昨年の地震では,味噌天神の大鳥居(電車通りに面した)と小鳥居(西側の薬学部薬草園に向いて建つ)が二基とも破損した.平成29年6月24日,二つの鳥居が再建され,除幕式が行われたというローカルニュースが流れていた.
熊本市の由来書には,正式名は本村神社と書かれている.天平時代,肥後国分寺の僧侶の食用味噌が腐るのを防止するため境内の笹の葉を味噌に挿したところ,腐敗を防ぐことができたことから.全国唯一の味噌天神として敬われてきたが,戦時中空襲で焼失した.戦後,全国の味噌業者の援助で社殿が再興されたと記されている(参考資料).
「県からのたより : 熊本県広報誌. 2001年 (12月) (28)」に,「味噌」との関連が分かりやすく書かれているので,その資料(くまもと物語22,熊本のむかし話 その六 味噌天神)をそのまま文末に紹介した.解説には時代が書かれていないが,713年(和銅6年)に遡る.当初疫病の平癒を祈願するため「薬の神」として御祖天神を祀ったが,天平時代(741年)に肥後国分寺が建造された頃,味噌の鮮度を維持するため笹の葉を使ったことから味噌の守護神となったということである.境内西側玉垣沿いに今も笹が植えられている.
味噌天神境内の笹
歴史を感じさせる石の鳥居が確認できる.
小鳥居側は玉垣まで倒れている.大鳥居に関しては,上部の笠木,島木が中央で破断した状態で立っている画像を掲載したグログがあるので,そちらを見て欲しい(参考資料 味噌天神の地震被害 その1).
平成29年6月24日の熊本日日新聞,西日本新聞は「味噌天神の大鳥居再建 熊本市、地震で倒壊」のニュースを掲載していた.記事の概要:参道入り口の大鳥居(高さ約3.5メートル)は,県みそ醤油工業協同組合(同市、47社)が組合員から寄付を集め奉納した.境内西側の小鳥居(高さ約3メートル)の再建にかかった費用は今後,寄付を募る.倒壊前の石製から地震でも倒れにくい木製に変えて再建した.味噌天神宮は,地震で社殿の屋根瓦,床,屏にも被害が出ており,10月の例大祭までに完全復旧を見込む.
「薬の神」ということで,熊大薬学部(正確には薬草園)との関連を訊かれることがある.薬学部附属薬湯植物園(正式名ではない)から直線距離で60メートル程度の位置にあるので,関係があると思うのは仕方のないことかもしれない.
薬専 → 薬学校 → 再春館と強引?に沿革を辿っていくと,その礎となる薬草園(肥後藩主細川重賢が開園した御薬園「蕃滋園」)は薬園町(豊後街道子飼北側,黒髪村竹部)に在ったことがわかる.一方,薬学校は20数年間,紺屋今町,手取本町,山崎町とあちこち移転した後,1909年(明治42年)3月 , 飽託郡九品寺村78番地の新校舎(現・熊本市中央区大江本町)に移転しているので,結論としては関連はないといえる.
味噌天神については,熊本大学薬学部在職中を含めこれまでに史料を調べたことは一度もなかった.改めて肥後国誌を見たが,託麻郡大江村の中に,天神名を確認することはできなかった.
肥後国誌に書かれている御薬園(繁滋園)
御薬園 竹部
宝歴六年命ありて薬木薬草を植畜て之を製し人参又は砂糖をも製す藤井源兵衛之を支配す
(補)銀臺遺事云医道を学んものゝ薬草のやうしらてはあるへからすとて建部と云所に薬園をひらきて繁滋園と名付けさまさまの薬草を植て物産を知るたよりあらしむ云々
注 竹部あるいは建部と言った.