  「この赤い果実と、この世界と、言葉の接続を題材にした、


B: 存在と価値の概念の変化、及びそれらの証明について」、ですよね。


A:少しは理解出来てきましたか?


B:いいえ、全く。


A:仕様が無い人ですね。


B:仕様も無い事ですから。


A:では。

  アナグラム。


B:アナグラム。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━