BUTTON
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(役表)
A不問:
B不問:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
A:この世には、胡散臭い事象が充満し、蔓延り、溢れ返っている。
UFO、超能力、未確認生命体、宇宙人、都市伝説、幽霊、エトセトラ。
信じる信じないは個人の自由だし、信じている人を貶すつもりなんて無いが、
少なくとも私は小さな頃から、そういった超常的な類の存在は、何一つ信じなかった。
誰に何を言われようが、私の目で見て、私の耳で聴いた事しか信じない。
そういう性質を持った人間だった。
……ただ、今のこの状況は、全く理解が追いつかない。
目の前に立っている人物。
「挙動不審」、「奇々怪々」、「胡散臭い」等の言葉を、そのまま具現化したかのような。
そんな、誰がどう見ても、不審者としかとれない人物。
この人が発した最初の言葉は、至極単純で、それでいて、至極難解な一言だった。
B:ボタンを、押して頂けませんか?
A:時間にして、およそ5分か10分前。
この人物は、通りすがりの私を呼び止めた。
もう肌寒いという季節でもないだろうに、
全身漆黒のコートに、顔を覆い隠す程に深く被った、漆黒の帽子。
それだけでも怪しいのに、それに加えて足元には、大型のアタッシュケース。
都会の人混みの中だから、紛れてそんなに目立ちはしないが、
いつ職務質問されても、おかしくないような出で立ちだ。
そして、それ以上に目を引くのが、その手に握られているもの。
……何かの、ボタン。
どこに繋がっているわけでもない、クイズ番組の解答席にでも置いてありそうな。
その人物の格好に不釣合いなほど、ポップな見た目のボタンだった。
B:もし、そこのお方。
このボタンを、押して頂けませんか。
A:え、あ……私、ですか?
B:はい。
A:えーっと……
ちょっと私、急いでるんで……
A:(M)
無論、嘘。
急いでもいなければ、そもそも用事も特に無い。
だが、この人物には、関わってはいけない。
10人に聞けば、10人がそう即答する。
確信を持ってそう断言できるほどに、この人物は怪しいのだ。
だが、そそくさと立ち去ろうとする私を、執拗に止めにかかってくる。
……「面倒なことに巻き込まれた」。
私の脳内はもはや、その一文で一杯だった。
……はずだった。
B:なに、あなたの協力さえあれば数分もかかりませんよ。
それに、ご協力頂ければ、お礼もきちんと致しますので。
A:お礼?
B:ええ。
ちょっと人目が多いので、一瞬しか見せられませんが……
これを。
A:っ!?
A:(M)
……間抜けな声が、思わず漏れそうになった。
それはそうだろう。
私じゃなくても、一般人なら、こんな反応になるはずだ。
不自然なサイズのアタッシュケースの中一杯に、みっちりと、札束が詰め込まれていたのだから。
……黒服の謎の人物と、大金の入ったアタッシュケース。
なにかの密売人にでもなった気分だ。
B:……どうです?
ほんの少しご協力頂くだけで、これを全て、あなたに差し上げます。
お話だけでも、聞く気になって頂けましたか?
A:……まあ……話だけなら。
B:ありがとうございます。
……では、少し場所を変えましょうか。
A:え?
B:ああ、人気の無い所に連れて行こうなどというわけではないので、ご心配なく。
ただ、人に見られたり、聞かれたりすると、少しややこしくなってしまうものでして……
なにせ、大金が動く話ですからね。
それだけでも、人は本能的に寄ってきてしまう。
A:はあ……
A:(M)
事実、その通りだ。
実際私も、あの大金の魔力にのせられた、と表現して差し支えない。
人は、現実離れした大金を目の前にすると、正常な思考が出来なくなる。
……また一つ、賢くなった。
おそらく、今後の一生涯のうちで、役に立つ機会は無いだろうけど。
(間)
B:……さて、と。
この辺でいいでしょう。
人が多いわけでもなく、しかし、いないわけでもなく。
雑踏の色に紛れるには、ちょうどいい空間だ。
A:はあ。
B:……気になりますか、このボタン。
A:そりゃあ……まあ。
B:そうですよねえ。
あんな場所で、こんな格好で、こんなボタンを持ってたら。
嫌でも気になってしまうでしょう。
A:……分かってやってたんですか。
B:ええ、そりゃあ勿論。
そして、あの群衆の中で、私の目にとまったのがあなただった。
これが偶然なのか必然なのか、幸運なのか不運なのか。
いずれにせよ、興味を持っていただけて、少なくとも、私にとっては幸いでした。
A:はあ……そうですか。
B:……では、そろそろ本題に入りましょうか。
あなたとて、こんな得体の知れない輩と、長々と話していたくはないでしょう。
手短に、説明致します。
A:……助かります。
B:先程も少し言いましたが、あなたにして頂くことは、
「このボタンを、押す」。
それだけです。
A:……それだけですか?
B:それだけです。
A:本当に、それだけで?
B:ええ。
本当にそれだけで、アタッシュケースの中身は、全て差し上げます。
A:……押したらどうなるか……とかは、聞いちゃダメなんですよね。
B:いいえ?
ちゃんとそれも、今から説明致しますよ。
A:はあ……いいんですか。
聞いてもいいなら、ぜひ聞きたいですけど。
後から色々、根も葉もないことを言われたりするのも嫌ですし。
B:そうですよね。
ですから、この話に乗って頂いた方には必ず、
ボタンを押したらどうなるかまで、きちんとお話するようにしているんです。
A:……どうなるんですか、押したら。
B:人が死にます。
A:……は?
A:(M)
……何を言っているのか、分からなかった。
ボタンを押したら、人が、死ぬ?
死刑台だとか、秘密裏の処刑装置の、遠隔操作ボタンだとでも言う気なんだろうか。
それとも、どこかに仕掛けた、爆弾のリモコンだとでも?
……胡散臭い。
今に始まったことでは無いが、この話の胡散臭さが、そろそろ有頂天に達しそうだ。
そんな、私の混乱する脳内の事など露知らず、目の前の人物は、説明を続けた。
B:……ああ、人が死ぬ、とは言っても、
特になにかの起爆装置だとか、そういう物騒な代物ではありませんよ。
「そのボタンを押す事によって、この世界のどこかにいる誰かが死ぬ」んです。
それだけのことですよ。
A:それだけのこと、って……
死ぬって、どういうことです?
どうやって死ぬって言うんですか、突然、心臓麻痺でも起こすんですか。
このボタンを押しただけで?
B:いいえ。
病的な死でも、物理的な死でもありません。
このボタンによって引き起こされるのは、「概念的な死」。
より端的に言うならば、「存在そのものの死」です。
A:概念、存在の、死……
B:そうです。
A:……もう少し、分かりやすくお願いします。
B:単純なことですよ。
このボタンを押す事により、この世界のどこかの誰かが死ぬ……というのはつまり、
不幸にも対象となってしまった人間の存在が、この世から完全に、消えて無くなるんです。
それも、只消えるのみではなく、世界の記憶からも、綺麗さっぱりと、消滅してしまいます。
A:世界の記憶から、消える?
B:ええ。
そして、「始めからこの世界に、そんな人物は存在しなかった」ものとして、
この世界は、今までどおり回り続けます。
最初からいなかったことになるんですから、誰も、その事実に気付きません。
……私、つまり、ボタンを押させた者と、
あなた、つまり、ボタンを押した者以外は。
A:……なるほど。
B:お分かり頂けましたか?
A:はい。
……理解は出来ても、信用が出来てませんけど。
B:そればかりは仕方ない。
まあ、信用するしないに関わらず、ボタンを押して頂けさえすれば、お礼は差し上げますので。
ゆっくり考えて、ご決断なさってください。
A:……そうします。
あ、その前にひとつ、確認したいことが。
B:はい?
A:その、「世界のどこかにいる誰か」の中に、私は含まれるんですか。
B:まさか。
それはありませんよ。
万が一……いや、億が一にでもあなたがそうなってしまったら、私がこの話を持ちかけた意味が無い。
それに、そんな危険度の高いこと、人様にお願いしたりしませんよ。
A:……分かりました。
(間)
A:(M)
……さて、どうする。
正直、この人物が言っている事は、事実として認めたくはない、
認めてはいけないほど、現実離れした内容ではある、が……しかし、完全に嘘、とも思えない。
信用するしないの問題ではなく、仮に嘘だとしても、
こんなくだらない嘘の為に、冗談でも札束を用意するだろうか、という話だ。
偽札の可能性も、勿論あるにはある。
しかし、向こうのメリットが、さっぱり分からない。
第一、偽札だったとしても、その意味は?
人を揶揄うにしても、子どもでももう少し、信憑性のあるやり方をする。
これは、あまりにもこちらにとって、都合の良過ぎる話ではないか。
……と、言いつつ。
じっくり考える振りをして、ほとんど腹は決まっていた。
ボタンを、押す。
季節はずれのエイプリルフールなのか、はたまた、ただの金持ちの道楽か。
いずれにせよ、ボタンを押してしまえば、それだけで、しばらくは大金持ちだ。
そこが揺るがないのなら、断る理由なんて無い。
嘘だったら嘘だったで、胡散臭すぎて悔しい気持ちにもきっとならないだろう。
そんな気がする。
……私も、所詮は人間。
意地汚い部分はあるのだと、自覚した瞬間でもあった。
B:……お決まりですか?
A:ええ。
……押します。
B:いいんですね?
A:はい。
B:ありがとうございます。
……では、どうぞ。
A:………………
B:どうされました?
A:……本当の本当に、少なくとも「私は」、絶対に消えないんですね?
B:ええ。
このボタンを押すことで、「あなた自身が直接」消えることは、絶対にありません。
A:本当ですね。
B:神に誓って、お約束します。
A:……そこまで言うなら、信用するしかないですね。
B:ええ、こればかりは。
A:それじゃあ……押します。
B:はい、どうぞ。
A:(ボタンを押す)
(間)
B:いやはや、本当に、ご協力ありがとうございました。
それではお約束通り、このお金はあなたのものです、受け取ってください。
……と、行きたい所なのに……おかしいなあ。
…………ん?
……ああ、そういう事か。
嗚呼、なんと不運な方だったんでしょう。
このお金を差し上げる相手がいなくなってしまった……
……あ。
もし、そこのお方。
このボタンを、押して頂けませんか?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━