本書の内容で誤りのあった箇所につきまして、 深くお詫びし、訂正させていただきます。
21ページ上段1~4行目
誤「1218年にチンギスの招きを受けてモンゴル高原に向かうも、チンギスは翌年ホラズムシャー朝遠征に出発したため、それを追って遠く西へ旅しました。」
正「1219年にチンギスの招きを受けてモンゴル高原に向かうこととなります。チンギスはこの年ホラズムシャー朝遠征に出発したため、それを追って遠く西へ旅しました。」
凡例
本書の該当箇所
● 出典の情報
※ より詳しく知るためにおすすめの文献
アルグン、イルケ
12ページ上段3行目「オイラトという」~下段9行目「添わせました。」
● 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』2部1章1「ジャライル部族」東京大学出版会、2013年
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』2章の「ジャライル部族」(とくに101~102ページ)、「オイラト部族」(とくに166ページ)、風間書房、2022年)
12ページ下段10行目「※傅育係」~13ページ上段14行目「察せられます。」
●『モンゴル秘史』(日本語訳:村上正二訳注『モンゴル秘史―チンギス・カン物語』3巻、平凡社、1976年、106~112ページ)
とくに、13ページ上段12行目「このとき」~14行目「察せられます。」 について、詳しくは↓
※ 松田孝一「元朝期の分封制―安西王の事例を中心として」『史学雑誌』88編8号、1979年、37~74ページ(とくに54ページ)https://doi.org/10.24471/shigaku.88.8_1249
※ 四日市康博「ジャルグチとビチクチに関する一考察―モンゴル帝国時代の行政官」『史観』147冊、2002年、33~52ページ(とくに41~42ページ)https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/36863
13ページ上段2行目「皇帝」
チンギス・カンの「カン」は、「皇帝」というより「王」や「リーダー」の意味ですが、本書では便宜上「皇帝」とも表記します。
イルチダイ
13ページ下段2行目「イルケの息子」~5行目「持ちます。」
● 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』2部1章1「ジャライル部族」東京大学出版会、2013年
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』2章の「ジャライル部族」(とくに101~102ページ)、「オイラト部族」(とくに166ページ)、風間書房、2022年
13ページ下段5行目「オゴタイの相撲好き」~6行目「呈したこともあり」
● ラシード・アッディーン『集史』「オゴデイ紀」3部41話
オゴタイ
14ページ下段2行目「オゴタイの人柄」~11行目「た。」
●宇野伸浩「オゴデイ・ハンとムスリム商人―オルドにおける交易と西アジア産の商品」『東洋学報』70巻3・4号、1989年、201~234ページ、https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/records/5620
オゴタイについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「オゴデイ・カアン」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、57~67ページ
カダク
15ページ上段6行目「ナイマンという遊牧集団の出身。」
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 1, Manchester University Press, 1958, p.259.)https://archive.org/details/historyoftheworl011691mbp
● 本田實信『モンゴル時代史研究』2章7節「阿母河等処行尚書省」東京大学出版会、1991年、とくに118ページ(初出:「阿母河等處行尚書省考」『北方文化研究』2号、1967年、89~110ページ)
15ページ上段6行目「オゴタイと」~下段1行目「信仰していたそうです。」
● ラシード・アッディーン『集史』「グユク・ハン紀」(日本語訳:堀さと訳「グユク゠ハン紀」Comic Market 101群雄堂書店、2022年)
15ページ上段9行目「景教」
景教については近年、東シリア教会やアッシリア教会と呼ぶ場合もあります。なお、景教というのは中国・唐(618~907年)の時代の用語で、モンゴル帝国時代に使われてはいなかったのですが、分かりやすさから本書では「景教」と表記します。
キルギスタニ
15ページ下段3行目「オゴタイの妃」~5行目「いわれています。」
● 劉迎勝「元太宗収継元太祖后妃考―以乞里吉忽帖尼皇后与闊里桀担皇后為中心」『民族研究』2019年1期, 86~96ページ
クビライ
16ページ上段8行目「チンギスの」~9行目「人物です。」
クビライについて詳しくは↓
※ 松田孝一「クビライ・カアン」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、84~142ページ
グユク
16ページ下段2行目「オゴタイと」~3行目「参加しました。」
グユクについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「グユク」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、78ページ
クラン
16ページ下段7行目「系図集『五族譜』によると」~9行目「です。」
● 劉迎勝「元太宗収継元太祖后妃考―以乞里吉忽帖尼皇后与闊里桀担皇后為中心」『民族研究』2019年1期, 86~96ページ
● 『五族譜』「モンゴル分支」チンギス・ハンの后妃
コルグズ
17ページ下段2行目「ウイグル人」~9行目「実権を握りました。」
● 本田實信『モンゴル時代史研究』2章7節「阿母河等処行尚書省」東京大学出版会、1991年(初出:「阿母河等處行尚書省考」『北方文化研究』2号、1967年、89~110ページ)
● 坂本勉「モンゴル帝国における必闍赤=bitikci―憲宗メングの時代までを中心として」『史学』42巻4号、1970年、81~111ページ(とくに84~86ページ)https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19700300-0081
そのほか、コルグズについて詳しくは↓
※ 梅村坦「内陸アジアの遊牧民―ウイグル族における時間と空間」永田雄三、松原正毅編『イスラム世界の人びと3―牧畜民』東洋経済新報社、1984年
イラン支配(イルハン国初期)について詳しくは↓
※ 高木小苗「二つの「ディーワーン」―イルハン国初期のイラン地域支配をめぐって」『多元文化』3号、2014年、246~199ページ、 https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/6498
コルゲン
18ページ上段1行目「コルゲン」
コルゲンについて詳しくは↓
※ 村岡倫「チンギス・カンの庶子コルゲンのウルスと北安王」『13―14世紀モンゴル史研究』2号、2017年、21~35ページ
※ 村岡倫「『元史』食貨志歳賜と地理志から見るコルゲン・ウルスの変遷」『龍谷史壇』151・152号、2021年、1~28ページ
サムカ・バアトル
18ページ上段7行目「真定」~下段5行目「参加しました。」
● 松田孝一「モンゴル国発見の史格の墨書について」『13、14世紀東アジア史料通信』21号、日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究(B)「河南・山西地区の多民族融合社会史の研究―石刻史料による中国地域社会史解明の試み」2013年、1~8ページ、https://nara-u.repo.nii.ac.jp/records/2000156
ラシード・アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇「サルジュート部族」にも「サムカ・バアトル(バハドゥル)」という人物が載っているが別人。(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』4章2部の「サルジュート部族」、風間書房、2022年、とくに308~309ページ)
サムカ・バアトルやその一族について詳しくは↓
※ 池内功「史氏一族とモンゴルの金国計略」『中島敏先生古稀記念論集』上巻、汲古書院、1980年、481~511ページ
※ 松田孝一「史天沢」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、162~163ページ
18ページ上段7行目「中国河北省石家庄市」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/8VesNgcFhnk1LitY7
スベエデイ
19ページ上段8行目「モンゴルのウリャンカン」~下段5行目「にありました。」
● 本田實信「スブタイ」の項目『アジア歴史事典』5巻、平凡社、1960年、134ページ
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』4章1部の「ウリャンカト部族」、風間書房、2022年、とくに258ページ)
シギ・クトク
18ページ下段8行目「幼い頃チンギスに拾われ」~13行目「携わりました」
● 四日市康博「ジャルグチ考―モンゴル帝国の重層的国家構造および分配システムとの関わりから」『史学雑誌』114編4号、2005年、443~472ページ(とくに444~450ページ)https://doi.org/10.24471/shigaku.114.4_443
● 宇野伸浩「チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察」『人間環境学研究』7巻、2009年、57~74ページ(とくに59~64ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/169
シギ・クトクについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「シギ・クトゥク」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、77~78ページ
ソルコクタニ
19ページ下段7行目「ケレイトという」~20ページ上段「成功しました。」
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のカトン─帝国の政治を動かした女性たち」『修道法学』44巻1号、2021年、193~209ページ(とくに198~197ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/3125
ソルコクタニについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「ソルカクタニ・ベキ」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、79ページ
ダイル・ウスン
20ページ上段6行目「メルキトという」~8行目「敗死しました。」
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』2章の「メルキト部族」、風間書房、2022年、とくに151~152ページ)
チャガタイ
20ページ下段3行目「チンギスの次男」~6行目「信頼されていたそうです。」
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 2, Manchester University Press, 1958, p.271~272.)https://archive.org/details/historyoftheworl011648mbp
チャガタイについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「チャガダイ」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、77ページ
長春真人
20ページ9行目「金国の登州棲霞」~21ページ上段4行目「伝えられています。」
● 愛宕松男「長春真人」の項、『アジア歴史事典』6巻、平凡社、1960年、297ページ
● 中村淳「長春真人」の項、小松久男ほか編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年、355ページ
現在の棲霞市 Google Maps https://maps.app.goo.gl/aLHZMnJQrAdhFGNg9
21ページ上段1~4行目 深くお詫びし、訂正させていただきます。
誤「1218年にチンギスの招きを受けてモンゴル高原に向かうも、チンギスは翌年ホラズムシャー朝遠征に出発したため、それを追って遠く西へ旅しました。」
正「1219年にチンギスの招きを受けてモンゴル高原に向かうこととなります。チンギスはこの年ホラズムシャー朝遠征に出発したため、それを追って遠く西へ旅しました。」
チンギス・カン
22ページ上段13行目「モンゴルという」~下段6行目「テムジンです。」
● 杉山正明『大モンゴルの世界一陸と海の巨大帝国』第2章「モンゴルの出現」1「チンギス・カンの不思議さ」KADOKAWA、2014年
チンギス・カンについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「チンギス・カン」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、3~53ページ
チンカイ
21ページ上段7行目「チンギスに」~22ページ上段10行目「うです。」
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 1, Manchester University Press, 1958, p.259.)https://archive.org/details/historyoftheworl011691mbp
● 坂本勉「モンゴル帝国における必闍赤=bitikci―憲宗メングの時代までを中心として」『史学』42巻4号、1970年、81~111ページ(とくに95~96、102~104ページ)https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19700300-0081
● 村岡倫、中田裕子「モンゴル西部における東西文化交流の拠点―2017年ハルザン・シレグ遺跡調査の報告とその後」『国際社会文化研究所紀要』22、2020年、93~117ページhttps://opac.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/TD32125874
21ページ下段2行目「ゴビアルタイ県シャルガ郡」
郡の中心地 Google Maps https://maps.app.goo.gl/26H4Tib2A31hi1r29
テムゲ
22ページ下段10行目「たいへんな子だくさ」~11行目「いわれています。」
● ラシード・アッディーン『集史』「グユク・ハン紀」(日本語訳:堀さと訳「グユク゠ハン紀」Comic Market 101群雄堂書店、2022年)
テムゲについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「テムゲ・オッチギン」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、76ページ
トルイ
23ページ上段2行目「チンギスの四男」~4行目「急死しました。」
● ラシード・アッディーン『集史』(ロシア語訳:Рашид-ад-Дин. Сборник летописей. Т. 2, Академия наук СССР., 1952, 110ページ)https://www.vostlit.info/Texts/rus16/Rasidaddin_3/frametext5.html
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 2, Manchester University Press, 1958. pp. 549-550.)https://archive.org/details/historyoftheworl011648mbp
● 『元史』巻115「睿宗列伝」
ドレゲネ
23ページ上段7行目「ナイマンという」~下段2行目「よく知られています。」
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のカトン─帝国の政治を動かした女性たち」『修道法学』44巻1号、2021年、193~209ページ(とくに195~197ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/3125
ファーティマ
24ページ上段2行目「歴史書『世界征服者の歴史』によると」~7行目「人物です。」
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 2, Manchester University Press, 1958, p.271~272.)https://archive.org/details/historyoftheworl011648mbp
フレグ
24ページ上段9行目「チンギスの四男トルイの」~下段7行目「たようです。」
● ラシード・アッディーン『集史』(ロシア語訳:Рашид-ад-Дин. Сборник летописей. Т. 1, кн. 2, Академия наук СССР., 1946, 229-230ページ)https://www.vostlit.info/Texts/rus16/Rasidaddin_2/kniga2/frametext10.html
フレグについて詳しくは↓
※ 大塚修「フレグ」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、184~191ページ
ボラクチン
25ページ上段2行目「オゴタイの后のうち」~5行目「ません。」
● 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』、名古屋大学出版会、2018年、上巻475、648ページ
モゲ
25ページ上段7行目「べクリン(メクリンとも)という」~下段4行目「たります。」
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』3章の「べクリン部族」、風間書房、2022年、とくに235~236ページ)
モンケ
25ページ下段6行目「チンギスの」~7行目「参加しました。」
モンケについて詳しくは↓
※ 宇野伸浩「モンケ・カアン」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、67~76ページ
26ページ3行目「遺失物、行方不明の」~12行目「ます。」
● 宮紀子「ブラルグチ再考」『東方学報』86冊、2011年、693~740ページ(とくに732、736ページ)http://hdl.handle.net/2433/147951
30ページ上段3行目「トゥース」
現在のトゥース Google Map https://maps.app.goo.gl/KiNic3bM6ggZhrFz7
モンゴル帝国のホラズムシャー朝遠征
30ページ下段7行目~32ページ~33ページ10行目「処刑されたことでした。」
● 松田孝一「モンゴル帝国と元」の項、宇野伸浩「チンギス・カン」の項、小松久男編者代表『中央ユーラシア文化事典』丸善出版、2023年
33ページ9行目「オトラル」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/TCEe28kWi4LhBV9q7
33ページ11行目「ホラズムは」~34ページ9行目「なりました。」
● 堀川徹「ホラズム」の項、井谷鋼造「ホラズムシャー朝」の項、小松久男ほか編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年
34ページ上段10行目「モンゴル軍」~13行目「(カラ・クムの戦い)」
● 杉山正明「知られざる最初の東西衝突」窪田順平編『ユーラシア中央域の歴史構図―13~15世紀の東西』 総合地球環境学研究所イリプロジェクト、2010年
34ページ下段1行目「こうした都市」~35ページ上段6行目「知られていました。」
● 羽田明「トゥース」の項『アジア歴史事典』7巻、平凡社、1961年
35ページ上段7行目「また、サマルカンド」~下段9行目「に残されています。」
● 川口塚司「サマルカンド」の項、小松久男編者代表『中央ユーラシア文化事典』丸善出版、2023年
現在のサマルカンド Google Maps https://maps.app.goo.gl/rzXr92kctEorSYKF9
35ページ下段8行目「アフラシアブ遺跡」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/hogqnY4Zff8sfj36A
35ページ下段13行目「ニーシャプール」~36ページ下段4行目「存続しました。」
● 森本一夫「ニーシャープール」の項、大塚和夫ほか編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年
現在のニーシャプール Google Maps https://maps.app.goo.gl/4NidZVj5pgDMqJce6
36ページ下段5行目「ホラズムシャー朝」~37ページ7行目「帰還しました。」
● 杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上、講談社、1996年、51~55ページ
● 井谷鋼造「ジャラールッディーン」の項、小松久男編者代表『中央ユーラシア文化事典』丸善出版、2023年
末子相続
40ページ6行目「トルイ家は」~14行目「いました。」
● 本田実信『モンゴル時代史研究』1章2「チンギス・ハンの千戸制」東京大学出版会、1991年、27ページ注25(初出:「チンギス・ハンの千戸―「元朝秘史」とラシード「集史」との比較を通じて」『史学雑誌』62編8号、1953年、17ページ注25)
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のカトン─帝国の政治を動かした女性たち」『修道法学』44巻1号、2021年、193~209ページ(とくに200ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/3125
モンゴル帝国建国前夜
42ページ上段5行目「歴史書『集史』」~43ページ3行目「す。」
43ページ図②
『元史』、『聖武親征録』、『集史』ロシア語訳のほか、吉田順一「元朝秘史の歴史性―その年代記的側面の検討」(『史観』78冊、1968年、40~56ページ、(再録:『モンゴルの歴史と社会』風間書房、2019年、3~37ページ)も参照しました。
『元史』は中国・明朝の洪武帝の命令で編纂され、14世紀後半に成立した歴史書で、漢文で書かれています。
『聖武親征録』は成立年不明の歴史書で、こちらも漢文で書かれています。
『集史』は、イルハン国の君主カザンの命令により、ラシード・アッディーンが編纂し、14世紀初頭に成立した歴史書。原書はペルシア語で、同時にアラビア語訳も作られました。ロシア語訳、英語訳、韓国語訳、漢語訳、モンゴル語訳などがあります。近年、日本語の部分訳(もロシア語訳より翻訳されて出版されました。
ロシア語訳:Рашид-ад-Дин. Сборник летописей. Академия наук СССР. 1946-1960. https://www.vostlit.info/haupt-Dateien/index-Dateien/R.phtml?id=2057#:~:text=%D0%A0%D0%90%D0%A8%D0%98%D0%94%20%D0%90%D0%94%2D%D0%94%D0%98%D0%9D%2C%20%D0%A4%D0%90%D0%97%D0%9B%D0%90%D0%9B%D0%9B%D0%90%D0%A5%0A%D0%A1%D0%B1%D0%BE%D1%80%D0%BD%D0%B8%D0%BA%20%D0%BB%D0%B5%D1%82%D0%BE%D0%BF%D0%B8%D1%81%D0%B5%D0%B9
英語訳: Thackston, W. M. Jami'u't-Tawarikh = Compendium of Chronicles. Harvard University, Department of Near Eastern Languages and Civilizations, 1998-99.
日本語訳: 金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』 風間書房、2022年、堀さと訳「グユク゠ハン紀」群雄堂書店、2022年12月(Comic Market 101 頒布)
モンゴル帝国の金国遠征
45ページ下段3行目「金国への遠征は」~47ページ上段1行目「収めました。」
● 古松崇志「女真(ジュルチェン)と金」の項、小松久男編者代表『中央ユーラシア文化事典』丸善出版、2023年
47ページ上段2行目「金国の北には」~14行目「えられました。」
● 村岡倫「モンゴル時代初期の河西・山西地方―右翼ウルスの分地成立をめぐって」『龍谷史壇』117号、1~22ページ、2001年
チンギス・カンの金国遠征について詳しくは↓
※ 牧野修二「チンギス汗の金国侵攻」牧野修二、藤野彪編『元朝史論集』汲古書院、2012年
47ページ上段11~14行目「南部の平陽がジュチ家に、中部の太原がチャガタイ家に、そして北部の西京がオゴタイ家に与えられました。」
平陽:現・中国山西省臨汾市 https://maps.app.goo.gl/imd3n7LL9oRjenS97 周辺
太原:現・中国山西省太原市 https://maps.app.goo.gl/3QiY1qHRZ2nTu4pT7 周辺
西京:現・中国山西省大同市 https://maps.app.goo.gl/e4V2dS2FHQ3itcB29 周辺
47ページ上段15行目「その後、チンギスの」~47ページ下段9行目「を迎えます。」
● 杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上、講談社、1996年、57~62ページ
47ページ下段10行目「開封は」~48ページ上段3行目「描かれています。」
● 日比野丈夫「開封」『アジア歴史事典』2巻、平凡社、1959年
現在の開封 Google Maps https://maps.app.goo.gl/doQmKaEXH5hDA42r6
※開封について詳しくは↓
● 久保田和男『宋代開封の研究』汲古書院、2007年
● 久保田和男『宋都開封の成立』汲古書院、2023年
トルイの死
48ページ下段12行目「金国遠征の帰路」~49ページ上段13行目「死去する。」
● ラシード・アッディーン『集史』1巻「モンゴル史」2部「トルイ・カン紀」
49ページ上段14行目「『元史』は」~下段2行目「内容です。」
● 『元史』巻105「睿宗(=トルイ)列伝」(『元史』電子版が利用できるWebサイトとして、台湾の中央研究院「漢籍電子文献資料庫」https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm があります。)
※『元史』のトルイの死に関する内容を整理すると以下の通りです。
金国遠征からの帰還途中、オゴタイが病にかかる。
→トルイが登場し、天地に祈って、オゴタイの身代わりになろうと申し出る。
→巫術師がオゴタイの病を清めるのに使った水を、トルイが飲む。
→オゴタイは回復するが、トルイは帰還後、病にかかり死去する。
49ページ下段3行目「『モンゴル秘史』は」~11行目「なっています。」
● 吉田順一「元朝秘史の歴史性―その年代記的側面の検討」『史観』78冊、1968年、40~56ページ(再録:「元朝秘史の歴史性―その年代記的側面の検討」『モンゴルの歴史と社会』風間書房、2019年、3~37ページ)
● 『モンゴル秘史』(日本語訳:村上正二訳注『モンゴル秘史―チンギス・カン物語』3巻、平凡社、1976年、315〜325ページ)
● 吉田順一「元朝秘史」の項『世界大百科事典』平凡社、2014年
※『モンゴル秘史』のトルイの死に関する内容を整理すると以下の通りです。
金国遠征の帰路、オゴタイが病にかかり、舌を動かすことができなくなる。
→巫術師たちの占いによれば、病の原因は金国の土地の神、河水の主の祟りだという。
→親族から身代わりを差し出したら祟りがおさまるかもしれないということで、それを巫術師たちが占ったところ、オゴタイの病状が和らぐ。
→オゴタイの側にいたトルイが、自身には大きな罪があり、また容姿も優れているので、身代わりになろうと名乗り出る。
→トルイは巫術師たちに水を呪わせ、その水を飲んだ後、酔ってしまったと言って外に出ていき、まもなく亡くなる。
→オゴタイが病から回復する。
49ページ下段12行目「『世界征服者の歴史』は」~50ページ上段2行目「いません。」
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 2, Manchester University Press, 1958. pp. 549-550.)https://archive.org/details/historyoftheworl011648mbp
ソルコクタニの再婚話
53ページ下段1行目「オゴタイが」~6行目「基づくものです。」
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のカトン─帝国の政治を動かした女性たち」『修道法学』44巻1号、2021年、193~209ページ(とくに199~200ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/3125
ソルコクタニとグユクの関係を家系図の形で示すと以下の通りです。
55ページ上段7行目「モゲ(最初の」~8行目「に嫁いだ」
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』3章の「べクリン部族」、風間書房、2022年、とくに235~236ページ)
55ページ上段8行目「オグル・トゥトミ」~10行目「に嫁いだ」
● 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52巻3号、1993年、399~434ページ(とくに409、414~415、418ページ)http://hdl.handle.net/2433/154461
オグル・トゥトミシュの再婚について、家系図の形で示すと以下の通りです。
55ページ上段11行目「アラカイ・ベキ」~12行目「再婚した」
詳しくは↓
※森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67巻3号、1〜39ページ(とくに5〜8ページ)、2008年、https://doi.org/10.14989/152117
アラカイ・ベキの再婚について、家系図の形で示すと以下の通りです。
55ページ上段15行目「例えば」~下段6行目「出身です。」
● 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52巻3号、1993年、399~434ページ(とくに402ページ)http://hdl.handle.net/2433/154461
チャガタイが妻イェスルン亡き後、その姉妹トゲンと再婚したことを、家系図の形で示すと以下の通りです。
55ページ下段6行目「また、チンギスの」~12行目「でした。」
● 宇野伸浩「フレグ家の通婚関係にみられる交換婚」『北東アジア研究』別冊1号、2008年、27~45ページ(とくに31~32ページ)https://ushimane.repo.nii.ac.jp/records/1302
● 宇野伸浩「マルコ・ポーロがイランまでお供した女性コケジン・カトン」比較ジェンダー史研究会、2015年10月12日掲載、https://ch-gender.jp/wp/?page_id=12247
アルグン・カンが妻クトルグが亡き後、その姪オルジタイと再婚したことを、家系図の形で示すと以下の通りです。
55ページ下段14行目「トルイがその父」~56ページ6行目「回避しました。」
● 本田実信『モンゴル時代史研究』1章2「チンギス・ハンの千戸制」東京大学出版会、1991年、27ページ注25(初出:「チンギス・ハンの千戸―「元朝秘史」とラシード「集史」との比較を通じて」『史学雑誌』62編8号、1953年、17ページ注25)
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のカトン─帝国の政治を動かした女性たち」『修道法学』44巻1号、2021年、193~209ページ(とくに200ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/3125
モンゴル帝国の南宋遠征
59ページ8行目「南宋は、1127年」~60ページ上段3ページ「してしまいます。」
● 杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上、講談社、1996年、77、80ページ
※ 梅原郁「南宋―5 最後の興亡」『世界歴史体系―中国史3―五代~元』山川出版社、1997年、とくに323ページ
60ページ上段4行目「ちなみに」~11行目「活用されていました。」
● 梅原郁「襄陽」の項『アジア歴史事典』4巻、平凡社、1960年
現在の襄陽 Google Maps https://maps.app.goo.gl/Lz7ZcbtNmuwqQDRw8
モンゴル帝国の旧金国領支配
60ページ下段11行目「戸籍簿の作成を」~14行目「した。」
● 宇野伸浩「チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察」『人間環境学研究』7巻、2009年、57~74ページ(とくに59~64ページ)https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/169
60ページ下段14行目「1206年」~61ページ下段13行目「断事官だったのです。」
● 四日市康博「ジャルグチ考―モンゴル帝国の重層的国家構造および分配システムとの関わりから」『史学雑誌』114編4号、2005年、443~472ページ(とくに444~450ページ)https://doi.org/10.24471/shigaku.114.4_443
● 四日市康博「モンゴル帝国の国家構造における富の所有と分配―遊牧社会と定住社会、中華世界とイラン世界」今西裕一郎編『九州大学21世紀COEプログラム「東アジアと日本―交流と変容」総括ワークショップ報告書』2007年、165~181ページ(とくに167ページ)
61ページ下段14行目「戸籍簿」~62ページ8行目「考えられています。」
ただし、保有者(主人)と同居し、その家で奴婢として使われていた者たちは、引き続き奴婢として保有が認められ、皇帝の民戸として登録されることはありませんでした。
● 松田孝一「モンゴルの漢地統治制度―分地分民制度を中心として」『待兼山論叢―史学篇』11号、1978年、33~54ページ(とくに35~37ページ)https://hdl.handle.net/11094/48000
● 松田孝一「モンゴル帝国領漢地の戸口統計」『待兼山論叢―史学篇』19号、1985年、25~45ページ、https://hdl.handle.net/11094/47981
62ページ12行目「ジュチ家」~63ページ10行目「かっています。」
なお、王家以外への分配として、有力な功臣に対しては、モンゴル高原の兵数の五倍程度が何らかの基準として設けられていたようです。
● 松田孝一「オゴデイ・カンの「丙申年分撥」再考(2)―分撥記事考証」『立命館文学』619号、2010年、707~722ページ
こちらもあわせて参照がおすすめ↓
※ 松田孝一「窩闊台汗の「丙申年分撥」再考(1)―「答里真官人位」の寧海州分地について」『西域歴史語言研究集刊』4集、2010年、105~134ページ
13世紀初め、チンギスは配下の遊牧民を「千戸(千人隊)」という組織に編成し、弟たちや息子たちに分け与えました。それぞれの遊牧地の配置は下図のように考えられています。(白石典之『チンギス・カン―“蒼き狼”の実像』2章「大モンゴル国の勃興―この国のかたち」中央公論新社、2006年)
Google earthより筆者作成
63ページ11行目「こうして分配」~15行目「確保していました。」
● 松田孝一「モンゴルの漢地統治制度―分地分民制度を中心として」『待兼山論叢―史学篇』11号、1978年、33~54ページ(とくに45~48ページ)https://hdl.handle.net/11094/48000
モンゴル帝国のキプチャク遠征
67ページ6行目「1235年」~68ページ下段3行目「ます。」
69ページ1行目上段「このとき」~70ページ上段5行目「いわれています。」
● 佐口透『東西文明の交流4―モンゴル帝国と西洋』平凡社、1970年、24~30ページ
68ページ下段4行目「キプチャクとは」~16行目「軍人出身です。」
● 坂井弘紀「キプチャク」の項、小松久男ほか編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年
70ページ上段6行目「1225年」~下段8行目「侵攻していきます。」
● 栗生沢猛夫『タタールのくびき―ロシア史におけるモンゴル支配の研究』東京大学出版会、2007年、4~6ページ
イラン総督府
70ページ下段10行目「アルグンが」~72ページ上段6行目「行いました。」
72ページ上段16行目「当時、ホラーサーンの」~74ページ12行目「ばれました。」
● 本田實信『モンゴル時代史研究』2章7節「阿母河等処行尚書省」東京大学出版会、1991年(初出:「阿母河等處行尚書省考」『北方文化研究』2号、1967年、89~110ページ)
72ページ上段6行目「ホラーサーンとは」~15行目「いくこととなります。」
● 木村暁「ホラーサーン」の項、小松久男ほか編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年
図⑦ 政府宮殿前の像配置
政府宮殿前のチンギス・カン像 Google Maps https://goo.gl/maps/7dnXz8yRJ4BHRs7V7
現在のモンゴルの人々にとって、チンギス・カンとはどのような存在なのか、詳しくは↓
※ 島村一平「文化資源として利用されるチンギス・ハーン―モンゴル、日本、中国、ロシアの比較から」『人間文化―滋賀県立大学人間文化学部研究報告』24号、7~34ページ、2008年
※ 小長谷有紀「チンギス・ハーン崇拝の近代的起源―日本とモンゴルの応答関係から」『国立民族学博物館研究報告』37巻4号、425~447ページ、2013年https://minpaku.repo.nii.ac.jp/records/3848
衣服
81ページ上段7行目「1233~34年」~82ページ4行目「とです。」
● 彭大雅撰、徐霆疏『黒韃事略』
「其服、右衽而方領,舊以氈毳革、新以紵絲金線。色用紅紫紺綠、紋以日月龍鳳、無貴賤等差。」
訳:その(モンゴルの人々の)衣服は、右衽(右手側の身頃を下、左手側の身頃を上にして重ねる形)で襟は長方形である。以前は毛織物・革を用いていたが、最近は緞子(絹の色糸を繻子織という方法で織って紋様を描き出す織物)・金糸を用いている。色は紅・紫・紺・緑を用い、紋様は日・月・竜・鳳(おおとり)で、貴賎の差はない。
82ページ5行目「また、歴史書」~11行目「ことです。」
● ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(英語訳: Boyle, John Andrew. The History of the World-Conqueror. 1, Manchester University Press, 1958. p. 186 https://archive.org/details/historyoftheworl011691mbp/mode/2up)
帽子
82ページ14行目「ソルコクタ」~83ページ上段6行目「多かったようです。」
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、209~210ページ
↓ボグタグ(写真の出典:Чулуун, С. Талын язгууртны өв соёл. Чингис хаан музей, 2022, 88ぺージ、モンゴル国首都ウランバートルにあるチンギス・ハーン博物館の図録)
上の写真はモンゴル国東部、ヘンティー県デルゲルハーン・ソムのボルハン・トルゴイ遺跡4号墓で、女性の遺体と共に発見された「ボグタグ」です。白樺の樹皮を高さ32.8cm、幅23.5cmの筒状に縫い合わせ、その表面に、金糸で「福壽」と刺繍された赤い絹織物を貼って作られたもので、筒の上端は糸に通したビーズで飾られていたということです。(白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、210ページ)
↓ツォグ(Чулуун, С. Талын язгууртны өв соёл. Чингис хаан музей, 2022, 86ぺージ、チンギス・ハーン博物館の図録)
高位の貴婦人の場合、帽子の額の上のところに「ツォグ」という宝飾品を付けていました。上の写真は、モンゴル国東部、スフバータル県オンゴン・ソムのタワン・トルゴイ5号墓で発見されたツォグの写真です。(白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、209~210ページ)
↓日よけ付き帽子(Чулуун, С. Талын язгууртны өв соёл. Чингис хаан музей, 2022, 92ぺージ、チンギス・ハーン博物館の図録)
一方こちらの写真は男性用の帽子です。モンゴル国南部、ウムヌゴビ県ノヨン・ソムのツァガーン・ハナ岩陰墓で見つかったもので、白い絹織物の生地に、金糸で雲の形が刺繍されています。頭にかぶる部分をてっぺんから六等分する線や全体の縁取りには黒いなめし革が使われていました。前に丸いつば(芯は紙)を付け、後ろに日よけ布を垂らした作りです。帝国のエリート層は、このような形の帽子のてっぺんに、「ジンス」という宝飾品(金の台座に縦長の宝石類をはめ込んだもの、下写真参照)を付けてかぶっていたようです。(白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、210~211ページ)
↓ジンス(Чулуун, С. Талын язгууртны өв соёл. Чингис хаан музей, 2022, 93ぺージ、チンギス・ハーン博物館の図録)
織物
83ページ上段8行目「服の布地や」~14行目「着ていたそうです。」
● ルブルクの旅行記 (日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』1部9章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』4章、名古屋大学出版会、2019年、82ページ)
83ページ下段5行目「まず、ビロード」~84ページ上段7行目「ます。」
● マルコ・ポーロ『東方見聞録』(日本語訳:愛宕松男訳注『東方見聞録』1巻、平凡社、1970年、47~51ページ)
● 坂本和子「織物に見るシルクロードの文化交流―トゥルファン出土染織資料―錦綾を中心に」大阪大学博士論文、2008年、83~89、95ページ、https://hdl.handle.net/11094/2683
84ページ上段2行目「バグダード」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/Q3e9BAxfjSibkAqZ9
84ページ上段8行目「バルダキンは」~15行目「baudekinなど」
● 「baldachin」の項『ランダムハウス英和大辞典第2版』小学館、1994年
84ページ下段1行目「語源はアラビア語やペルシア語のnasīj」
● 森安孝夫「ウイグル文書箚記 その四」『内陸アジア言語の研究』9、1994年、63~93ページ(とくに89ページ)
84ページ下段5行目「歴史書『ヘラート史記』」~15行目「渡ったということです」
● 本田實信『モンゴル時代史研究』2章8節「ヘラートのクルト政権」東京大学出版会、1991年、111ページ(初出:「ヘラートのクルト政権の成立」『東洋史研究』21巻2号、1962年、38~75ページ、とくに50ページ、http://hdl.handle.net/2433/152609)
● Allsen, Thomas T. Commodity and exchange in the Mongol Empire: a cultural history of Islamic textiles. Cambridge University Press, 1997, pp. 39-40. https://archive.org/details/commodityexchang0000alls
● 坂本和子「織物に見るシルクロードの文化交流―トゥルファン出土染織資料―錦綾を中心に」大阪大学博士論文、2008年、89~95ページ、https://hdl.handle.net/11094/2683
84ページ下段7行目「ヘラート」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/mKTmmLvVozpJr1Xn8
84ページ11~12行目「ウルムチ市」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/knnh3Xv5SgEMAZ1e8
84ページ下段16行目「捕虜となった」~85ページ7行目「管理していたそうです」
● 松田孝一「モンゴル帝国における工匠の確保と管理の諸相」松田孝一責任編集『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』平成12〜13年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))研究成果報告書、大阪国際大学、2002年、171~199ページ(とくに182~184ページ)
なお、蕁麻林(現・洗馬林)という地名について、女真人(金国の支配者)の言葉で「simelen(湿地、沼地、湖という意味)」にあたるという説が、Thomas T. Allsen(Commodity and exchange in the Mongol Empire: a cultural history of Islamic textiles. Cambridge University Press, 1997, pp. 43. https://archive.org/details/commodityexchang0000alls)によって出されており、松田孝一(「カラコルムを首都にするチンギス・カンの命令の真相を探る」『歴史懇談』34号、大阪歴史懇談会、2020年)もその説を支持しています。
洗馬林 Google Maps https://maps.app.goo.gl/eSArq12PkrxM3jgPA
85ページ8行目「ちなみに」~86ページ下段1行目「発見されています。」
● Oka, Ildikó. “Three Mongolian Coats from the 13th–14th Century Grave at Burkhiin Khoshuu.” Current Archaeological Research in Mongolia: Bonn Contributions to Asian Archaeology, 4, 2009, pp. 487-504. https://www.academia.edu/36856290/THREE_MONGOLIAN_COATS_FROM_THE_13TH_14TH_CENTURY_GRAVE_AT_BUKHIIN_KHOSHUU_The_Objects_of_Study?source=swp_share
● 村上智見、白石典之「モンゴル帝国期の織物技術(発表要旨)」『日本モンゴル学会紀要』46、2016年、135ページ、chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://ja-ms.org/bullten/JAMS(46)2016-11.pdf
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、208~209ページ
↓モンゴル国立博物館(Google Maps https://maps.app.goo.gl/cotKQWwsC1uZ6KYZ9)で展示されていた服実物(左写真:筆者撮影、右写真:Саруулбаян, Ж. Монголын үндэсний музей. Монголын үндэсний музей. 2009, 73ページ)
86ページ上段「ヘンティー県デルゲルハーン郡」
郡の中心地 Google Maps https://maps.app.goo.gl/m57vh6eCuQLBiGah8
86ページ上段14行目「サマルカンド」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/e9eZ6VRjDXF7kBkF8
明礬石
86ページ下段6行目「明礬石の化学式は」~10行目「るそうです。」
● 加藤敏郎「ミョウバン(明礬)石」の項『改訂新版世界大百科事典』平凡社、2014年
● 加藤昭「明礬石」の項『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、2018年
86ページ下段11行目「マンガ本編より」~87ページ下段2行目「分かります。」
● ムハンマド・ブン・マフムード・トゥースィー『被造物の驚異と万物の珍奇』(日本語訳: 守川知子監訳、ペルシア語百科全書研究会訳注「原典翻訳 ムハンマド・ブン・マフムード・トゥースィー著『被造物の驚異と万物の珍奇』(4)」『イスラーム世界研究』4(1・2)、2011年、483~550ページ、とくに538ページ、http://hdl.handle.net/2433/154006)
87ページ下段3行目「マンガ本編と」~11行目「いったそうです。」
● Serjeant, Robert B. “Material for a History of Islamic Textiles up to the Mongol Conquest.” Ars Islamica, 13, 1948, pp. 75-117.(とくにpp. 105-106.)
87ページ下段9行目「アレクサンドリア」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/Y2M2oJyJSakaqZRW7
乳製品
88ページ上段11行目「ルブルクが記録した」~下段6行目「飲むそうです。」
● ルブルクの旅行記
(Jackson, Peter. The Mission of Friar William of Rubruck His Journey to the Court of the Great Khan Möngke, 1253-1255. Hakluyt Society, 1990, p. 83. https://archive.org/details/missionoffriarwi0000ruys
日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』2部4章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』4章、名古屋大学出版会、2019年、185~186ページ)
クルト:護雅夫訳では「グルト」。下記の研究によると、原写本(ラテン語)では「grut」と表記されているが、これは「クルト」(テュルク語qurut)を示すとのことなので、表記を変更しました。
88ページ下段7行目「牛乳からバターを」~12行目「という記録があり」
● 『居家必用事類全集』「飲食類>素食>煎酥乳酪品>造酪法」(日本語訳: 中村喬編訳『中国の食譜』平凡社、1995年、333ページ)
88ページ下段14行目「また、ルブルクが」~90ページ1行目「強いとのことです。」
● ルブルクの旅行記 (Jackson, Peter. The Mission of Friar William of Rubruck His Journey to the Court of the Great Khan Möngke, 1253-1255. Hakluyt Society, 1990, p. 76~77. https://archive.org/details/missionoffriarwi0000ruys
日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』2部3~4章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』4章、名古屋大学出版会、2019年、184~186ページ)
クミス:護雅夫訳では「コスモス酒」ですが、下記の研究によると、原写本(ラテン語)には「comos」と書かれており、「クミス」(テュルク語で馬乳酒という意味)と訳すのが適切なので、表記を変更しました。
90ページ2行目「以上のように」~91ページ上段5行目「考えられています。」
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、208ページ 発掘時の写真:モンゴル国営通信社Montsameの記事「800-year-old vases containing frozen clotted cream and yellow butter found from glacial」2019年8月16日掲載、https://www.montsame.mn/en/read/197987
90ページ4行目「フブスグル県オラーン・オール」
オラーン・オール郡の中心地 Google Maps https://maps.app.goo.gl/7d2JFgGiwYrxN2wn9
肉料理
91ページ上段7行目「チンギス治世」~13行目「分かっています。」
91ページ下段4行目「調理方法について」~92ページ1行目「と書かれています。」
92ページ上段4行目「そのほかに」~92ページ8行目「いたようです。」
● 白石典之「モンゴル帝国の食生活―1. 動物遺存体に見る食生活」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、190~194ページ
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、206~207ページ
● 彭大雅撰、徐霆疏『黒韃事略』
91ページ7行目「アウラガ遺跡」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/aU1LMHJ7UTASignM7
91ページ8行目「カラコルム」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/tcttuPTewdDKXHAe7
91ページ下段1行目「まず、捌き方」~3行目「というものでした。」
● ラシード・アッディーン『集史』(ロシア語訳:Рашид-ад-Дин. Сборник летописей. Т. 2, Академия наук СССР., 1952, 49ページ)https://www.vostlit.info/Texts/rus16/Rasidaddin_3/frametext2.html
● シンジルト『オイラトの民族誌―内陸アジア牧畜社会におけるエコロジーとエスニシティ』明石書店、2021年、34~39ページ
92ページ上段1行目「また」~4行目「記録があります」
ルブルクの旅行記(日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』2部3章、講談社、2016年)に下記の通りあります。なお、〔 〕は筆者が補って書いた部分です。
「〔夏に〕牛か馬が死ぬようなことがあると、その肉を薄く細く切って吊るし、太陽・風にさらして乾かします。すると、塩気なしですぐさま乾燥して、悪い匂いはすこしもいたしません。馬の腸から、豚のよりも上等の腸詰めをつくり、つくりたてを食べます。残りの肉は冬用に保存しておきます。〔中略〕一頭の羊の肉で、50人ないし100人分の食事をまかないます。つまり、塩水──このほかのソースはありません──を入れた深皿のなかで羊肉を細かく切り、小刀か、このためにとくにつくられたフォーク──わたしどもが普通、葡萄酒で煮た梨・林檎を食べるのに使うような──の先端に突きさし、まわりに立っている人々に、客の人数に応じて一口か二口ずつ供するのです。」
(この箇所の日本語訳は、高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』(4章、名古屋大学出版会、2019年、185ページ)にもあります。 )
92ページ6行目
「イトウ」の項『WEB魚図鑑』https://zukan.com/fish/internal656
「ヒメマス」の項『WEB魚図鑑』https://zukan.com/fish/internal139
「カワカマス」(アムールパイク)の項『WEB魚図鑑』https://zukan.com/fish/internal20476
「パーチ」の項『WEB魚図鑑』https://zukan.com/fish/internal706
穀物やフルーツ
92ページ上段10行目「アウラガ遺跡」~下段3行目「品物でした。」
● 小畑弘己「モンゴル帝国の食生活―2. 植物遺存体に見る食生活」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、195~205ページ
現代のモンゴルの食文化について詳しくは↓
※ 小長谷有紀『世界の食文化3―モンゴル』農山漁村文化協会、2005年
天幕
93ページ下段1行目「1236年に」~94ページ上段2行目「ということです」
● 白石典之「チンギス・カン時代の住生活一1. 住居と移動生活」」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、206~217ページ(とくに207~208ページ)
● 彭大雅撰、徐霆疏『黒韃事略』
94ページ上段3行目「このような構造」~10行目「包んでいました。」
● 白石典之「チンギス・カン時代の住生活一1. 住居と移動生活」」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、206~217ページ(とくに207ページ)
94ページ上段5行目「ドゴイ・ツァヒル岩陰墓」
墓が位置する、モンゴル国バヤンホンゴル県バヤンツァガーン郡 Google Maps https://maps.app.goo.gl/y2mwhGrsYoxw6iRW7
94ページ上段6~7行目「ヘンティー県デルゲルハーン郡」
郡の中心地 Google Maps https://maps.app.goo.gl/m57vh6eCuQLBiGah8
94ページ上段11行目「2つ目は」~下段2行目「登場します。」
● 白石典之「チンギス・カン時代の住生活一1. 住居と移動生活」」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、206~217ページ(とくに208ページ)
● 彭大雅撰、徐霆疏『黒韃事略』
● カルピニの旅行記 (日本語訳:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』1部2章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』2章、名古屋大学出版会、2019年、37~39ページ)
● ルブルクの旅行記 (日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』2部2章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』4章、名古屋大学出版会、2019年、181~184ページ)
95ページ上段3行目「天幕を張るときは」~9行目「しなかったということです。」
● ルブルクの旅行記 (日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』2部2章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』4章、名古屋大学出版会、2019年、181~184ページ)
95ページ上段14行目「例えば」~下段4行目「いたそうです。」
● カルピニの旅行記 (日本語訳:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』1部9章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』第2章、名古屋大学出版会、2019年、82ページ)
95ページ下段5~6行目「モンゴル国、内モンゴル自治区、キルギス、カザフスタン、ロシア」
モンゴル国 Google Maps https://maps.app.goo.gl/HEqK7bJHutCaV4Xb6
内モンゴル自治区 Google Maps https://maps.app.goo.gl/2zhSZFk8H1t4sa4q7
キルギス Google Maps https://maps.app.goo.gl/rs8Bp49maPm176o36
カザフスタン Google Maps https://maps.app.goo.gl/vXcG65dwPYojc7Ai6
ロシア Google Maps https://maps.app.goo.gl/1kNTz35a5BPVNjpx8
96ページ上段3行目「包(パオ)」
満洲語の「ボー(家という意味)」に由来するといわれています。 松川節「移動と定住のはざまで」佐藤浩司編『住まいをつむぐ』学芸出版社、1998年、195~214ページ
96ページ上段7行目「次に形状」~11行目「す。」
● 廣田千恵子「モンゴル国カザフ人社会における文様・装飾利用動態 ― 装飾文化の維持に関わる要因の分析を中心に」『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』328、2018年、85~98ページ(とくに90~92ページ)https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/104944/
椅子
96ページ上段13行目「季節移動の」~下段6行目「考えられています」
● エルデネバト、U「モンゴルの折畳み椅子「イセル」」『モンゴルと東北アジア研究』9,2024年、117~136ページ
オルド
100ページ2行目「モンゴル帝国の君主」~下段1行目「と呼ばれました。」
● 白石典之『モンゴル帝国誕生―チンギス・カンの都を掘る』6章1「最初の首都・アウラガ遺跡―ヘルレン大オルド」講談社、2017年
100ページ下段1行目「ちなみに、オルド」~7行目「使用されてきました。」
● 小野浩「オルド」の項『中央ユーラシアを知る事典』小松久男ほか編、平凡社、2005年、106ページ
102ページ上段1行目「モンゴル帝国の君主」~10行目「なったということです。」
● 白石典之「チンギス・カン時代の住生活一1. 住居と移動生活」」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、206~217ページ(とくに210~211ページ)
● 彭大雅撰、徐霆疏『黒韃事略』
102ページ上段11行目「チンギスの季節移動」~下段12行目「考えられています。」
● 白石典之『遊牧国家興亡史』講談社、2025年、とくに241~243ページ
大オルド(アウラガ)
103ページ2行目「ヘルレン河の大オルドは」~下段3行目「考えられています。」
● 笹田朋孝「モンゴル高原の鉄生産」白石典之編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年、253~261ページ
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、185~187ページ
アウラガ遺跡 Google Map https://maps.app.goo.gl/RFJ6CvN7xA4RAoSk8
↓アウラガ川と遺跡南部(中村篤志氏撮影)
104ページ上段2行目「資料館」
資料館 Google Map https://maps.app.goo.gl/zsE7F3XUbDUc4Vn47
104ページ下段3行目「アウラガ遺跡の」~107ページ1行目「しょうか。」
● 白石典之『モンゴル帝国史の考古学的研究』同成社、192、294ページ、2002年
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、187~190ページ
↓北からみた第2建物(中村篤志氏撮影)
107ページ上段2行目「チンギスの後を継いだ」~108ページ下段8行目「考えられています。
白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、218~221ページ
↓南からみた第1建物(発掘中、中村篤志氏撮影)
108ページ下段9行目「東西800メートル」~109ページ8行目「とでしょう。」
● 白石典之『モンゴル帝国誕生―チンギス・カンの都を掘る』6章1「最初の首都・アウラガ遺跡」講談社、2017年
サアリ・ケエル、カラトン
109ページ10行目「サアリ・ケエルの」~110ページ下段11行目「残っています。」
● 白石典之『モンゴル帝国誕生―チンギス・カンの都を掘る』6章1「最初の首都・アウラガ遺跡」講談社、2017年
109ページ11行目「ブールルジュート」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/zGfkC4CiAwPdfqrz5
110ページ下段9行目「ブヘグ」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/K9dsd4e1vPNPX2si6
↓ブールルジュート 城郭跡 サアリ・ケエルの所在地と考えられている(中村篤志氏撮影)
カラコルム
111ページ2行目「1235年」~112ページ下段16行目「つながっていました。」
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、192〜194ページ、2022年
カラコルム出土の陶瓷器について詳しくは↓
※ 亀井明徳編著『カラコルム遺跡―出土陶瓷器の研究」櫂歌書房、2007年
カラコルムの街並みを再現したバーチャルツアー「Virtual Kharakhorum」(https://ds.ocurus.com/view/NDQ3MA)も公開されています。
解説記事:包慕萍「『バーチャル・カラコルム』の都市・建築景観の復元について」『日本モンゴル学会コラム』2021年2月5日https://ja-ms.org/jams_column/%E3%80%8C%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E5%BB%BA%E7%AF%89%E6%99%AF%E8%A6%B3%E3%81%AE/
万安宮
113ページ上段2行目「1235年に」~9行目「います。」
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、『モンゴル考古学概説』194ページ
113ページ上段10行目「ちなみに、」~14行目「みつかっています。」
詳しくは↓
※ 松田孝一、オチル編『モンゴル国現存モンゴル帝国・元朝碑文の研究』ビチェース・プロジェクト成果報告書、大阪国際大学、2013年
※村岡倫「『和林兵馬劉公去思碑』よりー元代カラコルム行政の一端」『九州大学東洋史論集』43、1〜21ページ、2015年、https://doi.org/10.15017/1657874 など
↓エルデネ・ゾー寺院(中村篤志氏撮影)
↓エルデネ・ゾー敷地内(筆者撮影)
興元閣
113ページ下段2行目「市街地の西南」~115ページ下段6行目「考えられています。」
● 白石典之、D・ツェヴェーンドルジ「和林興元閣新考」『資料学研究』4号、2007年、1~14ページhttps://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/8076
● 松川節「『勅賜興元閣碑』モンゴル文面訳註」『内陸アジア言語の研究』23号、2008年、35~54ページhttps://hdl.handle.net/11094/17767
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、195~197ページ
興元閣 Google Map https://maps.app.goo.gl/Pex4eqgNPc3Fx5PH9
近年、興元閣の発掘調査を行ったドイツ隊の公式ホームページに、360度パノラマカメラでカラコルムを空撮した写真が公開されています。遺跡の上を飛ぶ鳥になった気持ちで楽しむことができます。https://orchontal.de/en/monuments/karakorum/great-hall/#:~:text=Panorama%20der%20Gro%C3%9Fen%20Halle
↓南西からみた興元閣(中村篤志氏撮影)
↓カラコルム博物館と、その入り口前に建てられた勅賜興元閣碑レプリカ(筆者撮影)
メルヒーン・トルゴイ
116ページ上段2行目「カラコルム南」~5行目「います。」
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、198ページ
メルヒーン・トルゴイ Google Map https://maps.app.goo.gl/p2orFBDCFG3oCf8H7
↓メルヒーン・トルゴイからカラコルムをのぞむ(筆者撮影)
季節移動
116ページ下段2行目「カラコルムを都」~118ページ5行目「びます。」
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、193、197~199ページ
カラコルム Google Map https://maps.app.goo.gl/C8K97BBfdqEXUHS89
アルハンガイ県ウギーノール郡ドイティン・バルガス遺跡 Google Map https://maps.app.goo.gl/a1BCCyeauTbmWDy77
ウブルハンガイ県バトウルジー郡オーラクト Google Map https://maps.app.goo.gl/k8xabnCpBnW5LwH3A
クイシ・ナイマン・ノール Google Map https://maps.app.goo.gl/2wDwiCTS3a8xc4CG9
ウブルハンガイ県バヤンゴル郡シャーザン・ホト遺跡 Google Map https://maps.app.goo.gl/ox5mADJ4izvG5t51A
オルメクト
119ページ2行目「これらの移動先」~9行目「考えられています。」
● 白石典之「モンゴル帝国における都市の形成と交通路」天野哲也ほか編『中世東アジアの周縁世界』同成社、2009年、11~22ページ
● 白石典之『モンゴル考古学概説』同成社、2022年、197~199ページ
↓オーラクト(中村篤志氏撮影)
120ページ7行目「カトゥンという」~11行目「なっていきます。」
● 『モンゴル秘史』(日本語訳: 村上正二訳注『モンゴル秘史―チンギス・カン物語』1、平凡社、1970年、73~74ページ)
120ページ12行目「カトゥンたちの間」~121ページ下段6行目「数多くいました。」
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のオルド」『東方学』76集、1988年、47~62ページ(とくに52、54ページ)
● 宇野伸浩「モンゴル帝国のカトン─帝国の政治を動かした女性たち」『修道法学』44巻1号、2021年、193~209ページ(とくに193~206ページ)
モンゴルの女性たちを扱った本として↓
※楊海英『モンゴル帝国―草原のダイナミズムと女たち』講談社、2024年
千戸制
124ページ9行目「13世紀初め」~127ページ上段5行目「をえなかったようです。」
詳しくは↓
※ 本田実信『モンゴル時代史研究』1章2「チンギス・ハンの千戸制」東京大学出版会、1991年(初出:「チンギス・ハンの千戸―「元朝秘史」とラシード「集史」との比較を通じて」『史学雑誌』62編8号、1953年)
※ 大葉昇一「モンゴル帝国=元朝の軍隊組織―とくに指揮系統と編成方式について」『史学雑誌』95編7号、1986年、1~38ページ(とくに3~7、16~18ページ) https://doi.org/10.24471/shigaku.95.7_1135
※ 川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年
127ページ上段6行目「以上述べてきた」~14行目「処刑されたといいます。」
● カルピニの旅行記 (日本語訳:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』1部6章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』2章、名古屋大学出版会、2019年、59ページ)
諸王家への分配
127ページ下段5行目「分配された」~129ページ上段3行目「られています。」
● 杉山正明「モンゴル帝国の原像―チンギス・カンの一族分封をめぐって」『東洋史研究』37巻1号、1~34ページ、1978年、http://hdl.handle.net/2433/153689
● 白石典之『チンギス・カン―“蒼き狼”の実像』2章「大モンゴル国の勃興―この国のかたち」中央公論新社、2006年
庶子コルゲンは父チンギス没後、その直属の領地の一部を継承しました。詳しくは↓
※村岡倫「モンゴル時代初期の河西・山西地方―右翼ウルスの分地成立をめぐって」『龍谷史壇』117号、2001年、1~22ページ
※村岡倫「チンギス・カンの庶子コルゲンのウルスと北安王」『13―14世紀モンゴル史研究』2号、2017年、21~35ページ
128ページ図㉒
● 本田實信『モンゴル時代史研究』1章3「チンギス・ハンの軍制と部族制」東京大学出版会、1991年(初出:「チンギス゠ハンの軍制と部族制度」『歴史教育』9巻7号、1961年、10~18ページ)
母ホエルンに分与された千戸×3は、四弟テムゲが継承しました。なお、松田孝一「モンゴル帝国の統治制度とウルス」(荒川正晴ほか編『岩波講座世界歴史10―モンゴル帝国と海域世界―12~14世紀』岩波書店、2023年、77〜104ページ)では、分配について新たな見解がなされ、さらなる検討が必要となっています。
タンマチ(タマ)
129ページ上段10行目「タンマチ(タマ)」~下段13行目「融合していきました」
● 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68巻3・4号、1978年、37~65ページ(とくに44~45、60~61ページ)http://id.nii.ac.jp/1629/00005576/
● 村岡倫「石刻史料から見た探馬赤軍の歴史」『13、14世紀東アジア史料通信』15号、2011年、1~9ページ、https://nara-u.repo.nii.ac.jp/records/2000124
129ページ下段8行目「開封」
現在の開封 Google Maps https://maps.app.goo.gl/qkKpWTKTwAxcg6RU6
129ページ下段14行目「以上述べてきた」~16行目「といわれています。」
● 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題」宋元時代史の基本問題編集委員会編『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年、153~184ページ(とくに161~166ページ)
129ページ下段16行目「ただ、」~130ページ上段2行目「送っていたようです。」
● 川本正知「モンゴル帝国における戦争―遊牧民の部族・軍隊・国家とその定住民支配」『アジア・アフリカ言語文化研究』80、2010年、113~151ページ(とくに142~143ページ)https://tufs.repo.nii.ac.jp/records/2071
130ページ上段3行目「また、チョルマグン」~4行目「呼ばれていました。」
● 村岡倫「石刻史料から見た探馬赤軍の歴史」『13、14世紀東アジア史料通信』15号、2011年、1~9ページ、https://nara-u.repo.nii.ac.jp/records/2000124
130ページ上段5行目「実際に」~下段5行目「した。」
● 北川誠一「チョルマガン・タマチ軍の対外活動」『西南アジア研究』No. 45、1996年、27~38ページ(とくに27~29ページ)
アウルク
130ページ下段7行目「遊牧民の戦いでは」~132ページ上段6行目「もありました。」
● 矢澤知行「イェケ・モンゴル・ウルスのアウルク」『愛媛大学教育学部紀要』第Ⅱ部人文・社会科学、34巻1号、2001年、83~101ページ(とくに86~90、99ページ)https://ehime-u.repo.nii.ac.jp/records/1647
ケシクテン
132ページ8行目「モンゴル高原の」~134ページ9行目「うかがえます。」
● 本田實信『モンゴル時代史研究』1章3「チンギス・ハンの軍制と部族制」東京大学出版会、1991年、とくに42~45ページ(初出:「チンギス゠ハンの軍制と部族制度」『歴史教育』9巻7号、1961年、10~18ページ)
● 宇野伸浩「モンゴル帝国の宮廷のケシクテンとチンギス・カンの中央の千戸」『桜文論叢』96巻、247~269ページ、2018年https://researchmap.jp/96101/published_papers/10769061
132ページ下段1行目「ジェルメ」
『集史』や『元朝秘史』には、テムジンとボオルチュ、テムジンとジェルメの湿度高めな君臣関係を示すエピソードが(多少の脚色はあると思われますが)書かれています。テムジンとボオルチュがまだ少年だったある日、テムジンは盗賊に馬をとられ、それを追いかけていた道すがらボオルチュと出会い、二人で協力して盗賊から馬を取り返しました。この出来事がきっかけでボオルチュは、テムジンの僚友となりました。ジェルメは、テムジン一族に古くから仕える家の出身で、父に連れられて、若き日のテムジンのもとにやってきて仕えるようになりました。ボオルチュ、ジェルメは最古参の家臣としてさまざまな戦いで功績をあげ、ケシクテンのトップに任じられるとともに、テムジンが矢傷を負った際には夜通しかいがいしく看護し、その命を救ったということです。(『集史』ではボオルチュ、『元朝秘史』ではジェルメが看病したとされています。)
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳: 金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』 風間書房、2022年、254、283~287ページ) 『モンゴル秘史』(日本語訳: 村上正二訳注『モンゴル秘史―チンギス・カン物語』1、平凡社、1970年、140~160、327~337ページ)
134ページ10行目「なおマンガ本編」~16行目「ります。」
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳: 金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』 風間書房、2022年、101~103、166ページ)
135ページ1行目「なお、ケシクテン」~9行目「す。」
● 杉山清彦「ヌルハチ時代のヒヤ制―清初侍衛考序説」『東洋史研究』62巻1号、2003年、97~136ページ(とくに119~128ページ)
● 平田陽一郎「西魏・北周の二十四軍と『府兵制』」『東洋史研究』70巻2号、2011年、225~259ページ(とくに238~246ページ)https://doi.org/10.14989/192928
136ページ上段8行目「ロシアの歴史」~15行目「符合します。」
● ウラヂミルツオフ著、外務省調査部訳『蒙古社会制度史』生活社、1941年、225ページ(原書:Владимирцов, Б. Я. Общественный строй монголов. Монгольский кочевой феодализм, 1934, 97ページ, https://archive.org/details/obshchestvenny_stroy_mongolov)
● 護雅夫「元朝秘史における《oboq》の語義について」ユーラシア学会編『内陸アジアの研究―ヘディン博士記念号』1955年、43~83ページ(とくに66ページ)
シャーマニズム
140ページ6行目「ある日、オゴタイ」~141ページ上段14行目「ということです。」
● ラシード・アッディーン『集史』(ロシア語訳:Рашид-ад-Дин. Сборник летописей. Т. 2, Академия наук СССР., 1952, 49ページhttps://www.vostlit.info/Texts/rus16/Rasidaddin_3/frametext2.html
141ページ上段3行目「バーリシュ」
クビライ・カアンの時代には、ペルシア語で「バーリシュ」(枕という意味)、ウイグル語で「ヤストゥク」(枕という意味)、モンゴル語で「スケ」(斧という意味)と呼ばれる、枕あるいは斧のような形の銀塊(約二キログラム)が、モンゴル帝国全域で共通貨幣として使われていました。(杉山正明『クビライの挑戦―モンゴルによる世界史の大転回』3部4章、講談社、2010年)
141ページ下段14行目「落雷で亡くなった」~143ページ下段4行目「うことです。」
● カルピニの旅行記 (日本語訳:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』1部3章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』第2章、名古屋大学出版会、2019年、41~44ページ)
モンゴルの人々と雷の関係について詳しくは↓
※ 今井秀周「北方遊牧民族と雷」『東海学院大学紀要』4号、2011年、139~148ページ、http://id.nii.ac.jp/1568/00001872/
143ページ下段14行目「モンゴルの」~144ページ5行目上段「持っていました。」
● 松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」堀川徹編『講座イスラーム世界3―世界に広がるイスラーム』栄光教育文化研究所、1995年、158~192ページ(とくに161~162ページ)
144ページ下段10行目「この本によると」~146ページ6行目「ということです。」
● ウノ・ハルヴァ著、田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』2巻21章「シャマン―シャマンの職能」平凡社、2013年、215~217ページ
146ページ1行目「モルゴン・カラ Morgon-Kara」
Черемисов, К. Бурятско-русский словарь: 44000 слов(ブリヤート語―ロシア語辞書: 44000語, 1973)を参考に、現代のブリヤート語の綴り方で書いてみると、「Моргон Хара」(現代のブリヤート語では「モルゴン・ハラ」と発音し、Моргонは「熊の」、Хараは「黒」という意味)となります。(等々力政彦氏のご教示による)
146ページ12行目「それによると」~147ページ8行目「とです。」
● ウノ・ハルヴァ著、田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』2巻21章「シャマン―シャマンの太鼓」平凡社、2013年、202、205~208ページ
下写真はアバカン・タタール(現・ロシア連邦ハカス共和国などに暮らすハカス人の総称)のシャーマンの太鼓(ウノ・ハルヴァ著、田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』1巻8章「星々―金星」208ページ、2巻21章「シャマン―シャマンの太鼓」211ページ)
148ページ上段2行目「アルタイ・タタール」~16行目「いわれていました。」
● ウノ・ハルヴァ著、田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』2巻17章「死者の世界」平凡社、2013年、215~217ページ
148ページ上段2行目「アルタイ・タタール」~6行目「使われていた言葉」
「トゥバ・キジ」はトゥバ、トゥバラルとも。「テレングット」(テレウトとも)の人々について、Потапов, Л. Этнический Состав и Происхождение Алтайцев: Историко-Этнографический Очерк (アルタイの民族構成と起源:歴史民族誌. НАУКА, 1969, 44ページ)によると、彼らの話す言葉は「テレンゲット」の人々の話す言葉と言語学的に近く、また「テレンゲット」(Телеҥет / Teleŋet)と自称することもあったそうで、かつてはおそらく「テレンゲット」の人々と同じ一つのグループだったと考えられています。ただ、Баскаков, Н. Тощакова, Т. Ойротско-русский словарь(オイロト語(アルタイ語)―ロシア語辞書, 1947) のアルタイ言語分布地図を見てみると、「テレンゲット」と「テレングット」の分布は完全に分かれており、両者の帰属意識は近しいけれども異なっているようです。(ウノ・ハルヴァ著、田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』1巻序説、平凡社、2013年、11ページ、および等々力政彦氏のご教示による)
148ページ上段11行目「エルリク」
出典では「ärlik」。Баскаков, Н., Тощакова, Т. Ойротско-русский словарь(オイロト語(アルタイ語)―ロシア語辞書, 1947)を参考に、現代の南部アルタイ語(アルタイ・キジ語)の綴り方で書いてみると「эрлик / erlik」となります。(等々力政彦氏のご教示による)
148ページ上段12行目「カラ・ネメ」
出典では「kara nämä」。Баскаков, Н., Тощакова, Т. Ойротско-русский словарь(オイロト語(アルタイ語)―ロシア語辞書, 1947)を参考に、現代の南部アルタイ語(アルタイ・キジ語)の綴り方で書いてみると「кара-неме / kara-neme」となります。(等々力政彦氏のご教示による)
149ページ上段6行目「現在、モンゴル国」~下段14行目「す。」
● 島村一平『増殖するシャーマン―モンゴル・ブリヤートのシャーマニズムとエスニシティ』3章1「シャーマンのルーツと世俗のルーツ」春風社、2011年、250~273ページ
● 島村一平『憑依と抵抗―現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム』1部1「シャーマニズムという名の感染症―人はいかにしてシャーマンになっているのか」晶文社、2022年、37~47ページ
イスラーム
150ページ6行目「モンゴル帝国」~13行目「出されていました。」
ただしこの禁令はオゴタイの時代以降、柔軟に運用されていたようです。
● 松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」堀川徹編『講座イスラーム世界3―世界に広がるイスラーム』栄光教育文化研究所、1995年、158~192ページ(とくに163ページ
● シンジルト『オイラトの民族誌―内陸アジア牧畜社会におけるエコロジーとエスニシティ』明石書店、2021年、34~41ページ
当時の法について詳しくは↓
※ チョクト『チンギス・カンの法』山川出版社、2010年
150ページ14行目「また、イスラーム」~151ページ上段2行目「す行為でした。」
● ラシード・アッディーン『集史』(ロシア語訳:Рашид-ад-Дин. Сборник летописей. Т. 2, Академия наук СССР., 1952, 49ページhttps://www.vostlit.info/Texts/rus16/Rasidaddin_3/frametext2.html
151ページ下段1行目「景教」~3行目「などが信仰」
● 森安孝夫「前近代中央ユーラシアのトルコ・モンゴル族とキリスト教」『帝京大学文化財研究所研究報告』20、2021年、5~39ページ(とくに24ページ)https://teikyo-u.repo.nii.ac.jp/records/2000059
天文
155ページ下段5行目「古代ギリシャ」~157ページ上段4行目「集大成でした」
● 三村太郎『天文学の誕生―イスラーム文化がもたらしたもの』講談社、2026年、19~23ページ(初出:三村太郎『天文学の誕生―イスラーム文化の役割』岩波書店、3~8ページ、2010年)
156ページ3行目「プトレマイオスが組み立てたモデル(図㉕)」
国立天文台 暦wiki「アルマゲスト」2020年5月27日掲載(https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/A5A2A5EBA5DEA5B2A5B9A5C8.html#l2bd081f)より、動画の形で見ることができます。
157ページ上段5行目「以上のような」~下段1行目「好例です。」 ● 三村太郎『天文学の誕生―イスラーム文化がもたらしたもの』講談社、2026年、111~121ページ(初出:三村太郎『天文学の誕生―イスラーム文化の役割』岩波書店、93~103ページ、2010年)
157ページ上段11行目「バグダード」
現在のバグダード Google Maps https://maps.app.goo.gl/yuoZJFb6cFoncQcR8
157ページ下段2行目「イスラーム圏」~158ページ上段9行目「測されています。」
● 荒木裕太「コペルニクスとマラーガ学派の天文学における理論的同一性とその伝播ルートの仮説について」『哲学・科学史論叢』25号、2023年、29~63ページ
● 三村太郎『天文学の誕生―イスラーム文化がもたらしたもの』講談社、2026年、129~131ページ(初出:三村太郎『天文学の誕生―イスラーム文化の役割』岩波書店、110~112ページ、2010年)
158ページ10行目「トゥースィーは」~159ページ上段5行目「できるでしょう。」
● 諫早庸一「天文学から見たユーラシアの13世紀―14世紀―文化の軸としてのナスィール・アッディーン・トゥースィー(1201―1274年)」『史苑』79巻2号、2019年、88~114ページ(とくに97~105ページ)https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/18015
● 諫早庸一『ユーラシア史のなかのモンゴル帝国』11章「天文学―もうひとつの『天文対話』」みすず書房、2025年
158ページ14行目『イル・ハン天文便覧』
詳しくは↓
※須賀隆、諫早庸一「『イル・ハン天文便覧』に見える中国暦・ヒジュラ暦換算表の再構―モンゴル帝国期東西天文学交流の再考」『第5回「歴史的記録と現代科学」研究会集録』2019年、https://www.academia.edu/38227507/%E9%A0%88%E8%B3%80_and_%E8%AB%AB%E6%97%A9_2019_%E3%82%A4%E3%83%AB_%E3%83%8F%E3%83%B3%E5%A4%A9%E6%96%87%E4%BE%BF%E8%A6%A7_%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%9A%A6_%E3%83%92%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E6%9A%A6%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8%E3%81%AE%E5%86%8D%E6%A7%8B_%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%9C%9F%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E4%BA%A4%E6%B5%81%E3%81%AE%E5%86%8D%E8%80%83_Reconstructing_the_Chinese_Hijri_Calendar_Conversion_Table_in_the_Ilkhanid_Astronomical_Handbook_Reconsidering_the_Inter_Dynastic_Exchange_of_Astral_Sciences_in_Mongol_Eurasia_pdf
159ページ上段6行目「なお、チンギス・カン」~11行目「取られていました。」
● 松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」堀川徹編『講座イスラーム世界3―世界に広がるイスラーム』栄光教育文化研究所、1995年、158~192ページ(とくに160~162ページ)
159ページ下段4行目「これと似た話が」~160ページ上段3行目「とです。」
● ウノ・ハルヴァ著、田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』1巻8章「星々―北極星と小熊座、金星」平凡社、2013年、199、209ページ、2013年
160ページ上段10行目「カルピニの旅行記」~下段4行目「書かれています。」
● カルピニの旅行記 (日本語訳:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』1部3章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』2章、名古屋大学出版会、2019年、42ページ)
160ページ下段5行目「ルブルクの旅行記」~10行目「ということです。」
● ルブルクの旅行記 (日本語訳: 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』2部35章、講談社、2016年、 高田英樹編訳『原典中世ヨーロッパ東方記』4章、名古屋大学出版会、2019年、270ページ)
161ページ3行目「天文学の発展」~10行目「役立ったそうです。」
● ターナー、ハワード・R著、久保儀明訳『図説 科学で読むイスラム文化』青土社、2001年、101~102ページ(123~124ページにアストロラーベの構造図掲載↓)
雄黄
162ページ上段8行目「マンガ本編で」~下段2行目「持っています。」
● 興野純「鶏冠石からパラ鶏冠石への光誘起相転移メカニズム」『日本結晶学会誌』49巻6号、2007年、321~327ページ https://doi.org/10.5940/jcrsj.49.321
● 青木正博「鶏冠石」の項『改訂新版世界大百科事典』平凡社、2014年
● 加藤昭「鶏冠石」の項『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、2016年
163ページ上段1ページ「歴史書『元史』」~3行目「あったようです。」
● 『元史』巻47、本紀16、世祖13、至元28(1291)年、 本紀17、世祖14、至元29(1292)年
163ページ下段2行目「前漢」~8行目「考えられていたようです。」
「雄黃。味苦平。主治寒熱鼠瘺、悪瘡疽痔、死肌、殺精物悪鬼邪気百蟲毒、勝五兵。煉食之,軽身神仙。一名黄食石。生山谷。」
● 森村謙一「古典自然物の研究―自然物、医薬・その即物的考察」『東方学報』84冊、2009年、210~280ページ(とくに249ページ)
163ページ下段9行目「また4世紀末に」~13行目「載っています。」
● 葛洪撰『抱朴子 内篇』(日本語訳:本田濟訳注、東洋文庫、1990年)
163ページ15行目「外丹」(中国・道教の錬/煉丹術)
詳しくは↓
※ 大形徹『不老不死―仙人の誕生と神仙術』志学社、2021年
イスラームの錬金術について詳しくは↓
※ ターナー、ハワード・R著、久保儀明訳『図説 科学で読むイスラム文化』青土社、2001年
※ ジャカール、ダニエル著、遠藤ゆかり訳『アラビア科学の歴史』創元社、2006年
164ページ上段1行目「現在の中国」~5行目「あるようです。」
● 神戸中医学研究会編著『中医臨床のための中薬学』医歯薬出版、1992年、529~530ページ
164ページ下段2行目「1100年頃に」~9行目「書かれています。」
● 唐慎微撰『重修政和経史証類備用本草』(北京:人民衛生出版社、1957年、124~125ページ)
164ページ下段10行目「実際に」~12行目「になります。」
● 神戸中医学研究会編著『中医臨床のための中薬学』医歯薬出版、1992年、529~530ページ
165ページ4行目「ファイアズ・テパ遺跡」~10行目「検出されています。」
● 山内和也責任編集 『アフガニスタン流出文化財の調査―バーミヤーン仏教壁画の材料と技法』アフガニスタン文化遺産調査資料集3巻、明石書店、2006年、45ページ
● 早川泰弘ほか「報告 ハンドヘルド蛍光X 線分析装置によるウズベキスタン国立歴史博物館所蔵資料の材料調査」『保存科学』52号、2013年、59~70ページ https://tobunken.repo.nii.ac.jp/records/3854
165ページ4~5行目「ファイアズ・テパ遺跡 」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/yboUGSMCBWeG3MeY7
165ページ6~5行目「フォーラーディー谷」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/svTbJdoiZrYtRybdA
165ページ10行目「西アジア地域でも」~14行目「ます。」
● Knipe, Penley., et al. “Materials and techniques of Islamic manuscripts.” Heritage Science, 6: 55, 2018. https://www.nature.com/articles/s40494-018-0217-y
『集史』
168ページ上段6行目「14世紀初頭」~169ページ上段6行目「ます。」
● 白岩一彦「『集史』研究の現状と課題」『日本中東学会年報』10、1995年、179~198ページ、https://doi.org/10.24498/ajames.10.0_179
● 大塚修「史上初の世界史家カーシャーニー―『集史』編纂に関する新見解」『西南アジア研究』80、2014年、25~48ページ、 http://hdl.handle.net/2433/260482
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳: 金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』「ロシア語訳『集史』への序文」1~12ページ、「『集史』総目次」32~38ページ、風間書房、2022年)
『集史』「モンゴル史」第二部のまとまった形での日本語訳は未刊です。第二部に日本語でアクセスする方法として、ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史』(全6巻、平凡社、1968~1979年、トルイの死については2巻101~104ページ)を利用することができます。
『集史』に関する詳しい研究として↓
※ 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 序説―イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年
※ 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』東京大学出版会、2013年
※ 志茂碩敏、志茂智子『モンゴル帝国史研究 完篇―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』東京大学出版会、2021年
(一部の研究者から批判あり)
『集史』の著者について詳しくは↓
※ 大塚修「ラシードゥッディーン」『アジア人物史5―モンゴル帝国のユーラシア統一』集英社、2023年、180~232ページ
『元史』
169ページ上段8行目「中国・明」~下段1行目「97巻です。」
● 植松正「元史」の項『中国史籍解題辞典』神田信夫、山根幸夫編、燎原書店、1989年、74~75ページ
● 内山知也「元史」の項『漢籍解題事典』新釈漢文大系、明治書院、2013年
『世界征服者の歴史』
169ページ下段3行目「トルイの息子」~11行目「が知られています。」
● 本田實信「ジョン・アンドリュー・ボイル博士訳『ジュヴァイニーの世界征服者の歴史』」『東洋学報』42巻2号、1959年、220~226ページ
『モンゴル秘史』
170ページ上段2行目「モンゴル人が」~下段16行目「考えられています。」
● 吉田順一「元朝秘史の歴史性―その年代記的側面の検討」『史観』78冊、1968年、40~56ページ(再録:「元朝秘史の歴史性―その年代記的側面の検討」『モンゴルの歴史と社会』風間書房、2019年、3~37ページ)
● 吉田順一「元朝秘史」の項『世界大百科事典』平凡社、2014年
175ページ10行目「このネタ」~175ページ上段2行目「ると思われます。」
● ラシード・アッディーン『集史』(日本語訳:金山あゆみ訳注、赤坂恒明監訳『ラシード゠アッディーン『集史』「オイラト部族」(とくに160ページ)、風間書房、2022年)
「クドカ」、「マダガ」の綴りについては、伊藤崇展氏より下記研究に基づいてアドバイスいただきました。
● ラシード・アッディーン『集史』(英語訳: Thackston, W. M. Jami'u't-Tawarikh = Compendium of Chronicles. Harvard University, Department of Near Eastern Languages and Civilizations, 1998-99, p.55.)
● 栗林均、确精扎布『『元朝秘史』モンゴル語全単語・語尾索引』東北大学東北アジア研究センター、2001年https://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/129081
175ページ上段3行目「なお、オイラト」~下段7行目「となります。」
● 宇野伸浩「ホイン・イルゲン考―モンゴル帝国・元朝期の森林諸部族」『早稲田大学文学研究科紀要別冊哲学・史学編』12集、1986年、173~186ページ
● 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52巻3号、1993年、399~434ページ
175ページ上段3~4行目「バイカル湖」
Google Maps https://maps.app.goo.gl/qiT5PVvk5kT3Tduy6
203ページ下段9行目「現在の研究によると」~15行目「ということでした。」
● 等々力政彦「内モンゴル敖漢旗喇嘛溝の遼墓壁画に認められる、台形胴の長頸リュートについて」『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』31号、2014年、49~63ページ、https://otani.repo.nii.ac.jp/records/139