Re:Thesis

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(役表)

男♂

女♀

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男:やあ、こんばんは。


女:……こんばんは。


男:どうされたんです?

  こんな時間に、こんな場所で。


女:ええ、まあ……

  色々と、あって。


男:それは、それは。

  あまり軽々しく、深入りするべきではなさそうだ。

  良ければ、乗っていきます?


女:……あなたが、良いのなら。


男:勿論。

  そのつもりでなければ、元より声を掛けたりしませんよ。


女:それも、そうね。

  ……じゃあ、お言葉に甘えて。

  取り敢えず、海沿いの方角へ、お願い出来るかしら。


男:ええ、喜んで。

  見たところ、随分な大荷物のようですが、お手伝いしましょうか。


女:いえ、結構よ、ありがとう。


男:失礼。

  すみませんね、狭い車で。


女:気にならないわ。


男:それは良かった。



(しばらく無言で車を走らせる男)



男:……差し支えなければ、ふたつほど、気になる点を訊いても?


女:答えられる範囲であれば。


男:ありがとうございます。

  では、まず、ひとつ。

  あなたは、ちゃんと、この世の者ですよね?


女:……それは、どういう?


男:ああ、いや。

  気を悪くしたなら、申し訳無い。

  しかし、こんな夜も更け込んだ時間に、あんな場所で、おひとりで立っていられたら、

  「そういうモノなんじゃないか」と疑ってしまうのが、一般的な感覚だと思いますよ。


女:それも、そうかもね。

  でも、心配しなくとも、それは杞憂よ。

  私はちゃんと、生きてこの世のここに居る生者。

  尤も、それを証明出来るだけの何かは、生憎と持ち合わせてはいないけれど。


男:はは、そうでしょうね。

  いえ、何となく、気になっただけなので、私とて本気ではありませんよ。

  忘れて下さい、今の問答は。


女:いいわ、きっとそれが、私に対しての正常な反応だから。

  それで、もうひとつは?


男:まあ、これは少しばかり、踏み入った質問になってしまうので、

  もしも差し支えるなら、無視するなり、流すなりしてもらって良いんですが。


女:ええ、どうぞ。


男:あなた、そのお腹、身篭っていらっしゃいますよね。

  それももう、臨月も間近なほど、かなり育っているように見える。


女:そうよ、見ての通り。

  質問にはイエス、と答えておくけれど、それだけにさせて。


男:弁えています、これ以上は訊きませんよ。

  初対面の赤の他人に、そう易々と、揚々と語れるモノでもないでしょうし。

  しかし、ならば尚更に、何故そんな容態で……

  という程度の疑問は重ねたくなるのが、本心ではあります。


女:建前程度に、差し支えなければとか、弁えていると言いながら、至極悪趣味な人ね。

  隣人の納屋は覗くなって、子守唄で教わらなかった?


男:折悪しく、好奇心に身を滅ぼされるならばそれも良し、という性分なもので。


女:あなたの死因は、きっと首狩りね。


男:それはそれで、面白そうだ。


女:……はぁ、分かったわよ。

  まあ、私も誰かに、何かにぶつけておきたい程度には、粘ついた激情も溜まっているところだしね。

  ………………

  捨てられたのよ、端的に言えば。


男:捨てられた?


女:あそこにひとりで居た、理由。

  置き去りにされたの、彼に。

  ……いえ、元、彼に、ね。


男:それはそれは、とんでもない人間もいたものだ。

  どんな理由があるにせよ、男の風上にも置けたものじゃあない。


女:ええ、本当に。


男:全くもって。


女:………………


男:………………


女:随分と、古い曲を聴いているのね。

  ローリング・ストーンズ、だったかしら?


男:あぁ、ええ、まあ。

  よくご存知ですね、古いと仰りながら。


女:まあ、ね。

  好きだったのよ、彼が。


男:元、彼が?


女:そう。


男:変えましょうか?


女:いえ、大丈夫よ、ありがとう。

  感傷に浸っていたい気分なの、今は。


男:なるほど。


女:……珍しい?


男:はい?

  ああ、古い洋楽が通じる女性が、ですか?


女:違うわよ、これ。


男:これ、って。


女:この、お腹。


男:……まあ、正直。


女:そうでしょうね。

  運転中なのに、そんなにちらちらと、視線を送るくらいだもの。


男:気付いてましたか。


女:女は、人目に敏感だからね。

  見ず知らずの妊婦のお腹を、あんまり凝視するのは、感心しないわよ。


男:これは、とんだ失礼を。

  でも、それが無理もないことも、汲んではもらえませんか。

  何せ、今がこんなご時世だ。


女:初めて?


男:ええ、初めて見ます。

  「聖母のゆりかご」……人工子宮が当たり前のものとして普及して、随分経ちますからね。

  元来の機能である生身での出産を、稀有なモノとして扱う風潮すらある時代だ。

  あなたも、そういった目で見られるのは初めてではないでしょう、恐らく。


女:そう、ね。

  外を出歩けば、10人のうち10人が、訝しみの感情を孕んだ目で、私を見直すのを肌で感じる日々よ。

  「女性は満12歳を迎えるまでに、各自治体が指定する医療機関にて、

   子宮を摘出、又は人工の物へ置換すること」。

  100年以上前に立案された、そんな馬鹿げた新法が、地区によっては義務化までするなんてね。

  本当、これだからこの世の中は、どう転ぶか分かったものじゃないわ。


男:あなたの地区は、まだ?


女:ええ。

  と言っても、あくまでもまだ、ってだけよ。

  来年にでもそうなる方針だって、広報で聞いたわ。

  だから近々、引っ越そうかと思っていたんだけれど。

  そんなタイミングで、この始末よ。


男:心中お察しします。


女:どうも。


男:あなたは、人工子宮については、あまり良く思ってはいないと?


女:そう、でもないわ。

  良いとも思わないけれど、悪い、とまでも思ってない。

  どれだけ技術が進もうと、善し悪しはあるだろうから。

  私は、敢えてそうする事への価値が分からない、それだけの話よ。


男:ごもっとも。


女:……そうね、ただ……


男:ただ?


女:人工子宮を良いか、悪いかの境界線で測る以前の話で、

  新しい何かを良しとした時に、それに相対する、それまで良しと扱っていた何かを悪としたがる、

  そんな世論の趨勢が、どうしようもなく嫌い、とでも言えば良いのかしらね。

  人工子宮と比べたら、そうでない方が、出産に多大なリスクを負うことになるのは、間違い無く事実。

  けれど、だからと言って、それを悪と見なして、排除しようなんてのは、また違う話でしょう?

  個人の事情や我儘以前の問題として、人間って生き物は、

  元々はそういう風に作られて、産まれてくるモノなんだから。


男:……やっぱり、少なくとも、良くは思っていないんですね。


女:そう、なのかもね。

  例え人の命の巡り方が、これからそう変わっていくべきだったとしても、

  私のこれは、理屈じゃないんだわ、きっと。

  ……ごめんなさい。

  あなたに言っても、仕方が無いのにね。


男:いえ、お気遣い無く。

  私が始めた話ですが、あまり昂らない方が良いですよ。

  子に毒だ。


女:……優しいのね。


男:そうでもありませんよ。


女:因みに、あなたの意見を聞いても?


男:人工子宮について?


女:そう。

  それ以外に無いでしょう。


男:……どう、なんでしょうね。

  強いて言うなら、あなたとはかなり、近い意見ではありますよ。

  良いとも悪いとも括れない、しかし、煮え切らなく感じている部分は、少なからずある。

  そんな感じです。


女:それは、どんな?


男:そもそも、人工子宮がどういったモノか、ご存知ですか?


女:さあ。

  恩恵を受けるつもりが無い手前、あまり興味も持ってはいないから。

  その存在と、担っている役目程度は、常識的知識の一端として知ってはいるけれど、その程度ね。

  初めて開発されてから、普及して、一般化までし始めたのが200年近く前……みたいな話は、

  大学の講義かなにかで、雑談混じりに聞いた気はするわ。


男:まあ、大まかに言ってしまえば、

  妊娠から出産に至るまでに母子に生ずる、あらゆるリスクや苦痛を限り無くゼロに近付ける為に、

  子宮を模した人工の臓器を用いて、胎児を安全に成長させ、確実に誕生させる。

  理屈自体は極めてシンプルながら、それを実現するために科学技術がどれだけ発展しようとも、

  生命の神秘を解き明かすことは、長らく叶わなかった。

  「聖母のゆりかご」という通称を冠した人工子宮はいうなれば、奇跡とも呼ぶべき、叡智の結晶だ。

  最近の研究では、ホルモンや遺伝子を操作して、男同士で子を設ける事をも可能にする、

  男性用の人工子宮、なんてものまで開発され始め、

  性別の境界線というものをも、目ざましい技術の進歩によって、あっさりと踏み越えつつあります。

  それに、これはまだ一部の人にしか認知されていませんが、

  親の身勝手な都合で罪の無い命が失われないようにと、

  堕胎によって行き場を失った未発達の胎児を預かって、保護と養育を専門とする、

  「胎児バンク」なるものまで確立する徹底ぶり。

  少子高齢化を嘆いていた時代はどこへやら、

  今では、互いの愛を確かめ合う性行為すらが、ただの娯楽の一環と成り果てて久しい。


女:随分と詳しいのね。

  専攻分野?

  それとも実は、関係者だとでも?


男:関係者……という表現は語弊がありますが、まあ、私にも色々と、事情があって。

  一般の方よりは、それなりに詳しいつもりですよ。


女:そうみたいね。

  男性用の人工子宮は、確かにたまに、ニュースの話題程度には挙がるけれど。

  実現するにしても、まだまだ先の話だと思っていたわ。


男:あと半世紀もすれば、もしかするとそれすらも、当然のモノとして一般化しているかもしれませんね。

  過激よりな推進派の中には、「聖母のゆりかご」という呼称さえも、差別的だ、

  なんて主張も出ているそうですよ。

  何はともあれ、技術自体は確立しているんだ。

  それが富豪の特権から一般人の日常まで下がってくるのも、恐らくそう遠くはないでしょう。


女:でも、それとあなたの価値観とに、何の関係性が?


男:ああ、その前に、ちょっと。


女:え?


男:そろそろ、海沿いに差し掛かる頃だ。

  もうそこそこ走ってますが、行き先は、通り過ぎたりはしていませんか。


女:……ええ、大丈夫。

  まだ、しばらく先よ。


男:このまま、道なりで?


女:ええ、お願い。


男:そうですか。

  いや、この辺りの道は景色も良いし、海から高さもあるから、気持ちのいい潮風に当たれるんですが、

  結構な急カーブも多いから、以前は走り屋崩れやらレーサー気取りやらが運転を誤って、

  ガードレールを突き破って真っ逆さま、なんて事故が、毎年毎年絶えなかったらしくって。

  風の噂じゃ、場所によっては補修が間に合わず、

  ちょっとの衝撃で簡単にガードレールが外れてしまう、なんて殺し場所もあるそうで。


女:へえ。

  善良なドライバーからしたら、傍迷惑な話ね。

  誰も巻き込まずに勝手にやっている分には、自業自得だと思うけれど。


男:はい、本当に。

  ……ああ、すみません、話の腰を折ってしまって。

  それで……ええと、ああ、そうだ。

  どれだけ希望に満ち溢れているように見えていても、その光の陰には悲しいかな、

  必ず仄暗い部分が生まれてしまうのが、何事においても、世の常というもので。

  「無胎分娩(むたいぶんべん)」って、ご存知ですよね。


女:……ああ、人工子宮の最大のメリットとして挙げられている、あれね。

  性行為を行った後、妊娠が発覚した段階で人工子宮を摘出する、

  若しくは、専門の医療機関で互いの遺伝子を抽出し、子宮内で掛け合わせることで、

  ほぼほぼ100%、安全確実に、且つ母体が一切の苦痛を伴わずに出産が出来る、だとか。

  前者は二度手間だし、性病のリスクもあるにはあるから、ほぼやる人は居ないみたいだけれど。

  制度の存在自体は知ってるわ、大体の概要くらいは。

  それが、何か問題でも?


男:いえ、それ自体に、何か問題があるわけではないんです。

  事実、その制度のお陰で、出産という行為に対するハードルは下がり、

  保障も十二分と言えるほど充実していますしね。

  ……まあ、強いてデメリットを挙げるとするならば、

  それが可能になったことで、マタニティに対する認識が少しずつ歪んでいき、

  いつしか、自らの腹に我が子を抱えて人前を闊歩する行為が、

  あたかも恥辱的な自己主張と同義であるかのように扱われるようになってしまった、という事くらいですか。

  あなたが幾度と無く、その姿で、そういった目で見られる扱いを受けてきたのも、

  そういう背景があってのことだと思います。

  とはいえ、そもそもが今や、出産方法は無胎分娩が圧倒的多数派であり、主流となった社会であって、

  またそれに関して、何か問題や事件、事故があったという話も、表向きには全く無い。

  新時代の生命の創り方としては、大成功と言っていいでしょう。


女:なに、表向きには、って。


男:無胎分娩の機械を、間近で見たことは?


女:いいえ、無いわ。

  教科書だとかニュースの映像越しでなら、何度か見たけれど。


男:それを見て、どう?


女:……どう、と言われてもね。

  敢えて苦言を呈するなら、なんというか、培養器みたいで、少し不気味さはあったわ。

  嫌悪感とまではいかないまでも、人工、という点を除けば、

  カプセルの中で胎児が育っていくというのは、本来の形と、そう大差は無いはずなのに、ね。


男:培養器。

  言い得て妙、ですね。


女:え?


男:あのカプセルの中ってね、無音の世界なんですよ。


女:無音……

  何の音もしない、ってこと?


男:そうです。

  胎児へのストレスの外的要因を極限まで減らすために、防音、遮音技術が惜しみなく使われていて、

  例え眼前でオーケストラが奏でられていようと、あのカプセルは、一音も通しはしない。

  仮にあの中で何かの音を聞くとするなら、自身の心音と、水泡が泳ぐ音、程度のものでしょうね。


女:……ごめんなさい、言いたいことが、よく。

  つまりあなたは、何が言いたいの?


男:フリードリヒ2世の、人体実験。

  これを聞いたことは?


女:いいえ。


男:まあ、詳細は諸説ありますが、要は、

  「親の愛を受けずに育った子は、どんな言葉を話すのか」、

  これを調査するために、行われたとされる実験なんですが。

  50人の子どもを、最低限の生命維持の為の世話だけをして、

  それ以外の全て、会話や視線等も含めた、本来普通に生きていく上で、

  自然に発生し得るあらゆるスキンシップやコミュニケーションを、一切与えずに育成するんです。

  そうすると、果たして、どんな結果になるのか。


女:………………


男:死ぬんです、50人全員が。

  生命を維持出来るだけの世話は、きちんと行ったにも拘わらず。

  人間の体はどうにも、必要な栄養さえ摂っていれば問題無く生きられる、なんて、

  そんなに都合良くは、出来ていないようなんですよね。


女:だから、なんなの。


男:申し訳無い、蛇足が過ぎましたね。

  そう露骨に、倦厭とした顔をなさらないで下さい。

  ……詰まるところ、私が言いたいのは、たったひとつ。

  その、無音の世界である人工子宮を用いた無胎分娩は、

  今言ったフリードリヒ2世の実験と、本質がほぼ変わらないんですよ。

  無胎分娩によって生まれた子どもは、極めて高い確率で、

  短命、発育不良、先天性・後天性の重障がい、奇形児、エトセトラ……

  ありとあらゆる、生きる上で致命的と呼べてしまう程の、何かしらの問題を抱えているんです。

  確かに、生まれてくる事だけは、ほぼ100%保証されていますが、

  蓋を開けたら彼ら、彼女らは、ほぼ100%、まともに生きることが叶わない。

  ……勿論、その原因の全てが全て、人工子宮にある、とまで断言することは出来ません。

  言ってしまえば、これはあくまで、ただの傾向ですからね。

  けれど、変えようの無い事実として、そういった問題が存在している。

  これもまた、逃れようの無い現実なんだ。


女:……どうして。


男:さあ。

  こればかりは、誰にも分からないし、分からないからこそ、改善のしようが無い。

  そして、改善のしようが無いから、先人たちも、医療機関も、政府すらもが、

  この事実を、この現実を、今よりもとっくの昔から把握しておきながら、

  保身の為に、或いは、いつかは克服出来る筈という曖昧で希望的な幻想を守る為に、

  過剰な程の保障を親たちに与えて、言うなれば、口封じをするという、

  残酷で陰惨極まりない手段を、取り続けざるを得ないんです。

  そうでなければ、この100余年をかけて齎されてきた生命の進化が、奇跡と呼ばれる技術の革新が、

  ただの、黒歴史の産物、エゴの具現化物と成り下がってしまうから。

  ……我々人間の、理屈通りに動かないモノの最たる例、

  それこそが、他ならぬ我々人間、我々自身だ。

  私は決して、仮初でも眩い光を、否定したい訳ではないんです。

  どのような形であれ、死に逝く命は等しく悼まれるべきで、

  新しく芽吹き生まれる命は、須らく祝福されるべきだから。

  でも、その陰を見てしまっていて、それをひた隠しし続ける暗雲を知ってしまっている以上、

  湖岸のどちら側にも、立つことが出来ない。

  それだけが、どうしようもなく、やるせなくて。


女:……違う。

  違うわ、私が知りたいのは……


男:すみません、長々と、余計な話を。

  妄想を拗らせた変人の、妄言だとでも思って、どうか一笑に付しておいて下さい。

  それより、ほら、着きましたよ。


女:え、着いた、って?

  ここは……


男:随分前に取り壊されたんですが、ここは元々、近辺では割と有名な、絶景スポットだったんです。

  この道を走るドライバーやライダーも、目的地は大抵ここで、

  持て余した時間をただ漠然と、この碧海に溶かして過ごすのが、些細な日々の愉しみで、癒しだった。

  ……ですが、今は見ての通り、管理が行き届かず、

  いつ朽ちて岸壁ごと崩落してしまうか分からない、ボロボロの柵があるだけ。

  さっき言ったでしょう、ここが噂の、今は名も無き、生き損ない達の殺し場所。

  今のあなたに相応しいように言い換えてしまえば、飛び降り自殺の名所だ。


女:…………!!


男:あなたは、棄てに来たのでしょう?

  ……何を、とまでは、わざわざ私の口からは言いませんが。


女:あなたは……一体どこまで。

  何を知っているの?

  この世界の何を知っていて、私のどこまでを……!


男:何も。

  この世界のことも、勿論、あなたのことも、何一つ知りません。

  知らないからこそ、知りたいんです。

  今にも死に逝こうとしている、あなたを。

  そして、知りたいからこそ、まずは私が、私自身を知ってもらう事にした。

  あなたも私も、道すがらに世間話を語り合うには、抱えているものが多過ぎるようですから。


女:それじゃあ、やっぱり、あなたは。


男:はい。

  お察しの通り、私は無胎分娩で生まれ、幸運にも、今日の今まで生きてこられた、一握りの命です。

  人より少しばかり、思考や感情が薄っぺらく出来てしまった、くらいの不具合はありますが。

  ……でも、私は、ほんの少し歯車が食い違ってしまったせいで、

  私が母と呼ぶべき人物も、父と呼ぶべき存在も、

  全く聴くことも、知ることも出来ないまま、今日の今まで、生きてきてしまった。

  私は今、自分が何者で、何歳なのかすら、よく分かってはいない。

  無音の中で生まれ、空白の中で過ごしてきてしまったから。


女:………………


男:だから、知りたいんです。

  私とは違う、私の知らない形の命をその身に秘めて、

  剰え、それを自らごと擲たんとしてしまおうとしている、

  私の知らない、母たる存在の、あなたを。

  そして願わくば、あなたが本心では、どうありたく、どうしたいのかも。


女:………………


男:………………


女:……分かったわ。

  何の因果かは分からないけれど、私はあなたと出逢ってしまった。

  そして、きっといつかは知るべきで、だけどいつまでも知るべきではなかった、

  あなたと、この世の陰の一端、ないし全てを、知ってしまったんだもの。

  それなら、私だけ何も話さずに、あなたから、この世から逃げて消えてしまおうというのは、

  いくらなんでも身勝手よね。


男:ここまでの話が、全てが創作、嘘八百だとは?


女:もしもそうだったのなら、いっそ私はあなたに、一生分の称賛を贈るわ。

  水先案内人の語り草としては、天下一品と評してもよかった。

  でも、あなたは、そんな事が出来るほど、器用に出来てはいない。

  少なくとも、生まれてきたあなた自身が、嘘でないのなら、ね。

  今日出逢ったばかりの仲の私でも、それくらいは分かるわ。

  違う?


男:正解です。


女:よろしい。

  ……座りっぱなしで、少し疲れたわ。

  一度降りても良い?


男:どうぞ。

  そのまま飛び降りるのは無しですよ。


女:大丈夫よ、そんな勝手な真似はしないわ。

  まだ、ね。


男:それは良かった。

  足元が不安定な場所もありますから、気を付けて。


女:ええ、ありがとう。

  ……いい眺め、ね。


男:そうですね。

  こんな出逢い方をしたふたりでなければ、嘸かし絵になったことでしょう。


女:嫌な皮肉だわ、全く。

  ………………

  ……結論から言えば、半分が嘘で、半分は本当よ。


男:半分?


女:私は人工子宮に取り替えていないし、お腹には、いつ生まれるかも分からない子どもがいる。

  これは見ての通り、誤魔化しようもない、半分の本当。

  ひとりでいたのは、元、彼に置き去りにされたから。

  それが、片割れの嘘。


男:では、その彼は?


女:……訊かずとも、見当がつくでしょう、大体は。


男:まあ、おおよそ。

  では、何故、と訊いた方が適切ですか。


女:……元々は、そんな人ではなかった筈なの。

  いいえ、私の見る目が無かっただけで、それが彼の本性、だったのかもしれない。

  でも、知りたくなかったし、認めたくなかった。

  何より、信じたくなかったのよ。

  あなた風に言うのなら、彼の陰が、私を蝕む程に、ドス黒いモノだったことなんて。


男:その彼と、あなたは一体どんな話を?


女:どうしようもなく、くだりもつまりも無い話よ。

  元を正せばそもそもの原因は、私にあったの。

  私は彼に、人工子宮に置き換えていないことを、伝えていなかった。

  彼から訊かれることも無かったし、然るべき時に、話せば良い些事なんじゃないか、って。

  その程度の認識だった。

  ……ただ、それが、甘かったのかもしれない。

  あなたも、それなりに知識を蓄えているのなら、知っているでしょう。

  生身ではなく、人工子宮を用いる事で生まれる、最大の利点。

  子を宿すリスクを、限り無くゼロにするのと、もうひとつは。


男:ええ、知ってますよ。

  母体が子を身篭る時期を、自身の自由に選べることだ。


女:そう。

  予め設定した時期になるまで、又は、任意で避妊機能を解除するまで、

  例え何回、何十回と性行為を繰り返そうと、絶対に間違いが起こることは無い。

  正直、私が人工子宮を受け入れられないのは、

  この機能の存在も、大きな理由のひとつではあるのだけれど、

  ……まあ、それは、今は良いわ。

  私は勿論、彼も、その機能の存在は知っていた。

  知っていた……からこそ、躊躇も無かったし、

  遠慮も、要らなかったのでしょうね、彼からすれば。


男:でもそれは、あくまでも、人工子宮を持っているなら、という前提の上ででしょう。


女:そうよ、その通り。

  前置いたでしょ、これは私の甘さが招いた、愛欲の齟齬。

  だから、その果ての有様が、これなのよ。

  私が彼に報せもせずに、彼を受け入れてしまったが故に、

  当然の罰として授かってしまった、淫欲の罪の証。

  ……でも、でもね。

  そんな悔やみの杭に悶える一方で、

  これを、この結果を心底から望んでいた私が居たのも、また事実なのよ。


男:それは、どうして?


女:口にするのも憚られるような、醜い理由だけれどもね。

  ……私は、彼を……

  彼を私に、繋ぎ止めておく為の鎖、首輪としたかったのよ、この子を。

  依存するほどに愛していたからこそ、万が一、億が一にも、放したくなくて、離されたくなかった。

  何をしても、何を言ってもその不安を拭う事が叶わなかったから、

  否定しようの無い、不変の命という人型の枷をもって、

  私と彼を、歪にでも搦め結んでおきたかった。

  そんな泥濘んだ昏い意志が奥底にあって、そして、それを悟られたくないという一心を通す為に、

  私は彼の言葉も、行動も、何も言わず、拒みもせずに、

  ただ馬鹿みたいに受け入れて、喘ぎ悶えるだけの人形に甘んじていた、振りをしていたのよ。

  ……誰に何を言われても、腫れるほど殴られて、血が滲むほど石を投げられても仕方が無い。

  それくらいのことをした、自覚はあるわ。

  いっそ今、あなたに軽蔑されて、し尽くされて朽ちるのが、

  ある意味一番、相応しく惨めで、幸せな最期なのかもね。


男:それがあなたの望みで、そうすることで救いとなるなら、私はしませんよ。

  それは私の役目ではないし、そうされることが自己満足ではあったとしても、

  救いにも、報いにもなりませんから。


女:……ええ。

  それも、そうね。

  やっぱりあなたは今の私にとって、目を背けたくなるほどに冷酷で、真摯な人だわ。

  気休めの侮蔑の言葉よりも、余りある程に、毒々しい正論をくれる。


男:それは、どうも。

  ……でも、解せないですね。


女:え?


男:今のあなたは、そこまで自身を悪として、相手方には非は無かったとしたがっているのに、

  ならば何故、以前のあなたは、そこから更に、道を踏み外そうと思ったんです?

  確かにあなたの意志は、悪意は責められて然るべきモノでしょうが、

  あなたが彼を手に掛ける理由には、全くなり得ない。

  懺悔のようでいてその実、かつての彼をまだ信じていて、庇い続けていたいと、

  そんな心が、透けて見える気がしてならないんです。


女:………………


男:………………


女:……少し、冷えてきたわね。


男:ああ、まあ、時間も時間ですからね。

男:車に戻りましょうか。



(間)



女:……私は、ね。


男:はい。


女:偏見かもしれないけれど、子を成す事こそが、最上の愛の形だと、そう疑わずに信じて生きてきたの。

  彼が幾度と無く私を求めたのだって、彼が私と同じ、そうであると信じきっていて、

  知っている筈の避妊機能について、その都度何も言ってこなかったのも、

  いつでも迎えられる準備は出来ているんだって、

  何も語らずとも、そう言ってくれているんだとばかり、都合良く解釈してしまっていた。

  そうだったからこそ、私も彼を、何も言わずに受け入れ続けた。

  ……けれど、ね、違ったのよ。

  私を夢から引き摺り墜とした言葉は、いっそ嗤ってしまいたくなるほどに、凍てつき切ったモノでね。


男:それは、どういう?


女:思い出すのも、寒々しいほど馬鹿らしいわ。

  「お前の体の都合が良かっただけで、そんな荷物が欲しかった訳じゃない」だとか、

  「予備の分際で夢なんて見てるなよ」だとか、

  「どうしても関係を続けたいなら、子宮入れ替えて出直せ」だとか。

  私の話を聞くなり、お手本みたいに、みるみる化けの皮が剥がれていったわ。

  それと同時に、私の中の色んなモノ全部が、

  耳を劈く程の不協和音を立てて、罅割れて砕けていくのも分かった。

  つい数言前(すうことまえ)まで愛し溺れていた筈の彼の顔が、

  私を蔑み苛む、幽鬼か何かにしか見えなかった。

  ……そこからの衝動なんて、コマ送りみたいなものよ。

  手近にあった灰皿か何かで、彼の頭蓋を叩き割るくらいのつもりで思い切り殴り飛ばして、

  動かなくなった彼をアレに詰め込んで、小波にでも揉み消されてしまえばいいと思う一心で、

  路頭を彷徨っていたところを、あなたに拾われた。

  ……どう。

  これで、満足?


男:それが、今のあなたに至るまでの、顛末の全てですか。


女:そうよ。

  後ろに詰んだアレと、ついでに私自身も、そこのお誂え向きの展望台から投げ捨てて、

  それで、私の尾籠な命と、陋劣な逃避行はおしまい。


男:なるほど。


女:それで、ここまで聴いて、あなたはどうするの?

  このまま、警察にでも連れていく?

  それとも、着飾った言葉を並べて、生きることの素晴らしさでも説いてみる?


男:そうですね、それらも悪くない。

  なけなしの曖昧な正義感を振り翳して、あなたを制止してみていた、かもしれない。

  あなたの話の全てが全て、ありのままの真実であったのなら、の話ですが。


女:……は?


男:無理がありますよ、目を逸らす為の空言だとしても。

  いくら大型とはいえ、あの程度の大きさのトロリーバッグに、成人男性が収まるわけは無いし、

  よしんば入り切ったとしても、それをあなたのような華奢な女性が、

  ひとりで人気の無い所まで運び歩いたり、車のトランクに積み込んだり出来るはずが無い。

  そもそも、アレの中身の重さがどれくらいなのか、死体が入っているかどうかなんて、

  直接見たり触れたりせずとも、運転席にいたら、感覚で分かるものなんです。


女:………………


男:彼を殺してなど、していないのでしょう、あなたは。

  敢えて無粋な憶測をするのならせいぜい、殴り倒した相手が悶えて、動けずにいるうちに、

  最低限の荷物をバッグに投げ込んで、脱兎の如く、その体に鞭を打って逃げ仰せてきた。

  当てつけの心中をしてやりたい、というのはあくまでも、あなたの叶わなかった願望に過ぎないのでは。


女:……それじゃあ、どうして。


男:はい?


女:最初から気付いていたのなら、そこまで気付いていたくせに、

  どうして私の明け透けな口虚(くつろ)に、話を合わせていたの。

  虚白色の仮面を被って、憐れんでいる振りをしながら、

  内心では指を差して、嘲り笑ったりでもするのが趣味?


男:まさか。

  言ったでしょう、私が知りたいのは、あなたの明かされざる、真なる内側だと。

  不幸色に浸された仮面の演目は、私の観たかった一幕でもなければ、

  蓋を開けて見れば、あなたの踊りたかった一曲ですらない、机上の空劇ではないですか。

  だから私は、その帳が一度下りて、再び上がるのを、

  ただ静かに眺めて、待ち惚けていただけに過ぎません。

  ……無論、まだ出逢って半日も経ていない人間に語る筋合いは無いと、

  今頃ながらにごもっともな弁で一蹴されてしまったのなら、

  私はここでこのまま、目を瞑るしか無くなってしまいますが。


女:………………


男:………………


女:……分からないの、よ。

  もう、私にも。


男:分からない……ですか。


女:私をモノとしか見ていなかった彼を、殺してやりたかったのも本当、

  偽物の愛擬きに絆されて、死んでしまいたかったのも本当、

  当て付けみたいに、心中でもしてやろうと思っていたのも、

  全部、全部本気で、本当だった。

  本当、だったはずなのよ。

  ……でも、そのどれもが出来なくて、叶わなかった。

  例えどんなにクズみたいな本性を見せられても、

  一度は盲目的なほどに愛してしまった人だったから、殺せなかった。

  例えどんなに憎くても、どんなに殺したくて、どんなに死にたくても、

  このお腹の子には、そんな私たちの理屈も都合も、何も関係が無いじゃない。

  だから私は、この子の命までも奪って、

  死ぬ間際にまで尚、人の道を外れるようなことはしたくなくて、死ねもしなかった。

  ……けど、だけど、それでも。

  心の奥の、底の底で、いつかの先に、そうなってしまうかもしれないって、

  そんな、有って欲しくない、在ってはいけない可能性を考えてしまったのよ、私は。

  「この子は、私をあんなクズみたいな理由で捨てた、あんな男の子どもなんだ」って。

  そんな、些細な嫌悪感が引鉄になって、ふとした何気無い拍子に、

  あの男にやったように、衝動に身を任せて、手をかけてしまうんじゃないか、って。

  そんなおぞましい未来を、一縷程度にも考えてしまう私は、

  人として、ましてや、母として生きる資格なんて、到底……


男:………………


女:……だからもう、分からないのよ。

  私は、私自身が生きたいのか、死にたいのかも、

  何がしたくて、どうありたいのかも、何もかも。

  答えをくれるのならば、あなたに問い返したいくらいよ。


男:……そう、ですか。

  分かりました。


女:………………


男:………………

  ……ああ、そういえば。


女:……え?


男:あなたに語らせてばかりで、まだ話していませんでしたね。

  山程に積もり積もった事情があったあなたは兎も角として、

  一方の私が何故、こんな時間に、ひとりであんな場所で、車を走らせていたのかを。


女:……語るほどの、理由があるの?


男:どうなんでしょう。

  気晴らし、とも、暇潰し、とも、違う。

  けれど、確実に何かしら、目的があって、彷徨っていたはずなんです。

  少なくとも、最初は。


女:最初は、って。


男:先にも言った通り、私は無胎分娩を用いて生まれ、

  父も、母も知らずに育った、名も無い路傍の命だった。

  私のような幾つもの命が、簡単に生まれ、容易く失われていくのを、

  何度となく見届けて、見送り続けてきました。

  ……そのせいなのか、それとも、それが私の生来の性なのかは分かりませんが、

  親の愛、他人の感情、万象に対する関心や興味というもの、それら自体の、そもそもの存在意義、

  果ては、人の命そのものが持つ価値、私自身の価値というものが、

  碌に理解も出来ないまま、肉体だけが、まやかしのように成長してきてしまった。

  ……私は本当は、知りたかったんです、きっと。

  私には何が有り、何が無くて、

  どんな価値があって、若しくは、なんの価値も無いのかを。


女:……そう。

  ある意味では、私とあなたは、似ているのかもね。


男:そう、なのかもしれませんね。

  ……ええ、本当に。

  私たちは、運命の悪戯と割り切るにはあまりにも、滑稽なほどに似通っている。

  おかしな話ですが、道半ばに出逢ったのが、あなたで良かった。


女:……?

  どういう、意味?


男:いえ、こちらの話です。

  ああ、いや、もう、こちらだけの話では、なくなりますかね。


女:なに?

  あなた、どうしたの?


男:なんでもありませんよ。

  なんでもありませんとも。

  ……さ、それじゃ、互いの鏡合わせも済んだ事ですし、月も随分浅くなってきた。

  そろそろ、いきましょうか。


女:行くって、何処へ?


男:何処へ、とは、おかしな事を。

  海へ行きたい、と仰ったのはあなたでしょう?

  そして、少なくともあなたは、答えを失いたいが為に、死にたがっていた筈だ。

  答えを得たいが為の、私と、同じように。

  それなら、もう、私たちのするべき事、成すべき事は、

  迷うべくも無く、ひとつしか無いのでは?


女:え、あなたも……って。


男:いえ、正確には私は、死にたかった訳ではないですよ。

  ただ、私自身の価値、命への執着、なんてものは、

  私がひとりで、いくら錯綜しようが、誰彼構わず、幾千、幾万人と訊いて回ろうが、

  明瞭な回答など、得られようはずがありません。

  いくら不明瞭な命と言えども、私以外に、私以上に、私を知っている者などいないのだから。

  だったら、どうやったら、それを識り得る事が出来るのか。

  考えたんですよ。

  考えて、考えて、考えて考えて考えて、

  朧気ながらの、解が、ひとつ。

  生の縁から落ちてみたなら、死の淵へと至ってみたなら。

  死んでみたなら、分かるんじゃないかと。


女:…………っ!!


(男、エンジンを始動させる)


男:逃げ場の無い鉄の箱ごと深海へと沈めば、まあ、助かる見込みは、限り無く薄いでしょう。

  こんな時間に加えて、こんな辺鄙な場所だ、邪魔が入る心配も無い。

  つくづくお誂え向きでしょう、こんな、私達には。


女:……ちょっと、待って……


男:叶うのならば、黄泉の国の閻魔様の前で、ふたり並んで、叱咤でもされましょう。

  逝き着く先が、同じなのであれば、ですが、ね。


女:待ってよ、ねえ……!


男:それでは、暫しの辛抱です。

  お達者で。


(男、アクセルを踏み込み、崖へ急加速する)


女:……っ!!

  待って、お願い!!

  止めてぇ!!!


(急ブレーキをかけ、柵を突き破る寸前で車が止まる)


男:………………


女:………………


男:………………


女:………………


男:……どう、したんですか、今更。

  だって、あなたは、


女:言わないで!!

  ……もう、言わないで、なにも……お願い……!


男:……分かりました。

  ……でも……では、ひとつだけ、最後にもう一度、聞かせてください。

  あなたは……何を、望んでいるんですか。

  あなたが、本当に……本心で抱いているものは、なんですか。


女:私は……

  わたし、は……


男:あなた、は?


女:わたしは……この子、を、産みたい……

  ……死にたく、ない……!!


男:………………


女:………………


男:……よかった。


女:え……


男:いえ、なんでも。

  お疲れでしょう、あとは私に任せて、お休みになって下さい。

  折角これから産まれる子に、毒だ。


女:……なにを……?



(水平線から光が射し、周囲を包む)



女:っ、……なに、この、光……!?


男:大丈夫ですよ、その隙に道連れて飛び降りるだなんて、無粋な真似はしません。

  ……そんなことをしなくとも、私の役目はもう、終わったようですから。

  私自身の価値も、私が、何であるのかも。

  あなたがそう答えてくれたのなら、それも、それが、私の全てです。


女:……ねえ……あなたは、まさか……


男:良いんです、それ以上を知らなくとも。

  私の全てを、今のあなたが知る必要はありません。

  私は今、あなたがようやく手放した、忌むべき未来の残滓。

  残されるべき未来を嫉み、摘み取らんとした、悪食の過去の因子の、その成れの果てでしかない。

  あなたがあなたを肯定することで、やっと私は、私を否定出来る。

  そうであるべきで、そうでなくてはならない。

  それだけ、それだけなんです。


女:………………


男:さあ、もう、還りましょう。

  私は私の、あなたはあなたの、

  居るべき時へ、在るべき場所へ。

  これ以上、泥濘んだ泡沫の夢の中で溺れ続けるあなたを、見ていたくはない。


女:ま、待って、お願い!

  せめて、私は……あなたの、名前を……!


男:……さようなら。

  名も知らぬ、母なるあなたよ。


女:!!!



(間)



女:……そのまま、私達ふたりは、光へと吞み込まれ、意識がぷっつりと途絶えた。

  それはまるで、現に似た仮初の世界から、糸を切り離されるように、あっさりと。

  そして……

  次に目が覚めた時、私が居た場所は、何処かも分からない病院の一室の、ベッドの上。

  夢……の中で、彼に拾われたあの場所で倒れ込んでいたところを、偶然発見されて搬送され、

  目を覚ます直前まで、夢魔にでも襲われているかのように魘されながら、

  生死の境を彷徨い続けていた……らしい。

  あと数刻、意識を取り戻すのが遅かったのなら、ふたり共々、命を落としていた、と。

  ……万に、ひとつ。

  億にひとつと、あの人の事を訊ねようと思ったけれど、……やめた。

  きっとあれは、私以外の人々にとっては、所詮は夢幻の一片でしかなくて、

  私だけが、憶えていなければならない。

  そういうモノで、そういう人……

  そういう子……だった、それだけの事なんだ。

  ……でも。


男:どのような形であれ、死に逝く命は等しく悼まれるべきで、

  新しく芽吹き生まれる命は、須らく祝福されるべきだ。


女:この言葉も、あの時間も全てが、

  名前すらも与えてあげられなかったあの子が、それでも遺したかった、命の証。

  あの世を憂いて、この世を妬んで、そのどちらでもない狭間から打ち込まれた、

  うだつの上がらない、どっちつかずの私への、戒めと、決別の楔なんだ。

  それならば私は、いつの日かのあの子を悼んで、いつかのあの子だったかもしれない命を祝福して、

  一度でも捨て切りたかったこの世界を、一度たりとも捨て切れなかったこの命で、

  もう少し、生きてみよう。

  そう心に刻み込んで、私は……

  とても脆くて、とても小さくて、

  それでも、とても温かく震える手を、しっかりと握り締めた。


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