エレナの方舟

(登場人物)

・少年:不問

国家反逆犯の父親に巻き込まれる形で、家族ごと投獄された少年。

自身のみ死刑は免れたものの、ほぼ一生の牢獄生活を余儀なくされ、

そのような環境に追い込んだ父親を恨んでいる。

本名不明。


・少女(エレナ):♀

少年の向かいの牢に投獄されている、15歳前後の少女。

犯罪者ではなく、好きでそこに入っている。手癖が悪い。

無邪気かと思えば時折真面目になったりする、つかみ所の無い性格。

本名無し。

※シーン3以降、表記が少女→エレナに変更されます。


・オオタカ:♂

獄舎の看守長。

若いながらも威圧感があり、罪人には容赦が無い。

N1と兼任。


・キサラギ:♂

獄舎と併設されている研究施設の所長。

表向きは温厚だが、その本性は他人の命より己の研究を重んじる、残忍なマッドサイエンティスト。

N2と兼任。


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(役表)

少年:

少女/エレナ:

オオタカ/N1:

キサラギ/N2:

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N1:本島から隔離されるように浮かぶ、とある島。

   その島の上に佇むそれは、喩えるならばまるで、外界から遮断されているような、

   そんな印象を与える不気味さがあった。

   「キサラギ研究所」と、掠れた活字で書かれた看板を掲げる、廃墟のような施設と、

   それに隣接する、棺桶のような監獄。

   その地下牢に、15歳という若さで投獄されている少年がいた。

   彼に名は、無い。

   いや、彼は名を捨てたのだった。

   自らの境遇と、その発端たる父親を呪い、それとの所謂家族的な関係を、少しでも断ち切るために。


少女:ねえねえ。


少年:……なに?


少女:あなた、何したの?


少年:……何も。


少女:何もしてないのに、何でそこにいるの?


少年:俺が知りてえよ。

   何であんなクソみてえな親父のせいで、俺までこんな所に……!


少女:ねえ、どうして?


少年:うるさいな、お前には関係ないだろ。


少女:関係あるよ。

   こうして、私の向かいの牢に入れられてるじゃない。


少年:だから、何だよ。


少女:だから、あなたは私の質問に答えなきゃダメ。


少年:……意味分かんねえ。

   なんで見ず知らずの奴に、そんなこと言われなきゃ……


少女:その代わり、私もあなたの質問に答えてあげる。

   これでおあいこ、でしょ?


少年:……何なんだよ。

   お前は一体、何がしたいんだよ。


少女:私は、あなたが知りたいだけだよ?

   せっかく、話し相手が出来たんだもの。


少年:…………


少女:ねーねー、質問に答えてくれないなら何か訊いてよー。

   黙ってちゃつまんないよー。

   ねー、ねーってばあ。


少年:あーもう、うるいな!

   分かったよ、訊けば良いんだろ、訊けば。


少女:ばっちこい。


少年:ったく……

   じゃあ、同じ質問させてもらうぞ。

   お前は、何したんだよ。


少女:何って?


少年:何かしたから、こんな地下牢に入れられてんだろ。


少女:何もしてないよ?


少年:……は?

   じゃあ、何で、


少女:私は、ここが好きだからここにいるだけだよ。

   家に帰ってもどうせ誰もいないし、つまんないもん。


少年:ここよりは、よっぽどマシだと思うけどな。

   家ってのは、ここから遠いのか?


少女:ううん、隣。


少年:は、隣?


少女:そう、知らない?

   この牢屋の建物の隣には、研究所が建っててね。

   そこで、いろいろ研究してるんだって。


少年:研究って、なんの?


少女:……さあ、知らない。


少年:……?


少女:そんなことよりさ。

   お話しする前に、あなたの名前、教えて?


少年:……知らない。


少女:え?


少年:俺は自分の名前なんか、知らない。

   仮にあったとしたって、あんな親につけられた名前なんて、とっくの昔に捨てた。


少女:えー……

   それじゃあなたのこと、名前で呼べないじゃない。


少年:呼べなくたって、困る事なんて無いだろ。


少女:困るよー。

   友達なのに、名前知らないなんて、変じゃない。


少年:……友達?

   お前と、俺が?


少女:そう、友達。

   こうしてお話も出来たんだし、お互い、独りじゃ寂しいでしょ?


少年:……勝手にしろ。


少女:つれないなー。


少年:それより。


少女:ん?


少年:お前の名前だって、まだ教えてもらってないけど。


少女:私の名前?

   ……うーん……ちょっと長いし、言いにくいんだけど。

   偉い人達には、「ひけんたいばんごう・えーのぜろなな」って呼ばれてるよ。


少年:……なんだよ、それ?


オオタカ:被験体番号、A-07。

     名前というよりかは、ただの記号に過ぎないな。


少年:なっ、何だよ、アンタ。


オオタカ:この獄舎の看守長を務めている、オオタカという者だが。

     貴様には、まだ面と向かって会った事は無かったかな?


少年:……知らねえよ。

   勝手にここに、いきなり入れられたんだから。


オオタカ:そうか。

     それなら、今のうちに現実を叩き込んでおいた方がよさそうだな。

     (少年の顔面を蹴り飛ばす)


少年:ぐぁっ!

   ……て、めぇっ……なに、しやがる!


オオタカ:身の程を弁えろ、小僧。

     貴様はこの監獄に入れられた瞬間から、人間と対等に生きる権利を剥奪されたも同然。

     本来ならば、そうやって反抗的な目で俺を見る事すら、懲罰を与える理由には十分成り得る。

     ……が、俺は紳士的な看守長だからな。

     今回だけは見逃してやろう。

     頭を垂れて、感謝してもいいぞ?


少年:……ハッ、紳士的……っ?

   いきなりガキの顔面蹴っ飛ばす野郎が紳士だってんなら、世の中全員聖人君子だ。


オオタカ:……口の減らない餓鬼だな。

     (少年の腹を蹴る)


少年:……ッ!!

   ……ぁ…ぐ………!


オオタカ:……フン。

     貴様はせいぜいそこで、自分の身の程を確かめていろ。

     今は貴様の相手をしている暇は無い。

     被験体番号A-07。

     キサラギ所長がお呼びだ、出ろ。


少女:あ、うん……

  (小声)えっと、また、後で……ね。


少年:…………


オオタカ:さっさとしろ。


少女:はーい。


少年:……くそ……

   くそ……っくそっ!!

   いつか、こんな所出てやる!

   こんな肥溜めから出て行って、世間の何もかもを見返してやる……!!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


オオタカ:キサラギ所長。

     被験体番号A-07、連れて参りました。


キサラギ:ご苦労。

     ……どうだね、A-07、地下牢の暮らしは。


少女:つまんない。

   ……でも、ここでの暮らしよりはマシ。


キサラギ:ふん、口の減らない子だ。

     ま、それでも呼べば来るうちは、君のある程度の自由は許そう。

     君は、君自身が、君そのものが、興味深い生体サンプルなのだからね。


少女:……悪趣味だね。


キサラギ:ははは。

     それは、私のような者には褒め言葉だね。

     ……ときに、オオタカ君。

     君は今、休憩時間なのかね?


オオタカ:はっ?

     い、いえ。


キサラギ:それならば、早々に勤務に戻ったらどうだい。

     実験の邪魔だし、どこの馬の骨と戯れてきたのか知らないが、靴が酷く鉄臭いぞ。

     臭いすらもどのような影響を及ぼすか分からんのだから気を遣え……と、何度も言っているはずだが。


オオタカ:はっ……申し訳ありません。


キサラギ:さあさあ、戻った戻った。

     私はまたしばらく、研究室に篭るからな。


オオタカ:はい。


キサラギ:さあ、とりあえず。

     また血を採らせてもらおうかな。

     腕を出して。


少女:……うん。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


少女:エレナ?


少年:そう、エレナ。

   被験体だの、A-07だの、長ったらしいし、めんどくさいから。


少女:どうして、エレナ?


少年:えっ、それは……えっと。

   A-07……なんだろ?


少女:うん。


少年:だから、Aがエ、0がレ、7がナ。

   で、エレナ……って。


少女:ふ~~~ん……

   ふふふっ。


少年:な、なんだよ。


少女:んー、別にー?


少年:……ちぇっ。

   センス無くて悪かったな。


少女:そんな事無いよ。

   ……うん、嬉しい。

   大切にする。


少年:名前を大切にするってのも、変な話だな。


少女:そう?

   大事なことだと思うよ。


少年:……わかんねえよ。


少女:…………

   ……じゃあお礼に、今度、君の名前。

   私も考えとくからね。


少年:え……

   ……いいよ、そんなの。


少女:まあまあ、遠慮しない遠慮しない。


少年:はぁ……

   勝手にしたら。


少女:うん。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


キサラギ:オオタカ君。


オオタカ:はい。


キサラギ:君は、A-07の事をどう思う?


オオタカ:どう思う……とは?


キサラギ:いやな。

     彼女のDNA配列、思考パターン、趣味嗜好、その他諸々。

     彼女が生まれてからずっと、10年以上にわたり、実験と調査を繰り返してきたが、

     全てに見覚えがあるのさ。

     本来、他の被験体と一致する等、到底有り得ない項目の、全てに、だ。

     と言うのも、そもそも彼女には始めから、普通の子供の被験体とは決定的に違う違和感があったのだよ。


オオタカ:違和感、ですか。


キサラギ:そうだ。

     元々彼女は、ある所員がこの研究所を去る時に、最低限の調査書だけ残していった子でね。

     出生の場に立ち合っていないから、どうしても詳しい事が分からずじまいだった。

     それが何なのかずっと分からず、研究も停滞を余儀なくされていたのだが……

     ……ついに、やっと、分かった。

     君にとっても、記憶に新しい事だ。

     これは何とも素晴らしい、天が与えたもうた僥倖だよ。


オオタカ:…………?

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


エレナ:……それじゃあ、君は本当に、何もしてないの?


少年:初めて会った時からそう言ってるだろ。


エレナ:そうは言っても、全然理由教えてくれないんだもん。

    もう半年くらい経つんだし、そろそろ教えてくれてもいいじゃない。


少年:……元々全部、親父のせいなんだ。

   あんな奴、親父とも呼びたくないけどな。


エレナ:おやじ……って、おとーさん?

    なにしたの?


少年:……親父は、裏の世界じゃ、かなり名前の知れたハッカーだった。

   度々サイバーテロを起こしては、ログに証拠を一切残さずに消える。

   場所も、対象も無差別。

   個人情報漏洩から、爆破テロの遠隔操作まで、何でもござれさ。

   その腕を駆使して、事もあろうに、国家機密を盗み出して、幾度となく政府を転覆させようとした。

   国家反逆罪、ってやつだな。

   それだけだって、今じゃ家族全員、首を刎ねられたっておかしくない大暴挙だ。

   それを、あいつはさもゲームでもやるみたいに、陰湿なやり口で繰り返してた。


エレナ:ふーん……

    おかーさんは?


少年:お袋は、……なにもしてない、俺と同じで。

   前は結構、長い間働いてたみたいなんだけど、それについて詳しく聞いたことは無いし、

   俺が物心ついた頃には、もう辞めてたみたいだったから。

   ……もちろんお袋だって、親父がやってる事が、とんでもない事だってのは分かってた。

   でも、ガキの俺には、何とか隠し通そうと思ったんだろうな。

   うちは貧乏だからって、お金を稼いでくれてるんだって。

   親父の行為を正当化しようとしてたけど、あいつは明らかに楽しんでやってたし、

   貧乏だから、なんて、言い訳にもなりゃしない。

   ただでさえ、嘘の下手な母親だったからな。

   子供だった俺でも、すぐに感づいたさ。

   お袋にだけは、それ以上の心労を増やしたくなかったから、気付かない振りしてたけどな。


エレナ:…………


少年:そんなクソみたいな日々を過ごしてた時に、親父がヘマした。

   ベテランのハッカーとか、口癖みたいに言ってたくせに、初歩的な逆探知に引っ掛かったんだ。

   ざまあみろって思ったよ。

   やっとお前にも、天罰が下ったんだ、ってな。

   ……黙認してた家族も同罪だってんで、お袋も一緒にとっ捕まって。

   それでも、お袋は懇願してたよ。

   息子だけは、俺だけはどうか、見逃してやってくれって。

   ……でも、そんな願い、聞き届くわけが無い。

   どんだけ俺が認めたくなくても、家族は家族。

   後は単純なもんさ。

   親父はもちろん、お袋も死刑で、年端もいかない俺は、無期懲役ってわけだ。

   ……俺が何をしてたかって。

   水に米を浮かしただけの粥を、家の隅で、お袋と啜ってただけ。

   それなのに、親父が勝手にやらかしたケツの尻拭いを、一生かけてやらなきゃいけなくなった。

   なんでここにいるのか、って訊かれたってな。

   ……そんなの、俺が一番知りてえよ。


エレナ:……ごめんね。


少年:別に、エレナが謝る事じゃないだろ。


エレナ:……あ、ううん。

    そうだけど、そうじゃなくて……

    嫌なこと、訊いちゃって。


少年:別にいいさ。

   どのみち、いつかは話してただろうし。

   ……もしかしたら、エレナにだけは、聴いておいて欲しかったのかもしれないし。


エレナ:?

    それって、どういう?


少年:……なんでもない。

   それより、明日も早いんだろ、そろそろ寝ろよ。


エレナ:あ、ごめん。

    あと一つだけ、訊いていい?


少年:なんだよ。


エレナ:もし、もしもだよ。

    もしもの話だけどね。

    もう一度、おとーさんとおかーさんに会えるとしたら。

    ……君は、会いたい?


少年:……俺の話、聴いてなかったのかよ。

   会いたいわけ、無いだろ。


エレナ:……そう、だよね。

    ごめん。


少年:でも、……そうだな。

   もし会えるなら、俺の手で、親父は殺してやりたい、とは思うよ。

   でも、もうあいつには、とっくに法の裁きが下って、地獄に落ちてるんだ。

   私怨の裁きなんて、考えたってもう遅いからな。


エレナ:ごめんね。


少年:だから、エレナが謝るなっての。

   もう寝ろ。


エレナ:……うん、おやすみ。


少年:おやすみ。

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(後日、深夜)


エレナ:……ねえ、起きてる?


少年:寝てる。


エレナ:起きてるじゃない、ねえってば。


少年:寝てるって言ったら寝てる。

   もう深夜も深夜だぞ、何か用なら明日にしてくれ。


エレナ:深夜だから都合が良いの、いいから聴いてよ。


少年:なんだよ……


エレナ:これ。


少年:……封筒?


エレナ:開けてみて。


少年:…………?

   ッ!!

   ……お前、これ……!?


エレナ:うん。

    この施設の地図と、その牢屋の鍵。


少年:ど、どうやって?


エレナ:地図は、欲しいって言ったらくれた。

    鍵は、……ちょっとね。

    私、手癖が悪いのが取り柄だから。

    もちろん、私の分も持ってる。


少年:なんで、俺に?


エレナ:……なんでかな、理由は分かんない。

    ただ、君はここにいちゃいけないって、そう思うっていうか、感じるだけ。


少年:……意味分かんねえけど、ありがとな。

   いや、これで絶対ここから出れるっていうわけじゃないけど、それでも、希望は出てきた。

   ……あれ、まだ何か入ってる?


エレナ:あっ!

    それは……その。


少年:え?


エレナ:できれば、ここから出てから、読んで欲しいかな。


少年:読んで……ってことは、手紙か、これ?


エレナ:そんなところ。


少年:ふうん。


エレナ:無くさないでね。


少年:無くすかよ、こんな大事なもの。


エレナ:うん。

    ……それとね、脱走のチャンスまでは、実はもう、ほとんど時間が残されてないの。


少年:どういうことだよ?


エレナ:この監獄施設は、至る所に見張りがずっといるし、それを運良く掻い潜っても、

    その先にあるのは、凄く高いコンクリートの壁と、有刺鉄線。

    私達の体格じゃ、登り切るまでにバレて射殺、がオチなのは目に見えてる。

    それに、業者用車両が通る為の架橋以外は、一切道路の一本も無いし、

    周り一帯は海が広がってるから、ほとんど自力だけじゃ脱出は無理。


少年:ああ、それは俺でも分かってるよ。

   だけど、そのチャンスって……

   ……まさか、業者用車両か?


エレナ:そう。

    それにバレずに乗り込めれば、街まで割と安全に戻れるはずだから。


少年:簡単に言うけど、業者用車両の搬入口なんて、一番見張りが多そうなもんじゃないか。


エレナ:だから、その逆をつくの。


少年:逆?


エレナ:エレナ:その時に、説明する。

    次に業者が来るのは2週間後だけど、その次は、いつになるのか全く分かってないらしいの。

    そもそも、その次があるかどうかすら、保証も何も無い。

    だから、その日が最初で、最後のチャンスだって思っておくべき。

    それまでの間、その封筒は、絶対に見付からないところに隠しておいて。

    ……くれぐれも、悟られないでね。


少年:あ、あぁ。

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キサラギ:……それは、確かな情報かい?


オオタカ:ええ。

     確かに、被験体番号A-07と、その向かいの小僧は、密かに脱走計画を企てているようです。

     監視カメラの映像にも、それらしき相談をしている様子が、何度も記録されています。

     やはり、彼女に見取り図を渡したのは失敗だったのでは?


キサラギ:いや。

     施設の仕組みを知っているからこそ、脱出経路は自然と、それに沿う形になるものだよ。

     全く道を知らない輩に、無鉄砲に走り回られるより、かえって罠にかけやすい。

     ……とはいえ、手薄な所はどうしても、手薄なままだろうけどね。


オオタカ:では、やはり無難に、搬入口周辺を固めますか。


キサラギ:いいや、何もしなくていい。


オオタカ:は?


キサラギ:泳がせておけ、と言っているんだよ。

     あちらが脱走計画を悟られないようにしているように、

     こちらは脱走計画に勘付いている、というのを悟られないようにするのさ。

     そのほうが、あちらも自覚は無くとも、微かな油断、慢心、安心感から、何かしらのヘマをする。

     年端も行かぬ子供達が、大の大人でも不可能な事を、ぶっつけ本番で成功させようなどと、

     そんな虫の良い話は、この現実の檻の中では叶わない、という事を、

     我々がしっかりと教育してやらなければ。


オオタカ:は……では、そのように。


キサラギ:なぁに、元々選択肢など、数える程も無いのだからね。

     この監獄は言わば、私と君の箱庭だ。

     赤子の手を捻るよりも容易い問題だよ、そうだろう?


オオタカ:……それも、そうですね。


キサラギ:だが……惜しいな。


オオタカ:惜しい、とは?


キサラギ:脱走は、それを考えた時点で、許されざる罪。

     立場上、私はそのルールに則らなければならない、そうでなければ示しがつかない。

     となれば、あの2人はもう、許されざる存在だ。

     処分しなければ。

     ……惜しいなあ、実に惜しい。

     あれほどまでの最高級のサンプルなど、後にも先にも、彼女くらいしかいないだろうに。

     ああ、処分するにはあまりにも勿体無い……

     ……フフフフ、ク、ククッ……


オオタカ:…………

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(回想①)


エレナ:私はこの日も検査に呼ばれてるから、一回研究施設の方に入る。

    その戻る途中で、どこかしらの火災報知器のボタンを押すから、それが合図ね。


少年:俺は、一直線に搬入口まで走ればいいんだよな?


エレナ:うん。

    先に車両に乗るなり、近くに隠れるなりしてて。

    その時は、見張りも搬入口の近くにはいれないはずだから。


少年:でも、本当にいいのか?

   そんな危険な役を任せちまって。


エレナ:いいも何も、これは、この施設内をある程度でも自由に動き回れる、私だから出来るの。

    君は鍵を持ってることも、その時まではバレちゃいけないんだから、出来ないでしょ。


少年:それも、そうか。


エレナ:……あと、これだけ、凄く重要なこと。

    これだけは、絶対に守って。


少年:なに?


エレナ:もしもね、私が……

(回想①終了)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


​(火災報知器が鳴り響く中、廊下を走り抜ける少年)


少年:3607号の牢を通り過ぎたら、右側にある非常階段を2階分登って、左……

   っ、やっぱりまだ少しは、見張りが残ってるか……!

   この道以外で、搬入口に行けるルートは……


オオタカ:脱走者確認、脱走者確認!!

     各員、捕獲に回れ!

     火災報知は囮だ、どこにも火の手は無い!

     各員、直ちに脱走者の捕獲に回れ!!


少年:っ!!

   くそ、もう気付かれたか……!


オオタカ:脱走者は現在、キサラギ研究所裏手を逃走中。

     緊急用のゴムボートを用いる可能性がある。

     各員、急行し取り押さえ、捕獲せよ!

     尚、脱走者は、被験体番号A-07と判明。

     捕獲が望ましいが、不可能と判断した場合、発砲も許可する。

     その場での射殺もやむなし!

     繰り返す、発砲も許可する、射殺もやむなし!!


少年:!?

   エレナ!?


(回想②)


エレナ:……あと、これだけ、凄く重要なこと。

    これだけは、絶対に守って。


少年:なに?


エレナ:もしもね、私が捕まって、君一人になったとしても、助けようなんて考えないで。


少年:え?


エレナ:もしもの話。

    君はここにいちゃいけない人間だけど、私は本来は、ここから出ちゃいけない人間だから。

    ……だから、逃げられるって確信したら、君だけでも逃げて。

    絶対に。


少年:それって、どういう……


エレナ:…………


(回想②終了)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


エレナ:……は、……ハァ……ハァ………


オオタカ:随分と手古摺らせたな、被験体A-07。

     だが、それももはやここまでだ。

     まさか単身で、脱走を謀るとは思っていなかったがな。

     あの小僧の事は見捨てたのか?


キサラギ:捕らえたかね。


オオタカ:はい、ここに。


キサラギ:……1人しかいないようだが?


オオタカ:ええ、どうやら、こいつ1人のみでの脱走のようでしたので。

     所詮はガキ同士の、脆い友情ごっこだったという事でしょう。


エレナ:……威張り散らしてる割に、鈍いんだね。


オオタカ:なに?


キサラギ:はぁ……彼女の言う通りだよ、オオタカ君。

     君は、看守長という立場でありながら、2つも鍵が無くなっていることに、

     今の今まで気が付かなかったのかね?


オオタカ:え?

     ……っ!?


キサラギ:全く以て、無様で不甲斐無いことだ。

     後で君の処罰も、考えておかなければな。

​     ……さて、と。

​     A-07、君自身が囮になって、彼を逃がす魂胆だったとはね。

     それは私も、その歳でそんな事を考えるとは、思っていなかったよ。

     こうして我々が君の捕獲に手間取っている間に、彼は業者の車両に揺られ、自由への切符を手に、

     歓喜の声を上げているに違いない……

     というのが、君の描いた理想のシナリオなのだろう。

     なんとも感動的で、見事な自己犠牲、見事な逆転劇じゃないか、賞賛の拍手喝采を贈りたいところだよ。

     ……物事がそう、夢物語のように、万事うまくいっていたのならね。


エレナ:……なにが……


キサラギ:そこに隠れてる君、機を窺っているつもりだろうが無駄だよ。

     諦めて出てきたらどうだい。


少年:…………


エレナ:……!?

    なんで……!?


少年:……お前が俺の為に、いろいろしてくれた理由は分からないけど、感謝してるよ。

   俺はここから出たいとも、何回も言った。

   でも、友達の女の子1人の命と引き替えにしてまで、出たくなんかない。

   俺は、エレナも一緒にここから出ると思ったから、脱走計画に乗ったんだ。

   ここから出る時は、エレナも一緒だ。

   絶対に。


エレナ:……ばか、ばか!

    ばか、ばか、ばか!!

    なんでよ! なんで、そんなばかな事の為にこんな!

    私には、こうしてあげる事しか出来なかったのに!!

    こうする事が、私が……

    今生きていちゃいけない私が!

    この命を使って出来る、せめてもの事だったのに……!!


少年:……何、言って……


キサラギ:お熱いことだ、若いとは良いものだねえ。

     ……だが、不思議なものだな。

     君は何も知らずに、彼女が何者かも知らずに。

     ずっと彼女と関わってきたのかい?


少年:……知るかよ。

   そんな事、知ったところで何が変わるわけでもないだろ。

   俺は俺、エレナはエレナだ。


キサラギ:ふふ……そうだな、その通りだ。

     君は、人との繋がり方の本質をよく理解している。

     彼女は彼女であり、それが全てだ。

     何者かなんて知ったところで、彼女も君も、何も変わるわけでも無い……

     ……だがね、それはあくまで一般人であったらの話。

     彼女、被験体A-07に関してだけはね、そうではないのだよ。

     本人もわかっているように、彼女は、彼女ではないのだからね。


少年:……どういう意味だよ……?


キサラギ:おっと、しゃべり過ぎたね。

     悪いが、辞世の句を綴る時間はここまでだよ。

     この牢獄では、脱走者はどんな理由があろうと、即刻処刑するのがルールなんだ、かわいそうだがね。

     ……だが、私は君達……特に、A-07を失うのは嫌なんだ、正直なところは。


エレナ:……なにが言いたいの?


キサラギ:だから特別に、選ばせてあげようと思ってね。

     彼が死に、君が生き残って、今まで通り被験体となってくれるか、

     それとも、君達を一生会えないようにする代わりに、君達の脱走を見なかった事にするか。


エレナ:……そんなの、どっちも同じようなものじゃない。

    どうせ、どっちみち彼は殺す気なんでしょ!?


キサラギ:どうだろうね、それは私の気分次第だ。

     さあ、私はそんなに気が長くない、早く選びたまえ。


エレナ:……くっ……!


少年:どっちも嫌だ、と言ったら?


エレナ:!?


キサラギ:そのときは、残念だが2人とも、やはりこの場で死んで貰わなければならない。

     私としては、出来ればそんな事にはしたくないんだがね?


少年:どーだか。

   言ってる割に、アンタ口元緩みっぱなしじゃねえか。

   早く殺したくてたまんないんだろ、変態ヤロー。


キサラギ:……おやおや、そんな顔をしてたかな、それは失敬。

     まあ、でも残念ながら、答えは「どちらも嫌」、ということだね。

     ならばもう、とてもとても悲しいが、さよならの時間のようだ。

     心配要らない、君達の死体は余す所無く、実験材料として活用させてもらうからな。

     安心して、黄泉の国へと旅立ちたまえ。

     ……じゃ、オオタカ君、任せたよ。


オオタカ:はい。

​     ……総員、直れ。


​(少年とエレナに向いていた看守達の銃口が、キサラギに向けられる)

キサラギ:……んん……?

少年:……え?


エレナ:な、なに、どういうこと……?


キサラギ:オオタカ君……これは一体、何の遊びだい。


オオタカ:ここから追放されるのは、貴方のほうだ、キサラギ所長。

     獄舎を私物化し、不法投獄や殺人未遂、違法な人体実験の数々。

     今や、ここに囚われている誰よりも、貴方こそが立派な重罪人なのは、火を見るよりも明らかだ。


キサラギ:……私を、裏切るつもりかね。


オオタカ:世迷言を。

     未来の為、人類の発展の為という言葉を信じていたからこそ、私は貴方に従っていた。

     だが、貴方はもはや、自分の醜い欲望のために、囚人を玩具にしているだけ。

     そんな輩に、ここの所長をいつまでもやらせるわけにはいかない。

     身柄を拘束した上で、法の下、然るべき処分を受けてもらう。


キサラギ:……ふふ、っははははは。

     そうか、そうかそうかそうか。

     まあ、これが因果応報というやつかな、飼い犬に手を嚙まれるとはよく言ったものだ。

     君の言う通り、これが、私の咎なのだろう。

     これこそが、私が受けるべき罰なのだろう。

     これが私の運命だと言うのならば仕方がない、潔く受け入れようじゃないか。

     ……だが、もう遅い。

     どのみち、私の夢は既にほぼ叶った。

     そこにいる彼女が、私の夢の結晶だ。

     私の手で、第二の彼女たるモノを創れなかったのは悔しいが、今更みっともなく抵抗をする気も無い。

​     獄舎でも、死刑台でも、地獄でも、冥府でも。

     どこへでもどうぞ、連れて行ってくれるが良いさ。

     ……いずれまた、夢の狭間で逢おう。


少年:アンタ……なんで。


オオタカ:勘違いするな。

     俺が従うのは、あくまで法に、だ。

     あの男は、所長という立場と権利を濫用し、自らの研究の為に、何人もの人間を犠牲にした。

     たとえそれが、犯罪者相手であろうと、断じて許される行為ではない。


少年:……研究って、一体何なんだよ。

   エレナが言ってた事にも関係があんのか。


エレナ:人体の、複製。


少年:え?


オオタカ:クローン人間を造ろうとしていたのさ、キサラギは。

     髪の毛一本、血液一滴から、人体のDNAや細胞組織を、隅々まで調べ尽くしてな。


少年:クローン、って……

   ……じゃあ、あいつが夢の結晶とか言ってた、エレナは、まさか。


エレナ:……そう。

    クローンとして生み出された、人間の偽物。

    といっても、オリジナルはもう、死んじゃってるけどね。

    だから、私が生きてることなんて、本来なら許されないって言ったの。

    オリジナルが死んで、コピーだけが生きてるなんて、命に対しての冒涜と一緒だから。


少年:エレナ……


エレナ:……オオタカさん、お願いがあるの。


オオタカ:なんだ。


エレナ:私を殺して。

    それと引き替えに、彼を、ここから出してあげて。


少年:!?

   エレナ、何言い出すんだよ!!


オオタカ:…………


エレナ:それで、全ての辻褄が合うの。

    お願い。


オオタカ:……それで気が済むんなら、いいだろう。


少年:エレナ!!

   止めろぉお!!!

(銃声が響き渡る)

オオタカ:………………


少年:………………


エレナ:……?

    あれ……?


少年:……どういうつもりだよ、アンタ……


オオタカ:(空に向けた銃口を下ろし、銃をしまう)

     たった今、被験体A-07は、脱走者として俺に射殺された。

     しかし、脱走の共謀者である男女2人組は、緊急用のゴムボートで脱獄に成功。

     所長逮捕の混乱に見舞われ、追跡は不可能と判断。

     ……全く、してやられたな。


エレナ:え……?


少年:なに、言ってんだよ……?


オオタカ:被験体A-07は死んだ。

     今そこにいるのは、エレナという無垢な少女だけだ。

     分かったら、俺が眼を瞑っている間に、さっさとここから消えろ。


エレナ:……オオタカ……さん……


少年:……アンタ、看守長失格だな。

   いいのかよ、そんなんで。


オオタカ:俺はもはや、看守長などではない。

     全てではないにせよ、俺もキサラギに荷担していたんだ。

     全ての罪を、彼に擦り付けようとは思わん。

     自分の分の罪は償うさ。

     ……出来るならその顔、二度と見たくないな。


少年:……ふん、お互い様だろ。

   行こう、エレナ。


エレナ:え……でも……


オオタカ:貴様もさっさと行ってしまえ。

     この監獄も、研究所も、直ぐに閉鎖される事になる。

     貴様の居場所はここには無い。

     どこへなりと行け、エレナ。


少年:エレナ。


エレナ:……っ……うん。

    ありがとう。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


(海面上、ゴムボートにて)


少年:あーあ。

   なんか、あいつに全部いいとこ取りされた気がするな。


エレナ:そう?


少年:そうだよ。


エレナ:……これから、どうするの?


少年:さあ。

   とりあえず、こいつが何処に流れ着くかによるかな。

   最終的には、俺の家に帰るつもりだけど。


エレナ:……そっか。


少年:エレナは、どうするんだ?


エレナ:……わかんない。

    まさか、こんな事になるなんて、思ってもみなかったから。


少年:ふうん。

   ……じゃ、じゃあさ……一緒に、帰らないか?


エレナ:えっ?


少年:い、イヤか?


エレナ:う、ううん、全然。

    嬉しい。


少年:じゃ、決まり……だな。


エレナ:うん。


少年:………………


エレナ:………………


少年:…………~~っ……


エレナ:………………


少年:あ、あのさ。


エレナ:えっ、ぁ、なに?


少年:これ、なんだけど。


エレナ:あ、……持っててくれたんだ。


少年:あそこから出たら、読んでくれって言ってたろ、手紙。


エレナ:……ううん、いいの。


少年:え?


エレナ:最初から、君だけ逃げてもらうつもりだったから。

    ごめんね。

    それはもう、いらないの。


少年:そっか。

   ……でも、せっかくだから読んでみても、


エレナ:恥ずかしいからだめ!

    ていっ。

    (手紙を奪い取り、投げ捨てる)


少年:あっ!!

   ……あーぁ。

   一体、何が書いてあったんだよ。


エレナ:秘密。

    ……でもね、一つだけ、大切なことが書いてあったの。

    手紙で伝えられればと思ったんだけど、せっかくだから、それだけは口で言う。

    約束……したでしょ、いつか。


少年:約束?


エレナ:そう。

    君の名前、考えとくねって。


少年:ああ……そんな事も言ってたっけな。

   で、決めてくれたのか?


エレナ:うん。


少年:なんて、名前?


エレナ:それはね……

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


N2:幾許か時が経った後、砂浜に流れ着いた、いくつもの紙片。

​   とある物好きが復元したものの、その内容の意図は読み取れなかった。​

   結局、ただの何の変哲もない、一通の手紙でしかないと結論づけられた。

   親子間で書かれたのではないか、という説が有力だが、真偽は不明。

​   以下に、その全文を掲載する。


エレナ:親愛なる君へ。

    今、君はどこで、この手紙を読んでいるでしょうか。

    こんな事になって、ごめんなさい。

    でも、私の命を使って君が生き延びられるのなら、私はそれで、本望だったのです。

    ……あの時は、それが、叶わなかったから。

    身勝手な女の、自己満足だと思ったかと思います。


    私は、君に嘘をつきました。

    あの研究施設で、何が行われていたのか……

    それはむしろ、あそこにいた誰よりも、私が一番、知っていたことでした。

    ……あそこは、キサラギ研究施設は……

    人間をそのままに複製する、クローン技術を開発する場所。

    そして、そんな世の理から外れた技術によって、生み出されたのが、私です。


    私は、ううん。

    私の元になった女性は、私という仮初の分身を生み出して、そのままキサラギ達の手によって、

    重罪人の共犯者と見なされ、殺されてしまいました。

    ……本体を失った分身の命に、生きる権利なんて無いのです。

    だから私は、あの地下牢に閉じ篭った。

    暗闇でしかないあの場所で、誰にも知られずに、

    彼らのモルモットで在り続けるのが、唯一の私の存在意義だと。

    そう思っていました。


    ……君に、逢うまでは。


    君は、私に光をくれた。

    君は、私に「エレナ」という、命をくれた。

    感謝しても、しきれません。


    こうして、最後の手紙を書いているのが、本当はつらいのです。

    私も、君と一緒に行きたい。

    君と一緒に、外の世界を、この目で見てみたい。


    ……でも、これは、例えるならば、夢。

    叶ってはいけない、醒めてはいけない、夢なのです。

    だから、せめて。

    君だけは、こんな闇の世界から飛び出して、生きていて欲しいから。

    これが、偽物の命となった私が出来る、せめてもの罪滅ぼしです。


    ……最後に。

    君は、『ノアの方舟』を知っていますか。

    それは、旧約聖書の創世記に登場する舟で、神様の命令で作られた、正しい命を運ぶ、一隻の舟。

    この牢獄には、間違った命しかいない。

    神様の洪水が起こらない限り、それは、永遠に変わらない。

    だから、ここから旅立っていく君に……

    『アーク(ark)』、という名を贈ります。


    ……さよなら、アーク。

    ごめんなさい。

    でも、何よりも。


    ありがとう。

​    ―――――エレナ。


少年:……アーク……方舟、か。

   ノアが造り、ノアが乗った舟だから、『ノアの方舟』。

   それなら、さしずめ俺は、


   『エレナの方舟』

   ……だな。


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