作品
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戯曲
小説
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人は、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の順で忘れていくらしい。裏を返せば、匂いは長く覚えている、ということだ。
そんなことを考えながら、私は瓶を一つ手に取った。
「お客様、お試しなさらなくてよろしいのですか?」
「ああ……はい、大丈夫です」
忘れるわけもない、あの人の付けていた香水。男がつけるにしては甘ったるい香りがして、でもそれが何ともあの人らしかった。
そんなあの人は姿を消して、部屋に残った甘い香りだけが存在を証明していた。
置きざりにされた家財道具については何の指示もなかったので、ほとんど処分した。が、その中でいくつか残したものがある。この香水はその一つであった。しゅ、とひと吹きすれば、部屋に充満していた香りがより濃くなる。そうして目を瞑れば、彼の存在が目の前にあるような気がして。そうしているうちに使うのをやめられなくなり、今ではこれが私の香りになっている。今ではもう声も顔も思い出せない彼だけど、毎朝香水を吹きかけるときだけ、その面影が鮮明に蘇る。
こうでもしないと忘れてしまいそうな彼を、いつまでもこうして留めおくのは、ただの私のエゴだ。だって、そうしないとあの人が、
___もう一度死んでしまうから。
人は二回死ぬという。
一度目は、肉体が死んだとき。二度目は、人々から忘れ去られたとき。
死ぬのが怖いと言っていたあの人を、二回も死なせてしまうなんて、私には耐えがたい。だから、私はこうしてずっと、彼の使っていた香水を使い続けている。
「私が死ぬまでは、いかせてあげないから」
「本日は、ようこそお越しくださいました」
サーカス小屋の前で、シルクハットを被った男が深々とお辞儀をする。
「Pray a moment. ひと時の安らぎを、どうか」
照明が落ち、ショーが始まる。
Fragment Circus. それは、一つの町で一日きりしか公演をしないという、珍しい移動式サーカス。チケットは無料で配られているが、それを得るためにはあるものと交換しなければならない。それは、「何かの欠片を差し出すこと」である。それは、どこからか出てきたジグソーパズルの一ピース、好きだった人と見た映画の半券、ちぎったパンでも構わない。それらと引き換えに得られるのは、何の変哲もないサーカスのチケット。
小さなテントの入り口に立つピエロにチケットを渡せば、その見た目とは裏腹に大きなステージと、それを囲む座席がある。
曲芸をする象、綱渡りをする人間、歌う人形。音が踊り、光が舞うテントの中。人々は、皆一様に笑顔を浮かべている。その証拠に、彼らのテントから出てきた人々は皆、口を揃えてこう言うのだ。
「まるで魔法のようだった」
そう言って、きらきらと輝いた瞳のままで、帰っていく。
「お客様の一欠片と引き換えに、思い出の欠片、夢の欠片を提供する。それが我々、Fragment Circusの務めでございます」
シルクハットを被った彼は街を転々とし、一夜の夢を上演する。
彼が持つのはトランクと、ステッキと、一人のピエロだけ。
本当は、ゾウもトラも、たくさんの曲芸師たちも、歌う人形も存在していない。
彼の”魔法”で魅せられた、たったひと時の夢。その中で、人は生きる光を見出すのだ。
「団長、お疲れ様です」
テントを仕舞ったシルクハットに、ピエロが近づいて微笑む。
「ああ、君も、お疲れ様」
「いえ、私は大して何も」
「いーや、そんなことないでしょう。いつもきっちり、ご苦労様。」
悪食ちゃん。
欠片の魔法使い。彼は人間の思いを糧に魔法を使う。
人の為に為る魔法を使うことを誓った、あの日から。
「ようこそ、Fragment Circusへ」
「どうか、素敵なひと時を」