桝井ドーフィンと光次郎

   桝井光次郎 22歳

       ますい みつじろう

1880年(明治13年)に広島県廿日市市宮内で生まれた桝井光次郎は、22歳の時バラの苗木の育て方を学ぶため、単身アメリカに渡りました。6年間修業の後、帰国の際にフランス人の友人ホフマン氏からイチジクの苗木3本を手渡されました。この3本が、現在も日本のイチジク栽培のほぼ80%を占める桝井ドーフィンの始まりでした。 


自宅前の桝井ドーフィン原木と光次郎

帰国後、光次郎はアメリカで学んだバラの栽培に励みましたが、残念な事に気候風土が合わなかったせいか成功しませんでした。しかし、家の前の畑に挿した3本のイチジクは順調に生育し、植え付け翌年には今まで日本で食べられていたイチジクの2倍の大きさの実がなりました。そしてその品質も優れている事から非常に注目されました。そこで光次郎は、この新種と思われるイチジクの育苗と販売に力をそそぐ事になります。

イチジク(桝井ドーフィン)

1914年(大正3年)に広島県立農事試験場へこのイチジクの品種を問い合わせたところ、ドーフィンと判明。既存のビオレー・ドーフィンと区別する為、桝井が売るドーフィン、桝井ドーフィンと呼ばれるようになりました。栽培とともに光次郎の地道な営業努力が結実し、桝井ドーフィンは日本全国に広がり、愛知・京都・兵庫などには大産地もできました。

千葉高等園芸学校(現千葉大学農学部)園芸品評会

桝井ドーフィンの成功後も、光次郎の情熱は衰えることなく、イチジク以外の様々な果物に挑戦していきます。なかでも柿(品種名:横 野)は、品評会三年連続1位を受賞しました。

桝井農場の桝井ドーフィンの葉

登録商標


1950年(昭和25年)には9万本の苗木を出荷する日本でトップクラスの農場に成長した桝井農場でしたが、光次郎はこの年の12月に病に倒れ、家族に見守られながら71年の生涯を終えました

キウイ(ヘイワード)

そのこころざしは2代目晃(長男)と3代目治(四男)に受け継がれ、1974年(昭和49年)日本初のキウイの苗木生産を開始。キウイ苗木の国産化、大量生産化は画期的なことでした。宮内発の国産苗木は、国内でのキウイフルーツ生産に大いに貢献しました。輸入品しかなかった珍しいキウイフルーツが国内で広く食べられるようになりました。

本宅前

墓所

創業80周年に桝井光次郎の功績を称えた記念碑が宮内北山の本宅前庭に建立されました。同じく北山にある墓所にも石碑が立っています。


光次郎・晃・治の三人は宮内小学校出身です。日本で圧倒的なシェアを誇る桝井ドーフィンのルーツは宮内の北山、国産キウイのルーツも同じく宮内北山です。この事を皆さまに知って頂けたら幸いです。

桝井ドーフィンと桝井光次郎については、1993年(平成5年)に発行の「桝井農場85年史 桝井ドーフィン物語」に詳しく載っています。廿日市市宮内市民センター図書室、はつかいち市民図書館、西条農業高等学校、広島県立図書館、国立国会図書館に所蔵されています。

最後に、このページ作成において、3代目当主、桝井治氏の長女陽子様より資料提供と助言をいただいたことをお伝えしておきます。